あるはずないのに行ける場所

印刷

あるはずないのに行ける場所

  * * * *

 画面の中から博士は語りかけた。カメラに向けて、画面の外に向けて。
「未来は決まっている。卵を割ったから目玉焼きを作るのではない。未来に目玉焼きがあるから今卵を割るのだ」
「変なのー」
 隣の子供が声をかける。博士はかがんで視線を合わせながら、けれど偉そうに、
「変だろうと、時間とはそういうものなのだ」説いて聞かせる口調。
「時間の事じゃなくてさ、ハカセって話の最後は『なになにじゃ』って、言うもんじゃないの?」
「あ、そっち? そんなこと誰が決めたの」
「ニッポンの、伝統?」
「そんなことに縛られては、」ここで博士は再び視線をカメラに据えた。「面白いテレビ一つ作れないのじゃ」
「変なのー」

     * * * *

 学校は高台にある。坂下までは公道なので子供達は一列に並んで歩いているが、坂の入り口からは学校の敷地になるから、皆、列を乱す。きつい坂を登る足並みはばらばらになって、人より早く進もうと駆け上がる子のランドセルは背中からずれて落ちかかる。登りきると、校門である。
 一人の子供が校門の手前で立ち止まり、左胸に右手をやった。左胸には名札が止められているが、名前は見えない。留め具の下を裏返すと記名の面が現れる「防犯回転名札」なのだ。右手でこするように、札を返す。現れた名前は佐倉洋海さくらひろみ。名前の上の欄には五年一組とあるが、五の文字は汚れている。学年が上がるごとに修正テープで消して上書きし続けて来たからだ。洋海は慣れたしぐさで名札を表にした後、息を吸ってから振り返った。校門から振り返ると、坂の下には水田地帯と湖が広がり、湖の先に、遠く筑波山が見える。
 洋海は毎朝、校門で振り返る。下校時には校門で立ち止まり、しばらく山の方を見つめて、帰途に着く。遠くにけぶる山はいつも青く、夏の空よりも濃い。今朝の洋海は振り返ったまま、後ろ向きに校門を通った。そして上級生にぶつかり、叱られた。
「おまえ、とろいんだから、うしろあるきすんなよ」
 見下ろして来る目。瞬間、洋海は恐れた。
「ごめんなさい」
 口ごもるように謝った。それから洋海の内心はこう動いた。
     謝るのって難しいな。何も言わないのは一番ダメだけど、元気に明るく謝ったらふざけてると思われそうだし、はっきり聞こえるように言いたいのに、頭を下げながら声を出すと、のどがふさがって、良く聞こえない声になってしまう。同じ「ごめんなさい」でも人の反応は全然違うから、どうするのが正解なのか、わからない    

「だめじゃん、ひろちゃん、ぼっーとしてちゃあ」
 何歩か先にいた真穂が二人に近づきながら元気に明るく言った。そしてすぐ笑顔になって、
「あぶないですよね」上級生を見上げた。
 相手は目をそらして行ってしまった。
 洋海は真穂が自分を助けてくれたのだとわかった。自分にはとてもできないやりかたで。
「ごめんね」
「えー? 何で私に謝るの?」
「あの人、睨んでて、怖かった」
「えー? にらんではいないよ。いきなりぶつかってきたから注意しただけだよ。まわりを見てなくて、人にぶつかるって、下級生はよくやるもんねえ。いちいち怒る人いないよ。知也ともやも気をつけなよ」
 真穂は、それまで離れていて、今になって近寄って来た弟に言った。知也はぶかぶかの黄色い帽子の下で首だけ縦に動かした。
 真穂はさっさと校舎に向かった。謝るのがうまくて、人に好かれる人もいる。真穂ちゃんは怒られないんだろうな。そもそも私みたいな事はしないだろう。そう洋海は思った。
 そして洋海も真穂に続こうとしたが、知也が自分を見上げて動かないのに気付いた。
「今日ね、がっかりすることが起こるよ」
 知也は無口な子だが、時々、変なことを変な調子で言ってくるのだった。真穂は弟の面倒を良く見る良い姉だが、かといって弟の発言にはほとんどとりあわない。そのせいか、知也は入学以来ずっと洋海を気に入って、何かと話しかけてくる。「帰りにね、傘を忘れて濡れちゃうよ」「月曜日のテストね、百点取れるよ」僕は知っているんだよ、特別に教えてあげるという口調だが、たいてい外れる。あの日は傘を忘れずにすんだし、テストは百点取れるはずが、答えの単位を書き落とした。平方メートルと書くところを、ただのメートルにしてしまったのだ。難しい計算ができて、本当に百点だと思ったら、油断した。
「・・・・・・そうだね」もうがっかりしてるよ、自分のとろさにね。洋海はそう思った。
 でも、きっと明日も校門で振り返ってしまう、と。
 そこには洋海の憧れがある。自分のことでいっぱいの洋海は、知也がじっと自分を観察していることに、気付けなかった。

* * * *

 午後の授業の時間は、夏休み調べ学習の準備だった。担任の藤原先生はみんなに『わたしたちの郷土』という本を配った。
「これは社会科の副読本です。五年生になって、三ヶ月が過ぎましたね。皆さんはもうすっかり上級生になって、学校内の役割をしっかり果たせるようになったと思います。これからは外にも目を向けて、私たちの住む地域について、学びます。今日はこの本を参考にして、班ごとに一番興味のあるテーマを決めましょう。最後に、話し合った結果を発表します。夏休みにいい研究ができるようにね」そして黒板に、「話し合いと発表」と書いた。
  話し合いと発表

・話し合うことがらとルール
1 何を調べるか決める
2 全員意見を言う
3 全員興味を持てるテーマを選ぶ
4 何を、どう調べるか考える

・発表することがら
1 テーマは何か
2 なぜそのテーマに決めたのか
3 何を調べるか
4 どのように調べるか

 班のみんなは口々に何を調べたいか言い合ったが、その間、洋海はろくに聞いていなかった。自分の希望をどう言えばいいか、頭の中はそれでいっぱいだった。
 JAXAを調べたい。
 宇宙開発研究機構。筑波山の下の、宇宙基地。
 洋海は考え続けて口を開くのが遅くなり、その時点で班員達の気持ちはすでに決まっていた。テーマは「地元のお菓子」。決めた理由は、クラス発表では「茨城は全国有数の食料生産地で、学校のすぐ近くにはチョコレート工場があるからです」と説明するものの、実際の所は、そのテーマにすれば親にいろいろ買ってもらえるからだ。
 だから洋海が一生懸命宇宙について主張している間、誰一人心を動かす者はいなかった。上の空でみんなの話を聞いておらず、それまでの流れを共有しない話は自分勝手に聞こえて、支持されるわけはなかった。それは、可哀想なのではなく、滑稽なことだった。
 洋海のたどたどしい熱弁を、みんなが居心地悪く聞いた。
「JAXAは宇宙開発の情報や宇宙のことを、ウェブでたくさん紹介しているから、調べやすいと思います」
 言い終えると、班員の一人が「そんなら調べる必要ないんじゃない?」とつぶやいた。
自分だけの夢や憧れを抱いている人間は、それを他人が共有してくれないことに驚くが、そのくせすぐに納得もしてしまう。自分をとらえて離さない魅力は、当人にとって当たり前すぎて、人に説明することなどできないからだ。
 五年一組の教室には三十四人の子供達がいる。その内十人は有人ロケットが月に行ったと知らない。惑星と衛星の違いは半数近くがわからない。
 小学校の理科で天文を教えないわけではない。けれど、知らなくてもいい事は、覚えてもらえない。
 ましてや小学五年生の郷土学習テーマに宇宙開発を選んでもらえるはずもなかった。
 班の中で挙手をとり、洋海以外の全員が「お菓子」に手を挙げた。
 洋海は(がっかりだよ)と思っていた。チョコレート工場は母親の勤め先で、そこに宇宙より面白い謎が秘められているわけはなかった。(知也君の言葉が当たったな)。

 しかし、本当のがっかりはその後に来た。

 発表の時間、洋海の班は「たのしくておいしいお菓子について調べます」と発表を結び、次の班が登壇すると
「僕たちの班は、宇宙センターを調べます」と言ったのだった。
 洋海は心臓を固い物で突かれたように感じた。
(本に出てくる“心臓に衝撃が走った”ってこんな感じなんだ)
 その感覚は記憶になく、言葉の衝撃と体の衝撃、両方への驚きは受容しきれないような大きさだった。自分自身よりもその感覚の方が大きいようで、その巨大な感覚が縮むと、情けなさとして体に染み込んできた。
 更に本当のがっかりが、後に続いた。
「宇宙センターの建物は、みんな見たことがあるはずです」
(うん、そうだよね。遠足でも行ったし)と洋海はうなずいた。発表が続く。
「テレビに毎週出て来るからです。妖怪博士の研究所は、何と! ここがモデルなんです。僕たちは、テレビがどうやって実際の建物をかっこよくしているか、そしてどのように秘密兵器と変身生命体を作る施設にしているかを調べます」
 発表した信一は、話している番組に出てくる妖怪Tシャツを着ていた。洋海も知っている。妖怪博士は、世の中に不満を持っている人間をさらって妖怪に変身させる悪の科学者だ。それに正義の妖怪達が戦いを挑み、地球の平和を守るが、それを知っているのは子供達と変人科学者だけという設定である。多種多様な妖怪の不気味なかわいさと孤独が子供を引きつけるのだと論じられていたが、洋海は妖怪に興味は持てなかった。(五年生にもなってそんな子供番組に夢中なのか男子は)と思っていた。(世界征服と宇宙開発じゃ大違いだよ)。
 しかし洋海はわかっていなかった。妖怪達は女子にも大人気で、何人もの女子が文房具やストラップを持っているのである。ずれているのは信一ではなく、洋海の方なのだが、洋海はそれに気付かず、ショックを受けていた。
 自分の一番大好きな物を奪われた上で、それがつまらない物扱いされている。
 洋海は泣きたくなった。泣かなかったけれど。

