三姉妹戦記

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三姉妹戦記

 

   序章

 

 チャラナは三姉妹の頭上を旋回した後、大きな黒い翼を羽ばたかせて地上に降り立つと、苦しげに肩で息をした。真紅の目は鋭く、皮膚は鮮やかな青で、火喰い鳥に似ていた。

 三姉妹はこの異形の者を前にして身構えた。

「待て、闘うつもりはない。私は《神の采配》を司る神、チャラナだ。お前たちに真実を伝えにきた」

 チャラナは高音と低音の混ざりあう不思議な声で話した。

「真実、とは?」アセナが聞いた。

「お前が命を奪った相手が誰なのか、知っているのか?」

「この魔物のことか?」切り落とされて地面に転がる女の首と、胴体の腰に括られた兵士の生首を見て、アセナは首を振った。

「お前の母親だ」

 アセナはチャラナを睨みつけて叫んだ。「母だと? 私にこのような恐ろしい母はいない。私の母はメリンダだ!」

「お前たちに告げよう。なぜ母親が二人いるのか、お前の父親が誰なのか、そしてこの国の血塗られた歴史を。私の命が尽きる夜明けまで、まだ時間はあるだろう」

 チャラナは黒い翼をたたむと地面へ座った。

「まずはお前たちの父親の話から始めようか。十八年前、つまりお前たちが産まれてくる一年前の話だ」

 

   第一章

 

 王位奪還をもくろむ反乱軍との闘いで、軍神と誉れ高いカダー将軍と勇敢な戦士エダは、決死の闘いでエベディヤン王国の窮地を救った。

 エベディヤン王国のラスラン王には、王位継承者の第一子ハカン王子と第二子のカリーア姫がいた。ハカン王子は勤勉で進歩的な思想の持ち主だった。一方カリーア姫は武術と舞踏に長け、気性の荒さも手伝って訓練では生傷が絶えなかった。

 カダー将軍は大戦での功績が讃えられ、カリーア姫との婚儀を約束された。

 勝利の宴の後、カダー将軍とエダはエベディヤン宮殿を出て、自らの城に向かい荒野を馬でかけていた。

 すると遠方で雷鳴が轟き、濃い霧が立ち込めてきた。視界を奪われ、二人は立ち止まった。しばらくすると霧が晴れ、黒いパランジャを纏った背の高い女が立っていた。しかしその表情を読み取ることはできなかった。

「何者だ!」エダはカダー将軍を庇うように立ちはだかった。

「反乱軍主の首をとったカダー将軍は、さながら軍神アレスの生まれ変わりのよう。もっともエダが先に軍主の腕を切り落とさなければ、どうなったか」

 王にも報告していない戦地の情報を知っていることに、二人は驚いた。

「なぜお前がそれを知っている?」カダー将軍は言った。

「このヒルダ、空を飛び、遠くまで見える眼を持っているのだ。お二人の闘い、楽しませてもらったよ」そう言うとヒルダは手から白い花びらを出し、風を起こして二人の頭上に振らせた。

「未来のエベディヤン王カダーと、将軍エダに幸あれ!」

 カダー将軍は怪訝な顔をした。

「どういうことだ、次の王位継承者はハカン王子だぞ。無礼なことを言うな」

「王となるお方、カダーよ、どうか気を静めよ。私は未来を見通せる眼で見えたことを伝えだだけ。信じるか信じないかはお前次第だ」

 再び濃い霧がヒルダの周囲に立ち込め、突風と共に姿を消した。

「ヒルダと言ったな、いったい何者なのだろう」

「冥界の手下どもでしょうか。このドラスマク砂漠には魔女が住んでいると言われておりますが……」

「私が王になると言ったな。面白いやつだ」そう言うとカダーは笑った。

「単なる戯言でしょうか。私はカダー様のような勇敢な武将は見たことがございません。ラスラン王の政策は民に甘すぎて、敵国に侮られております。カダー様のような軍神のご加護がある方こそ、王に相応しい」

 カダー将軍はエダをたしなめた。

「ラスラン王は代々王家の血を嗣ぐ、高貴で気高いお方。私のような成り上がりとは違う。エダ、口を慎め」

「申し訳ございません。つい本心が」

「……私が王、おまえが将軍か」カダー将軍は呟くと再び馬を走らせた。

 

 ハカン王子の王位継承式の日程が決まったのは灰色の山々が明るくなってきた春先のことだった。

 エダはカダー将軍に耳打ちした。

「カダー様、このままではハカン王子とそのご子息、さらにその子孫が代々王になり、カダー様が王になる好機が失われてしまいます」

 カダー将軍は先の闘いでできた頬の傷を撫でながら言った。「カリーア姫との婚姻が決まっているとはいえ、第二継承者の婿にすぎぬからな……」

「このままで良いのでしょうか?」

「エダ、お前は魔性の戯言を気にしすぎだ。人を破滅の道に誘い込もうとする罠だろう。地獄の主の餌食になるだけだ。私はラスラン王から賜った将軍という地位があればそれで充分だ」

「ハカン王子が次の将軍に、従兄弟のケナン様を推しているという噂を耳にしました」

「なんだと?」

「ハカン王子は老兵を一掃して、新しい体制を築こうとお考えです」

「馬鹿な! 生まれてからこのかた、命をかけてラスラン王に仕えてきたというのに、将軍という地位を失うのか」カダー将軍は持っていたワイングラスを床に叩きつけた。

「カダー様、次の宴がチャンスです。先の闘いの祝と王位継承の祝と称して、我が城にラスラン王とハカン王子をお招きしましょう。私が手引きしますのでお二人を亡き者に……」

 カダー将軍は眼を大きく見開き、唇を震わせた。「お前は何という恐ろしいことを」

「このまま失脚するカダー様を見ていたくはないのです」エダは感情を抑えられずにカダー将軍の肩を掴んで揺さぶった。「カダー様とくぐり抜けてきた数々の戦を、無に帰すのが悔しいのです。もはや敵将の首をとるのと、ハカン王子の首をとるのは同義でございましょう」

 夕日に照らされて戦士エダの美貌は怪しげに輝いた。カダー将軍は急激に酔いが回るのを感じ、眼を閉じて長椅子に横たわった。

「カダー様は少々お疲れだ、お眠りください」エダは眠るカダーの傷に口づけをすると、蝋燭の灯を消した。

 

 カダー将軍の城に招かれたラスラン王とハカン王子と護衛の者は、盛大に饗された後、名酒を大量に飲まされ客室で眠っていた。

「私がやってまいります」エダはカダー将軍に一礼すると、寝室へ向かった。

「待て、待て!」カダー将軍はエダを引き止めた。

「お前の手を汚すようなことはさせない。責任は私がとる」そういうと、カダー将軍は息を深く吸い込んで一気に吐き出した。意を決すると剣を取り、寝室へ向かった。

 遠くで雷鳴が低く轟いていた。エダはカダー将軍の寝室でじっと嵐の音を聞いていた。

 しばらくするとカダー将軍が青ざめた顔で戻ってきた。

「カダー様!」

「なんと恐ろしいことをしてしまったのだろう。震えが止まらない、あの高貴なお方を……!」

 返り血を浴び、手を血に染めたカダー将軍が床に崩れ落ちた。

 エダはカダー将軍の手をとり、自らも血で染まった手で抱き寄せた。「カダー様、これも王になる者の定め。私はどこまでもお供します」

 強風で窓が割れると、ヒルダが現れた。そしてカダー将軍とエダを見下ろすと言った。

「なんと罪深い。偉大なラスラン王を殺めるとは! 待っていれば王になれたものを。カダー、お前は死を司るヘカティー様の怒りをかった。罪を犯したお前の眠りは永遠に奪われた」そう言うと風と共に消えた。一晩中、春の嵐は城の戸をたたき続け、震えるカダーを恐怖に陥れた。

 

 翌朝エベディヤン宮殿へ入った一報は、国を揺るがせた。ハカン王子の従兄弟ケナンが謀反を起こし、ラスラン王とハカン王子を殺害したが、物音を聞きつけたカダー将軍がケナンを討ったという。

 カリーア姫は哀しみと怒りのあまり、剣を振り回して目に着いたものを切り裂いた。「私がお側にいれば、ケナンなど八つ裂きにしてやったものを! 死してもなお許さぬぞ!」

 カリーア姫はケナンの亡骸を滅茶苦茶に切り裂き、タキリ渓谷へ蹴り落とした。カダーはカリーア姫の怒りの激しさに恐れをなした。

 こうして第一継承者がカリーア姫となり、カダー将軍との祝儀が急がれ、エベディヤン王国にカリーア女王とカダー王配殿下が誕生したのである。

 

 エベディヤン王国では、親が子と同居して育てることはなかった。血の繋がった《家族》と暮らすのは王族だけだった。

 創生院が世界中の卵子と精子を集め、《神の采配》と呼ばれる生命装置で肺呼吸できるまで育成される。その後育成院で十四歳まで育てられ、能力に応じて後見人の元へ職業見習いに出された。

 《神の采配》が創造されてから、女性の胎内から産まれてくる子は何代にも渡り存在しなくなった。その結果女性の出産する力は衰退していった。

 カリーア女王とカダー殿下は《神の采配》によって二人の子を誕生させる準備を始めた。

 準備を初めてから七日間、カリーア女王は不思議な夢を見続けた。

 カリーア女王の夢に《神の采配》を司ると言われている神、チャラナが現れた。弱々しく生気を感じさせなかったが、真紅の眼を覗くと炎が揺らめいていた。

 チャラナはカリーアが着ているシルクのシャツを首元までたくし上げると、露わになった乳房を口に含んだ。するとカリーアの乳房が痛いほどに熱く張ってきた。チャラナは乳房をさらに深く咥え、舌で乳首を上顎に押しつけると、出てきた温かい乳を吸った。カリーアはこみ上げてくる甘美な感情に恍惚とし、喉を仰け反らせた。

 次の夜も、また次の夜も、チャラナは夢の中に現れ、カリーアの乳を吸った。やがて徐々に青い皮膚は輝きを取り戻し、全身に生気が漲っていった。

 最後の夢の中で、チャラナはカリーアの顎を持ち上げると口を開かせた。長い舌の上に小さな青い卵を載せると、そのままカリーアの口の中に滑り込ませた。舌が喉奥まで達すると、卵はカリーアの喉奥へ滑り落ちた。やがて下腹のあたりがチリチリと熱くなり、腹が膨らんで内側から赤く輝いた。

「時が来たら迎えに行く」そう言うとチャラナは窓から飛び立っていった。

 

