梗 概
月にその身をさらした子犬
月の商業物流基地で勤務していたKが、月面で宇宙服のヘルメットを脱いだ。素肌をさらしたのは数秒で再度着用したものの、衆人環視中の奇行は騒動となった。宇宙空間に素裸で放り出されたとしても、数秒の真空暴露であれば人体は耐えられる。しかしそのような蛮行に及んだ者はかつて無かった。何らかの必然性があったのか、理由無き異常行動か。Kは鑑定と調査を受けるため地球に送還され、送還中の本人の申し立ては記録された。
自分は匂いで人の中身がわかるし、人が逆らえない匂いを出せる。Kはそう語り出す。
自分が他の人間と違うと気付いたのは三歳になる頃。それまでは世界の全てがでたらめで、人の言動と匂いが示していることは、いつもずれていると思っていた。それでも次第に自分をコントロールすることを覚えた。赤ん坊が大人の笑顔から笑うことを覚えるように、人の代謝分泌物を嗅ぎ取り、自分も同じ匂いを出せるようになった。赤ん坊が、自分が笑うと大人の機嫌が良くなると学ぶように、自分の分泌物組成をコントロールして人間の機嫌を取り結ぶことを学んだ。
人を操るのは簡単だった。時々犬みたいに鼻が利くと言われたけど、自分の正体までは誰も気付かなかった。
自分と同じ人間に出会ったこともある。そいつは人を操ることを心底楽しんでいた。分不相応な幸運に恵まれ続けて権力や金を握ってる人間がいたら、そいつは自分の仲間かも知れないな。
自分もその能力を利用してきたが、楽しんだとは思わない。
小さい頃、母と夜の海に行った。離岸流に流されて、でも空気を吸うだけ考えてたら浜に戻って、母親に背負われて帰る間中、鼻が利かなくなっていたが幸福だった。満月が綺麗で、でも母親は自分を殺すつもりだったと思う。自分を怖がっていたんだ。
友達は善良な人間ほど離れていった。自分が思う存分に力を使うと、回りの人間が歪むのだと思い続けて育った。
録でもない友達とつるんで、馬鹿なこともした。強盗したんだ。簡単に盗めたけど、簡単にばれて逃げた。途中で女の子に見つかって、その子を操れたけど、何もせず逃がした。良い気持ちがしたよ。うん、あれは良かったな。捕まった時、人間の一員になれたと思った位だ。
身元や適性検査結果をすり替えて宇宙に出たのは、匂いが遮断されるからだ。宇宙ステーションより月面勤務が最高だ。空気も分子レベルで濾過され、自分の力は無化される。
月に居続けたかったが、滞在限界期になってさ、一度月の匂いを嗅いでみたくて、嗅げやしないのはわかってたけどね。
ヘルメットを脱いだ時、鼻から空気が逃げて自分の匂いを嗅いだ。母親が海で自分を殺そうとした時と同じ匂い。大切なものを壊そうとする、悲しみの匂いだった。
あんまり悲しいと、思い切り生きたくなってね。これから生き直そうと思うよ。
地球に到着したKは、調査される事無く宙港を去る。発行されるはずの無い解職書類と特別賞与を受け取り、観光客に紛れて輸送チューブに乗り込む。隣席の客は金を置いて席を離れ、二度とそれを思い出さなかった。
文字数:1257
内容に関するアピール
嗅覚で人を操る人間が月面にたどり着き、宇宙服を脱いで鼻腔に月を感じようとする。これを「航海中に船乗りが語る法螺話」の体裁で書きます。
特別な、優れた力を持ちながら愚かな選択をする人間の話です。
本作では、人の匂いで内心を見抜き、人の感情や思考を操る匂いを分泌できる人間を登場させます。
汗や涙、皮脂などの分泌物は嗅覚受容体を通して人の感情や思考に影響していることが知られていますが、鼻粘膜以外にも皮膚や腸の細胞に臭気の受容体が発見されています。生体は常に匂いに影響されているようです。これを恣意的にコントロールできるのであれば、強烈な万能感と疎外感を持つでしょう。万能感と疎外感、自負と孤独は、人を愚かな行動に駆り立てます。
作中、夜の海の思い出が重要なので補足します。満月の夜は大潮なので、離岸流は波打ち際の、ふくらはぎほどの浅さでも人を引きずり倒し、何㎞も沖に流してしまいます。ただし流れに逆らわず仰向けになって呼吸だけを確保すると浜に流れ戻り、生還できるそうです。「満月だけを見続けていれば助かる」と言われています。
「お月様」という言葉には、天体への憧れが籠もっています。地上であくせくと生きている人間が、平凡な日常生活で一番愛し、頼ってきた天体。
月の持つ情感に孤独感を重ねて、現実と夢想が溶け合う月の魅力を表現したいと考えています。
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