親方酒と酩酊千年紀の始まり
『協会832号酵母』が桶の底でぼんやり輝いている。
このうすら気味悪い火星産生の酵母どもはものすごい勢いで繁殖する。この星の脆弱な雑菌は桶の中で創生された一過性の火星古代環境に耐えられないからだろう。
気泡沸き立つ液体の中でナイルブルーに蛍光した二つの眼球がふわふわと舞う。蒸気を振り払って覗き込むと桶の底にのっぺりと広がった藍色の麹が見える。まだ微かに四肢の痕跡が残るそれは、さざなみ立つ液面の底から手招きしているように見えた。
ぼこり、とひときわ大きい気泡が液面ではじけて甘酸っぱい匂いが立ち昇る。
どこか親しい人の汗の匂いを想わせた。
山の麓にうずくまるように建立された瓜連酒造。山頂から吹き下る風がきりきりと母屋と蔵を冷やしたのはもうずっと昔の話。
三輪が蔵から出るとぬるい乾いた風が頰を撫でる。1月だというのにシャツ一枚でも気にならない。今までで一番暑い冬だ。
こんなんじゃまともな寒造りなどできないだろう。まだ諦めていない酒造があるとすればだが。
どこかで苦しんでいるかもしれない杜氏の悩みを想像して、三輪は大きくため息をついた。そういった悩みと無縁になってしまった自分のことを考えると、とても寂しい。
ひとりぼっちになってしまった中庭を歩く。
母屋の玄関前に向かうと、そこにはゴミ袋が5、6個、無造作に投げ置かれていた。ビニール皮膜が破けて中のゴミがはみ出ている。
もういい加減、うんざりだ。三輪は手ぬぐいで汗をぬぐった。
近場のゴミ捨て場まで、山から村に続く坂道を下る。枯れかけた森にてきとうに捨ててしまってもいまさら誰に咎められるわけでもないが、それでも三輪は森を汚すような真似はしたくなかった。
刺すような太陽光が一年中降るようになったのはいつ頃だろう。
気づいたら梅雨は消え、代わりに雨季と乾季がやってきた。
瓜連酒造に酒米を卸してくれていた小池さんも今じゃどこでどうしているのか。村に向かう道すがら、小池さんのばりばりにひび割れた棚田を見るたびに三輪の胸は痛む。
食糧飢饉が叫ばれる中、のんきに酒米を育種する余裕などなく、とはいえこの気候に耐える高価な改良食用品種を毎年育てる体力もなく。小池さんは隣県の大農場に働きに出て行った。小作農というわけだ。便りが途絶えてもう二年になる。
村のゴミ捨て場にゴミ袋を放り投げる。どのゴミ袋も完全栄養食の容器ばかり詰まってパンパンだ。辺りは妙に甘ったるい、ヨーグルトのような臭気がただよっている。
「うおい!」
ふいに静寂を破る怒鳴り声に三輪は思わず肩をすくめた。そうでなくても声の大きい手合いが苦手だというのに。
「今日はゴミの日じゃあなかろうが、ええ!」
ゴミ袋の山には目もくれず柴田がでっぷりと肥えた腹を揺らして近づいてくる。昔は恰幅のいい村の旦那だったのに。口元の歪んだ笑みが飢饉でねじくれた男の心持ちを表しているようだった。
愉悦に歪んだ細い目が、この嫌がらせの一部始終を知っていることを物語っている。
「持って帰り!」
首をへこりと下げて三輪は黙って踵を返した。無視だ、無視。
「まだこんなにゴミ出せる余裕があるんかいな…。ええなあ、米も食い放題か?今年も蔵開きできるんか?」
山へ続く道がぐらぐら揺れた。頭に上った血を必死に下げながら振り返った。
「ええ、今年もやるんで、ぜひお越しください」
はん、と柴田はつばを吐いた。
三輪は再び首をへこりと下げて、今度は振り返ることなく坂道を登り始めた。
背後からこのご時世に酒なんか飲めるかとぶつぶつ言う声が聞こえ、歩調を早めた。
ひたいに当たる風はどこまでもぬるい。
蔵の中は灼熱の暑さで、それがむしろ心地よく感じられた。