 翌朝、医師がカリーアの診察をしたとき、異変に気づいた。検査をすると《妊娠》していることが判明した。エベディヤン王国で人が《妊娠》したのは、実に三百年ぶりの出来事だった。医師たちは急いで過去の文献をあさり、《妊娠》と《出産》に関する知識を手に入れた。国中が好奇と期待の入り混じった眼差しをカリーア女王に向けた。

 カリーア女王は自分の身体が自分のものではないような感覚に陥った。悪阻で口にするもの全てを吐き出し、床に伏せてしまった。

「どうしてこんなことに」カリーアはカダーに嘆いた。「お父様とお兄様が謀反人に殺されてから、何かおかしい。私のこのやり場のない怒りはどこにやったらいいのだろう。カダーよ、父と兄の仇をとってはくれたが、本当は私がこの手で八つ裂きにしてやりたかった」噛み締めた下唇から血が滲んだ。

「カリーア、今は全てを忘れ身体を休めよ。《妊娠》するなど、こんな奇跡はないのだから。私も誇らしい」そういうとカリーアの手を握った。

 窓から春の風が吹いてくるなか、見舞いにきたエダはカリーアを嫉妬と憎悪の混ざった眼差しで見つめていた。

 

 やがて冬になった。三十二週目でカリーアの陣痛が始まった。帝王切開の準備が進められ、三卵生の三つ子が誕生した。取り上げた順から足の裏に一、二、三と番号を振った。王位継承の順位を決めるのに大切なことだった。

 麻酔が効いているカリーアは眠り、新生児たちは清潔なベッドに寝かされていた。カダーとエダは子どもたちを見ていた。

「三つ子とは珍しい。しかし生まれたばかりの人間とは、こんなに醜いものなのか」カダーは顔をしかめた。

「何をおっしゃいますか。小さくて可愛らしい。皆違う顔ですが、耳の形がカダー様に似ていて」エダは口もとにうっすら笑みを浮かべて言った。

 すると窓が開き、冷たい風が室内にどっと流れ込んだ。

「おやおや、これは不吉な子どもたちだ」ヒルダが二人の後ろに立って言った。

「宮殿に侵入するとは無礼者!」エダが剣を抜いて斬りつけるも、ヒルダは軽々とかわした。

「聞け。この三姉妹はカダー王の国を滅ぼすであろう。そしてカダー王を殺すであろう」ヒルダは告げると、風と共に消えた。

「なんということだ、我が子が私を」カダーは震えはじめた。

「カダー様、私も不吉なものを感じておりました。人は《神の采配》から生まれてくるものなのに、なぜ急に女の腹から産まれてきたのでしょう。もしや先のラスラン王とハカン王子の生まれ変わりで、カダー様への復讐を果たそうとしているのやもしれません……三つ子を葬りましょう」

「我が子を手にかけるなど……!」

「子は《神の采配》でいくらでもつくれます。ヒルダは真実を語る。無視すればカダー様の命が危ういだけでなく、この国も滅ぶかと。私にお任せください。この三つ子と、そしてカリーア女王も亡き者に」

「なぜカリーアも?」

「カダー様、いつまで王配『殿下』でいらっしゃるおつもりですか? 民から信頼の厚いカリーア女王がいる限り、議会はカダー様を王配『陛下』として認めることはないでしょう。つまり、王になるためにはカリーア女王も葬らねばなりませぬ」

 カダーは苦悩の表情を浮かべ、床に膝をついた。「ついに我が子と妻まで手にかけてしまうのか。王になるとは、こんなにも険しい道なのか」

「今度こそ、カダー様の手は汚させません」そう言うと、エダは部屋を後にした。

 

 エダは闇で暗殺者を三人呼んで、多額の報酬と引き換えに三つ子とカリーア女王の殺害を依頼した。

 暗殺者は宮殿に侵入し、まず三つ子を大きな麻袋に入れ、次に別の麻袋へカリーア女王を入れた。業者が荷物を運ぶ振りをして宮殿外に出た。

 そして一度落ちると二度と死体が上がらないと言われているタキリ渓谷目掛け、崖上から二つの袋を落とした。

 

 鎮圧したはずの反乱軍の残党が、宮殿に侵入しカリーア女王とその子どもたちを殺害したという知らせは、エベディヤン王国の民を哀しませた。議会は第一継承者となったカダーを王にすると定め、即位式が行われた。

「エダ、全てはお前のおかげだ。礼を言うぞ」

 カダーは王冠の重みを感じながら、エダを抱き寄せた。エダは感極まってカダーの胸で泣いた。「この日をどんなに待ちわびたことか。カダー様と戦場で共に闘った日々が、昨日のことのようでございます」

「お前がいなければここまで来ることができなかった。私は幸せものだ。この国をもっと強く、もっと豊かにしていきたい」

 やがてカダー王とエダ将軍による独裁政治が始まった。まず、《神の采配》の精度を上げて個体の能力を分析し、大きく分けて知識、労働、兵士という階級と職業へ最適化させた。さらに重い税を課したため、富がエベディヤン王国に集中し、国民はどんどん貧しくなっていった。

 人々はラスラン王とカリーア女王の時代を懐かしんだが、それを口にすると反逆罪に問われてしまうため、公の場では口を閉ざした。重苦しい空気がエベディヤン王国に流れていった。

 

 チャラナはドラスマク砂漠の南にある《燃える湖に泳ぐ山》に住んでいた。湖は常に燃えており、人々は炎を越えて湖に浮かぶ山に立ち入ることはできなかった。

 《神の采配》が現れた後、しばらくするとチャラナは人間から乳を吸うことができなかった。人は自ら出産をしなくなり、赤子に母乳を与えることがなくなったからだ。

 チャラナの力は次第に衰え、死を司る冥界の主、ヘカティーが力を増していった。ヘカティーにはヒルダとメリンダという魔女が仕えており、支配領域を拡大させていた。

 ある日、チャラナが湖の水を飲もうとしたとき、喪服を着た美しい女性が水面に映し出されているのに気づいた。その大きな瞳には炎が揺らめいていた。父と兄を殺され復讐を誓うカリーアの姿だった。チャラナはその内なる炎に魅せられた。何もかも焼き尽くす激しさは、衰弱するチャラナが持つわずかな生きる力に火を放った。

 チャラナは待った。子に飲ませる乳が出るのを、カリーア女王が自由になる時を。

 暗殺者によって女王と三つ子がタキリ渓谷へ投げ捨てられた時、チャラナは二つの袋を受け止めた。しかしチャラナが欲しいのはカリーアだけだった。三つ子をどうするか考えあぐねているところへ、北の領土を支配するメリンダがやってきた。

「南の怪鳥よ。ここは私の土地よ。荒らさないで」メリンダはチャラナの前に立ちふさがった。「その人たちを置いていきなさい」

「カリーアは私がもらう。三つ子は置いていこう」そう言うと赤子が入っている袋をメリンダに渡し、黒い翼を羽ばたかせて北の地を去っていった。

 

 チャラナはカリーアを《燃える湖に泳ぐ山》へ連れて帰った。

 新しい客人にチャラナは浮足立った。今まで使っていた巣を燃やすと、新たな巣を作り、芥子の花を飾った。そしてカリーアが目を覚ますのを待った。

 やがてカリーアが目を覚ますと、チャラナがこちらを覗き込んでいた。

「また夢なのね」カリーアは再び目を閉じた。しかし頬を撫でるチャラナの手があまりにも生々しかったので驚いて飛び起きたが、帝王切開した傷が痛み顔をしかめた。

「ここは……」

「心配はいらぬ。そなたを殺す者は何人たりともここには侵入できぬ」

「私を殺す? 一体誰が?」カリーアは怪訝な顔をした。

「カダーとエダが殺し屋を手配して、そなたと三つ子をタキリ渓谷へ突き落とした」

「なんですって? 私の子どもたちは無事なの?」

 チャラナは一瞬考えた。子どもが生きていると知ったら、カリーアはここから去っていくだろう。チャラナはカリーアを自分だけものにしたかった。

「残念ながら谷底へ落ちて亡くなった」

 カリーアは慟哭した。哀しみと怒りの激しさを、チャラナは美しいと感じた。

「カダーとエダめ。必ず腸を引きずり出して嬲り殺してやる! 二人の元に連れて行って!」

「カリーアよ、十万の軍勢の前に無駄死にする気か。機が熟すのを待て」

 カリーアは悔しさで全身を震わせた。

「力を授けよう。そなたの中にある炎をさらに大きな炎へ、大地を揺るがす力を。その時がきたら使うといい」チャラナはそう言うと、手のひらに炎を灯し、カリーアの心臓に押しつけた。カリーアは全身に鋭い痛みを感じて気を失った。

 

 チャラナの献身的な看病のおかげで、カリーアの傷はすっかり癒えた。カリーアも徐々に心を開き、チャラナと《燃える湖に泳ぐ山》を散策した。色とりどりの花々や生き物がチャラナとカリーアに挨拶をしてきた。カリーアは得意の舞を披露し、それに応えた。

「なんだか以前より身体が軽いの。飛び上がると天まで届きそうよ」

 カリーアはタタン・タン・タン、タタン・タン・タンと拍子をとりながら舞い、空に向かって美しい弧を描いて一回転した。チャラナはその舞を眩しそうに眺めていた。

 やがて二人は交わった。その翌日チャラナは大きな卵を生み、カリーアを驚かせた。

「あなた男かと思っていたけれど、卵が産めるのね」

「私が男か女かはわからぬが、そなたと踊れるし、卵も産めるということだ」チャラナは卵を翼で包み込み、温めながら言った。

 翌日、卵が割れて何かが産まれた。姿は人間の赤子のようだが、チャラナの真紅の瞳と、黒翼を持っていた。チャラナとカリーアはそれぞれの特徴を持って産まれた我が子を慈しみ、大切に育てた。

 こうしてチャラナとカリーアの子は三日に一人産まれ、どんどん増えていった。《燃える湖に泳ぐ山》はチャラナとカリーアの子で賑わった。黒翼で飛び回り、火球でボール遊びをする様子は、南の集落から目撃され、やがて《黒翼の天使たち》と呼ばれるようになった。

 

   第二章

 

  チャラナから赤子を押しつけられた北の魔女メリンダは途方にくれた。ヒルダ……幼少の頃から技を競い合い、寝食を共にした友だった。しかしあの時以来、会うことはなくなった。死を司り魔女たちを支配する大魔女ヘカティーが、ヒルダに命じてカダー王を唆しているのは知っていた。メリンダは今の平穏な生活を壊されたくなかったので、その件には関わりたくなかった。

 しかし、今三つ子を手放せば、すぐさま王に見つかり殺されてしまうだろう。メリンダは《神の采配》からではなく人間の腹から出てきた赤子を見るのは初めてだった。この特別な子どもに対する好奇心に負けて、メリンダは育ててみることにした。

