俺の☆

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梗 概

俺の☆

梗概

西暦2170年、「俺の☆」は高田馬場で唯一、伝統的な豚骨ラーメンを食べさせる店であった。しかしラーメンの聖地は、新興勢力である「☆☆☆☆☆」(以下、五つ星)が席巻し、「俺の☆」は廃業寸前まで追い込まれていた。五つ星は、一切具の入っていない麺とスープだけの通称スターヌードルを主力商品とし、店の前で可愛いダンスを見せる星形のマスコットキャラクター「ほっちゃん」も、家族連れを取り込むのに一役かっていた。

 

「俺の☆」店主、星一郎は、五つ星が企業秘密とするスープに、地球上には存在しえない分子構造を伴ううまみ成分が含まれていると考えていた。一郎は、五つ星が、輸入・飼育の禁止されている地球外来の動植物をスープの材料として使用しているのではないかと疑い、自ら危険を冒し、それら違法な材料を入手し、ライバル店の味を再現しようと苦心していた。

 

ある夜、一郎は、スープの秘密を探るために五つ星に忍び込む。徹底した秘密保持が図られている五つ星の店内に、材料を示す痕跡は残されていない。諦めかけた一郎は、しかし、店内で一匹の軟体動物を発見する。一郎は、この生物が、スープの秘密に関わりがあると思い、捕獲し、持ち帰る。翌朝、軟体動物を入れた容器の中で、五つ星のマスコット「ほっちゃん」が踊っているのを発見する。一郎は、「ほっちゃん」こそスープの原材料たる地球外生物だと考え、この生物を使ったスープ作りにとりかかる。

 

スープ作りは困難を極めた。毒性がないことこそ確認できたものの、全く旨味成分を抽出することができない。試行錯誤する中で、一郎は、「ほっちゃん」の様々な生態を見つけ出していく。一郎は、特に「ほっちゃん」の交尾に注目する。この生物は三体で交尾を行い、倍増していくのだ。一郎はとりつかれたように「ほっちゃん」の生殖過程を観察する中で、一体が欠け、二体で不完全な交尾を行ったとき、一体は液状化し、もう一体は細長く変形し、いずれも絶命することがわかる。一郎は、五つ星のラーメンは、「ほっちゃん」が不完全な生殖の果てに死んだ姿であると確信し、溶媒や温度を様々試した結果、遂に五つ星のラーメンを再現することに成功する。

 

五つ星のスープの秘密を暴露すべきか、一郎は決断を迫られる。この事実が広く知られた場合、五つ星が営業停止となる一方で、この生物に対する規制は強化され、殲滅される可能性さえあった。一郎は、自分が発見した事実を告げず、「ほっちゃん」を使った新たなラーメン作りに挑む決心をする。交尾する個体の数を増やせば、新たな味が生まれるのではないかと思案する一郎の後ろで、「ほっちゃん」は静かに増え続けていく。

 

アピールポイント

 

この物語は、人類はどこまで食べることができるのか、あるいは食べずにいられるのかということに関する、地球外生命体からの挑戦を描くものである。

 

味覚は保守的である。同時に人類は、様々な動植物を貪欲に食してきた。人間と他の生命体との出会いは、知的交流や戦争だけでなく、(生存のためだけでなく、より旨いものを追求するために)捕食し、捕食されるという形で始まる場合もあるだろう。

 

その舞台として本作では、ラーメンを選んだ。ラーメンはジャンクフードでありながら、様々なこだわりを伴い、数えきれないほどの差別化が図られてきた。人間は、この食べ物が大好きで、なぜか懐かしさを覚え、時には中毒に近い状態となる。不健康なこの食べ物に行列する姿は、人間の嗜好の非合理な一面を表し、地球外生命体が地球に入り込む隙にもなりうる。

 

人間は、美味しいものであれば何でも食べてしまうことができるのか。例えば、動物の生殖器はゲテモノ料理として珍重され、また、生きたままの動植物を食べる食習慣は、珍しいものではない。では、生殖行為中(直後)の地球外生物はどうか。ラーメン道を追求する主人公は、視覚的、文化的障壁を超え、一杯のラーメンの中で、地球外生物を征服することができるのだろうか。

 

最後に、SF作品では、現在の身近な世界を想起させる仕掛けを施すことで、空想の世界をより有効に機能させることができると考え、本作では実在の地名を用い、様々な固有名を想起させる名称を設定した。もちろん本作の内容が、実在のそれらと無関係であることは言うまでもない。そのうえでなお、150年後の賑やかな高田馬場を想像してもらえるような作品にしたい。

 

文字数:1792

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俺の☆

 

 

豚の骨が溶ける瞬間を、俺はまだ見たことがない。20年以上豚骨スープを作り続けているが、鍋に入れる前の素っ気ない骨と、白濁したスープしか目にすることはできない。鍋を透明にしたところで、骨髄が溶ける過程を粒子レベルで観察することはできない。粒子のレベルで観察したところで、なぜあの豚骨スープになるのか理解はできないだろう。

むしろ、様々な材料を放り込んで、えもいわれぬ味が完成する、ブラックボックスにこそ、魅了されてきたのかもしれない。灰汁をすくい、漉しとる。ネギやショウガといった香味野菜を加え、取り出す。最後に鶏がらで別にとった出汁と併せ、完成する。ただ、このスープを味わってくれる客は、今日も皆無だろう。

