カクテルと透明な運動

カクテルと透明な運動

カクテルとはベースとなる酒に他の酒やジュース、または副材料を加えて作るアルコール飲料のことである。カクテルの起源を辿れば、紀元前エジプトの時代に遡り、当時はビールの味を調えるために蜂蜜やナツメヤシのジュースを加えて飲んでいたという。カクテル(Cocktail)=「雄鶏の尾」という語源にはバー「四角軒」説、王様命名説、コクチェ説など諸説あるが、それぞれ独立戦争、軍同士の協定交渉、反乱と移民など独立と解放の歴史が関わっていることは興味深い事実だ。ちなみにカクテルがヨーロッパをはじめとする世界中に広まったきっかけは、第一次世界大戦と禁酒法によるバーテンダーの移住であるとされている。

続いてカクテルの作り方の話をしよう。カクテルは「酒 + 何か」の材料で作るが、それらの混ぜ具合に合わせてビルド、ステア、シェーク、ブレンドという四つの作り方に分類することができる。中でも一番有名なのはシェークだろう。バーテンダーがメジャー・カップを使用してシェーカーに材料を注ぎ、幾度か振って混ぜ合わせ、その中身をカクテル・グラスに注ぐ。カクテルやバーテンダーと言われれば、そのような光景を連想する人も多いはずだ。いずれの方法にせよ、カクテルは二つ以上の材料を振る、混ぜ合わせるといった運動を通して作られている。

何故急にカクテルの話をし始めたのか不思議に思ったかもしれないが、安心してほしい。ここから本題に入る。ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 5 裏成果展「裏庭バロック」は、ゲンロンカフェで開催された最終選抜成果展「プレイルーム」とともに、ゲンロン カオス*ラウンジ 五反田アトリエで開催された、非選抜者を対象とした展覧会である。展覧会ステイトメントに目を通すと、新芸術校ではサバイバル形式と呼ばれるプログラムによって選抜者と非選抜者が決定することが書かれており、非選抜者には役割がないこと、あるいは役割から解放されて自由にやることが強調されている。これは選抜者を対象とした「プレイルーム」におけるプレイが祈り(pray)と演出(play)のダブルミーニングであり、それぞれが必要な役割を演じることを強調していることと非常に対照的である。

では「裏庭バロック」とは一体どのような展覧会であったのだろうか?

カクテルと透明な運動。

後に作品を通して詳述するが、ここではそのようなキーワードを手掛かりに、話を進めていきたい。ここで言う透明な運動とは目に見えない、不可視である一方で、確かにそこに存在している力のことだ。本展の作品群は二つ以上の異なるモチーフ = 材料同士が、不可視な運動の力によって境界を越えて混ぜ合わされ、攪乱を引き起こしていた。展覧会ステイトメントによれば、裏庭は「人目に触れ」ないこと、バロックは「バロック・パールのように真珠や宝石のいびつな形」に由来するという。カクテルの独立と解放の歴史と非選抜者の役割からの解放と自由を重ね合わせるように、「裏庭バロック」で作品を通して作られ、振る舞われていた想像上のカクテルは、それを飲み干した結果としての酩酊状態を歪に照らし出していた。

ここからは、展覧会における幾つかの代表的な作品を通じて、カクテルと透明な運動がどのように体現されていたかについて述べていく。まずその導入として相応しいのは、木谷優太《Fantom》と小林毅大《逆流》だ。

木谷優太《Fantom》は、自らが過去に経験した恍惚的な心霊体験から新しい心霊写真を立ち上げる試みである。会場の入り口向かって右側の壁面には、7×4枚の白黒の心霊写真がグリッド状に配置されていた。そこには誰もいない室内、公園、路上、船着き場などを背景として、リボーンドールと木谷(時に白いフード付きマントを装着)が移動し、ぶれたり、分裂したりしながら、立ち現れては消えていく様子が映し出されている。その下に配置されたモニターでは、木谷が心霊体験を経験した現場を巡礼/徘徊する映像が、時に二つの場所同士を重ね合わせるように流されており、先程の心霊写真が撮影された現場との関連性が仄めかされる。ふと椅子の上に置かれたヘッドフォンを装着すると、ドアをノックしたり開け閉めする音、足踏みする音、ブラシを擦る音など耳元をぞわぞわさせるASMR的な音が流れていた。