 まずはカダー王とエダ将軍の追手から、身を隠す必要があった。そこでタキリ渓谷の集落で最も南寄り、丘を挟んでドラスマク砂漠に隣接している場所に家を建てた。近くには人の出入りの激しい大きな市場もあり、人里離れた所に住むよりは身を隠すのに適していることを、メリンダは知っていた。

 三姉妹はよく眠り、よく食べ、よく遊び、よく泣き、怒り、笑った。もう何十年も一人で過ごしていたメリンダの暮らしは一変し、騒々しく、息つく間もなく疲れてしまうが、子どもたちの成長を見守るのは喜びに溢れていた。

 三姉妹は自分の足で歩くようになった頃から、不思議な力を見せはじめた。

 ある時、三人でおもちゃの取り合いになり喧嘩が始まった。長女ソフィアは次女アセナと三女エリナのおでこに手をペタッとくっつけると、低く優しい声で歌を歌い始めた。すると今まで喧嘩をしていたアセナとエリナが急に静かになったのだ。長女ソフィアには怒りや戦意を喪失させる力があった。

 またある時次女アセナと三女エリナが、渓谷の岩壁をどちらが高く登れるか競争をしていた時のことだった。突風が吹き高所から落ちて大怪我をした二人の傷口に、長女ソフィアが手をかざすと傷が癒えたのだった。ソフィアには治癒の能力もあった。

 三女エリナは水を自由に操ることができた。ある日、メリンダが夕飯の支度をしていると、食卓で待っているエリナはコップから水だけを取り出し、宙に浮かせた。それを小さな水の玉に分割し、次々とソフィアとアセナの顔にぶつけて大笑いしていた。

 怒ったアセナは大理石でできたテーブルを軽々と持ち上げ、エリナに投げつけた。エリナは台所の蛇口から水を引き出すと、投げられたテーブルめがけて放水し、水圧で跳ね飛ばされたテーブルが窓を破って外に飛び出していった。

 メリンダはずぶ濡れの三姉妹と散乱したガラスの破片を見てため息をついた。メリンダは能力をつかって相手を傷つけてはいけないと何度も姉妹たちに教えなければならなかった。

 一方次女アセナは怪力以外に目立った特殊能力はなかったが、最も危険な子どもだった。ある時メリンダの肝を冷やす事件が起きた。

 子どもたちが寝室で昼寝をしている間、メリンダは市場へ買い物にでかけた。

 ベッドに横たわるアセナは、浅い眠りに入っていた。しばらくするとアセナはいつもの《扉》の前に来ていた。いつもは《扉》の前に恐ろしい形相の老婆が二人立っていたのだが、今日は誰もいなかった。アセナそっと《扉》に近づいた。

 近くでみる《扉》は非常に大きく、錆びついて血の匂いがした。アセナは《扉》の向こう側の世界が気になって仕方なかった。頭の中で、開けちゃだめ、と母さんが警告していた。しかしアセナは好奇心に勝てなかった。《扉》の取手を掴み、力いっぱい引くと重々しく開いた。中を覗くとぞっとするような暗闇と静寂があった。アセナは恐怖に凍りついた。

 子どもたちを家に置き、市場で買い物をしていたメリンダは異変に気づいて思わず手にとっていたトマトを地面に落とした。

 幼いアセナが、《冥界の扉》を開けてしまったのだ。信じられないことだった。何百年と修行を積んだ魔女ですら近づくことができず、ましてや《冥界の扉》を開けることなどヘカティー以外にはできなかった。

 ヘカティーに捕らえられる前に、アセナを取り戻さなければならなかった。メリンダはすぐさま《冥界の扉》へ飛んだ。

 《冥界の扉》を覗き、恐怖で固まっていたアセナは、急に強い力で後ろに引っ張られ、抱きかかえられた。メリンダの匂いがした。安堵したアセナは気を失った。

 アセナが目を覚ますと家のベッドの上にいた。

 メリンダは今まで見せたことがないような厳しい顔をしてアセナに伝えた。

「アセナ良く聞いて。あの扉の向こうには、死んだ者だけが行けるのよ。生きているあなたが開けてはいけない扉なの」

「母さん、しんだものってなあに?」

 四歳のアセナにはまだ完全には死を理解できなかった。

「心臓や脳が動かなくなるけれど、魂は自由になった人のことよ。母さんの手は温かいでしょう?」

 メリンダはアセナの手をとっていった。

「うん。あったかくて気持ちいい」

「でも死んでしまうとね、冷たくなって、硬くなってしまうの。こうやって声を出してお話もできくなるのよ」

「じゃあしんだらどうやってお話するの?」

「心の中でお話するのよ、死んだ人とはね。でもアセナはまだ生きているのだから、あの扉の向こう側に行ってはいけないの。あなたが死んでしまったら、母さんはとても哀しくなってしまうわ」

 アセナはメリンダの哀しそうな顔を見ると、どうしていいか分からずそわそわした。

「わかった。もうあの扉には近づかないし、開けないよ」

「約束よ」

 アセナはそれ以降、夢の中に《扉》が現れても、決して近づくことはなかった。

 

 やがて三姉妹は十七歳になった。相変わらずよく食べ、よく笑い、よく怒っていたが、成長し大人になりつつあった。メリンダは己の知と光を分け与え、彼女たちの特殊な能力をさらに磨いた。今では人間界でも魔女の世界でも立派にやっていけると確信していた。ただ、まだ彼女たちは完全に大人でもなく、子どもでもない、不安定な存在だった。しばらく注意深く見守る必要があると、メリンダは考えていた。

 あるとき長女ソフィアが、大鷲の《ザイラ》に乗って上空を飛んでいる時、崖の上から飛び降りようとしている男性を見つけ制止した。その男性は落ち着くと、ぽつりぽつりと話はじめた。

「私は《神の采配》から産まれた子を育てる、育成院で働いていた者です。私はそこで、三歳になる子どもたちの世話をしていました。その日は夏の暑い時期でした。庭のプールに膝あたりまで水を入れて遊ばせていました。ちょうどその時、施設から上官が私を呼び出したので、一瞬その場を離れてしまいました。戻ってくると、五人いるはずの子どもが四人しかいません。ベイザがしずんでるよ、子どもが教えてくれました。

 蘇生術を試みたのですがベイザが再び息をすることはありませんでした。水音をたててもがくことなく、ただ静かにベイザは沈んでいったのです。私は上官の命令より子どもの命を最優先にすべきでした。悔やんでも悔みきれず、こうして償おうと思ったのです」男性は話し終えるとうなだれた。

 ソフィアは男性の胸のあたりに球体が見えるのに気づいた。不思議に思い手をかざすと、青白い光が出て球体を身体の中から引き寄せることができた。ソフィアは集中してその動作を繰り返した。すると、うめき声とともに男性の胸から黒い水晶が出てきた。ソフィアはなぜだかその水晶を噛み砕きたい衝動に駆られ、気がつくと口に入れてバリバリと音をたてながら噛んで飲み込んだ。

 男性はあっけに取られた顔をしていたが、同時に安堵したような表情になり、目には生気が戻ってきた。

「どうしてだろう、心が軽くなりました。私の過ちに向き合う勇気が湧いてきました。ありがとうございます」そう言うと集落に帰っていった。

 ソフィアはその後も苦悩で潰されそうになった人の罪を食べることで、沢山の人々を救った。

 三女のエリナは水を操る以外に、もう一つ力を持っていた。それは欲望を操る力だった。エリナには脳内にある欲望のスイッチが点滅して見えるのだった。

 エリナは最初、その光るものが何かわからなかった。ある時、試しに恐る恐る犬のスイッチを押してみた。すると犬の息が荒くなり、発情したのだった。エリナは面白がって、次々と身近な生き物の欲望のスイッチを押していった。

 しかしメリンダの目につき、諭された。

「エリナ、その力を乱用するのは暴力を振るうのと同じことなのよ。心穏やかでいたい生き物もいるのだし、発情するしかるべきタイミングというものがあるのよ。気をつけてね」

「……はーい……」エリナはきまり悪そうに肩をすくめた。しかし、母の忠告を無視し、市場で気に入った人々のスイッチを押して、何度か寝ていたのだった。

 メリンダはいてもたってもいられない気持ちでいたが、危険のないことを確認すると、見て見ぬふりを決め込んだ。メリンダにとっても試練のときであった。

 

 ある時三姉妹の近くに少年が住み始めた。職業訓練が終わったエルビンという少年だった。同年代ということもあり、三姉妹とはすぐに打ち解けた。

エルビンはカダー政権になって《神の采配》で産まれたファーストチルドレンだった。十四歳になると後見人から酪農のノウハウを学び、独立して酪農家を経営していた。乾燥地帯での酪農は大変だったが、堅実に規模を大きくしていた。季節によって変動はするが二十人ほどの従業員を抱えていた。やや単純なところはあったが、率直な物言いと誠実な性格は周囲の人々の心を開かせ、好感を持たれた。

 ある冬の日、エルビンが三姉妹の家の戸を激しく叩いた。まだ日が昇る前だった。エルビンは月明かりを頼りに馬を走らせた。馬の吐く息が薄闇に白く浮かび上がった。

「助けてくれ、アセナ! 同時に三頭の牛が産気づいたんだけど難産なんだ。早く来てくれ!」

 アセナには子宮の機能を活発化させる能力があり、その能力を生かして獣医の仕事をしていた。腕が良いと評判で、度々村人の家畜のお産に呼ばれていた。

 寝室でまどろんでいたアセナは飛び起きた。白い綿の寝巻きの上に直接、絹イカット生地の外衣をふわりと羽織り、手早く帯で締めた。柔らかな皮の靴下を履き、ブーツに脚を滑り込ませた。

 不安そうな顔をして起きてきたメリンダとソフィア、エリナに向かって言った。

「ソフィアとエリナも後から来て。先に行ってる!」

 エルビンはアセナの手をとり馬の背に引き上げ、自分の前に乗せた。

「しっかり掴まっていろよ」

「うん」

 エルビンとアセナはぴったりと身体を密着させ、前傾姿勢になって馬を飛ばした。

 砂礫の原野を馬は飛ぶように駆け抜けた。鳥笛のネックレスがエルビンの胸元で飛び跳ねた。アセナがエルビンの誕生日にあげたものだった。エルビンの身体からは外衣の皮と汗が混ざりあった匂いがした。いつもアセナはエルビンの体臭を嗅ぐと、安らぎと興奮という両極端な感情が沸き起こった。心臓の鼓動が背中越しに伝わってきて、アセナの鼓動と同じリズムを刻んだ。正面から冷たく乾いた風が皮膚を刺していったが、エルビンの体温がアセナを暖かく包み込んだ。アセナはいつまでもこうしていたいと願い、またエルビンもそう願っていた。星々が地平線から照らされる太陽の光に溶けていった。

