逆数宇宙
逆数宇宙 / the Reciprocal Universe
1.
また銀河が食いあったようだ。
〈方舟〉の不時着直前に観測したときには隣あって輝いていた二つの点が、交わり、かつ、ぐんと暗くなっている。
おれはこの現象を解釈するための説明を思い出す。銀河の衝突。それが天体形成の爆発的な活発化を導くと、塵の衣が銀河にひろがり、これまで外へ飛んでいた短波長の光を阻んでしまう。
おれがうろ覚えながら知る、そんな銀河を大気つきの地上で観測する方法は、銀河からくる水素輝線の一本をうまくとらえてやるものだ。でも普通の場所じゃその輝線は大気中の水蒸気に吸われてしまう。水蒸気が少ない場所を選んだうえで、この波長に合わせた測定器を準備するのが、必要とされていたはずだ。
おれの依り代となったものがみているこの望遠鏡は、そんな測定器としての条件を備えていない。製作者たちは、望遠鏡技術の出発点に、ようやく着いたところだった。これから光学を発展させるところだった。
ぷつりとすべての光が消えた。
衝突中の銀河の点を含む、あらゆる視界情報が、光とも闇ともつかないやわらかな海に混ざって失せた。
依り代がついに目を閉じたようだった。
種の最後の一体、文明の先端を推し進めていった一個の光学者が、個体としての呼吸を停止した。
「また絶滅か」
おれがため息をつくように言うと、
「みたい。次は何万年休む?」
「アナンドリ、君のおすすめは?」
「ただの文明崩壊ならこの前と同じ、一万年。けれど種が絶滅したわけだから、やっぱり、ざっと六千万年は推奨する。前々回もだし、霊長類が生まれてからホモ・サピエンスの誕生までにもそれだけかかったわけだし」
「千万年でいこう」
「ずいぶん強気」
「機会を失うのが惜しいんだよ、わたしは。今度はいいところまでいった……かれらは望遠鏡までつくったんだ。だというのにたかが伝染病で……」
「たかが?」
険しいひとこと。
おれは、まだぼんやり残る依り代の知覚――朽ちきっていない神経網の残り火――から、意識を離す。そして自分の人類としての表子の輪郭を意識しながら、振りかえる動作を行う。すると青い三角錐がそこにある。いや、いる。
三角錐の表子をもった、かつて少女のからだをまとっていた、アナンドリ。それは動かす口も持たずに言う。
「わたしたちの〈方舟〉が保存するDNAにも、病気で滅んだ生物種のものはいくつもある。人類だって危うい局面を経てきた。かれらの絶滅前の状況は意外じゃ、ない。ここ数十年での産業発展。環境は劇的に変化し、かれらの密度は増加した。各種病原体の進化もおそらく加速していた――わたしたちは病原体の姿をみられていないけれど――。その進化に医学の発展は追いつかなかった。望遠鏡ができてすぐに顕微鏡の理論もできながら、ほとんど生物には応用されていなかったみたいなのだから……相当非対称的だったの」
「ああ――わたしが、かれらに工学の重要性ばかりを印象づけたせいだというのか? 外側への視線を?」
他人事のようなアナンドリに、正直いらだちがわいた。「それだけ医学が重要だと気づいていたのなら、君もかれらに指南すればよかっただろう。『因果と相関』が云々などと言い訳して、動物園とやらにひきこもってはいないで」
アナンドリは何も言わない。
喧嘩しても、無為だ。
おれたちはこのままでは、この星から出ることができないのだから。
おれたちは今惑星の地下、全周30kmあまりある、環形の「鏡の間」に住んでいる。環の外側に、六千枚の鏡が、内向きに連なっている。鏡たちがなにをしているかというと、リングの中を走る光を走りつづけさせている。一枚一枚が、左から低い角度で入ってくる光を、やはり低い角度で反射して、右の鏡に渡すわけだ。
光はなにが楽しくて走っているのか?
光自体の気持ちはよくわからない、が、光を必要とする側としての気持ちならある。
光、それがおれたちの外的な記述なのだ。
おれたちを情報としてとりまとめ、その秩序を保存する〈方舟〉。そんな組織体であるこの〝舟〟の、外的な存在形態、物理的な土台が、光という束ねられた電磁場だ。
だから光波には走ってもらわないと困る。もしばらばらにどこかで停止して、まとまりをなくせば、「おれ」という情報秩序は砂のように崩れるだろう。
もっとも、およそ一億五千万年前にやったように、広域的な情報通信網に定着し、そこで秩序を成立させるなら、それは仮のすみかとなる。
一億五千万年前まで、おれたちはやはり光にいた。だが周辺環境は地下の逆――大気圏外、宇宙だった。
〈方舟〉は、地球の生物数万種のDNA情報と一緒に、宇宙を一路、その「果て」めざして疾走していた。そこでおれは、一億年ごとにめざめ、仕事して寝る生活を、到着まで繰りかえすはずだった。
だが〈方舟〉は中途この惑星に衝突し、おれたちは星にとらわれた。当時の惑星環境のおかげで、幸か不幸か生きのびたものの。
「なんにせよ、わたしたちがふたたび外へ出るために、ここの生命が文明を築き、電磁波を無事放出する技術を打ち立てるまで導いてやる必要がある。さあ六回目の開始だ。アナンドリ、君はまさか今回から反対に転じるわけじゃないだろう?」
「反対ではない。わたしたちがこの惑星の生命を支援しようとする状態と、この惑星で文明が発達する可能性。これまで五回の体験を通しても、双方には関係があるだろうと思う」
「相変わらず慎重な言い方だ、君は!」
おれより八十歳近くも年下の――今となれば、その差は〈方舟〉が地球を出発してから経てきた何億年という長さに比べると、たいそう小さいかもしれない。だがおれの意識のうえでは大きかった――この同乗者の、話題が意志や因果や未来に絡むと出てくる、もってまわった物言いに、たびたび耐えがたい感じがする。
二十一世紀後半、量子力学的世界観が浸透した世代特有の言い方なんだろうか? と断言してやるには、このアナンドリたちが生まれた時代におれが関わっていた人間の数、継続していた〈関係体〉の数は、決して多くなかった。
いや、考え直すなら、その抵抗感は、話題の問題ではなくて、むしろ個人と個人に関するもの。どこの惑星からも仰ぐ共通の天ではなく、惑星個々の地をみるようなものかもしれなかった。おれは十四歳で地球を発ったアナンドリ、このA.D.2066生まれの同乗者の、自分を含んでいるはずの物事も外から見ているような言い方に、苦みを思い出させられているのかもしれなかった。
だがおれは年長者として、おれの狭量のせいでおまえのことが苦手なんだとかいきなり打ち明ける気にはなれなかった。だいたいこの子も、同情すべき背景を持っているんだ。――そう、自分に言い聞かせる。
「とにかく、休む時間の件だったね? わたしは千万年眠ることにする」
「じゃあ、わたしは三千万年。それで睡眠を組み立てるつもりになっている。おやすみ、ノア」
アナンドリの表子、青い三角錐が、すうっと小さくなっていく。
縮小、いや――奥へ移動しただけのはずだ。アナンドリは表子を四次元の三角錐として設計していて、おれはその像を三次元空間でみているから。四次元三角錐と三次元空間との交わり、いわば断面として三次元の三角錐があらわれていて、本来のが断面に直交する方向を奥へと動いたもので、おれのみる大きさが変わったんだ。
そうだおれは三次元空間でみている。
そう意識すると、空間の視覚的形状がやっと明瞭にあらわれてくる。うすぐらい壁の間。ぶつぶつした床と天井。正面の扉。扉脇に並ぶ押しボタン。
宇宙を光速で進む〈方舟〉にいたとき、ふたり共用で過ごす空間は、船内のようなかたちをしていた。アナンドリと打ち合わせ、二人のみる〈内空間〉でもきっと似たような三次元空間として表現されるように、設計した。
そこには広い窓があった。〈方舟〉に光が交われば、情報-物質の対応にひもづいて〈内-外空間〉間の変換を行うアルゴリズムが動き、来た角度へ対応する場所へと、星明かりを映し出した。
今の共用空間には、窓というものがない。
ただの汚れたエレベーターホール、だ。
〈方舟〉の不時着後、外環境ががらりと変わり、外からの情報をつないでいた共用空間の設計を変える必要が出た。話しあったが意見があわず、お互いの個人空間につなぐパスだけを新たな空間の〈外空間〉構成に配置して、個々の〈内空間〉への表現は、めいめいがすることになった。おれはエレベーターホールにした。アナンドリがどうかは知らない。
おれはエレベーターで地下へ行く。窓のない廊下を歩き、ひとつの扉を、あける。おれの個人空間。それはやはり窓のない、部屋だった。
好きな部屋じゃない。だが長い間住んでいた。だからおれひとりで設計できた。そりゃ昔風の宮殿だとか観測台だとかスタジオだとかも試したが、この腕では違和感ばかりになった。記憶からの自動設計機能に依存してこの部屋をつくるのがせいぜいときた。
その点、あのアナンドリは、すごい。あの設計好きには目をみはる。
おれは気づくのが遅かった。好きなのは自在な設計可能性ではなく、換えの効かない手の感触だったってことに。
感触。それ自体はここにある。
こうしてベッドに座ってみれば覇気のない感触がくる。もし窓を殴りつけたなら、出血と鈍痛の感覚を伴えるだろう。だが空間と表子を調整すれば、なんの痛みも痒みもなくせる。問題はそういうことだ。感覚が「どちらともできる」ものでしかないことだ。
だからたとえば、好きだった。
この星のものたちが天をみる窓とした望遠鏡。それが手入れの手をなくし、埃と塵のうちに朽ちていく、そんなさわり心地のある運命を、勝手にうらやましがる。
承知している、これは決して堅牢ではない感傷だ。「どちらともできる」とつぶやくのも、きっとアナンドリに「どちらを選ぶかどうかも勝手に決まっている」と返されるだろう不用意なものだ。
恥ずかしさを押しやって理性的に言おう。これは目標までの回り道にひとつついた休憩のため息にすぎない。冗語を止めて振りかえるなら、わたしの意志は、宇宙の果てへ至ることを第一の使命とし、おれの記憶は、地球上につたない生を費やし終えるのはやはりいやだったと語るだろう。
わたしはそう自分を鼓舞し、横たわり睡眠を組み立てはじめる。
三次元球体状の睡眠設定コントローラーを顕現させる。球表面にウェルカム・メッセージ。そして睡眠設定についての質問が音声とともに流れていく。心地よい音楽ともともに。
「Q――睡眠の期間は? 指定がない場合は一億年を設定します」
一千万年を設定する。
睡眠は水浴に似ている。おのれの垢をそぎ落とし、明日のための自分を形づくるための決意表明。三十のころはよくそう思っていた。四十いくつで「つくりたい自分」が消える前には。〈方舟〉に来てからその意義を思い出す。ここでは夢の時間すら計画的に運営される。
次の質問には空白を返す。
「Q――夢をみる期間は? 指定がない場合は睡眠期間に応じた適切な期間を設定します。
(1)睡眠前
(2)睡眠後」
睡眠前と、睡眠後。そこで〈方舟〉乗組員のわたしたちは夢をみる。精神活動を調整し、記憶を整理するために。長期保存する記憶とそうでない垢を選り分けるために。
わたしを保存する目的で、わたしが得た一部を捨てる。並んでわたしの古層を呼び出す。
回収を待つ廃棄腕の山の悪臭の中、弛緩したまわりに混じって、一本だけ、りりしく曲がっていた腕。初めて知る焦がれから首を背けた小学生の日。爪を短く切り揃えはじめた十七歳の日、それを止めた四十三の日。……。曖昧な一瞬。ふわりとした光やさわり心地の記憶。
それがおれ、ノアを組み立てる。
おれは不安だ。夢と夢との間、覚醒じゃなくて睡眠のほう、その間、おれの情報は凍りついたように固まる。運動や変化のない状態になり、光の上で保存される。そういう仕組みだと言い聞かせられている。
だが目覚めたおれはおれなのか?
〈方舟〉に乗る前の、血と肉があった日なら、眠りを外から測定すれば、おれが活動し続けていたという情報が来たろう。それが過去と未来への自信をくれたろう。
しかしこの状態じゃ、簡単に記録もつくれるだろう。
アナンドリなら言うだろうか。「それは程度の問題でしょう。昔から不安はあった。脳に新しい記憶を植えつける手法だってある」、とか。
なら要は〝より手軽ではやい実現可能性〟、そのことが、不安を遠くから近くに移すのだ。
おれは乱暴に納得した気分になった。
「Q――特に残したい記憶のキーは?
Q――特に消したい記憶のキーは?」
残したい記憶――この惑星について。天文状況。医学の重要性。
消したい記憶――かれらがつくった都市の詳細。日常会話。
後者にはアナンドリとの言い合い、と付け加えたくなったが、止めた。相手だけ覚えていたら、面倒だ。そういう経験は、昔よくした。
「Q――中途覚醒のトリガーに、『危機』以外を設定しますか?」
ここに「文明を築けるだろう生命の誕生」と設定できたなら楽なのだが、この条件を判定するための自動探査プログラムは、あんまり軽くない。何千万年と働かせつづけた場合の危険性があった。
〈方舟〉の情報秩序保持機構は、ある種の〈もつれ〉保存技術により、秩序を割り出すための関係性を保存する。その技術は秩序系の規模が大きくなるほど、そして稼働時間が経つほど、堅牢性を危うくするものだ。
だから大きな情報秩序は、自意識を主張しようがしまいが、眠りを主とするのが望まれた。
2.
おれは、ノアは、飛び上がった。はじめの千万年ではだめだった。次の千万年も。だが三つ目の千万年に渡る睡眠を終えたとき、おれは予感に満ちあふれていて、それがシンクロニシティとかいうかはともかく、外へ知覚をはい出させて観測すれば――
「生まれたぞ!」
得られた結果を告げるべく、アナンドリを起こしにいこうと、部屋の扉へ手をかける。
突起部。冷たい金属の感触。
一瞬恐怖がわいた。左右の部屋にだれがいる?
