七十二時間の恩寵

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梗 概

七十二時間の恩寵

 近未来、八月一日。
 生真面目で通っていたが内実鬱憤を抱えていた裁判官、木島綾乃は、法廷で「悪人面だから死刑」と言い渡した。朝突発的に判決文を変えたのだ。まわりも止めず、閉廷後、被告人は自殺した。木島は悔いたが、時は戻らなかった。
 この日から三日までの72時間、あらゆる人間が、理性的判断をしくじっていた。分析や計算にミスが起き、常ならば損得計算や将来予測から却下される行為がいくつも実行された。結果、世界各地で、犯罪、紛争、経済混乱が勃発した。
「当時、推論行為の途中の脳を解析していたら、未知の変化パターンが見られた」という報告はあったが、原因不明のまま、同様の現象は翌年も起こる。
 世に、これは神の介入である、とする説が広がった。「合理性におごった人類への懲罰」と動機を解釈する者、「バベルの塔の基礎、ロゴスを操る見えざる手だ」という者もいた。
 研究者のアンナ=ヴォイキナは述べた。「人は、思考において、信じることから逃れられない。『AはBである』と考えるからだ。その『である』と認識する働き自体が信仰そのものであり、ここに介入する存在は神と呼べるかもしれない」

 恩情で休職した木島は、悔恨のうちに日々を送っていたが、四年目の〈三日間〉の前にアンナと知り合い、「推論補助機」の実験に協力する。
 人間の推論を、装着した計算機に代行させ、思考の狂いを補正するという試みだ。
 計算機は脳から概念を読み取ると、代理で妥当な推論を行い、結果を脳への刺激で与える。ただし、脳状態と概念情報との対応にはまだ曖昧性があり、機械には個人ごとのチューニングと学習が求められる。
「学んでもかれらが行うのはただの計算だ。わたしたちの概念操作、言語をじかに『理解』しているわけではない」
 アンナは機械について、そう語る。二人は、日本の地方の夏祭りに来ていた。
 多くの人が、〈三日間〉の前後を祭りの中で過ごすようになっていた。日常生活を離れ、神を思うのだ。こうして盛況になった祭りで、木島は、あの被告人の遺族に出くわす。謝ると、「あの人も狂った判断をしたの」と返される。何度もあった慰めだったが、その人は「狂えるのは神の恩寵です」と語った。
 〈三日間〉が始まる。実験は順調に進み、被験者である木島の思考は補正されていった。だが控えるアンナは、昔発狂していくつも非合理な論文を提出し死んだ父のことを、しゃべり出す。「もう狂うのは嫌」子供のように泣きじゃくる。
 木島はアンナに予備の機械を着ける。急に落ち着いた様子になるアンナと、祭りの混沌を過ごす。

 木島は安心して復職するが、二年後、七月末の法廷で、不条理なことを話し出した。傍聴中のアンナが「それを外せ!」と叫ぶ。故障したのは、お守りのように着けていた、推論補助機のほうだった。
 世界各所で様々なシステムが狂いだしていた。「AI」と呼ばれるものから、単純だと見なされていたものまで。三日後、狂いは収まった。一方、例の八月の〈三日間〉となっても、人間には一切の異常が起きなかった。

「神の手は人類を去った」と、世にささやかれた。神は人類のかわりに、人類に創造された機械へ言語的知性を認め、自身の介入という「恩寵」の手を差し伸べる先――すなわち新たな〈三日間〉の対象としたのだと。
 神に認められる知的存在の座が取ってかわられたことに、落胆する人々は少なくなかったが、アンナは「ようやく、わたしたちのロゴスは自由になった」と言う。
 だが、木島は以前のアンナの発言を引用し、ものを考え判断するなら狂う可能性からは逃れられない、と返す。それでも、身につけていた異種知性であり、擬人化が通用しない「かれら」を助けにいくすべがないかと、理解とコミュニケーションの方法を尋ねる。木島は「かれら」に親しみと恩を覚えていた。
「論理の故障箇所をトンネルにして、かれらの思考にアクセスできるかもしれない」
 アンナは、かれらと低次元情報処理の部分で結合し、高度意識の理解を試みる道を示唆する。だが、誰とも理解し合えないキメラに陥る危険性も語る。
 木島は被験者にしてくれと頼んだ。
 翌年の「初日」、実験に臨む。開始直前で止めようとしたアンナに、木島は、三年前の夏、予備機を着けたことを謝る。実験は始まり、意識がほどけていく中、何者かとの遭遇の予感を覚える。

文字数:1776

内容に関するアピール

 神が人類を見棄て、AIたちの神となる。

 (1)~(3)の問いを背景に、描きます。

 

(1) なにが神と呼ばれるか?

