海を汲む

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海を汲む

◇1◇

 日射しは、眩いばかりの輝きに溢れているのに、彼女の背中は寂しげだった。
 咲くはずだった花々は、蕾のままぐったりとして、無造作に倒れ伏していた。
 彼女は呆然と、その中心に佇んでいた。

 人ひとりがようやく通れるぐらいの路地から、石造りの建物の合間にぽっかりと空いた、十メートル四方の中庭へと歩み出る。周りを囲む赤煉瓦の壁は、古びたガラス窓にいたるまで、すべて碧々あおあおとしたつたで覆われていた。生気に溢れた蔦の濃緑色は、倒れ伏した花々を見下ろし、あざ笑うかのようだった。
 草熱くさいきれを乗せた風が吹き寄せる。その風とともに、彼女の視線はこちらを向いた。
 振り向きざまに揺れた長い黒髪の先が、小さく波打つ。真白の肌、引き結ばれた口元のために、その横顔は涼しげな印象を与える。だが瞳は、その凜とした相貌のなかにあって、そぐわぬ弱々しさをたたえていた。
「カイリ……」
「やっぱりここか、エナ」
 足下の萎れた草をまたぎながら、私はエナの傍らに歩み寄る。横に並んだ彼女は、うなだれているせいか、私との背丈の差が、いつもより開いてしまっているような気がした。
「ネモフィラ、だめだった」
 溜息とともにしゃがみこんだ彼女は、力のない口調でそう言った。ネモフィラの短い茎は、土気を帯びた枯草色をしていた。
「秋に蒔いてから、ずっと楽しみにしてた。このあたりでも育つ花だって、図鑑にあったから」
「それ、昔の図鑑だろう。このへんの気温は、昔よりずっと上がっているから」
 咲くことなく命尽きた花は、彼女の手の中でくたりとしている。もし咲いていたら、この花園は、一面の空色に覆われていたはずだった。
 エナは毎日、ここに通って水をやり、雑草を抜いたりして甲斐甲斐しく世話をしていた。それだけに、彼女の落胆は大きかった。
「どんな花にも、そのしゅに合った場所があるだろう。合わなかったんだ、きっと」
「そう、だね。かわいそうなこと、したかな……」
 彼女は萎れた花のように、俯いた。

 ここは、エナの花園。
 彼女のほかには私しか知らない、二人だけの秘密の場所。
 エナは、花の種をどこからか見つけてきては、ここに植えていた。彼女が見繕った花が咲くのを、本人はもちろんのこと、私も楽しみにしていた。
 彼女は決して、草花を育てるのが苦手なわけではない。これまでにもいろいろな花が、ここで咲き誇ってきた。だが、暑さを嫌うネモフィラは、気候が合わなかったのだろう。開花を前にして、みな弱ってしまった。
 彼女の横にしゃがみ、肩に手を回す。エナはしばらくの間、私に体を預けたままでいた。
「カイリ、わたしを呼びに来たんでしょ」
「ゴウラ爺さんが探してた。もう少しで飛ぶ時間になるって」
「まだ一時間以上あるよ」
 エナはわざとらしく、ふくれ面をした。
「遅刻すると思ってるんじゃないか、爺さんは」
「余計なお世話。子どもじゃないんだから」
「じゃあ、こないだの朝の偵察、寝過ごしたのは?」
「それは……」
 彼女はそしらぬふうで、何もない空を仰ぎ見た。ごまかすときの、エナの癖だ。彼女は横目でちらっと、私の顔を一瞥する。目が合うと、いそいそと空に視線を戻した。
「とにかく、行こう」
 私は立ち上がり、エナに手を差しのべる。指の長いほっそりとした手が、私の掌に乗せられた。私は指先に力をこめて、彼女を引っぱる。
 そうして私は、エナの手をほどく。すると彼女は無言のまま、ふたたびわたしの手を握り直してくる。
 エナの顔を見た。その怜悧れいりな顔立ちには不似合いなほど、無邪気な笑みが浮かんでいた。

 

◇2◇

 建物と建物の間の細い路地を、縦に並んで歩く。路地の終わりは、塗り込められた壁が崩れて口を開けた場所だった。
 歩み出たすぐ目の前には、奇妙な形をした石の彫刻が置いてあった。直径二メートルはある平たく円い石から、八方向に突き出した太陽の意匠を型で抜いたような形をしていた。
 私とエナはそれを、「スカスカになったキュウリの断面」という前衛的な名前で呼び、花園への目印にしていた。
 その「キュウリ」の先はすぐ、森になっている。
 鳥たちが、互いを呼び合うように、盛んに鳴く。遠く木々の向こうには、二頭の獣の影がある。鹿、だろうか。しばらくこちらを凝視したあと、飛び跳ねるように去っていった。
 鬱蒼と茂る木々の中、落ち葉がつくる道を踏みならしながら、エナは言った。
「まだ、時間あるよね」
 私は木漏れ日の向こう、太陽の差すほうを見上げる。時間があるとも言えないが、ぎりぎりなわけでもない。
「カイリ、いつもの場所行かない?」
「いや、間に合わなくならないか――」
「いいの。飛行経路の事前チェックだから」
 仕方なく、私は頷く。エナは小さく微笑むと、脇道へと小走りで入っていった。
 またあの階段を、登るのか。私は溜息をつきつつ、彼女の後を追いかける。
 枯れ葉の細道はすぐに途絶え、私たち二人は、青々とした下草の萌え立つ森を駆け抜ける。木漏れ日のつくる、光の足跡をなぞるように。
「おっと」
 足下に出っ張りを見つけて、とっさに足を引く。
 森の中には、いろいろなものが転がり埋まっている。剥げたアスファルトの塊、錆びて朽ち果てた乗り物のフレーム、巨大なガラス板。そうした人工物は、どれもこれも土と苔に覆われ、森の景色のなかに溶け込んでいた。積もった落ち葉の下から、ときどき敷石が顔を見せている。時の中で埋もれてしまった、かつての遊歩道だった。この森も元をたどれば、公園に植えられた木々だった。
 エナが走り行く先、森を切り落としたかのように、蔦に覆われた灰色の石壁がそびえている。エナは壁まで十数歩のところまで来ると、走るのをやめ、立ち止まる。目をこらすと、壁を這う蔦の間に開口部があるのがわかる。
 私も足を止め、彼女の脇に並んだ。荒い呼吸とともに、エナの肩と胸は、規則的に上下していた。
 そそり立つ壁面は、見上げれば見上げるほど、こちらに向かって倒れかかってくるような気がする。この壁は巨大だ。横の幅は何百メートルという規模で、走っても端から端まで五分はかかるだろう。高さも、私の背丈のゆうに百倍はあるのではないかと思える。
 だがこの壁は、あくまで見えている一部にすぎない。その幅の半分程度の奥行きを持つ、人造の高台、ひとつの巨大建造物メガストラクチャーだった。ずっと上のほうには、この建造物の名前、「新宿駅」が、丸みのある文字で大書されていた。
 かつてここには、無軌条鉄道なる交通機関の拠点があったらしい。らしい、というのは、私自身それを見たことがあるわけでもなく、たまたま見つけた古い資料から知ったに過ぎないからだ。その拠点――〈駅〉と呼ばれていたそうだ――自体は、この山の如く巨大な建造物によって、完全に覆い隠されていた。
 建物の中に入る。真昼だが、建物の中は薄暗がりになっている。層をなした砂埃の中、前に来たときに自分たちが残した足跡をたどりながら、うすぼんやりとした光の射すほう、ガラス窓に囲まれた階段に向かって歩いていった。
 「いつもの場所」は、ここから階段を登った先にある。

 息を切らして、階段を上りきる。あと十数段のところだが、ふくらはぎは張り、太ももはこれ以上働かせるなとばかりに、頑なに凝り固まっている。毎度のことだが、五百段の階段上りは堪える。
 遅れて登ってきた私を、エナは段上で待ちわびていた。彼女はのんびりしているように見えるときもあるが、実際には非常に身軽だった。
「ほら」
 彼女に手を引かれて最後の一段を踏み上がり、深く息を吐く。
 すぐそこの鉄扉を開けた先が、目指す場所だった。力をこめて扉を押すと、隙間からひゅうひゅうと風の漏れる音がして、エナの長い髪をはためかせた。
 扉を開けきると、その先は、何百人が居並んだとしてもまだ余裕がありそうな、広々としたバルコニーのようになっている。ここは、建造物の屋上にあたる場所だった。遮るものなく差す日射しと、灼けついた屋上の床が放つ暑気に、思わず目を細める。
 屋上に積もった砂埃は、風雨に練られて壁際に土塊つちくれを作り、丈の長い草が何本も生え出ていた。かつてここは人が集まる場所だったのだろう、何十もの椅子とテーブルの残骸が残されていた。どれも腐食した金属の枠だけになり、逆さまや横倒しになっていた。
 ただおそらく、眺望のよさだけは当時から変わっていないのだろう。ここからは、周囲をくまなく眺めることができた。私はエナの背に手を添え、バルコニーの南東側の手摺り壁へと歩み寄った。

 風雨に削られた奇岩のように、欠け崩れた灰白色や鼠色の建造物が、幾十もそそり立つ。廃墟となったビルは、元々の直方体の型を保っているのはその半分もなく、部分的に、あるいは構造ごと崩れてしまったものが多くあった。
 一面ガラス張りのビルには、さらに原形を留めたものは少なかった。僅かに残ったガラス面は塵に汚れてくすんではいたが、陽光を反射して、きらめいている。
 ビル群の麓は、際なく広がる森に埋め尽くされている。ビルの下のほうからは、壁をにじり登るように、濃緑の蔦のむらがはびこっている。かつて建物の谷間には道が走り、人や車両が行き交っていたのだろうが、もうその跡もない。だが、道は木の根に覆され、舗装は瓦礫と化し、そこは獣のための通り道となった。
「いつ見ても、一面の緑色だ」
「そうだね、森と海と、廃墟ばっかり」
 東に目を移すと、森はあるところで切れ、その向こうには紫紺の塗料を流したような海が広がり、風に小さな白波を立てていた。ところどころ、海岸線からさらに深く海が切り込み、建造物の間は水路に換わっている。この街に人々が住んでいたときよりも海面が上昇したのだろう、低海抜地はすっかり水没し、沼地に生える砥草とくさのように、建物の残骸が顔を出していた。
 地を蝕むように広がった湾の中央には、異様な存在感を放つものが、やや傾いで屹立している。
 建てられて何年が経つのかもわからない、錆色の巨大な鉄塔。螺旋状に捻られながら天へと伸びていくそれは、一角獣ユニコーンの角のようでもある。
 エナは、あれを〈錆びた角〉と呼んでいた。かつて、ここにまだ人が溢れていた時代に築かれた、街の象徴だった。正しくはかつて、〈トウキョウ・スピラリス〉と呼ばれていた塔。高さは九百二十メートルあるというが、あんな巨大なものをどう建てたのだろうかと、不思議に思う。
 蔓延はびこる緑におおわわれ、迫る海に侵された、廃墟の都市。
 ここはかつて、トウキョウと呼ばれた街だった。

「いい風」
 髪をなびかせて、エナは気持ちよさそうに目を細めた。
「この風向きなら、今日は湾沿いに飛んでみようかな」
 そう言って、彼女は指先で、飛行経路を宙に描いた。
 始点は、この巨大建造物メガストラクチャーを含むシンジュクのビル群のあたりだった。そこから廃墟の間に森の広がる一帯を通過し、指先は東のほうの湾に向かう。そのまま湾の上を飛んで、〈錆びた角〉の周りを一周。その後、飛行経路は北へと切り替わる。
 沿岸をしばらく北上してから西に折れ、しばらくしたあたりを、彼女は指差した。
 その近くの地面に、巨大な陥没坑が開いている。直径は三百メートルはあるだろうか。
 陥没坑の先にあるもの。
 それは、かつて私やエナ、そして集落の皆が居住していた、地下都市〈エゴタ〉の跡だった。
 地下都市は長さ四百メートル、直径七十メートルほどの大きさがあり、その形状から、〈繭玉まゆだま〉とも呼ばれていた。内部は数十階層に分かれ、五千人ほどの人口を収容できる。それが各所の地下に、何十何百と点在している。
 かつて人類が、地下に潜らざるを得なくなった二百年から三百年前に、建造されたものだという。
 だが私たちの住んでいた地下都市は、ある日崩壊した。
「もうあれから、何年かな」
 エナは呟く。
「事故から数えれば、もう四年、だ」
 私たちの住んでいた地下都市〈エゴタ〉で、内部の発電機構に事故が起こった。爆発により都市の七割は吹き飛び、発生した有毒ガスによって、人口の多くが死滅した。都市内部はとうてい暮らせる状況ではなくなり、私やエナ、生き残ったわずかな者達は、やむなく地上へ出ることを選んだのだった。
「そっか……早いね」
 そう言って、エナは目を閉じた。彼女は家族を全員、そのときの事故で亡くしている。それは私も、同じだったけれど。
 エナは悲しみに飲まれまいとしたのか、早口に言葉を継いだ。
「でもわたし、地上のほうが好き。狭っ苦しくて地味な〈繭玉〉と違って、色に溢れているから」
「そう、か」
 彼女がそう思えているのならば、よいのだが。

 私たちはいま、〈エゴタ〉の跡から数キロ南下した場所で、三百人ほどの集落を築いている。
 集落は、さっき通り抜けた森の外れに作られている。
 〈エゴタ〉を出た我々にとっては、食料の確保が先決だった。公園を開墾し、地下都市にから持ち出した種苗を植え、農作物を育てた。すぐ近くに湧水地があることも幸いした。今では、野生化していたヤギを見つけて繁殖させ、小さな牧場まで作られている。
 必要な金属資材などは、地下都市からしてきたり、都市の廃墟から見つけ出してくる。それなりに文明的な生活を送ることができていた。
「私も、地上は面白いと思う。いろんなものが眠ってて、掘っても掘っても、いくらでも昔のものが出てくるから」
「カイリ、本当にガラクタ探し好きだね」
 エナはあきれた口調で言う。
「違う、れっきとした仕事だ」
 私は集落で、かつての都市の瓦礫から、使えそうなものを掘り出す役割を担っていた。電子回路、道具、金属加工品、ガラス。過去の遺物を掘り出す中で、私は過去の都市がどのようなものだったのか、強い興味を持つようになり、調べるようになっていった。さしずめ、にわか考古学者のようなものだった。
「こないだ掘り出したモーター、カワゴエの集落に七千で売れた」
「えっ、七千? 牛が買える……」
「そう、けどサカムラ先生に頼まれて、薬と交換することにした」
 我々と同じように、何らかの理由で地下都市を出なければならなかった者たちが作り上げた集落は、数十キロから百数十キロおきぐらいに点在していた。そうした集落とは、希薄ながら交流や交易もあった。動作する機械や家畜、それに医薬品などは、交易材として重宝されていた。

