梗 概
スペル・アラウンド
ハジメ・ウィットモアは東京の大学で教鞭をとる経済民俗学者。大学のカリキュラムをこなす毎日を送りながら、経済史にインパクトを与えた無名の人や発明に焦点をあてたフィールドワークを行っていた。
ある春の日、大学の教え子であるマークス・パクから短いレポートを渡される。そのレポートはパクが学業の傍ら密かに集めていた自由衛星通信に関するもので、切手のコレクションさながら実用価値のまったくない電子的なゴミに思えた。
80年ほど前、人工衛星の打ち上げが世界的に自由化された時期があった。ちょうど宇宙開発が進展してその軍事的な利用価値が相対的に低下する一方、惑星間有人航行がさほど現実的でもなかった時期であり、さらなるブレイクスルーを求めて民間企業による許諾性の人工衛星打ち上げが認められていたのである。そのうち有用な発明となったものも幾つかあったが、多くは機能不全や事業者の撤退などにより墓場軌道へと移されるのが常であった。幾つかの例外として、回収費用が捻出できずそのまま放置となり、スペース・デブリ——宇宙のゴミ——として動き続ける人工衛星があった。打ち上げの責任者や通信の内容はすでに精査され、そのどうでもよささえも忘れ去られたほどのゴミたちであったが、パクはその通信内容についてある画期的な発見をしたというのだ。70年もの間、地球に無意味なメッセージを発信し続けている人工衛星が、ある意図に裏打ちされているというのがパクの主張だった。
かつて人々が宇宙に抱いた熱狂について調べるのも悪くないと考えたハジメは、パクの誘いに応じて通信の「解読」を始める。やがて判明したのは、その通信が他でもない可逆暗号であり、鍵さえ手に入れることができれば解読ができるはずだということだった。しかし、肝心の鍵がなんなのかについては一筋縄ではいかない。それは結局のところ数バイトのテキストファイルに還元できるはずなのだが、それがどこにどのような形をして存在しているのかについては無限の可能性がありえた。研究室でパクとともにコーヒーをすすりながら、ハジメは一風変わった形をした人工衛星をライブカメラで眺めた。まるで棺のような形をした、重苦しい黒い方形の衛星だった。
惹きつけられたはずの謎は夏になると完全にその魅力を失っていた。ハジメには教材のメンテナンスや学生考課などの日常がまっており、いつまでもパズルに付き合っているわけにもいかなかったからだ。そんなおり、ハジメが気まぐれに出した暗号を解読した学生がいた。ハル・リンである。情報工学の博士を最年少でとった才女は、暗号の解読を50%まで進めた。そして、残りの「鍵」の場所を人体のある構造に求めたのである。その構造を持つ人類はすでにこの世に存在しないはずだった。かつて人類が手にした秘儀の痕跡を求めて、ハジメとパクはチュニジアへと旅だつ。
宇宙を彷徨う棺桶から発されるメッセージとは? それを受け取るべきだった人類とは? 革命が失敗したアフリカの大地ですべてが明らかになる。
文字数:1243
内容に関するアピール
ビジネスパンク
SFにはいくつかのサブジャンルがありますが、この作品郡は「ビジネスパンク」というジャンルに位置づけられます。そんなジャンルがあるかと言われると、いま私が作ったのであるかどうかはわからないのですが……ググッてみましたが、ないみたいですね。
私が大学生の頃、「戦争は大規模な公共事業である」ということを得意げに触れ回る同級生が10人に1人ぐらいの割合でいたのですが、物事を経済的な側面から見ることは確かに可能で、SF的想像力を技術的なことだけではなく、経済的な側面にも向けることにはなにがしかの「新しさ」があります。
進歩しない人間
また、『スペル・アラウンド』を書くにあたって意識したいことは技術確信の「遅さ」です。私達が生きる現在は、かつてSF作家達が想像した未来であり、たとえばスマートフォンをほとんどの人が持っていることや、ドローンでの宅配が実用段階に入りつつあること、そうした未来予想図の一つ一つは確かに実現しているといえます。
文字数:1132