母屋から汲んできた割り水を桶に注ぐと勢いよく湯気が立った。親方が買い付けた水を全部使い切ってしまう勢いだ。この蔵、最後の酒造りになるだろう。
アルコール濃度を下げるために使う割り水だが、それ以前にアルコール発酵、もはや燃焼に近いレベルで反応し続ける酵母どもが干上がらないための水が大量に必要だった。
薄暗い蔵の中で桶から漏れる青白い光が湯気に反射し、何か尋常じゃないものがその桶に宿っているかのように見える。
親方の魂かもしれませんね。
三輪は沸き立つ水面にもう少し割り水を足しながらそんなことを考えた。
もしくは俺の執念だ。
小池さんがいなくなってからというもの親方は酒米を買うため必死に手を尽くした。人徳というやつだろう。毎年どこかしらから米を買い付けてくる親方を見て三輪はこんな職人になりたいと素直に思ったものだ。良いものを作ってれば良い人が集まってくるもんだと照れ臭そうに呟いた親方は、それでも昔に比べたら疲労の色濃く、それが三輪に一抹の不安を覚えさせた。
お前らはまだまだなんだから、余計な心配しないで一つのことに集中しろや。酒米卸しにしろ水の買い付けにしろ、三輪を含めた蔵人達が手伝いを申し出るたびに親方はそう言って断った。
きっとこのおかしな天気もよくなる時がくる。その時お前らが腕をふるえなきゃどうしようもあんめえ。
遠くで何かが砕けるするどい音がした。
嫌な予感がして三輪は急いで母屋に向かった。
案の定、台所の曇りガラスが割られている。流し台の中に石が落ちていた。
嫌な気分というより、みぞおちが冷え込むような空虚な気持ちになりながらガラスの破片を拾おうとした。
くぐもった笑い声が割れた窓から流れ込む。
けけっ。
子供のそれではなく、大人の、まるで匂い立ちそうなくらい醜い嘲り声。
破片を拾おうとしてかがめた膝がそのまま脱力して、三輪はその場にへたりこんでしまった。
いったいどうしてこうなったのか。
田畑が干上がり、これといった特産もないこの村では米を買うこともできないほどに食糧難になっていた。
その日の飯さえ苦労する人々の目の前を、米俵を積んだ軽トラが坂道を登っていく。
もちろん、その米だって親方はじめ蔵人みんなで寝食削って貯めた金で買ったのだ。三輪たちの食卓に並ぶのは村の人々と同じ行政支給の完全栄養食だった。乳製品を薄めたような味のそれは、食って小一時間だけは妙な満腹感があるが、そのあと決まって猛烈に脇腹が痛くなった。
そんな事情を知らない村の人間の目には、親方は酒造という名にかこつけて米を買い溜めているように映ったのかもしれない。
強烈な飢えは良好だった蔵と村との関係はあっけなく一転させ、塀は落書きだらけになり、ゴミ捨ては拒否され、誰も挨拶を返さなくなった。
親方は常日頃から村との関係を重んじてきた。きっと酒造の誰よりも悲しかったに違いない。
蔵の酒米が翌日よりも減っていたとき、眉を苦しげに寄せて親方は一言だけ呟いた。
よく炊かんと、腹を壊すで。
嫌がらせに耐えきれず蔵人たちが夜逃げし続ける中、それでも親方は歯をくいしばって酒造りを続けた。
なに、あいつらも天気が良くなりゃ帰ってくるさ。止まない雨はないって言うだろ。
口ではそう冗談めかしながらも眉間のしわは解けず、いつにもまして潤んだ親方の目を見るのがつらかった。
人手も足りず、生産量は年々減っていった。
それでも味は落とさない、その矜持が親方を奮い立たせていた。
ついに蔵人が三輪だけになってしまっても親方のその情熱の火だけは今だに煌々と燃えていた。
そのかいあって瓜連酒造といえばこのご時世でも本物の吟醸酒が飲める数少ない蔵だと、そんな評判すら立ち始めた。
SAKEシンポジウムに出品するぞ!
