歪んだ分別の萌芽

歪んだ分別の萌芽

2008年に、とある歌手が「35歳になるとお母さんの羊水が腐ってくる」と発言して問題になったことがあった。発言が高齢出産を差別していることは明白だが、当時の私はそうした差別的な言動への批判というよりはまず、なぜその歌手は「35歳になると女は腐ってくる」ではなく「35歳になるとお母さんの羊水が腐ってくる」と発言したのだろうか、ということを考えていた。人間のからだは容器であり、その容器の中にはさらに小さな容器がいくつも含まれているーーそうした小さな容器のひとつに羊水がたゆたっており、またさらにはその羊水の中で胎児という新しい命(=今すでにある「私」の命とはまた別の存在)が脈打っているーー。容れ物と中身、全体と部分、自己と他者といった「分別」を咄嗟に人体に見出すこの発言の背後には、何らかの教育による成果のようなものすら感じられたのだった(もっとも、最近の医学では、人体組織を「分別」することよりはその複雑性や相互の影響関係を重んじようとする考え方が主流であると、医師から聞いたことはあるのだが)。

新芸術校第5期裏成果展「裏庭バロック」での伊賀大介による《青いサイダー》を見ながら、私はそんな「分別」を思い出していた。
この作品で言われる「青いサイダー」とは、ラムネ飲料のことである。展示台には液体が含まれた6つのペットボトル(それぞれは同一の500ml容器)が陳列されている。「これらは手に取り振ることが可能です」と書かれたサインの通り、ペットボトルを手に取り振ってみると、やや黄味を帯びた透明の液体がシュワシュワと泡立ちやがて青色に変化する。鑑賞者は青く変色した液体を見て初めて「これはラムネだったのか」と認識することができる仕組みだ。
化学結合図や説明書きなどが様々にマジックで記された展示台と、こうした化学実験を鑑賞者自身におこなわせる試みは、まるで博物館のハンズオン展示のようだ。あるいはこうした「まるで~のようだ」は、展示形式のみならず作品の内容自体がそれである。lemonadeという語源から、ラムネとレモネードという別物が生まれてしまったことを示唆する説明書き。菓子のラムネが、飲料のラムネに「似せよう」として作られている旨を指摘する説明書き。「ぬりかわり」を意味するモールス信号の表記。一見して無色透明のサイダーのような、青くなることでラムネ飲料とわかるラムネ飲料。ここではいくつもの「○○と似て非なる別物」「○○への擬態」が取り扱われている。
伊賀は作品ステイトメントの中で、「『彼ら』(=青いサイダー)に私はサイダーの入っていたペットボトルをプレゼントすることにした」と記している。絵画や写真がフレームを持つように、流動的な液体にはペットボトル容器が与えられた。しかし本作における容器は、内容物とは別の文脈を持っており、本来は内容物にふさわしくないはずである。伊賀は、その誤った形式化によってlemonadeの輸入史を踏襲し、また美術作品を擬態しているのだ。だからこの作品のコンセプトはシミュレーショニズムと言っていい。あるいは作品を擬態していることを踏まえれば、作品を成立させる「コンセプト」という言葉自体も浮いてしまうから、もっと包括的にコンセプションと呼んだ方が良いのかもしれない。コンセプションーーそれはコンセプトを抱くことそのものであり、また同時に妊娠や受胎を示す言葉でもある。伊賀はペットボトル容器に「青いサイダー」という羊水を注ぎ込むことで、そこに作品化という受胎を施したのである。

名づけ得ぬものに名を授け、不可視のものを可視化したい欲望によって創作活動の多くは支えられている。かたちを与えることへの欲望。そういえば、展覧会のタイトル「裏庭バロック」で言われている「バロック」という言葉も、かたちが歪である様を表す形容詞である。しかしながら、上述した伊賀作品においては、かたちの歪さと言うよりは、かたちの与えられ方ーーかたちに伴った「分別」のされ方に歪さを見出すことができる。そして、こうした歪な「分別」の表出は、伊賀作品に留まることがない。

