人形の家から

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人形の家から

1

わたしは「彼女」がいつからそこにいるのか覚えていなかった。

気づいたときには、すでに「彼女」はわがもの顔でわたしの家に居座っていて、わたしのおもちゃをもの欲しそうに眺めてはそれを寄こせと要求したり、夕食のおかずが気に入らないと駄々をこねたりした。世界が自分を中心に回っていると確信しているかのような不遜な態度だった。あまりの自分勝手なふるまいに、手を出しそうになったことも、一度や二度ではない。わたしが暴力的な衝動を覚えるのは、この世界で「彼女」ただ一人だった。

そんな「彼女」を両親はなぜか、徹底的に甘やかした。まるでそれが唯一無二の生きがいであるかのように、「彼女」のどんなわがままでも聞いてあげた。両親は「彼女」が不機嫌になると道化のようにふるまったし、「彼女」の希望には全身全霊で応えた。滑稽なほどに、両親は一生懸命だった。必死に、しかし笑顔はけっして崩さずに「彼女」をなだめすかしている二人の様子は、とてもおかしくて、それ以上に不気味だった。

「彼女」が来てからというもの、家の中におけるわたしの居場所はみるみるうちになくなっていった。もともとあまり自己主張の得意な性格ではなかったが、「彼女」の圧倒的な存在感を前にしては、わたしは無に等しかった。両親にとって自分はいてもいなくても同じようなものなのだろうと感じることが多くなった。二人は「彼女」の世話に追われて、少しずつわたしを顧みなくなった。声をかければそれなりに反応してくれるが、やはり心は「彼女」のほうを向いているのが透けて見えて、けっきょくわたしが引いてしまうのだった。わたしには両親が望んでいることを邪魔する権利などなかった。わたしとの会話は両親のやりたいことではないのはわかっていた。そのうちにわたしはほとんどしゃべらなくなり、少しずつ透明な存在になっていった。

もちろん、両親になにかしらの悪意があって、自分をないがしろにしているわけではないのはわかっていた。ただわたしが、あまりに手がかからなさすぎる子どもだったせいで、二人はわたしに関心をなくしていったのだし、「彼女」を必要としたのだろう。思い返せばわたしは「彼女」のようにわがままをいったことなど一度だってなかった。まわりの子どもたちのように理不尽な要求をしたり、大声で泣き叫んだりして二人を困らせた記憶もいっさいない。そんなわたしのことを周囲の大人たちは「ヨイコ」と呼んだ。「吉川さんちのちゃんはほんとうに『ヨイコ』ねえ」と感心するような、しかしけっして羨ましがってはいない様子で大人たちはいった。わたしに向けられた無難な評価を耳にするたびに、両親は居心地の悪そうな愛想笑いを浮かべた。わたしはその表情を見ると、なんだかいたたまれない気もちになった。自分がなすべきことをしっかりとやれていないのかもしれないと不安になった。子どもには子どもの役割や責務が確かにあって、それを果たしていないからと子ども失格の烙印を押されたような気がした。

いや、それは気分の問題ではなく、実際にわたしは子ども失格だったのだ。わたしは「ヨイコ」であってはいけなくて、もっと両親に迷惑をかけたり手間をかけさせてあげたりしなければいけなかった。

見よ、あの二人の楽しそうな顔を。「彼女」の理不尽に応えてあげるときの充実した笑顔を!

あの表情を見れば一目でわかるだろう。両親が求めていたのは「彼女」のような子どもであって、けっしてわたしではないということが。

 

とはいえ、十代も半ばに差し掛かったわたしにとっては、両親の無干渉が悲しいばかりではなかった。人と人が暮らせば多少の軋轢は生まれてしまうもの。同級生の中にも両親との関係がうまくいっていないという人が何人かいた。その点でいえば、わたしたちの間には小さないさかいもなかった。口をきくこと自体が、もはや月に一度あるかないかなのだから、喧嘩をする余地もない。

幸いなことに両親はわたしに関心がなくても、わたしの生命を維持するだけの食事は用意してくれたし、家の施設も自由に使わせてくれた。そのため、わたしは両親からほとんど無視されていること以外は、日常生活をつつがなく送ることができた。わたしは毎朝、だれに起こされるでもなく起床し、談笑する両親と「彼女」を後目に無言で朝食を食べ、勝手なタイミングで家を出て学校に向かった。放課後は家に帰りたくない気もちが頭をもたげてしまい、どこへ行くでもなく街中をぶらぶらした。そして、日がとっぷりと暮れ、足腰に不快ではない疲労が溜まった頃、わたしはようやく帰路についた。我が家ではすでに夕食が終わっており、わたしは冷え切った夕餉を温めなおして一人で黙々と食べた。目の前では両親が「彼女」を挟んでテレビを観ていた。「彼女」は「だれそれがむかつく」だとか「おもしろくない」というふうに画面に向かって悪態をついていた。それなら観るなと言いたいが、両親は「そうだねえ、そうだねえ」と肯定するばかりだった。食事が終わるとわたしは二階にある自分の部屋に戻り、明日の準備をしてから真夜中まで勉強した。

