七織抄

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七織抄

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一折 この島のこと

 頭上はるか高くに浮かんでいる、八枚の長く薄いプレートを扇状に結んだ空中都市を、ナナオリは木の皮を剥ぐ手を休めて見上げた。
 まばゆい陽光を浴びて、プレートの一枚一枚が美しい羽根のように白く煌めいている。扇の要にあたる結節点を、地上から高くそびえ立つ塔が貫いて、板よりもさらに上の天に向かって伸びている。
 雲一つない快晴の空、塔の天辺を見上げようとして、ナナオリは太陽の眩しさに目を細める。木屑で汚れた右手のひらで笠をつくり、線になった塔の先端に小さな黒い点のようにくっついている展望フロアを見つめ――いったい、あそこからはどんな景色が見えるんだろう、と想像してみる。
 おそらく、あそこからはこの島全体が見渡せるはずだ。そしてさらに周囲に浮かぶ小さな島々、細長い島の並んだ九尾諸島ナインテイルズの全容を眺め渡すことができるだろう。
 青くひらけた空に、銀色に光る小さな染みが浮かぶ。染みは次第に大きくなっていき、翼を広げた鳥の影のような交易飛行船の形になっていく。船は扇の左端、エア・ポートのあるあたりへゆっくりと近づいていった。
 Digital Manipulation Area――デジ・マと呼ばれる空の扇は、このあたり一帯の通信を管理するために設置されている情報管理施設群だ。
 デジ・マによって九尾諸島を覆うように張り巡らされている電波障壁は、内外の無線による通信を妨害しており、さらに島への出入りも上空に旋回している二基の高高度監視システム「朱の瞳ヴァーミリオン・アイズ」によって常に見張られている。
 いま、エア・ポートに降り立った飛行船もまた、そうした監視システムによるチェックを通り抜けて着艦を許されたものだった。
 島はデジ・マによって閉ざされている。それは、この島だけの話ではなくて、辺り一帯の九尾諸島を含む、群島領「南波止里ナハトリア」全域について言えることだ。
 監視は八十年前の大戦で北部同盟の統治下におかれた際の名残でもあり、またナハトリアに残された唯一の産業を守るための方策でもあった。
 生まれたときからずっと、そんな閉ざされた島で暮らしてきたナナオリは、外の世界についてほとんど何も知らなかった。知っているのは、島をめぐる季節の変化と、特産品である新和紙ネオワシをつくることくらいのものだ。ナナオリは見上げていた視線を下ろし、休めていた手を再び動かして木の皮を剥いでいく。
 いつでも上空から自分たちを見下ろしているデジ・マ。その向こう側にいったどんな世界が広がっているのか、ナナオリはいつもまだ見ぬ先へ憧れの気持ちを抱いていた。
「宗主国からの視察が来たらしいよ」
 空の扇を見つめていたナナオリに、並んで木の皮を剥いでいたホオズキがそう教えてくれた。
「大使様が?」
「うん、明日、視察で下に降りてくるみたい」
 というのは、デジ・マの下に広がっている街区のことを指している。
 ナナオリが住み込みで働いているタナムラの製紙業舎は街から少し離れた郊外にあるため、街の中心へは一里ほど歩いていかなければならなかった。
 そういえば、ホオズキは昨日お遣いで街へ出ていたのだったと思いだして、ナナオリは街で最新の噂話を仕入れてきたらしい彼女のことを羨ましく思う。
「ほかには?」
 もっと街の話をいろいろと聞きたくて、ナナオリは手を動かしながら質問する。視察団の歓迎のため、街はちょっとしたお祭りのように華やいでいた、とホオズキは笑い、労賃を貯めて買ったのだと言って、輸入物の天鵞絨びろうど色のかんざしを懐から取り出して、見せてくれた。
 あおつややかに光っている簪に、ナナオリは羨望の眼差しを向ける。自分よりも三つ年嵩としかさのホオズキは、昨年、見習の身分を卒業して正式に製紙工房に雇用された。そのおかげで以前よりもずっと賃金も上がって、街で買い物を楽しむ余裕ができたのだ。
 ナナオリもすこしずつ貯金をしていたが、街で買えるものといえばせいぜい菓子くらいのもので、輸入の細工物などにはとても手が出せなかった。いつもお遣いで街に出たときには、店頭に並んだ珍しい渡来品を眺め歩くのがナナオリの楽しみだった。
「どう、似合うかな?」
 すこし癖のある豊かな黒髪を簪でとめて、ホオズキが照れくさそうに微笑んだ。
「素敵」
 陽を浴びて光る天鵞絨の色が、熱を帯びて深まった髪の黒にきれいに溶け込んでいた。
「ありがとう。ねえさんたちには内緒にしてね」
 先輩たちに知られると、からかわれたり嫌味を言われたりと面倒だからと、簪をはずして懐に隠しながら、ホオズキが片目をつむって合図する。ナナオリが頷くと、約束、といって小さな白い飴玉を一つ、くれた。
 口に含むと甘い薄荷の涼しさが、スッと歯の間を抜けていった。舌先で飴玉を転がしながら、皮をはいだ枝を敷布のうえに並べて天日で干していく。
 ナナオリたちがひと仕事終えると、昨日から森へ狩りに出ていた戦士ハンターたちが戻ってくるのが見えた。そのなかに恋人の姿を見つけて、ホオズキは嬉しそうに彼に駆け寄っていく。抱擁を交わす二人に、周りの戦士たちが冷やかしの声をあげる。
「おかえりなさい」
「おう」
 遅れてそばへ来たナナオリの頭のうえに、リーダー格のアシマが大きな手をのせて乱暴に撫でまわす。
 せっかくきれいにいた髪が、ぐしゃぐしゃになってしまうけれど、ナナオリはその温かくて硬い手のひらを、嫌いではなかった。染みついた狩場の生々しいにおいが微かに漂う。
 アシマは厚い新和紙を幾層にも重ねた紙鎧の隠しから、その武骨な出立いでたちには似合わない、小さな花柄の紙包みを取り出して、ナナオリに手渡した。
 包みをひらくと、なかには小指の爪ほどの青い実が詰まっている。染料に使うためのハシハの実だ。
 ナナオリはその実を使って紙を染めて、それで紙細工をつくる。先ほどの花柄の包みもナナオリが染めてアシマにあげた物だった。
「ありがとう」
「なに、ついでだ」
 ナナオリの笑顔に、アシマは素っ気なく言って「詰所に戻るぞ」と仲間たちに呼びかけた。彼につづく者たちの背負っている麻袋のなかには、狩りで得た獲物が詰まっている。今日は皆、機嫌がいいみたいだ。その理由は、袋の膨らみ方を見ればわかる。
 大物を仕留めて、全員が無事に帰還すること。それこそが彼ら戦士ハンターたちの最大の目的なのだから。
「ナナオリ、ゲンさんのとこ行って、餌やり手伝ってあげて」
 自分は恋人と腕組みして詰所のほうへ向かいながら、ホオズキが言う。頷いて、小走りに飼育小屋へ向かった。南中した太陽が真上からデジ・マを照らし、白く輝いていた扇に濃い陰を作っている。駆けていくナナオリに心地よい向かい風が吹きつけて、優しく頬を撫でた。
 小屋に近づくにつれて、紙獣ペイパービーストの紙毛がこすれ合う、かさかさという乾いた音が聞こえてくる。小屋の前の囲いに放されている紙獣たちが、ナナオリの足音に反応して一斉に顔をあげて、柵の隙間から小さな黒い瞳を向ける。
「おおぅ、どうした?」
 小屋の入口から、餌桶を脇に抱えたゲンが桶に片手を突っ込んだまま姿を現す。
「手伝います」
 言って、ナナオリは紙衣かみこの袖を手折たおると、小屋の入口脇に並べられていた餌桶の一つを抱え上げた。ゲンが片手で抱えていると軽そうに見える桶も、ナナオリにとっては両手で腹の前に抱えて持ち上げる格好になってしまう。
 小屋のなかには四十頭ちかい紙獣がひしめいていた。食事の時間をよく心得ている紙獣たちは、敷き詰められているわらの上に横たえていた躰をゆっくりと起こして、柵の隙間から鼻面を突き出して餌をねだる。
 ゲンは片手で手際よく餌を撒いていく。一方、ナナオリは、柵の前でいったん桶を下ろして、そこから餌をつかみ取って紙獣たちに配っていく。もたもたしているナナオリを急かすように、獣たちがイーッと低い鳴き声をあげた。
 紙獣たちは品種によって細かく分類されていて、種類ごとに柵で仕切られている。当然、獣たちの食べる物はそのコンディションに直結するため、餌は柵ごとに決められたものを与えることになっていた。
 誰でも違いが一目でわかるよう品種ごとに柵は色分けされていて、その柵のなかの獣に与えるべき餌の入った桶は、柵と同じ色に塗られていた。
 紙獣のざらついて濡れた舌が、ナナオリの手から餌を奪い取るようについばんでいく。手のひらからこぼれ落ちた欠片に舌を這わせている獣の白い毛並みを、ナナオリは空いた手でそっと撫でてやった。
 紙獣の毛は、その品種によってさまざま、感触が異なっている。毛のこわいものはまるで薄い一片ひとひらの紙のように、鋭利に触れるものを傷つけてしまう。柔らかなものは、ふわふわと薄毛羽立ってしっとりと濡れた紙のように、手に吸いついて心地がよい。
 ナナオリが一つ桶を空けるうちに、ゲンは三つ目を空にして四つ目をつかんで脇に抱えてしまう。
 桶から餌をつかみ取るゲンの節くれだった皺だらけの黒い手を、ナナオリはじっと見つめた。その手は紙獣たちを育てる手であると同時に、かれらの命を奪う屠手としゅでもあるのだ。大きくて重たいつちで獣をほふるときの感触を、ナナオリは知らない。
 これまでに数えきれないほど紙獣の頭蓋を砕いてきたゲンの手を、しかしナナオリは美しく愛おしいもののように感じていた。その手に刻まれた皺や、そのはざまに染み込んだ獣の血や油の色は、この場所の歴史をすべて、そのまま刻んでいるのだ。
 ここ、タナムラ製紙業舎でつくられる新和紙にとって、紙獣からとれる油脂と血液は不可欠のものだった。だから、新和紙によって生計を立てているナナオリたちは、この小屋いっぱいにひしめいている獣たちによって、生かされているともいえる。
 そのことを誰よりも自覚しているからこそ、餌をやるゲンの手は美しいのだ。
「ナナァ、ぼーっとしとらんで働けぇ」
 ゲンに笑われて、ナナオリはハッとして二つ目の桶を抱え上げる。そして、新和紙の材料となるために人工的につくられた合成獣キメラたちに、ささやかな食事を振舞ってやった。
 餌やりの駄賃として、ナナオリはゲンから紙獣のひづめの欠片を一つかみ受け取った。別に手伝いなどしなくても、欲しいといえばいくらでももらえるようなものだったが、何かの対価として折に触れて物を与え合うというのが、この島の小規模な経済を支えている営みの一つだった。だから、幼いころから与え授かるという小さな経験を積み重ねて、そうした感覚を身につけておくことは、島に生きる者として大切なのだ。
 紙獣の蹄を削り磨き加工してつくられた装飾品は、ナハトリアの領内では幸運の御守りとして広く親しまれている。ナナオリは暇があれば、姉に彫刻道具を借りて蹄の装飾品をこしらえていた。
 そうして出来た御守りを、鮮やかに染めぬいた小さな紙包みに入れて、日ごろの感謝や信頼の気持ちを込めて、工房の仲間たちへ贈るのだ。皆の喜んでくれる顔を見ることが、ナナオリは何よりも好きだった。
 プロの職人でもなく、ナナオリの加工はけっして優れたものではなかったが、丹精を込めてつくられた細工物は評判で、余計につくった分を街の雑貨店に置いてもらうと、それを買い求める者もあった。ときどきお遣いを頼まれて街へ出た際に、ナナオリはその売上を受け取って、わずかな貯金をつづけていた。

 