「けど」
 エナが言う。
「どうして、地下に潜らないとならなかったんだろう、人類は」
「もう何度も聞いているだろう」
「ウイルスから逃れるため、でしょ。感染すると、繁殖機能を喪失するウイルス。それは知ってるよ」
 二百年前ほどに、そのウイルスは爆発的流行パンデミックを起こし、瞬く間に人類全体に蔓延した。一部の未感染者たちは、各地の都市に建造されていた大深度地下空間を改装して潜り、感染者に向けて、その扉を固く閉ざした。
 それが、地下都市となった。
 地上は感染者だけが生きる世界となり、十数年の間に、地下都市は地上をモニタリングすることすらなくなった。地下都市はなまじ自己完結していたために、地下の者にとっては地上への関心は、徐々に、しかし確実に喪われていった。
「だけど」
 私は呟く。
「どうして地上から、人類は消えてしまったんだろう」
「子どもができないから、じゃないの?」
 繁殖機能の喪失は、人類から種の保存という概念を奪った。一部には、クローン技術による種としての存続を目指した者達もいたが、頓挫したという記録も、見たことがある。
「いや、それにしては痕跡が全くないんだ。骨の一つや二つ見つかってもおかしくないのに、私がいくら廃墟をひっくり返しても、全く出てこない」
「どこかに行っちゃったのかな。宇宙とか」
「宇宙か」
 その可能性はなくもないが、この世代で終わることが宿命づけられた人類が、わざわざ宇宙に出ようと考えるだろうか。
 エナは私の顔をじっと見て、言った。
「ねぇ、わたしたち地上に出てきたけど、ウイルスには感染しないのかな」
「感染しないって、サカムラ先生は言ってた。だって、集落では子どもが生まれているだろう。おそらく感染した人類が消えたために、ウイルスも一緒に滅びたんだろう、って」
 一蓮托生、宿主を失った寄生虫の宿命のようなものだった。
「そっか、それならやっぱり、地上のほうがずっといいな。わたし、〈繭玉〉にいたころから、ずっと空に憧れてたから」
 エナは羽ばたく鳥のように、天に向かって大きく手を広げた。
 鳥の自由フォーゲルフライ」という言葉がある。
 地上に出なくてはならないこと、あるいは地上に出ることを選んだ人間を、地下都市の住人はそう呼んでいた。それは決して、肯定的な意味ではなかった。
 「鳥のように野垂れ死ぬ自由」の暗喩だ。
 だがエナはそれを、字義通りの「自由」として体現している。
 彼女は本当に、鳥のように自由だった。そんなところが、私は好きだった。

 私たちは間もなく下へと降り、シンジュクのビル街を向こうに眺めつつ、集落の方へと歩き出した。

 

◇3◇

 私はエナとともに、格納庫へと向かった。
 格納庫と言っても、かつてビルのアトリウムだった場所を、そう呼んでいるだけだが。機械油のにおいに満ち、無造作に置かれた部品や工具で雑然としているところは、格納庫らしいといえばらしい。
 七十も手前の白髪の男は、私たちを見つけると、工具を持ったままの手を振った。
「エナ! 今日は余計なオマケつきじゃねぇか」
 彼が張り上げた声は、格納庫の石壁に跳ね返り、幾重にも反響した。彼は集落の中では、最も高齢な者の一人だった。それにもかかわらず、矍鑠かくしゃくたるその声は、誰よりも大きかった。
 しかし、誰が余計なオマケだ。
 彼はゴウラ爺さん。地下都市ではメカニックをしていた。
 膝が悪いせいで、片足を引きずりながら近づいてきた爺さんは、ドライバーの尻で、私の脇腹を小突いてきた。
(おい、ちけぇんじゃないか、お前)
 そう囁かれた私は、渋々、エナから距離を置いた。だがエナは、不思議そうな顔をして、すっと間を詰めてくる。
 それを見たゴウラ爺さんは、たくわえた髭の中から白壁のような歯を覗かせて、豪快にわらった。
「まったく、微笑ましくて仕方ねぇな」
 私は眉根を寄せて、傍らにいるエナを見た。彼女は相変わらず、何を言われているのかわからないような顔をしたままだった。
(大事にしろよ、カイリ)
 爺さんは、また私の耳元に顔を寄せて、そう言った。気恥ずかしさに、変な汗が吹き出してくる。
 と、彼女は爺さんに向き直って、聞く。
「もう、出られる?」
「おう、いつでも出られっぞ。コンディションは問題なし。いつも通り、舵はエナ好みのダイレクト気味にセットしてあっからな」
「ありがとう、助かる」
 そう言って、エナは短く頷いた。
 彼女は全身を、ぴったりとした材質でできた萌葱色のジャンプスーツで覆い、脇には涙滴型の透明なヘルメットを抱えていた。ふだんは腰まである長髪は、ヘルメットに納めるために、後頭部で団子状に結ってあった。
 エナの目線の先には、鈍色にびいろの機体。運搬台に乗せられ、既に格納庫の外に、オレンジ色でしるしのつけられた始動位置についていた。
 飛行機械オーニソプター
 全幅六メートル、全長四メートルの小ぶりな機体で、やや太めの紡錘形をした胴部の両脇には、片側四枚、両側八枚の可動翼が取り付けられている。その形は「翼の多いコウモリ」と喩えられる。可動翼が高速で羽ばたくことにより、揚力と推力を生み出し、宙に浮かぶ。そのために、遠い地の上代の言葉で「鳥の翼」を意味する、オーニソプターの名が付けられている。
 この機体は、ゴウラ爺さんの手製だった。地下都市から持ち出した駆動部やパーツ、それに廃墟の都市の中から掘り出した部品を用いて、ほとんど一人で作り上げたものだった。爺さんの物作りの技は図抜けており、集落に作られた小型の風力発電機や、金属加工用の足踏み旋盤といった形で腕は発揮されていた。中でもこの機体は、技の極致ともいえるものだった。
 設計図自体は、地下都市に眠っていたものをベースにしたと話していたが、それを形にしてしまうあたり、腕の程が窺える。曰く、これまでに作った同型機は何台かあり、今は遠くの集落にいるたちに譲ったものもあるという話だった。
 ゴウラ爺さんは、オーニソプターの操縦も上手かった。エナが空を飛べるのも、爺さんの直伝ゆえだった。彼女の腕は、弟子の中でも抜群に優れていると、爺さんが自慢げに言っていたのを思い出す。「エナは誰よりも空が好きなんだ、じゃなきゃ、あんなに上手くならねぇ」と。

 エナはヘルメットを被る。薄青色のクリアバイザーからは、彼女の顔がよく見えた。
 翼を踏まないよう、機体の後ろから乗り込み、胴部の上に設置されたシートにまたがるエナ。シートは、前傾させた身体ごと委ねるようにできている。その態勢になると、ちょうど頭が機体の先端から、少し出る具合になる。そうして、前や下を見る。
 この機体に、屋根や風防のようなものはない。全身を風にさらしたまま飛行する。一見無防備そうだが、エナ曰く、風との一体感はたまらなく気持ちいいという。

 彼女は手を伸ばし、右手で舵を掴む。左手で始動スイッチを押し込み、その先にあるスロットルレバーを握る。
 駆動機関の唸りが、震動となって空気を伝う。震えが少しずつ大きくなるとともに、両側の八枚翼が前から後ろへリレーするように、波打って動き始めた。
 機体はわずかに浮き上がり、台の上三十センチほどで静止した。
 ヘルメットの中のエナと、目が合った。彼女は小さく頷いて、口元を動かした。翼の音にかき消され、その声は聞こえない。だがきっと、「行ってくるよ」と言っていた。私は、小さく手を挙げて、返事に代えた。
 ゴーグルを着けた爺さんが、風にはためく二枚の手旗を持って、機体の前に歩み出た。彼は、右手の赤旗、左手の緑旗を地面に水平に掲げ、体ごと左右に傾けた。「舵の確認をせよ」の合図だ。
 エナは小さく舵を動かし、機体をわずかに左右に傾ける。そして「異常なし」の合図として、舵のハンドルの内側に付けられたボタンを押し込み、機体前部左の赤ランプを二回、右の緑ランプを二回、点滅させた。
 ゴウラ爺さんは、二本の手旗を胸の前にまっすぐ突き出した。「上昇用意」だ。機体にまたがるエナが、少しばかり、身体を緊張させたように見えた。
 そして二本の旗は、空に向けて勢いよく、翻された。
 上昇開始。
 翼の羽ばたきが立てていた低音が、悲鳴にも似た高音へと跳ね上がった瞬間。弾けた風は、砂粒を散弾のように吹き付けてくる。
 舞い上げられた塵の中、エナを乗せたオーニソプターは、天に向かって落ちていくほどの勢いで上昇していく。四、五秒の後には、かなり高さのあるビルほどの高度に達し、その機体は日を受け、鈍く輝いていた。
 オーニソプターは、間欠的な音とともに、翼を止めては動かすのを繰り返して旋回し、機体は東を向く。
 瞬間、悲鳴のような音を響かせて、鈍色の機体は一条の線を描くように飛んでいった。あたりには、残された羽音がこだまする。私はしばらくの間、彼女の機体の残響に聞き入っていた。

 

◇4◇

 遅い。
 エナが飛び立ってから、もう二時間になる。偵察飛行にしては長すぎる。
 私はひとり、格納庫で彼女の帰りを待っていた。ゴウラ爺さんは、暇ならパーツの手入れでも手伝っていけと言いつけたまま、ここから少し離れた集落へ行ったきりだった。
 不安を拭うように、私は金属製のシャフトを、何度も何度も布で擦る。

「カイリ!」
 突然の大声に、私は身を固くした。
 振り向くと、片足を引きずりながら、ゴウラ爺さんが駆けてくる。爺さんが、膝の痛みを圧して走っている。尋常ではなかった。
 その蒼白な顔色から、口を開くよりも前に、私は察してしまった。何があったのかを。
「エナが――落ちた」
 私は、手入れ途中のシャフトを、思わず放った。
 心臓を掴まれたような圧迫感、そして全身を襲う、灼けるような寒気。それを振り払うように、私は椅子から跳び上がり、一またぎで爺さんに迫った。
 爺さんの墨色の瞳は、焦点が合わないかのように、小刻みにぶれていた。
「どこで――」
「カマタの浜だ。自動機械に、撃たれたと」
 自動機械に?
 そんなわけがない。偵察飛行のはずだ。自動機械は、空を飛ぶものに対して、こちらから攻撃さえしなければ撃ってくることなどない。誰よりも自動機械のことに明るいエナが、そんな愚行をするわけがない。
 嘘に違いない。
 嘘であって、ほしい。
 だが、そんな願望に意味はないと、心のどこかでは分かっていた。どうして、ゴウラ爺さんが、そして爺さんにそれを伝えた者が、嘘を言う意味があろうか。
「エナは……」
 死んだのか。そう、はっきりと聞ければ、どれほど楽だろうか。しかしそれを口にすることは、私の中の何かが許さなかった。
 爺さんが告げた言葉は、図らずも、私の呟きを継いだ。
「生きてる」
 息を飲む。と同時に、膝が抜けた。心臓を締めつけていた縛めが解けたような安堵を感じる。吐息とともに、私の声帯は不格好な呻きを漏らした。
「けどな、カイリ」
 爺さんの瞳孔は、揺るがずに私の瞳へと相対した。ふたたび私は、時間が静止したようなこわばりを感じる。
 殊更に低い声音。殊更に遅い口調。
「エナは海に、落ちた」
 瞬間、数秒前の「生きてる」という言葉が、この上なく憎らしく思えた。どうして、どうして望みがあるようなことを。

 海に落ちた。それは――それは。
 死んだのと、同じだ。
 私は今度こそ、嗚咽した。
 リヤカーに載せられて、エナは集落へと戻ってきた。
 偶然、エナが海に落ちていくところを見た行商隊が、彼女を陸に引き上げた。粉々になったオーニソプターの残骸から、エナがここの集落の者だと判断した行商たちは、先に一人の者を早駆けで向かわせ、エナの墜落を知らせていた。
 リヤカーを引く男は、葬列の先導のような、神妙な面持ちをしていた。
 私は早足で進み出て、荷台にしなだれかかる。
「エナ――おい、エナ!」
 寝顔のような、静かな表情。薄い微笑みをたたえているようにすら思える。
 その顔には、傷一つない。自動機械に撃たれたと言っていたが、被弾したのはおそらくオーニソプターだけで、身体にも銃創らしきものはなかった。だが左腕にはえ木が巻き付けられていた。落水の衝撃で折れたのだろうか。
 彼女の胸は、小さく上下していた。眠りに落ちたときと、同じように。
 そうだ。彼女はまだ、生きている。
 だけど。彼女はもう、死んでいる。

 海は、人から意識を奪い去る。
 海に落ちた者は、不可逆的に抜け殻となる。
 永劫に意識を失うということが、死以外の何であろうか。
 それゆえに我々は、海を怖れていた。

 手を伸ばせば届く場所に彼女の身体はあるのに、彼女は途方もなく遠いところに行ってしまった。エナの微笑みに、エナの言葉に触れることは、許されない。
 どうして。
 どうして、こんなことに。

 ふと、リヤカーの後方に、見覚えのない男が一人、付いてきているのに気がついた。歳は二十代半ばほどだろうか、私と同じぐらいに見える。行商のひとりだろうかと、思う。だがそれにしては、服装がおかしかった。
 泥にまみれ、ところどころが傷んだ、上下ひとつなぎの灰色の服。デザインこそ私の知っているものと違うが、その装飾性を欠いた意匠は、地下都市の居住者の服装に似ている。目深にかぶっているニット帽は、服とは全く合っていなかった。彼は、どこかの地下都市から出てきて間もない者だろうか。
 凝視する私に気がついたのか、彼は小さく頭を下げ、すぐに目を伏せた。その表情には後ろめたさに似た影が差していた。なぜ彼は、行商の列に付き従い、エナとともにここに来たのだろうか。無性に問い質したかった。

 集落唯一の医者であるサカムラ先生は、エナの様子を見て、低く唸った。顎の下に添えられた手先は神経質そうに動き、溜息は何度も繰り返される。彼でさえ、手をこまねいているのが分かった。
 私たちが地下都市にいたころ、先生は外科医をしていた。地上に出てからは、ここから遠く離れた集落からも、彼に診てもらおうとわざわざやってくる者がいるほど、その名は知られていた。だから、先生ならばと、私も皆も期待していた。が、彼でも手の打ちようがなさそうだと分かると、皆の間には諦念が広がりはじめた。
 運び込まれたエナが寝かされたのは医務室ではなく、その二つ隣の空き部屋に、急ぎ搬入されたマットレスの上だった。
 医務室のベッドはあくまで、いっときの患者のためのもの。エナの状態は、短い間になんとかなるようなものではないことを示唆している。
 先生はエナの骨折の状態を見て、副え木を当て直していた。助手も、彼女の傷の手当てをしている。二人の様子を、私は部屋の隅からぼうっと眺めていた。私が彼女にできることは、何一つない。それが、本当にもどかしかった。

