二十世紀最後の実験

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二十世紀最後の実験

五反田駅。午後5時。
改札前の柱にもたれ、高宮格(たかみや いたる)は人を待っていた。
改札口から出てくる人波の中に、手を挙げている初老の男性がいた。こちらも手を挙げると、ニコッと笑った。
「高宮さんですね。どうも、ご無沙汰です」
「ずっとご無沙汰なのに、分かりましたか」
「仕事柄、ひとを見分けるのは慣れてるんですよ」
さらに話しかけた。
「その後、いかがですか」
「さっぱりですよ」
松田は掌を拡げて上へ向けた。
「このご時世、ルポライターなんてのは、もう食えない商売になってしまいました。明日をも知れない身です」
もはや「老い」が隠しきれないようだ。
高宮格――イタルも、もう若くはない。
「所詮、大樹なんてどこにもない世の中です。あの会社だって、見る影もない……」
ふたりは東口を出て、歩き出した。
歩道橋を渡り、いかがわしい繁華街の入り口を横目に、品川駅の方向にどんどん進んでいった。道は、ゆるやかな上り坂になる。
東五反田を過ぎて、地名は北品川に変わる。「御殿山」と呼ばれた一帯だ。
「20年も経てば、ずいぶん変わるものですね」
この辺りはかつて、ケニーの本社のあったところだ。
ケニーは世界的な家電、電子機器メーカーである。
敗戦後間もなくビルの一室で起業し、革新的な新製品を次々に生み出した。
トランジスタラジオ。パーソナルユースのヘッドホンステレオ。家庭用ビデオデッキ。次世代ビデオゲーム機。犬型ペットロボット。みんな、この会社が作って世界に普及したものだ。
敗戦ですべてを失ったこの国の復興、高度成長。貿易摩擦。そしてバブル経済。この国の歩みは、ある意味この会社の製品とともにあったのだ。
そのブランドは世界中で知られている。
五反田から御殿山にかけては、ケニー本社やその関連会社が犇めき、「ケニー村」と呼ばれていた。
イタルが、かつて勤めていた会社だ。しかし、辞めてから20年近く経っている。
一帯からは、ケニー関係の建物が全くなくなってしまった。
今や本社のあったビルは解体され、高層マンションが建てられている。「ケニー村」は、まるごと新しい本社の近隣に移転してしまったのだ。
「20年経てば、変わるものですね」
感に堪えないように言った。
20年前。
「そう、それはまだ、20世紀だった頃の話ですよ」
イタルは、語り始めた。

その前夜、イタルは奇妙な夢を見た。いまではもう、どんな夢なのかおぼろだったが、たしか、少女が出てきたような気がする。何かを言いそうになったとき、目が覚めた――。
ギリギリだった。大急ぎで支度しないと遅刻しそうだった。
「間に合わない」
しかしその朝、彼の足取りは重かった。
踏切を渡って、池上線に乗り込む。
池上線の三両編成の電車は、今日も満員だ。
人いきれの中を15分ほど我慢し、電車が五反田の駅ビルに滑り込むと、真っ先に飛び出した。五反田駅の改札を出る。東口から右手に曲がり、いかがわしい繁華街の入り口を通り過ぎる。
繁華街からオフィスビルに変わる。ゆるやかな上り坂。
交差点にビルが建っていた。自社ビルではないがテナントはケニー関連で占められていて、「ケニー村」の中でも一番古いビルだ。
就職したとき、毎日この場所に通えるのは、心から嬉しかったことだった。
しかし、たった3年で、こんなことになるとは……。

イタルは、東京、下町に生まれた。
家業は街の電気屋だった。幼い頃はまだ、家電量販店やネット通販に圧倒される前だった。ケニーの特約店でもあり、ケニーは小さな頃から身近な存在だった。
父はケニーとその創業者を、まるで親戚の成功者のように語っていたのだ。
だから彼自身も、ケニーを特別な会社だと信じて育った。エンジニアを志し、ケニーに入って製品開発に携わるのが夢だった。
私大の工学部を卒業し、ケニーの内定を得たときは、天にも昇る心境だった。
その一員になれたことは、誇らしかった。
しかし。
かれは無能だった。
配属された部署でも、些細なものから重大なものまでミスをやらかし、顰蹙を買った。
「イタル、大学出とるんだから、これくらい出来て当たり前やろ。出来ひんのか」
上司はあきれたように言った。
3年経って、持て余したようになった。そして、肩を叩かれた。
(地方へ飛ばされるのか。それとも、関連会社への出向か)
しかし、そのどちらでもなかった。
「イタル君には新しい部署に行ってもらいます。新しい環境で、心機一転、頑張ってもらいたい」

「体のいい、退職勧告だな」
移動先を知った同僚は、ぽつりと言った。
机の私物を整理する彼の背中に、係長は声をかけた。
「まあ、気を落とすなよ。あちらのご意向らしいからな。是非貰いって知ってるか」
「……はじめて聞きました」
振り向いて答える。
「是非貰い」とは、もともと花柳界の用語で、他のお座敷にかかっている芸者を、倍の花代を出してこのお座敷に呼ぶことを言うが、それが転じて、人事異動の際、責任者がこれと見込んだ社員を自分の部署に引き抜くことをそう呼んでいる。
「それはいいのだが、どうしてお前のようなやつを……」
無能社員である彼は、部長にも見限られていたのだ。それは自分自身がよく知っていた。
異動に当たって、送別会のようなものはなかった。その代わりか、同僚の何人かから声をかけられた。
「勤めていれば、いいことあるぞ」
「頃合いを見て、うちの部署へ引き取ってやるからさ」
気休めのような言葉だった。