二折 姉妹たちのこと

 飼育小屋を離れ、ナナオリはいったん自宅へと戻った。舎の敷地内にある小さな平屋建ての小屋に、五つ年嵩の姉のヨツハと二人で暮らしている。
 入口の戸を引いて開くと、サク、サクと骨を削る小さな音が聞こえてくる。玄関の土間が、そのまま作業場になっていて、姉のヨツハはそこで細長い棒状に加工された紙獣の骨の先に微細な文字を彫刻している。
 彼女は活版印刷用の文字型の彫刻師だ。
 薄暗い部屋、彼女の座っている場所の真上に吊るされた燈籠とうろうだけが目映まばゆい光を放っている。片目をつむり、モノクルを装着した右目だけで、ヨツハは骨の先端に刻んだ凹凸おうとつをジッと見つめていた。先ほどまで使っていたらしい、刃先の鋭利な彫刻刀の木柄を唇にくわえて、今は針のように先の尖ったものを握って、その先端を骨にあてがったまま、考え込んでいるように身動きせずにいる。
 影を見ているのだ。ジッと、影を見て、そこに浮かび上がってくる輪郭を捉えるのだと、いつもヨツハはナナオリに言って聞かせていた。そうして、文字の生きた姿をえぐり出す。
 骨の先に浮かびつつある文字に垂直に当たる光、正確な位置に置かれた光源が、ヨツハの白い横顔を薄闇のなかに浮かび出していた。そのかげりのある美しさに、ナナオリは思わず見惚れてしまう。
 ようやく針の先が動く。先ほどのサクサクといった小気味よい音とは違う、カリ、カリ、という削音が響く。手を止めて、くわえていた彫刻刀を器用に空いている指先でつまみとって、唇から骨の先にフッと息を吹きかけると、銀色に光る骨の粉が舞う。
 閉じていた左目を開いたヨツハが、入口にたたずんでいるナナオリに気がついて、「おかえり」と微笑を浮かべてモノクルを外す。
「ただいま」
 言って、ナナオリはヨツハのほうへ寄っていく。集中を解いた姉には、作業中の近寄りがたい雰囲気はない。作業台に固定されている、先ほどまで姉が向き合っていた文字を覗き込んでみる。刻みかけの複雑な形をした表意記号は、まだ何を表しているのか、ナナオリにはわからなかった。
「一休み」
 立ち上がって、懐から桃色に染められた紙包みを取り出し、そのなかから乾燥させた小さな白い実をつまみとると、ヨツハは薄い巻紙の上でそれをすり潰した。
 粉状になった実を器用に紙で巻いて、その両端をひねって閉じる。一方の端を千切って口にくわえたヨツハは、入口から外に出て、軒下で燐寸マッチを擦って包みの先に火をけた。
 ヌーイの実の粉末には、精神を落ち着ける効果があるといわれている。作業でこんを詰めすぎたときなど、ヨツハはよくこうやって巻煙草をつくって気分転換をしていた。
「ナナもやる?」
 くわえていた煙草を指先でつまみながら、ヨツハは目を細めて横のナナオリに訊く。
 小さく首を左右に振って、ナナオリが煙草の先から立ち上っていく煙の行方を見上げると、その先には扇状に広がるデジ・マの底板が見えた。
 んーっ、と大きく伸びをしたヨツハが、作業のために後ろでまとめていた髪をほどくと、つややかな黒がはらはらと流れるように広がっていった。
 ナナオリがゲンからもらった蹄の欠片を見せると、ヨツハは「好きなの使いな」と戸口から仕事道具の並んでいる棚にさっと視線を向けた。
 一服終えて屋内に戻ったヨツハについて、ナナオリもなかへ入り、棚に並んだ彫刻刀ややすりを一つひとつ手に取って見比べていく。そのうちのいくつかは二人の父親が遺してくれた大切な商売道具だった。ヨツハは作業の間、使っていない彫刻刀をよく口にくわえたりするせいで、その木柄には赤い紅の色が染みついてしまっている。ナナオリはその薄い赤みのかもしだすあやしさが好きだった。目の粗さの異なる鑢を三つと、三角と平刃の彫刻刀をナナオリは棚からとった。
 それからアシマにもらったハシハの実を土間の端の作業机の上に並べていった。
「アシマたち、戻ったんだ」
「うん、今日は収穫があったみたい」
 かめに溜めてある水を柄杓ひしゃくで掬い小さな椀にあけながら、ナナオリが応える。それから、並べた実を水を張った椀のなかに浸していく。しばらく水に漬けて果皮を柔らかくしてから、熱湯で煮るのだ。
「ここで鑢がけしててもいい?」
 これからまた作業に戻ろうとしていたヨツハに、ナナオリは確認を求める。
「いいよ。ナナの音、好きだから」
 針状の彫刻刀、その木柄に、ヨツハの白く長い指先があてがわれている。その繊細な形状フォルムは、ほんの少しの刺激によってあっさりと崩れてしまいそうな危うさをはらんでいる。だが、それは決して崩れることなく、骨の先に微細で複雑な記号を刻み込んでいくのだ。そうして骨の活字が一つ、出来上がる。
 ナナオリは目の粗い鑢で蹄の角を丸く削っていく。心地の良い擦過音が、一定のリズムで繰り返される。その音に、新しい骨を削りはじめたヨツハの、サクサクという音が重なっていく。姉妹の奏でるリズムが共鳴して、暗い室内を満たしていく。
 ナナオリが鑢を目の細かいものに変え、ヨツハが彫刻刀の先をより細いものに変えるたびに、音は豊かに変化していく。その間、二人は一言も言葉を交わさなかったが、こうした無言の交流こそが何よりも心地よいコミュニケーションとなった。
 蹄の角を落としてつややかに磨き上げたナナオリは、御守りに刻む紋様を決めるために、土間から奥の部屋へ上がって、さまざまな紋の収載されている図録をとりだしてきた。
 御守りは、特に誰かにプレゼントする予定もなく、次に街へ出たときに売物にするつもりだった。それならば、人気のある「安全」や「恋愛成就」をかたどった紋様を選ぶべきだろうと考えながら、ナナオリが図録をめくっていくと「親愛」の紋様が目に留まった。
 まだこれは描いたことがなかったな、と思い、ナナオリはその頁を開いたままにして、平らになった蹄のおもてに石灰で紋様を書き写していった。
 親愛の紋様を象った白い線を、彫刻刀で慎重になぞる。ナナオリにはヨツハのように刃を巧みに操ることはできないが、三角刃でつくった溝を平刃で丹念に整えていく。技術が不足している分は、根気で補うしかないのだ。
 作業に没頭しているうちに、いつの間にか陽が傾きかけていた。
 ナナオリは手にしていた道具を置いて、慌てて家を飛び出していく。干しておいた枝を取り込んでおかないと、夜気を含んで湿気しけてしまう。
 先に来て枝を片づけていたホオズキが「忘れてたでしょ」と笑いかけてくる。
「ごめんなさい」
 ナナオリは駆けてきた勢いのまま、ホオズキの反対側から、並んだ枝を拾い上げて網籠のなかに放り込んでいった。すべての枝を拾い集めると、大きな網籠はいっぱいになった。二人はそれを背負って、倉庫へ向かう。
 退屈そうに倉庫の前に立っていた倉庫番が「お疲れ様」と声をかけてきて、重厚な扉を開いてくれた。そのなかには、新和紙づくりに使われるさまざまな材料が保管されている。
 種類ごとに分けて保管されている枝の位置を確認して、網籠を下ろす。
「ナナオリ、明日はどうするの?」
「まだ、特に予定はないんで、何かあれば手伝いますけど」
「そっか。私は今日皮剥ぎした分を浸しに、川のほうに行こうかなって」
「あ、それなら一緒に行きます」
「決まりね。また明日」
 ホオズキと約束を交わしながら倉庫を後にして、ナナオリは再び家路をたどっていく。空は夕焼けに染まり、薄い月が高く浮かんでいた。月のすぐ下には朱の瞳が二つ、赤い光を放って輝いている。
 土間の作業場へ戻ると、仕事を終えたヨツハが完成した活字を専用の納品ケースに並べているところだった。
「ナナ、おかえり」といったヨツハは「悪いんだけど、明日、これを街まで届けてくれないかな」とつづけた。
「明日?」
「うん、何か予定あった?」
「ホオズキと川に行く約束してるんだ」
「何とかならないかな、ちょっと仕事が立て込んでて」
 ナナオリも、久しぶりに街へ出たいという気持ちはあった。しかも、明日は宗主国からやってきた大使様が視察に降りてくるらしいのだ。もしかしたら、その姿を一目でも見られるかもしれない。
「わかった。ホオズキに連絡してみるね」
 ナナオリは自室へ向かって、机の抽斗から四六判の新和紙の束を取り出した。そして、その束の一番上の一枚にホオズキへのメッセージを書きつけていく。
 一頭の紙獣からとった油脂を抄造に使った新和紙は、仕上がった一枚が強固な結びつきをもっている。そこに同じ紙獣の血を混ぜた血墨によって通信術式を表すネットワーク記号である「流脈」を描いていくと、脈によってつながった紙同士は切り分けたあとも血脈通信というネットワークをもつようになり、一方に描いた文字や図像を、もう一方の紙片へ浮かび上がらせることができるようになるのだ。
 ナナオリとホオズキは、大きな全紙から切り分けた紙片にいくつも流脈を描いて、それを半分にして対になるようにお互いに持っていた。その紙束を交換日記のようにして使っている。交換日記といっても、別に毎日やり取りをしているわけではなかったが、お互い、ねむる前に一度、目を通す約束になっていた。
 ホオズキがどのタイミングでメッセージを確認するかはわからないが、
――ごめん、明日、急用ができました
 と記しておけば、間違いなく伝わってくれるだろう。
 居間に戻ると、ヨツハが夕餉ゆうげの支度をしていた。
「私がやるよ」とナナオリが声をかけると、ヨツハは「たまには、ね」と笑う。
 妹のナナオリの目から見ても、ヨツハは最近ぐっと女らしくなったように思う。刻字の作業中の姿は今でもどこか冷たく荘厳な雰囲気を帯びていて、近寄りがたさがあったけれど、それ以外の時間、生活のなかで見せる表情はとても柔らかくなった。
 数年前までは、その少年のような精悍な顔立ちには、まだつぼみのような硬さがあって、常に何かに対して苛立っているようなナイーヴさがあった。呑気者でお気楽なナナオリとは違って、ヨツハはいつも聡明で、その物思いに沈んでいるような横顔はとても繊細で美しかったけれど、今は同じその人の横顔に別の美しさが浮かんでいる。
 ヨツハは来月、アシマと結婚する。
 ナナオリと、姉妹の幼馴染であるホオズキは、婚礼の儀式でヨツハが羽織る紙衣に使う新和紙を抄造するため、材料の準備を進めているのだ。
 楽しそうに料理するヨツハの背中に「アシマさんは?」と声をかけると「知らない。別に呼んでないけど」と素っ気ない答えが返ってくる。狩りで大物を仕留めた日には、戦士ハンターたちはうたげを開いて大いに飲むことが多かった。
 先ほどアシマについて聞かれた際に、ナナオリが「収穫があった」と教えたので、おそらくヨツハは気を遣ってアシマに声をかけなかったのだろう。恋人が戻ってきたのを知って、真っ先に飛びついていったホオズキの姿を思い出しながら、本当は少しでも一緒にいたいくせに、と不器用な姉が可愛らしく思えてくる。
 だから、代わりに血脈通信を使ってアシマに呼びかけてやる。すぐに返事があって、しばらくしたら寄ってくれるとのメッセージを知らせると、ヨツハは照れくさそうにはにかんで「別にいいのに」と呟いた。
 ヨツハがそんな表情をするようになったのは、アシマのおかげだとナナオリは考えていて、そのことについてはとても感謝している。だから、アシマの優柔不断さと、もう一人の姉ハツセへの仕打ちについては、目をつむってやることにしている。
 目を瞑るも何も、もともと三人の関係について、ナナオリが口出しをする権限などないのだけれど、アシマの選択が姉妹三人が離れて暮らすきっかけの一つになったのだから、文句くらいは言ったっていいではないか、とも思うのだ。
 ナナオリは、今よりずっと幼かった頃、アシマはハツセと結婚するのだと思っていた。だから、四年前にハツセが街へ働きにでると言いだして、アシマがそれを止めようともしなかったとき、とても不思議に思ったのだ。俺と結婚してここに残ってくれと、ハツセを止めて欲しかったのだから。
 ハツセがいなくなって、アシマがヨツハと一緒にいるのをよく見かけるようになって、ナナオリにもようやく事情が理解できた。アシマはヨツハを選んだのだ。そのことに、当時ナナオリはいきどおりもしたけれど、幸せそうな表情を浮かべるようになったヨツハを見ているうちに、次第にそんな感情も薄らいでしまった。
 ハツセも、そんなヨツハの変化を好ましいものとして受け容れたからこそ、身を引いて去ったのだろう。それに、ヨツハの彫刻師としての傑出した才能は工房にとって大きな利益をもたらすものだ。そんな彼女がこの場所にとどまって幸福に暮らすことは、工房のためにもなる。誰にでも優しいハツセは、そんなことまで考えたのかもしれない。
 アシマは、ナナオリのことを今でもずっと子どもだと思っていて、実際そのように扱っている。だからおそらくナナオリが自分に対して複雑な感情を抱いていたということに気がつきもしなかっただろう。そんな大雑把なところも、憎めないのだけれど。
 酔ったアシマが上機嫌で戸を叩いた。
 食事を終えて御守りづくりのつづきをしていたナナオリは、手を止めて玄関まで迎えに出る。大きな身体のアシマが、窮屈そうに狭い玄関をくぐってなかへ入ってきて、薄暗いヨツハの仕事場の様子を眺める。
 遅れて迎えに出てきたヨツハが「おかえり」と短く声をかけ「おう、ただいま」とアシマが当たり前のように応える。見つめ合う二人の間に立って、ナナオリは何となく居心地が悪くなる。
「そんなとこに立ってないで、入って」とナナオリに急かされて、アシマは作業場を抜けて奥へ入って行く。熱い酒と狩場の血腥ちなまぐささの入り混じった濃い異性のにおいに、ナナオリは眩暈めまいを覚えてしまう。
「何か食べる?」
「おお、それじゃ軽く」
「お酒は……もういい、か」
「何言ってる、お前も付き合え」
 御守りに刻んだ紋様を、金粉を溶いた顔料でなぞりながら、ナナオリは部屋の隅で二人のやり取りをしばらく聞いていた。しかし、金色に浮かび上がっていく紋様をじっと見つめながら、次第に意識を集中させていき、親愛、親愛、と心のなかで唱えて気持ちを込めていく。
「できた」
 ナナオリが声をあげると、並んで飲んでいた二人が視線を向ける。
「どれ、見せてくれ」
 御守りをその大きな手にのせると、アシマはまじまじと見つめて「ナナオリ、俺にくれ」と豪快に言った。
「だめ、アシマさんには前にあげたでしょ」
「いいじゃないか。こちとら毎日命張ってるんだ。いくらあったっていいだろ」
「これは、そういう御守りじゃないから」
 アシマの手から御守りを奪い返すと、ナナオリはそれを紙衣の懐にしまい込んだ。いくら相手がナナオリでも、さすがにアシマもここまでは手を伸ばしてこないだろう。
 ナナオリはそのまま立ち上がって「私、湯浴みに行ってくるね」と言って着替えと入浴具一式を取りに部屋へ向かった。このまま家にいて二人の邪魔をしているのも悪いし、酔いの回った二人の雰囲気にナナオリ自身居心地が悪かったのだ。
 それに明日は久しぶりに街へいくのだから、身体を拭いて済ませるだけではなくて、ひと風呂浴びて綺麗にしておきたかった。
「遅いから、気をつけて」と見送りに出てきたヨツハに声をかけられ「大丈夫だよ、すぐそこなんだから」とナナオリは笑い返す。
 外はすっかり暗くなっていて、空には白い月と赤い光が二つ、それから大きな扇の影とそれを支えているタワー、その周囲に無数の星が散らばっている。そんな満天の下を提げ行燈に火を入れて、道具と着替えをつめた風呂桶をかかえて歩く。
「こんばんわ」とナナオリが銭湯の暖簾をくぐると「あら、ナナちゃん、いらっしゃい。今日は一人?」と番台に座っていた女将が訊いてくる。
「アシマさんが帰ってきたので」
「ったく、あの助平……」
 木銭で支払いを済ませて、ナナオリは脱衣所へ入る。かなり遅い時間帯ということもあって、ほかに客はいないようだった。
「さっき、ホオズキも来てたんだけどねぇ」と番台のほうから女将の声がする。
「昼間、ずっと一緒にいたんで」
 帯を解いて紙衣の前をひらきながら、ナナオリが応じる。と、脱ぎかけた紙衣の隙間から蹄の御守りが滑り落ちて床に転がった。前をはだけたまま、ナナオリはしゃがんでそれを拾い上げて、畳んだ帯の上にそっと置いた。
 裸になって浴室に入る。誰もいない広い空間が、何だかとても贅沢なもののように感じられる。熱い湯を張った槽から桶で掬いあげて全身に浴びると、もうすっかり乾いてしまっていた汗が流れ落ちていくようで、心地よかった。
 髪を濡らして手櫛てぐしでやさしくほぐしてから、以前、街で購入して大切に使っている宗主国製の洗髪料を手のひらに一玉とって泡立てると、柑橘系の爽やかな香りが広がっていった。泡でやさしく撫でるように髪を洗い、泡が残らないようしっかりと流す。
 濡れた髪を手拭てぬぐいで巻いて、広々とした湯船の端へ足先をつけて熱さを確かめてから、真ん中のあたりまですすんで身体を沈めていった。子どもの頃は、ハツセとヨツハと三人で、よく一緒に入ったものだった。
 ハツセに言われて、ナナオリはいつも肩まで浸かって「百」まで数えさせられた。そのことを思い出して、今日は自主的に百まで数えてみることにする。昔、隣にいたはずのハツセの姿を想像してみると、その身体つきはいまの自分よりもずっと大人っぽかったように思えてくる。
 まるで、お母さんみたいだったと、母親代わりに自分の面倒をみてくれていたハツセを懐かしく思いながら、ナナオリは小さな溜息をつく。不意にどこまで数えたのかわからなくなって、七十一から数えなおす。七十七、と二回数えたような気がしたけれど、何だか縁起がいい気がして、ナナオリは一人、微笑を浮かべた。
 入浴を終え、湿った髪をよく拭いてから、保湿のために油を手のひらで溶いて、撫でるように髪に塗ってやる。身支度を終えてナナオリが出ようとすると、女将が片付けの準備をすすめていた。
「ごめんなさい。ゆっくりしちゃって」とナナオリが謝ると、女将は「今日はお客が少なくって」と笑い「また来てね」と小さく手を振って見送ってくれた。
 すこし遠回りをして、川沿いの道を歩いて帰る。さやさやと心地のよいせせらぎの音と虫の声が響いている。空に浮かぶ扇を留める位置にあるタワーが鮮やかにライトアップされて輝いていた。あの電力のほんの一部でも、こちらに回してもらえればいいのにと、手に提げた行燈の頼りない光を見て、思う。
 月に雲がかかりはじめたのを不安に思いながらナナオリが家へ戻ると、明かりはすっかり消えていた。すこし躊躇ためらってから、ナナオリは玄関の戸を引いた。ガラッという音が静かな家のなかに響き、しばらくして奥から夜着姿のヨツハが出てくる。
「アシマさんは?」
「寝てる。疲れてたみたい」
 行燈を点けたまま床に置いて、草履をぬいで玄関に上がると、ヨツハがそっとナナオリを抱いて髪を撫でながら、「いい匂い」とささやいた。甘い柑橘の香りに混じって、ヨツハから微かに狩場のにおいがした。
明日あした、姉さんに会ってくるよ」
 抱かれたまま、ナナオリが呟く。
「うん。ありがと」
 ヨツハの両手に、ほんのすこし力がこもった。

