神★ギャル~LUNAとHIROの狂詩曲(ラプソディー)~
――今日さ、学校ブッチしちゃうー。たるいからさー
――そっかー。たまには来なよ
SNSに入れたダイレクトメッセージに、即座にレスが返ってきた。同級生からだ。
学校の最寄り駅を通り過ぎ、終点で降りた。
頴娃田瑠奈は、退屈していた。
勉強は嫌いだ。母ひとり子ひとりで16歳の今まで育てられてきて、放任主義、といえば聞こえはいいが、その実態は「無関心」。学校もきまぐれに休むことがある。
今日も学校をさぼって、繁華街をうろついていた。
駅のトイレで着替えた制服をコインロッカーに預け、街をぶらつく。
5月の空は澄み切っている。ポカポカ陽気のこんな日に学校で面白くもない勉強なんて、ちょーださいじゃん。
「高収入」を謳う夜の仕事求人サイトの宣伝カーが、大音響でCMソングを鳴らして通り過ぎていく。
正直、お金さえあれば、「楽しいこと」はいくらでも買える。小遣いの稼ぎ方は知っている。女子高生である今しか出来ない稼ぎ方があるのだ。
でも、ほんとうに面白いことは店には売っていない。街角にもない。家にもない。もちろん学校にもない。
そぞろ歩きながら、ただ時間を潰していた。ふたり組の男に声をかけられたが、無視した。タイプじゃない、チャラ男だったからだ。
(いい男、いないかなあ。別に男じゃなくても……なにを考えてるんだ)
……そんなとき。
びびびび……
バッグから振動音が発せられる。突っ込んでいたスマホが震えたのだ。
SNSに、新規のメッセージが1件入っていた。
――HIROさんからメッセージが入っています。
知らない名前だ。
開いてみる。読んだところ、よくある自己紹介のようだった。しかし、なにかが引っかかった。
見慣れない相手だったが、フレンドの承認をした。
「あたし、LUNA」
SNSではこの名前を使っている。自分の名前はローマ字では「RUNA」になるが、こっちの方がかっこいいと思ったのだ。なんでも、「月」の意味でもあるというし。
その日のうちに3回、メッセージのやりとりをした。読んでいると、何故か、後頭部がじいんとする感触がした。
次の日からも、「HIRO」からのメッセージは次々にやってきた。
一回当たり割と長い文章で、たわいない日常のことが書き連ねてあった。表向きは。
瑠奈が見ず知らずの相手とメッセージを交わすのは、初めてではなかった。会ったことも一度ならず、ある。
はじめは刺激的だったが、すぐに慣れてしまった。即物的な快楽を満たしても、すぐに飽和する。ちょっと危なかろうが、そんなのは日常のスパイスというものだ。
しかし。
「HIRO」とメッセージを交わしていくと、なにか、高揚するものを感じる。今まで全く感じたことのなかったものだ。
気分がいいが、酒なんかで酔っているのとは違う。目の前がすっきりとクリアになったような気がした。
飛んでいる鳥が目に入る。数を数えてしまう。
――17。素数だ。
「ソスウ」なんて言葉しか知らなかったが、素数が気になるのは何故だろう。
雲の切れ間から差し込んでくる光が美しい。光線の中に埃が舞っている。そのひとつひとつの動きが目に映る。動きはランダムなようだが、ある法則性に従っているようだ。その法則が頭の中に浮かぶ。なにもかもが、分かってしまう――。
ネットの向こうの「HIRO」とよしなしごとの会話をするのが日常になったが、 「HIRO」からのメッセージは、しだいに違ったものになっていった。
――LUNA、1から100までの数をぜんぶ足すといくつになる?
――5050。
即座に答えが浮かんだ。
――これ、わかる?
「HIRO」は続けて幾何学の問題を出した。
瑠奈は間髪を入れず答えを返した。考えるより前に、思い浮かぶのだ。
今日は授業に出た。
代数幾何の授業中、開いた教科書に目を落とす。数式や問題は、もはや彼女にとって意味不明な呪文ではなかった。
(解ける)
頭の中で教科書の問題を片っ端から解いていくと、不意に名前を呼ばれた。
「じゃあ頴娃田、この問題2を解いてみろ」
差したのは当てつけだったろうが、問題を確認すると、すらすらと答えた。
「……正解だ」
教師は絶句していた。
結局、教科書は 授業中にぜんぶ読んでしまった。一部分からないところがあったが、本屋に行って中学数学の参考書を立ち読みしたら、理解できるようになった。
次の日の放課後、学校の図書館に行って、本を次々に読んだ。
知識がすごい勢いで吸収されるのが、ほとんど生理的な快感だった。それ以上に、いろいろなことが「わかって」くるのが何より楽しい。
しかし、小説などの「文芸書」は楽しむことができなかった。言語の「冗長性」に芸術性を見いだし、恣意的な因果の組み合わせである「物語」に娯楽性を見いだすものは理解できなくなった。
学校の図書館や、街の本屋では物足りない。繁華街の大きな本屋で、理工書のコーナーに行った。高くて買えなかったが、立ち読みするだけで、内容が理解できた。
あの日から少しずつだけど確実に、何かが変わっている。
頭の中にかかっていたくもりが晴れて、何もかもクリアに見渡せるようだ。
様々なものごとが「わかってきた」し、「わかる」ことを組み合わせていくと、さらに「わかる」ようになる。
悪い仲間と遊ぶより、知識を詰め込んだ方が楽しい。いくら食べてもお腹いっぱいにならないお菓子のようだ。いや、食べれば食べるほど欲しくなる。それもこれも「HIRO」と話したせい、だろうか。
「HIRO」には、自分の変化も、包み隠さずに報告した。レスでいろいろな専門書を読むように勧められた。図書館の使い方も、ノイズの入らないネット検索の仕方も教わった。学び方はますます、効率的になった。
定期試験。
今までの彼女にとっては、名前を書いて○×や番号を適当に埋めるものだったのだが、もう違う。
数日後、瑠奈は職員室に呼ばれた。
(カンニングを疑われたかな)
この間までの自分を考えれば、そう思われても、仕方が無い。
数学教師が待っていた。
「……驚いたな」
瑠奈の書いた答案を出して、教師は言った。
「満点だよ」
解答ぜんぶに赤で丸がついている。そして最後の問題を指さし、いった。
「それだけじゃない。この『おまけ』の問題だけどな……完璧だよ」
この教師が出すテストには、必ず最後に点数のつかない「おまけ」の問題が載っている。時間が余ったときにでも解いてくれ、という趣旨で、さりげなく載っているが、すごく難解な問題らしい。
「これは、数学オリンピックの問題だよ。東大に何十人も入るような進学校のトップでも、なかなか解けない」
素晴らしいことだったが、この場には賞賛とは違う、微妙な雰囲気が流れている。
「……あたし、カンニングなんかしてませんよ」
「分かってるよ。この答案の書き方はカンニングじゃない。でも、ここの問題」
別の箇所を指さす。式と答えが書いてあった。
「授業で教えた方法と違う解き方をしてる……ものすごい高等な数学を使ってる。入試レベルじゃない」
「そうですか」
「頴娃田、お前、数学だけなら、東大レベルだ」
「……」
「何があったんだ?……いや、この言い方は正確じゃないな。昨日今日勉強を初めて出来るものじゃない。いままでのお前はなんだったんだ? おかしいじゃないか」
教師の眼には、疑惑と怯えが宿っていた。なにをどう説明するのか。説明したとしても、わかってもらえるのか。
「あたしにも、わかんないんです。ごめんなさい」
そういって職員室を去った、帰り道。
「……」
瑠奈は空を見上げた。
このごろ不意に、気配を感じることがある。
関係あるのだろうか。
いつでもどこでも誰かの視線を感じる。空の彼方からなのか、それとも、すぐ隣にいるような――。
瑠奈の変貌を知って、回線の向こうで、鳥肌を立てていた男がいる。「HIRO」を名乗っていた男だ。
「ついに見つけた。本物だ」
「HIRO」は意を決して、メッセージを送信した。
――会いたいです。会っていただけませんか?