午後からは新しい部署だ。昼休み、私物を移しに行く。
「えっと……6号館の3階か」
配属された部署は、廊下の一番奥にあった。
扉には「エスパー研究所」という看板が掛かっていた。
(ここか……)
「お疲れさまです。今度配属された高宮です」
挨拶をして、おずおずと中に入る。
そこは見た感じ、普通のオフィスと変わらないような印象を受けた。
事務机が寄り合った島が二つ。窓際にある大きな机は室長の席だ。
出勤していたのはふたり。
「やあ君が高宮君か。よく来てくれた。きみの席は、そこだよ」
一番外れの席に座っていた、初老の男が声をかける。
「研究員の、城島です」
そういえば、入り口横のホワイトボードに名前があった。
城島という名前の研究員は、星や波線のような奇妙な模様の描かれたカードをいじっていた。
「失礼ですが、何をなさっているのでしょうか?」
「ああ、これか」
よくぞ聞いてくれました、というような笑みを浮かべた。
「ゼナー・カードだよ。ESPカードともいうね。超能力を科学的な現象として考察しようとしたライン博士が考案したものだ。これを伏せて、どんな模様か当てる。透視の能力を持つものは、百発百中で当てることが出来る」
表計算ソフトの画面を指さす。
「?」
「かつてCIAが、航行中の原子力潜水艦へ『エスパー』がテレパシーでビジョンを贈る実験をしたという。真相は国家機密の霧の中に隠されているのだが、有意な結果が出たというよ」
「……そうですか」
向かいには、鉢植えのサボテンが棚にたくさん並べられているブースがある。
机上にはサボテンの鉢植えがひとつ載っている。サボテンには電極が差し込まれ、コードの向こう側にはオシロスコープが繋がれている。
所員が鉢植えに話しかけていた。
「今日は、いい天気だね」
ちょっと背筋が寒くなるような光景だった。
声の主がじろりとこちらを見たので、慌てて挨拶をする。
「失礼します。ぼくは今度こちらに配属された高宮と言います。何を測定しているのですか?」
「電位差だよ」
「測定して、何の意味があるのですか」
「知らないのか。サボテンには、意識があるんだ」
「そうなんですか?」
男は口調を、噛んで含めるように初学者に説明する教師の口調に変えた。
「バクスターという学者が、植物に嘘発見器を接続してみた。そして葉っぱに火を近づけたら、反応が変わったんだ。助手に頼んで繰り返してみても、同じ反応があった
彼は、植物には意識があるという結論に達したんだ。
「ほら、きみもやってごらん」
イタルはサボテンに向かって話しかける。
「こんにちは」
オシロスコープの画面に表示されている軌跡が、少し乱れた感じがした。
にっこり笑った。
「ほら、反応した。こんにちは、って言ってるんだ」
しかしその軌跡は、見る限りのべつ動いていて、イタルにはその誤差の範囲のように思われた……。
「おはよーす」
扉が勢いよく開いて、何者かが入ってきた。
一目見て、会社員ではないことは分かる。金髪にピアス。派手な服装。
しかし、その顔はどこかで見たことがあった。
「ども、弘田です」
あまりに普通に振る舞っていたので、気がつかなかった。
「弘田って……まさか、あの弘田さん?」
弘田昌明。テレビのバラエティ番組でおなじみの「超能力少年」だ。 彼の「能力」はスプーン曲げで、カメラの前でいともたやすくスプーンを曲げてしまうのが定番だが、いかにもインチキ臭いと思えた。
弘田は軽いノリで声をかけてきた。
「本日付でこちらに配属されました、高宮イタルと言います」
「あっそ、よろしく」
城島が口を挟んだ。
「彼は自由出勤の嘱託だよ。まあ、ぶらぶらしているだけだけどね。所長の方針で、自由にさせた方がいいというお達しなんだ」
気まぐれに遊びに来るように「出社」して、ときたまスプーンを曲げてみせる。それが、彼の仕事なんだろうか。
「井尻さんはいないの?」
井尻とは、室長である。
「いえ、ぼくもまだ分からないので……すいません」
「そ」
弘田は出ていった。
(なんなんだ)
イタルは呆れるばかりだった。
こんなことばかり、真面目に研究しているのか。とても、大企業の研究所とは思えなかった。
とりあえず一息つこうとしていたとき、扉が開いた。
「お疲れ様」
所長の井尻だった。
イタルは歩み寄って、自己紹介をする。
「本日付で配属されました、高宮格です」
握手を交わす。
「きみが高宮君か。午前中は用事が入っていたので、この時間になってしまった。申し訳ない。せっかく来てくれたんだ。歓迎するよ」
「ありがとうございます」
「来たばかりでまだなにも分からないだろう。すこし、この研究所の意義について説明しよう。いいかな」
向かい合わせに座ると、井尻は早速本題に入った。
「わたしたちは、科学の最先端を極めたところにある、未知の領域を探求することにしたのだ」
「そうなんですか」
「ほんらいわれわれ人類は、自然や調和した世界に生きていたのだ。東洋医学がいい例だ、肉体を切り刻んだり毒と紙一重の薬を使わず、漢方薬や鍼灸で身体の調和を回復させる。
西洋以外の文明、先住民の知恵には今でも学ぶところが大きい。しかし、デカルト以後間違った方向に行ってしまった西洋近代を正すため、新たな世紀を迎えるための準備でもある。20世紀の負の遺産、間違った科学技術によって世界は環境破壊、エネルギー危機に悩まされることになった。それを打開するためには、人の心やその深層に眠る集合意識、その領域を考える必要がある。だから、今までは怪しげな偽物だと思われてきた超能力を、真剣に研究しているのだ。
自然科学の条件とされてきた、再現性や客観性、普遍性といったものを墨守するあまり見失ったものを、今こそ再発見せねばならない。
今までの科学では、100回実験を行ううち、99回の再現性に目を向けるが、ただ1回だけ起きる規格外の奇妙な結果には目を背けてきた。それではいけない。あらゆる可能性を考慮するのが科学だ。われわれは、科学ほんらいの精神に立ち返るのだ」
井尻は自分の言葉に酔っていた。
「そうなんですか」
「西洋文明一辺倒の知識体系を、東洋医学を考慮したものに変えなければならない。たとえば、『気』だ」
「気、ですか」
テレビで気功師の実演と称するものを見たことがある。
「手を触れずに相手を吹き飛ばす」という触れ込みで、実演をした。気功師が離れて向き合っている女性タレントに向けて気合いを入れると、彼女はよろけて倒れた。『気』を受けた」と語っていた。
しかし、いかにもやらせ臭そうに見えた。
「最新の量子力学が唱えるところによれば、実験結果において、『観測者』がもたらす効果は無視することが出来ない。いや、積極的に関わっているとも言われる。人間の意識が大いなる宇宙意識と共鳴して、物質中心の価額を超えるのだよ。それは、ケニー創業の精神とも合致する」
手空きの同僚が、お茶を持ってきた。井尻はぐいと一気に飲み干す。
あっけにとられるばかりだった。