 

三折 花街のこと

 あいにくの雨だった。
 それでもナナオリは余所行きの藍染の紙衣に袖をとおし、桜色のかんざしで髪を留める。それから普段はしない頬紅を薄くさして、簪と同じ色の口紅を引いた。
 ナナオリが居間に姿を現すと「どうした、色気づいて」とアシマが笑った。せっかく着飾ってきたのを笑われてナナオリがムッとすると、ヨツハはアシマを睨みつけて軽く小突く。アシマは「悪い悪い、よく似合ってる。これは姉貴より美人になるかもな」と言って再び笑う。
 慣れない誉め言葉をもらって照れて俯きながら、ナナオリはヨツハに頼まれた荷物を風呂敷で包んで背負い、黒い和傘をひらいて表へ出る。傘の上には鮮やかに描かれた赤い花のがらが広がっている。
「午後には上がるみたいだから」とヨツハが言うと、「気をつけて行けよ。最近、街道のあたりにも紙暴君ペイパータイラントが出没するって話だ」とアシマも見送りに出てきてくれた。
「もし襲われたら、アシマさんが助けてね」
「おう、任せとけ」
 昨日も大物を一匹狩ってきたばかりだ、とアシマは自信たっぷりに言ってのける。工房に所属している戦士――暴君狩りタイラントハンターと呼ばれる彼らの生業は、野生に放たれて凶暴化した紙獣ペイパービーストから人々を守ることだ。
 もともと、紙獣は新和紙抄造の材料とするために人工的に造り出された合成獣キメラだ。街の沿岸地域にある研究施設で作られた紙獣は、基本的にすべて製紙業舎のもとで飼育されている。紙獣のコンディションは新和紙の品質に直結するため、紙獣の飼育は厳格な条件下で行われる。
 しかし、一部の紙獣が野生へと逃れ、本来であれば口にしないはずのものから栄養をとり、また想定外の組合せで交配を重ねることによって、独自の進化を遂げていくことになった。
 効率的な飼育のため、紙獣は成長を早められている。そして通常は成獣になり切る前に材料となる運命にあった。そうした様々な条件が重なって、野生化した紙獣たちは、飼育種からは想像できないほどの大きな躰をもち、穏やかなはずの性格は他の生物を襲う凶暴なものへと変化してしまった。
 それが紙暴君ペイパータイラントと呼ばれて人を襲うようになり、その脅威に対抗するために、各製紙業舎に暴君狩り《タイラントハンター》という戦士団が組織されるようになった。
 紙暴君はそれぞれが独自の成長を遂げているため、飼育して製紙に使っている紙獣とは異なる作用をもった原料をとることができた。そして、それを使うことで大抵の場合、通常のものよりも希少な新和紙を造り出すことができた。
 そのため、次第に暴君狩りたちの目的は、紙暴君から人々を守ることではなく、希少な原料を手に入れるために紙暴君を狩ることへ変化していった。もちろん、どちらの役割も重要であり、アシマのように人命を守ることのほうをより尊ぶ者もいたが、何を重視して活動するかは各業舎の方針によって様々だった。
 ナナオリは、実際に紙暴君の姿を見たことはなかった。工房に近づく外敵は、アシマたちが排除してくれるので、ナナオリたち一般の職人の身に危険が及ぶことは滅多にない。成長した紙暴君は、全長数メートルにもなって見上げるほどだと、以前アシマに聞かされていて、ナナオリは街道沿いの林木を見上げてその大きさを想像してみる。
 不意に風が強く吹いて、木の葉がざわめいた。雨粒が傘紙を叩くぱらぱらという音がナナオリの頭上で響き、不安を煽る。下駄の歯をぬかるみにとられてつまづきそうになるのをこらえて、濡れて重たくなった紙衣の裾を軽く織り込んでピンで留めた。
 遠くで雷雲が唸っているのを、まるで紙暴君の遠吠えのようだとナナオリは感じて、身を震わせた。濡れた素足が冷えてくる。
 巨大な紙暴君に生身で立ち向かうことはできない。工房は優れた暴君狩りを置いておくために、新和紙を卸して稼いだ金を使って、戦士ハンターたちに強化のためのサイバネティクス処理を受けさせている。
 領内でのサイバネティクス手術は禁止されているため、処理を受けるためにはデジ・マの許可を得て、いったん領外へ出る必要があった。つまり、アシマたちは一度、このナハトリア領から外へ出たことがあるのだ。そのことを、生まれてから一度も外の世界へ出たことのないナナオリは、心の底から羨ましく思っている。
 そのときの話を聞くと、「薬で眠らされていてよく覚えていない」とアシマは言った。それでも、ナナオリにとっては見上げるだけの遠い存在である、あの飛行船に乗ったことがあるという事実に、憧れてしまう。
 空が激しく光り、雷鳴が響いた。ナナオリが思わず身をすくめると、にわかに大粒の雨が大地を叩いて流れ去っていく。
 昨晩、血脈通信でホオズキから了解の返事があったけれど、この雨ではどのみち川へ行くことはできなかったな、と考えながら、こんなことなら昨日は御守りではなくて、てるてる坊主でもつくっていればよかったと思う。
 足早に街へと向かっているうちに、次第に雷がなりをひそめていって、雨脚も弱くなっていく。そしてようやく遠くの空に晴れ間がのぞきはじめた。ナナオリが街へ着くころにはすっかり雨は上がっていて、陽気な太陽に照らされた街は、雨の渇いたにおいと蒸した空気で満たされていた。せっかく着飾ってきたはずなのに、ずぶ濡れになってしまった自分の格好に、意地の悪い雨だったとナナオリは内心で毒づいた。
 間近から見上げるデジ・マは、いつ見ても大きかった。それは工房のあたりから見える小さな扇ではなくて、街全体を覆いつくす巨大な笠のようで、底板に使われている金属プレートの一枚一枚の重厚さが、いかにも威圧的だった。
 はじめに取引先の印刷所に向かって、ヨツハのお遣いを済ませてしまう。
 すべて手作業で彫刻される骨活字の父型は、ナナオリには信じられないくらいの高額で買い取られていく。もちろん、ヨツハの精巧な細工が高く評価されているということもあるが、新和紙に正式な文書を印刷する際には、父型から型を取って作られた金属製の複製活字ではなくて、原型である骨活字を使わなければならないため、政府機関と取引のあるような一流の印刷所は、あらゆる文字の原型を所持しておく必要があるのだ。
 支払いの半分は既に手付として受け取っているため、ナナオリが受け取ったのは残りの半分だったが、それでも二人の当面の生活費には十分すぎる額だった。仕事の質にも納期にも信頼を得ているヨツハだからこそ、前金でそれだけもらうことができるのだと思うと、ナナオリは姉の手業を誇らしく感じた。しかし、若輩のヨツハがこうして老舗を取引先にもつことができたのも、ハツセの用意した出資金があったからこそだ。
「また、よろしくお願いします」と印刷所の経理方に頭を下げて、ナナオリはまだ陽が高くて静かな花街のほうへ向かった。
 ナナオリが跳ね橋を渡って花街の門をくぐると、退屈そうにベンチに座ってタブロイド紙を繰っていた顔なじみの若い仲介人の男が「おう、おイチさんとこの」と声をかけてきた。こんにちは、とナナオリが会釈すると男は新聞を置いて、「まだ寝てっかもしんねぇ、呼んでこよか」と言って見世のほうへ駆けていった。
 ナナオリもその後を追って、ゆっくりと見世のほうへ向かって歩いていく。たぶん、寝起きの悪い姉のことだから、このくらいの速さでちょうどいい。
 道の両側に並んだ見世棚の格子窓の障子はまだ閉められていて、張られた薄い和紙の向こう側には人気ひとけもない。道を行き交う人も疎らで、夜になるとここが人で溢れかえるというのが、ナナオリには信じられない。
 見世の前につくと、なかから長い黒髪を下ろしたままの寝ぼけまなこのハツセが、着物をだらしなく羽織っただけの格好で出てくるのが見えた。
 ハツセの重たげなまぶたが、ナナオリの姿を見つけた途端にぱっと開いて、緩慢だった動きが生気が宿ったようになる。それでも駆け寄ってくるハツセにはゆったりとした柔らかさのようなものがあった。
「ナナちゃ~ん、会いたかったぁ」と言いながら、飛びついてきたハツセの豊かな身体を受け止めると、甘い香りがナナオリを包み込んでいき、頭がくらくらしてしまう。抱きついたまま、ハツセはナナオリの頬に軽く口づける。それから両手でナナオリの頬をやさしく包み込んで、正面からじっと見つめた。
「また綺麗になった」
 今朝、アシマにも同じようなことを言われたのを思い出して、ナナオリはその言葉を素直に喜べない。
「上がってって、お菓子、たくさんあるから」
 狭い階段を上がって、ハツセの部屋へ向かう間に、ナナオリは見世の女たちから声をかけられて「お久しぶりです」「姉がお世話になってます」などといちいち会釈して歩いた。
 縒った新和紙を編んで作った柔らかい座布団に正座して、ナナオリが小窓から花街の景色を眺めていると、ハツセのお付きの娘が茶を出してくれた。歳はナナオリと同じくらいだろうか。
「ありがとう」とナナオリが声をかけると、娘は「こちらこそ、イチ姐さんには可愛がってもらってます」と柔和な笑みを残して部屋を出ていった。
 二人きりになるとハツセはナナオリの隣に座り、並んで窓の外を眺める格好になった。
「ヨツハちゃんは、元気?」
「うん」
「彼とは、上手くいってる?」
「……うん」
 風がそよぎ、鮮やかな花模様の描かれたビードロの風鈴が心地よく鳴った。
「来月、結婚するんだ」
「……そう」
 しばらく黙って、ハツセはもう一度――そう、と繰り返した。
「私の分まで、目いっぱいお祝いしてあげて」
 自分は橋の向こうには出られないからと、ハツセは笑う。
「ホオズキと二人で、婚礼の紙衣をつくるんだ」とナナオリが言うと、「素敵。私のときも絶対につくってね。ヨツハちゃんのよりももっと素敵なやつ、お願い」とハツセはナナオリの髪をそっと撫でて、それから窓の外に視線を向けて、どこか遠くを見つめた。
 印刷所に品物を届けて空になった風呂敷にお菓子をいっぱい詰め込んで、ナナオリはハツセの部屋を出た。ここに遊びに来るたびに、客から土産にもらうのだと言って、必ずハツセはナナオリに菓子をもたせてくれる。
「また遊びに来てね」
 頷いたナナオリに、入口にいた若い仲介人が「嬢ちゃんもここで働けばいい」とからかうように言うと、「冗談じゃない」とハツセが厳しい口調でたしなめた。
「おお、こわ」と呟いて若者は見世を出ていく。
 つづいて見世を出ていこうとしたナナオリをハツセは呼び止めて、「すこし曲がってる」と髪を留めていた桜色の簪を直しながら、「紙づくりは楽しい?」と訊ねる。
「うん」と頷こうとしたナナオリに「動かないで」とやさしく言って、「よし、これで大丈夫」とハツセは妹の髪をそっと撫でた。
「ありがとう」と微笑んだナナオリに、ハツセは幼かった頃の面影を重ねてみる。小さかった妹は、もうずっと大きくなっていて、大人へと近づいているのだ。子どもの頃と何も変わっていないように見える笑顔も、どこか大人のいろを帯びはじめている。
 ナナオリのかんばせを薄く彩る頬紅や口紅の色、まだ可愛らしいその色を、ハツセは心から愛おしく思った。
「またね」と手を振って離れていったナナオリの姿が見えなくなるまで、ハツセはその小さな背中をずっと見送っていた。

