江戸1910

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江戸1910

用語解説

 オールド・サムライ――銃刀禁止令に抵抗する侍たち。
 独立艦隊――欧米各国の鎖国に抵抗して横浜沖に集結した混成艦隊。
 艦隊村――独立艦隊の民間人を中心とする居留地。
 横浜壁――艦隊村周囲に建築された壁。
 店人てなんと――異人とも。異世界からの訪問者。
 城船しろふね――店人の船。
 ボクト――木徒とも。駆体(ボディー)は、江戸の職人が作り、店人の城船で完成する。
 城ボクト――30から50メートルにも及ぶ超大型ボクト。一国一城と同様に、各大名家に一体のみが認められている。
 個霊こだま――ボクトの意識。
 骨牌カルタ――個霊が宿る小片。
 核体――骨牌を収め、ボクトの脳と神経系に相当する中枢部分。店人から提供される。
 操士そうし――ボクトと契りを交わし、ボクト内部から操る技能を持つ人々。武士に代わって台頭している。

出港

 御木本がマーキスに呼び出されたのは、午後三時を回ったころだった。
 マーキスが来日するのは五度目だ。若造に呼びつけられるのは癪だが、上客――最上の客と言っていい――はむげにはできない。
 詰め所の警備員に、事前に送られてきたパスを見せ、桟橋に向かう。
 晴海埠頭からかなり離れた、貨物荷揚げ用の桟橋に奇妙な船が係留されていた。
 明らかに娯楽用の船とは異なるのは、漆黒の塗装。軍事、あるいは特殊任務用――ステルス船かとも思われる。
 船首に記された船名すら黒い塗料に覆われており、近づくとかろうじてSusquehannaとあるのが読めた。
 サスケハナ号のタラップの前には見覚えのあるバウンサーが腕組みで仁王立ちになっている。
 パトリツィオとかいったか。黒髪のイタリア系、筋肉質の強面で百九十センチはある。
 百七十二センチの御木本を見下ろす。
「ミキモト……だな」じろじろ見た上でようやく警戒を解いた。
 俺のことは冴えない男と思っていることだろう。四十代半ばにしては若く見えるはずだが、子どものように見えているのかもしれない。
 しかし、こいつは、タッパはあるが見かけだけだ。俺でも楽にあしらえる。
 御木本は、パトリツィオを制圧する模擬格闘のシナリオを反射的に三つ考え、それを検証した。
 前に会ったのは二か月前で、そのときの結果と変わらないことに満足した。
 もっとも彼の役割は関係ない人間を近づけないというだけだから、外見だけで十分に仕事はこなしている。
「ああ。いいかげん覚えてくれよ」
 パトリツィオは肩をすくめ、道を開けた。
 マホガニーを内装に使った広いメイン・キャビンは、さりげなく海を意匠に取り込んでいるが、陸の邸宅の一室と変わらない快適さだ。
 ガウン姿の背の高い若者が、グラスにウイスキーを注いでいる。
 マーキス・ペリー。
 アメリカ人のWhoTube人気ヴロガー(ビデオ投稿者)は、自称「冒険家エクスプローラー」だ。登録視聴者数三千万人を抱え、莫大な富を得ていた。一八二センチで、スタンフォード大学ではアメフトのクオーターバックだった。最近は不摂生をしているようだが、体は一通り鍛えている。
 御木本を見て、童顔に無邪気な笑みを浮かべる。
「ミックはIPAがいいんだったな」
 冷蔵庫からビール瓶を取り出し、御木本に放り投げる。
 御木本はそれをキャッチすると、ソファーに腰を沈めた。柔らかすぎて思わずぎょっとする。こんなのにいつも座っていたらフヌケになりそうだ。
 ミックという間の抜けた呼び名もやめろといっているのだが、マーキスが気に入ってしまっており、とうに抵抗を諦めていた。
「今日は取り巻きの女の子たちはいないのか」
「ああ。ちょっとあんたにビジネスの話がしたくてな」
「今度はどんないたずらを企んでるんだ? この船はそのために用意したんだろ」
「察しがいいな。時間水門の噂は聞いているだろう」
 二週間前、ティレニア海で大型観光船が連絡を絶った。その直後から、世界各地で船舶や航空機が消滅する事件があいついだ。事故は特定の海域で起きていることが確認され、異常な空間は、東京湾、ベンガル湾など世界各地の八箇所に出現したことが判明した。
 当初は各国の警察や軍により調査がされていたが、国連による緊急調査委員会が急遽組織されて調査を引き継いだ。
 世界中がこの異様な事態に興奮していたが、封鎖海域でなにが起きたのか、公式情報は極めて限定的だった。正確な場所さえ公開されていない。
 ネットでは、この異常空間の性質について荒唐無稽な議論が繰り広げられた。中でも都市伝説サイトで人気を集めているのが、これらの異常空間が別の時代につながる《時間水門》であるという説だった。
「時間流を遡行できる空間変異が生じている、ということだ」
「あんな噂を信じているのか? 証拠がどこにある」
 御木本はあきれ顔で言った。
「証拠ならいくつもある。第一に、時間水門の説を投稿したのは、匿名ユーザーだが、その正体はシカゴ大学の理論物理学者だ。彼を見つけ出して、手に入る限り情報を提供してもらった。別で他の研究者二名にもその説を検証してもらった。二人ともその説の妥当性に同意せざるを得なかった。第二に、封鎖海域は、厳重に警備されている。それほどの価値があるものでなければ、国連が管理したりしない」
「なぜそうまでして必死に守るんだろうな」
「勝手に過去に行って、歴史を変えられては困るだろう」
「なるほど。一国が占有するには危険すぎるという合意がされた、ということか」
「そうだ。それだけじゃない。もっと直接的な証拠がある。絡んでいる人数が多いと、どこかに必ず情報がもれる穴があるもんだ」
 御木本は、マーキスをしばらく見つめた。普段どおり無邪気な笑顔だ。しかし、こいつはこの顔でとんでもないことをする。
 あるときはテレビの生放送中に放送局に乱入し、自分でもその様をライブ中継した。
 あるときは大型旅客機を貸し切って裸でパーティーを開いた様子を撮影した。
 パーティーといえば、中東の紛争地帯のど真ん中でクリスマス・パーティーを開いたこともある。
 あるときはハッカーを雇い、セクハラ疑惑のあったアメリカ政府高官のプライベートな動画を無断で公開した。
 あるときは渋谷駅前でフラッシュ・モブを行い、車道を十五分止めた。そのとき、御木本は刑務所行きを疑わなかった。事前の許可なく大混乱を起こしておきながら信じられないが、結局はお目こぼしになった。
 三週間前に投稿したそのビデオは、注目を確かに集めたが、それ以上に批判を集めた。その謝罪動画を投稿したのが四日前というのに、こいつはまったく懲りていない。
 一種のカリスマなのだろう。あるいはカネにものをいわせたのかもしれないが。呆れるのを通り越して、やはりこいつは大物じゃないのか、と思ってしまう。
 事実、こいつは二十三歳というのに、莫大な広告収入で、サン・フランシスコの豪邸のほかに、フロリダやイタリアにまで別荘を持っている。
 しかし、この坊ちゃんとの付き合いもそろそろ潮時だな。
 マーキスは、違法すれすれの挑発的な動画が売り物だが、最近は競合に押されて視聴者が激減していた。アイデアの一発勝負では模倣者が出るのも当然だ。
「ボス、そろそろ時間です」パトリツィオが声をかけた。
「よし。じゃあ出航だ」
「どこに?」
 マーキスは答えなかった

時間水門突破

 サスケハナ号は、静かに出港した。
 船を降りたパトリツィオが桟橋で五秒くらい見送った。彼は同行しないらしい。見送りご苦労さん、と御木本はつぶやいた。むろん本心ではない。
 すべての照明は消されている。無灯火というだけですでに違法だな。
 いや。それ以前に飲酒操船だ。
「安心しろよ。この船はこのミッションのための特別製だ。無灯火でも、相手は見える。それに優秀なレーダーとセンサーがあるから他の船にぶつかることはない」
 マーキスは、御木本の渋い顔を見て言った。だが、マーキスとともに行動して事故に巻き込まれたことは二度や三度ではない。
 船は闇の中を一時間ほど進んだ。空は雲に覆われ、暗い夜の海がひたすら続く。
「おい、俺の返事は聞かないのか?」
「あんたの返事はもう決まっている。そうだろ」
「……」確かに、文句を言いながらも結局、御木本はマーキスにつきあう羽目になるのだった。
「ミック、俺は過去の世界に行って動画を撮る。俺はこれにすべてを賭ける。自分の金を無駄に使うつもりはない。この船もこのプロジェクトのために準備した。警備担当者に手はずを付けてある」
「言葉はどうするんだ。お前、日本語はろくに話せないだろう」
「ナンパするくらいは話せるぜ。それにいい通訳がいるだろう」
 マーキスは御木本を振り返り、当然のように言った。
「他の奴は連れていかなくていいのか」
「今回はあんただけでいい。頼りにしてるからな」
 珍しくまじめな顔だった。
「信頼してくれるのはありがたいが……」
「なあ御木本。あんたの祖先は忍者なんだろう? 以前、バンコクで俺を助けてくれたときにそう言ったよな」
「ああ」
「あんたは昔の日本に興味はないのか」
 ないわけではない。ただ、過去に行けると言われてもにわかに信じられない。
 しかし。
 この若者が見せる光景は、ある意味で常識を麻痺させるものがある。それほど非日常的なものだった。
 渋谷のフラッシュ・モブでは、一万人が参加したが、それを目の当たりにするだけで壮観だった。取り憑かれたように踊り狂う群衆。それを自在に操るマーキスはあたかも新興宗教の教祖だった。
 マーキスはとんでもないものを見せてくれる。こいつの動画は億の単位の人間を熱中させる。
 その期待感がもたらしたのが、この名声と富だ。
「あんたはただ来てくれればいい。必要なものは全部準備してある」
「見せてくれ」
 マーキスは、操船を自動モードに切り替えて、御木本を船倉に誘った。
 小型トラックが入るくらいの空間に、さまざまな品が置いてある。
 保存食の箱積み。
「念のため、半年分はある。行った先の食べものが食べられないってことはないはずがだな。それに俺は日本食が大好物だ」
 大型の太陽電池パネル。
「この船の後部甲板はこれで覆われている。ここにあるのは予備だ。大型蓄電池に接続されている」
 金庫。
「通貨は使えないだろうから、純度を落として細かくした金塊の粒を使う。高純度すぎると疑われるだろうからな」
 医薬品。
「風邪薬から局所麻酔まで一通りたっぷりそろえてある。俺たちだけじゃなく医学が役立つことはありそうだからな」
 確かに準備は万端のようだ。逆にここまで準備が必要なのかと思えた。
「すぐに帰ってくるんだろう」
「それはそのつもりさ。しかし、意外といいところかもしれないしな。一度は入れても二度目の機会はないかもしれない。だったら可能な限り滞在するつもりだ」
 やはりこいつは大物なのかもしれない。
「元の世界――ここには戻ってこられる保証はあるんだろうな」
 御木本はブリッジに戻りすがらに訊いた。
「そりゃそうさ。これは論理的な結論だ。戻ってくることができなければ、行った先が別の時代ということすら分からんだろう。それが分かっているのは、戻った人間がいるからだ。それに、仮に戻れないとしてもあんたに失うものがあるかい?」
「……いや、ないな」
 今の世の中でであることにどんな意味がある?
 侵入、格闘術、暗殺……祖父からは口伝の技を厳しく仕込まれた。しかし古式忍術の継承者といっても、実際には観光客と子ども相手に昔話をするくらいのことしかできない。メディアで誇張されてきたフィクションの夢を壊さぬように、真実を隠して。時代錯誤も甚だしい。父親が祖父の意志に背いたのも無理はない。
 一時期は、地味に警備会社に勤務したこともある。だが愛想をつかした妻が浮気し、離婚してもう十二年。自暴自棄になってアメリカの民間軍事会社に身を投じた。実質的な傭兵だ。やむを得ない状況とはいえ、その任務で敵の戦闘員を二人殺した。シリアで一人。コソヴォで一人。その記憶は、悪夢となって、御木本を長く祟った。
 動画を撮りに来たマーキスと出会ったのは、コソヴォのアメリカ軍基地だった。
 こいつは忍者のことを真剣に聞いてくれた。
 年は離れているがなんとなくウマが合った。
「俺はだれよりも純粋なんだ」
 マーキスはそのときそう言った。
「使い切れない金、最高の美女、豪邸や高級スーツ。手に入れてしまえばつまらないものばかりだ。そういう意味で、俺は本当に意味のあるもの、純粋にすごいものを見つけてやる」
 おそらくマーキスにも失うものはないのだろう。
 御木本は、マーキスの話を聞く気分に傾いた。
「その時間水門はどこ――というよりいつに通じているんだ?」
「昔の東京――つまり《江戸》の末期だという話だ。その光景を撮るだけでも確実に六十億回再生はいくだろう」
 確かにそれくらいのインパクトはありそうだ。大手のメディアでは、法に抵触するリスクを負うことはできない。だが、マーキスならリスクを冒すことができる。
「それだけじゃなさそうだな。江戸でなにを撮る?」
だ。全世界の人間が見たがってる」
 マーキスは依然として無邪気な笑顔のままだった。
「今の時代、技術と金さえあれば、ほとんどどんな映像でも合成できる。だが人が死ぬというのは真実の瞬間だろう?」
 御木本は首を振った。
「お前、やっぱりイカレてるぞ」
「それは最高の褒め言葉だ。じゃあ来てくれるんだな」
「いいだろう。報酬さえ払ってくれるんなら」
「そう言ってくれると思ったぜ。人生なんて迷ってたらあっというまに終わってしまう」
 マーキスは無邪気に笑った。
「確認だが、ミックに頼みたいのは俺の身を守ることだ。俺は撮影に集中したい」
「ああ」
「それといつものことだが」
「分かってるよ。あんたとカメラのどちらか、というときにはカメラを守れ、だな」
「そうだ。動画が俺のすべてだからな……なあ、あんたは江戸に行ったらなにがしたい?」
「そうだな」
 御木本はしばらく考えた。
「俺の忍びの技を試す機会があるといいな。俺が受け継いだものが無駄でなかったと確かめたい」
 そして祖父を見捨てた父親を見返してやりたい。そんな機会があるとは思ってもいなかった。
 御木本の顔にも笑みが浮かんだ。
 船は漆黒の海面を滑らかに進んだ。船内を照らしているのは計器のわずかな光のみだ。
 船のエンジン音は低いが、無音ではない。
 海はやや波が高く、風も出てきた。
 ブリッジから見下ろす船の甲板は、装甲のような部材で覆われている。星明かりの下、光を反射しないつや消しの表面が単なる塗装ではなく、少しずつパターンを変えていることに御木本は気づいた。カメラで撮影した周囲の環境画像を液晶で映し出しているのだ。
 暗い水平線にオレンジ色の光が浮かんでいた。船はその光点を目指していた。
「国連の孫請け業者をしているタナベという技術者から情報を得た。それによると時間水門は、江戸時代後期、一八六〇年頃と接続しているそうだ。時間水門は、十一日と八時間おきに四分間だけ解放されるらしい」
「確かなんだろうな」
「もし周期が変わっていたら大ごとだな」マーキスは他人事のように言った。
「見ろよ」
 黙って前方を指さす。
 六本の塔に囲まれた、石油リグのような海上構造物が水平線に浮かんでいる。
 塔の高さは二十メートルくらいはありそうだ。それぞれが巨大な鉄の輪でつながれている。奇抜なモダン・アートのようにも見える。
 塔からは、サーチライトが照射され、海面をなめ、周囲を警戒している。暗闇に慣れた目に、強力な光は眩しい。
「大したパーティーじゃないか」マーキスは言った。
「あの中に突っ込むのか?」
「まあ待て」
 マーキスは、サスケハナ号の速度を少しずつ落とし、接近した。
「十時方向に船がいるぞ」レーダーを見ていた御木本が告げた。
 双眼鏡を覗くと哨戒艇クラスの船が見える。小型だが機関砲を装備している。
「番号は?」
「HF421だ」
「情報と違うな……」マーキスの顔が曇った。
「海上保安庁ではない。多国籍軍とすればアメリカ海軍か。だとするとやっかいだ」
「おい、あの渦はなんだ」御木本はつぶやいた。「十時の方向だ」
「なに?」
 御木本は海の一点を指さした。
 サーチライトに照らされた海面に、緩やかだが巨大な渦が発生している。直径は二十メートルはありそうだ。海峡でもない広い海原に渦が巻いているのは異常としか言いようがない。だが、それよりもっと奇妙なことがあった。
「あの渦は右回りだ……」
「それがどうした」マーキスは聞き返した。
「ここは日本で、北半球だ。海上の渦は左回りのはずだ」
「そうか! コリオリの力か。ミック、あそこが入り口だ」
 マーキスは舵輪を操り、船を渦のほうに向けた。
「時間が逆流しているってことか?」
「分からん。だが、少なくとも別の海とつながって海水が流れ出ているってことじゃないか」
「だとすると、あの構造物はなんだ?」
「あれは、ダミーだよ。大抵の人間はあっちが本命だと思うだろう」
「反対側からやってくる連中を監視しているんじゃないか。そういう奴らがいるとしてだが」と御木本。
「違うな」
 サーチライトが横切るとき、海面にわずかに泡立つ渦の全貌が見渡せた。
「おい、あの船がこちらに気づいた。接近してくるぞ」
 あたりが真っ白になり、二人は目を覆った。サーチライトが照射されたのだ。
 ハウリングを起こしたスピーカーから声が響く。
「そこの船、すぐに停船しなさい! ここは立ち入り禁止だ」
 アメリカ英語だった。
「アメリカ人だから手心を加えてもらえる、ということはなさそうだな」御木本がつぶやいた。
「残念ながらな……逆ならありそうだが」
「これは警告だ。停船しない場合は発砲する」スピーカーは続けて告げた。
 マーカスは、警告を無視して船を渦にさらに接近させた。
 いきなり、重い銃声が短く響いた。機関砲だろう。
「今のは威嚇射撃だ。いますぐ停船せよ!」再度、スピーカーの声が響いた。
「くそっ。だまされた! タナベの野郎、話が違うぞ。哨戒艇がいるなんて聞いてない」
「どうするんだ」
「ここまで来たら強行突破しかない。行くぞ!」
 マーキスは、エンジンをフルスロットルにして、船を全速前進させた。
 ふと御木本には、その渦がブラックホールのようにこの世のすべてを飲み込もうとするように思えた。
 待て、と言おうとした瞬間、船首は渦に巻き込まれ、巨人に突き飛ばされたように、急激に左に曲がった。