* * * *

 佐倉洋子は、従業員駐車場の自家用車に乗り込んだ。運転席でシートベルトを引き出すのに体をよじると、髪や襟元からバニラとカカオと油、そして殺菌剤の混じった匂いがした。チョコレート加工の現場は肌寒いほど冷房されているから、車内の暑さで芳香も悪臭も揚がってくる。
 洋子はこの二月ふたつき、製造ラインの調整で苦労して来た。プラスチック容器の周りにチョコレートをかぶせた新製品で、今月末に新製品キャンペーンが始まるのに、七月はチョコレート加工に最悪の季節なのだ。
 菓子業界の動向では、工場生産のチョコレートは旗色が悪い。子供は甘い菓子にさほどの魅力を感じなくなっているし、大人は専門店のデザートを指向している。大量生産する菓子類では、甘みのないスナック菓子の売上だけが増えている。スナック菓子は毎年ヒット作が出続け、小売店の売り場面積も減ることなく、勢いのある分野に見える。
 しかし、スナック菓子は澱粉加工品だから、いくらでもコストを下げられるのだ。自動車燃料のアルコールにしかならない、食味の劣る遺伝子組み換えトウモロコシデンプンが、幼児向き菓子の主原料だ。ヒット商品はすぐ類似品が出回り、瞬く間に値崩れし、コンビニの棚に二年続けて並ぶ銘柄は少ない。製造ラインは常に組み替えられ、計画生産が難しい。洋子は菓子製造の現場で二十年働き、今では関東一、改革案を出す製造主任になっていたが、スナックよりチョコレートの製造が好きだった。
 洋子にとって、チョコレートこそが菓子業界の王様なのである。値崩れ無く、定番になればパッケージも替えずに製造でき、安定供給できる。製造現場が誇りを持って働けるのはチョコレート工場だ。洋子はそう思っている。
 チョコレートには大きな欠点と利点がある。夏季は小売店の棚に置けない。しかしそれを補うように春のバレンタインデーがあり、製造現場では計画生産しやすい。
 秋のハロウィン商戦に投入できるチョコレートが加われば、自分のメーカーは菓子業界上位に食い込めるだろうと、洋子は企画部に具申していた。温度管理と乳化技術がすべてを決めるチョコレートは、管理レベルが高度すぎて、新参メーカーが参入できないが、大手は小回りがきかず、需要の隙間がある。洋子の見込みでは、夏季の生産とストックも可能で、問題は冷蔵輸送の流通コストだけだった。
 そして今年、まるで洋子の提案に返答するように、来期の新製品が知らされた。妖怪フィギュア入りのチョコレート。通常チョコレートの新製品キャンペーンは九月からなのだが、十月のハロウィン商戦にあわせて認知度を高めるには九月では遅いと判断され、特に対象年齢が児童であることから、夏休み開始に合わせて大量の見本品を製造することになった。
 自分の提案から生まれた(といってもそれはきっかけの一つで、業績は当然のように企画部のものになってしまうけれど、それでも嬉しい)製品なのだから、洋子はこれをなんとか成功させたかった。冷房の効いたラインでも、チョコレートの結合部の仕上がりが不安定になってしまうので、納期はきつかった。マイナーチェンジでなく、まったくの新製品であるため、マニュアルをつくりながらの綱渡りで、気が抜けなかった。今日、やっと検品まで完了した。後は冷蔵コンテナで工場から試作品を運び出し、週明けには本社での新製品発表会になる。
 洋子が自分の仕事に感じている不満と魅力を、娘の洋海が知ったら、どう思うだろう。家に車を走らせながら、洋子は考えた。宇宙探検のことばかり考えているような子だけど、と。
 洋海は小さい頃から父親に連れられて、海岸や高台に行っては天体観測していた。今では自分で望遠鏡を調整して、庭で月や星を見ている。子供がやたらと書かされる「将来の夢」の作文も、小さい頃は「うちゅうひこうしさん」と「ロケットけんきゅう」だった。おととしまでは。
 二年前から、洋海は家で宇宙の話をしなくなった。かまわないのに、と洋子は思っていた。好きなことに気兼ねなんかしないでいいのに。
 それに、    お母さんの仕事も、宇宙探検とおんなじなんだ。たくさんの困難を乗り越えて未知を探求している。仲間と協力して目標を達成し、そして少しばかりの報酬と満足、時には誇りを得られるのよ    
 大げさだから、そのままは言わないけれど、でもそれを知ってくれたらいいのに。お菓子工場を舞台にした物語は図書館の絵本コーナーに何冊もある。でも、お話より現実の方が素敵な秘密でいっぱいなんだけどなあ。

 あ、あの話はどうだろう。四月入社したての加藤君の話。

 加藤君はすごくぶっきらぼうな新人で、研修中に支社長から名指しで注意されたから、製造現場では今年度退社第一号になるんじゃないかって噂された。でも作業着の着方がいつも一番きちんとしてて、仕事も念入りに確実にやろうとする。無口だからなかなか気づかなかったけれど、観察力は鋭くて、液化チョコの抽出がうまくいかなかった日、途中のジョイントがほんの少しずれてるのに気付いた。総点検になったらあの日一日つぶれて、どうかしたら何日間も操業できなかっただろうから、どんなに助かったか知れない。
「若い人は目が良いのねえ、私じゃ老眼入っちゃってわからないわ」って最年長パートの笹原さんが言ったけど、目視できない場所だったから私は改めて確認した。不調が起こった時、偶然わかりましたじゃ、駄目だから。問題はなぜ起こったか、なぜ解決できたかまで解らないと次につながらない。
 加藤君は、
「垂れてくるチョコに、グリースの匂いが混じってたから、す」って。ちゃんと「です」で話を言いきって欲しいけど、支社長と一緒に加藤君を褒められてよかったな。あの後から加藤君大活躍してる。チョコは温度が五度違ったらもう駄目なんだけど、冷房してても機械が過熱しちゃうから何時間か置きに休ませなきゃならなくて、その間隔をつかむのは実際に何回か失敗してからかなあって思ってたら、加藤君の「匂いが強くなってます」の一言で分かった。マニュアルにいくつも加藤君の発見を載せられた。
 過敏すぎる嗅覚の持ち主なんだ。だからあんなに身ぎれいであんなに無口なんだろうなあって思う。もしかすると、それで人とうまく付き合うのが苦手なのかな。
 でも、そうだとしたら、仕事っていいよね。仕事で力を活かして認められるって素敵なことだと思う。
 そう思ってほしいな、洋海にも加藤君にも。

 けれど、洋子は仕事の楽しい話を、娘にしてやれなかった。

 帰宅すると、娘が一人で留守番していて、洋子は罪悪感を抱いた。初めての感情ではない。自分が母親だというのに、娘から家族を奪っているように感じるのだ。
 おまけに、今日の娘は夕飯を食べながらこんな事を言った。
「おかあさん。あのね、すごーく自分が大好きな物をとられちゃってね、それで、それなのにとった人がね、その物を、つまらないと思ってたら、悲しいよね」
 それは要領を得ない話だったが、まるきり自分の離婚の顛末に聞こえた。
 離婚は夫の浮気のせいで、しかし浮気相手にとって夫は取るに足らない男であることが明白で、そうかといって元通りに夫婦ではいられなくて。
 互いに連れ合いを無くし、娘は家族を奪われた。
「とったって、誰かが何かを盗んだの?」
 洋子は声を抑えて訊ねた。返答まで間が空いたけれど、娘が不自然に思わず何でも正直に話して欲しいと思った。
 自分は内心を隠しているくせに。大人ってみんな、自分の心を隠しているくせに、子供には正直でいて欲しいって思うんだろうか。
 洋海は自分のことで一杯だから、母の思惑には気づけなかった。
「盗んだんじゃないよ。えーと、バカにしないで聞いてくれる?」
 それは母の願う通りの反応だった。
「バカになんかしないわよ」
 だから、洋子は嘘でなく笑顔になれた。
 そこで娘は母に、自分がやりたかったことを夏休みの班別学習テーマにできなかったこと、他の班がテーマにしたこと、それなのにその建物のことだけ調べるつもりだということを話した。
「その建物って、宇宙開発センターなんでしょう?」洋子は屈託ない口調で言ったけれど、
「……うん」洋海は顔を背けて手を伸ばし、醤油差しを取った。そしてもうほとんど食べ終わった野菜炒めに垂らした。必要もないのに、言い訳のように。
「それは残念だったねえ。でも、そのお話、お母さんの仕事にも関係があるみたい」
 気持ちを切り替えたい洋子は、幾分浮き足だった口調で、新製品の事を娘に話した。
 小学五年生が夏休みの研究にしたいと言い出すのでは、妖怪フィギュア入りチョコレートはヒットするに違いない。その思いは嘘ではなかったし、その充実も洋子を支えた。