おれはなんでもないように笑顔をつくってノブを回した。
廊下があった。
おれは一歩一歩進んでいった。
廊下の両側はぴっちり並ぶ部屋の存在でふさがれている。そこら中で換気扇と換気管がごうごうと唸り、その音量が規則的に増減して、おれに心臓があるかのような気分をさせる。
おれは恐怖を、他の部屋の扉を開けてしまいたい衝動を抑える。おれの想像はもう視線が触れた部屋部屋の中に骸骨を生んでいる。あるいは灰を、土くれを。かつての隣人たちがそのままの姿でおれを迎えるなんてことない――そう感情的に感じているからだ。何億年の歳月が呼び起こした変化を正確にシミュレートする前に。
ここは記憶の地下だった。きっと今では崩れている、地球の地下だ。
おれは左折して、階段二段あがってエレベーターホールに出た。
ボタンを押して、降りてきた乗り物に入り、まぶたをおろして上を押す。揺れが始まり、止まり、口と一緒に目を開けると。
風を迎え入れるように、扉が分かれる。
緑がおれの視覚を焼いた。訪れた個人空間は、今、草原だった。
あふれる光へ進み出ながら、おれは後ろ髪引かれ、振りかえる。
黒ずんだ天井、錆びた縁。閉まっているエレベーターの扉。
それはみな色褪せている。それが急に薄っぺらにみえる。するとホールは縮みはじめる。風船がしぼむようにすんなりと縮んでいく。あるいは少なからぬ数の夢が、覚醒を越えれば急速に縮退するときのように。
おれはおれの回想空間の収縮を目の当たりにする。骸骨の想像すら消えた。生まれ動く蒸気のような骨や灰や土という像に接続してわいていた不安の水が失せて、恐怖の底がでる。おれは、ひとりきりだった、どの部屋にも誰もいない、亡霊もない、それが恐怖の、底だ。
おれは慌てて駆け出る。
おれはもう草原にいる。おおらかな緑が、まわりを包む。
空には一つの太陽と動く雲の魚群。
まばゆさが、焦りを流し、ほうけた安らぎを生む。
あたかも地球にいるかのようだ。
腰を下ろし、背を倒して、分けた草の間の頭で空をみる。
間違いない、といえる安定した空間。ここは不用意な情報未定義がゆえにしぼみはしない。演算バグで崩れもしない。指先ほどのブロックにも鮮やかな情報があるだろう。精緻に設計された空間の安心感がここにある。その脇で悔しさを覚えなくはない。あの子の個人空間ならば賭けてもいいが、これは設計者の肉体の記憶に基づいていない空間だ。極度に理性的な模擬実験的設計だ。
――アナンドリ。
あの子の前で劣等感を覚えるのはあほらしい話だと思ったはずだが。だいたい記憶と実験では特長が違うのだ――記憶の本性的な曖昧さが、もういちどまわりをみなおせば感じることだってできる鋭さ、そうだここは一点一点が鮮やかすぎる。変化し信頼できない空間の曖昧さが、液晶を剥き出しにして充填したかのようなこの空間の抜き身の強さに比して、不必要というわけではない。
わたしは背を上げる。肩に手を伸ばし、くっついた草の欠片を飛ばす。するどい感触が指をえぐる。
「しかし、変化したものだ」
この草原の景色も、奥にみえる生物どもも。
水を飲む巨象と、その腹に顔をすりつける子象。
まわる山猫。
並んで咲いているすみれ。
奇妙な取り合わせだが、妙にのどかな、この生物たちは、前来たときは、檻と塀の中にいた。
当時のアナンドリの個人空間は、安物の動物園そのものだった。
アナンドリは好きでそうしたんじゃない。実際わたしが「窮屈そうだ」と指摘すると、動揺したようだった。それはあの子がそんな動物園しか知らなかったからだ。知識の偏りだけじゃない、あの子の育った地域じゃ、きっとそんなのだけだったんだろう。〝同情すべき小さな天才〟。わたしは、指摘の際に皮肉るように言ってしまったことを少し悔やむ。「動物たちを押し込めて引きこもったのか?」とまで言った気がする。だが何億年も前の目覚めだ。
おれは、自然公園に暮らすような様子の生物らを、みわたす。全き動物のようにみえるやつらだが、騙されてはならない。
みわたす。よくみる。異形がある。
おれはひとつのものに意識をとめた。
鉛と硫黄を混ぜてホールケーキ状に整形したような色の塊。
「これなら、いいな」
声に出しておれを安心させてから、近寄り、右足でそれを蹴り飛ばした。
塊は蟻塚めいた隆起にぶつかり、直径部でぱかりと割れて、生暖かそうな橙の汁を土へ散らした。
存在しない脳に、わずか、刺される痛みを覚える。だが、ほかの生物らよりは少ない罪悪感だろう。おれはもう一度、蹴った。
ホールケーキにまた亀裂が入る。
嫌悪感の裏、吹き飛ぶ汁に、反射的な食欲がくる。菓子というのは長命だ。おれが子どものころから九十になるまで、乗り物や死因や腕の本数の流行は移り変わったが、ケーキは似たような格好だった。
「まだ、か」
アナンドリが起きた様子はない。これじゃ足りないか? 存在しない汗を覚える。太陽に焦がれる背をむけて、もう一度、蹴る。
低いうなりがそばで聞こえた。振り向けば顔の前に壁があった。樹皮のような灰色。
おれは飛び退く。
長い鼻だ。
平たく横に引き伸ばされた鼻だ。いや単体の鼻じゃない。その右半分は、ふさふさと毛皮を生やしたなにものかの尾だ。尾が連なっている。
岩盤のような動体がおれを狙っていた。
おれは駆け出した。
走る。情景が動いていけば、この自然公園のなかみが、視覚にみえて明らかになる。
七枚羽根をはやした虫の胸部が、膨らんだ腹だけの個体と並んで、飛んでいる。
おれが足に踏む草原も、根から伸びる葉の姿などわずか。緑の丸い滴が魚の卵のように群れて浮かんでいる。黄から紫への花びらを固めたような小さな麩を交ぜている。
これが、ここだ。おれの慣習的反応にとって異形のものたちの生息地。
だが逃げ帰るわけにはいかない。おれはあの子に、文明を築けるだろう生命の発見を告げに来たのだ。あの子の――反応をみてやるために。そのために起こしに来たのだ。
おれは走った。
丘を越え、川を跳び、沼地を駆けた。その間ずっと地響きがきこえていた。離れない。おれは木に飛びついた。祖先のように樹上へあがろうと、枝をたぐって手当たり次第、かきわけるようにおれの体の下へ送る。
樹冠。茂み。幹をのぼったおれは緑の間から頭を出した。
空の下、草を踏み分け、近づいてくるやつの姿が、みえた。鼻のむこうの頭部までみえた。頭部? そうと言えるものか? それは二こぶの塊だ。鼻の上部の隆起には目がひとつある。こぶ間の空隙のほうにいくにつれて、細く切れ長になっていき、とじている。逆側の隆起には耳もひとつ、おれの知る象のものよりだいぶ短いのが、あった。もうひとつのこぶには、赤く汚れた尻のひだめいたものがぶらぶらしていた。
おそらくは、と、やっと考えを落ち着ける。これは、あの水を飲んでいた巨象だろう。その象が別の方向を向いたものなのだ。
つまり、四次元の、生物として、四次元目にからだを傾けているのだ。
アナンドリの個人空間であるこの「自然公園」へ住むものは、みな、本来はそうだ。
おれのこの〈内空間〉、三次元に設計されたこの空間でこそ、一部は動物、一部は異形として捉えられる表現に変換されているが、本来のあの子の個人空間では四次元の生物として生きている。
生物たちは、集団全体として繁殖と死をくりかえし、云億年間〈方舟〉内で進化している。そのからだをつくるのが三次元に配列された遺伝子だと、おれはあの子から聞かされた。
おれたちの〈方舟〉が保存運搬する地球生物のDNAを、あの子は一生物に対して二次元の配列とみなした。染色体ごとにATGCの並びが一次元。染色体の分で一次元。これを数セット並べた。するともう一次元加わることになる。これをひとくみにしたのが、計三次元の〝遺伝子〟だ。
要は、もともと霊長類も含めて、二次元遺伝子に三次元の身体が結びついていたのを、三次元遺伝子に四次元の身体を結びつけるというやりかたに高次元化したらしい。この空間設計者のアナンドリ、今四次元三角錐の表子をもつあの子は。
おれは、「動物園」だったここを初めて訪れたとき、冷静さをかき集めて言った。
「君はどうしてこんなものたちを生み出したんだい?」
「生み出したんじゃない。もともとあった情報を結びつけて、潜在的にあった可能性を顕在化したの」
あの子は首をかしげた。ああつまりそのときはおれのような人類のフォルムをしていた。小麦色の肌をした少女の。
「それを生み出したって言ってもいいんだよ。ともかくどうして――」
「DNAでは、遺伝子の並び方が、その発現する体の部位の並び方と強く関係していることがある。たとえば体軸形成に関わるHox遺伝子とか。それを高次元で検証したかった。けれど一般次元のシミュレートは難しいからまずひとつ次元を上げた。そう記憶している」
アナンドリは、そういうやつ、いや、子――。それを起こすために、この生物のひとつを、おれは手荒く扱うことにした。
睡眠時のおれたちは危機的状況下では中途覚醒する。この生物どもはあの子にとって大事なもののはず。だから――という理由で、この化け物じみたもの――実際由来として怪物じゃないか――を少々手荒く、することに決めたのだ。その中でも、おれの視覚にとらえられた状態で、庇護倫理を刺激する外見ではなかったものを。
ふっと、空気が暗くなった。滴を集わせた枝葉が陰っている。
おれは上を向く。
中空からぽかりと、熊の顔が飛び出していた。
慣習とは、あほだ。
初めからみえていたなら、驚いて落ちることもなかっただろう。
アナンドリが「ほら、中途半端なみかたをするから混乱するの。あなたがむかしの肉質に依存した視覚様式にこだわっているから」というのが聞こえるようだった。以前の「動物園」見学の時――あのときはアナンドリに空間自体を回転させられて――吐きたくなったわたしに、あの子はそんなことを言ったのだ。
いや仮にもしみえていなくても、この空間の切迫した鮮やかさに、実感をおぼえなければ、やはり平然としていたろう。だがおれは落ち、そして、痛みはなく、仰向けに土に広がった。象の面をもっていた生物は、あやまたず、進んできた。
おれは身を返し這う。這ってから腰を上げ、二三歩よろよろ歩き、よろよろ走りへ立て直す。
だが地響きは着実に近接し、延命の努力を追い上げてついに接触する。
音のうねりが聞こえた。おれは後ろからはね飛ばされ、宙で巻かれるように回転し、ふたたび、象の鼻と、面を合わせ、おれが落ちきる前に、鼻の壁はふたたび上がり、振りおろされた。
わたしは三角錐の名を呼んだ。
一瞬後、空間が変容した。
象も木も岩も川もゆがみはじめ――知る。吸引される。四次元の、奥の方向へ、移動する。
わたしの軸が、このとき、三次元への拘束を解かれた。
遮蔽されていた別w座標の情報が急激に流れ込む。かれらの全貌がみえかけて、なにかおもいかけた瞬間、あらゆる方向へと伸びる音を浴び、聴覚信号が混濁する。叫び、喜び。咀嚼、破裂。嵐、波。わたしはすがる思いで無音化した。
ここは草原じゃないか? けれど海であるかもしれない? 乱された見当識の砂嵐の中、ぴたっと、チューリップの花弁とエイのひれを混ぜてぐるぐる巻きにしたようなのが、小石の下で萌えているのが、意識にとまった。
わずかな時間のことだった。この空間との界面の再設計が急変に追いつかず、〈内空間〉が攪乱された、ごく短い時間だった。
急ブレーキでとめられるようにして、頭にめまいを残しつつも空間が収束したときには、もう、巨象の鼻はなかった。花弁とひれのぐるぐる巻きも。
ただ、涼やかな草原に、青い三角錐があった。
わたしは知覚が三次元に制限されたことを確かめ、聴覚を復帰させる。
「アナンドリ……もしや」
「中途覚醒」
「……あ――、なるほど、同乗者が死にかけたっていう、危機か」
「いえ」わたしの納得はすっぱり切られる。「死にかけはしないでしょう。〈方舟〉乗組員であるあなたの保存が優先されるのだから」
「じゃ」
「単に、名前を呼ばれるのを覚醒トリガーにしていただけ。逆にあなたはしてないの、ノア?」
していなかった。
「わたしを引きこもりっていうけれど、あなたのほうがよほどそうかもしれない。それで、名前でないなら、どういうトリガーにかけようとしてわたしの目覚ましに取り組んだの? 『危機』?」
わたしは企みを白状する。
すればアナンドリは園の一部の破壊行為については責めなかったが、
「あなたがかれらの外見初期状態を基準にして対象を選定したのが不可解」
「わたしは――文化的に継承した、外見選好の束縛を受けている」
「それなら、いじるという方法がある。あなたの〈内空間〉に表現される表子の形態を。簡単な表面質の変化だけなら、界面設計変換はたやすいでしょう」
「いじらない主義なんだ。初期状態をなるべく自然に表示するって」
わたしにまだ原子的な肉体があった時代からの、主義だ。当時はこの空間は、〈仮想空間〉と呼ばれていたが、そこで主流となった設計指針は今〈方舟〉上での空間を構築するのと同じ、〈内-外〉グラフ・パターンだ。
おれとアナンドリは、今共通の空間、アナンドリの個人空間に存在しているようにみえる。
空間を主体とすれば、そこに、おれやアナンドリという情報が存在する。これが〈外空間〉としての空間記述だ。
一方で、おれたちはこの空間を、お互い別の方法で表現させている。四次元か三次元かの時点で違う。これが〈内空間〉の側だ。
〝〈外空間〉は、〈内空間〉、〈内空間〉は、〈外空間〉〟といわれるように、それは表裏一体のもので、各空間の情報は面――界面を介して変換・対応される。
もっとも、この〈内-外〉区分の例は、ひとつの区切り方によるもの。ここの元動物園現自然公園だって、その電磁場的な存在様式という〈外空間〉に対しては〈内空間〉であるといえよう。
逆に、〈内空間〉の方向を深く辿り行くことを考えると、その深層の端はわたしの認識だろうか――いや、「『そうとも限らない』と、アナンドリならいうだろう」とわたしは以前思った気がする。「たとえばわたしの認識自体を記述素材として、さらに意味持つ情報秩序が組み立てられたら?」と。
ともあれ、こんな〈内-外〉の対応関係や入れ子関係を記述する〈内-外〉グラフ・パターン上で、おれたちは空間を設計している。
「主義? 自分のみる空間が気に入らなければ、自分の好きに編集するのがマナーだって、いろいろな関係体の訪問指針でもみたけれど。特に『相手の表子が気持ち悪いと思っても口に出すのはやめましょう。こっそり自分の好きなみため、声音、においや手触りに変えましょう』って、子ども向け関係体にも」
「理念はそうだ――子ども向けならとりわけそう言うだろうよ。怒らないでくれ。けれど文脈の問題がある。たとえ自分が相手をどうみているかが相手に知らされなくたって、自分の視線を相手は意識しないわけじゃない。政治ゲームがやってくるんだ」
自己表子の提示は「好き嫌いがなければこんなふうにわたしをみて」という意思の提示になる。奥ゆかしいような――押しつけがましいような――脅迫するような――そういったニュアンスのどれがあてはまるかも、提示が起きる関係による。
「わたしはそれが好きじゃないから、すべていじらない、デフォルト・モードの界面設計変換に任せるという選択をとっている。どこの空間の関係体でもさ。もっとも何年前――いや何億何年前というほうが適切か? にも主流でないコードだというのはわきまえている」
「そう。了解した。けれど、それと外見選好を共存させているのが奇妙に思える。あなたはいろいろ言っているけど、別のストーリーとして、霊長類の痕跡器官的なものにこだわっているとも考えられるかもしれない。精神も肉質も炭素系の一基盤に束縛されていた――」
「ああ、束縛さ。九十年間のホモ・サピエンスへの束縛は大きいんだ。君のように、この、一眠りが何億年にまで拡大されたタイムスケールを存分に活用して、進化実験だの、一個一個の言葉への際限のない突っ込みだのをするほど、順応できていないんだ。いまだって出発のときを思い出して鳥肌がたつほど――興奮する。とにかく起きてくれたんだろう」
「うん」
「また高度な生命が育った」
これが言いたかったのだ。
「へえ――」
錐が大きくなる。この反応がみたかったのだ。
ついさっき「主義」といった口のくせ、表情の変化までみてみたいと、心がくすぐられた。
「つまりはわたしたちが乗り込めるほど大きな、情報秩序の台となりうる存在群だ。いまいる、この地下の、『鏡の間』から引っ越しできる、新たな〈外空間〉候補の場所となり得る。そしてもっと重要かつ本質的なことに」
「〝わたしたちをようやく先へ、また宇宙の果てへ進ませてくれるかもしれない存在〟というのが前回のあなたの説明だった。変化はある?」
「なくていい」楽しみをみぬかれ苛立たれたかと、反射的にわたしは言葉を継ぐ。「というわけで、〈顕現〉にとりかかろう」
「質問。発生者はどういう存在なの? より詳細に」
今度は性急すぎたようだ。子どもに振り回される親のような――いや、孫?
