肉月

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梗 概

肉月

どんなに美しいものも、一皮剥けば、そこにあるのは肉でしかない。
人も、月も。

カイザは、年若い、月の彫肉師シェイパーである。
彼は月府の「外交資源」である生体人形、プーパの肉体を作っている。
月府は地球の友好国に対し、見目麗しい男女のプーパを親善の証として贈っていた。
彼の師ウンザとカイザが作る肉体は、生ける彫像と評されるほどに美しかった。

プーパの材料は、月の地下で採掘される「肉」だった。
月開拓初期、月の一定深度以下が、赤身の肉状の物体に埋め尽くされていることが判明し、衝撃が走った。それは菌類に似た生命体と判明し、毒性もなく、驚くべきことに食用に適していた。開拓期の貴重な食料となって以降、外観と食感から「肉」と呼ばれていた。
後に肉は、高い可塑性と生体適合性が確認され、義肢の素材、そして全身を肉で象るプーパへと発展した。

カイザらはプーパのにしか関わっていないが、中身は、月人の志願者から移植した脳神経系と臓器であることは知っていた。
非人道的に思われがちだが、月人は低重力からくる細長い体型ゆえ、人類の標準体型に強い憧れを持ち、地球での厚遇もあって、志願者は絶えなかった。

ある日、二十の乳房を持つ地母神型の肉体という、奇妙な制作依頼が来た。
被移植者の心情を思うとカイザは気が進まなかったが、師ウンザは意義あるものとして引き受けてしまう。
だがウンザは、工房地下深くの「肉鉱」で、優れた肉質を求めて深く潜った結果、肉の落盤に遭う。ウンザを助け出すことはできず、彼は生き埋めとなる。
師の遺志を継ぐかのように、カイザは一転して制作に打ち込む。
しかしカイザの不安通り、美しい肉体を夢見ていた被移植者は、自らの姿に衝撃を受ける。彼女は地球に着いて間もなく自死したと聞き、カイザは茫然自失となる。

しばらく後、さる地球の権力者が、自らの身体をすげ替えたいと月府に註文し、カイザに仕事が回る。クァ=グャと銘打たれたそれは、只管に肉体美の極みを目指す仕事で、カイザは久々にやりがいを強く感じた。
制作中、肉鉱に降りたとき、カイザは肉壁から夥しい数の手足が生えているのを見て腰を抜かす。手足は小さく蠢いていた。「肉が目覚めた」と怯えるカイザ。折しも、月震(月の地震)がにわかに増えていた。だが、いまクァ=グャを投げ出すわけにはいかない。恐れと戦いながら、彼は肉を削り出す。
はたして、最高傑作と呼ぶべき肉体が出来上がった。

カイザは、制作者として納品への同行を命ぜられ、クァ=グャとともに地球への連絡船に乗り込む。
だが航行中、月からの遠隔管制に異常が起き、船は地球圏を離れる軌道に入ってしまう。驚いて窓外を見たカイザは、熟れすぎた果実のように割れて崩れゆく白い月面と、そこから突き出した巨大な赤い脚を見た。
肉の落盤で取り込まれたウンザの身体が核となって、月の肉すべてが、巨大なプーパと化したのだった。

漂流するカイザ。備蓄も尽きてしまった。
彼は苦悩した末、至高の芸術であるクァ=グャを、涙ながらに、ただ腹を満たすために口にした。

文字数:1255

内容に関するアピール

小説に限らず、月は、美の象徴として扱われることが多いのではないでしょうか。
たしかに、中天にただひとつ浮かんだ月は、夜闇の天鵞絨ビロードの上に、一粒の輝石を配したかのようです。
しかし、たとえばいかに美しい者でも、見方を変えれば肉と臓物の袋でしかないように、月の外面の美と対比しうる不気味さを描き出すことができないかと考え、装置として、月の地下を埋め尽くしている肉を構想しました。

「にくづき」と呼ばれる部首がありますが、これは「肉」の字を書き崩していった結果、「月」と同じかたちに変じたという由縁を持つようです。
月の中に肉が詰まっているというイメージは、この部首から着想を得たものです。

月と生体人形プーパの持つ美しさ、その内に潜む醜怪さ。
美を作り上げることへの拘りと、自らの手で美を壊さなくてはならない哀しみ。
これらのモチーフを、(ある種の冒涜的な)美を象る彫肉師シェイパーの目を通して描きたいと考えています。

文字数:409

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肉月

 軽やかな音とともに、刃先が肉を刻んでいく。
 彫肉刀によって薄く、なお薄く削り落とされた肉は、ほのかな桃色をした切片となって、零下に保たれた鉄の机にへばりつく。肉片が幾重にも層をなしたところで、私はそれらを掴み、傍らの屑箱に放り込む。肉はゆったりと自由落下し、屑箱の底に積み上がった肉色の山の上にふわりと積み重なった。
 私は、ひたすら肉を削ぐ。
 肉を削いで、筋束を形作る。
 仕上がった筋束は、不凍液に満たされた水槽へと沈めておく。そしてまた、同じ水槽に漬けてある肉の塊を取り出しては、ふたたび切削をはじめる。
 この半日で削り出した筋束は六十本ほど。仕切り板で区分けされた水槽の底に、整然と積まれている。筋束は、少しずつ形を変えて削り出している。大きなもので太さ数ミリ、小さなものではミクロンの単位となる。筋束は、筋膜によってまとめ上げられ、ひとつの筋肉となる。その完成形を思い描きながら、一つひとつ、削り整えていく。
 いま削り出している筋束は、上腕三頭筋の一部となる。上腕三頭筋は、対となる上腕二頭筋が力こぶを形作るような、目立つ筋肉ではない。だが、腕の筋肉の中で最も太く、その造形は腕全体の印象を左右する。
 隆々と力強ければ、男性体にふさわしく、優々としなやかならば、女性体にふさわしく。
 ひとつの筋肉は、全身の筋肉との緊張関係をはらむ。その調和を図るために、全身を俯瞰するのと同じまなざしで、細部をも見通すことが求められる。
 それは緻密にして、繊細な営みだ。

 私は、彫肉師シェイパーである。
 自らが削り出した筋肉を人の形へと組み上げ、人造の肉体、<プーパ>を象る者である。

 手にしている彫肉刀をじっと見つめる。指先が、刃にわずかな引っかかりを感じた。私は換えの刀、平の二十二番を取りに、席を立つ。
 眼前にそそり立つ工房の壁は、白一色だった。霜に覆われているためだ。肉を傷ませぬため、また肉をわずかに硬くして加工を容易にするため、工房内は零下三度に保たれている。だが、寒さに震えることはない。遮熱にすぐれた、さながら宇宙服のような耐寒スーツが、ここでの作業着だからだ。肉を刻む指先は、チューブを循環する温水によって暖められ、かじかまないように工夫されている。私のような彫肉師にとっては、自らの思惑に従う指先の動きこそが、命である。