ある日電話を受けた親方が珍しく興奮した様子で三輪に告げた。
SAKEシンポジウム2048
この異常気象で自粛されてから5年ぶりだろうか。
農産資源では最貧国に転落し貿易赤字が青天井になりつつあるこの情勢で、なんとか輸出入のバランスを取りたいわけだ。この話、瓜連酒造にとって悪い話ではなかった。
これでちょっとでも名が売れれば人が戻ってきて、村とも仲直りできるかもしれんよ。
そう言って笑う親方を見て三輪は久しぶりに心穏やかな気持ちになったものである。
じつのところ、親方の熱意も揺らいでいたのかもしれない。繰り返す極端な雨季と乾季があんなに豊かだった山を徐々に枯らすように、いっこうに回復する兆しを見せない異常気象は親方の情熱も少しずつ削っていたに違いない。
そんな中、SAKEシンポジウム出品は親方にとって希望の光になった。
残り少ない貯金を切り崩し、入手できる最も高価な酒米と割り水を卸してきた。
さあ、ここからだ!
その一ヶ月だけは、もう親方と三輪しかいない蔵に明るい予感が満ちていた。
母屋の隣の麹室で米を蒸し、種こうじを蒔いて麹をつくる。
この酒を世に出せればという思いが親方の目を一層鋭くし、三輪もその気概に応えて夢中で作業した。
反応が進んだ麹にとっておきの水と、この蔵秘伝の酵母を加えていよいよ酒母、そして仕込みに入ろうという12月になってそれは起きた。
朝、三輪は蔵の前ですでに異変に気が付いた。扉の錠前が完全に破壊されていた。今までは、それでも申し訳なさを感じるこじ開け方だったのに。
中に入ると先に来ていた親方がぼんやりと桶の中を覗き込んでいる。
その様子にただならぬものを感じて三輪も急いで桶の中を覗こうとした。
見るな!
一声吠えて親方は三輪を突き飛ばした。
しばらくの間。
あの時の親方の表情を三輪は忘れないだろう。
火落ち菌(乳酸菌の一種で日本酒腐造の原因)だ、と小さく呟いた親方は三輪に蔵から出ろと、あとは俺一人で片付けると指示して桶にふたをした。
その晩、はじめて親方は三輪に謝った。
すまんなあ。ここんとこ冬でも暖かいからよ。……油断してたわ。
三輪は何も言えなかった。
翌朝、親方は蔵で首を吊っていた。
視界が縮み、感情が死んでいくのを感じながら三輪は、あれは見間違いではなかったのだと、桶の中に糞便が投げ込まれていたのは見間違いではなかったのだろうと考えた。
村の連中がやったに決まってる。
それからどうやって親方を下ろしたのか、そしてその後数日の三輪の記憶は途切れ途切れになっている。
三輪から明瞭な意識を呼び起こしたのはSAKEシンポジウム実行委員とやらの電話だった。
現実に引き戻されるのを感じながら、三輪は親方は今出られず、そして出品は難しそうだということを伝えた。
「困ります」
電話の主は居丈高にそう告げた。
「い、いえ、困ると言われても……うちではもう……」
思わず首をすくめながら三輪は怒りだす相手に疑問を感じ始めた。
なんだってこの男は受話器からつばが飛んで来そうな勢いで怒鳴っているのか。
このSAKEシンポジウムとやらが蔵の援助をしてくれたことなど一度もない。そう、それは日本の食卓を憂う職人たちの善意の出品であり、伝統食文化に対する無償の奉仕であり、シンポジウムはただその熱意を注ぐ場を提供したにすぎないのだ。そこには偶然、諸外国の政府高官がいるかもしれない。あるいはいまだに権力を堅持した巨大企業のCEOがいるかもしれない。とすると、そういった偶然が重なりこの国の貿易摩擦が和らぐ可能性もある。それだけなのだ。
受話器越しに相手の傲慢ないらつきが伝わる。
「であれば、瓜連酒造は今後このような催しにご協力いただけないと思ってよいですか?」
親方はこんな奴とよく話ができたものだ。
「ですから、今は……手が足りなくて」
「なら工夫してください。これはできるできないの問題ではなく信頼の問題です。納期とはそういうものでしょう?」
出品していただきます、と強引に話を締めくくり電話は切られた。
納期とはそういうものなのか?呆然として三輪は電話を握りしめたまま表に出た。
腹が立つほど快適な小春日和だ。
玄関先に散らかされたゴミ袋を怒りにまかせて蹴りつける。
そのまま、だれもいない庭先で悔し泣きした。村の連中も、シンポジウムの奴らも呪われろ。
その時だった。軒先に誰かいることに気づいたのは。
「すいません、今大丈夫ですか?」
