梗 概
都市と石
夏、父親とともに海辺の街に引っ越してきたシタルは、新しい環境に馴染むことができずに孤独で退屈な夏季休暇を過ごしていた。
友達も知合いもいない白く乾いた街のなかで、早朝に浜辺の散歩をすることと、母親に宛てて手紙を書くことくらいしか楽しみもなくて、暇つぶしといえば学校の課題かゲームをするくらい。
そんなある日、散歩の途中で砂浜に埋もれた小さな白い石を見つけたシタルは、石の模様が光を受けてゆらいでいることに気がつき、好奇心と退屈な時間を埋める目的で、その石について調べてみることを思い立つ。
街で一番高い丘の上には、古城を改装した大きな図書館が海を見下ろすようにそびえている。これまで日中は部屋に引きこもって過ごしていたシタルだったが、調査のために図書館へと向かって見慣れぬ街に繰り出していく。
図書館で知り合ったイチカと親しくなり、ともに過ごしていくうちに、シタルは次第に街の雰囲気にも溶けこんでいく。
イチカの祖父が経営しているオデオンの倉庫で、古い幻燈装置を見つけたシタルとイチカがその光で白い石を照らしてみると、映し出されたのは奇妙な建物が立ち並ぶ薄暗い都市の風景だった。
二人は映し出された場所がどこなのか、さらに調べを進めようとするが、思うようにその街についての情報を得ることができない。さらに何度も街の様子を映しているうちに、はじめはただ建物が立ち並んだ無人の風景のようにみえていたその場所に、どうやら何か生き物が暮らしているらしい、と感じはじめた二人だったが、その正体をつかむこともできないまま、石の謎は深まっていき、そして夏の終わりが近づきつつあった。
不意に落としてしまった石にひびがはいり、そこから街の音が漏れ出しているのを聞いた二人が、意を決して石を割ってみると、その中に詰め込まれていた都市に関する情報があふれ出し、それは周囲の物質を分解・変換しながら自らの姿を現実に構築していくのだった。
文字数:800
内容に関するアピール
アピールに代えて、どういったヒントから物語を連想したかについて書いてみたいと思います。
まず、大容量のホログラムディスク開発と室内で光を利用した高速通信が可能になるというLi-Fiについての話題から、複雑な結晶状の多面体のなかに、都市をまるごと閉じ込めて、光を通して幻燈のように映し出すことができたら綺麗かもしれない、という場面をイメージしてみました。
次に、3Dプリンタのフィラメントを再利用するという話題から、自ら周囲の物質を分解しながらそれを素材として再利用して別のものを構築していく装置のようなものを考えてみました。
幻燈装置については個人的な趣味というか小道具として使ってみたいと盛りこみました。
石のなかに閉じ込めてあった都市を構成する情報が、あるきっかけで結晶のなかから外の世界へ流出して姿を現していく、小さな石から大きな都市が生まれてくるスケールというか勢いのようなものが表現できたら良いなと思います。
文字数:405
都市と石
まだ人けのない静かな砂浜を、独りきりで散歩するのが、シタルの新しい楽しみの一つだった。
右手側には砂と街の乾いた白が、左手側には穏やかに揺れる波の深い青と、そのなかに淡くて柔らかい朝の陽射しが吸いこまれていくさまが、広がっていた。
砂のうえにうっすらと小さな足あとを残しながら、シタルは靴を濡らさないように波打ち際、濡れた砂と乾いた砂の境目となっている線に沿ってゆっくりと歩みを進めていた。
心地のよいリズムで繰り返されている波の音に意識を傾けながら、ときどき立ち止まって水平線の向こうを眺めやり、大きく息を吸いこむと、潮の香りが胸いっぱいに広がった。
海辺にあるこの街に越してきて、もうすぐひと月が過ぎようとしていた。新居となったアパートのベランダから見下ろしたこの砂浜に最初の足あとをつけて以来、誰もいない朝の砂浜を歩くことがシタルの日課になっていた。
この街の夏の陽射しはシタルの白い肌には刺激が強すぎて、日中に出歩くには暑さを我慢して薄手の長袖シャツを羽織って過ごさなければならなかった。
まだ淡い陽射しの暖かさと、心地のよい海風を素肌に浴びることができる朝の散歩は、シタルにとっては貴重な時間だった。
打ち寄せる波は、一時たりとも同じ形を作ることはなくて、砂の起伏や漂着して埋もれている貝殻や塵芥、木片を覆い、押し流しながら、浜辺の様子を微細に変化させ続けていた。
そんなふうに日々移ろいながら、それでもずいぶんと見慣れた浜辺の光景のなかに、不意に陽の光を反射して小さく輝いているものを見つけて、その光に導かれるようにシタルはそちらに足を向けた。
半ば砂に埋もれながら光を放っていたそれは、シタルの握り拳よりもすこし小さな丸い石ころで、その表面は灰色の部分と白く濁った半透明の部分が入り混じって複雑な模様を形成していた。拾い上げようとして伸ばした指先に触れた石は、陽の光を浴びて微かに熱を帯びていて、持ち上げてみると見た目よりも重量があった。
左の掌に石をのせて、右の指先で付着していた砂粒を撫でるようにして払い落としてみると、亀裂を埋めている白くて半透明な結晶の部分にはうっすらと波状の模様がついていた。
そのまま石をつかみ上げて、太陽に向かってかざしてみると、結晶部分をわずかに透過してもれてくる光をうけて、石のなかに波状の模様が幾重にも折り重なって見えた。
シタルはとりわけ鉱物の知識が豊富なわけではなかったが、白く半透明な結晶はまるで宝石のように輝いており、それはとても希少なもののように感じられた。
しばらくの間、シタルは掌のうえで石を弄んでみたり、再び陽にかざしてみたりして、その正体をつきとめようとしてみたけれど、けっきょく何一つヒントを得ることはできなかった。
ほかにも同じような石が落ちていないかどうか、周囲の砂をつま先でかき分けてみて、さらにしゃがみこんで片手で砂を軽く掘り返してみたけれど、似たような石を見つけることはできなかった。
視線を上げて街のほうへ向けてみると、街の中心となっている丘のうえに一際目立つ大きな建物が見えた。中世期に建造されたという城の跡、それは長いことリゾートホテルとして利用されていたのを数年前に改装して、現在は図書館として利用されているとのことだった。街のシンボルとなっているその高い城は、全体を見下ろすように昼夜を問わず街の中心にそびえ立っていた。
そこにはかなりの数の貴重な書物が保管されていると、シタルがこの街に越してくる前に目を通した役所が作成した案内用のパンフレットには書いてあったが、正確な冊数を思い出すことはできなかった。
掘り返してしまった砂を足で軽く均してから、シタルは白い石をしっかりと握りしめて、足早にアパートへと向かった。砂浜を立ち去りながら、今日は早めに課題をすませて、午後は図書館で鉱物に関する図鑑を調べてみようと思った。
アパートのエントランスを抜けて、自室の番号がついた郵便受けから新聞を抜き取り、八階に停まっているエレベーターが降りてくるのを待つことはせずに、そのまま脇の階段を駆け上がった。
五階まで駆け足でのぼり、呼吸を整えるようゆっくりと、蛍光灯に照らされた薄暗い廊下を歩きながら、握っていた石を確かめてみると、石は汗ばんだ掌のなかで涼しげに輝いていた。
部屋に戻って学習机のうえに石を置いてみると、室内の明かりに照らされた石の結晶は、陽の光の下で見ていたときとはすこし違った輝きを放ち、微かに発光しており、結晶内の波状の模様がほんのすこしゆらいでいるようにも見えた。
誰にも見つからないように、大切な手紙やアクセサリー、幼いころに手放すことのできなかった小さなぬいぐるみたちと一緒に、石を宝箱のなかにしまいこんで鍵をかけ、ベッドの下に隠した。
ベッドが宝箱をすっかり覆い隠しているのを確認して小さく肯いてから、シタルは父親が起き出してくる前に手早く朝食の支度をすませておこうとキッチンへ向かった。
うっすらと焦げ目のついたトーストにハムエッグ、油分の少ないさっぱりとしたドレッシングであえたサラダには、サーモンと薄切りトマトの赤さがみずみずしく映えている。しばらくして起床してきた父親と、コーヒー豆を挽きながら朝の挨拶を交わした。
淹れたてのコーヒーをブラックで飲み、片手に広げ持った新聞に視線を走らせている父親の様子を、シタルはたっぷりとマーマレードをぬったトーストを食みながら眺めていた。
石のことを訊いてみたら、何か教えてくれるだろうかと考えてみたが、自分の発見した謎めいた物体について、一人ですっかり調べあげて、その正体をつきとめてみたいという好奇心のほうが勝っていた。そして、もしそれが本当に大発見だったとすれば、すこしは驚いてもらえるだろうか、と想像した。
食器を片づけて、仕事へ出かけていく父親の見送りが終わって独りきりになると、まだ住み慣れていない家はシタルにとって静かで広すぎるのだった。
部屋に戻り、ベッドの下から宝箱を引っぱり出して鍵を開けて石を取り出してみると、暗闇のなかに閉じこめておいたせいなのか、光を失った結晶はすこしだけくすんでいるように見えた。
机のうえには、夏休みの課題となっているプリントや問題集が無造作に散らばっていた。先月まで通っていた学校の内容と比べると、問題は易しくて、それほど手間のかかるものではなく、毎日計画的に一定の量をすすめていけば、問題なく片づけることができる、しかし、しばらくサボってしまうとその量を取り返すのにかなりの労力を必要とするような課題たちだった。
シタルはすでに二日分、算数の計算と製図の課題を怠っていて、おそらく今日もそれらに手をつけずに過ぎてしまうだろうと考えながら、憂鬱な気分で机のうえを整理した。
唯一、積極的にこなすことができているのは、単語の綴りと文法を身につけるための書字の課題だった。あまり深く考える必要もなく、ただ単純に見たものを写して綴り帳を手書きの文字で埋めていくことは、シタルにとっては純粋な楽しみの一つだった。
ふだんの生活では手書きの文字を目にする機会などほとんどなくて、ディスプレイに映るフォントや紙に印刷されたきれいな活字は情報をくっきりと正確に伝えてはくれるけれど、どこか冷たくて、だからせめて自分の手書きするものくらいは、目にする相手に書き手の存在やゆくもりを伝えたいと、シタルは何か文章を書くときには、いつもそんなことを考えてしまうのだった。
抽斗から一通の手紙を取り出して開くと、そこには見慣れた母親の手書きした文字が並んでいた。本来ならばマメに手紙など書くようなタイプではない人の、書き慣れていない不器用な文字。一年前までは当たり前のようにそばにいて、一緒に暮らしていたその人の字からは、いったい何が読み取れるだろうかと薄い便箋に目を凝らしてみても、シタルには母親がどんな気持ちでこの手紙を書いたのか、わからなかった。
何か特別なことが書いてあるわけではない、つまらないありふれた日常の出来事、前回のシタルの手紙の内容に対する返事、健康を労わる言葉。そんなものが綴られているたった一枚の紙切れ。シタルも母親へ宛てた手紙にはいつも同じような内容を書いていた。
どちらからも決して会いたいとは書かない。本当はもっとたくさん伝えたいことがあったとしても、お互いに書こうとはしない。書かれていない言葉は、伝わらないのだろうかと考えて、シタルは小さくため息をついた。