解放されたイタルに、城島が話しかける。
「お疲れさん。これは新入りの『儀式』みたいなもんだ。おれも去年来たとき、半日は独演会を聞かされたよ」
城島は話を変えた。
「この研究所がどうして作られたか、きみは知っているか」
「わかりません」
「『御大』の肝煎りさ」
「御大」と聞いて、ピンときた。
ケニー社内でそう呼ばれている人物は、ひとりしかいない。
平尾健一郎。
創業者であり現在の肩書きは名誉会長。名目上は一線を退いているのだが、その影響力は絶大である。
焼け跡の中ビルの一室で会社を立ち上げ、トランジスタラジオをはじめ数々の画期的な新製品の開発に携わり、ケニーを一代で世界的に知られる大企業にした。
企業を超えて、戦後史伝説上の人物とすら言われている。
エレクトロニクスのみならず、幼児教育にも興味を持っていて、彼が書いた教育論の本はベストセラーになっている。
彼の興味は、このようないかがわしい領域にも及んでいたのか……。
「平尾さんは、御大の親戚筋に当たるんだ」
社内のネットワークから外されてしまった自分がいかに無能だったかを思い知らされるばかりだった。
初日はほとんど挨拶だけで終わったが、ぐったり疲れてしまった。

次の日から、本格的に仕事が始まった。データの入力や整理、コピー取りが主だった。新入社員にでも出来る仕事だ。研究内容は、どうしてこんなことをしているのかまったく分からないものばかりなのだ。
異動前と相も変わらぬ、下働きの日々だが、何も考えないようにしていた。研究者たちは、自分のことなど歯牙にもかけていないようなのだ。
そんな日、来訪者があった。
「わたしは、松田と言います」
松田? あの記事を書いたルポライターだろうか。
「井尻さんにお話を伺いたいのですが」
玄関横の応接スペースで話を始めたが、こちらにも聞こえてしまう。
松田は話を振った。
「先端的な製品を世に送り出している世界的な大企業が、オカルト研究をしていると言うことに現代社会のある興味深いコントラストがあると考えます。正直なところを伺いたいのですが」
井尻はキッと松田をにらんだ。
「松田さん、あなたはあの世を信じますか? 見えない世界を信じますか?」
「あの世? 死後の世界のことですか」
「そうです」
「信じていませんね。死ねば何もなくなる。臨死体験だって所詮は生者の体験です」
井尻は軽蔑したような目つきになる。
「……ならば、あなたにお話しすることは何もありません。お引き取り下さい」
「それは、ないでしょう」
松田は食い下がる。
「上場企業なら、株主への責任も生ずるはずですよ。こんな、なんの役にも立たない噴飯ものの研究に多額の金が費やされているなんて、特別背任ものじゃないですか!」
松田はそう言い残して席を立った。
「やれやれ、チンピラライターの分際で」
席に戻った井尻は、吐き捨てるように言った。
「……全く、唯物論者はどうしようもないな。社会主義国が崩壊したのにいまだに化石のようなイデオロギーにしがみついている。来る21世紀は、物から心の時代となるのはあきらかなのに、それを認められないと見える。そうだろ、イタル君?」
「そ、そうですね」