この季節に似つかわしくない、いや似合っているのだが、この気温では不自然な膝丈まであるコートの襟を立て、帽子を目深にかぶった男が立っていた。
村の人間じゃない。
慌てて目をぬぐいながら用件を尋ねると、日本醸造協会の酵母試験場から来たという。
「新しい系統の酵母株をね、作ってみたので国内の酒造を訪ねてるんですよ」
こんなとこまでくるとは日本醸造協会とやらはよほど暇なのか、嫌味の一言でも言ってやりたい気持ちになりつつも三輪は感情を抑えて今はそんな状況でないと断った。
しかし帽子の下であいまいな表情をたたえたその男は、こんな時だからこそ是非使っていただきたいとしつこく食い下がる。
「これはですねえ『協会832号酵母』と私は名付けたわけですが、あなた、リチャード・フーバー博士ってご存知ですか?」
その喋り方になんとなく首筋の毛が逆立った。
「なんなんですか、あんた?」
三輪を無視して男は話し続ける。
「NASAでですね、博士が火星の土壌調査をした時に発見されたんですが、ええ、あなたジャーナル・オブ・コスモロジーをお読みになる?2032年3月号はお読みになりました?」
たいがい気弱な三輪も思わず叫んでしまった。
「読まんですよ!いったいなんですか!?」
感情が読み取れない表情を崩さないまま男はため息をついた。はふう。
「結論から言って、この火星産酵母はタンパク質で並行複発酵を行います」
並行複発酵とはデンプンの糖化とアルコール発酵を同時に行う日本酒造りに不可欠な反応であり、それを担うのが麹菌だ。
「通常はですね、というか地球じゃタンパク質を糖化するための環境とアルコール発酵の環境条件は相入れないんですが、古代の火星じゃあそうじゃなかったみたいなんですね。まあ過酷な条件下でもアルコール発酵できるということです」
古来ビールなどアルコール飲料の一部は保存食として重用されてきた。それにならって試験場で育種して、この食糧難でも人間が摂取できる栄養飲料を作るという試みだという。
「タンパク質って……」
三輪は勢いに押されて言い淀んだ。
「そこはそれ、まだ試用段階ですので……色々試していただきたいし、ご協力いただきたいのです。普段食料と目していないもので試してほしいですね。この状況ですし」
親方に相談しないと、と口を開きかけてもう親方はいないことに気づいた。唐突な喪失感に気が沈む。
「それに、お困りかと思いましてね。SAKEシンポジウム」
三輪は驚きなぜそのことを知っているのか問いただそうとしたが、男からビニール袋を無理やり手渡されて質問の機を逸してしまった。
「それではあ」
ビニール袋を手渡すやいなや、男はものすごいスピードで坂道を下っていってしまった。裾の長いコートのせいか走ってるようにも見えないのに不気味なスピードで移動している。男の姿に三輪はあらためて背筋が寒くなった。
男が『協会832号酵母』と呼んだビニール袋に入ったそれは、形容するなら明るいブルーの粘土といったところだろうか。開けると妙にしょっぱい匂いが鼻をついた。怪しいことこのうえない。
それでもこれを使ってみようと思い立ったのは、蔵の奥で−−結局親方は自分の手で処理できなかったのだろう−−村の連中に投げ込まれた異物と渾然となってカレー色の菌糸が溢れかえった最後の酒母を見たときだった。
庭先で樽ごと酒母の残骸を燃やしながら考えた。
連中が、米を盗みに来るぐらいならきっと親方は許せたんだ……。それをあんな穢しかたしやがって……。
瓜連酒造最後の蔵人として、意趣返ししてやる。あいつらがこの先ずっと後悔し続ける酒を飲ませてやる。
親方をそっと桶の中に入れる。体育座りに足を組ませて、懐にそっと水色の麹を押し付けた。そしてうやうやしく、精一杯おごそかに水をかける。
親方が死んだことを村の連中だけには知られたくない。葬式をあの連中に手伝ってもらうなど到底許せない。奴らが悲しげな素ぶりでうつむく様なんて絶対に見たくない。素朴な村人を気取っておいてやることなすことすべて醜悪だ。
だからこれが親方の葬式だ。これが親方への死に水だ。
そして反応が始まり、酵母は発光し、親方は分解され、二月になった。
必要最低限な家事をするために母屋に戻る以外、三輪は蔵にこもりきりになった。
母屋に置いておいた割り水もすべて蔵に運び込んだ。
いったいこの反応はいつになったら止まるのだろうか?