2150年を迎えても、俺はまだ、高田馬場でラーメン屋「俺の☆」の営業を続けていた。高田馬場は、東京で二百年近くラーメン激戦区としてその名を知られてきた。数えきれないほどの店が登場し、消えていった。それでも、人々のラーメンへの欲求は消えることがなかった。白濁したスープ、澄み切った黄金色のスープ、トマト味、大量の油脂、最近の流行り廃りさえ思い出すのが難しい。

ラーメンも時代や社会の変化を反映せざるを得ない。多文化、多宗教の東京で、豚骨人気は下火になり、魚介類は乱獲によって食卓から消えた。カツオやイワシは水族館でしか見ることができないし、サバも養殖ものは手に入るが、とてもサバ節にできる値段ではない。植物性の原料を使ってスープをつくる店が増えた。特にジャガイモは入手の容易さや価格の安さから、多く利用された。色合いやでんぷん質のとろみを生かし、化学的な香料を混ぜることで、豚骨に似せた味を創り出した店もあった。

今、「俺の☆」は、東京で唯一、おそらく宇宙でただ一店舗、昔ながらの豚骨ラーメンを出す店だろう。秘伝の醤油だれをどんぶりの底に置き、スープを注ぐ。麺は自家製の極細麺、具はチャーシューとキクラゲ、紅ショウガである。ただし、キクラゲは採れないためウミエダという藻を着色したものであり、紅しょうがは一盛り二百円いただいている。気候変動により、地球の植生も大きく変化したが、形と見た目だけは守るというのが俺のポリシーだ。

「一杯三千円って高くない?」

悪態をつきながら店に入ってきたのは、常連客のミスミだ。

「円安だから」

「懐かしいな、その響き」

各国の通貨は、名称こそ昔のままだが、実質的には統合されていた。そのため新興国から輸入した農産物も安くはない。付加され続ける関税とあいまって、外食産業を圧迫していた。同年代のミスミには、昔話が通じるので、思わず小ネタを言いたくなってしまう。

「今日は俺が最初で最後の客か?」

「残念、これが最後の一杯だ」

鍋一杯に残ったスープを前に、強がりを言う気力さえなくなりかけていた。ミスミでさえ、二週間ぶりの来店である。

実際、「俺の☆」は廃業寸前だった。入手の難しくなった豚骨や豚肉にこだわり、一杯あたりの価格を上げ続けたことが原因の一つだった。価格設定が間違っていることは分かっていた。でも、自分が信じる豚骨ラーメンを出せないのなら、店を続ける意味はなかった。

もう一つの大きな原因は、東京全体を「☆☆☆☆☆」(以下、五つ星)が席巻していることだった。五つ星は、元々、ラーメンの星と呼ばれた佐田真が始めた東京醤油を売りにした店だったが、醤油が入手しづらくなったこともあり、五年前に一度閉店していた。

五つ星が謎の復活を遂げたのは、その半年後だった。代表は相変わらず佐田真のままだったが、味は全く変わっていた。看板商品のスターヌードル、メニューはそれだけだ。このスターヌードルが五つ星躍進の唯一かつ最大の要因だった。

「昨日も食いに行ったよ」

「そうかい」

「スープがさ、絶品なんだよな」

「じゃあ向こうに行けばいいだろ」

スターヌードルの特徴は、スープと麺のみで具が全くないことだった。どの店も、具に使う食材の減少と値上がりに苦しむ中、五つ星の戦略は合理的といえた。何より、スープの味が素晴らしく、東京の飲食店ランキングで店名どおりの五つ星を獲得し続けていた。

五つ星のスープはよく水に喩えられた。無色透明で、油分は浮いていない。香りは、かつて頻繁に使われたカツオと昆布のダシを思わせるが、ほんのわずか獣臭さもあった。誰もがラーメンに求める味は全て含まれていると同時に、好みの分かれる要素は排除されていた。あっさりしているけれど、適度な刺激もある。多くの客がそう口にした。

あえて他に五つ星の人気の秘密を挙げるとすれば、マスコットキャラクターの「ほっちゃん」だろう。店名にちなんで、黄色い星型のマスコットが5体、電飾の中で踊っている。店の前を通った子どもは皆「ほっちゃん」を見て立ち止まる。つまり味もPRも完璧ってことだ。

「五つ星のスープ、何だと思う?」

「興味ないね」

スープの材料は全く明らかにされていなかった。従業員に課せられた秘密保持義務は極めて厳格なものだった。そもそも、従業員は工場から運ばれてくるスープをそのまま提供しているだけで、材料を知るのは創業者周辺の役員のみだと言われていた。

数年前、五つ星の店員が、シャッターの下りた店舗の前で変死しているのが発見された。スープの秘密を暴露しようとした店員が口封じのために殺害されたのではないかという噂も、全くの嘘ではないのかもしれない。

「探ってんだろ?五つ星のスープ」

「知ってんだったら聞くな」

一郎はこの一年半、五つ星のスープの秘密を探ることに全力を注いでいた。きっかけは、向かいの五つ星に貼られた匿名のメモ書きだった。

「アンコクイルカ?」

「メモにはそれしか書かれてなかった」

アンコクイルカとは、もともと地球外から持ち込まれ、太平洋に住み着いた外来種である。脂肪分が多く食材として流行したが、子どもが食べると脳に障害を引き起こす可能性があるとして、現在は養殖、捕獲、調理の全てが禁止されている。イルカと名がついているが、球体で、目のようなくぼみが二つついた愛くるしい姿をしている。そのため、ペット名目で飼育し、食べる事例が後を絶たない。