 工房の扉が、開いた音がした。肩越しにそちらを一瞥する。
 そこに立つのは我が師、ウンザだった。
 私は引き出しを探る手を止め、師の方へと向き直った。
 と、師はややよろめくように、足を出す。この寒さの中でも耐寒スーツを着けず、銀色の遮熱ブランケットを羽織っているだけだった。皺が深く刻まれた六十過ぎの顔は、赤黒く火照っていた。
「どうだ、カイザ」
 虚ろな師の視線に、私はじっと向き合う。その黒目は泳いでいる。酔っているのだ。また飲んだのですかと、口走りそうになるのを堪えた。
「概ね順調です。少しばかり、時間がかかってはいますが」
 ふぅん、と鼻を鳴らした師は、工房の壁に張り出してある絵図に目を移した。
 描かれているのは、長身かつ鍛えられた肉体をした、男の裸像だ。裸像のすぐ傍らには、全く同じポーズを取りながらも、一切の表皮が取り払われ、皮下の筋肉があらわにされた解剖図がある。解剖図の周りは、曼荼羅のように、個々の筋肉部位の絵で囲まれていた。
 彫肉師が肉体を形作る際に、その青写真とする<肉図>だった。
「バランスは取れてっけど、か細いなぁ。か細い。男の体ならもっと、堂々としたもんじゃないのか」
 呂律の回らない舌で「このへん、あとこのへん」と呟きつつ、師は指先で、絵図の上腕、胸板、そして大腿を順に指した。
「お前も男なら、わからんかなぁ」
「ですが、普通の体型には、てらいのない良さがあります」
外連けれんだ、外連が足りねぇ。地球の奴ら、こんな普通の体なんて、掃いて捨てるほど見てっぞ」
 師ウンザは、性別ごとの特徴を引き立てた造形を好む。男ならば張り出した筋肉。女ならば丸みを帯びた肢体。
 なるほど確かに、地球の者には、師が目指す造形のほうが人気はあった。私も十五で徒弟になってはや十余年、師の教えに従って<プーパ>を作っていたし、その通りに作ったものが地球で喜ばれたこともあった。
 だが私は、免状を受けて一人前になるまで、もう間近である。
 今でも師と同じ工房に在り、師とともに作品に携わることは多いけれど、自らが思うものを明確に描いていかなければならない時期だと、私は考えている。
「ありふれた人間の形にこそ、人類としての歴史の積み重ねがあるのではないでしょうか。私はそこに、美が宿ると思っています」
「またそれか、お前は。はぁ、俺の教えなんて、どうでもよくなっちまったのか?」
 そうではない。
 当代一の彫肉師である師の技には変わらぬ敬意を払っている。師の教え一つひとつが、まさに筋肉を形作る筋束のように、今の私を形作っている。
 が、目指すものが異なっているのだ。それは自分でも、よくわかっている。
 師は、作業台の椅子に腰掛けた。その口元からは、私に向けられたであろう溜息が、白煙となって漏れ出していた。
 すると師は指先で、机上に削りかけてある筋束をつまみ上げた。
「見てみろ。お前の削ったもんには、力が籠もってないんだ」
 そう言うと師は、筋束をおもむろに口に放り込んだ。
 思わず私は、眉根を寄せた。凍りかけていた筋束は、師の口の中でしゃりしゃりと音を立てていた。
 昔から師には、不出来な筋束を食べてしまう奇癖があった。食べたとしても、決してうまくはないが、害はない。だが、プーパの身体を形作る肉を口にするということがどうにも冒涜的に感じられて、その癖は受け入れ難かった。
 口先から息を吹き出して、師は言った。
「それはそうと、だ。今日の引き渡しだがな」
 肉片を飲み下したのが、その首の蠕動ぜんどうでわかる。
「お前、行ってきてくれ」
 またはじまった。
 私は師から目を逸らしたまま、ため息で応じた。返事は、と言われて仕方なく「はい」と口にする。
 今日は、三日前に完成した女性体の<プーパ>を、月の政府である月府がっぷに引き渡す日だ。その<プーパ>は、師ウンザの銘になるものであり、本来なら、師が引き渡しを執り行うのがならわしのはずである。
 だが師はたびたび、引き渡しを面倒がった。行った先で、月府の高官と実のない話を長々としなくてはならないのが、心底嫌いなのだ。そしてそういうとき、決まって深酒をしては、私に役目を押しつけてくる。
「なんか言いたげだな、カイザ。なに、あいつらから金もらってんのは、俺だってわかってんだ。わかってる。だけどな、いけ好かねぇんだよあいつら」
 我々彫肉師は、月の統治機構である月府からの依頼を受けて、<プーパ>を制作する。逆に、月府の依頼によらず作ったことは、私の経験では一度もなかった。彫肉師の生計は、月府から請ける仕事によって成り立っていた。そのせいもあるのか、あるいは元々のさがなのか、月府の高官たちは、高飛車な物言いをすることもしばしばだった。
 師は職人として、請けた仕事は期待以上にこなす。
 だが、人とのやりとりがどうにもうまくない。
 そこを補うのも弟子の役目と、自分に言い聞かせた。
「わかりました、片付けたら行ってまいります」
 そう言って、腰掛けている師の顔を見る。瞼は震え、肩が小さく上下している。そして、寝息が聞こえてくる。
 いつの間にか、師は眠ってしまっていた。
「ここで寝たら、死にますよ」
 肩を揺らした。びくりとした師は、私の手を振り払うと静かに立ち上がった。そして何も言わぬまま、扉の枠に肩をぶつけつつ、工房から出て行ってしまった。危なっかしい足取りだった。

  

 天井に円く空けられた窓を仰ぐと、が見えた。
 樫材を浮き彫りにして雲を表現した枠が、その円窓の外周を飾っている。天井はすべて無垢の木板で覆われていた。木材は地球から輸入するほかなく、その輸送コストは桁外れに高い。ゆえに月では、木をふんだんに用いた造作は、権力の象徴でもあった。
 ここは、月府の応接の間である。私は<プーパ>を納めに訪れ、この大広間に通された。

 何度見ても、地球は美しい。
 月の都市は、地下に広がる構造をしている。地球を直接眺めるには、表層部に出る必要がある。私は折を見て、都市の表層部、さながら月の地面に埋め込んだ温室のように作られている宇宙港や公園を訪れては、地球の姿に何時間も見入っていた。人類が生まれたあの星への羨望の念は、絶えることがなかった。
「雅な眺めだろう。浮き雲の彫りに映える、青い星よ」
 傍らの甲高い声の主は、月府の高官、カイバルである。私は「まことに」と、彼に向かってうやうやしく頭を垂れる。
 彼は月人がちびとの例に違わず、青白くひょろ長いが、顔だけは丸みを帯びている。だが、私も同じような体型をした月人であって、姿について言えた義理ではない。
「今日は、ウンザ殿は如何した」
「は。師は体調がすぐれぬもので。カイバル様に拝謁がかなわず申し訳ないと」
 深酒で気分が悪いというのは、体調不良のうちに入るのだろうかと自問する。酒酔いも立派な体調不良なんだと、師はよくうそぶいているが。
「またか。何かの病ではなかろうな」
「いえ、決してそのようなことは。師は、根を詰めすぎているのです」
 カイバルはふむ、と呟きながら、ひげはおろか、うぶ毛一本生えていなさそうな、つるっとしたあごを撫でた。
「ともあれ、ご自愛めされよと伝えよ」
 カイバルの言葉に、私は、ここに来てからもう何度目か分からないお辞儀をした。納品の際に纏う正装をしていると、お辞儀をするにも体のあちこちがぎくしゃくする感じがする。
「さて、此度の出来はどうか」
「は。月府に納めるのに相応しく仕上がったかと」
「それは楽しみだ。では、見せていただく」
「は」
 振り向き手を上げ合図をすると、着飾った丁稚二人が、奥の間から漆塗りの台車を押してくる。その上に載せられた箱は、大きさ、形ともに棺のようである。
 中に納められているのは、死体ではない。
 新たな生を得た肉体だ。

 「棺」が、開く。
 現れたのは、女性体の<プーパ>だ。
 彼女は、一糸纏わぬ姿だった。小高い丘のような整った胸も、腹部にうっすらと浮かぶ腹筋の影も、なだらかに下っていく下腹部も、すべてがあらわになっている。しかし不思議と、劣情を喚び起こしはしない。洗練された造形が光となり、肉欲の影をかき消すかのようだった。
 カイバルの顔には、恍惚が浮かんでいた。だが彼もまた、その身体に情欲を見いだしたわけではなく、純然たる美を見いだしたような眼差しをしていた。
 彼は、自らの視界にまとわりついた輝きを押し込めるように、両目の間を指ではさんで力を込め、言った。
には問題ないのか」
「つつがなく。被移植者の生命活動は安定しています」
「それは結構」
 <プーパ>は、ただの空の肉体ではない。その身体には、月人の内臓が移植される。
 被移植者となるのは、月人の志願者から選ばれた者である。被移植者は、脳神経系、循環器系、消化器系をはじめとする臓器をひとしきり取り出され、元の体を棄て、新たな人造の肉体へと移される。それは、我々職人の手によって象られた「器」の中身となり、生ける肉の彫像として完成する。
 おぞましき技のように思われるかもしれない。だが、志願者は絶えない。
「彼女もまた地球に送られ、人々に慕われる。それが月の印象をより好ましいものにする。素晴らしいことだ」
 カイバルは目を細め、口元を緩める。
「彼女の行き先は、スラブ連邦でしたか」
「そうだ。スラブは大事な同盟相手、これまでに七体も<プーパ>を贈っている。我々との結束を強めるためにな」
 彼の言うように、<プーパ>は月府の重要な「外交資源」である。
 月府は、地球の友好国に対し、親善の証しとして、見目麗しい男女の<プーパ>を贈る。受け入れ先の国では、<プーパ>の来訪は一大イベントとなる。受け入れられた後は、政府の顔を務めたり、式典の華として扱われたりと、永きにわたって公的に注目される存在となる(特に、王家を持たない国が<プーパ>を求めることが多いようにも思えた)。無論、<プーパ>となった者には、富豪もかくやといった、何不自由ない待遇が用意されている。
 美しい肉体と、地球での厚遇。
 それこそが、<プーパ>の志願者が絶えない理由であった。
 カイザ殿、との呼び声で我に返った。ずっと、<プーパ>に見入っていた。
「如何した。自分の作品に魅入られてしまったか」
 息を深く吐くと、ゆっくりとかぶりを振った。
「そうではないのです」
「では、なぜ」
「人本来の美しさを体現した肉体に、彼女は望み通り宿されました。率直に言って――羨ましいのです」
 私は、本来の人間のあるべき姿に強いあこがれを持っていた。重力によって鍛えられる筋肉。一歩一歩、大地を踏みしめられる力強い足腰。だが、月の低重力のために、月人は細長い体型から逃れられない。本来、人に備わるべき姿形が、月ではあり得ぬものとなっている。
 人類は、地球で生まれた。それならば地球にいるときの姿こそが、最も自然で、あるべきものなのだ。だが月で生まれ育つ我々にとっては、人が本来体現しうる美は、手を伸ばしても届かないところにあるのだ。それは何より悲しいことだった。
 地球生まれの師ウンザが、外連味ある肉体を志向するのとは反対に、月生まれの私を駆り立てるのは、人の自然な肉体への憧れなのだ。
「なんなら、君も志願するか」
 カイバルはにやついた顔で、私の肩に手を置いた。
「――私は」
 許されるのならば、<プーパ>になりたい。そして、地球に行きたい。
 思わずそう漏らしそうになるのを妨げるように、彼はすぐに言葉を挟んだ。
「考えるまでもなく、否だ。君は<プーパ>を作るのであって、<プーパ>になるのではない。君は月府のために、作り続けねばならないのだよ」
 もちろん、そんなことは分かっている。
 彫肉師は、月府の厳しい吟味をくぐり抜け、公的な資格を与えられている。我々はその資格と引き替えに、月を離れることが許されない。月の戦略物資に携わっている存在ゆえに。
「ウンザ殿にも君にも、頼みたい仕事がまだまだ山ほどある。これからも、しっかりと頼むぞ」
「かしこまりました」
「それで、だが」
 カイバルは、出入口の脇に待たせていた供の者を呼んだ。彼はふわりと浮くように大股で近づいてくると、胸元に抱えていた筒を高官の手に渡し、すぐに下がっていった。彼もまた、骨張った弱々しい体格をしていた。先ほどまで<プーパ>の均整の取れた肉体を見ていた私には、その姿がより痛々しく思える。
 落ちくぼんで、ぎょろりとした彼の目が、私をじっと見据えた。何を見ているのかと抗議するような様子で。それはまるで、月のような灰色をした瞳の色だった。私は居心地の悪さに、つい目を逸らした。