桶は周囲の空気が歪むほど激しく熱を放射している。蔵に据え付けてあった温度計などの環境測定器類はすべて測定上限を振り切っており液晶画面いっぱいにゼロが羅列されていた。
大昔は発酵が進んで炭酸ガスが吹き上がるようになると、泡番と呼ばれる若い衆が寝ずに蔵で見張りをしたもんだ。
三輪はうつらうつらしながら親方の話を思い出す。
一月の終わり頃には母屋に貯めてあった支給完全栄養食も底をついたが村に下りる気は一切なかった。飯も食べずに日がな1日桶の様子を見る。不思議と体力が尽きることはなかった。
くしゃみで目が覚める。寒い。
桶が発する熱を暖房代わりに布団も被らずに蔵で寝ていた三輪はなかば混乱しつつ身体を起こした。
静かだった。昨日までは聞こえていた液面で気泡が爆ぜる音が止んでいる。
音も、ついでに光も発さなくなった桶を恐る恐る覗くと、透明な水面に自分の若干やつれた顔が映る。完成したのだ。
桶の底の青みがかった澱に親方の面影はもう見当たらない。
親方は完全に分解されていた。
村人たちの無遠慮な視線を感じつつ、うつむきながら郵便局まで歩く。
わざとらしい舌打ちが聞こえる。三輪は一升瓶を抱えた腕に力を込めた。
あとでしこたま呑ませてやるよ。
「おう、三輪さん、あんたちょっと見ない間に痩せたんでねえか?」
郵便局の橋下がぎょっとする。
意に介せず、とはいえ生来のくせで首を下げながら三輪は大事に抱えた一升瓶を差し出した。
「これ、冷蔵で送ってもらえませんか」
いいけど、高くつくよ?知らないかもしれないけどこっちだって大変なんだから。
ぶつぶつ言いつつも一升瓶を梱包する橋下に首をへこりと下げる。
「あと、今週末にうちの蔵を開くのでよかったらみなさん来ていただけないかと」
橋下が勢いよく振り向く。目には飢えの光が宿っていた。
「振舞ってくれんのかい?」
「ええ、これでうちの蔵も閉めますので……皆さんにもお伝えいただけますか?」
そうかいそうかい、残念だったねえと首を振りながら呟く橋本を睨みつけないようにするのに我慢を要した。お前らがそうさせたんだろう、とうつむきながら歯を食いしばった。あと少しだ、あと少し我慢すれば全部終わる。
首をへこへこして郵便局を去った。
村から酒造へ続く一本道をずらずら歩いて来る村人を三輪は暗い眼差しで見守った。
あれだけ嫌がらせしといて、もらえるものがあれば素知らぬ顔でやってくるのだ。面の皮だけは飢饉にあっても厚いままらしい。
「よう、親方は元気しとるか?」
柴田の腹は相変わらず肥えたままだ。きっとあの完全栄養食をばかみたいに飲んだのだろう。
無視したいのをこらえて頭を下げた。
「ええ、造り終わったら体調を崩してしまいまして。今日は出てこれないかと」
そいつぁ心配だ、で、初酒はどこだい?