 エルビンの牛舎に近づくと、母牛たちの苦しげな悲鳴が聞こえてきた。アセナは甘やかな感傷から目覚め、馬から飛び降り駆け出した。肩で息をしている母牛の外陰部からは鮮血が流れていた。

「破水は?」

「昨日の夕方から陣痛が始まったんだけど、まだなんだ」

「みんな初産だよね? 微弱陣痛と胎盤剥離か」

 エルビンは山脈の水源から誘引した地下道水により、乾燥地帯での酪農を試みていた。環境が整ってきたので、新しく牛を飼うことにしたのだった。初産は難産が多い。しかも同時に産気づくとなると、エルビンだけではお手上げだった。

 アセナは三頭の牛を一頭一頭診た。苦痛からせわしなく動く牛の背に手を置き、さすりながら語りかけた。「苦しいね、大丈夫だよ。いっしょに頑張ろう」

 一番症状が重い、胎盤剥離を起こしている牛から助産することにした。

 消毒液を溶かしたお湯にアセナは腕全体を浸して清め、母牛の外陰部をお湯で洗い流した。アセナは産道に上腕部まですっぽり入れ、眼を閉じた。すると苦しげな鳴き声が止まり、牛が力を抜いたのが分かった。出血は止まっていた。

「良い子ね。もうひと頑張りだよ」

 アセナは眼を閉じ、産道を圧迫するイメージを心に描いた。すると三頭の牛たちに本格的な陣痛を引き起こした。牛たちは背を曲げ尾を上げる姿勢をとり、落ち着きがなくなっていった。一頭、また一頭、清潔な藁の上に横になっていった。お腹に力を入れ数分ごとにいきみ、一回目の破水を迎えた。

「よし、みんな破水したね。仔牛に会えるまで頑張ろう」

 第一破水で興奮した牛たちが立ち上がり、うろうろと歩き回った。次第に洋梨のような形の羊膜が見え始めた。アセナは注意深く診て二頭が逆子であることに気づいた。

「エルビン、真ん中と左の子が逆子だから、助産器を持ってきて。消毒も忘れずにね」

 所在なさげにしていたエルビンは顔を輝かせた。助産器を物置まで取りに行き、消毒してアセナに渡した。

「ありがとう。真ん中の子のほうが進行が早いから、この子から手助けしよう」

 ひときわ強い陣痛が襲い身体を大きく震わせた。すると二回目の破水がおき羊膜が破れた。アセナとエルビンは親牛の尻に助産器をつけ、仔牛の足にロープをかけて引っ張った。やがて透明なゼリー状の羊膜に包まれた仔牛の全身が姿を現し、藁の上に置かれた。この世で初めての呼吸を助けるために、エルビンは仔牛の口と鼻に着いた粘液を拭き取った。仔牛はあえぐように空気を吸い込んだ。

 母牛もすぐに仔牛を包んでいた羊膜を口で取り外し、咀嚼して飲み込んで仔牛の全身をぺろぺろ舐め刺激を与えた。エルビンは母牛と仔牛を眩しそうに眺めながら、臍の緒の切り口を消毒した。

 アセナはもう一頭の母牛を同様に手助けし、仔牛をこの世界へ導いた。

 残りの牛も無事出産し、仔牛たちに初乳を飲ませているところへ、メリンダとソフィア、エリナがバスケットを持って到着した。

「二人ともお疲れさま。さあ、手を洗って朝ごはんにしましょう。あとはソフィアとエリナにまかせて」メリンダはにこにこしながらシートを敷き、二人を手招きした。

 バスケットを開けると良い匂いが漂ってきた。発酵させた生地に塩を加え油で揚げたサンザと、羊肉とかぼちゃを生地で包んで蒸したカワ・マンタ、ナツメヤシを甘く煮て干したギュルカク、ポットにはドラスマク砂漠で採取したシアプトルやアキムシなどを煎じたドラ茶が入っていた。

 張り詰めていた神経が緩むとアセナとエルビンは急に空腹を感じた。さっそく二人は口いっぱいに頬張り、ドラ茶で胃に流し込んだ。無言で食べ続け、あっという間に朝食をたいらげた。

「ごちそうさま! 母さんのカワ・マンタ最高!」

「おばさん、ごちそうさまでした。昨日の夕方から食べてなかったので助かります」

「二人ともいい食べっぷりね。作ったかいがあったわ」メリンダはにっこり微笑んだ。

「それにしても一気に三頭も産気づくとは、大変ね」エリナが仔牛を舐める母牛たちを眺めながら言った。

「みんな初産だから難産だったね。その子は胎盤剥離をおこしていたから応急処置をしたけど、ソフィア姉さん、もっと傷の手当が必要だから、あとはよろしくね」

「了解。回復させるわ」

 ソフィアは母牛に近づき、腰のあたりに手をかざした。すると辛そうに肩で息をしていた母牛が、力を抜いたのが分かった。眼には優しそうな光を宿し、より熱心に仔牛の身体を舐めはじめた。後産も円滑に行われた。やがて母牛たちの苦しげな鼻息は収まり、か細い足で震えながら立つ仔牛たちを舐める音だけが牛舎に聞こえた。新しく迎えた小さな命が、窓から差し込む朝日に煌めいていた。

 

   第三章

 

 カリーアがチャラナと《燃える湖に泳ぐ山》で暮らし始めて十七年の月日がたった。

 チャラナは九九九年生きると言われおり、間もなく最後の年を迎えることとなった。全ての力は衰えてゆき、横になる日が増えていった。

 一方、カリーアとチャラナの子どもである《黒翼の天使たち》は、十七年たつと二千人にまで増えた。人間たちは《燃える湖に泳ぐ山》へ侵入できなかったが、火の使い手である子どもたちは火の湖を乗り越え外の世界へ行くことができた。しかし、カリーアとチャラナはそれを固く禁じた。

 ある日、七歳になる三人の子どもたちが肝試しをしようと、外の世界へ飛んで行ってしまった。三人の子どもたちは、ドラスマク砂漠でエダ将軍配下の訓練兵に出くわした。

「なんだあれは?」エダ将軍は兵士に聞いた。

「はっ、周辺の住民いわく《黒翼の天使たち》だと思われます」

「面白い。創生院で研究しよう。生きたまま捕らえよ」エダ将軍は命じた。

 兵士たちは《黒翼の天使たち》に向かって矢を放った。一人に当たり、空から落ちてきたところを捕らえた。

 残りの二人は兄弟を助けるべく火球を兵士へ向かって次々と投げた。兵士の服に火がつくとあっという間に燃え広がり、消火活動も虚しく、肉を焼き、骨の髄まで燃え尽くした。《黒翼の天使たち》が放つ火球は決して消えなかったのだ。

 エダ将軍は表情を険しくして叫んだ。「計画変更だ。殺して捕らえよ!」

 再び下降してきた子ども一人を網で捕獲し、もがいているところを剣で刺し殺した。最後の一人に矢が三本当たったが、黒翼をばたつかせて逃げていった。

 一人は生きたまま、一人は死んだ状態の《黒翼の天使たち》は、エダ将軍に捕らえられ、エベディヤン宮殿の創生院目指してドラスマク砂漠を後にした。

 かろうじて逃げ帰った残りの一人は、カリーアとチャラナの前まで来ると倒れてつぶやいた。

「外のにんげんは恐ろしかったよ。母さんと父さんの言う通りだった」そう言うと絶命した。

 カリーアは亡骸を抱きながら怒りで震えた。姉妹、兄弟たちも泣いて怒った。

「薄汚いカダーとエダめ。見逃していたが、もう待てない!」

 カリーアは横になっているチャラナに顔を近づけると告げた。「あなたはここで待っていて。必ずカダーとエダの首を持ち帰るわ」

「私も昔の力があれば闘えたのだが。すまない」チャラナは力なくうなだれた。

「母さま、私達もお供します。妹と弟の仇を打ちたいのです」

「お前たちは危険だから残りなさい。私一人で充分です」

 子どもたちがカリーアの周囲にわっと集まり、口々に訴えた。

「母さまだけで行かせるわけにはいきません。それに、実践なくして強くはなれないでしょう?」

「母さまの邪魔はしません、一緒に行かせて!」

「お願いします!」

 カリーアはため息をついて言った。「危なくなったらすぐこの山に帰ること。決して死なないこと。この約束を守れる者だけがついてきなさい」

 こうしてカリーアと《黒翼の天使たち》はエダ将軍一行の後を凄まじい勢いで追った。

 

 エダ将軍を追跡する途中、子どもたちは死んだ弟を殺した《外の人間たち》に憎しみを抱き、集落や森を見ると手当たり次第に火球を投げつけた。強風が吹き、エベディヤン王国南部の集落は炎に包まれた。

「エダ将軍! 南部が焼け落ちようとしています」後方から上がった火の手に、兵士たちは驚きを隠せなかった。

 やがて後方から嵐と共に黒い塊が迫って来ていた。

「何だあれは? カラブランか?」エダ将軍がつぶやいた。

「あれは……、《黒翼の天使たち》です!」

 兵士たちは黒く蠢く集団に怖気づき、捕獲した子どもを置いて逃げ出した。

「待て、逃げるな、迎え撃て!」エダ将軍は兵士たちを制した。残った兵士たちは迫りくる《黒翼の天使たち》めがけて矢を放ったが、強い向かい風で矢は届かなかった。

 ついにエダ将軍に追いついた《黒翼の天使たち》は、容赦なく兵士たちの頭上へ土砂降りのように火球を降らせた。兵士たちは次々と跡形もなく焦がされた。

 それでも果敢に弓を射る者たちがおり、子どもが五人射抜かれ地上に墜落した。怒ったカリーアは腰から剣を抜くと、軽やかな足取りであっという間に兵士との距離を詰め、一振りで兵士の首を切り落とした。

 カリーアは顔にかかった返り血を何気なく舐めた。すると全身に強い衝撃が走り、瞳孔が開き心臓が早鐘のように打った。カリーアは恍惚とした表情を浮かべ、兵士の首を持ち上げ、滴る血を口に流した。すると全身に力が漲るのを感じた。カリーアはもう優しいだけの母ではなかった。人の形をした《何か》に変貌を遂げたのだった。

 カリーアは切り落とした兵士の首を腰にくくりつけると、次の標的を定め、首を切り血を啜った。カリーアの腰には次々と兵士の首が括り付けられた。

 エダ将軍は正面からカリーアに馬で接近し、闘いを挑んだ。

「この化物め! 早く冥界へ帰るがよい!」

 エダ将軍の剣がカリーアの頭上に振り落とされた。しかしカリーアは剣をかわすと、そのまま高く飛び上がり、エダ将軍の馬に飛び乗って背後に迫った。間髪入れず、カリーアは剣でエダ将軍の背中を貫いた。エダは絶叫して馬から転げ落ちた。

