ソマチッドの微笑

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梗 概

ソマチッドの微笑

「我々は、あなたたちへ尽くすために生まれてきました」。

  製薬会社に勤務する相川ソナタの前に、不死の超微小生命体であるソマチッドの集合体だと自称する女性が現れた。ソナタはかつて、ソマチッドの形状変化を観察することによって癌の発生を予測できるという仮説を信じ、院生時代に研究を重ねていた。だが、わずか数オングストロームのサイズしか持たないソマチッドを捉えることは、最先端の光学顕微鏡でも不可能だと知り、研究から身を引いていた。

しかしソナタは、目の前の女性が、銃弾を胸に打ち込んでも平然としていたり、ソナタの持病の喘息を即座に完治させるといった超常的な能力を見せることで、その存在を信じざるを得なくなる。

女性は次のように話した。先日、人間の血液中に無数に存在するソマチッドが、宇宙から降り注ぐ放射線量の増大を感知した。その数値の上昇は現時点では極めて緩やかだが、22年後、宇宙の膨張の加速がシンギュラリティを突破した瞬間、1日当たりに個人の浴びる放射線量が200ミリシーベルトを超えてしまい、人類は確実に滅亡する。その前に人体内のソマチッドを活性化させる薬品を作り、誰にも知られない形で散布することによって、大量の放射能に耐える強化人類を産み出し、絶滅を回避することが自分たちの目的だと女性は語る。

ソナタはその言葉を信じ、製薬会社の研究室を使って彼女と共に新薬の開発に着手し、結果、空気中に散布し微量を吸引するだけで、体内のソマチッド量を数千倍に増やす薬品の開発に成功する。ペットボトル一本分の液体の散布で、薬品はおよそ130㎢の有効範囲を持つ。ソナタと女性は、協力者たちと共に各国で散布活動を行い、3年後には全人類にソマチッド強化を施すことに成功する。

しかしここで、女性の、恐るべき真の目的が明らかになる。放射線増大の話は全て作り話だった。ならば、彼女は何のために人類に強化を施したのか。強化人類は確かに免疫力や肉体が強化され、圧倒的な健康を獲得した。だがそれは副産物に過ぎなかった。ソマチッド強化の真実は、それが「人体を構成する素粒子から不確定性を奪う」ことにあったのだ。すべての素粒子が確定した動きをとるのであれば、ラプラスの魔を超えて、未来の形状を確定することが可能になる。

ソマチッドの女性は薄く微笑し、再び語り始める。宇宙には人間が言うところの「意思」が存在し、《宇宙の眼》(※ルビ:オクルス・ウニベルシタス)によって宇宙内を常に観測し続けている。あまりにも巨大な観測範囲を持つ《宇宙の眼》にとって、個体としての人間は無視され、人類はその総体がひとつの単位として数えられる。ソマチッドの目的は、この《宇宙の眼》の想定を超えること、すなわち不確定性に満ちた宇宙の中で、確定した未来を創り出すことにあった。《宇宙の眼》にとっても、人間の認識と同じように過去はすでに確定している。ではそこに、未来が確定した観測対象が入り込んできたら?

現在とは、過去と未来とに挟み込まれた時間領域だ。現在の空間領域が素粒子の不確定性原理によって規定されている以上、時間領域もまたゆらいでいる。しかし未来が確定されることによって、現在は2つの確定事項に挟み込まれることとなる。そして《宇宙の眼》はそのシステム上、それを観測せざるを得ないのだ。ソマチッドの狙いはここにあった。《宇宙の眼》が確定した過去と確定した未来を観測「してしまう」ことによって、波動関数は収縮し、過去とも未来とも切り離された、量子的ゆらぎを持たない単独かつ固定された《現実世界》が《例外宇宙》として顕現する。

それはいかなる世界なのか? ソマチッドは何故それを望んだのか? 《現実世界》の立ち現れた先で、人類の、そして生命の存在意義が問いただされる!!

