月の硯

印刷

梗 概

月の硯

※極力、PDFでご覧ください。
第8回テーマ月(梗概0103PDF用)

月の硯は高級品だ。
その価値は月の石には由来せず、その価値は月の育む意志にある。

一九九五年、月育ちの女流書家、十九歳の黄多有こうだ ゆうは、四画の月偏つきへんをその名に冠する〈月文字つきもじ〉のひとりとなった。
十二人いる〈月文字〉は、詩歌しいかや格闘、絵画に踊りに女衒ぜげん等、個々に異なる技芸に秀でた女性が選び出される月面発の大使アイドルで、月ステーションが居住と観光を打ち出す時分にプロデューサーの縁間えんまの下で発足し、月と地球を繋ぐ役割を果たしていた。

二〇〇〇年、二十四歳の有は、月の六倍の重力がかかる地球でライヴドローウィングを失敗する。その経験から、有は月育ちが地球で書字を行うための簡略字体〈ルナコード〉の開発を決意する。

朝待建あさまちけんは、地球育ちのフォントデザイナだ。二〇一七年、IPA情報処理推進機構が二十年越しに完了させた拡張事業――従来一万文字が限度のコンピュータでの漢字表記を、外字を含んだ六万文字まで可能とした――の報を受け、フォントベンダー各社は自社製品のリファインを検討。建の勤めるベンダーの社長、定見さだみは六倍におよぶコスト面から従来手法を見切り、フォントセットを自動精製可能な函数開発に舵を切る。二〇二〇年にはこれを導入。競合他社が後に続いた。
多くの企業がブランディング戦略としてのコーポレートフォント導入を加速させ、学校・団体がこれを後追い。市民ひとりひとりの〈プロフフォント〉が流行となった。あっという間に、ARプロフに載せるフォント選びで常識と格が問われる世間となった。
三十二歳になっていた建は、一字一字の字形グリフを象りフォント全体の雰囲気を醸すデザイナとしての存在意義を失い、退職。〈月の硯〉にヒントを求めて月へ赴く。

素人の独自フォント制作はブームとしては火が付かず、揺り戻しとして手書きの文字が重宝される。ペン字はもちろん、筆字がにわかに取りざたされたのだ。静謐な宇宙で、特殊な巨大レンズで拡大された地球に臨んであらわす「あなたの氏名」。新年は、月で〈月初つきぞめ〉はいかがですか――。素材に向かない月の石から削り出された〈月の硯〉で墨を磨り、持ったことのない筆を動かす。建は国籍多彩な観光客の一人として、四十四歳になった有名人、〈四画の月偏つきへん〉、有が講師を務める月初めの会に参加する。
地球のものより質量があるが、六分の一の重力で走りすぎる筆。準備運動としての〈ルナコード〉。四苦八苦する観光客に向け、有は二十年前を物語る。地球上での偶然たまさかの出会い。失意の有を気遣う青年。かれは進路に迷いを抱えた、未来のフォントベンダー社長であった。

女は言った――だれでも、どんなときでもを生み出したい。
男は返した――どこでも、どんなふうにもを生み出したい。

文字に関する二人の異なる決意が二十年を経て月で交錯し、建に初心を取り戻させる。
かつて生み出されてきた無数のフォントのライセンス。
およそ書字の可能な人間すべてが有する「自分のフォント」。
それらの分類・管理は誰もなしえておらず、こうする間も代替できない老いた筆跡が次々喪失している。俺の国だけで一億種類。そこに広がる字形グリフのグラデーション。そこから拡がるグラデーション。その塩梅が判るのは、文字の世界に生きる人間だけだ。

――今生きている者、これから生きる者があらわすすべての文字を遺したい。
――そして、未来が求める文字を生み出したい。

かつて地球で言葉を交わした二人の巨星をも超える大望をかき抱き、フォントデザイナは蒼き星へと帰還する。

文字数:1575

内容に関するアピール

・この作品のヒーローは社長の定見(出番はほぼない)、ヒロインは有である。

・筋としては「建の意志が定まる」物語であるが、どちらかというと、二十年振りに定見と有とが(本人たちが気付かないまま)つながる様を描き出したい。三人称で、建と有の視点で交互に描くことになるだろう(縁間は気付くが、出番はほぼない)。

・当初、時系列の細工は考えず、建と有との恋物語にしようとしたが、定見と有とに縁を持たせた方がロマンがあると考え直し、有の年齢をすこし上にした。

・冷戦の勢いが収まらず、作中五十年前――史実ではアポロ十一号の翌年――一九七〇年には月ステーションの開発着手。有が産まれる一九七五年にはすこしずつ居住モジュールが拡張。宇宙開発史上は猛烈な速度で発展があった……という設定(でなければ、有が「月育ち」にならない)。重大な転換点が史実といくつか異なるか、月に住めるようにせねばならないのっぴきならない事情があった並行世界である。が、改変世界がテーマでないため梗概からは省略している。

・もちろん、先日報道されたIPAの外字拡張事業の完了が五十年ほど後ろ倒しになった……という並行世界の方が、世界的に見た影響は少ない。しかし建が「未来の文字」に至る作品である以上、より過去である冷戦の方にどうにかなってもらうことを選んだ(そこの突っ込みを必要とする作品でもない)。

・定見は既婚(子なし)、有は未婚(生涯独身)。現実なら反対だろう。

・月偏のうち、「みかづき」についてはバニースーツ姿の案内人として想定した。が、出番はない。

・本作のフォント(PDF)はKaiTiを採用。そろそろケチらずフォントを買うべきか。

文字数:697

課題提出者一覧