プレイルームで成長に取り込まれる。

プレイルームで成長に取り込まれる。

(以下、敬称略)

 ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第5期最終選抜成果展『プレイルーム』の成果、それはレース形式が生む力の可視化だった。

 言い換えれば、それは『野生のアーティストと、未来の現代美術。』のキャッチコピーの元に集った作家たち、キュレーターたちが、新芸術校というプラットフォームに最適化した結果でもあったが、その様相はほとんど実社会の縮図であり、世界を表象しているという点で優れた美術展であった、と言える。

 展示作品のほぼすべてが閉鎖空間ないし閉塞感を扱っていた。三浦かおりが活用したデッドスペース、山崎千尋と鈴木知史の病室、小山昌訓の自室、ユゥキユキと繭見の展示作品内への取り込み、藤井陸の自問自答。

 そんな中、菊谷達史、タケダナオユキ、小笠原盛久には、共通して感じさせる風通しの良さがあった。それは立体作品や映像に囲まれた環境にある平面作品だったからなのか、または平面を出自に持つ作家の覚悟が生むものだったのか。特にタケダナオユキ作品の、理解することを諦めた瞬間に感じさせる屈託のなさは、特筆すべき体験である。

 そんな中にあって、閉塞感と屈託の両方を感じさせたのが、平山匠「モンスター大戦記ハカイオウ」だった。この作品を通して、改めてこの展示について考えていきたい。が、作品の詳細に触れる前に、一度、2019年の夏に時間を戻したい。

 2019年8月31日、香港では連日政府への抗議デモが続く中、東京オリンピック開幕まで1年を切り準備を急ぐ日本では、映画『プロメア』が公開100日目を迎えていた。昨今の映画興行は公開3週目から上映館数が減少する傾向にある中、『プロメア』はその後も上映館数を増やし、Blu-ray/DVD発売後も4DX上映などが続き、興行収入約15億円をあげ、ヒット作の仲間入りを果たした。しかしこの作品を知らない人は多い。なぜなら、この作品は「閉じた映画」だからである。

 映画『プロメア』を手掛けたアニメスタジオTRIGGERには熱狂的なファンがついており、特にTRIGGERの代表作『天元突破グレンラガン』『キルラキル』を生んだ監督今石洋之と脚本中島かずきの二人による初めての映画作品となった今作は繰り返し映画館に足を運び、twitterのハッシュタグで繋がり、お互いをフォロー、RTし合い、応援上映を扇動するコアファンたちが生んだヒットであった。観客動員数、興行収入、上映日数が切りのいい数字になるたびに、オンラインで、オフラインで喝采をあげ、次の目指すべき数字を掲げては実現を目指した。

 ストーリーの舞台は近未来、突然変異で突如誕生した炎を操る人種、バーニッシュたちによって世界の半分を焼失した世界。対バーニッシュ用の高機動救命消防隊バーニングレスキューの新人隊員ガロとマッドバーニッシュのリーダー・リオは戦いの果てに、真の敵は国の司令官であると気づき、ガロとリオが力を合わせて国の司令官と戦うという典型的なバトルアクション。司令官には国や国民を守る責務が、ガロには火消しとしての覚悟が、そしてリオにはマイノリティであるマッドバーニッシュを守るリーダーとしての責務があり、一概に悪者を決められない構図も、そして終盤に向けてその構図もやはり単純な敵と味方に集約されていく展開も典型的だが、それもコアファンから期待されている外連味あふれるアクション描写、手書きアニメらしい構図のためのお膳立てでしかない。それらコンテクストを理解したファンたちによって支持されたこの作品には、一点、見逃せない描写がある。

 それは、マイノリティ集団マッドバーニッシュのリーダーであるリオが、マジョリティ(市民)であるガロと手を結ぶ描写。ガロ(マジョリティ)がリオ(マイノリティ)とともに、瓦礫と化した都市の再興を誓うラストで、リオたちマッドバーニッシュは特殊能力である炎を操るチカラを失う。こうして敵と味方だった全ての登場人物たちは手を取り合い、平和な未来を目指す。

 このように、映画『プロメア』はそれを支持する層においても、そのストーリーにおいても閉じた作品である。

 2020年の現代において、成長の誘惑から距離を取ることは難しい。体育会、企業戦士という言葉が古くなったことには多くの方が同意する一方で、昨日も今日もそして明日も同じ間違いをする自分を、相手を、認めることの難しさを私たちはよく知っている。間違いから学び、成長することを良しとする価値観を否定することは難しい。私たちは規律訓練により自ら内発的に、環境管理に自らを委ねる。成長の欲望がインプットされた身体を再生産し続け、社会を発展させ続けている。

 成長の速度や効率を上げるために集団を作りもする。集団組織は共通の目的が達成されたとき、よりその推進力を強める。切磋琢磨することで成長は加速し、更に強くなることで組織外のメンバーも取り込む。やがて、その大きさや強さを測る指標事態も自ら作り出し、取り込まれたものは、それまで使っていた指標を捨て、取り込んだ側の指標に即して行動できるよう訓練を受ける。そうして強固になっていくプラットフォーム上で、自由を謳歌する。それは、どこかに中心があったり、ビジョンがあるような類の統治ではない。集団構成員である一人ひとりが求める、個人のための自由が作り出され、私たちは自分専用のプレイルームを手に入れる。そこは個人のものではあるが個性的なものではない。個人に最適化はされているが、全ての個人に最適化することがプログラムされた汎用プラットフォームである。自由を求めるリベラリストには最適化を、連帯を求める保守主義者にはプラットフォームをアピールすればよい。