上陸・大名行列

 いつの間にか周囲の海域を照らしていた光は消えていた。
 辺りが明るくなっている。
 巨大なリグも、迫りつつあった哨戒艇も消失している。
 御木本は身震いした。気温が急に下がったようだ。
「抜けた、のか」
 マーキスと顔を見合わせる。御木本は、スロットル上のマーキスの上に手をかける。
 マーキスは我に返り、停船し、エンジンを切った。
 あたりは急に静かになった。追ってくる船もない。微かに船体に打ち寄せる波の音が聞こえるだけだ。
 二人は甲板に出た。遠くに見えていた東京の夜景の光は見えない。
 確かに数分前とはまったく別のどこかだ。背後を振り返ったが、渦はもう見えない。
「おい、大丈夫なのか」御木本が尋ねる。
「心配するな。十一日後にまた発生するはずだ」答えたマーキスも不安げだった。
「船を隠す場所を探すか」御木本が言った。
「その必要はない。人目につかなければな」マーキスはエンジンを再始動すると、こともなげに船を進めた。
 電子海図には、依然として船の現在位置が表示されている。
「今さらだがGPSの恩恵を感じるな」
 現在は、地磁気と進行速度による推測でしかないはずだ。
「海岸線の内側に点線が表示されているだろう。それが現在の海岸線だ」マーキスが指さした。
 御木本は水平線を見やった。薄闇に陸地が浮かんだ。船は、そちらを目指している。
「陸地に人影がないか確認してくれ」
 御木本は双眼鏡を手にした。
「ここらへんでいいだろう」マーキスは、陸地から五百メートル付近で船を止めた。
「携行品の最終チェックをするか」
 一人分の荷物をテーブルに並べた。
 一週間分の圧縮食糧。
 小粒に成形した金を二百グラム。百二十万円くらいだろう。
 高感度・防水・広角4Kアクション・カメラを一台。予備を二台。
 全天球(360度)カメラを一台。
 超小型ドローン(カメラ搭載)。
 防水型スマートフォン二台。オフラインの自動翻訳アプリをインストールしてある。
「むやみにカメラが多いな」
「当たり前だ。動画が俺たちの目的なんだからな」
「レンズ交換式カメラはなくていいのか」
「人目に付きすぎるし、武器と誤解されるかもしれない」
 大容量モバイル・バッテリー。
 携帯型の高効率太陽電池パネル。
 印刷した江戸古地図とデータから合成・再現した地図。
 大型サバイバル・ナイフ。
 これらすべてを入れる黒いバックパック。軽量の炭素繊維強化ポリカーボネートおよびケブラー製。完全防水で防刃機能もある。
 上記とまったく同じ内容をもう三セット。
「当面はこれでいい」
「武器はいいのか?」
「おいおい。戦争しに行くんじゃないんだぜ」
「よりによってアメリカ人にそれを言われるとはな。しかし、なにがあるか分からんぞ」
「あんたがいるじゃないか」
 並みの人間なら確かに俺でもあしらえる。しかし、それはあくまでたるんだ現代人相手の話だ。現代からは想像も付かない武術の達人がいるかもしれない。いや、いるだろう。
「スタンガンくらいはあってもいいだろう」
「そうだな」
 マーキスはスタンガンを棚から出して荷物に加えた。
 マーキスは、二人がぎりぎり乗れる小型のゴム・ボートを船尾から海面に降ろした。
「サスケハナ号はここに置いていくのか」
「ああ。接近する船舶を避ける自動運転モードでな。さあ、江戸に行くぜ」
「おい、服はどうするんだ」
「なんとかなるさ」
 用意周到なのか行き当たりばったりなのかよく分からない。
 二人は、二つのアクション・カムをストラップで左右の肩に装備した。欧米諸国や中国の警察で使われている、いわゆるボディー・カメラに似ている。
 バックパックを二つずつ持ってゴム・ボートに乗り込み、オールで漕いで海岸を目指す。
 辺りは明るくなりかけていた。
 二人は青々とした松林に囲まれた静かな砂浜に降り立った。目に入るものは、みすぼらしい小屋が一つあるだけだ。
「きれいな浜辺だな」海藻の他は、漂着ゴミが見当たらない。
「ああ、きれいすぎる。空気もうまい」
 まだ別の時代に来たという実感はないが、二人はしばらく立ち尽くした。
 マーキスがスマートフォンを操作した。黒い船は沖合目掛けて姿を消した。
「サスケハナ号は、沖合二キロに退避させておく。軍事用の特殊潜入用ボートの、任務に特化した専用のシステムをカスタマイズした。小型警戒ドローン二機が巡回飛行して、近接警戒にあたる。レーダーをすり抜ける漁船にも対応できるはずだ。また環境をリアルタイムで撮影して、映像投影迷彩装甲パネルに情報を送る。これで四百万ドルは安い買い物だったな」
「無線LANじゃないな」御木本はスマートフォンを見て言った。無線の接続方式のことである。
「ああ。WiMAXを改造した特注品だ。海面なら五キロくらいまで電波が届くはずだ」
 幸い、どんな違法電波を飛ばそうが気にする連中はまだいない。
 二人は、岩が折り重なっている場所に、ゴム・ボート、オール、予備のバックパック一つを隠し、岩を念入りに積み重ねた。記録用に周囲の写真を撮影する。
 一キロほど海岸線を歩き、もう一つの予備バックパックを同様に隠し、周囲を撮影した。
「さて、江戸はこっちだな」
 マーキスはコンパスと地図を手に歩き出した。
「マーキス。地図は人に見せないほうがいい。この時代、幕府は地理情報を民間に公開していない。地図を持っているだけで牢屋行きだ」
「ああ。そうだな」マーキスは古地図の道筋をしばらく目に焼き付けてからバックパックにしまった。
 迷うほどの道はなかった。海岸沿いの道は少し太い道につながり、そこを進むとさらに太い街道につながった。
「人が来るぞ」御木本が声をかけた。
 それは笠をかぶった旅姿の中年の男だった。男はこちらを一瞥したが、特にそれ以上の注意は払わなかった。
 妙だ。あまりにも反応が薄い。
 マーキスは手に収まるカメラでさっそく撮影を始めている。
 その後、農民の一群、武士らしい姿などにもすれ違った。
 興味を感じて思わず注視しそうになったが、すぐに思い返す。
「武士の姿を見たらとりあえず頭下げて縮こまっておけよ。怪しまれるマネはするな」
 御木本は、この時代が恐ろしく危険かもしれないという可能性に今さら思い当たった。下手な振る舞いをすれば。
「サムライか? だがサムライというのは刀を下げているんじゃないのか」
 御木本は、振り返る。確かに、その男の身なりは武士のようだが、帯刀していない。
「それに俺たちがなぜ頭を下げる必要がある。この時代、異国人は丁重に扱われるんじゃないのか」
 深く考えなかったが、うかつだった。幕末といえば尊皇攘夷だ。外国人には最も危険な時代ではないのか。生麦事件の例もある。外国人が殺傷されたことは覚えているが、詳細が思い出せない。しかし、今、俺たちが歩いている場所からそう離れていないはずだ。
「歴史の本を持ってくるべきだったな」御木本はつぶやいた。
「おい、ミック。家があるぞ。ウキヨエみたいだな」
 前方に街道沿いに家が並んでいるのが見える。ちょっとした宿場のようだ。
 確かに東海道五十三次で見たような瓦葺きの木造家屋の家並みだ。時代劇や映画では見慣れているし、考えてみればわずか百数十年前の家だ。未知の建築などではない。それでも違和感がある。いや、ここではこれが正常で、異物は俺のほうかもしれない。
「あそこで一服できそうだ」御木本がそう言ったとき、背後から微かな地響きが聞こえた。振り返った御木本は林のこずえの間に異様なものを見た。
 それは黒い巨人の頭だった。
 高くそびえる人型の機械。手足は直線的な板から構成されており、肩には金の家紋が入っている。三つ葉葵だ。
 周囲の木の高さから察して、十数メートルはあるだろう。その身の丈の二倍はある長大な槍を肩にしている。その足元の地面には、長い行列が続いている。槍、籠、弓、長持を持つ者、騎馬、徒歩の侍……。
 参勤交代か――少なくとも大名行列だ。
 こちらは怪しい身なりだし、見つかればややこしいことになるのは確実だ。
 思い出した。生麦事件とは、まさに大名行列と外国人が衝突して殺傷された事件だった。
「マーキス! 見つかるのはまずい。隠れるぞ」
 御木本は周囲を見渡し、密生した草むらを見つけた。二人で潜り込む。
 マーキスは、興味津々でカメラを回す。
 身を乗り出そうとするマーキスの肩を御木本は必死で抑え込む。
「あれはいったいなんだ?」
「大名の行列だ」
「あの先頭の巨人だよ」
「知らん」
 巨人の視線から見下ろされると見つかりそうだったが、幸いにも茂みには背の高い葦が密生していた。
 あんな機械がこの時代にあるはずはない。巨人はいままさに目の前をゆっくり通り過ぎていく。手足や体の表面は漆で覆われているらしく、艶やかに輝いている。エンジンのような騒々しい駆動音も耳障りな軋みもない。歩みは滑らかだ。踏み下ろす足は、音を立てて地面に重々しくめり込み、威圧感を与える。足音はしだいに近づいてくる。
 音もなく、ふいに巨岩のように目の前に足が降ってきた。
 そして地面にめり込んだ足が――上がらない。
 巨人は目の前で歩みを止めていた。
 見つかったか?
 御木本は目を上げることができなかった。おそらく、巨人が発散する強大な力と物理的存在を目の当たりにしているからではない。あの葵の紋が、この時代では最高権力の印なのだ、ということが畏怖の念を生じさせたのかもしれない。
 額から垂れる汗が目に滑り込んできた。
 かかとの板の隙間からは、密な蛇腹がちらりと覗いている。あれが腱なのだろうか。
 息苦しい数十秒。マーキスもさすがに緊張感を感じたらしく、姿勢を低くしたまま、無言で物問いたげな視線を送ってくる。
 やがて巨人は行進を再開し、行列も続いた。
 行列は徒歩の速度で進む。葵の紋ということは、尾張か紀伊のどちらなのだろう。長持にも金色の紋が燦めいている。統制は取れているが、徒歩の侍の中には、あくびをかみ殺しながら歩んでいる者もいる。
 最後の人影が反対方向に消えるまで、一時間弱くらいかかった。
「もういいだろう」御木本は溜め息を漏らした。
「なかなか面白かったぞ」マーキスは満足げに立ち上がった。
 二人は行列が向かった北に足を向けた。
 道の傍らに幟を立てた茶屋がある。
 長椅子には、旅人が二、三人腰掛けて、団子や茶を飲み食いしている。
 先に行くマーキスは、その茶屋にふらりと足を向けた。
 御木本がマーキスを制止しようとしたとき、奥から、のれんをかき分けて中から娘が顔を出した。頭には白い頭巾をかぶり、前掛けをしている。
 娘はマーキスを見て驚きもしない。
 もしかしてこの時代には、未来からすでに多くの人間が来ているのか。そうならばつじつまは合う。
 しかし、もしそうなら歴史が変わってしまうのではないか?
 マーキスが身振り手振りで娘と会話を始める。マーキスのほうが適応力が高いようだった。
 御木本は、娘が返した言葉に目を剥いた。
「ティー? ドゥ・ユー・ワント? イエース!」
 たどたどしいが確かに英語を話している。茶店の娘が?
 現代ならいざしらず、この時代、英語は、オランダ語よりはるかに話者が限られているはずだ。
 マーキスは娘と会話を続け、団子を注文した。
「どうやって払うんだ」
 御木本は耳打ちした。
「なんとかなるさ」
 マーキスは、その娘にちょっかいを出しはじめた。隣に座らせ、いろいろと質問をする。娘は異国人には慣れているようで最初は素っ気なかったが、頬を緩め、こっけいな身振りに笑い声を上げた。
 料金を支払う段になって、マーキスの差し出した爪の先ほどの金の粒でも、娘はとんでもないと首を振った。奥から年配の店主を呼んできたが、この男も首を振る。
お困りかな、異国の方Can I help you?
 また英語だ。Canが明らかにクイーンズ・イングリッシュだった。