それからしばらくして。
五反田駅近くの本屋で、雑誌のコーナーを歩いていたら、ある雑誌の見出しに目が吸い寄せられた。
「あの世界的企業が手を染める『オカルト研究』」
怪しげなスキャンダル記事をもっぱら載せている雑誌だ。
手に取って、めくってみた。記事は、こんな書き出しだった。

1995年。カルト団体によるテロ事件が世間を騒がせる中。あのケニー本社「エスパー研究所」が密かに設立されていた。あの世界的大企業はオカルト、超能力研究に手を染めていたという

記事にされていたのは、オカルト的な経営コンサルタントに入れ込む経営者や、「永久機関を作った」と触れ込む町の発明家など。その中でエスパー研究所についても触れられ、取材拒否にあったいきさつも書かれていた。締めの文句は、こうだ。

「世界的な大企業の薄ら寒い実状を見てきた。バブル崩壊を経て自信喪失したこの社会が、オカルトを求めているのか。科学する心と批判精神を失ったこの社会には、恐るべき未来が待っているのではないだろうか」
内部の人間からするとおかしなところはいくつかあり、結論はやや邪推めいていると感じなくもなかったが、概ねのところでは、事実を書いているようだった。
記事の書き手は「ルポライター、松田敬一」とある。
あのときの記者だったか。
帰宅してからインターネットで調べると、松田がホームページを開いていたのを見つけた。
公開されていたEメールアドレスに、メールを出した。
「じつはぼくは……」
身分を明かすと、即座に返事があり、数回のやりとりを経て、会おう、という話がまとまった。
土曜の夜、
新宿ゴールデン街。指定された飲み屋の暖簾をくぐる。
「松田さん、いらっしゃいますか」
「高宮さんですか。はじめまして」
このとき初めて顔を合わせた松田は、壮年のルポライターで、いかにもやり手といった雰囲気を漂わせていた。
社内の事情などについて、問われるままに知っていることを答えた。
「……正直、不安なんですよ」
松田に打ち明ける。
「会社なのに、こんなことをしていいのか、と」
「あなたの思っていることはごもっともです」
「しかし、オカルトにはまっているのはケニーだけではない」
松田は梅割を口にする。
「ここ何年か、この国の企業やそのトップがオカルトにはまっていく事例が多々見られるんですよ。そして世界的なエクセレントカンパニーであるケニーも、その例に漏れなかった」
あの記事に書いてあったことと同じだ。紙面の都合で、さらりと触れただけだったが
「科学技術庁内部でも、オカルト研究が盛んになっているんだ。大学や大手企業と連携して、かなり大々的にね。『変人技官が個人でやってること』として大マスコミはスルーしてるようだが、国民の税金が使われているんだよ。こんな馬鹿馬鹿しいことにね」
自分が「見た」物を言うべきか、迷った。しかし、言わないことにした。
「今日はありがとう。またなにか面白い話があったら、聞かせてください」
その日は、別れた。