 カリーアはエダ将軍の首筋に手を這わせた。

「お前の血は格別に美味しそうだ。エダ、もう忘れたのか? 私はお前が殺したカリーアだよ」カーリーは薄ら笑いをして喉の奥を鳴らした。

「なんということだ! 冥界から蘇ったのか。これ以上カダー様の造られた世界を破壊するな。そして、カダー様に、近づくな!」

 エダは自らの血でむせ返りながら、声を絞り出して言った。口の端から血が滴り落ちた。カリーアはその血を舌ですくって眼を細めた。

「カダーに忠誠を誓うなんて愚かな! カダーは己の器も、欲望も、運命も、何もわかないまま不安に振り回されているだけの奴だ。……そうか、お前はカダーの全てを欲したのだな。お前はカダーを支配し、操作した。そして私の子を殺した。そう、お前が殺したのだ」カリーアはエダの腹の傷口から手を入れ、内蔵を引きずり出し、引きちぎって背後に投げた。飛んできた子どもたちが群がって弄んだ。エダの絶叫が響き渡った。

「まだだ! 私が味わった苦しみはそんなものじゃない。もっとだ!」

 カリーアはエダのまぶたに手を置き、そのまま力を入れて目玉を取り出した。絶叫し続けるエダを見下ろしながら、右目を口に入れ、飴玉を転がすようにしゃぶった。左目を空に投げると子どもたちがわっと群がって取り合った。

「ああ、夢のようだ。お前を苦しめ、血を啜るのをどれだけ楽しみにしてきたことか」

 カリーアは飴玉を噛み砕くように、エダの目玉を潰した。そして悶えるエダの首筋をゆっくり舐め、この世の全てに理解を示すような、優しい笑顔を見せた。

「エダ、冥界へ行け。じきにカダーもいっしょに送ってやる」

そう言うと頸動脈に噛みつき、エダの身体の隅々から血を吸い取った。エダの身体は急速に萎んでいった。

「カダー様……」

 エダは絞り出すようにつぶやき、絶命した。カリーアはエダの頭部を掴むと胴体から引きちぎり、腰紐に括り付けた。エダの血を最後の一滴まで吸いつくしたカリーアの目は、異様に輝いていた。そして空を見上げると、全身を震わせ、涙を流した。

「復讐はもう終わってしまったのか? いや、まだ終わっていない。全然足りない、もっと、もっとだ……!」  

 カリーアの身体から閃光が発せられた。西の空がどす黒く渦巻き、生暖かい空気が流れ込んできた。猛スピードで黒い風のカラブランが吹き始め、砂が舞い上がり人々の視界を遮った。

 《黒翼の天使たち》は、手のひらで火の球を作り出し、次々と空に投げると、カラブランに乗って空に舞い上がった。無数の小さな火の球は渦を巻きはじめ、巨大な炎の柱となって地上を這った。

 やがてカリーアは炎のなかで舞い始めた。

―トーン、ダダダダン、トーン、ダダダダン―

片足で蹴り上げて飛び上がり、上半身を弓なりに反らせ宙返りし、着地して地面を連打した。すると大地が大きく揺れ、《黒翼の天使たち》は歓声を上げながらカラブランに次々と火の玉を放り投げた。エダの血に陶酔したカリーアは大地を揺るがす舞に没頭し、より激しく舞った。トーン、ダダダダン、トーン、ダダダダン――。

 エベディヤン王国の南部は焼け落ち、西部も炎に包まれていった。

 

「ほう、派手にやっているな。カリーアの力はたいしたものだ。良いのか、ヒルダ? 西はお前の領土だろう。このままだと焼け落ちるぞ」

 大魔女ヘカティーは額にある第三の眼でカリーアを眺めながら、口元に笑みを浮かべた。「この勢いだと西どころかメリンダの北も落ちるな」

 いつもは冷静なヒルダは怒りで顔を紅潮させた。しかし風の使い手であるヒルダには不利な形勢だった。冷や汗が全身から吹きだした。

「必ずや止めてみせます」

 ヘカティーはヒルダを一瞥すると鼻で笑った。「やれるかな? お前が失敗したら西も北もカリーアに与えるぞ。その時にはお前に地獄の門番でもやってもらおうか」ヘカティーは踵を返すと三人の魔女を引き連れて去っていった。

 西の烽火台の上からは、巨大な火柱からどす黒い煙が天に昇っているのが見えた。ヒルダは北の空を見上げた。

メリンダ、と呟くとヒルダは心臓を鷲掴みにされたように痛んだ。それは幼馴染のメリンダがヒルダに残した傷跡だった。

あのときメリンダがヒルダの提案を断らなければ、二人の力を合わせれば、ヘカティーを倒せただろう。二人が一つになれば、どこにでも行けただろう。

しかしメリンダには守るべき人々や動物たち、地下水や森があると言った、ヒルダが手に入れたいと望んだ世界より、守りたい世界があったのだ。どこまでも優しいメリンダなら言いそうなことだった。理解しつつも選ばれなかったという事実が、長い間ヒルダを苦しめた優しいメリンダが願ったヒルダの幸福が、杭になって心臓に突き刺さり、血を流し続けていた。

 ヒルダは北の地から死の匂いが流れ込んでくるのに気づいた。メリンダに危機が迫っていた。ヒルダは見えない血を流しながら北の地へ飛んだ。

 

 三姉妹は家で夕飯の準備をしていた。突き上げるような揺れに、三姉妹は悲鳴を上げた。窓ガラスは割れて床に落ち、転倒した家具は壁まで滑り衝突した。割れた窓からは煙が流れこみ三姉妹は咳きこんだ。

「アセナ! エリナ! 大丈夫?」ソフィアが叫んだ。

「うん、大丈夫。ガラスで顔を切っちゃったけど」アセナは頬から流れる血を拭いながら立ち上がった。

「私は大丈夫! ちょっと打っただけ」腕を抑えながらエリナも返事をした。

「一体何が起こったのだろう。市場へ行った母さんは大丈夫かな」ソフィアが言い終わらないうちに、再び突き上げるような揺れが起こった。三人は砕けたガラスの上に転倒し、悲鳴を上げた。

 揺れが小さくなってきた頃を見計らって、三人は外へ出た。そして高台に上り息を飲んだ。

 黒煙が空にたちこめ、あちこちで巨大な火柱が渦を巻いていた。家々が、木々が、家畜が、畑が、燃えていた。全てを飲み込んで大地がごうごうと唸り声を上げていた。

「あれは何だろう?」アセナが西の方を指さした。

 何かが宙で大きく弧を描きながらこちらに向かっているのが見えた。鳥のような黒い大軍がその周囲に群がって飛んでいた。

「邪悪な力を感じる」アセナは両手で震える身体を抱いた。

「どうしよう、こっちに向かってきている。怖い!」エリナが叫んだ。

「山の向こうへ逃げましょう」ソフィアが提案した。

「でも母さんが絶対山を越えちゃいけないと言っているじゃない。カダー王の住むエベディヤン宮殿に近づくと危ないって」エリナが首を振った。

 その時アセナが叫んだ。

「あそこに母さんがいる!」

 猛スピードで進む黒い塊の前方に、白いパランジャをはためかせた人が立ちふさがった。

「どうして、母さんがあんなところに」ソフィアがつぶやいた。

「ここを、私たちを守るため?」エリナが答えた。

「助けにいかなくちゃ!」アセナは鳥笛を吹いて大鷲の《ザイラ》を呼び出し、背中に飛び乗った。

「待って、アセナ、私も行く」エリナも続いて鳥笛を吹き《ザイラ》を呼んだ。

「エリナは危ないから残って」ソフィアがエリナの肩を掴み鳥笛を吹いた。「私が行くから」

「私が水を操れるのを忘れたの? あの火を消せるのは私だけだよ」エリナは飛んできた《ザイラ》の背中に飛び乗った。

 ソフィアはため息をつきながら言った。「そうだったわね。でも危なくなったら逃げるわよ」ソフィアも飛んできた《ザイラ》に乗った。

「よし、行くよ!」アセナは《ザイラ》の首をぽんと叩くと風をきって上昇し、ソフィアとエリナも後に続いた。

 吹き荒れる嵐の中心へ、三姉妹は飛びたっていった。

 

 カリーアの一行が北の領土に到着する前、メリンダは市場で夕飯の買い物をしていた。夕飯用には羊肉と玉ねぎを炒め、米と水を加えて蒸すポロと、明日の朝食用にはねじり揚げうどんのサンザを買った。一人あたり三人分は食べるので、二食分の買い物でもかなりの荷物になった。

「はいよ! 羊肉もう一人分おまけしといたよ。美人さんたちによろしく!」肉屋のおじさんがウィンクした。

「ありがとう。クワスが美味しくできたから、今度おすそわけするわね」

「楽しみにしてるよ。メリンダさんのクワスを飲むと寝付きがいいや」

「でしょう? いい夢が見られる薬を入れているのよ」

 メリンダは食材を驢馬に積み、背中にまたがった。

 その瞬間、下から地面が突き上げられ、火の手が上がった。建物は崩れ、方々から悲鳴が上がった。

「まさか、カリーアが?」メリンダは信じられない思いでいた。口笛を吹くとすぐさま頭上にひときわ大きい《ザイラ》が現れた。メリンダは《ザイラ》の足首を掴むと反動をつけてくるりと回転し、背中に飛び乗った。

「カリーアのところへ行ってちょうだい」

《ザイラ》は一鳴きすると逆風を切り裂いてカリーアの元へ飛んだ。

 

 カリーアは踊り狂って大地を揺るがし、《黒翼の天使たち》は火球を嵐に放って火柱にした。悪夢のような行進は猛スピードで北の領地を進み、カダー王の住むエベディヤン宮殿へ向かっていた。

 カリーアの腰に括り付けられた兵士たちの首が、舞い上がる度に跳ねた。《黒翼の天使たち》は大地の揺らぎに合わせて黒翼をはためかせ、歓喜の声を上げた。

 邪悪な行進の前方に、一羽の《ザイラ》が舞い降り、白いパランジャをはためかせた小柄な女を残して飛び立った。陶酔したカリーアは意に介さず、そのまま踏み潰して通過しようとした。