石を調べてみて何かわかったら、次の手紙にはそのことについて書こう、そうして存分に驚かせてやろう、そのためには、この石が世にも珍しい希少品か、あるいはとても高価なものであるか、いずれにせよその正体をつきとめるためには、部屋でじっとしていてもはじまらないと思い立って、シタルは筆記用具とノート、汗拭き用のハンドタオル、それから石をショルダーバッグにつめこんで外出の準備をはじめた。
その革製のバッグは母親がシタルの生まれるずっと以前から使い続けていたもので、使い古されてところどころ色落ちしていたけれど、手入れの行き届いたあたたかみのある風合いを帯びていた。それは、いつかシタルがもうすこし大きくなったら、譲ってくれると約束したまま、母親が置いて出て行ったものだった。
窓の外では、すでに太陽が高くのぼってその輝きを強めており、遠くから蝉の鳴き声が響いていた。
つばの広い日除け帽子と、薄手の長袖シャツを羽織り、最後にショルダーバッグをたすき掛けにして、シタルは街へと繰り出していった。
父親に連れられてよく買い物に来る大通り沿いのスーパーマーケットの前を通り過ぎると、その先にはまだ足を踏み入れたことのない見知らぬ街が広がっているが、高くそびえる図書館だけは街のどこからでも見上げることができるのだった。
そのまま大通りに沿って進んでいくと、小さな店の立ち並ぶ商店街が続いていた。ちょうど開店の準備がはじまる時間帯で、まだ半数近くの店にはシャッターが下ろされていた。
人通りのまばらな通りのなかを、華やかに彩られた店の看板をいちいち見上げて、そこに書かれている店の名前を頭のなかで復唱しながら、シタルはその店がどんな商品を扱っているのだろうかと想像して歩いた。
青果店、文具店、書店など扱っているものを示しているものも多かったけれど、なかには名前からは何の店なのか想像できないものもあって、帰りに再びここを通るときに答え合わせをしてみようとシタルは考えた。
そんなふうにゆっくりと歩みを進めていくうちに、宝石店の文字を見つけたシタルは、まだシャッターの下りている店の前に立ち止まって、鞄から石を取り出して、この隙間に見えている結晶は宝石の一種なのだろうかと期待をこめながら、複雑な亀裂のようでいて、どこか抽象的な絵のようにも見える、不思議な模様を見つめた。
商店街の端には休憩用の小さな公園があった。木陰に数台のベンチが並んでいるだけで、遊具などは置かれておらず、中央には時計台が設置されていた。時計の針はそれぞれ九と七のあたりを指し示していた。左腕に巻いていたプラスティック製の白い腕時計に視線をやり、時刻にずれがないことを確かめてから、シタルは公園を抜けていった。
図書館へと続く道は、なだらかな広い坂道になっていて、その中央を通る四車線分ほどの幅のある道路はアスファルトできれいに舗装されていたが、両脇の歩道部分はかつての煉瓦造りのものがていねいに補修されて残されていた。
ひと月前まで住んでいた街は、ここよりもずっと大きくて賑わっていて、道路には多くの自動車が忙しなく、絶え間なく行き交っていた。それに比べれば、坂道をのぼっていく間に見かけた自動車は数えられるほどのもので、その移動速度もこの街全体に漂う長閑な雰囲気と同じようにゆっくりとしたものだった。
帽子とシャツのおかげで肌が直射日光にさらされることはなかったが、長い坂をのぼっていくうちに額に滲み出してきた汗を、シタルはバッグから取り出したハンドタオルでぬぐった。
だいぶのぼってきたあたりで、一度足を止めて振り返ってみると、眼下には白い街並みが広がっていた。シタルの耳に届く音は、ときどきすれ違う自動車のエンジン音と遠くのほうで鳴いている蝉の声だけだった。
浜辺のすぐそばにあるはずの自分の暮らしているアパートの屋根を探してみたけれど、シタルの立っている場所からは建物の陰に隠れていて見つけることができなかった。もうすこし高いところから見下ろせば、もっと視界が広くなり、さらに小さくなった街のなかにアパートを見つけることができるだろうと考えて、シタルは再び坂道をのぼっていった。
長い坂の途中には休憩所のようなちょっとした広場があって、そこには粗末なトタン造りの商店が、たくさんのパラソルと、その下に据え置かれた木製のテーブルやベンチに囲まれて建っていた。
ちょうど喉の渇きを覚えはじめていたシタルは、ポケットから財布を取り出して、口を開いて中身のコインを確かめて、そこから数枚の銅貨を取って、商店の前に置かれていた氷を張ったバケツのなかからラムネを一本手にした。
店のなかには気だるい音楽とパーソナリティの読み上げる家庭内の不和に関する相談内容が、こもった音で小さなラジオのスピーカーを通して流れていた。退屈そうにカウンターに肘をついていた日に焼けた浅黒い肌にランニングシャツ姿の店員は、シタルが入ってきたのに気がつくと、口元に軽い微笑を浮かべながら、ラムネの瓶にさっと視線を向けて、黙って代金を受け取った。
薄暗い店のなかで緩慢に首を振っている扇風機の送ってくる微風が心地よくて、シタルはしばらく店内の商品を眺めているふりをしながら涼んでいた。すでに店員はシタルに対する関心を失った様子で、くたびれたクロスワードパズルの雑誌を広げて鉛筆を片手に考えごとをしていた。
ラムネの飲み口のビー玉を押して、噴き出してきた泡で指先を濡らしながら、シタルは店の外に並んだベンチの一つに腰かけてラムネを飲んだ。炭酸の刺激が思いのほか強くて、すこしむせながら瓶の角度を調整してみるが、すぐにビー玉が飲み口をふさいでしまい、なかなかうまく飲むことができなかった。
ラムネの瓶を店先のケースに返却しながら、シタルが店のなかを覗いてみると、店員はすでに雑誌を閉じて、ラジオに聞き入っているのか、それとも居眠りをしているのかわからない格好で目を閉じていた。
坂をのぼって近づいていくにつれて、図書館の外壁、その向こう側に見える壁や塔、さらには本館が、大きく目の前に広がっていった。下から見上げていただけでも、その大きさは他の建物に比べて異様に見えたのだが、そばまでやってくると、重厚な石造りの壁に囲まれた城塞の威圧感に飲みこまれてしまいそうだった。
城門へと続く階段を上がり、今では固定されている跳ね橋をわたって外周の堀を越えていくと、ようやく城門の前にたどり着いた。
近づいてみると、石造りに見えていた外壁には塩害防止用のコーティングが施されたパネルが敷き詰められていて、岩のように見えていたのは表面に貼り付けられているテクスチャだった。
たしかに、かつてここに今見ているのとほとんど同じような城塞があったということは事実なのだろうけれど、すでにそれは一度解体されていて、実際に目の前にあるのは外見的に元の形状を模倣する形で再構成されたものに過ぎないのだと、すべすべとした外壁の表面に触れながらシタルはすこしだけ残念に思った。
門をくぐって外郭へ入っていくと、ますますそれは明白に感じられた。外壁と同じように、外見上、図書館は中世期の城郭を忠実に再現した作りになっていたが、本館の入口はガラス張りの自動開閉式になっていた。
シタルは門から真っすぐに歩みを進めて、自動開閉式のドアの前に立ったが、ドアは無反応だった。ガラス製のドアの表面には白い文字で開館時間がプリントされていて、シタルが腕時計で時刻を確認すると、どうやら開館まであと五分ほど待たなければいけないようだった。
外郭の空間は、木々に囲まれた散歩コースのようになっていて、シタルは木陰に見つけたベンチの一つに腰かけて開館を待つことにした。周囲には人影はなくて、高い壁と青々と茂った木々に覆われて涼しく陰っている空間は居心地がよかった。
シタルはバッグから石を取り出して、それを掌のうえで弄んでいた。しばらくそんなふうにぼんやりと時間をつぶしていると、城門を抜けて自分と同じくらいの背格好の子どもが入ってきたので、シタルはその姿を目で追った。その子が真っすぐに本館の入口へと向かい、そのまま自動ドアが開いてなかへと入っていったのを見て、いつの間にか図書館が開館していたのだとシタルは知った。
立ち上がって、青く茂った芝生を踏みながら、シタルは入口へと向かった。図書館の周囲の日蔭はじゅうぶんに涼しかったが、館内の冷房はさらに低い温度に設定されていて、長袖のシャツを着ていてもちょうどよいくらいだった。
入口正面に設置されていた二メートル四方はありそうな大きな案内板の前に立ってみると、シタルにはそこに描かれている館内図がまるで迷路のように思えて、いったい石について調べるためにはどのコーナーに向かうべきなのか判断がつかなかった。
案内板の左手側にはインフォメーション・カウンターがあったので、シタルはコンピュータに向かって入力作業をしていた若い女性の司書に声をかけて、鉱物に関する本の置かれている場所を教えてもらい、コンピュータから出力された小さな地図を受け取った。
書架スペースへ立ち入るには簡単な手続きが必要で、シタルはこの街に来たときに支給されて以来、まだ一度も使ったことのなかった住民パスカードを財布から取り出して受付に提示した。そこで荷物を預けるためのロッカーの鍵と、私物を館内へ持ちこむためのビニール製の手提げ袋を借りた。シタルはバッグから筆記用具とノート、それから石を取って手提げに入れ、残りをロッカーにしまった。
図書館は五階建ての回廊状になっていて、内郭部分の中庭はちょっとしたカフェスペースになっているらしかった。シタルが目指すべき場所は正面入口から向かって左手側の棟にあたり、とりあえず鉱物に関する本があるらしい三階まで階段をのぼっていった。
階段を上がってすぐ目の前のスペースは八人掛けの大きなテーブルの並んだ閲覧室になっており、それが各階の四隅に設けられていて、閲覧室同士を結ぶ長くて広い廊下の部分には書架が整然と並んでいた。
左右の壁面から水平にとび出すような格好で並べられた書架の間を、手元の小さな地図を頼りにシタルは歩いて行った。廊下に面した書架の側面には、その列に並べられている書目の分類が記されたプレートが貼り付けてあって、鉱物の棚はちょうど廊下の中央あたりで見つけることができた。
書架と書架の間に侵入して、シタルの背丈よりもずっと高くまでぎっしりと並べられた本の背の彩りと、そこにさまざまな書体で記されている文字列を眺めていると、シタルは何だか眩暈がするようだった。
書架の最下段には判型の大きな図鑑などが並べられていて、シタルは鉱物の棚の前にしゃがみこんで、重たい図鑑を一冊ずつ引っぱり出してぱらぱらとページをめくりながら、写真や図版が多く掲載されていて、文字が少なそうなものをとりあえず三冊ほど選び出した。
選んだ三冊を重ねて持ち上げると、それはかなりの重さになった。シタルは両手でしっかりと本を抱えて閲覧室へと戻り、階段のちょうど対角の位置にあたる席に腰を落ち着けた。
閲覧室には他には誰もおらず、静まり返った室内には空調機の立てる微かな駆動音と、シタルが本のページをめくる音だけが響いていた。
手提げから取り出した石をテーブルのうえに置いて、それと似たものがないかどうか、本に掲載されている写真と一枚ずつ見比べていった。筆記用具ケースのなかに入れてあった水色のポストイットを気になった写真の掲載されていたページの端に貼りながら、とにかく次々とめくっていくと、セプタリアンという石の写真がシタルの目にとまった。
セプタリアン。海洋生物の死骸や貝殻化石、泥などの堆積物が固まって、その隙間に方解石などの鉱物が入りこみ、成長したもの。隔壁に仕切られた方解石の模様が不思議な形をつくり出し、ときにそれが雷や亀の甲羅のように見えることから「サンダーエッグ」や「亀の石」あるいは「ドラゴンの卵」などとも呼ばれている。
