“fairAfair” ー 誠実な関係

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“fairAfair” ー 誠実な関係

「結論から言えばフェアなシステムだと思うね。ちゃんとほら、満足できることが大事だろ。お互いにさ。」

そう言うとウィルはとうとう酒瓶から直接飲み始めた。そしてまた口を開こうとしたときレイチェルが遮った。

「ちょっとウィル、飲みすぎ。」

ウィルの下ネタは限度がないから、という意味の目配せをアリシアにするとレイチェルが言った。

「こんな奴だからね。友達に戻るのが正解だったの。もし、あの停滞がずっと続いてたらと思うとぞっとする。フェアアフェア結婚、大賛成よ。」

「友達というが、俺の一番の友達はこいつだ。」

酒瓶を振りながらウィルがくだを巻く。

「アリシア、心配いらないわ。イーサンはウィルとは比較にならないくらい誠実な人なんだから。」

「これはどうも、レイチェル。」

イーサンはおどけた調子で言うとビールを飲みながらアリシアのを盗み見た。

「レイチェル、ウィルをあんまりいじめちゃだめよ。」

アリシアはウィルの飲み方が激しい気がして心配だったが、離婚した男女がその後も友人として付き合い、共通の友人であるアリシアとイーサンともこうして打ち解けて会話できることはありがたいと思った。フェアアフェア結婚のお陰なのかもしれない。

「アリシア、まあ私たちは反面教師よ。結婚式の準備がんばってね。」

そいうとレイチェルはにこやかに笑った。

 

幼い頃からインプラントを行うことは二十年ほど前から普通のことになっていた。こめかみの窪みに埋め込む小さなチップは傷跡も残らず、体への影響もない。チップ自体のハードウェアをバージョンアップするには簡単な手術が必要だったが所要時間はほんの数時間だった。

初期型のインプラントは装着者の視覚と聴覚のログデータを単純に記録するものだった。ログデータは様々なデバイスで再生できた。思い出は最強のコンテンツだ。人生をまるごと記録して思い出を楽しめるインプラントは瞬く間に普及した。

新型のインプラントは、人体の感覚器官に、記録されたライフログを直接フィードバックする機能を備えている。再生中その感覚は外部と遮断されるため、運転中には視覚再生ができない、などの制御が必要だった。いくつか事故もあったが、やがて安全な運用方法が確立された。

フェアアフェアとは、クラウドへのリアルタイムアップロードによって、交際するカップルが互いの経験をすべて共有できるようにしたアプリケーションで、数年前に出現した。フェアアフェアは最初、熱狂的に支持された。その頃、イーサンもアリシアもまだ高校生で、フェアアフェアを試したことはなかったが当時の狂騒は覚えている。レイチェル、ウィルとは既に高校の友人だった。

ウィルの両親は出たばかりのフェアアフェアを試した。だがお互いの過去に許せない不適切な関係があったことが原因となって結局は離婚した。ウィルの両親だけではなかった。結果、社会不安をもたらしたフェアアフェアは政治問題となり、一度は全面禁止された。

やがて保守党の政権が長く続き社会が安定化する一方で、社会の上層部では異性問題が頻出していた。人々は、高い地位を占める”いい大人”が次々と起こす女性問題、男性問題に辟易し「子供に示しがつかない」と嘆いた。保守的な結婚感を持つ宗教政党が勢力を伸ばした。

そんな状況でフェアアフェアは息を吹き返した。結婚と同時に、それ以前のライフログの相互閲覧は制限したうえでフェアアフェアを起動すること、が法制化されたのだ。各自がプライバシー設定をすることもできたが、本人が性的に興奮したり、ましてや性行為を行えば上書き解除されるので性関係上の隠し事はできない。だから浮気をすれば即座に露見するが、一緒に行く旅行の記憶、子育ての記憶、夫婦のすべての体験を共有できる。もちろん、排泄中や仕事中など、共有する意味がない、あるいは機密上の問題があるデータは自動的に共有が省かれる。

フェアアフェア結婚は最初、熟年の夫婦をサンプルに実験導入された。夫婦間の欲求不満の多くは性行為の相手が限定されていることによるものではない。夫婦が役割を分担し、共働きが当たり前の社会になって精神的、肉体的な充足が減ることによって引き起こされるのではないか。実験導入はうまくいき、そのことが証明された。保守勢力の過半数の賛成によって法案は通過し、結婚すなわちフェアアフェア結婚、という社会が訪れた。

四人での会食の後、アリシアとイーサンは車を走らせていた。高速道路の脇に、フェアアフェア(“fairAfair”)の巨大な看板が立っている。ロゴの下に若い男女のカップルと、老年夫婦が並んでにこやかに笑っている写真が配されたピンク系の色調の看板だ。イーサンは「フェアアフェア!フェアアフェアーマリッジ!」とコマーシャルのフレーズを口ずさんだ。