* * * *

 あたりは暗いのに工場の搬入口だけは強い照明で、集まる虫を飛ばすために送風機の風を強く当てていた。コンテナを保冷車に積み込む納品に加藤が立ち会ったのは、男だから夜間の仕事を任されたというだけではなかった。検品の信頼を受けたからだ。
 建屋の天井は高いから照明もかなり上の方で、風の当たりきらないところに蛾が羽ばたき、見上げると光を受けて鱗粉がきらめいていた。明日の清掃で虫嫌いが騒ぐだろうか。自分は夜勤の振り替え休みだ。
 通常の搬入搬出は大型トラックを使うが今日は違う車種で、扱い量も少ない。第一行先も東京本社だ。運転手が見知らぬ人で口数が少ないことに、加藤は安心していた。運送の仕事は一人の時間が長い分、車から降りている間中ずっとおしゃべりしたがる人もいる。
 楽しくおしゃべりして互いに気持ち良く仕事できるのが一番いいんだろうなと加藤は思っていた。自分は駄目だ。適当に聞き流しながら相槌を打てばいいのだろうが、それもぎこちなくなる。
 でも、と加藤は思った。学校より今はずっといい。学校では同年齢の人間が無数にいて、全員がそれぞれに一日中しゃべったり目くばせして、人間関係を築いたり維持したりしていた。気の置けない友人もいたから学校が苦痛ではなかったが、学校は大半の時間、ただ居るだけの場所だった。無目的に教室という場所に居続けるには、何かを成し遂げるとは別の、努力が必要だった。
 退屈と他人に耐える努力。無為の自分に耐える努力。
 仕事は仕事だからいい。それに製造の仕事は軽作業だから、仕事仲間は自分よりずっと年配のパート主婦が多い。彼女たちは女子高生と変わらずおしゃべりだが、加藤と話題が合わなくとも気にしなかった。するべきことがあり、働いてさえいれば認めてもらえる。研修から五か月働いて、同期入社の一人は先月初ボーナスを貰ったとたんに辞めてしまったのだけれど、自分はなんとかここにいていいように思う。
 それに自分の鼻は、感心されるより嫌がられることばかりだった。まあ他人に、風呂に入ったのは何時間前か、ボディソープとシャンプーと着てるシャツの洗剤と整髪料洗顔料の銘柄、食生活から体調まで当てられたらぞっとするのは当然だろう。そのすべてが一度にわかるほどでは無いが、集中すると相当嗅ぎ分けられた。小さな頃、親に、人の臭いは絶対口にするなと諭されたものだ。自分は嗅覚異常なんだろうけれど、食品製造には向いている気がする。今年中に、食品衛生取扱者と危険物取扱者の試験も受けよう。手当が付く。一日四十円だけど。
 搬出はほとんど手伝う必要もなかったので加藤は施錠の準備を完了した。数量確認してサインした納品書と荷受け書を交換する時、相手から金属臭がした。覚えがあるけれど、何だったろうと思った。
 人が「金臭い」というのは大方鉄イオンの匂いで、それ以外は大抵、金属自体の匂いではなく、機械油の匂いである。金属製品と結びついて記憶されているから、目に見えない油ではなく金属の匂いだと思われるのだ。しかしその時加藤が嗅いだのは確かに金属臭で、なじみがあるのに何だか判らなかった。けれどそのことに意味があるとも思えなかったからすぐに意識から消えた。
 加藤は運転手に挨拶し、保冷車が建屋を出るのを見送った。普段の配送車は左手に曲がるのに右手に行った。大型車じゃないから抜けられる道があるのかな。あっちは小学校で突き当るまで何も無いとと思ってたけど。それとも土地勘が無い人で間違えたかな。戻って来たりして。
 完全施錠は重い扉を二枚を閉めるだけ、機械警備のアナウンスが流れて、建屋の明かりは消えた。小さな屋外照明だけが残り、周囲は木立に囲まれて、あたりにはほとんど何もない。入社試験の時、あまりに何もなくて焦った。
 主な原料が海外輸入だから港からすぐ搬入でき、海の傍は通常真水確保が高くつくのに、湖沼地帯だから水コストは安く、清浄レベルが高い。そして大消費地が近い割に人件費が安い。食品製造には向いた立地なのだと会社は説明会で力説していたが、しかし周囲に何もない。多分日本中の田舎にありがちな、ありふれた場所が自分の職場なのだと加藤は思っていた。いちばん近い建物は、数百メートル離れたアルミニウム加工会社のものだが、それは昨年粉塵爆発を起こして以来閉鎖されている。
 初心者マークを貼った車に乗り、発進させ、門を出てから再び降りて門を閉めた。虫が入るから窓は閉めたままだけれど、それでも蛙の鳴き声がする。日中は製造室から出ると屋内でも蝉の声が絶えず、辞めた同僚が「辛いことがあったってより、何もないのが辛すぎ」と言っていたのもわかる。アルミ会社の前など街灯さえ無いのだ。
「ああ」加藤はかすかな声を出した。あの金属臭は、あの会社の辺りで感じる匂い。車を外気導入にしていると感じる匂いだ。
 その記憶は、後で思い出されるのだが、その場ではすぐ忘れ去られた。
 加藤は小学校の方角に車を走らせた。親切心と好奇心。保冷車に出くわせば道を間違えたということだし、会わなければ自分の知らない脇道があるということだ。

 

 小学校の裏門まで走ってしまい、保冷車にはすれ違わなかったから、支道を見逃したのだと思った。(車をUターンさせよう)ちょうど裏門が開けっぱなしだ。車を回すのに敷地に入らせてもらおう。
 誰もいない深夜の小学校の敷地に乗り入れ、駐車場で旋回させると奥の建物にライトが当たり、その時初めて加藤は気づいた。
 建物の前に、保冷車が留まっている。
 そちらに車を進めたのはただの親切心。道に迷って、ここに入り込んでしまってきっと困ってるんだ。このあたり一帯は森の中だからか電話が通じないことが多い。通じたと思えば切れる。声を掛けて道を教えようと思いながら。
 その推量は、すべてが間違いだった。
「迷いましたかあ、さっきの加藤です」
 人影は見えなかったが車を降りて呼びかけた。
 誰も見えない広い駐車場。けれど加藤にとって、辺りは土と植物と生き物の匂いにむせかえっている。蛙の声が湧き上がるように聞こえる。
 保冷車の窓を覗き込んだ時、体にいきなり何かをかぶせられ、叫び声を上げる間もなく、引き倒された。
 痛みと驚愕で、叫べもしなかった。何が何だかわからなかった。「やったあ」という声が降ってきて、初めて恐怖と理解が生まれ、もう声は出せなかった。
 暴走族ぞくが集団抗争で使う袋だ。中学の同級生が、タイマンでは使わないことを自慢していた。「あれ、不意打ちには一番簡単で効くんだよ。セメント袋が一番丈夫でいいけど、相手を怒らせたいときは肥料袋ね」あの時、自分には全く無縁だと聞いたのに。
 声が降ってきた。
「どうするよ、喜んでるバーイー? 」
“場合?”の発音が、語尾が上がる、よく耳にする話し方で、次に続いた声は低く聞き取れなかった。
 袋の上から縛められる間、加藤は全く抵抗できなかった。足をばたつかせるのも、「出してくださーい」と言ってみたのも、ただ間抜けなだけだったろう。
 打撲の痛みは続いたが、ただ手荒くされたのでは無かった。「窒息、やばいっしょー」という声がして、袋の上から肩のあたりを撫でまわされた。それは首のあたりに切り込みを入れる動作だったらしく、顎下が開けられたのだ。
「もう、ばれたら実刑付くかな。窃盗だけなら量刑軽いのに」
 隙間から、声がはっきり聞き取れるようになった。
 一人の声を、加藤は知っていた。
 そして自分を包んだ袋は、会社で使っているスターチ粉の匂いだった。

 * * * *

 画面の中で、博士は青年に語ろうとした。
「未来は決まっている。しかし無限に存在もしている」
「博士、また量子なんとか?」
「未来は過去によって決まると思うだろうが違うのだ。未来が干渉して現在を制限する」
「素粒子がもつれてるからだっけ?」
「とにかく、この世のすべては決まっている。しかしいくらでも変わりもするのだ。無限の可能性を持って」
「いくらでも?」
「いくらでも」頷きながら言ってから、博士は遠くを見た。カメラの先を見た。
「無限に」それは夢見る者の目。
「それって、決まってないと同じじゃん?」

 * * * *

 翌日の登校中、知也が洋海の袖をひっぱった。
「なあに」
「洋海ちゃん、お昼休み教室にいて」
「え、なんで」
「話があるから」
「また私をおどかそうとしてるの」
「とにかく教室にいて」
 いきなり変なことを言う以外は、おとなしくて、かわいい子なんだけど、と洋海は思った。
「夢を見るんだ、僕」
 昼休み、洋海は教室に来た知也と校庭の隅に移動していた。
「後で起こることを、前もって夢に見るんだ」
 知也は顔を近づけ、洋海の目をまじまじと見据えながら言った。同級生の男子だったらしないだろう、動作と表情。来年になったらもう自意識が邪魔してできないだろう。今はまだ、小さなかわいい子が、小さな思惑を精いっぱいに訴えているだけだ。
「えーと、それって、予知夢ってこと? 夢で未来がわかるやつ?」
「うん。未来を夢に見るの」
「あのさ……夢が本当になるわけ無いでしょ」さとしてあげるつもりで洋海は返した。
 しかし知也は落ち着いて、
「うん」とうなずいた。
 下を向いて、
「そう。人に言うとだいたい外れる。お姉ちゃんや洋海ちゃんで実験した。でも、」そこまで言うとまた洋海を見上げて、
「外れるのは僕が言ったから、聞いた人が行動を変えるからで、お姉ちゃんにも洋海ちゃんにも、言わなきゃ、だいたい本当になるんだよ」
 それは知也の精一杯の説明なのだろうが、洋海にはさっぱりわけがわからなかった。
「それって、どういうこと?」
 二人は、昼休み終わりの予鈴が鳴るまで話し込んだ。
 知也の説明によると、知也は時々、未来に起こることを夢に見るのだという。例えば、洋海のテストが百点だった夢を見た。そのことを知らせなければその通りになったはずが、前もって知らされた。百点取れて当然なのだという油断が生まれた。だから百点は取れなくなって、夢は外れたのだ。
「ええと、それが本当だとしてもさ、本当ならなおさら、人に言えないね。だって、人に、ひどい目に会うぞって教えてあげると、その人は注意した結果、ひどい目に会わなくなる。そうなれば、嘘つきあつかいされる。良い事が起こる人には教えなくてもいいけど、実現するまで黙ってて、それから夢に見てたって言ったら、やっぱり嘘つきあつかいされるんじゃない?」
「うん。だから、お姉ちゃんはもう僕の話を聞いてくれないの。でも悪い夢を見た時には、言ってあげることにしてる。良い夢は、言わない」
「結局信じてもらえなけりゃ、人にあんまり行動を変えてもらえないよね?」
「うん。だから洋海ちゃんには全部話してるの」
「え?」
「チョコレートの車が、なくなっちゃうからね」
 その時の洋海には訳がわからなかった。
 帰宅してテレビを点けて初めて、母の作ったチョコレートの配送車が奪われたと知った。