しばらく文字を追っていた視線を上げて、軽く瞬きをしてから閲覧室を一望してみると、すこし離れた席に人が座っていて、それは入口で見かけたシタルと同年代くらいの子どもだった。
本に向けて落とされている瞳を覆うような、豊かな黒い睫毛が印象的だった。その睫毛と同じ色をした艶のある髪は肩口でそろえられていて、その下にある肌はシタルに比べるとやや色を帯びていたが、しかし陽に焼けた様子もなく、どこかこの街には溶けこんでいないように感じられて、シタルは不思議と親近感を覚えた。
本に向けられていた視線が、不意に上げられて、瞬間、シタルはその黒い瞳と目が合ってしまい、咄嗟にそらすこともできずにしばらく見つめ合うことになった。
それから相手が本を閉じて、その本を脇に抱えて席を立ち、自分の正面まで歩いてくる間の動きを、寸分ももらさずにシタルは目で追っていた。
静かな図書館のなか、相手は挨拶の言葉は口にせずに、軽い会釈だけをして、シタルの向かいの席に腰を下ろした。それからテーブルのうえに広がっていた鉱物の図鑑とその横に置かれていた石を一瞥し、すぐに関心を失ってしまったかのように本を開いて読書を再開した。
そのまま一方的に見つめているわけにもいかず、シタルも再び図鑑をめくっていったが、正面の相手の存在が気になってしまい、なかなか調べ物に集中することができなかった。
一冊目をようやくめくり終えて、いったん読書をやめて石を手に取ろうとして、正面の相手の視線が石のほうに向けられていることに気がついて、シタルは石を持ち上げてテーブル越しに身を乗り出して、手渡すように石を差し出した。
差し出された石を、相手はためらう様子も見せず、はじめ、片手で受け取ろうとして、石の予想外の重さに驚いた様子で、慌ててもう一方の手を添えて、包みこむような格好で手のなかに収めた。
その慌てたさまが可笑しくて、シタルが声を殺して笑うと、相手はほんのすこし頬をふくらませて、一瞬、不貞腐れたような表情を浮かべてから微笑した。
受け取った石を慎重にテーブルのうえに置いてから、相手はビニール製の手提げのなかからメモ帳を取り出して、そこにすばやく何かを書きつけて、シタルに見せた。
一夏
書かれている記号を読み取ることができずに、シタルが眉間を寄せていると、相手はいったんメモ帳を引き戻して何かを書いてから再びそれをシタルに見せた。そこに書かれていた、イチカ、という文字を読み取って、それが相手の名前だと理解して、シタルはメモ帳に手を伸ばして引き寄せると、「イチカ」の隣に「シタル」と、自分の名前を書き記して返した。
シタルの名を読み取って肯くと、イチカはメモ帳を閉じて、石と本をビニール製の手提げのなかに入れて立ち上がり、階段のほうへ向かって歩き出した。シタルは慌てて自分の荷物を手提げにしまいこんで、重たい図鑑を両手で抱えると、イチカの後を追いかけていった。そのまま一階まで降りたイチカは、そのまま内郭にある中庭へと向かっていった。
イミテーションの樹木で彩られた中庭はかなりの広さで、天井は採光の工夫されたガラス張りになっており、中央には軽食を扱っている小さな売店があった。いくつも並べられている白い丸テーブルの周囲には、同じ色のスチール製の椅子が四脚ずつ据えられていた。
イチカはそのうちの一つに座り、シタルも続いて同じテーブルに着いた。二人でテーブルを囲むと、あらためてイチカは自分の名を名乗ったので、シタルもそれに応じて挨拶をした。
挨拶を聞いてイチカが笑ったので、シタルも思わず笑い返したが、すぐに彼女の笑った理由が、自分のアクセントのせいなのだと気がついて苦笑した。シタルが気まずそうにはにかんだのを見て、イチカは笑いを抑えながら謝罪の言葉を口にした。
手提げから石を取り出したイチカは、ガラス越しに射しこむ陽光にそれを掲げて、半透明のなかに浮かぶ模様を透かして見ていた。シタルは抱えてきた図鑑をテーブルのうえに置いて、ポストイットを付けておいたページを順番に広げながら、イチカのかざしている石と似ているものを探した。やはり先ほど一番気になったセプタリアンのページで手を止めて、あらためて解説文を読みはじめたシタルは、その白く濁った部分が方解石という鉱物であると書いてあったのを確認して、索引から方解石の項目を引いてみた。
そこに、方解石はもっともありふれた鉱物の一つである、という記述を見つけて、シタルは小さなため息をついた。「ドラゴンの卵」自体は、その模様の面白さから、珍しい物としてコレクションの対象にもなっているが、石自体は鉱物として特別希少なものというわけではないらしかった。そんなに簡単に宝物が見つかることはないんだ、と心のなかで呟きながらシタルが本を閉じると、イチカはまだもの珍しそうに石を眺めていた。
石に対する関心の薄れたシタルは、本を戻してくると告げて、イチカに石を預けたまま館内へと戻った。先ほどまで持っていた石の希少性に対する期待感がなくなってしまったぶん、抱えた図鑑が重たく感じられて、棚に本を戻し終えると急に疲労感を覚えた。
シタルが中庭に戻ると、イチカは顔を石に近づけ、にらみつけるように目を凝らしながら、その白い方解石の部分を見つめていた。
シタルが戻ってきたのに気がつくと、イチカは石から顔を離して、きれいだね、と微笑んでから礼を言って石をシタルへ返した。
すこしお腹が空いたから、と言って席を立ったイチカは、中庭の中央にある売店でサンドウィッチのパックとオレンジジュースを二つ買って戻ってきた。シタルが代金を支払おうとすると、イチカはそれを制して、大丈夫、たくさん稼いでるから、と笑った。
食事をとりながら、シタルはいまさらになって飲食スペースに本を持ちこんでもよかったのかどうか心配になったけれど、そんなことはまったく気にしていない様子のイチカを見習って忘れることにした。
よく見るとイチカの持っていた本には図書館の管理シールが貼られていなかった。訊いてみると、それは家から持ってきたもので、わざわざそれを読むために図書館にやってきた理由は静かで涼しいから、というものだった。
イチカは夏休み明けからシタルが通うことになる学校の同級生で、休みの間は暇があれば図書館で読書をしているらしかった。同じクラスになれるといいね、などと笑い合いながら食事がすむと、イチカは館内を案内してあげると言ってシタルの手を引いて歩き出した。
ちょうど正面玄関の反対側にあたる、海に面した崖側のスペースには、かつて礼拝堂だった部分が当時の状態を忠実に再現する形で残されていた。三階ほどの高さまで吹き抜けになった広々とした空間のなかで、壁面に埋めこまれた大きなステンドグラスは鮮やかな彩りを放っていた。それを見上げたシタルは思わず感嘆の声をもらしてしまい、その声を聞いてイチカは笑った。
横長の木製ベンチに並んで腰かけて、しばらくぼんやりとステンドグラスを通して射しこんでくる光と、光に照らされてきらきらと舞っている微細な埃の輝きを眺めていた。
不意にイチカが手を差し出してきたので、シタルはその掌のうえに石を置いた。柔らかい光に向けて石をかざして、それを回転させてみたりしながら、イチカは石のなかの波の模様をしきりに気にしているようだった。
しばらくすると石とにらめ合っているのにも飽きて、イチカが最上階にあるプラネタリウムを見に行こうと誘ったので、シタルは肯いて後をついて行った。プラネタリウムとはいってもそれほど大規模なものではなくて、ドーム径は七メートルほどで座席数も三十席足らずだった。二人以外には観客はおらず、イチカが特等席だという座席にゆったりと腰を下ろして開演を待つことになった。
照明が落とされて、プラネタリウムが動き出すと、穏やかな声の女性のアナウンスに合わせて、夏の星座が丸い天空を覆っていった。理科の授業で習ったことのある星座の名前と、星にまつわる物語を聞きながら、シタルは次第に心地よくなってきて、そのまま眠ってしまいそうになったのを、左右に小さく顔を振ってこらえた。
不意に見上げていた顔を下ろすと、膝のうえに置いていた手提げ袋のなかで、石の白い部分がぼんやりと光を放っているのが見えた。それをイチカに知らせようとして、シタルが肘で軽くつついて合図すると、薄闇のなか、すぐそばでイチカと向き合うことになってしまった。シタルが膝のほうに視線を落とすと、イチカもそちらに目を向けて、そこで発光している石を見て、驚いたように小さな声を上げた。
しばらく光る石を見つめていた二人だったが、空の様子が一変して、新しい物語が語られはじめたのを合図にして、再び星の世界へと戻っていき、それからほんの短い眠りの世界へと落ちていった。
シタルがイチカに起こされると、すでにプラネタリウムの上演は終わっていて、室内は明るくなっていた。何だか語りが子守唄みたいで心地よくて、とシタルが言い訳すると、イチカはいたずらな含み笑いを浮かべてから、あの声は実は母親のものなのだと打ち明けた。
すこし自慢げにそう言ったイチカだったけれど、シタルの反応が鈍くて、むしろ表情がすこし曇ったように感じられたので、慌ててシタルの手を取って、出ようか、と微笑した。
うん、と肯きながら、シタルはイチカには母親がいるのだという当たり前のことが、とても遠くて特別なことのように感じられた。
そのまま受付で荷物を回収して、二人は街へ向かって長い坂道を下って行った。もっと詳しく石を観察したいというイチカの申し出を受けて、とりあえずイチカの家でルーペを使って石を覗いてみようということになった。
プラネタリウムで石が発光していたのは、方解石が蛍光性をもっているからだとイチカが主張して、そういえば図鑑にそのようなことが書かれていたかもしれないとシタルは曖昧に同意した。
午後三時の夏の陽射しは厳しくて、坂道の先のほうで反射している光を見ていると目がくらみそうだった。帽子の下でシタルがしきりに汗をぬぐっているのを笑っているイチカの肌は、陽にさらされてすこし赤みを帯びているように見えた。
すこし赤くなってもしばらくすると元に戻るので陽に焼けることはないんだというイチカの肌をシタルは羨ましく思ったが、逆にイチカは透き通るように白くて薄いシタルの肌のほうが羨ましいと言った。
行きがけに立ち寄ったトタン造りの商店で、シタルが何か飲み物を買おうとしていると、イチカはすでに支払いをすませてラムネの瓶を二本持ってきた。それは先ほどシタルが飲んだものとは瓶の形状や貼られているラベルが異なっていて、この街の子どもたちの間ではハイパーラムネと呼ばれているもので、通常のラムネの数倍の刺激があるらしかった。
蓋のビー玉を押し開けると、シュワッという音とともに泡が溢れ出してきて、こぼれないようにと慌てて唇を近づけると、唇から口内にかけてちくりとした刺激があり、喉に刺さるような痛みに耐えかねて、シタルはむせ返った。
イチカは慣れた様子でハイパーラムネを飲み干すと、指先で口元をぬぐい、貸して、と言って呼吸を整えているシタルから石を受け取ると、それを太陽にかざして眺めていた。
触れていた石の表面が、ほんのすこし融けて滑ったような感触になったのを、指先が濡れていたためだと思い、イチカは慌ててシャツの腹で指先をぬぐった。石の表面には、石鹸の欠片を指先で擦り合わせたような小さな泡立ちが残っていて、この結晶は何か水溶性の成分を含んでいるのかもしれないとイチカは考えた。