西暦一九一〇年の江戸

 この時代ではキングス・イングリッシュ、だったか?
 言葉をかけたのは三十半ばの無刀の武士だった。少し離れた席で一服していたらしい。
 髪は髷ではなく、この時代で言えばザンギリ頭。
 侍は滑らかな英語で続けた。
「艦隊の方ではないようだな)」
「いや」
「ああ、そうするとオーストラリアの方がたか」
「ああ」
 マーキスが答えた。御木本に目配せする。相手が納得したのならひとまずそのようにしよう、ということらしい。
「や、失敬。拙者は、外国奉行配下の御書翰掛ごしょかんがかり祐筆ゆうひつの高田直柾なおまさと申す。金子きんすの替え様がなければ拙者が立て替えよう。いや、怪しい者ではない。所用を果たして江戸に戻る途中でな」
 映画の吹き替えを見ているように、見かけと言葉がどうも一致しない。
 高田は、供は連れていないが、羽織、袴からは気品が感じられ、かなりの身分と思われる。
「こちらはマーキス。俺は……御木本です」
「どちらに行かれる」
「江戸まで……ひとつ伺いたいのですが。そもそも今は何年でござる――いや、何年ですか?」
 オーストラリア方言のマネをする自信がない御木本は日本語で返した。どう話すべきかちょっと混乱した。
「明豊四十五年だが」
 聞き方がまずかった、と一瞬思った。
「……グレゴリオ暦では一九一〇年となりますな」
 一九一〇年。
 明治維新はどうなったんだ?
 マーキスが会話を理解していないのを見て取って、高田は英語に戻った。
「拙者は江戸に向かうところ。よければ同道いたそう。馬で来られたのか」
「いや……」
「品川まではまだ十里ほどありますぞ……しばし待たれい」
 高田は、通りの向かい側の大きな商店に入り、何事か交渉しているようだった。
 品川・横浜間は確か鉄道が最初に通った区間だったはずだ。明治維新が起きていれば。
 高田は、しばらくして二頭の馬を引いて戻ってきた。ある程度の身分であれば、乗馬はできて当然と思われているようだった。マーキスはアメリカの別荘に自分の馬を持っているし、御木本も一通りは乗馬はできる。マーキスのビデオで、馬に乗って国立公園を横断する、という企画に付き合わされたこともある。
 三人は、緩い足並みで馬を走らせた。馬具の仕組みが違うので、マーキスも御木本も最初は戸惑ったが、高田が説明し、走らせるうちに徐々に慣れてきた。
 高田は、道すがら説明した。
「異国の方には親身に世話をせよとのお達しも出ているが、拙者はそうでなくとも、このように異国の方と語るのが楽しいのだ。籠を使ってもよいのだが、天気も良いし、諸兄らとちと語りたい。正直申せば諸国事情の見聞を広めるのも拙者の務めでもあるし、拙者の英語も使わねば鈍るでな」
 やはりこの江戸は違うのだ。が。
「それは?」高田がマーキスが手にしたカメラを見て、興味深げに聞いた。
「これは……写真機、だ」
「ほう。ずいぶんと小さいものですな。貴殿らはなにゆえ江戸へ?」
 丁寧ではあるが、それとなく探りを入れられているようだ。
「俺たちは……新聞記者だ。江戸の様子を見学に来たんだ。ちょっと待ってくれ」マーキスは馬を止め、スマートフォンを取りだして、高田に見せた。
「これは俺が書いた記事だ」
 高田は画面を見る前にスマートフォンを見て目を見張った。
「それは……《てなんと》の御札ぎょふだではないか」
「なんだって?」マーキスが聞き返す。「なんのことだかは知らないが。これは、手帳のようなものだ。一口では説明しにくいが、我々の……国では広く使われている」
「そこもとらは本当に《てなんと》ではないのだな」高田は困惑しているようだった。
 御木本が画面をのぞき込むと、それはマーキスがオーストラリアの新聞社に寄稿した記事だった。
 なるほど。この時代の人間は活字になっているものは信用するだろうな。新聞はもうこの時代には生まれていたはずだ。果たして、高田は、新聞記者という説明に納得したようだ。
「なあ、高田さん、ハラキリというのはどうやったら見られるんだ」マーキスが聞く。
 高田は、眉をひそめた。
「……ハラキリは見世物ではござらんぞ」
「まあハラキリはともかく、いろいろと見学させてください」マーキスに目配せしながら話題をすり替える。
「それは承った。一昔前であれば、いろいろと秘密にせねばならんことも多いが、執権殿の方針は、もとの実情を諸国に伝えよとのこと。今のお江戸の繁栄は、すべては先代の執権殿のおかげなのだ」
 高田は、馬を走らせながら話した。
 今から約六十年前に、大老であった旗野正恒が執権という役職を復活させ、幕府の実権を掌握した。この不世出の外交の天才の指導のもと、幕府はすみやかに開国を決断した。
 十年間で多くの改革が行われた。まずは老中を家名ではなく実力主義に基づいて改組し、将軍の権力を限定した。実質的権限は、老中が握り、諸藩からは有能な人材を引き抜いた。
 そのうえで、フランス、イギリス、オランダ、ロシアなど、諸国の利害関係を分析し、徹底した情報収集を行ったらしい。また中国と東南アジアでの植民地支配の実情も視察させていた。
「尊王攘夷は? 倒幕運動は?」御木本は聞かずにおれなかった。
 高田は首をかしげた。
 御木本は口が滑った、と思った。
とは、はて、なんのことかな。確かに幕府を転覆せんとする野菊隊という輩はおる。義賊をかたって毛利家最後の生き残りの姫が頭目であるとか言っておるが、大したものではない」
「これは失礼。俺は日本人で日本語を話しますが、長い間、異国で過ごしていたのです」
 御木本は言い訳のように説明したが、これはあながち嘘ではない。
「かつては、そこもとのように海外で過ごしたというだけで国外追放されていたものだが、旗野様は逆に、そのような人材を各国に送り出し、学ばせたのです」
「ですが……吉田松陰は? 高杉晋作は? 西郷隆盛――いや吉之助は? 高野長英は?」
 高田はどの名前にも聞き覚えがないようだった。
 存命なら教科書で習う名前とは違う名前かもしれない、と頭をよぎった。
「桂小五郎は? 勝海舟は? 岩倉具視は? 大久保利通は?」
 しかし、他のどんな名前を出しても、高田は一人も知らないようだった。
「よもや幕府にあだなす人物であれば拙者が知らぬはずはない」
 幕末の有名人物は、この日本には
 ここは元の歴史とはまったく違う。
 着いた先がこれほど違うというのに、本当に元の世界に戻れるのだろうか。未練は捨てたはずだが、御木本は確かめずにはいられなかった。が、マーキスが御木本を小突いた。
 高田は少々イライラしてきたようだ。しぶしぶ御木本はこの話題を追求するのを止めた。
「どうやら歴史書など持ってきても役に立たないようだな」マーキスが小声でささやいた。
 しばらく黙っていた高田が言った。
「……とは言うものの、幕府に不満を持つ者は確かにおる。オールド・サムライと呼んでおるが、銃刀禁止令を承服せず、刀を手放そうとせんのだ」
 高田によると、幕府は、新武士道による武士の意識改革を進めていた。その一方、アメリカやヨーロッパでは、移民を徹底排斥し。世界の状況が異なるのは日本だけではないということだ。
 三人は、峠のようになっている個所に差し掛かった。高田は水平線を指さした。
 はるかに神奈川沖が見渡せた。
 建物がほとんどないので、寂れた海岸のように見える。
 彼方の沖合には、大型の蒸気外輪船と帆船が碇泊している。三十数隻はいそうだ。
「あれは……甲鉄艦アイアンクラッドというやつか」マーキスがつぶやく。
 いくつかの大型艦は、転覆して船底を見せているような奇妙な形だった。
 黒光りする表面は鋼鉄で覆われているらしい。現代の最新ステルス艦に奇妙に似ている。
「あれは《独立艦隊》と呼ばれている。安心されい。敵意はござらん。欧米諸国の正規海軍から逃れてきた艦隊と、民間の船だ。船上の反乱は、失敗すればいずこの国でも死刑であろう。仮に成功しても行き場所を失う。よほどのことでなければあそこまですまい。ほれ、あそこに土地を与えて仮に住まわせている」
 高田が指す先には、集落というより、一つの町があった。その町は、高い壁に取り囲まれている。十メートルほどもあるだろうか。煉瓦の建物も三軒ばかりあるが、他は木造だ。
「《艦隊村》と呼ばれているのだが、少しずつ増えてきて、今は二千人はいるだろう。独立艦隊に合流した居留民の多くは、戦闘員・非戦闘員にかかわらず艦隊村に住んでいる」
「あの壁はなんだ」マーキスが顔をしかめた。
「あれではまるで隔離しているようだが」
「旗野様は変わられた。以前は、艦隊ともうまくやっていたのだがな。あの壁は、一週間ほど前から急に建てられたのだ。《横浜壁》と呼ばれている。あの艦隊村とはいまもめておるが、我が国としては異国の方の来訪は歓迎しておる」
 高田は、外国人排斥が激化するまで、スコットランドに一年留学していたという。
「幕府の方は、みな高田さんのように流暢なのですか」
「そういうわけでもない。拙者はたまたま語学の才があったので、特に英語役――通称英語侍の一人として重用いただき、外交――と言っても今は独立艦隊の連中が主だが――での交渉の任などを奉じている。特に、独立艦隊の指揮官、ホレイショ・マッカーサー提督がスコットランドの出なので、交渉には都合がよいのだ。まあ彼もまだ若くて扱いには苦労するが」
 高田はほほ笑んだ。
 日が暮れる前に、三人は、にぎやかな宿場に差し掛かっていた。さまざまな店が立ち並び、かなりの規模がある。
「ここが品川の宿だ。江戸での宿はお決まりかな」
「いや」
「では今しばらくご同道されよ。折良く、旗野様もいらっしゃる。今宵は拙者がもてなそう」