 

四折 異邦人エトランゼのこと

 宗主国から視察に来た大使を乗せた力車が、街の大通りを通っていく。人々は道の両側を埋め尽くして、見慣れぬ異国の人々の姿を見物していた。
 ナナオリも必死に背伸びをして人の肩と肩の隙間から顔をのぞかせるが、遠くのほうからこちらへ向かってくる力車の屋根のあたりしか見えなかった。
 どんどん増えていく人波に、前のほうへ押し出されて行って、ナナオリが身体を人の間にねじ込みながらようやく最前列まで出ていくと、ちょうど大使を乗せた力車が目の前を通過していくところだった。
 金色の立派な髭を生やし、大きな身体を黒いツイードのスーツで包んだ大使の横に、大使と同じ髪の色をした人形のような可愛らしい少女が座っている。おそらく大使の娘だろうと、ナナオリがその小さな横顔を見つめていると、不意に少女が顔を横に向けて、その刹那、ナナオリの黒い瞳と少女の青い瞳、二つの視線が重なった。
 しかし、そう感じたのはナナオリのほうだけかもしれなかった。少女はすぐに顔を正面に戻して、何事もなかったかのように目の前を通り過ぎていった。
 見物客のなかには力車のあとを追っていく者もいたが、ほとんどはその場で解散して、日常へと戻っていった。そばに帰るべき場所のないナナオリだけが、非日常の街のなかに取り残されていた。
 ナナオリは、昨晩仕上げた御守りを懐から取り出して見つめると、それを雑貨店に預けて置いてもらうことに決めて、店へ向かった。
「いらっしゃ……ああ、ナナオリさんか」
 まだ三十手前の年若い店主が、ふちのない眼鏡の奥から柔和な笑みをよこす。
「こんにちは」
 六坪ほどの狭い店内には、渡来品やこの地域の特産品の雑貨が所狭しと並べられており、ナナオリはここへ来るたびにそれらを眺めて目を楽しませていた。
 店主は磨いていたグラスをカウンターの上にそっと置いて、昨日入荷したばかりだという渡来の装飾品をいくつか、奥の倉庫から出してきて、見せてくれた。
 そのなかの一つ、小さな翡翠をちりばめた蝶のブローチをナナオリは手に取って、店の明かりにかざしてみる。
「きれい……」
「宗主国の西のほうに、翡翠の名産地があって、そこで加工をしたときに出た欠片を集めて、そういうものを作るそうですよ」
 翡翠の碧さも美しかったが、それをはめ込んだ蝶をかたどった金属加工の見事さにもナナオリは惚れ惚れとしてしまう。静かでいて、精緻な美しさが、どこか姉のヨツハのたたずまいを想起させる。
「まだ値段をつけていないので店頭には出せないんです」と店主は笑い「今日は、何を?」とナナオリに要件を訊ねてくる。
「あ、これを」といってナナオリが懐から取り出した御守りを受け取って、店主はしばらく眺めてから「いつもありがとうございます。ナナオリさんの御守り、人気があるんですよ」と微笑んだ。
 それから、何か思いついたように「そうだ」と言って「もしよかったら、そのブローチとこの御守り、交換にしませんか」と提案してくれた。しかし、明らかにブローチのほうが高価な物だろうとナナオリには思えたため、躊躇ためらってしまう。
「でも……」とナナオリが返事をしあぐねていると、「気にしないでください。外からのお客様は気前の良い方が多いので、十分に元は取れるんです」と店主は笑う。御守りだけでなく、抱き合わせでいろいろ買ってくれるということらしい。
「あ、ありがとうございます」
 ナナオリは蝶のブローチをそっと握りしめて、礼を言って頭を下げる。
 すると、背後で扉の開く音がして「いらっしゃいませ」と店主がそちらに声をかける。
 ナナオリが振り返ると、そこには先ほど力車の上で見た人形――のような少女が立っていた。背後に付き人らしい初老の紳士を引き連れて、少女は堂々とした足取りで店の中央まで入ってくる。
 ナナオリのわからない言葉で、少女が店主に話しかけ、店主もそれに応じて何か言葉を返していた。ナナオリは店の隅で二人のやり取りを見守っていた。
 店主は手に持っていたナナオリの作った御守りを見せて、それを少女に手渡した。受け取った少女は、不思議そうにしばらくそれを見つめていたが、顔を上げて店主に何か質問をしたようだった。
 言葉はわからなかったが「これは何だ」といった意味のことを訊いたのだろう、とナナオリは推測した。
 店主の返事のなかで「……オマモリ……」という言葉だけ、聞き取ることができた。おそらく、その由来や効能などについて説明しているのだろう。話し終えると、店主は最後にナナオリのほうに視線を向けて、何か付け加えて言った。店主の視線の動きに合わせて、少女もその青い瞳をナナオリに向けた。
 そして少女は御守りを手にしたまま、ナナオリのほうへ歩み寄ってくる。
 鈴の音に似た涼やかな声が、音楽のように少女の小さな唇からこぼれだす。その音の意味することがわからずに、ナナオリが戸惑っていると「はじめまして、と仰っています」と店主が教えてくれた。
「は、はじめまして」とナナオリが自分の言葉で応えると、少女は微笑んでまた歌うように何か言葉をつづけた。上手く聞き取ることのできなかったその言葉が、何故か自分の名を問うているような気がして、思わず「ナナオリ」と呟いてしまった。
「な、な、おり……?」
 不思議そうに少女は首を傾げる。二人のやり取りを見守っていた店主が、メモ帳のようなものをもってきてくれて「翻訳帳です。これに名前を書いてあげてください」とペンと一緒にナナオリに手渡した。
 ナナオリの暮らしているタナムラの工房では翻訳帳という新和紙の製品は製造していない。おそらく他の工房が、独自の製法で開発したものだろう。いったいその抄造の工程にどんな秘密が隠されているのだろうと思いながら、ナナオリはペンを動かしていく。
――七織
 ナナオリが自分の名前を紙に書きつけると、その上に重なるように、見たことのない記号が浮かび上がっていく。それを見つめていた少女が「ナナオリ!」と嬉しそうに言って、ナナオリの手からペンを取ると、紙の上に自分の名前を書きつけていく。
「オーリガ」と浮かび上がってきた文字を、ナナオリは読み上げた。少女は嬉しそうに笑い、紙にさらに何か書いていく。

  はじめまして、ナナオリ。貴女の御守りとても気に入りました。

 そう書き記して、オーリガは握っていた御守りを見せる。そして中央に描かれている金字の紋様を指先でなぞり、再びペンを走らせていく。

  これは何を表しますか?