***

イーサンとアリシアは同棲して半年になる。セックスのあとで、イーサンはアリシアの髪を指で梳かしながら言った。

「気持ちいい?って聞く必要がなくなるってすごいね。」

「あなた、よく聞くもんね。」

「そう?」

「うん。すごく何度も。ほんとに気持ちいい?って聞いてたよ最初は。」

「自分だけイクのは嫌だからね。それだけはいやだ。」

「あらあらフェミニストなのね。」

イーサンはフェアアフェアの機能である、性的な欲求や刺激の相互フィードバックに大いに関心を抱いていた。

「楽しみだね。フェアアフェア。本当に一心同体になるようなものなんだから。」

「そうだよ、隠し事はできなくなるんだよ。」

「隠し事なんて今だってないよ。これからもない。」

「そうね。それが結婚っていうこと。素敵ね。」

「素敵だ。」

 

レイチェルとウィルの離婚原因は性的な不一致だった。互いの性欲の波長が一致しなくなったのだ。そんな結婚生活を長く続けるとしたら苦痛だろう。しかしフェアアフェア結婚においては、性的な不一致はデータが証明してくれるので正当な離婚事由になる。それは悲しいことかもしれないが、互いに嘘をつかずにすむ。ウィルが言う通り、フェアな仕組みだと思えた。

イーサンは、いつも相手が本当にオーガズムに達しているのかどうかを気にしている男だった。男性には射精があるけれど、女性のオーガズムは複雑で演技していることも多いという情報を、彼は真に受けていた。

性的な満足が幸せな結婚の条件なのは当然だ。イーサンにとってアリシアは二人目の女性だった。最初の彼女とのセックスについて、イーサンはあまり自信がなかった。相性がよくないのだとウィルは慰めてくれたが、イーサンは自分のせいではないかと常に疑っていた。アリシアは満足してくれていると信じているが、フェアアフェア結婚はそれを確かなものにしてくれるだろう。

***

慌ただしい準備の日々は瞬く間に過ぎ、結婚式の当日となった。アリシアの地元の教会で、二人は結婚式を挙げた。多くの参列者で教会は壁一面に立ち見の参列者で溢れかえった。神父が誓いの言葉を読み上げる。

「健やかなる時も、病める時も、喜びのときも、悲しみのときも、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを助け、死が二人を分かつまで真心を尽くすことを誓いますか?」

「誓います。」

アリシアとイーサンは唱和した。

「指輪の交換を。」

指輪にはフェアアフェアを起動させる認証デバイスが入っている。区役所で婚姻届けを出すときにも起動は可能だが、ほとんどのカップルは結婚式での起動を望むので、指輪型の認証デバイスが人気だった。認証デバイスが動くのは一度きり。そのあとは普通の結婚指輪になる。

「では誓いのキスとアタッチを。」

二人はキスを交わし、そしてお互いの薬指にはめた指輪を相手のこめかみに接触させた。

途端に奔流のような感情が二人を包み込む。互いの感覚が流れ込んできたためだった。

イーサンは思わずアリシアを強く抱きしめた。その光景は参列者を感動させた。フェアアフェア結婚で結ばれた夫婦の参列者は自分たちの同じ経験を思い出し、独身者は愛が結晶する姿を目の当たりにして、涙を流し二人を祝福した。

 

結婚初夜に言葉はいらなかった。パートナーが自分に対して感じている性欲を、直接に感じられ、性欲が二倍になったように感じる。それは満たされた性欲としてのオーガズムについても同じだった。相手のオーガズムのレベルがはっきりと伝わって来る。

「ああ、こんなにいいのは初めて。」

そういって乱れるアリシアに、イーサンは心底感激した。フェアアフェア結婚の本当のご褒美はこれか、と悟った気がした。自信はイーサンを強くし、アリシアは何度も達した。

結婚して半年、二人の生活は順調だった。フェアアフェア結婚は会社におけるイーサンのパフォーマンスに好影響を及ぼした。生物学的には性生活の安定による心身の健康。しかしそれが社会における信用の向上をもたらしていた。表向きには独身者差別はないことになっているとはいえ、上級管理職への昇進にフェアアフェア結婚が有利であることは暗黙の了解となってきていた。結婚の一年後、イーサンは人事担当役員の呼び出しを受けた。

 

「フェアアフェア結婚を批判する人たちは、監視だとか、家庭のパノプティコン化だとか言うけれど、むしろ見守られている安心感を感じるよ。仕事で辛い時に、アリシアが見ていてくれると思うと勇気が出る。」

「あら、お仕事中の様子なんてわからないわよ。機密情報にはセキュリティが掛かるんだから。」

「それはそうだけど、気分の問題だよ。おかげさまで、いいニュースがある。マネージャーに昇進したんだ。同期のなかでは最速だよ。」

次の日、イーサンの帰りは遅かったがアリシアは寂しくはなかった。視界のサブウィンドウに帰路を急ぐイーサンのビューが開いている。目の右下隅の空中に映像が浮かんでいる感じだ。フェアアフェアによる体験共有だった。自宅のドアが大写しになると、チャイムが鳴った。

「あなた、お帰りなさい!」

「ただいまアリシア。」

ドアの内側で待ち受けたアリシアは、イーサンに飛びついてハグし、キスを交わした。ダイニングのテーブルには小さなケーキが用意されている。

「マネージャーへの昇進を祝って、乾杯!」

アリシアはクラッカーの紐を引いた。

「ありがとうアリシア。愛してるよ。」

イーサンはアリシアに額を寄せて言った。ケーキを食べ、ブランデーを飲みながら二人はリビングのソファでくつろいだ。モニターには先週末に行ったドライブ旅行の映像を二人のライフログから再生して映している。