このように本作におけるカクテルの材料が心霊体験と心霊写真であるとして、この場合における透明な運動とは一体何だろうか?それは恍惚状態を作り出すASMRのことであろう。ASMRとは主に聴覚を刺激することにより、心地よく、脳がぞわぞわとするような快感を得られる体験のことだ。心霊体験の気配や恍惚状態は、ASMRという知覚体験によって心霊写真と結び付けられる。近年現代美術の文脈で心霊写真を扱う作家としては原田裕規が挙げられるが、彼が心霊と呼ぶものは撮影者も由来も不明な思い出写真群のデータベースであり、本作が扱おうとしている心霊 = Fantomとは、心霊体験という変性意識状態と心霊写真という像が融合した知覚であるという意味で、それとは全く違うベクトルの可能性を持っている。とはいえ、19世紀から連綿と続く捏造と加工の心霊写真史から逸脱する木谷の試みは、むしろ逆説的に像と知覚が結び付くことの困難さを浮かび上がらせ、それを追い求めて巡礼/徘徊する木谷の姿は神秘体験を追い求めるジャンキーのようですらある。つまりここではまだ心霊体験と心霊写真のカクテルは上手く混ざり合っておらず、酔うような恍惚状態には少々物足りなさが残る。

一方で小林毅大《逆流》は便意と吐き気のカクテルである。とても汚い。でも笑える。トイレの便座の上を塞ぐように置かれたモニターには、口から喉の奥に手を突っ込んだ小林が無理矢理吐き気を引き起こそうとする映像が流れている。その横に置かれたスピーカーからは、芥川龍之介『トロッコ』の引用が小林によって朗読されていた。行きにトロッコを使って山の中を進んできた良平は、帰りに一人で家まで歩かなければならなくなるが、その時の苦難の様子が朗読を通して伝わってくる。良平の嗚咽と小林の嗚咽は歪に重なり合う。作家ステイトメントでは電車に乗っている際に頻繁に腹痛が起こること、腹痛によって生じる出口としての肛門の力みを、入口としての口へと逆流させる意図が書かれている。つまりトロッコは電車に該当し、良平の行きと帰りは小林の肛門と口へと繋がっている。

ここで言う透明な運動とは、腹痛から生じて便意から吐き気へと逆流する力のことである。消化管は口腔から始まり、食道、胃、小腸、大腸、肛門に至る。小林は自らの身体の消化管をシェーカーとして使うことで、腹痛によって注がれた便意を逆流によって吐き気と混ぜ合わせようと試みる。排泄や嘔吐という現実化の一歩手前で踏み止まることによって、彼は透明な運動の存在をどうにか可視化しようともがく。逆流という意味では木谷から材料の混合が一歩進んだ段階にあり、カクテルが及ぼす作用としては木谷の恍惚状態に対する二日酔いという対比を読み込むこともできる。便意と吐き気が混合される可能性があるのはトイレでしかあり得ないという必然性により、本作はサイト・スペシフィックならぬトイレ・スペシフィックな一品に仕上がっている。