なかなかラムネの刺激に慣れることができずに、すこしずつ瓶を空けていくシタルを待ちながら、イチカは崖を囲んでいる柵に手をかけて、街を見下ろしていた。ちょうどあのあたりが自分の家だとイチカの指さしたほうにシタルが目を向けると、白を基調とした街並みのなかで、その一帯は建物の屋根や壁面が青く塗られていて浮き上がって見えた。
青い屋根が並んでいるのは職人街なのだとイチカは説明し、自分の祖父は映写技師をしているのだと続けた。
職人街についてはシタルも父親から簡単に聞かされていて、そこには移民の子孫が多く暮らしており、この街のなかでも特殊なコミュニティが形成されているので、街に慣れないうちは不用意に近づかないほうがいい、と忠告を受けていた。
イチカが職人街に暮らしているのだと知って、その風貌が何となくこの街の空気にはそぐわないと感じられた理由がわかったような気がした。そうはいってもすでにイチカは移民の三世か、あるいは四世にあたる世代のはずで、もう十分にこの土地に馴染んでいたっておかしくはないはずだ、ともシタルは思った。
いずれにせよ、シタルだってこの土地にとってみれば異邦人であって、むしろ見た目についてはイチカ以上に違和感があるに違いないのだった。
喉の痛みをこらえながら、何とかハイパーラムネを飲み終えたシタルは、何だか飲んだ気がしない、と苦笑したが、このラムネはこの街の工場で独自の製法によって生産されている特産品なのだというイチカの言葉を受けて、そういうものに慣れていかなければいけないのだと感じた。
大通りの商店街を歩いていくと、朝にはまだシャッターが下りていた商店はすべて開店しており、人影のまばらだった通りも買い物客でごった返していた。人の間をぬうように進みながら、シタルが宝石店の前で足を止めたのに気がついて、イチカは戻ってきて、ショウウィンドウに飾られた宝石を何だか残念そうな面持ちで眺めているシタルの横顔を見つめた。
飾られている宝石はよく磨かれていて、赤や青の鮮やかな輝きを放っていたり、あるいは濁りなくきれいに透き通っていたりと見とれてしまうほどに美しくて、シタルの見つけた石に比べれば、どれも高級なもののように見えた。それでも「ドラゴンの卵」に刻まれた模様には、何か惹きつけられる不思議な魅力が秘められていて、この石が特別なものである可能性はまだ残されているかもしれないと、シタルはすこしだけ気を取り直した。
どうやらイチカはこの石が特別なものであるということを疑っていない様子で、早く調べてみようと言って、宝石店の前に立ち止まっているシタルの腕を引いて、大通りの脇から続いている狭い路地のほうへと向かった。
はじめて入りこむ狭く入り組んだ暗い路地を歩きながら、シタルは自分がどんどん街の中心から遠ざかっていることに不安を覚えて、つないでいるイチカの手を離さないようにしっかりと握りしめていた。もう自分一人では帰り道がわからなくなっていて、周囲を無数の青いアパートに挟まれている道からは、どこからでも見つけられると思っていた丘のうえの図書館の姿も見えなかった。
青い屋根と壁が落とす暗い陰に覆われた迷路のような道をようやく抜けて、道幅の広い一本道を進んでいくと、その先はY字路になっていて、その分岐路の中央には色褪せた看板のかかった小さな映画館がひっそりと建っていた。
アンティーク調の重厚な入口のドアをイチカが押すと、蝶番の軋む音があたりに響いた。映画館のロビーは無人で、照明も落とされていたが、清掃は行き届いているようで床やカウンターに埃の堆積している様子はなかった。
イチカはシタルの手を引いたまま、静かな建物の間を奥へとどんどん進んで行って、最奥の扉の前まで来ると、首から下げていた鍵を使ってその扉を開いた。扉の先はそのまま階段になっていて、黙ってのぼっていくイチカの後ろを、やはりシタルも黙ったままついて行った。
階段を上がった先、二階は住宅になっていて、そこがイチカの暮らしている場所だった。広いリビングの中央には小さな丸いテーブルがあって、それを挟むように向かい合わせに置かれた二脚の椅子が、薄暗い部屋のなかでやけに目立って見えた。
イチカが部屋の明かりをつけると、ようやく静けさが打ち破られたように感じられて、シタルは軽くため息をついた。
ルーペを持ってくるからとリビングを出て行ったイチカを、シタルはテーブルの脇に立ったまま待つことにした。失礼だとは思いつつも、部屋のなかを見渡していると、棚のうえに並べられている写真立てが目にとまって、シタルは好奇心に駆られて写真のそばへと近づいて行った。
写真にはイチカと同じ髪と肌の色をした快活そうな男性が、子どものように無邪気な笑顔を浮かべて写っていて、その隣には穏やかな笑みを浮かべた女性がひかえめに男性に寄り添っていた。女性はこの土地の人間によく見られる、すこし浅黒い肌と、豊かな赤い艶のある髪の色をしていた。
隣には同じ女性のポートレートが置かれており、さらに横のパノラマ写真には二人に挟まれる格好で満面の笑顔を浮かべた小さなイチカと、もう一人、右端にすこし表情をこわばらせた小柄の老人が写っていた。
イチカの足音が聞こえてきて、シタルは慌てて写真から離れてテーブルへと戻った。いったいこの二脚の椅子はイチカと誰のためのものなのだろうかと考えながらシタルが腰を下ろすと、何種類かのルーペを持ってイチカが戻ってきた。
十倍から六十倍までの、拡大率の異なるルーペで順番に石を覗きこんでいくと、半透明の結晶のなかに混ざりこんだ不純物や、表面の微細な傷を観察することができた。高い拡大率のレンズを密着させるように近づけて、石のなかまで覗きこんでいくと、やはり内部で何かがゆっくりと動いているように見えた。
レンズが近づきすぎてやや暗くなってしまうのを、ルーペにはLEDライトが付いているのだと言って、イチカが小さなスイッチを入れると、レンズのすぐ横のあたりから眩しいくらいの白くて強い光がともった。
あらためてLEDの光で照らしてみると、先ほどよりも石のなかのゆらぎが激しくなったように感じられて、シタルはルーペをイチカに渡して覗いてみるように促した。イチカが石に顔を近づけている姿を横から眺めていると、石のなかを通り抜けた強い光が、テーブルのうえにうっすらと像を映していた。
それは石のなかに見られる、波打つような模様とは違った、もっと複雑で入り組んだものの影を映しているように思えて、シタルはテーブルに顔を寄せてしばらくそこに映った像を見つめていた。
シタルがおかしな格好をしていることに気づいたイチカは、ルーペから目を離し、同時に石を照らしていたライトも下ろしたため、テーブルの像は消えてしまった。シタルは像のことを説明してライトがついたままになっていたルーペを受け取ると、光源の部分を石の表面に密着させ、再びテーブルのうえに像を映し、イチカにも見せた。
像がぼんやりとしたものだったため、イチカが部屋の明かりを消してみると、テーブルには群青の大きな方形のブロックが積み重なったようなものが映し出されていた。小さなライトによって映し出される像のサイズはせいぜい三センチ四方くらいのもので、テーブルからの距離を離して像を大きくしようとすれば、今度は像がぼやけてしまい、そこに映っているものが何なのかを、はっきりと見分けることができなかった。
群青のブロック群はゆっくりと移動しているかのように、すこしずつその重なり方を変化させていて、二人はしばらくの間、黙ってその動きに見入っていた。
数時間前、図書館で調べたときには、この石がただの方解石であるということに落胆したシタルだったけれど、そのなかに奇妙な像が隠されていたと知り、再び石への期待感を取り戻していった。
やはりこれは特別な石だったのだ、というはじめて石に触れたときに感じた自分の直感が正しかったことをシタルは嬉しく思い、また、その謎めいた像が何なのかと想像すると気持ちが昂った。並んで一緒に像を見つめているイチカの表情からも、石に対する強い好奇心を読み取ることができた。
とつぜん、部屋の明かりがついて振り返ると、入口に小柄な老人が立っていて、シタルは反射的に小さな会釈をした。老人は珍しい物を品定めするように目を細めながらシタルを見つめていた。イチカが友達だと紹介すると、老人はほんのすこしだけ表情をほころばせて、茶でも淹れようか、と呟いてキッチンのほうへ向かった。
出されたのはエラ茶という、この地域では日常的に飲まれているハーブティーで、昂った神経を落ち着けるリラックス作用があるといわれていた。名前は聞いたことがあったし、スーパーマーケットで販売しているのを見かけたことはあったが、シタルはまだエラ茶を飲んだことがなかった。
飲みはじめはやや薬味が強くて苦さを感じたが、口内に含んでみるとさっぱりとした風味で思いのほか飲みやすくて、二口目以降は爽やかな喉越しも手伝って、夏の蒸し暑い街を抜けてほてっていた身体の熱を鎮めるのにはちょうどよかった。
石のことは二人だけの秘密にしたいとでもいうように、いつの間にかイチカはルーペを片づけていて、テーブルのうえにあった石をこっそりとシタルに手渡し、シタルもすぐにそれをバッグにしまいこんだ。
イチカの祖父は階下の映画館で映写技師をしているとのことで、ちょうどこの後、夕方の上映があるので観ていかないかと誘われて、シタルは帰宅の時間を気にしつつも興味を引かれて、観ていくことに決めた。
館内にはシタル以外に観客はなく、スクリーンに映写されているモノクロの無声映画は退屈で、すぐに眠たくなってしまった。重たい瞼を擦りながら、バッグから石を取り出して、先ほどテーブルに映し出された不思議な映像を思い出すように、その表面を見つめていると、映写機の光と、それを受けた白いスクリーンの反射光に照らされた薄暗いなかでもほんのすこしだけ石の模様がゆらいでいるように感じられた。
いつの間にか映画は終わり、館内が明るくなるのと同時にイチカが厚い扉を開けて入ってきて、つまらなかったでしょ、と笑ったので、シタルは素直に肯いた。夕食を食べていけばいいと誘われたのを断って、そのまま映画館を出ると外はすっかり暗くなっていて、帰り道がわからないシタルをイチカは大通りの商店街まで送ってくれた。
また図書館で会う約束をしてイチカと別れ、シタルは帰り道にある雑貨屋で安いLEDの懐中電灯と小型の顕微鏡を購入した。貯めておいたお小遣いをずいぶん使ってしまったけれど、久しぶりに自分のための買い物をしてシタルの気分は高揚していた。
家に戻ると室内は暗く、父親はまだ帰っていなかった。父親の仕事は都市計画に合わせて街の設計をすることだと聞かされていたが、それが具体的にどんな内容なのか、シタルにはよくわからなかった。
冷蔵庫にあった食材で簡単なサラダを作り、パスタを茹でて市販のオイスターソースをかけて食事をすませて、シャワーを浴びたあとになっても、まだ父親は帰っていなかった。シタルがラジオの電源を入れて適当につまみを回して局を合わせると、ローカルの音楽番組が流れてきた。耳慣れない歌詞と曲調の不思議な音楽に耳を傾けながら、シタルは部屋の明かりを消して、買ってきた懐中電灯で石を照らして、その像を部屋の壁に映し出した。
イチカのルーペに付いていたライトよりも大きい光で照らしてみると、映し出される像の範囲はすこしだけ広くなって、先ほどよりもほんのすこしはっきりと像を見ることができた。港の貨物置場に積まれているコンテナのように、深い青をしたブロックが並んでいて、それは空間のなかを浮かび、漂うようにゆっくりと動いて見えた。