 * * * *

 その日工場では、昼までのんびりと操業していた。昼休み、休憩所でニュースを聞くまでは。
 テレビの中で、マイクを突きつけられた運転手が話していた。昨夜、工場から製品を積み込み、出発してすぐ、道路をふさぐ大きな木の枝があった。トラックを降りて枝をどかそうとしたところが、殴られ意識を失ったのだと。往路では無かったあの木の枝は、仕掛けられたのだろうと、彼は話した。
 午前中事務室では、営業時間が始まると同時に配送車が届かないという連絡があった。こちらは確かに納品したのだから大事に捉えずにいたが、重ねて運転手に電話が通じないのだと知らされ、交通事故を危惧していた。それが昼頃に、運転手が警察に保護されたと連絡が入ったのだ。路側の丈高い草の中に縛られ転がされていたという。
 洋海の母は、事情聴取を受けるはめになった。もっとも警察でなく工場の応接室で、そして新製品の話は昨夜まで誰にもしていないと明言できて解放された。娘に話すのが一日早かったら、洋海まで取り調べを受けたのだろうかと焦ったのだが、洋子の話は、取るに足らない確認というだけのこととして処理されるようだった。
 働く者たちの中には、職場でしていることをSNSに上げている者もいるのだが、製造過程の写真は撮らせていないし、製品の写真は会社が前宣伝に公開している。発表会のスケジュールも広報部がネット公開していた。それに、このあたり一帯は森の中だからなのか電波状態が悪く、携帯電話の類がまずつながらない。社員から不用意な情報流失があったと責められることはなさそうだった。洋子はほっとしながら同時に、自分たちが軽く見られていることを感じた。(自分には事件を知らされなかった。テレビから知らされるなんてあんまりだ。それに被害額も、チョコレートより車の方がずっと大きいからって、警察は車両盗難事件と見ている)それが洋子には悲しかった。
 操業停止にはならず、本社の指示は製造を続けることで、従業員はみんな順番に応接室に行っては作業に戻った。
「苦労して作った物が盗られて、また作り直しって、何かねぇ」
「まあ、時給は貰えるからやるけど、やるしかないし」
「でもこれで新製品プロジェクトが失敗したら、大損だよ。今まで苦労して作業行程覚えたのに」
「あ、アタシこの事件で、家族に初めて仕事に興味持たれそう」
「ああねえ」
 そんな会話が一日あちこちで聞かれた。そして洋子はみんなの気を引き立たせようとしていたのに、むしろ労わられてしまった。
「佐倉さんが一番がっかりしてるの、みんなわかるから」
 周囲に人のいない手洗いで、ずっと年下の製造員に言われた。一緒に労働した仲間は、いたわってくれる。あれこれ細かいことを言って、休日出勤のシフトもみんなに無理にお願いして来た。その挙句に気をつかわせちゃった。
 帰りの車でちょっと泣いた。けれど泣き顔を洋海に見せたくないなと思った途端、涙が引いた。(大人になるって、こういうことなのかなあ)
 帰宅した洋子は娘に明るい口調で、
「お母さんまで調べられたのよ。洋海がいなかったら、お母さん、アリバイが無くて容疑者にされたかもね」と言った。嘘ではない。けれど嘘をついている気になった。
 加藤は昨日夜勤になったから今日振り替え休日で、仕事仲間は彼が行方不明になっているとは気づかなかった。
 その日遅くに、警察が加藤の自宅を訪ねた。家族は無断外泊を不審に思っていたが、さほどの心配もしていなかった。働いて車を持つ若い男が休日前の晩に帰らなかったとして、騒ぎ立てることもなかろう、というわけだった。
 夜になってやっと、加藤は行方不明だと認知された。

 * * * *

 世間はもちろん車ではなく妖怪チョコレート盗難事件として話題にしたし、小学校ではその話で持ちきりになった。
「きっと、妖怪が持って行ったんじゃないかな」大声でそう言ったのは信一である。
「それさ、他の人に言わない方が良いよ」応えてやるのも男子である。女子は無視している。
「誰にも言わないよ。でも妖怪だといいんだけどなあ」あたり中に聞こえる声で、信一は話し続けた。
「ね、洋海ちゃんのお母さん、盗まれたチョコ作ったんでしょ。いいなあ、もう洋海ちゃん妖怪チョコ食べた?」
「食べてない」洋海は素っ気なく答えたが、信一は続けた。
「ね、洋海ちゃんさ、宇宙開発センターにも詳しいでしょ? いいなあ。妖怪研究所」
「本物にはパラボラアンテナ無いよ」
 妖怪研究所のテレビは洋海もテレビで見たことがある。大きなパラボラアンテナを合成して建物の真正面に映している。それでJAXAの文字を隠しているんだ。
「あー、やっぱテレビの方がかっこいいよね。アンテナから電波が出るもんね」
 信一君は勉強ができる。頭が良いのに、みんながバカにすることや、子供っぽいことも大好きだ。そして他の男の子と違って、五年生になっても女の子と平気で話す。洋海はつっけんどんな受け答えをしているが、信一を嫌ってはいなかった。他の子と違って、「宇宙なんかつまんないよ。宇宙人とかUFOって嘘ばっかりだろ」なんて言わないから。
 しかし、
「色つきの電波が、しかもジグザクに飛ぶんでしょ」
「その方がかっこいいじゃん。ゲンジツはつまんないよ。電波とかレーザーって、目に見えないでしょ?」
 こちらの気持ちに、信一は頓着しなかった。それで、
「私は現実が好き」洋海は思わず言ってしまった。
「見えない方が現実って、かっこいいと思う」
 信一はまばたきして、
「ああ。見えない方が現実で、見える方が虚構かあ・・・・・・すごいな」と言った。
「キョコーって何?」
「現実の反対。うそとか、つくりばなしとか、バーチャルとかさ」
「ふうん。バーチャルリアリティーって、仮想現実ってテレビで言ってるよね。キョコーと同じことなんだ」
 そんなふうに、洋海は警戒心なく、信一と会話した。五年生になってから男子と女子が仲良くしていると、つきあっていると噂され、男の子達がはやし立てるようになったので、始めはできるかぎり短く応答していたのだ。(四年生までは男の子も女の子もみんな仲良かったのに、上級生になると、みんなの中に変なきまりごとがいっぱいできる)。いつのまにそうなってしまったのか、洋海にはわからなかった。自然にできた決まりは朝のホームルームで担任の先生が伝えてくれたりしない。
 洋海は気がつかないことが多く、親切な子がいつもこっそり忠告してくれた。「ひろちゃん、髪の毛をゴムで二つにしばるのは、ダサいのよ」
 これからもっと決まりが増えて、自分はきっと、駄目な中学生になるのだと洋海は不安に思っていた。(良くてダサい中学生になるのかな。ダサくて友達ができなかったらどうしよう)。ところが、信一は何も気にせず、ただ自分が好きなことを好きだと言えるのだった。
 明らかに自分よりダサい信一が、洋海はうらやましかった。
 一方信一は、「現実が好き」と言い切った洋海に感心していたのだが。

    * * * *

 画面の中では、すべてが博士の願う通りに進んでいた。悪は倒され、世界は平和になり、人々は今まで白眼視していた博士の真実を知り、感謝する。
 しかしその世界は、作られた幻だった。
「このままここで暮らしましょう。ずっと一緒に」
 昔自分を振った初恋の人が、微笑む。
「さようなら。僕は現実に帰ります」
 輝く部屋の扉を開ける。歩き出す博士。一歩ごとにあたりは輝きを失い、砂埃が舞う。現実の世界。ため息をつき、電柱に手をつくと、犬が寄ってきて片足を上げる。
「わ。よせ」
 道行く人が嫌悪の目で通り過ぎる。うす汚れ、理解されない世界。小学生達が気づいて集まる。
「あー、博士だ」
「どこ行ってたの博士」
「研究調査?」
「いや。すごくきれいな所に行ってた。夢みたいなところ」
「いいなあ旅行してたんだあ。お帰りなさい」
「お帰り博士。お土産は?」
「ああ。何も持って帰れなかった」
「つまんないのー」
「うん。まあとりあえず、ただいま」 

    * * * *

 お昼休み、今度は洋海が知也に会いに行った。
「知也君、チョコの夢見たの?」
 知也は、「うん」とだけ答えた。
「予知夢なんて信じられないけど、そうなんだね」
 知也君はもの凄く勘が良くて、名探偵みたいに、みんな気づかないことを探り当てているのかも知れない。洋海はそう思っていた。それともまだ小さい子だから、思いこんでいて、ただの偶然かもしれないとも思っていた。
「チョコレート乗せた車、保冷トラックだっけ? どこにあるんだろう」とにかく聞いてみる。
「それは知らない」知也が言うので、(そうだよね)洋海はそれが当然だと思いながら、落胆した。
 しかし知也の言葉は続いた。
「チョコはね、給食室にあるよ」
 知也の言葉はのんびりとして、自慢げな様子や、だまそうとする気配はない。ただ知っていることを、ただ伝えただけのようだった。
 洋海は、昼休みが終わる前に、そうっと給食室に近づいた。校舎と別棟で敷地の隅にあり、続く裏門は自動車用の出入口なので、生徒はほとんど近寄らない。以前はそこで給食を作っていたそうだが、今は給食センターから届くから、もう何年も使われていない。邪魔にもならない隅っこで、取り壊しはしない(壊す予算が市には無いのね、と大人っぽい同級生が言っていた)が閉鎖されているという建物である。
 裏門を出た道は、お母さんの職場につながってる。
 普段近寄ることもなく、屋内は見えないだろうと思っていたが、窓の外に立つと、ぼろぼろになったカーテンに破れ目がある。かがむと中が覗けた。調理台と大鍋が見え、そして一番奥に、大きな冷蔵庫が見えた。人間が何人も入れる冷蔵庫。チョコを隠すとしたら、あそこだ。
 外壁づたいに冷蔵庫のある方角に回り込むと、窓の一枚が割れたのか、ガラスが無く、ベニヤ板が挟んである。そのベニヤを押すと、動いた。忍び込める。誰かここに気付けば、忍び込める。
 そして、壁を通して、モーター音がした。閉鎖されて何年も経つ給食室の冷蔵庫が通電している。
 いつまでそこに突っ立っていたろう。
 校内中に、午後の授業を知らせる予鈴が鳴った。

* * * *

 午後の授業中、洋海の頭の中は蜂が飛び回るようだった。考えは乱れ、頭痛に近いうなりが頭の中で飛び回り続けている。
 気づいたことをそのまま、先生に言うべきだろうか。
 理解してもらえるだろうか。知也の名前を出してもいいのか。
 あの冷蔵庫にチョコが入っているかどうかはわからない。もし何でもなかったら恥ずかしいとも思った。
 そして、母には言えないと思った。母に知らせて、もしチョコが見つかったら、母が容疑者になってしまうのではないか? よりによって当の製菓会社に親が勤めている子供が盗まれたチョコを発見したら、やっぱり母は容疑者になるのではないだろうか。
 結局、誰にも言わなかった。言わなかった一番大きな理由は、母への思いやりより、自分だけが真相を知ることができるかもと思ったからだった。そしてもしかしたら、事件を解決するヒーローになれるかもしれない。それは魅惑的な空想だった。多分友達ならみんながみんな反対するだろうけれど、そのチャンスがあるなら、試してみたくてたまらない。
 知也君の予知能力の証明と、危険を冒して事件を解決すること。
 多分、こんなことは二度とないだろうと思えた。謎の解明と、宝探し。
「書き取りの宿題をやってから帰ることにしない?」
 帰りの会を終えて、真穂が言った。
「えーと、今日はすぐ帰りたくて、」本当は帰らず、給食室に忍び込みたい。
「話あるの」
 有無を言わさぬ声だった。“が”の発音が強力だった。
「知也が何か言ったでしょ?」
 真穂ちゃんにかなうわけなかったと、洋美は思った。
「えーと、あんまり、言いたくない……」洋海が次第に声をかすれさせていると、
「洋海ちゃんさ、妖怪チョコの事、なんかわかったら教えてよ」
 信一が話しかけてきた。洋海は悲鳴を上げそうになった。
「それなのね?」
「・・・・・・うん」そうです。参りました。でも、
「でも、本当かどうかわからないし」
 真穂はこちらを見ている信一に言った。
「信一君、秘密守るの得意?」
「さあ、考えたこと無い」そうだろうな。
「じゃ、さよなら」真穂は、女子には実に優しいのだが、男子には違った。
「僕も宿題やってきたーい」
「あー、席離れててよ」邪険に言うのは、クラス委員長が真穂で、副委員長が信一という学期が多いからだ。二人はけっこう仲良しなのだった。
「うん。ねえ博斗君、書き取りやって行こう」
 信一はいつも屈託なく機嫌がいい。(真穂ちゃんに責められてもこんな風でいられたらなあ)冒険どころか、宇宙どころか、教室からも脱出できない自分。