「先ほどのあれを見て、やはり君たちに任せるしかないと確信した」
「と、おっしゃいますと」
 彼は筒から、丸められた紙を引き出すと、台の上に広げはじめた。
「新しい仕事だ」
 ひらかれていく紙の上に描かれた絵図を見て、私は絶句した。

  

「請けないわけにゃ、いかんだろうな」
 正対して座る師ウンザは、時間をかけてじっくり絵図を見たあと、そう言った。とうに酒は抜けているようだった。
「しかし」
 私は月府で、高官のカイバルから絵図を手渡され、工房に帰された。それは次の<プーパ>の註文だった。
 だが正直、受け取りたくない中身だった。
「いいじゃねぇか、地母神。人類が作ってきた像の中で、一番古いモチーフだ。やりがいはあんだろ。それに、神像を元にした<プーパ>なんて、お前も作ったことあるだろうに」
 それはそうだ。私が関わった中には、そうした意匠もあった。だが、それとこれとは違うのだ。私は苦々しい顔をして、絵図の置かれた机に目を落とした。
「でもこれは……痛っ」
 にわかに、頭皮に痛みが走る。師が私の髪の毛を掴んで、顔を上げさせたのだ。眼前には師のしかめ面があった
「まだ分からんか、カイザ。俺らに、月府の仕事を拒む権利なんてねぇんだ。月府に愛想尽かされてみろ、どうやってメシ食ってくんだ」
 正論ではある。彫肉師の仕事など、潰しの利くものでもない。我々はとっくに、人造の肉体を作ることだけに、人生を張ってしまっている。
 だが、この絵図に描かれたものは。
 遠目に見れば、豊かな肉体をした妙齢の女性に見えるだろう。中央アジア風の顔立ちは、目鼻がはっきりしながらもどこか涼しげであり、結われた長い黒髪も艶やかさを醸し出す。
 だが、胴体に目を下ろしたとき、その異様さに目を奪われる。
 女性の胸から腹にかけて、二十余の乳房が、垂れ下がっているのだから。
 密集したそれは、生りすぎた果実の叢のようにも思える。人間本来の姿からは、到底、かけはなれている。
「被移植者の気持ちは、どうなるのですか。美しい身体を望んで移植を受けた結末が、これでは――」
「自分がどんなかっこうになるかなんて、本人にはどうしようもねぇ。お前、自分が生まれるときの姿を自分で選んだのか? 違うだろ。それと同じだ、皆、自分の姿を勝手に負って、嫌ならなんとか、自分で折り合いをつけるもんだ」
「ですが、これは不自然です。人の本来あるべき姿ではありません。こんな異形を――」
 息が詰まった。師が突然、私の襟首を掴んだのだ。
「だったら、俺のこの手はどうだってんだ」
 師は、襟を掴む右手と反対の左手を、震わせながら、私の眼前に突き出した。
 指が、六本。
「……」
 異形、と口にしたことへの強い後悔ゆえに、私は言葉が継げなかった。
 師は、先天的な多指症だった。
 生まれつき左手の拇指がもう一本あった。その指には骨も神経も通っており、他の指と同じようになめらかに動いていた。師が生まれた地域では、宗教的理由から多指症の切除を行わないために、そのまま成長したのだと聞かされたことがあった。
 師は私を解き放つ。私は椅子に、投げ出されるようなかたちで腰を下ろした。
「俺もこの手に折り合いつけるまで、時間かかったさ」
 そう呟く師は、私を通り越して、ずっと向こうを見つめていた。
「人にゃいろいろ言われた。気味悪がられもした。だが、こいつは俺の身体として、どうしようもなく一緒に生まれてきちまっただけだ。この指は悪くねぇ。そうだろ」
 六本目の指を、師は何度も曲げては伸ばした。私は、答える言葉を見つけることができなかった。
「だが、お前にも一理あるかもしれんな。俺はたまたまそう思えただけで、俺のようには折り合いがつけられん奴も、いるかもわからん」
 そう言って師は口元を歪ませ、私を見た。
 私はその視線から逃れるように、月府から寄越された絵図に目を移した。だがその絵図はくしゃりと師の手に握られ、私の前から取り上げられた。
「カイザ。お前はこれを彫らんでいい」
 抑揚のない声で、師は言った。
 私は師の顔から怒りを見いだそうとしていた。だがそのかけらすら、見つけることはできなかった。
「そのかわり、地下で。納めるに相応しい質の、肉を見つけてくるんだ」
 地下で、肉を掘る。
 そう命ぜられて、私は安堵した。地母神の姿が出来上がっていくところを見るのは、きっと私には耐えがたいことだろうから。
「俺はこれから<肉図>を描く。描き上がるまでに、良い肉を揃えておけ」
 私は何も言わず、机に額がつくぐらいに深々と、頭を下げた。
 顔を上げると、師は踵を返して部屋から出て行こうとしていたところだった。
「カイザ」
「はい」
 振り向かぬまま、師は言った。
「お前はお前のやり方で、それでいいのかもしれねぇな」
 私が何か口走るのを遮るように、扉は素早く閉じられた。

  

 前後左右が金網格子で覆われた無骨なエレベータの篭が、地下へと降りていく。
 私は、工房用の耐寒スーツよりもさらに堅牢な環境スーツに身を包み、地下へと向かっていた。師に命じられたとおり、肉を掘るために。
 私の横には、丁稚のオーザが立っていた。家族単位で自走式円居に乗って月面を転々とする、月の遊牧民ルナ・ノマド出身の少女だ。彼女の亡き曾祖母もまた、彫肉師だった。彼女はそのことに憧れ、遊牧民としての生活から離れたいこともあって、十三歳の誕生日を迎えた三ヶ月前に工房に入り、私の妹弟子となった。
 彼女も私と同じ環境スーツを纏い、採掘道具一式を載せたそりのハンドルを握っている。採掘用の巨大なセラミックカッターとワイヤー、状のクロー、それに肉質検査用の機器。彫肉師は、工房では昔ながらの彫刻家然としたことをしているが、ひとたび肉鉱に降りれば、鉱夫のような仕事もこなす。
「オーザ、肉鉱は初めてか」
「はい、兄様あにさま
 スーツに内蔵されたフォンから、彼女の快活な声が響く。その声音同様、人懐っこい性格の少女だった。
「言っとくが、あまりいい場所じゃない」
「そう、なんですか」
 お世辞にも、肉鉱は心地よい場所とはいえない。行けばすぐにわかるが。
「でも、肉鉱にはなかなか入れませんから、楽しみです」
「月府が厳重に管理しているからな。普通の人間は一生入れないし、そもそも入らない。でもこれからは、嫌というほど降りることになるだろう」
 <プーパ>の筋肉の材料となる「肉」は、月の地下に埋まっており、我々はそれを採掘して、素材とする。
 それゆえ肉の鉱山、「肉鉱」と呼ばれていた。
 肉鉱は、月の地下に点在している、というレベルではない。月の地下、一定深度よりも深い場所は、おしなべて肉に埋め尽くされている。だが、そこに通じる数十本の縦坑は、月府が厳格に閉ざしている。降りるのが許されるのは、一部の高官と彫肉師ぐらいである。
 肉鉱には決して一人で降りてはならないという堅い掟がある。肉鉱の内部は複雑な迷路のようであり、単独で入るのが危険ということもあるのだが、それよりも、肉を勝手に採掘して持ち出すようなことがないように、というのが月府の本音だろう。その莫大な埋蔵量とは裏腹に、肉の採掘量は微々たるものとなるように、月府がコントロールしていた。
「肉のことは、教わったか?」
「はい、本で読みました。月の開拓時代に見つかったんですよね」
「そうだ」
 かつて、月にも開拓時代があった。
 <晴れの海>でのペネトレータによる試掘結果に、希少資源が多く含まれていたのが発端だった。国家も企業も、月の地下に眠っているであろう資源を求めて、次々と月面を掘り始めた。数世紀前に北アメリカ大陸で起こった、ゴールドラッシュの再来と言われる狂騒だった。
 ゴールドラッシュと違っていたのは、至るところで成果が挙がったというところだった。月の地下の浅層には、見込まれていたとおりの希少資源が、かなりの量埋まっていた。期待を裏切らない採掘結果は、月の鉱山へのさらなる投資を呼び込み、月面には基地が、次いで居留地が続々と築かれた。
 だが、奇妙なことが明らかになった。
 月のどの地点であろうと、地下三キロ程度まで掘り進めると、必ず赤い物体が現れる。そこから先は、掘れども掘れどもその柔らかな固体しか出てこない。何より人々を驚かせたのは、それが有機物であるということだった。
 月の「肉」であった。