小林毅大による《逆流》は、会場内のトイレを展示場所とした映像作品である。便座に置かれたモニターには、小林の自撮り映像が収められている。自身の喉に指を突っ込み嗚咽を繰り返している小林の口からは唾液が流れ、目には涙が溜まり、表情は苦しそうである。しかし、映像内においてはとうとう嘔吐することが叶わない。ずっと嘔吐のための嗚咽だけを繰り返しているのだ。
作品ステイトメントには、小林の日常的な腹痛にまつわるエピソードが書かれている。電車に乗ると便意を伴う腹痛が訪れるために降車してトイレへ向かうのだが、トイレに着く頃には収まってしまい排泄することができないのだと言う。小林はそうした未然の排泄における便を、そこにあったことを誰も証言できないために、「幻覚」であると一旦定義している。この定義を揺るがし、「幻覚」を「幻覚」ではないところに「分別」するために、排泄を逆流させ、吐瀉物としての「幻覚」を可視化させようとしているのだ。しかし、嘔吐の試みは失敗し、「幻覚」は「幻覚」の中に留まろうとする。
セルジュ・ゲンズブールは小説『スカトロジー・ダンディズム』の中で、主人公の成人男性が自身のひどい放屁癖のせいで11歳の幼女と性交に至ることができず、ついには精液が脳に逆流してしまうという、禁忌の寸止めを描いた。小林が欲望した排泄あるいは嘔吐は、達成されれば「幻覚」という定義を覆しただろう。しかし寸止めされることとなったそれらは、「幻覚」の中に留まり続けようとする。「幻覚」が可視化されないことの代わりに、小林の欲望が体内に逆流したのが、この《逆流》という作品なのだ。本作においてかたちが与えられているのは、「幻覚」にではなく、逆流という現象そのものに対してなのである。
映像は、カメラを下に構え、上から小林が覗き込むようにーーそれこそ今まさに嘔吐しようとする顔を正面から捉えるように撮影されている。このモニター映像は便座上に上を向いて置かれているから、もしも映像内の小林が嘔吐をすれば、体内を逆流した吐瀉物がさらに重力を逆行し便座から吹き上がるかのように見えたはずだろう。下から上へと移動する「幻覚」。しかし「幻覚」が可視化されなかったことにより、そこには下から上を志向する逆流の運動だけが置き去りにされているのである。

あるいは、「分別」の失敗自体にむしろ形式を見出そうとする傾向は、木谷優太による《Fantome》にも見られる。
本作は、タイトルのフランス語が日本語で言うところの幽霊や気配を示している通り、心霊写真をモチーフとしている。複数枚のモノクロ写真および1点のカラー映像から成るこのインスタレーション作品には、長時間露光で撮影された消えゆく人の姿や、移動する電車の窓にふと映り込む自身の虚像、不自然な足音を伴う歩行者の影などが写し/映し出されている。そこにいるはずのない、あるいはかつていたかもしれない存在を、こうした影や虚像やギミック等に重ねて想像することは可能だ。しかしながら、それは心霊現象と言うよりは、むしろ心霊を検証する試みである。心霊は、何をもって心霊と呼ばれるかを検証され科学的に説明可能となることによって、心霊現象そのものからは遠ざかってしまう。木谷は作品ステイトメントの中で、自身が心霊体験を重ねてきたことを証言しながら、「霊など実在しない」とも断言している。矛盾の中にいるのだ。作品内に提示しようとした心霊が捏造や加工であることを告白しながら、自身が心霊体験によって得たと言う「恍惚」や「浮遊感」の再現を試みているのが、この《Fantome》だ。
よって木谷は、心霊というあやふやな存在にかたちを与えることに、初めから失敗している。さらに彼の「恍惚」や「浮遊感」にかたちを与えることが出来ているか否かは、彼自身にしか判断できない。あるいはこれらの捏造や加工と呼ばれた作品群に、捏造や加工が施されていない「ほんものの」心霊写真が紛れ込んでいるかどうかを鑑賞者は知ることができず、または木谷自身も気づくことができないのかもしれない。ここで浮上してくるひとつの考えは、これらの写真や映像に何が写っている/映っているかを、結局のところ誰も知り得ないのではないかという疑義である。
2010年代に「フェイクニュース」「オルタナティブファクト」といった言葉が広まって久しいが、木谷はそうした認識や知覚に付随する危険な余白を19世紀から照射する。写真の誕生とともにその技術のバグとしても親しまれてきた心霊現象を現在ふたたび扱おうとする行為は、写真の、記録の、あるいは認識や知覚の、不可能性を再考するものである。かたちを得ることのできないかたちという引き裂かれた逆説が、本作における「Fantome=幽霊/気配」なのだ。ここでは「分別」が同時に「分別」自らを否定し消尽する構造がある。消尽したものは何も可能にすることができないとジル・ドゥルーズは言ったが、《Fantome》にはまさしくそうした消尽のかたちが写されて/映されているのであり、それは心霊写真と呼ぶことができるだろう。

伊賀、小林、木谷の作品に見られる「分別」の歪みには、何らかの対象に対する同化の失敗を見て取ることができる。あるいはこれが新芸術校という教育組織において選抜されなかった受講生たちの展覧会「裏成果展」であることに鑑みれば、彼らはまず施された教育への同化に失敗している。しかしながらそのことによって、たとえば少なくとも冒頭に記したような同化を志向する類の「分別」を免れることができる。歪な「分別」は、自らの手によってこれから育まれるものの萌芽なのである。

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