品川宿

「これほどの町でも建物はすべて木造なんだな」マーキスが物珍し気に、あたりの風景を撮影する。カメラはたなごころに収まるので目立たず、そもそも何をしているのか理解されていないので、行き交う人々には警戒されていないようだ。
 御木本は、歴史保存地区として倉敷などに再現された町並みを思い出した。しかし、この町並みは、それらより見かけは飾り気に欠けているとしても、使い込まれた本物だけが持つ雰囲気をたたえていた。だが、その一方で、これらがすべて本物だということが信じられない非現実感もある。
 店先の障子、店頭に積まれた樽、樽を載せた荷車、うどんの屋台……。
 どこかで一度は見た光景だが、現代ではその片鱗しか残っていない世界。
 日本はかつて、ほとんどすべてが木と紙で作られた文明だったのだ、と御木本は実感した。
 西洋の石や煉瓦の建築に対し、日本では建物の壁も柱も床も木製だ。屋根も瓦葺きでなければ茅葺き。
 食器にしても西洋ではナイフやフォークは金属であるのに対して、日本の箸や椀は(瀬戸物は別にしても)木製だ。
 ここには、一九一〇年ならあるはずの鉄製品や煉瓦造りの建物は見られない。
 鎖国したという西洋諸国との貿易が停止しているので、技術の進歩が遅れているのか。あるいは日本だけでなく、世界的な鎖国の影響で、世界全体の技術革新が停滞しているのかもしれない。
 しかし。それは「停滞」と決めつけるのは早計かもしれない。
「昔、小栗上野介という幕府の役人がアメリカを訪問したとき、ネジを一本、持って帰ったそうだ」御木本がマーキスに小声で言った。
「なぜ?」マーキスが聞き返す。
「当時の日本は、建築も器物もほとんど木だ。鉄を規格化された部品として使うという発想がなかったからな。感銘を受けたんだろう」
「そいつは今、この世界にいるのかな」
「どうだろうな」
 街道沿いに小屋があり、その周囲に人だかりがしている。
「あれはなんだ」マーキスが高田に尋ねた。
「あれは高札と上映小屋だが……説明するより見たほうが早かろう」
 小さな小屋の入り口は開け放たれ、十数人ほどが詰めかけている。
「あれは……」
 前方の暗い空間に立体映像が投影されている。どこからどのように投影しているのかは分からない。
 それは海辺に建築されつつある壁の映像だった。録音されたらしい雑音混じりの音声が流れ、横浜で「壁」の建築が始まった、ということを説明している。
「幕府が周知すべき事柄は、日に何度か、こうやって伝えているのだ」
 ニュースというより、公報のようなものらしい。
 御木本はカメラの歴史上、立体視するための写真機と投影機が極めて初期から存在することは知っていた。
 しかし、これは単純な仕組みではない。解像度はそれほど鮮明でもないが、この時代に存在するはずがない異質な技術だ。映像は、七、八分ほどで終了し、最初に戻ってループしている。
 高田が目配せをして、マーキスと御木本は外に出た。
「マーキス、お前、ここで動画投稿すればいいんじゃないのか」
「そりゃいいかもな」
 マーキスは歩きながらしばらく考え込んでいた。こいつ、本気でその方法を考えているのか?
 三人は、日が暮れる前に、小高い丘の上にある大きな旅籠に着いた。看板には相模屋、とある。
 三人は、座敷の準備が整うまで、別室で待たされた。
 やがて、離れに通された。
 植え込みもきれいに刈り込まれ、手入れと掃除の行き届いた庭。不規則な形の踏み石を踏み、案内されたのは、三十畳ほどの大広間である。
 奥は畳、手前は板の間で、四人掛けのテーブル席が四つあり、異国人八名と和装が十名いた。和装の人々の三人は風貌からして異国出身のようであった。異国人は、海軍士官らしい軍服が四名、裕福な商人らしいジャケット姿が四名。もう一人、奥のほうにひっそりと座っている男がいた。
 二階建ての離れの窓からは海の景色が一望できる。外はすでに日が沈み、沖合のまっ暗な海面では漁火が点々とともり始めていた。その海面には、巨大な船のようなものが白く浮かび上がっていた。
 それはこの世界において御木本と同じく異質な存在――存在するはずがないものだった。
「あれはなんです?」御木本が高田に尋ねた。
「あれは城船です。店人てなんとの船ですよ」
「テナント? 先ほども言われたな」
「かつては外国の方を『異人』と言っていたが、今は、異人とは店人のことを指すのです」
 高田は説明した。
「五十年前、あの城船しろふねが神奈川沖に来航しました」
 来訪者は「店人てなんと」と呼ばれ、数々の驚異的な先進技術を示したという。
「幕府に開国を要求したのは、西洋諸国だけではなかったのです」
「その店人というのがそうなのか」
「さよう」
 三人は席に座った。会談の後の余興らしい。客はくつろいだ様子で歓談している。
 マーキスは、小型三脚でテーブルの上にカメラを固定した。
 グラスには赤ワインとおぼしき酒が注がれた。
 前座を務める半玉(芸者見習い)と地方(伴奏者)が二名ずつ入ってきて会釈をし、舞いが始まった。
 御木本は舞をじかに見る機会などはなく、良しあしなどは分からなかった。
 半玉の舞には、いささかたどたどしい所作があったものの、一人は露草色の明るい青、もう一人は柘榴色の深い赤の振り袖が揺れるさまは良いものだった。
 しかし、これくらいなら今でも京都の祇園コーナーあたりで見られるんじゃないか、と御木本は思った。
 高田も舞など接待で見飽きているのか、たいして関心を示さず、店人の説明を続けた。
 かつて店人たちの代理と名乗る人物が、日本との通商を要求した。旗野正恒――先代執権の旗野は、諸国が通商を躊躇する間、機先を制して条約を締結し、店人が開示した技術をいち早く取り入れた。
 特殊な液体に木材を漬けてから鍛造し、鋼鉄より固くする技術。これは甲木こうぼくと呼ばれる。
 微弱電流による刺激で人工筋肉のように強力に収縮する「強織紙つよおりがみ」。
 これらは木紙ぼくし技術と総称される。他にも、映像投影機などを提供したという。小屋で見かけたものだろう。
 マーキスと顔を見合わせる。
 彼らも未来から来た連中だろうか。もしそうだとすると、当然、俺たちの時代からではない。
 だが、応用技術ばかりで、産業革命につながるような基礎技術はないらしい。
 つまり、幕府は店人に継続的に依存しなければならないのだ。
 江戸では約五十年前から人型木製機械、木徒ボクトの生産が開始された。
「ボクト?」
「いずれ目にするでしょう」高田は秘密めかして言った。
「そのような技術の取り引きの対価になるものが江戸ここにあるのか?」マーキスが訊いた。
「それについては、拙者はよく知らん。だが」
 高田はしかめ面をした。
「一部では妙な噂が流れて困っているのだ。幕府が公にできないような取り引きであるとな」
「その店人たちとやらには会えないのか」
「あのものたちは、ごらんのように城船を台場に係留し、公儀はそれを受け入れた。店人たちは、ほとんど姿を見せない。しかし、ほれ、あの奥に座っているのが店人です」
 その男は、一見、洋装の日本人と見えた。「異人」といってもそう違いはないのだろうか。変わった点があると言えば、手に黒い札のようなものを持ち、見入っている。舞には興味がないらしく、他の人と話をするでもない。
 マーキスがささやいた。
「ミック、この店人という連中だが……」
「ああ。間違いない。俺たちと同じように未来……あるいは他の世界から来たんだろうな。どうするんだ?」
「まだ分からない。下手に俺たちのことを隠すのは逆効果かもしれない。他の人間がこの時代に来ている可能性は考えていたが、ここまで大々的に干渉しているとはな」
 半玉の舞はいつの間にか終わっていた。中年の男がぺこぺこ頭を下げながら、舞台に進み出た。
「こちらの宿の主人を務める長倉と申します。皆様、本日は、手前どもの淡紅藤うすべにふじの舞をお楽しみにしておいでだったと思います。たいへん恐縮ながら不都合があり、急遽代役を立てさせていただきます。淡紅藤の舞に劣らないものでございますので、どうぞご覧ください」
 そう挨拶して引っ込んだ。
 やがて、豪華な衣装をまとった大柄な人物が静々と出てきた。
 が、それは人間ではなかった。

ボクトの舞

「からくり人形か?」御木本はつぶやいた。
 高田は答えず、御木本の驚きを見て、笑みを浮かべている。
 衣装から覗く腕、足、胴体は、シンプルだが緩やかな曲線を描いている。その表面は艶やかに磨き上げられた、真紅の漆塗りだ。
 手には扇子を、顔には般若面を付けている。
 それは、ゆるやかに舞い始める。
 所作は滑らかで、人と見分けが付かない。音がまったくしないのでぜんまい仕掛けではない。また、文楽――人形浄瑠璃のように背後から操っているのでも、上から糸で操作しているのでもない。
 江戸に来ればなにか変わったものが見られると期待はしていたが、まさかこのようなものを目にするとは。
 舞は緩急を付けながら、徐々に激しい所作を加えていく。
 歌も説明も一切なかったが、所作から重大な問題に苦悩する女性の心情を表していると感じられた。それほどその表現は静かながらも雄弁であった。
 御木本とマーキスは、その舞に見入った。二人だけでなく、高田を含め、その場の全員が、その美しい存在から目を離すことができなかった。
 いつの間にかその舞は終わり、人形は舞台の中央で静止していた。
 人形の胸部が突然割れ、左右に開いた。そこには一人の女が収まっていた。女は、付けていた般若面はそのままに、上半身を折って深く一礼した。
 周囲から拍手が沸き起こった。
 人形をまとった女は、拍手を背に舞台から退いた。
「これが先ほど申したボクトですよ」
「なるほど、見事なものだ」御木本は心底、感じ入った。
 一同が舞をほめそやしている間に、一人の地味な羽織の男が座敷の後ろから現れた。それに気づいた何人かは居住まいを正そうとしたが、男はそれを制し、空席だった上座に座った。
「あちらが旗野殿。お引き合わせしよう」高田は、マーキスと御木本を伴って旗野に近づいた。
「旗野様」
「おう。高田。戻ったか」
「こちらは私の客人でマーキスどのと御木本どのです。オーストラリアから参られたそうで」
「そうか。まあまずは楽にされい。今宵は無礼講じゃ」
 旗野は、二人に笑顔で声をかけた。これが幕府の最高実力者。御木本はどうすればいいのかよく分からなかったが、形式にはこだわらない相手と見えたので、深く会釈をした。マーキスもそれを見習った。
「せっかくの木徒舞を見逃してしまいましたな」高田が言った。
「今日は、淡紅藤うすべにふじは出ないと長倉が恐縮しておったが」
「それが、代役で出たボクトが予想外に良かったので、皆で感心しておったのです」
 旗野はふいに英語で話しかけた。
「マーキスどのだったか。江戸はいかがかな?」
「まあまあですね」
 御木本はそのもの言いに肝を冷やしたが、旗野はマーキスの言葉に大笑した。
「品川は江戸の外れだからな。ここに着いたばかりでは江戸を見たとはいえまい……聞くところによるとオーストラリアでは白豪主義というのを掲げているそうだな」
「それが窮屈で、こちらのミックと逃げてきたわけです」
「ふむ。しかし、それはここに来た本当の理由ではあるまい」
 薄く笑みを浮かべた顔と裏腹に、切り込むような旗野の言葉に、御木本は額に汗がにじむのを感じた。
「ハラキリですよ。ハラキリが見たくてね」
「……切腹は見世物ではないが――世がまた騒がしくなりつつある。まあいずれ見られる機会もあるかもしれんな」
 旗野は探るような視線でマーキスと御木本を眺めた。
「儂も昨今はなかなか忙しい身ではあるが、異国の方と話すのも久方ぶり。ここ品川でも目にするものもいろいろと珍しいものがあるのではないか」
「ええ、先ほど拝見したボクトもそうですね」マーキスは、今度は素直に答えた。
 御木本は、場の雰囲気から、あまり遠慮してかしこまっていると軽んじられそうに感じた。異国からの客人という身分で丁重に扱われているのだから、相手が幕府の中枢とはいえ、それなりに会話に参加すべきだろう。
「旗野様。ひとつ伺ってよろしいですか」
「ミキモトどの、と申されたな。なんなりと」
「武士の方々で帯刀している方がいないのはなぜですか」
「先代の執権、旗野正恒が――儂の父でもあるが――銃刀禁止令を発したのでな。江戸の治安は、ボクトによって十分に守られておる」
「そもそもボクトというのは……」
 高田が代わってボクトの説明を始めた。それによると、ボクトの四肢は《強織紙つよおりがみ》で駆動される。店人により自律的知性《個霊こだま》を与えられ、人間と契約して共存する。ボクトと契りを交わし、ボクト内部から操る技能を持つ人々は操士そうしと呼ばれる。
 舞を舞うボクトの他にも、裕福な商人がもっぱら鑑賞向け、奉行所などの公的権力で働く与力向けなど、大きさや特技はさまざまである。
「巨人ならさっき大名行列で見たぞ」マーキスが言った。
「ああ。尾張の一行ですな。そう、あれが城ボクトです。およそこの世の中にあれほど強力な兵器はありますまい。強化された甲木は火にも耐えるので、ボクトは火消しでも使われているほどです大名が威儀を示すにふさわしいものです。あまりに強力なので、一国一城ボクトと定めております。無論、幕府はその限りではありませんが」
「しかしいくら大型だろうと大砲――大筒で撃ったら壊れるのでは」御木本が訊いた。
「大筒の弾など痒くもない。それくらいは蠅のように払いのけよう」
 旗野は呵呵と笑った。
「確かに木紙技術をもたらしたのは店人だが、それを発展させ、改良したのは江戸の職人たちでな。職人たちは木紙工芸の極みに達したといえよう。有能な職人は厚遇しておる」
 高田が声をかけた。
「旗野様。明日は独立艦隊との会合のため、そろそろ」
「うむ」
 旗野はしばらく考えていた。
「マーキス殿と御木本殿もお連れしてはどうだ。ご両人ともよい機会ではないかな」
「それはよいですな」高田はそう答えたが、旗野がなぜそのようなことを言い出したのか不審げだった。
 だが、執権の言葉とあればむげにできない。
「いかがかな」
「ぜひ同道させていただきたい」マーキスの顔が輝いた。