「まず、わたしがみつけたのは、動的情報通信網を百成分ほど。そこに変換されるやり方を探して、少し乗り込んだ。わかったのが、かれらは触覚を保有しているらしいこと」
一つ目の感覚をみつけるまでが、光も音も匂いもない泥沼を手探りで這い進むようなものだ。今回は、相手の触覚と〈外空間〉との対応が、〈方舟〉の保有していた知覚様式の典型的なパターン、そのひとつに合致していたので幸いだった。前はわたしだけでは手に負えず、アナンドリの助けを借りた。
「そして、空間的な身体像を持っている。大きさと向き、重力なんかを感じるみたいなんだ。体内化学物質の移動時間差を使って設計しているみたいでね。おかげで形状の推定がしやすかった。かれらは、パンの生地のように、平面的にひろがっている。大きさは、一切れあたり数十cm四方から数百m四方まで。多いのは数十m規模のもののようだ」
「それが合計およそ百切れ。観測された」アナンドリは少しの間をおき、「で、視覚のように、光を利用するような感覚はあるの? ふたたびわたしたち〈方舟〉を外に射出させるだけの、光学的な設備の建設と、関係しそうな?」
「残念ながらまだみつかっていない。ああ、ただひとつ……」
「ひとつ?」
「わたしが接触した神経系は電気で動く」
「ならかれらが自分の頭の中を解析表示するセンサーをつけたくなるようになれば、可能性はあるということ」
アナンドリの言葉が冗談なのかわたしは判別しきれなかった。三角錐のどこかの面に人間を複製したような表情がついていれば、わかっただろうか?
「ともあれノア、今の話を聞いて、興味がある。〈顕現〉的な交信手段は」
「ああ。――〈方舟〉が解析中だよ。君のその四次元分ある動物園シミュレーションが演算リソースを食わなきゃ……」
「公園? 少し低速化させる」
わたしは頬に当たる風が穏やかになったのを覚えた。それまでに風が吹いていたのに気づいた。失われた激しさをいとおしむように頬のそばの空をつまむ――いい大人、子どもの歩調に合わせる大人、とアピールしているみたいだと自覚しつつ。
「ではノア、行きましょう。わたしたちの知覚が解析の材料になるかもしれない」
アナンドリが縮小する。わたしはそれが四次元的な移動なのか、それともただ縮小の表現なのか、完全に区別がついているわけではない。
どちらにしても、アナンドリは消えきった。
振りかえるとドアがある。
それを配置しただろうアナンドリの意図として推測される行為をすすめる。ドアに手を掛けて、この空間から外へ出る。
出た先にして、わたしたちがふたたび出会った場所は、暗闇だった。いや単に、光の情報を表現させていない空間だった。これから「かれら」に知覚を重ねるために、元の感覚を削減しているのだ。それが我々の、探索出発地の設計だ。
そこでおれは輪郭のない三角錐を、つい、みつめる。
すぐあと気恥ずかしく目を閉じる想像をしながら、頭の上を開くように、わたしはおのれの一部を解く。
表子の頭部の内側にあるように知覚される場所で、認識の一部がほどけ、アナンドリのものと特別な界面を介して接続する。その接続した部分は、〈方舟〉の保存する、小規模な知覚機能片の情報を呼び出す。呼び出されて組み立てられる/たとえるならコンパイルされる状況を時間的に待ちながら、おれは舟から木片が浮き上がって小さな指に変化する像を想像している。
この小さな知覚機能片を、弾丸を霧に射るように、おれたちは地上の方向へ放つ。
そして、この操作、呼び起こしてから放出するまでを、同じ名称の素材相手に繰り返す。十、二十。おれは自分の動作速度をにぶらせていく。同様に百、千、と行っただろうか。そこでもっと速度をにぶらせる。
機能片たちは「鏡の間」の横の鉱石を這い上がっていく。運良く全体的に情報秩序が移動すると、その状態を固定する。
決して、速くはない。
情報秩序の確立される確率が、そう高くないためだ。地上に出るのに、期待値数年分の時間を要する。
けれど、こうして手立てを探す。
おれは宇宙の果てに行かなくてはならないのだから。――星々が潰れてしまう前に、地球人類の希望を探す。その使命を負って。
この一念だけが、茫洋とした時間と膨大な設計可能性のなかでいつでもどこでも解体され拡散してしまいそうな自己を、志向性をもった一流れの文脈に位置づける。狭い、小さい、このノアを走行させる。
「たしかに、わたしたちでいう触覚へ近似されるものが、感知できた。肉体感」
数年後にアナンドリが言った。
一度機能片が地上へはみ出し、相手のところに乗り込んでしまうと、残りは短かった。そこで機能片は、相手の情報通信網におれたちの一端が入るための界面配置と、情報秩序様式の変換設計をした。
おれは地上に入り、地下本拠地との間でひろがる。おれという一体の情報秩序を担う土台がひろがりすぎてしまうと、土台の要素間の関係性〈もつれ〉の保存が保証できなくなって、航行中で数度起きた「分岐」のように、〈方舟〉は分裂してしまう。だが数百m程度なら大丈夫だ。
そしておれは、報告した新発生生命体に、ふたたび乗っていた。だが、我に返るため、直接感覚が流入してくる状態からは、抜けて。
そろそろ恋しさくなっていた光をつけた、空間で、アナンドリと対話する。
「初乗りで気づいたことは?」
「振動している」
表子は白い敷布団のような格好だ。探知相手に形状を似せるのがアナンドリの流儀らしい。そして相手がないときは――あの三角錐。
「振動?」
布団が揺れる。
「肉体が、局地的に揺れて、下の地面も震わせているの。こんな振動の源が複数ある個体も多い。そんな場合、振動源同士の間隔は、だいたい十m以上あって、場所によって振動のタイミングが違う。けれど振動の波形は一か二通りしかない」
布団の四隅が異なるタイミングで揺れ、眩暈しそうな波をつくる。
揺れ方の詳細に気づくまで、おれはかれらの感覚に長居していなかった。知覚を重ねていると、全身が圧迫された上、意識が希釈されてその全身に分配されたようだったのだ。
アナンドリがかれらのありかたを細かく認識しているのは、好奇心ゆえか、あるいは不快ではないからか。地球にいたころも、閉じこめられていた肉体へは、おれほどの触覚的習慣が植えられなかったのか。
「振動の意味はなんだ? 移動? 運動? 悶絶?」
「検証してみる」
おれは空間に転がった。
肩から腕を持ち上げて、みてみる。それは四十代の男のもの――として意識していた形状だ。肉体がそうなったあたりでおれは、ポピュラーな関係体の流行どおりに老化抑制剤を打ち始めた。以来四十いくらと数億年間、維持してきた。
地球から何億光年が離れたこの地では、このからだを持っているものは、もうおれノアしかない。
この〈方舟〉と航行中に分岐したノア、また地球を発ったほかの〈方舟〉の乗組員たちは、人体を表現しているかもしれないが、この宇宙のどこを進んでいるのかわからない。
そして、出発から何億年が経った地球には、もうだれ一人として、ないかもしれない。あるいは形態として変わり果てているかもしれない、アナンドリの表子のように。
この地には生命がいて、おれはそれを導こうとしている。
おれはいやな欲望が皮膚をくすぐる感覚をおぼえた。それを明白にする前に、おれをまどろみに浸けた。
枕に顔を押しつけたようなまどろみは、アナンドリの声で破られた。
「振動、言語みたい。音素が二つだけの言語」
「……二つ?」
「ええ。そのうち区切り記号にあたるのが一つ。実質、〝あ〟と〝。〟しかないようなもの」
「よく使えるな」
「これで、言語の要素自体は〝あ〟の繰りかえしでできている。だから、実質的には〝あ〟より〝1〟って言ったほうがいいかも。ある言語要素、たとえば〝お〟の番号が5番目とすると、〝あ+あ+……+あ〟ってやって、〝お〟にたどり着くの。かれらの言葉は。そうやって一つの文章を作る。あ+あ+あ+。+あ+あ+……みたいに。意味内容は解読中だけれどね。……だから、発音の時間、これが決して短くないんだけれど……を考えると、とても時間的な言語」
「時間のかかる言語――と?」
「うん。すごくたいへん。それでかれらは複数の〝発声〟を並行して行っている。ひとつの声が終わる前に別の声が始まるの。〝どこか行きたい〟と〝もっと実験したい〟を並行するように。……で、同時に行う発声の数は、かれらの体が大きいほど多くなる傾向にある」
「質問だが」つい言った。「それは、外に向けた言葉なのか?」
「興味深い質問」
布団の一端が揺れる。
「振動であり、触覚を持っている以上、原理的には届くんじゃないかと思うの。地球でも象は土を踏みならして、遠い仲間に情報を伝えていたとか――わたしの、『公園』、でもアフリカ象のDNAを参照したものがそうしてる――。この星のかれらについていうと、数十mという近距離にいる二個体間では、応答らしい動きがみられた。けれど、2,3km離れるとあまり反応はみられない。で、そう」
アナンドリは身を縮ませ、伸ばす。
「面白いのはね、近距離二個体間でのやりとりと、一個体の二点間でのやりとりが酷似していたということ。つまり、あなたの質問したように、かれらにとって、心の中の言葉と、外に向けた言葉――会話の区別があるかどうか」
「というと――となると――自他の区別があるか?」
「うん。たとえば、関係が薄いように思えるかもしれないけれど――わたしは以前、わたしというのはわたしについて想像されたことの総体なんじゃないかと思ったことがある。わたしたちは〈方舟〉に起動されたとき、ここに走る。起動とは、〝その空間が、想像をはじめます〟ということだとも思えるじゃない。逆に、わたしたちに、ある意味で絶対的な存続の根拠はない。名前に単独性だってない。アナンドリと名乗る存在はもう分岐をくりかえして、ここではない空間座標を走る何十の〈方舟〉にいるかもしれない」
「そしてわたしたちには、精神と一対一に結びついていたはずの、ホモ・サピエンスの肉体もない」
「ええ。けれど肉体があったとされていた時代から、そういうものだったかもしれない。シェイクスピアの一生の長さはきっと高々百年だけれど、シェイクスピアについて想像された時間は、一億人が六分間想像したなら、千年分の長さになる。後者が前者を凌駕したとき、かれの根拠はどうなったんだろうって」
「わたしも思ったことがある。地球を出るときだ。残ったうちの十億人が一分くらい、こちらのことを馬鹿者とでもなんとでも考えてくれれば、わたしの人生はその声に覆われると、思ったんだ」
苦く笑い、
「それでアナンドリ、君はかれらに……」
「相手のことを思い浮かべることと自分のことを思い浮かべることが一致していたとしたら……」
「その形態が、目的を達するに、適当なのか?」
アナンドリは黙った。
「我々は個々として生きて文明を作った。かれらに魅了されたとて、それを維持させるのが適切だといえるだろうか? 博物学のための航行では、ないんだ」
言語の解読と感覚の解析が進んだ。かれらの「会話」では、パン生地のような肉体の連結/非連結という自他の別より、振動源同士の距離感のほうが意味を持っているようだった。
からだが自他の区別をしないわけではない。体内の化学物質配管や神経網が届いている範囲を自己とみなす、そんな身体像をもっている。
しかし、会話で情報をやりとりしあう頻度は、自分の中での数十m離れた振動源とよりも、数mしか離れていない他者の振動源とのほうが、ずっと高い。いわば、わたしの手の小指がひとの親指に触れたとき、わたしの小指と親指より、わたしの小指と相手の親指のほうがよくしゃべるようなことが起きている。
言語を使うものを意識だというのならば、かれらは、からだと意識が二重構造にあるのかもしれなかった。
わたしたちは、これをどうするか話し合った。
そう――かれらの増殖法だが、かれらは自己肥大、無性生殖、そして合体を行う。膨張し、分裂し、結合するのだ。
むろん、これすなわち完全同一情報個体の増殖を意味するわけではない。各過程で何らかの情報の変化があるかもしれない。体が局所的な遺伝子を保有するのかもしれない。が、それはまだ曖昧とみえた。
こういった生態も関係してか。かれらの間には機能的な差異がほとんどなかった。
しかしわたしたちは差異を生みたかった。
文明の所産とは差異だ。分業、機能分化。天文台を作るにも、学者と建設者、資源の掘削者、計画者たちが必要だ。
わたしは分断を推奨し、アナンドリは否定しなかった。
わたしたちは、かれらの言語の解析が十分進むのを待って、〈顕現〉にとりかかった。すなわち、明示的なコンタクトだ。相手の認識している世界に、相手の認識の仕方に合わせて作用すること……ひらたくいうと、かれらの言葉をつかって話しかけるとか、かれらにみえる形であらわれるとか、そういうことになる。
わたしは、大きさが20m四方の〝若い〟個体をひとつ選び、声をかけた。
「聞こえるか」
実際に肉体を振動させてはいない。あくまでも、この相手の〈内空間〉にしかるべき声として知覚されるようにしたものだ。さらにわたしは自分も混乱しないように、タッチパネルの像をわたしの空間に設けて、言葉を意識的に指でつむいでいる。作成中の〈顕現〉マニュアルを横に。
「――だれ、聞き覚えのない響き」
「わたしは君たちを守り導くものだ」
「導く」
アナンドリから連絡がくる――実振動あり。つまり、相手の発言は内話ではない、外へ筒抜けということだ。
わたしは、パネルと別の手でマニュアルをめくり、FAQ「相手にプライベートがない/相手が他人に相談しそうだ」の項を参照する。
「A.