 一通り処置を終えた先生は、こちらに向き直った。
「カイリ、話がある」
 壁際の椅子に座るよう、手振りで私を促す。腰掛けるとすぐに、先生も向かいの椅子に座って、こちらをじっと見た。
「だいたい察しはついているとは思うが……君には、エナの状態を話しておきたい」
「はい」
 彼女の容態について、誰よりも先に聞かされるのは、もしこれが風邪程度の話だったら、こそばゆい気持ちになったかもしれない。だが今は、明確な絶望を真っ先に告げられるためだけの、酷な立場でしかない。
「海に落ちたことで、エナは、意識だけが剥ぎ取られたような状態になっている。左腕には骨折があるが、適切に接いでおけば治る。心肺機能を含めた生命維持についても、全く問題はない。わかりやすく言えば、寝ているのに限りなく近い」
 寝ている、か。それが喩えでなかったなら、どれほどよかっただろう。
「昔にも診たことはあるが、これは〈海昏症かいこんしょう〉だ」
「海昏症?」
「海に意識を奪われても、いや、奪われるという言い方が正しいのか分からないが、そうなっても生命活動だけは続く。だが、いまの集落の備蓄では、生命維持をし続けることも簡単じゃない。昏睡している者に投与し続けられる薬剤や点滴の数には、限度がある。生命維持が難しくなって、命の灯が消えるより前に意識が回復した例は、少なくとも俺は、聞いたことがない」
 エナに残された時間は決して多くはない、ということなのか。私はじっと先生の目を見た。私の懸念を察したのか、サカムラ先生は小さく頷いた。
「しかし、最善は尽くす。俺が知っている症例はたった三つだけだ。その三例だけがすべてじゃない。ひょっとしたら、回復することだってあるかもしれない」
 私の両肩を掴む手は、熱を帯びているように感じられた。私は無言のまま、頷いた。
「ずっと見舞っていろ、とは言わない。だが、できる限り付き添ってあげるんだ、カイリ。俺もやれることは、すべてやってみる」
「……はい」
 サカムラ先生の言葉は、力強かった。先生なりに、私を励まそうとしてくれているのだろうと、そう感じられた。思いがけず、涙が滲む。
 先生は、助手に二つ三つ言い含め、連れ立って部屋を出て行った。

 マットレスの脇に歩み寄り、寝かされたままのエナを見る。私と彼女の間は、たった数十センチしかない。手を伸ばせば、いくらでもエナに触れることはできる。
 だがこの距離は、永遠に詰めることができない遠さのように思えた。
 薬や点滴の欠乏で生命維持ができなくなれば、彼女はほんとうに死んでしまう。先生の口ぶりからして、時間はもう、あまり残されていなさそうだった。
 彼女が目覚めぬまま、衰弱し、命が消えていくのを看取ることしかできないのか、私には。
 どうすれば――。

 誰かが、静かに部屋に入ってきた。その影が誰なのか、私はすぐに分かった。エナを連れ帰った列に付き従っていた、若い男だった。
 彼は部屋の中を見回し、こちらを見るとゆっくり頭を下げ、歩み寄ってきた。
「あの――」
「誰だ、お前」
「ゲン、といいます」
「どこから来た」
「〈ツクバ〉から……」
 ツクバ。聞いたことがあった。たしか北東の方角にある、トウキョウからは離れた地下都市だ。
「私に何の用だ」
「それは」
 一瞬、彼はためらいを目に映して、私を見た。
「あなたが――エナさんと親しい人なんだろうと思って……。こうなってしまったのは、僕の――」
 僕の、何だ。
「せいで――」
 私の右手は、無意識に彼の襟首を掴んでいた。
「……話せ」
 ゲンは、目をじっとつぶり、歯を食いしばっていた。
「話してくれ!」
 彼の顔に、憤怒と懇願が混ざり合った怒声をぶつけた。それは私にとって、きっと殴打のかわりだった。彼はそれを受け止めたかのように、短く息を吐いた。
「……僕は、自動機械に追われていました。逃げ切れないと思ったそのとき、あの人の乗ったオーニソプターが飛んできて、自動機械の前を何度もかすめました。囮になろうと、してくれたんです」
 廃墟の中を闊歩する自動機械。
 三メートルほどの大きさの、まるで人の手首から先のような形をした、自律歩行機械。人間でいえば指にあたる形をした肢を器用に動かし、あるときは二足で、またあるときには五足で歩き回る。数は少ないが、非常に危険な存在だった。
 自動機械は、それらの警戒範囲に入ったり、危害を加えようとすると、人間を襲ってくる。彼はうかつにも足を踏み入れた。
「けれど、機械は僕を追い続けました。すると、あの人はもう一度高く飛び上がって静止し、急降下したんです。そして自動機械は、金属の槍のようなものに貫かれました」
 急上昇後の静止、そして急降下による加速を用いて威力と精度を高めた、慣性穿槍ピアーサーによる攻撃。エナの空中機動マニューバ急降下穿撃ダイヴ・ピアース、か。
「自動機械はしばらくもがいた後、動きを止めました。けれどその寸前、機械は機関砲を放って、それで……」
 エナは、海に墜ちた。
 やりきれなかった。
 ゲンの襟首を掴んだままの手を、震えるほど強く握り込んだ。俯いたまま何かを呟くゲンを、叩きつけるように、壁に押し当てる。
「お前が……お前が、来なければ――」
 エナはこんな目に遭うことも、なかった。

 横たわるエナが目に映る。憎しみひとつないような、安らかな顔のまま。
 はっと、した。
 エナは、ゲンを助けようとしたのだ。自らの危険も顧みず、ただ一心に。
 ゲンを責めても、何にもならない。エナが戻ってくるわけでもない。
 それだけじゃない。彼を責めることは、エナの思いを否定することになる。
 そう思った瞬間。
 どこに怒りをぶつければよいのか、もう分からなくなってしまった。

「あの――」
 ゲンは、ためらいがちな声で言った。
「さっき、先生が話していた海昏症、立ち聞きみたいで申し訳ないのですが……」
 彼は小声のまま、続ける。
「エナさんの意識、海から引き戻すことが、できるかもしれません」
 耳を疑った。
「意識を、引き戻す……?」
 ゲンは、ゆっくりと頷いた。
「僕のいた〈ツクバ〉では、海から意識を引き戻すことに、成功しています」
 彼の目には、確信の色が差していた。
「どういうことなんだ」
「海は、意識を奪っているのではありません。詳しく説明すると長くなりますが、海に浸った者はその意識を海に飲まれます。そして海は、飲み込んだ意識を蓄積するのです」
 海が、意識を蓄積している?
 意味が分からない。海に人の意識が溜め込まれているなど、にわかに信じがたい。雲を掴むような話だ。だが、ゲンの顔は真剣そのものだった。その表情に圧され、思わず私は、彼に問う。
「確証は、あるのか」
 ゲンは被っていたニット帽を、真上に引いて取った。短く刈られた髪が現れる。私は、その生え方に違和感を覚えた。左側頭部の髪の毛が、逆Uの字型の溝状に薄くなっている。よく見ると、肉が小さく規則的に盛り上がっていた。
 手術痕。頭を切り開いた形跡。
 まさか。
 ゲンは、私の推察を認めるように、ゆっくりと頷いた。
「僕は、海から意識を引き戻されたのです」

 

◇5◇

 虚言だと、一蹴もできただろう。
 だが、彼の頭部に刻まれた手術痕は、その言葉に強い信憑性を与えていた。傷痕を見たサカムラ先生も、これは本物の、しかも大がかりな手術の痕跡だと断定した。
 私はゲンに、意識を海から引き出す方法を、皆の前で話してほしいと頼んだ。彼は二つ返事で承諾した。
 もし意識を戻せるのが本当ならば、その方法を皆に知ってもらいたかった。そして、力を貸してもらいたかった。サカムラ先生も、それがよいだろうと賛同してくれた。私は、サカムラ先生やゴウラ爺さんなど、集落の中心人物を呼び集めた。

 サカムラ先生がゲンを紹介すると、ゲンは、私に語ったのと同じように、地下都市〈ツクバ〉から来たこと、エナに命を救われたことの感謝を告げ、そして自分が彼女の意識喪失の原因になったことを、謝った。エナに話が及ぶと、皆の間に重苦しい雰囲気が漂った。
「ひとたび海昏症になれば、二度と意識が戻ることはないと、そうお考えだと思います。けれど、海から意識を取り戻すことは可能です。僕自身、落ちてしまった海から、意識を引き戻されました。だからエナさんを救うことは、きっとできます」
 ざわめきが起こった。
「僕は仲間とともに、〈ツクバ〉で海の研究をしていました。あるとき僕は誤って海に転落しました。同僚たちは、研究の過程で見いだしていた技術を用いて、直ちに海から引き戻してくれたのです」
 彼は、大きく息を吸った。
「海は意識を奪うのではなく、意識を蓄積しているのです。そこから意識を取り戻す方法を、お話しします」
 ゲンは皆を見回して、一拍間を置いて話しはじめた。
「まず、海水を一定量、百リットルほどで構いませんが、海から汲み出します。その海水に、一次処理をします。海から引き戻す人の身体から推算し、海の中に溶け込んだ意識の〈相〉を探し当てます」
 いきなり、わからなかった。
「意識の〈相〉とは、何なんだ」
「意識のありよう、あるいは意識そのもの、と言い換えても構いません。たとえるなら、脳を金型にして作られた、鋳物のようなものです。もちろん、意識は海に奪われているので、〈相〉そのものが、その人の身体に残っているわけではありません。ただその人の脳から、どのような〈相〉が生じるのか、シミュレートすること自体は可能です。そのシミュレーションをもとに、海の中に溶け込んだ〈相〉を検索し、特定するのです」
 彼は続ける。
「意識の〈相〉が特定できたら、一次処理をした海水を蒸発させ、媒質の結晶を析出させる二次処理を行います。たとえるならば、古い時代の塩田に似たやり方です。撒いて、乾かすのです。海の中には、人間の意識の〈相〉を媒質が溶け込んでいます。この媒質は、水分の蒸発に伴い、塩分同様、結晶化する性質を持っています。結晶化することで、媒質内の意識の〈相〉を固定化できます」
 そして、とゲンは言って、自らの頭の傷を指差した。
「結晶化した媒質を、外科的手法、つまり頭を切って、前頭葉に埋め込みます。その後は、脳内の髄液の浸出に伴って結晶が融解し、意識の〈相〉が元の人に戻るのです」
 随分と、大ざっぱな方法だった。そんなやり方で、意識が引き戻せるのだろうか。
 と、間を置いたゲンは、続きを口にした。
「問題は、一次、二次いずれの処理も、特定の施設が必要なことです」
「特定の施設?」
「僕たちは、モニタリング施設と呼んでいました。そもそも〈ツクバ〉の地下都市からほど近い、カスミガウラの内海の近くでモニタリング施設が発見され、それが僕たちの、海に関する研究の始まりになったのです」
「じゃあ、そこに行けば、エナの記憶は戻るんだな」
 身を乗り出した私に向かって、彼は首を振る。
「そこはもう、使えません」
 なぜと聞くと、ゲンは途端につらそうな表情を浮かべた。
「施設は、カスミガウラから海水を引き込んでいました。けれど止水壁が崩壊して、流れ込んできた海に飲まれて……」
 ゲンは、喉を詰まらせたかのように、急に押し黙った。
 サカムラ先生は、無理しなくていいと、穏やかな声で告げた。ゲンは俯いたまま、小さな声で、すみませんと呟いた。
 しばらくのあいだ彼は黙していたが、少しして顔を上げ、深く息を吐いた。
「――ですが、施設は各地に点在していることも、分かっています。ここからそう遠くないところにも」
 皆、互いに顔を見合わせた。近くにあるというのか、その施設が。
「場所は――わかるのか」
 思わず身を乗り出した私を、ゲンは凝視した。
「〈ツクバ〉近傍の施設で見た地図では、このあたりでした」
 壁に貼ってある広域図に歩み寄り、彼が指差したのは。
「ヨコハマあたり、か。結構南のほうだね」
 サカムラ先生が呟いた。その地名を耳にして、ゴウラの爺さんは急に渋い顔をした。
「そのへんなんだが……」
 爺さんは座ったまま、背中側の台から、少し皺になった一枚の紙を引っ張り出す。見覚えのある、手書きの地図だった。
 そうだ、あれは。
「自動機械の分布図、エナが作ったんだけどよ。見てみ、このあたり」
 ここトウキョウから、湾沿いにしばらく南下して、引っ込んだ湾を越えたあたり。
 日付とともに書かれた赤いバツ印が、何十もつけられていた。
「よく出るんだよ、自動機械が」
「まさに、そうなのです」
 ゲンは自動機械の分布図を見て、言った。
「施設の周りには、自動機械が現れます。まるで、施設を守っているかのように。〈ツクバ〉近くでもそうでした。そのため我々は、地下都市からトンネルを掘り、地上に出ないで済むルートを作っていたのです」
 自動機械が現れるのだとすると、施設の捜索は困難になる。奴らに見つかったら、ただでは済まない。自動機械は長年の運用のせいか、機体も多かったが、それでも危険なことに代わりはなかった。
「エナが落ちたときに、一緒にオーニソプターも使えなくなっちまった。偵察、陽動、いざというときに一戦交えることもできねぇな。どうしたもんか……」
 ゴウラ爺さんは、背もたれに身体を預け、天井を仰いだ。
 たしかに、困難かもしれない。自動機械の危険もある。施設が見つかるかどうかも、確証などない
 けれど。
 決意は、すでに固まっていた。
「私は、行きます」
 立ち上がり、決然と言い放つ。
「エナを取り戻せる可能性が、少しでもあるのなら」
 私は居並ぶ一人ひとりの顔を、しっかりと見据えた。ゴウラ爺さんは腕組みのまま、低く唸っている。サカムラ先生は顎に手を当て、考え込んでいる様子だった。
「自分も、行きます」
 凜とした女性の声が、部屋に響いた。
 列席していたが、それまでずっと黙っていたアケノが、口を開いた。
「道中の護衛が必要でしょう。それにエナは、大切な仲間です。〈ツクバ〉の彼の言う方法に、自分は賭けます」
 力強い眼差しで、アケノはゲンを見た。ゲンも、アケノに頷き返す。
 彼女は、集落の衛士レンジャーを務めている。女性ながら、私よりも上背があり、鍛えられた筋骨はしなやかながら、巌のような印象も抱かせる。腕に覚えもあり、白兵で自動機械を討ち倒した経験すらあった。彼女がともに来てくれるのならば、非常に心強い。
「僕も、行かせてください。モニタリング施設に入るための認証コードもあります。機器の操作も分かりますから」
 そう言ってゲンは立ち上がり、「お願いします」と、深く頭を下げた。
 私の心から、彼へのわだかまりがぬぐい去られたわけではなかった。だがエナを救う方法が、ほかにあるわけでもない。彼の言うことを信じるしか、ないのだろう。
 サカムラ先生は、腕組みを解いた。
「カイリ、アケノ、それにゲン。相当な危険が伴うが、本当にやるんだね」
 三人とも、迷いなく頷く。
「分かった。もし、ゲンの言う方法が確立できたならば、海昏症の治療にも役立つだろう。ヨコハマのモニタリング施設を、見つけよう。エナを取り戻すために」
 先生の言葉に、その場の皆は首を縦に振り、賛意を示した。
「出立の準備は、集落を挙げて行う。持てる限りの備蓄を持って行け。君たちが施設を見つけたら、私も第二陣として、エナを連れて向かうことにしよう」
「頼みます」
 不安はある。恐怖もある。だが、エナを助けるためには、行くしかない。私は天井を仰ぎ見て、自分を納得させるように一度、頷いた。