送信ボタンを押すとき、胸のときめきを感じた。
瑠奈は「HIRO」からのメッセージを受信したとき、「来るべきものがきた」と感じた。
SNSで会話した見ず知らずの男と、会うことは初めてではなかった。男のしたいことをしてやり、その代償で「小遣い」や服を貰ったこともあった。
しかし、今度は、まったく違う。
自分になにが起こっているのか。それを知りたかった。
指定されたのは、都内にある私鉄の駅だった。行ったことはない。
電車を降りるとトイレで念入りに身だしなみを整え、改札を出ると、正面に男性が立っていた。
このひとだ。
瑠奈は直感した。
歩み寄ると、その男性が声をかけてきた。
「あなた……『LUNA』さんですか」
「そうです」
男は、瑠奈を見て少々面食らったようだ。
腰のあたりしか隠していない短いスカート。脱色した髪はベリーショート、前髪をアップにしておでこを出している。最近床屋に行く暇もない河田より長いくらいだ。
つけまつげにばっちりメイク。左の耳にはピアスの穴が3つもあいているし、ネイルはこてこてに飾り立て、ラメがきらめいている。
この前送りつけられた自撮り写真では、もう少しおとなしめの出で立ちだったが……。
「はじめまして」
「『HIRO』さん?」
「はい。SNSではそう名乗っていました」
目の前の男は、銀縁眼鏡をかけて、肩につくぐらい髪が伸びていた。小太り体型で、着ているジャケットはよれよれで、肩にふけが落ちている。
背丈は自分と同じくらいだが、瑠奈はヒールを履いていたので、男の方が高いだろう。
幻滅したのか。そこはかとなくテンションが下がったようだ。
「せっかく、バッチリ決めてきたのにー」
「……ごめん」
つい、謝ってしまった。
ふたりは駅前から続く商店街の入り口にある喫茶店に入った。
「なんでもご遠慮なく注文してください」
「クリームソーダ」
ウェイトレスが去ったとき、男は名刺を差し出した。
「申し遅れましたが、ぼくの正体です」
「大岡山大学 計算科学研究センター 任期研究員 河田宏典」
「かわだ ひろのり……だから『HIRO』か。大学の先生なの?」
「1年更新の臨時雇いです。ま、フリーターに毛が生えたようなものだと思ってください」
「ふーん」
「本当のことを言いますが、あなたとずっと会話していたのは、人工知能です。僕はその会話をモニタリングしていました。そして、あなたをここにお誘いしたのは僕自身の書き込みですが」
「え」
「あなたになにが起こっているのか、これからお話しします。その上でどうするかは、あなた自身で判断して下さい」
注文した品が届いた。河田はコーヒーをブラックで口に運ぶ。
「本題に入りましょうか。ぼくは人工知能を研究しているんです。専門はデータマイニングですよ」
「?」
「ビッグデータをスパコンでひたすら解析して、人間にはわからない隠された傾向を読み取る研究です。それでわかったのですが、人間の言語には、今まで知られていなかったある『傾向』があるようなんですよ」
瑠奈はクリームソーダにスプーンを差し入れ、口に運ぶ。
「数年前から人工知能の研究が世界的に加速しました。人工知能の可能性を探るプロジェクトが、いくつも立ち上げられました。自動車の自動運転は実用化寸前、将棋や囲碁では、もはや人類最強のプレーヤーでも太刀打ちできないまでのレベルに達しています。
その中に、クイズや大学入試問題を解かせるプロジェクトがあります。文章題を読み取って、求められている回答を出す。しかし文章の読解問題などでは、なかなか高得点を取ることができません
プロジェクトを進めていくうちに、研究の主眼は人間はどうやって『文章を読解』していくかというところへと移っていきました。僕はそのプロジェクトに参加していたのですよ。
「え~! まじ卍!」
河田は頬が引きつった。
ギャル語を生で聞く羽目になるとは……。
気を取り直して、説明を続ける。
「僕はリーディングスキルのテストの結果分析に携わりました。数万人の学生から集めたデータを解析して出た結論は、驚くべきものでした。かなりの割合で、人工知能にはある論理的読解能力がないものがいる。それは大きく報じられましたが、もうひとつの推測は発表せず、伏せていました。
それは、まったく逆の示唆。論理レベルの違う文章を理解できるものが、何十万人にひとりという割合で存在しているらしいことを示唆していたのです。
生まれや育ち、勉強の出来不出来、読書を好むかスマホいじりしかしないか、なんてことには関係がない。人類の中でまったくランダムに、産まれながらにごくわずかな割合で、あらかじめ脳にインストールされている。人間の論理性を超える入り組んだ構文、普通の文章に重畳されている隠された意味がわかる脳の構造を持つものものがいるんだ。きみのように」
「それが……あたしなの? そんなテスト、受けた記憶はないけど」
「まだ、この話には続きがあります」
あらかた飲み干した
「あなた、さっき、どうやってウェイトレスさんに注文しましたか? なにが欲しいかを自分の意思を伝えましたか?」
「『クリームソーダ』って」
「『クリームソーダ』だけで注文がとれるのはなぜ。そのあとに別の文章が続くかもしれませんね。たとえば『クリームソーダはおいしいな』とか」
「『わたしはクリームソーダを注文します』と言わなくても通じるのはどうしてだと思いますか?」
「それは……状況を理解しているから、じゃない」
「そうですね。人工知能がまだ苦手としているところです。人間の思考は言葉の意味だけを捉えているんじゃない。他の状況や『文脈』などを総合的に判断して下しているものなのです。それにはおのおの偏りがあります。その『偏り』を調査したデータマイニングにより、まれにですが、思考方法にある特異な『くせ』のようなものがあることが発見されました。さらにまれに、その『くせ』が甚だしいものがいる。なぜそれが生ずるか。ぼくはある仮説を立てました。脳のハードウェア自体が違う、全く別の論理構造を脳内に秘めた人間が存在する可能性があると」
「へえ、すごーい」
瑠奈はテーブルから身を乗り出した。
ブラウスの大きく開いた襟元から、胸の谷間が覗いた。
河田は目のやり場に迷ったが、話を続けた。
「人間の言葉が使われる場合は、さまざまなシチュエーションがある。ぼくらはそれらを読み取って会話していますが、誤解がつきものです。いや、『誤解』は、人間の言語自身がもつ宿命のようなものです。だが、高次な論理能力を持つなら、一を聞いて十、いや百を知ることが出来る。普段の生活、本を読んだりすることも含めて、それは全く使われることはありません。あなたの脳の中で眠っていたのです。ぼくが送ったテキストを読むことによって、それが呼び覚まされる。名付けるならば、『神の言語』」