 

 真穂は鉛筆を動かしながら、
「何て言われたの」
「えーと」
 洋海はさっぱり書けなかった。給食室が気になって。
「信じるのはいいけど」と真穂は言った。着々とノートを埋めている。「けっこう外れるからね、知也の夢」
「予知夢じゃないの? 占いみたいなもの?」
 真穂は手を止め、顔を上げた。
「どうだろ。時々わかるはずのない事を当てちゃうの」そして、「洋海ちゃんも書きなよ」促した。真穂は姉らしく、自然と世話焼きしてしまうのだ。
「勘がいいのかな。知也君は推理の天才なのかも」洋海は書きながら、この漢字、全然覚えられないだろうなと思っていた。給食室に行きたい。知也君の話も聞きたい。
「それない。勘どころか、あの子鈍いもん。どんくさいの」姉は姉らしく、弟に残酷だった。
「第一、当たることはみんな、私たちに関係ないことばっかりだもん」
「やっぱり未来を予知してるの?」
「ていうか、知也は眠ってる時に、未来の記憶を整理してるんだって言ってる」
「えーと、記憶って、過去じゃない?」
「知也が言うわけ。未来はもう存在してて、みんなでそこに行くだけなんだって」
「知也君はそう思ってるんだ」
 洋海は自分こそがどんくさいと思っていたし、不思議なことが大好きだが、かと言って不思議なことを不思議だからというだけで信じる子供ではなかった。不思議だというだけで超能力を信じる子も、怖いからというだけで心霊を信じる子もいる。けれど洋海は、理屈なしに信じることはできなかった。納得できないし、それに、どこかで嘘だなと思う気持ちに蓋をして信じる(というより信じるふりをする)のは、卑怯な気がするのだ。
「夢で見た未来が外れるのは、進む道が変わっちゃうからなんだって」
「道」
 枝分かれする道一つ一つがその瞬間の世界であると考えようとしたが、洋海の頭には収まりきらなかった。けれど知也の説明を思い出していた。
「知也君ね、人に教えると、行動が変わるから外れるんだって言ってた」
「うん。良く私に災難が起きるって言ってくるけど外れるよね。ずいぶん喧嘩したけど、意地悪じゃないって今は思ってる」真穂は弟を信じてらしい。
「自分の未来はわかるのかな。それとも自分の未来を知った途端に、人に教えたみたいに全部外れるの?」洋海は信じられない。まだ(知也君はああ見えて、すごく観察力と推理力があるのかも知れない)と思っていた。
「わからないって。鏡が無いと自分の顔が見えないのと同じって。それは本当だと思うな。あの子ぼんやりしてて、自分のことなんか何もわかってないもん」
 真穂ちゃんは人の悪口なんか言う子じゃない。でも兄弟に対してはこんなに言うんだな、と洋海は思っていた。それは世話を焼かされ続けてきたと思っている、姉らしいむごさだ。
「図書室で時間の本を読んだらね、知也が言うのと同じこと書いてあった。『ボウルに小麦粉を入れて卵とお砂糖を混ぜたからホットケーキができるのではありません。ホットケーキを作るから、その材料を混ぜるのです』って」真穂は弟が言うことを、実は信じているのだ。自分に降りかかる災難を次々言われて、それを回避して、次々外れても弟を信じている。
「未来は決まっているって、嫌だな私」
「信じられないでしょ? まあ信じなくてもいいけど、知也は眠ってる間、未来を見て帰って来る感じなんだって」
 違う。信じられないから嫌なのでは無い。時間の理屈が嫌なのだ。未来が決まっているから現在こうしてしまうのだなんて。未来に合わせて過去や現在があるなんで、嫌だった。
 過去は決まっている。どうしようもない。でも、現在がんばれば、未来は良くなる。そう思っていたい。
「今の話ってさ、ホットケーキの話ってさ、離婚するのが決まってるからお父さんがフリンしたんだってことでしょ? 納得いかないよ」
 洋海は言ってしまった。わだかまりに耐えられなくて。真穂は答えなかった。
(言っちゃった。言うべきじゃない事言っちゃった)困った。給食室が遠のく。
 なぜ知也の不思議を信じないか、洋海は自覚していた。理由が無いから信じないのではない。不思議を信じてはいけないと思う理由があったのだ。

 おととし両親が離婚することになって、洋海は泣きながら、
「おとーさんのばか」と言った。「バカパパ」
「ごめんね」父はそれしか言わなかった。
 あれから父は引っ越してしまって、それから転勤願いを出して、去年からマレーシア支社にいる。
「おとーさんのばか」あたしの、ばか。
 あの頃、本当はお父さんは遠い宇宙や未来から来た人で、帰らなきゃならないから嘘ついたんじゃないかと空想した。
 フリンという言葉は小学一年生だって知っている。むしろ保育園に通っていた頃に良く聞いた。保育園ではお母さん一人の子もいれば、お父さんとお母さんが四人いる子がいた。毎年のように苗字が変わる子が、自分で「ママはヤンキーだから」と言ってたのを覚えている。「だから」って言いながら、それは理解して理由を言ってるんじゃなくて、理解しないで済ませるための言葉で。
 年長さんの時、何人か一度に苗字が変わった。小学校に入る前に離婚したり再婚したりはっきりしとくものなんだって聞いた。「入籍したら保育料が高くなるから結婚できなかったの。四月から義務教育だからお金かかんないもんね」「給食費がタダになるとこだったんじゃない」「あ、給食費くらいは払わなきゃ。いじめられちゃう」そんなお母さん同士の会話を聞いた。洋海は、自分のおうちとは違うんだなあと思っていた。保育園のみんなが「リコン」と「フリン」をセットで覚えてた。
 そのセットがうちにやって来て、お父さんがいなくなった。そんなことは嘘で、本当はお父さんが未来から来た人で、今はいなくなっても未来に再会できるといいなと思った。だって外国に行って会いに来ないのはひどいと思うから。このままずっと、何十年も会えなかったら、お父さんはおじいさんになって、別の人になっちゃう。お父さんだって思えなくなっちゃう。私が知ってるお父さんのまま、どうにもならない特別なことがあって、会いに来ることが不可能だったけど未来にまた会えたってなるのがいいなあと空想した。
 でもそんなのは「虫がいい考え」っていうんだと思う。なんかずるくて、卑怯な感じ。嘘だってわかってるのに、そうだったらいいなあって。努力もしないで一番になりたいなあって思うのと一緒で、嫌な感じ。
「未来は決まっている」なんて、決まってたんだからしょうがないとか、嫌なことを前もってわかっておけば違うことをして避けられるなんて、都合がいい卑怯な感じがする。

「ままならなくても、さ。未来は決まってないのがいいな私」
「うん。でもさ」
 真穂は言った。「前もって知らされたって、ままならないんだよ。知也なんか、人がわからないことがわかっても、全然いいことないし」
 それから、
「ままならないって、大人っぽいねえ。初めて使ったよ」にっこりした。
 真穂ちゃんこそ大人っぽいです、と洋海は思った。
 それで、これから給食室に忍び込むつもりなのだと知らせた。
「冷蔵庫に入ってる物が何か、調べたいの」
 やめなよ、先生に知らせなさいと言われるだろうと洋海は思った。
 ところが真穂は予想外にも、
「見張りがいるよね」言ってのけたのだった。
「真一君、博斗君」
 真穂は教室の一番遠くに座る二人に声をかけた。他に人はいない。
「いきなりだけど、校内探検しない?」

* * * *

 画面の中で、博士は河童と並んで河原に腰かけていた。河童は水かきの手で顔を覆い、泣きじゃくっていた。その肩に手をやる博士。
「狸と喧嘩したんだって?」
「妖怪は生き物じゃないって。死んでるんだって言うんだ。『河童なんか水死した子供のお化けだ』って。殺された恨みの魂が妖怪になるんだって」
「あの狸が?」
「友達だと思ってたのに」
「ねえ博士、僕たち、死んでなんかいないよね。こうして、生きてるでしょう」
「生きているとも。私も君たちも、みんな生きている」
「狸ね、博士の事も、この世界全部が、作り物の偽物だって言うんだ」
「それは……ひどいな」
「僕たちみんな生きてるよね?」
「その通りだ。ほら、キュウリだ。生きているから食べられる」
 博士は足元のレジ袋から、胡瓜を二本取り出した。一本を河童に渡す。
「生きているとも。私も君たちも、みんな生きている。なぜなら」
 そこで言葉を切り、
「心がある」手にした胡瓜を一口かじる。
「食欲もある」
 河童は博士の手から胡瓜を奪い取り、貪り食った。

* * * *

 保冷車といえど停車中は冷えない。加藤は庫内に転がされながら、体の痛みと熱暑、そして縄と戦っていた。
 縄を幾重にも幾重にも巻くと、むしろ遊びができる。粉袋に入れられぐるぐる巻きにされた加藤は、闇の中で身をよじり縄の一端を捉えようと足掻いた。体を床にこすりつけながら縄をずりあげようとし、口に縄を咥えることに成功した。しかしすぐ、唇が裂けた。
 手足を拘束されて放置されると、まず体の痛みがやってくるが、それより恐ろしいのは唇の乾きである。何もしないでも唇が乾き、腫れて膨張し、ひび割れ血が流れる。
 体に亀裂が入る痛み。
 水分代謝が異常になり体粘膜が損傷するということなのだろうが、口中にかすかに唾液が残っていても、唇は変質する。
 血が流れる口の痛みに、加藤は動くのを止めた。
「小柄だとは思ったけど、軽いな」
「拒食症っぽいからね」
「それで食べ物作ってんの?」
「アタシよりは向いてたよ、仕事」
 一月前まで同僚だった女の子の声。
 陽気で、楽しいことをしたくてたまらない子だと思ってた。軽率な、かわいい子。原価が低い品物を盗むと、利益に比べて罪は随分低い。あのチョコも上手く転売して儲けようとしたんだろうけど、まだ世の中に流通していない盗品をネットに上げることはできない。
 そして自分のことは不慮のことだから、手に余るんだろう。