文字数:1550

内容に関するアピール

わたしたち人類は、死を前提として活動している。テクノロジーや医療の発展と共に、人類は一定数の難病を克服し、平均寿命を延ばすことに成功した。だが、結局の着地点が変わらないという意味で、それは死の恐怖を克服することとは無縁である。それどころか、技術によって死を後ろへ後ろへと遠ざけることで、場合によっては不満足な肉体や知能を抱えた老年時代を長期化し、本来の目的たるべき人間の幸福から遠ざかっていると考えることすらできる。

そうであるならば、わたしたちは生命の意義、そして死を運んでくる時間という概念について、なかば妄想じみていたとしても、まったく違う角度からメスを入れて思考しなければならない。そしておそらく現在の技術レベルを鑑みるに、個々人の生や、社会システムから考えるだけでは、それは救済の思想足り得ない。

だが仮に、矮小な人間という存在を極めて巨大な位置から観察し、世界に、時間に、歴史に位置づけてくれる神のような存在がいたらどうだろうか。あるいは、わたしたちが生きてきた証を、数億年先にまで記憶・情報として運んでくれる別種の生命体がいたらどうだろうか。

その時わたしたちは、わたしたちの意義を見出してくれる他者のまなざしによって、少なからぬ救いを得ることができるのではないか。

本作は、そのような人類への祈りと共に執筆される。

 

■ソマチッド及び代替医療への誤解を防ぐためのささやかな補足(本文ともアピール文とも関係は持たない)

ソマチッドは筆者の造語・発明ではないが、梗概を読んだ方に代替医療全般への不必要な誤解がないよう、簡単な注釈を加えておきたい。

そもそもソマチッドとは、フランスの生物学者であるガストン・ネサンが人間の血液中に存在するとした極微小な生命体のことを指す。彼の研究によれば、ソマチッドは不死の生命、地球最古の原始生物、16形態への変化、DNAの前駆物質である、といった特徴を持つ。ネサンはソマトスコープと名付けられた、倍率30000倍(分解能:0.015㎛)の顕微鏡によってこれを発見し、癌やHIV感染者の治療に役立て(ソマチッドの活性化を目的として彼は714-Xという薬品を開発した)、実に75%の患者を完治させたと言われる。

しかし、現在の科学的観点からすれば、光の波長の大きさに関わる問題から、30000倍の倍率を持つ顕微鏡の開発は物理的に不可能である。また、暗視野顕微鏡を使用して観察に成功したという報告もあるが、それでも生きて動いている状態の極小の生命体の動きを捉えられるとは考えられない(冷凍され、固定された状態なら別だが)。

以上を踏まえれば、2016年時点で、ソマチッドやそれに伴う治療は疑似科学の領域を出ていないと言ってよいだろう。しかし同時に、これが未来におけるスタンダードとなり得ることも十分に考えられるのだ。

ネサンは医師免許を持たないままに治療を行ったことで、薬事法違反で摘発されたが、その際にはネサンの治療によって救われた多数の人間が擁護を行っている。また、彼の研究に関する著作、「完全なる治癒 ― ガストン・ネサンのソマチッド新生物学」The Persecution and Trial of Gaston Naessens(クリストファー・バード著、上野圭一、小谷まさ代訳、1997年、徳間書店)などを読む限り、彼の主張には一定の科学的正当性と治療への情熱が込められていることも分かる。中には、彼の治療があまりにも有効であるが故に(何しろ、彼や周囲の人間の主張を信じるならば実に3/4の癌患者が治療できて「しまう」のだから)、利権の問題によって医学会から追放されたと主張する説もある。

しかし、真に重要なのは、現時点でソマチッドの有効性をYES/NOで判定しないことにあるというのが筆者の考えだ。現代の世界で常識とされているあらゆる科学、技術も2000年前の人間に話せばすべては妄言として扱われるだろう。だとすれば、わたしたちが考えるべきは、疑似科学的な仮説を消耗材のように処分するのではなく、あらゆる科学、技術が、かつてはどれもプロトサイエンス、プロトテクノロジーだったという事実に着目することだろう。

かつてアメリカの科学史家であるトーマス・クーンがパラダイムの語を用いて語ったように、それまで非常識・異端とされていた説が、ある瞬間にパラダイムシフトを起こし、当然の事柄として扱われるようになるケースは、歴史上、多数存在する。それを踏まえた上で、筆者はソマチッドを単なる空想や疑似科学としてではなく、仮説の正しさが証明された場合に人類へ巨大な利益をもたらすプロトサイエンスとして捉えたいと考えている。

文字数:1910

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