「部屋」からの手招き

「部屋」からの手招き

ゲンロンカフェ内に築かれたいくつもの「部屋」。私はこれらの部屋一つ一つに呼び寄せられているような気がした。それらは私的な部屋なのかもしれないが、不思議と入りにくいとは思わなかった。もちろん本当に入れるわけではないのだが。それは、それぞれが時間をかけて固有性を刻んだ成果なのだろう。そこが私小説との大きな違いだろうか。そしてそのように築かれた作品は、観客として、届かないはずの手を伸ばそうとしやすかったように思う。

 

タケダナオユキ〈language silhouette

私たちは言葉を救えるのだろうか。この作品は、観客を言葉に自己投影させる。手前には戦士のような、アルミで構成された立体作品が置かれ、白いチョークで記号が描かれた黒い布をマントのように被っている。その後ろに、黒いキャンバス地と透明なビニールが二層になった平面作品が掛けられている。立体においても平面においても、主に円筒と四角い記号で構成されている。と同時に、立体が戦士に見えたり、平面の中の図柄が雨雲や電車のように見えたりするなど、抽象度が高いようで、具体性が感じられる面を持つ。この、一つ一つのモチーフを丁寧に立ち上がらせたであろう作品を、私は分かろうとする。どこかに私が分かるところはないだろうかと思いながら。この営みをできているということに、私は少しうれしくなった。自己満足なのかもしれないが。私は普段、思いもしない言葉を並べながらも、私と同じようにそこまで考えていないかもしれない人の言葉を気にする。自分は言葉をぞんざいに扱いながら、人からの言葉に勝手に思い悩む。言葉本来の「伝える」という役割は、多くの場合果たされていない。そして周りを見渡せば、言葉を攻撃に用いる人たちがいる。したがって人類が言葉を救える道は遠いと言える。だがこの作品を通して言葉に思いを馳せているとき、これが伝わざるとも伝わる萌芽なのかもしれないと思った。

 

小山昌訓〈視線〉

大きな正方形の箱に小さな穴が二つ空いていて、そこを覗くと、溢れんばかりの漫画に囲まれて、一人の男がいる。自身が引きこもりであるという小山氏だ。穴は顔より一回り小さいぐらいの大きさで、私が覗くと彼は軽く会釈した。箱の中には小山氏が描いた漫画の絵が張り巡らされているとともに、アニメーションが映し出されたモニターが見える。彼は前回のグループ展でも同じタイトルで作品を展示していて、今回の作品はそれがパワーアップしたものだ。前回よりも覗き穴が大きくなり、観客の視界は広がった。また、アニメーションが加わったこと、外壁に模様が施されたことも大きな変化だ。そしてこの作品の箱の中の空間は、前回よりも魅力的な場所に思えた。アニメーションが引きこもりという状況に生き生きとした印象を与えているせいだろうか。穴が大きくなったため以前よりも観客とコミュニケーションが取れるようになったためだろうか。中にいる小山氏は比較的居心地が良さそうに見えた。“人はみな本来、何かの「引き籠り」性をもっている。”ステートメントにはこのようにある。私もまた「引き籠り」性をもった一人だと思う。外に出るのが怖い。人に見られるのが恥ずかしい。それでも、生まれて間もなく幼稚園、小学校に放り込まれ、周囲の友達と遊ぶことを求められて以来、私の中には他者と関わらなければならないという意識が植え付けられていて、引きこもりたいという願望はほどほどにしなければと考える。引きこもることを自分に認めてしまえば、全てを諦めてしまうことになってしまうのではないか、と。しかし小山氏の作品を見ると、それは違うのかもしれないと思う。そもそも、彼はこの展示を行うにあたって、家を出て、新芸術校に通い、展示に出品しているわけで、完全に引きこもっているわけではない。展覧会という場で、自分で箱を組み立ててその中に引きこもっている。この、自分で引きこもるということに意味があるのではないかと思った。つまり、人からの視線をある程度コントロールできるということに。そして観客としては、引きこもりつつもこの穴からなら覗いていいとされていることに、コミュニケーションの気配がした。

 

小笠原盛久〈男は音楽を愛していた〉

「ロックを聴く男」と「ロックを弾く男」、これらの絵が「音楽を愛していた男」として一体感を持って語りかけてくる。小笠原さんの絵はどうしてこんなに魅力的なんだろう。丁寧に描かれたであろう筆跡の一つ一つに感銘を受ける。この絵は確かに「祈り」のようで、「祈り」というものをいまいち分かっていない私もなんだか祈りたくなった。これを「個人的すぎる」と私は全く思わない。描かれているものは「個人的」なのかもしれないが、たった一人のことを考えることが、私にとっても必要なことに思える。小笠原さんの絵と対面した時、「しっかり見なくては」と思う。この作品に向かいあえる自分でありたいと思う。姿勢を正されるように。8点の絵で構成されたこの作品のなかには、母が描かれたものも含まれていて、このようなまなざしの中で、男の音楽への愛は育まれてきたのだろうかと思わせる。男が音楽を愛していたということに、存在の手触りがあった。

 

しかし「存在する」ということはとても困難だ。周囲の環境によっていとも簡単にかき消されてしまう。

 