「ほとんど同じものを見てるもんだね。」

「二人きりの旅行だから。でもあなたは食べ物に注目してることが多いわ。あとは女の後ろ姿。」

アリシアはイーサンを肘で小突いた。

「そんなことないさ。君だって、男を見てるじゃないか。」

「違うわ。私が見てるのは男じゃなくて男の子。この子なんてかわいいよね。」

アリシアが指摘した通り、イーサンの視線が屋台の食べ物屋を横切っている最中に、アリシアの視線は観光地ではしゃぐ親子連れを捉えていた。

 

翌年、二人に女の子が生まれ、シンディと名付けられた。アリシアはアートデザインの仕事を自宅でやるようになった。イーサンの仕事は忙しかったが、合間をみてはアリシアの子育てを見守り、その苦労をよく理解した。帰宅すれば自分が疲れていても進んで子育ての仕事を引き受けた。イーサンは、なによりアリシアしか実際には目にしていないシンディの姿を、すべて後から共有できることが嬉しかった。フェアアフェア結婚をして本当によかったと、二人は喜んだ。

 

五年後、共同経営者に昇進したイーサンは遅い帰りが増えた。

「シンディはもう寝てる?」

「当たり前でしょ。起こさないでね。」

イーサンは子供部屋のシンディをひとしきり眺めると、リビングのソファにぐったりと倒れ込んだ。

「ごめん、今日も遅くなって。」

「いいのよ。それより、これ、お隣が出したゴミなの。どう思う?」

そういうとアリシアは、リビングのモニターに自分のライフログからの映像を映し出した。

「ほら、ゴミ袋がこんなに道にはみ出してるの。車がひっかけたら散らばっちゃうわ。あなた、今度注意してくれない?」

「わかった。そうしよう。でもちょっと眠い。ごめん。」

イーサンはそのままソファで寝てしまった。

アリシアは一人でモニターの映像を繰り返し眺めていた。

 

共同経営者に昇進して以来、イーサンはゴルフを嗜むようになっていた。ほとんど毎週のように、土曜日は取引先とのゴルフで家をあけた。この日の土曜日も、遅く帰宅すると、アリシアがリビングから声をかけた。

「ホール5のバーディチャンス、惜しかったわね。」

イーサンは驚いた。

「ひょっとして、ずっと見てたのかい?」

「今日は暇だったから。あーあ、私も連れていって欲しかったな。」

ゴルフから帰ってシャワーを浴びながら、イーサンの気持ちは冷めていた。以前ならスポーツをして疲れ果てた日ほど、特に燃えたのに。自分の性欲ゲージが高まらない。それはアリシアも見ている。一方でアリシアの性欲は高まっている。イーサンはプレッシャーを感じた。

ベッドで、イーサンとアリシアはいつも通りセックスをした。いつも通りにアリシアを導いてから、自分も達した。特に不満はない。これがフェアアフェア結婚の人工的なところだ、とイーサンは思った。互いの性感を感じることは、二つの肉体感で正のフィードバックループを構成する。つまり電気回路的に言えばスピーカーの音をマイクが拾うのと同じように「発振」してオーガズムを爆発させる効果を生むのである。性欲の不一致を感じていても、大抵の場合はそれを吹き飛ばしてしまえたのだが、言いようのない虚しさが残った。

アリシアは向こうを向いてすぐに寝入った。イーサンも反対側を向き、背中を合わせる。これが、ウィルとレイチェルが経験した「停滞」の始まりなのだろうか。イーサンは思い悩みながら眠りについた。

 

ゴルフ接待に精を出した成果もあって、イーサンはアラビア公国における不動産訴訟の大型案件を勝ち取った。いくつもの人工島が建造され、最近急速に開発が進んでいる有名ビーチの入江をめぐる大型利権の争い。長い出張になるだろう。現地オフィスではスタッフを揃えてイーサンの到着を待っているという。イーサンとアリシアはまだアラビア公国に行ったことがない。

「アリシア、抜け駆けしてごめんね。」

出張の朝、イーサンは言った。

「いいのよ。たっぷり下見してきて。」

「極秘プロジェクトだし、現地では夜の会合も多いから共有できるログはかなり歯抜けになると思う。」

「わかってるわ。私だって四六時中あなたの様子を監視してるわけじゃないのよ。」

アリシアは先だってのゴルフコンペ鑑賞の言い訳のつもりで言った。

「必ず一緒に旅行しよう。2週間で戻るよ。」

 

***

アラビア公国首都。ダウンタウンには世界最高の高さを誇るタワーが聳えている。着陸態勢に入った飛行機の窓からその威容が臨め、強い日光と蜃気楼の先にキラキラと輝いて見えた。海岸線には入江と人工島が構築されてフラクタルのような曲線美を見せている。砂漠の真ん中なのに、ダウンタウンの周辺には豊富な緑があった。

出迎えた空港管理官はアブドラと名乗り、イーサンを空港のVIP室に案内した。アブドラは長旅をねぎらうとすぐに、小さな箱を取り出してイーサンの目の前に置き、宝石の箱をあけるようにして開いてみせた。中には小さな”6”の形をした物体が入っている。