 深度計が、三千を超えた。
「もうすぐ着くぞ」
「はい、兄様」
 震動しながら下るエレベータの篭が、月の地層に穿たれた縦坑を抜けた。
 視界が急に明るくなった。
 光に慣れてきた目に、照明で煌々と照らされた肉壁が映る。視界のすべてが、鮮やかな肉の赤に覆われる。一面の肉色の中を、エレベータは下っていく。

 数十秒して、エレベータは静かに停止した。
 深度三千二百。肉鉱に到着した。
 私は、傍らを見る。環境スーツの頭部には、覗き窓として小さなバイザーしかなく、直に表情が見える構造ではない。けれども私には、彼女の慄然とした顔が見て取れるようだった。
 案の定、鳩尾を突かれたようなうめきが聞こえてきた。
「堪えろ、オーザ」
 無理もない。
 赤い肉の床、壁、天井。
 色彩の少ない月に生まれ育った者にとっては容赦ない、一面の赤色の暴力。
「……大丈夫、です」
 すんでのところで、彼女は飲み込んだようだった。もし我慢できなかったら、環境スーツの中は酸鼻を極める。私は初めてのとき、実際そうなった。オーザの背中を二三度さすってやる。
 ふと、肉の臭いがした。
 いや、肉鉱は月面と同じく、空気が希薄にしか存在せず、肉が発する臭いなど感じるわけもないし、そもそも環境スーツは外部の臭気を遮断する。それなのに、工房で肉の切削をしているときに感じる臭いが、鼻腔を侵してくるような気がした。
 不愉快だった。何度来ても、私はここが好きになれない。
 だが、この異様な場所を師ウンザは好んでいた。曰く、肉鉱にいると落ち着くのだ、と。
 事実、肉鉱に潜ったときの師は、普段のがさつな性格が嘘のように、静かで穏やかな様子になる。環境スーツのバイザーから垣間見た笑みは、赤子のそれのように見えたこともあった。肉鉱に降りるのは、師にとって胎内回帰のようなものなのだろうか、とも思う。

 と、オーザが私の前に割り入ろうとする。
「わたし、押します」
「いや、私がやろう。オーザはゆっくりでいいから、ついてくるんだ」
 ハンドルを取ろうとするオーザを制して、私はそりを押しながらエレベータを出た。
 到着した「エレベータホール」は、幅は十数メートル、高さはおそらく百数十メートルほどもあり、奥行きもそれと同じぐらい続いている。人工的な地下空間としては相当広いのだろうが、開放感は全くない。
 機材の総重量は、二百キログラムをゆうに超えているが、そりは軽々と滑っていく。私の貧弱な体型を差し引いても、二百キログラムは月の低重力下ではとんでもない重さではない。地球から月に来た人間はたいてい、重さの目算が違うことに、まず驚くのだ。
 そりが肉の上に降りた瞬間、ハンドルを通してぐにゃりとした手応えを感じる。足下には、月の砂レゴリスの泥を踏んだときに似た、ぬかるみに埋まるような感触。正直、心地よいものではない。
 そのまま、エレベータホールの奥のほうに小さく口を開けた坑口まで、そりを押し進んでいく。すぐ後ろには、オーザの躊躇うような足音が続く。
「言ったとおりだろう。いいところじゃないって」
「……でも、慣れないといけません」
 そう言って、自分を納得させるように頷くと、オーザはそりのハンドルを私から取り返した。大した子だ。

 私とオーザは、坑道を二十分ほど歩いた。
 直径三メートルほどの円形に掘られた肉の中を延々と歩いていると、何か巨大な生物の腸の中にいるのではないかという錯覚すらしてくる。
 坑道の中は、エレベータホールのように明るくはない。
 坑口の入り口からしばらくは、差し渡されたワイヤに、間を置いて取り付けられた照明がある。だが、そこから奥、坑道のほとんどには照明など設置されていない。環境スーツに装備されたライトと、そりに取り付けてある大輝度カンテラが頼りだ。
 私はオーザの足取りを気にかけつつ、肉壁の様子を見ながら歩いていた。適した肉は、表面の色合いから見当はつくものだ。
 ふと、肉壁がかすかに鮮やかな色をした場所を見つけた。地殻でじっと見据えた後、指先で突っついてみる。<プーパ>の材料にはちょうどよさそうな跳ね返りだった。
「このあたりで、測ってみよう」
 私が指図するよりも前に、オーザは測定機器から十数本のケーブルを引っ張り出した。その先端には、範囲マーカー、電位差測定端子、反響定位受発信機、水分量計など、肉質を測るためのセンサー類が取り付けられている。
 彼女は両手で掴んだケーブルを、私に差し出した。
「よし、じゃあ刺し方をよく見ていてくれ」
「はい」
 一つひとつ確かめるような手つきで、肉壁に端子を刺していく。オーザがちゃんと見られるように、いつもよりゆっくりと作業をする。
 測定範囲を示すマーカーを、正方形の四つ角の位置に打ち込んでいく。一辺が二メートルほどの範囲を形作ると、そこに各種センサーを順に突き刺していく。
 三分ほどかかって、私はすべてのセンサーを配置し終えた。
 次は、測定機器と環境スーツの同期だ。
「装置とスーツの同期を。オーザと私、二本つなげてくれ」
「わかりました」
 彼女の指先が、宙を叩く。仮想表示されたイメージングキーボードを素早く打鍵している。次の瞬間には、測定装置と環境スーツが同期を開始する。HUDヘッドアップディスプレイに、各々のモジュールが返すコンディションが浮かび上がった。
 すべて良好だ。
「第三式にて、測定開始」
「測定、開始します」
 オーザの指先が、勢いよく振られる。それとともに、機器は肉壁の内部を測りはじめた。機器の冷却ファンが発する微振動が、そりのハンドルを通じて、握った手に寄せてくる。
 少ししてから、オーザが私に向き直って言った。
「聞きたかったのですが、この肉がどうやって<プーパ>になるのですか?」
「そうか、まだ聞かされていないのか」
「はい、詳しくは。工房に来てからは下働きばかりでしたから」
「わかった、教えてやろう。少し難しいかもしれないが、聞いているんだぞ」
 彼女は二度頷いた。測定が終わるまで十分ほど。細かい話はできないが、ざっと教えるには、ちょうどいい。
「まずはここ肉鉱から、<プーパ>に適した部位を探して肉を切り出す。それを工房まで上げて、細い筋束に加工するんだ」
「筋束、ですか」
「筋束は、数十本たばなって人間の筋肉を構成する。本来の人体では、その筋束もさらに細かい筋繊維から成っているが、<プーパ>では筋束が最小の単位となるんだ」
「はい」
「筋束を削って、筋肉の部位ごとに合った形に加工する。できあがりの筋肉の形をイメージしながら削るんだ。ここが一番難しい。ひとえに筋肉といっても、様々な形がある。紡錘状筋、羽状筋、二頭筋、三頭筋、鋸筋、多腹筋……。筋束が組み合わさって筋肉になり、筋肉が組み合わさって全身になる。そのときに美しい形になるよう、計算しなくてはならない」
 細いバイザーを通して見えるオーザの目は、何度もしばたかれていた。まだ彼女の想像の範疇を超えているのだろう。だが、このあたりはやってみると分かってくることでもある。私は説明を続けた。
「削った後は、肉に遺伝子導入をする。この手順は極めて重要で、絶対に忘れてはならない」
「遺伝子導入?」
「肉に、被移植者の遺伝子を覚え込ませる処理だと思ってくれればいい。被移植者の遺伝子を溶かし込んだ水槽に、削った筋束を沈めておく。だいたい一日ほどで浸透は完了する。この処理をすれば、被移植者の臓器を肉体に移し替えても、拒絶反応を起こさなくなる。これは<プーパ>の前身となる、肉でできた生体義肢で確立された技術だ」
 彼女はうなずいた。
「だが、遺伝子導入にはもう一つ、大事な意味がある」
「もう一つ?」
「この処理をしないと、肉は被移植者の人体を勝手に「食う」んだ」
 オーザは息を飲み、肉壁から距離を取ろうとした。だが、自分の足下も肉だということに気がつき、二三度足踏みをして、うろたえていた。
「あの、ここは……」
「直接触れなければ大丈夫だ。それに、短時間の接触で食われることはない。食いはじめるまでには数週間以上かかる」
 彼女の様子に、落ち着きが戻った。
「でも食べられるって、どういうことなんですか」
「被移植者の身体を侵食して、その遺伝子情報を読み取る。そして肉腫のように、無際限に形を変えていくんだ。手にも足にも、何にでもなる。もし仮に、処理をしていない肉に移植したとしたら、その<プーパ>は、終いには異様な肉塊になってしまう。最初期、そういう事故があったそうだ。その点、遺伝子導入をして肉にを食わせておくけば、肉腫化はしない」
 ふと私は、ある移植技師の言葉を思い出して、言った。
「こう話していた人がいる。肉は遺伝子を食い、肉腫となる。肉腫はそれ自体ではエラーのようなものだが、肉腫自体の形成には、ひとつの「方向性」のようなものがあるのだ、とね」
「方向性?」
「遺伝子を食った肉の塊が、ある一定の大きさを超えていると、形として人間の身体の部位を模していくというんだ。その内実は不規則な肉腫であっても、たとえば手足や、鼻や耳といった形に近づいていくのだと。彼はそれを、何千枚という写真を集めて並べ、大きな絵を描き出す、モザイクの手法に似ていると言っていた」
「なんだか怖いけど……不思議ですね」
 オーザは、組んだ指先をもじもじと動かした。
「兄様、あの」
 オーザは、質問をためらう生徒のように、小さく手を挙げている。
「どうした」
「そもそもの話になってしまうのですが……。肉とは、いったい何なのでしょう」
「肉とは……それは……」
 彼女の問いに簡明に答える言葉を、私は持っていなかった。これほど毎日のように、肉に触れているにもかかわらず。いままさに調べている肉質も、肉の本質を理解した上での測定ではない。あくまで経験則的に、こうした数値が出れば加工に適している、というだけのことだ。
 肉は発見されて百年、義肢や<プーパ>に用いられて三十年は経つはずだが、はっきりとした定説はまだないのだ。
 分かっているのは、タンパク質の凝集体であるということ。毒性はないが、侵食の性質のために人体への危険性はあるということ。
 そして月の地下三キロより下は、中心まで肉に埋め尽くされているであろうこと。
 子どものときそれを知ったときは、眠れなくなるほど怖かった。足下には、途方もない量、得体の知れない肉が詰まっている。
 月はきっと、人のいるべき場所ではないのだと、そのとき以来ずっと思っている。それなのに私は、月から出ることを許されない、彫肉師という仕事に就いている。
 因果なことだった。
「あの、兄様?」
 オーザは、私の顔をのぞき込んでいた。私はつい、考え込んでしまっていた。
「すまない、私もよく知らないんだ。削り方や掘り方はわかるのに、その本質はわからない。思えば恥ずかしいことだな」
 私は正直に答えた。彼女は首を振って、私こそすみませんと、頭を下げた。