独立艦隊

 その夜、マーキスたちは、品川宿に一泊した。
 翌早朝、三人は出発の準備を整えた。
 高田は、旗野と遅くまで密談をしており、なぜか顔色が悪かった。
「こちらにもご同行いただくことになった」高田が紹介した。
「操士の九鬼くき推子すいこです。どうぞよろしく」
 昨日、舞を見せた女だった。傍らには昨夜の紅いボクトが立っている。
「こちらは私の相棒、《コキ》」
 ボクトは軽く会釈をしてみせた。人が乗っていなくても動くのだ。
「こちらがマーキスで、俺が御木本だ」
「ほう。マーキスどのは大きいな」推子は無遠慮にマーキスを見上げて微笑んだ。
 推子は百六十センチくらいで、この時代の女性にしては大柄に属するのかもしれない。空手着のような服を着ており、細身の腕は引き締まっている。年は二十代前半と見えた。
「昨日得た情報によると、昨今、横浜に至る街道で、不逞の輩が外国からの客人を狙っているとのこと」高田が不安げな顔で告げた。
「不逞の輩?」
「以前に話したと思うがオールド・サムライという連中でな。拙者も心得はあるが、公儀の役人として刀は使えぬし、万が一を考えてな」
 そういう高田は、腰に細身の木刀を差していた。
「……なるほど」
「本来であれば幕府の客人としてこちらから護衛を提供すべきだが、こちらも人手不足でな」高田は言い訳をした。
「貴殿らはなにか武装はお持ちですか」推子が訊いた。
「いや、特には」マーキスが答えた。「だが、こちらのミックは武術の心得があり、俺の護衛を頼んでいる」
「それでは私たちの出番はないかな」推子がつまらなさそうに言った。
「いやいや。よければぜひご一緒に」マーキスは、推子にも間近で見るボクトにも興味津々だった。
「そうか。安心されよ。オールド・サムライが束になってかかろうと《コキ》の敵ではないが」推子と名のる女は無邪気な笑顔を見せた。
 昨夜見た軽やかな舞が、武術として発揮されれば、確かに相当の威力となるだろう。武術の心得がある御木本には、そのことは簡単に想像できた。
「だが、もし敵が真剣で襲い掛かってきたら?」
 御木本は思わずつぶやいた。
「私の力をお疑いですか?」
 ボクトが声を発した。
 木の塊がしゃべるだと? ボクトが人語を話すと聞いてはいたものの、御木本は不意を突かれた。
 声は中性的で、どちらかというと男に近いが、人間とは響き方が違う。口は見当たらず、どうやって発声しているのか分からない。
 しかし、考えてみればスマートフォンやスピーカーだって金属やプラスチックが話しているようなものだ。何らかの機械仕掛けであることは間違いない。仕組みを知らないから不思議に見えるだけだ。
 ボクトは近くで見ると、かなり大きい。二メートル前後はありそうだ。
「そうではないが……あんたの武装は?」
「私が武装です。私の特技は舞だけではありませんよ。信じられないなら刀で試しましょうか」
「《コキ》どの。そんな時間はありませんぞ」と高田がたしなめた。
「ボクトは奉行所にも勤め、江戸の治安を守り、要人の警護にも使われております。ご安心めされい。念のため、貴殿らもこちらを」
 高田は木刀を差し出した。見かけより重い。
 真剣相手にこれで勝てるだろうか。御木本は、丈夫な紐を用意してもらい、腰に結びつけることにした。
 御木本の不安は拭えないまま、一行は出発した。高田、マーキス、御木本は再び馬に乗り、推子は《コキ》の肩に乗って横浜村に向かった。品川宿から二時間弱の道のりだ。
 横浜村は、上陸地点の少し南になるが、むろん高田にそのことを告げるつもりはなかった。
 御木本は、ボクトが馬の駆け足になんなく付いてくるのを見て舌を巻いた。上下動もさほどなく、推子は長い髪を風に靡かせている。乗馬よりも快適にも見えた。
「マーキス殿が来ていただいて助かります」高田が言った。
「独立艦隊の立場はちとややこしい。連中は、元の国の圧力から逃れてきたわけだが、日本に帰化を希望する人とは違うのだ。我々としては平和的に受け入れたいのだが、諸国の反感を買うのは避けたい。おまけに武力も持っている。解散してもらうのも手だが、交渉の切り札をちらつかせておってな」苦笑いする。
「今回の会合は定期的に行っているもので、緊急のものではない。幕府にも外国出身者はおりますが、前にも申したように提督は若くて気難しい男でな。幕府側の外国人は、なんとなく裏切り者のような目で見てしまうのだろう。第三者として他の国の方がおられたほうが、場が和むかもしれん」
 独立艦隊は、一種のお荷物なのだろう。
「しかし、向こうはどうだろう。我々がいきなり加わると気にするのではないか」御木本が訊いた。
「もし断られたととしても、独立艦隊を間近に見られるのは損ではありますまい」
 御木本は、手綱さばきにかなり慣れてきた。
 美しい自然が残る海岸線を乗馬するのは爽快だった。
 一行は、予定より少し早く、一時間半ほどで横浜村に到着した。
「横浜村には、元からの日本人と、海外出身で日本に帰化した人たちが住んでいます」高田が説明した。
「港はこちらでござる」
 横浜には、さほど大きくはないが港がある。
「ここには外国船は少ないのだな」とマーキス。
「多くの国が鎖国している結果、入港する船は少ないのだ。船の大半はあちらの独立艦隊にいる」高田が指さした。沖合を見ると、その艦隊が帆を連ねている。煙突を持つ蒸気船も多いが、帆と併用している船も多い。
 三十数隻の帆船は、艦隊というには大きさも形状も雑多だったが、それが集結した様はまさに壮観だった。半数以上が砲塔を装備した軍艦である。船は、どれも青地一色の旗を掲げている。
 一行は、小船に乗って、旗艦インヴァネス号に向かった。大型甲鉄艦である。
「公儀の高田だ。お約束のとおり、提督との会見に参った」船に近づくと大声で来意を告げた。
「そちらの方々は?」甲板から士官が尋ねた。
「護衛とオーストラリアの新聞記者たちだ。同行を希望されている」
「しばらく待たれい。提督と艦長に確認する」
 小船の中で五分ほど待たされた後、再び声が掛かった。
「乗船許可が出た。ボクトと操士の方以外は乗船されたい」
 高田が推子と《コキ》を申し訳なさそうに見やる。
「予想されていたことです。船内ではくせ者に会う危険はなかろうし、我々は横浜村に戻って待ちます」推子はあっさりと受け入れた。
 マーキスたちは、垂らされた縄梯子を上って甲板に出た。
 甲板で働く乗員は、欧米系、アフリカ系、アジア系と服装も風貌も様々であり、混成であることが伺えた。
 とはいえ、碇泊している今は、手持ち無沙汰のようにも見える。軍服には汚れやほつれがあり、流浪の立場であることは隠せない。全体の統制が取れていることが奇跡的とも思える。
 痩せ気味の若い士官が出迎えに現れ、敬礼した。
 この男が提督? 三十前後としか見えない。
「提督、お出迎え恐縮です」高田が会釈した。
「高田さん、客人があるなら事前に連絡してもらわねば困るな」
 提督と呼ばれた若い士官は困った顔をして見せたが、それほど困っているようでもないようだ。
 三人は、艦長室に通され、高田は改めてマーキスと御木本を紹介した。士官はホレイショ・マッカーサーと名乗った。艦長も加わり、早めの昼食会を兼ねて、会合が行われた。全員が英語を話し、通訳を介す必要がないぶん、会合は一見、スムーズに進んだ。だが、議論は平行線をたどった。
 提督による、独立艦隊の現状と、艦隊村からの要望の説明。居留民は、《横浜壁》の建設に不安を覚えており、即時撤去を求めていること。
 高田による、幕府が艦隊村の拡大に難色を見せており、帰化を奨励していることの説明。
 初対面の人間を前に避けている話題もあるようだったが、事態はある程度推測できた。
 独立艦隊の「切り札」とは、製鉄を中心とする技術らしい。優秀な民間人の技術者が多数出国してきたようだ。
 だが、店人から木紙技術を手に入れた幕府には、焦って製鉄をする理由がない。特に諸外国が軒並み鎖国をしている今、世界全体で産業革命が停滞しているらしい。
 この艦隊を見ても、一九一〇年にしては遅れている。甲鉄船以外には、鉄製の船はない。帆船が半数以上もあり、二十世紀というよりは十九世紀を思わせる。服装にしても同様だ。産業と文化は密接に関連している。産業が発展しなければ、ファッションの進化も緩やかになる。
 御木本は話し合いと、そこから推測できる事実に興味を惹かれたが、マーキスは一通り映像を撮影すると、あくびをかみ殺していた。
 提督は高田を信頼はしているようだったが、主張は譲らなかった。
 二時間ほどで会見は終わった。
 高田にとって進展はなかったようだが、もともと期待していないようだった。しかし、提督の顔には焦燥と不満の色がありありと浮かんでいたことに御木本は気づいていた。
 三人は、インヴァネス号の小船で横浜港に戻った。
「マッカーサー提督は、粘り強いネゴシエーターのようだな」
「さよう。そうでなければこの若さで三十数隻の指揮を委ねられることはなかったでしょう」
「だが、提督はそろそろしびれをきらしているようだが」マーキスもしっかり観察していたようだ。
「ここの連中がいきなり江戸を攻撃してくるなんて事はないのかい」
「無理ですな。こちらが意図したわけではありませんが、非戦闘員の艦隊村は結果的に人質のような位置付けになりますし。彼らに行き場所はないのでござる。これはもう根比べの問題でしてな。いずれ提督は民間人の不満を抑えきれなくるでしょう。もともとさまざまな国の出身者の寄り合い所帯ですからな。我々は彼らがいずれ、独立艦隊を解散する決心が付くまで待つだけです」
「今回の内容は記事にしてもよろしいのか」御木本は記者めいたことを言ってみた。
「かまいませぬ。幕府としては隠すことは何もない」
 まだ昼を少し過ぎた程度だった。
「拙者は品川宿まで戻ります。そこまでご同行いただいて、その後は江戸見物でもされるとよかろう」

オールド・サムライの襲撃

 推子、《コキ》と合流して、三人は再び馬上の人となった。
「あなた方はなぜ江戸に来たんだ?」推子がマーキスに訊いた。
「見物だよ」御木本が代わりに答えたが、その配慮はあっさり裏切られた。
「俺はハラキリを見てみたいんだ」マーキスは悪びれずに答えた。「聞くところによると刀は禁止されているんだそうだな」
「なんだ、それが理由だと」推子はあきれ顔だったが、笑い出した。
「今、世は騒がしくなりつつある。いずれは腹でも腕でも首でも切られるところは見られるかもな」推子の真顔に、御木本はぞくりとするものを感じた。旗野も同じようなことを言っていた。
 この若い女は、俺よりも修羅場をくぐってきたのかもしれない。
 推子の言葉は、すぐに証明された。
 横浜村の外れまで差し掛かったとき、林から五、六人の人影が突如、現れた。
 全員、抜刀している。
「その異人だ。掛かれ!」
「《深》!」
 賊と推子の声が放たれたのがほぼ同時だった。
 推子は、《深》の肩から飛び降りて、《深》の上半身が大きく展開した。
 推子は、その中に飛び込み、瞬時に吸い込まれるように収まった。
 《深》が前に進み出て、大きな腕をグイと差し出した。
 渾身の力で同時に斬りかかった三本の真剣は前腕であっけなく弾かれる。澄んだ音が響いた。
 ボクトの甲木――強化木材は刀では斬れない。《深》の言葉が図らずも証明された。
 マーキスは一瞬呆気に取られたが、すぐに手持ちのカメラで撮影を開始した。
 自分が標的というのにあきれた奴だ。撮影に没頭する戦場カメラマンの執念なのか、それとも襲撃者の意図に気づいていないのか?
「マーキス、連中の狙いはあんただぞ」
「分かっている」
 御木本は唇をかんだ。下馬して《深》に加勢するか一瞬迷った。結局、下馬して、木刀を腰から外して手にした。
 その判断は正しかった。
 真剣の侍一人が、背後から近づいてきており、いきなり斬りかかった。
「この異国人めが!」
 反射的に刀身を右で打ち払う。相手は現代人からすれば小柄なので、体格的には御木本が有利だ。
 だが、二度、三度と打ち込んでくる切っ先は真剣。御木本の体に瞬時にアドレナリンがみなぎる。御木本にも、むろん剣道の心得はある。
 木刀は、ただの木刀ではなかった。強化処置が施された甲木であるらしく、斬撃に耐えている。
 ここまでの反撃は予想していなかったのだろう。御木本は、相手の動揺を感じ取った。これならば。
 打ち合いのリズムを崩し、畳みかけるように胸に突きを繰り出す。突かれた侍は、うめき声を上げて地面に崩れ落ちた。
 御木本が手こずっている間に、《深》は舞うような滑らかな動きで、たちまち先鋒の三名を打ちのめし、地面にたたき伏せた。残りの三名と対峙している。
 敵はこれで全部か?
 御木本は周囲を確認した。
 木の影から銃身が覗いている。
「危ない!」御木本が叫んだ。
 響いた銃声に、澄んだ音が重なった。
 何が起きたのか分からなかった。
 一瞬おいて、二発目と、澄んだ音が続く。
 もう一本の木陰から狙いを付けていたらしい。
 御木本はようやくなにが起きたか理解した。
 目の前に《深》の腕がある。関節からわずかに高密度の蛇腹――強織紙が覗く。
 三メートルは離れていた場所にいたのに、一瞬で移動し、弾の来る方向に対して、腕を差し伸べ、上腕の板に角度を付け、避弾経始により銃弾を弾いたのだ。人間業ではない、恐るべき反射神経。火薬とともにかすかに木の香りが漂った。銃弾に木がえぐられたのだろうか。
 後ろにはカメラを構えたままマーキスが呆然と佇んでいた。《深》の腕は、二箇所から来る弾丸を同時に防いだらしい。
 《深》の上半身が左右に割れ、中から推子が飛び出した。《深》は、周囲を警戒し、マーキスと御木本を保護する姿勢を取った。推子は、左右に回避運動をしながら、木に駆け寄り、短い警棒のような棒を揮った。うめき声が上がる。続いて、もう一本の木陰に潜む銃撃者も同じ運命をたどった。推子自身もまた、飛び道具相手に立ち回れるほどの使い手らしい。
 あたりが静かになった。
「ケガはありませんか」
 推子がマーキスに声を掛けた。
「……今のは?」
「銃刀禁止令に抵抗する侍たち……オールド・サムライです」高田がつぶやいた。
「ここは危ない。私についてきて」推子が促した。その口調には有無を言わせぬ強さがあった。
 三人は、丘の上に続く細い道に入った。