「これは、フェアアフェア結婚をなさっている我が国への渡航者に配布されている装置です。あなたは当国滞在中に重要な文書に調印する可能性があると伺っていますので、重要事項として説明させていただきます。」

本社が言っていた”入国の一手間”とはこれのことかとイーサンは思いつつ、箱を持ち上げてその装置を眺めた。どうみても装置というより小さなシールのようだ。

「短答直入に言いましょう。このパッチは、あなたのインプラントから、性的興奮にかかわる信号のクラウド送信を阻害する装置です。」

「え、なんですって?」

「あなたの国のフェアアフェア結婚なるものを私達は尊重しています。一生を一人の伴侶と添い遂げるためのテクノロジー。大変すばらしい。そのためにあなたがたは性的な感覚情報をすべて記録し配偶者と共有する装置を男性、女性の両方が装着している。驚くべきことです。」

突然、かなり失礼と思える皮肉を聞かされてイーサンは困惑したが、アブドラは続けた。

「しかしそれは一夫多妻制のこの国では受け入れられない仕組みです。我が国でも欧米的価値観や恋愛観を持つ人々は急速に増えています。あなたの国の文化はすべての人の憧れだ。もし万一、フェアアフェア結婚的なものが我が国で広まれば、伝統的な価値観との摩擦で社会は大混乱するでしょう。」

アブドラは突然の場違いな話題を、ゆっくりと噛んで含めるように話した。イーサンの国でも一度は全面禁止となったアプリケーションである。その懸念には同意できるとイーサンは思った。

「まあそれは、本質ではあるとはいえ表向きの理由。イスラム教が大義名分であればこの施策は面倒な民主的手続きを経ずにすぐに導入できますから。このパッチは簡単に言えば、あなたがたが四方八方に発散している性的な情報の電波を我が国から遮断するためのものです。これは失礼。悪く思わないでください。」

電波ときたか。確かにそういうアナロジーもできるだろう、とイーサンは苦笑して指摘した。

「フェアアフェアのクラウド通信は量子暗号的なものですよ。電波のイメージは旧世代のものでしょう。」

「数学を発明したのはアラビアですよ。あなたの国も、我が国の量子暗号技術にたくさんの特許料を払ってくださっている。我が国に潜入しているハッカーたちを甘く見ない方がいい。さあ、付けてみてください。危険はまったくありません。」

イーサンは半信半疑でパッチを額の眉間に貼り付けた。壁の鏡を見ると、インド映画に出てきてターバンを巻いている間抜けな欧米人のようだ。

アブドルは中腰で立ち上がり、イーサンの眉間のパッチを触って確認した。そしていたずらっぽい作り笑顔をイーサンに向けると、右手を挙げてぱちんと指を鳴らした。

 

すると、さきほど飲み物を持ってきてから脇に控えていたウェイトレスらしい女性が、いきなりするすると衣服を脱ぎはじめた。視線はまっすぐにイーサンに注いでいる。

「ちょ、ちょっと何てことを。待ってください。」

イーサンは椅子から半身を起こして立ち上がりざまに後ずさった。目は女性に釘付けのままだ。女性はゆっくりと全裸になった。まばゆいような美しい裸体である。肌の色はブロンズで、陰毛は黒く、乳首は薄いピンクだった。

アブドラは笑い声をあげて再び指を鳴らした。女性は跡形もなく消えた。ホログラムビジョンだ。

「大変失礼しました。あなたにパッチをお見せしている間にホログラムにすりかえました。」

あまりのことにイーサンが呆気にとられていると、アブドラが続けた。

「こうでもしないと動作テストができませんから。さて、ライフログを確認してみてください。」

今は機密事項の仕事中モードになっていて、夫婦でのログ共有はオフラインである。だがイーサンはいましがた性的に興奮したという自覚があった。こういう事態になれば機密モードはすぐに解除され、イーサンが目を見開いて眺めた女性の裸体がはっきりとライフログに残るはずだ。だがアブドラのいうとおり、機密モードは継続していた。

「問題なく機能しているようですね。これであなたは我が国における滞在資格を得ました。公式文書にも署名できます。ようこそアラビア公国へ。」

 

ようやく空港を出て、イーサンはダウンタウンの事務所に向かった。途中の海岸線には大型ヨットが停泊するハーバーがあり、建設途中のコンドミニアムが林立している。ゼロから作られた未来都市の美しさがあった。今回の訴訟の主戦場の入江が見えてくる。プライベートビーチでは、富裕層が小さな水着を身につけて日光を浴びていた。

中心部タワーのすぐそばにあるオフィスに着くと、現地プロジェクトチームからブリーフィングを受けた。そこにベスがいた。

 

「名前はウマポン・エリザベス・チャルーンポーパカンといいます。実はもっともっと長いんですけど言っても意味ないから。ベスって呼んでください。」

ベスは小柄でショートカットの髪型だった。黒っぽい、少年のような服装。おそらくタイ華僑の娘だろう。この若さでアラビア公国まできて大きな仕事をするには、親のコネがあったに違いない。不動産業界ではよくある話だ。