 HUDが、測定の終了を告げる。四十ほどある測定結果が、表やグラフとなり現れた。
「オーザ、この肉質はどうだ?」
 彼女に、肉質の判定を任せてみる。肉鉱に降りる前に、加工に適した肉質については講釈を済ませている。
「固形質、Fタイプ。水分量は……六十七。疎密指数、A+の範囲内。白色固化部位間の距離、最大で三十五、最小で四。黒斑変成なし、圧力劣化なし……」
 私が彼女のHUDにインストールさせておいた「カンニングペーパー」と対照しながら、数値を確認していく。
「加工に適した肉だと、考えます」
 彼女ははっきりとした声でそう言った。
「合格だ」
 私は彼女の肩を軽く叩いて、親指を立てた。バイザーからわずかに見えるオーザの目は、喜びに細められていた。彼女は筋がいい。彫肉師の仕事に慣れるのも、そう時間はかからないだろう。

 その後は私が、肉の切り出しを行った。切り出しは精密作業であり、熟練を要する。
 一メートルほどの刃渡りのセラミック刃を、折らないように慎重に肉へ突き立て、奥まで行ったところで、鋸のように引きおろしてくる。刃先にはかすかな引っかかりもなく、肉壁には縦の切り筋が現れていく。
 切断は四回、肉壁に切り筋で正方形を描いたあとは、その上端からコの字型のワイヤを差し込んで、通電する。ワイヤは肉を溶断しつつ、そのまま垂直に降りてくる。こうして肉塊は、完全に切り離される。
 やっとこ型のクローで肉をつかみ出す。百キログラムほどある肉塊を、金属製の保冷ケースに入れて、採掘は完了する。
「兄様、この肉はどのような<プーパ>に?」
 オーザからそう問われて、私は一瞬、答えるのをためらった。だが、相手が丁稚であろうと、工房内のことはすべて隠してはならない。師ウンザが、工房のルールとしてそう決めていた。
 私はつとめて冷静に、地母神型のことを語った。その特異な形状についても。
 当然ながら、彼女は驚きを隠せなかったようだった。
「その形を、望む人々がいるということなのですか」
「地球のとある国からの依頼だそうだ。だとしたら、そういうことなのだろうな」
 おそらくは、その地域にかつて存在した地母神信仰を再興し、国家の求心力を高めようという目論見だろうと推量する。同じような目的で発注された神像型の<プーパ>は、今までにも何体か目にしたことはある。
 その中には、人としての純粋な肉体美を追い求め、極めたものもあった。他の工房製dが、ポセイドンや普賢、ケツァルコアトルを見たときの驚きは、今でも忘れられない。自然と、その姿形の前に頭を垂れるほかない気持ちになった。私もこんな肉体を作り上げたいと、強く願ったものだ。
 だが、地母神の<プーパ>は、異様さによって人々の目を引く、グロテスクなものとしか考えられなかった。しかも彼女は、その姿形を人々に示すために、その二十を超す乳房を衆目に晒さなくてはならないはずだ。なんたる羞恥だろうか。
「望まれるのであれば、それは幸せなこと、なのでしょうか」
「私には、そうは思えなくてな」
 しなだれかかるように、私はそりのハンドルに手をかけた。
 我が師は、どういう思いで取り組むつもりなのだろう。
 オーザに、上に戻ろうと声をかける。機材と肉を満載したそりを押す手には、あまり力が入らなかった。

  

 師は、採掘した肉を見て、小さく「よし」とだけ呟いた。
 そして「削りきるまで、一人にさせてくれ。お前達には暇を与える。俺から連絡するまで、工房には決して立ち寄るな」と厳命した。
 必要な筋肉を削り出すだけでも、最低で三週間はくだらない。それに、数多の乳房を形作るのは、考えただけでも目眩のするような作業だ。乳房は、被移植者の細胞を基礎にした人工の脂肪細胞と、肉から生成した人体をもとに作るが、成形のバランスを取るのが難しく、ひとつの完成品の陰で、何十もの失敗作が生まれうる。恐ろしく神経をすり減らす部位だ。
 だが、私が拒んだせいだろう、師はこれを一人でやり遂げるつもりなのだ。
 たしかに、制作をしている最中の師は、孤独を好む。だが、工房から人をすべて払わせるようなことは、いままでになかった。
 師に、行き過ぎた負担をかけさせてしまっている。私が地母神型の肉体を、忌避したがために。
 弟子として失格だと、私は自分を責めた。

 結局、師から戻るように連絡を受けたのは、五十日後だった。

 月の表土レゴリスからセラミックプリンタで成形し焼成した人工骨格、工房内の<皮処>で、培養を専門とする職人が、被移植者の元の身体から作り上げた皮膚も整っていた。
 移植成形手術は、つつがなく執り行われた。
 出来上がった肉体は、師の構想どおりのものだった。古の地母神像を、人間の肉体で再現する。その試みは成功したのだ。
 たしかに、それぞれの部位をとって見れば、その身体は美しく、また艶めかしかった。
 しっかりとした二の腕から、ややいかり肩に成形された上腕は、母性を感じさせる。張りがありながら、柔らかさをもうかがわせる臀部。一つひとつの乳房は、やわらかに傾ぐ丘のような膨らみを宿していた。それは、地母神というアイコンに望まれうるものすべてを兼ね備えていた。
 私は師の業に、感服していた。
 人ならざる形であっても、こうも調和の取れた肉体を形作れるのか、と。
 だがその一方で、どうしてもこの身体を、素直に美しいものとして受け止めることができなかった。
 移植された者が目覚めたとき、自らの姿に、いったい何を思うのだろう。
 その思いが、私の脳裏を去ることはなかった。

  

 一ヶ月後のことだった。
 その日の作業を終えた私は、工房から続く廊下を歩いていた。
 向こうから、オーザが放物線を描いて跳んでくる。肩のあたりで切りそろえた黒髪が、重力に逆らってふわりと浮く。彼女は慌てている様子だった。
 月で育った彼女は、走ろうとすることが無意味だと分かっているはずだった。だがそれでも、思わず駆け出さずにはいられなかったぐらいのことなのか。
 勢い余って姿勢を崩したオーザを、私は両腕で受け止めた。
「兄様!」
 彼女の手には、白い紙が握られていた。
「落ち着け、どうした」
「お師様が……!」
 目元には、涙を拭った跡があった。オーザが差し出した紙を受け取って、開く。
 師のしたためた字だった。