しかし、五つ星のスープはアンコクイルカではない。俺も捕獲が禁止される前、アンコクイルカの肉(骨はない)でスープづくりを試みたことがあった。結局、脂肪が浮くだけで、いわゆるダシは出ないことがわかった。五つ星のスープとは似ても似つかない。

気になったのは、同じメモが何日も続けて貼られていたことだ。メモは五つ星の関係者によって貼られたものなのか。そうだとすれば、何らかの告発だと推測することは可能だ。告発者は、スープの中身を探り当ててはないが、手がかりは掴んでいるということではないか。

逆に、俺を陥れる意図を読み取ることもできる。この一年ほど、俺は合法、違法を問わず材料を集め、試作を繰り返している。その間、何度か検疫所の査察も受けた。メモを貼り、俺が違法な材料を入手した頃合いを見計らって、検疫所に通報すれば、この店は終わりだ。

「自分の店は豚骨ラーメンしか出してないのに、逮捕されたらかなわないよな」

「再現できたからって、うちの客が増えるわけじゃねえしな」

「でも、違法なことやってるって分かれば、むこうもおしまいだろ?」

「そりゃこっちも同じだ」

自分の店が近いうちに立ち行かなくなることは、分かっていた。五つ星の悪事を告発したところで、閉店の日が半年延びるだけだろう。

ただ、今は純粋に五つ星のスープの秘密が知りたかった。もしふらりと五つ星の店員が入ってきて、スープの作り方を教えてくれたら、その瞬間ラーメンへの関心すら失ってしまうかもしれない。それほど俺はライバル店の味に魅了されていた。

「分かりましたよ!」

勢いのある声で入ってきたのは、バイトのヤスだ。ジーンズとTシャツに仕事用のエプロンをつけ、いかにもラーメン屋の店員といった出で立ちだ。

「あいつ、クビにしたんじゃなかったのか?」

「勝手に出勤してくるんだよ」

ヤスは、一日じゅうラーメンのことを考えている、ラーメン馬鹿だ。でも、気の毒なことに、本当の馬鹿なのだ。まず、味の違いが分からない。鶏がらスープと豚骨スープの区別も怪しいくせに、何でも旨い旨いといって食う。次に、包丁が使えない。ヤスのために何種類も業務用のフードプロセッサーを購入した。スイッチを押すのが、ヤスの仕事だ。そして、短気で喧嘩っ早い。まずいから返金しろと言った客に、殴りかかったこともある。手にもっていたのが、豚骨ではなくネギだったので事なきを得た。

何度もクビを言い渡したのに、その度に無給でいいから働かせてくれと店の前で土下座するのだ。無給でも働いてほしくないとは言えず、営業の妨げにならない程度に手伝わせている。まあ、客の来ないラーメン屋でバイトしたいと言ってくれるのは、ヤスだけなのだが。

「これです」

ヤスが握っていた右手の拳を開くと、毛むくじゃらの塊が姿を現した。バトロンモドキだ。バトロンモドキは、地球外のウイルスに感染したコウモリが祖先だと言われている。体全体を回転させて飛行する。地中深くに生息しているが、稀に地上に迷い出てくることもある。捕獲は禁じられており、何より、食べられない。

「ヤス、こっちへ来い」

俺は、近づいてきたヤスの手からバトロンモドキを奪い取り、首に当たる部分をひねって殺し、ゴミ箱に放った。

「何てことするんすか」

「食えねえし、病気もちだし、おまけに違法な鳥を捕まえてくるなんて、どういう了見だ」

「誰も食べたことがない食材を見つけなきゃなんないって、いつも言ってるじゃないすか」

「うるせえ、石ころでも食って出直してこい!」

俺の投げたどんぶりが額に命中したせいか、ヤスは逃げるように店をあとにした。

カウンターでは、ミスミが笑いをこらえている。

「今度こそクビにしてやる」

「だといいけどな」

地球外生物、あるいは地球外生物と地球在来種が交雑した生物のほとんどは、法令上捕獲、飼育、調理が禁止されており、食べると死に至る種類も多い。つまり、地球外生物がラーメンのスープの材料になる可能性はほとんどないということだ。俺の努力は無駄であるだけでなく、店と身体のリスクを増加させているのだ。

こんなバカなこと、やめたほうがいいのだろうか?何度も自分に問いかけたが、昼は豚骨ラーメンを作り、夜はあらゆる生物を鍋に放り込む日々を繰り返している。

百年前、人類は、広い宇宙の中で地球にのみ生物が存在し、人間だけが知的生命体であるはずはないという信念のもと、宇宙を探索し続けていた。なのにこう考えるのは間違っているのだろうか?この広い宇宙には、とてつもない旨味を秘めた生物がいるはずだと。

 

 

俺は、昼間追い返したヤスと、グラスを片手にくだらない会話を続けていた。

陽が落ちてからの高田馬場は、酔っぱらった学生がそこらじゅうに転がっている街だった。今もそれは変わっていない、と言いたいところだが、転がっているのは八十、九十のジジイやババアだ。六十年、七十年前と同じ駅前で寝るのがそんなに気持ちが良いものか。学生がいなくなったこの街で、最後の灯を守ろうとしているのだろうか。

百年以上前、新宿にゴールデン街という一画があったらしいが、今の高田馬場はそれに近いのかもしれない。高層ビルの谷間に、昔の姿をそっくりそのまま残した飲み屋が並んでいる。百年以上前の姿を懐かしむ高齢者、もの珍しそうに眺める外国人観光客のおかげで、営業を続けている店も多い。