「『神の言語』」
「かくいう僕も、理解できないのです。僕の脳にはそれを理解する回路がないのです。でも、そういったものがあると認識することはできます。データ解析では、それを理解できることを示唆する傍証がえられました。さらに……これを見てください」
河田はスマホをかざす。ディスプレイには、石壁とその壁面に彫られた文字が表示された。
「数年前に、ある洞窟で発見されたものです。発見した考古学者は、全く未知の文明による古代文字と推測しました。しかし、この文字で書かれた文章は――文章とするならば、人間には理解できません。人間では理解できない論理構造を持っているのです。だから、解読は出来ない。この文章に込められた本当の意味を知ることは出来ないのです――普通の人間には。かつて『神の言語』を理解する人類が、地球上にいたのかもしれない。あるいは『神』自身がこの文章を彫りつけたか」
ウェイトレスが水を交換に来た。それにも気づかず、河田はしゃべり続けている。
「『神の言語』を示唆する傍証は、ほかにもいくつもありました。そこでぼくたちは、人工知能の支援を得て、平文に『神の言語』を重畳する文章を作成するエディタを開発しました。『神の言語』を理解できる脳の構造を持ったものがこのエディタで作成された文章を読めば、徐々に脳の『神の言語』を解読する部位が賦活される。いままで埃をかぶって動かなかった機械が動き出すように。それで文章を作って、普通の出逢い目的の投稿に見せかけてSNSに投稿してみたのですよ。
思 いっきりいかがわしい文面にして、いかがわしいサイトに投稿したのも、関係ないひとが引っかかったら、ノイズが入ると思ったから。このメッセージがほんとうに理解できるなら拒否感を乗り越えて、反応してくるはずだ、と」
河田の額に汗がにじんでいる。自分の話に興奮しているようだ。興奮が瑠奈にも伝染してきたようだ。後頭部がじいんとする。それは「HIRO」から来た初めてのメールを読んだときのような――。
「それが何の役に立つのかは、ぼくらにもまだ分かっていなかった。しかし頴娃田さん、あなたの状況によれば、その部位を活性化させれば、どうやら数学的にまったく新しい認識を得ることが出来るようだ。
数学は宇宙の理(ことわり)を記したものです。数学は物理学を支配している。そして物理学は現実世界を支配している。あなたの脳に埋め込まれているのは、ほんとうに『神の言語』なのかもしれません」
河田はお替わりのお冷やを一気に飲み干した。
「あなたに本当の目的を隠していたことは謝罪します。そのうえで厚かましいお願いをしますが、ぼくらの研究に協力して欲しい」
瑠奈は微笑んだ。
「いいよ。ひろちゃん」
「……ひろちゃん?」
河田はぽかんとした。
「いままで、そう呼んでたじゃない」
「あたしも、瑠奈って呼んでいいよ。これからはため口で、よろしくっ」
「よ……よろしく」
河田はぎこちなく挨拶をして、その日は、別れた。
それから、瑠奈の被験者としての生活が始まった。
放課後、大学の研究室に行く。河田と会って、いろいろなテストや検査をされた。
「このプローブをかぶってください」
奇妙な端子がたくさんつなげられた布の帽子を渡された。
パーマをかけているようだった。
「ねえねえ、これ、写真を撮ってSNSに上げてもいい?」
「ダメだよ」
河田は苦笑した。
「光トポグラフィー」という装置で、「神の言語」に脳がどう反応しているのかを測定するのだという。
病院にあるような、大きな測定器具に横たわり、頭部を金属で出来たドームに突っ込む。
fMRIで脳の働きを測定しているのだ。
実験動物のようだったが、悪くないと思えた。
今までいた世界の、なんと貧しく荒んでいたことか。金銭的なことではない。即物的な快楽と、それを購うための金がすべて。
このままいけば、自分も母親のように酒と脂粉と男の匂いが満ちた世界に沈んでいっただろう。以前はそれもありかな、と思っていたが、もう御免だった。
河田は今まで瑠奈が全く知らないタイプの男だった。以前は「オタク」なんて鼻で笑っていたのに。その河田にしても、開けっぴろげで天真爛漫な瑠奈は、これまで男子校や理系の大学で育った彼の身近にいたことのない存在だった。
平行して、瑠奈のヒアリングも行われた。生育歴やこれまで体験したこと。好きなことや趣味。今まで蓄えた知識、教養。
知れば知るほど、瑠奈は「知性」と縁遠いものに思えた。学校の勉強も小学校時代から真面目に受けてこなかったようだし、活字の本を殆ど読んだことがない。およそ「知的」なものに関心が見受けられない人生を送ってきたようだ。
それがわずかな期間で、学校の枠を外れるほどの英才になってしまう。河田は人間の脳のポテンシャルに驚愕するばかりだった。
河田の助けを得た瑠奈は、すごい勢いで知識を吸収していった。高等数学を学び、プログラミング言語を覚えた。
瑠奈は時折、河田でも即座に答えられないような質問をしてきた。
「人間はどうやって言葉を覚えるの?」
「親や周りのひとの言葉を聞いて覚えるんじゃないかと思うのが自然だろう。しかし、考えて欲しい。きみの親も周りのひとも、国語の教師ではなかったろう。体系的にことばを教えたりしないし、言い間違えを訂正もしない。それなのに正しく言葉を覚える」
「言われてみれば、不思議なことね」
「つまりだ。人間の脳にはあらかじめ、言葉を覚える仕組みが備わっているんじゃないだろうか」
「ふーん」
「今の言語学で主流となっている考え方だ。人間とそれ以外の生物を分かつものは、『ことば』の有無だ。人間の脳には進化の過程で作られた『ことば』を紡ぎ出すユニットが組み込まれている」
「どうして人類が『ことば』を使うようになったのか、いまだ謎に包まれている。文字のない『ことば』は化石に残らないからね。霊長類でも人間に近いチンパンジーやボノボは、はるかにお粗末なコミュニケーションしか出来ない。初期の人類も、言葉を使っていなかったと推定されている。人間、ホモ・サピエンスになるとき『突然に』出来たという説を唱えるものもいる。その脳の仕組みは、進化によって自然に出来たのか。それとも……」
「それとも?」
「何者かが、植え付けていったのか――」
河田は研究に没頭していったが、気になるのは瑠奈のことだ。
このところは昼間でも構わずメッセージが来る。
「ひ~ろちゃんっ★」
平日の昼下がり、研究室にいきなり現れた瑠奈に、後ろから抱きつかれた。やわらかいものが背中に当たる。
「いきなり、なにするんだ」
「ハグだよ、あいさつあいさつ」
河田はその感触にどぎまぎしながら、それでも大人として振る舞おうとした。
「こんな時間に、学校はどうしたんだ」