その映像が何を意味しているのか、シタルにはさっぱり理解できなかったが、壁に映った像に見入っていると、自分もその空間のなかにいて、一緒に漂っているかのような気分になってくるのだった。ラジオからもれてくる音楽が次第に遠くなっていき、いつしか深い海の底にいるかのような重低なノイズへと変化していった。シタルは何となく、イチカに手を引かれて歩いた職人街の青い街並みを思い出した。
不意に部屋が明るくなって、落ち着いた声の女性が週末に行ったお洒落なカフェについて話しているのが聞こえてきて、シタルが我に返って周囲を見回すと、リビングの入口に父親が立っていた。
帰りがけに買った惣菜で軽い食事をすませ、食後にウィスキーをロックで飲んでいる父親の横で、シタルは就寝前のホットミルクを飲んでいた。今度から眠る前にはエラ茶が飲みたいと言ってみると、父親はすこし驚いた表情を浮かべてから、今度スーパーマーケットで買ってこようと微笑してくれたのが、シタルは嬉しかった。そのあとに続いて、エラ茶には依存性のある物質が含まれているので、濃く抽出して飲みすぎないように、という注意が父親からあったけれど、シタルがこの街の文化に興味をもったことについては歓迎している様子だった。
何となく気になって、いまはどんな仕事をしているのかと訊ねてみると、父親は先ほどよりもさらに驚いた様子で、それからウィスキーのグラスを置いて立ち上がり、窓を開けてベランダに出てシタルを手招きで呼んだ。
大通りを指さして、それから横に長く線を引くように指先を動かしていって、あのあたりに大きな道を作って、周辺に高層のマンションや商業ビルをいくつも建てるのだ、そうすればこの街はもっと発展するし、発展に合わせて港のほうも拡張することになるので、しばらくはこの街で暮らすことになるだろう、と父親は笑い、もう転校を繰り返すこともなくなるはずだと言って、シタルの頭を軽く撫でた。
街を見下ろしながらそんな話を聞いて、シタルはイチカのことを思い出していた。この街ではじめてできた友達、これからずっと一緒にいれば、どんどん仲良くなって、いつかはじめての親友と呼べるような相手になるかもしれない、とシタルは想像した。
それからもう一つ、父親の指さしたあたりには青い街があって、大きな道や建物ができあがったら、青い街はどうなってしまうのだろうと不思議に思った。
夜風で冷えたシタルの身体を包むように両肩に手を添えて、父親はもう寝なさいとシタルを部屋のなかにゆっくりと促した。部屋に入ってベッドに横になると、暑いなかを歩き回っていた日中の疲れが一気に押し寄せてきて、シタルはそのまま片手に石を握ったまま深い眠りに落ちていった。
目覚ましのタイマーをセットしていなかったことと、昨日はいつもよりずっと疲れていたこともあって、シタルが目を覚ますとすでに太陽は高くまでのぼっていて、父親は出かけてしまっていた。
まだ眠気の抜けきらない身体を起こして目元を擦りながら、日課になっていた砂浜の散歩が途切れてしまったことをシタルはすこし後悔した。
寝巻の下の汗ばんだシャツを着替えて、いつもより遅い朝食をトースト一枚ですませた。顔を洗おうと洗面所へ行くと、鏡に映った頭の端にひどい寝癖が見つかって、櫛で梳かしてみても直りそうにはなかったので、汗を流すついでにシャワーを浴びておくことにした。もうすぐ図書館の開館時間で、おそらくイチカは昨日と同じように開館と同時に三階のあの場所へと向かうのだろうと考えると、自分も早く支度をすませて出かけなければいけないと、シタルは焦りを覚えた。
開館から三十分ほど遅れてシタルが図書館に到着すると、イチカは昨日と同じ場所に座って、昨日シタルが眺めていた石の図鑑を広げて熱心に読んでいた。シタルに気がついたイチカは微笑を浮かべて、声を出さずに、おはよう、と口元を動かした。それから図鑑の端にシタルが付けたままにしてあったポストイットを指さして、すこし意地悪く笑った。
イチカの隣に座ると、シタルは手提げ袋から石と顕微鏡を取り出してみせた。イチカもルーペを持ってきていたが、シタルの顕微鏡の倍率のほうが高いと知って、すぐにそちらに興味を移し、さっそく顕微鏡のレンズを石の表面に近づけて覗きこんだ。
石の種類を特定するには、いくつかの条件があったが、結晶の形状もその重要な要素の一つなのだと図鑑には書いてあった。石の半透明な部分を拡大してよく観察してみると、表面のつやや、微妙な屈折を見ることができた。少しつぶれた菱形の六面体のはずの方解石の結晶と比べると、その石の結晶の形は三角形の組み合わさった六面体になっているように見えて、調べてみるとそれは自然界には見られない形らしかった。
鉱物を分類するには、他にも硬度や劈開をみる方法もあった。銅貨に近い硬さの方解石に比べると、この石はとても脆くて、すこし強く爪で引っかいてみると、三角形の結晶面に沿ってきれいに割れてしまった。劈開というのは石の割れやすい方向のことらしくて、この割れ方は方解石のもつ三方向に劈開するという性質とは異なっていた。
念のため何枚か割ってはがしてみた石の欠片をイチカがほしがったので、シタルは欠片を集めてすべてをイチカに渡した。
帰り道の売店で、昨日と同じようにハイパーラムネを購入して、シタルは喉を刺激に慣らすようにゆっくりと飲んでいった。イチカは相変わらず一気に飲み干そうとして、ほんのすこしを残しておいて、売店の店員に声をかけて紙コップを一つもらってくると、残りのラムネをそのなかに器用に注ぎ入れた。
シタルから石を受け取ったイチカは、コップを傾けて石をそこへ差し入れていった。石の表面を濡らしたラムネは一瞬だけ、しゅわしゅわ、と小さな音を立てたが、それ以外には特に反応は見られなかった。しばらくしてコップから石を取り出して、濡れた部分を触ってみると、他の部分に比べて明らかに手触りがなめらかになって、つやが増しているのがわかった。
もしかしたらラムネが石の表面を融かしたのかもしれない、とイチカは新しい発見に興奮していたが、シタルは石が融けてなくなってしまうのではないかと心配だった。
今度はもっと強い光をあててみたらどうだろうかとイチカが言い出して、たしか映画館の奥の倉庫に古い映写機や照明器具がしまってあるはずだから、今度はそれを試してみようと提案した。
ラムネで石を融かしてしまうことに比べれば、光をあてる分には石がなくなってしまうことはないだろうし、光によって映し出される像のなかにあるものが何なのか、シタルも気になっていたので、喜んでイチカの提案を受け入れた。
砂浜のほうを見下ろしながら坂道を下っていくと、シタルの散歩コースとは離れた場所にある、もっと港寄りの開けた砂浜に何やら人が集まっているのが見えた。シタルの視線に気がついて、イチカも足を止めて砂浜を見下ろして、もうすぐ祭りがあってその準備がすすめられているのだと説明した。その話にシタルが興味を示し、さらにまだ港のほうには行ったことがないのだと言うと、イチカはこれから案内をしてあげると、シタルの手を取って駆け出した。
祭りの準備には職人街の住人たちも多く参加しており、イチカがそばを通りかかると、あちこちから、いつも助かるよ、と声がかかった。親しげに返事をして歩くイチカの横を、シタルは緊張しながら黙ってついて行った。多くの人の目にさらされていると、シタルは自分の髪や肌の色が、この街にまったく溶けこんでいないことを意識せざるを得なくて、何だか場違いのようないたたまれない気分になった。
シタルの表情が暗いことに気づいたイチカは、港のほうに行ってみよう、と遠くに見える灯台を指さして、つないでいたシタルの手を、励ますように強く握りしめた。祭りの会場を離れて、灯台の姿が大きくなっていくにしたがって、人の姿も少なくなり、ようやくシタルは落ち着きを取り戻した。
灯台の近くの波打ち際に並べられたテトラポットのうえに腰を下ろして、二人は遠くの水平線を眺めた。祭りの日の夜には、この海一面に灯りをともした小舟が無数に浮かべられるのだとイチカは遠くに視線を向けたまま海を指さした。たしか、その写真をパンフレットで見たことがあるとシタルが言うと、そんな写真ではあの美しさは何一つわからないのだと、イチカは自慢げに胸を張った。
当日、イチカは二艘の小舟を海に浮かべるという。小舟は市販されているものもあるのだが、イチカの分は毎年祖父が手作りしてくれるもので、それはこの街の伝統的なつくりとはすこし異なっているとのことだった。祖父の祖国の細工が施されているという小舟について語るイチカの誇らしげな姿を、シタルは純粋に羨ましく思った。
絶対一緒に祭りに行こうと約束して、二人は大通り商店街の入口で別れた。
シタルが家に戻ると、まだ父親の姿はなかった。放っておいたままの宿題にも、そろそろ手をつけておかないと、と机に向かいながら、机のうえに母親からの手紙を広げて、そこに並んだ不器用な文字をシタルは眺めていた。宿題よりも、母親への手紙を書かなければいけないと、その内容に思いを巡らせてみて、不思議な石のこと、新しい友達のこと、お祭りがあるらしいこと、いくつか浮かんできたことを箇条書きにメモしていった。
お互いに手紙を書くことは義務ではなかった。シタルの書いた手紙は、いったん裁判所に預けられて、そこから住所を知らない母親のもとへ届けられることになっていた。
前の手紙を書いたのは、まだこの街に越してくる以前のことで、だから母親はシタルが今、海の近くに住んでいることを知らなかった。父親の仕事に振り回されて、一緒にあちこち暮らしてきたのだから、知ったところで別に驚きはしないだろうけれど、そこで友達ができたと書いたら、驚いて、喜んでくれるだろうかとシタルは想像した。
一緒に暮らしていたときにも、学校や友達のことについてほとんど話をしたことがなかったな、と思い出して、シタルはもっといろいろな話をしておけばよかったと後悔した。母親がいったいどこで、誰と暮らしているのか、考えたくもない疑問が浮かんできて、シタルはメモを丸めてゴミ箱に捨てて、窓を開けて部屋の空気を入れ替えた。
窓から見上げた夜空の星は、プラネタリウムのように鮮明ではなかったし、シタルにはどの星を結んでいけば星座の姿が見えるのか、さっぱりわからなくて、イチカなら一つひとつ星を指さしながら、星座の名前を教えてくれるかもしれないと考えた。
窓を閉めて机に戻ったシタルは、何も書かれていない白い便箋に、会いたい、と殴り書きをして、すぐにそれを丸めて捨てた。いつもと同じように他愛もないことを書いて、他愛もない返事をもらえば、それでいいじゃないか、と考えて、それでも返事をもらえることを期待しているのだなと思い、苦笑した。それからもう一度、心のなかで会いたいと唱え、部屋の明かりを消してベッドに横になった。
目を閉じて、そうだ、自分はイチカに会いたいんだ、と小さく肯いてシタルが眠りについたとき、まだ父親は帰宅していなかった。
しばらくして、祖父から倉庫の鍵を借りたイチカは、シタルを家に呼んで、二枚ずつ用意しておいたマスクとエプロンを手渡して、埃よけの完全防備を整えてから倉庫の扉を開いた。真っ暗な倉庫の電灯は切れたままになっていて、入口からもれてくる明かりだけが頼りだった。
倉庫のなかにはシタルの見たことのない機材や大きなバケツいっぱいに詰めこまれたフィルムの断片が無造作に置かれていた。