ゴールデン街と異なる点があるとすれば、酔っぱらって道路脇で寝ているジジイの周りを、様々な地球外生物が這いまわっていることだろうか。オフィス街は、各生物に対応した音波を発することで、地球外生物を街全体から排除している。追い出された生物たちは、無防備で寛容な高田馬場に住み着くのである。

例えばユスリグマは、熊と名が付くものの、生まれたてのネズミに似た生物である。毛はなく、四本足で、尾が体の三倍もある。足のついた胴体部分には感覚器はなく、もっぱら尾が位置情報などを捕捉する。ユスリグマが長い尾で、泥酔した高齢者の頬を撫でている光景は、高田馬場のあちらこちらで見ることができる。ネズミと違って耳を齧るわけでもないので、駆除されることもない。

「あれは、食べられないんすか?」

ヤスが指さしたのは、銅像の上に止まったムクイだった。外見はスズメだが、飛ぶことはできない。足の裏の吸盤で壁に吸い付き、一歩一歩上っていく。半径十メートル四方で、最も高い場所へ集まる習性がある。

「食えるけど、別に旨くはない」

「食ったんすか?」

高田馬場に生息する生き物は、手あたり次第スープの材料にしてみた。ムクイは鳥類なので、肉を焼いて、骨を煮込んでみた。十倍に薄めた鶏ガラといった味で、さしたる感動はなかった。

毒性があるとわかっているもの、ひどい悪臭を放つものは、調理段階で除外する。試食に至るものはわずかで、うま味成分を含んだものは皆無といってよい。

酔っぱらったヤスが、ふらふらと店を出て、銅像へ近づいていく。「思いやり」と題された銅像は、地面に倒れる青年を、一人の男性が抱え、もう一人の女性が見守っている姿をかたどったものである。要は、酔っぱらった学生を、友達が面倒くさそうに介抱している場面である。なぜこんな銅像を建てたのだろうか。啓発か、懐かしさか。いずれにしてもムクイが三人の頭に止まることで、さらに間の抜けた外観を呈している。

「ヤス、戻って来い」

結局、こうやってヤスと飲んでいる俺も相当間抜けだ。従業員としては最低だが、飲み友達としては悪くない。昨日はごちそうさまでした、とにやつきながら、明日も出勤してくるに違いない。

ヤスは、ムクイになったかのごとく「思いやり」によじ登ろうとした。「思いやり」に登ったり、台座にゲロを吐いた者は問答無用で連行される。普段は無人の駅前交番に灯りがともるのだ。

「行くぞ」

俺は台座に手をかけたヤスを羽交い絞めにし、銅像から引き離した。足元のおぼつかないヤスは、俺に身を預け、そのまま地面に寝転がった。結局、いつもこうなる。この銅像を「思いやり」と名付けた人間は、偉大だ。

「悔しくないんすか」

ヤスが俺を見据え、絡んできた。毎度のことだが、今日はいつもよりヤスの視線が痛い。

「いい加減にしろ」

「五つ星につぶされて、悔しくないんすか」

「まだつぶれてねえよ」

昼間のミスミとのやり取りのせいだろうか、自分自身を上手くいなすことができない。

「帰るぞ」

考え事をしているのか、ヤスの視線は宙をさまよっている。

「大将も、負け犬なんすね」

いつもなら一発ぶん殴っているところだが、今日は受けとめるしかなかった。ヤスは、肩に這い上がってきたユスリグマの尾をつかんで、茂みにぶん投げた。

「大将、ラーメン食いに行きましょうよ」

「やだよ。飲んだ後のラーメンは嫌いなの、知ってるだろ」

「いいじゃないすか。俺、おごりますよ」

ヤスは立ち上がって、ふらつきながら歩き始めた。「おごる」などというセリフをヤスの口から聞いたのは初めてだ。何かバカなことを考えているに決まっている。振り返ることなく歩みを進めるヤスは、ここで俺が消えても気づかないだろう。よろけそうになるヤスの姿を見ながら、放っておけない自分を歯がゆく思った。

 

 

ヤスが向かったのは、旧「旧さかえ通り」だった。高田馬場でも最も由緒ある地区で、スナックと呼ばれる会員制の飲食店が並んでいる。昔の蛍光灯を模した高密度LEDの周囲に、トウゲンチュウが集まっていた。

ヤスは麻雀店やビリヤード場を抜け、通りをずんずん進んでいく。嫌な予感が膨らんでいく。色とりどりのLEDが重なる夜の街では、トウゲンチュウが十倍以上の大きさに見えた。トウゲンチュウは光の反射を利用して、自らの体長を錯覚させる。空中で蠢く群れをひと掴みし、握った手を開くと、極小の姿で死んでいた。

「ここです」

俺たちが立っていたのは、五つ星一号店の前だった。かつて佐田が創り、奪われた店だ。嫌な予感は当たった、たぶん。

「閉まってるじゃねえか」

五つ星はイメージ戦略の一つとして、深夜営業を行っていなかった。酔っぱらいは相手にしないということだ。昼間ほっちゃんが踊っているケースは空で、小型の防犯カメラが見せかけだけの赤い光を振りまいている。