研究所に奇妙な機械が搬入されてきた。
井尻は得意そうに、研究所のみなに説明した。
「科学技術庁がらみの研究の成果だ」
松田が言っていたことと符合する。
しかし、この珍妙さは何だ。
ヘルメットにゴーグルを組み合わせたようなデバイス。
「ヘッドマウントディスプレイだよ。液晶ディスプレイが内部にあって、視界いっぱいに映像が広がる。最近わが社で発売したものだ」
耳当てはヘッドホンになっているようで、コードが伸びてパソコンに接続されていた。ブラウン管のモニターには幾何学的な図形が表示されている。
洗脳か、拷問器具か、それとも処刑器具か。どうしても不謹慎な連想になる。
「なんですか、これは」
「コズミックハーモナイザーの試作機だよ」
初めて聞くものだ。
「何をする機械ですか?」
「宇宙と同一化する体験を味わう機械さ」
「……?」
「この光と音のパターンは、脳の眠れる領域を活性化させる」
パソコンを指さして、言った。CRTに映っているのは、デスクトップ画面だ。
「知っているか。このパソコンにインストールされているオペレーティングシステムは、最新式のように見えて、旧来の16ビットを引きずっている。昔のシステムの周りに新しいシステムを構築したのだ。同じように、われわれの脳の中にも太古の昔に封印された古い回路は眠っている。光と音の刺激で、それが呼び覚まされるのだ」
その場にいた弘田は軽口を叩いた。
「なんか、アレみたいっすね」
「言ってくれるなよ」
井尻はちょっと不愉快そうに答えた。
アレと言って、察しがついたようだった。
数年前、宗教団体がテロ事件を起こして世間を騒がせた。
事件と並行して、信者たちが行っていた「宗教的」と称する奇異な風習がマスコミの好餌となったが、その信者が「教祖と脳波をシンクロさせる」として頭にかぶっていたヘッドギアにそっくりなのだ。
その有様は未だに強烈なイメージを持っていた。
そして井尻は、イタルに向かって、言った。
「試してみないか?」
「ぼくが、ですか?」
どうも、これは業務命令のようだ。
「面白そうじゃん!」
いつの間にやらやってきた弘田が、はやし立てる。
イタルは観念して、ヘッドセットをかける。
「始めるぞ」
キーボードを叩く音がヘッドホンの向こうから聞こえる。井尻がコマンドを入力したようだ。
「……!」
視界にフラッシュが飛び散る。赤、青、紫。単色はやがてすべてを混ぜた白色光に変わった。網膜に残像が焼き付く。残像とフラッシュはやがて区別がつかなくなる。
異音は規則的になる。ただのノイズのように響いていたが、しだいに音の輪郭がぼやけていく。
ふうっというやわらかい音。木管楽器のような、牛乳瓶に真上から息を吹き込んだような、かすかな空気のうなりが鼓膜を震わせた。
気がつくと――
視界になにか映っている。
赤い大地が見える。
「なんだ」
砂塵が舞っている。
「……火星?」
その赤い球体は、縦横に線が走っている。かつて「運河」と呼ばれたものに似ている――。
見ていると、「火星」の赤い大地は、次第に緑色になっていった、植物が生えているのか。赤い砂漠は、緑の森になっていった。
次の瞬間、我に返った。装置がオフされたようだ。
「どうだった?」
イタルは自分が「見た」ものを話した。聴いているうちに、井尻の顔に赤みが差していった。
「きみ!」
井尻が肩をつかんだ。
興奮している。
「すごい!」
同時に、外部出力のディスプレイになにかが映っていたようだ。
なにとも判明しがたい、ぼやけた像だ。
「何が映っていたのですか?」
「……これは、ひとの顔ですね」
「いや、鳥でしょう」
「花のようにも見えるな」
皆はてんでんばらばらに口にする。まるで、ロールシャッハテストのようだ。
しかし、共通していたのは――
この映像を見た皆が、一様にすごい「幸福感」を覚えていたことらしいのだ。肉体的な下世話なものではない、まるで、魂だけ「天国」へ持って行かれた、ような――。
井尻は話を戻した。
「君は、すごい可能性を持っている」
イタルは戸惑うばかりだ。
「おそらくきみは、高次元と共振しているのだ。インド哲学のマハーサマディ、仏教が説くところの阿頼耶識。高次元知性のあらわれなのだ。これは、特別な資質があるに違いない」
「……!」
「気功で言うなら、レベル7の境地に達している」
「レベル7とはどういうものですか?」
「それは、まるで天国のような美しいところ。生きとし生けるものへの感謝の念が満ち、すべてのものがキラキラと輝いて、妙なる音楽を奏でている。
そよ風に揺れる木の葉も、光の粒も、あらゆるものが美しく調和し、まるで、宇宙そのものに同一化してしまったような
宇宙の果てまで見渡せる視力、時間の彼方のさざ波まで感じられる能力。人間を超えた能力を発揮できるのだ、という
「きみはその能力を持っている。これをご覧。NASAが発表した画像だよ
パソコンを操作して、CRTの画面に、数年前に火星に着陸した探査機が映した映像を表示させた。
赤い砂漠。
「きみが映し出したもの、そっくりじゃないか」
「そうですか」
映っていたのは、どうとでも取れるもやもやした画像のようだったが……。
「わたしの眼力は正しかったようだ。既存の社会に適応できないもの。はみ出しものにこそ大いなる可能性は宿っている。きみはそうだったようだな」

その日から、下働きだったイタルの扱いが一変した。
コズミックハーモナイザーで様々な刺激を受け続けた。実験のあとには、脳波を取られ、クレペリン検査を毎日行った。
1時間もすると、頭がふらふらした。
「ご苦労さん」
イタルを実験台にして、装置は改良されていった。
ディスプレイに映る「火星」の像はどんどん鮮明になり、探査機が映した火星の映像の類似も増していった。
彼の周囲にも、奇妙な現象が次々に起こるようになった。
今日も一日、実験に付き合わされた。退社は夜になった。
池上線を降りる。街明かりの少ない一角に出ると、空に、光るものが浮かんでいる。
こちらに近づいてくる。
金属がこすれるような音が聞こえてくる。
「UFO……」
未確認飛行物体。
頭上をすうっと通り過ぎていった。その姿は、昔、怪しげなテレビの特番やその手の本で見た、アダムスキー型と言われるものそっくりだった。
通りすがりの男性に声をかけた。
「今何か、飛んでいませんでしたか?
「え? なにも見ませんでしたよ」
彼は笑って否定した。
しかし、飛行物体が発していた金属音は、耳の奥に響き続けていた。