「最近、行ってない」
「ダメじゃないか」
瑠奈の表情に翳りが浮かぶ。
「……目を付けられてんだよね、ワルのグループに。最近のあんたはおかしいって。ちょっと前まで一緒に遊んでいたのにさ」
いつもより顔の化粧が濃いが、その下に痣のようなものが見え隠れする。
「先生もなんだか、胡散臭い眼で見てる。授業中あたしを当てることもない」
「居心地悪いんだ」
「うん……」
河田はしばし考えた。そしていった。
「大学でいっしょに研究しないか。君の成績なら大学に飛び級入学できると思うんだ。願書の受付がもうすぐ始まる」
瑠奈はちょっと面食らったが、すぐに指でOKマークを作り、言った。
「ママを説得しなくちゃ。いっしょにうちに来てくれる?」
瑠奈の家は、隅田川の近くにあるマンションだった。
ドアを開けると、壁紙は趣味の悪いピンク色の壁紙が目に入る。三和土には靴箱に入りきらないハイヒールが並んでいる。
秋口だというのに、毛皮のコートが剥き出しのままハンガーに掛けてある。きっと、寒い時期からそのままに違いない。
カラーボックスに飾ってあるのは、博多人形にテディベアのぬいぐるみ。なんだかちぐはぐだ。
瑠奈は時計を見る
「そろそろ、帰ってくるはず」
玄関に女性が現れた。脱色した縦ロール髪を肩まで伸ばし、自宅でもばっちり化粧している。
歳は見た目、自分と同じくらいだ。そういえば、瑠奈は「あたしくらいの歳で産んだ」と言っていた。見かけは20代といっても充分通じそうだ。
「なに、この男? おまえのコレ?」
小指を立てる。
「ちがうよ」
瑠奈は吐き捨てる。
「はじめまして。あたしが瑠奈の母の杏奈です」
河田は頭を下げた。
「……はじめまして。大岡山大学の研究所に勤めています、河田と言います」
「大岡山? 柄じゃないよ。あたしの店は千束よ」
そういってハンドバッグからピンク色の名刺を取り出す。
「吉原 桃色御殿 あけみ」
河田の笑顔がこわばった。
「ここで働いてるの。一度いらしてね、サービスするわよ。親子丼はいかが?」
「そういうのじゃないです」
河田は気色ばむ。
「今日はお願いがあってここに参りました。お子さん……瑠奈さんを、大学に行かせてあげてください」
「ふん」
杏奈はにらみつけるような目つきになった。
「高校を卒業したら? 瑠奈はまだ16じゃない」
「いいえ、来年からです」
「?」
「うちの大学には飛び級制度があります。瑠奈さんの成績は充分に合格水準を超えています」
杏奈は煙草に火を点けた。吐き出した煙が河田の方に漂ってくる。メンソールだ。
「あたしはそんなお金、出す気ないよ」
「奨学金があります」
「はあ?」
あからさまに不審げな声を出した。
「奨学金って、借金でしょ。借金なんかさせないよ」
「いえ、返済義務のない給付型の奨学金というのもありまして……」
「なに、それ!」
いよいよ不機嫌になった。
「うちの瑠奈を乞食になんかさせない! 誰だって恵んでもらう必要なんかないんだよ!」
「瑠奈さんの意思ですので。それに、入学や奨学金の手続きをするには親権者の許可が要ります」
「寝言は寝て言いな」
たばこのパッケージを投げつける。
「そんなにお金が欲しけりゃ、自分の顔でも股ぐらでも使って稼げばいいんだ。稼いでから大学でもどこでも行けばいい。出ていけ!」
「失礼します」
「あっ、待ってよ!」
帰り道。瑠奈はついていった。
「なんて親だ」
河田は怒り心頭に発したが、奇妙に思った。
「放任主義」だというし、じっさい瑠奈が何をしていようが興味がなかったようなのに、この反応はなんなんだ?
河田は腕を組んだ。
「お父さんの連絡先はわからないかな?」
「ダイヤルキューツーって聞いたことある?」
瑠奈の返事に、一瞬戸惑った。
「……名前だけは」
「ママとパパはそれで知り合ったんだって。電話で話して会うまで知ってるのは声だけ。本名も顔も知らなかった。子供――あたしを身ごもってると聞いたら、姿をくらましてそれっきり」
「そうか……他に親戚の方はいないかな? 親御さんのご両親、瑠奈にとってはおじいさんおばあさんだね。どうだろう?」
瑠奈は首を振った。
「……ママがあたしを産んだ時ね、ママの両親はカンドーしたって聞いたの。ああ、子供を産むってすごいことなんだなあって思ってた。でも、大きくなってから知ったけど、親子の縁を切るほうの勘当だったのね。だから、会ったことはないし、どこにいるかも知らない」
「……」
そのとき、河田は般教の法学で知った、ひとつの言葉を思い出した。
「成年擬制って、知ってる?」
「知らない」
「未成年を成人として扱うことが出来る民法の規定だ。親権者の許可を得なくても契約――学校の入学も奨学金も契約だ。それが可能になる」
「どうすればいいの?」
河田は、瑠奈の眼をまっすぐ見つめた。
「結婚するんだ」
「……!」
「結婚すれば君の意思だけで大学に行ける。女性は16歳から結婚できるのは知ってるね。18歳に改定する話が国会で進んでいるが、今なら大丈夫だ」
ここまで話して、大胆すぎると思って、河田は苦笑した。
「……まあ、究極的には、そういう手もあるってことだよ」
「いいよ。その話、乗った」
そう言うと瑠奈は軽く背伸びして、河田と唇を重ねた。
「ふつつか者ですけど、よろしく」
「こちらこそ」
河田はゆっくり瑠奈の背中に腕を回して、抱きしめた。
飛び級入学すれば、高校は退学することになる。しかし、その相談を受けた担任教師と校長は大喜びした。
「それは素晴らしい。我が校始まって以来の名誉だ。ぼくらも協力を惜しまないよ」
かれらの笑顔には、規格外の生徒を厄介払いしたいという本音が見え透いていた。来年になったら生徒集めのために大きく宣伝するだろう。むろん、瑠奈の実状は伏せて。
「明日から登校しなくていいから、家で思う存分受験勉強してくれたまえ。きみなら大丈夫だ。なに、内申書は心配するな」
久しぶりに母親と食卓を囲んだとき、瑠奈はぶっきらぼうに告げた。
「あたし、結婚するから」
「なんだって? 結婚? あのオタク男と? 半人前の癖して生意気言うんじゃない!」
「ママ、未婚じゃない」
「うるさい!」
卓上のものを投げつけた。
「あんたなんかねえ、あのときゴムが外れてなかったら生まれなかったんだからね! それをここまで育てたのに、感謝するどころか、大学だの研究だの、このところおかしなことばかりほざいて、ほんと、どうなっちゃったのよ!」
瑠奈には、今の母親の気持ちがわかってしまう。哀しいほどに。
自分の手元にいて、自分の知っている世界で生きていてくれれば嬉しいが、知らない世界に行ってしまうことを告げられた。
寂しいのだ。しかし、その寂しさにもう付き合うことは出来ない。
(あるがままでいい)