 それは大手企業を飛び出し、自分たちの力で世の中を変えると宣言したベンチャー企業が上場を目指す矛盾に似ている。プラットフォームを飛び出しているようで、プラットフォームの強化・同化を目指している。実のところ、一度として、我々はプラットフォームの外には出ていない。

 成長よりもSDGsを、企業の社会的責任を、ESG投資を、という声もまた典型的で、いずれも指標の再検討でしかない。そして金賞を目指す仕組みの第5期新芸術校もまた、その例外ではなかった。私もまた『野生のアーティスト』という言葉に強く惹かれ、その門戸を叩いた。レース形式であることは分かっていたが、それはそれとして私は自らと向き合い成長出来ればよい、誰もがそう思っていたのではないかと思う。しかし、想定的な価値でなく絶対的な信頼から『プロメア』を求めたTRIGGERのコアファンたちが数字で鼓舞されたように、成長の手ごたえは定量的可視化と親和性が高く、絶対的存在を都合の良い指標で相対化し、組織は連帯を強めていく。成長を希求するプラットフォームはかくも強靭であったかと体感し続ける日々であった。

 

平山匠「モンスター大戦記ハカイオウ」は、3種類の展示物によって構成されている。1つは展示パネルで、平山の兄が鉛筆と絵の具を用いて大判の白い紙に文字と絵を書いたもの5枚。そしてほぼ正方形の土台に所狭しと並べられた6体の立体物。平山が粘土を材料に形作り、色を塗ったと思われる。最後の1つは音声で、隠されるように隅に置かれたスピーカーから、控えめな音量で音声が流れている。その控えめさは、最初のうちはそれが平山とその兄の会話だと判別することが出来ないほどであった。

成果展プレイルームで多くの作品が壁を立てていた。そうして境界を作り、部屋を、内部や内面を生み出していた。前述した菊谷、タケダ、小笠原にあった風通しの良さは、壁を立てるのではなく、壁に作品を立てていたからだったのかも知れない。

そんななかで唯一、平山だけが、壁に触れようとしていた。視覚や聴覚を意識させる作品が多いなか、平山作品だけが触覚に賭けていた点は重要である。

繋がり、という言葉を頻繁に耳に、目にするようになった昨今、この言葉から連想するのは、手と手を取り合う、肌と肌が触れ合う物理的な接触というよりは、心理的共感や、リンクやハッシュタグといった離れた点と点を繋ぐ抽象度の高い連帯であるように思う。しかし、点は面積ゼロの触れられない抽象概念であり、それは記号操作の域を出ようがない。それは抽象的に友と敵を作り、壁を立てることになる。言葉には常にその言葉が意味する範疇がある以上、言葉もまた常に壁を作る。社会化の過程で獲得する言葉やジェスチャーが生み出す閉鎖性からどう抜け出せばいいのか、平山の試みはそこに重要なヒントを示している。触れるという試みによって。

見る、という行為は非対称な関係を生む。見る、見られるの関係性は、相手を盗み見るとき、もっとも非対称になる。見る、という行為は不平等なのだ。これに対し、触れる行為は相手に触れているとき、相手もまた必ず自分に触れている。盗み見、盗み聞きと違い、盗むことの出来ないこの行為が平山によって提示されたとき、成長のプラットフォームの外部に触れられる可能性を感じた。

上下、搾取、の関係と指摘される可能性に身をさらしているこの作品において、まずは壁があることを認めたうえで、兄の書いたものを私たちも見て、兄弟の会話に耳をそばだてて聞き、平面情報をもとにヒアリングを重ねて立体物に造形するそのプロセスは壁に触れ続ける行為である。

一望監視施設に入れられ、非対称な関係性にさらされていると嘆く私たちは、その一方で、監視カメラがあることにときに安心している。視覚にフォーカスている限り、そのプラットフォームの外部に触れることは出来ない。私たちがそのプラットフォームの外部に触れるためにやるべきこと、それは、覗いている管理者を探すことではなく、そんなものがいないことをまずは認めたうえで、隣にいるであろう、同じく施設に入れられ、管理されている(と思っている)人に向けて、壁を叩くこと、そしてお互いがその壁に触れ、壁の存在を認めつつ、その壁を介して表現し、相手の表現に触れ続けること。

限られた時間の中で高いパフォーマンスを生むためのアドレナリンとして、レースシステムは有効であろう。そのうえで、その危うさもまた表出した当展示のなかで、閉じるでも開くでもなく、手垢にまみれて『接触』を試みた平山が、成長のプラットフォームに空けた風穴は小さいかも知れない。しかし、今後もその穴にグリグリと指をねじこみ、執拗に接触し続けてくれることを期待したい。

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