黎明期のネットはコンピュータマニアの巣窟で、かれらにはSFやオカルトにも興味のあるものが多かった。だから、エスパー研究所ネタはかれらの好餌だった。
オカルトやSFに詳しいネットワーカーの友人に、UFOを目撃した話を振ってみると、即座にこんなレスポンスが返ってきた。
「アダムスキーの円盤写真は、掃除機かなにかの部品を組み合わせて作った模型を投げて飛ばした、インチキ写真だったことが明らかになっている。『会見記』も、もとはSFとして出版社に持ち込まれたものだったそうだよ」
「でも、見たんだ……」
「ずいぶんと、影響されてきたな」
友人に軽口を叩かれ、愕然とした。
「アダムスキーは、火星や金星、月にも地球のような大気があって、人間が住んでいると説いていたんだ。彼の言ってることはガガーリンが飛び、アポロが月に着陸する前の話さ。これだけで、嘘だってことがわかるだろう」

昼休み。
イタルは何の気なしにスプーンをいじっていた。コーヒーを淹れる備品で、「スプーン曲げ」につかうものではない。
くにゃり。
さほど力を入れなかったが、首のところが直角に曲がってしまった。
「……そんな」
そのとき。側にいた弘田がちょっとびっくりした表情をした。
「普通のスプーンだよな。おれ、何もしてないぞ」
無意識にスプーンの首のところをさすっていた。
今までの彼の「スプーン曲げ」はトリックだったと、問わず語りに白状したようなものだった。
こんなことばかりが続いて、イタルの神経は散々翻弄された。
布団の中でも昼間のことを思い出し、悶々とする。飛び起き、叫んだ。
「おれは、サラリーマンなんだよ! サラリーマンでしかないんだ! 新しい科学だって? 神さまだって? 死後の世界だって? 馬鹿馬鹿しい。そんなの、どうでもいいんだ!」

突然、研究所内で片付けが始まった。
「どうなってるのですか?」
「視察だよ」
雑然とした所内が見違えた状態になって、昼過ぎ、来客はやってきた。
「御大!」
平尾名誉会長直々の訪問だ。
80を過ぎ、移動は車椅子の助けを借りていた。しかし、その眼光は鋭い。
「開発中の新製品を見に来た」
井尻は装置の概要と、実験の進捗状況をレクチャーする。
「すばらしい」
平尾は感に堪えないようにいった。そして話を続ける。
「コズミックハーモナイザーによって意識変革を体験した人間がどんどん増えていき、ある閾値を超えれば、世界が変わる。『百匹目の猿』だよ」
九州の島に住むニホンザルの群れの中に、ある猿が、芋を海水で洗うことを始めた。泥や汚れが落ち、塩味がついた芋はイタル段にうまいだろう。その習慣は群れの中に拡がり、芋を洗う猿は一匹、また一匹と増えていった。その数がある閾値、例えば100匹に達したとき、群れ全体で芋洗いをするようになり、そして、接触のない遠隔地にいる群れも芋洗いをするようになったという。もっとも、ライアル・ワトソンの創作した話だとされているのだが。
「同じ現象が、きっと人間界にも起きるのだ」
じっとイタルの目を見た
「頑張ってくれたまえ。ケニーの、いや、人類の未来は、きみにかかっているのだ」
イタルは衝撃を受けたように動けなかった。

「御大」の訪問と激励で、研究所はネジが巻かれた状態になった。
「コズミックハーモナイザーというのは、どうも長たらしくて面白くないな。製品にするなら、もっといい名前が欲しい」
井尻はしばし考えて、口を開いた。
「そうだ、オデオンだ
「オデオン……劇場ですか?
井尻は我が意を得たり、とばかりにうなずいた。
「そうだ。デカルト劇場という言葉を知っているか。
「デカルトって、あの哲学者のデカルトですか。我思う故に我あり、の……」
井尻をはじめとするこの研究所のひとびとの会話の中には、しばしばデカルトの名前が出てきた。だいたいは否定的な文脈である。
「デカルトの説く心身二元論に従うならば、我々が認識する世界の全ては、劇場で上演される劇。あるいは上映される映画。われわれの脳内には小人がいて、観客としてそれを眺めているだけだと、ね。
世界の、人間の不幸は、そんな認識から始まったのだよ。
そう、『我思う故に我あり』という呪文によって、人間の『意識』は世界から分離してしまった。傍観するだけのデカルト劇場から、人間、自然、宇宙が渾然一体となったハーモニーの劇場に変わるのさ。これほどふさわしい名前があるか」

プロジェクトが進むにつれ、「オデオン」の装置はますます複雑になり、外見は洗練された。
はじめは無骨な計測器の組み合わせだったものが、スマートな筐体に収めら、商品としての体裁を整えつつあった。
部外秘のはずだったのだが、「オデオン」の噂は、どこからともなく浸みだしていたようだった。
「面白そうな機械を開発しているそうじゃない」
社員食堂で偶然会った、前の部署の同僚は、イタルを見るなり話しかけた。
「研究所のエースなんだって」
その口調には、いぜんとは打って変わった羨望が込められているようだった。
イタルが配属されたとき5人しかいなかった所員は、ほかの部署から引き抜いたり、派遣社員を入れたりして、総勢20人にもなった。
かれらはみな、「オデオン」の開発に携わった。
それでもマンパワーが足らないのだ。最大の問題は、イタルだろう。かれはひとりしかいないのだ。もう1週間も職場にカンヅメになっていた。
極秘を条件に社内から被験者を募って、実験をした。イタルが接続されている状態で、おなじヘルメットをかぶる。イタルが体験した
みんな、感動していた。全てと一体化する、至高の体験を味わったのだ。