 ずさんな、ためらいのない悪事。

 ふたりの様子は見ることはできなかったが、聞くことはできた。そして嗅ぐ事も。
 今自分が転がされているのは保冷車の中だが、その外がどこか、加藤には予想がついた。
 多分合っている。そしてあの子の彼氏も、多分知っている。縄を緩めて抜け出すことができれば、そうすればいいだけ。でも少し、唇の痛みが引くまで休みたい。

 無為の時間に耐える努力。

 今度は本当に殺されるのかも知れないと思いながら、加藤の意識は記憶に逃げ込んだ。
 世界はいつも、生き物と死んだ物の匂いに溢れ、いつもその意味を自分に伝えようと押し寄せた。過剰すぎていつも混乱しながら、大人たちもみんな混乱しているのだと思っていた。
 大人が自分に言うことや、してくることはいつも矛盾していたから。
「おいしいよ」と差し出される食事は腐敗菌の匂いにまみれ、凝った料理は調理器具の金属分子が混じっていて、空腹は恐怖だった。
「泣かないでね」と言う大人は、大抵自分が泣きたい時ほどそう言ったし、「怖くないからね」「大丈夫だよ」という言葉も、恐怖と不安の呼気と共に、それなのに切実な響きで発せられた。
 そのうち、大人は騙そうとしているのではなく、わからないだけだと知った。みんな匂いに気付かない。いちばんわかりやすい食べ物の匂いさえわからず、他の生き物たちの届ける匂いも、自分たちの体の匂いにさえ、気づかないのだ。まして匂いの意味には気付いていない。
 加藤は恐怖した。大人がわからないことをわかるのだという自惚れは、多くの子供が抱く根拠のない万能感だ。しかし加藤の嗅覚は本人を恐怖させ、萎縮させ続けた。
 彼は大人の嘘を受け入れて、そうすれば生きては行けると思っていた。大抵の場合、大人は子供を騙そうとしてはいない。むしろ、加藤自身が平気で嘘をつけるようになっていた。
 正直にふるまうと怒られたり嫌がられたり、わかってもらえないことばかりだったから。
 彼には記憶がある。何歳だったかもわからず、何回も反芻し上書きして、事実とは違ってしまったのかもしれないが、たとえ模造記憶だとしても、それが自分を形作っていると感じられ、克明に感じられる記憶がある。
 母親と満月の夜、海に行った記憶だ。
 無為の自分に長く耐える時、その記憶はいつも蘇る。
「海に行きましょうか」母親が言った。「月がきれいだから」
 窓から外を見上げて、思いついたように言ったけれど、それは台本を読み込んだ者の声色だった。母はわざと何度か着さした衣類を身につけ、髪にはヘアスプレーを掛けていた。
 僕は海は匂いが強烈で苦手だった。海にはいつも、匂いの五元素すべてが立ちこめている。酸素、水素、窒素、炭素、硫黄。陸上とは組成が似ているのに違う化合物が充満していて、海に近寄るだけで混乱した。
 母は、海に近寄るだけで僕が混乱することをよく知っていた。(海に行くと、海の匂いしかわからなくなるよ)。
 海から得体の知れない海獣が現れる恐怖譚を語った作者は、僕と同じ体験をしているのじゃないかと思ったことがある。
 けれど母が自分に何かを勧めるなんて久しぶりだから従うことにした。
 海は歩いていける場所にあった。親子で手をつないで、だんだん海水の匂いが激しくなった。波の音が大きくなって、足が踏むのは土から砂になり、一歩ごとに足先がめり込み沈む不安定な歩みになった。
 母の体からは硫黄が、恐怖と警告の匂いが漂った。
「夜だから、怖いの?」
 自分の言葉を耳にした途端、母の手に力が籠もり、しかしすぐにその力は弱くなった。つないだ手は放され、母の歩みは止まった。
 それだから、今まで向けなかった角度で、母の顔を見上げた。
「かあさん、怖がってるでしょう?」
 それまで、母は足元を見ていたのに、僕の問いかけに対して顔を背けるように上を見た。歩いている間ずっと、月明かりに額が照らされていたのが、その時には頬と顎の線ばかり見え、目は見えなくなった。母は顔を背けたまま、波音の来るかたばかりを見、自分の問いかけに返答は無いのだと思う頃、声がした。僕を見下ろす目は見開かれていた。
「怖いくらいきれいなの、よ。お月様って」声に籠もる不自然な力。
 それでも、再び歩き出した。
 波音が近づくにつれて、繁殖する海棲生物の匂いも漂った。月明かりが届く浅い海底に生きる生命の、放精の匂いだ。満月の夜だけらんを目指して無数の生殖細胞を放つ珊瑚虫たち。
 波が嗅覚疲労を誘っても、その匂いは押し寄せ続けた。
「ほら、波が光ってる。ね、」母は、きれいでしょう、と念を押すようだった。
 それは確かに大人が子供を連れて来たがるだろう、子供に見せておきたいと思うだろう光景ではあった。さざめく水はその表面が細かく動き続け、無数の断片に分割されていた。
 光に分割される、断片かけら
 月の光を受けながら黒く、あるいは銀に輝く断片。暗い青を反射させる断片。金色の月光を受けながら、海水のさざめきに月と同じ色は無く、光と、輝きと、闇の、無数のかけらが広がっていた。そして波音と湿った空気。
 母親を喜ばせたくて、無理にはしゃいだ。
「靴脱いで入ってもいい?」
「浅いとこだけよ」
 水に入って、足首を濡らした。波の感触。広大なのに弱く、ぬるい波の感触。膝近くまで濡らして、波打ち際をしばらく歩いて、水の色が変わっている場所に気付いた。
「かあさん、ここだけ水の色が濃いよ」
「深いの?」
「深くないよ。ほらこうだもん」
 そこに立って、はぎまでしか深さが無いことを示した。「でも他のとこと感じが違う」水の勢いが違う。足の下を次々と波が削り取っていく感触。踏む砂を奪い去る引き波。自分が動いていないのに、足の下から砂が流れ去り、足裏の安定を奪って行く引き波。
 母は、何も答えなかった。答えず、月を見上げた。釣られて上を見上げた。足元は引き波。
 足の下は流れ去り、一歩横によろけるとそこも流砂で、一気に引き波は僕をさらった。
 穏やかな内海しか知らない人間は、身長より浅ければ溺れないで済むと思っている。
 外海に面した海岸では、引き波は離岸流になる。満月の日、一番強い大潮になる。浅く、ぬるい海水が、ただ沖へ向かう。恐ろしい速さと力で、ただ沖に向かう。
 副鼻腔に     頭蓋内の巨大な空洞に     海水が入った。五元素の充満。何の匂いも解らない。

 解らない。

 ただ体表は自分をもみしだく水流の圧力だけを感じ、顔は水温だけを感じ、手足はじき暴れるのを止めた。暴れるのを止めて、流された。
 体は仰向けになった。
 母さんは、僕が仰向けになるとは思ってなかった。大人の男の体は重心が胸にあるから、溺れるとみんなうつぶせになる。男は離岸流にさらわれたらすぐ窒息する。あのあたりの人間ならみんな知ってた。母さんは知ってた。
 でも僕はまだ小さかったから仰向けに浮かんだ。そしてずっとひっぱられながら、ただ、月を見た。沖にどんどん流されて、頸を動かせるだけ動かしても陸がどの方角かもわからない外海そとうみに流されて、ただ月を見ていた。
 金色の満月。あんまり明るいから、星は一つもない。クレーターと砂漠の影を持つ、金色の満月。溺れてて、苦しいのに、きれいで。
 何であんなにきれいな物があるのかな。何で自分と全く無関係にきれいで、そのくせ自分にその綺麗さを見せつけるのかな。
 呼吸をしてるのに、何の匂いもしない。誰の気持ちも、自分の心もわからない。
 それがずっと続いて、何だか水温と波音が変わったと思った。水の勢いが変わっていたから、首を動かして月から目を逸らしたら、海岸が見えた。
 立ち上がれた。
 海流が一回りして、体を海岸に戻したんだ。

 よろよろと水をかき分け、砂浜に戻れた。さっきいた場所からどれくらい離れたんだろう。まるで知らない遠い場所に流されたんだろうか。
 違った。海岸の向こう、松林の方に塔が見える。あの塔は道沿いのホテルのチャペルだ。ほとんど元の場所に、あんなに流されたのに元の場所に戻っていた。来た時、あの近くを通ったからわかる。
 そのあたりの波打ち際に、人影が見えた。人影は、立ったり、四つんばいになったり、そしてまた歩き出したりしてた。月明かりに影だけが見える。だんだん近づくと母親で、僕はのどをやられて大きい声は出せないから本当にそばに寄るまで、母は僕に気付かなかった。
 母さん、ひどく泣いてて、立てないんだ。泣き叫んでて、僕が近づくのに気付かなかった。嗚咽で這いつくばって、それから立ち上がって少し歩いて、またひざをつく繰り返し。
 僕が月を見てる間、母さんずっと泣いてたんだ。
 僕に気がついたら、ぺたんて、尻餅みたいになって、でも両腕はこっちに伸ばして      あのあと母親におぶさって帰った、あの松林の中にいるときの記憶。幸せの記憶って、たとえ誤解だろうと大切だ。
 胸と腹は母の背中に蒸れて暖かく、自分の濡れた背中は冷えて気味悪く、海水の名残はべたついて、それなのに幸福で、僕は母を信頼していた。
 幸福だったから随分長いこと気付かなかった。あの時、母親は自分を殺すつもりだったんじゃないかって。
 でもあの時僕が幸せだったのは確かで、母は随分重い僕を、何度も休みながらおぶって帰った。
 二人っきりで身を寄せて、僕は幸福。
 けれど母は違ったんだろう。それとも母も幸福だったのかな、あの時。

 高校の頃、何かの拍子に「親に殺されかけた」と言ってしまったことがある。そしたらその場にいた全員が、俺も俺もって言い出して、まあ殴られたぐらいのことだけど、中には親子で半日踏切を見つめてたって奴もいて、何か、特別ひどい思い出でもないのかなあって気になった。でもやっぱり特別で

