梗 概
未だ竣工せず
トートが「月」に配属されてからもう9年が経とうとしていた。その間、家族と会話したのは数えるほどしかない。アースコールはいつも予約がいっぱいで、自分の番が回ってくるのに数年は待たなければならないのだ。正直に言ってきつい現場だとは思う。食料も必要最低限しか供給されないし、作業はいつも危険と隣り合わせである。娯楽も少なく、気晴らしといえば、同僚との賭けカードくらいだ。しかし、自分のような才能もない地球生まれが家族を養おうと思ったら、このプロジェクトに参加するしかないのだと、トートは納得していた。
休日になるとトートは地球を見に「月」の外れにまでやってくる。多くの同僚たちがそこで何をするでもなく、ただ静かに赤茶色の星を眺めている。ムーン・シェイクが起こるまでは地球は青く美しい星だったらしい。今はどんよりとした雲に覆われていて過去の姿は見る影もない。しかし、どんな見た目であろうと、ここにいるものは地球で生まれたものが大半だ。自らの故郷が懐かしいのだろう。火星のやつらも同じ気持ちを抱くのだろうか、とトートはぼんやりと思う。でなければ、火星移民からこんなプロジェクトが発案されるわけがない。
ある日、トートは作業中の機器の操作ミスにより発生した爆発事故に巻き込まれ命を落とす。それによりプロジェクトは遅延を余儀なくされ、トートの死は労働災害として事務的に処理される。プロジェクトの遅延も労働者の死ももはや珍しいことではなかった。
タバサは「月」を眺めるのが大好きだ。眺めるといっても、衛星のカメラを通してだけれど。友達はみんなよく飽きないなという。でも、タバサは自分の父親があのヘンテコな宇宙船の中で自分と母親のために働いていることを知っているのだ。それを思うと毎日ほとんど変化のない「月」を眺めるのも、決して退屈ではない。タバサはいつか「月」が完成し、大地に緑が戻ってくる日のことを想像した。本や映像でしかしらない在りし日の地球の姿をこの目で見たいと願う。
タバサの父親が参加しているプロジェクト・ツクヨミは、大規模な地殻変動によって自壊した「月」を人類の手によって取り戻す計画だ。この計画に対しては批判も多く、参加した人たちが「火星人の妄言に踊らされた愚か者」なんて貶められたりもする。でも、タバサはその明るい展望が好きだった。こんな狭苦しい地下ではなく、家族三人で「月」が輝く空の下で暮らせたらどんなにいいかとタバサは思う。
その日もタバサは寝る前に「月」を眺める日課をしていた。じゃがいものようにいびつな石の塊から鳥のくちばしのように飛び出した宇宙船。それが今の「月」の姿だ。昔はもっときれいな球体だったらしい。でも、その残骸は今、地球の周囲にバラバラになって漂っている。
タバサがもう寝ようかと考えていると、「月」の表面で何かが光ったような気がした。それが父親からのサインのように思えてタバサは嬉しくなる。あと1年ほどで、いったん地球に戻ってこられるらしい。タバサは父親との再会を心待ちにしながら床につく。
「月」着工から100余年。
未だ竣工せず。
文字数:1272
内容に関するアピール
月がなくなったらどうなるんだろう?という単純な疑問から端を発した物語です。
実作を書くとしたら、トートが作っているものが月だということを読者に隠して普通の出稼ぎ労働者のように描写したいと思っています。
文字数:99