 しかし突如、脳内に大声が響き渡り、驚いて立ち止まった。

 ―カリーア、止まりなさい。ここから先に足を踏み入れてはいけない―

 眼の前の女から声が発しているのが分かると、カリーアは叫んだ。

「私の邪魔をするな」

 カリーアはメリンダに突進した。すると強烈な光がメリンダの手元から発せられ、周囲は昼間のように明るくなった。カリーアは後ろに飛ばされ、砂礫の上に転倒した。

「ここは私の領土よ。去りなさい」

 カリーアは低い唸り声を上げて起き上がり突進したが、メリンダは閃光を発して再びメリンダを吹き飛ばした。

「カリーア、燃える湖にお帰り」

「お前は誰だ」カリーアは光り輝くメリンダを睨みつけながら言った。

「私は北の地を守る者、メリンダよ。そして……」メリンダは眼を細めて言った。「あなたが産んだ三つ子の母よ」

 メリンダの眼が大きく開かれた。一歩一歩カリーアに近づくと、メリンダの肩を掴んで爪をくい込ませた。

「戯言はよせ。娘たちは産まれてすぐカダーとエダに殺されてこの世にいない。これからカダーとエダにたっぷり礼をしに行くところだ。邪魔をするな」カリーアはメリンダを正面から睨みつけた。すると頭上で急速に黒い雲が渦巻き、雷鳴が轟いた。

 カリーアは視界の隅で、《ザイラ》から三人が飛び降りるのを捕らえた。カリーアはさっと片手を上げて下げた。すると稲妻と竜巻が三姉妹めがけて落とされようとした。振り向いたメリンダは間髪入れず光線を放った。メリンダの手から放たれた光線と、落雷がぶつかりあって巨大な爆発が起こった。メリンダは三姉妹の上に身を投げて爆風から守った。

 一方、《黒翼の天使たち》はカリーアの周囲に群がって爆風から母を守った。カリーアは《黒翼の天使たち》の合間から、背中を見せたメリンダを発見した。その隙をカリーアは逃さなかった。黒煙がたちこめるなか、タタン、トーンと舞うと、剣を抜きメリンダの背中に深々と突き刺した。カリーアの剣はメリンダの心臓を貫いた。

「母さん!」

 三姉妹は悲鳴を上げた。足元に血がゆっくりと広がっていった。メリンダはカリーアを指すと何か言いかけたが、逆流する血液で咳き込み聞こえなかった。

 呆然とする三姉妹の横に誰かが滑り込んできた。

「私が手当する。お前たちはカリーアと闘うんだ」ヒルダはそう言うと、心臓に剣が刺さったままのメリンダを抱いて飛び立っていった。

 ヒルダは戦場から離れた岩陰にメリンダを横たえると、剣を抜き、傷口に手をかざして塞ごうとした。しかし、メリンダの剣に込められた強力な呪いがそれを阻止していた。メリンダの心臓からは血が流れ続けた。ヒルダは焦った。

「メリンダ、ああ、メリンダ」

「ヒルダ……」メリンダは血だらけの手でヒルダの頬をなでた。

「あなたのこと、ずっと気になってたの。私、逃げてしまってごめんね」

 ヒルダは死にゆくメリンダの胸の上に涙を落とした。ヒルダは歯を食いしばり出血を止めようとしたが、手の隙間から血が溢れた。

「メリンダ、また私を置いていってしまうのか」

「ごめんね」

 力を失ったメリンダの手がヒルダの頬から滑り落ちた。ヒルダはメリンダの亡骸を抱きしめたまま、いつまでも動かなかった。

 

 三姉妹はカリーアを食い止めるべく闘いを開始した。

 エリナは地下水を誘引した。地面を突き破り空高く水が噴出した。火球を投げてくる《黒翼の天使たち》に向けて、エリナは水の塊を叩きつけた。さらに方々に立ち上る火柱を水の渦で囲み、次々と鎮火させた。

 ソフィアはカリーアの「罪」を食べ、戦意を喪失させるべく、カリーアの意識に潜入しようとして低く響く声で歌った。

 カリーアはソフィアの試みにすぐさま気づき、腰についている兵士の目玉をくり抜いて耳に詰めた。

「お前の歌はもう聞こえないぞ。残念だな」カリーアは楽しそうに笑うとタン、タン、タターンと舞いながらソフィアを蹴り飛ばした。ソフィアは空高く飛ばされ地面に叩きつけられた。

「ソフィア!」アセナはソフィアの元へ駆け寄った。

 ところが急に音が遮断され、アセナははっとして歩みを止めた。

 眼を閉じると冥界の扉が開き、母さんの背中が吸い込まれるのが見えた。

 

   母さんが死んだ。

 

 その事実だけ明確な輪郭をもってアセナに迫ってきた。アセナの心は真っ白になった。

「アセナ! どうしたの? しっかりして!」エリナが火球を投げてくる《黒翼の天使たち》を水圧で跳ね飛ばしながら、叫んだ。

「アセナ!」

「……母さんが死んだ」

「え?」エリナの動きが止まった。「何言ってるの、そんなわけないじゃない、あんなに強い母さんが」 

「アセナ、見えたのね」ソフィアは言った。アセナはうなずいた。

「あいつの剣が母さんを死に追いやった。私たちを守ろうとして死んでしまった。私がもっと強ければ、私にもっと力があれば、母さんは死ななかったのに!」 

 アセナは空に向かって絶叫した。

 するとアセナに異変が起きた。

 突然、アセナの周辺が深い暗闇に包まれ、時が止まった。火柱も砂嵐も、ソフィアやエリナ、カリーアやその子どもたちも消えた。張り詰めた静寂だけが残った。アセナはただ一人、道が交差する四つ辻に立っていた。背後には蝋燭が立っており、アセナの足元から影が伸びていた。アセナは驚いて身動きが取れなくなった。

 ふと気がつくとアセナの目の前に松明を持った三人の少女が立っていた。三人とも同じ顔をしており、何の表情も読み取れなかった。少女たちの後ろには眼が空洞の黒い犬が舌をだし、浅い呼吸を繰り返していた。三人が手を差し出した。一人目の少女の手のひらには古びた銀の鍵、二人目はロープのような臍の緒、三人目は研ぎ澄まされた短剣を握っていた。

「あなたたちは誰? 私はなぜここにいるの?」アセナは驚いて聞いた。

「私は死の支配者、ヘカティー。お前が私を呼んだのだ」三人の少女が一斉に口を動かした。その声は同時に低く高く響き、子どもの澄んだ声と老婆の嗄れた声が混ざった、なんとも不思議な声だった。

「私が?」

「そうだ、私の力を欲しただろう。おや見たことがある顔だ。お前は幼い頃一度、《冥界の扉》を開けたことがあるな。願いはなんだ」

「母さんを、母さんを生き返らせて!」アセナは叫んだ。

「それはできない。一度死んだものを生き返らせることはできない。死んだまま冥界の扉から呼び出すことはできるが、腐敗して生前の姿をとどめてはいないぞ。お前に正視できるかな」そう言うと三人の少女は奇妙な声でけたけたと笑った。

「では私に力をください。母さんの仇をとらせて」

 三人の少女はアセナに触れそうなほど顔を近づけてきた。産まれたばかりの赤子と死にゆく者の匂いがした。「ほう、ずいぶん簡単に言うものだなあ。お前は私に何をくれるんだい?」

 アセナは言葉につまった。私は何を持っていて、何をあげられるのだろうか。しばらく考えてから答えた。

「私の魂を」アセナはきっぱりと少女たちを見据えて言った。

それを聞いた三人の少女は服の裾をひらひらさせながら回りはじめ、交互にアセナの唇に唇を重ねていった。一人は軽やかに、もうひとりは甘美に、最後の一人は荒々しく。やがて三人とも闇に消えた。

 アセナはまた一人になって四つ辻に立っていた。

 今度は足元からは自分の影が長く伸び始めた。背後の蝋燭がじりじりと音をたて、蝋の溶ける匂いが立ち込めた。

 風がないのにアセナの影がゆらゆらと揺れた。アセナの形をしていた影は次々と異なる形に姿を変え、アセナを激しく混乱させた。

 最初は母さんの姿に、次にエルビン、ソフィア、エリナに、そして影がざっと広がって《黒羽の天使たち》が羽ばたきはじめ、踊り狂うカリーアが縮んでは伸び、不規則に点滅したりした。アセナの全身から汗が吹き出し、心臓は早鐘のように鳴りはじめた。

 やがて短刀を持ったカリーアの影がアセナに襲いかかり、心臓を貫いた。アセナの身体から血が噴水のように吹き出した。カリーアの影は、その血を美味しそうに啜った。

 アセナはこれ以上立っていられなくなり、ぎゅっと眼を閉じて心をある一点に向けた。

 アセナが目を閉じて現れたその場所には、温かな袋の中で身体を丸めているアセナ自身がいた。もっとこの暗い部屋にいたい、と願った。しかし押し出そうとする強い力が全身にかかった。アセナは抗った。もっとこの管で母さんと繋がっていたのに、やめて、やめて、やめて! 声にならない叫びをあげつつアセナは光の中へ押し出された。初めて肺に空気が入り、苦痛の声を上げた。やがて臍から出ている管を切る音が聞こえた。これで一体だった母と私は離されたのだ。私は寒さに震え、一人で立っていることに泣いた。こうして私は死に向かって走り始めたのだった。

 アセナは閉じた目を開き、空を見上げると赤い月が出ていた。アセナはその暗い輝きに魅せられた。背伸びをして手を伸ばすと月に届いた。アセナは月を引き寄せると、両手で月を抱きしめた。赤い光はアセナを貫き、そのまま腹に沈み込んだ。月に内蔵が押しつぶされ、アセナは激痛のあまり地面の上でのたうち回った。しかし意識を失うことは許されなかった。赤い月はアセナの中で転がり、皮膚から光が漏れてアセナの全身が光り輝いた。月は膨張しはじめ、アセナの身体を突き破り空に昇った。

 

 澄んだ鈴の音が、ちりーん、ちりーんと響いた。アセナは気がつくと再び四つ辻に立っていた。先程の三人の少女が微笑んでアセナの手をとった。

「お前には私の力を与えた。さあ、行くがよい。心の赴くままに」

 生と死が混ざりあった匂い、老いと若さが共存する声がアセナを駆け抜けた。

 

 ソフィアがアセナの頬を叩いた。

「アセナ!」

 アセナは不思議そうに二人の姉妹を見た。「私は……」

「しっかりして! 私だけじゃ持ちこたえられないよ!」エリナは水を操りながらアセナに怒鳴った。

 アセナはようやく理解した。死を司る大魔女ヘカティーの元に呼ばれたこと、魂と引き換えにヘカティーの力をもらったことを。

 アセナは未知の感覚に戸惑っていた。身体がここに存在しないような軽やかさと、身体の隅々まで漲る力を感じていた。

 アセナが片手を上げると空気が猛烈な勢いで渦を巻き、《黒翼の天使たち》が吸い込まれていった。次にアセナは地面に穴を開け巨大な土塊を削りだして、踊り狂うカリーアめがけて投げつけた。しかし《黒翼の天使たち》がカリーアの前に身を呈して粉砕した。続いてアセナは地面を拳で叩いた。するとカリーアめがけて地面が割れ、足元の地面が陥没した。カリーアはひらりと舞うと穴の縁に着地した。アセナは着地点を狙ってカラブランを呼び起こしカリーアに放ったが、カリーアが呼び寄せたカラブランに跳ね返された。