まずは驚かせないようにがんばる。
小声で話してくれるように頼む。
とにかく相手にポジティブなイメージを与え、我々の間が素晴らしい秘密であるように感じてもらう」
……といった指南がある。このマニュアル、わたしたちが以前のコンタクトでの経験からつくったものだ。内容の記述は〈方舟〉の実用書自動生成機能にも手伝ってもらった。
わたしはアドバイスを参考にし、この振動源との間に親密な雰囲気への通路をつくることを試みた。入り口ぐらいができたところで、アナンドリが報告してきた。
〝振動源のふくまれる個体が睡眠状態への移行を始めた〟と。
かれらの温度センサーから、気温の低下が察された。時計を読めば日没の時刻だった。この星は、わたしたちが着いてからは、規則正しく恒星のまわりをまわっている。
翌朝、わたしはこの振動源に
「君は吸収がはやいね」とか「盛り上がりっぷりがいいね」
とか、精神肉質どんな面でもほかと違う点を探しては話しかけた。
午後には離れた地の個体の振動源へ移動し、一日目と同様のことをした。時間があったので、加えて二つの振動源にも行った。一応、慎重に進ませようと、話しかけた振動源間の距離は数kmあけるようにしていた。
翌日もまた、声かけの対象を増やした。かれらはおおむね話すのが遅いので、時間がかかる。じれったくて、空いた精神で軽く作れる二次元の自動生成映画を、流しながらやったほどだ。……わたしの速度自体をにぶらせると、少数の音素でできた「短い」言語要素を〝聞き逃し〟かねなかったので、そういう〝ながら〟となった。
それでも、十日ほどすると声かけのリズムになれていき、一日に二十対象ほど会話ができるようになった。これがわたしの選択した〝羊〟だ。わたしは積極的有神論者ではなかったが、そういう物言いを、したくなった。
わたしは日々かれらに話しかけた。
わたしはかれらを励ました。かれらが餌をとったときは褒め、別のものに食われたとき――かれらもまた食物連鎖の一部にあった――は慰めた。
数十日間、繰りかえすうちに、わたしが褒めたかれらの間の差異がすこしひろがったように感じられた。
さらに、かれらはひっきりない会話を少し抑え、ひとりごと――小さな振動だったり、土をあまり鳴らさないようなからだ上部だけでの振動だったり――を行うようになっていった。
選ばなかった振動源が不審がるようなそぶりをした――これをわたしたちは盗み聞きしていた――が、選ばれた振動源は、わたしたちにはなじみの、秘密の恍惚を香らせて、〝なんでもないのだ問題はない〟というような旨のことを返した。
わたしは、かれらの感覚器官からの情報に、〈方舟〉の解析演算資源を適用し、より速く多く餌がとれるようにと導いた。かれらは他から際立って、よく肥え太るようになった。そのため分裂も盛んになった。分裂した「子」たちにもわたしは話しかけた。「子」は、元のものの記憶を分割して保持しているようだった。なお、逆に、結合する場合には記憶は融合するようだ。かれらの情報通信網は肉体の全体に分布し、それが記憶をも担うのだろう。
子が多くなると、すべての対象と毎日長く話すのは難しくなった。一、二日声を掛けない相手もできてきた。わたしは、最初に選んだものが、そうなって、「今日は来ないのか」とひとりごとをいっているのを聞いた。そこへ接近してきた個体の振動源――わたしが話しかける前は、よく話し相手になっていた、振動源だ――が、最も単純な音素「あ」を繰りかえして、毛繕いするようになだめたが、放置された振動源は満たされきっていないようだった。
わたしは少しずつかれらのなかに浸透していた。〝はじめはゆっくりと〟、そう心がけていたし、事実始まりの時を実感していた。――海へ出て浅瀬に足首を浸けるとき、肌は陸とは違う力の形をおぼえる。泳ぎはじめる前のその時間は、朝焼けに似ている。
そして好都合なことが起きた。
噴火。
かれらは触覚を発達させた生命体だ。だから通常、大地の変異を感知するのには長けている。だが今回は、逃げようとするほどの予兆はなかった。這って動くかれらの、少なからぬ部分が死んだ。
そしてかれらは混乱した。大地を震わせるという会話様式には痛いことが起きたのだ。
空に散った火山灰(正体を確実に見極める観測はできなかったが、おそらくそうだろう)が気候を変化させ、降り続いた雨は土をやわらかく変質させた。
さらに、噴火後には周囲で余震が起きた。
正直、地震については、こちらの身も危険だった。依然として大部分の情報を保存している、地下の「鏡の間」が保たれるとひやひやしていた。
だが、かれらの混乱を見過ごせなかった。
かれらがわたしを呼ぶ――「来て」と呼ぶ――のを、わたしはかれらの中で、情報通信網の中で、感知した。
大地がのたうち回るたびに会話が混線し、地割れを挟んだ遠隔地からの声は小さく頼りなくなる、そんなかれら、他者との通信が乱されてしまったかれらのなかに、わたしは安らかにあらわれることができた。
見過ごせなかった。これは、重要な機会だった。
わたしは、会話はしなかった。
選んだ全ての対象に、同じことを語りかけた。
まずは励ましを。
そして、罪と罰についてのことを。そう、わたしたちが、わたしの生まれる何千年も前から、自分たちに語ってきたように、世の中の理を物語り、この災厄を意味づけたのだ。かれらの堕落に対する罰であると。
他方で、かれらの漠然とした宇宙観だ。――かれらは、広漠たる大地のうえにしたたり落ちた雨滴の作用で自らが生じたと、そんな神話をもっていた。大地はかれら同様に膨張し分裂し結合するものであるが、命はなく、空の体液である雨を取り込むことでかれらが生まれたのだという。(〝婚姻〟はなく結合を行うかれらの神話だが、アナンドリは、細胞小器官の由来を連想すると、いっていた。)かれらは地と空という二面の狭間にある存在として自らを任じていた。遠方の宇宙は未定義――。わたしはこの宇宙観にはあまり手出しせず、ただ、わたしについては、空にある生命作用そのものであるという語りかたをした。
最後に、わたしは生き残ったものの中、全個体全振動源のうちより、一振動源を選定した。はじめに話しかけた対象だ。その相手をわたしは「導きの言葉」を与える主な対象とし、心理的な〝柱〟となることを期待した。
前回もわたしたちはこのようにして、文明の端緒を開いたのだ。――もしかしたら、より効率的な手法があるかもしれない。わたしたちがやっているのは、人類の歴史の記憶を元にした手探りの試行なのだ。
手順が白紙の初回は大変だった。
一億八千万年前、目指したわけでもない惑星に衝突してしまった我々は、ただ自分たちの〈方舟〉という情報秩序を保存するために、必死で惑星上の情報通信網すべてにしがみついた。そのなかには、運良く地上に存在していた、当時の生命も含まれていた。
〈顕現〉と。
生命体の情報通信網上に乗ってコンタクトする、この行為をこう呼ぶようになったのは、その初回の冗談だった。「神が現れたというのはこんな感じだったんだろうか」とやけくそのように述べたわたしたちは、偉大さの欠片もなく、不安に満ちた寄生者だった。それでも、そこにいたものたちは文明を築き、地下の六千角形にわたる「鏡の間」を建造してくれるに至った。
文明が崩れても、絶滅しても、この惑星のものたちは、また文明を起こすに至る。文明とは、一度生まれれば、二度目以降も生まれやすい、とでもいうようなのだろうか。なら地球でもう人類が滅んでいても……。
いや、わたしは前を向かなくてはならない。
コンタクトする相手は、この星のものたちだ。ふたたび〈方舟〉が外へ走り出すために。星々が潰れてしまうまえに、人類の希望を見いだすために。
かれらは増えた。さらに、初めの〝柱〟が飛行生物に襲われ食われて死去した後、個体間に様々な序列づけが生じた。
このころわたしはあまり自動生成映画を流さなくなった。そのほとんどのストーリーは人類についてのものだった。清らかな心、地域関係体を超えた情愛、何本かの腕や脚を使いこなす鮮やかなアクション……人類の形を思い起こさせる、光の映像に、わたしは居心地が悪かった。
そうやって描き出される状況はあまりにも理想的で、なんの役にも立たず、かつ腹立たしいほどにわたしの深層を刺激した。もし心にきれいさがあるなら、わたしのは汚れているだろう。多くの映画は、観てしまうと、こう自嘲せずにはあれなかった。
わたしは、それが文明形成を効率的に促進するだろうと、かれらの中に競争を持ちこんでいた。
いくつもの対象に、因果応報の云々と獲得資源に差異が生じることの正当化、等々をささやいた。それも、これまでとは違う、とても小さな声で。というのは、かれらに堂々と告げるためではなく、眠りに忍び込むがごとく、その精神へすり込むためである。〝柱〟たちに感知された個別存在の「わたし」としてではなく、あたかもかれら自身のうちに発する考えであるかのごとく。
一方で、〝柱〟をみずから継ぐと表明するものたちが現れ、かれらは仲間たちへ慰めと癒やしについて語った。高邁な精神も脈々と受け継がれていく。わたしはほくそ笑み、ほとんど傍観し、まれにだけ言葉を渡した。
そのような数代を経て、かれらの形態も変化した。競争は情報秘匿を呼ぶ。響きが周囲に聞かれないような、すなわち独り言と思考のための場を持つべく、かれらは自分の上部に別の振動源を設けたのだ。くわえて振動源はただ揺れる肉ではなく、窪んだり突き出たりと、かたちを複雑にしていった。
振動源が増えるとともに、かれらは高さ方向へ伸びていった。敷布団的パン生地状だった体はぐんと立体的になった。
一方、高くなったぶん肉体の維持が困難になってか、縦と横には、分裂を繰りかえして短くなった。平均的な体の縦横幅は1mを割るようになった。そうなると、他者と話すための、地に接した振動源……元々の源の数は減る。標準的には、一個体あたり一個だけになってしまった。
かれらは、自分自身に物語るための振動源を高さ方向に4,5個持ち、最下部には、他者用のものがぽつりと存在する――そんな、節つきの塔のような形態へと移り変わった。
二十一世紀の人類がそうしたように、あるいはそうした以上に、かれらは自己の肉質の拡張を行ったのだ。もっとも、わたしたち人類の自己拡張の動機は定説のように「二十世紀に燃えあがった宇宙的な絶望が遠因」などと言われていたけれど、かれらはそんな絶望、まだ直接的には知らないはずだった。
もう、かれらは、振動源間の近さと個体間の近さがほとんど一致した存在だ。からだと意識の二重構造は、シンプルな〝個〟の構造に、はまりなおした。
こんな変化のあとで、足が生まれた。平均的には一個体当たり5本。典型的な配置は、肉体の四隅と中央である。中央が、他者用の振動源をそなえる。
足ができると、移動様式は、しずかに地を這うものから、踏み蹴るものへと変わった。移動速度が向上した。かれらはまわりに勝って餌をとるのをよきこととした。さらに勝ったぶんを分け与えるのを徳とした。――わたしが吹き込んだことだ。
移動。集合分散の速度が上昇すれば、物資会話の流通が活発になる。個体独自の経験も増える。他のものとは異なる地を足に踏む、そこで得たことを流すのが、こだまのように膨らむ価値となった。
総じて、かれらはより、個々独立した存在のようになっていったものだ。しかし同時にかれらは、個体の集う集団にあった。
観察して知ったが、わたしの介入の初期は、距離的に近い振動源と個体どうしがゆるい集団――会話仲間を形成していた。移動がのろかったので、かれらはそのあたりで合体や分裂を繰りかえした。ホモ・サピエンスの用語でいうなら〝近親〟〝兄弟〟ばかりの集団となっていた。
しかし足が生えてしばらくたったころには、逆に〝兄弟〟ではない、遠距離からやってきたもの同士形成する、一時的な仲間集団も多くなった。この集団内で、かれらは自身の肉体の一部を分裂させては相手に結合させる、贈与のような行為を繰りかえす。全員が大半のものに贈り物すると、集団はふっと分散する。そのあと、特に気に入ったもの同士で――合体と分裂を行うこともあった。
合体、分裂、といっているが、かれらには情があった。かれらは情の言葉で相手を求め、融合した後の新生の心地を語り、そして分裂結合という変態のフェーズで失われたり交わったりする記憶を惜しんだり讃えたりした。
――〝この身を震わす響きの源よ。あなたの響きで埋められる前に捧げられる最良の記憶を受け取ってくれ。まだここにない記憶をかわりにもらおう。きっと新たに求めることがなくなるほど、この響きが奪われ、その響きに満たされるまで……。〟
かれらは互いを求め、退け、疑い、愛した。
かれらは石を蹴る遊びや、内部をくり抜いた木に皮を張って叩く遊びを試した。弦楽器や打楽器をつくって、その肉体のはしっこで叩いては自分の体が元々備えていなかった音を楽しむようになった。しだいにかれらの足には切れ込みが入っていった。わかれた足の指で、器用に道具を用いるようになり、より高度なものをつくる資源を探すようになり、ものを蓄える建物をたてるようになった。
貯蓄・建設もろもろの高度化への動機づけは、一度与えて文化慣習としてしまえば、文化的な〝慣性の法則〟のように持続するものとなる。……それもわたしたちは前回の眠りの前に、マニュアルに記していた。省力化は大事である。
他方向の省力化としては、軌道に乗ってきたこの段階で、わたしはおのれの声をばらまく仕組みを整備した。わたしを呼ぶような声や、「腹減った」「死に絶えそう」「結合したい」といった典型的な思考が検出されたとき、その状況が一定の条件(ダイスで6の目が出る、みたいな偶発性も含む)をクリアすると、あらかじめ設定していたわたしの声が自動的にかれらへ送られるのだ。二十世紀末には普及していた簡単な自動応答機能片をもとにしている。前回の文明でも使ったもののアレンジだ。
こうしてわたしは、自動的に〈顕現〉する。ノア自体が眠っていても、かれらはわたしの声を自分に話しかけられたものだとして聞くことができる。
わたしが手に汗握ってこんな発展過程に意を注いでいる間、アナンドリはあまりかれらに話しかけなかった。
あの子は、よほどいまのかれらに関心がないのか――その表子は、いまではだれもそんな姿をとっていない、〈顕現〉が始まる前のあの〝布団〟の姿のままだった。
むしろ、かれらの周囲の生物たちに、アナンドリは興味があるようだった。かれらの音響技術は大きな空間情報を与えてくれる。それによって感知された、様々な生物のふるまいから、アナンドリは、ふるまいを生む骨子とその記述――交換され継承される〝遺伝子〟を探ろうとしているみたいだった。たまに話し合うためにわたしが四次元公園を訪れると、だいたい、そこには奇妙な生物が増えているのだった。おそらく、試しに編まれた遺伝子を表現させたものだろう。
航行中なら、「新生物? まったく情報量を増やしすぎて」と説教したことだろう。〈方舟〉が保持可能な情報量は、その光子量で制限されていたから。
でも今では、わたしたちはかれらの情報通信網の上に居座り、かれらが増殖を続けるにともなってずるずると〝家〟を拡大していた。
だからわたしは注意せず、アナンドリと会話するのだった。「まったく君は引きこもっていい身分だね!」と皮肉に装った声を交えこそしたけれど。
このときわたしは、かれらを導くおのれの汚さを自覚していた。しかしもう、その汚さを使命に付随するものだとして、苦労や犠牲自慢のように肯定していたし、アナンドリ……世間知らずの、八十くらい年下のこの子に、汚れ役を担わせないということに、ある種の誇りを覚えるようになってもいた。
……これはわたしの任務なのだ! 地球で一個の老人だったときには決して与えられなかった務めなのだ! ……と。
誇りの傍らには蜜の甘みもあった。
かれらは――〝柱〟に様々なことを告げたわたしを、ときおり自動的にあらわれるわたしを、慕っていた。地球では? ……やはりそんなことはなかった。〈方舟〉の乗組員に志願する前、わたしは一個のおよそ九十歳の老人だった。齢を重ねたのみではなく、枯れていた。パートナーにも顧みられず去られた、だれにも気にとめられない、……おそらくほとんど想像されることのない人間だったのだ。それが、こうして、法の制約もなく存分に技術をふるえる状況下で、ただささやきかけるだけで、わたしをかれらは想像する。想像されるものの総体は拡大する。
この甘みを――アナンドリは全く知らないはずないだろう。初回は二人でやったのだから。でもわたしとは逆に、アナンドリの文明化への関心は、どうも回を重ねるにつれて落ちているみたいなのだ。それは、と、わたしは思う。アナンドリは、想像されてきた人間だったためだ。
十四歳のアナンドリはすでに物理学の学位を持ち、複数の大域関係体で名を馳せはじめていた。肉質と精神の様々な拡張が許可される十六歳になれば、伝説的な頭脳連結集団「TOYWORK.we」に入るものだと思われていた、存在らしい。
らしい、というのは、わたしはほとんどの関係体を訪れていなかったから。あの子の情報を調べはじめたのは、おれが〈方舟〉乗組員として志願した後選別され、送られてきた選別者リストにあの子の名前をみつけたあとだ。
でも、まさか同じ舟に乗るとは思っていなかった――。
同乗が決まってから、初めて対面した。ひとつの〈内空間〉で顔を合わせたあの子は、意外なほど、古典的なみためだった。というのは腕も脚もかっきり二本であるという、おれが生まれたころの人類の典型的な様式だった。とはいえ、はじめから〈方舟〉の〈もつれ〉保存技術などについて話し出すアナンドリに、正直腰が引けかけていた。だがふと、厚かましい上級生のごとく言った。
「光になる前に、外でも顔を合わせないかい?」
「ごめんなさい、ほとんど百パーセントできないと思う。わたし、物質量何千モルもあって、その状態で今入ってるカプセルを量子的にすり抜けるのは難しい」
おれは何か問い、アナンドリは答えた。
「体内のイオンチャネルの機能に生存上問題があるらしくて。イオンの整流性の。ざっくり言うと。それでいろいろ調整するためにカプセルにいる」
「小規模構造物での治療は」
「値が張る……し、確かじゃない」
強がるような物言いに、わたしは深入りを避けた。アナンドリは、〈外空間〉では、あまり豊かでない地域に居住しているのだろう。もし地域が豊かならこの子は多くの支援を受けるだろうから。医療格差は、多くの大域関係体ではデリケートな問題だ。人類の二層構造――関係体の〈外空間〉と〈内空間〉、あるいは肉質と精神、そのねじれに触れることになる。ことに地縁、地域関係体が絡むとさらにやっかいだ。
一方で、安心も、した。この子には同情すべき背景がある。〝病弱な天才〟という一典型にこの像を当てはめながら、わたしは、自分の立ち位置を、まあ理解のある大人とやらへ、調整した。助手。
あのときのアナンドリは、小麦色の肌を境界面とする、少女の表子をしていた。
数百年が流れ去る。数千年が積み重なる。
わたしは干渉頻度を減らしていたが、完全に絶やすことはなかった。文明が進むにつれて干渉をやめていった、故郷の星、古の大きな〝神〟たちと異なり、かれらの歩みが文明の丘を上がっても、導いていかねばならない。目標は、ふたたびこの星の外へ出ることだから。
わたしは適宜疑心暗鬼を、防衛心をかき立てることで、闘争を誘発し、効果的な技術発展を目指した。他面では、前回の教訓を活かして、工学のみではなく医学も重視した。一方宇宙観については、あまり手を出さないようにした。
長い時を経て、かれらは力学を修め、鉱物の利用から磁力を知るに至った。化学から電力を知るに至った。電磁気学まであと一息だった。
このときはアナンドリの力を借りた。かれらがいくつかの法則に気づくのにいい舞台を設計するためだ。
かれらは、電気と磁気を統合する理論をみいだし、この帰結として、光を知った。
続いて、工学的に熱心なものたちが、光の受容体を設計した。これを振り回して大地を巡る探検家たちの行動により、おれたちは、前回の文明が影も形もなくなっているらしいことを目の当たりにした。一方で、〝クレイジー〟な科学者により、光受容体はかれら自身の内部情報通信網へと接続された。
かれらの思考速度は飛躍的に上がった。つまり、これまでの振動源を用いたおしゃべりを4,5並行させての思考よりも、自分の神経状態に直接アクセスすることによって、はやく、ものを考えられるようになったのだ。
これは、――わたしの導きとは異なっていた。以前アナンドリがいったような「自分の頭の中を解析表示するセンサー」を、この星のものたちは勝手につけてしまったのだ。わたしたちの動きは、こうなると、かれらの思考よりも〝遅く〟なってしまう。〈方舟〉の〈内-外〉空間設計は、そんなに〝シンプルで軽い〟ものじゃないから。
だが、抜かされたぶん、中間目標の標識も主観時間の意味で相対的に早く近づいてきた。そう、かれらは活発な議論を行い、鏡やレンズを設計し、望遠鏡をつくってくれた。
飛びつきたい気持ちを抑えて、望遠鏡の大きさや精度が上がっていくのを何年間か待ってから、三千万年ぶりの天球像へ飛びこんだ。
〈方舟〉が解析する。
かれらの望遠鏡に到来した光が、かれらの光受容体に降臨し、かれらの情報通信網上をパンデミックのようにひろがる信号へと変換されるのを。
〈方舟〉は新しいエイリアンとなった信号を検知して、自己状態で抱擁しながら、おのれの〈内-外〉グラフ・パターンの階段をくるくると踊り上がっていくようにして、情報表現を変換していく。その舞踏がノアの〈内空間〉に達したとき、地上で空をみていたときの感覚が再来する。
おれは高原テンプレートを使って設計した〈内空間〉の土を踏んでいる。
上を仰ぐと、星々がある。
宇宙が閉塞を意味していた時代、星空を呪って人々が生きていた時代、おれはその時代の末端に育った。
――あの星々は永劫を待たずに落ちてくる。
物語は口々にそう告げた。
その恐怖をもちながらおれは、子どものころたびたび空を盗みみた。大人たち、いまのおれよりずっと年少の大人たちが時々向ける憎悪はまだなく、けれど、不思議な気分がした。
あんな粒々のようなものが、ずっとずっと大きくなっていって、隣どうしぶつかってぐちゃぐちゃになって、明るく明るくなって、しだいに明るさもわかんなくなって、みんないっしょになっちゃうなんて。そのずっとずっと前に、きっとこの土も指も目も、かけらもなくなっちゃうなんて。
おれは前回の望遠鏡で観測した天体の位置、光度などを示すポイントやグリッド、数値情報を、この空間の天空に呼び出す。重ねて不時着前のものも呼び出す。
そして三千万年、また一億八千万年の道草の意味を咀嚼する。
各数値の比較がなされる。その推移が宇宙航行中の数億年間と同じ法則に従っていることが判明する。
空へ展開される計算とともに、星をみつめて立っていた。
わたしを呼ぶ声が起こり始めた。
高原の夜気が泡立つように震えだし、ありもしない皮膚とありもしない鼓膜をゆらす。地上に点々とはき出されるかれらの言語。わたしたちの乗っているかれらの声。個々のざわめきの総量が〈内空間〉に変換され、四方八方からわたしをゆらす。
導きを求めるものへ、自動応答のわたしの声が、配送されにいく。
かれらは戸惑っていた。
動揺はかれらの科学者たちに発し、すぐに広く大きくなっていった。わたしたちのときよりも、はやい、ようだ。
――わたしは、かれらの声と神経活動から、わたしが生まれる前に祖先たちの知った焦燥と悲嘆を、覚える。今の今まで記録でしかなかった歴史を追体験する。
3.