三浦かおり〈うちぼら〉

ゲンロンカフェの最も気づかれにくいところなのではないかと思われる場所にこの作品はある。普段はデッドスペースとなっている場所にある、小さな収納庫だ。その扉を開けると、その中は四方ミラーシートが張られていて、真ん中にあるアルミが超音波の振動に揺れている。光が反射し合う中で、アルミがささやかに、絶えず、超音波の振動に揺らされている。デッドスペースであるはずのこの場所で、小さな収納庫の中から鳴っている超音波の存在感が印象的だった。閉じられた場所から外部へ発せられる超音波の音に、私たちが気づかないふりをしてしまうものを、気づかせようとしているように感じた。実は、ミラーシートが張られているのは収納庫の中だけではない。その扉のある壁と、開くとその壁に対面する扉にも張られているのだ。そのため、そこにいる時点で、合わせ鏡に挟まれて不思議な感覚に陥る。今私がいる外部と思われる場所も内部かもしれない、という入れ子状態を思わせる。どこまでも外部を目指していった先に何があるのだろうか。私たちはいつまでも反響空間の中から逃れられないのかもしれない。

 

ユゥキユキ〈あなたのために〉

ゲンロンカフェの天井まで届くほどの、毛糸で編まれた大きな赤ちゃんのぬいぐるみ。ユゥキユキ氏の家で三女として迎えられた「サン子ちゃん」をモデルに、ユゥキユキ氏の母と共に編んだものだという。お腹には穴が開いていて、サン子ちゃんの中に入れるようになっている。かがんで中を覗くと、ユゥキユキ氏とコスプレ仲間のBL映像が見られる。編まれた毛糸に包まれていた二人は、互いに糸をほどきあう。膨れ上がった「サン子ちゃん」の中はとても居心地が良さそうで、そのなかで編まれた糸がほどかれてゆくユゥキユキ氏自身。自分を形作った他者を抱えながら自分らしくあるとはどういうことなのだろうか。他者がなければ自分はない、だが他者は自分ではない。このような葛藤は私にとっても切実なことだ。もしもこの苦しい葛藤を乗り越えられる日が来たら、それはとても画期的なことなのではないかと思う。これまでの人類は乗り越えてこれたのだろうか。ゲンロンカフェの中央に置かれたこの人形の存在感と、そのなかで密かにユゥキ氏が解放されていくこの作品に、固有性はここから始まるのかもしれないと思った。

 

私たちは曖昧な存在であるとともに、日々選択を迫られる。自分を信じることができなければ選択することさえ困難であると思う。言葉もまた選択の連続であり、どの言葉に当てはめるべきか決められないことがほとんどだ。私が新芸術校に入って最初の文章を講師の黒瀬さんに見てもらったとき、「読み手に伝わるように」といった旨のことを言われた。また別の人から、「もっと伝えようという気持ちをもって話した方がいい」ということを言われたこともある。私は全く伝えられると思っていないのだ。どうせ伝えられないから適当にごまかしてしまう。もしくはそもそも伝えるべき自分などないのではないかという思考に陥る。確かに本当の意味で伝わるなんてことは不可能なのかもしれないが、やはりこれは反省すべきことだと思う。この『プレイルーム』での作品は、少なくとも適当にごまかしなどしておらず、自分自身を問いかけた成果なのではないかと思う。そしてそれを見た私は、それぞれの作品を「わかろうとしやすさ」があったように思う。それは、それぞれがわかりえない固有なものとして立っていたからではないか。わかるはずないのにわかろうとすること、伝わるはずないのに伝えようとすること、という意味で、これもまた「プレイ」なのかもしれないと思った。

 

と、このようにまとめたが、やはり世界は複雑で、そう綺麗にはいかないのだろう。最後に山﨑氏の作品について述べておきたい。

 

山﨑千尋〈No/w/here/cat

脳死した父と疾走した猫、その死なのか死でないのかわからないもの、曖昧なものに、人間はどう向き合えるのか。病室でいくつもの管につながれて横たわる脳死状態の男性と、彼を跨ぐ猫が写された一枚の写真。その上のスクリーンには、疾走した猫の視点からその病室の様子が映されている。猫によるナレーション付きで。そして、ここゲンロンカフェにつながる大きな管。このようにこの作品はいくつもの面を持つ。脳死者を軽々と跨ぐ猫と、猫視点の映像がなんだか新鮮だ。個人的な話になってしまうが、私もまた昔飼っていた猫を想起した。癌が悪化し安楽死させる際、私は最期までは見ないことに決めて、病院に行く前にお別れした。その時に、私の止まらない涙を眺める猫の目が忘れられない。あの時彼女はどう思っていたのだろうか。この映像のナレーションをしている猫ように、冷静な目で見てくれていたらいいなと思った。人は基本的に「死」に出くわしたときは悲しむ。本来「死」というものが先にあって、人間はそれに右往左往する。しかし脳死や失踪のように曖昧な場合、それが死なのか死ではないのかを人間が選ぶことになる。この冷静さが求められる選択はどれほど重いことだろう。それと同時に、私たちの行動は選択の連続である。そこまで切実な選択ではないにしろ、曖昧さの中で選択を迫られる。しかしそのような選択も、それほどの重みがないとどうして言い切れるだろうか。眼前に迫る管は、そう訴えかけているのだろうかと考えた。

 

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