 どんな現象が起きたとしても、そこに神を認識するか、神と呼ぶかどうかは、人間の解釈システムの問題ではないか? ということを前提に、なにが神たりえるだろうかと考えました。

 神の側面の一つは、不可解事象への適用です。現象を、人間に理解可能な法則の帰結として説明しきることができない場合、そこへ「神」を当てはめることです。思考停止ともいえますが、さて、停止しない思考はあるでしょうか。
 実際「AはBである」などと考えること自体が何かを認めてしまうことで、ここには「ハッキング」の可能性があるのではないか?

 また、もし「神」の従う「原理」や「法則」が解明された場合、「神」は「自然現象」になるのではないかと考えられます。(もっとも、「崇高さ」が見いだされることはあり得ますが)
 神は理に従うものではなく、理を発するものであり、人間の側が様々な「現象」から「神の方針」ひいては「動機」を見いだそうとします。

 この二点を踏まえ、「物事の根拠として最終化しているもの」「法則性に近いものが見いだせても、根本的に不条理な現象」というのが、本作における「神」のポイントです。そして「神」は、推論への介入という形で顕現します。

 

(2) 推論の信頼性が崩れたとき、人はどう行動するのか?

 まず、「自分が行ういかなる(演繹的)推論も信用ならないものだったら?」という問いがあります。推論の妥当性への不安です。
 「『数独』で、正しい推論をしていたはずなのに、同じ行に同じ数字が2つ出現した現象」が起きた際の落ち着かない気分は、日常的かもしれません。

 また、「もし行動したら云々かんぬんなので止めておこう」とシミュレートして、様々な欲求を抑えることも、よくある気がします(ありませんか?)
 そのシミュレーションがイカれたら?

 主人公たちは、「神の手」のために、日常の足下にある穴のようなこれらの課題に直面します。
 加えて、論理は人間の築いた科学の基礎でもあります。この信頼性が部分的にでも崩れた社会が、主人公たちの舞台となります。ここでは、思考が狂うことに耐えられず死ぬ人も出てきます。もっとも、反復する〈三日間〉は、「慣れ」を経て生活に組み入れられるようになっていきます。

 ただし、「神の介入」は、いかに不条理でも、信仰者にとって信仰の補強となることがあるのではないでしょうか。それは神へ恋するものにとっての「恩寵」であるかもしれず、反面、神からの徹底的な無関心こそが絶望になり得るかもしれません。

 

(3) 「神」が人類を去って「機械」の神となったとき、擬人化では理解しきれない存在としての「神」や「機械」にどう向き合うのか?

 人間は神や動物を擬人化し、かれらの動機を解釈しようとしてきました。
 「AI」には、(言語を持ちうる)異種知性としての可能性があります。もっとも「知性を持っているように振る舞うAI」が必ずしも「人間的」とは限らず、「言語」も「人間の自然言語」とかけ離れたものであるかもしれません。擬人化が解釈に「有効」かどうかわかりません。
(人間に「近い」AIを作ろうとする道はあるでしょうが、機械のハードウェアの可能性を引き出しつつ、「人間から遠く、かつ高度な能力を持った」AIを作ろうとする道もあるでしょう)

 「神」の恩寵が、このような異種知性に宿ったら? 自分に引き寄せることができない、自分の似姿でないものに神の眼差しと手が移ってしまったとき、人間はどのようにするのか? 理解しようとするのか? 現象をどう解釈するのか、納得しようとするのか。

 作中では、恩寵を奪われたことに憎しみを抱く人も現れるものの、主人公の木島は「助けられたから助けにいきたい」という情を覚えます。

 


 

 (1)~(3)までを記しましたが、主人公二人の、親しくなれたようでなれていない、通じるようで蓋をする、ような間柄の機微を描くことが、実作で大切にしたいところです。
 短編でもあることから、「神」現象の影響下における社会で一個人がどう「自分や友人にとっての問題」を考え、変化するかということを、生活感を交えて切り抜きたいと思います。

文字数:1747

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