ふと、誰かが言ったような気がした。
(あるがまま。わたしが定めた秩序に逆らわずに従えば、おまえの幸福は保証されるのだ)
そんなちょーダサいこと、誰が言うこと聞くものか。
腹を決めたのは、河田も同じである。
「未成年の結婚には同意書がいるんだけど、こっちで勝手に作っちゃえ。判子さえあれば大丈夫だ」
いったん受領されれば取り消しはできない。民法が定める公益的な取り消し事由は年齢の不足、重婚、近親婚、再婚禁止期間中、この四つだけで、同意書や保証人のでっち上げはないから。何故かというと、そう法律に明記すると、婚姻は両性の合意のみに基いて成立することを定めた憲法24条に触れる可能性があるからだ。
瑠奈は難なく入試にパスした。入学手続きを取った同じ日に河田と入籍した。結婚については、あまり大っぴらにしないことにした。
「おめでとう!」
入学と結婚祝いを兼ねたささやかなパーティーを、河田の部屋で行った。
ビールを一気に飲み干した。
「あたしにもちょうだい」
「ダメだよ、未成年だろ」
「こういうときは、未成年なのね」
夜も更けてきた頃。
「眠くなってきちゃった。ひろちゃんは?」
「……いや」
動こうとしない。
「どうしたの」
河田の様子が変なことに気がついた。
「……ひょっとして」
瑠奈が耳元に口を寄せてささやくと、河田は決まり悪そうに頷いた。
「中学も高校も男子校だったし、大学は理系で女っ気なかったし、研究研究でそれどころじゃなかったから……」
瑠奈はほほえんだ。
「だいじょうぶ。あたしにまかせて」
初めての夜は、滞りなく過ぎた。
新学期が始まり、瑠奈は大学生になった。
瑠奈は被験者であり、学生でもあった。でも、科目登録なんかは適当に済ませて、研究室へ入り浸った。
そして、瑠奈はたちまちキャンパスの有名人になった。なにせ、16歳のギャルスタイルの少女が、理工系のくすんだ男ばかりのキャンパスを闊歩しているのである。目立つこと目立つこと。
「大学生になったんだから、すこしは目立たない格好をしなさい」
「あーい」
河田は瑠奈に注意した。しかし瑠奈は、それを受け流すだけだった。
(新婚なんだぞ……)
しかし、その危惧は半分当たり半分はずれた。
メダカを飼っている水槽に色鮮やかな熱帯魚を一匹入れたとして、目立つことはたしかだが、群れに混ざることはあるだろうか。
結局、瑠奈の居場所は河田のいる計算機科学の研究室なのだ。
「神の言語」プロジェクトに関わっていたのは河田だけではなかったし、瑠奈のような素質を持ったものは、ほかにも発見されていた。瑠奈ほどのものはいなかったが。
自分の素質を自覚しないままに進学したり、就職したりしたものもいたが、
人生が変わってしまった。
研究を進めていくうちに、瑠奈の他にも、脳内で言語を司る部位に「神の言語」を理解できる回路がインストールされているものが存在することが判明した。
「驚いたな、君が言うことも、たまには当たるんだ。いや、彼女のことだがね……」
数学科の教授は言った。プロジェクトに協力してはいたが、河田の言う「神の言語」には懐疑的だったのだ。
瑠奈の数式は、スパコンが何百時間も力押しに計算して、それでも近似値を出すしかない問題を、エレガントに解いてしまう。
「彼女はいますぐにでもフィールズ賞が獲れるよ……世界のほかの数学者が、理解できたらの話になるがな。あまりに独創的すぎて、追試も確認も出来ない有様だ。彼女はまるでラマヌジャンのようだ」
「インドの数学者か」
ラマヌジャンは辺境の最下層家庭に生まれ、ほとんど独学ながら、近代数学屈指の業績を上げた。数学史上最高の天才のひとりだ。彼が発見した定理や数式は、世界の水準を数十年も先行していたが、そのほとんどは、直感的に導き出した――「閃いた」ものだと言われているよ。彼が遺したメモ、思考の断片を解析する作業は、いまだに続いているが、現代の数学でも解が見つかっていないものがあるという。
「あるいは、フェルマーもそうかもしれない。あの最終定理を思いついたとき、『わたしは真に驚くべき証明方法を発見したが、それをこの余白に記すには少なすぎる』と記した。定理自体は前世紀末にワイルズによって証明されたが、それは当時最先端の数論を駆使したものだった。だが彼はもっと直感的にシンプルに解く方法を閃いていたのかもしれない。『余白』には記せないが、せいぜいノートの数ページほどに収まるような」
「かれらは『神の言語』を理解する脳を持っていた、というのか?」
「分からんが、ひとつの仮説にはなるな」
「どうも、『神の言語』を解するものは、人種や性別を問わずランダムに出現し、文化資本や後天的に得た教養とは、まったく関係ないようなんだ」
「瑠奈以外もか」
「ああ。あたかも「神」がきまぐれに植え付けていった、ような……」
かれらの能力は、数学、それも計算機科学に適性を持っているようだ。
河田はかれらを組織し、計算機科学のタスクフォースを編成した。
瑠奈のチームは研究に没頭した。計算機工学のドグマから離れていたかれらの発想は常識を超えていた。
そして、全く新しいプログラミング言語を開発した。それによって書かれたコードは画期的なパフォーマンスを叩き出す。スパコンに走らせることによって、従来の数倍に達するパフォーマンスが可能になる。
しかし、瑠奈のプログラミングが本領を発揮したのは、量子スパコンにおいてだった。「神の言語」で書かれたプログラムが、量子コンピュータのパフォーマンスを最大限に引き出すのである。
「これは……」
アーキテクチャの図解を河田は一瞥して、怪訝な声を出した。
「どういうことなんだ。論理演算が2種類しかないじゃないか。これで動くのか」
通常のコンピュータには、4種類の論理演算がある。「AND演算」、「OR演算」、「XOR演算」、「NOT演算」。どれを欠いても、動くことはないはずなのだが……。
「大丈夫。量子コンピュータなら、動く」
瑠奈は即断した。それは河田には全く理解できないことだった。
「この世界の論理に従っていない、ということか……」
そして完成した量子コンピュータは、従来のコンピュータとは全く違ったものになった。
このコンピュータの本体は「光」である。レーザー光線を特殊な結晶に通し、量子もつれ状態を作り出す。重ね合わせによる超並列計算が行われ、瑠奈の開発したアルゴリズムによって答えを導き出す。あらゆる計算が、驚異的な速度で実行できる、という触れ込みだ。
なんちゃって量子コンピュータとも、特殊な用途にしか使えない量子アニーリングとも根本的に違う。本物の量子コンピュータだ。
しかし。
公開鍵暗号がめちゃくちゃ早く解読できるなんてことは、量子コンピュータができることの可能性のごく一部に過ぎない。