  「親愛」という意味を込めて、作りました。

 ナナオリが返事を書き記すと、オーリガは彼女の言葉で親愛を意味する音を、歌うようにそらんじて笑った。
 それからオーリガは店内の商品を順に見て回り、その一つひとつについて、店主ではなくナナオリに質問を投げかけてきた。ナナオリは、答えられるものについては答え、わからないものはオーリガと一緒に店主に訊いた。
 小箱や人形、髪結いの丈長、それにとても便利な翻訳帳など、新和紙製品をいくつか購入して満足すると、オーリガは付き人にそろそろ時間だと告げられて名残なごり惜しそうにナナオリを見つめた。ナナオリは先ほどからオーリガがずっと御守りを握りしめていることに気がついて、懐から小物入れとして携帯している紙包みを一枚出して、渡した。
 桃染めの包みは、ナナオリの髪を飾っている簪と同じ色だ。
 御守りを紙包みに丁寧にしまい込むと、オーリガは礼を言って店を出ていった。どれくらいの時間、二人は肩を並べていたのだろうかと思い、ナナオリは店の壁に飾られていた時計を見遣った。ずいぶん長いこと一緒にいたような、それでいて一瞬の出来事であったような時間が過ぎ去っていた。
「ナナオリさんの御守りのおかげで、商売繁盛です」と店主は笑い、おまけだと言って新品の翻訳帳を一束くれた。デジ・マから降りてくる異邦の客を相手にするため、いくつもストックしてあるのだという。
 七織とオーリガ――二人の名を書き記した紙片を記念にもらって、そこに浮かび上がっている二種類の文字を見つめて「オリとオリ、ですね」とナナオリは呟いて、先ほどまで自分が親し気に話し込んでいた相手の身分のことについて思い至る。
 彼女は、宗主国の大使の娘である。片や自分は、統治領のなかの小さな島の一つ、その郊外に暮らす、田舎娘にすぎない。まるで、身分違いの相手であった。
「あの、何か失礼はなかったでしょうか」
 急に不安になって、ナナオリが訊ねると店主は「大丈夫だと思います。とても楽しそうにしていらしたので」とやさしく微笑んだ。
「また来ます」と会釈して、ナナオリは店を出た。午前の雨が嘘のような、雲一つない快晴の空が、扇型の大きな影の向こう側に広がっていた。
「あっ」
 ナナオリは、ハツセの見世に傘を置いてきてしまったことに気がついて、思わず小さな声をあげた。今から取りに戻ろうかと考えて、しかしこの時間では皆すでに見世棚へ出てしまっているだろうと思い、また次の機会まで預かっておいてもらうことに決めた。
 帰ったら血脈通信でハツセに知らせておこう。広げると黒い傘紙いっぱいに見事な細工で描かれた赤い曼殊沙華の鮮やかな花弁が踊るその傘はナナオリのお気に入りで、それは一昨年おととしの誕生日に、ハツセがくれたものだった。
 ナナオリは街の中央、デジ・マへ上がるための傾斜スライド式大型エレベータのふもとへとやってきた。エレベータへの入口には検問が敷かれていて、通行証をもたないナナオリはそこから先へ進むことはできない。
 街へ出てきたときは、必ずそこへ立ち寄って、真下から巨大な扇の羽根――デジ・マの底板を見上げることにしていた。
 いつか、自分もこの先へ上がって、さらに遠くまで行くことができるだろうかと、扇の影の下、ナナオリは外の世界へ思いを馳せる。
 ヨツハとアシマが結ばれて共に暮らすようになれば、ナナオリは広い家に一人きりになるか、あるいはアシマがうちへ来るのなら、それはそれで居心地が悪いものだろうと思う。ナナオリが生まれた頃には六人が暮らしていた家に、今はヨツハと二人きりだ。
 母親は、ナナオリを産んですぐに、当時まだ新和紙の製造工程で稀に発症するとされていた紙粉咳を患って他界しており、だからほとんどその記憶は残っていない。ナナオリのなかに母親の像としてあるのはハツセの姿だった。
 いまのヨツハと同じ、活字の彫刻師を生業なりわいとしていた父親も、ナナオリが幼かった頃、紙暴君ペイパータイラントに襲われ、命を落としていた。父はヨツハを跡取りとして考えていたわけではなかったようだが、兄姉妹のなかで特に父から溺愛されていたヨツハは小さい頃から父の仕事場でよく遊んでいたため、自然とその仕事に興味を持ったらしい。
 両親を失ってから、一家の稼ぎ頭となったのはハツセより一つ下の兄、フジトだった。まだ十代半ばだったフジトは、父の無念への思いもあったのか、志願して暴君狩りとなり、すぐに頭角を現していった。そんな彼を、現在のナナオリのように工房でさまざまな雑務をこなしながらハツセが支えてきた。
 以前、フジトにもサイバネティクス処理を受けるために、島の外へ出たときのことを訊いてみたことがあった。答えは、アシマと同じだった。窓のない護送車に揺られて、飛行船では積荷のように狭い部屋に押し込まれて、着いた先ではずっと眠らされていた。
 おそらく、宗主国の人々からはナハトリアの領民など、その程度にしか見られていないのだろう。生来の肉体に人工的な改変を加えるサイバネティクス処理は、生活を補助するレベルの軽いものであれば、世界中で積極的に利用されていると聞く。
 しかし、この島の暴君狩りたちのように、生身で狂暴な紙暴君と戦うためには、かなり高度な人体強化が必要になってくる。それは生きるために道具の補助を受けるようなものではなく、生きるために肉体を戦う道具と化すことを意味している。
 外の世界の人々にとって、暴君狩りとは人非ひとあらざる者――戦闘のための道具のような扱いなのかもしれないと、ナナオリは悲しく空の果てを見つめた。
 すこし離れた検問所に、数台の豪奢な黒塗りの力車が停まった。その車上に、ナナオリは見覚えのある可愛らしい顔を見つける。オーリガだ。
 駆け寄っていくナナオリに気がついて、オーリガが「ナナオリ!」と嬉しそうに名を呼んだ。彼女の隣に座っていた大使が、小さな頭越しに覗き込むようにしてナナオリを見下ろした。すぐに目元が険しくなり、あからさまな侮蔑の表情が浮かぶ。
 その視線に、ナナオリは超えることのできない大きな壁を感じる。それはこの島を取り囲んで、外の世界との交わりを阻むデジ・マの障壁のように、目には見えない冷たさをはらんでいた。
 大使はすぐにナナオリから視線を外して淡々とした調子で何か呟いた。その言葉に促されて、力車は脇に立つナナオリを押し退けるように動き出した。オーリガは一瞬振り返って父親に困惑した視線を向け、それから再びナナオリのほうへ向き直って、悲しそうな顔をして小さく手を振った。
 ナナオリがそれに応えようと、手をあげかけたときには、すでにオーリガの姿は検問所の柵の向こうへ消えてしまっていた。

 

