ラゴス生体都市
落雷が部族の集落のブビンガの木を撃った。精霊が宿るといわれる聖木だった。真っ二つに割れた幹から煙がたちのぼり、ブラックコーヒーの鋭い匂いがたちこめた。割れた木の底、土のなかに開いた穴に、生まれたばかりの赤子の姿があった。乾燥地帯の赤土が、子を産んだのだ。
祈禱師コイーバは雷に撃たれ灰になったブビンガにちなんで、赤子をアッシュと名づけた。眉間に稲妻形の傷があり、触ると硬い。皮膚の内側に鉄板が埋まっているのだ。生まれ落ちたときからそうだった。
アッシュは十歳で村を追われた。納屋の瓢箪に蓄えたバオバブのオイルを全身に塗り、柄全体にびっしりとまじないのしるしを刻みつけた石槍を携え、渓谷へ降りた。一人前の男になったことを示すためだ。群れを離れた一匹のハイエナめがけて槍を放ち、一撃で仕留めた。子供の力で村まで運んで帰ることのできる、一番大きな獲物だった。死体の傍らにひざまずきながら、周囲の闇に潜むハンターどもの、生臭い息を嗅いだ。すでに群れに囲まれていた。
コイーバが乾燥地帯に生息する草食獣を殺し、死体に油を塗り込んでいるという噂があった。それは本当のことだった。ハイエナたちは油の匂いを覚えた。油の匂いを辿れば獲物にありつけることを学んだ。コイーバはアッシュを罠に嵌めたのだ。
牙を逃れ、アカシアの木によじ登った。ハイエナたちはぎゃあぎゃあと、耳をつんざく笑い声を上げた。木の周りをぐるぐる回った。ハイエナは執念深く、決して獲物をあきらめない。樹上で三日が過ぎた。三日目の夜、意を決して木から飛び降りた。石槍をがむしゃらに振り回し、シャーマニックな叫び声で敵を威嚇した。ハイエナの牙が届く。アッシュの肉を引き裂いた。腕や背中や足に、一生消えない傷を負った。ハンターを撒いて生き延び、深夜に村に戻ったが、砂避け住居の網膜認証はもうアッシュを受けつけなくなっていた。
数日後、ゾンビの足取りで砂漠を歩いているところを、隊商が拾いあげた。再び放り出されぬよう、子供ながらに媚びを売り、奴隷のように働いた。望まれることはなんでもやった。年増女が夜更けにこっそり少年を寝台に引き入れた。明くる晩には女の亭主が、オアシスのアヴォカドの木の下にアッシュを連れ出した。
流れ流れてラゴスに行き着いた。持ち物は痩せ細った体と隊商で得た僅かな小銭、落雷に撃たれたブビンガの木の残骸を切り出して造った剣鉈だけだった。昼は動物の肉を解体する肉切り芸で日銭を稼いだ。夜はムシン地区の不法住居でサバンナの獣のように体を丸めて眠った。
ラゴスでの最初の数年、街のどん底の澱を食べて生きた。その後〈保全局〉がアッシュを引き抜いた。青天の霹靂だった。
〈生体都市〉が内部に天国と地獄の両方を抱えていることを、いまは知っている。
1
反社会映像同盟は〈都市懐胎〉への異議申し立てのために設立された。性的プロパガンダ映画を大量生産して市場にばらまく背徳のストロングスタイルに、〈富裕層〉は目を覆い歯ぎしりをした。反対に、〈労働者層〉は大手を広げてこれを歓待した。セックスのタブー化にNOを突きつけるアフリカ・シュラインを支持し、熱狂した。
たちまち社会現象が巻き起こった。熱はいまも引く気配がない。当世ナイジェリアにおける最もDOPEでエクストリームな反社会活動、それがポルノだ。
そして先日、アフリカ・シュラインは満を持して、過去最大の燃料を投下した。
サスペンス、楽しさ、好奇心! 大ヒットコメディ、大笑い間違いなし!
とってつけたような言葉が並ぶトレーラーは〈保全局〉の検閲をくぐり抜けるためのフェイクだ。スタジオ・クーラ・ロビトスの最新作『アフリカの祈り』は混じりっけなしの本番映像だった。そこには法も秩序も、モザイクさえもありはしなかった。
クーラ・ロビトスはヤリすぎた。「一線は越えてません!」を常套句に活動を続けてきたアフリカ・シュラインの中核スタジオは、ついに越えてはならない一線を越えたのだ。
事態を重く見たナイジェリア政府は、強引かつ速やかに〈ポルノ・テロリズム法案〉を可決した。
保全局が、奴らを吊し上げるために動き出す。
「アフリカ・シュラインのスローガンを?」マジェスティックが訊いた。
アッシュは答えた。「『脚は快楽をもたらさない』」
「イエス。連中はけだものよ。丁重にジャングルにお帰りいただかなくては。聞き入れてくれないのなら力ずくでも。この意味がわかる、アッシュ?」
アッシュは首を横に振った。ドレッド・ヘアが左右に揺れた。
「上層部で決定が下った。十二機の戦闘ヘリで、ムシン地区のスタジオ過密区域にヘルファイア・ミサイルをたたき込む」
要するに政府は、労働者層の反感を買ってでも連中を根絶やしにする覚悟を決めたのだ。
「作戦決行は一週間後、二一○○時。当日までの期間、けだものたちに投降勧告をして回れ」
「連中の身柄はどうなります」
「もれなく監獄行き、もちろんね。スネーク島の感化院で、ハイエナの繁殖に残りの人生のすべてを捧げてもらう」
痩身に張りつく光沢あるアソ・オケ、華奢な肩にシルバーのハーフジャケット。編み込んだ髪に散りばめたビーズ。大胆な紫、青、緑のアイシャドウ、瞳の虹彩は琥珀色。メイクで暗く、威厳を持たせた狼の目が、アッシュを捉えた。
「不満が?」
アッシュは問いかけに答えずただ肩をすくめた。
「最新の測定結果を聞いたわ。あなたの官能率、ついに65%を超えたそうね。おめでとう、この数値は保全局内でダントツのトップよ、言うまでもなく」
官能率が許容限界値である69%を超えた者は、『性欲をもてあます者』と呼ばれ、性器を切除されて追放される。かつての同僚レディッシュは、69%をマークした翌日に姿を消した。いまも感化院の壁のなかにいるはずだ。つまりこれは警告――アフリカ・シュラインを待ち受ける運命は対岸の火事ではないと心得よ。
「ストリートの肉切り芸人にすぎなかったお前をフックアップしたのは誰だったか、いま一度自分の胸に聞いてみろ」
「片時も忘れたことはありませんよ、ボス」
夜眠るときに思うのはいつでも死のことだった。マジェスティックに見出されるまで、ずっとそうだったのだ。
「これだけ訊かせてください。ボスは『アフリカの祈り』を?」
マジェスティックは煙草に火をつけた。今日日めずらしい紙巻き煙草が、ひと飲みでフィルター至近まで灰に変わった。吐き出された大量の煙が、アッシュの世界を白くした。ヒステリックに煮えくりかえった女の腸の匂いがした。
「端的に言ってゲスの極みね。平気な顔でアレを見てられる人は気が触れているとしか思えない。だって、ああ――」
少女の姿をしたアッシュのボス、実年齢はまだ二〇にも満たない。
「――冒頭五分で、手をつなぐのよ、男と女が」
マジェスティックはかすかに頬を赤らめた。
「よくわかりました」
アッシュはサングラスをかけ直し、アレキサンダー・マックイーンの赤のジャケットを羽織った。
マジェスティックは崩れ落ちそうな姿勢を立て直した。
「期待を裏切らないで頂戴、〈焚像官〉アッシュ。仕事を始めなさい」
アッシュは人差し指を立てた右手を胸の前に掲げる保全局式の敬礼をした。
「イエス。レディ・マジェスティック」
2
その夜アッシュはアフロ・スポットに向かった。サンセット・ブルバード六六六六番地、歴史深いライブ・ハウス、ひびの入った黒い壁に赤い文字で刻まれた店名の文字が、伝統の痕跡を留めている。
とうとうケツに火がついた、と打ちあけても、ブギ・ナイツは何ら動揺を見せず、ピンボール・ゲームに熱中し続けた。
「なぜモザイクなしの本番をやらかした?」
「決まってる」ブギ・ナイツは答えた。「民衆がそれを求めたからさ。僕たちはモザイクの壁を突き崩す必要があった。君のおっかないイボ人のボスが何と言おうが、かつてベルリン市民が成し遂げたように」
いかにもナード風の痩せた体を包むのは白い無地のTシャツ。色あせたデニムに、足下はナイキ・コルテッツ。クーラ・ロビトスのオーナー、反社会映像同盟の発起人は、常にミニマル・スタイルを崩さない。
名うての焚像官として保全局に属しながら、同時にクーラ・ロビトスの熱狂的支持者としてブギ・ナイツに情報を横流しする二重生活を、ここ数年、アッシュは続けてきた。
「悪徳の快楽なくして文明の存続はありえない」とブギは言った。「民衆はそいつをよくわかってる。セックスは自然の恵みだ。バナナやトマトがそうであるようにな。法律が決めることじゃないってことさ。三〇歳でヤリたがる女もいれば、九歳でヤリたがる女もいる。自然現象は違法じゃない」
スリーボール目が穴に吸いこまれ、ゲームオーバーになると、ブギ・ナイツはようやくピンボール・マシンに背を向けた。
「昨今ラゴスの映像商人たちのあいだで話題にあがっている匿名作家のことを?」ブギ・ナイツは訊ねた。
「映像の魔術師〈神の手が触れた者〉か。噂は聞いてる。自身の作品を公には発表しない正体不明の天才。奴の生み出した短く断片的な映像は、最新のあらゆる〈情調映画〉より強く視聴者の情調に作用するという」
「通称〈神映像〉。映像を見た者たちは、そこに宿った力を〈神感〉と呼ぶ。曰く、『エバミ・エダの腕にかかれば感動も洗脳も思うがまま』。奴の手による作品はもれなくVCDに保存され、ラゴスの海賊版販売店に無作為にばらまかれてるって話だが。この噂、君はどう考える」
「おいおい、頭打ちになった途端、神頼みか?」
「どうしてガセだと?」
「安っぽい都市伝説さ。五感すべてに働きかける情感映画の時代にあって、容量700MBのVCDにいまさら何ができる」
「一発逆転、世界の変革さ。アディショナル・タイムの奇跡のハットトリック」
「ひとつ訊いても?」
「もちろんさ、友よ」
「同志ブギ・ナイツ、あんたはエバミ・エダの正体を掴む手がかりを?」
ブギ・ナイツは微笑を浮かべた。「マココの海賊版販売人が件のVCDを確保したそうだ。もちろん、眉唾であることは僕も否定しない」
どうする? アッシュは心のなかのアフロの帝王、〈黒い大統領〉に訊ねた。道に迷ったとき、アッシュはいつでもそうしてきた。
黒い大統領フェラはハンサムすぎる顔つきでアッシュに語りかけた。「進めよ。ポジティブ・フォースの導くままに」