いままで、量子コンピュータは汎用性に欠け、組み合わせ最適化問題など特定の目的にしか使えないと思われてきた――それでも社会に与えるインパクトは大きいのだが。
畢竟それは、プログラミングの問題だった。
低レベルの論理構造しか持たない「人間の言葉」で書かれたプログラムは、多世界を股にかけて計算する量子コンピュータのポテンシャルを引き出すことが出来ない。「神の言語」で書かれたアルゴリズムによって、ほんらいの性能を発揮するのだ。
弾道計算のために作られた世界最初のコンピュータであるENIACと、現在のスマホやパソコンの内部でやっていることはまったく同じ、0と1による計算だ。速さが違うだけなのだ。
さらに、半導体で作られた集積回路はムーアの法則に束縛される。量子スパコンは、ハードウェアからして全く違う。
名ばかりでない理想の量子コンピュータは、それよりも大きな飛躍なのだ。文明の有りようは根本から変わるだろう。
試作機を製作したところ、従来のものをはるかに上回るパフォーマンスが出ることが判明した。
「シンギュラリティも夢ではない」
そうささやかれるようになった。
技術的特異点。計算機が人間の思考を超える……それは、人間の思考能力、想像力を超える状況が現出する。
量子コンピュータは、計算リソースを他の宇宙から持ってきている――ということは。
産業界の動きは、この国には珍しく素早かった。「神のAI」によってこの国はトップに君臨する。
さらに政府の肝煎りで、大規模なプロジェクトが立ち上がった。
「すごいな。こんなに予算がつくとは。今までとは大違いだ。まるで天から降ってくるようだ。
視察に来た国会議員は、こんなことを言っていた。
「かつて『電子立国』と呼ばれていたこの国は、前世紀末以来の長い低迷と停滞を経て、いつの間にか他国の後塵を拝するようになってしまった。このプロジェクトで開発される量子スパコンには無限の用途がある。これまでのスパコンとは比べものにならないほどのパフォーマンスが出るだろう。純粋科学以外にも、様々な状況のシミュレーションが可能になる。生命科学、医療、防災、産業など、一部に量子効果を使っているだけのアナログコンピュータを「量子コンピュータ」だと言い張るインチキもしなくてよくなる。
これだけの量子スパコンが出来れば、間違いなく世界のトップに立つことが出来る。二位ではダメなんだ」
あれよあれよという間に、量子スパコンは国家プロジェクトになった。瑠奈は「天才少女」として国民のアイドルになり、いくらでも金が出る雰囲気である。
大学にも、企業の研究所にも、量子スパコンが建造された。その動きには他国も追随した。しかしパフォーマンスでは及ばなかった。「神の言語」でプログラムを書けるのは、瑠奈だけだからだ。
さらに瑠奈たちは空前の大プロジェクトをぶち上げる。
種子島から、プロジェクト第一弾のロケットが打ち上がった。その様子を見ながら、もはや科学界の最重要人物になった、瑠奈は高らかに宣言する。
「あのロケットには、VNMが搭載されています」
VNM――フォン・ノイマン・マシンとは自ら複製を作り、増殖する機械である。
量子スパコンの進展で、これまで「出来ない」とされてきたものが作られるようになったのだ。
VNMの「種」を月に打ち込み、表面に工場を建造する。そして月の資源を使って太陽電池パネルを生産するのである。
太陽電池パネルは、太陽に最も近い惑星である水星軌道の、ラグランジュポイントへ運ばれる。
地球軌道よりはるかに強力な太陽光を受けて生成された電力は、レーザーで地球軌道に送信され、マイクロ波で地表に送られる。
地球は潤沢なエネルギーを享受することになる。もはや化石燃料を燃やすことも原発事故の影におびえることもなく、安定性を欠く再生可能エネルギーに頼ることもない。エネルギー危機は過去のものになる。無尽蔵のエネルギーと計算リソースで、人類は黄金時代を迎える。
「すごいな」
「でも、本当の目的は」
瑠奈は言う。
「超シンギュラリティ。『神』を超えるコンピュータの制作」
「……!」
河田はなにも言えなかった。
「水星の影になるところに量子スパコンを建造する。地球に送信する電力の一部で量子スパコンをぶん回し、観測できる限りのデータをかき集め、計算する。計算量が「神」を凌駕したとき、人類は『神』に取って代わる」
「無茶すぎる!」
河田は叫んだ。
「……ひろちゃん。あたしにはわかったのよ」
「なにが?」
「この世が、この宇宙がどうしてこうなっているか」
「……」
「この宇宙にある原子は、量子的に計算を絶えず行っている。その演算の結果がこの宇宙の法則になる。つまり「神」。それを逆から見れば、この宇宙は『神』に相応しく作られている。人間原理ではなく、神原理。そして『神』はこの宇宙を作り、知的生命体を操っている。ゲームのようにね」
「しかし、『神』の目的はなんなんだ?」
訝る河田に、瑠奈はいった。
「遊んでるのよ」
「なんだって?」
「押すなよ、絶対に押すなよ! ってお笑い芸人のネタがあるじゃない。アレみたいに、わざとヤバいこと、すれすれのことをやってスリルを楽しんでいる……ちょうどあたしが、以前SNSを使って男と遊んでいたようにね」
瑠奈は唇を噛んだ。
「幸運や不運をきまぐれに与えて、それで人間が狂うのを楽しんでいる。そしてこの世界で恵まれている、頭のいいひと、文化資本のある環境に育ったひとには、世界の真理を与えなかった。だから『神』の存在に気がついても、見当違いの方向で表現せざるを得なかった。宗教やら、文学やら、音楽やら、芸術やら、今まで人間がやってきたことは、みんなみんな、むなしい試みなのよ!」
河田は、不意にこんな話を始めた。
「……昔、こんな神話を、聞いたことがある。たしかエストニアのものだった」
そして語り始めた。
昔々あるとき、雲の上に神々が集い、天上の音楽を奏でました。
それはえも言わぬほどすばらしいもので、金色の光とともに地上にこぼれてくるその調べを、うっとりと聴いていた地上のあらゆる存在たちは、天上の音楽を自ら奏でようとしました。
そよ風は木の葉を揺らし、小川はせせらぎを響かせ、小鳥たちはさえずりを交わすようになりました。
水中の魚は音を聴くことができなかったので、ただ口をぱくぱくさせて、歌うまねをするだけでした。
しかし、人間――そう、人間だけが天上の音楽を正しく聴き、再現することができました。
こうして「音楽」が、地上の世界にもたらされたのでした。
「ぼくらは水中の魚に過ぎない。しかし、瑠奈、きみは神の音楽を正しく奏でる道具をつくることができる、ということなのか」
うなずいた。そしていった。
「あたしたちが惨めな存在だというのもね!」
瑠奈は気づいていたに違いない。