次に取り上げるのは紋羽是定《MR.Brown》と伊賀大《青いサイダー》である。ここでは待望の酒と直接的なシェイクが登場してくる。

紋羽是定《MR.Brown》は文字通り生と死のカクテルを扱っている。それは此岸と彼岸のカクテルと言い換えても良い。会場の入り口から中に入った途端、奥から何かが大量に落下した音が鳴り響いてくる。思わず身体が硬直する。その音の先に恐る恐る視線をやると、ハイネケンの空き缶が所狭しと地面に散らばっていた。会場のエアコンの下に設置された棒には磁石が付いており、紋羽の手によって磁力の異なる磁石が付いた缶が上から下へと垂れ下がるように引っ付けられていく。バーを思わせるLEDテープライトは、眩しい光を放ちながら棒と缶の周囲を取り囲んでいる。缶の数がある程度の長さになると、「MR.BROWN」という文字列の中から一つずつ順番にアルファベットを付けていく。作家ステイトメントによればこれは、東日本大震災で亡くなった友人が経営していたバー「MR.Brown」の看板を模しており、安政江戸地震の前兆として、磁力を失った看板のクギが全て落ちていたことに由来している。

ここで紋羽が扱う透明な運動とは、磁力と熱である。缶同士を繋ぐ磁力により生と死(此岸と彼岸)が引き付けられることで看板が具現化する。一方でエアコンの熱による熱消磁により磁力が弱体化し、生と死(此岸と彼岸)が引き離されることで看板が消滅する。本作では小林毅大《逆流》でみられたような逆に働く力が落下として強化されており、さらに正反対に働く力である磁力と熱を反復して使用することにより、その運動は上下の攪拌運動のようにも見えてくる。ハイネケンという酒の使用、バーという舞台、生と死(此岸と彼岸)という材料、磁力と熱を使用した透明な攪拌運動。本作はカクテルと透明な運動という見立てを余すことなく体現している。ハイネケンを飲みながら行われる紋羽のパフォーマンスは、酔っ払いながら賽の河原で逆向きに石を積み上げているようにも見え、鑑賞者は落下による災害に否応なく巻き込まれながら、彼の終わることのない慰霊行為を目撃することになる。

伊賀大《青いサイダー》。体験型ブースを思わせる展示台の上には、黒マジックで描かれた円の中に、それぞれ中身の入ったペットボトル容器が六つ並んでいる。よく見るとそれらは三ツ矢サイダーの容器であり、下には何やらモールス符号らしき短点と長点の組み合わせが書かれている。調べてみるとそれは「ラムネ」と書いてあるようだった。展示台の壁にはラムネの語源がレモネードであり、サイダーの語源がソーダであることが記されている。左下のモールス符号は「ヌリカワリ(塗り変わり)」を意味し、二つの化学式は振って酸化させることで、液体が透明から青になることが示唆されている。このようにあたかも夏休みの自由研究と発表会を擬態したかのような彼の作品は、現代美術作品としてどのような意味を持つのだろうか?

本作が扱う材料は輸入による支配とそれに抵抗するための擬態であり、透明な力とは化学変化のことだ。レモネードとして輸入されたラムネは三ツ矢サイダーペットボトル容器に入ることでサイダーを擬態する。ここでシェーカーの比喩は現実の行為となって出現することとなり、容器を振ることによる透明から青への化学変化は輸入による支配を示唆する。しかし、実際にはそれは色彩による擬態であり呼び名を変えても本質は何も変わらないことが同時に示唆されている。このような一見ミニマルかつマイペースな手付きは、巨大化し複雑化する西洋現代美術のゲーム、もしくはその輸入に対して、現代美術作品として夏休みの自由研究を擬態するというカウンターにもなっている。さらに言えば「プレイルーム」には鑑賞者が直接プレイ可能な作品は存在していなかったが、本作は「振る」という極めて単純な行為により「プレイルーム」のプレイを別角度から補完してしまっていた。もちろん裏のテーマとしては伊賀がこれまでに扱ってきた沈没船のノスタルジー、アメリカ軍の支配による影響関係といったモチーフも見え隠れしており、混ぜ合わされても、一見違うよう見えるものでも、本質は全く同じ。つまり素面であることの価値がそこには示されていた。