異人館

 推子は、三人を誘導した坂道の途中には詰め所が設けられていた。
 警備している二人組の男は、近づく一行を見て警戒したが、推子と《コキ》がいるのを見て、姿勢を正した。
 高木は不安げな面持ちだった。単に襲撃を逃れたというだけではない。
 どこかに連行されつつある、という感じだ。
「《深》、お前……」御木本は驚きの声を上げた。
 《深》の体色は、真紅からいつの間にか深い紫に変わっていた。
「私は表面色を赤、青、紫と変化させることができる」
「紫陽花のようだな」
「そのようなものだ」御木本は、ボクトが低い声で笑ったような気がした。
「ちなみに私の名、《深》とは深色こきいろ、すなわち濃い紫から来ている。これが本来の色というわけだ」
「《深》は、もともと忍びのボクトだったの」推子が説明した。
「それは奇遇だな。俺も忍びの末裔だよ」
 一行がさらに丘を登ると、林に囲まれた、緑の瓦の西洋風の瀟洒な館があった。白い壁の二階建ての館の内外には、さまざまな服装の人間が十数名おり、立ち働いていた。六割は日本人だが異国出身者も相当数いる。邸宅の敷地は広大で、傍には工房のような小屋がいくつもある。
 三人は、西洋風の広間に通された。室内には数人の屈強な男たちが控えており、推子は彼らと小声で言葉を交わした。やがてマーキスたちに向き直った。
「ここはいくつかある異人館の一つです。持ち主から提供されて、今は我々の拠点として使っています」
「我々とは?」
「我らは野菊隊」
「野菊隊!……義賊気取りで公儀に楯突く輩か」高田が呻いた。「代官を愚弄し、悪行のかぎりを尽くしたと聞く」
 一人の男が立ち上がりかけた高田の肩を押さえつけ、椅子に座らせた。
「それはあくまで幕府の言い分です」推子は冷静に応じた。
「……俺たちは騙されたわけかい、推子さん」御木本は警戒した。
「そういうことになるかもね。ただもっと上手がそこにいるけど」
 推子は高田を見やった。高田は明らかに狼狽していた。
「高田さん、あんたは最初から知っていた。自分は狙われてはいないということを」
「旗野様のご命令だったんだ……まさか本当に襲ってくるとは」高田は口ごもった。
 推子はそれを無視して、マーキスと御木本に言った。
「あんたたち未来人みらいびとでしょう」
「……そうだ」マーキスが答えた。
「未来人は全員消される。幕府によって」
「どういうことだ?」
「店人以外の未来人はじゃまだから。でも私たちはあなたたちに危害を加えるつもりはないから安心しなさい。まずは会ってほしい人がいる。こちらに」
 一行は、推子に続いて庭に出た。そこは手入れのされた美しい庭園だった。丘に沿って作られた段状のテラスと幾何学的な植え込みはイタリア風だが、どこかに和風の趣もある。そこかしこに大理石の彫刻がたたずんでいる。ギリシャ・ローマ神話の神々だろうか。テラスには、水路が通り、水が流れている。
 芝生の広場の一角には、高さ十メートルほどの木があった。
 枯れた幹の白さがまぶしい。しかし、その木が枯れきっていないことは、艶やかに生い茂る葉の緑で分かる。
 大きく曲がりくねった太い木の幹に、一体の木製人型機械が体を預けていた。
 御木本は、そのボクトが木に寄りかかっているのではなく、一体化していることに気づいた。手足、胴の表面は塗装がされておらず、木肌が露出している。その手足、胴の甲木を包み込むように白い幹が融合し、その上を蔦が這っていた。
「このような格好で失礼する」
 深い声が響いた。
「だがここはとても心地よいのでな」
 その声には笑いが含まれていた。
「こちらは真柏しんぱく。充電木から抜けられなくなった不精者だけどあなたたちの疑問に答えてくれるはず」
「では訊いていいかな。そもそも店人とは何者なんだ?」マーキスが訊いた。
「《深》、見せてあげて」推子の言葉に、《深》が膝をついた。
 御木本は、《深》を見て驚いた。その体色は、いつの間にか鮮やかな紫に変化していた。
 推子は、ふところから鍵のようなものを取り出すと、《深》の後頭部に差し込み、中に手を差し入れた。
 その手を引き出すと、指先には爪の先ほどの小片があった。
「これは骨牌カルタと呼ばれている」推子が説明した。
「これが《深》の――店人の本体です。正確には、この骨牌カルタに宿る意識が、ですが。それは個霊こだまと呼ばれています。他のボクトに差し替えれば、城ボクトであっても、この駆体同様に動かすことができます」推子は小片をすぐに元に戻した。
 《深》が身震いをした。
「店人は人間ではない? 店人がボクトだというのか」御木本が訊く。
「そうではない」真柏が答えた。
「品川宿で見た店人は何なんだ。人間にしか見えなかったぞ」
「まあ落ち着きなさい。順に説明する。店人は、すべて《仮屋かりやコンパニア》という会社を利用する者たちなのだ」真柏が答えた。
「城船も《仮屋かりやコンパニア》の所有物だ。大半のボクトは、自分が何者であるか考えようともせず、この江戸で暮らすことに満足している。だが一部の事情通は、二つの勢力に分かれている。一派は、人間の社会との融和を肯定する者たちで、ボクト派と呼ばれる。私のようにな。《深》や私のように城船に逆らおうとするボクトは非常に稀なのだ。我々の知る限り、城船の中にボクト派――味方はいない。幕府は、ボクトの技術を欲したが、まだその核心には触れていない。脳と神経系に相当する《核体》がなければ、この駆体は人の形をした頑丈な木片に過ぎない。生産の最終工程で、ボクトは城船に送られ、そこで《核体》と骨牌を供給され、完成する」
「すでに見たとおり、《核体》の代わりに人間がボクトを動かすこともできる」《深》が付け加えた。
「ボクトに宿らない店人は、何を求めているんだ」御木本が訊いた。
「もう一派はそれには満足できない者たちだ。我々は仮に生体派、と呼んでいる。生体派は、ボクトではなく、人間の肉体を使う。《核体》を使う代わりに、骨牌カルタ御札ぎょふだというものに入れることで、人間を操ることができる。それがあなたたちが品川宿でも見たものだろう。視覚を介して人間を直接制御でき、接続した映像投影機や機械も操れる」
「なるほど」
「ボクトであれ、生身であれ、「《仮屋かりやコンパニア》が、店人に求める唯一のことは、体を得て活動することだ。店人が宿る体がどんなものであれ、またどのような行動をとろうと感知しない。ただ骨牌カルタのままでいることはできない。それが取り引きなのだ」
「その骨牌は入れ替えできるといったな。店人は永遠に生きられる、ということか」御木本が訊いた。
「そうだ。だがこの《要鍵かなめかぎ》を使って取り出さないと個霊こだまは強制的に初期化されてしまう。我々が要鍵を持っていることはコンパニアも知らない秘密だ。幕府は、決して店人の味方ではない。彼らが真に欲しいのは、おそらく骨牌カルタなしのボクト――からボクトだろう。それならば店人を抜きにして力を得ることができる。しかし、《鉄の時代》を経ておらず、《木の時代》にとどまる現状では、彼らに作れるのは強化前の駆体――単なる木の人形でしかない。そのほかすべては店人に依存せざるを得ない」
「つまり、スマートフォンだな」マーキスが唐突に言った。
「なに?」
「スマートフォンと似たようなもんだ。骨牌はSIMカードというわけだ」
 なるほど。うまいたとえだ。
「もう一つの疑問は、なぜ江戸……なぜ日本なんだ?」御木本は別の疑問を口にした。
「産業革命が起きていない国は、御しやすいからだろう」
「マーキス。あなた、ここに来たのはハラキリを見たいからって言ったでしょう」推子が尋ねた。
「ああ」
「ハラキリよりももっとすごいものを見たくない?」
「ぜひ拝見したいな」
「私たちの力になってくれる?」
「それはまだ決めたわけじゃない」
「話を聞いて。ここに住む多くの者は、幕府に抵抗する強い意思を持たない」
「オールド・サムライとやらがいるじゃないか」
「あいつらは幕府に不満を抱いてるだけ。そのくせ、彼らは幕府に利用されている。主君からも見放され、独立して行動することはできない」
「ローニンは独立しているんじゃないのか」
「浪人は次の主君を捜しているだけだ。独立しているんじゃない」御木本が口を挟んだ。
「そうなのか」
「ときに、一つ訊ねるが、あんたたちはマッカーサーという男を知っているか」真柏が御木本に尋ねた。
「ああ。ホレイショ・マッカーサーだろう。独立艦隊提督の」
「ではペリーという男は?」
「ここにいるこいつがペリーだよ。マーキス・ペリー。俺はこいつ以外のペリーは知らない」
「一人も?」
「一人も、だ」御木本の心に些細な疑問が泡のように浮かんだ。マーキスはいつフルネームで名乗ったんだろう。
「なるほど……それだけ聞きたかった」
 反対尋問をした弁護士のような口調だった
「なに、ちょっとした興味だ」
 言い訳めかして付け加えたあと、真柏は黙り込んだ。その感情はボクトの顔からは伺えなかった。
「マーキス、御木本。我々に協力してくれるなら、この世界でも生きる意味を見いだせるだろう。時間はある。よく考えるんだな」《深》が言った。
「拙者はどうなる」高田が抗議の声を上げた。
「あんたも秘密を知った以上、このまま返すわけにはいかない」推子が答えた。
「仮に幕府に戻ったところで、余計なことを知った者として命を狙われるかもしれないが。ただ……」
「なんだ?」
「あんたも今の旗野のやり方には疑問を感じているのではないか?」
「……」
「それと、旗野にはある疑いが掛けられている」コキが言った。
「どういう意味だ」
「旗野は、核体を移植された店人の一人ではないか、ということだ。むろん、店人の総意ではない。生体派が、旗野正臣に店人を宿らせたのだろう。ただ、現状では確証はないが」
「殿が人間ではない……店人だと?……」高田はうつむいて押し黙った。
 マーキスは、しばらく考えて野菊隊に留まることを申し出た。
「問題ないだろうな、ミック」
「ボスはあんただよ」御木本は答えた。
「だが、ここにいることを選ぶというこということは、幕府の敵になるということだ。それでいいんだな」
「ああ」
 そのとき、一人の男が部屋に入ってきた。
「奇遇ですな、高田さん」
「ホレイショどの?……そなた、裏切ったのか」高田は声を荒らげた。

城船侵入

「その言葉は正しくない。野菊隊の方とは以前から連絡はしていますが」
「独立艦隊でホレイショがあんたに乗船さえ許さなかったのは、演技だったってわけか」マーキスがあきれ顔で言った。推子は微笑んだまま答えなかった。
「やむを得ぬことでしょう。こちらの要求が受け入れられず、居留民に危機が迫っている以上」
「危機だと?」
「艦隊村を囲む壁です」
「あれは居留民を守るためだと説明したではないか」
「それが真実でないことは高田さんもご存じのはず。なぜあのような強固な壁が必要なのか。外国出身者の噂を幕府でも聞かぬはずがない。あれがすべての外国人を封じ込めるための壁であると」
 高田はうなって口をつぐんだ。
「しかし……野菊隊と手を組むのであれば、公儀と独立艦隊は敵同士となりますぞ」
「もはや、それは避けられまい」ホレイショは溜め息をついた。
「高田どのにも我々に加わっていただいてかまわないが、どうされる?」推子がにこやかに高田に告げた。
 高田は、のろのろとうなずいた。
 異人館の傍らには簡素だが宿泊所が設けられており、マーキスたちは、そこで寝泊まりすることになった。
 それから二日が過ぎた。
 マーキスは、勇猛果敢な推子に徐々に惹かれていった。推子のカリスマに引き込まれているのは、御木本も同じだった。ジャンヌ・ダルクもこういう存在だったのかもしれない。
 御木本は、あることを打ち明ける決心をした。
「推子さん、ここは俺たちの知っている過去とあまりにも違う。だからあまり意味がないかもしれないが、ひとつ教えておくよ」
「なに?」
「俺たちは、この時代のことを『幕末』と呼んでいる」
「『幕末』……」推子はその言葉を繰り返した。「幕府の終わりということですね。いい言葉です」
「ああ。正確には幕末の約五十年後だがな。これがあんたたちにとっての幕末になるかはあんたしだいだ」
 御木本は薩長連合のことを説明した。強力な藩から出た人材が手を組み、倒幕を成し遂げたのだと。
「御木本さん……薩摩と長州はもうありません」推子は悲しげに言った。
「なんだと?」
「幕府に討伐され、どちらも今は幕領――幕府の直轄地です」
 旗野はそこまで手を回していたのか。
「高田が、野菊隊の頭目は毛利家最後の生き残りと言っていたが、あれは……」
「……私もひとつ秘密を教えましょう。いかにも、私は毛利家最後の生き残りの姫――その侍女です」
 御木本は思わず、声を上げそうになった。それを見て、推子は笑ったが、口を引き締めた。
「『幕末』を実現するものがいるとすれば、もう野菊隊しかいないのです」御木本を見る推子の目には決意がみなぎっていた。
「……」
 推子は、幕府にゆさぶりをかけ、野菊隊の支援を集めるため、日々各地に飛び回っていたが、たまの息抜きに、マーキスと馬で出かけることもあった。護衛としては御木本も同行すべき所だが、マーキスはその必要はない、と笑って断った。御木本には、マーキスが野菊隊と行動を共にすることを選んだのは、推子のためではなかったかと思えた。
 ホレイショは、本来であれば上陸許可がないと上陸できないはずだが、ここしばらくは異人館に滞在しているようだった。高田と顔を合わすと気まずそうではあったが、かねてから幕府の方針に疑問を抱いていた高田も腹を決めたようだった。
 野菊隊は、志を同じくする同様の組織と連携を取り、幕府に対する工作を行っていた。
 総数は秘密とされているが、異人館に出入りする人間の総数だけで百人前後いるらしい。
「ハラキリの撮影はどうするんだ」御木本が冗談めかして言った。
「数日中になにか派手なことをやらかすらしい」
 果たして、その日の夜に推子が招集を掛けた。主要な関係者と各班の班長を集めた作戦会議だった。
「店人の城船を攻撃する」推子が告げた。
「えらく急じゃないか」マーキスが懸念を表明した。
「攻撃といっても、城船の破壊が目的ではありません。我々は店人の生体派がなにをしているのか、正確な情報が欲しいのです」
「《深》。あんたも店人なんだろう」マーキスが訊いた。
「私を含め、ボクトは、城船の内部についてはなにも知らない。駆体と強織紙は各地で製造され、城船に運び込まれる。駆体の強化処理、核体の装着は城船の中でされると推測される。完成したボクトは、仮の骨牌を入れられ、幕府の施設に移動する。そこで正式な骨牌を入れられ、特定の家系との契りを経て、初めて意識を得る――誕生する、というわけだ」
「なるほどな。で、作戦はどういう手順なんだ?」
「独立艦隊の砲艦に、城船の周囲に威嚇射撃をして、陽動する。その間に城船に別働隊が侵入する。問題は、城船に接近する方法がないことだ」《深》が説明した。
「潜水艦はないだろうしな」御木本はだれにともなくつぶやいた。
「潜水艦はないが――方法ならあるぞ」マーキスがにやりとした。
 御木本は、マーキスの意図に気づいた。
「おい、まさか……」
 マーキスに耳打ちした。
「サスケハナ号を使うのか? あの船は俺たちの切り札だろう」
 確かに、迷彩装甲パネルは役立つだろう。しかし、必要な装備のすべてがあの船に残してある。失えば、この世界では入手不可能なものばかりだ。無論、それらはどこかに移せる。しかし、そうしたとしても、元の世界との唯一の絆とさえ言える船を危険にさらすのはためらわれた。
「ここで使わずにいつ使うんだよ。これが文字どおり、乗りかかった船というやつだ」
「……」
 マーキスがその気ならしかたない。
「マーキスどの?」推子が促した。
「俺の船なら安全に接近できる」
「そういう船があるの? それは助かります。マーキスどのと御木本どのには、戦闘に加わっていただく必要はない。その写真機で、我々の行動を記録してもらえればよい」推子が言った。
 その後、作戦の具体的な手順が検討され、決定された。
 決行は翌日の日没後と決まった。ここ数日、海上には霧が発生しており、早めの決行が良いということになったのである。
 次の日の朝、マーキスと実行部隊は、小船に幕府側に察知されないように、密かに独立艦隊に向かった。
 意外なことに、高田はここ数日で推子に心酔したのか、幕府側に戻り、野菊隊を陰から助けることを約束した。
 野菊隊に囚われていたが、自力で脱出したと口裏を合わせることとなった。
 マーキスは、スマートフォンでサスケハナ号を呼び寄せた。
 自動回避モードはうまく機能していたようで、サスケハナ号は十数分後に無傷で姿を現した。マーキスによると、なんらかの接触があった場合は、通知が来るはずだった。それがなかったので、無事であるはずとは思っていたが、御木本は改めて船を見て安心し、懐かしささえ覚えた。あまりに異質なものをここ数日見てきたからかもしれない。結局、俺は現代人ということらしい。
 ホレイショたち独立艦隊の兵士たちや、推子ら野菊隊は、マーキスの操作のままに動くサスケハナ号を見て、驚きの声を上げた。
 マーキスは、ホレイショにトランシーバーを渡して使い方を説明した。これで作戦中の連携が取れる。
 幸い、霧は今夜も立ちこめていた。
 計画通り、独立艦隊の一隻、中型の甲鉄戦列艦セミラミスとサスケハナ号は、二つの経路で品川沖の城船に接近した。
 城船は長い桟橋で陸地とつながっている。桟橋は店人側の技術で作られたもので、長さは三百メートルほどある。
 霧は、城船に接近するには都合が良かったが、セミラミスが城船を見つけられるか、御木本は一抹の不安を覚えた。
 しかし、サスケハナ号が大回りに品川沖に接近すると、その不安は払拭された。城船は霧の中でも見まごうことのない巨大な白い船体を浮かべていた。船の全長は五百メートルはあると思われた。
 城船という名称に反して、城らしいのはその大きさと存在感だけで、外見は緩やかな有機的曲線で構成されている。その表面には窓のようなものが見えるが、明かりが付いているわけではない。
 煙突のような構造物が二列、八個並んでおり、白煙を吐いている。カンブリア期の異形な生物を思わせた。
 碇泊しているのだから、煙突は推進に必要なものではないだろう。工場のようなものか、と御木本は推測した。
 推子、《深》、マーキス、御木本は、サスケハナ号を、城船から少し離れた桟橋の柱に接触させた。海面からの高さは八メートル近くある。
 サスケハナ号の迷彩装甲パネルは的確に機能しており、周囲の映像をまとっている。この霧なら十五メートルも離れると目視では発見が難しいほどだ。店人がレーダーと似た技術を使っているかは分からないが、ステルス性も貢献しているはずだ。
 桟橋の柱には手がかりはなかったが、《深》が用意していた縄の先端の鍵手を投げ上げた。
 《深》の姿は、闇に溶け込むかのようだった。体色は、黒に近い紫に変色させている。
 四人は、縄をよじ登り、桟橋の手すりの陰に身を隠した。マーキスが、サスケハナ号を桟橋からいったん離して、自動警戒モードにした。
 桟橋の幅は十メートルほどもあり、城ボクトも通れる。
 城船側は、人影はない。四人は待機した。
 《深》の情報によると、ボクトの出荷は定期的、一日、二回される。その時間が近づいている。人の出入りがあれば、そのときがチャンスだ。
 十五分ほど待つと、果たして城船の開口部からは、中型のボクトが四体出てきた。
 それを見守るように人間が二人、人間サイズのボクトがいる。
「よし。ボクトの『出荷』が始まったようね」推子が言った。「マーキス。砲撃を」
「了解」マーキスは、腰に付けていたトランシーバーを手にした。
「ホレイショ。今がチャンスだ。砲撃開始」
 数十秒後、轟音が響いた。セミラミスの十四インチ・ダールグレン砲による砲撃が開始されたのである。
「あいつ。派手にやりやがる……桟橋を狙わないように念を押しておくべきだったな」
 だが、ダールグレン砲の直撃程度では、桟橋に傷一つつかなかったかもしれない。
 ともあれ、人影とボクトは、砲撃がしたほうを確認するために開口部から離れた。
「行くぞ」推子がささやき、四人は開口部めがけて走った。
 開口部の内側は倉庫のようになっており、「出荷準備」ができたらしいボクトが林立していた。形状や大きさはさまざまだったが、数十体はある。
 倉庫からは、三方向に通路が延びている。だが文字による表示はなにもない。
「こちらだ」
 《深》が通路の一つを示した。おぼろげな記憶があるのだろうか。《深》は本能的な確信に基づいて進んでいるようだった。三人は、黙ってその後に従った。
 だが城船は巨大であり、内部は広大な迷路だった。船の大きさに比して、中にいる人間やボクトは非常に少ないのが幸いだった。
 廊下は病院か研究施設を思わせる。しばらく進むと、小部屋が続いている。廊下からはガラス張りとなっている。
「あれを見ろ……」
 手術台のようなベッドが五つあり、その上には、裸の男女がうつ伏せに横たわっている。男が三人、女が二人。
 人影が、部屋の中に現れ、四人は身を隠した。
「あれはなんだ……初めて見る」《深》がつぶやいた。
 御木本はその答えを知っていた。
 それは金属とプラスチックでできたボクトだった。半球形の頭部は、人間に似せられて作ったボクトとは明らかに違うものだった。
「……我々の世界ではあれを《ロボット》と呼んでいる」御木本が答えた。
 それは、四本の金属製の細い腕で、男の首の付け根に、何かを植え付けようとしていた。
「あれが生体派の奴らなのか?」
「分からない。もしかしたら我々ボクトとはまた異質な存在なのかもしれない」《深》が暗い声で言った。
「だが少なくともこれで人体に直接核体を植えているという事実は確認できたな」
「ええ。マーキス、録画していますか」推子が確認した。
「ああ……」
「生体派の店人が通商の対価として真に求めていたものは、生身の人体だったということね」
「おそらくな」《深》が答えた。
「これは私の推測だが、店人もかつては生身の肉体を持っていたのだろう。だが、やがて生物としての肉体を捨て、人工の体で半永久的な命を享受していた。しかし、一度は捨てた生身の感覚を忘れることができなかった。店人のいた世界では生身の生命が絶滅してしまったので、人間が豊富にいるこの時代に移住してきたのかもしれない」
「もう引き上げましょう」推子が声を掛けた。「他の連中に出くわすとやっかいです」
「あそこにいる人間はどうする」マーキスがベッドに横たわる男女に目をやった。
「今はなにもできない……」推子は唇を噛みしめた。「またの機会を待つしかない」
 四人は来た道をたどって、開口部に戻った。
「簡単には帰してくれそうになさそうだな」マーキスがつぶやいた。
 桟橋の行く手の霧の中には、巨大な城ボクトが壁のように立ちはだかっていた。