初日の仕事が終わり、事務所長のルドルフがイーサンのプロジェクトチームを湾岸エリアの人工島にある自宅に招いた。

「これでもこの辺りじゃさほど広い家じゃない。タワー群が見えるシティビューは役得だな。ここで接待することも多いから。ほら、あのタワーの左隣にあるビルがうちのオフィスだよ。」

まだ新興国といえるアラビア公国でのビジネスにおいては、クライアントの観光案内もルドルフの大事な仕事の一つといえる。高い天井、広いバルコニー、宝石のようなシティビュー。それらはみな、アラビア公国が世界中から人と富を引き寄せている魅力の一部を構成していた。

 

軽食を食べ、酒が回り、パーティは自然と自己紹介タイムになった。

「まず僕からいこうか。改めて、名前はイーサン・ハワード。去年、共同経営者になったばかりだ。」

「ひゅー、若手のホープ!」

ルドルフが囃す。

「そして、これだ。」

既婚者はイーサンだけだから、イーサンだけがパッチをしている。イーサンは自分の眉間を指した。自分は既婚者だと宣言したつもりだった。一同は小首を傾げる。

「うん、さっきから気になってるんだが、そりゃ一体なんだイーサン?インドのヒンズー教かなにかを信奉してるのか?もちろん何を信じようと君の自由だが。」

てっきりアラビア公国の国民には周知されていると思い込んでいたイーサンは面食らった。結局イーサンは、フェアアフェア結婚について長々と語る羽目になった。ルドルフ宅のリビングの大型モニターにライフログからの記録映像を映し、アリシアや娘のシンディも紹介した。だがパッチの機能については詳しい説明を避けた。詳しく説明しようとすれば性的な話題に入らざるを得ない。初対面の同僚たちとする会話ではないだろう。

「アラビア公国は一夫多妻制だからね。僕たちみたいなのは奇特な人々ってことで、目印をつけたいんじゃないかな。」

メンバーは順繰りに、ライフログを再生しながら家族や同僚の紹介をした。鑑定士のジャックとパラリーガルのアナは、ウクライナでの仕事で間接的に一緒に働いたことを発見した。こういうチームビルディングの光景はどこの現場でも見られた。

 

ベスの番になった。

「私はインプラントしてないんです。タイでは、してる人は半分くらい。私の家族は誰もしていません。」

ベスによればそれは宗教的な理由だという。インプラントとタイ仏教、タイ王室が治める社会がどのように相入れないのか興味があったが、中国が全面的にインプラントを禁じていることとおそらく関係があるのだろう。西側主導のテクノロジーと距離を置くことが彼らの基本路線だからだ。

ベスとはその後、二人で話し込む時間があった。イーサンは、かなり突っ込んだパッチの説明をベスにした。心のどこかで性的な会話をしてもアリシアには見えていないという気持ちが作用していた。

「見張りがいないとさっそく女を口説こうとしているのかな俺は。」

イーサンは自問した。

 

続く一週間は激務だった。チームはよく働き、無事に契約を調印できた。クライアントは貴重な人工島からのシティビューと、ハーバーに面したコテージという、供給が非常に限られた開発権益を確保することができた。

チームはクライアントに招待されて、開発済みのコテージでの宿泊に招待された。打ち上げパーティのお開きのあと、イーサンは一人でバルコニーのソファに座り、ブランデーを飲みながらアリシアと話した。今日のライフログを再生してコテージ周辺を案内した後、リアルタイムビューを共有した。まるで一緒にいるようだった。

「アリシア見えるかい?この眺めが、今回の出張の成果だよ。」

「素敵な眺めね。その物件、買ってしまったらどう?値段上がるんじゃないかしら。」

「そうだね。でもとても高くて手が出ない。もっと大成功しなきゃ無理だよ。」

「あなたならきっと大丈夫。本当にお疲れ様。」

その時、部屋のチャイムが鳴った。イーサンは心臓がどきりとした。こんな夜更けに誰だろう。ルドルフは自宅に帰ったはず。若手はみな酔いつぶれた。

「アリシアすまない、事務所長のルドルフだ。明日の段取りを決めなきゃいけない。機密モードにするよ。おやすみ。」

イーサンはするすると口から出てくる自分の嘘に内心驚いた。

「あら、まだ仕事なの?ほんとに働き蜂ね。わかったわ。おやすみなさい。」

 

心にかすかな痛みを感じながらイーサンが部屋のドアを開けると、そこには予想通りベスがいた。少し酔っているようだ。目と目で合図をすると、ベスはすべるように部屋に入って来た。

「ベス、いけない。君には婚約者がいる。」

「あなたにだってアリシアがいる。わかってる。でも私のことなら、見たこともない人との政略結婚だわ。いまどき処女で結婚する人なんていないのよ。それは幻想なの。私は、あなたが好きになってしまったの。」

ベスの態度には迫力があった。プロジェクトの間中、ベスに積極的に話しかけていったのはイーサンのほうだった。若いベスが恋に落ちるのは無理もなく、そう誘導したのは大人であるイーサンのほうなのだ。

「私も誰にも言わない。この馬鹿げたパッチがある限り、あなたも誰にも知られることはない。」

ベスはイーサンの眉間に触れてそう言った。

「罪は私たちの魂で引き受けていけばいいわ。」

ベスのその言葉の真意は分からなかったが、結局イーサンは一線を超えてしまった。ベスはバージンだった。この夜の経験はライフログには残るがクラウドにはアップロードされない。忘れられない夜になった。