五折 紙暴君のこと

 タナムラ製紙業舎のある方角から、夕餉の支度をしているのであろう白煙が立ち昇って見えている。
 振り仰げば海の向こうに沈みかけた夕陽が街を赤く染めて、その上空に扇型をしたデジ・マの黒い影を映している。
 吹きつけた冷たい夜風に木々が鳴いて、葉の揺れるざわめきがあたり一面に広がっていく。ナナオリは目を細めて、揺れる前髪をそっと指先で抑えた。暮れはじめて夜の色の濃くなった雑木林を不安気に見遣り、早く戻らないとヨツハが心配するかもしれないと、足を速める。
 まもなく舎の敷地へ着くというところで、不意に、森で羽を休めていた鳥が一斉に飛び立つ凄まじい羽音が響き、ナナオリは驚いて足を止めて、立ち竦んでしまう。直後、無数の木の葉や枝が勢いよく薙ぎ払われていく音がしたかと思うと、地面が激しく揺れた。
 すぐ近くに何か巨大なものが降り立ったような重たい気配があった。
 ナナオリは身を強張らせたまま、音のしたほうにゆっくりと視線を向けていく。濁った大きな赤い瞳と目が合った。
 紙暴君だ。
 声にならない小さな悲鳴をあげて半歩身を引きながら、ナナオリは腰が砕けそうになるのを必死にこらえて、目の前の巨大な獣を睨みつけていた。汚れて灰色に染まった白い体毛が無数の短冊のように逆立っている。そのなかで口の周りだけが赤く染まっており、その鮮やかさがナナオリの目を引いた。
 獣は、何か小さな白いものをくわえている。人の腕だ。力なくぶら下がったその先についている細く整った指を、ナナオリはジッと見つめた。
 人を襲った直後で空腹が満たされていたからなのか、紙暴君はナナオリから視線を外すと、強靭な後ろ脚で地面をえぐるように蹴って跳躍し、暗い森のなかへ消えていった。
 脅威が去って、緊迫した空気から解放されたナナオリは、全身の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。額に浮かんだ冷たい汗を右手のひらで拭い、濡れた指先を見つめたとき、先ほど獣がくわえていた腕に見覚えがあるような気がして、胸のあたりに何か冷たいものが差し込んでくるのを感じ、ナナオリは背筋が震えた。
 嫌な胸騒ぎに駆り立てられるように、ナナオリは両脚に力を込めて立ち上がり、舎のほうへ向かって走った。途中、下駄の鼻緒が切れて転んでしまい、紙衣の袖と裾を汚してしまう。擦りむいて血のにじんだ手のひらに、懐から取り出した薬紙を貼って応急の手当てをする。紙獣の皮脂を多く含み薬膏に浸して作られた薬紙が、染みるように傷ついた皮膚に馴染んでいく。
 切れた鼻緒の代わりにするため、懐紙を縒りながら、なぜ、自分はこれほど気がいているのだろうかと、ナナオリはすこし冷静になって考えてみる。紙暴君が人を襲うことなど、この辺りでは珍しくないのだ。たしかに人の暮らす辺りにまで獣たちが姿を現すことは稀であったけれど、腹を空かせた紙暴君が人里を襲うこともないわけではない。
 漠然と不安に駆られるよりも、むしろ襲われずにこうして生きていることのほうを喜ぶべきではないかと、ナナオリは思う。
 深呼吸をして空を見上げると、黄昏に染まった空の端に、白い月が姿を現しはじめており、そのすぐ傍には先ほど目を合わせた獣の目のような、赤い監視の目が浮かんでこちらを見下ろしていた。
 ナナオリが製紙業舎に戻ると、敷地の入口に立つ大門の瓦が一部落ちて地面に散らばっていた。入口に番がいないのを訝しく思いながら、ナナオリは閉ざされた門の脇の通用口の戸を押してなかへ入った。先ほど夕餉の支度と見えた白煙は、どうやらナナオリの暮らす家のほうから上がっているようだった。
 闇に染まりつつある舎の敷地内には、人の気配がなかった。小走りに家路を急いでいたナナオリが、道端に人の倒れているのを見つけて駆け寄ると、それはアシマの隊に所属している顔見知りの若い衆だった。
「大丈夫ですか!」と声をかけながら、相手が肩口に深手を負っているのを見て取り、ナナオリは懐から薬紙を取り出して傷を覆うように貼ってやる。
 半ば朦朧とした意識で、男はナナオリに視線を向けて「アシマさんが……」と苦悶の表情を浮かべて呟き、そのまま目を閉じて力なく項垂れてしまった。まだ息のあることを確かめて、男のことを頼むためにナナオリは近くの民家に駆けて行った。
「すみません」と戸を叩くと、すぐに紙漉き職人の女が不安気な表情を浮かべながら姿を現した。女はナナオリの姿を認めると「アンタ、無事だったのかい」と小さく叫び、そのまま抱きしめた。
 訳もわからず、女に抱かれたまま、ナナオリが「あの……」と呟くと、女は工房が紙暴君の群に襲撃を受け、そのうちの数匹がナナオリの家のほうへ向かったということを教えてくれた。
 自分はお遣いで街へ出ていたことを話して女を安心させ、それからヨツハのことが気がかりで居ても立っても居られず、傷ついた男のことを任せるとナナオリは急いで家へ向かった。
 近づくにつれて、辺りには壮絶な戦いの痕が広がり、あちこちで傷ついた暴君狩りたちが手当てを受けている姿を見かけるようになった。おそらく暴君狩りの誰かが火器を用いたのだろう。ナナオリの見た白煙は雑木林の一部が炎上したために上がったもので、紙暴君に襲われることなく難を逃れた者たちが消火活動に当たっていた。
 ナナオリは、半壊した家の前に呆然と立ち尽くした。玄関周辺の作業場は元のまま残っていたが、奥のナナオリやヨツハの部屋のあたりは完全に瓦礫と化している。覚束ない足取りで近づいていくと、残った家の壁にも血痕のようなものが付着していた。
 早く、ヨツハを探さなくては……。
「ナナオリ!」
 耳慣れた声に呼びかけられて、張り詰めていたナナオリの緊張の糸が切れた。声に導かれるように、力が抜けて傾いていくナナオリの身体を、声の主はやさしく抱きとめてくれた。そのまま相手の胸元に顔を埋める。
「心配したんだからぁ」
 泣きながら、ホオズキはナナオリの存在を確かめるように、その髪を何度も撫でる。ホオズキに抱かれたまま、ナナオリは深く呼吸して、昂っていた気持ちを落ち着けていった。ようやく泣き止んだホオズキから解放されて、ナナオリが周囲の様子を見渡すと、地面に直接敷かれた大きな茣蓙ござの上に、傷ついた暴君狩りたちが横になっていた。そのなかに、アシマの姿もあった。
 近づいてみると、アシマは全身を包帯と薬紙で覆われており、白い布や紙は滲んだ血で赤黒く汚れていた。
「アシマさんが、いちばん傷が酷いって……」
 ホオズキに言われて、ナナオリはアシマの脇にかがんでその手を握りしめた。いつもナナオリの頭を乱暴に撫でてくれる大きな手は、驚くほど冷たかった。ナナオリが握りしめた手に力を込めても、アシマは何の反応も示さない。もう彼は、死んでしまっているのではないかと、ナナオリは不安になる。
「姉さんは?」
 呟いてナナオリが視線を上げると、その先、すこし離れた場所に、真っ赤に染まった白布はくふに覆われた何かが横たわっていた。布のふくらみは、人ひとり分には小さすぎるように思えた。
 アシマの手を放して立ち上がり、ナナオリは血に染まった布のほうへ近づいていく。その途中で、肩をつかまれて振り向くと、アシマの部隊の暴君狩りの一人が小さく首を左右に振って「見ないほうがいい」と言った。咄嗟に、言葉の意味がわからず、ナナオリは正面に向き直って、再び歩きだそうとした。そうして一歩、二歩すすんだところで、ナナオリは無意識のうちに「ああ……そうか」と呟いていた。
 ヨツハはあんなに小さくなって、死んだのだ。
 何故か、ナナオリは口元に半笑いを浮かべてしまった。それから目の奥が熱く濁って涙があふれてきた。泣きながら力なく笑うナナオリのことを、気が触れたのかと勘違いして、ホオズキが必死になって肩を揺さぶった。
 思えば、父も、兄のフジトも、紙暴君によってその命を奪われたのだった。そして、今度はヨツハまで凶暴な獣の手にかかって、いなくなってしまった。この島は、いったい何なのだろう。どうして自分はこんな場所にいるのだろう、とナナオリは思う。
 新和紙がこの閉鎖されたナハトリアの島でのみ作られるように、紙暴君もこの領内だけに生息している。もしも自分たちがこの島に生まれなければ、誰もこんな無残な死に方をせずに、済んだのではないか、とナナオリは不毛なことを考えてみる。
 そんな不毛な願望が可笑しくて、笑う。
 笑ったナナオリの頬を、ホオズキが平手で張った。
「何で……なんで、こんなこと……」
 呟いたナナオリの顔に、もう半笑いはなかった。
 その夜はホオズキのところへ泊めてもらい、翌朝、ナナオリは暴君狩りたちの詰所を訪ねてアシマの様態を見舞った。未だ意識を取り戻すことなく、高熱にうなされてアシマは横になっていた。
 それは昨日の朝、快活に笑いながら街へ行く自分を見送ってくれたのと同じ人のようには見えなくて、ナナオリはどこか夢見心地のまま過ごしているような感覚にとらわれてしまう。
 雑木林の火は昨夜のうちに消し止められて、敷地内の被害状況の確認が行われていた。ナナオリの家のように被害を被った家屋も多く、また飼育小屋の紙獣たちも無残に食い荒らされていた。
 紙獣を守ろうと紙暴君に抵抗を試みたゲンは、強烈な尾撃を受けて全身に打撲を負い、右腕と肋骨を折ったが、辛うじて一命をとりとめていた。飼育小屋に隣接した管理小屋の奥で療養していたゲンは、沈鬱な面持ちで顔を強張らせていたが、見舞いに訪れたナナオリの姿を見ると、表情をやわらげて弱々しい声で「おう」とだけ言った。
 アシマやゲンのように重傷を負った者は多かったが、命を落とした者も少なくはなかった。午後からは、損傷の激しい遺体から順に焼かれていくことになっていた。舎の総務の者から案内を受け取って、ナナオリは昼食もとらずに火葬場へと向かう。
 葬儀用の、送紙おくりがみと呼ばれるロール状に加工された細長い新和紙に全身を巻かれた遺体が並んでいて、その脇に彼らの名を書き記した小さな紙片が添えられていた。ヨツハを包んだ送紙は、他の遺体に比べて、半分くらいの大きさだった。
 小さな送紙の上に、ナナオリは土間の仕事場から持ってきた先の尖った彫刻刀をひとつ置いた。木柄にはヨツハの紅の跡が残っている。ナナオリがヨツハのためにつくり、姉が肌身離さず持ち歩いていた蹄の御守りは、喰い千切られた半身とともに紙暴君に飲み込まれてしまったらしかった。持ち主の身を守らずして、何のための御守りだろう。
 ナナオリがヨツハのために御守りに彫った紋様は技芸上達を願うものだった。こんなことになるなら健康祈願や家内安全を願っておけばよかったと、思う。ナナオリは昨日、街で手に入れた翡翠の蝶のブローチを懐から取り出して、彫刻刀の隣に置いた。
 ヨツハのことを一刻も早くハツセに伝えなければならなかったが、彼女と血脈通信を結んでいた新和紙はナナオリの部屋と一緒に瓦礫に埋もれてしまっていた。工房長の家に設置されている街との有線通信用のケーブルも、昨日の紙暴君との戦いで断線してしまい、すぐに連絡の取れる方法はなかった。
 火葬場に集まった遺族たちに向かって、街に遣いへ出るという若い衆が声をかけて、用事を募った。ナナオリは懐紙にハツセへの短い手紙をしたためて若い衆に預けた。
 十分に別れを惜しむ間もなく、すぐにヨツハの順番がくる。それだけ損傷が激しかったのだ。紙暴君に襲われて命を落とした者に対しては、葬儀を行わないのが習わしであった。その魂は紙暴君へ預けられて紙のもととなる木々の生い茂った森のなかへと溶け込んでゆく。やがて紙暴君は人の手によって狩られ、その肉、骨、皮――躰の、あらゆる部位が人々の生活に利用される。そうやって紙暴君の奪った命は循環して、再び人の傍へと戻ってくるのだと、信じられている。
 ただ遺された魂の器たる身体を焼き、灰を森へ撒く。還る場所をなくすことで、魂の迷いを断ち切るために。
 ナナオリは、そんな言伝えを、ひどく窮屈なもののように思う。身体を失って、死んでもなお、自分の魂はこの閉鎖された島を離れることができないのだろうか。いつかヨツハの魂が循環して、再びナナオリの傍に戻ってくる。それはとても嬉しいことのように思えるけれど、自分ならば、この島を離れて、もっと遠くまで飛んでいきたい。
 ナナオリは、生まれてからずっと傍にいたはずのヨツハが、この島での暮らしをどんなふうに感じていたのか、一度も聞いたことがなかった。そして、自分がこの場所を窮屈に思っているということを話したこともなかった。ヨツハとそんな話をする機会は、永遠に失われてしまった。
 しばらくして、ナナオリの前に大きな飾紙かざりがみに載せられたヨツハの乾いた骨と灰が運ばれてきた。飾紙に施されている微細な透かし彫りの溝に落ちた灰が、薄っすらと幾何学的な模様を浮かび出していた。
 獣の骨に文字を彫ることを生業としていた人が、骨になって目の前に在った。彫刻師の遺灰を見るのは、ずっと幼い頃に逝ってしまった父親と二人目であるはずなのに、その骨の色に現実感はなかった。
 灰を詰めた紙縒編こよりあみひつを抱いて、ナナオリは火葬場を後にした。家を失って帰るあてもなく、何となくアシマのいる詰所のほうへ足を向けていた。遺灰は、家族の手によって森へ還すことになっていたが、アシマにもヨツハの灰を撒く権利があるように思えた。
 ナナオリが詰所を訪ねると、今朝ほどは死んだように意識を失っていたアシマが目を覚ましていた。暴君狩りとして強化されている身体はやはり並大抵ではなかったのだ。それでもまだ起き上がることはできず、思考も鈍っていて、口にする言葉も途切れがちだった。
「ナナ……オリ、か」
 片方の眼球だけを動かして、アシマはナナオリを見つめた。薄く開かれている目に、いつもの力強さはない。熱い息をひとつ吐き出して、アシマはゆっくりと視線をナナオリの胸元の櫃へ落としていった。
「ヨツハか……」
「うん」
「また……助けられなかった」とアシマは言って「でも、今度は――見捨てなかった」と独り言のように呟いた。アシマは再び視線をナナオリの顔に向けて、その瞳をジッと見つめた。許しを請うように向けられたアシマの目を、ナナオリも見つめ返す。ナナオリにはアシマがヨツハの死を悲しんでいるようには見えなかった。むしろその表情は、何かから解放されたように、すっきりとしたもののように感じられた。
 許されるために、誰かを愛するなんて、悲しい。アシマの表情にそんな類の悲しみが透けて見えてしまい、そしてナナオリはその悲しみを共有することはできない、と思う。
「私に、あなたを許す権利なんて、ない」
「……だったら、あとは誰に……許してもらえば、いいんだ?」
「そんなの、知らない」
 言って、ナナオリはアシマの手をとって強く握りしめた。手は大きくて、温かかった。それはヨツハを守るために戦ってくれた手だった。
 アシマもナナオリの手を握り返そうとして、しかし指先にはまったく力が入らず、小さく震えるだけだった。その震えを止めようと、ナナオリはアシマの指をそっと握る。
「こいつは……廃業だなぁ」
 自嘲気味に短く笑って、アシマは「疲れた、寝る」と目を閉じた。
「おやすみなさい」と言って詰所の控室に戻ったナナオリに、街に遣いに出ていた若い衆がハツセからの返信を届けてくれた。
 短い手紙に目を通して、ナナオリはそれを抱きしめるように胸元へ引き寄せた。ヨツハの死を自分と同じように悲しんでくれる人がいて、そして、それ以上にその人が自分のことを心配してくれているということが、かけがえなく大切なものだと感じられた。まだ自分は一人きりではないのだと思えることが、ナナオリの小さな心を励ましてくれた。
 詰所から外へ出て空を見上げると、そこに扇型をしたデジ・マが浮かんでいる。そして暮れかけた空には朱い監視の目が二つ、輝いている。それは森で遭遇した紙暴君の濁った瞳を思い出させた。ナナオリは目を逸らさず、私はここにいる、と胸を張って赤い瞳を睨み返した。
 空は昨日と何一つ、変わっていないように見えた。

 