気鋭のポルノ・スターたちが中央ステージに立った。黒服のスタッフたちがヌーの毛皮を舞台上に広げた。若く、情熱に燃えた男と女と女が、ヌーの毛皮の上でまぐわり始めた。
フロアを巨大な喚声が包んだ。女たちが髪をかき乱して黄色い悲鳴をあげた。男たちが膨らんだおのれの股間を誇らしげに指し示し、「イエス」と叫んだ。撮影班が駆けつけた。最高のハプニングを一秒たりとも見逃すまいと、レンズ越しにひとつながりの大秘蔵映像を凝視した。
アップテンポのR&Bナンバーに合わせて客が声をあげ始める。
ki-ki-ri-ki-ki-ki
ki-ki-ri-ki-ki-ki
二人の女優がほぼ同時にオーガズムに達し、恍惚の叫び声をあげた。アッシュはテキーラをあおった。最高の夜だった。
〈神感〉か。
そいつを利用してポルノ・ムービーをメジャーに発展させれば、ラゴスにセックスの春が訪れるだろう。世論をひっくり返せば〈カラクタ粛清〉を中止に持ち込むことも夢ではない。
気づけば、アッシュの股間で槍がエレクトしていた。示す方角に、マココがある。
「〈神の手が触れた者〉の捜索を開始する」とアッシュは言った。
「頼りにしてるぜ、アッシュ」とブギ・ナイツは言った。「アディショナル・タイムは一週間。間に合わなければカラクタは陥落、アフリカ・シュラインは壊滅、ナイジェリアは以後長らく反権力の存在しない冬の時代を迎えることになる。単純な二択さ。『セックスの春』か『不能の冬』か」
「言い換えるなら、『革命』か『死』か、というわけだ。大博打すぎて泣けてくるね」
3
ロケットボードをサーフモードに切り替え、潟湖に着水した。自走筏の網の目を縫って進んだ。フェミニンな花柄のチュニックを着た男女が、昼間から弛みきった顔で電子ハシシを回し飲みしている。十万人の不法居住者を抱える『アフリカのベニス』は漂泊者たちの優しい迷宮だ。水上集落マココ――ブギ・ナイツに情報を流した海賊版販売人は、この街にいる。
「間もなく目的地付近」ンナークの音声が、終始移動する目的地を完璧に補足して骨伝導で知らせた。
周囲よりも一際大きな自走筏に飛び乗った。ロケボーから降りて板を脇に抱えた。デッキに白マーカー一本で描いた、幾何学模様のオシュンの女神、塗り替えたばかりのDOPEなグラフィティ。
鉄骨造三階建ての三角建築はポルノ・コレクターの間で『三角テント』と呼ばれている。ポーチを上り扉を開けた。四方の壁とてっぺんに開けられた窓から陽が入り、宙を舞う塵を光の粒に変えている。
二人の人物が中央のテーブルについていた。一人はラスタカラーの布を体に巻きつけ、唇に大きな丸い皿をはめたムルシ族の男だ。険しい顔つきで、額には脂汗が浮かぶ。
もう一方は知った顔。スレンダーな美女、トレードマークのクローシュ帽、フランスとナイジェリアの血が半分ずつ混じった褐色の肌。ボブカットに切り揃えた栗毛の髪色に由来するコールサインは『ブリュネット』。
「お務めご苦労様、アッシュ。でも生憎ね、ここは一足先にあたしが差し押さえたわ」
保全局員による押収がすでに始まっていた。
「ねえアッシュ、古い警句を知ってる?」ブリュネットは訊ねた。「ラゴスで人だかりを見つけたら、行き当たるものは?」
「水かバナナか映画のいずれか」とアッシュは答えた。
「ご名答。今も昔も映画はラゴスの生活者の主食。ヨルバもイボもハウサ族も、この街じゃ物語を食べて生きる。思うに、禁制映像はそんな私達のご飯に混ぜ込まれた毒物だと思うのよね。まじ最悪」
頭を働かせろよ、アッシュ・エリアクゥ。いま必要なのはホシとの接触、それも上っ面だけじゃなく腹のうちを見せ合うこと。目当ての海賊版販売人は目前にいるがブリュネットが邪魔だ。部下たちを引率して消えてもらう必要がある。
暴力に物を言わせることにした。
「『アフリカの祈り』を見たか?」とアッシュはブリュネットに訊ねた。「俺は全編見たぜ。スルレレ地区の劇場でな」
ブリュネットは呪いをかけられでもしたかのように露骨に厭な顔をした。「もちろんあたしは見てないし、そんな話はしたくもない」
「まあ聞けよ、最高にクソな出来映えだった。何せ、上映が始まって最初に登場するのはプロの役者じゃない。聞いて驚け、素人だ」
『素人』。露骨すぎるその言葉に、ブリュネットは強い衝撃を受けた。ガーン。
「やめて」顔を赤らめながら言った。
「主演俳優のリトル・コデックスを知ってるか。ここ数年で一気にスターダムを駆け上ったクーラ・ロビトスの看板俳優さ。男も女も構わず相手する分別のなさからついた異名は『両刀使い』」
アッシュは不道徳な言葉を繰り続けた。
「今回、奴の役どころはミリタリーさ。軍人に扮したリトル・コデックスがなんと! ガリ勉優等生とくすぐり合いっこするんだ。Yo、信じられるか? 稀代の反逆児の下半身に屹立する巨大な槍が大写しになった瞬間、シネマ・スルレレを満席にしていた観客の心が一つになった。皆口々に国家の名を叫び始めた。『ナイジェリア! おお、アフリカの巨人! ナイジェリアに栄光あれ!』。女たちのなかには白目を剥いて失神する者もいた。まったくどうしようもない奴らだ。不道徳的なことこの上ない」
ブリュネットはよろめきながら席を立った。
「どこへ行く」アッシュは好色な流し目を送りながら訊いた。
ブリュネットはアッシュをにらみつけた。「体調が悪いの。誰かさんのせいでね」
アッシュの目論見は功を奏した。
「ここの後始末は任せてくれていい」
「貴方、本当にどうしてしまったの? 前回の官能率測定でヤバイ数値を出したっていうのは本当なの?」
ブリュネットはアッシュに詰め寄った。
「ねえ、こんな噂が出回ってるのを知ってる? 貴方が、裏じゃ反社会映像同盟とずぶずぶだって。他でもない保全局の同僚たち――ブロンドやブラックが話していたのよ」
「初耳だね」悪びれずに言った。
「ボスは聞き入れなかったし、私だってもちろん否定した。アッシュがあの獣臭いポルノ・テロリストたちと繋がってるなんて、そんなはずないって」
アッシュは肩をすくめた。
「私はあなたを信じていい。そうでしょう?」
「俺は保全局の犬さ。マジェスティックに心から忠誠を誓ってる。昔もいまも変わらずな」
保全局式の敬礼で忠誠をアピールした。
ブリュネットは何も言わずにアッシュの顔を見つめた。ため息をつき、アッシュと同じポーズをとった。
「わかったわ」と言った。「ただ、今日のことは、ボスにきっちり報告します」
ブリュネットは部下を引き連れて三角テントを後にした。
「お大事に、焚像官ブリュネット」
邪魔者は去った。
改めて残された男を見た。瞳に警戒の色が浮かんでいる。無理もない、男から見ればアッシュもブリュネットの同業に過ぎない。
「ボスに報告がいくそうだが」と男は言った。
「構うことはない。どうせ俺の立場はとっくに最高にクソさ。安心しろ、俺はクーラ・ロビトス支持者だぜ」
「『脚は快楽をもたらさない』」と男は言った。
アッシュは口元を歪めた。この男、よりによってこの状況で、俺の情熱の程を見極めようとしてやがる。
まったく、見あげたポルノ根性だ。
「『脚があると歩けるが、オーガズムはない』」アッシュはアフリカ・シュラインのスローガンの続きを紡いだ。
男は目を見開いた。
「手があるとものに触れることはできるが、オーガズムはない」
アッシュは応じた。「それは唯一快楽をもたらす器官」
「崇めよ、讃えよ」
「『ポジティブ・フォース』」
男たちは力強いシェイクハンドを交わした。
「アッシュだ」
「ヤングフィーバー・オズリボ」
「オズリボ、こっちはブギの紹介だ」
「試すようなことをしてすまない。完全に信用する必要があった」
「〈X-ビデオ〉は?」
「同志、私は命を賭けて守った」
店主は唇の皿を外した。赤い基色に白の水玉模様をたくさん浮かべた土製の皿をひっくり返すと、裏っ側に唾液で粘ついた銀の円盤がひっついている。
「なぜ直で」思わず訊いた。
「決まってる」オズリボはにやりとした。「いつだってナマが最高だ。そうだろう、兄弟?」
「ちげえねえ」
4
同日夕刻、VCDを手土産に、アフロ・スポットに併設されたブギのスタジオに戻った。上映会にはリトル・コデックスが同席した。『アフリカの祈り』の主演俳優、つまりはいま最もヒップなポルノ・スターということだ。巷では「ナイジェリアに産まれ直したエルヴィスの転生者」と騒がれている。ヘビ革のジャケットは自由のシンボル、リーゼントに固めた髪はオフの今日も最高にキマっている。
熱狂的なナイキ・フリークとしても知られる男は、すぐにアッシュの足下のエアフォース・ワンに目をつけた。
「なんてこった。確かにナイキのスニーカーにゃ星の数ほどバリエがあるが、俺は完璧にチェックしてるはず。最新の超限定品か?」
アッシュは首を横に振った。「こう見えて何の変哲もない’07クラシック・スタイルさ。ただし、オールホワイトのボディにペイントを施してある」
「世界に一足しかないカスタム・モデルってわけだ。ペイントは誰が?」
「ダッチ・マスター」
リトル・コデックスは天を仰いで感嘆のため息を漏らした。
「ファック。最高かよ」
ダッチ・マスターはラゴスのストリートを牛耳る覆面アーティスト。アッシュのエアフォース・ワンを緑・白・緑と垂直三分のDOPEなナイジェリア・カラーに仕上げてくれた。最新のポルノ映画『アフリカの祈り』の公開に合わせ、ラゴスの街の壁じゅうにエアロゾル・アートを描きまくったのもこの男の仕事だ。
ブギ・ナイツがシアタールーム備え付けのポンベ・バーでカクテルを作り、グラスを運んできた。大ぶりなカベルネ・グラスに注がれたポンベはピンクに染まり、てっぺんにグァバ・アイスクリームが浮いている。
親愛の杯を掲げ、反社会映像同盟の決まり文句を唱えた。「持て余した性欲に」
「乾杯」
「持て余した性欲に」
各々が一口ずつポンベを口に含んだ。
「Yo、ンナーク」
スタジオ・オーナーはンナークに命じて官能音楽を停止した。
「VCDを再生」
「了解」AIアシスタント〈ンナーク〉が応答した。
ルームの照明が落ちた。