 また殺されるのは、嫌だな。
 痛いけど、縄を緩めなきゃ。

* * * *

「うん。冷蔵庫が動いてるね」
「中に何か入ってるわけでしょう」
「でもさ、先生が使ってんのかも」
「だからこっそり確認したいの」
「先生に確認してもらえば」
「つまんないでしょ」
 洋海よりむしろ真穂が、一番冷蔵庫の中を見たがった。知也の予知を確認できるからだ。
「今日はさ、金曜で先生も早く帰らされる日なんだよ。チャンスでしょ」
「あー、キョーイクイインカイの命令」
「ロードーカイカク」
「だから、生徒も下校しろって言われたでしょ」
「みんな良く知ってるねえ」
 洋海の言葉にみんな渋い顔をした。
「帰りの会で先生言ってたよ」
 こうして本来は自分の提案なのに、洋海は給食室探索の発言権を失った。
「じゃ、確実に、邪魔されずあの中身を確認するにはどうすればいいと思う」
「怪しまれずに」
「怪しいことをする、と。」
「一旦みんな帰って、グランドの生徒も先生もいなくなってから、こっそり戻ってきましよう」
「グランドに人がいっぱいいるから、ばれそうだもんね」
「先生の駐車場から見られそうだし」
「え」帰るなんて、この場を離れるなんて。洋海だけがその案に乗れないでいた。
「私だけ、ここで待ってちゃダメかな」
「こんなとこにずっといたら不自然」
「抜けがけはしないから」
「あのね、洋海ちゃん、」信一が真面目な顔で言った。「冒険と無謀は違うよ」
「信一君に言われるとは思わなかったよ」
「前に漢字のテストで間違えたから詳しいんだ」“無冒”と書いた、と言っているらしい。
「冒険には予定を立てることが大事でしょ」
「わかってるよ」
 わかってる。天体観測と一緒。予定が大切。

 お父さんがいなくなってからの天体観測。お父さんは一番調節が簡単な望遠鏡だけ残して行った。天頂レンズはあって見やすいけれど、倒立像になって、月も星も左右逆に動く。望遠鏡の枠の中から、月はぐんぐんずれていく。左右逆だから移動を追っかけられなくて大変だった。前もって実際の動きとレンズの中の動きを良く考えて、予測しておかないと追いかけられない。でも、そのずれは確かに月が動き続けているあかしだった。地球と違う遠い天体の証に、わくわくする。
 遠い、光が届く限り遠いところに、たとえ目だけでも触れるのは冒険の喜びと一緒で、それを味わうには準備が大切なのだと、洋海は知っていた。
 小さいころ、大きな天体ショーがある度に、父はその楽しみを洋海に語った。洋海も手伝って(お父さん、ひざ掛けと水筒とお菓子持って行こうね)、準備して(お父さん天気予報聴いておくね)、調節して(海岸は暗くていいんだけど水平出すのが難しいなあ洋海)、でもまるっきり曇ってたり、降られたりした。そんな日は、父はさっさと家に帰った。
「それでオッケーなんだよ」父が言ったことを洋海は覚えている。
「ままならない空模様でもさ、そのずっと向こうでは、星が光り続けてる。それは確かなんだから」
 望みが叶わない時もある。でも望むものはずっと、どんなに遠くてもあるんだと、洋海は知っていた。
 ままならなくても。

「じゃ、一時間後に集合」
「一時間後に」
「あの時計、合ってんのかなあ」
 博斗が言い、それは(いきなり何言い出すんだ)という気もしたが確かに校庭の時計はいい加減で、
「あー、確かに不安だー」と信一が言い、
「大丈夫、大体合ってる」と洋海は言った。西の方に人差し指を向けて。
 みんなが洋海を見た。
「今日の日没時間は六時五十分過ぎでここは高台だから少しずれて七時くらいなのね。今、太陽が三十度弱上にある。だから今は大体四時四十分から五十分の間だよ」
 確信に満ちた語りだった。が、まさにいきなり何言い出すんだ、だった。洋海は、みんなの顔つきに気がつき、
「え、と、帰ったら時計見てね」と頼りなく言った。
「見るけど」と真穂が言った。「洋海ちゃんすごいねえ」
「すっごーい、時間が読めるスタンドなんだねー」
 その意味合いは洋海にはわからなかったが、からかわれてはいないと分かった。
 みんな一時帰宅し、そして洋海の読みは正確だった。
 その結果、五年一組の子供達は四人、一時間後の給食室前に集まったのである。

 ある者は一度帰宅してから出直し、ある者は親に嘘をついて、給食室に来た。
 まだ暗くなりきってはいないから、給食室の窓から忍び込むのは、簡単そうだった。博斗は、家から釘抜きを持って来ていて、ベニヤ板のクギを外しだした。
 一方信一はボールを小脇に抱えて来た。
「カモフラージュ用。忍び込んでるとこが先生に見つかったら、これが窓から入っちゃったから、取りに入ったということにする」
「こんなに大勢で?」
「口実が何もないよりましだろ」
「本当かよ?」
「多分ね」
 クギを引き抜くごとに、振動で砂埃が舞った。
「ひどいホコリだ。おまえ先に行けよな。はじめの奴が一番服が汚れるから」
「じゃ、僕が冷蔵庫開ける?」
「僕が行くまで開けるなよ」
 何だか思い詰めていたのに、洋海は面白くなってきた。
「知也君連れてくれば良かったね。細かいこと教えてくれたかも」
「だめ。小学一年生なんだよ。家にいるよう命令してきたよ」当然五年生ならいいというものでは無い。が、真穂は断言した。
 給食室の冷蔵庫が動いている事に気付いても、盗まれたチョコと結びつけるのは飛躍しすぎだと洋海は思い始めていた。だから、むしろ何もなかったらひどく叱られるだろうなあと思った。
 真穂は「着替える時間なくなった」と言い、スカートなので見張り役になり、三人は窓枠に懸垂して忍び込んだ。
 そして冷蔵庫の前に集まった。
「じゃ、開けるよ」と信一が声をかけた。そして扉の取っ手に手を掛けようとした時、

 ドン!

 冷蔵庫が爆発のような音を立てた。古い冷蔵庫特有のモーター音で、間欠的に鳴るのだが、子供達はひるんだ。
「・・・・・・みんなで開けようか?」
 三人が取っ手に手を添えて、あらためて扉を引いた。
 冷蔵庫は段ボール箱でいっぱいだった。
 そして、箱絵はみんなになじみある、妖怪。
「すげー」
「すげーよ。これ全部妖怪チョコ?」
「開けてみない?」
「ひとり何箱あるんだ?」
「食べる? 食べてみる?」
 窓の外から覗いていた真穂も、「本当だったね」と上げた声は歓声に近かった。
 夢みたい。夢なんじゃないかな。洋海だけが、何も言わずにいた。
「食べるよりフィギュア欲しー」
 信一の声に、洋海は初めて我に返った。
 自分だけでは怖かった。でもみんなは面白がってつきあってくれた。本当はどうするべきだったろう?
「ごめん、みんな。ごめんね。箱はこのままにして」
 全員が洋海を見た。
「・・・・・・なんで?」
「あたし達の物じゃないし、盗まれた物だもの」
「・・・・・・つまんね」
「でも確かに食べちゃダメだよね」真穂が言った。
 みんなの浮き足だった気持ちはしぼんだ。
「先生に言う? 誰が言う?」
「叱られない?」
「警察にも、叱られる?」
 洋海はそこで絶対に、自分が言わなければならないと思った。
「私が叱られる。私が先生に言う。みんな帰っていいよ」洋海は一生懸命に言った。
 しかし、
「ひろちゃん、私は一緒に行くよ」真穂が言った。「こうなったのは知也のせいでしょ?」
「僕がボール入れたんだから、僕が言う」信一が言った。
「こんなに靴跡がついてるんだから、先生にも警察にもばれちゃうよ」博史が続けた。
「そうだよね。警察が来る」洋美はみんなの言葉が嬉しくて、でも困り果ててもいて、懸命に言った。
「指紋、採られちゃうでしょ。私だけでいいよ。みんな帰って」それが緊張の頂点だった。
「指紋、採られてー!」緊張は破られた。
「うん! 採られてみたい」
 みんなはまた、楽しくなってしまったのだ。
 けれど職員室にはもう誰もいなかった。真穂は小さな手提げに電話を入れて来ていたが、これも繋がらなかった。
「学校からはケータイ使えないって、先生も言ってたもんね」
「電波が悪いんだ」
「いや電波は悪くないっしょ」
「はいはい悪いのはジュシンジョータイでしたよお」
 ふざけてひがんでみせる信一に、もう緊張は無かった。
「どうしよう。みんな帰るしかない?」
「やっぱ、二人ずつ見張りに立ってる? 代わりばんこ」
 どんどん暗くなる時間だった。けれどなんだか楽しくて、
「今ここに犯人来たらどうするよ」
「どう逃げる?」
「あ、いい手がある通風孔」
「あれかあ」
「何? あれって」
「校舎の床下にね、通風孔ってあるでしょ」
「うん」
「あそこは大人は入れないけど僕たちは入れる」
「なんだそれ」
「前にね、子犬が入っちゃってね、先生たちが困ってたけど、博斗くんがさっさと入って助けたんだよね」
「服汚れそう」
「いやもっと怖がらないと。犯人から逃げるんだから」
「まずこれからどうするかでしょ」
 そんな話をしていた。まだ蝉の声がしているのに、いきなり蛙の鳴き声も始まった。
「あ、まずいよほんとに」
「じゃんけんで決める?」と言った時、
「お姉ちゃん、じゃんけん入れてー」と声がした。
「知也、留守番でしょう」
「お姉ちゃんお迎えに行くってお母さんに言って来たの。あのね僕が初めから来たら、なくなっちゃうに違いないって思ってがまんしてたの」
「何言ってんの?」男の子達には知也の事情を話していなかった。
「あのね、この冷蔵庫にチョコレートあったんでしょう?」
「うん」
「僕が気づいたの」
「うおー、すげー」
「リアル小一名探偵だ」
「なんで? やっぱ足跡? 下足跡げそこん?」
 男子二人は湧いた。
 更に知也は十円玉を何枚も持っていて、「玄関前に電話があるでしょう」と言った。使っている人を見たことがないから全員気付かなかったが、十円玉だけ使える電話が確かに設置されていた。
「わー、真穂ちゃんの弟すげー」
「でさ、110番、誰かけんの。じゃんけん?」
「お願い、それは私にさせて」洋海の声は叫びに近かった。
「はい、洋海ちゃん」知也はお金を全部洋海に渡した。

 110番はお金がいらなかったけれど、その後家や先生への電話に、十円玉は使い果たされた。その間に、「犯人来たらどうする」が蒸し返され、大人は登り棒に登れないからてっぺんに行けばいい案が出され、でも登っちゃったら逃げられないと、みんな自分たちがばかな話をしていると思いながら真剣になっている間に、警察の車が来て、知也君と真穂ちゃんのおうちの車が来た。