城ボクト

 その巨人は、全高三十メートルはある。
「サスケハナ号は?」
「あれを見てみろ」
 桟橋の下には、セミラミスが四艘の船に取り囲まれている。
「幕府の船だな……武装している」
 武装がないサスケハナ号で脱出できるかは微妙なところだ。
「あっ」マーキスはスマートフォンを取り出し、画面を確認した。
「サスケハナ号が攻撃されている……やられた。くそっ、行動不能にされた」
 これだけ船が集まっている中では、隠れたままではいられなかったのだ。
 誰何の呼びかけに答えない船では攻撃されてもやむを得ない。
「ならば正面突破しか道はないな」推子が動じずに言った。
「私とキコに任せて」
「おい、あれと戦うのか……」
「私たちなら大丈夫」言うなり、キコの上半身が解放され、推子はその中にするりと飛び込み一体となった。
 二体のボクトは無言のまま対峙した――だが大きさがあまりにも違いすぎる。
 先に城ボクトが動いた。右手を振り下ろす。文字どおり叩き潰す気だ。
 巨体からは想像できない速度だった。しかし、俊敏さでは《深》のほうがはるかに上だった。
 左に飛び退く。桟橋の手すりギリギリだった。プロレスやボクシングのリング・ロープのようだった。
 御木本が振り返ると、城船から新手は出てきていないが、開口部はすでに閉ざされている。やはり前に出るしかない。
 続けて、第二、第三の攻撃が来た。腕を振り下ろすのでは間に合わないとみて、今度は拳を突き出してくる。
 第二波は避けたが、第三の左の拳に《深》の左足が捉えられ、後方に弾き飛ばされた。《深》は空中で姿勢を変え、踏みとどまる姿勢で着地した。
 《深》は、背中に装着していた何かを後ろ手でつかんだ。御木本は、微かな火花が散っているのを見た。
 城ボクトは左足を大きく踏み出し、今度は右足で蹴りを入れてきた。
 《深》が大きく跳躍した。城ボクトをほとんど飛び越えるようにしながら、空中でなにかを手からすばやく三度投げつけた。それは手裏剣だった。
 城ボクトが振り向いたが、轟音を立てて、左膝をつく。関節から覗いている甲木で覆われていない部分を狙われたのだろう。
 《深》はすばやく、その膝を足がかりにして、躍り上がった。跳躍の頂点は、城ボクトの首の高さだった。
 《深》の突き出した左の拳は、城ボクトの首の根元を狙っていた。
 拳がめり込んだ。《深》が着地したとき、城ボクトは完全に沈黙していた。
 マーキスは、その一部始終をカメラに収めていた。
「たいしたもんだ。本当に倒すとは」
「これくらいはなんでもない。行こう」《深》の中の推子が、マーキスと御木本に呼びかけた。
 三人は桟橋を走った。
 だが、行く手の陸地側から多数の明かりが接近してくる。
「悪い予感がする」御木本がつぶやいた。
 果たして、それは御用提灯だった。
「南町奉行所の者だ。神妙にいたせい!」
 与力が搭乗しているボクトが八体、十手を構えている。その電磁十手は、微かに火花を散らしていた。
 その後ろには、十手を持った岡っ引き、抜刀している侍が合わせて二十数名、桟橋にひしめき合っている。
 推子はすさまじい形相で幕府方の侍たちをにらんだ。
「マーキス、御木本さん、逃げて! その証拠をなんとしても野菊隊に!」
 そう叫ぶと、幕府方のボクトに飛びかかった。
「抵抗するか!」
 御木本が城船のほうを見ると、こちらからもさらに十体ばかりの大小のボクトが迫ってくる。
 逃れる場所はもうない。一か所を覗いては。
「ミック、飛び込むぞ!」
「おう!」
 二人は、桟橋から、暗い海面に飛び込んだ。

ハラキリ

 水は冷たかった。二人は必死で泳いだ。だが、それは無駄なあがきだった。
 マーキスと御木本は、幕府方の船に引き上げられ、縄を打たれた。
 二人は、濡れた服のまま馬に乗せられて江戸城内に連行された。
 江戸城――皇居の石垣は見慣れたものだ。しかし、そこに威圧的にそびえる天守閣はむろん初めて目にするものだ。敷地には広大な屋敷があり、一つの町とすら言える規模だった。
 護衛に守られたいくつもの門を抜けていく。
 推子は無事に逃れただろうか。しかし、あの人数相手では……不吉な想像が御木本の頭をよぎった。
 侍が捕吏に小声で指示を与えると、一同は小さな庭に引き出された。
 襖を開け放った広間には、裃姿の男が座っていた。
「マーキス。こんなところで再び会うとは奇遇だの」
 旗野は、滑らかな英語で話しかけた。
「御木本。このような輩と組んだのが不運だったな」
 役人がマーキスのカメラを旗野に手渡した。
「これが写真機か。このようなもののために命を賭けるとは……マーキス。その方、確か切腹が見たい、写真機に収めたいといっておったな」
 旗野は、カメラを傍らの小姓に渡した。
「このからくりを返してやれ」
 小姓はそれを庭にいる捕吏に渡した。捕吏は、おぞましいものでも触るように、マーキスに近寄りカメラを地面に転がした。
「そのほうらは、この世界に関わるべきではなかったのだ。この世界の法に基づいて罰を与えてもよいのだが、それではつまらぬ」
 捕吏に引き出されたた人影は、推子だった。縄を掛けられている。
 髪は乱れ、顔や手足には黒いあざが浮いている。
 だがうなだれてなどはおらず、顔はまっすぐに旗野を見つめている。
「無礼者、頭が高い!」
 捕吏の一人が、棒で推子をねじ伏せようとする。
「よいよい」旗野が声を掛けた。
「推子とやら。これまでよくぞ公儀に逆らったのう」
「……」
「その気概に免じて、ここで切腹することを許す」
「なんだと……」マーキスはうめき、御木本は唇を噛みしめた。
「よいか、マーキス。女人に腹を切らせるのはまれではあるが、過去にも例がある。誇りある処分であるぞ」
「おい……推子……」マーキスは推子に声を掛けた。
「よいでしょう。その処分、お受けします」
「なんだ、その無礼な返事は!」
 捕吏はまた棒でねじ伏せようとするが、推子の鋭い瞳にひるんだ。
「やめんか!」旗野の怒声が飛び、捕吏は棒を引っ込めた。
「本来ならば、いろいろと準備もあろうが、そのほうが存命だと野菊隊とやらが取り戻しにこよう。それに――」
 旗野は嬉しそうに言った。
「そなた、毛利家最後の生き残りの姫だそうだな。幕府の大敵の憂いが除かれるとはまたとない機会。たった今、この場で腹を切るのだ。略式で良い。作法は知っていよう」
「はい」推子は静かに答えた。
「推子……」マーキスが呆然とした体でつぶやいた。
「マーキス。そのほうは、この切腹の一部始終を写真機に収めるのだ。そして御木本。そのほうは忍びの技の心得があるそうだな。介錯することを許す」
 マーキスが動揺した目で御木本を見た。
「『介錯』というのは、腹を切った後に首を斬るということだ……」
 御木本は低い声でささやいた。
 御木本はあらためて周囲を見渡した。街中では帯刀している武士はいなかったのに、ここには屈強な武士が、庭だけで二十二名、座敷には六名おり、全員帯刀している。そして、この庭の外にはどれだけの武士がいるか分からない。切り抜けるのは絶対に不可能だ。
「俺の役目はあんたを守ることだ……今は他に方法がない」御木本は言葉を絞り出した。
 隊長らしい捕吏が抜刀し、マーキスと御木本の縄を切った。
 捕吏にあごをしゃくると、捕吏は自らの刀を差し出し、御木本はそれを受け取った。
「怪しげな振る舞いをすれば即座に斬る」
 真剣を手にするのは数年ぶりだった。こんなにも重たいものだったろうか。
 悪夢のようだった。真剣は確かに剣術の一環として扱っていた。だが斬首したことなどむろんない。
 マーキスは明らかに動揺して撮影どころではない。
 《深》はなにをしているんだ。こういうときに助けに現れるもんじゃないのか。
 しかし、そのような奇跡的な逆転は起きなかった。
「マーキス! 写真機を取れい!」旗野が一喝した。
 マーキスは、震える手でカメラを手にし、構えた。
「よく見えるようにこちらに来い」
 マーキスは、操られるようにその言葉にしたがった。
 短刀を乗せた三方が推子の前に運ばれた。
「言い残すことはないか」
「あなたにはありません」
 捕吏がまたその言葉を聞いて懲らしめようと身を乗り出しかけたが、もう一人に肩をつかまれて制止された。
 御木本は、推子の後ろに回った。
 唐突に、ある一枚の絵の光景が思い浮かんだ。
 それは白い服の若い女性が目隠しをさせられ、手探りで自らの首を置く台を捜している場面だ。
 その左手には死刑執行人が斧を手にたたずんでいる。
 数秒後には、その白い首から赤い血が噴き出すのだろう。
「レディー・ジェーン・グレイの処刑」だ。
 レディー・グレイも彼女なりの勇気で運命に立ち向かったのだろう。
 だが目の前の女は、また別の強さを持っていた。毅然としていた。
 推子は、黒髪を左にまとめ、白いうなじをあらわにした。その首は片手でつかめそうほど細い。その手が、その首筋が、かすかに震えているのを御木本は見た。それは御木本にしか見えなかっただろう。
 今、大声で言うべきではないのか。このひとは毛利の姫ではない。一介の侍女に過ぎないと。
 推子は左後ろを振り返り、御木本の目を見た。
 その目は、昨日見た目と同じで、決意に満ちていた。
 推子は、静かに首を左右に振り、御木本だけに聞こえるような小声でささやいた。
「後のことは頼みます」
 服の前をはだけ、白く引き締まった腹を露出させる。
 推子は、三方から短刀を取り上げ、すばやく腹に突き立てた。ためらいなく横一文字に引く。
「あなたはなすべきことをしてください」推子は歯を食いしばりながら、もう一度御木本にささやいた。
 なすべきこと? 御木本は戸惑った。首を今打て、という意味か。それとも。
 が、ためらえば、痛みが長引くだけだ。それだけはなによりもはっきりしていた。
 心に迷いがあり、切り損ねれば、それもまた苦しませるだけ。
 御木本は、大きく息を吸い込んだ。頭の中が真っ白になる。その瞬間、白いうなじめがけて刃を振り下ろした。
 残心したあと、目を背けた。そのとき、マーキスと目が合った。
 マーキスは、いつしか食い入るようにカメラで撮影していた。それほど真剣な眼差しで動画を撮るマーキスを見るのは初めてだった。