 

◇6◇

 翌々日の早朝。
 まだ紗のかかった薄青の空の下、アケノ、ゲンと私の三人は、集落の皆に見送られ、ヨコハマに向けて発った。

 先導するアケノは、オーニソプターに装備されていたのと同じ慣性穿槍ピアーサーを肩に担いでいた。槍は廃墟の隙間から照る朝日に照らされ、橙色に輝いていた。それは彼女の、決然たる意志の証のようでもあった。慣性穿槍は、高周期振動による貫通補助機構を有しており、それだけでも相当の殺傷能力を持つ。だが本来的な設計思想は質量兵器であるため、一本の重さが二十キロを超えている。それをアケノは、箒の柄でも振り回すかのように、軽々と操るのだった。
 胴周りには、以前に私が掘り出し、ゴウラ爺さんが板金加工した金属でできた防具を身につけていた。身体にフィットした銀色の曲面は、前に図書館跡の蔵書で見た、遠い国の甲冑によく似ていた。
「ゲン、大丈夫か。気分が優れないのなら、早めに申し出てくれ」
 両肩の背負い紐をそれぞれの手で握り、口を真一文字に結んだままのゲンに、アケノは声をかけた。
「……だいじょうぶ、です」
 緊張しきったその顔は、全く大丈夫そうには見えない。
 自動機械に追われた経験もあり、その恐ろしさが頭から離れないのかもしれない。ここからヨコハマまで、徒歩なら最短でも二日はかかる。それも、ただ着けばいいものではない。施設を探さなくてはならない。その間ずっと、自動機械への警戒を絶やすことはできない。彼の恐れは分かるが、それは私にとっても変わらないものだった。
 だが、と思う。
 彼は遠く〈ツクバ〉から、わざわざトウキョウの方まで来た。かつてカントウと呼ばれる巨大都市圏だったこの一帯も、いまや道は森に飲まれ、崩れた廃墟も歩みの妨げでしかない。自動機械だけでなく、ときには野生の生物も牙を剥く。人類の消え去ったこの地上を長く旅することには、相当な勇気が必要なものだ。そこまでして彼がこちらに来た理由は、何なのか。
 話しかけるにはやや遠い間合いのまま、ゲンに声をかける。
「ゲン」
「はい」
「ゲンは、どうしてこんな遠くまで来たんだ」
「それは――あの」
 彼は逃げるように、目線を外した。横顔からは、話したくないことがあるような感じを受けた。
「いや、やっぱりいい。別に、関係のないことだ」
「……すみません」
 私は彼から目を逸らし、少しだけ早足になった。

 かつてタマガワと呼ばれたものの河口あたり――いまは陸へと切り込んだ幅の広い湾となっている――に至るまでは、まだ都市が健在だったころの幹線道路跡を通って進んだ。亀裂や陥没は至る所にあるものの、通る場所が森でないというだけで、足取りは順調だった。
 湾岸から船を出し、日が暮れる前には、湾の中ほどにある人工島のような場所へとたどりついた。だがそれは、実際には島ではない。海から顔を出した、低層だが大きなビルの上部だった。
 ここを選んだのは、アケノの判断だった。自動機械は、浅い海ならば越えることはできるが、深いところを通ることはない。そのため、水深のある海に囲まれた場所は、最も安全なのだという。
 周囲には、背の高い建物が海面から何本も突き出している。手を伸ばせば届くぐらいに思えるほど、隣接していた。古い地図と対照すると、このあたりはカワサキという場所だったことがわかる。
 我々は二つほど階を上がると、荷物を下ろした。今日はここで休息を取り、明日早朝から、またヨコハマを目指すことにする。

 私は、エナのまとめた自動機械分布図の写しを、懐から取り出した。
 湾を渡ったあたりから、自動機械の目撃を示すバツ印の数が急増する。添え書きされた識別番号は、七番と十番の二つだった。自動機械はどれも同じ形に見えるが、わずかな差異があるとエナは言っていた。その小さな違いから、エナは個体を特定していた。
 そのうち十番は、こないだエナが、ゲンを助けるときに撃破した自動機械だった。タマガワを渡って、トウキョウ側に来ていたのだろう。
 つまりこの先に現れうるのは、七番の個体のみ。一体だけならば、うまくすれば遭遇しないで済む気もする。
 「なんとかなるかもな」との私の呟きに、アケノはかぶりを振り、「気を抜くな」と返した。

 夜。天に月はない。
 海はどこまでも、限りなく暗い。
 もし、波頭に映る月の輝きがあったなら、少しは心も安らいだだろう。だが新月の夜、空に浮かぶのはささやかな光を放つ星だけだった。それも間もなく、西から流れてくる雲に、隠されてしまいそうだった。
 水平線に目を移す。どこを眺めても、海と大地の境目は、わからない。人の点す灯は、ひとつとして見当たらない。完璧なる夜。
 大昔の地上は、人工の明かりに満ちていたという。いまや廃墟でしかない建物の窓という窓からは、きっと溢れんばかりの光が漏れていたのだろうと、誰かが言っていた。そんな風景は、想像もできなかった。
 夜の海は、率直に言って、怖い。それ以外に形容しがたい。
 エナは、この海に溶けてしまった。
 彼女はその瞬間、何を思ったのだろう。そして今、海の中で何を思っているのだろうか。
 ゲンは、海から意識を取り戻せると言った。ならばこの海の中には、彼女がいるということになる。
 飛び込んでしまえば、彼女と出会えるのだろうか。この深淵を覗いていると、体が前にのめりそうになる。後ろから強い風が吹いたら、そのまま落ちていってしまいそうなぐらい。身を引いて、海から目を逸らすことは簡単だ。だが一方で、という気がしてくる。
「――カイリさん」
 突然、後ろから声をかけられ、身が縮む。振り返るとゲンがいた。
「驚かすな。それよりも早く寝ろ」
「わかってはいるんですが……ここが海の真ん中だと思うと、落ち着かないんです」
 ふん、と私は鼻を鳴らした。彼を追い払うかのように。
「あの……昼間に歩いているときに、なぜこちらに来たのかと聞きましたよね」
 そういえば、そうだった。私は「あぁ」と、気のない返事をした。
「モニタリング施設を、見つけるためなんです、僕も」
 何だって?
「本当は、僕一人で探すつもりでした。けれど、エナさんに助けられたばかりか、カイリさんやアケノさんまで利用してしまったような気がして、申し訳なくて……」
 利用、か。
 私はすぐに応えることができず、間を置いてから、口を開いた。
「利用された、とは思ってない。ゲンが意識を戻す方法を知らなければ、どうすればいいかも分からなかったからな」
 仄かな明かりを放つランタンの光に、無言で頭を垂れるゲンの姿が写し出された。
 ゲンは少しのあいだ黙したあと、意を決したように口を開いた。
「――僕にも、助けたい人たちがいます。〈ツクバ〉のモニタリング施設が海に飲まれたときに、逃げ切れなかった仲間たちが。いまは〈ツクバ〉で眠っています、エナさんのように」
 エナのように、という言葉に思わず、息を飲んだ。
「そう、なのか」
「はい……幸い、〈ツクバ〉での延命措置にはまだ余裕がありますが……」
 そう言ってゲンは、何かを自分に納得させるように、小さく頷き続けた。
 そうか。彼も、同じだったのか。
 私の中に、同情のような、連帯感のような、そんな感情がざわめき立つ。

 私は、さっきよりも柔らかい口調で、彼に問う。
「ゲン、海のことを研究していたんだろう。聞いてもいいか」
「はい」
「海は、昔からこうだったのか。地下都市にいた頃に知った海は、降った雨が川になって下り着く場所だった。決して、人の意識を奪うような海ではなかった」
 ゲンは「そうです」と短く答え、続けた。
「海は、はじめからこうだったわけではなさそうです。あるとき、おそらくは二百年ほど前と考えられていますが、その頃に、海は性質を変えてしまったようなのです」
 二百年ほど前、といえば。
「街から人が消えたぐらいの時代、か」
 都市廃墟の木々の中には、人為的に植えられたであろうものも相当ある。以前、そうした木々を調べてみたことがある。たとえば道路の脇に整列している街路樹などだ。
 存命のものの樹齢は、どれも推計で、二百年ほどだった。そこから考えると、都市が放棄されたのは、二百年前ぐらいの昔なのではないかと、私は考えていた。
「そして地下都市、〈繭玉〉が建造された時代であり、海面上昇が始まった時期でもあります」
 人類が忽然と姿を消すとともに、様々な異変が、その頃に集中して発生している。
 何かが、あったのだろうか。地上のことが分かる記録は、地下都市〈エゴタ〉には少なかった。しかもそれは、地下都市の事故で失われてしまった。ゲン曰く、〈ツクバ〉にも地上の記録はあまりなかったという。
「〈ツクバ〉の近くにあったモニタリング施設も、同じ時代のもののようでした。モニタリング施設が、海から意識を引き出す、つまり曲がりなりにも海に干渉する知見を有しているということは、当時の人間は、海のしくみを理解していたということになります」
「だがゲンも、その方法を知っているじゃないか」
「聞きかじり、みたいなものです。施設の起動に成功したあと、機器に付された説明インストラクションから推測したんです。分からない言葉も多かったですし、そもそもの原理など、まったく分かっていません」
「オーニソプターには乗れるけど、その中身は知らない、みたいなものか」
 ゲンは笑いながら、頷いた。
「〈ツクバ〉で、僕らは考えていました。当時の人間は海を理解したのではなく、むしろ人間が海を、いまの形に変えたのではないか、と」
 私は、驚嘆と疑念が混ざり合った息を漏らした。
 海を変えてしまった、だって? この巨大な水たまりを?
「人間に、どうにかできるものなのか」
「わかりません。けれど、それが一番合理的な説明だと、僕らは考えていました」
 地上に残された人類が、何を考えていたかなど知る由もない。が、もし彼らが海をこんな風に変えてしまったのだとしたら、とんでもないことをしたものだ。
 だが、彼の推論は興味深かった。
 私はずっと、人類が消えた理由を知りたかった。
 そして、海があのような、意識を奪うものになった理由を。

 もうひとつ、彼には聞きたいことがあった。
「ゲン、他のことを聞いてもいいか」
「はい」
「海の中は、どんな感じだった」
 彼が海に落ちたとき、意識はどうなっていたのか。集落でゲンの説明を聞いたときから、それは気にかかっていた。ゲンは唸りながら、思い出している様子だった。
「僕は海に落ちてから、一日と経たずに引き戻されたのですが……たとえるなら、長い夢の中のようでした。僕らが生きているのとは違う時代、あるいは違う世界にいるような、そんな感覚です。そのとき見聞きしたことはおぼろげに覚えてはいるのですが、はっきりした記憶かと言われると、そうではないんです」
 夢の中、か。
 私は思う。
 それは、私が昔から抱いている、ある恐怖感とつながる。
「なあ、ゲン。海に落ちる前の世界と、海から戻ってきたあとの世界は、同じ世界だと思えたか」
「同じかどうか、ですか。それは――断言できないですが、断絶している感じはしませんでした」
「そうか……」
 私はためらいながら、「実は」と切り出す。
「眠るのが、怖いときがあるんだ。眠る前と後で、世界が同じだって確証が、どうしても持てない。私が目をつぶると世界が終わっていて、そしてまた目を開けたときに、別の新しい世界がはじまっていて――。その二つの世界が、つながっていないような気がして、怖くなる。いま眠れないのも、またそのが起きたせいだ」
 ゲンは唸っていた。少しして、「それは」と声を上げる。
独我論どくがろんの一種、なのかもしれません」
「独我論?」
「世界にいるのは自分だけで、他のもの、つまり風景も他者も、すべては自分の妄想なのかもしれない、という考え方です。カイリさんの場合は、自分だけが存在していて、それ以外の世界はいつすり替わってしまっていてもおかしくない、というものなのでしょう」
 そういうことかと、私は思う。
「――おかしな悩みだと、よく思う。こんなことで苦しんでいるのは、自分だけなんじゃないかって」
 だからこそ、一人悩む自分しか、世界にいないような気がするのか。それが彼の言う、独我論たる所以なのか。
「そんなこと、ありませんよ」
 ゲンの声には、赦しのような響きがあった。
「僕も同じように苦しんだことがありました。宇宙に一人取り残されたようで、とても恐ろしい気持ちになりました。拠って立つ場所がどこにもないような」
 私は何度も首肯する。ゲンの気持ちは、手に取るようにわかった。
「独我論は、はるか昔から論じられてきた事柄です。それで、思ったんです。同じことを、他の人も太古から悩んでいた。それならば、自分と同じように考え悩む、自分と同じような存在が、他にもたくさんいることを、自然に認められるんじゃないか、って。僕らで言えば、僕にとってはカイリさんが、カイリさんにとっては僕が、まさにそうしたものなんじゃないかって、思うんです」
 そうだな、そうかもしれないと、私は呟いていた。
「その他者を、そうやって悩んでいるように見せかけているだけの機械でしかない、とさらに疑うことはできます。けれど僕は、海の存在がそれを否定しているとも、思うんです」
「と言うと?」
「海に落ちれば、誰しも必ず意識を失います。そしてその意識は、海の中に蓄えられます」
「そうか、それは、誰にでも意識があることの、証明になっている――」
「はい」
 自分以外の人間も、風景や他者を見て、考え、悩む。当たり前のようだが、疑い出すと止まらないことでもある。だが、ゲンのように捉えることができるのならば、自分自身も他の人間から見られ、考えられ、悩まれる対象になりうる。
舫い綱もやいづな、か」
 ここまで乗ってきた船をつなぎ止めている綱に、それは似ている気がした。
 私が認識することで他者を世界につなぎ止め、他者に認識されることで私は世界につなぎ止められる。互いに、舫い合っている。
 それをエナに当てはめて、考える。
 彼女はいま、私を見ていない。そして、世界とのつながりを失っている。
 だけど私が、エナのことを忘れない限りは、彼女は私に、つながれている。
 だから。
 そう、だから。
 エナはきっと、戻ってこられる、と。