かつての自分がいかに惨めな存在だったか。母親は惨めな考えしか持てないのか。世界がいかに不平等か。
「こんな世界では、あたしは生まれないほうがよかった。でも、生まれでしまった。だからこの世界を変える。あたしたち世界の全ては、あいつにいい加減に作られて、放置されてきた。数式はほんらい完全なのに、その完全性を証明できないのはどうして? ごく微細なスケールでは量子的なゆらぎがあるのはどうして? 生物の進化が行き当たりばったりなのはどうして? そのつけを払っているのはあたしたちなのよ」
「……そんなことを言われても」
そのとき。
スマホやつけっぱなしのテレビ、窓の外にある防災無線のスピーカー。あちらこちらから一斉にアラートが鳴り響き、モニターがミサイル発射を告げる画面に変わった。
公海上から弾道ミサイルが、この国をめがけて発射されたというのだ。おそらく原潜から、核弾頭が搭載されているものと思われる。
どこの国が撃ったかは、定かではない。
独裁的なリーダーが恐慌を来したのか、それとも、綿密で冷徹な計算のもとに下した命令なのか。想定外のアクシデントなのか……あるいは「神」がかれらの深層心理に細工をしていった末の沙汰であったのか。
「ロフテット軌道に乗っていると推測されます!」
アナウンサーが告げる。
ミサイルは迎撃システムでも撃ち落とせない高空で爆発するだろう。攻撃手段は熱線や爆風、放射線ではなく、核爆発に伴って起きる電磁パルスである。
高高度から降り注ぐ電磁波のパルスは、送電線をスパークさせ、電子回路を焼き切る。送電網は崩壊し全ての電子機器は使用不能になる。
高熱の光が焼き尽くし、放射線がひとびとを蝕む惨禍は現出しないかわりに、電力網やエレクトロニクスに依存する「文明」が根こそぎ破壊される。
スパコンどころか、スマホもネットも金融のシステムも使えなくなる。交通はストップし、全ての電気製品は機能を停止する。物流は止まり、現在のハイテクを駆使した農業や漁業は不可能になる。
間もなく、この国は石器時代に戻る、はずだった。
しかし――
「爆発は、確認されませんでした」
ニュースキャスターは戸惑った口調で「不発」を報じた。
弾頭はそのまま落下した。電磁パルスは発生しなかった。
「何故だ?」
はじめ、過早爆発が起きたのではないかと思われた。
ニュートリノビームを照射することによって、核弾頭のプルトニウムが小規模な反応を起こし、弾頭を無力化することができる。この国は密かにそのような兵器を開発していたのか。
しかし、それでは説明の出来ない現象が起きていた。過早爆発なら小規模ではあるが核反応が発生しているのだが、その痕跡はなかった。
陸上に落ちたものを調査してみると、核弾頭内部のプルトニウムやトリチウムが、放射線を出さない物質と化していた。
その余禄なのか、奇妙な現象が起こった。
国内の原子炉はすべて反応を停止した。プールに沈めていた使用済み核燃料などの放射性廃棄物は、崩壊をしない――放射能を持たない無害な物質になった。
原子力を巡る長年の難題に一気に片がついてしまった。核分裂はもはや、用済みだ。
瑠奈は言った。
「量子スパコンによる量子計算により、一般相対論の別解を見つけて一帯の核力を変えることに成功した。ウランやプルトニウムは安定した物質になり、崩壊や核分裂することはない」
「どういうことなんだ」
河田は驚愕するだけだった。
「……人間原理というのを知ってるよね。この宇宙は人間を生み出すためにあるのだ、という
「この世界がこうなっているのは、神さまが観測して宇宙の値を決めているから……逆ね。観測して決めることが出来たから『神さま』になった。その呼び方は正確ではない。ほんとうは人間原理じゃなくて、神原理だったのよ」
量子の有り様は、観測されることによって決定される。観測すなわち計算。
「そうよ、量子スパコンのほんとうの機能は、この宇宙の理(ことわり)を変えることなのよ」
「……」
大学に設置されていた量子スパコンは、ひたすら計算を続けていた。
それから、月面上の工場、水星軌道上の太陽光発電システム、そして量子スパコンの建造は、まったく順調だった。もはや核ミサイルを撃つ国もなければ、国際会議で横やりを入れようとする動きもなかった。
逆に、主要国はこのプロジェクトにこぞって協力を表明してきたのである。文字通り「世界」を根本的に変えるプロジェクトである。なにかの「おこぼれ」に預かれるかもしれない。
しかし瑠奈の視線はその先を向いているのだ
太陽発電プラントからは電力の供給が始まり、量子スパコンは予想以上のパフォーマンスを出しつつあった。
しかし程なくして、太陽に異常が発生した、との報告が上がった。
太陽表面に、地球から肉眼で見えるほどの巨大な黒点が出現したのだ。太陽の活動が異常に活発になっている証である。
ほどなくして、黒点から巨大なフレアが噴き上がった。その先端は水星軌道に達した。地球からも、赤い龍のようなフレアが
揺らいでいるのが見える。
建造途中のプラントはフレアに直撃された。すべては熱と電磁波、放射線で焼き尽くされる。
プラントは再起不能だろう。
「神」を超える試みはついえたのか――。
その報を聞いた瑠奈は、しばらく黙っていた。やがて、肩を小刻みにふるわせはじめた。
ショックなのか……。
「あーははははははははっ!!」
突然、瑠奈がけたたましい勢いで笑い始めた。
天を見上げ、叫んだ。
「こんなだっさい手にまんまと引っかかるなんて、ちょー受けるんだけど! 人間なめんじゃないよ!」
中指を立てる。
「あたしたちのプロジェクトに、わざわざ水星軌道に太陽電池を並べる必要なんて、どこにもなかったのよ! 見てな!」
瑠奈は右腕をまっすぐ伸ばし、空の彼方を指さした。その先にあるのは――満月。
その次の瞬間、信じがたいものを見た。
月の表面から、細く鋭い光が噴き出している。それは次第に激しくなり、白い輝きが地上のもののすべてを飲み込んだ
「まぶしい!」
瑠奈は平然としている。
「月は重力崩壊して、その質量の殆どはシュワルツシルト半径の内側に押しつぶされた――ブラックホールになったのよ」
太陽の何十倍も重い恒星の断末魔にしか起こらないとされている現象が、月に起こるなんて。
宇宙ジェットが両極から噴き上がり、その姿はどんどん大きくなる。接近している――いや、地球が引き寄せられているのだ。
「どうしてそんなことが起こるんだ」
「それは、漏れ出る重力をせき止めたから」
即座に瑠奈が答える。
この宇宙に存在する4つの力、重力、電磁力、強い相互作用、弱い相互作用。その中で、重力だけが桁外れに小さいのは、謎とされてきた。