 アセナはカリーア目掛けて突進した。カリーアは腰からもう一本の剣を抜いて構えた。アセナはへカティーからもらった短剣を手に、カリーアへ切りかかった。

「小賢しい。そんな短剣で、私を、切れると思っているのか!」

 カリーアは剣を振りアセナの短剣を跳ね飛ばした。アセナは後方に飛び短剣を手にとって地面に着地し、足踏みをして舞い始めた。トーン、タタタタン、トーン、タタタタン……

 アセナの舞に合わせ、短剣が暗闇の中で光の軌道を描いた。

「私と同じ技……。なぜだ」

「わからない。身体が動くの。そして、」アセナは力強く地面を蹴り、宙を舞った。「母さんの仇を取る!」

 閃光が走りカリーナはアセナの姿を見失った。その瞬間、カリーアは首に冷たくて熱いものが走るのを感じた。カリーアが最後に見たものは、アセナの悲哀と怒りに満ちた美しい顔だった。カリーアはかつての自分と同じ顔をそこに見て、一瞬で全てを悟った。そして喜びの感情が胸いっぱいに広がった。よかった、生きていたのね……。

 大量の血飛沫があがり、ゆっくりカリーアの首が地面へ向けて落下した。

 三姉妹は死んだカリーアを見るとその表情に驚いた。優しく微笑んでいたのだ。

 《黒翼の天使たち》は泣きながら母の遺体を《燃える湖に泳ぐ山》へ持ち帰った。三姉妹への復讐を誓いながら。

 

 燃える湖に映った一連の様子を見て、チャラナは息を飲んだ。

「カリーアが、カリーアが……」

 チャラナは火の手が上がる北の方角を見て呆然とつぶやいた。

「全てを終わらせよう」

 チャラナは残された最後の力を振り絞って《燃える湖に泳ぐ山》から飛び立ち、三姉妹とカダー王のいる北の領地を目指した。

 

   第四章

 

 北の地でカリーアを殺めた三姉妹の前に降り立ったチャラナは、ようやく長い話を終えた。三姉妹とチャラナの間に沈黙が訪れた。頭上の深い闇に星々が煌めいていた。

 アセナが重い口を開いた。「私は、なんていうことを……、産んでくれた母さんを殺めてしまった」アセナは母の血で染まった手を震わせた。

 ソフィアがアセナの手をとって言った。「あなたがやらなかったら、私達は殺され、北の地も焼き尽くされていたでしょう。あなたは私やエリナ、エルビン、村の人達の命を守ったのよ。どうか自分を責めないで」

 そいうとソフィアはアセナの胸に手をあて、罪を食べようとした。しかし、アセナは拒んだ。

「どうして? あなたは苦しむべきじゃない」ソフィアは説得した。

「ありがとう。でも私は背負っていこうと思う。私と産んでくれた母さんとの絆はそこにしかないから」アセナは哀しそうな目をして、しかしきっぱりと言った。

「わかったわ。でも耐えきれなくなったら、私にも背負わせてね」

「ありがとう、姉さん」二人は固く抱き合い涙を流した。エリナも二人の背に腕を回すと一緒に泣いた。

 チャラナは表情のない目でその光景を見つめると、大きく翼を羽ばたかせてタキリ渓谷を後にした。

「罪深い娘たちの次は、愚かな父のところへ行こう」

 未だ日の昇らぬ暗い空を、エベディヤン宮殿目指して飛んだ。

 

 エベディヤン宮殿では、カダー王がつかの間の睡眠を取り戻そうと、ベッドの上で無駄な格闘をしていた。長年に渡り眠りを奪われ、カダー王の精神は消耗し、目は落ち窪んで血走っていた。眠るために麻酔を常用していたが、血まみれのラスラン王とハカン王子が現れ、カダーをじっと見つめる悪夢で目が覚めた。

 カダー王は部屋の空気が変わったのに気づいた。枕元の剣を掴み、鞘から剣を抜きながら言った。

「何者だ」

「剣をおさめよ、カダー王。私はチャラナだ。お前に知らせを持ってきた」

「《神の采配》を司る鳥の人よ、一体何の知らせだ」

「お前が寵愛しているエダ将軍が死んだ」

 カダー王は深いため息をつき、肩を落とした。「いつか、この知らせを聞く時が来ると思っていたが、そうか。私からは眠りも去り、魂を分かち合う者も去りってしまったのか」

 チャラナは続けた。

「お前が十七年前に殺したはずの三つ子は生きている」

「なんだと?」

 カダー王は十七年前、ヒルダが告げた《この三姉妹はカダー王の国を滅ぼすであろう。そしてカダー王を殺すであろう》という予言を思い出した。

「三つ子は今何処に?」

「エベディヤン王国北のタキリ渓谷にいる。このままだとお前も、エダとお前が築き上げた国も滅びるぞ」

「すぐに暗殺者を手配しよう」

「今の三つ子にとって暗殺者を迎え討つなど、赤子をひねるようなものだ。もっとも、お前のところの暗殺者は十七年前、赤子も殺せなかったわけだが。今の三つ子はこの宮殿を簡単に吹き飛ばせるくらいの魔力を持っている」

 カダー王は軍神と呼ばれた頃の精悍な顔に戻った。「よくぞ知らせてくれた。兵士を招集し夜明けを待たずにタキリ渓谷へ差し向けることにしよう」

 チャラナは神妙な面持ちで頷き、宮殿を後にした。そしてタキリ渓谷とドラスマク砂漠が見渡せる山頂へ向かった。

「さて、役者はそろった。最後に最高の舞台を見せてもらおうか」

 

 丘の上からアセナたち三姉妹の闘いを見守っていたエルビンは、チャラナが去るのを見届けると三姉妹の元に駆け寄ろうとした。しかし、入る余地がないと感じたエルビンは、家畜の世話をしに牛舎へ戻った。

 疲労がたまったエルビンは、干し草の上でうたた寝をしていたが、牛たちが落ち着きを失い、鳴きはじめたので目を覚ました。間もなく地響きがし、牛舎が揺れた。

 エルビンは驚いて外へ飛び出してみると、タキリ渓谷の集落を目指して、今まで見たことのないような大軍が押し寄せるのが見えた。

 エルビンはアセナからもらった鳥笛を力いっぱい吹いた。

 

 アセナは渓谷の方向から鳥笛が聞こえるのに気づいた。

「エルビンだ! 何かあったのかもしれない。急ごう」

 三姉妹は鳥笛で《ザイラ》を呼び寄せると、それぞれ飛び乗って渓谷に向かった。するとカダー王配下の兵が列を組んで集落に行進しているのが見えた。前衛の後ろには使い込んだ甲冑を身に着けたカダー王が馬に乗っているのが見えた。

「何なの、あれは!」エリナが悲鳴をあげた。カダー王の後ろには、優に三十メートルは超えるであろう、巨大な生物が地上を這っていた。

「このままでは集落が潰されてしまう。迂回させて砂漠へ誘導しましょう」ソフィアが言った。

「わかった。指揮者の王と、あの巨大な生物の気を引こう」

 アセナは《ザイラ》でカダー王の頭上近くまで下降し叫んだ。

「やめて! 私たちの村を壊さないで!」

 護衛兵がすぐさま気づき、アセナめがけて矢を放った。アセナは再び空高く上昇した。

 カダー王がアセナに向かって叫んだ。「お前は三つ子の魔女か?」

 アセナは矢を避けながらカダー王に近づいた。「そうよ、あなたの娘よ、カダー王」

 カダー王は目を細めた。自由に獣を操り、空を飛ぶその娘は、かつての溌剌としたカリーア姫を彷彿とさせた。カダー王は目を閉じると、深呼吸して再び目を開いた。

「私はエベディヤン王国の王だ。お前たちにこの美しい国を破壊させるわけにはいかない」

 アセナは叫んだ。「私たちはそんなことをしない! この村を守りたいだけだ!」

 カダー王は表情を変えることなく兵士たちに言い渡した。「あの獣に乗って飛ぶ三人を殺せ! 仕留めた者には褒美をつかわすぞ!」

 ソフィアは言った。「交渉は無理ね。村を迂回するルートで砂漠へ誘導しましょう」

「了解。私はあの巨大な生物を誘導してみる」エリナがうなずいた。

「私は兵士たちを」アセナが言った。

 エリナは巨大な生物に近づき、体内の快楽回路を探って驚愕した。

「これは、もしかして人なの?」

 その生き物の脳の構造は、人間そのものだった。しかし巨大な身体の中には脳が一つではなく、無数の異なる脳が存在していた。

 エリナはそのおぞましい構造に身震いした。一つの個体の中に、このような大量の脳が存在することに出くわしたことがなかった。

 エリナは力を発するために、いつも以上の集中力を必要とした。エリナはありったけの力を振り絞り、できるだけ多くの脳に働きかけ、エリナの姿と連動させた快楽のスイッチを押した。すると、巨大な生物は集落めがけて進んでいた足をピタリと止めた。

 兵士たちは慌てた。「どうしたのだ? 進め!」

 巨大な生物は小刻みに身体を震わせると、砂漠の方角へ飛ぶエリナめがけて突進しはじめた。

「ああ! そっちじゃないぞ!」砂漠の方面に突進しはじめた巨大な生物を押し止めようとしたが、兵士たちは跳ね飛ばされ、列が乱れた。

 アセナとソフィアは大軍の上を挑発するように低空飛行しながら、砂漠の方向に誘導した。兵士たちは三姉妹を討つべく後を追った。

 大軍が渓谷の集落を抜け、砂漠に出たのを見届けると、ソフィアは低く響く声で歌い、最前線の矢を射る兵士たちの精神に入り込んで次々と戦意を喪失させていった。ソフィアに精神を撫でられた兵士たちは、矢と弓を砂漠の上に落とし、目的を失って立ち尽くした。

 アセナはカダー王目掛けて急下降し、短剣で切りかかった。カダー王は素早く剣で封じると、二人は間近で睨みあった。

「お前を殺さなければならない」カダーが凄んだ。

「私たち三姉妹に関わるなと言いたいが、あなたは聞き入れないのだろう。仕方がない」そう言うと、アセナはヘカティーから引き継いだ異世界への扉を開き、カダー王を連れ出した。

 

 チリーン、チリーンと鐘の音が響いた。

 カダー王は気づくと蝋燭が揺らめく四つ辻に立っていた。いつの間にか率いていた兵士たちも、イクムタンルもいなくなっていた。足元からは影がどこまでも伸びていた。この異変にカダー王は動揺した。