「――すみません、小難しい話をしてしまって……」
 考え込み、しばらく黙っていた私の顔を、ゲンは気まずそうに覗き込んだ。私はゆるやかに首を振って応える。
「ありがとう、ゲン。少し、楽になったよ」
 本当だった。ずっと抱いていた不安は、もはやさっきまでのようには、心の内を占めていなかった。

 その後も二人で、片方にあくびが出るまで、いろいろなことを話した。彼の生まれた〈ツクバ〉のこと、私のいる集落の皆のこと、そしてエナのこと。
 私はゲンに連帯感シンパシーを感じていた。それとともに、最初に出会ったとき、八つ当たりでしかない敵意を向けてしまったことを、深く恥じていた。

 洋上の夜、彼とは仲間になれた気がした。

 

◇7◇

 翌朝、目を覚ます。風が草むらを走るような音がしていた。
 雨が、降っている。
 先に起きていたアケノは、昨日の道中に手折っていた、葉付きの枝を水筒に差し込んでいた。彼女は雨水を集めている。
「結構、降ってるな」
 憂鬱そうな私に、アケノは「雨のほうがいい。自動機械の探知をごまかしやすいから」と言う。私は行動食の干し芋を二、三切れ頬張りながら、「そういうもんか」と気のない返事をした。
 少しして、船へと乗り移る。船の舫い綱を解き、我々はふたたび海へと漕ぎ出した。
 行く先のヨコハマは、海岸沿いにある。海上から回り込めば、自動機械との遭遇可能性を最小限にできるだろう。だが今日は、南西からの向かい風が強い。手こぎの船も、風に押されてなかなか進まない。私たちは水路を断念して船を接岸し、おかへと上がった。
 海辺は森が少なく、海進で削られた地盤ごと海に倒れ込んでいる廃墟も多く、したがって見通しもよい。自動機械が接近したとしても、早めに気づくことができる。しかしそれは、向こうからもよく見えているということでもある。三人とも目を皿のようにしつつ、無言のまま進んでいった。

 雲に隠れて太陽は見えず、歩きはじめてどれほど時間が経ったか、はっきりとは分からない。おそらく、三時間か四時間は歩いただろう。
 私は左の海を眺めた。すると海の向こうに、巨大な二本の柱が間隔を空けて立っているのが見えた。降雨の中で霞んではいるが、相当な高さであることは分かる。
「ゲン、すごいぞ」
 前を歩くゲンの肩を叩いて、海のほうを指差した。ゲンもそれを見て、驚きの声を漏らした。
「何でしょうね、あれ」
「吊り橋の支柱だ」
 あれもまた、廃墟の中で見つけた昔の記録で、見たことがあった。
「作られて何年経っているのかはわからないが、いまだにああやって、支柱だけ残っている。橋を吊っていたケーブルや道は、とっくの昔に落ちてしまったみたいだけれど。そう、名前は……」
「ベイブリッジだ。はじめて架けられたものから三代目、らしいが」
 アケノは振り返らないまま、言った。
「詳しいな。もしかして、このあたりに来たことがあるのか」
「いや、自分も人づてに聞いただけ。ただ、あれが見えてきたということは」
 立ち止まったアケノは、あたりを見回した。
「ヨコハマが近い、ということになる」
 そう言うとアケノは、足早に近くの廃墟に駆け寄り、中の様子をうかがった。
「ひと休みしよう。休憩がてら、場所に当たりをつけておきたい」
 手招きする彼女に続いて、私とゲンも建物の中へと入る。薄暗い室内に入ると、私はフードを取り、顔についた不愉快な雨垂れを手で拭った。ゲンは重い荷物を降ろすと、凝り固まった肩と首を回していた。
 ふと、遠くから、犬の遠吠えが響いてくる。このあたりには、野犬がいるらしい。一、二頭ならなんとかなるだろうが、群れられると厄介だ。
 ゲンは、ザックから昔の地図を出した。ヨコハマ近辺の地図だった。その余白には、以前の記憶を頼りに書き出した、施設の候補場所のメモが添えられている。
「施設は、当時の海岸線からやや内陸側にありました。今は海岸線が上がっているので、海との距離は近づいているはずです」
「海からの距離は、どのぐらいだったか記憶にあるか」
 アケノは、顎に手をやりながらゲンを見る。
「いえ、そこまでは……ただ、この地図でいえば、黄色く太い線がいくつもあると思いますが、それに隣接していたような記憶があります」
 私は、黄色の線の上に書かれた文字を読む。首都高速、と書かれていた。
「これは……高速道路だ。クルマと呼ばれていた乗り物専用の道路だ。高架状になっていることが多い」
 ただその高架は、倒れ込んでいる場合も多いのだが。
「だとすると、高架だった道沿いに見ていくのがよいでしょうか」
 私とアケノは首肯した。
「他に何か、思い出せたことは?」
「緑色の表記が……公園、というのでしょうか。とにかく、地図上の表記では、施設の周りは緑色で囲まれていました」
 高速道路沿いの公園。
 私は古い地図を俯瞰する。ここからそう遠くない場所だとすると、二つに絞られる。
 ミツザワと、ホドガヤ。
「よし、まず近いミツザワの方――」
 そのとき。
 アケノの声に、浴びせかけるような野犬の吠え声が重なった。少なくとも三頭、いや、もっといるようにも聞こえる。しかも、さっきよりずっと近い。
 アケノは腰を浮かせ、警戒した。私とゲンも、ウエストベルトに提げていた警棒バトンを引き抜いて構えた。足下の小さな瓦礫が、じゃり、と音を立てた。
 来るのか。
 吠え声は、止む様子がない。それどころか、パニックを起こしたかのように激しくなっている。
「……おかしい」
 アケノが首を傾げる。
「野犬たち、もし我々を襲うなら、近づいてからは黙るはずだ」
 そう呟いたアケノは、穿槍を手に取って、窓辺に向かって歩いていった。
 彼女は窓の縁から、外を見ようとした。
 瞬間、巨大なものが倒れ込んだような音が、廃墟の建造物を震わせた。思わずアケノは、窓際から飛び退く。
 震動が、立て続けにもう一度。
 三人、一斉に目を見合わせる。
 皆、事態を理解した。

 自動機械が、近くにいる。

 アケノは手振りで、部屋の奥のほうを何度も指差した。できるだけ奥へ行けという合図だった。私はゲンの背に手を添え、荷物を抱えて奥へと移動する。ちょうどそこは裏口になっており、正面の入口や窓からは見えない場所だった。
 アケノもすぐに、私たちの隠れているほうへと静かに歩いてきた。
(音を立てるな、やり過ごす)
 彼女が耳元で囁く。
 自動機械の足音は、少しずつ迫ってくる。この建物の前の道を歩いているのだろう。震動に、廃墟の天井から、ぱらぱらと礫が降り注ぐ。おそらくはもう、十メートルと離れていないはずだった。
 皆、息を潜めている。
 まばたきをすることすら躊躇われる。

 震動がより激しくなる。足音だけではない。経年劣化のせいか、軋んでノイズ混じりになった音までもが聞こえてくる。奴はもう、この建物の目の前だ。
 と、規則的だった足音が途絶えた。停止したのか。
 感づいたか?
 身を固くし、息を止める。
 再び、足音がしはじめた。去るのだろうか。足音は、歩幅を合わせるような、先ほどより間隔の短いものだった。
 歩幅を合わせるような?
 まずい。
 次の瞬間、至近で爆発が起きたかのような衝撃、そして崩落音。
 私は腕で頭を守りながら、床に伏せる。
 身を起こして見ると、粉塵の向こう、我々がいる建物の入り口は、
 そこに立つのは、自動機械。
 五本指の手のような形をした鉄色くろがねいろのそれは、「人差し指」から「薬指」の三本を使って、直立している。掌にあたる場所に据え付けられた〈複眼〉は、こちらをじっと見つめていた。
「――逃げろ!」
 アケノは裏口を蹴破り、全員、一目散に駆け出した。

 雨は小止みになっていた。だが、濡れた足下はひどく滑りやすい。ところどころ、緑色に苔むした場所もある。瓦礫だらけの廃墟の道を、眼球を捻り回し、足を着く場所を見定めながら、大股で走っていく。
 後ろを振り返る余裕はない。だが迫る機械の気配は、奴の歩幅で三歩もないほどの距離にあるように感じられた。
「路地に入って!」
 アケノの怒号が飛ぶ。先頭を走るゲンが右手に細い道を見つけ、そちらを勢いよく指差した。
 急ターンした瞬間、私は足を滑らせた。とっさに着いた右の掌を、砂利で激しく擦りむく。だが、痛みは感じない。感じている場合ではない。
 簾のように垂れ下がった蔦を手ではね除けながら、路地の向こうに見える光へと、一心に駆け抜ける。
 機械は、ついて来ているのか。私は肩越しに、後ろを見た。
 路地の入り口で、それは立ち止まっていた。狭い路地には入ってこられないようだ。
 だが、「親指」がこちらに向いているような気がする。
 複眼のあたりに、赤い光が灯った。すぐに私の視野は、真っ赤に染まる。
 赤い光が、向けられている……?
 嫌な予感が、する。
 私は慌てて、前に向き直る。路地の五メートルほど先、脇道らしき隙間を見つけた。私は声の限り、叫んだ。
「そこ、左だ!」
 前を走るゲンとアケノは、振り返らぬまま脇道へと飛び込む。私もそれに続く。
 次の瞬間、刃物同士をすりあわせるような金属音が間断なく響き、さっきまで走っていた路地を、姿の見えない何かが駆け抜けていったような音がした。

 撃ってきた。

 全身に鋭利な緊張が、走った。
「くそっ、飛び道具持ちか――」
 肩を擦るほどの細道を一列になって駆けながら、アケノは毒づいた。
「とにかく逃げ切らないと!」
 顔に蜘蛛の巣を浴び、足下の瓦礫にまろびながら、我々は息を切らせて、曲がりくねった路地を縫い続けた。
 しばらくして路地は終わり、大きな通りが現れる。通りの両側に植えられた木々は無軌道に肥え太り、舗装は根に持ち上げられて、完全に引き裂かれていた。
 角から顔を出して、アケノが左右を警戒する。
「よし、いない」
 街路の向こう側には、ゆるやかな一本道の上り坂が伸びている。その頂上には、森が広がっているように見えた。森にさえ入ってしまえば、逃げ切れる可能性は高まる。奴らは瓦礫の道は得意でも、自然の森や林の中になると、極端に機動性が落ちるのだ。
 上り坂の道幅は、自動機械が通れるほどではない。だが、いかんせん見通しが良く、後ろから射撃を受ける危険性が高かった。上りゆえに、逃げ足も鈍る。
 かといって、建物の中に隠れ潜むのはリスキーだった。最初の襲撃からして、奴は隠れていても見破れるようだった。踏み込まれたら逃げ場がない。
 他に逃げ込めそうな場所も見当たらなかった。
「一気に上がるしかないか」
 息の上がりきったゲンの背を叩き、上り坂の頂上を睨みながら、私たちは走る。

 頂上まで登りきった。その先には、木々が密集した森が広がっている。ここに入りさえすれば、自動機械はもう追い切れない。
 森へ駆けだそうとした、そのとき。
「――!!」
 右の方から、乾いた音が立て続けに鳴った。つま先の十センチ先の地面が、弾着に叩かれひび割れる。私は思わず、声を上げて後ろへ飛び退いた。
 奴は、ここと森の間にある横道に、先回りしていた。進む方を読まれていたのか。
「……どうする」
 森に入るまでは数メートル。だが、目の前の見通しのよい道には、自動機械からの射線が通っている。身を出した瞬間に蜂の巣だ。
 機械の歩行音が、徐々にこちらに迫ってくる。後ろの坂に引いたとしても、坂の上に自動機械が現れれば、後ろから狙い撃ちにされる。道の両脇に、飛び込めるような窓や扉は、見当たらない。
 八方塞がりだった。
 と、アケノは穿槍を握りしめ、ゲンと私の前に出た。
「自分がやる。奴の懐に入って、貫く」
「アケノ、無茶だ、いくらお前でも――」
「自分が、何のために来たと思ってる!」
 アケノの一喝。彼女の目に宿る覚悟を見て、覆せないと、私は思った。
「二人は、全力で坂を下れ。別の道から逃げるんだ」
「だが……」
 歩行音が、大きくなってきている。もう、時間がない。
「――済まない」
 彼女に詫び、泣き出しそうな顔のゲンの手を引いて、私は坂の下を見据えた。そしてもう一度だけ、彼女に振り向く。
 アケノは壁に背を付け、槍の切っ先を斜め上に向け、腰を低く構えていた。自動機械が現れた一瞬に、渾身の一撃をたたき込むつもりだ。
 行け、と口には出さなかったが、アケノは顎をしゃくり、私たちを促した。その姿を目に焼き付け、私はゲンとともに、よろめきながら下り坂を駆けはじめた。
 そのとき、悲鳴のような金切り音が、あたりに響いた。自動機械の射撃態勢だろうか。だが私は振り返らず、ただ坂のふもとだけを見て、走り続けた。

 そして。
 薄い鉄板を叩きつぶしたような、鈍い音が後方から響いた。
 まさか――。
 私は、振り返り、見た。

 自動機械の「親指」を、貫く穿槍。
 ――アケノが、やったのか。
 だがアケノは、手にした穿槍を構えたまま、機械の眼前に立ち尽くしている。起きたことが分からない、といった様子で。
 では、あの槍は。
 ゲンが、空を指差す。
 私は、あたりに響き渡る高音が何だったのか、ようやく理解した。

 鈍色のオーニソプターが、空を舞っていた。低空を飛び回る夕刻のコウモリのように、鋭く、素早く。
 旋回から急上昇、そしてその頂点で静止しての、自由落下。
 オーニソプターから放たれた二本目の慣性穿槍は、自動機械の正中を、一閃した。
 急降下穿撃ダイヴ・ピアース
 あの空中機動マニューバは、見間違えることなどない――エナのそれだ。
 エナが、飛んでいるのか?
 だが思い直す。エナが、自然に目覚めることなど。それに、オーニソプターは、集落にはもうないはずだ。
 二撃目によって完全に動きを止めた自動機械を確かめるように、オーニソプターはその周りを何周かした。そのままいったん上昇したあと、私たちの佇む大通りに向かって、高度を下げてきた。
 私の斜め上を飛び過ぎるのは、ほんの一瞬だった。あとには叩きつけるような風が残されていった。
 堪えながら目を開けた瞬間、私は見た。