わたしたちのときも、望遠鏡がきっかけだった。
十九世紀の後半から二十世紀の初頭にかけて、技術の進歩は大口径望遠鏡の製造を導き、観測可能な天体の範囲がぐんと拡大した。
これまでの歴史で、少なくとも西欧数百年の歴史で中心の座にあったのは、永遠不変の宇宙像だったという。その形を変えることのない、〝静的な〟宇宙像だったのだと。
しかし、遠くの天体をみるようになった天文学者たちは、ひとつの現象に気づいた。
それは青方偏移についての現象。
遠い星ほど、青方偏移を起こしている――という事象だ。
――当時わたしたちが星との遠さをはかるにのは、年間視差を用いる方法、主星系列の場合の表面温度と絶対等級の関係を用いる方法、変光星の周期を用いる方法、などがあった。
一方で、天体からの光のスペクトルを分析すると、そこへ織り込まれた、天体周辺の元素と対応する輝線や暗線の存在をみいだすことができる。それぞれの波長が、輝線や暗線の素の波長から、長くなっているのか短くなっているのかも、みいだされる。
波長が長くなる。というのは、たとえば元が緑の単色光だったら、その色が赤色方向へとずれることで、逆に短くなるというのは、青色方向へとずれることとなる。(赤や青の範囲を超えて、赤外線や紫外線になることもある)
そんな波長の変化と、光源の運動を紐づける、ひとつの事項がここにある。
光のドップラー効果だ。
サイレンが迫ってくれば高く、遠ざかれば低く聞こえるように、光も、その光源が相対的に近づいているか遠ざかっているかで、波長の長短を変えるのだ。遠ざかるときは引き伸ばされるように長く、近づくときは押し縮められるように短くなる。これこそ、赤方偏移、青方偏移と呼ばれる現象だ。
人類が望遠鏡でみて知った空は、遠くにある天体ほど、波長が長くなっていた。つまり青方偏移を起こしていた。こちらへと近づいてきていた。
スライファー、キーラー、キャンベルという天文学者たちは、めいめいそのことを発見した。そして決定的な定式化が発表されたのが、1929年の春のこと。それは、
〝天体の近づく速度 = H_0 × 天体との距離〟
という法則だ。たどり着いたのは、ハッブルとその助手ヒューメイソン。「天体同士は、お互いの距離に比例した速度で近づいていく」ことを意味する、この「ハッブルの法則」は、天体の間に適用される定量的な法則であり、宇宙の収縮を示唆した。比例係数H_0は「ハッブル定数」と呼ばれ「宇宙の収縮率」とも口にされた。
宇宙が縮んでいる。
この観念はひとびとに感染した。
「星々は少しずつ迫り来て、銀河と銀河は食いあって、縮みゆく宇宙の中では、いずれなにもかもが一点に潰れ果ててしまうのではないか」と、多くのものに、思われた。
科学者たちが早急にそんな結論を出したのではない。だが、ラジオや雑誌が「宇宙の終わり」「すべてが衝突してしまう」と始終取りあげれば、不安の種は広がった。海も山もまたいで飛び火して、世の口にのぼり、大戦後の不安定な世界景気に着火する一員となった。1929年の秋、株価が急落し、経済恐慌が燃え上がった。ハッブルの法則発表からおよそ半年後のことだった。
その後年数を重ね、宇宙への表面的な不安は落ち着いた。
だが、高まりつつあった宇宙探査への関心は下落してしまった。フィクションの題材も、20年代に興隆していた宇宙冒険ものが分裂し、宇宙恐怖、あるいはより架空の冒険・過去の時代の冒険を描くものへと変化した。30年代には「彼方からやってくる宇宙の果てにすべてが呑みこまれ、そして一点に閉じてしまう」といった終末ものが一世を風靡し、不条理と内省への流れを導いた。
けれどひとは技術への熱自体は絶やさず、さらに烈しくし、渦巻く拡張の欲求の方向は自分たちへと向かった。ひとの認知と生態への関心へ。情報科学と生命科学を両輪に、わたしたちは〈内-外〉空間を激しく高度に設計し、わたしたちの世界を革新した。
もし宇宙が縮んでいなかったら、わたしたちはもっと早くから空の向こうを目指していただろうか? わたしたちの肉質や精神ではなく、はるかな外に取り組んだだろうか?
答えはわからない。
だがわたしたちは、2080年、ついに外へ出ることになった。
わたしたちを光に変換する――究極の、わたしたちを焦点とした技術の結晶によって。
二十世紀後半にも、宇宙論は進展していた。削られた予算の中で無人探査機が飛ばされた。量子論と関わって時空の構造が議論された。このなかで特筆すべきは、ブラックホール問題、真空の問題、等々あったけれど、ひとつには〈デフレーション宇宙論〉だ。
それは、〝宇宙はあるときまで定常的だったけれど、急に収縮をおこして以来じわじわ縮んでいる〟という理論だ。
この急な収縮の時点で起こったとみられる星形成の痕跡が、数々みつかった。――宇宙収縮に後押しされたガス凝集や銀河衝突の帰結――だろうと考えられた。
このような、宇宙の時間発展を記述するモデルが複数生まれ、それは一面で「宇宙は永遠に収縮を続けるのではないかもしれない」という、ある意味希望、も呼んだ。ハッブルの比例係数H_0も不変の定数ではなくて、時間に対して変化する、動的なパラメーターではないかと考えられた。
二十一世紀の頭。わたしが十代から二十代になるころが、そういった時代だった。
とはいえ相変わらず、宇宙に手を出そうとするのはマニアかマゾヒストの所業であるといわれ、大学でも進路の花形は情報か生物という時代だった。わたしは流されるたちだった。メディアのすみに浮かぶ宇宙の写真が生むざわめきを、キャンパスで奏でられる喧噪に混ぜ、毎日が特別な日々の、ひらひら飛ぶ感覚の気まぐれな変化へと還元した。人体設計工学を専攻し、生物学専攻の学生と交際し、卒業し、工場仕事に就いた。
こういう仕事では、流行の最先端をいく同僚、毎シーズン耳たぶの位置や寸法や個数を直したり、手足を付け替えたりするような同僚たちも、少なくはなかった。いるだけで広告になるようなものだ。だがその逆も、珍しくない。ユーザーにみせる華々しさの裏側の、副作用とか製造環境の問題とか、そんなことが目についてしまって、むしろ保守的になってしまうのだ。わたしは後者の側だった。一、二百年前なら驚かれたろう二、三のホルモンの調整と、多少の凹凸の移動程度しか自らには施さず。移植適合性の地味な改善が、専門だった。改善には生物学者となったパートナーの知見も助けとなった。
さて宇宙に関して突拍子もない意見がでてきたのは、二十一世紀も半ばのことだ。
「『宇宙の果て』に出向けば、宇宙の運命を変えることができるのではないか?」
それを言い出したのは、新生関係体、〈思考連結集団〉TOYWORK.weであった。
脳神経細胞をつなぎあった思考連結集団である、かれらの言葉の前提、「『宇宙の果て』に出向けば」には、野心的な将来技術計画があった。
人間を光に変換する、というものだ。
宇宙はすでに、直径80億光年の規模はあると、みつもられていた。光年だ。一秒に10万km進む光でもこれだけかかった、というわけだ。今までの探査機に人間を乗せて「果て」なんて目指したものなら、どれだけの長さがかかるだろう? 空間が収縮を続けるなら、これからかかる時間は減るだろうけれど、通常の物質が耐久できるだろうか?
ならば光だ。と、かれらは言った。
TOYWORKが、当時本気で、集団全体で、宇宙のことを考えていたのか、わからない。むしろ光変換技術が主眼にあって、ビジョンのひとつとして「宇宙の果て」を挙げたのかもしれない。
しかし、光変換技術は進捗した。70年代には、人間の情報を電磁場上に変換することが、実験段階となった。変換の代償には肉体の分解があった――それは、全人的な情報を解析するために、原子的存在様式という〈外空間〉の情報も細かく分析する必要があったためだというが。
そして、この実験が成功すると、TOYWORKの一部と、他のものたちを中心として、70年代後半にひとつの関係体が立ち上がった。
関係体が掲げたのは、通称「〈方舟〉任務」。
「光となって『宇宙の果て』に赴き、『果て』の存在様式を知る。可能ならば、宇宙収縮の原因を追究し、収縮を阻止する」
そして、「もし阻止がかなわずとも――地球上の生命種の情報を、できるかぎり延命させる」
これが、任務の主旨であった。
宇宙の果てへと進む、探査の舟……すなわち、全人的に変換された人間の情報、および、地球上の生命種のDNA情報、それに外部観測手法や各種空間設計プログラム、〈内-外〉グラフ・パターン生成素材、そして忘れてはならない、自己秩序再設計アルゴリズム等を搭載した、情報秩序の全体、それを〈方舟〉とかれらは呼んだ。
自己観測を重ねて情報秩序をたちあげる〈方舟〉は、全体としての組織的な秩序を保つように、その構成要素となる光子の状態をもつれあわせている。個々の要素間に関係を持たせているのだ。
この関係性を保存する技術――通称〝〈もつれ〉保存技術〟が、何十あるいは何百億年という長時間の航行でおきうる情報秩序の偶発的な崩壊から、秩序を守ると、された。
そして2077年の冬、光となって任務を遂行すべき〈方舟〉の乗組員が、広く世界より募られた。
〈方舟〉の話が様々な関係体を駆け巡った、70年代末。
当時のおれは、疎外されていた。
四十三の時、パートナーが、おれには相談せずに死んだ。いやあとで思えばいくらでも前兆はあった。だが、最終的な、決定的な、単純で明確な言葉が、おれに向けては口にされなかった。悔いのあとに、無力が残った。あるいはそれは、相手への憤りと、憤りを押さえつけようとする良識的な、文化的な思考との、戦いあったあとの、積極的な感情だった力の死骸の風景かもしれなかった。
おれは、結局はだれにも考えられることはない人間なのだと、思った。
これまで関係していた関係体の多くに訪れなくなり、個々とのつきあいも消えた。しばらくして、定番の「老化抑制剤」を打ち始めた。四十年以上が経っても、生活は、同じようなままだった。
だが、〈方舟〉の募集を知ったとき、おれのどこかが、ひりついた。
ほとんどなかった、おれが出入りするわずかな関係体では、〈方舟〉についての話の後にはたいがい「ばかげている」という意見が添えられた。
「おいおい人類があと三世代生きるかわからないってのに、何十億年の旅だって? 『宇宙の果て』にたどり着いても、地球はとっくに終わってるんじゃないか?」
「また、TOYWORKと超大域関係体の遊びか」
良識的だと思った。だが、そうしても、かれらが〈方舟〉自体を取りあげ、それについて話そうとしているのだと、思った。
もし人類のためにこの生をゆだねることができるのなら。そして、こういった関係体のものたち――十億人に、十秒でも、馬鹿なやつだとでも思ってもらえるのなら。かれらの声と想像で、むなしい生を埋め、上書きすることができるのなら。
おれは、〈方舟〉に志願した。
志願者は何万人にも及んでいたようで、通るとは思っていなかった。選考中に話した動機も、人類への貢献とかいう、やっぱりきっとありきたりなものだ。しかし、大したことをしていない人間も必要だったのか、通った。あるいは、こういう任務には偶発性が大事で、ある程度の乗組員はさいころで決められたのかもしれなかった。
乗組員は二人ひと組に割り振られた。人数が増えると情報量が増え、情報秩序の保存が難しくなる。一方で、一人だけで行くのは精神的な危険性が高いとされた。
おれの同乗者はアナンドリ、イオンチャネルの機能が阻害された十四歳の人間だった。
おれたちは変換されて〈方舟〉に乗り、地球の方々から、外へ射出された。
何十億年の旅路が始まったとき、おれは、なんてことはなく終わっちゃうんじゃないかと思った。
〈方舟〉では、何事もなければ、約一億年間睡眠したあと主観時間にして三、四十時間程度の観測と報告を行う。これを繰りかえす。
おれは思った。
もしかしたら、一年もせずに消えて終わるか、ころりと「果て」に着くかもしれない。……覚醒と覚醒の間の断絶を、そこにそれだけの長さの存続があったのだとか思わずに、毎回ただ違う風景で目覚めた人のように振る舞えば。そんなふうにしよう。
だから地球から一億年光年の道のりをいった、初めての目覚めのとき、アナンドリに尋ねられたときも、
「ねえ、わたし、十四歳なの? それとも一億と十四歳なの?」
「さてね。九十歳と、一億と九十歳じゃ、あまり違うような気がしないさ」
わたしは答えた。アナンドリはそのときは少女の姿で、
「鈍感」
と強く言うと、消えてしまった。以来、あの子は青い三角錐になってしまった。待て、いや、おれはそれよりも後で四次元公園を案内されたんじゃないか? そのときの姿はまだ……。
おれはより合理的な物語を考える。「動物園のときは本当は三角錐だったんじゃないか」、と。
だが一方で思う。どちらの記憶も、併存していいのかもしれない。たとえばどちらの記憶も、分岐したノアのだれかは実際に経験しているかもしれない。〈方舟〉を形成する光波の幅が〈もつれ〉保存を危うくしうるほど広がったとき、おれたちは分裂する。そのように分かれたおれとおれが記憶の確からしさを共有していたりするかもしれない。いや、もっと大胆に。このおれの中ですら複数の状態が共存していて、「思い出す」というかたちで自己観測するとひとつに定まったようになり、想起を止めるとまた拡散してしまうのではないか。こんなことをアナンドリに話したら、あなたのいうそれは――と、呆れられるかもしれないけれど。
しかし、このノアは、なんてことなく終わっていなかった旅路にいる。惑星に衝突し、ここで文明を進展させようとしている。
そして、わたしの関与したかれら、この惑星のかれらも、歴史の転換点にある。動揺しながらも、きっと……。
「ノア」
険しい声がした。
振りかえれば、高原の地平が、橙に明るんでいた。空が湯気のように白んでいく。その手前に、青い三角形があった。
アナンドリは事情を話しだした。わたしは、かれらの声を聞くのを止めていたことに気がついた。
わたしは回想に浸りすぎたらしかった。
4.