 

 

「出国前には必ず返却すること。このパッチは我が国の輸出禁止品目ですから。」

空港管理官のアブドラが言った通り、出国手続きでは、パッチの返還を求められた。もうベスとの密会はできない。あきらめるしかない。この国を出れば、夢の世界は終わりだ。落胆と同時に、イーサンはほっとした。次はどんな用事を作ってアラビア公国に来ようか。もうそんなことを考え始めている。

今回の帰国は、残務処理を本社で行うためにベスが一緒である。それが逆に苦しかった。あえてベスとは離れた座席を予約した。隣の座席に座ったらとても平静ではいられないだろう。パッチを外し、出国手続きを通った瞬間からフェアアフェア結婚の経験共有は始まっているのだ。もう単なる上司と部下の関係だ。イーサンは自分に言い聞かせた。

 

本社オフィスではイーサンは大歓迎を受けた。幹部たちはイーサンのために凱旋パーティを開いてくれた。アリソンを伴い、イーサンは出席し、スピーチをした。ベスも参加しているがいっさい変な素ぶりを見せない。ベスは一週間ほどでアラビア公国事務所に帰国する予定だった。イーサンは二人で会う約束を一切しなかった。

 

契約書類をまとめていると、ベスが部屋に入ってきた。しばらくして仕事が一段落すると、ベスがまっすぐにイーサンを見つめて来る。イーサンは苦笑いして首を横に振った。するとベスは微笑んでバッグの中から何かを取り出し、手のひらを広げた。イーサンは目を見開いた。小さな”6”の形の、あのパッチだった。

「なぜそれを?イミグレーションで返さなかったのか?」

イーサンは狼狽して聞いた。ベスが説明した。

「入国したときの書類に入っていたけど、説明もないのでそのままにしておいた。あなたに聞いて、これが何だか初めて分かったわ。帰るときに、インプラントしてないし既婚者でもないから受け取ってない、って言ってみたの。そしたら係官はシステムを確認して、そうですね、あなたは該当者じゃありませんって。」

禁制品の持ち出しは税関チェックという物理的な手法に頼っている。だから逆に、最先端の量子デバイスであるパッチが見逃されるという可能性は理屈としては有りえる。検査機器が対応していない時には。パッチを作り出せる量子暗号技術をアブドラは自慢していたが、足元の税関の段取りはお粗末だったということか。

無邪気に他国の機密を破るベス。それに加担しようとするイーサン。そして小さなチップの存在は、許されざる関係の継続を意味していた。

 

二人は、ベスが帰国するまでに二度会った。

 

***

アラビア公国出張から二ヶ月が経つ頃、クライアント先から社用車での帰る途中、社内直通電話が鳴った。

「ルドルフだ。イーサン、ベスを覚えているか?お前のプロジェクトチームの新人の子だ。」

ルドルフの口からベスの名前が出て、イーサンは緊張した。

「もちろん覚えてるよ。彼女には一緒に本社に来てもらって、書類仕事を手伝ってもらった。」

「彼女が死んだんだ。」

イーサンは数秒間、反応できなかった。

「なんだって?」

「近々社内報にも出るだろう。自殺だ。まずい映像が出回ってそれを苦にしてのことらしい。」

イーサンはルドルフが送ってきたリンクを開いた。

イーサンとの情事のライフログが流出していた。イーサンの目が捉えた映像そのもの。ベスの顔ははっきり映っており、ネットではすぐにベスが特定され拡散された。ベスは自殺。バスルームで口に拳銃を突っ込んで引き金を引いた。現場は凄惨だった。

電話の向こうでルドルフがしゃべり続けていた。

「だけど相手の男は体の一部が映るだけで顔の映像はないんだ。これはライフログだ。間違いない。だがレイプされたようには見えないんだ。俺も全部見たわけじゃないんだが。」

「男の声は改変してあるが言葉ははっきり聞こえる。ボーイフレンドが自分のライフログデータを流したのかもしれない。ベスがインプラントしてないことを知っててやったのなら悪質だが、薬を使ったプロの犯行かもしれない。どっちにしてもひどい連中だ。一体何が目的かわからない。」

「ベス、かわいそうに。ビーチでも水着の上のTシャツを着たまま泳ぐような子だったじゃないか。ベスの家はな、実は大物のタイ華僑で熱心な仏教信者だ。許嫁もいたらしい。あんなものが出回ったらとてもやっていけないんだろう。大きな声じゃ言えないが名誉殺人の線もあるかもしれない。」

「いずれにせよ、むこうじゃ大騒ぎでタイ警察が会社に相手探しを要請してる。お前のところにも問い合わせがいくだろうからベスが勤務中の詳細をぜんぶ報告するんだ。会社が訴えられちゃたまらない。よろしく頼むよ。」

 

自分のオフィスに戻ったイーサンには差出人不明のメールが来ていた。開封すると電話が鳴った。訛りのある英語だ。

要求した金を払わなければベスの流出映像の相手がイーサンだということを公にする。目的は金なので金額も現実的にしてある。二日間の猶予を与えるというハッカーからの脅迫であった。メールの中身は添付ファイルだけだった。流出映像なら見るまでもないが、それは小さな画像ファイルだった。クリックしたイーサンは心臓が凍りついたように感じた。それは、バスルームで自死したベスの現場写真だった。壁一面に、脳漿が飛び散っていた。