「大丈夫っす」

ヤスは、ポケットから携帯端末を取り出した。

「何だよ、それ」

「五つ星の従業員がもってる端末です」

「なんでおまえが…」

質問を重ねようとした俺を置いて、ヤスは店の裏側へまわる。ここで止めるか、あえて暴走させるか。俺は慎重にヤスの行動を見極めようとしていた。

五つ星の店舗は行くたびに観察しているが、飲食店の裏口につきもののゴミ捨て場がない。秘密保持のためだとすれば、ずいぶん用心深い。だがヤスが携帯型端末から信号を送ると、従業員用入口はあっさり解錠された。

「普段、バイトが出入りする場所なんで、セキュリティって言っても大したことないんすよ」

「ちょっと待て」

犯罪者になる前に、いや既に犯罪者だと思うが、俺はヤスに説明を求めた。腕を掴まれたヤスは面倒くさそうに話し始めた。

ヤスに従業員用の端末を渡したのは、五つ星に告発メモを貼った社員だった。ヤスは、二回目のメモが見つかった後、三度目もあるとふんで、五つ星の前に張り込んだ。閉店後、開店までの時間に絞り、三週間以上待った。そしてついに告発者に接触することに成功した。告発した社員は、スープの秘密については何も知らなかった。ヤスは、メモを貼る瞬間を撮ったデータと引き換えに、端末を借用することを承諾させた。

「おまえ、何てことしてんだ」

「それほどでもないっす」

褒め言葉として受け取ったようだ。

「ゲスト扱いにしてるんで、迷惑はかからないはずです。ま、そいつがクビになろうと捕まろうと知ったこっちゃないですけど」

ヤスが言うには、他店舗のアルバイトが、端末を借りて本店に出入りするのは珍しくないとのことだった。五つ星で勤務するアルバイトは膨大におり、入れ替わりが激しいため、一人一人を把握することは難しいようだった。指紋、顔、声、最新の生体認証システムを導入しても、登録や運用のレベルで、末端がいい加減な管理をすれば骨抜きになる。

逆に言えば、多少怪しい人間が入り込んでも、味の秘密は漏えいしないということだ。店の中に入ったところで、スープの材料を知ることは容易ではないだろう。だが、俺の興奮もかなりの程度高まっていた。

最低限の照明を点け、店内の様子をざっと確認する。銀色に光る厨房には、ラーメン屋にあるはずの物が何もなかった。日中訪れた際にも、内装のシンプルさが目についたが、従業員や客がいない店内は、数時間後に営業を開始するようには見えなかった。

五つ星は旧来型のラーメン店と異なり、フロアと厨房が完全に分離されている。客から調理の様子は全く見えない。脂ぎった湯気が客席に流れ込むこともなければ、食べ終わったどんぶりをカウンター上に返す必要もない。

五つ星を訪れるたびに、厨房ではどんな材料が、どのように調理されているのか、妄想を膨らませてきた。だが、今目の前に広がる厨房には、鍋ひとつ見当たらない。スープを煮込む寸胴鍋も、包丁やまな板さえ見つけることができない。

「ここにもないっすね」

ヤスが無遠慮に足元の収納を開けていく。どんぶりやコップ、箸など食器はびっしり詰め込まれていたものの、調理器具は見つからない。

フロアから最も遠い場所に大型の業務用食洗器が備え付けられていた。食洗器の周囲には、洗剤がいたるところにこびりついている。決して清掃が行き届いているわけではない。他店のようにラーメンを作って、毎日器具をしまい、シンクを磨き上げているということではないようだ。

どうやってラーメンを作っているのか?

外部で調理して、レトルト食品として搬入するという方法もある。そのやり方なら、袋などを処分すれば調理の痕跡は残らない。

問題は麺だ。小麦粉以外の原料を使った麺なら、コシを気にする必要はない。ただその場合でも、麺を茹でる工程は店舗で行った方が、味が良いことが多い。何より、客の目の前で茹でることで、出来たてであることを強調することができる。製麺技術が進化した現在でも、これ見よがしに湯切りするのは、一種のパフォーマンスなのだ。

「ここ、本当にラーメン屋なんすか?」

危険を冒してライバル店に忍びこんだものの、俺たちは完全に行き詰った。店舗内部はそれほど広いわけではない。これ以上探しても何か見つかるとは思えなかった。やはり、店舗内では調理を行っていないのか。

捜索を諦めそうになっていた俺に対し、ヤスはぶつぶつ言いながら、一度見た場所を繰り返し確認していた。

「これ、何すかね」

ヤスが食器の奥から取り出したのは、長方形の透明なパネルだった。パネルは縦一メートル、横3メートルほどの大きさで、数十枚重ねられていた。他に大きさの異なるパネルが二種類、同じく食器の奥にしまい込まれていた。

これだけの数あるということは、内装の予備的な部品といったものではないだろう。とはいえ、どうやって使うのか、見当もつかない。

薄暗い店内を沈黙が支配する中、かすかな振動音が聞こえた。

「今の音、聞きました?」

「静かにしろ」

俺たちはぼんやり照らされた天井に視線を這わせた。姿はないが、振動音は続いていた。トウゲンチュウの羽音か?いや、何百匹集まってやっと聞こえる程度だ。しかもこんなに明瞭な音ではない。

痛っという声が聞こえた。振り向くとヤスが額を手で押さえ、うずくまっていた。

「どうした?」

「何か飛んできました」

俺の真正面から黒い塊が、猛スピードで飛んできた。はっきり視認できたわけではないが、バイロンモドキのようだった。一匹ではない。今度は後頭部、厄介なことになった。

夜のバイロンモドキは活発というか凶暴だ。回転飛行しながらとにかくそこらじゅうにぶつかっていく。食うにふさわしい生き物が見つかれば、体当たりして気絶させ、巣に運ぶのだ。

「大将、逃げましょう」

「待て」

こいつら、どこから来たんだ?