六折 残った者たちのこと

 タナムラ製紙業舎が紙暴君の襲撃を受けてから、ひと月あまりが過ぎた。
 ナナオリは仲間たちの助力を受けて半壊した家を片づけて、玄関の奥に一間ひとまを設けた小さな庵に改装し、そこに一人で暮らしていた。ヨツハの作業場には手をつけず、元のまま残してあった。
 ホオズキと二人で作るはずだったヨツハの婚礼用の紙衣は、大きな白い和紙のまま手をつけずに作業場の片隅に置かれていた。もう少し暮らしが落ち着いたら、その紙で縒糸を作り、手縫いではなく織機しょっきを借りて紙衣を仕立てるつもりだった。
 織機を使えば様々な模様を描くことができる。複雑な柄や人気のある柄を描くためのプログラムが穿孔せんこうされたパンチカードは高額で、それを手に入れるための資金も貯めておかなくてはならない。
 ヨツハの遺してくれた骨活字を売れば、パンチカード分くらいの金額にはなりそうだったが、それを手放すつもりはなかった。ときどき、作業場の隅のケースに並べられた小さな逆さ文字を眺めていると、それを彫り込んでいたヨツハの繊細な指先の白さが思い出された。
「行ってきます」と玄関の脇の棚に並んだ彫刻刀たちに声をかけて、ナナオリは庵を出て仕事に向かう。以前と変わらず、ホオズキと一緒にこうぞの皮を剥いだり、川にさらしたり、荒皮を踏んで落としたりするのだ。日々、新和紙作りの一端を担う作業を、ナナオリはこなしている。
 ヨツハがいなくなって、ナナオリの生活に何か変化があったとすれば、ハツセに会うため、以前よりも頻繁に街へ出向くようになったことくらいだ。
 あの日以降、最も大きく変化したのは、ナナオリではなくアシマだった。戦いの傷で暴君狩りとしての戦闘能力を失ったアシマは、隊を外れて何をするでもなく、無為な生活を送っていた。
 身寄りもなく、詰所で寝泊まりしていたアシマは、舎の敷地のはずれにあった小さな空き家に住み着いていた。数日おきに、心配になってナナオリが様子を見に行くと、アシマは昼間から暗い小屋の奥に寝転がって、ぼんやりとしているのだった。
 それでも時々、夕暮れ近くになると小屋を出てどこかへ出歩いているらしく、薄暗い夜道をふらふらと歩いているアシマの姿を見かけたという話を聞くこともあった。夜の街でアシマの姿を見たという者もいた。
 ナナオリは、兄フジトの親友で、ハツセとヨツハ、二人の姉に愛されて、自分にとっても兄のような存在だったアシマのそんな姿を見ていることが辛かった。あのとき、アシマのことを「許す」と言っていたら、彼は救われたのだろうかと幾度となく自問してみたが、はっきりとした答えは出せなかった。
 以前から、ときどきアシマが自分やヨツハに負い目のようなものを見せることがあるのを、ナナオリは感じることがあった。その後ろめたさは、ハツセを捨てたことに起因しているのだろうと、ナナオリは思っていた。
 しかしあの日、アシマの口にした「また、助けられなかった」という一言が引っかかっていた。そして、かつてアシマが助けることのできなかった相手は、フジトなのだろうと考えるようになった。
 フジトはアシマより年下だったが、当時は暴君狩りチームのリーダーを務めていた。だから、窮地に立たされたとき、フジトが自分の身を犠牲にして仲間を助けたとしても、そのことでアシマが負い目を感じる必要などないはずだった。
 実際、紙暴君との戦いの場面でアシマとフジトの間にどんなやり取りがあったのかは、ナナオリには想像もつかない。しかし、そこにアシマの苦しむ原因があったのだとしたら、自分は彼が救われるための手助けをできるかもしれないと、思った。
 夕方、仕事を終えて庵に戻ったナナオリは、窓の隙間から差し込んだ夕陽がかつてヨツハが座って活字を彫っていた作業台のあたりを照らしていることに気がついて、そちらに足を向けた。
 棒状の活字を固定する台に指先で触れてみる。ひんやりとして冷たい。不意に思い立って、道具棚から彫刻刀と真新しい棒状の骨をひとつ取って、ナナオリは作業台に座ってみた。そして、ヨツハの真似をして、まだ彫刻刀の刃を入れられていない平らな骨の先を見つめる。
 ヨツハの言っていたように、そこに文字が浮かび上がってくるのを待つ。いくら待っても、才能のないナナオリには何も見えてこない。それでも、ずっと待ってみる。
 ガラッ、と戸の開けられる音がして、待っていた人がやってきた。
「ヨツハ……」
 夕陽がさして陰になったナナオリの顔に、アシマは姉の面影を見た。立ち上がろうとするナナオリに駆け寄って、そのまま、押し倒す。驚いた様子でこちらを見上げているナナオリのかおに、アシマの知っている仇気あどけなさはなかった。
 アシマはナナオリの紙衣の衿に手をかけると、力まかせに引きはがした。ナナオリははだけた胸元を気にする素振りも見せず、真っ直ぐにアシマの目を見つめていた。アシマの目の前にヨツハとは違う、ナナオリの白い身体がさらされていた。
 確かめるように、アシマはナナオリの顔に目を向けた。その表情は拒むでもなく、受け容れるでもなく、ただ自分に真実を問うているものだとアシマには思えた。
「やっぱり……お前はハツセとは違うんだな」
 アシマの呟きで、ナナオリは理解する。ハツセは、この人の弱さを愛し、受け容れてしまったのだと。そしていま、そのことを後悔しているだろうとも思う。目の前にある、やつれて無精髭を生やした陰鬱な顔を、ナナオリは見つめる。戦うことをやめてしまったアシマからは、以前のような狩場の生々しいにおいはしなかった。代わりに、微かに漂うどこか懐かしいにおいがナナオリの気持ちを落ち着けていく。
「姉さんのこと、愛してる?」
 ハツセとヨツハ、二人の姿を重ねて、ナナオリは問うた。
「わからない」
 アシマの答えに納得して、ナナオリは組み敷かれたまま小さく頷いた。
「兄さんのこと、憎んでたんだ」
「そう……かもしれない」
「わからないの?」
「わかりたく……なかったんだ、ずっと」
「今は――どう思う?」
「戻って……お前のことが大嫌いだって、言ってやりてぇ」
「兄さん、どんな顔、するかな?」
「ハハッ、あいつ、何を言われたのかわかんなくて、きっと呆然と……」
「違うよ」
 ナナオリは微笑んで一言――許す、と言った。そのとき、アシマはナナオリが姉ではなくて兄に似ているのだと、はじめて気がついた。
 力の抜けたアシマの手を払い、ナナオリは紙衣の前を合わせながら身体を起こした。陽は沈みかけ、作業場は暗い陰に包まれていた。
夕飯ゆうはん、食べていく? 姉さんよりは料理上手いと思うけど」
 何事もなかったかのように言ったナナオリの言葉に、アシマはすぐに返事ができなかった。作業場に備え付けられていた流しを改装して作られた狭い台所で、ナナオリが夕餉の支度をはじめる。
「遠慮しておく」と、未練が首をもたげはじめたのを抑えながら、アシマは言った。
「そう」と素っ気なく応えて、ナナオリは二人分用意していた食材を貯蔵棚へ戻した。
 起き上がって出ていこうとするアシマの背中に「そういえば」と声をかけて、「髭、剃ったほうがいい。似合ってないよ」とナナオリは言った。
 背を向けたまま軽く片手を上げてナナオリの言葉に応えると、アシマは影のように静かに庵から去っていった。
 いつもどおり、一人きりの食事を終えたナナオリは、血脈通信でハツセへ短いメッセージを送っておいた。そのなかで、アシマがナナオリを訪ねてきたことと、明日、街へ出るつもりだということを伝える。
 ハツセからはすぐに返信があって、小さな紙の上にただ一言「待ってるよ~」とだけ浮かび上がってきた。アシマのことについて何も触れていないのがハツセらしいと、ナナオリは線が細くて縦に長い癖のある姉の筆跡を見つめながら思う。それからヨツハはどんな字を書くのだったかと思い浮かべてみたが、浮かんでくるのは獣の骨に刻まれた活字の輪郭ばかりで、彼女の書字を思い出すことができなかった。
 いつもそばにいて、言葉を交わしていたせいで、離れて暮らすハツセや、交換日記をしていたホオズキのように、文字でやり取りする必要がなかったから、考えてみればナナオリにはヨツハの書いた字を見る機会などほとんどなかったのだ。
 もしかしたら、ヨツハの部屋には何か彼女の書いたものがあったのかもしれないが、紙暴君に襲われた際に、その部屋はナナオリの部屋と一緒に破壊されてしまった。この庵のなかには、恐らくもうヨツハの筆跡は何一つ遺されていないのかもしれないと思うと、ナナオリは無性に寂しくなってしまい、頬を涙が一筋落ちていった。
 手の甲でそれを拭い、作業場のほうに目をやってみて、そういえば片づけをしているときに数冊のスケッチ帳を葛籠つづらのなかに仕舞ったことを思い出す。道具棚の上に積んであった葛籠を下ろして蓋を開けると、すぐに縒紐でまとめられたスケッチ帳がみつかった。
 開いてみると、そこにはヨツハによって描かれた文字がいくつも並んでいた。しかし、綺麗な線でレタリングされているそれは、彼女の筆跡を示すものではなかった。頁をめくっていくうちに整然と並んだ無数の文字のなかに「七」を見つける。もしかしたら「織」の字もあるかもしれないと、文字列の上に視線を走らせていき、見つける。
 それから、スケッチ帳を閉じて納品用に使われることのなかった試作品や、予備の骨活字が並べられた棚から、「七」と「織」の字を拾った。それで何かをしようというのでもない。ただ、ヨツハの彫った自分の名を見てみたかっただけだ。
 拾った二つの活字を作業台の上にそっと置いて、作業場の灯りを消してナナオリは奥の狭い寝室へ向かった。
 翌日、街へ出てきたナナオリを、ハツセはいつもどおりやさしく迎えてくれた。ヨツハが逝ってからというもの、以前よりも頻繁に足を運んでいたので、久しぶりという気はしなかったが、それでも姉の顔を見るとナナオリは気持ちが落ち着くのだった。
「昨日、アシマさんがうちに来たよ」
「彼、元気そうだった?」
 ナナオリには先日アシマがここを訪ねてきたことを隠しながら、何気ない調子を装ってハツセは軽く問いかける。
「まだ本調子じゃなかったみたい。でも、きっとこれから元気になるんじゃないかな」
 何の根拠もない、それでいて自信に満ちたナナオリの言葉に、ハツセは何故か納得させられてしまった。
「それより……」と言いかけて、すこし間を置いた後、「兄さんのこと、聞かせて欲しい」とナナオリは呟いた。
 ナナオリが「フジトのこと」と言っているのは、フジトとアシマのことであり、そしてそばで二人を見ていた自分のことなのだと、ハツセは思った。
 ヨツハを失って間もない今、ナナオリがそんな話を聞きたがっていることに、ハツセは戸惑った。しかし、二人きり、遺されてしまった今だからこそ、話しておくべきことのようにも思えた。
 ハツセは、この一月あまりで以前よりもずっと大人びてきたナナオリの表情かおをジッと見つめた。そして、ただ事実だけをそのまま話そうと、決めた。
 ナナオリも承知しているとおり、フジトとアシマ、そしてハツセは幼馴染だった。フジトはハツセが一歳になって少ししたころに生まれた弟だ。歳が近いこともあって、二人はいつも一緒だったが、両親は長男であるフジトに対してより期待をかけており、自分には彼を支える役割が求められているのだと、幼いころからハツセは感じていた。
 その思いに応えようとして、ハツセはフジトを何よりも大切に扱ってきた。だから、フジトもハツセによく懐いていた。はじめにアシマと知り合ったのはハツセのほうだった。父親に連れられて工房の寄合い行ったとき、その場にいたアシマが子どものいたずらで彼女をからかって泣かしたのだった。
 そして、そのことに憤ったフジトが、後日、アシマに喧嘩を挑んで、負けた。子どもの頃から身体の大きかったアシマは、喧嘩で負けたことがなかったのだ。しかし、その後で大切な弟のかたきを討つためにハツセがリベンジを挑み、激しい取っ組み合いの末、大人たちに止められて喧嘩両成敗にさせられた。
 それからしばらく、二人は顔を合わせても口を利かずにそっぽを向き合っていたが、喧嘩の際にハツセの顔に小さな傷をつけてしまったことを、アシマはずっと気にしていて、ある日、フジトを通してそのことを謝罪してきたのだ。
 懐かしそうに当時のことを思い浮かべながら、ハツセは無意識に頬のあたりを指先で撫でた。きっとその辺りに傷があったのだろうと、ナナオリは想像する。
 ハツセがアシマの謝罪を受け入れて、それから三人は一緒に遊ぶようになった。もともと舎の子どもたちの間ではリーダー格だったアシマのグループに二人が入れてもらう形だった。
 豪快なアシマとは違い、フジトは幼いころから物静かで思慮深いタイプだったが、柔軟な発想で新しい遊びを次々に考案して、皆を楽しませることで仲間たちに受け入れられていった。
 行動のアシマ、思考のフジト、そしてそんな二人を優しく包むハツセ。三人の関係はそんな幸福なバランスで、ずっと続いていくのだと幼いハツセは思っていた。
 結婚してしばらく子どもに恵まれなかった両親が、街の修道院から自分をもらってきたのだとハツセが知ったのは、ナナオリが生まれる直前のことだった。はじめのうちその話は、アシマとフジトという人気者の二人にいつも囲まれているハツセを快く思わない者が流した、噂だった。工房の出身の者ではない余所者・・・だとからかわれたハツセを、二人は庇ってくれた。
 そのうち、噂がエスカレートして、誰がどこで手に入れたのか、証拠書類の写しだというものまで出回るようになった。しかしけっきょく、噂を流していた者たちをアシマが力ずくで黙らせることで、事態は収束していった。
 それでもハツセは心に残ったわだかまりを確かめずにはいられなくて、思い切って両親にそのことを訊いてしまったのだ。もう少し大きくなったら話すつもりだったのだという、お決まりの文句を受け止めながら、ハツセは両親が自分よりもフジトに期待をかけ、また父が妹のヨツハを溺愛している理由にも納得がいって、どこか気持ちがくような感覚にとらわれたのだった。
 その話をした日から、母の表情がどこか暗くなり、そしてナナオリを産んですぐに逝ってしまったことが、ハツセはずっと気がかりだった。そのこともあって、ナナオリに事実を話すのが怖くもあったのだ。
 自分が本当の子どもではないと知って、ハツセはフジトと以前のように接することができなくなって、二人の関係はぎこちないものになってしまった。そして、広まる噂に抗って自分のために戦ってくれたアシマに、ハツセはそれまで以上に惹かれるようになっていった。
さんは、アシマさんのこと、愛してるの?」
 妹に訊かれて、ハツセは一瞬、顔を俯けて考える素振りを見せてから「……ええ」と答えた。肯定を口にすると、数日前、アシマがここを訪ねてきて、身を重ねたときのことを思い出してしまい、身体の奥が熱くなってくるのをハツセは感じた。
 ハツセの答えを聞いて、ナナオリはそれならばそれでいいのだと頷いて、すぐにそんな自分の考えがひどく傲慢なものであると感じてしまう。それでもその考えを否定するつもりはなかった。本当の意味でアシマを許し、救うことができるのは、自分ではなくハツセなのだ。
 ハツセとアシマが二人してヨツハを欺いていたことは、彼女のためではなくてひどい裏切りのように思えたけれど、それでもナナオリには、いまこうして目の前にいる大切な姉と、二人の姉に愛された弱い男を嫌うことができなかった。
「姉さん、また来るね」と言って立ち上がったナナオリを、ハツセは優しく抱きしめた。そのときナナオリは、アシマに押し倒されたときに感じた懐かしいにおいが、ふっとあたりに漂ったような気がした。
「また、いつでも遊びに来てね」
「うん」
 ナナオリは姉をそっと抱き返して、頷いた。目の前には、姉の小さな肩があって、気づかないうちに、すこし自分の背が伸びていたのだとナナオリは知った。いつも必ずお土産に持たされていたお菓子のことを、どちらからも言いださずに、ナナオリは姉の部屋を出ていった。

 