 ゴウラ爺さん、だった。
 爺さんが、オーニソプターの背に跨がっていた。
 それで同じだったのだ、エナの飛び方と。彼女の師は他でもない、ゴウラ爺さんだ。

 しばらくして、オーニソプターが降りた場所へと、ゲンと私、それにアケノは集った。
 八枚の翼が停止すると、ゴウラ爺さんは体を起こし、ゆっくりと機体の後ろから降りてきた。腰を叩きながら、危うい足取りで。
「爺さん!」
 声を上げ、ゴウラ爺さんへと駆け寄る。ゴーグルを外した彼は、いつもと変わらない、皺だらけで不敵な顔をしていた。
「どうしてここに……それに、このオーニソプターは?」
 その瞬間、爺さんの拳が私の頭を小突いた。
「カイリ、お前ぇ、助けられといて礼もなしか!」
 そうだった。驚きのほうがはるかに勝っていたために、忘れてしまっていた。
「済まない、爺さん……けど、本当に助かった、ありがとう」
 アケノは深々と頭を下げ、ゲンもそれに倣った。
「やっぱり飛んできて正解だったぜ。危ねぇところだった」
「だけど、オーニソプターをどうして?」
 するとゴウラ爺さんは、機体後部に書かれたマークを指差した。カタカナで「ア」の意匠が刻まれていた。
「北のアシカガの集落から、ちょうどオーニソプターが立ち寄ったんだ、俺らのところにな。そこで俺が、こいつを徴発した。なに、これを作ったのは俺なんだ、文句なんか言わせねぇよ」
 ゴウラ爺さんはいつものように、豪快に大笑した。
「さて。お前ら、まだやることが残ってるんじゃねぇのか」
 そうだ。我々は、施設を探し当てなければならない。
 私は爺さんに、地図とゲンの記憶を照らし合わせると、ミツザワかホドガヤがそれらしいと話をした。ゴウラ爺さんは、ジジイをこき使うつもりかと怒鳴りながらも、その二ヶ所の様子を見てくると言ってくれた。ゲンはゴウラ爺さんに、施設の入り口の特徴を説明していた。

 一時間後、ゴウラ爺さんが帰ってきた。
 曰く、ミツザワにそれらしき施設があったということだった。
 爺さん曰く、ミツザワから少しのところに、自動機械の基地のようなものもあったという。だが見たところ、何台もの機械が立ち往生したり、ハンガーの中でくずおれていたりして、動きそうな奴はひとつもいなかったという。まるで機械の墓場みたいだった、とも。
 「あれがあいつらの家なんだとしたら、ちっとばかし、かわいそうな気もしたな」と、爺さんは柄にもないことを言った。
 だが、そうだとしたら。さっきの機械は、ミツザワの最後の一台だったのかもしれない。奴は奴で、この世界に一人きりだと感じていたのかもしれないと、ふと思う。いや、ゴウラ爺さんの妙な感傷が移ってしまっただけだろうか。

 私たちは、古い地図を頼りにして進み、間もなく日が暮れるという頃、ミツザワへとたどりついた。
 私たちが、そしてゲンが探し求めていた施設が、二百年の静寂を越えて、静かに待っていた。

 

◇8◇

 朝靄あさもやが晴れ、凪の水面みなもに光が射す。
 薄橙色の散乱光の中に、静かに海へと進み、そして自ら溺れていく、電柱の隊伍が浮かぶ。その列のはるか先には、吊るべきものを失った二本の橋脚がそそり立っていた。
 岸辺では、欠け崩れたコンクリートの塊が、あるいは錆び折れた鉄筋の枝々が、等間隔に打ち寄せる波紋の中から顔を出していた。波は寄せるごとに、器に水を注ぎ終わるときのような音を立てる。
 朽ち果てた世界で繰り返される、波の揺らぎと響き。
 永遠に続くようなその反復を乱すように、縄で括ったガラスびんを、海面へと下ろした。
 ゆらぎながら浮いていた壜の口から、そろそろと海水が流れ込みはじめる。ひとたび水を受け入れた壜は、もうその流れを拒むことができない。
 注がれた水の重さは、繋いだ縄を伝って、私の身体を海へと引き寄せようとする。
 ふと、カワサキの海の直中ただなかで過ごした晩のことを、思い出す。
 あのときと同じだった。
 たとえ、引き込まれそうな感じがしたとしても、海から目を逸らしてはならないような気がする。

 私は、海を汲む。
 エナの意識を、取り戻すために。

 海へと沈み、ガラスの壁の内外の区別がつかなくなった壜を、ゆっくりと引き上げる。海面を離れた瞬間、壜が急に重さを増す。腰を低くして、その重みに耐える。
 縄をたぐり、引き上げてきたガラス壜を、傍らに敷いた布の上へと置く。灰色の布は、滴った海水によってその色を濃くしていく。
 私は、壜で切り取った海を見る。
 僅かに霞んだ水の中、小さな泡が、容器の中で舞っている。
 この壜の中に、彼女はいるのだろうか。

 私はそうして、十二本の壜に海を汲み上げた。

「これでいいのか、ゲン」
 私はリヤカーの荷台に敷いた布の上に、壜を静かに置いた。
「充分です」
 荷台に上がり、包み込むようにして布で覆いをかけていく。エナ自身を包み込むかのように。
「なあ、汲むのはどこの海でもよかったのか」
 ゲンは頷く。
「汲み上げた海は、あくまで材料に過ぎません。積み木の詰まった箱のようなもので、組み合わせ方によって、作られる形はほぼ無限に変わります。そのひとつの組み合わせのパターン、すなわち〈相〉からですが、それが海の中で意識を描出するのです」
 どこでもいいというのは、彼女がこの海に遍く存在しているということと変わりがない。ゲンの言う理論は分からなくもないが、感覚的には認めづらかった。
「いまひとつ、イメージが湧かないんだが……」
「そうですね……たとえば、僕という人間を特徴づけるものは、いろいろあります。名前はカタセ・ゲン、男、二十三歳、身長一七二センチ、髪が短い、頭に手術の痕がある、〈ツクバ〉出身、などです。
 さて、ここで僕を特定しなくてはならないとします。そうなったとき、男である、というだけの要素では、特定は不可能でしょう。要素を二つに増やして、男と〈ツクバ〉出身としても、おそらく何千人が該当します。けれど、さらに要素を追加していくと、それはしだいに、僕だけの組み合わせになっていきます」
 意識の場合は、とゲンは続ける。
「名前、来歴、口癖、好物、思い出、考え方。そうしたものが、その人の意識を形成します。そうしたその人固有の〈偏り〉こそが、意識の本質だと、僕は考えています」
「それらがコード化された〈相〉さえあれば、どこの海でもいい。そういうことなのか」
 ゲンは頷いた。
 分かったような気はする。
 けれどやはり、エナが落ちた海を、汲みたかった。
 つまらない拘りかもしれない。だがそのほうが、彼女が可能性が高いような気がするのだ。

 リヤカーの引き手をまたぎ越して、引き手を掴む。力を込めて押し出すと、自然と体が前傾した。
「――重い、な……」
 後ろからゲンが押してくれているはずだが、百リットルの海水の重さは相当のものだった。踏み込んだ足下が、砂利で滑る。
「ミツザワの導水設備が……動けば、よかったのに……」
 荷の重さに音を上げながら、ゲンは少しうらめしそうに言った。
 〈ツクバ〉近傍の施設同様、ミツザワでも、施設に向かって海を引き込むための導水管が伸びている。だが、導水管は何かが詰まっていて、動かないのだと言う。しかし、意識の〈相〉の結晶化は、海から切り離した水でも、問題なく行える。モニタリング施設と海は、同期を取る手段を有していると、ゲンは話していた。
 それに、この重みこそ、私にとっては手応えであった。身体感覚があるほうが生き物なのだろう、人間は。

 ミツザワまでは、やや遠回りながら、ゆるやかな上り坂を選んで行った。ミツザワの海抜は海面上昇前で約四十メートル。ゲン曰く、現在の海面は、かつての海抜ゼロから十メートルほど上がっているという。
「〈ツクバ〉にいたころに調べたのですが、このペースでの海面上昇は、地球の歴史上ありえないほど早いものです。大気中の二酸化炭素の増加による温室効果だけでは、説明がつかないのです」
「だとしたら、何が起こっているんだ」
「おそらく人為的な海水面の上昇、たとえば極地の氷の融解が続けられているなどが考えられます」
 極地の氷というと、北極や南極で、誰かが氷を溶かし続けているというのか。
「できるのか、そんなこと」
「カイリさん、人工衛星はご存じですか」
「知ってるよ。地上からずっと高いところを飛んでるんだろ」
「その人工衛星が、巨大な凹面鏡を形成し、極地に太陽光を収束して浴びせているという説を考えていました、僕らは」
「そうなのか」
「直接的な記述は見つかっていないのですが、偶然見つかったとある古い資料に、間接的な証拠がありました。それが正しければ、大きく間違ってはいないはずです」
 やたらにスケールの大きい話だった。だが、海面を上昇させて何のメリットがあるのだろうか。
「それも、二百年前の人類がやったことなのか」
「おそらくは」
 昔の人類の考えることは、さっぱり分からなかった。

 ミツザワにたどり着いた。
 施設の入り口から内部へと下る緩やかなスロープは、リヤカーを引いたままでも随分と余裕がある幅だった。施設では自家発電をしているらしく、空色に塗装された廊下の壁は、煌々と照らされていた。
 壜を積んだリヤカーを、たどり着いた広間の片隅に停める。広間には、それぞれの部屋に繋がる扉が五枚あった。ゲンは中央の扉へと向かい、「用意できたら声をかけます」と告げると、自動で開いた扉の中へと消えていった。その先には、海から意識を取り戻すために必要な設備が並ぶ機器室だという。
 私は、右から二つ目の扉の前に立つ。左右に割れた扉の間を抜けて進む。薄暮のような明るさの短い廊下に、靴音がこつこつと響きわたった。部屋へとたどりつくと、そこにはサカムラ先生が立っていた。
「やあ、カイリ。海は汲めたか」
「はい、汲み終わりました。ゲンが機器を起動したら、さっそくはじめます」
 我々がミツザワにたどりついた後、ゴウラ爺さんはオーニソプターで集落へと帰り、モニタリング施設確保の一報を伝えた。知らせを聞いたサカムラ先生は、エナの回復作業に携わる者達と何人かの護衛を連れて、ミツザワへとやってきたのだ。
「ほら」
 先生が指したほうには、仮設の寝台が一つ。
「彼女も一緒だ」
 エナが、眠っていた。
 海に落ちて集落へ戻ってきたときと同じ、安らかな表情のまま。
 彼女は先生らに運ばれ、こちらへ送られてきたという。
「エナ……」
 頬を撫でる。彼女の体は、変わらず温かい。
 エナの左手の甲には、点滴が打たれていた。点滴は、今の地上では大変な貴重品だった。地下都市から誰かが持ち出してくるか、あるいは何らかの理由で崩壊した地下都市を探索する者たち――山師ディガーと呼ばれている――が発見したものを、その交易ルートを通じて、貴重品や労役との交換で手に入れるか、そのぐらいしか手段がない。私が見つけ出した機械などと交換することもあったし、先生は治療の対価として、いつも山師たちから点滴や薬品を受け取っていた。それを惜しみなく使ってくれていることに、感謝の言葉もない。
「先生。彼女は、あと――」
 聞きたくないことではあった。だが、聞いておかなくてはならない。
「残りからして……三日だ。申し訳ないが、集落のこれからもある。点滴や薬剤の在庫を全部、はたいてしまうわけにもいかない。それは理解してくれ」
「……分かっています」
 先生は、数多の命を背負う者の顔をしていた。だが命の選別への覚悟に、表情は曇っていた。
 三日、か。
 ゲン曰く、意識を引き戻す一連の処置は、最後の開頭手術を含めて五、六時間ほどだという。つつがなく運べばよいが。うまくいくことを、祈るしかない。

 広間に続く扉が、静かに開いた。
 ゲンが立っていた。
「起動、できました。はじめましょう」

 

◇9◇

 ゲンの先導で、機器室へと向かう。エナを四人がかりで、抱えて運ぶ。彼女は細身だが、四人で抱えていても重みを感じる。ここにいる皆は、ミツザワまでの遠い距離を、エナを抱えて運んできてくれた。頭が下がる思いだった。
 機器室の扉が、圧縮空気の解き放たれる音とともに開く。内部は、白光に明るく照らされている。想像していたよりも、はるかに広い。同じ形をした機器が何百台も並び、部屋を埋め尽くしていた。合わせ鏡の像のように機器が整然と置かれている風景は、どこか不気味でもあった。
 これほどの台数があるのは、なぜなのか。かつて何らかの処置を、ここで一斉に行っていたのだろうか。
 そのうちの一台が、自己主張するようにランプを明滅させていた。人の背ほどの高さをした、灰白色の円筒状の機器、正面に据え付けられた画面とターミナル。右手には、ちょうど人が入る程の大きさをした、蓋が開いたままの棺桶のような浅い箱。そして左手には、透明なガラス製の、水槽のような円形容器。中央の機器の基部をよく見ると、〈二一〇八一〇二二納入〉と刻印が入っていた。
 これがゲンの言っていた、意識の引き戻しに必要な機械、か。
 ゲンはターミナルを叩き、画面表示を眺めつつ言った。
「二十五台目で、やっと起動したんです。もしかしたら全部死んでいるのかと思って……」
 施設は年月を経ても健在であるように見えたが、確実に劣化は進んでいるようだった。

 我々は、右側の箱の中にエナをそっと寝かせる。すると箱の内壁からは、自動的に頭部に向かって、南天の枝のような、先端にいくつもの小球がついた端子が延びてきた。
「そうしたら、海水を左の水槽に入れてください」
 壜の蓋を開け、下から抱え込むようにして持ち上げる。私に続いて、他の皆も壜を掲げ持ち、水槽へと海水を注いでいく。四方から寄り集った滝のように海水が流し込まれ、その表面に白みがかった泡を生む。
「では――はじめます」
 深呼吸したゲンは、手元のターミナルを打鍵する。
 それに伴い、画面の表示が切り替わる。
 私は、ゲンが操作する画面を、彼の肩越しに覗きこんだ。次々と現れる文字は、意味を解せるかどうかは別として、読むだけは読めるものだった。