「拡張子.vcd対応のプレーヤー自体はネット上にいくらでも転がっていたが、VCD再生に対応するディスク・ドライブを掘り出すのには苦労した」
アッシュがマココに潜入しているあいだ、ブギも動いていたのだ。
時代遅れの円盤が、小さな軋みをあげて回りはじめた。
*
その部族の男は焚き火の前でダシキを静かに脱ぎはじめ、すっかり裸になる。カメラはフルショットで脱衣する男の全身を撮る。焚き火の明かりがしなやかに引き締まった肉体を輝かせる。まるでサバンナの豹のようだ。男は槍を取り上げ、焚き火のそばを離れる。
カメラ・アイは低く、地面から一メートル強の高さに設定されている。カメラが男を追いかける。手持ちなのか、進むたびに画面が揺れる。男の背中が離れていく。
男の姿は闇のなかに消える。サラウンド・スピーカーから、視聴者の傍らに寄り添うような、少年のすすり泣く声が聞こえてくる。
暗転。薄暗い画面がさらに黒く塗りつぶされる。
新たなシークエンス。再び焚き火の前に戻る。カメラマンの少年は地べたに座っているのか、アイレベルはさらに低い。カメラが何センチか上に傾く。フレームのてっぺんにおぼろな月が現れる。また隠れる。
カメラが水平に戻る。焚き火の前にさっきの男が腰を下ろしている。今度はより至近のバストショット。
男の肩が小刻みに動く。くちゃくちゃと水気を含んだ生々しい音がする。続いて、硬質な音がリズムよく響く。トトン、トン。
カメラが角度を下げる。血にまみれた大きな雄ハイエナの死体がフレームインする。一匹の蜥蜴が死骸のすぐ傍を走り抜けていく。
男はハイエナを解体している。切り拓いた腹に剣鉈を這わせる。肉を削ぎ、骨を砕いて、取り除いていく。情感映画でもないのに、臭気が鼻腔を鋭く刺激する気がした。剣鉈に付着した血と脂と細かい骨片を払う。トトン、トン。
アイレベルが上昇する。カメラはゆっくり、焚き火のそばから遠ざかる。ロングショットに。炎を背中に背負った男の顔が、本来以上に黒く映る。強い光を持った眼光が、カメラを睨みつけた。
「戻ってこい」有無を言わせぬ声色には、狩りの成功がもたらした昂揚が混ざっている。
カメラは再び接近する。
「座れ」
アイレベル下降。
「よし小僧」
接写。男の横顔。
「内臓を取り出せ」
裂けたハイエナの腹部にクローズアップ。躊躇いの十数秒。
「大丈夫だ」
C-アップはそのまま。声だけの存在になった男が言う。
「呪いをかけた。こいつの魂は悪さできない」
フレーム下部から、小さな手が伸び出す。
少年の手がハイエナの肉のなかに、深く潜る。手首、肘まで、二の腕まで。
獣の腹部が蠢く。幼い手が、中を漁っているのだ。
夜と沈黙がしばし画面を制圧する。焚き火の薪が爆ぜる音。
少年が濡れた腕を引き抜く。小さな手のなかに、真紅に染まった宝貝の首飾りが握られている。
「やったぞ!」と男が叫んだ。
カメラが男の顔をアップショットで捉える。男は破顔している。
「間違いなくキボのものだ。これであいつの魂は浄化される。精霊のもとに行くことが、ようやく叶うだろう」
男の顔の超クローズアップ。破顔した顔が、にわかに崩れ落ちる。男はしくしくと泣き出した。それ以外に表現のしようがない。そう、年甲斐もなく、しくしくと泣き出したのだ。
無理もない、とアッシュは思った。娘の死に涙を流すのは当たり前のことだ。
直後、疑念が追いかけてくる。この男の娘がハイエナに殺されたことを、どうして知っている。
神映像が、アッシュの心の深層から記憶の泥をすくい上げる。
ハイエナの血に染まっていない、少年のもう片方の手が、しくしく泣く男の頬に伸びる。指先が男の目元に触れる直前、画面は再び暗転する。
*
ドライブのVCDが回転を停め、シアタールームを完全な沈黙が包んだ。
収められた映像は短く、一〇分にも満たなかった。
「正直に言って戸惑っている」とブギ・ナイツは言った。「これを撮ったのは間違いなくずぶの素人だ」
二人は反論しなかった。
「にも拘わらず、映画は強烈な情調喚起力を持っている。作品としての良し悪しとは関係がないんだ。映像の持つ『ある力』が視聴者を飲み込み、支配する。カメラを持つ視点人物への感情移入を強いてくる」
リトル・コデックスがうなずいた。「危険だ。抗いようがなかった」
『ある力』――〈神感〉。
「情感映画の比ではない」とブギ・ナイツは言った。「だが同時に、それは不可視なものだ。よって不気味だ。そもそも、こいつは情感映画じゃない、VCDなんだ。作者をいますぐここに呼んで問いつめたい。叶うならいくら札束の山を積み上げたっていい。奴のケツがどれだけ汚れていようが喜んで舐めよう。もし神感の秘密を開示してもらえるのなら」
ブギたちの議論はアッシュの頭にまったく入ってこず、通りすぎていった。
ひどく混乱していた。アッシュがX-ビデオを通して体感したものは、彼らとはまったく違っていた。
それは極めて個人的なノスタルジアだった。
「映画の男を知ってる」とアッシュは言った。
俳優と経営者がいっせいに焚像官を見た。
「名はコイーバ。誇り高き〈石の部族〉の祈禱師だ」
「なぜわかる?」
「簡単さ。俺が石の部族出身だからだ」
「つまりこういうことか」ブギ・ナイツは言った。「エバミ・エダは、お前のツレ」
「アフリカ・シュラインが生き残る道が見えてきた」とリトル・コデックスは言った。
当代最高のポルノ・スターの股間で、恐怖の竿がそそり立つ。
「セックスの季節の予感に、俺の股間が轟き叫ぶ」
「Yo、友よ」ブギ・ナイツがリトル・コデックスの肩を叩いた。「いまは、そいつはしまっておけ。来たるべき審判の日に向けて、力を蓄えておくんだ」
アッシュはソファを立った。
「協力することは」とブギが言った。
「らくだを一頭用立ててくれ。砂漠を横断することになる」
「てっきり、焚像官様は飛行車を自由に乗り回すものだと」
「俺はロケボーを愛しているのさ」
平時なら貸与申請する手もあるが、官能率のこともある。却下されることは目に見えていた。
「明日の早朝、石の部族の集落に向けて出発する」
駐板場でパネルの上に脚を置いた。走査器がナイキのフィル=エア・インソールに内臓されたIDタグを認証する。針を剥きだしたハリセンボンみたいな球体が回転し、アッシュのロケットボードを射出した。
「中央貯蔵塔まで自動運行」とンナークに命じた。
アッシュは心の黒い大統領に呼びかけた。
守護天使フェラ、ここだけの話だ。
真横を走るオープンの自動運転車に目を向けると、フェラが助手席に座り、ダッシュボードに足を乗せてくつろいでいた。目の周囲の白い縁取り、裸の上半身に縞模様のビキニ一枚の凜々しい姿で、膝の上にサックスを載せている。今日も今日とてハンサム。どうした、友よ。何だって相談に乗ってやるぜ。
こういうわけさ。ブギたちには言わなかったが、実のところ、あれは極めて古い映像なんだ。何せ、コイーバは俺の知った顔のまま、まるで老けていなかった。
興味深い話だな。そんなものがどうしていまごろになって、よりによってラゴスで、密かにヴァイラル・ヒットを飛ばしてる?
それが皆目わからない。ただ、ブギたちが思うほど事態が好転しちゃいないことは確かだ。
フェラは高らかにサックスを吹き鳴らした。
簡単さ。わからないなら見極めにいけよ。どうせ後はないんだろう?
それもそうだな。
アッシュは独りごちた。「ポジティブ・フォースの導くままに」
5
視界を塞ぐ砂嵐の奥に、墓標のような打ちっぱなしの無骨な直方体、円形に並んだ砂避け住居群がぼうっと浮かび上がった。集落中央の『分かれヅノ』、雷に撃たれたブビンガの木は、当たり前にいまや、見る影もない。
一つ目のコンテナに近づいた時点で甘い期待は打ち砕かれ、いくつかのコンテナを検めていくうちに焦燥が募った。
砂避け住居の自動扉の網膜認証システムは、長きにわたる砂嵐の吹きさらしのなかで完全に死んでいた。残っている者は誰もいなかった。石の部族は滅亡したのか。あるいは、かつての遊牧民としての性を取り戻し、砂嵐を避けて新天地へと旅立ったのか。
疲労は限界に達していた。三日三晩の寝ずの行軍はあまりにも無謀だった。この十年、国土の砂漠化は加速度を増し、砂嵐は獰猛さを増した。甘かった。半永久的に〈清浄の壁〉が機能する生体都市のぬるま湯に浸かっているあいだ、偉大なる自然の脅威を忘却していたのだ。
らくだに乗って円形集落を離れた。前方に標高五〇〇メートルばかりの巨大な断崖が現れた。
赤土の断崖の底に、小さな洞穴が口を開けている。〈先祖の洞〉だ。
洞の入り口にらくだを繋いだ。祖霊や動物霊を象った彫像が並ぶアーチを抜けると、ハーブの匂いが漂ってきた。
広い空間に出た。ナイキの靴底が地面の出っ張りを踏んだ。木の根だった。中央にそそり立つのは石の部族の伝承に語られる『灼熱の槍』、英雄オゴンゴを彷彿とさせる赤い幹を持つ、ヨヒンベの高木だ。
先祖の洞のヨヒンベは集落にかつてあったブビンガの木と対をなす、村の守り神として知られていた。過去のヨヒンベ、未来のブビンガ。ブビンガは落雷により命を終えたが、ヨヒンベはこうして生きている。石の部族の命運を示唆するように。
アッシュはブビンガの剣鉈を腰から引き抜いた。くたくたの体に鞭打って、ヨヒンベの木の根を削ぎ、樹皮を集めた。必要なだけ集まると、高木の正面に設置された祭壇の大鍋にぶち込み、剣鉈の柄ですりつぶした。らくだの鞍に括りつけた瓢箪を持ってきて鍋に水を足した。大鍋を祭壇の焚き火の上でぐつぐつと煮込んだ。
ヨヒンバの樹皮を煮込むことで特殊な物質ヨヒンビンが発生する。それがアッシュの大脳中枢を刺激した。
ブルーの長衣とターバンを脱いだ。大量の砂粒が流れ落ち、土の上で音をたてた。ラゴスの路面店でトゥアレグ族の露天商から買った代物だったが、砂嵐にあてられ、目も当てられない有様だった。長衣に続いて、防弾ジャケット、コンプレッションウェアとタイツ、下着、全部脱いで丸裸になった。精霊が我が身に降りてくるのを感じた。瓢箪を脇の下に挟み、リズムをつけて叩いた。踊りながら叫び声をあげた。
Ung’bambe, ung’dedele.
Ung’bhasobhe, ung’gudluke!