最後に取り上げるのは、zzzALIVE》だ。

zzzALIVE》は会場一番奥の壁面に囲まれたスペースに、あたかも秘密基地であるかのように存在していた。入口は金網で覆われ、立ち入り禁止を示す標識ロープが絡まり、「ALIVE」という赤い光を放つ文字が見える。中に立ち入ると、ラジオからノイズが流れており、そこにはブラックライトで照らされた蛍光の生活用品や、廃材を利用した作品の断片が植木鉢や棚や地面に敷き詰められていた。両側の壁に視線を移動すると、そこには洞窟壁画を思わせるグラフィティが滴り落ちており、正面の壁には自転車のホイールが張り付けられている。サバイバルシートやコンクリートブロックを敷いた地面には、蛍光に光るティッシュペーパーなどが散乱しており、その先には防塵マスクを装着したzzz本人が息を潜めていた。Houxo Queの作品を知る人であれば、zzzの作品の表象はその影響を色濃く受けすぎていることに懸念を抱くかもしれない。しかしディスプレイを支持体として使用し、光を絵画を成立させるための抽象的なメディウムとして使用するQueと比較して、zzzの扱う支持体はティッシュペーパーなど生活用品の延長線上にあり、光は灯火のように生き延びるための手段そのものである。

本作が扱うのは生活と制作のカクテルであり、透明な運動とはコロナウイルスによる感染の力である。今まで取り上げてきた作品がカクテルを作り出すまでの材料と運動の話だとしたら、本作はシェイクされることでカクテルが作られ、それを既に飲み干してしまった後の話を扱っている。例えばコロナウイルスは目に見えず、感染対策も何がどれだけ有効かも分からないまま、人々は不可避に混ざり合って感染してしまう。ウイルス蔓延を予防するためのイベント自粛、トイレットペーパー買い占めなどのパニック状態は、カクテルを飲み干した後の酩酊状態を体現しているかのようだ。生活と制作をともに生き延びるための手段として同一視する本作には、境界が混ざり合い、カタストロフが起こってしまった後の孤独な希望が宿っている。一方で「裏庭バロック」が提示した役割からの解放と自由は、動員に抗う非動員のロジックである。対して本作は動員に抗おうが非動員を願おうが誰しもが無関係に動員されてしまうという事態とその先を想定しているという意味で、本展覧会の狙いを超えていると言えるだろう。

ここまでは展覧会の各作品を通して、カクテルと透明な運動というキーワードを軸に分析してきた。そこで最後に展覧会という大きな枠組みの中で、作品全体を通して作られたカクテルと透明な運動について考えてみたい。

木谷優太《Fantom》ではカクテルにおける異なる材料を用意することが提示され、恍惚状態というカクテルが及ぼす正の作用が仄めかされる。一方で小林毅大《逆流》では材料に加えて、身体内部を逆流する透明な運動の存在が強調され、二日酔いというカクテルが及ぼす負の作用が暗示される。続いて紋羽是定《MR.Brown》では生と死(此岸と彼岸)という展覧会全体を通底する材料が提示され、酒が登場し、上下の攪拌運動が強調される。ここでカクテルの全体像が見えるとともに、「裏庭バロック」というバーの舞台が整えられる。次に伊賀大《青いサイダー》では副材料としてのジュースが登場し、シェーカーを振ることによってカクテルが完成する。しかしここでは同時に、変わらないこと、素面でいることの価値も提示されている。最後にzzzALIVE》ではカクテルを飲み干し、その後の周囲を含めた酩酊状態 = パニック状態を、生活と制作を通してどのように生き延びるかが問いかけられていた。

このように「裏庭バロック」で振る舞われていた現代美術としてのカクテルは、その透明な運動とともに我々が素面ではいられない歪な状況を露わにしている。生と死(此岸と彼岸)の境界がシェイクされ、混ざり合ってしまった状況下においても、我々は素面で生活と制作を続けていかなければならない。生き延びるために。

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