〔1 識憶相変換(遷移)処理   識憶相逆変換(復帰)処理   その他の処理〕
〔2 識憶相逆変換(復帰)処理〕
〔識憶相の逆変換(復帰)を行いますか〕
〔はい/いいえ〕
〔はい〕
〔法令に基づく警告:識憶相の逆変換に伴い生成される媒質結晶は、外科的処置により移植する必要があります。識憶遷移に関する国際条約ならびに関係法令に規定された有資格者の立会がない当該処置の実施は固く禁じられています。有資格者の立会を徹底してください。〕
〔確認〕
〔媒質槽の充填状況を確認〕
〔媒質槽充填率、九七.〇一%〕
〔識憶相復帰対象の固有コード検証中〕
〔固有コード読取開始〕
〔注意:識憶遷移における識憶相逆変換(復帰)の経過措置に関する特別法施行規則に規定された身体の保存期限を超過した固有コードの使用は、処理中に問題が発生する可能性があります。保存期限を確認してください。〕
〔確認〕
〔読取終了〕
〔固有コードに対応した識憶相構成素パターンの検索開始〕
〔エラー:xx07A1 識憶相構成素パターンの合意状況不明〕
〔警告:固有コードに対応した媒質内の識憶相構成素が相互合意を図っていないため、識記相の逆変換(復帰)はできません〕
〔検証終了〕
〔処理終了〕

「――えっ」
 ゲンが、息を詰まらせる。
 彼の目は見開かれ、瞳は泳いでいる。
「おかしい……そんな……」
 そう呟く。彼は画面を凝視しながら、先ほどまでよりも荒く、ターミナルを叩いていた。再び、先ほどと同じ画面が現れる。ゲンは全く同じ操作を繰り返す。

〔エラー:xx07A1 識憶相構成素パターンの合意状況不明〕

 同じ表示が、そのたび現れた。
「これは……何が?」
 私の呟きに振り向いた彼の顔は、蒼白だった。目に見えて、彼の両手はおののいていた。私は彼の両手首を掴み、震えを止めようとした。
「落ち着け、どうしたんだ」
「――だめなんです。エナさんの〈相〉が、読み取れません……」
 そこまで呟くと、ゲンは吐瀉物を吐くかのように、肺腑の奥から息を漏らした。見ていた皆にも、動揺が広がる。
「ゲン、他の端末ではだめなのか」
 サカムラ先生はしゃがみ、ゲンの顔を覗いた。だが彼は、何かを振り払うように幾度も首を動かした。
「教えてくれ。何が起きているんだ」
 ゲンは虚空を見つめたまま、弱々しい声で言う。
「エナさんは――海の中のエナさんは、おそらく、ひとりきりなんです……」
「ひとりきり?」
「海の中には、何十億という人間の意識の〈相〉が存在しています。でもエナさんは、その誰とも関わり合いを持てていません……他の人間から認識されないような、未知の場所に留まっているのか……」
 と、サカムラ先生はゲンの肩に手を置いて、落ち着いた声音で問いはじめた。
「済まないがゲン、原理がわからず、少しばかり混乱している。仕組みから聞かせてくれないか。前に君は、海は意識を蓄積していると話していたが、それと関係あるんだね」
「……はい」
「その蓄積された意識の一つひとつは、一人ひとりの人間が有していた意識の〈相〉であると考えていいのかな」
「その通りです。〈相〉は海の中に溜め込まれていきます。〈相〉は海の中で、海の媒質を構成する数十種類の材料の組み合わせで描出されています」
 ふむ、と先生は唸る。
「では、海はいったい、その溜め込んだ数多の〈相〉を使って、何をしているんだろうか」
「それは――目的は定かではありませんが、海の中で何が起きているかは、分かっています」
 そう言うとゲンは立ち上がり、「あれを」と指差した。機器室の最も奥、何百台とある端末とは別の形をした、大型の機械に向けられていた。それは壁面に埋め込まれており、巨大な画面とターミナル以外に、何の外部機器も付されていなかった。
 私たちは、機械の前まで進み行く。ゲンが起動を試みると、それは素直に動きはじめた。彼は安堵の息を漏らす。
「これは、海の内部をモニタリングする機器です。〈ツクバ〉近傍の施設にもこれはあり、僕らはこれを通して、海の中を覗いていました」
 ゲンは打鍵し、画面の内容を切り替える。
「海のすべてを理解できたわけではありません。ただ、その枢要な部分については、一定の理解ができたと、僕たちは考えていました」
「それは?」
 私は続きを促した。
「海は、その内に蓄積した意識の〈相〉同士の合意を図り、その演算結果を算出しているのです。ただそれは、単なる加減乗除のような計算ではなく、海自体に、その合意に係る調停機能が備わっています」
「だとすると君たちは、海が演算装置だと、そう考えたのかい」
「たしかに、演算機能は備わっています。ただ、それは海の本質ではありません。ここから先は憶測に過ぎないので、いままで人に話したことはないのですが――」
 サカムラ先生は、それでも構わないとばかりに、ゆっくりと頷いた。
 ゲンの手元が、素早く動く。
 画面に途方もない数の光点と、それを結ぶ線が現れた。一つひとつの線をよく見ると、片側から伸びる色と、もう片側から伸びる色が、中間で混ざり合い、新たな混色を作り上げている。それはおそろしく複雑に絡み合った、サイケデリックな綿毛の集合体にも見えた。
「海には、何十億という数の人類が、溶け込んでいます。そして、相互の主観意識同士を合意、まさにのですが、それによりを構築しているのです」
 何十億の、人類? それが海で、世界を作っている?
 まさか、と思う。
 だが、今はそれを考えているときではない。エナを救う方法を見いだすほうが、先だ。
「ゲン、間主観性とは?」
「それぞれの人間の意識は、主観的でしかありません。けれどその一方で、世界には別の主観を持つ他者が存在します。そうした、主観どうしが存在する世界の中で、その間に生まれる合意、とでも言えばよいでしょうか。カイリさん、前にカワサキの海の上で話したこと、覚えていますか」
「あぁ、覚えてる」
 人間は、互いに舫い合っている、それが自分以外の世界の実在を担保しているのだろう、と。
 彼は続ける。
「それと同じです。海の中は、溶け込んだ意識の主観どうしを調停演算することによって、純粋な合意によって生み出された世界だと、考えています。それは過去に提示されたシミュレーション仮説のような、海が、街のようなを作った中に人間を住まわせている、ということでもなさそうなのです。言うなれば、海に溶け込んだ人類が、皆で見ている夢のようなもの、だと」
 海の中に、別の世界がある。容易に想像しがたいことだった。
 そしてエナはいま、その世界にいる。
 けれど。
「エナは、その夢の中で――ひとりきりなのか」
「そう、なります」
 ゲンは深刻な表情だった。
「〈相〉の検出は、合意発生のタイミングでしか、行うことができないようなのです。エナさんがこのまま合意を起こさなければ、彼女を見つけ出すことは……」
 みな、押し黙っていた。
 サカムラ先生は顎に手を当てたまま、ずっと唸っていた。
 が、その唸りが、止んだ。
「個々人の主観意識の〈相〉どうしが合意して、その調停結果が算出されているなら、だ。そこから、どの〈相〉と〈相〉が合意しあっているのか、逆算して、特定することはできそうかな?」
「はい、できます」
 ゲンは確信に満ちた顔で頷く。そして間を置かず、それは驚嘆の顔へと一変した。
「――もしかして」
「そうだ」
「先生、ゲン、どういうことなんだ」
 私は二人の顔を、かわるがわる見た。
「カイリ、いいか。たとえば七に三をかけると答えは二十一だろう。ここで、二十一という結果と、かける前の数字として七だけが分かっていたとする。そのとき、もう一つの数字が何だかは、当然逆算できるね」
「三、です」
「そう。それと同じことだ。すでに判明している意識の〈相〉と、未知のエナの〈相〉が合意した結果が分かれば、エナの〈相〉が逆算できる、ということだ」
 ならば。
「それが分かれば、エナを――」
 ゲンは頷き、先生は笑みを浮かべた。

 すると。
 ゲンがそっと、手を挙げた。
「意識の〈相〉同士が合意できるのは、海の中だけです。そしてエナさんと〈相〉を合意させるのは、〈相〉が既に分かっている人でないとなりません」
 だから、と彼は呟き。
「僕が行きます。僕はすでに〈相〉が登録されている。それに、エナさんに命を助けられた――借りがあります」
「ゲン……それは、自分から海に飲まれる、ということになる」
「覚悟の上です。エナさんを見つけて〈相〉が分かったら、エナさんと僕に、復帰処置をしてください」
 エナを見つける手段は分かった。だがそのためには、海に入らないとならない。それは濁流に溺れた者を救うために、自ら濁流に飛び込むようなことに思える。
 ゲンにその役目を、負わせてしまっていいのだろうか。
 ふと、思う。
 海の中で、どうやってエナを見つけるのか、と。
「ゲン、海の中で人捜しは、簡単にできるのか?」
 彼は、急に渋い表情を浮かべた。
「正直に言えば、難しいです。海の中は、おそらく現実世界のように広いでしょう。何よりエナさんは、他の人との合意状態にありません。だからすぐに会えるとは思えませんが……でも、やるしかないんです」
 出会えなければどうしようもない、ということか。
 私は、エナの延命措置に残された時間を思う。ゲンが探し続ければ、いつか彼女に出会えるかもしれない。だが、そのために無限の時間が許されているわけではない。
 だったら。
「私が行く」
 そう、告げた。
「エナのことは、私がよく分かってる」
 海の中にいるエナのことを思う。
 彼女はいま、海の世界のどこで何をしているのか。それを知っているわけではない。
 皆目、見当もつかない。
 だけど。
 きっと私なら、エナに会える。
 そう思う。
 そう思うしか、ない。

 海に入ることは、とてつもなく怖い。
 目を覚ましたあとの世界が、眠る前の世界と同じ確証なんて、ない。
 何より海の中は、完全なる「別の世界」だ。
 海という得体の知れないものに、自分の意識を委ねたとしたら。
 私はこの海の外に、つながりを持ち続けることはできるのだろうか。
 もし戻ってこられたとしても、それは元の世界なのか。
 怖い。
 恐れが、私を襲う。

 それでも。
 私はエナを、助けたい。
 助けなくては、ならない。

 絞り出すように、言う。
「ゲン。私を海に、送ってくれ」

 私はエナを、汲み上げる。
 この海から。

 

◇10◇

 海に入るための準備が、着々と進んでいく。
 私の〈相〉の登録も完了し、海に潜る用意は、できた。だが、エナに残された時間を思うと、一刻一刻が焦れてたまらなかった。

 機器の傍らの、〈棺桶〉の中に横たわる。
 頭に何かが触れる感じがする。端子が接しているのだろう。
 上から、サカムラ先生が覗き込む。
「カイリ、もうすぐだ。心の準備はいいね?」
「はい」
「怖くはないか」
 怖くないわけが、ない。
 これでこの世界との繋がりが、終わってしまうかもしれないのだから。
 その恐れを振り払うように、私は無理に、笑顔を作った。先生は、すべてを理解したような顔をして、ゆっくりと首を縦に振った。
 すると、先生と入れ替わりで、ゲンの顔が現れる。
「海の中に入ったら、やっていただきたいことはひとつです。エナさんを、見つけてください」
「あぁ」
「接触に成功すれば、こちらでもエナさんの〈相〉の逆算ができます。それが完了次第、カイリさんとエナさんを、海から引き上げます」
「分かった」
 ゲンの顔が退く。
 私の視界に残されたのは、空色をした天井だけだった。

 打鍵音が続く。
 それとともに、機械が唸りを上げはじめた。
 箱の内壁から現れた器具に、私の両手、両足、腹部、首元が固定される。肌に触れる金属の冷たさに、一瞬、身を震わせる。
 身動きができない、恐怖感。
 もうすぐ私は、海に飲まれる。
「カイリさん、間もなく注水がはじまります。海水に覆われるとすぐに、意識は海の中に移ります」
 ふたたび、ゲンと先生が、こちらを覗き込む。
「必ず、エナを見つけてくるんだ」
 首を拘束されて頷くことのできない私は、短く、しかし力強く、はい、と答えた。
「こちらのことは、任せてください。必ず、引き戻しますから」
「頼んだ、ゲン」
 そう口にした、次の瞬間。
 足下から、流水の轟きを感じて。
「――!!」
 反射的に息を止めたが、その勢いに抗えず、口から、鼻から、容赦なく海水が流れ込む。
 苦しい。
 だが、身じろぎしても体は動かない。

 溺れ……!
 水を……止め――。 
 ――――。
 ――。
 ――――――。

 私は、水の中に浮かんでいた。
 ここが――海の中か。
 抵抗を感じながら、手足を動かす。だがすぐに、枷を取られたように手足は軽くなる。
 はじめから水なんて、なかった。

 私は、立っている。
 私は、日射しの下にいる。
 あたりを、見回す。足下には舗装された地面が、目の前には人混みが、頭上にはこちらを覗き込むように林立するいくつもの建造物が、あった。
 雑踏のざわめき。色も形も異なる衣服を着た人間が、四方八方から現れては、ぶつかることすらなく、まためいめいの方向へと消えていく。その流れは川の水のように、どこからか押し出されて来て、絶えることがない。
 これほど多くの人間を一度に見たことはない。前に進もうにも、動き交わる人垣を目で追い、卒倒しないよう立ち尽くすだけで精一杯だった。
「……涼しいな」
 気温が、やや低いような気がする。
「だが、これは――」
 この街からは、草や土の香りはしない。かわりに、日に晒した煤塵を鼻に押しつけられたような、嗅ぎ慣れない、しかし不快なにおいがする。
 口元を押さえ、覚悟を決めて、人波の中に身を投じる。右から左からぶつかられ、舌打ちされ、不愉快な視線を向けられる。目を塞いで身を縮め、この濁流の中から出ようと、前へ前へともがき進む。
 人波から吐き出された私はよろめき、そこにあった鉄柵を掴んで、かろうじて立ち直った。息を整え、ゆっくりと体を起こして、振り向く。人波は変わらず、途絶えていない。
 こんな場所に、エナがいることはないだろう。彼女は誰とも合意し得ない場所にいるのだから。
 私はあてもなく、あたりを見回しつつ歩きだした。
 一部の隙もなく敷き詰められた石畳の道。建物の外壁、ベンチ、街灯。どれもこれも、作られて間もないかのように新しい。整然と植えられた路傍の花は、少しの憂いもなく咲き誇っている。
 突然、私の脇を、小さな子どもがはしゃぎながら走り抜けていった。驚いて、私は身をよじって子どもを避ける。と、後ろの方から、「すみません、うちの子が」と声がした。振り向くと、そこには若い男女が立っていた。夫婦、だろうか。子どもはふたたび私の横をすり抜けるように走り、二人のもとへ戻っていく。夫とおぼしき男性は、私に軽く会釈をしたあと、子どもの手を取り、去って行った。