  カイザが正しかった。
  月府は俺を捕らえに来るだろうが、
  奴らに死期を決められるなどまっぴらだ。
  俺は行く。
  お前達は、決して道を誤るな。

「……師は」
 どこに行ったんだと、私はオーザの肩を掴み、声を張り上げていた。
 が、悲しみに歪んだオーザの顔を見て、我に返る。
「肉鉱へのエレベータが、下に降りているんです……」
 一人で、肉鉱に降りたというのか。
 私はオーザに、皆を呼ぶよう言いつけ、環境スーツを取りに倉庫へと走った。
 私は工房の者総出で、師の捜索にあたらせた。肉鉱に降りる許可を持っているか否かは、この際問うていられなかった。それでも、私やオーザを含めて十二人。正直、師の行方を探し当てるには足りないだろうと、内心忸怩たるものだった。
 私は二人一組になるよう命じた。肉鉱に降りたことのない者は、経験者と組むように言いつけた。環境スーツの活動時間を踏まえると、捜索の限界は六時間。二次遭難とならないよう、肉壁にピンを刺し、目印を付けながら奥へと向かうよう、皆に言った。
 私もオーザと組み、急ぎ足で、暗い坑道へと踏み入れていった。踏みしめると沈み込む肉が足を取り、もどかしい。いくら走ろうとしても決して走れない夢の中にいるかのようだった。

 捜索は五時間を超えた。そろそろ戻らねば、自分が危ない。空気切れで昏倒してしまうおそれがあった。
 戻ろう、とオーザに告げた。それを聞いた彼女は、立ち尽くしたまま、環境スーツの中で泣きじゃくりはじめた。どうなだめても、彼女は泣き止むことがなかった。
 咽び泣く彼女を背にかつぎながら、私は一時間ほど歩いて、エレベータホールへと戻った。
 坑道の出口にさしかかると、肉鉱に降りた皆が、円くなって立ち尽くしているのが見えた。
 円の中心にあるのは、寝かされた形の環境スーツだった。
 まさか、見つかったのか、師が?
 私は思わず、皆のところに駆け寄る。
 だが、その場を包む雰囲気で、彼らが囲んでいるものが何かが、分かってしまった。
 師の屍だった。

 師を見つけた下男によれば、坑道内の二十メートルほどある縦穴の底に、横たわる人影を見たのだと言う。縦穴を降りると、そこにはウンザがうつぶせに倒れていた。
 環境スーツのヘルメットは外れており、その顔は原形をとどめないほどむくんでいた。鼻の穴には血がこびりつき、顔面のところどころには内出血の痕があった。
 見つけた彼は、転落死ではないかと言った。
 しかし月では、二十メートルから落ちた程度では、ケガこそすれ、死にはしない。それよりもヘルメットが外れたことで、希薄な空気に直接晒されたのが死因だろうと、私は考えていた。
 私たちは、エレベータホールの備品庫に備え付けていた、大きな肉箱に師の体を横たえた。切り出した肉を地上に運ぶためのものだが、その縦長の形はまさに棺のようであった。
 これは事故だったのか。
 それとも師が、自ら。
 そのことはついに、わからずじまいだった。

 肉鉱から上がった後、私は、何が起こったのかを知った。
 地球へと送り込んだ地母神型の<プーパ>が、自死したのだ。
 自らが移植された肉体の姿に、耐えかねて。私が案じたとおりに、なってしまった。
 しばらくして、師が書き置きで予見したとおり、月府の衛士が四人、師を捕らえに来た。だが、師がすでに息絶えていたことを知ると、令状を引っ込め、帰っていった。
 「工房の始末は、覚悟をしておけ」と言い捨てて。

 私は思った。
 地母神を形作るとき、師は、私やオーザをはじめ、工房の皆に暇を与えた。今になって考えれば、それは私たちを守るためであったのかもしれない、と。
 月府はこと外交に関しては、名誉や面子を非常に重んじる。捧げ物として作られた<プーパ>が自死するなど、月府にとっては最大級の失態である。
 それは、制作者の首を以て贖われるほどのこととなる。もし私が地母神に携わっていたとしたら、私も連座させられていたに違いない。
 師もまた、地母神型の肉体への移植は、リスクを伴うことに気づいていたのだろう。私の懸念を師も同じく分かっていながら、それでも依頼を請けたのだ。万が一、何かあったときの責めが彫肉師に及ぶことも知っていて。
 師は言っていた。俺らに、月府の仕事を拒む権利なんてない、と。仮に依頼を突き返せば、それは月府から干されることになる。
 師は板挟みの中、自分だけで<プーパ>を作り上げることを選んだ。自分一人で、その責を負うために。

 間もなく月府は、私たちの工房に凍結措置を言い渡した。工房の職人も、全員謹慎扱いとされた。
 月府は、長を失った工房の閉鎖を詮議しているという。私は継承を願い出たが、まだ一人前の免状を持たない私には許可できない、ということだった。
 その実、自死した<プーパ>を作った工房を、引責のために取り潰したいという意図があるのは明白だった。
 だが、戦略物資である<プーパ>の工房がひとつ減ることに、強く反対を唱える者達もいた。月にある工房は五軒のみ。一軒が取り潰しになれば、当然、生産力は落ちる。私に地母神型を依頼してきた月府の高官カイバルも、取り潰しの回避に動いていると聞いた。依頼をした負い目からか、それともこの機に乗じた権力闘争なのかは、わからなかったが。
 月府の論争の後景で私たちは宙吊りとなり、時だけが過ぎていった。

 そんな中、ある依頼が私のもとに入った。

  

「彫肉師のカイザ、だね。はじめまして」
 通信は音声のみだったが、トーンの高低が非連続に切り替わる。声の主がわからないようにしているのだろう。当然ながら、相手の顔もわからない。
「月府が揉めているせいで、暇を持てあましていることは知っている。君の腕がなまらないよう、頼みたいことがあるんだ」
 この上なく不審な通信だった。私は訝しげに、相手に問い返した。
「あなたは、誰だ」
「地球の者だ。それ以上は、ゆえあって明かせない」
「それならば、私もあなたから話を聞くことはできない。切らせてもらう」
「待て、待て。わかったわかった」
 相手は口調を少し早めた。
「顔や名は明かせない。だが、アウストラリス政府の中枢にいる、とだけ言っておくよ」
 アウストラリス。地球の南半球に位置する国家だ。たしか月府は、アウストラリスとの国交を断絶している。その要人を名乗る者が、私に何の用だというのか。
 いや、そもそも、それを騙っているだけではないのか。
「証拠はあるのか」
「こうして君と喋っていることこそが、何よりの証拠だよ。月と交わりのない国からの通信は、特例措置として、月府とその政府間の合意がなければ繋ぐことはできない。知っているかな」
「私は彫肉師だ、ややこしいことに興味はない」
「そうか、余計なことだったな。では、本題に入ろうか」
 私は黙ったままでいた。相手はそれを、了承と取ったようだった。
「君には二つ、頼みがある。ひとつ、生体義肢を作ってもらいたい」
「待ってくれ、生体義肢は月府の許可なく――」
「作れない、だろう? わかっている」
 <プーパ>もそうだが、月の肉を用いて作られる義肢もまた、月府の戦略資源であった。月の肉は無尽蔵にあるのに、作られる義肢の数は少ない。それによって義肢を、貴金属のような地位に置くことに成功している。かつ、月府と関係が悪い地域には、義肢の供給を禁じている。アウストラリスも、そのひとつに含まれる。
 何より義肢は、遺伝子導入をしなければ使いものにならない。横流し品を勝手に使うということは不可能なのだ。その性質は、月府の義肢管理に役立っていた。
「私の足の筋肉は、病に冒されている。もう二度と動かないと、医者からも宣告を受けているんだ。だがもう一度、自分の脚で歩いてみたいのだ」
 月府が義肢の供給を絞っていることは、私も分かっていた。届くべき者に届かない、そんな状況も。通信相手の言葉は、私の胸を、少しばかり詰まらせた。
「だが、私は彫肉師だ。義肢の職人ではない。なぜそれを私に頼むのだ」
「義肢のギルドには、月府の息がかかりすぎている。内密に頼むのでも、危険すぎる。だが彫肉師ならば、義肢を作るぐらいは朝飯前だろう?」
「原理は同じだ……しかし」
 私には、<プーパ>の修練として、生体義肢を作った経験もあった。だから、作ること自体は不可能ではない、が。
 相手は続けて、言った。
「二つ目は、<プーパ>だ。君が望む形で作ってくれて構わない」
「<プーパ>を?」
 私は身を固くした。月府の許可なしに<プーパ>を作ることは、義肢の密造以上に恐れを知らぬ行為だ。それだけは、絶対に。
「だめだ――」
 私が断りを口にしかけたとき、通信の相手は重ねるように言った。
「報酬が、君の地球行きだと言っても?」
 全身が総毛立った。
「悪い条件ではあるまい。君が求めていた地球での暮らしを、何不自由ない形で実現してあげよう。まあ住む場所は、アウストラリスにはなってしまうがね」
 思わぬ申し出に、私の心は揺り動かされていた。
「どうしてそれを……」
「君を推挙してくれた人がいるんだ。名は出せないが、さる月府の人でね。その人から、いま君の工房が置かれている情勢や、君が望むものを聞いた」
 それは、月府とアウストラリスの要人が通じているということだ。許されることなのだろうかと、世事に疎い私でも思ってしまう。
 ふと、私は問題に思い至った。私の、この貧弱な肉体についてだ。
「移住と言うが、月で生まれ育ったこの体では、地球の重力に耐えられない。ずっと暮らすなど、不可能だ」
 だが通信相手は、笑うように鼻を鳴らした。
「そうかな? 体を入れ替えても?」
「入れ替える?」
 地球に行くために、体を――まさか。
「二つ目の依頼は、そう、君のための新しい肉体だよ」
 自らのための<プーパ>を、私の手で作るということなのか。
 言葉が出なかった。
 自らの姿を自ら構想し、作り上げる。師ウンザはかつて、人は自らの姿を選べぬまま生まれ、自分で折り合いをつけるほかないと言っていた。だが、自分自身のための<プーパ>なら、その軛を超えられる。
 それは私の願いを、万全な形でかなえることになる。
 月人として生まれた、この貧弱な肉体を棄てる願い。
 人が本来あるべき、地球で生きるという願い。
 いずれも、一生実現することはないと、諦めていたことだった。
「<プーパ>への移植については、心配しないでくれ。移植技師にはもう当たりをつけてある。制作にかかる諸経費もすべてこちらで持つ。君が去ったあと、工房の従事者全員の暮らしも保証しよう。悪くない条件だと思うが如何かな、カイザ?」
 何ということだろうか。月を離れ、私が望む姿の肉体で、地球に移住できる。
 それにこの工房は、月府のさじ加減次第で、いつ取りつぶしになるかも分からない。そうなったら、オーザや工房の者達は路頭に迷う。
 ならば。
「わかった、請けよう」
「そう言ってくれると思っていた」
 通信相手が、深く息を吐いた音がした。スピーカーの向こうから、握手を求める手がさしのべられているような気がした。
 さて、作ると決まれば、義肢用の遺伝子が必要となる。
「遺伝子を送ってくれないか。知っているかもしれないが、義肢にはそちらの遺伝子が必要だ」
「ああ、それなら心配ない。もうすぐ、君のところに届く」
 何だって?
「月府の人が動いてくれている。問題ない」
 随分と手回しがよい。私が請けるであろうことを、とうに見通していたかのようだ。
「ではよろしく、カイザ。義肢の仕様などについても、それとともに連絡が行くだろうから」
 そう言って、相手は通信を切った。