§

 御木本とマーキスはその後、捕吏に引き立てられ、城内の一室に閉じ込められた。
 撮影したカメラは没収された。
 二人は無言で座り込んだ。
 みじろぎもせずに数十分はそのまま呆然と座り込んでいた。
 この数日間で、この世界と分かちがたい絆、命を賭けてもよい何かが生まれつつあったのに、何もかもが失われてしまった。そしてそれを奪ったのは俺のこの手だ。
 めまいのような衝撃が頭の中で反響し、考えがうまくまとまらない。
 心から何かが止めどなく流れ出し、空になりそうな喪失感だった。
「これからどうするつもりだ」ようやく御木本がつぶやいた。
「元の世界に帰れないなら、ここで生きていくまでだ」マーキスが低い声で答えた。
「このままでいいのか」
「どういう意味だ」
「あのカメラだ。俺たちに今できることはあのカメラを取り戻すことじゃないか」
「今の俺たちに何ができる」
 御木本は、扉の外で低いうめき声を訊いた。
「遅くなったな」
 扉を開いて黒い人影が現れた。それは《深》だった。

骨牌

 扉の外には護衛が倒れいる。
「《コキ》! 今までどうしていたんだ……」マーキスが叫んだ。
「ボクトは危険な存在とみなされているからな。別の場所で拘留されていたが、高田さんが密かに出してくれた」
「遅いぞ! 推子はもう……」
「ああ。聞いたよ……」
 一同は沈黙した。御木本は、なぐさめの言葉が必要なのは《深》ではないかと思ったが、《深》の無表情な顔にはなんといえばよいか分からなかった。
「推子の介錯をしたのは俺だ……」御木本が絞り出すような声で言った。
 《深》は、無言で歩き出した。だが、その足は、門のほうではなく彼方にそびえる天守閣に向いていた。
「おい、逃げるんじゃないのか」マーキスが声をかけた。
「ああ。だが、その前にすべきことがある。今しかできないことだ」
「なにをするんだ」
「旗野と決着をつける」
「なに?」
「私と旗野が入れ替わる」
「それはあんたの思想に反するんじゃないのか」御木本が尋ねた。
「私だって進んでするわけじゃない。だが今回はやむを得ない」
「旗野を殺すのではだめなのか」
「だめだ。代わりはいくらでもいる。ほかの誰かかが入れ替わるだけだ。もちろん、生体派の奴らがな」
 時計がないので分からないが午後6時ごろだろうか。松明がいくつかあるものの、現代と比べると明かりが極端に少ない。しかし、それは御木本らにとっては有利だった。
 先を行く《深》は、気配を察知したのか、後に続く二人を制止した。
 若い武士だった。提灯を掲げ見回りをしているのだろう。
 《深》は巨体にも関わらず音もなく忍び寄り、その武士をなんなく捕らえた。
「旗野の部屋は?」
 御木本はその顔に見覚えがあった。
「お前、切腹の場にいたな」
 それは、捕吏の一人だった。武士は渋々うなずいた。
「カメラ……写真機はどこだ」
「旗野様がまだ御用部屋で調べておられよう」
「案内しろ」
 御木本は、口に猿ぐつわを噛ませ、腕を後ろでしばった。
 若い武士はのろのろと歩き始めた。
 《深》が縄を締め上げると、武士は怒りの混じったうめき声を上げ、歩みを早めた。
 御用部屋の襖からは、明かりが漏れていた。周囲に護衛がいないのは幸いだった。
 御木本は、若い武士の足も縛って、転がしておいた。
 マーキスと、小声でタイミングを計って襖を引き開ける。
「何者か!――貴様ら……」
 部屋には旗野一人だった。
 《深》が音もなく駆け寄り、腕を突きつけた。刃物でなくてもそれが脅しとなり得ることは旗野はよく理解していたようだった。
「静かにしてもらおう」
「……何用だ」
「俺のものを返しにもらいに来ただけだ」マーキスが答えた。
「写真機はどこにある?」
 旗野の視線が文机の方を向いた。その上にはカメラが置いてあった。
 マーキスはそれを手にした。
「用はそれだけか?」
「いくつか聞きたいことがある」
 マーキスが静かに尋ねた。
「旗野さん、あんたは楽しむように人に死を命じた。それは自分が死なないからなのか。あんたが店人だからか?」
 旗野は意味が理解できない、という表情で見返した。
「店人にとってはすべてがゲームに過ぎないんじゃないのか」
「なにを言いたいのか解せんな。儂は当然のことをしたまでだ」
「あんたには当然のことでも、俺には許せない。いつかここに戻ってきたら、思い知らせてやる」
「そなたら未来人みらいびとはやはり店人と違い、愚かだの。ひとつそなたに悪い知らせがある」
 旗野の言葉には、自分が不利な立場にいる者とは思えない余裕があった。
「そのほうらは元の世界に帰ることはできないと知っているのか」
「なんだと……」
 御木本は呻いた。
「どういうことだ……」とマーキスが青ざめた顔で問いただした。
「そのほうらは一種の異常空間を通ってここに来たのだろう」
「ああ。『時間水門』と呼ばれていた。実際には海の上の渦だったが」
「この世界は、そのほうらがいた世界とは時間的には繋がっていない」
「それは知っている。歴史が大きく変わっているにも関わらず俺たち自身には何の変化もないからな」
「そのとおり。ここは、厳密にはそのほうらにとっての過去ではなく、異世界なのだ。『閉じた時間的曲線』というものは存在できない。つまり、過去に干渉するような時間移動は原理上そもそもできない、ということだ。しかし、並行世界への移動であればそれが可能になる」
「俺たち自身がすでに分岐した別の枝で元の世界と関わりが絶たれたというのは分かる。だが、俺たちが帰れないというのはどういうことだ」
「その『時間水門』とやらは、店人がこの時空連続体に来るときに「中継地点」として残していったものだろう。永続的なものではない。そのような時空の移動は本質的に一方向なのだ」
「だが、元の世界でも、この世界の情報は事前に把握できていたんだ。五十年の誤差はあったが……」
「情報だけなら送り返す手段もあろう。だが人間や物体をそのまま送り返す手段は存在しない」
「……」
「気の毒であったな」旗野は同情の欠片もない皮肉を込めて嘲った。
 可能性として無視していたわけではない。しかし、こうまで断言されるとやはり気が萎えた。
 だが、いつまでもここにいるわけにもいかない。
「儂を殺すがよい。それで気が済むならな」旗野は余裕を崩さなかった。
 マーキスは御木本を見てうなずいた。
 御木本は、無言で旗野のみぞおちに当て身を食らわせた。
 旗野は崩れ落ちた。
「うなじを見てみろ」《深》が言った。
 御木本が、旗野の肩を支えて確認すると、首の後ろ側、延髄と平行して黒い線がある。
「要鍵を」
 《深》は、幅の広い洗濯ばさみのような小さい器具を御木本に渡した。
 御木本は、それを線に沿って当てた。線に沿って先端をめり込ませる。
「これでいいのか?」
「もっと奥だ」
 御木本がさらに器具を突き立てると、手応えがあった。つまみを挟んでゆっくりと引き抜く。
 その先には、前にも見たとおり、爪の先ほどの板があった。不思議と血は付いていない。
 旗野の体からは力が抜け、ぐったりとしている。御木本はその体を畳の上に横たえた。
「教えたとおりにやってくれよ」
 《深》がひざまずいた。
 御木本は、今度は、要鍵を、説明されたとおりに《深》の首筋に当たる箇所に押し当てた。
 同様に小片を取り出す。御木本は、それを旗野の首に入れた。「うまくいくのか?」
「しばらくかかると言っていたろう」マーキスが答えた。
 果たして、死んだようにこわばっていた旗野の指が数分後にピクリと動いた。
「うまくいったようだな」旗野の口から言葉が漏れた。上体を起こす。眠りから覚めたばかりのように動きがゆっくりでぎこちない。
「《深》……なんだよな」
「ああ」
「なぜ最初からこうしなかったんだ?」
「うまくいくか確証がなかった」発音が少しおかしいが、人体への適応が完全ではないのだろう。
「旗野が隙を見せることがあるとすれば江戸城の中だけだ。外では無防備に見えても厳重に守られている。品川宿でもそのことがよく分かった。やるとすれば今が最良だった。普段の江戸城には私でも忍び込むことはできない。推子を失った代償にはならんがな……」
「あんたはこれから旗野として生きていくわけか」
「そうだ……」
 御木本は、旗野の顔が青ざめていることに気づいた。ひどく苦しそうだ。
 突然、旗野――《深》は自分ののどを抑えた。
「だめだ、元に戻してくれ!」
 御木本は、急いで要鍵を取り出した。
 マーキスは、暴れる旗野の体を押さえつける。御木本は首筋から再び骨牌を取り出した。
 抜け殻となった《深》の駆体に入れなおす。
 しばらくして、木の塊がびくりと身震いして立ち上がった。
「失敗のようだ。ボクトから人間に移すときは、やはり単に入れ替えるだけではだめのようだ」
「拒絶反応というやつか……」マーキスがつぶやいた。
「こいつはどうするんだ」旗野を指して御木本がいった。
「こいつにも骨牌を戻してくれ」
「なぜ?」マーキスが訊いた。
「こいつは推子を殺した男だぜ。ほっておけばいいじゃないか」
「さっきも言ったが、こいつには代わりがいる。私たちは旗野のことなら知っている。よく知らない相手に後を継がれるよりはこいつのほうがまだましだ」
「なるほどな」
「あんたたちはどうする?」
「俺に考えがある」マーキスは、手にしたカメラを見つめて答えた。

§

 それから数日後。
 江戸に数百ある高札前の上映小屋には、幕府のプロパガンダ映像にまぎれて、一人の女が切腹する映像が流れるようになった。その女に残酷な言葉を浴びせるのは、幕府の最高実力者、旗野であることは明らかだった。また、人体に核体を植え付ける映像もあった。女が義賊・野菊隊の頭目であり、毛利の姫君であること、城船との取り引きに人体が提供されていることが語られた。
 それを見た人々の間で、幕府の横暴さを恨む声が日に日に高まっていった。
 映像は、江戸のみにとどまらず、日本各地に広がっていった。
 艦隊村の人々は、横浜壁がいつか倒れる日を夢見た。
 野菊隊と独立艦隊のセミラミスの行動の関係は証明されなかった。
 拘束されていたホレイショは解放され、横浜の艦隊村に戻ってきた。日差しに照らされて、巨大な壁は依然としてそこにあった。
 ボクトにより甲木で作られた不壊の壁。
 しかし、不思議とその壁の圧迫感は、以前ほど感じなくなっていた。
 あれは決して壊せないものではない。ボクトが作ったものであれば、ボクトにより倒せる。それを願う人々がその傍らにいさえすれば。
「あの壁は近いうちに倒れる。きっと」
 ホレイショは壁を見上げてつぶやいた。

(了)

文字数:46069

内容に関するアピール

 (実作を先にお読みください)
 日本の精神的鎖国は、現在まで続いている。本作の第一のポイントは、江戸の日本が、「幕府による開国成功」という歴史改変のシナリオである。映画『レッドサン』での、西洋と日本のキッチュな組み合わせに興味を引かれたこともある。そして、第二のポイントが、異世界人に対する「開国」とどう向き合ったかの思考実験である。
 本作に、幕末の有名人物は一切登場しない。幕末の人物は確かに興味深いが、むやみにもてはやす風潮があるのは、現代日本人自身の活力が失われているからだろう。ただ、小栗上野介にはひとこと言及した。
 吉田松陰や伊藤博文らは欧米にアンビヴァレントな感情を抱いていた。攘夷から開国への急速な切り替えは、戦後のアメリカ文化の急速な受容と無関係ではあるまい。それにもかかわらず日本が多文化化するのはかなり未来であろう。これも実に不思議だ。
 日本は、開国までは東アジアの「木と紙の文明」であった。本作では、江戸と武士階級を一度解体し、《ウッドパンク》の世界として再構築する。鉄の文化がお預けを食らっている状況である。
 表面的には国際化した江戸も闇を抱える。トリックスター、お騒がせ者的なヴロガー(ビデオ投稿者)が、事態を引っ掻き回したあとで、自ら予想しない役割を果たす。これが提出梗概の設定だったのだが、そこから変更した点がある。当初、語り手、いわば「カメラ」であった御木本の役割が大きくなったことである。それに伴い題も変更した。
 なお、本作と同じ世界観に基づき、Project ANIMA用のプロットを作成し、提出した。むろん、本作はこのプロットから完全に独立しているが、プロット作成に伴い、設定をより深めることができた。
 ボクトは、単なる木製機械ではなく、その中身は店人テナントである。大名が威儀を示すための超大型、裕福な商人が囲う鑑賞型、奉行所・与力などの公的権力で働く治安維持型など、大きさや特技は様々である。これらはすべて作品に登場するが、この世界観を存分に構築し表現するには、紙数が足りないことに気づいた。
 店人の行動原理は、東インド会社と似ているが、決して一枚岩ではない。かつて異国人たちと攘夷を経て開国に至ったように、店人との共存の道はあるのか。本作ではこの点は示せたと考える。
 なお本作に切腹を賛美する意図はない。
 作中に登場する兵器の名称は、(一部を除き)作者の空想ではなく、この時代に実在したものである。木材の強度を飛躍的に向上する技術もまた現代に実在する。

文字数:1051

課題提出者一覧