心配する素ぶりも見せずに柴田が言い放つ。背後の連中も目をぎょろぎょろさせてお目当を探していた。
いつきても立派な屋敷だねえという奥方連中からの声が届き、耳が熱くなる。
今日の蔵開きのために連中が投げ込んだゴミ袋やら石やらはすべて片付けてあった。
「こちらの樽になります。どうぞお楽しみください!」
久しぶりの嗜好品なのだろう、砂糖に群がるアリのように村人たちが樽に群がった。
当然のような顔で飲み干す村の男の顔、男たちからちょっと離れた場所で、それでも隠しきれない悦に入った表情でそれを飲み干す村の女たちの顔。三輪は一人一人を恨みの眼差しで睨めつけた。
宴もたけなわになり、樽の底が見え始めた。
「どうした!辛気臭い顔して!ちょっと変わった味だが俺は好きだぜ!」
郵便局の橋本が話しかけて来た。
「瓜連の味もこれが最後だと思うと寂しいねえ、親方はなんか言ってたかい?最後に一言くらい言ってもいいんじゃないか?」
「親方は昨年亡くなりました。これは俺が造った最初で最後の酒です」
庭が静まり返った。
「そんじゃあ親方はどうしたんじゃ!?わしらも呼ばずに葬式あげたんか?なんちゅう礼儀知らずな」
「葬式はあげてません。親方は今みなさんが呑んでる酒になってもらいました」
柴田は訳がわからんと笑い出した。
「頭おかしくなったんか三輪は?」
少し声が震えていた。
「ほんとですよ。日本醸造協会から『協会832号酵母』っていうのを分けてもらいましてね。その酵母はタンパク質、つまり人間でも酒にできるんです」
それ、聞いたことあるぞ。柴田の背後で群れていた村人の一人が声をあげた。そいつの声は聞き逃せないほど震えていた。
「どうです、みなさん?親方は?なかなかに味わい深いでしょう?」
樽をひっくり返す。ころころと転がりだす二つの白玉。『協会832号酵母』でも分解しきれなかった、だがその反応熱ですっかり茹で上がって白濁した親方の目玉。
橋下が喉からくぐもった声を出しながら嘔吐した。
きらきらと輝く透明なゲロに、一筋の黄緑。胃液だろうか。世界的気候変動。山肌から流れる暖かな風が吐瀉物の気化を促進した。
次々にえづき始める村人たちを眺めて三輪はようやくせいせいした気分になった。
「美味いでしょうが。これが正真正銘、瓜連酒造最後の酒です」
ぼかりと横薙ぎに殴られてすっ転ぶ。そのまま蹴りつけられて頭を抱えた。罵声が頭上から降ってくる。
「二度と村に入ってくんな!」
そう吐き捨てて村人たちはふらふらと帰っていった。庭先にはきらきら光る親方酒の残骸と頭を抱えてうずくまる三輪。
鼻が潰れて臭気も気にならない。立ち上がる気も失せて、三輪はそのまま目を閉じた。
温かい風に包まれて、そのまま眠る。もう何日も食べてない気がしたが、気にならなかった。殴られたせいか、身体が熱を持っているように感じる。
「ねえ、あなた、起きてくださいよ」
どこかで聞いた声だ。
目を開けるといつぞやの日本醸造協会の男が立っている。相変わらず異様に大きなコートを着込んでいた。下から覗き込んだので帽子の下に隠れていた男の黒目がちなドングリまなこが見えた。襟を立てているので口元は隠れている。
「お酒は無事作れたようですねえ」
ごろりと寝返りをうって男から背を向けた。
「あなた、見ましたか?村の人間を?よくまあ飲ませたものですねえ」
もう一度ごろりと寝返りをうつ。
「なんで分かるんです?」
「あなた、テレビをご覧になる?」
「質問してるのは俺なんですが」
はふう。ため息。
「お立ちなさい。村に行きましょう」
坂道を下ると村はずれのゴミ捨て場が見えてくる。
村に入ったところを見つかればどうなるか。動悸は高鳴るものの、隣を歩く奇天烈なコート男の促されるままここまで来てしまった。坂道を下る足取りは妙に軽く感じられる。