 二時間後、依頼者の遺伝子が詰められ厳重に封印されたケースが届いた。
 ケースを開けると、義肢の仕様書と、十本のアンプルが詰められていた。
 それに、奇妙な機構がケースの内部に据え付けられていた。よく見るとそれは、発火装置だった。仮にこのケースが月府の手に渡ったりしたときに、証拠隠滅を図るつもりだったのだろう。ケースの中には、アンプル以外に何一つ、依頼者の手がかりになるようなものはなかった。念入りなものだ。
 アンプルを取り出し、物騒なケースを工房の倉庫に放り込むと、私は急いで準備をはじめた。

  

 自分自身の<プーパ>を作る。
 そんな日が来るとは、考えもしなかった。

 自らが望む姿とは、何だろうか。
 それはきっと、人間本来の姿。
 地球の重力下で進化してきた人類が、長い歳月の末に獲得したかたち。
 六分の一の重力で引き延ばされた月人たちとは異なる、自然が形作った均整。
 鍛え抜かれた筋肉や、端正な顔立ちを求めるわけではない。
 自分が仮に地球で生まれ、地球で育ったとしたら、どのような姿形となったのだろうか。それを思い描く。
 外連けれんてらいは必要ない。そう信じてきた自分の作り方を、貫く。

 私は、肉を削る。
 自分自身の新たな在りようを想像しながら。
 モノトーンの世界ではなく、色鮮やかな世界に生きる自分を思いながら。
 自らの細胞を溶かし込んだ不凍液に、削り終えた筋束を沈めていく。そのたびごとに肉は、私の一部になることを約束されていく。
 自らの身体を、一つひとつ積み重ねていく感覚。これほどまでに、甲斐ある切削があっただろうか。
 誰かのためではない、自分自身のために<プーパ>を作るということが。

 作業は、一ヶ月に及んだ。

 時を同じくして、私のもとに、月府から通達があった。
 工房の閉鎖が、正式に決定された、と。
 私が私自身のために作り上げた<プーパ>が、この工房の、ついの作品となったのだ。

  

「出立の用意はできたかな」
 相変わらず声を変えたままの依頼者から、連絡が来る。
「済んでいる。あなたの義肢も、私の身体も」
「いいだろう。今から送る座標に、君を乗せるための船が停泊している。三時間後に、そこに向かうんだ」
 示されたのは、都市の圏域を外れたところにある、寂れた宇宙港だった。
「工房も解散となってしまったと聞いたよ。残念だったね」
 残念などとみじんも思っていないような、平板な口調だった。私は何も口にせず、鼻を鳴らして応じた。
「皆との別れは、もう済んでいるのかな」
「あと、一人だけだ」
「そうか」
 少しの間のあと、依頼者は言った。
「君には感謝する。いや、私に脚を与えてくれることだけではない。アウストラリスと月の関係は、これで間違いなく前進するよ」
「それは、どういう」
「君は彫肉師だ、ややこしいことに興味はない、のだろう?」
 私は以前、依頼を請けたときの意趣返しをされて、苦笑いするしかなかった。
 道中の無事を祈るよと呟いたあと、依頼者は通信を切った。

 私は、オーザの私室を訪ねた。
 だがそこにはもう、オーザはいない。
 残された家財一つなく、部屋はがらんとしていた。
 私は思う。彼女の落胆は、どれほどのものだろうと。憧れて入った工房が、師ウンザを失い、そして一年もしないうちに取り潰しになるなど。
 せめてもの救いは、彼女の引き取り先がすぐに決まったことだった。師ウンザと同輩だったリエッタ師が運営する工房に入り直すことになったのだ。リエッタ師は女性の彫肉師であり、面倒見のいい彼女は、オーザにとってきっとよい母親代わりになってくれるだろう。
 工房の皆とも、昨日のうちに別れを済ませている。全員、めいめいの行き先に発っていた。
 さて、と私は呟いた。
 師に、別れの挨拶をしなくては。

 肉鉱へと下るエレベータは、いつも通り淡々と、私を三キロの地下へと運んでいく。
 意味があるのかはわからなかったが、私はオーザとともに、肉鉱のエレベータホールに師の墓標を立てていた。
 月を去る前に、墓参りだけ、済ませておきたかった。

 深度計が、三千を指す。もうすぐ縦坑が終わり、肉鉱のエレベータホールの明かりが見えてくる、はずだった。
 おかしい。いつもならこのあたりから、赤く毒々しい肉の色が、視界の一面を覆うはずだ。だが三千を過ぎても、縦坑の中にいるときと同じように、真っ暗なままだった。
 エレベータはそのまま、深度三千二百を指して、静止した。
 表示灯が点す仄明るい赤色だけが、篭の中を照らしだしていた。
 呼吸系は正常のはずだった。だがなぜか、息苦しい。圧を感じる。
 私はボタンを押し、エレベータの格子扉を開けた。扉が横に滑るとともに、何かが、ぼとりと落ちた音がした。
 床を見ると。
 真っ赤な指が、三本。
 息を飲み、とっさに頭部のライトを点け、正面を向いた。
 そこには、エレベータホールの広大な空間はなく。
 こちらを押しつぶしにかかるように、肉壁がひしめき、迫っていた。
 肉壁からは、何かを掴もうとするように、こちらに向かって伸ばされた腕。その指は、格子扉にちぎられてしまったのか、欠けていた。
 腕の根元からは脛が生え、別の方から生えている太腿と合わさったところには、臀部らしき二つの盛り上がり。その尻の真ん中からひり出されたような腸は、捻転しながらとぐろを巻き、腸が再び埋まり込んだ近くからは、十数もの指がそそり立つ。腸が渦巻くとぐろの中央、膜の向こうにはうっすらと、叫ぶような形の口が見えた。

 私は息を荒げ、篭の上昇ボタンを連打していた。
 扉が閉じる。そのとき、扉の格子に縁取られた一個の眼球と、目が合った。
 エレベータの駆動音が篭に響き、浮上感が全身を包む。
 眼球の視線から逃れた瞬間、私は床へとへたりこんでしまった。

 深度計が一千を切る頃になって、私はようやく平静を取り戻した。
 肉鉱が塞がっていた。あれは何だったのか。肉鉱の落盤だろうか?
 だが、エレベータにまで迫っていた肉には、人間の部位が現れていた。
 それが意味することは。

 肉が誰かを、食った。
 そして月の地下の肉は、すべて、ひとつながりだ。

 嫌な汗が、背中を伝う。

  

 月面の砂を蹴立てながら、ムーン・バギーは走る。地球への連絡船が待つ宇宙港へと。
 私は急いていた。最低限の荷物と、依頼された義肢、そして私の新しい肉体を詰めて、工房を棄てるように飛び出した。
 工房の仲間にも、月を離れるよう、伝えようとした。だが、繋がった者は笑い、訝しみ、繋がらなかった者はどうしようもなかった。オーザに連絡がつかなかったことにも、私は強い悔悟の念を覚えていた。

 私の後ろに積まれた、金属ケースと棺桶のような箱が、地面の起伏を受けて音を立てる。中には依頼者の義肢と、私の体が入っている。緩衝材は詰めてあるが、あまり衝撃を与えたくはない。
 バギーが丘の頂上に達したとき、一条の線を描いて明滅するガイドランプが目に映った。目指す宇宙港だった。
 プラットフォームには、宇宙船が一機、停泊している。
 あれに違いない。
 アクセルを踏み込んで丘を越えると、バギーは跳び、宙を滑った。