古い大型フィルム用の映写機や、業務用の大きなプロジェクターらしきものがあり、その形状からどれも映像を映す機能を有するものであろうことは推測できたが、それらがいつごろどんなふうに使われていたものなのか、シタルにはわからなかった。ほとんどは大きすぎたり重たすぎたりして、運び出しても家庭の室内で扱うのが困難であり、また大きな電力を必要とするようなものだった。
とても古いものだけれど、一人でも持ち運びができて、手動で扱えるものがあったはずだというイチカの指示に従いながら、重たい機材を二人で慎重に動かしていった。すでに壊れているものや、壊してしまったところで使い道のないものも多いとのことで、イチカは手前にあるものからどんどん片づけていったが、シタルにとってはどれも精密機器のように見えてしまい、いちいち慎重に扱っていた。
空調の効かない倉庫のなかは蒸し風呂のように暑くて、二人は汗だくになりながら作業を続けていった。ノースリーブシャツと短パン姿に裸足のイチカは、首に巻いたタオルで汗をぬぐいながらてきぱきと動き回っていた。さすがにシタルも長袖のシャツと靴下は脱いでいたが、Tシャツはすでに汗で重たくなっており、すこし眩暈がするからと言って倉庫の入口の風通しのよい場所に腰を下ろして休んでいた。イチカの姿を目で追いながら、眩暈のせいで休んでいる自分は、貧血でしょっちゅう寝こんでいた母親にそっくりだとシタルは思った。真っすぐに伸びた自分の青白い脚、つま先や爪の形が母親によく似ていることがたまらなく不快に思えて、シタルは足をまげてあぐらをかいた。視線の先には健康的なイチカの脚が見えていて、二人の足の裏はすっかり黒くなっていた。
上映の合間に様子を見に来たイチカの祖父は、あられもない二人の格好にすこし驚きながら、差し入れに冷たいオレンジジュースを持ってきてくれた。コップのふちに口をつけて一気にジュースを飲み干すイチカの姿を、ストローをくわえてゆっくりとジュースを飲みながらシタルは見上げていた。水分を補給すると、くらくらとして重たくなっていた頭のなかがだいぶすっきりしたような気がして、シタルはゆっくりと立ち上がって、イチカのサポートを再開した。
二人がようやく目的の映写装置を発見したころにはすっかり遅い時間になっていた。それはイチカの曽祖父がこの映画館をはじめたときに、海外の映写技師から購入した映写機に、独自の改良を加えたものだった。
映画館を早めに閉めて二人を手伝っていた祖父は、発掘した古い映写装置を懐かしそうに撫でて埃を払いながら、手回しでフィルムを回転させて短い動画を再生できるシネマトグラフの使い方を説明し、さらに改良して取り付けられた幻燈スライドの使い方も解説してくれた。
説明を聞きながら、イチカは早く映写機を使いたくて待ちきれない様子だった。シタルはそんなイチカを笑いながら、よくわからないまま肯いて説明を聞き流していた。けっきょく、ランプが切れているという当然の理由によって、今日のところは実際に映像を映すことができないという結果に終わってしまい、イチカはとても不満そうだった。
気持ちの切り替えが早いということもイチカの魅力の一つだと、まだ短い付き合いのなかでシタルは感じていた。映写機がすぐには使えないとわかると、すぐにイチカは汗を流しに行こうとシタルの手を取って、近所の公衆浴場に誘った。誰かと一緒に入浴することに、シタルはかなりの抵抗感をもっていて、物心ついたころから入浴は一人でシャワーを浴びるだけですませてきたこともあって、できればイチカの誘いを断りたかったが、有無を言わさない強引さに負けて、渋々ついて行くことになった。
幸い、公衆浴場にはほかに客がおらず、二人の貸し切り状態だった。脱衣所でお互いに裸になってみると、シタルはやはり自分の白さが際立っているのが気になった。浴場の大きな鏡に映った色素の薄いシタルの姿は、この海辺の街並みの白さと強い陽射しに照らされて、その明るさのなかに埋もれて消えてしまいそうな、脆弱な存在のように思えた。
熱いシャワーを浴びてほてったシタルの肌はうっすらと赤みを帯びていった。シタルが髪を洗っていると、誰もいない広い浴槽にイチカが勢いよく飛びこんで水の跳ねる音が聞こえた。
そんなふうに子どもらしくはしゃぎ回ったり、新しい物や珍しい物を前にして目を輝かせたりしているイチカと、図書館ではじめて見かけたときの、真剣な面持ちで本に視線を落としていたイチカは、まるで別人のようだとシタルは思った。親しくなるにつれて、どちらかといえば屈託のない笑顔を浮かべたイチカのほうが素に近いのだとわかってきたが、時折見せる物思いにふけったような大人びたイチカの表情を、シタルはとてもきれいだと感じていた。
公衆浴場からの帰り道、イチカに借りたすこし大きめの着替えに落ち着かなさを感じながら、シタルは青い建物に挟まれた路地の隙間からのぞいている空を見上げて歩いていた。せっかくイチカが隣にいるのに、もっと広場所からでないと星座を見ることができないのが残念だった。
見せたいものがあるとイチカが言って、二人で再び映画館に戻ると、シタルを入口で待たせておいて、イチカは走って部屋に向かった。月明かりに照らされた無人の路地はとても静かで、どこか早朝の砂浜を思い出させた。
駆け足の音に振り返ると、イチカが息を弾ませながら手にした小さなガラス板を差し出してきた。先日、剥がし取った石の欠片を使ってスライドを作ってみたとのことだった。本当は今日これを映してみるつもりだったのにと、残念そうに頬をふくらませながら、イチカは数枚のスライドのうち一枚をシタルに渡した。それから商店街の入口までシタルを見送りがてら、どうやってスライドを作ったのか、どんな苦労があったのかについて、イチカは話し続けた。別れ際に、家に帰ったら映してみて、と笑って手を振ってイチカは路地の暗闇のなかへと消えていった。
スライドがいったい何を映すのか気になって、シタルは駆け足で家へ戻り、誰もいない暗いリビングを抜けて部屋までたどり着き、テーブルのうえに転がっていた懐中電灯を手探りで探した。
すぐに懐中電灯の明かりをつけてスライドに押し当ててみると、部屋の壁には群青のブロックの並んだ光景が鮮明に映し出された。これまでよりも大きくはっきりと見えるブロックの表面には小さな窓のような穴がいくつも開いていて、いよいよ青い街並みを思わせた。
穴のように見える部分は、明かりの消えた無人の部屋の窓や、深い洞窟の入口のように奥まって陰になっており、不気味な静謐さが感じられた。ずっと見つめていると、その暗闇のなかに引きずりこまれてしまうような恐怖を覚えて、シタルは暗がりから目をそらした。無数の大きなブロックは、無重力の空間をあてもなく漂うように、ゆっくりとした移動を続けていた。
イチカも同じ光景を見たのだろうか、そしてどう感じたのだろうかとシタルは考えてみて、今すぐにでもこれがいったい何なのかを話し合いたいと思った。次は映写機を使って、より大きな像を映してみることになっていたが、それと並行して、この像の正体についても調べてみる必要がありそうだった。
群青色のブロックに穿たれた、小さな窓の向こうから、母親がこちらを不安げに見つめていた。とても久しぶりに目の当たりにした母親に呼びかけようと、声を上げようとしたが、とつぜんの再会に緊張したためか、喉が詰まってうまく声が出せなくて、仕方なくシタルは母親のほうへと向かって駆け出していた。
緩慢に移動を続けているはずのブロックに追いつくことができず、むしろ次第に距離が遠ざかってしまうことに焦りを覚えながら、シタルは必死に走り続けた。シタルの進路を阻むように、いくつものブロックが左右から迫り、道をふさいでいった。青い街のなかで、帰り道もわからずに、見捨てられ、置いていかれるのが怖くて、がむしゃらに母親を追いかけた。
不意に体が宙に浮くような、足を踏み外したような感覚があって、シタルが足元に目を向けると、足場になるはずだったブロックが下方へと移動をはじめていた。飛び降りるような格好になったシタルは、何とか姿勢を安定させようと手足を動かしてみたが、自らの落下を止めることができず、落ちていく先ばかりに注意を向けているうちに、いつしか母親の姿を見失っていた。
地面に激突する瞬間、頭部を守るように手を上げて、全身を丸く縮こまらせようと身構えると、全身が一瞬痙攣して、シタルは目を覚ました。こわばったような感覚がまだ微かに残っていて、全身が汗で濡れていた。
起き上がって、まだ暗い室内のなか、手探りで明かりのスイッチを入れてからベッドに腰を下ろして深呼吸を一つした。ベッドの脇のサイドテーブルのうえに置かれた目覚まし時計に視線を向けると、まだ午前三時をすこし回った時刻だった。どうやら夕食もとらず、シャワーも浴びないでそのまま眠ってしまったらしかった。
シタルが部屋を出るとリビングは暗く、父親の部屋のドアは閉まっていた。不快な汗を流すためにシャワーを浴びてから、冷たいミルクをコップ一杯、一気に飲み干した。ベッドのうえに無造作に転がっていた石が、何か不気味なもののように見えて、シタルは石とスライドを掴み取るとベッドの下に隠してある宝箱のなかに放りこんで鍵をかけて、再び眠りについた。
ほんの一時間ほどで目を覚まして、顔を洗って手櫛で髪を梳かしてから、シタルは気分転換のために散歩に出かけた。おかしな夢を続けてみることはなかったが、まだ悪夢の恐怖は残っていて、朝の爽やかな潮風を浴びて早く忘れてしまいたかった。
いつものコースとは道を変えて、祭りの準備をしている浜のあたりへ足を向けてみると、先日は多くの人が集まっていた場所には誰もおらず、設営中のステージや屋台の骨組みだけが淋しく立ち並んでいた。そのまま灯台を過ぎて、さらに港まで行って、停泊中の貨物船の船腹を見上げながら歩いていると、いつの間にか倉庫地区のほうへと迷いこんでいた。
倉庫の横に積まれたコンテナは、石のなかに映るブロック群を思い出させた。倉庫とコンテナの間の、誰もいない狭い通路を駆け抜けながら、シタルは自分が石のなかの世界に閉じこめられてしまったかのような恐怖を覚えた。
夢中で走りながら、ようやく商店街へ続く大通りのそばまでたどり着いて、シタルは足を止めて膝に手をつき呼吸を整えた。膝についた両手を見つめていて、時計をつけてくるのを忘れたことに気がついた。
いつもよりだいぶ遠くまで歩いたので、おそらくもう父親は目を覚ましているだろうと考えて、シタルは急いで家へと戻った。陽射しもかなり強くなっていて、肌が刺激を受けてすこし熱くなっていた。家に戻ると予想どおり父親はすでに目を覚ましていて、新聞を読みながら食後のコーヒーを飲んでいた。シタルは玉のように浮かんだ汗をタオルでぬぐってから、用意されていたトーストを食べた。
新聞に視線を落としたまま、もう街には慣れたかと訊ねられて、シタルは小さく肯いて、すこし迷ってから、友達ができたことを告げた。
今度一緒にお祭りに行くのだと言うと、父親は顔を上げて微笑を浮かべた。どんな子なのかと訊かれたので、とてもきれいで元気な子で、青い街の映画館に住んでいるのだと答えると、父親はすこし表情を曇らせて、もうすぐ夏休みも終わるのだから、遊んでばかりいないで宿題をすませるようにと言いつけて、新聞をたたみ、仕事へと向かっていった。
そんなふうに言われたからといって、シタルはイチカと映写機でスライドを映す約束をしていて、今朝の夢に対する不安と、実際に映写機を使って何が見えるのだろうかという怖いもの見たさの好奇心が入り混じって、宿題に集中する余裕はなかった。