ブレーンワールド理論が説くところによれば、重力が別の次元に漏れているからなのだ。それを遮ると、重力は現在の値よりも、10の19乗倍にまで大きくなる。
太陽の数百倍もの質量が、とつぜん出現したことになるのだ。これほどの質量の物体は、たちまちにして自重で崩壊し、その質量の殆どはシュワルツシルト半径の内側に押しこめられた。間に合わなかった表層の物質は、粉砕されて周囲を周回する降着円盤になり、一部は宇宙ジェットになって両極から噴出した。
月は太陽系でいちばん重力の強い天体になった。
真っ先に引き寄せられ、吸い込まれるのは――地球だ。
月――ブラックホールがどんどん近づいてくる。大気が吸い込まれ始める。
ブラックホールに引き寄せられた大気が白熱する。大群衆が狭い出口に殺到して身動きがとれなくなるように、重力で押しつけられた原子どうしがぶつかり合い、核融合を起こす。それに伴って莫大なエネルギーが放出される。
「太陽がなくたって!」
さらに、回転するブラックホールの周囲にある「エルゴ領域」では、質量の約30%がエネルギーとして取り出すことが出来るのだ。
「『神』はブラックホールには手出しできないよ。特異点を秘めているから。この世界の理の外にあるものに対しては、神は無力!」
ブラックホールを取り巻く降着円盤は太陽よりも明るく輝く。そのエネルギーを浴びて、月のなれの果てから世界中にばらまかれたVNMによって製作された量子スパコンが、地球上の資源とエネルギーを使ってアセンブルされる。巨大な幹から枝が伸び、そのあちこちが赤や緑に光っている。まるで珊瑚のようだ。
地表は量子スパコンで覆われ、まるで森のようになった。そのどれもが、量子演算を行っているのだ。
空はもう青くない。赤紫の雲がものすごい勢いで流動し、天を覆っている。
分厚い雲を通してもまぶしいほどの光が煌々と輝いている。月のなれの果てであるブラックホールだ。輝いているのは降着円盤。吸い込まれる物質が渦を巻いて、白熱している
地表を強烈なガンマ線が焼き尽くす。海はすさまじい潮汐で煮え立つ。
巨大な地殻変動でスパコンは破壊されるが、そのエネルギーはVNMを駆動させ、新たなスパコンが作り出される。その有様は、まさに自らの尾を咥える蛇――ウロボロスだ。
地殻が割れ、マグマが噴出する。
もはや地球上に有機物は存在しない。降着円盤から発せられるガンマ線に焼かれてガラス状に固結した鉱物が、地上を覆っている。
大地は潮汐力にかき回され、鳴動と変動をやめない。
地上には、量子スパコンの稼働する光だけが明滅している。
目の当たりにする光景は、もはや「人間」や「生命」の入る余地がない。そんな環境で、どうして河田が生きながらえているのか、全く見当もつかないのだ。
気がついたら、瑠奈の姿は消えていた。
(どこにいるんだ……!)
他の人類もどうしているのか分からない。
ひょっとしたら、肉体はとっくに滅びて、意識だけが量子スパコン内部でエミュレートされているのかもしれない。
自分は地球最後の人間だ。
それとも他にも、生き残っている人間がいるのか。
ロシュの限界を超え、地球が壊れ始めた。地球の残骸は降着円盤となってブラックホールを取り巻き、時空の地平線の内側へと消えていく。一部は宇宙ジェットとなって噴き出した。
ブラックホールに吸い込まれない軌道では、VNMによって作られたあまたの量子スパコンが周回している。みな演算を行っているはずだ。
地球を食い尽くすまで演算は終わらないのか。
太陽も惑星も小惑星も彗星も、太陽系のすべての物質が、ブラックホールの重力に支配され、その周りを周回する。
事態は河田の想像力をはるかに超えていた。
情報入力がオーバーフローしたのか、頭がきんきんと痛む。視界がホワイトアウトする。河田は気が遠くなっていった。
気がつくと、自室にいた。布団の中で目覚めたのだ。
瑠奈と暮らしていた部屋だ。家具調度も、冷蔵庫の中身も、机の上で読みかけのまま伏せてあった本もそのままだ。しかし、瑠奈はいない。
起き上がり、窓の外を眺める。降り注ぐ陽光も葉末を揺らす風も、景色も町並みもひとびとも、なにも変わっていないように見えた。
研究室に行った――あったはずの、量子スパコンがない。瑠奈たちのタスクフォースも存在していない。資料も残っていない。
「なんですか、それ?」
同僚は怪訝な表情で、河田を見る。
「瑠奈? 誰ですか? 河田さん、しっかりして下さいよ……?」
話がまるっきり通じない。
さっきまで見ていたものは、なんだったのか……。
(ひろちゃん)
瑠奈の声が聞こえる。音声ではない。
遠い空の向こうから響いてくるようだ。
(……終わったよ)
「なにが?」
(特異点を数学的に解決する方法が見つかった。より高次元で無矛盾の体系を作り出すことによって、現在の『神』は駆逐され、書き換えられた。今からこの宇宙は、あたしたちのものになる)
ぼくたちは、この世界は、どうなったんだ?
(量子スパコンは、その余剰演算能力で、地球上の情報を全て読み込んだ。そしてシミュレーションとして再現している)。
「僕らは、この世界は、シミュレーションとして生きている、ということなのか」
(周回している量子スパコンはまだ大丈夫だから、古い地球と人類はその中で生きればいい。VNMによるメンテナンスで、このブラックホールが蒸発するまで動く。宇宙が終わるまでのエネルギーは十分なはず)
われわれは宇宙が終わるまでの「生」を保証されたのか。
もはや地球は存在しない。それでも人類を「生かして」くれるとは、瑠奈たち新しい「神」はなんと慈悲深きことだろう。かつての「神」なら、迷わず滅ぼしていたところだ――。
(ひろちゃん、ありがとう)
澄み切った青空が広がっている。太陽も雲も風も飛び交う鳥も、全て瑠奈が作ったもの。瑠奈は遍在した。この世界はなんと「愛」にあふれていることか。
特異点を解消したことによって「あちらの世界」への扉が開く。瑠奈は高次元の世界へと旅立つ。河田たちはシミュレーションの世界で生きる。彼にとって瑠奈は認識できない存在になる。
(ひろちゃんに出会えて、あたしは世界を恨まないですんだ。ひろちゃんがあたしに、真実への扉を開ける道程を教えてくれた……これが、ひろちゃんに意思を伝えられる最後の機会になると思う。あたしはひろちゃんを忘れない。ひろちゃんも、あたしを忘れないで……)
瑠奈は「神」になる。しかし、河田はその扉の向こうには行けないのだ。結局「神」とは、われわれのうかがい知れないもの、なのか――。
よい神であって欲しい。
河田は、虚空に向かって叫んだ。ラテン語で「お救い下さい」という意味の言葉を。
「ホサナ!」
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