空腹の触

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梗 概

空腹の触

元サーカスの相棒同士。互いに半分人間。タルホは左半身、Kは右半身が、醜悪に焼けただれ使い物にならない。
Kは何年も昏睡状態で目を覚まさない。夢遊病のKが夜中にふらふら家の中を歩きながら、「タルホには男の恋人が必要だと思う」と独り言を口にするたび、タルホは傷つく。
夜中じゅうえんえん月を観続ける密教の観相行〈月輪観がちりんかん〉を繰り返すと、たとえ太陽にかき消されていても月がどこにいるかわかるようになる。寝たきりのKに寄り添いながらタルホはこれを始め、行者といっていいくらいになった。
だから、月が自分の体を食べ始めたことにも世界で一番最初に気がついた。ヤモリのはりつく京都の借家の窓越しにそれを見た。
月は何日か自分の体を食べながら生き延びる。そして全部食ってしまったあと、体の内と外を裏がえし、今度は自分の内臓を食べはじめる。破損した内臓の破れ目から水銀がぼとぼと落ちて、地球の夜に滝を作る。
そうしてすっかり深手を負った月は、空に留まる力も衰え、地球に向かってずり落ちてくる。
植物が急速に大きく育ち始める。人は体毛が伸び、コヨーテによく似た獣人ワーに変異し始める。
借家はシダに覆われていく。寝たきりのKの胸を貫いて木蓮の樹が生える。
潮汐力が働く。借家も町も海に飲まれる。海が膨らみ、月に向かってせり上がる。
タルホは海からただ一本突き出たKの木蓮の樹を、海が膨らむよりも速くよじ登る。
薄明高度トワイライトゾーンまでゆき、空クラゲスカイフィッシュを乱獲する。捕獲した彼らを一つどころに押し込め、群体で一個の体を形成する習性を利用して、即席の一人乗り宇宙船をこしらえる。気泡室に体をねじ込むと、空クラゲスカイフィッシュは重量を感知し、ぶら下がる者をふり落とすため、全長40メートルを超える長い管のような胴体を優雅に泳がせて上昇を始める。
月が近づくと、月輪観で鍛えたタルホに、月の飢餓が伝わってくる。
体毛が急速に伸びる。タルホは獣人ワーに変異する。
月面に降り立つ。空クラゲスカイフィッシュの泳鐘と保護葉で編んだ宇宙服を着て、宇宙船を出る。裏返しの内臓の森のなか、かさぶた状の腫瘍めいた無数の穴から水銀が噴きだす。
タルホは臓物の森に埋まった腹内側核と視床下部外側野の青い結晶を破壊する。月の食欲中枢、満腹中枢がバカになる。タルホは月の猛烈な餓えを観測する。
月は物凄い勢いで自身の肉体を食べ始める。月の体積を失われるごとに、潮汐力は減少し、月に伸ばされた手のような海が水位を下げていく。
月はついに自分を喰い尽くして消え失せる。足場がなくなる。タルホの肉体が投げ出される。
思い出す。〈夜街サーカスナイト・タウナ〉——二人がいたサーカス団。
海の上にかかった長大な空中ブランコ。
中央で、タルホがKの体を捕まえた。
なぜあの時、タルホはKの手を離したのか。
なぜあの時、タルホは自らもブランコから足を離したのか。
自分のものにしたかった。さもなければ二人で消えてなくなりたかった。
「これが望みか」幻が耳元で囁く。
そうだ。私は「共に消え失せる」という望みを果たすのだ。
その時、タルホは再びぶり返した強烈な餓えを感知した。姿が消えてしまった後も、なおかつそこに生きていた。
月。
何もない空間に穴がぽっかりと空いた。
地球は自転の加速度を増して、ぼろぼろに崩れ、昏い月の穴の中に呑み込まれていく。
末期の星から、目映い光がたちのぼった。
発光する幾億の空クラゲスカイフィッシュ群体が一つになり、織りなす、巨大な宇宙船が、月の穴の引力をものともせず、唐突な終わりを迎えた星を脱出した。
宇宙船の軌道上にタルホはいる。群れの大移動に、巻き込まれる。気泡に包まれ、ポリプに絡め取られて抜け出せなくなる。
食欲中枢の壊れた月の亡霊が、星とともにKの魂を呑み込んでいく。タルホは見えない星に手を伸ばすも、決して届かない。タルホがそこに至ることはない。

文字数:1620

内容に関するアピール

『桂男』や『嫦娥奔月』等、月にまつわる神話を参照しつつ、全体としてはオールディス『地球の長い午後』が描くような、「月の変異のために、生命の過剰さに覆いつくされた世界」を標榜した。本作では破天荒で奇天烈な生命が躍動する世界を、ファンタジックであること、ダイナミックであることは担保しつつ、リアルな現代の延長線上に描き出したい。

文字数:162

課題提出者一覧