 目の前に白い服を着たアセナが立っていた。左手には長い臍の尾と古びた鍵を握り、右手には短剣を持っていた。

「カダー王、お前の望みは何だ」アセナは聞いた。

「望みだと? それはお前たち三つ子を殺して王であり続けることだ」

「ほう。ではその代わり私に何をくれるのだ?」

「与えるだと? 奢るな。お前は奪われるだけだ」そう言うとカダー王はアセナに切りかかった。しかしアセナの姿は消え、剣は虚しく地面に落ちた。

 四つ辻に立てられた蝋燭の火が激しく揺らめいた。足元から伸びている自分の影がどんどん伸びていき、周囲の闇と同化し始めた。ついに蝋燭が消え、闇が訪れた。

 風もなく、音も無い、完全な闇だった。カダー王に闇が密着し、徐々に体内へ侵食してきた。カダーは息苦しくなり肩で息をした。眠りを奪われた王は光すら奪われ、恐怖が腹の底から這い上がってきたが、絶叫は闇に吸い込まれて音にならなかった。カダー王は完全に闇に捕らえられた。

 再びアセナが四つ辻に現れた。アセナはカダー王の前に立ち、短剣を振りかざしてとどめをさそうとした。しかしその瞬間、横から強い力で突き飛ばされ地面に転がった。

 そこにはソフィアがいた。歌を用いてアセナの世界へ滑り込んだのだ。ソフィアは素早くカダー王の胸に手をかざすと、青白い光が発せられ、心臓から漆黒の水晶を取り出した。

「やめて、ソフィア!」

「またあなただけに背負わせるわけにはいかないのよ」 

 ソフィアは微笑んでそう言うと、漆黒の水晶を口に含んで噛み砕いた。

 罪を食べられたカダー王は、ヘカティーの呪いが解け、十八年ぶりの眠りが訪れた。しかしそれは二度と目覚めぬ、永遠の眠りとなった。カダー王の顔には長年の苦悩が刻まれてはいたが、安堵の表情が浮かんでいた。

 

 巨大な生物はエリナに誘導されて、ドラスマク砂漠へ出た。

 エリナは砂漠の奥深くに流れる水脈から水を噴出させた。巨大な生物を溺れさせ水圧で潰そうとした。生物を巨大な水球の中に閉じ込めると、水流を作って掻き回した。生物は水の中でもがき苦しんだ。

 エリナは生物が入った巨大な水球を空高く持ち上げ、破裂させた。生物は空中で八つの足をばたつかせながら、尖った岩の上に背中から落ち貫かれた。醜い断末魔が辺りにこだました。

 アセナとソフィアがエリナの元に辿り着いた。追ってきた兵士たちは、《神の采配》から産まれたばかりの最強の兵器である《イクムタンル》が、串刺しにされるのを信じられない思いで見ていた。

 人々が見守る中、《イクムタンル》の背中からどっと粘着質の液体が流れだした。すると割れ目から強烈な光線が発射し、彼方水平線まで貫いた。暗闇の中に現れた光の筋は人々の目も射ぬいた。

 《イクムタンル》の身体から泡のような球体が噴水のように湧き出て、辺りを漂った。しばらくすると浮遊する泡を割って人間が飛び出してきた。一人、また一人、やがて爆発的に増えて、地平線目指して光の道を駆け抜けていった。

 すると兵士の一人が、泡から出てきた少女を指さして叫んだ。

「あれは……、あれは三年前に亡くなったセナじゃないか!」兵士は夢中で少女の名を叫び、手を振った。少女は歩みを止め、にっこり微笑んで手を振り返すと、再び光の中を軽やかに走っていった。兵士は二度と訪れることがないと思っていた再会に呆然とし泣き崩れた。

 兵士たちは知っている者の姿を見つけては、口々に歓喜の声を上げ、亡くなった人々が地平線目指して光の道を歩むのを見送った。《神の采配》から産まれ、死んだ者たちが光の中を旅立っていったのだった。

 朝日で闇の底が白くなってきた頃、無数に湧いてきた泡も残り少なくなってきた。ついにカリーア女王が出てきた。三姉妹の姿を見つけると、嬉しそうに微笑んで去っていった。最後の泡から、カダー王が出てきた。その顔は穏やかだった。ソフィア、アセナ、エリナは王と呼ばれた父の最後の姿を目に焼き付けた。

 やがて地平線から太陽が頭を出した。生を全うした者たちが歩んだ光の道は、太陽の光と溶け合い、消えた。沈黙の中、全ての兵士と三姉妹の上に太陽の光が降り注いだ。流された血と憎しみをやさしく洗い流すように。

 

 山頂から見ていたチャラナはもうほとんど見えない目で太陽を感じ、自らの肉体と精神が光に溶け込んで無になるのを感じた。こうしてチャラナは九九九年の生涯を終えた。間もなく《神の采配》も動きを止めた。

 

  終章

 

 エベディヤン宮殿では新たな女王を迎える準備に忙しかった。死んだと思われた三つ子の姫たちの生還に、民たちは驚き、熱烈に歓迎した。

 第一継承者の長女ソフィアは、女王の位を丁寧に辞退した。

「民を率いる資質を備えているのはアセナです。しなやかな強さ、優しさ、前進する力、全てを持っています。私は側で彼女を支えます」

 最初固辞したアセナだったが、ソフィアの粘り強い説得によりついに承諾した。

 まずは議会で議論を重ねた。最初に取り組むべき問題は、被害の大きい南部と東部の復興だった。そして《神の采配》なき今、新しい命をどう生み出すかが重大な問題となった。

 アセナは言った。「創生院で《神の采配》再建の研究を進める一方で、希望する者には自ら出産できるよう、手助けをする」と。

 アセナは子宮の機能を回復させる力を、望む者には施すことにしたのだった。

 家臣たちはその提案に驚き、非難する者もいたが、国力に結びつく人口の減少を放置するわけにはいかず、最後にはアセナの提案を受け入れることにした。

 

 宮殿に移る前日、アセナはエルビンの牛舎へ訪れた。温かな空気は干し草の香りを強くした。

「おめでとうございます、女王陛下」エルビンは恭しくお辞儀をした。

「苦しゅうない、面をあげよ」アセナはおどけて胸を反らし、二人は声を上げて笑った。

 真顔になってアセナは聞いた。「ねえ、エルビン。私と《家族》になっていっしょに宮殿に来てくれない?」

 エルビンは一瞬顔を輝かせたが、長い沈黙の後、アセナの目を真っ直ぐ見て言った。

「俺はこの暮らしが好きなんだ。ここから離れたら、自分じゃなくなってしまう。だから行けない。それに……」エルビンはためらいがちに続けた。「俺、《家族》になって暮らすって、どういうことだか分からないんだ。今の暮らしがあって、仕事があって、友人や恋人がいる。それで充分なんだ」

 アセナは息を飲み、素早く瞬きを繰り返した。涙は見られたくなかった。

「わかった。今までありがとう」

 エルビンは苦しげに頷いた。「どうか元気で」

「あなたも。さようなら」そう言うとアセナは足早に牛舎の外へ出て、家まで走った。

 

 家に着くと、ソフィアとエリナが汗だくになって庭で穴を掘っていた。

「母さん、随分深く埋めたのね!」エリナが言った。

「昔、家を出るときには木の下を掘れ、と言われたのを思い出したの。全然見つからなくてね。いつだって母さんは私たちに試練を与えるのね」ソフィアが苦笑した。

 穴から出てきたのは赤い紐で縛ってある大きな壺だった。美しい彫刻が施された壺には十七年前の日付と、《あなたの後ろに道はある》という文字が書かれていた。

「私たちが生まれた年に埋めたのね」ソフィアが日付を指でなぞりながら言った。

「《あなたの後ろに道はある》って、私たちの前に道はないってこと? 厳しいなあ」エリナが肩をすくめた

 泥で固めてある蓋を空けると、薬草のような甘い香りが立ち込め、中には液体が入っていた。

「これは、お酒?」ソフィアが小さなグラスに液体を注いでかざしてみると、鮮やかな琥珀色の液体が宝石のように輝いた。三人はその液体を恐る恐る口に含んだ。すると舌の上をとろりと滑り、甘みの中にやわらかな酸味とかすかな渋みを感じさせながら、胃を熱くして滑り落ちていった。

「さあ、アセナ、もっと飲みなさい」ソフィアはアセナのグラスに並々と注いだ。

「そうそう、ぱあっと飲んで忘れちゃいな、エルビンのことなんて」エリナはアセナの肩を抱きながら言った。

「ちょっと、二人とも何のこと?」アセナは顔を赤くして叫んだ。

「そんな泣きはらした目をしていたら誰だってわかるよ」エリナが言った。

 アセナは力なく笑うと琥珀色の液体を一気に飲み干した。「おかわり!」

「その意気よ! 私も飲むわよ」

「私も!」

 三人はメリンダの浴びるように飲み、顔を赤くして草の上に寝転がった。

「母さんがこのお酒を作って土に埋めた時、一日で飲み干されるとは思わなかっただろうな」アセナは笑いながら言った。

「でもさ、母さんが一緒に飲んだら、それこそ一瞬で空になってたんじゃない? 母さんすごく飲むから」エリナも笑うと、しんみりして言った。「母さんと飲みたかったな」

「そうね」ソフィアは言った。

「私たち、これからどうなっちゃうんだろう」エリナが呟いた。

「母さんの言うように、私たちで道を造るしかないんじゃない?」アセナは空を見上げながら言った。どこまでも遠く広がる青空に、雲がゆっくりと流されていった。

 三姉妹は死ぬまでの間、何度もこの時の空を心に描いた。

 

                        《完》

文字数:32259

内容に関するアピール

 親と子とは、家族とは、性とは、愛とは、妊娠・出産とは、人間とは、生と死とは、暴力の連鎖とは一体何なのか。私なりに一つ一つ向き合いながら書きました。

 妊娠中、赤ちゃんがお腹のなかで伸びをしてお腹が押され、足型が見えたとき、愛おしいと感じると同時にぞくりとしました。お腹にいるのは一体何だろう、その存在のなんと生々しいことだろう、と。ここまで人間が原始的で、いきものであることを実感できた体験はありませんでした。

 生殖医療の発展によりこの原始的な出来事が切り離された世界では、一体何が起こるのだろう、というのがこの小説における発想の起点です。

 この講座を通じて初めて周囲に「小説を書いている」ということをカミングアウトしたのですが、それが良い方面に作用し、自分を追い込んで書き上げることができました。

 次回は本作のテーマを更に深めて、長編にチャレンジしていきたいと思っています。一年間どうもありがとうございました。

文字数:406

課題提出者一覧