バイロンモドキは地下深くに住む生物だ。下水道や地下鉄で繁殖することも多い。地上に迷い出てくるためには、地下と地上をつなぐ穴を通らなければならない。

「地下室があるんじゃないのか」

「あっても、こいつらしか入れないんじゃないすか」

確かに、手のひらにおさまるバイロンモドキが出入りする穴を見つけたところで、探すのは不可能だろう。

「うわ、キモい」

ヤスが指さした方向を見ると、厨房の隅で数匹のバイロンモドキが団子状態になっていた。

「餌でも見つけたんだろ」

「ここに餌なんかあるんすか?」

そうか。ヤスの言葉を聞いて、俺はバイロンモドキの群れへ一直線に向かった。固まったバイロンモドキの中に、黄色い物体が見えた。バイロンモドキたちは餌を奪われまいと、必死の体当たりを敢行してきた。スピンのかかった直球をぶつけられるのと同じだ。俺は一匹ずつつかんで、壁にぶつけ、首をひねり、撃退した。

バイロンモドキを取り除くと、そこには黄色い死骸が横たわっていた。

間違いない。五つ星のマスコット、ほっちゃんだ。バイロンモドキに体当たりされ、突かれ、身体のあちこちが破れ、中身が体外へはみ出している。

こいつをどこかに隠していたとすれば、ただのマスコットではないだろう。俺は自分の勘を信じることにした。

「ヤス、こいつを捕まえにいくぞ」

「はい」

残された時間は多くない。俺たちはバイロンモドキの動きに目をこらす。バイロンモドキが列をなし、天井に沿って進んでいく。

「天井裏だ」

俺はシンクに上り、バイロンモドキの体当たりを受けながら、掌で天井を押した。

一枚一枚、確かめていく。遂に一か所、鉄板を打ち付けた樹脂が剥がれている部分を発見した。ここだ。

しかし、とても人が入ることのできる場所ではない。バイロンモドキにお願いするしかない。

「こいつらが獲物を巣に運ぶ途中を狙おう。死んだやつはだめだ。多少傷ものでも構わないから、生け捕りにするんだ」

「はい!」

残された時間は多くない。俺とヤスの大捕物が始まった。

 

翌日から店を無期限休業とし、ほっちゃんを使ったスープづくりにとりかった。手出しさせたくはなかったが、五つ星での捕獲作戦に関してヤスが多大な貢献をしたことは否定しがたく、見学を許可した。

捕獲できたのは、五匹だった。飼い方が分からず、五つ星の店頭でディスプレイされているように水槽に入れてみた。だが、ピクリとも動かない。最初ヒトデのような形だった生物は、ナマコのように棒状に変形していた。死んだのではないかと心配になったが、水を注ぐと動き出し、形状も星形に戻った。ひとまず五匹を別の水槽で飼育することにした。餌は何を与えればよいのか、水温は何度が適切なのか、検索をかけてもヒットしない。正式な名称も分からず、不安は増していった。

飼育方法が分からないからといって、スープづくりを延期するわけにはいかなかった。いつ検疫官の査察が入るかわからない。五つ星での捕物は、バイロンモドキの闖入が原因として処理されたようだった。五つ星も、ほっちゃんの秘密を公にされたくはないだろう。とはいえ、秘密裏に侵入者の特定を試みている可能性もあり、油断はできなかった。

スープづくりのために、まず一匹目を犠牲にせざるを得なかった。切り刻んでも再生する生き物ではないかとわずかに期待したが、星型の中心部分に包丁を入れると、あっさり動きを止めた。貴重な個体を無駄にするわけにはいかない。3センチ程度の大きさに切り離し、各々別の鍋に入れ、異なる調理法で旨味の抽出を試みる。

体の構造は、ヒトデやナマコといった棘皮動物に似ていた。表側は凹凸があってざらざらしており、裏側には口あるいは肛門と思われる穴があった。内臓は体表や皮下脂肪とは区別できるものの、網目状に体内を覆っていた。白っぽい管が連なっているだけで、どれが消化器官で、どのように機能が分化されているのか、解明することは難しそうだった。内臓と思われる管は、可能な限り切り離し、塩漬けにするものと、乾燥させるものに分けた。

煮る、焼く、蒸す、凍らせる、様々な調理法を試してみたが、結果は絶望的なものだった。試作は第一段階ではあったが、ほっちゃん自身に味はないと仮定せざるを得なかった。ナマコと類比すれば当然の結論なのだが、ナマコのように干せば旨味が醸成されるわけでもなかった。フカヒレやツバメの巣のように、原材料そのものに味がなくても、調理段階で濃厚な味付けを施し、素晴らしい料理になる例は多い。しかし、今求めているのはそれではない。食感も、生で食べるとコリコリというよりぐにゃっとした感触で、加熱すると硬くて噛み切れなかった。

いつもなら、ここで諦めるか、資金が尽きるまで試作を繰り返すところだ。だが残りは四匹、いずれの選択肢もとることができない。試作のために個体数を増やし、同時に生態を把握することが必要だった。