それからしばらくしてイチカに呼ばれ、映画館の扉を押してなかに入り、イチカの家に続くドアを強くノックすると、上からイチカの返事が聞こえてきて、ドアは開いているというので、シタルはそのまま階段をのぼっていった。
けっきょく、装置用のランプはすでに製造されていないということがわかって、数日かけてイチカは市販のハロゲンランプを取り付けられるように装置に改良を加えたとのことだった。祖父にも手伝ってもらったのだと言いながらも、すこし自慢げなイチカをシタルは素直に称賛した。
早く試してみたかったけれど、シタルが来るまで待っていたのだと言って、イチカは石の欠片の入ったスライドを装置にセットすると、部屋の明かりを消して幻燈をともした。
部屋の白い壁面いっぱいに映し出されたのはシタルが夢に見た光景そのものだった。再び悪夢のなかに引きずりこまれたような感覚を覚えて、シタルは反射的にイチカの腕にしがみついてしまい、イチカが驚いて、どうしたのかと言ったのが恥ずかしくて、何でもないとすぐに手を離した。
しばらく並んで壁に映った群青色のブロックを眺めていた。やはりブロックはゆっくりと移動しており、表面に穿たれ無数の穴は窓のように見えて、それはどこかこの青い街の風景に似ているとも思ったが、壁面の素材の光沢を帯びた感じや、ビルのように高層に重ねられながら絶えずゆらいだりスライドしたりしているブロックの動きは明らかに異質であり、これまでに二人が見たことのあるどんな景色とも一致しなかった。
これから図書館に行って、いろいろな街の写真や地図を調べてみようとイチカが提案したので、シタルは肯いて、すぐに幻燈装置を停止させて、部屋の明かりをつけた。このまま謎のブロックを眺めていたところで、何か新しい発見があるとは思えなかったし、すこしでも恐怖から離れたかった。
相変わらず人の少ない図書館の大きなテーブルを一つ、二人で占拠して、集めてきた本を片っ端から広げていったが、石の映し出すような街について書かれているものや、それらしい写真や絵を見つけることはできなかった。
スライドのような小さな欠片ではなくて、石そのものをプラネタリウムのような装置のなかに置いて、部屋いっぱいに映像を映し出してみれば、もっといろいろなことがわかるかもしれないとイチカが言い出したのを、シタルは大きく左右に首を振って否定して、これ以上調べてもおそらく何もわからないだろうと言った。図書館からの帰り道、消極的な態度を示すシタルに、石の秘密を知りたくないのかとイチカは訴え続けた。ハイパーラムネを飲みながら祭りの準備で忙しなく動き回っている人たちの小さな姿を見下ろして、石のことよりも祭りのことを手紙に書こうとシタルは考えた。
シタルが祭りに強い関心を示しているのに気がついて、イチカはシタルにも小舟を一艘用意するから石の調査を手伝ってほしい、と交換条件を出して、けっきょくシタルは引き続き石について調べることに同意した。奇妙な夢を見たせいで、その印象が強烈に残っていたため、今はまだ恐怖が石への関心を上回っていたけれど、シタルにしたところで好奇心をすっかり失ってしまったわけではなかった。
家ではなるべく石について考えたくなくて、シタルはイチカに石を渡そうとしたが、自分が持っているとシタルが協力してくれないかもしれないからと言って、イチカは石を受け取ろうとはしなかった。
仕方なくシタルは石を持ち帰って宝箱のなかにしまっておいて、机の隅の小さな卓上カレンダーを見つめながら、父親の言っていたとおり、残り少なくなってきた夏休みの日程と机のうえに広げられたままの宿題を見比べて、そろそろ手をつけないと無事に新学期を迎えられないかもしれないと考えて宿題に取り組む決心をした。いくらなんでも転校初日から宿題を忘れて叱られたのでは格好がつかないだろうとシタルはペンを握る手に力をこめた。
無駄だとわかりながらも、図書館に通ってさまざまな本をひっくり返しているイチカに付き合って、シタルは調べ物をするイチカの横で宿題をすすめていった。あとで写させてほしいというイチカに、調査を手伝っていない後ろめたさもあって渋々肯いてしまい、シタルは小さなため息をついた。
図書館からの帰り道には、いつも二人でラムネを飲みながら次第に準備の整っていく祭りの会場を見下ろした。イチカは石の欠片をラムネに浮かべてその表面を融かし、つるつるとした光る小さな透明の球を作って遊んでいた。
祭りの日を明後日に控えて、イチカの祖父が用意したという三艘の小舟を見せてもらったシタルは、そのなかから好きなものを一つ選んでいいと言われて、迷った挙句にヨモギ色の帆を張った白い舟を選んだ。当日、舟にともす灯りには先祖への慰霊の念をこめるのが一般的だけれど、何か願い事をこめたり、罪をあがなうために告白の手紙をしたためて一緒に燃やしてしまったり、という場合もあるのだと教えられて、シタルは当日までに舟に何をこめるのか決めておかなくてはとすこし焦った。
もう一つ見せたいものがあるとイチカが言って、シタルが不思議に思いつつも肯くと、イチカはついに完成したのだと笑いながら、すこし大きめな調理用のボウルのような形をした装置を部屋から運んできた。これを作るために、今まで街の手伝いをして稼いできたお金をだいぶつかってしまったと言いながら、イチカはとても満足そうだった。
ボウルの内側には十数年前にフォトニック結晶の研究過程で開発されたという完全な反射率をもつ膜状の鏡が張り巡らされていた。ボウルの中には白熱電球が点光源として取り付けられていて、そのうえにはボウルに蓋をするように薄い合成石英のガラスが張られていた。
この装置を使えば、さまざまな角度から強い光を石にあてることができるはずだと言って、イチカは素材の特徴について説明したが、詳しいことはシタルにはさっぱりわからなかった。
あの日以来、悪夢を見ることもなくなっていて、さらに石についての調査もまったく進んでいなかったこともあって、シタルの石に対する恐怖はすっかり薄れていたため、部屋いっぱいに像を映してみるのだと意気込んでイチカが装置のセッティングをすすめている様子を、シタルは好奇心をもって見守っていた。
装置の中央に石を据え置いて、部屋の明かりを消すと、想像していたとおり、複雑に石のなかを通過した光が部屋一面に群青色のブロックを映し出し、二人は不気味な空間に囲まれてしまった。物音を立てず、暗くて重たい空間をただゆっくりと漂っているブロックと、その側面に穿たれている深淵の果てまで続くような無数の穴は、二人を不安にさせるには十分すぎるものだった。
いつの間にか手をつないで、互いに四方へと視線を走らせていると、穴の奥から何か球状のものが、こぼれ落ちるような緩慢な動きでとび出してきた。それは表面に光沢のあるシャボン玉のような透明な球体で、二人をすっぽりと包みこんでしまうくらい大きかった。落下した球は地面にぶつかって、二、三度小さく跳ねてからいったん停止して、それから別の穴へと向かって真っすぐに転がっていった。
その動きが、何か意思をもったもののように感じられて、二人は抱き合いながら、球が見えなくなるまでじっと見つめ続けていた。しばらくすると、別の穴からまた同じように球が落ちてきて、今度は二人のほうへ向かって転がってきた。逃げ場もなく、球がぶつかるのをお互いにしがみついてただ待つしかなかった。ぶつかる直前に目を閉じて、それからゆっくりと目を開けて振り返ってみると、球は二人を通り抜けて目的の穴へと向かっていった。
不意に穴の一つに母親の顔を見たような気がして、その瞬間、あのときの悪夢が鮮明に脳裏をよぎって、シタルは恐怖で小さな叫び声を上げてしまい、イチカは慌てて装置の電源を切って部屋の明かりをつけた。今にも泣きだしそうな顔をして震えているシタルを包むように抱きしめて、イチカはその背中を優しく撫でた。
しばらくして落ち着くと、イチカに慰められたことをすこし恥ずかしく思いながら、すっかり気分が落ちこんでしまったシタルは、バッグに石をしまいこみ、今日はもう帰ると言った。
イチカが商店街の通りまで見送ると言って、二人は手をつないで青い街の狭い路地を歩いて行った。つないでいるのとは反対側の手に、小さな白い舟を抱えて歩きながら、シタルは両親が離婚したこと、今は父親と二人で暮らしていること、母親のことが苦手だったこと、どうでもいい手紙を書かなければいけないこと、本当は母親に好かれたいと思っていたこと、はじめのうちこの街の白さが嫌いだったこと、居場所がなくて不安だったこと、イチカと出会ってこの街が好きになりはじめたこと、明後日のお祭りを本当に楽しみにしていることについて、語った。
イチカはときどき小さな相槌をうちながら、シタルの話を聞いていた。そしてシタルの話が終わるのを待って、二艘の小舟には両親への感謝の気持ちを乗せるのだと言って笑った。それからシタルの抱えている小舟に軽く撫でるように触れて、また会えるといいね、と呟いた。
商店街でイチカと別れて、シタルは小舟と一緒に帰宅した。父親に舟を見せたいと思ったけれど、まだ戻っておらず、おそらくこの街の風習になどたいして興味もないだろうと諦めて、ベッドの真ん中に小舟を置いて、シタルは机に向かった。
白い便箋にペン先をあてて、新しい街にやってきて、そこでとても大切な友達ができたのだとシタルは書き記した。それから、石のことにも祭りのことにも触れずに、部屋の窓から見える景色について、広大な海、白い街と青い街、それから高い丘のうえに図書館があるのだと書いた。
もうすぐ新学期がはじまるけれど、すでに宿題はすべて片づけてあるのだ、と書いて最後にサインをした。そんな他愛のない、どうでもいい近況報告と、単なる風景の描写だけの手紙をていねいに折って封筒に入れた。この手紙は裁判所を経由して、どこかにいる母親のもとへと届けられる。そして何週間かしたら、裁判所を通じて母親からの返事が届く、かもしれないと思い、あと何度そんなやり取りが続くのか、あるいは続けていたら、いつかまた会うことができるのか、再会したらどんな顔をして、どんな気持ちになるのだろうかと想像してみたけれど、うまくいかなかった。
帰ってきた父親に小舟を見せて、宿題はもう全部終わらせたから、明後日は祭りに行くのだと宣言すると、父親は疲れた表情で小さく肯いて、早く着替えて寝なさい、と言いながらネクタイを緩めていった。
翌朝、封をした手紙に切手を貼って、散歩がてらに商店街の入口にあるポストに投函した。手紙が指先を離れて落ちていくのを感じると、重荷になっていたものを一つ手放したようで、気持ちが軽くなった。明日の夕方、イチカと待ち合わせて一緒に祭りに行くことになっていたが、今日は会う約束をしていなかったため、シタルはいったん家に戻って、いつもどおり仕事へ行く父親を見送ってから、一人で街のなかを歩き回ってみようと思った。
商店街を一軒ずつウィンドウショッピングをしながらのんびりと抜けていき、途中の路地を抜けて、青い街のこれまでに進んだことのない映画館の向こう側へ、Y字路の右側の道を選んで進んでみたが、祭りの前日ということもあって、ほとんどの人は準備に駆り出されており、店は閉められていた。迷路のように入り組んだ青い街の路地の先は、図書館を裏手から見上げるような切り立った崖の下に続いていた。