 私は、眼前の高架の上に目を移す。
 大きな箱状のものが連なって、無音のまま滑るように移動していく。あれは、無軌条鉄道。かつて、都市と都市を結んだ移動手段。動いているところを見るのは、はじめてだった。
 人類が消える前のことを調べている中で、あの列車の写真も出てきた。思えば、街の風景も、二百年前の地上を写した資料と、雰囲気が酷似していた。
 ここはまるで、二百年前のまま時が止まった世界のようだった。

 彷徨うまま、高台にたどり着く。すぐ目の前は崖のように切り立っていて、その向こうには、ひしめき合った建物が、どこまでも続いている。
「あれは――」
 遠くに見える、螺旋状に渦巻き、天頂を指し示すかのようにそそり立つ、白い塔。
 その形には、見覚えがある。
「〈錆びた角〉、か」
 私の記憶の中の〈錆びた角〉。それは赤茶に錆びきって、傾き、水の中に飲まれていた。しかし、目に映るそれ――〈スピラリス・トウキョウ〉――は、腐蝕の影すら見当たらず、大地から堂々とその身を立てている。朽ちる前の姿なのだろうか。

 私は気づく。あれが立っているということは。
 ここはトウキョウだ。
 だが、ありとあらゆるものが、私の知っているトウキョウとは違う。
 二百年前の、トウキョウ。
「これが間主観性、世界――」
 この街も、あの白い塔も、何もかも。
 海の中にいる人間の、主観同士の合意から、作り上げられたもの。

 憶測が、確信へと変わる。
 二百年前。
 人類は、自ら海の中へと入ったのだ。
 そして海の中に、かつて見ていた世界を、間主観的に再構築した。
 いまの私は、二百年前の人類とともに、再構築されたトウキョウを見ている。だがそれは、私の知っている廃墟のトウキョウとは、大きく違う。
 それは二百年前に描かれた、不滅への願望。
 永遠に終わらない、夢。
 この海に溶けた、二百年前の膨大な主観意識の前に、私の知っているトウキョウは〈調停〉され、すり潰されてしまっている。
 いや、わずかながら私の主観は反映されているのだろう。どこかが錆び、どこかが崩れ、どこかが蔦に覆われているかもしれない。だがそれは、あったとしても小さすぎて、区別がつかない。
 世界は確かに、目の前にある。しかし世界が、私と結びついているような気が全くしない。
 ここは私の居場所ではないと、直感的に思う。
 ならばそれは、エナにとっても同じことだ。

 私は、思い出す。
 ゲンが言っていた、「他の人間から認識されないような、未知の場所」という言葉。
 そうだ。
 エナはきっと、あの場所にいる。

 私は走り出した。走り出すのを、止められなかった。
 街路の看板、地図。記された文字を読む。私の脳裏にある、廃墟のトウキョウの地図と、それを結びつける。ありとあらゆる情報が、私の行く手を示す道標となる。そう、ここはトウキョウだ。時代は違えど、場所は存在する。
 立ち並ぶ擁壁のようなビルの列を抜けると、視界が開けた。その先には、灰色の巨大な直方体、迫り立つ岩塊のような建造物が見えてくる。
「――見えた」
 巨大建造物メガストラクチャーの壁面には、巨大な文字で「新宿駅」と記されていた。間違いない。エナと私が連れだって昇っていた、あの建物だ。二百年前でも変わらず、それは鎮座していた。
 そのまま、巨大建造物メガストラクチャーのふもとを駆け抜ける。私の知っているトウキョウならば、ここは深い森となっているはずだ。だが海の中の世界では、人の手によって美しく整備された公園だった。ここに植えられた木々が繁茂し、二百年経って、あの森を形作っていたのだ。
 ここを過ぎれば、目指す場所はもう間近だった。

 石の彫刻が目に映る。平たく円い石から、太陽のような形をくり抜いたもの。「スカスカになったキュウリの断面」、エナと私がそう呼んでいた彫刻。見慣れたものを見つけたことに、私は安堵感を覚える。
 その「キュウリ」の、すぐ後ろ。
 私は、記憶をたどる。廃墟のトウキョウで幾度となく見ている景色の記憶を、主観に投影する。
 そう、、壁は崩れていた。その隙間からは、細い路地が奥へと延びていた。
 私は路地に足を踏み入れ、歩み進む。
 その場所を、目指して。

 

◇11◇

 日射しは、眩いばかりの輝きに溢れているのに、彼女の背中は寂しげだった。
 その足下には、夜明け前の東の空のような、あるいは遠く透き通った海面のような青をした花が、一面に咲き誇っていた。
 彼女は呆然と、その中心に佇んでいた。

 人ひとりがようやく通れるぐらいの路地から、石造りの建物の合間にぽっかりと空いた、十メートル四方の中庭へと歩み出る。周りを囲む赤煉瓦の壁は、古びたガラス窓にいたるまで、すべて碧々あおあおとしたつたで覆われていた。生気に溢れた蔦の濃緑色は、庭を埋め尽くす花々を欲さんと、こぞって手を伸ばすかのようだった。
 花の薫りを乗せた風が吹き寄せる。その風とともに、彼女の視線はこちらに向けられた。
 振り向きざまに揺れた長い黒髪の先が、小さく波打つ。真白の肌、引き結ばれた口元、涼しげな横顔。凜とした相貌の中で、虚ろに揺らぐ瞳。
 私は、彼女を見る。
 彼女は、私を見る。

 〈相〉の合意。
 孤独の、終わり。
 私たちは、互いをつなぎ止めた。

 彼女は無言のまま、私は無言のまま、互いに歩み寄る。
 総身で、その実在を確かめ合うように、互いを抱き寄せる。
「エナ――」
「怖かった――カイリ」
 私の体をひしと抱きしめたエナは、本当に、ほんとうに悲しそうな顔で言った。
「誰もわからなくて……ここしか知っているところがなくて……」
 頷く。それは私も、同じだった。
 だからこそ、エナがここにいると確信できた。
 エナと私だけの花園。
 海の中の世界できっと、二人だけが合意できる、唯一の場所。
 顔を寄せて咽ぶ彼女を、抱き留める。胸元に吐息の、染み通る涙の、熱さを感じる。
 
 エナが少し落ち着いたころ、私は彼女の手を引いて、煉瓦の壁に歩み寄る。そのまま壁に背を預けるように、並んで座った。
 二人で同じほうを向いて、同じ景色を見ている。
 そう、同じ世界を見ている。
 エナと、私で。

 眼前に広がるのは、青く咲いた花の絨毯。
「エナ、ネモフィラが咲いてる」
「合ってるのかな、ここに」
「涼しいから、かもしれないな」
 廃墟のトウキョウは暑すぎて、ネモフィラは枯れてしまった。けれどこの場所では、鮮やかに花開いていた。咲くべき気候、咲くべき世界で。
「きれい、だね」
 エナの顔に、かすかな微笑みが差した。
「ほんとうに、空みたいな色――」
 空。
 エナの憧れた空の、色だった。

 そのまま二人でずっと、中庭に拓けた蒼穹を、眺めていた。

「なあ、エナ――」
 隣を向くと、彼女は、姿を消していた。

 そうか。
 引き戻されたのだ、エナは。海の外へ。
 もうすぐ、私の番が来る。
 心構えのかわりに、ゆっくり瞼を閉じようとした。
 けれど、いまふたたび、目を開けた。
 ネモフィラの咲いた花園を。
 そして、空に似たその花の色を、覚えておきたかった。

 その刹那、世界が連結されたような音がして。

 私には、ネモフィラと同じ空色をした天井だけが、見えていた。

 

◇12◇

 頭の縫い跡に、引きつるような痛みを感じる。抜糸が済んでもう五日経つが、時折傷が疼く。それはエナも同じようだった。私の目を盗んで、側頭部に手を伸ばそうとしている。
「だめだ」
「でも、傷がかゆい」
「触るなって言われてるだろう、先生に」
 渋々手を下げ、代わりに口を尖らせる。
 彼女の髪型は、私とだった。
 二人とも、前頭葉表層への意識結晶埋め込み手術のために、頭髪を剃られていた。長い髪を失ったことを、エナはきっと残念がるだろうと思っていた。だが彼女は、渡された帽子をかぶることもなく、五分刈りの頭のまま、普段通りに過ごしている。
 サカムラ先生曰く、二人とも予後は良好だという。傷の痛みやかゆみはやむを得ないが、それ以外の違和感を覚えることはなかった。
 もちろん、自分自身の意識に引っかかりを感じるようなことも、ない。

 私たちは昨日、ゲンやサカムラ先生たちとともに、集落へ帰り着いた。復路は相変わらずの廃墟と森に覆われた、楽ではない道のりだった。けれどもこの見慣れた世界は、不思議と心を落ち着かせる。この世界はきっと、私と繋がっているから。
 私が海の中にいたのは、ほんの六時間ほどだったという。ゲンが言っていたとおり、海の中のことは、夢を見ていたように感じられる。
 こちらに戻ってきたとき、横の寝台には眠るエナの姿があり、私の横にはゲンとサカムラ先生が立っていた。そのとき、私は確信できた。ここは海に潜る前と同じ世界だ、と。かつて感じていたような、世界が変わってしまっているのではないかという恐怖は、すっかり消えていた。
 彼らはエナと私を、この世界につなぎ止めてくれていた。
 彼らの主観において、認識し続けてくれていた。
 そう考えると、海の外のこの世界も、海の中の間主観性世界と、本質的には変わらないのかもしれないと思えてくる。互いに合意される主観こそが、互いを世界に舫い続けるのだから。
 だからもう、独我論を怖れる必要は、ないのかもしれない。

「カイリさん」
 入り口に立つ影が、私を呼ぶ。
 厚手の布地のジャケットに、ややだぼついたパンツ、それに編み上げのブーツ。彼の装いは、集落の衛士レンジャーのものと同じだった。
「ゲン、もう行くのか」
「はい」
「そうか。もっとゆっくりしていけば――」
 そう口にして、それは彼にとって望ましいことではないのだと、思い直した。
 彼は〈ツクバ〉に戻るのだ。海に飲まれて意識を失った彼の仲間を、引き戻すために。〈ツクバ〉に帰り、仲間を連れてふたたびこの集落を訪ね、そこからミツザワの施設へと向かう。
 長旅となる。
 ゲンは、衛士になったわけではない。衛士の服は丈夫で動きやすく、森や廃墟の中での活動に適している。旅のためにと、集落からゲンに贈られたものだった。
 彼はエナの前に歩み出る。そして、深々と頭を下げた。
「あなたに助けられなければ、僕は何も為すことなく、この世を去っていたでしょう。本当に、ありがとうございました」
「もう、これ何度目……いいかげん恥ずかしいよ……」
 エナは後ろ手になり、所在なげに天井を見た。エナの意識が戻ってから、ゲンは何度、彼女に礼を述べていたことだろうか。だが、ゲンがいなければ、エナが帰ってくることもなかった。お互いさまだと、エナもよく分かっている。
「ゲンさん……お友達を引き戻すの、わたしも手伝うからね」
 そう言って、エナはゲンの手を握る。ゲンは再び、頭を垂れた。
「今度は、ゲンの番だ。仲間がみな戻るときまで、私は付き合う。必要なことは何でも言ってくれ」
 ゲンは目を見開き、力強く首を縦に振った。
「では、そろそろ行きます」
 踵を返したゲンに隣り合って、私は歩き出す。エナも、墜落で折れた左腕をかばいながら、すぐ脇についてくる。
 私は、ゲンの頭の縫い跡を、そしてエナの頭の縫い跡を見る。
 三人とも頭に、同じ傷がある。海から汲み上げられたときの傷が。この傷が三人を結びつける紐帯であるような、そんな気がした。

 集落の際を目指して、私たちは歩く。
 私はゲンに語る。海の中で考えたことを。
「思ったんだ、海の中は二百年前のままで静止している、と。二百年前の人類はおそらく、自ら海に入ることを選んだ。そしてその人類の主観によって、海の中の世界が形作られたのだろうと」
「僕も、そう考えています。ウイルスによって繁殖能力を喪失した人々は、人類存続の望みを、海の中に意識を移すことで果たそうとしたのでしょう。そうやって人々は、海がある限り、永劫に続く存在になったのだ、と」
 そのために、自らの生存圏である海を拡張し続ける手立て――海水面の上昇――をも講じた。海が干上がる日を遅らせるために。
「意識を蓄える媒質を流しこんだことで、海の生物のほとんどは死に絶えました。たとえ海に生存圏を移そうとも、人類が地球を変え続けることに変わりはありません。そう、人新生は終わらないんです――」
 人新生アントロポセン。人類によって、もはや不可逆的な形で変えられてしまった地球に刻まれた、新たな地質年代の定義。そう、ゲンは言っていた。
 海はこれからも拡張を続け、地上を飲み込んでいくだろう。私たちの集落も、そう遠くないうちに海に沈む。きっと我々は、海から逃れながら生きることになるのだろう。
 いや、あるいは。
 いつしか地上の人間が、海へと溶ける決断をする日が来るかもしれない。

 だが、どちらの形を取ったとしても。
 人類は、互いを結びあい、世界につなぎ止めようとする存在であることに、変わりはない。
 皆、ゲンを見送りに、集落の外れに集っていた。
 集落の境界を示す彫像は、はるか北東、〈ツクバ〉の方角を指差している。
 荷物を乗せたリヤカーの傍らには、穿槍を手にしたアケノが立っていた。彼女はゲンの道行きに、同行を志願したのだった。
 ゲンは大きく手を振った。私とエナも、彼に手を振り返す。
 そうして彼は、旅立った。

 願わくば、結ばれた舫い綱が、彼を漂泊の海に投げ出すことなく、この世界に留めんことを。
 〈了〉

 

文字数:46850

内容に関するアピール

物語は、書き手が自由に創造しうる世界です。

けれどそれは、読み手により、はじめて現前しうる世界でもあります。

それは、書き手と読み手が、同じ世界を異なる観点で共有しようとする営み、言い換えれば、書き手と読み手の主観を、物語を通じて摺り合わせることです。
講座がはじまるとき、プロフィールに書いた、「箱庭の如き自身の妄想に留まらず、物語を他者と共有する意味」を見出す、ということ。

それに対するひとつの答えが、『海を汲む』において、「間主観性世界」や「舫い綱」のモチーフとして現れたのだろうと、書き終えたいま、思います。
書き手の意図を超えて、読み手により完成される物語世界。

その世界によって、どんな面白いことができるのか、これからも考え続けます。

文字数:318

課題提出者一覧