「元気ないな」

ミスミに打ち明けるか迷ったが、とりあえず黙っていることにした。

「相変わらず客も来ねえしな」

「何考えてる?」

「何のことだ」

「大将が考えごとしてるのは、たいてい試作で頭がいっぱいの時だ」

「スープ飲んで、さっさと帰れ」

個体数の増加は、思いのほか早く実現した。残りの四匹を同じ水槽に入れると、翌朝には六匹になっていた。その次の日には十匹に増えており、俺は各水槽に入れる数を変えて、記録した結果、三体で交尾をし、二体ずつ増えるという仮説をたてた。水槽の数を増やし、三匹ずつ飼育することにした。冷蔵庫の一部を改造した飼育室は、徐々にほっちゃんでいっぱいになっていった。ただ、どんなに数が増えても、五つ星の店の前のように、踊ってはくれなかった。

「こいつ、どんな交尾するんすか」

品のない質問を無視すると、ヤスはぐいぐい重ねてきた。

「だって、三匹でってことは、人間でいうと、あれでしょ」

「うるせえ」

俺は試作が難航していることに苛立っていた。数が増えたところで、スープの材料にならなければ意味がない。無許可の地球外生物だから、燃えるゴミとして捨てるわけにもいかない。ただ、五つ星で見つけた透明な板が水槽の部品だとすれば、五つ星はこの生き物を大量に飼育していたということだ。俺はまだ可能性を捨てきれなかった。

「交尾、見たくありませんか?」

「別に」

「今夜、徹夜で観察しませんか?」

「録画しておけばいいだろ。どっちにしても俺は興味ねえよ」

俺の素っ気ない返事を聞き、ヤスはつまらなそうな表情でフードプロセッサーのボタンを押した。

 

 

結局、眠い目をこすりながら、観察することになったのは俺一人だった。生態を観察する必要がある、ともっともらしい理由を述べたものの、単なる興味本位だったことは認めなければならないだろう。張り切っていたヤスは、観察開始から一時間も経たないうちに居眠りを始め、店の二階に引っ込んだ。今頃、俺の布団でいびきをかいているに違いない。

午前二時を過ぎたころ、遂にそのときは訪れた。しかし、ほっちゃんの交尾は、期待に反し、それほど劇的なものではなかった。

まず、三体が縦に並んだ。ゆらゆら揺れながら一番上の個体と一番下の個体が、真ん中の個体に近づいて、密着する。その状態で二十分ほど経過すると、一番上と真ん中、一番下と真ん中、それぞれの間に、薄い膜のようなものが形成された。半透明で、厚さは二、三ミリといったところか。元の三体が密着した状態から、再び距離をとり、離れていく。それに伴い、膜は厚さを増し、形も星形に近づいていった。

興味深くはあったが、どうということもなかった。試しに交尾している途中に水槽の水を舐めてみたが、変わらず無味無臭だった。他の水槽でも、多少の時間差とともに生殖活動が始まった。交尾に対する俺の関心はほぼ失われていた。

豚骨の仕込みもあるし寝るか。俺が飼育室の明かりを消したとき、二階から、ギャーという叫び声が聞こえた。

「ヤス!」

俺はとれそうな手すりにつかまりながら、慌てて二階へ向かった。襖を開けると、オレンジ色の光の中でヤスがのたうちまわっている。明かりをつけると、ヤスは下半身に何も身に着けておらず、陰部には星形の物体が付着していた。

「大将!」

半分泣きそうになったヤスは、俺の視線を陰部に誘導した。

「何してるんだ」

「こいつが、吸い付いて離れなくなって…痛い!」

「なんで、こんなところに」

「穴が、ちょうど、気持ちいいかと思って」

「バカ野郎!」

「大将、すいません、何でもするんで、とにかく助けてください」

俺はヤスを抱き抱えた。ヤスの額は脂汗でびっしりだ。「思いやり」とは、愚かな人間にこそ与えられるべきだ。高田馬場の住人は、皆そう信じている。

俺は、ヤスの股間に張り付いたほっちゃんを掴み、引きはがそうとしたものの、ヤスの叫び声に中断せざるを得なかった。

「大将、痛い」

「待ってろ」

俺は厨房へ下りて、チャーシューを炙るためのガスバーナーを探した。二階に戻るとヤスの動きが鈍くなっていた。急がなければ。俺はガスバーナーに点火し、炎の先端をほっちゃんに近づけた。

「熱い、大将、熱い」

「我慢しろ」

最初は反応がなく、だめかと思ったが、三十秒近く炙ったところで、ほっちゃんの身体が反り始めた。やがて星形から棒状に変形し、ヤスの陰部に吸着していた穴がだらしなく広がった。吸着力が失われたことを確認し、引き剥がす。ほっちゃんは力なく畳のうえに転がった。

「ありがとうございます」

「いい加減にしろ、このバカ!」

ヤスは、自分の陰茎が元の形を留めていることを、何度も確認している。

そういえば、ガスバーナーで炙ったことはなかった。俺は焦げたほっちゃんをつまみ食いしようかと考えたが、ヤスの陰部にくっついていたことを思い出し、手を止めた。

股間をさすり続けているヤスを置いて、俺は飼育室に戻った。少なくとも今夜はあの部屋で寝る気にはならない。

どの水槽も交尾を終えたようで、三体から五体に増えていた。疲れ果てていた俺は、仕込みをする元気もなかった。

水槽を端からぼんやりと眺めているうちに、一つの水槽で異変が起きていることに気づいた。その水槽には、ほっちゃんの姿が見当たらなかった。代わりに、透明だった水槽の水が薄い黄金色を帯び、水中をゆらゆらと細長い物体が漂っている。