 男の子達は自宅の電話番号も覚えていなかったから、警察から電話が行って大騒ぎになったらしい。
 警察の人は「みんなすぐ家に帰るんだよ、確認だけしたらね」と言ったけどなかなか帰してもらえなくて、真穂ちゃんのお父さんに送ってもらう時には、空に夏の大三角形が見えた。
 翌日、「お手柄小学生名探偵」と報道された洋海達は、あらゆる大人から叱られた。そのくせ、クラスメイトからは、うらやましがられた。
「犯人が来たらどうしよう」と心配していたけれど、犯人は来るはずがなかった。事情聴取で警察にいた、運転手だったから。
 共犯者が小学校の卒業生で、地元の人間だったのだが、
「妖怪だったら良かったのに」信一が言い、その点については洋海も同感だった。

* * * *

  画面の中で、博士は狸を助け出した。
「大変だったな。あいつらが狸に化けて妖怪たちを喧嘩させていたんだ」
「ありがとう博士。絶対来てくれるって信じてたよお」
「信頼しなければ、生きているとは言えない」
 そうして狸にすまなそうに様子をうかがう妖怪たちに視線を移し、手招きした。
「私たちは互いに信じ合い許し合うから、生きていけるのだ」
 妖怪たちは狸に抱きつく。喜び合う、小さな異形たち。博士はカメラに向かい、画面の外に語りかける。
「それがたとえ、違う世界だろうと」

* * * *

 保冷庫を外から閉じられると、中から開けることは困難である。毎年、閉じ込め死亡事故が起こる。
 加藤は顔を血だらけにして、上体を起こした。頭がぼうっとしている。それは打撲のせいか、血の匂いの不快が原因なのか、庫内に酸素が足りなくなったのかはわからない。足はまだ縄に縛られて、解けそうもない。けれど体はどうにか動く。手が自由なのだし。
 ポケットからミュージックプレイヤーを取り出し、電源を入れると微かな点灯。加藤は這いながら扉を目指した。扉に何か安全装置があるだろう。内壁より扉にありそうだ。扉を撫で回し、異物感を求めてどれほど経ったろう、加藤は松葉ピンにつながるチェーンを探り当てた。
 扉を開けると日中の光が目を刺した。しばらく何も見えなかったが、放り込まれた時と同じ匂いを嗅いだ。予想通りだった。
 自分を縛った人間に感じた匂い。アルミニウムの金属臭。
 保冷車は、爆発事故で倒産したままの、外壁はあるのに屋根が抜けている、廃工事用に置かれていた。
 前もってここにこの車を隠す予定だったんだろう。ずさんな犯人だけど、最低限の計画はしていたのだ。
 光の中で、加藤は足の縄を解こうとした。それから、あいつらが来たらまずいから、物陰に移動するのが先かな、と思った。ふらついて、頭が働かず、どちらが先か考えられなかった。
 次々と時間ばかりかかってちっとも楽しくないゲームをやっているみたいだ。
 楽しくないし、まだ本当には脱出していない。体を縛られてもいる。けれど、加藤は不思議なほど、自由な気持ちになっていた。
 何かから解放された気持ち。
 なんでこんなに嬉しいんだろう。
 長いこと、ずっと長いこと我慢ばっかりしてた気がする。

 きっとこの後、自分は同じ仕事を続ける。資格試験の勉強して、受かったら一日四十円の手当。でも、それは窮屈なことじゃなくて。

 もう、自分を殺させない。

 その後、縄を解いた加藤は自力で通りに出て、会社まで歩いた。ふらふらして、顔は汚れがこびりついて、それなのに初めに会った同僚に掛けられた言葉は「こんにちは」で、それから「どうしたのどうしたの」と慌てられた。
 休養室に保護され、そこで昏睡した。
 病院で気付くと、枕元には母親がいた。
「気が付いた?」って、怖がるみたいに訊かれて、
「うん」
「欲しいものある?」
「水飲みたい」
「病院の水はまずいだろうけど、我慢できる?」
「大丈夫だよ」すごくまずい水でも、今では大丈夫。「今は飲めるから」
「大人になったもんねえ」
「うん」
「やっぱり外に出て仕事するって、いいのねえ」
「そうだね」
「ひどい目に遭った」
「うん、ごめん」
「なあに」
「心配かけて」
「あんたが謝ることなんか、何もないでしょう」
 あんたが謝ることなんか、何もないでしょう。
「そうかあ」

 同じなのに、違う世界に移ったようだ。
 体中痛くて、頭も働かないのに、すごく、自由な感じ。

* * * *

「まったく犯人が妖怪だったら良かったのに」
 社長室に、洋海は母と並んでいた。
 あらゆる大人から叱られた洋海は、結局の所、母親の窮地に心を痛めてあちこちを探す内にチョコレートを探し当てた感心な子供ということに落ち着いた。
 何より母の会社がそれを望んだからだ。
「今回の事件で、予定通りの新製品キャンペーンはできなくなったが、返って大ヒット間違い無しになった。おかげで事件が解決したよ。ありがとう」社長の言葉は棒読みだった。テレビカメラが洋海と社長を撮しているのだ。
「また一からですが、もう一度製品を作って下さい」
 社長は母に言った。製造工場は治安が悪い地域にあるなどと、悪いイメージがついてしまってはまずい。慈愛に満ちた親子関係をアピールしたかった。
 洋海はテレビカメラを意識しながら、訊ねた。
「あの戻ったチョコは、これから売るんですか?」
「いや、もう売れないね。品質を保証できないからね」
「じゃあ、お願いがあります」
「君が欲しいのかな?」社長は大げさな表情をしてみせた。
「私の学校のみんなに下さいませんか。みんな絶対喜びます」
 社長は、本当は洋海に感謝をしていなかった。しかし「良い宣伝になるな」とマイクが拾えない程度に口の中でつぶやいてから、
「それは素晴らしい。君が全部下さいって言うのかと思ったが、素晴らしい考えだ」
 大げさな笑顔でそう言った。
 洋子は洋海に、
「何かお母さんに隠している事、あるんじゃない?」と聞いた。
「いっぱいあるよ。けど、お母さんをだましたりしないよ」
 そう応える洋海に、
「お母さんも洋海に言えないことがあるからねえ」と言ってしまった。
 そうして娘をたしなめるどころか、反対に、
「お母さん、私はかまわないよ。秘密って、嘘と違うでしょ?」ねぎらわれた気がした。
「嘘はダメなんだ」
「うん。秘密はいいけど嘘はだめ。私は本当が好き」
「ふうん?」
「私はそうなの。多分ずっとそう」
 母は娘に、「秘密があったって、洋海が変わるわけじゃないものね」と言った。

 洋海は知也に、聞いたことがある。自分が宇宙に行けるかどうか。そんな夢を見ないか。
 知也の答えは、
「もし見たらね、本当になって欲しいから教えない。洋海ちゃんが宇宙飛行士になってたって僕が言ったらね、多分それは嘘ついてるの」
「そうなんだね」嘘でもそんな夢を見たと言って欲しい気がする。でも、
「うん、嘘なら私いらないや」
 八月の全校登校日に、チョコは全校生徒に配られた。小学校の生徒全員が、チョコレートをもらって、大はしゃぎしていた。
 洋海は全校集会ではしゃぐ子供達の向こう、体育館の格子の入った窓の先に、青くけぶる筑波山を見た。

 みんな、今目の前にあることで精一杯。遠い宇宙のこと、遠い未来のこと、誰も考えていないみたい。私は遠いところばっかり考えるから、いつも間違えてしまう。そしてとてもダサい。
 でも、私が考えている所へは、いつか行ける。
 どんなに途中間違ったとしても、それは嘘じゃなくて、本当に行けるんだ。
 多分、私と同じ考えの人はたくさんいる。私の周りにも、絶対いる。
 違う考えの人とだって、きっと友達になれる。自分と違うことは気にしないのに、私の全部を気にしてくれる人が、きっといるんだから。
 私だってそうなれる。

《了》

文字数:32505

内容に関するアピール

 私は今期受講生中、SFファン歴最年長でした。30年も前にSFマガジン誌で紹介されていたクラリオンワークショップに憧れた身が本講座に参加できたことは、真に喜びでした。何しろ第一期は二時間遅れで申し込みに間に合わず泣いていたのですから。
 私は書いた物を読んでいただくと、まず毎回「泣いた」「文章がうまい」と言っていただけるのですが、投稿落選を重ねてきました。素人の作品を読んで下さるのは親切な方だから、本音は言わないのだろうとずっと失望し続けて来ました。そして本講座でも一度も選出されませんでした。第一回梗概では東さんから「五反田の話になってない」と一蹴されましたが、あの時「これこれで五反田だからこそ成立する話です」と補足できていたら選んでもらえたでしょうか。もっともその後も読んでみたいと思っていただける話を一度も作れなかったのですが。
 とはいえ実作では「この文章だけは・この描写だけは」と思うところがあって書き進めましたし、一度は選出外の特例点をいただけました。そしてこの上なく嬉しく思っていたのは、文一つだけだろうと「これだけは書けた」と思った部分を、必ず大森さんが取り上げて下さったことです。大森さんは必ずその部分を褒めて下さいました。自分には何分なにぶんか、届ける力や書く力があると信じることができました。
 第一回梗概を提出して、一番初めに褒め励まして下さったのは高木刑さんでした。その後も出版社の方々からお勧めをいただけ、何よりダルグレンラジオで高橋文樹さんから望外の励ましをいただいたこと、夢のようでした。
 拙作は、初めて読んだ山田正紀作品である『宇宙犬ビーグル号の冒険』の思い出から出発しています。匂いで理論的に思考し会話し記録する犬たち。私には「嗅覚に頼った感覚表現を多用する」程度しかできませんでしたが、シシマルのかわいらしさは今も鮮やかです。
 私は書く上で、読者の感情をつかまえたいと願っています。SF読者としても、身に刻まれるような心理描写や、他ジャンルではありえない感覚表現に魅かれて来たように思います。
 全講座出席し、全講座後懇親会に参加し、毎回徹夜して田舎に帰っていました。プロ作家を目指す気満々の方たちと接することができて、本当に楽しかった。
 これからも書いては落選し続けるでしょう。でももっと上手く書けるように変われるはずだと思っています。そしてこれからも変わらずSFファンであることは確かです。
 本当に皆様ありがとうございました。

文字数:1035

課題提出者一覧