来るべきものがきた、とイーサンは思った。ハッカー集団はアラビア公国のパッチに干渉してイーサンのライフログを抜き取ったのだろう。彼らが自分で言うとおり、アラビア公国に訪問する観光客やビジネスマンを狙ったドライな商売だ。人の命をなんとも思っていないがアラビア海域の海賊と同じで目的は金であるとイーサンは判断した。警察はまずい。いずれベスの仇を取りたいが、まずはアリシアとシンディを失いたくない。それがイーサンの本音だった。

仕事と地位を失い、ギリギリに追い込まれる予感がする。だが何とか家庭生活を守りサバイバルするんだ。イーサンは自分にそう言い聞かせながら、銀行と証券会社に淡々と電話し、いくつかの運用資産を解約し、現金を用意した。

 

翌日、オフィスで現金口座の残高を確認すると、そのほとんどをイーサンはハッカーに振り込んだ。数分後、ハッカーからは着金を確認する連絡とともに、今後は関わらないという趣旨のメールが届いた。イーサンは長い溜息をついた。資産の激減をアリシアにどう説明すればいいだろう。そう思い悩んでいるとメールが届いた。人事部長のハワード取締役からだ。すぐ来るようにと。

おかしい。早すぎる。要求された金は支払ったのに。会社にリークされたのだろうか。いや、おそらくベスの件だろう。何しろ、つい最近までプロジェクトメンバーだったのだから自殺事件のことを聞かれるのは当然だ。激しい疲労感に襲われながら、イーサンはクリスティのオフィスに向かった。

 

「イーサン。そこに座って。何の件かわかっているわね。」

イーサンは黙ってクリスティの目を見つめた。告発はハッカーによるものだろうか。それともベスの両親から?ベスはまさか会社の友人に打ち明けていたのだろうか。

「あなたは本当に優秀だった。あなたをあんなに早くマネージャーにできて、そして共同経営者にもなってくれて本当に楽しかった。だから一度しか言わない。あなたは本当にバカなことをしたわ。理解できない。」

イーサンは眉間にしわを寄せた。握りしめている拳が蒼白になっている。

「もう私達ではどうすることもできない。アラビア公国警察からの国際指名手配よ。弁護士が外国の機密禁輸を破ってどうするのよ。一体、何を持ち込んだの?」

 

イーサンは虚を突かれた。パッチの持ち出しのことか。だが自分はパッチを返却した履歴があるはず。あれはベスが持ち出したパッチだった。だがそれを明かすことはできない。

「いや、何のことかわからない。」

「私に何も言わないで。弁解は警察でしてちょうだい。むこうは、あなたがその禁輸品をこちらの国内で使った証拠をつかんでいるそうよ。」

そう言いながら、クリスティはデスクのモニターにタッチした。

「現時刻をもってあなたは懲戒解雇。退職金と最後のボーナスは満額振り込みます。これまでの功績に報いる、会社の温情だと思って受け取っておいて。」

退職金はありがたかった。ハッカーに金を払ったのでほとんど貯金が底をついている。

「もううちの会社とあなたは関係ない。逃げるのは自由だけど意味はないでしょう。逮捕状が出るまであと二、三日はかかるはず。その間にアリシアに打ち明けて、身辺整理をするといい。私も個人として手伝えることがあれば手伝うわ。」

ドアをノックしてクリスティの秘書がコーヒーを持って入ってきた。二人でコーヒーを啜りながら、しばらく沈黙した。

「二桁にはならないと思う。長くても数年。弁護士資格は残念だけれど剥奪。一生回復はできない。」

そういうことだろう。イーサンは体重が倍ほどにも増したような気がしてめまいがした。

 

とにかくアリシアとシンディに会わなければ。イーサンはタクシーを走らせた。だが住宅地の手前でタクシーは停車した。

「お客様には接近禁止命令が出ています。」

どういうことだ。アリシアに電話するが通じない。

メールが届いた。アリシアの代理人からの離婚通知と、裁判所からの、調停終了までのアリシアとシンディに対する接近禁止令状だった。これ以上、自宅に近づけばすぐに警察に連行される。それより怖いのはアリシアとシンディに関するライフログの自動消去がセットになっている可能性だ。思い出が大切なら近づくな、という処置を望む被害者は多い。結局、アリシアに知らせたのはハッカーではなかった。アリシアが自分で調べたようだった。

イーサンはタクシーを降りた。激しい雨が降っていた。

アリシアとの調停に応じるしかない。離婚裁判になればベスとの関係が明るみに出る。そうなれば身の安全が危うい。世論はベスの性行為の相手を映像流出犯と同一視するだろう。ベスの遺族はイーサンを決して許さないだろう。