暫くして鍋の水がすっかり蒸発した。洞に煙が充満した。大地の底が抜けるような錯覚。トランス状態。外で巻き起こる風の音、砂の女王の悲鳴が、徐々にフェードアウトする。多様な幾何学模様が宙に浮かび上がり、リズムに合わせて明滅する。
死んだ自らの肉親に会いたいとき、石の部族はここを訪れる。『先祖の洞』と呼ばれる所以だった。
*
空に百億の星が満ちていた。一つの時代の終わりと新たな時代の到来を告げる三つの星が、夜空に三角形を作っていた。砂嵐が止んでいた。乾燥地帯は凪の海原のように青く、月は背後にある。アッシュは時と死と神を見出した。
周囲を取り囲む砂避け住居群は月明かりに洗われ、生白い骨に見える。落雷に葬られたはずのブビンガの木が蘇り、星の世界で煌めいている。樹上で幾頭かのジャッカルたちが休んでいる。穏やかで理知的な瞳がこちらを見ていた。
木のそばに女が立っている。卵のような顔立ち、アーモンドの大きな目。色鮮やかな糸で織られたダシキを身にまとう。ビーズで織った編み込みのヘアスタイルはそれ自体が一つの芸術作品といえた。
「俺に親はいないと聞いていた」とアッシュは言った。「コイーバが俺にそう言った」
若い女だった。アッシュよりもずっと若く、二十代前半くらいに見えた。だがここは、先祖の洞なのだ。
「代わりに大地に託した」女は悪びれずに言った。「やむをえなかった」
「つまり」
「戦争を終わらせるためだ。砂嵐の止んだ奇跡の夜に爆弾を作った。砂漠に棲む獣の血と月の光をたっぷりと蓄えた即製爆発装置。神の加護を得た聖なる爆弾」
樹上のジャッカルが甘えるような声をあげた。目を向けた。夫婦がじゃれ合っていた。
「私は平和のために命を投げ出してもいいと思った」と女は言った。「私はナイジェリアに政治腐敗と泥沼の内戦をもたらした独裁者レナード・ディヴァイン・シャガリを乗せたリムジンを襲撃した。そして即製爆弾で爆死した」
「自爆テロ。独裁者シャガリを巻き込んで」
うなずく。
「あんたの名はティワ・ネカ・アーヨ。九年戦争を終わらせた女革命家」
「その通りだ。ティワ・ネカの息子アッシュ」
「英雄ティワ・ネカ、いま再び貧しい人々が崖っぷちに立たされている。打開策を授けてほしい」
「神はお前の頭のなかにおられる」
ティワ・ネカは微笑を浮かべた。懐かしさを感じた。
「あるいは都市の底の地獄にもおられる」
謎かけのような最後の言葉が、奇妙にアッシュの頭に残った。
幻の世界が崩れ始めた。
6
ひび割れた赤土の上にウォーターバックの頭部が転がっている。
香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。アッシュは体を起こした。
ウォーターバックの胴体が吊され、丸焼きにされている。
傍らに一人の男がいた。焚き火の明かりが老いた肉体を輝かせる。横顔には無数の深い皺が刻まれている。ダシキの胸元で宝貝の首飾りが光っている。
十三人の妻を娶った偉大なる祈禱師。しなやかな豹の肉体はすっかり失われていたが、鋭利な眼光はあの頃と変わらない。
「目覚めたか、アッシュ」と老人は言った。
「随分と縮んだものだな、コイーバ」
「石の部族は去った。砂避け住居では、凶暴さを増した砂嵐に耐えられない。私だけがここに残り、ヨヒンベの聖木に奉仕している」
「過去にしがみつくのか」
「未来はとうに焼け落ちたのだ」
コイーバは鉈でウォーターバックの肉を削ぎ、先端に突き刺した。柄をアッシュに差しだした。
「食え」
肉はやわらかく、口内で肉汁と特有の酸味が広がった。空っぽの胃袋が歓喜に震えた。
事情を説明した。X-ビデオに宿った神感。正体不明の〈神の手が触れた者〉。カラクタ粛清。
「X-ビデオには、あんたの姿が映っていた」
コイーバは鉈の切っ先を擦りつけて地面にしるしを描いた。何かを宙に放り投げた。それらはしるしの上でからから音をたてた。
獣の骨だった。
コイーバは言った。「骨と骨が交差すると駄目だ。災いがある」
地面に目を落とした。「交差した骨はない」
「神はお前に真実を話せと言っている」
コイーバはアッシュに向き直った。
「心当たりが?」
「まずはお前が話してみろ。お前が見たX-ビデオとはどんな内容だったか」
思わず、キボの宝貝の首飾りに視線を向けた。目を伏せた。
「あんたはまだ豹のようにたくましい青年だった。生命力にみちあふれていた」
「それで?」
「あんたは――ハイエナを捕まえた」
「話は終いか」コイーバは挑発するような口ぶりで言った。
躊躇しながら続けた。「あんたはハイエナの解体を始めた」
さらに先を促す沈黙。
「ガキがハイエナの腹から首飾りを取り出した」苛立ちを抑え込んで言った。
「言え!」老いた男は声を荒げた。「アッシュ、言え!」
「あんたの娘がさげていたものだ! そいつを見て、あんたはしくしく泣き出した!」
「そこにいたのは誰だ!」コイーバは叫んだ。「ハイエナの腹のなかに手を入れたのは」
アッシュは躊躇した。
「答えろ、アッシュ。それは誰だ!」
「X-ビデオを作った者、エバミ・エダだ! 正体を知るためにここへ来た!」
コイーバは地面に転がったウォーターバックの首を自分の正面に引き寄せた。渾身の力を込めて鉈を振りおろした。骨が砕ける音が、先祖の洞にこだました。頭蓋が割れ、二本の角が傾いで左右に広がりごろりと倒れた。
コイーバは自分の眉間を親指で強く押さえ込んだ。
「答えはお前のなかにある」
ティワ・ネカの言葉が蘇った。神はお前の中におられる。
「覚えていないか、アッシュ。無理もない、お前はまだ十にも満たなかった」
老コイーバは慈悲深い目でアッシュを見つめた。
「あの日、娘の死に怯える私の代わりに、村の子供がハイエナの腹からキボの首飾りを取り出した。子供の名付け親は私だった。後に子を捨てたのも私だった」
いつの間にか焚き火は消えかかっていた。
コイーバは傍らの杖を手に取り、立ち上がった。ついてこい、と言った。
再び砂嵐に晒されながら、赤の断崖に沿って進んだ。もう一つの洞が口を開けていた。住処だ、とコイーバは言った。先祖の洞の四分の一の空間に、石を切り出して造った書棚、アカシアのテーブルと椅子、砂避け住居から運び入れた繭寝台、ベッドと同じく砂避け住居から剥がして持ち出した剥きだしの巨大なバッテリーが並んでいた。バッテリーの傍らに、有線接続されたコンピューターが置いてある。
コイーバはコンピューターの電源をつけた。書棚の前に移動し、陳列された映像コレクションを物色した。目当ての一枚を抜き出した。
「これは私の秘蔵のドスケベVCDだが」
アッシュは鼻息を荒くした。「興味深い」
タイトルは『ながしあいっこ!』。エクスクラメーション・マークまでがタイトルの一部。いったい全体、こいつはどういうブツなんだ。
「マジでヤバい逸品だ。1:46:10と2:51:32あたりが特に私を駆りたてる」
「石の部族の祈禱師よ、あんたは何て業が深いあン畜生」
「イエー]
「ところであんた、いくつになった」
「今年で七十八になる」にやり。
「マジヤバい」
ヤバすぎて語彙が死んだ。
「伊達に十三人の妻を娶っちゃいない。私の槍を讃えろ」
「活ける槍にリスペクトを。だが――」はやる気持ちを抑えて言った。「――あんたの秘蔵VCDと本件に何の関係がある?」
「すべては繋がっている」コイーバはドヤ顔で言った。
ディスクドライブにVCDを挿入した。
アッシュは生唾を飲み込んだ。血の気の多いアッシュの槍はすでに昇り龍へと姿を変え始めていたが、再生が始まったとたんにしょんぼりとした。
上下に揺れるカメラが渓谷を進んでいく。夜だった。撮影者はわき目も振らず、一心不乱に闇のなかをひた走る。右手に石槍を携えている。撮影者の走りに合わせて石槍の切っ先が揺れている。
一頭のハイエナの姿が前方に浮かぶ。撮影者は石槍を構える。まじないのしるしをびっしりと彫りつけた石槍だ。切っ先が、放物線を描き、ハイエナの背を貫く。赤土の大地に突き刺さる。カメラが絶命したハイエナに走り寄る。
子供の力で村まで運んで帰ることのできる、一番大きな獲物だった。
知っている。
覚えている。
若い日々、墓場男爵は常にアッシュのそばに寄り添っていたものだが、あの夜ほどその存在を大きく感じたことはなかった。
底なしの恐怖に彩られた原体験。強烈なノスタルジア。ここにあるのは、アッシュの人生の断片だ。
「中身が書き換えられたのだ」とコイーバは言った。「こいつは昨晩まで、確かにドスケベVCDだった。だが神感が『感染』した」
「X-ビデオ」言葉が自然とアッシュの口をついた。
「先祖の洞で儀式をやっただろう」とコイーバは言った。「誰に会った」
「母に」
コイーバは驚きを見せなかった。人の親がいることを、知っていたのだ。
「お前を産んだのは大地だが、まずお前を孕んだのは人間の女だった。女は石の部族に産まれたが、村を捨てた」
「なぜ隠した」
「私は祈禱師だ。部族の規律を保つために必要な処置だった」
「母は英雄だと知った」
「国家にとっては英雄。村にとってはまた別。村は世界と、何も関係がない。父親には?」
「さあな」
ティワ・ネカの異名は『女カサノバ』。千人の男とベッドをともにしたと言われている。
コイーバは言った。「それはクーデターの完遂が宣言されるほんの十二時間前のことだった。ティワ・ネカは同志を引き連れ、シャガリを乗せたリムジンを襲撃、奴を巻き込み爆死した」
コイーバはさらに続けた。
「同時刻、落雷が石の部族の集落のブビンガの木を撃った」
精霊が宿るといわれる聖木だった。この木を『石の母』と呼ぶ者もいた。真っ二つに割れた幹から煙がたちのぼり、ブラックコーヒーの鋭い匂いがたちこめた。割れた木の底、土のなかに開いた穴に、生まれたばかりの赤子の姿があった。
乾燥地帯の赤土が、子を出産したのだ。聖木の灰のベッドの上で。
「あの娘の子だと一目でわかった。目元が特によく似ていた。皆そう思っていただろう。だが私は口に出さなかった。私が口に出さないから、誰もそれを言わなかった」
「規律を守るための合理的処置」
コイーバはうなずいた。
「眉間に手を当ててみろ」
言われた通りにした。
「何がある」
「稲妻の傷」その内側には。「鉄板が埋まっている」
「ティワ・ネカが死に際、お前に呪いをかけたのだ。お前の眉間に埋まっているのはティワ・ネカが使った爆弾の破片。それが神感を生み出す触媒になっている」
「眉間に埋めこまれた爆弾の破片が、X-ビデオを生成すると?」
「それだけならばいい。映像媒体をすべて破棄すればいいのだからな。映像の生成は二次的な成果、根本にあるのはより純粋な、情調を生み出し、場を支配する力」
「神感」とアッシュは言った。
コイーバはうなずいた。「映像だけではない。あるいは祝祭の音楽に、あるいは祭祀の呪言に、あるいは日常のなかの素っ気ない文法、単語の羅列に――お前が行うあらゆる行為に、お前が紡ぐあらゆる言葉に、神感はしばしば混入した。時折それは、村の情調を大きく書き換えた。お前は力を、まったく制御できていないようだった。いつ、どんな情調が立ち現れ、我らに影響を与えるか、まるで予測もたてられなかった。
アッシュ、これこそが、私がお前を村から追放した理由だ。いや、言い直そう。私はお前を殺すつもりだった。あの日、お前はハイエナの牙の餌食となり、精霊のもとへ帰るはずだった。それが当時、私が祈禱師として下した決断だった」
コイーバは土を固めて作ったペアのマグにヤシ酒を注いだ。片方をアッシュに手渡した。
「私を恨むか、アッシュ?」
村を出た直後は、死線を綱渡りする日々の連続だった。
だが生きている。恐怖の時代が霞んじまう程度には、それなりに楽しくやってきたさ。
アッシュはマグを掲げた。「あんたの大事なVCDを台無しにしちまった。そいつで手打ちだ」
二人同時にあおった。
「いまさら許しを乞うつもりはない」とコイーバは言った。
わかっている。呪いから村を守るために必要なことだった。
「だがあの日以来、お前のことを考えない日は一日もなかった」
アッシュは砂嵐のノイズのなかに、別の異質な音を聞きつけた。
「行く」と言った。
「せめて夜明けまで休め」
首を横に振った。「あんたは洞を出るな。いいな」
「追っ手か」
頭のいい男だ。かつて祈禱師になる前、コイーバはヨーロッパ人とともに暮らし、彼らの大学で学んだのだ。
コイーバは両の手のひらに唾を吐いた。旅立つ者を見送る祈りのしるしだった。
砂嵐がかつてないほど激しさを増していた。何にも勝る凶兆に感じられた。
嵐のなかにクローシュ帽の女が立っていた。
「見張っていたの。マココのときからね」
ブリュネットは自分の鼻の頭を指先で指し示した。
「貴方って嘘を吐くとき、鼻孔がふわって膨らむの。このことを知っていた?」
洞の両脇で待ち構えていたタクティカルスーツの保全局員たちがアッシュを取り押さえた。古い映画『バッドボーイズ』のマーカスとマイクみたいな二人組だった。マーカス&マイクはアッシュを、小型の防塵フィルターを搭載したトヨタの防砂飛行車エアクルーザーに乗せた。
アッシュは言った。「見ての通り、強行軍で疲れがたまってる。自室でゆっくりシャワーを浴びたいと思っていたところさ」
ブリュネットは答えた。「感化院のジェット・ホースは、長年こびりついた垢の粒まで根こそぎ落としてくれるそうよ」
アッシュは途切れそうな意識の隅で黒い大統領に伺いをたてた。Yo、ヤバイことになってきた。こいつをどう思う?