 動きづらい環境スーツのまま、必死に二つの箱を担ぎ、プラットフォームへ上がる。
 プライベートタイプの連絡船は、十メートルほどと大きくはない。入り口には、人が立っていた。私が手を上げると、その人間も手を上げて返した。体型からして、月人に見える。もしかしたら、依頼者との間を取り持っていた者だろうか。
「カイザ殿、ですね。お待ちしていました」
 声からすると、男だった。だがバイザーが偏光されていて、顔はよく見えなかった。男は私の手から義肢の箱を引ったくるように取ると、連絡船の中へと運びこんだ。私は私で、自分の身体の入った「棺桶」を運び入れようとする。だが、船の狭い入り口に引っかかって、うまく通らない。
 そのとき、連絡船のエンジンに火が入った音がした。
「おい、ちょっと」
 まさか、義肢だけ奪って置いて行く気か。
 そう思った瞬間、船の中から差し出された手が、「棺桶」を引き込んだ。
「あなたも乗ってください」
 男の手が私の右手を掴み、船のなかに引き入れた。勢い余って、二人もつれ合って身を投げ出すかっこうになった。
「済まない、ありがとう」
 男のほうを見ると、転げたときにスイッチが切れたか、バイザーの偏光が解除されていた。
 ふと、私は思う。
 この男、見覚えがある。
 私の凝視にも一切構わず、男は私を引き起こすと、座席を指差し、座るよう身振りをした。
「おい、あんた……月府の」
 男は、口をつぐむようにと、人差し指を眼前に立てた。
「恋愛と戦争は何でもあり、と申しますが、外交もまた同じです。あなたには、アウストラリスとの架け橋になっていただきました」
 そう言うと、宇宙服の男は身を翻し、床を蹴って船外へと出ていった。
「操縦はご心配なく。この船は、月からの自動誘導で地球に向かいます。さて、私は戻らなくては。よい旅を、カイザ殿」
 彼が踵を返すとともに、扉は閉じられ、気密音がした。それとともに機内の照明が薄暗くなり、後方から鳴る轟音が、一層激しさを増す。
 私は舷側の丸窓から、もう一度男の顔を見ようとした。だが彼は、離陸する連絡船から離れようと、背中のブースターを噴かして飛んでいた。たとえこちらを向いていたとしても、顔は見えない距離だった。
 そうだ、彼は。
 あの落ちくぼんだ、月のような灰色をした瞳は。
 以前、月府にプーパを納めに行った際に、私は彼の顔を見ている。
 地母神型の構想図を、高官のカイバルに手渡していた月府の担当官だ。
 彼は、アウストラリスとの架け橋、と言っていたが……私がこの依頼を請けるようになったのも、月府の外交カードだというのか。
 だとすれば、それは。
 <プーパ>の贈呈とは構造こそ違えど、私は義肢を携えた<プーパ>として地球に赴き、月府とアウストラリスの国交回復の嚆矢として、働いたことになる。
 月府はどこまでも、したたかな者たちだ。

 掌で踊らされたのだろうかと、心に浮かんだ小さな悔しさを置いていくほどの速度で、連絡船は月面を離れていった。

  

 船が月を離れて、しばらく経った頃。
 地球への突入軌道へと徐々に遷移するため、連絡船は加速を行っていた。
 噴射の震動を体に感じながら、私は片側の窓から、地球を見ていた。月面で見ていたときよりも、その青い星はやや大きく見えるようだった。少しずつ、地球へと近づいている。その事実は、私の心を沸き立たせた。
 私は後ろに積んである「棺桶」を、まじまじと見た。地球に着いて、あの中にある肉体への移植が済めば、私は地球で生きられるようになるのだ。
 月人として生まれ、地球に憧れて。
 それがついに、叶うときが来た。
 私は月に別れを告げようと、反対側の窓に体を寄せた。

「――!!」
 窓から見えた月には、赤い腕が、生えていた。

 月の白い表土に、これほど遠くからでも分かるほどの長大なひび割れが入り、その隙間からは、赤く禍々しい色をした腕が、伸びていた。
 まるで、月の地下の肉が――人の形を取って、湧き出したかのようだった。
 肉鉱に降りたとき、肉は既に、形を変えはじめていた。それは月全体の肉に波及して、そして月面を突き破って。
 ふと、私はその手が見慣れたものであるような気がした。
 一、二、三、四、五……六。
 六本指の、手。
 あれは。
 師ウンザの手だ。

 そうかと、思い当たった。
 師が肉鉱で転落死したときに、肉は師の体の一部――あるいは、流れ出た血――を取り込んだのだ。
 なぜ。なぜ師の屍を回収した者は、師の血が垂れてしまった肉を、切り取ってしまわなかったのだ。
 肉は、血でも構わず食う。そして時間が経てば、肉腫化をはじめるのだ。そしてそれは、繋がった肉を通して、月じゅうに波及していった。
 悔やんでも、悔やみきれない。

 そうだ、オーザは。オーザは、無事なのか? 工房の仲間達も。腕が突き出た場所にあった都市や居留地は、いったいどうなっているのか? ここからは見えぬ月の裏側でも同じことが起こっているのか?
 懸念が波濤のように、私の心を襲った。
 私は月に通信しようと、機首寄りに据え付けられたターミナルへと向かった。
 ターミナルの画面を叩く。だが通信用のメニューを探すよりも前に、現れていたアラートログが、私の視線を奪った。
 <遠隔管制、途絶>
 <軌道調整噴射、管制途絶中継続。予定噴射を三八〇〇超過>
 <軌道調整用燃料残量、ゼロ>
 <地球再突入軌道への遷移、不可>
 <救難信号、発信>
 ログの脇に表示されている航図には、地球から大きく離れていき、そして交わらない楕円軌道が描き出されていた。
 血の気が引いた。
 私の乗ったこの船は、地球にたどり着けないということを突きつけられた。
 なぜ、警報のひとつも鳴らさないのだ。
 なぜ、警告灯のひとつも灯らないのだ。
 怒りが湧く。
 この船はこんな静かなまま、私を宇宙の闇へ放り出そうとしている。

 私は叫んだ。
 叫び、船室の壁を何度も何度も、殴りつけた。

  

 月から生える腕を見たときから、もう七日が経った。
 この船は相変わらず、地球から遠ざかる軌道を進み続けている。
 船から見える地球は、小さく小さくなって、そしてもうすぐ見えなくなるのだ。
 この手にするはずだった願いが、眼前でありありと潰えていく。
 残酷な喪失だった。

 救難信号への反応は、あった。だがいつ来られるのかと聞いても、答えは要領を得ない。最善を尽くすと彼らは話していたが、私の気を安んじさせるために、そう言っているだけかもしれない。
 月はどうなったのかと彼らに聞くと、皆目見当もつかないほどで、被害状況すら整理されていないということだった。地殻の断裂はあの後も続き、突き出した赤い腕はさらに伸び、今度は月の裏側から、脚が出てきたという。
 世も末だ。

 だが、月のことなど、私にとっては二の次だった。
 差し迫った問題は、空腹だった。
 船に積まれていた非常用の糧食は、三日分。引き延ばしながら少量ずつ食べていたが、昨日、底をついてしまった。
 あとは緩やかに訪れる死を、孤独に待つのみなのか。
 地球にも、たどりつけないまま。

 もうろうとした意識の中、私は、月面から伸びた赤い腕を思い出していた。
 師の身体と化した月の肉は、これからどうなっていくのだろう。
 月自体がひとつの巨大な肉腫のようになり、表土の殻を割って、宙に浮かぶ赤い塊と成り果てるのだろうか。それとも、人の形を取り、月の代わりに地球の周りを回り続けるのだろうか。
 いずれにせよ、悪い冗談のような光景だ。
 肉は、師の遺伝子を貪り食って、月を割った。
 だがそれはかつて、逆の関係にあった。師は不出来な筋束を、食べてしまっていたのだから。肉を食べていた師が、肉に食われる。何だか、仕返しのような話ではないか。
 何一つ面白くなどないはずなのに、そう思うと、笑いがこみ上げてくる。

 いや。
 ――肉を、食べる?

 私は、船室の後方に置いたままになっている長い箱を、凝視した。
 あの中には。
 肉から作り上げた体が、入っている。
 新しい私が入るはずだった、肉体が。
 地球に移り住み、人としてのあるべき姿を体現するための肉体が。
 今までに削り出したどの<プーパ>よりも深い思い入れを以て、削り上げた肉体が。
 それは私の願望、そのものだった。

 私は、ためらった。
 だが、すぐにその逡巡を、振り払う。
 地球にたどり着けないのならば、あの肉体はもう意味をなさない。
 意味のない肉体など、失敗作でしかない。
 そうだ、師は。
 師は、失敗した筋束を、食べていた。
 ならば私も、それに倣えばいい。
 不要な肉体など、食べてしまえばいい。

 私は床を這いずりながら、「棺桶」へとたどり着く。
 そして、脇に備えられた鍵を解いて、蓋を開ける。
 その中には、私の顔をした、私の望んだ姿形の肉が、憎たらしいほど安らかな表情で眠っていた。
 地球の夢を見ているだけの、ただの肉のくせに。

 私は、肉に喰らいついた。

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