もう、失うものもないからな。自分の身体の軽さを今の境遇と重ね合わせ、少ししんみりしつつ村に入る。
と、早速人影が目に入った。
「お……い」
妙に掠れた声をあげ、その人影は三輪に向かって手を振った。
「……柴田……さん?」
そう思ったのは、腹を揺すりながら歩く様が彼そっくりだったからだ。しかし腹にはあの憎たらしい贅肉はなく、べろりと一枚の皮が垂れ下がっていた。
象の皮膚めいたそれを揺らしながらその生き物はよろよろと三輪に向かってくる。腕も足も形から色まで小枝のようになっており、それが一歩進むたびにどこかしらがぱきぱき鳴った。
「あなたは柴田さん?」
コート男が無作法というかなんというか、とにかく聞いた。三輪は凍りついていた。
かわいそうに。その生き物はコート男に驚きおののいて尻餅をついた。その拍子に地面についた左腕がぽきりと折れた。折れた断面からオレンジ色の、粉っぽい何かがぶりんと飛び出た。
ひゅうう、という細い息が生き物から漏れる。悲鳴だろうか。巨大な瞳がぶるぶる震えた。
なんだろう、どこかで見たことがある姿なのだ。
「そうだ、あれだ……宇宙人?」
姿形はものすごく痩せた人間、のようにも見えたが、大きな黒目と灰色がかった肌が−−日本で育ったならどこかしらで目にしたことがあるだろう−−いわゆる宇宙人にそっくりだった。
「柴田さんでは?」
コート男が振り返って聞いた。
三輪はコート男の目もその奇妙な生き物とよく似たかたちをしていることに気づき、一歩あとずさった。そして尻餅をついた。
かしゃりという違和感のある音が体内にひびく。腕をあげて、自分の腕も不気味な灰色棒になっていることに気がついた。
「あなたは上手に共生しているから丈夫だが、それでも気をつけたほうがいいですよ?」
コート男が手を差し出す。その手もぱさぱさにやせこけた灰色だった。
「あんた、なんなんだ?俺はどうなった?」
三輪が問うと、コート男は手を引っ込めてしばし黙ってからおもむろに帽子とコートを脱いだ。
コートの下は一糸まとわぬ灰色のしわしわだった。帽子の下からはぴんと張った灰色の頭がのぞく。
「あなた、ジャーナル・オブ・コスモロジーはお読みになる?2032年3月号はお読みになりました?」
首を振る。
はふう。ため息。
「リチャード・フーバー博士が火星から持ち込んだ酵母は我々の非常食だったわけですね。少し歩きましょうか。あなた、立てますか?」
なんとか自力で立ち上がる。
おそらく柴田だったであろう生き物に目を向けると、それはぶるぶる痙攣しながら三輪とコート男の前でますますしわしわになっていた。
立ち上がろうとしたのだろうか。地面に着いたもう片方の手も折れた。くしゃりと頭から再び倒れこむ。その衝撃でオレンジ色の何かが耳らしき穴から飛び出した。しわしわは身体から頭に上がっていき、そしてつやつやした眼球がぺこりとへしゃげる。
最終的に柴田が灰色とオレンジ色の水たまりになっていくのを三輪は呆然と見守った。
「あなた方の政府が配っている食料、あれはよくないですね。食べ過ぎると過反応を起こすようだ」
村の通りを歩くとそこかしこに灰色にやせほそった元村人がいた。ふらふら徘徊しているもの、軒先でぼんやり突っ立ているもの。たまに道端に落ちている灰色とオレンジ色の水たまりのことは努めて考えないようにした。
「ふむ、彼らは共生に失敗したので、もうじき酵母菌に食べられてしまうでしょう」
なんてことない風にコート男−−いまやコート宇宙人−−がつぶやいた。
「あの酵母はきちんと最後に火入れして」
コート宇宙人がため息をつく。はふう。