黒い大統領フェラは黙して何も語らなかった。やむなきことだ。俺の守護天使は忙しい。何せ彼には、妻が二七人もいるんだからな。
7
アフリカン・バッファローの群れが夜明けの乾燥地帯を走り抜けていく。防砂飛行車は地を這うものたちの頭上をゆうゆうと横断した。砂嵐にも動じないバッファローたちのたくましい足取りを見て、アッシュは元気を取り戻した。
前方に半透明の薄膜の壁が現れた。飛行車は構わず直進した。
壁の表面がたわんだ。突き抜けた。砂塵のノイズが消え失せ、視界がクリアになった。景色ががらりと変わった。
〈ゾーン〉に入ったのだ。
眼下に、屹立する摩天楼の群れと複雑に入り組んだ潟が形勢するラゴスの一大パノラマが広がった。『アフリカの巨人』ナイジェリアが誇る最先端の海辺の大都市だ。一方で、高層ビルやハイウェイの足下にはスラムが粘菌のように広がり、路地裏には汚水があふれる。労働者層と富裕層が隣り合いつつ互いを黙殺し合う光と影の街。島と島を結ぶ幾つもの橋を、自動運転車が埋め尽くしている。二○世紀からいまに至るまで続く深刻な交通渋滞はラゴスの宿痾であり、アッシュがロケットボードを愛する理由の一つだった。
飛行車はラゴス島を過ぎ、ファイブコーク・クリークを超えてヴィクトリア島上空に至った。超高級ホテルにジェネリックなショッピングモール。ライブ・スポットのプールサイドで誰もが知っているスタンダード・ナンバーを完コピ演奏する、健全で害のないロックンロール・バンド。一大シネマ・パーク『優しい世界』では、観客のリビドーを抑制して穏やかな多幸感で満たす、素晴らしい情感映画が楽しめる。
この天国に一番近い島の導線は巨大建造物を中心に放射状に形成されている。超巨大な人間版蜂の巣、島面積の五分の四を占める有機的なピラミッド――〈中央貯蔵塔〉。ラゴスを生体都市たらしめる権力の中枢が、いまのアッシュには墓標に見えた。
飛行車は中央貯蔵塔の外殻に設置された飛行車港に横づけした。ブリュネットの指示で降車した。保全局員マーカス&マイクがアッシュの両脇をがっちり固めた。ファサードをくぐった。
一行は中央アトリウムのゆるやかな勾配を上った。各階に張り出した空中庭園にはオシュン州から移送されたオショグボの森の原生林が繁茂し、文化的景観を形成している。白糸の滝が階層を貫いて流れ落ちる。水の音、木々のざわめき、熱帯の鳥たちの歌声が、権力の中枢に出入りするナイジェリアの勝ち組たちの心を和ませる。彼らは女神オシュンへの捧げものとして、原生林のあいだを流れる人工の川にカタツムリやハトを投げ入れる。全面ガラスでパーティションされた人畜無害な環境ショウケース。一方でオシュン州は、四年前、完全に砂漠化した。
中央エレベーターに辿り着いた。
ブリュネットは涙袋にインプラントしたマイクロチップを小指でダブルタップした。
ブリュネットは報告した。「焚像官アッシュが到着しました」
相手は聞かずとも容易に知れた。
ブリュネットがアッシュを見た。謎のため息。理由はすぐにわかる。
「貴方に代われって。ボスよ」
アッシュはブリュネットと視線を交わしながら自分の目元を押さえ込み、〈涙袋通信端末〉を起動した。ブリュネットから転送された通話をキャッチした。
「何か言い訳は?」開口一番にマジェスティックは言った。
「何も」
「ならばこれから抜き打ち測定を受けてもらう」
相変わらずマジェスティックは甘い、とアッシュは思った。
アッシュの職務放棄と造反は最早自明なのだ。問答無用で感化院送りにできるはず。だがマジェスティックは測定を受けろという。万が一アッシュの官能率が許容限界値に達しなかった時には、局長権限を行使して減刑し、流刑をもみ消すつもりなのだ。
保全局長の片腕、焚像官アッシュ・エリアクゥ。マジェスティックは他の焚像官たちのコールサインを、アッシュの本名に合わせて名付けた。「エリアクゥ」の姓は、マジェスティックから譲り受けたものだった。親同然だった。
「今回、俺の官能率が許容限界の69パーセントを下回ることはありません」とアッシュは言った。
「どうして言い切れる?」
「この三ヶ月、ラゴスの全市民が服用を義務づけられている反SD薬を、俺は一度も服用していないからです」
反SD薬の服用はラゴス全市民の義務だった。だがアッシュは、処方された薬を飲まずに全部自室のトイレットに棄てていた。昨今、官能率が上昇しているのも、当然のことなのだ。
マジェスティックが息を吐いた。白煙がアッシュを包み込む気がした。ヒステリックに煮えくりかえった女の腸の匂いがした。
「一応、理由を聞こう」マジェスティックは声を押し殺して言った。
「あなたには理解できないかもしれないが」とアッシュは断った。「ドラッグによって性欲を抑制することは、自然な状態ではないからです。俺たちは自然の掟のなかで生きる。朝の乾燥地帯を走る野生のバッファローのように」
「よくわかった」
「相容れないことが、ですか」
「別れの時が来たことが、だ。お前にはほとほと愛想が尽きた。費やした愛情と金と時間のすべてが無駄だった。スネーク島への片道チケットを準備しておく。ねぎらいの言葉は必要ないな、元焚像官?」
「イエス。レディ・マジェスティック」
「後のことは心配するな。今宵の作戦のメンバーからも速やかに除名しておく。お前はスネーク島移送までの長い夜、スタジオ過密区域に撃ち込まれたヘルファイア・ミサイルの轟音と逃げ回るポルノ・テロリストたちの悲鳴をBGMに、酒も情感映画もない留置場で、後悔に身を焦がしながら震え続けることになるだろう」
通信は途絶した。
昇降扉が開いた。マーカスがアッシュをエレベーターボックスに押し込んだ。
階層『69』のパネルが自動点灯した。
「アッシュ」ブリュネットが目を細めた。「早く帰ってきて」
感化院送りを前提とした言葉。
仮にスネーク島からの帰還が叶ったとしても、その人物はアッシュとは別の何者かだろう。キリキリで感化を受けた者はもれなくまっさらな別人格になってしまうというのが、もっぱらの噂だった。
エレベーターの扉が閉まり、ブリュネットとの交流は断たれた。あるいはとっくに断絶していたが。
扉の脇に階層パネルがずらりと並んでいる。アッシュは身を乗り出して『50』のパネルを押した。マイクがアッシュの首根っこを掴んで引き寄せ、腹に拳をめりこませた。せりあがる胃液をこらえながら、上目遣いでパネルを見た。『50』は点灯しなかった。乗客の意思を無視して裏切り者の地獄を目指す、上下運動する棺だ。
指定階層に到着した。
エレベーター出口直通のホールの先が二叉に分かれている。それぞれの通路の上に象徴的な二人の人物、ヴードゥーの神格ダムバラーとアイダが描かれ、大理石の床にはヨルバ文字が刻印されている。
▶ENIYAN
▷OBINRIN
男女の分かれ道だ。政府への忠誠を推し測るエレクト&ウェット。男には男の、女には女の官能率測定。
何食わぬ顔で「女」側通路に進もうとしたアッシュを引き戻し、マイクは再度、みぞおちにヘビーな一発をくれた。アッシュは胃液を吐きながら頭のなかで現状を分析し、自分はこれから殺される可能性が高いだろうと判断した。
*
身につけていた服をすべて脱ぎ、黒と白の修道服に着替えた。アッシュと同様シスターの格好をした、定例検査の男性保全局員が集まった。
測定室はヨーロッパのキリスト教会を模した造りだが、礼拝堂の十字架に磔にされた男は腰に布を巻いておらず、性器が露わになっている。竿はエレクト状態のまま途中で切断されている。切断面は妙に生々しく象られている。局の男どもを恐怖で支配するためだ。磔刑の男の真下には、警句が彫られている。
エベンの黒剣は叛逆の槍に勝る
アッシュは他の局員に混ざって礼拝堂の祭壇に並んだ。
次にコーラス隊の子供たちが現れ、壇の左右に並んだ。
最後に大歌教が入場する。ナイジェリア教会合唱会の筆頭、通称『盛り上げおばさん』。H・R・ギーガーのエイリアンが潜むでっぷりとした腹が、歩くたびに揺れた。赤の虹彩を持つ右目は機械仕掛けの義眼で、男たちの官能率を測定する〈粗相発見器〉を内蔵している。
ザ・ソングは祭壇に祀られた黒剣を取り上げ、鞘から引き抜いた。大きな腹の前で、刃を上にして捧げ持った。エベンの黒剣は物質界を切り裂く力を持ち、目に見えない世界の扉を開け放つと言われる。誘惑に屈して反抗の意志を見せた槍は、黒剣によって別世界に送られるのだ。磔刑の男と同じように。
準備が整うと、ザ・ソングは足踏みを始めた。肥満体が大きく揺れ、おばさんが踏みつけた地面もまた揺れた。
ザ・ソングは足踏みにハンドクラップを加えた。揃いの修道服を着たガキどもが、体を揺すってスウィングしはじめた。ザ・ソングのリズムに合わせて手拍子を重ねた。
「ヨーママーヨマヨマヨ、ウママウママウママ、ヨママアヨ~」ザ・ソングは高速のスキャットを披露した。「ウイドウイドホーイ、あらほらHey Go」
おばさんのスキャットをイントロに、受験者たちは歌い始めた。
Arise, O compatriots.