七折 ナナオリのこと

 帰り道、いつもの雑貨店に顔を出すと、相変わらず暇そうにしていた店主が「あ、ナナオリさん、お久しぶりです」と微笑を浮かべた。それから「貴女宛の手紙を預かっているんです」と言って、小さな水色の便箋を差し出した。
 受け取って、表につたない字で書かれた自分の名をしばらく見つめて、裏返してみると差出人は先日知り合った大使の娘オーリガだった。封を開いてなかの手紙を広げてみると、そこにはたどたどしい筆跡で、ナナオリにも読むことができるナハトリアの文字が書かれていた。
 ほんの一月ばかりのうちに、これほど文字を覚えたのだろうかと驚き、すぐに翻訳帳に浮かんだ文字を書き写したのだと思い至る。ナハトリア領内では、異国との情報のやり取りはデジ・マによって厳しく制限されている。それは手紙でも例外ではない。
 たとえ宗主国のものとはいえ、異国の文字で書かれた文書を、デジ・マから先の領内へ持ち込むことは簡単ではなかった。そんなことにも配慮してオーリガはわざわざこうして文字を書き写したのかと思うと、ナナオリは手にしている手紙がとても愛おしいもののように思えてきた。
 手紙の書きだしには「親愛なる七織――」と書かれており、別れ際にちゃんと言葉を交わせなかったことや、父親のとった態度を詫びる内容が書かれていた。こんな手紙をよくデジ・マが通してくれたな、と思いつつ、宗主国の貴族の少女が、自分のことを気にかけてくれていたことが、ナナオリには嬉しかった。
「返事を書きたいんですが、届けること、できますか?」
 店長は、しばらく考え込んでから「何とかやってみましょう」と請け負ってくれた。
 異国から届いた手紙のせいなのか、外に出て空を見上げると、街を覆っている扇型の影が、いつもより近くにあるような気がした。空に浮かぶ二つの赤い瞳に見下ろされていることも、嫌な感じはしなかった。
 むしろ、この手紙はあの監視の目をかいくぐって自分のもとに届いたのだと、ナナオリは誇らしい気分だった。自分をはじめとして、この島の人々は簡単に外の世界へ出ることはできないけれど、この島で作られる新和紙は、毎日のように、大量に世界中へ出荷されていく。そして、こんなふうに手紙になって戻ってきて、ナナオリたちに外の世界のことを、ほんの少しだけ伝えてくれるのだ。
 庵に戻ったナナオリは、昨晩拾っておいた「七」と「織」の活字だけを残して、ここにある骨活字やヨツハの仕事道具をすべて売ってしまったら、どれくらいの額になるだろうかと考えてみた。
 それから、もう暴君狩りとして戦うことのできなくなったアシマが、紙職人として真面目に修行したら、どれくらい稼げるようになるだろうかと、その時間と額を試算してみる。もちろん、自分も少額ではあっても貯金を続けていくつもりだ。
 そうしたら、ハツセはいつ頃、花街を抜けてここへ戻ってこられるだろうかと、想像する。ヨツハが本格的な仕事をはじめるためにどれくらい資金が必要だったのか、ナナオリは知らない。
 父の遺した道具があったとはいえ、そのほとんど全額をハツセが負担していたのだ。ヨツハはナナオリが当面の生活に困らないくらいの金銭を遺してくれたけれど、ハツセを連れ戻すのには不十分だろうと思う。
 とりあえず三年――そうすれば、自分も見習いの身分から正規の職人として雇用されるチャンスもあるし、アシマが修行して多少使える腕前になるのには、最低それくらいはかかるだろうとナナオリは意志を固めた。
 思い立ったら居ても立ってもいられなくなって、ナナオリは行燈を提げてアシマの小屋まで小走りに駆けていった。
「アシマさんっ、手伝って!」
 勢いよく戸を引いてナナオリが小屋に飛び込むと、アシマは畳の上に横になって安酒を煽っていた。昨晩のことが気まずくて、次にナナオリとどうやって顔を合わせればいいのかと半日近く考えあぐねていたアシマは、とつぜん本人が家に飛び込んできたことに戸惑って、思わず俯いた。
「起きろ、ぼんくら!」と楽しそうに言いながら、ナナオリは寝転がっているアシマの上に馬乗りになった。昨日とはまるで反対の格好になって呆然としていたアシマの顔を見て、ナナオリは「ずっと飲んでたの? ほんとにぼんくらになっちゃうよ」と笑って「おーきーろー」とアシマの頬を軽く三度、叩いた。
 ナナオリの顔が、昨日見せた大人びたものではなくて、自分のよく知っている仇気ない少女のものだということに安心して、アシマは「誰がぼんくらだ」と言って起き上がる。アシマの大きな身体から転がり落ちるようにナナオリは後ろに下がって、尻もちをつく。紙衣の裾が乱れ、隙間からナナオリの白い脚が覗いた。
 目を逸らしながら「お前、昨日のこと……」と言いかけたアシマの言葉を「そんな昔のこと、どうだっていい」と遮って立ち上がると「一緒に姉さんを迎えに行こう」とナナオリは彼の大きな手をとった。
「迎えにって、今から、どこに?」
「まずはうちに来て、片付け、手伝って」
「何だそりゃ」
「いいから。言うとおりにして。アシマさん、これからもっと本気で働かないといけないんだから」
「働くって、俺はもう……」
 かつては強力な力を秘めていた両の手には、もう紙暴君と戦うだけの能力はなかった。工房が大枚をはたいて投資したアシマの肉体は、彼一人のものではなく、工房に属し守護するための武器でもあったのだ。その力が失われて、壊れてしまった道具はもう用済みだろうと、アシマは思う。
 しかし、力が失われたからといって、サイバネティクス処理によって機械化された部位が元に戻るわけでもない。これからは、ただ定期メンテナンスの費用だけがかかるのだ。まさかそれをナナオリに頼るわけにもいかない。彼女の言うとおり、できる仕事を見つけて真面目に働くか、油の切れた機械となって野垂れ死にするか、いずれはどちらかを選ばなければならない。そしてどうやら、ナナオリはアシマに後者を選ばせてくれるつもりはないらしかった。
 森のほうから、紙暴君の遠吠えが聞こえてくる。しばらくすると武装した暴君狩りたちが詰所から駆け出してきて、ナナオリとアシマを追いぬいて森のほうへ向かっていった。追い抜きざまに暴君狩りの一人が「アシマさん、手なんてつないで、デートっすか」と軽口を叩いた。
「バカ野郎、そんなんじゃねぇ」とアシマが怒鳴り返すと後ろから駆けてきたもう一人が「何だよ、元気そうじゃないか」と軽くアシマの肩を叩き、前方の闇のなかへ消えていった。久しぶりに仲間と言葉を交わして、アシマは一人で塞ぎ込んでいた時間が、急に馬鹿らしく感じられた。森のほうを見遣り、自分の分までここを守るために戦ってくれと、アシマは仲間たちに思いを託した。
 暴君狩りたちを見送って、二人はナナオリの庵へ向かう。アシマの手を引きながら、ナナオリは先ほど思いついたばかりの「三か年計画」について、その構想を語った。聞きながら、アシマは自分よりもずっと先の未来を見ているらしい少女が、いったい自分を何処へ連れて行って、何を見せてくれるのかと考えて、しばらく舵を預けてみようと決めた。決めたら、急にスッと心が軽くなった。
「ったく、お前、何なんだよ」
「知らないよ、そんなの。私は私だよ」
 そう言って笑ったナナオリの手を、アシマは以前よりも力のなくなった手でそっと握り返してみる。その手はとても小さくて、温かかった。重なった手のひらが脈打っている。それは生きている者同士だけに許されたコミュニケーションだった。
 ナナオリもアシマも、当たり前だけれど紙獣ではない。だから、その遺伝子は死んで新和紙の材料になった後も血脈通信によって情報を伝えられるようにはデザインされていないのだ。だから、伝えたいことは、生きているうちにちゃんと伝えておかなければならない。
 手を引いて前を行くナナオリの小さな頭に向かって、「ナナオリ、ごめんな」とアシマは言った。ナナオリは振り返らず、歌うように「許す」と言った。そしてもう一度、「許す」と繰り返して「何回でも許す……、だから、アシマさんも兄さんのこと、許してあげて」と背を向けたまま祈るように呟く。
「あいつが俺に許されるようなことなんて、何もない」
「だったら、ありがとう。姉さんの代わりに、兄さんのこと憎んでくれて」
「何だよ、そんなこと……」
 行燈の小さな灯りが、二人の行く先を頼りなく照らしていた。空には細い三日月、それから扇型の影と、二つの赤い光。ナナオリは、デジ・マと朱の瞳を見上げる。いつもそこにあって、自分たちを狭い檻のなかに閉じ込めておくシステムが、不思議と今は気にならない。この狭い世界のなかにも、やるべきことはまだ沢山ある。外の世界を見に行くのは、それを終えた後でだって、きっと遅くはないだろう。
 ナナオリは片手に提げた行燈を、朱の瞳に向かって高く掲げるように突き出した。
「何やってんだ」
「喧嘩売ってるの。宣戦布告」
 アシマが行燈の先を見上げると、朱の瞳がジッとこちらを見下ろしていた。

 

Epilogue それからのこと

 ハツセが戻ってくるまでには、ナナオリの計画より一年ほど余計に時間がかかってしまった。それでも今は、ナナオリの住んでいた小さな庵で、アシマと二人でささやかな生活を送っている。
 ハツセと入れ替わるように、ナナオリはタナムラ製紙業舎を辞して、街へ出て働きはじめた。
 ナナオリは、ハツセを連れ戻す資金稼ぎのつもりで御守りに様々な紋様を描いているうちに、紙衣の模様を描く織機用のパンチカードのデザインに興味をもつようになった。その勉強のために、雑貨店の店主にデザイン事務所を紹介してもらい、見習としてそこで働かせてもらえることになったのだ。
 それに、宗主国の言語の勉強をするのにも、街で暮らすことは何かと便利だった。島のなかで異国の文化に触れることができるのはデジ・マ周辺だけであり、異国語を習うことができるのもデジ・マの認可を受けた公的施設だけだった。
 翻訳帳を使ってオーリガとのささやかな交流を続けているうちに、ナナオリは以前にも増して宗主国の文化に興味をもつようになった。もちろん手紙は検閲を受けるので、領の外のことを知るのは簡単ではなかったが、街のなかで異邦人の姿や渡来品を見かけて、その片鱗に触れるたびに、ナナオリは外の世界へ思いを馳せていた。
 ちょうど先日から、宗主国の大使を乗せた飛行船がデジ・マに停泊中だった。ナナオリはオーリガと初めて会ったのが、もう四年も前のことなのだと懐かしく思いながら、そのときよりもずっと間近に、飛行船が入港する様子を見上げたのだった。
 オーリガから最後に受け取った手紙の約束を果たすため、仕事帰りに雑貨店に立ち寄る。店主にデザインの相談をしていると、店の前に黒塗りの力車が停まり、しばらくして店のドアが開かれて、豊かな金色の髪をなびかせて壮麗な異邦の女性ひとが入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 店主が声をかけると、「お久しぶりです」と女性は異国の言葉で応えた。ナナオリにもその言葉を聞き取ることができた。それから、ナナオリと女性の目が合った。
 以前よりも、ずっと背が高くなり、そして美しくなっていたが、その顔には確かに記憶のなかのオーリガの面影があった。
「ナナオリ!」
 嬉しそうに微笑んだその顔はやはりオーリガのもので、ナナオリも思わず彼女の名を口にして「会いたかった」と小さく叫んだ。
「わたしも、ずっと会いたかった」
 二人の間に交わされた言葉は異国のもので、ナナオリは自分の使えるわずかな語彙ごいを駆使して、オーリガに再会の喜びを伝えようとした。シンプルでつたない言葉を並べるだけで、あまりうまく話すことはできなかったけれど、翻訳帳を介さない言葉の交流は、ナナオリにとってこの島の新和紙から解放された、はじめての外の世界とのやり取りだった。
 ナナオリは、自分の言葉がオーリガに伝わることが、そしてオーリガの言葉を理解できることが、ただ単純に嬉しくて、楽しかった。
 臙脂えんじ色のジャケットの内ポケットから、オーリガが小さな紙包みを取り出した。白く色せたその包みには、ナナオリのつくった「親愛」の御守りが入っている。
 御守りを大事そうに握りしめるオーリガの白い手に、ナナオリは外の世界とのかすかだけれどたしかなつながりを見つける。そして、目の前にある世界がすこしずつ広がっていくのを、感じた。

文字数:41269

内容に関するアピール

 最終課題用に提出した梗概から内容を変更しました。理由は単純で、梗概に沿って書きすすめたところ、途中の段階で既定の分量を大幅に超過してしまったためです。書き直すにあたり、講評で設定部分の方が面白いとコメントをいただいていたため、舞台設定や道具立てを引き継ぎつつ、ストーリーをまったく別のものに変更する形としました(前回の梗概に対して「いいね!」を1票入れていただいた方、もしあちらのストーリーを楽しみにされていたとしたら、申し訳ありません)。
 約二年間、こちらの講座を受講させていただき、自分の作風や志向する方向性とSFをどういった形で融合できる(あるいはできない)のか、いろいろと試行錯誤を重ねてきたつもりですが、最終課題を書きながらその可能性の一端を垣間見ることができたように思います。それがどう形に成ったのか、ご笑覧いただければ幸いです。
 また新しい作をご覧いただけるよう精進して参る所存です。

文字数:400

課題提出者一覧