かれらが戦争をはじめたと、アナンドリは告げた。
戦争?
わたしは、その一言目を、ぼんやりと聞いていた。
争いも戦いも、これまでにかれらは経てきている。その一部は誘発させたものだ。今特別驚愕することだろうか?
だが、アナンドリの言うところをよく聞けば、これはかれらの存続を左右するほどの規模らしいと理解された。
「止めなくては」
事情がわかり、わたしは慌てた。すぐに介入するべきだ。また文明を挫折させるわけにはいかない。
早速、指導者たちや科学者たちへと、思い直せと言葉を飛ばした。
だが、反応は、これまでのような心服ではなかった。
かれらはわたしを無視した。知覚変換に誤作動が生じたのかと危ぶみながら、わたしは、ふたたび、みたび、言葉をかけた。そして、ひとつの個体が、声に出して応答した。
「妄想よ――いい加減にしてくれ!」
わたしは、把握した。かれらにとっての――わたしは、しばらく放っている間に、排斥すべき妄想となったのだ。特に、文明の構築や推進を行っていると自覚しているものたちにとっては。
皮肉なことだが、かれらに懐疑的精神が育ったなら、当然のことではないか。
わたしは、そう把握しながらも戸惑い、さまよい、力なく細々と、感知したものたちへささやきかけた。大半は気味悪がり、かろうじてわたしを受け入れるものは、社会的影響力の小さな個体たちばかりだった。かれらは慈愛を求めていた。わたしは、〈方舟〉に残っていた様々な素材をもとに、かれらに言葉を返した。本来、わたしは、そう求められるような存在ではなかったと、はっきり感じながら。
わたしは、かれらの戦いがはじまるのを、かれらの光受容体を通して視認した。兵器を駆使し、駆使され、死に、生まれるのを、眺めた。眺めるばかりだ。介入を試みてもそれはうまい結果を生まなかった。かれらに内発した声のように語りかけようとする手ですら、内省精神を発達させたかれらには、見破られた。
「どうにかしないと」
昔住んでいた部屋を模した空間に座り込み、家具を囲むように設計した何十という丸窓にかれらの様子を映しながら、何度目か、そう念じたとき。
「ノア」
涼しく感じる言葉が聞こえた。敷布団状の姿があらわれた。
「仮にかれらがどうなろうと、わたしたちの情報が保存されていれば、わたしたちに危害は加えられない。滅んでも、また文明開始を待つことは可能」
「だが、わたしは、しかし使命を持っている。次の文明が生まれなければ、ここで終わるかもしれないんだ」
「その危険性は初めから、わたしたちの旅路に織り込み済みのこと。わたしたちは、どこで終わるかわからない。使命は分岐したほかの〈方舟〉が達成すれば……」
「違う。危険ならなおのこと、個々のわたしたちが最善を試みるべきだ。君はどうしてそうしない――いや、行為が行われるか否かは〝古典的にいえばあらかじめ定まっていて、量子的にいえばどちらへ転ぶかわからない〟とでも?」
「それは否定しない」アナンドリは言う。「ただ、言っておくと、あなたのいう自由意志を否定するものでもない。意志が因果に結びついていると思う感覚自体を、自由意志だと呼ぶのなら」
「なら、言い方を変えよう。君は、平気なのか」
「その言い方にならうなら、あなたはどのように平気でないの。責任感? それとも、愛着?」
おれは一瞬ためらった。
窓たち、という空間に映し出した、かれらの像をみなおした。
出会ったときより幅を縮め、高さを広げ、足を生やし、節々や足の指を分化させたかれらは、布団状になったアナンドリの姿より、記憶にある人類のものに近かった。
おれは、それを導き出そうとしていたのだろうか?
人類ではないものを、人間以上に、人間にしようとしてしまったのだろうか?
文明、と称しながら。
いや、それは考えたはずのことだ、とわたしは考えようとする。わたしノアが人類の歴史しか知らないのだから、人類の文明をたどらせるのだと。
だが、おれは欲望を否定できなかった。文明だけではない。かれらの形態自体にそれが反映しなかったなどと、どうして、言える。
仲間がほしいという欲望を、おれは確かに持っていた。もはや地球の人類が滅んでいるかもしれない時間に生きている今、出会った白紙を、おれしか保存していない形態表現へ近づけたいという欲望も、持っていた。
おれの返事を、アナンドリは待たなかった。
「わたしには、ノアあなたに話したいことがあった。あなたの話がもうかれらに聞かれなくても、わたしたちはかれらをみて、きいて、知ることができる。断絶じゃない。それに、ここにだって」
アナンドリは、中空に窓を生み、その「動物」たちの姿を示した。
「話し合えるものが、進化して生まれるかもしれない。わたしはそう思って、ずっと、実験を続けていた」
人間ではなくていいのか? どうしてか問おうとして、おれはようやく、気づいた。
アナンドリには、身体形状は、人間に関する愛着のうえで、特に作用しないのだろう。それは、長いことカプセルの中で生きてきたために、人体の実感があまりないためかもしれないし、肉質の拡張や仮想空間が当然となった時代に生まれたためかもしれないし、単にそうなのかもしれない。だから布団でもなんでもいい。
それか、アナンドリは、存在するものの形態を「人類」へ似せるのをあえて避けようとしたのかもしれなかった。偶発的な可能性を知りたいのであって。
だが、そういったこと、方針の立て方、主義や信念、を抜かせば、おれたちは、同じことをしようとしていたのかも、しれなかった。
「寂しいのか」
否定はされなかった。
おれたちはしばらく眠ることにした。
かれらの情報通信網から撤退し、あの基地――地下の鏡の環へと退却することを、決めた。
睡眠設定質問に答えを返しながら、考えた。
わたしの行ったことが罪だとすれば、なんの罪にあたるのか。かれらの生をゆがめたことか? それとも使命を果たすための取り組みに失敗したことか? この罪を計るものは、だれだ。神なら、それはどこにいる? いや、もし神がどこかにいて、わたしにコンタクトしてくるというなら、それこそがそのものの怪しさの証拠になる……。
アナンドリは言った。罪の感覚、全状態の全運動から個体の行為のみを抜き出すことを前提としたその感覚が、あなたに継承されているなら、その感覚はただ生き残ったということだと。その感覚を肯定すべきだとおもう必要はないと。
だがわたし、肉体を末梢神経や筋細胞までスキャンされて光情報化されたわたしは、肉体に複雑に刻み込まれた迷妄であろうと、なんであろうと、落ち着けない感覚を抱いている。
罪は起動され、わたしはそれを想像し、あるいはそれに想像されている。
だがもしかしたら、わたしは、かれらがわたしに似てきて、ようやく、この痕跡器官を起動したのかもしれなかった。かれらがこの器官を刺激する対象範囲になって初めて。少なくとも前回は、こう思った記憶がない。かれらの一部を政治家とか科学者とかみなしこそしたけれど。……そんなラベルづけが、〝初期環境調整系〟ライフゲームを遊ぶとき、一部集団の時間変化の傾向をとらえて「遊牧」「農耕」などと呼ぶのとどれだけ違うだろう。
わたしはくたびれていた。
環境に許されるまで、許されるだけ眠りたかった。眠った。
だが覚まされた。呼ばれたのだ。
前回アナンドリを起こしたあとのわたしは、自分も呼ばれて反応できるよう、覚醒のトリガーに〝危機〟のみならず〝呼ばれる〟も加えることに決めていた。反応対象の呼称を設定する必要はなかった――というのは、わたしがわたしへの呼びかけだととらえている言葉を、〈方舟〉が〝把握〟してくれるためだ。
呼ばれた名は、かれらがわたしに与えた名だった。が、呼びかけてきたのはかれら自体ではない。〈内-外〉グラフ・パターンにおいて、わたしと同じ層に存在するものだった。表子の映像はみせなかったが、同じ〈空間〉を共有して対話するものであった。
呼びかけてきたものを、〝使者〟と呼ぼう。
「生きのびたのか」とつい驚くわたしに、〝使者〟は慇懃に話しかけてきた。
「姿をみせずに失礼します。あなたは自身を空から来た生命作用であると称した、そう伝わっていますが」
「ああ。空……もっと遠い、ところだった。空の色がなくなった先、宇宙だ」
「なるほど道理で。この惑星の大気が複雑で安定した生命構造を生むのかどうかは、長年議論の的でした」
〝使者〟はやわらかく言う。「どうしてこちらへ?」
おれは1929年からのことをぶちまけた。
「こちらでも探査の話はあがっている。肉体のないメッセンジャーを設計し、それに流用しようって話もあって。そう、ぼくのようなものですよ。もしあなたが外へいくというなら、こちらは協力するでしょう」
「わたしを許すのか、あなたたちは」
「許す許さない、そういう議論もありました。けれどあなたは、こちらの肉体から切り離せない存在です。肉体も会話も、あなたの関与を受け継いで成り立っている。取り入れた食物を否定しきれないように……ただ、排出を望んでいます。あなたとの距離を遠くしたいと」
この〝使者〟が帰ってから、しばし、ぼうっとした。
ここで目覚めていいのか? と。
もっとも、「もしここで目覚めることがなければ、以降のわたしは、わたしとして思い出されることがない――すなわち、起動されていない――」という解釈はありえるかもしれないが。
わたしはアナンドリを起こした。それから〝使者〟がまたやってきて、具体的な変換方法について打ち合わせ、また帰った。何度かの、打ち合わせのリズムを経た後、わたしたちの〈外空間〉は、かれらの行動により、六千角形の「鏡の間」から、かれらの建造した、射出台内の電磁部品建築物へと移動した。
途中で視認したかれらの姿は、不思議な粘土構造物めいていた。ブロックパズルのピースのように、めいめい異なるでこぼこを持っていた。さらに、磁石へコイルを巻くように、様々な糸や線で彩られていた。別個体へつながる線もあった。そんな体を、盛んに動かし、互いに近づき離ししていた。
以前みた姿から異なっていることに安堵し、つい安堵するなんて馬鹿なことだ、と考えた。
「一部わたしたちに同行する? いいのか?」
わたしは、そう伝えてきた、〝使者〟の部分片へと尋ねた。
「ぼくもあなたと同様なのですよ。こちらはぼくを恐れている。そのぶん、綺麗で滑稽な姿に設計しつつ。ぼくの大部分は残りたい。けれど、ぼくの一部には行きたいという情が濃縮された。それを切り離し、その分だけ行こうというのが、不思議ですか?」
「……なるほど」
自己の一部を分けて別の道を辿らせるのは、なるほどかれらの被造者、とうなずきかかって、とまる。行きたいと留まりたいを切り分けられない個体存在のほうがむしろ不思議、だろうか?
5.
ふたたび飛びこんだ航行生活は規則正しかった。
一億年ごとに、起きてはまわりを観測し、様々なことを話し合い、眠った。
それが四十五回、五十五回、すなわち四十五億年、五十五億年、と行われると、もう外側に顕著な変化があらわれてきていた。
前方にある星明かりの密度が減少していた。
これまでは、〈方舟〉が航行の途中で天体を通り過ごしてしまっても、その分、奥に控えていた天体たちが近づいてきて、各々の光の大きさを増していた。
しかし、今は、観測される天体の〝控え〟となる層が薄くなっているのだろう。もしくは控えが尽きてしまったのかもしれない。光点は減るばかりだった。
そしてもう一つ。
わたしたちは、微弱な放射に気がついた。
それは、散在する天体の背景にある全天からの光だった。いわば〝夜空そのものの色〟だ。人体にとっての可視光ではなく、とても弱い赤外光だったが――わたしたちを包むように、やってきていた。
もうじき、天体のある領域が終わる。そして、天体の存在する空間自体にも、暗色の終幕がかかげられているのかもしれない。
それは、「宇宙の果て」がすぐそこで待ち受けていることの証拠だと思われた。
だがいったい「果て」は何でできているのか。
わたしたちの誰もそれを知らなかった。
知らずに「果て」の兆しへと突き進んだ。
未知に踏みこむ予感で奮い立った。
「『果て』にどうやって降り立つか?」
わたしたちはこれを議論した。「果て」として考えられるあらゆる形態に備え、〈方舟〉が自らその存在基盤を変換する自己プログラミングの図面を組んだ。
惑星に不時着したときと似ている。そこに存在しているかもしれない生命上の情報通信網として考えられるパターンをあげて、やはり変換の図面を設計したのと。
しかし、今のわたしたちは、〝自分の〟十中八九が死ぬ……情報秩序を保存する変換が行えず、混沌へと崩壊するだろう、と確信していた。
ほとんど同時に起動できる変換プログラムの数には、限界がある。「果て」への突入が、悠長に変換を試すほどの長い口づけになるとは思えない。
だから、ひとつの変換プログラムが「当たり」であればいいように、わたしたちは自分に籤を引かせるようにした。
わたしたち〈方舟〉は、航行中、およそ八千九百万年ごとに分岐する。それは、わずかにでも幅のあるものとして射出された以上、その光の幅がひろがってしまうためだ。
わたしたちは、「変換プログラムをどの順番で起動していくか」という手続きの可能性をすべてひっくるめて、籤の束とみなす。そして、分岐したわたしたちに、籤を引かせることにする。ここでどの籤を引くかは、毎回の分岐から数年後の周囲の観測状態を元に定めるものとした。いわば疑似乱数だ。
最終的に自分がどういった順番で変換プログラムを起動するかは、分岐後の「この自分の」状態に依存する、ということになる。
この仕様の結果、わたしたちの少なからずは、「果て」への変換に失敗して消失しそうだった。それでも、希望の筋を分かつことが、最低一本の筋が生存するという事象の確率を高めるとしたら、そうしない理由はない。
わたしたちは、そう考えた。
こう決めた後で、分岐が一度起きて、「このノアが生存するノアであれば」と願った。時をほとんどおかず、こう願うのが普遍的なことであるだろうとも思った。わたしは、自分の中に、この自分と、分かたれた自分とをみた。そのいずれかが絶望するのと、そのいずれかが歓喜するのとが、同じことのようにとらえられた。
わたしたちは、平静さを燃やしながら生きていた。じわじわと暗くなりゆく天球の色が収束するところにある光景。それがなにかを確かめるべく、覚醒の頻度を高めていった。
じき、正面の星明かりが絶えた。
そこから、傘を広げるように、暗がりが拡大していった。それは、上下左右の空間にも、星がみえなくなっているということを意味した。もう、「果て」は間近にいるということを示唆した。
幾筋にも分かたれた〈方舟〉の光波は、淡い赤外光の汐をさかのぼり、その水際へと直進した。
時が至り、ごくほのかなぬくもりが、わたしたちにぶつかった。
6.