Nigeria’s call obey
保全局員がキッズのゴスペル調コーラスをバックに歌い上げるのはナイジェリア国歌『起て同胞、ナイジェリアの呼び声に従って』。
大気を撹拌する勢いで激しくスウィングする盛り上げおばさんが、曲のさなかに合いの手を入れ始めた。黒剣をぶん回し、まるで喧嘩でもしているような口調で、
「セックスする国絶対反対!」
『アイエ、オー!』と局員どもが応じた。
「子作り反対!」
『アイエ、オー!』
「淫行したがる独裁者はいらない!」
『アイエ、オー!』
「アフリカ・シュラインからラゴスを守れ!」
『アイエ、オー!』
「ポルノ法制絶対賛成!」
『アイエ、オー!』
「ブギはやめろ!」
『ブギはやめろ!』
シュプレヒコールが佳境に達すると、ザ・ソングは紫のスパンコールをあしらったドレスをたくし上げて太股をちらつかせた。信じられないほど淫靡なその姿! 艶めかしいポーズをとり、
「どうだい、これでも股間のイチモツを大人しくさせとくつもりかい!?」と挑発した。
Yeah! と応じながら各々、両手で股間を指さした。微塵もエレクトしない股間の絶壁を誇り、互いに讃え合った。ガキも巻き込んで、合唱参加者全員が声を揃えてウォーッと叫んで跳び上がり始めた。
「ア・ゲ・て・け」おばさんがさらに煽った。
The labor of our heroes past
Shall never be in vain
――我らの英雄の過去の努力が無駄になることは決してない。
リリックが脳髄にすっと染みこみ、アッシュの心と肉体に力を与えた。
俺は〈神の手が触れた者〉だ。いまだってまだガッツはあるさ。みっともなくたって、最後までもがき続けてやる。
『アフリカの祈り』の一場面を頭のなかに思い描いた。超スリリングなシークエンス――TOKYO、深夜のコンビニエンス・ストア、VS超凄腕の女NINJA。
むずむずしてきた。
測定参加者たちが、アッシュの肉体の変化に気づいた。
「歌をやめるんじゃないよ!」と盛り上げおばさんが叫んだ。
局員たちは動揺を隠しきれぬままスウィングし続けた。
ザ・ソングがアッシュの正面に立った。
局員たちは歌い続けた。歌声は彼らの萎えた槍とまったく同じ有様だった。ガキどものコーラスも同様だった。ふにゃふにゃだった。
「60%」とザ・ソングが呟いた。
局員どもがどよめき、ガキどもの目元を覆った。
臨界点だ。
アッシュとザ・ソングを取り囲む軽蔑の輪ができた。男たちの熱っぽい眼差しが大歌教の黒剣とアッシュの槍のあいだをぐるぐると行き交い始めた。
To serve with heart and might
One nation bound in freedom, peace and unity.
「65%」
ザ・ソングは黒剣を頭上に振りかざした。
場が凍りついた。
「66……67……68」
「やれよ」とアッシュは言った。
「歌い続けな!」盛り上げおばさんは鬼の形相で盛り上げた。
Oh God of creation, direct our noble cause
Guide our leaders right
「Oh、とうとう69%を超えちまったね」とザ・ソングは言った。
「当たり前だ」とアッシュは誇った。腕を組んで仁王立ちした。
「お里が知れたね、〈性欲をもてあます者〉! 愛しの息子に別れを言いな!」
ザ・ソングは黒剣を振りおろした。
エベンの黒剣が折れた。
硬度において、アッシュの槍が勝ったのだ。
ザ・ソングはびっくり仰天して尻持ちをついた。
観衆の一人が、俺は夢でも見ているのか、と呟いた。槍が黒剣に勝るなど。
「違うね」とアッシュは言った。「夢なんかじゃない。こいつは俺の怒りさ」
別の誰かが、これ以上は見てられない、と独りごちた。その言葉を皮切りに、保全局員とガキどもは、もつれ合いながら測定室から逃げ出した。
ザ・ソングは腰が抜けて立てなかった。
許容限界値を超えても、アッシュの槍は依然うなぎ登りを続けた。
「官能率70……75……80%……」
ザ・ソングは取り憑かれたように眼前の異形を凝視し、呪詛のように上昇する数値を呟き続けた。
「90%」
ついに恥じらいに頬を染めた。
「あんたは――」
測定室の照明が落ちた。
「俺の名前を聞け」
緊急事態を示す赤いランプが灯り、ジャングルの獣たちの声をサンプリングしたパラノイアックな警報音が響き渡った。
「――あんたは一体何者だ」
「俺の名は〈神の手が触れた者〉アッシュ・アーヨ! 母は九年戦争の英雄ティワ・ネカ! 英雄の意志を完遂するためにラゴスに帰ってきた!」
耳元で黒い大統領が囁いた。
お前の槍で天を衝け。
アッシュは言った。「これが俺の全欲全快だ」
全身が雷に撃たれたように痙攣した。アッシュは官能の特異点を超え、人生最大の絶頂感に野獣の咆哮をあげた。ブビンガの灰のなかから突き出た自らの槍が、天井を突き破り、中央貯蔵塔のすべての階層を貫き、遙かな宇宙へと伸びて月を砕く様を幻視した。
神感が生体都市の制御システムに干渉した。
生体都市は長らく、支配的な情調を生み出すことで、ラゴス市民を安全に「飼育」してきた。神感は、生体都市が構築する情調を書き換えた。生体都市の根幹システムが、ハッカーの介入によって混乱をきたした。
アニマル・アラートが止み、レッド・ランプが落ちた。
生体都市が沈黙した。
「120%……ひぎぃ」
ザ・ソングが夢見心地で呟いた。
「He’s Electric……反り返りアッシュ」
*
放心状態の大歌教を残して、アッシュは測定室を出た。
中央貯蔵塔の吹き抜け建築全体が光を失っていた。
自然光だけの薄暗い通路に、人影がぼうっと浮かび上がった。
「礼を言う」とアッシュは言った。「あんたの言葉が、神感を引き出すきっかけをくれた」
黒い大統領は舐め回すような目でアッシュの股間を凝視した。
「随分と成長したもんだ」
「あんたに比べりゃまだまださ」
「俺に教えることはもう何もないさ」
多くの言葉は必要なかった。フェラと話をするのはこれが最後になるだろうと、アッシュにはわかった。
フェラは遠い目をした。
「始まりはいつもセックスだった」とカラクタの英雄は言った。
当たり前といえば当たり前だが深淵な雰囲気も漂うその言葉を最後に、フェラはアッシュの目の前から永遠に消え失せた。別れの際までハンサムだった。
続けざまに、長らくゾーンの外で通信圏外になっていたンナークが久々に起動した。
「Yo、ニガ。『ブギ・ナイツ』から通信だぜ……」
アッシュは涙袋を指先で二度叩いた。
ノイズにまみれたホログラムの幽霊が目の前に現れた。音声が骨伝導で伝わった。
「Yo、アッシュ。ことの経緯を、いますぐ」とブギは言った。「生体都市が一部活動を停止した。こんなことは初めてだ」
「丁度お前の悪口をやっていたところさ」ブギはやめろ。「そっちの状況は。随分と賑やかなようだが」
「試合終了直前、アディショナル・タイムの最後のワンプレー、得点は依然一点ビハインドといったところだ」
非常階段を慌ただしく降りていく局員たちの姿が見えた。タクティカルスーツと自動小銃で武装している。アッシュは壁の死角に入り、声を落とした。
「〈神の手が触れた者〉を見つけた」とアッシュは言った。
「生体都市の機能障害はそれが理由ってわけだ。どんな奴だ?」
「いい奴さ。名前は『反り返りアッシュ』」
ブギ・ナイツは爆笑した。
「僕のツレにも同じ名前の奴がいる。ドレッド・ヘアのエロ河童さ。僕は奴のためにらくだの貢ぎ物まで用意したんだが」
アッシュは局員と鉢合わせないように気を遣いながら、足音を忍ばせて階段を降りた。『アフリカの祈り』のセクシー女NINJAのように。50階フロアで電子ロックが馬鹿になった自動扉を力ずくでこじ開け、自室に戻った。たわけた修道服を脱ぎ捨てた。
「言わなきゃならんことがある」とアッシュは言った。
「うすうす気づいていた。君のお腹に僕たちの子供がいることは」
「ブギ・ナイツ」
「生むななんて言うわけないだろう。週末は二人でベビー用品店へ」
「エバミ・エダの存在が、アフリカ・シュラインの情調に干渉していた可能性がある」
沈黙。
アッシュは続けた。「神感発現のために、必ずしも映像は必要ないようだ。もしかすると、俺の個人的な意志が、組織を反抗に向かわせたのかもしれない」
「『アフリカの祈り』は、はりぼての衝動が生み出した虚構の産物だと?」
「反社会映像同盟の今日までの運動が、もしもあんたら自身の意志によるものじゃないとしたら」
ブギ・ナイツは黙りこんだ。そして言った。「だとしても、僕たちのゆく道は変わらない。僕は僕たちの衝動が見せかけだけの偽物じゃないと信じる。たとえば、愛だってそういうもんだろう?」
「うっかり忘れていた」とアッシュは言った「俺はあんたのそういうところに惚れたんだ」
「君も是非見習いたまえ。子供の名前については、週末までにいくつか候補を考えておこう」
気圧式タクティカルスーツに着替えて自室を出た。
全面ガラスの外、空の色が異様だった。北の地平線間際に、巨大な壁がそそり立っていた。
アッシュは伝えた。「ラゴスに砂嵐が来る」
ラゴスを守っていた防塵フィルター〈清浄な壁〉は、都市機能停止と同時に消え失せたのだ。
「ちょうどいい」とブギは言った。「この街とおさらばしようと思っていたところだ」
「何?」
「君に連絡を入れた理由だ。ラゴスを発つ。僕たちは政府に見捨てられた乾燥地帯に、労働者層の新しい国を作る。SD薬の服用を断固拒否し、セックスの喜びと官能音楽、X-ビデオの自由な表現を謳歌する自治都市だ。志願者が続々とスタジオ過密区域に集まっている」
ブギ・ナイツの背後でにわかに声が湧いた。
「新たな街の名は〈カラクタ共和国〉。僕は新生カラクタを、鋭敏な時代感覚を持ち体制にNOを突きつける新しい表現者たちの愛の楽園にするつもりだ。乗るかね、アッシュ?」
「ああ、もちろんだ」
「すぐに来い。スタジオ過密区域で落ち合おう」
音声ノイズがかなり増えてきた。涙袋通信端末による通信は間もなく途絶するだろう。
「必ず追いつく」とアッシュは言った。
「ケツでも拭き忘れたか」
「そんなところだ」
「できることは」
「今回はない」