俺は二階へ駆け上がり、ヤスに、どの水槽からほっちゃんを取り出したか確かめ、大急ぎで飼育室に戻った。

水槽の水を指で舐め、細長い物体を掬い取り、すすった。間違いない。これこそ探し求めていた味だった。

 

 

俺は試作に没頭した。気が付けば半年が過ぎていた。

五つ星のラーメンは、ほっちゃんが姿を変えたものだった。ほっちゃんは、三体なら通常の交尾を行うが、交尾の途中で一体が離脱すると、残りの二体は変形し死んでしまう。二体のうち一体は液状化し、黄金色のスープになる。もう一体はどんどん細長くなって、黄味がかった麺のような形になる。ぐにゃぐにゃしていた胴体は、細長くなるにつれちょうどよいコシを伴うようになるのだ。

この半年、次々と交尾させ、五つ星のスープの再現を試みた。夜でなくとも光を遮断すれば、交尾する。だが、冷静に味を確かめると、五つ星のスープとは微妙に違った。硬水や軟水といった水の種類、水温、時間など条件を変え、徐々に五つ星の味に近づけていった。また大量の注文をさばくためには、交尾のタイミングを完全にコントロールしなければならない。俺の飼育法は、まだその段階には達していなかった。

「すごいな」

ミスミは、店に入るなり、店内を埋め尽くす水槽を見て、思わず声をあげた。

試作を始めてから、店は完全に休業することにした。俺は、この地球外生物を使ったスープづくりに憑りつかれていた。

「まだやってるのか?」

「かなり近いものはできた」

ミスミには、経緯をすべて話していた。ミスミも、新たな一杯が完成するのを楽しみにしてくれているはずだ。

「完成したんだろ?」

「まだだめだ。五つ星の味を再現するが目的じゃない。俺の一杯を作るのが目的なんだ」

「おいおい、言ってたことと違うじゃないか」

正直、五つ星のことなどどうでもよくなっていた。違法な地球外生物を使っていることを検疫所に通報すれば、五つ星は終わりだ。しかし、この生物に対する規制は厳しくなり、入手は難しくなるだろう。

「こいつには、まだまだ可能性がある」

三体で交尾し、二体でラーメンになることは分かった。では、もっと多くの個体数ではどうだろう。真水ではなく、様々な物質を溶かした溶液のなかで交尾させたら。あるいは、香味野菜や他の材料と合わせたらどんな味になるか。考えるだけでわくわくする。

俺は試作のためにほっちゃんを殖やし続けていた。飼育室はいっぱいになり、厨房にも置けなくなり、今は客席まで水槽が占拠している。

「前に来たときも言ったが、やばいぞ」

「検疫所は、店を閉めてれば、とりあえず大丈夫だ」

「そうじゃない」

ミスミは、再び店内を見渡した。何がやばいのか。俺は今までも、あらゆる材料を使ってスープを作ってきた。ラーメンの味を追求する姿勢は昔も今も変わっていないはずだ。

「アホなバイトはどうした?」

「最近は来てないな」

ヤスは、最初は試作を手伝ってくれていたが、段々と顔を見せる回数が減っていた。股間を食われてから当然だと思っていたが、久しぶりに連絡をとるのも良いかもしれない。

「ラーメン、食っていけよ」

俺は、大きな水槽に仕切りをはめ込み、三体が交尾するよう仕向けた。交尾が始まると、一体を離し、変形するのを待つ。この作業もだいぶスムーズにできるようになった。威勢のいい掛け声とともに差し出すと、ミスミは怪訝そうな表情を見せた。

「これはいいよ」

「どうして」

「だって…」

「何だよ」

「こんなの、食えるわけないだろ」

俺はミスミの言っている意味がわからなかった。

「旨いぞ」

「旨くなんかない」

ついこの前まで、五つ星のラーメンを旨いと言って食ってた男が、何言ってるんだ。ただ、大事な常連であるミスミと口論することは避けたかった。

俺は話題を変えることにした。

「でも、こいつらが踊ってるところ、まだ見たことないんだよな」

「踊っているのを見れば、おまえも目が覚めるかもな」

ミスミの言葉は、いちいち俺を苛立たせた。そういえばヤスも、出来上がったラーメンは一度も食わなかった。自分の股間を吸わせることはできても、口に入れることはできないらしい。

捕まえたり、殺したり、他の残酷な使い方をすることはできても、食べることはできないのか?

ミスミはすぐそばに置かれた水槽に近づき、上から覗き込んだ。すると突然、店全体が大きく揺れた。どの水槽でも、ほっちゃんが踊っていた。何千匹が踊り続ければ、この店などひとたまりもないのかもしれない。

「すげえな。おまえが来たからじゃないか?」

「敵だと思ったんじゃないか?」

ミスミの声は険しかった。少なくともミスミはこの生き物に対して友好的ではないようだ。

踊っていたうちの一匹が、高く跳び上がり、口を開けて何かを捕まえた。電灯の周囲を飛んでいたトウゲンチュウを捕食したようだ。

「おまえは、旨いという以外に、こいつらの何を知ってるんだ?」

ミスミの問いかけに、俺はしばらく思考を巡らせた。確かに、広い宇宙のどこかで生まれ、ここまで生き延びてきた生物について、俺は何も知らない。

だけど、それがどうした?

こいつら、踊っているときはどんな味がするんだろう。俺はぼんやりと水槽を眺めながら、試作を再開した。

 

 

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