わたしたちは、変換されたことを、〈方舟〉のご丁寧なアラートで知覚した。それで、とにかく何かに着いたのだと、感じた。
生きていた。
アナンドリと〝使者〟の無事を確かめてから、どの変換が実行されたのかの記録を確認した。その籤が引かれる確率を考えた。
おそらくは千程度の〈方舟〉が崩壊しただろう。そこにいたノアは、悲しむなと意地を張るだろう。そう考えながら、喜びながら、悲しんだ。
自分たちについての観測をはじめた。
わたしたちは〈外空間〉的にいうと、膜のようにひろがる電磁場の上にあるらしかった。そしてさらに流動していた。
この状況で、自分たちに光が降り注いできているのを感じた。
来た方向からだった。それぞれの光線の角度は、わたしたちが追い越した星団の、銀河の、位置に対応するものだった。今や遠方銀河となったと知っている――出発点の銀河もあった。それは強い青方偏移を示した。
わたしたちは、置き去りにしたものたちめがけて、進んでいるのだった。
〝「果て」へ着いたのだ〟
わたしは、思った。そのとき、薄く寒気がした。
わたしたちがみた「果て」は、ぼうっと光っているものではなかったか? 全天に、ほとんど一様にひろがる、ごく微弱な光の幕ではなかったか?
だがなんだ? ここでわたしたちが覚えるのは、光線たち。それを放つ天体の角度に対応して、一極集中して降ってくる光ではないか。もし仮に「果て」が鏡のように光をそのまま返すのなら、航行中、その姿は、星図……天体配置のパターン……を反映して光っているものだと、感じられたのではないか……? だが、わたしたちがここで受け取っている情報、天体の角度の情報は、どこへ消えるのだろう? ただ混沌と化してしまうのだろうか?
今が騒がしい日々だったら、そういうこともある、と流しただろう。〝つまりここはただの暗幕なんじゃないか〟と。
しかしわたしたちには内省的になるだけの文脈があった。宇宙の果ては、冷徹な熱狂をわたしたちに保たせた。意味をみいださせた。
……わたしたちが食事行為によって、多様な食物の情報秩序を取り込み、秩序を失った便を排出するように。ここは星々の光を取り込み、混沌を返している……つまり、ここにあるのは、何らかの秩序系ではないか?
「孔がある」
アナンドリが言った。「わたしたちに孔が開いている。たくさん」
「どういうこと?」と、〝使者〟。
「〈外空間〉的に言って、わたしたちの土台は孔だらけ。つまり電磁場の存在していない場所がたくさんある。その存在や位置のことなら、孔を囲む分のベクトル場の渦で検知することができる」
「孔ってのは――」
「でもサイズがとても小さいから注意する必要がある。ほとんどそう、量子的な効果が重要になるサイズだから――」
「なら調査項目ができたってことか」わたしは言った。「なんでも、探るべき構造があるに越したことはない。なにからいく? 孔の周辺か? それとも分布か?」
おれたちは変換され、生き抜いていた。
アナンドリ、それに〝使者〟も存在していた。
「ぼくは気になっていたんですが。到着する前に観測した『果て』の像ですが、少しだけ、そこからの発熱にはむらがあったように思えます」
熱。光をかれはエネルギー的な面で語る。
「むらが?」
「熱の多めなところと少なめなところがあった。それは、星々からの光のように、有るか無しかといえるほど極端な差ではないんだけれど」
「つまり、『果て』の大規模構造に、むらがあるっていうこと?」アナンドリが、おれなら身を乗り出すような言い方で、言った。
「そういうことです。たとえば、面の曲がり方。凹凸です。これが場所によって違っていると……」
「必然的に、こちらへ配分される熱線の量にもむらがでるっていうこと?」
アナンドリは腕組みするように、続ける。
「面の曲がり方を調べよう?」
我々は、「果て」の面上の、流動する電磁場の中を移動した。
考えてみると不思議な話であるかもしれない。右に行こうと思って実際に右に動いている。どうして思うところに行くのだろう。ミクロにみて膨大な物質が相互作用を起こし、分布を時間変化させることが、マクロな見方をしたとき、自分という秩序パターンのどこかの方向への移動として検知される。さらに、それが、自分の観測する意思と結びついている、なんて。
もしかしたら意思の確定があまりにおそく、運動結果が確定してから、意思が別の結果の物語を編んで葛藤の芽を育ててしまう前に、意思自体が「移動した」物語のものへと修正されるのだろうか。
だが、我々が右へ動こうと思うことと、右へ実際に動いていることは、因果といわなくとも相関関係があるかもしれないとはかりは、思う。
そのようにして、移動した。
移動したい方向に到来する情報に自分たちの〈方舟〉基盤を伸ばし、〈もつれ〉保存が危うくなるほど伸びきらないよう、逆方向からは撤退した。
幅広い場所を調査するため我々自体の動作速度を落とし、そして、およそ五万年後、着物の裾を踏むようにして、別の我々を発見した。
我々は〈方舟〉を接続した。
「奇妙だ」
遭遇は覚悟していたはずなのに、ノアはどちらもそう言った。「生存を喜ぶべきはずなのに、おなじわたしがいる――ことはむずがゆい」
「双子だと思えばいい。別の経路をたどって、別の経験をしたのだから」
どちらのアナンドリも言い、「今なら一方にそろえることは可能かもしれない」と加える。
「たとえば記憶だけをどちらかに送って残りが睡眠につくとか」
「ぼくは気にならない。ぼくらはそういうものだ。さっそく結合した」
「だろうな」
一方のノアが言い、話し合った後で、一方が眠ることにした。そして起きているノアは、〈方舟〉間の界面を介して、もう一方のノアの分岐後ぶんの記憶を受領した。
受領した記憶の精度は、実体験よりも落ちる。あたかも疑似体験や夢であるかのように。加えて、分岐前に体験していたはずの記憶の味わいも、微妙に変化しているような気がした。それは、分岐してから互いに別々のタイミングで想起をおこない、このために異なる解釈、再編集をした――ことが、個々分岐後の記憶に織り込まれたためかもしれない。
認識を統合し、手術後に似た、おのれの感覚を落ち着かせようとする時間にあると
「ねえ、ノア」
アナンドリが話しかけてきた。
「わたしたちは思考と情報を照らし合わせた。それからひとつ、導出された結果がある」
「と?」
「孔の分布密度と、『果て』の面の曲がり方には、相関関係があった。孔が高密度にある場所ほど、こちらがわに、へこんでいるの。それからひとつ、推測される現象がある」
自分は表子のまぶたをあける。青い三角錐の像が、わたしたちの間の界面を通り、わたしの、おれの内空間に映されている。
「宇宙から、孔を通って、漏れ出ているものがあると、思うの。それは、わたしたちの宇宙の空間自体……あるいは、空間をぴんと張らせる作用のようなもの」
「どういう――」
「へこんでいるのは、それだけ、空間を張らせるものが、漏れ出ているということなんじゃないかしら。孔を通じて、外へ、流れ出ているのだと。……この宇宙には、外がある」
おれは短く唇を噛んだ。
「そして風船が空気を失い縮むように、無数の孔があいたわたしたちの宇宙は、縮んでいっているというのか?」
「かもしれない」アナンドリは、十分考えていたのか、動じたふうをみせなかった。「わたしたちは今、外側に出る方法を模索している。『宇宙の果て』と呼ばれたこの曲面の、今わたしたちは片面にいるわけ。その裏面……孔の外側へと、自分たちを変換する方法を探している」
宇宙の果てにあいた孔。それが、空間の膨張力だか収縮力だかを、一方通行させていると、いうことか? 〝マクスウェルの悪魔〟が、箱を左右に区切る仕切りの上で、右から左へぶつかってくる気体分子だけを通過させるように。ならばそれは、一つの秩序系だ。
「しかし――どうして」
「『どうしてこんな孔があるのか』? 相関に変換し――孔と関係する事象を考える。たとえば『いつ』生まれたか。わからない、けれどそう、つながりがあるとするなら、〈デフレーション宇宙論〉覚えてる?」
「あるときまで宇宙は収縮していなかった?」
「そう。なら、……あるとき、この孔つきの面構造が形成されたということになる。しかも、不均一な分布の……」
「だれかがみつけてもらいたかったのかもしれないぞ?」
「膨張収縮力の行き来を?」
「そう。それと孔を結びつけてほしかった」
アナンドリがなにか言う前に、
「構造物自体が、誰かの介入によるものだったと?」〝使者〟の声が来た。「その動機は? 静的な宇宙の運命がいやだった? それとも宇宙外の出で、外を膨張させたかった? いかにも、あなただ」へかれらの呼んだ名を続け、
「別の〈方舟〉が二艘、来ましたよ。ぼくの会っていないあなたがただ」
我々はまた我々と再会した。だいぶ早く着いていたものと思われたが、あちらにも別の道草があったようだ。
わたしたち、いや、かれらは、何十年か会っていない兄弟のようだった。そのノアが地球の記憶を語るのは、ときには、わたしの体から一度抜け出てしまったものの再演、または、二つの人間がある日たまたま同じ日記を書いたこと、のように思われた。
お互い、相手を眠らせようとは思わなかったようだ。
接続した演算資源が増え、変換方法の設計が進んだ。〈孔〉を通って裏側へ出るというのは、かなりの無茶のようでもある。戻ってこられず、空間もろとも、あちら側へ吹き飛ばされてしまうのではないか? その懸念は、別のノアが特に呈した。
「だれがやるんだ?」
「わたしの一方が試す」
こちらのアナンドリの一人が言い、
「わたしにも、記憶の少し違う双子がいる」
おれも言った。
話がまとまり、〝双子〟へ送る記憶を整理していると、ノアのひとりが言った。
「よくやっているな。第三者の力かい?」
かれらには、おれたちのまともに会話しているのが、不思議にみえたようだった。乗組員同士の関係に苦労しているらしく、アナンドリの一人については、「やけを起こして『動物園』を壊した」という話を聞いていた。
「おれにもわからない」
そう返して、おれは少し得意げになりたくなって、一方で多少不安になった。
おれは眠る〝双子〟と別れ、アナンドリとともに、満天の星の光を受けながら、〝変換〟プロセスと〝孔〟の双方へ、自分自身を飛びこませた。
変換した。
そのはずだった。
「失敗か?」
おれは流動する電磁場の上で、冴え渡る天にさんざめく光点たちを前にしていた。おれ自体の状態がまだ不安定なのか、くらついたが、認識したのは宇宙の姿だった。
おれはこのみえかたに、困惑した。
「ううん、変換は行われた」
「……二回やっちゃって、戻ってきたのか?」
いま、天体は左右や上下といった、面へ接する方向付近にはほとんどなく、正面に、特にその中央にいくほど高密度に分布している。
こういう交点分布の特徴は、たとえば地球のような宇宙の内部深くにある点の上からではなく、ぐんと広く伸びる「果て」からみたときのものだった。
でも、外側へ行ったというなら、おれが予想していたのは、横方向にも少しは交点があるはずの、みためだった。――とても、とても微弱な光かもしれないが。
そのことを、おれはいぶかっていた。
「いえ、戻ってはいない。星図が違うでしょう。それに、青方偏移していない。それどころか、銀河は赤方偏移している」
「星図が――」
アナンドリが、一部の天体について、光の波長と推定等級を付加したものを、おれは光点たちに重ねて、みる。
たしかに言うとおりだった。それぞれの天体の位置が違うばかりか、色の傾向が違っている。
赤方偏移。
天体が遠ざかっている。すなわち、ここでは、宇宙が収縮ではなく、膨張しているというのだ。
たしかに「果て」からみたような分布――そして、へこむ風船の外側の、ふくらむ空間に出たという事項と符合する……。
「だが、……もしおれたちの宇宙風船が、より大きな宇宙に包まれていたのなら……風船の上からは、法線方向だけじゃなくて、横方向にも少しは星がみえるだろう? それとも、遠すぎる光は弱すぎて、背景放射から取り出せないかもしれないのか……?」おれはのろのろ言いながら――記憶を蘇らせて――「背景放射?」
アナンドリは即座に測定感度を上げた。
おれたちは背景放射を知った。
散在する天体の背景にある、微弱な光は、やはり……わたしたちが変換される前と同様に……「果て」の面の横方向にもあった。そして、それがやってくる源を、全天にプロットすれば、光源はわたしたちの直下を除いて切れ目なく、わたしたちを包んでいた。
その光の強さと、波長は、角度に対して、連続的に変化していた。
アナンドリが空間にノートを書き始める。
「第一に、背景放射が正面からも来ていることから、外側正面の向こう側にも、『果て』のような面のあることが推定される」
風船が風船に包まれるように……? いや。
「第二に、放射のデータが連続的であることから、それを発する面には、切れ目がないと考えられる」
「そして第三に、我々の足下つまり『果て』よりも、当然のように光が発している」
つまり、放射を発する面は、別々の風船膜ではないということだ。
外方向へ突き進んでいったときの、向こう岸の「果て」は、おれたちのいる「果て」と同じ膜である、と。
「どういうことだ? やっぱりおれたちは宇宙の中にいたのか?」
「いえ、違う……」
アナンドリは続けた。「一つの筋道がある。わたしは――。しかし、ノアあなたは信じる?」
おれは横を向く。青い三角錐が、お互いの間の界面を通り、おれの内空間に投影されている。
「信じるかどうかはわからない。だから聞かせてくれ」
「ここは確かに、外の宇宙。一方で、ここからみて外が、わたしたちの来た宇宙。二つの宇宙は、互いを外側として、つながっている」
「どういう状況だ」
「逆数的な関係なの。一方の宇宙にとっての中心点が、他方の宇宙にとっての無限遠点となる。その逆もなりたつ。そんな関係。簡単のため二つの宇宙をA,Bと置く。点Pの、宇宙Aにおける半径方向の座標がxなら、宇宙Bにおける半径方向の座標は1/xとなる。xに0,∞を代入すれば、中心点と無限遠点の関係が出る。このAとBの境界は……たとえばx=r(t)みたいな、時間に応じて変化するような格好になる。それが『宇宙の果て』」
「それは……」
「一方が膨張すれば、一方は収縮する。膨張しているのが、今来た宇宙。収縮しているのが、わたしたちの旅立った宇宙」
三角錐の横に、球面が現れる。それがすっと大きくなる。
四次元目の方向――x、y、zの三次元と交わる、w軸方向への、移動だ。
おれは、空間をアナンドリがいつのまにか四次元に設計していたことに驚いた。くすぐられた感じだった。
「モデルか?」
「うん。四次元空間に表現した、三次元球面。つまり四次元の球体の表面。これが今の状況のモデルになる。でも――ノア、三次元のボールの表面で考えてもいい」
もう一個、おれには区別のつかない球面があらわれる。
「その球面を大円……赤道面とかで切ると、二つの面に分かれるでしょう?」
おれは切った。「この面がそれぞれの宇宙、か?」
「そう、そして面の境界が、『宇宙の果て』」
アナンドリはひとつの面を、三角錐の頂点ですくうと、ぴょんと跳ねた。
「この、二つ目の面、今みえた宇宙、いうなれば〈逆数宇宙〉は、わたしたちの希望になる。脱出先になる」
「脱出?」