「了解。いつでも言え」
「恩に着る。事後報告ばかりですまない」
「どんな理不尽だって許容してやるさ」とブギ・ナイツ言った。「たとえ君がここらで僕たちを見限り、保全局の元鞘に収まったとしても構わない。もし君がこの先、世界を敵に回して吊し上げに遭ったなら、君の代わりに僕が炎上してやる。君に神の加護があればいい。通信を終わる。グッドラック、反り返りアッシュ」
8
中央エレベーターの扉をこじ開けた。中に顔を突っ込んだ。はるか頭上でエレベーターボックスがぴくりとも動かない首吊り死体と化している。眼下を見下ろすと四角いフレームが大地の底の奈落まで続き、闇に霞んでいる。
アッシュは穴の縁にクロム鋼のピトンを打ち込み、スマートワイヤーを通した。タクティカルスーツの腰部にハーネスを取りつけ、念入りにホールドを確かめた。ハーネスに巻き揚げ機構を取りつけた。
抗摩擦手袋をはめた手でスマートワイヤーを握りしめ、足から降下していく。
地上階を通りすぎた。地下へとさらに進んだ。自然光が消えた。闇の世界がアッシュを呑み込んだ。ウィンチとワイヤーの摩擦が生んだ火花だけがアッシュの存在証明になった。
エアフォース・ワンの靴底が分厚い鉄板を踏みつけて鈍い音をたてた。エレベーター扉を力業でこじ開けて昇降路の外へ出た。
平時は局長クラス以上しか立ち入りを許可されていない秘密の階層、都市の底の地獄だ。予備電源で青白く光る狭い通路を抜けると、巨大な夜に迷い込んだ。タクティカルスーツの胸部収納からハンドライトを取り出して点灯した。ライトを振った。揺れる光は充満する闇を溶かすことができない。
非常灯のスイッチを探し、元来た通路に繋がる外壁を手探りした。
指先の質感が変わった。つるつるしたガラスの表面に触れた。
物理接触によってインジケータが点灯した。表面を埃の層に覆われた物理モニタが、スリープから復帰した。
一基だけではなかった。縦横ずらりと並んだ十六基の物理モニタ全基が、久々の来客を歓迎するように一斉に強い光を放った。
モニタは制御パネルだった。生体都市の制御システムが現在どんな状態にあるのかは、モニタの色分けのために一目瞭然だった。ただの一割だけがコンディション・グリーン。モニタに表示された素っ気ない二文字『OK』。残りはすべてレッド。記述された膨大なエラー用件が、フルスクリーン画面をテキストで埋め尽くす。
アッシュは再び中央に目を向け、息を呑んだ。
地の底の大伽藍だ。
制御パネルとともに復帰した天井の照明が、広大な円形のドームをおぼろに浮かび上がらせていた。
地面にぼこぼこと張りだした無数のパイプが、木の根のようにもつれ合い、絡まり合っている。中心から放射状に伸びて、ドーム全方位に穿たれた暗いトンネルに繋がっている。
ドームの中央ではすべてのパイプが地に沈んでいる。そこに生じた直径15メートルの窪地を、血のように赤い砂が満たしている。
赤い砂地はこんもりとした丘を作っていた。
アッシュはパイプの根を乗り越えてドーム中央へ進んだ。砂地を踏んだ。ここまで近づいてようやく、丘が巨大な人型を象っていることに気づいた。
盛り上がった砂の一部を剣鉈の腹で突き崩した。
異様に大きな生き物の肩が露出した。深い皺が刻まれた肌に長い産毛がうっすらと生えている。二の腕にパイプが接続されている。
パイプを引っ張ると腕が引きずられ、砂丘が大きく崩れた。巨大な肩から肘にかけてが露わになった。腕の底に、動物の角、頭蓋骨、蛇や鳥やカメレオンの干物、多様な紋様の仮面、様々の呪具が敷き詰められている。皮膚にはハーブが擦り込まれている。僅かな腐臭に、柑橘系のブチュの香りが混ざる。鎮痛・抗炎症系のメディカル・ハーブだ。
アッシュは時間と労力をかけて砂の丘を切り崩した。
砂に横たわる巨大な女が現れた。無数のパイプで全身を蜂の巣にされた、全長八メートルの老いた巨人だ。焦点の合わない目を宙に漂わせ、静かに一定のリズムで呼吸をしている。生きているのだ。
その実在は長らく曖昧なものとして捉えられてきた。国家レベルのタブー的存在が、現実に存在していることをアッシュは知った。
〈貯蔵体〉――完全な環境を実現するユートピアの中核。それは最新の遺伝子操作技術、クローン技術、ブードゥー死者蘇生術の粋を結集して生み出された最新型のゾンビだ。遺伝子操作によって巨大化した肉体は、使い物にならなくなった部位から順に、クローン技術により修繕が施され、半永久的に生き続ける。
貯蔵体は再生と搾取のサイクルを無限に繰り返す。生体都市は貯蔵体が再生したそばから新鮮な臓器や血液を搾取し、カロリーを搾り取る。カロリーはエネルギーに変換され、市民生活のあらゆる場面で活用される。
内戦のトラウマとサイコなバイオ技術者が生んだ悪夢がここにあった。スピリチュアル・パウダーで施された死に化粧も、女の肌に刻まれた無数の皺を隠せはしなかった。ヨルバ神話の紋様のようにびっしりと刻まれた皺は、彼女が被ってきた無限の痛苦を如実に物語っていた。
アッシュは自らの力の出自を完全に理解した。
姿は変わり果てても、辛うじて面影が残っている。
卵のような顔立ち、アーモンドの大きな目。アッシュを腹に宿し、呪いをかけた女。
貯蔵体の正体は、〈九年戦争〉の英雄ティワ・ネカだ。
現在のラゴス生体都市は、貯蔵体となったティワ・ネカによって制御されている。だとすれば、〈神の手が触れた者〉が情調を支配できるのは、ティワ・ネカが持つこの都市制御の力の一部が、アッシュに流れ込んだためなんだろう。眉間に埋めこまれたIEDの破片、呪いの金属を触媒にして。
ティワ・ネカがどうして自分に呪いをかけたのか、いまならわかる気がした。
終わらせてやる。剣鉈を振り上げた。
ティワ・ネカ貯蔵体の首に剣鉈を振りおろした。刃が図太い首に食いこんだ。一振りで切り落とすにはあまりに大きかった。首の直径は剣鉈の刃よりも長かった。
「あんたの望みはわかった」とアッシュは言った。「くそったれな負の遺産を、清算することだろう」
過去のヨヒンベ、未来のブビンガ。聖木を切り出して作った剣は、未来を切り拓く力を持っている。
アッシュはおのれの全体重をかけて、刃を深く押し込んだ。返り血がタクティカルスーツを真紅に染めた。
貯蔵体の肉体が壊死し始めた。
「安らかに眠れ」とアッシュは言った。「先祖の洞に会いにゆく」
女の肉体に接続された無数のパイプがはずれ、のたうち回る蛇になった。巨人の肉体が泥のように溶け出した。
コンディション・グリーンの制御パネルが、いっせいにレッドに転じた。ティワ・ネカ貯蔵体は完全に溶解してヴードゥーの赤い砂地に染みこんだ。地下世界を統べる不死の女王の玉座が空になった。インジケータが光を失い、再び巨大な夜が訪れた。
生体都市はカロリーの供給源を永久に失った。
ラゴスの崩壊が始まる。
9
中央エレベーターでウィンチを起動して地上階へ昇った。中央貯蔵塔地上階、アトリウムの中央に造られた噴水の前に痩身の小娘が立っていた。背の高いヒールを履き、黒豹の毛皮の外套を羽織っている。幾多の政敵を射殺してきた琥珀色の狼の目が、無遠慮にアッシュを凝視する。
アッシュは人差し指を立てた右手を胸の前に掲げる保全局式の敬礼をした。これが最後になるとわかった。
「おめでとう」とマジェスティックは言った。「お前はもうただの〈性欲をもてあます者〉ではない。立派なテロリストだ」
「それを言うためにわざわざ?」とアッシュは言った。「お別れの言葉は済んだものだと」
「単に手持ち無沙汰なだけだ」とマジェスティックは言った。
口にした紙巻き煙草の先端が灰に変わっていく。ひどくゆっくりと。
「私にできるのは、一つの都市の終わりを、塔のてっぺんから眺めることくらい」
「〈貯蔵体〉を解放しました」
「皮肉なものだ」とマジェスティックは言った。「ラゴスはナイジェリア国内初の生体都市として生まれ変わるために、自爆テロにより脳死状態にあった九年戦争の英雄ティワ・ネカを贄にした。今日、英雄の息子が生体都市の安穏を終わらせた」
「決して死ぬことのできない責め苦。あれが国家を腐敗から救った英雄の末路とは」
「ラゴスが秘密裏に貯蔵体の運用を決めたのは、独裁者レナード・ディヴァイン・シャガリによる史上最悪の権力乱用と政治腐敗、泥沼の内戦〈九年戦争〉後も尾を引いた虐殺と飢餓と貧困の疲弊のなかでのことだった。ナイジェリアは破綻寸前だった」
「やむをえなかったと?」
マジェスティックは言葉に窮した。いままで一度もなかったことだった。
アッシュは続けた。「あの人はあなたの母親でもある」
生体都市がマジェスティックを孕んだ。優しさに満ちた都市の懐で、娘は自らの出生に疑問を抱くこともなく成長し、入るべくしてエリートの道に入り、収まるべくして保全局長の座に収まった。
「まるで実感が持てないんだよ」とマジェスティックは告白した。「親や家族というものが、私にはわからない」
価値観の差は決して埋めることができないだろう。アッシュは二十にも満たない幼い上司に、一抹の憐れみを覚えた。一方で、情の深い女だ。今後は、困窮した生活を強いられるであろう富裕層の保護と、生体都市機能を失ったラゴスの立て直しに尽力するだろう。
「労働者層が、北の乾燥地帯にむけて行進を始めた」マジェスティックは言った。「保全局は総出で現場に向かった。武器を構え、労働者層を包囲している頃合いだ」
「労働者層を殺すつもりですか」
「一触即発の状況、とはいえる」
「まだ暴動は起きていない?」
マジェスティックは静かにため息をついた。「こちらからすれば割に合わないのは確かだよ。談判決裂して暴力の出る幕、ともなれば、ラゴスは一瞬で終わる。何せ、労働者層は百万もいる」
これは単なる独り言だが、とマジェスティックはことわった。
「私は保全局の長だ。おのれの職務を最後まで果たす。部下たちに、造反者アッシュ・エリアクゥを捕まえるよう命令を下した。彼らは知っての通り、腕利きの狩人たちだ。国家の敵を決して逃がしはしない」
マジェスティックは紫煙を吐いた。ニコチンとタールにメランコリックな女の色香が混ざっていた。
「とはいえまあ、こんな状況だからな。奴がひとたび労働者層の巣に飛び込んでしまえば、それ以上手出しはできないだろう」