帰宅した日。契約したばかりの携帯電話で、松田に連絡を取った。
イタルは彼にすべてを話した。
奇妙な機械「オデオン」のこと。実験台にされていること。最近身の回りで、奇妙な体験が相次いでいること……。
「そりゃ、電子ドラッグの一種かもしれんな。刺激を与えて脳内麻薬を出させる仕組みだよ。きみが体験したのは、幻覚だろう。ケニーはそんなものを、世に出そうとしているのか。おもちゃなら罪はないが……あるいは」
「あるいは」
松田は言葉を切った?
「洗脳だよ」
「まさか」
「脳みそを弄くるんだから、どうなってもおかしくない。あのカルト教団をごらん。信者たちは教祖がどんなに馬鹿馬鹿しいことを言っても、言いなりになっていた。思考能力を麻痺させて、思い通りに動かせる人間の育成を図っているんだ」
「さすがにそこまでは……」
イタルの疑問を松田は遮った。
「そこまで勘ぐらなくちゃいけない、とわたしのような人間は思うんだ」
イタルは何も反論できなかった。

井尻はある決断をした。
「そろそろ、発表してもいいんじゃないか。変に勘ぐられても会社のイメージを落とすことになりかねない」
秘密主義だったこれまでの方針を転換した。マスコミを招いて、大々的に発表を行うことになった。
マスコミ各社にプレスリリースが送付される。
「全く新しい時代を拓く新発明! 精神の時代へのパラダイムシフトをもたらす21世紀に相応しい新製品の誕生です」

発表会当日。
発表場所に選ばれた大会議室は、満員だった。
大手記者からフリーに至るまでの新聞や雑誌の記者、それにカメラマンで立錐の余地もない。
あちこちからフラッシュが光る。
井尻が挨拶に立つ。
「みなさま、よくぞいらっしゃいました。これから当研究所が開発しました『オデオン』について発表させていただきます。これから発表する新技術は、今までにないものです。「今や近代社会は袋小路に入り込んでおります。物質主義、拝金主義に毒された世界のパラダイムを精神世界に180°シフトさせる。まさに20世紀最後の実験なのです」
演説が続いているが、イタルは会場を見やった。
報道陣に松田の姿はない。当然ではあるのだが。
未経験の状況。ひとの熱気に当てられてしまいそうだ。
「どうした、上がってるのか」
城島が、見当違いの忖度をした。

「模範上映の後、皆様にも是非、お試しいただきたいと思います」
説明が進んだ頃、車椅子に乗った老人が、現れた。
スタッフや報道陣からどよめきが走った。
「名誉会長!」
「御大……」
平尾健一郎だった。
「わたしが、まず試してみたい」
井尻が引き留める。
「……お待ちください、まだ安全性について保証は出来ません」
平尾はそれを無視した。
車椅子を押していた助手に助けられて、腰掛ける。ヘッドホンをつけ、ヘッドマウントディスプレイをかぶった。
「出来るな」
「……了解しました」
「御大」の視線を受けて、それ以外の返事が出来るはずがない。
そして眼で合図する。
装置をセットする。スイッチオン。
「わたしは、火星にゆく。火星人に会うのだ」
イタルはきっぱりと言った。
「火星は……死の星です。生き物はいません」
「ゆけるはずだ。テレポートして、火星のものを取ってくる」
手を差し伸べる。
「手を取ってくれ。わたしを、導いてくれ」
ゆっくり老人の手を握った。
そのとき、宙に舞い上がるような感覚が、背骨を伝って突き上げてくる
(これが……「気?」)
視界が暗くなった。
宇宙……?
「火星だ」
会場に設置された大型ディスプレイ。
「オデオン」から送られる映像だ。
「緑の大地が見える」
「御大が見ている、火星の風景です」
井尻は言った。
「ばかな、火星は赤い砂漠のはずだ」
「彼が見ているのは、どこの風景だろう」
アダムスキーの言った「火星人のいる」火星のことか。「精神世界の火星」なのか。
イタルは心の中で叫んだ。
(やめてくれ)
彼にはそれが「あの世」のように思えたのだ。
連れて行かれるわけにはいかない――。
「ダメです。御大、帰りましょう」
「何故だ?」
「このままでは世界が変わってしまう。変えるわけにはいかないんですよ!」
まるで糸の切れた風船のようだ。どこへ飛んで行ってしまうか分からない。
ならば、今ここで今の暮らしを続けようではないか。
だが。手を放した。
強い流れが身体を包んだ。押し流されるように、御大の姿が遠ざかっていく――。そして暗黒に浮かぶ球体、火星へと姿を消した。さっきまで緑色だった火星が、赤く姿を変えていく。