「その程度で死滅するほど昔の火星環境はやわじゃなかったということです。もちろんあなた方の胃酸程度でも、です。あなたNASAの火星通信はご覧になる?第4012回通信映像はご覧になった?」
ふらふら歩く元村人の一人がコート宇宙人にぶつかってしまった。くしゃっと音がして腰から下が砕けてしまう。つんとした芳香が鼻に刺さった。
「あの酵母が食べてるってことは……」
蔵で嗅ぎ慣れた匂いに三輪は気づいた。
「そうです。アルコール発酵です。彼らは……もろみになっているんですね」
「考察するに、あなたは酒造過程において徐々に『協会832号酵母』を摂取した。それが功を奏したのです」
ちょっと小高い場所に位置した村役場の広場から村を見下ろす。
ぼんやりと眺めているとときたま灰色の生き物がひょこひょこ通りを歩くのが目に入った。あれは酔っ払っているのだ。文字通り自分自身に。
「それでどうなるんだ?俺は?」
コート宇宙人はまたため息をついた。これまた気づく。こいつ、酩酊してやがるんだ。
「さあ?少なくとも我々はこのやり方で数千年はやり過ごしましたよ。今はご覧のありさまですが。あなたNASAの火星通信はご覧になる?第5111回通信映像はご覧になった?」
この酔っ払いめ。
「このスリムな身体なら週に一度食べればちょうどいいくらいです。餓えると酵母たちが私たちを分解してくれます。首都に行きませんか?」
「どうしてそうなるんだよ」
宇宙人はみなこうなのか。
はふう。と今度ため息をついたのは三輪。酔いがまわってきたに違いなかった。
「SAKEシンポジウムです。私たちだけじゃないってことですよ」
そうか、政府のお偉方も親方酒を飲んだのか。
二人してぷらぷら歩きだす。
「宇宙船とかないの?」
「あなた、道路交通法はお読みになる?酒気帯び運転等の禁止の項はお読みになりました?」
はふう。
「のんびり行きましょう。お腹の減らない身体です」
茶枯れた畑を抜け、県道に出た。
ところどころに灰色の飛沫がこびりついている。轢かれたのだろうか。
三輪は大きく息を吸って、喉の奥の残る微かに甘い芳香を味わった。
いったい自分のどこが醸されているのか知らないが、これはもう『協会832号酵母』なんかではなく、親方が宿した、この先1000年はこの星を巡る親方の酒だ。
SAKEシンポジウムには俺以外にも俺のような職人がいるだろうか。
良いものを作ってれば良い人が集まってくるもんだ、と親方は言った。
もしそうなら、ぜひ酌み交わしてみたいものだ。
長い長い一本道が、乾いた山を割ってどこまでも続いている。
急ぐことはない。三輪とコート宇宙人は並んで歩く。たまにふらつきながら。
はふう。
了
文字数:12147
内容に関するアピール
気候変動により地球は未曾有の食糧難に陥った!
政府から支給される完全栄養食。飢えに狂う村人。
村八分を苦にして自殺する酒蔵の親方。復讐を誓う青年。
謎の男から手渡される最強の酵母。
そして分解される親方。
青年の復讐は成るか?そして人類は新たなるステージへ突入する……!
という感じのお話です。
現在、動物性由来の酒は乳酒しかありませんが、 動物そのものを酒にできたらどうだろう、人間を酒にできたらどうだろうという着想から物語を構成しました。
こういった技術的なアイデアに対してこれまでは現実の事象から一歩足を踏み出す延長線を意識していたのですが、今回はこれを嘘と割り切り、その嘘を補完するための世界を構築しようと意識してみました。
また嘘をつくために作った世界ならば、その嘘の影響がきちんと世界に還元された方が面白いと思い、終盤では田舎村から都市部へ(そして世界へ)親方酒の影響が波及していく予兆を描きました。
文字数:408