「レディ・マジェスティックは恐ろしいほど有能だが、思うに、いささか優しすぎる」とアッシュは独りごちた。
「国家レベルのテロリストが一日も早く捕まることを、心から祈っている」
マジェスティックはアッシュに背を向けた。
二人はそのまま言葉を交わすことなく別れた。
アッシュはシステム・ダウンした駐板場で、ハリセンボンのような球体をぐるぐる回して自分のロケットボードを探した。すぐに見つけて引き抜いた。デッキに描いた幾何学模様のオシュンの女神が、火傷しそうな夕陽に照らされ、私はここだと声高に主張していた。
「Yo、ンナーク」
呼びかけても、ンナークは黙して答えなかった。予想していたことだ。生体都市は死んだのだ。
平時から「世界最悪」と悪名高いラゴスの交通渋滞は、ここに来て過去最大、未曾有の事態にまで発展していた。市内交通は完全な麻痺状態にあった。機能停止した生体都市、政府と労働者層のあいだで限界まで高まった緊張状態、間もなく襲来する砂嵐――ラゴスを見限るには充分すぎる理由の数々。その上ドライバーの大半が、自動運転しか経験したことのないペーパードライバーばかりなのだから手に負えない。
動かない障害物と化した自動車のあいだを縫って、ロケットボードを滑走させた。ヴィクトリア島からラゴス島へ渡った。北西の方角、潟湖の向こうの本土に、砂嵐の分厚い壁が見えた。
リング・ロードで追跡者の影に気づいた。二人組の焚像官、ブロンドとブラックがロケットボードを駆りアッシュの後ろをついてくる。エベンの黒剣を抜き身で手にしていて穏やかじゃない。猟犬たちは忌まわしい〈性欲をもてあます者〉の槍を狙っているのだ。
笑わせる。敵じゃない。お前ら程度のテクで俺に追いつけると思うなよ。俺を捕まえたければマンハッタンのロケボー・キングを連れてこい。
どちらも富裕層出身のエリートだ。中央貯蔵塔に入り浸り、環境完全建築が生み出す恩恵と贅のぬるま湯に肩までどっぷり浸かりきっている。
アッシュはずっとストリートで生きてきたのだ。中央貯蔵塔に居を移しても、魂の塒はムシン地区の不法住居だった。
猟犬どもをぶっちぎった。
ラゴス島からカーター橋を渡った。マータラ・マハンマド・ウェイからアゲゲ・モーターロードに入った。『アフリカの祈り』を上映した勇敢なる劇場『シネマ・スルレレ』のそばを走り抜けた。屹立する巨大な槍がこの劇場のスクリーンに大写しになった瞬間、世界は変わるとアッシュは信じた。
官能音楽の洗練されたエロスにはほど遠い、調子はずれのリズムと歌声が聞こえてきた。
労働者層だ。行進している。歌いながら。百万人の楽隊だ。
コロニアル調の商業施設の三階屋上から、サーフする人影が夕陽をバックに降ってくる。火花を散らしてアスファルトに着地し、ノーウェイトで黒剣を振るった。辛うじて上体を反らし避けた。ドレッド・ヘアの横っちょがたんぽぽの綿毛よろしく空を舞った。
追っ手はクローシュ帽の女だ。ボードさばきは抜群、だが黒剣を振るう腕に注がれた力は半端だった。手加減がなければ、やられていた。
ブリュネットは沈んだ瞳をアッシュに向けた。
「貴方はこの街を滅ぼした」
「仕方がなかった」とアッシュは言った。「『昨晩のセックスは最高だった』と恋人たちが囁きあう時間を取り戻すためさ」
音楽がでかくなる。
ブラスバンドの編成に、コンガやジャンベ、ボンゴなどのアフリカン・パーカッションがたゆまぬビートで大地を揺らす。サウンドはファンク、ジャズの流れを汲み、力強く、何よりも自由だ。
ナイジェリアが誇る偉大なるアフロの帝王、黒い大統領フェラ・クティが創出したアフロ・ビートに乗せて、人々は声高に叫び、歌っていた。
アッシュは楽隊の尾っぽを捕まえた。
「時代は変わったのよ!」
ブリュネットはわっと泣きだした。ボードさばきが鈍った。
「大丈夫、貴方は病気を患ってるだけ。一刻も早く、感化院に入って頂戴。そうすれば貴方にも必ず判るはずよ、この新しい世界の素晴らしさが」
「ピースマークを送るぜ」とアッシュは言った。「この素晴らしい世界の終焉に」
アッシュは心の中でブリュネットを抱いた。生体都市のインフラが整う以前、二人愛し合っていた時代に、実際にそうしたように。美しい栗毛を撫で、女の胸に顔を埋めた。
アッシュの槍が再び怒張した。蘇った激槍を目の当たりにしたブリュネットは、泡を吹いて失神した。操縦者を失ったロケボーは、ティンブク広場のほろほろ鳥のガーゴイルに時速九○ノットで衝突した。デッキに描かれたグラフィティ、ヨルバの精霊の神殿『万神殿』が真っ二つに砕けた。アフロ・ビートがブリュネットの悲鳴を飲みこんだ。クローシュ帽が空に舞った。時代が変わるスピードが女を置き去りにした。
アッシュは過密になった労働者層の人波をジグザグにかきわけて進んだ。先頭の大集団が見えた。彼らは欲望を叫んでいた。彼らは愛を叫んでいた。彼らはこんな世界はマジでクソだと叫んでいた。アッシュはロケボーを降りた。もう熱狂の渦中にいた。
群れの最前線に傷だらけのおんぼろの黄色いミニバスが見えた。人が歩く速さで進むミニバスの上に無地の白Tを着たナード風の男が立っていた。
「難民? ちがうね」ブギ・ナイツは声高にアジテーションする。「僕たちは連帯する。僕たちが連帯し続ける限り、僕たちのいる『今ここ』が僕たちの家だ。僕たちは新しい時代のまき散らされた種だ。旅をして、芽吹いてゆく。勃て、同胞。ナイジェリアの呼び声に従って」
ブギの隣に立つリトル・コデックス、非の打ち所がない完璧なリーゼント、ヘビ革のジャケットは自由のシンボル。当代最高のポルノ・スターの股間で、希望の竿がそそり立つ。夜闇を進む船を導く灯台のように。
幾多の機関銃が彼らを狙っていた。彼らは歌い、行進した。機関銃は彼らを殺さなかった。
ヘルファイア・ミサイルを搭載した十二機の戦闘ヘリが上空を飛び交っていた。彼らは歌い、行進した。ミサイルは彼らを殺さなかった。
引き金の軋むかすかな音がどこかで聞こえた。彼らは歌い、行進した。機関銃は彼らを殺さなかった。
都市の外への境界線、生体都市と乾燥地帯を分け隔てる〈ゾーン〉を突破するまでの二〇マイルを、彼らは歌いながら行進した。途中で砂嵐がやってきた。吹き荒れる獣の風が、獰猛な砂粒が、彼らの体をしたたかに打った。バンドの音と歌声は一度も止むことがなかった。
七時間後、労働者層は都市の果てに辿り着いた。アフリカン・バッファローの群れが駆けぬけた足跡が、精霊の思し召しのように、ひび割れた大地を横切っていた。彼らは境界を踏み越えた。ゾーンの外へと、自然の掟の中へと、足を踏み出した。
砂嵐は依然吹き荒れ、いつ止むとも知れなかった。目の前には茫漠とした乾燥地帯がどこまでも広がっていた。渓谷でハイエナの群れが月に吠えた。乾燥地帯の月下、先の未来に樹立される新たな都市の幻影を目指し、彼らは歌い、行進した。機関銃は彼らを殺さなかった!
文字数:35809
内容に関するアピール
作品PR
未熟なりに「SFとは何か」という命題と全力で取っ組み合った。魂を削ってふざけた。何とか完成にこぎつけた。結果として、ブラックカルチャー、ディストピア、サイバーパンクなど、今の時代の空気に呼応した作品になったのではと自負する。拙いところが目立つかもしれませんが、楽しんでいただけたら幸いです。
参考文献について。梗概PRでも挙げたハクスリー『すばらしい新世界』をメインに、ギブスン、スターリング、バチガルピの様々な作品群、レズニックのアフリカ小説『キリンヤガ』、実作執筆中に読んで衝撃を受けた小川哲さん『ゲームの王国』、映画『ブラックパンサー』、『トランボ』、ナイキの創業者フィル・ナイトの自伝『SHOE DOG』、その他多くの作品に影響を受けた。ナイジェリアの空気やノリについてはネットや本をとにかく漁りつづけた他、カルロス・ムーア著『フェラ・クティ自伝』に大きく依拠している。ポルノ関係の一連の用語については、XVIDEOSで盛んに用いられているあまりに即物的なタグや検索ワードにおかしみを感じて参照した。特に以下のサイトをインスピレーション源として活用させていただいた。
xvideosで使える英語のエロ用語まとめ
https://summary.fc2.com/a/summary.php?summary\_cd=1509927
SF創作講座を二年間受講した感想
この二年間は冗談抜きでハードだった。人生でも数えるくらい、ものすごく濃密だった。遊び、イベント、人づきあい、色々なことを我慢した。その価値が間違いなくあったと言い切ることができる。
実践的だということ。先生方がアマチュアの作品に、本気で向き合ってくれるということ。最初は「どうすればSF風に見えるだろうか」なんて考えながら、ごまかしごまかし書いていた。先生方の言葉や人柄に触れるうち、自然とSFが好きになった。いまはSFを書きたくて書いている。
SF創作講座に興味を持たれている方、拙作に多少なりとも面白みを感じていただけたなら、どうかためしに、講座第一期の初期作品と読み比べてみてほしい。自分で言うのも気が引けるけれども、二年間講座に通った成果がしっかり表れていると思う。
講師の先生方、編集者の皆様、多くの助言や励ましがあったからこそ最後まで書き続けることができました。山田さん、塩澤さん、最終作の梗概講評でいただいたアドバイスのおかげで、今作の進むべき方向性を決めることができました。新井さん、去年提出した実作を覚えていてくださり、書き手として望外の喜びでした。東さん、元々自分は東さん/ゲンロンルートでSF創作講座を知った人間です。今作でも、わかる形、わからない形で随所に影響が表れていると自覚しています。
小浜さん。挫折を経験し、本当にもう立ち直れないかもしれないと感じていたとき、作品を推してくださいました。励ましの言葉をもらい、涙が出そうでした。
大森さん。勧めていただいた作家と小説、目指せと言われたスタイルが、自分にとって最大の武器になったと感じています。書き手としての自分がいまあるのは大森先生のおかげです。二年間、本当にありがとうございました。
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