崖の周囲に沿って、図書館の足元を進んでいくと、いつもの見慣れた坂道の入口へとたどり着いて、シタルはそのまま坂道をのぼって図書館へ向かい、以前はぼんやりとしか鑑賞できなかったプラネタリウムと、イチカの母親の声を堪能した。
帰り道にラムネを飲みながら、まだまだイチカのように上手くはないけれど、自分もだいぶラムネの飲み方のコツをつかんできたとシタルは思った。バッグに石を入れたままにしてあったのを思い出して、瓶の底にほんのすこし残したラムネを紙コップにあけて、イチカの真似をして石の欠片を融かしてみると、表面がすこし泡立つのが見えた。
そういえば図鑑に、方解石は塩酸に入れると激しく泡立って融けるのだと書いてあったことを思い出して、ラムネごときに融けてしまうこの石は、やはりたいした物ではないのかもしれないと思った。
まだ前日だというのに、砂浜からは祭りを盛り上げるための陽気な音楽が、坂のうえまで鳴り響いて聞こえてきていた。父親が明日もいつもどおり仕事だと言っていたのを思い出して、祭りの日くらい休めばいい、そして小舟に何か願い事を乗せて流せばいいのにと、シタルは思った。夕陽に赤く染まった海と街を見下ろしながら、長い坂道を下っていくとこのまま街全体が燃え上がって、そのまま燃え尽きて消えてしまうのではないかと思えてきて、シタルは自分の不穏な想像を笑った。
明日の夜には火をともした無数の小舟が海一面に浮かぶのだ。その火は街の人たちのさまざまな思いを燃焼させて、そのエネルギーをどこか遠くへと送り届けてくれるはずだった。自分の願いもそんなふうに、遠くの見知らぬ場所まで届いてほしいと祈りながら、シタルは祭りの音楽に合わせて小さくハミングをした。
祭りの当日、夕暮れのなか、いつも以上に人でごった返している商店街を、押しつぶされないよう大切に小舟を抱えながら、人の間をぬって抜けた先に、イチカは待っていた。いつものラフな格好とは違って、イチカはシタルの見たことのない不思議な衣装を身に纏っていた。上着には白を基調にしつつも大小さまざまな花と波や渦のような線の模様が鮮やかに描かれていた。長くてゆったりとした幅のある袖がついており、胴部は幅広のリボンのようなもので絞められて、長い上着は胸元で重ね合わさりながらロングスカートのように足元まで伸びていた。その先には裸足に黒いサンダルのようなものを履いた小さな足が見えていた。
特別な日のためによそ行きの服でお洒落をしてきたつもりのシタルだったが、イチカの不思議な、それでいてとても魅惑的な格好にすっかり魅せられてしまった。これは母親の形見で、浴衣という異国の夏服なのだとイチカはすこし照れた表情を浮かべて笑った。
手をつないで砂浜へ向かう間、大勢の人が行き交うなかにも、イチカと同じような格好をしている者は一人もおらず、誰もが珍しそうにイチカを眺めた。これまで自分の白すぎる肌がこの街には似つかわしくないと感じて、それを気にし続けていたシタルは、特別な格好をして人々の奇異の視線にさらされながら、それを気にもとめないで堂々と歩いているイチカを羨ましく、そしてそんなイチカと手をつないでいる自分を誇らしく思った。
浜辺には多くのボートが寄せられていて、人々は次々に自分の小舟をボートへ乗せていった。イチカはすでに知り合いのボートに自分の小舟を預けていたため、シタルの小舟を乗せてくれるボートを一緒に探してくれた。
引き潮に合わせて、小舟を満載したボートから順に岸を離れていき、沖合に出てそこで一艘ずつ小舟に火をともして浮かべていくことになっていた。
灯台のそばのテトラポットのあたりから海に浮かぶ小舟の様子がきれいに見えるのだと言って、イチカはシタルの手を引いて歩き出した。途中の夜店でよく冷えたハイパーラムネとケバブを買って食べながら、すでにぽつぽつとともりはじめている小舟の灯りを遠くに眺めて二人は先を急いだ。
テトラポットのあたりにはすでに大勢の人が集まっていたが、人ごみを避けてすこし離れた岩場のほうまで歩いて行くと、二人のほかには誰もいなくなった。
平らで大きな石のうえに並んで腰を下ろして、遠くに見える無数の灯火を眺めていた。それは暗い海に映る星のようにも見えて、その一つひとつを結んでいけば、何か新しい星座ができるかもしれないとイチカが言い出したのをきっかけに、二人は好き勝手に火をつなげて、思うままに新しい星座を作っていった。
しばらくそんな遊びを続けていると、岩の隙間からカタカタと小さな音が聞こえてきて、シタルが危ないと止めるのも聞かずに、イチカが岩を伝って下りていくと、火の消えた小舟が一艘、岩の隙間に引っかかっていた。
舟の真ん中にはキャンドルグラスが据え付けられており、グラスのなかには海水が入りこんでいたが、火の消えた芯の周りにはまだ三分の一ほどロウソクが残っていた。
イチカが飲みかけのラムネをグラスのなかに注ぐと、しゅわしゅわという音を立てながら小さな泡の粒が広がって、海水と混ざり合った。
遠くのほうから祭りの音楽が聞こえてきて、その音色に合わせてイチカは口笛を吹いていた。この座礁した小舟には、いったい何がこめられていたのだろうかとシタルが呟くと、口笛が鳴りやんで、あの石を海に帰してあげようか、とイチカが言った。
この夏の間、二人を振り回していた石は、夜空の下で輝きを失っていて、鈍く濁った何の変哲もない石ころのようだった。石を舟に乗せて流してしまおうとイチカが言ったのに肯いて、シタルはラムネと海水の混ざり合ったキャンドルグラスのなかへ石を入れようとしたが、狭いグラスの口に引っかかってしまい、上手く入れることができなかった。
もっと小さく砕いて、白く濁った氷のようにグラスのなかを飾ればいいと思いついて、シタルが座っていた平らな石に向かって白い石を叩きつけると、石はあっさりと砕けてしまった。
イチカはシタルの砕いた石の欠片をつまみ取って、一つずつグラスのなかへと入れていった。ラムネと海水の混ざり合ったなかへと落ちていった石の欠片は、表面を泡立たせながら、次第に融けて小さくなっていった。欠片がグラス一杯に満たされると、泡は次第に激しくなっていき、グラスから溢れ出して小舟を飲みこんでしまいそうな勢いで増していった。
はじめのうち、二人は面白がって激しさを増していく泡を見守っていたが、泡が舟から溢れ出して、海面へと流れ出し、二人の座っている岩場のほうまで満ちてきたときには、直感的に危険を感じ取っていた。
いつの間にか泡の中央にあったはずの小舟やグラスは崩れるように融け落ちて半壊してしまっていた。泡は収まる様子もなく、むしろ勢いを増しながら周囲を飲みこみ続けていた。
はじめは白かったはずの泡が、すこしずつ濃い青みを帯びて群青へと変色していくのが、夜の闇のなかでもわかった。泡はとどまることなく増殖していって、周りの岩を融かして飲みこみながら、シタルたちの背の高さよりも盛り上がっていった。岩場はすっかり群青の泡で満たされてしまい、続く砂浜にも泡が波のように押し寄せていった。
砂浜が泡に飲みこまれている様子をすこし離れた場所からシタルは呆然と眺めていた。次第に泡が迫ってくるのも構わずに立ち尽くしていたシタルの手をつかみ、イチカは堤防のうえへと駆け上がった。
高い場所から見下ろしてみると、泡は砂浜のほうだけではなく、海のほうへも広がっていたが、まだ二人以外には誰もこの異常な泡には気がついていないかのように、周囲はひっそりと静まり返っていた。
群青に染まった泡が、次第に四角い形へと凝固していくのが見えて、それが石のなかの映像にあった、無数のブロックを形成しているのだと二人はすぐに理解した。泡はどんどん増え続けて、すでに堤防のすぐ下まで迫ってきていた。
手をつないで駆け出して堤防から離れながら、このまま走り続けたとしても、おそらくもう逃げ場所はないのだろうと二人は感じはじめていた。この泡は、触れたものを融かして取りこみながら、石のなかに広がっていた不思議な空間へと作り替えていく。あの空間がどれくらいの広さだったのか、映写装置で映した範囲からは想像もできなかったけれど、ほんの一欠片のスライドからだけでも、高層のビルが立ち並んだ街の一角のような映像が見えたのだから、石全体に記録されていた映像は、おそらくその何十倍、何百倍という広さになるのだろうと予想ができた。
振り返ってみると、いつの間にか砂浜の大部分が泡に覆われつつあって、先ほどまで浜辺で祭りを楽しんでいた人たちが、いったいどうなってしまったのか、想像したくなくて、シタルはすぐに視線を前方へと戻した。
勢いを増した泡の広がる速度が、二人の走る速さを超えてしまった。走り続けていたシタルは、足が疲労で重たくなって、うまく呼吸ができなかった。サンダルのような履物を脱ぎ捨てて、裸足で走ってきたイチカも、足を痛めてしまい、もう全力で走ることができなくなっていた。
逃げきれないかもしれないという諦めのなかにも、もしかしたら丘のうえの図書館までたどり着ければ、あの高さまでは泡ものぼってこられないかもしれないという微かな希望が残されていて、二人は必死になって坂をのぼっていった。
そんな二人の目の前で、とつぜん、図書館のある崖が崩れ、そのうえにあった図書館までもがものすごい音を立てながら崩落していった。この街で一番大きくて高い、どこからでも見上げることのできたシンボルがあっさりと崩れ落ちてしまい、行き先を見失った二人は坂道の途中で立ち止まって、先ほどまで座っていた海辺のほうを見下ろしてみた。眼下には無数の群青色のブロックが積み上がるようにして並びながら、ゆっくりと揺れ動いていた。
海から視線を外して振り返ると、まるで津波のような泡が、二人を飲みこもうと迫っていた。シタルがイチカの手を強く握ると、イチカも同じ強さでシタルの手を握り返してきた。泡に飲みこまれたら、どうなってしまうのか、恐怖と絶望以外何もなかったけれど、二人は見つめ合って、諦めにも似た微笑を浮かべた。
触れた泡は思いのほか柔らかく、温かかった。洗いたての毛布にくるまるような、優しい誰かの腕に抱かれるような、全身の力を奪ってしまうぬくもりに包まれているうちに、いつの間にかつないでいたはずのイチカの手の感触が失われていて、シタルは探るように指先を動かそうとしたけれど、すでに指の動く感覚がわからなくなっていた。
あの日の悪夢の続きを見ているような気分だった。落下した先には泡の海が広がっていて、シタルは泡のなかで溺れてしまう。もしもこれが現実の出来事で、このまま街が泡に飲みこまれてなくなってしまったら、母親からの返事はいったいどこに届けられればいいのだろう、という考えが不意にシタルの脳裏をよぎった。他愛のない、ありふれた、ささやかな二人のやり取りが、行く宛もなく彷徨い続けるなんてあまりにも滑稽なように思えた。
母親はシタルが泡に消えたことを知ったらどう思うだろうか。父親はどうなってしまったのだろうか。イチカはまだそばにいてくれているのだろうか。泡に融けてしまった自分はいったい何に作り替えられてしまうのだろうか。その答えを、シタルは一つとして知ることができなかった。
夜が明けて、朝陽が海面を黄金色に照らしていた。陽の光は無数に広がったブロックの深い青に飲みこまれ、暗い陰を落としていた。その陰の重なり合った暗がりを透明な球体が転がり、泡が割れるように儚く消えていった。
南の小さな国の片隅にあった海辺の白い街は一夜にして形を変えてしまい、そこには暗くて陰鬱な無人の青い都市が新たに誕生した。
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