いや、それ以前に、密輸で逮捕されればライフログは根こそぎ浚われる。ベスとの関係は隠しきれない。

いま、消すしかない。

タクシーは走り去った。道端に棒立ちになり、雨を顔に受けながらイーサンは空を仰いだ。そして俯くと、ベスとの思い出をひとつひとつ呼び出し、消去していった。

***

自宅のリビングで、アリシアはスーツの男女と三人でテーブルを囲んでいた。

テーブルの上には女性が所属する探偵事務所が撮影した写真が広げられている。会社の近くで密会するイーサンとベスの写真だ。アリシアはイーサンの脇の甘さに呆れた。イーサンはフェアアフェアをハックする何らかのツールをアラビア公国で手に入れたらしい。それで裏をかいたつもりで情事を重ねていたようだが、アリシアは機密プライバシー設定の増加にすぐに気がついた。そして大昔からあるような古風な探偵事務所に依頼し、昔ながらの方法でカメラマンに尾行させ、ベスとの密会の証拠をつかんだ。

そこにあの流出映像である。女の名前が一致していることに気づいた時はさすがに驚いた。大きな事件にイーサンは関わってしまったのだ。有責離婚は承諾の必要がない。別れは必然だった。

「慰謝料と分与資産については裁判所から請求書が出ています。ご主人は今朝、会社を退職されたようですが、退職金も差し押さえ済みです。」

弁護士の男が言った。アリシアが皮肉を言う。

「フェアアフェア結婚の時代になって弁護士さんも大儲けですね。」

「いや、そんなことは。案件自体はすっかり減りましたから。」

案件は減っても、立件後の手続きはほぼフェアアフェアのシステムが行ってくれるようなものだ。結婚式を起点にした分与対象資産の増加は逐一記録されている。離婚となれば資産の差し押さえと分与は電子的に手続きが進む。弁護士事務所のコストは大幅に抑えられているはずだ。

これほどのシステムがあるというのに、イーサンはなぜ裏切ろうとしたのだろう。なぜ怪しげな、アラビア公国の技術に頼って危ない橋を渡ったのか。凱旋パーティで、平気な顔で私に挨拶したあのアジア人の年端もいかない女の子と、そうまでしてセックスがしたかったのか。

だが泥棒猫は死んでくれた。恥ずかしいセックスシーンだけをネットの海に残したまま。若いのに気の毒ではあるが、そんなものを見せられたこっちの身にもなってほしい。

「ほんとに気持ちいい?」

声質は変えてあったが、散々聞いたイーサンのあのセリフがモニターから聞こえたときアリシアの胸は激しく痛んだ。イーサン、なんて馬鹿なの?そしてフェアアフェア結婚をしている男に手を出すとは、あの小娘もいい度胸、というかあまりにも無謀だ。聞けば彼女はインプラントをしていなかったらしい。テクノロジーに疎かったのだろうか。私が裁いたんじゃない。フェアアフェアが裏切り者たちにこの上なく厳正な裁きを下したのだ。と、アリシアは思った。

 

イーサンが自ら犯し、自ら被害者となった”フェアアフェアハッキング事件”は世間を騒がせた。ベスの映像流出と自殺はサイドストーリーとして人々の記憶に残り、ベスが生まれた国、タイではレイプ、セカンドレイプの被害抑止を旗印としたインプラント推進運動が盛り上がりを見せた。ベスの映像と対をなし、イーサンを告発する映像が存在しないことに世間は納得できなかったのだ。フェアアフェア結婚の採用に前向きな国も増えた。アラビア公国は批判炎上をものともせず、相変わらずパッチの装着を義務付けていた。

 

「これで独身女二人に逆戻りね。楽しまなくちゃ。」

レイチェルとアリシアは夕食後のオフィス街を歩いている。

「イーサンはすっかり時の人ね。」

「そうね、今はまだつらいけど、そのうち笑える思い出になるかも。」

アリシアは言った。

イーサンとの思い出はすべてアーカイブした。そうして保存し、記憶の倉庫の隅に片付けてしまえば気持ちの切り替えができる気がする。シンディは私がしっかり育てる。幸い、資金は十分にあった。

人はなぜ、わざわざ相手を裏切るようなことをするのだろうか。一つの関係にはしっかりケリをつけてから次に移る。チートはなしだ。ケリをつけ、ゼロクリアしてから次に臨む。イーサンとの結婚の前に十人以上の男性と付き合ってきたアリシアだったが、常にその都度精算し、切り替えてきた。

誠実な関係(フェア・アフェア)だけを私は求めているし、誠実な関係だけが、この社会に求められている。裏切り者は代償を支払う。

フェアアフェア結婚。なんていいシステムなのだろうか。

 

世の中は確実に、いい方向に向かっている。

 

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内容に関するアピール

メッセージとしての否定もしくは肯定ではなく、SFの仕掛けを用いることによって、社会の仕組み、人間性の本質について思考実験の場所を提供するような作品を目指しました。

モデルとしたのはネットフリックスの大人向けSF短編テレビシリーズ『ブラックミラー』で、このエピソード原作となれるようにと思って書きました。

本作における”インプラント”の設定は大変一般的なものですが『ブラックミラー』シーズン1−1を参考にしています。一方で”フェアアフェア”の仕組みはオリジナルなものと認識しています。

映像的に引き立つドバイのような舞台を想定し、スマホからの連想による幅広い読者の想像力が及ぶ範囲でありながら、現代とは異なる原理で動く世界へといざないます。

文字数:316

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