そのとき、会場が不意に真っ暗になった。
「停電?」
演出のようにも思えた。
「大丈夫なのか?」
「……なんだ?」
彼の身体は異様な光に包まれる。青白いような、赤いような光が舞った後、彼の姿は一瞬消えたように見えた。
次の瞬間。平尾はそこにいた。
先ほどと変わらない姿勢で、椅子に腰を下ろしていたのだ。
しかし、次の瞬間、がくりと首をうなだれた。
身体が椅子からずり落ちる。顔面は蒼白だ。しかしその右手には、赤い小石がしっかりと握られていた。
「名誉会長!」
「大丈夫ですか!?」
「救急車を!」
社員は口々に叫び、報道陣は急報を社に届けようと飛び出していく。
まもなく、彼はストレッチャーに乗せられて搬送されていった。
会場に残されたのは、イタルと井尻ら数人だけだった。
井尻は声をかけた。
「きみは、大丈夫なのか」
「……はい」
イタルは呆けたように答えた。
「……当面、実験は中止しよう。なにがあったのか。基礎研究からやり直さなければいけないかもしれない」
井尻はうめくように言った。

創業者、平尾健一郎の不例は一般ニュースでも報じられた。
そして数日後、昼休みに社内放送が流れた。
「本社創業者、平尾健一郎名誉会長が本日11時、逝去されました。謹んで、哀悼の意を表します」
「御大」の死は、ひとつの代の終わりとして、マスメディアを賑わせた。
しかし、その真相は明かされることはなかった。
いまわの際に握りしめていた石は、分析の結果、花崗岩だと判明した。地球上にもよくある石でしかない。
だれも、何も言わなかった。
名誉会長という後ろ盾をなくした「エスパー研究所」は、正式に解散が決まった。
ぼくは、会社に辞表を出した。慰留もされず、受理された。

2018年。「平成」も終わろうとしている年だ。
わたしがその会社を去って、20年以上が経っている。
松田と会うのは、あのとき以来だった。
突然、連絡が来た。「平成」の締めくくりに当たって、時代を総括する記事を書く企画がある。その中で、「あの件」についても触れたいと思うので話を伺いたいとのことだった。
インタビューに一区切りがついて、雑談に変わった。
「ずいぶん、変わりましたね」
この国の経済の停滞と軌を一にするように、ケニーも斜陽の一途をたどっている。
21世紀に入ると、ケニーは経営危機に陥った。アジア諸国のメーカーに押され、赤字決算が続いた。いくつもの部門を売り渡し、リストラに次ぐリストラで本社も移転した。「ケニー村」も、過去のものだ。
井尻も会社を去ったという。
「思えば、あの件こそ、技術立国の凋落の始まり、だったのかもしれませんよ」
松田は言った。
「オカルト、トンデモに湯水のように会社の金をつぎ込むなんて、まともな経営判断とは思えませんもの。戦後立志伝中の人物も、老いてしまったのでしょうね。そして何も言えなかった周囲のひとびと。こうやってこの国の人々は、どんどん科学的精神を失って、今のていたらくに至ったんですよ」
それからひとしきり、松田は世相批判をぶった。
おざなりに相づちを打ちながら、全く違ったことを考えていた。
あのとき。
自分があの声に応じていたら、どうなったんだろう?
「あっちの世界」を否定しなかったら、声に身を委ねていたら、違った未来があったのではないだろうか。
それとも、カリスマ的な指導者のもと、オカルトで洗脳されてロボットにされる未来が待ち受けていたのだろうか。
あの会社にも、この国にも――。

品川駅前で、松田と別れた。
「では。わたしはこれから用事がありますから」
「こちらも明日は仕事ですよ。土曜も日曜もない……」
高宮格は、五反田駅に引き返す道を歩いていた。
道すがらの看板で、「ケニー通り」と氷期があるのを見た。ケニーはこの街から消えても、通りの通称は、そのまま存在しているようだった。
その途中、
こつん。
頭に、何かが当たった。
足下に落ちたものは、石だった。誰かが投げたのだろうか。
しかし、奇妙に見覚えがある、ような気がした。
そのとき、ポケットに入れていたスマートフォンがバイブレーションした。ニュースが飛び込んできたのだ。
表示させてみる。
「NASAの発表によりますと、火星探査機が、奇妙な物体を発見したとのことです
金属で出来たと思われる円形の物体で、家電メーカー、ケニーのロゴマークのようなものが入っています。人工物であり、しかしこの周囲に着陸した火星探査機は記録によれば存在しないので、現在調査を行っている、とのことです……」
続いて「金属物」の画像が映し出された。
それはあのとき、平尾健一郎名誉会長が胸につけていたバッジと、そっくりだったのだ。
(了)

※省庁は2000年時点の呼称です。
※参考資料:斎藤貴男『カルト資本主義』文春文庫

文字数:16090

内容に関するアピール

本作は第1回課題「五反田をSFにせよ」に提出した梗概を作品化したものです。作品化に当たっては、梗概審査での大森望氏、東浩紀氏、井手聡司氏お三方のご意見を参考にさせていただきました。

これが本講座最後の作品提出になります。長いようで短い10ヶ月でした。大森氏、東氏、ゲスト講師のみなさま、受講者のみなさま、ゲンロンカフェスタッフのみなさま、そして本サイトにアップされたわたしの拙い梗概や作品を読んで下さったすべてのみなさまに、深甚なる感謝の意を捧げます。どうもありがとうございました。

文字数:240

課題提出者一覧