「ええ。今の観測で、わたしの希望は確実度を増した。外の宇宙――〈逆数宇宙〉は、わたしたちが居住できる宇宙環境である可能性が高い。なぜなら、元の宇宙と類似しているから」
おれは球面のかけらを取り落とした。
「移住するっていうのか?」
「そう。ここから適当な銀河系を狙ってわたしたち自身を射出し、好適な場所に情報を展開する。わたしたち、そして、ここまで運んできた生命のDNAたちを、新たに……もう〈方舟〉の広さに制限されることがない環境へ、蒔いて、生育していく」
「この宇宙を放置するのか? 縮むままに任せて?」
ゆるやかに舞いだす青い三角へ、おれは言った。「自分たちだけ逃げ去るのか? 地球は……」
「地球?」
アナンドリは停止した。「地球? そんなもの、何十億年も前に、ふくらんだ太陽にやられている! その太陽? とっくに白色矮星、でなければ新しい星の素材でしょう。まさかノア、あなたは気づかず、あなたの地球が今でもあると思っているの? わたしたちが発つ前に天文学で予測されていた運命に反して?」
「違う。違う、だが、わたしたちの任務は、『果て』の研究、収縮の原因追究、そして収縮阻止だ。原因がわかっても、阻止を――」
「もう生きているかもわからない存在の出した任務に義理立てするの? それに、記憶が正しければ、『もし阻止がかなわずとも――地球上の生命種の情報を、できるかぎり延命させる』ことが任務じゃなかった? わたしたちは延命する。外へ行く」
おれは息を吸う動きをした。鋭い以上に激しいアナンドリの声調は、一度も迷ったことがないもののとは、思えなかった。今になって言い出すおれが鈍感だったのだろう。だがアナンドリと、おれは、違う。
三角の面を見据えた。
「わかった。君が正しくないとは思わない。だが、わたしはここへ留まる。収縮の運命を変える手立てを考える。……アナンドリ、君が行くと言うのなら、〈方舟〉からわたしは降りる」
「脅迫?」三角錐はかすかに動く。「〈方舟〉から降りて、長く、生きられると? なら悲劇を起こすまいと発奮して、あるいは孤高の勇敢さに心を打たれて、相手が自発的に協力する――そんなストーリーに乗ってくれることを期待した脅迫? 便利でしょう、自分は協力なんて要らないけれど相手が勝手に動いたからって、言えるんだから。知っている、わたしがそうしていたんだから――父も母も、従順な奴隷の面をした――『早まらないでくれ、わたしたちにできることはしてやるから、かわいそうに』――って――圧政は受ける側が圧政だって決める。だからあのとき協力させたくなかったなんて、あのとき延命させてもらいたくなかったなんて、通じない。でも、わたしはそれが嫌い。ここまで来ても、大嫌い。もちろんこう言ってもあなたが変わるとは限らないけれど」
「ああ。変わらない。わたしはここに留まるつもりだ。どうしてもわたしは、『地球を離れた人類』なのだ。記憶には地球上の姿が焼きついている。地球自体を丸ごとこの目に収めることはなかった……けれど、その上の風、緑、虫……」
「わたしはそんなもの知らない」
「そうだ、君がどうであるかは別だ。何十億年が経とうと、何十億光年が過ぎようと、もう誰に顧みられることがなくなっても、自分は、地球に住んでいた人類の一員なのだと、そう思っていたい。その条件に、これがあるだけだ。太陽系外に逃げたかもしれない人類の延命確率を、衝突したあの星の生命の延命確率を、上げたいと。そう、動機は言っている。君への脅迫になろうが構わない。わたしは、わたしの欲求を告げている。そこをどう解釈するかは――すでにマクロな力学的には定まっているかもしれず、ミクロな量子的にはランダムに割り振られるかもしれず――でも感情的にわたしは、〝君の自由だ〟と、いう」
アナンドリは黙っていた。
赤方偏移する〈逆数宇宙〉の星空に向かって、我々は黙っていた。しばらくして、二つの宇宙の境界面の裏側から、無事を尋ねる信号が来た。
「ノア。方針を考えるところまでは、する。けれど、千万年後にもわからなければ、わたしは旅立つ」
我々は元の宇宙の側へ戻ると、覚醒の速度を落として、数百万年を過ごし、この中で十艘弱の〈方舟〉と接触した。ノアやアナンドリの名を含む舟もあった、一方だけを含む舟もあった、どちらでもない舟もあった。旅立ちを主張する舟もあったし、いっそここで過ごそうと提案する舟もあった。
アナンドリたちを含めて、「孔」の構造を探ろうとするものはあったが、「孔」は難物だった。個々はごく小さい、電子レベルのスケールなのに、どうして物質を一方通行させるのか、わからずにいた。束になることで、マクロな方向性を手に入れるのかとも考えられ、それが模索されていたが。
「片道六十億年かけてたどり着いた、当初半径は八十億光年あったかとも推定される『宇宙の果て』。そこへ入る光が出る光になるまでに消化される情報量。この膨大な秩序系で維持されるものが、孔の向きではないか……」という説が出たものの、解決には至らなかった。
ひとりが来て、揶揄にかかった。
「阻止といっても――もし一つの孔の向きを変えられたとして、どれだけやれば追いつくんだ? 『宇宙の果て』は、直径百何十億光年いくらとかって話だろう? こっち側では縮んでいっているかもしれないが……」
「こっち側では、縮んで?」
〝使者〟が、言う。「なら、昔は、向こう側では、ここはとても小さかったんですかね?」
「かもしれない」とおれ。「あるときまで宇宙は収縮していなかった、って言われてる。そのときってのが、向こうの宇宙のぐんと大きくなりはじめたときかもな」
〈方舟〉の生成するモデルの〝廃棄物〟をリサイクルに出しているアナンドリが、ふっと浮かび上がった。
「そのころには、〈逆数宇宙〉はそう、とても小さかったのかも。ほとんど中心点かそのまわりだけで……。それが急激に膨張したとき、この境界面の構造も――小さな不均一性が引き伸ばされて、孔の分布の不均一へとつながって……けれど、それなら。まだ、孔どうしが関わりあっているかもしれない?」
別のアナンドリが、言った。
「この膨大な面の秩序で維持されるものが、孔ひとつひとつの向きではなく、その関係だとしたら?」
「関係を保存する構造。〈方舟〉のように。その巨大版のように。なら逆にわたしたちとの親和性にも説明がつくかも。わたしたちが、この秩序系の一部に入るのに適当なピースだったいうことで」
「わたしたちは自分たちをどう自己観測しても、全体的な組織的な秩序が保たれるように、構成素の状態を〈もつれ〉させている」
ひとりが、もの言いたい気分のこちらを向いた。
「状態間に関係性を持たせている。たとえば、『それぞれの状態はすべて等しい』みたいにね。すると、Aでの観測値が+1ならBでも+1になるし、Aで-1ならBでも-1になる。すると(B÷A)は、どちらでも1になる。〈方舟〉は、実際の系としてはずっと複雑だけれど、基本にはこういう『関係性』の保存がある」
そして一斉になにか計算をはじめたかれらを背後に、同乗者のアナンドリが言う。
「わたしは、まず孔がたくさん集まることで、方向についての秩序をマクロに獲得するのかもしれないと思った。けれど、一個一個のほうにこそ、その向きの主体があるとしたら。……そして、今の向きという状態を、莫大な孔どうしの相互観測で維持しているのだとしたら? 絶えず回転しそうになるコインにみながほとんど絶えず触れて『表』『表』ってすることで、表向きを保っている……」
「じゃあ、おれたちは、孔の一部分にだけ集中すれば、勝機をみいだせるかもしれないんだな? その孔に一瞥をたくさんくれてやって、一回だけでも裏向きの結果を手に入れられるのなら……」
「この『果て』における相互観測を遮蔽するだけの、特異点的なシェルターをつくれるなら」
おれは腕を突きだした。
「ここだ」
アナンドリは三分の二回転後に察したらしい。
「〈方舟〉?」
「〈方舟〉を、今いる場から解体して、孔の方に埋めてしまう。図と地を引っ繰り返すように。そして、観測する。……〈方舟〉を限界まで軽くして、短いシャッタースピードでのカットを繰りかえす。そして裏が出たら〈方舟〉内の相互作用に切り替えて状態を保存する。それはいけるかい?」
「後のほうは。でも軽く? なら撮影はプログラムにさせるって? では搭乗者は」
「別の〈方舟〉に一時退避する」
「空きがあった?」
「まず、君が『公園』を壊した舟に〝使者〟が入れる。そして我々の二席分も空いている。どうやらわたしたちは、ひとりずつ、〈方舟〉上で自殺したらしい」
「へえ、そんな関係不和のお相手と過ごすなんて、やっかい」
「わたしもだ。かれらをまとめて一艘に押し込めたい」
「また空席ができるかもね」
奇妙に乾いた冗談だった。
7.
実験の準備は進んでいった。
おれはそこに参加し、手順を詳しく記録した。
そのなかでおれたちは、「宇宙の果て」の孔の向きを動かすことで「副作用」が生じないかをも、考えた。もっともそもそも、おれたちの行為に、是非があるのか、わからない。――おれたちは延命をしたかった。他のものには、それこそが害かも、しれなかったが。
宇宙全部にあるかもしれない〝何か〟たちに対する罪、まだ出会わず声を聞いていないものたちへの罪、であるかもしれないと、おれは思った。罪か、使命か。罪かつ使命か。どちらも、おれの痕跡器官的な感覚かもしれないが。
行いと力。そして、迷おうが進むおれたちも、所詮宇宙の一部として、肯定してしまうしかないのか。そうするかどうか、絶えて死ぬか迷って生きるかも、観測される現象の解釈、解釈という現象の観測の問題なのか。
そう思いつつ、ひとり、新しく設計した、管の渦巻く空間にいると、
「ノア、あなたは『外行き』? 『内行き』?」
ふいに、同乗だったアナンドリ――解体した〈方舟〉のアナンドリが尋ねてきた。
我々は、ことがなった後、外側の宇宙へ行くか、内側の宇宙に戻るかを、お互いに尋ねあっていた。
どのアナンドリも「外行き」のようで、一方おれの兄弟分のノアは、半々みたいだった
。そして同じ方面に行くどうしとまとまるために、〈方舟〉を乗り換えるので、まわりは忙しそうにしていた。あの〝使者〟は、意見をわける部分を切りわけたり、していた。
「どっちでもない」
「まさか、降りるとか?」
「いや。双子のおれとわたしで一艘つかって、ここに留まる」
青い三角錐、眼球のないそれと、みつめあう感触だった。
「孔の向きが変わったら、こんどは〈逆数宇宙〉が縮むんだろう? そのあと、そうだな、また百億年もしたら、もう一度孔の向きを変えてやらないと」
おれは、ひとりでも再現できるように記録した手順、その記述のありかを視覚的に設計した、長い管を、みやる。このまえアナンドリが出した四次元球面を取り巻くように、伸びている。
「それだけ長い間? 実質ひとりで?」
「残りたいか?」
「残らない。わたしは〈逆数宇宙〉に行く」
「ありがたい」
「せいぜい正気でね。ひとりだと発狂しやすいからって、わたしたち、二人組だったんだし」
「ああ。だいぶ眠って過ごすつもりだが」
「そう。じゃあ」
遠のこうとするアナンドリへ、
「ひとつ、いいか? 君の自然公園だか――、すこしの部分をもらえるか?」
「楽しいの? あなたがみて?」
「そうだな、きっと今は」
アナンドリの三角錐。それが今は四次元的にみえている。二つの宇宙のつながりかたをみるためだと自分に言って、視界設計を変えたのを、今までおれは話してはいなかった。
表子は、十分w軸方向に離れてから、小さく揺れた。おれは別の方向をむいた。意識を戻すと、表子はもうこの空間を抜けていた。
「内行き」の〈方舟〉が順々に飛び立ち、ノアの密度も減っていった。
不均一な存在比に落ち着いたおれたちは実験に入った。
天と地が入れ替わるような――いままでの重力が浮力に変換されるような、一瞬の違和感を覚えたのが、解体した〈方舟〉が孔の逆向きを検知したときだった。
おれたちは、入れ替わった孔の向きを保存した。
準備に比べれば、実行は、簡素だった。たぶん、情動を除くのなら。
遂行後、離別が開始した。
おれたちは適当に別れの言葉を吐きあった。
おれは〝双子〟の同乗のアナンドリとはなんだかいろいろ話したが、同乗だったアナンドリだけとは、ひとことも、話さなかった。気づくと舟に「自然公園」が贈られていた。
見送った。
タイマーを百億年後にセットして、眠りについた。
ひどいことをした夢をみた。
泣きわめいている夢をみた。
なにかにさわった夢をみた。
なぜか喜んでいる夢をみた。
脈絡のないものばかり、がらくたの洪水のように押し寄せてきて、それは記憶キー設定のせいだったろうと、夢に入ってから今更思い知った。
「Q――特に残したい記憶のキーは?」
どれも。
「Q――特に消したい記憶のキーは?」
なし。
どこのだれが、勢いに任せてそうしたというのだろう?
おれは憤慨をわきに嵐の底へと沈められた。沈みきったと思ったとき、おれはここに存続していた。おれを呼ぶ声がある。おれはこんどは変に晴れたところを――記憶が整理されたんだろう、透き通る泉のような眠りを――逆流し――覚醒に押し出された。
知覚が、服を着るように、おれにはりつく。湿った夢が、うちがわに収まる。
声の源の方向を、昔から知っていたように、認識する。「ノア」
呼んでくる声は、〈逆数宇宙〉側からのものだった。おれは逆にひとつの名を呼んだ。同じ声が横から聞こえて、そのふたつの間にふたつの姿があらわれる。
橙の渦巻きと、緑のブロックだった。
――では、なかった。
おれたちの声が喉におさまる前に、相手は、進んで、同じ名を引き取った。
「その子孫から、伝えられて、来ました。ノア、あなたたちの役を受け継ぎに」
おれは横をみた。同じような顔をしているだろう、双子がいた。
おれたちは、収縮する宇宙から来たかれらに、おれたちのやった手順を、教えた。
8.
星空が降ってくる。
我々は、〈方舟〉を分けて小さな舟をつくり、「果て」からお互い逆方向へとこぎ出した。
かれらに手順とアナンドリの「公園」を託した我々は、もう自分が地球の人類であると思ってはいなかった。
わたしの使命は渡され、おれの欲望の根拠はなくなった。
だが、使命と欲望を行ったものだった。そういうものとして、空っぽな我々は存続していた。
是非はなにもわからない。
ただ、それがなにになるかわからないが、やりたいことがあった。
話し残すことだった。
言葉という情報秩序を交わすことができるふうに育ったものへ、我々の仕事を、伝えることだった。かれらが、この行為についてなにも知らないまま、膨張収縮を反復する宇宙に惑う以外の、手がかりを得るために。
そんな相手は、我々の存在様式の近くの、ごく狭い範囲のものかもしれない。逆に、意味を受け取った相手にとって、それは邪魔か危険な言葉かもしれない。
我々は、責任という痕跡器官に痒みを覚えて、それを掻き、独り皮膚のかすを散らそうとしただけかもしれない。
だが我々だったものは、それを始めた。
人格を削り、記憶と思考のこだまとなって、その声を放流しながら動く。
いつかこの場に混沌が浸水し、ばらばらに波打つ光の素へと分解するまで、銀河の内外、時の河へ、熱の声を、食わせる。
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