そうして、わたしの日々は過ぎていった。

 

それにしても「彼女」のことだ。「彼女」はいったい何者なのか。それはわかりきったことである。「彼女」はわたしの両親の娘であり、わたしの妹だった。

しかし、わたしはどうしても「彼女」がこの家に来た日のことを思い出せなかった。記憶の中の「彼女」はすでに今のような姿かたちをしていて、横柄にふるまっていた。年の差は2歳。物心がつくかつかないか微妙な年齢だが、それでも赤ん坊の「彼女」の姿がちっとも頭に浮かばないというのは奇妙だった。自分が覚えているかぎりで、一番古い記憶は、3歳の誕生日だ。まだ両親がわたしにそれなりに関心を持っていた時期で、その日を盛大に祝ってもらったときのことが強く頭に焼き付いている。しかし、その記憶の中の光景にも「彼女」の姿はなかった。そこには立派なプレゼントをもらった喜びをうまく表現できなくて戸惑う自分と、それを無表情で眺める両親の姿しかなかった。

「彼女」に関する最古の記憶。それは確か5歳のクリスマスである。朝起きると枕元にプレゼントが置いてあって、わくわくしながらそれを開くと、ずっと欲しかった絵本のシリーズの全巻セットが入っていた。その絵本では、擬人化されたネズミの冒険が色鉛筆とクレヨンを組み合わせたような独特のタッチで描かれていた。わたしは主人公の勇敢なネズミはもちろん、その相棒のリスがとても好きだった。マイペースでいつもネズミを振り回しているトラブルメーカーだが、どこか憎めない愛嬌のあるキャラクターで、いざとなると柔軟な発想力を発揮して、何度もネズミを窮地から救った。友情に篤く絶対に友人を見捨てないという一面も、社交的で多くの知り合いがいるところも憧れだった。わたしはその絵本を幼稚園で読んだときからずっと欲しいと思いつつ、両親に言い出せないでいた。だから、それがプレゼントに選ばれたことがとてもうれしかった。

朝食の前だったが、わたしは我慢できずにそれを読み始めようとした。はやく二人の冒険に自分も加わりたいという気もちを抑えられなかった。わたしは絵本の表紙を少し眺めてから、満を持して一ページ目を開こうとした。すると、自分の後ろから急に声がした。

「わたし、そっちがいい」

それはわたしがその時まで一度も聞いたことのない声だった。いるはずのない他人の存在にわたしは恐怖して、わたしはおそるおそる振り返った。

そこにはわたしがいた。

いや、そこには「彼女」がいたのだ。しかし、当時のわたしはほんの一瞬だが、確かにそれは自分だと感じてしまった。いつも鏡で見ている顔に瓜二つである何者かが、わたしの絵本を指差していた。その指先でさえ、わたしは自分のもののように思えた。

「そっちのほうがいい」

「彼女」は繰り返した。彼女の左手にはプレゼントと思しき花を模した髪飾りが握られていた。「彼女」はそれを粗雑に足元に落とした。

わたしはしばらくの間、自分が何を言われているのか理解できなかった。この絵本は両親がわたしのために選んでくれたもので、それを所有する権利は当然自分にあるはずだ。なぜ、それを自分に似ているとはいえ、どこのだれとも知れぬ子どもに与えなければならないのだ。

そのうちに自分の要求をかたくなに拒絶するわたしを見て、「彼女」はついに泣き出した。まるで世界が終わってしまうかのような凄まじい泣き声だった。わたしが聞いたことも経験したこともない強烈な自己主張だった。わたしはとまどいを隠せなかった。どうして、あなたは泣くのだと問い詰めたかった。わたしはわたしの当然の権利を主張しているだけなのだと言いたかった。そもそも、あなたはだれなのか、どうしてわたしの部屋にいるのか、など「彼女」に投げかけたい疑問は尽きなかった。しかし、そのときのわたしはそれをうまく言葉にすることはできなかった。

「彼女」の泣き声を聞きつけて、母親がわたしの部屋に入ってきた。そして、わたしと「彼女」の状況を見比べて、すぐに「彼女」の頭を撫で、優しい言葉でなだめすかした。わたしは母親の行動に仰天した。どうして、その子を慰めるのだ。不当な要求をされて困惑しているのは自分だというのに。

混乱するわたしにはかまわずに、母親は「大丈夫、なんとかするからね」と「彼女」に言い聞かせ、そして、わたしのほうを振り返って厳しい口調でこう言った。

「お姉ちゃんなんだから、我慢なさい」

そのときのわたしの心もちを他人に理解してもらうのはきわめて容易だ。ただ、満天の星空を想像してほしいといえばよい。夜空にきらめく星々の一つ一つを「?」に置換すれば、それがちょうど当時のわたしの心象風景である。

なぜわたしが「お姉ちゃん」であり、なぜ我慢をしなければならないのか、一切合切が理解の範疇を超えていた。もしかしたら悪い夢でも見ているのではないかと思って、自分の頬を一、二回叩いてみた。もちろん、目が覚める様子はなかった。昨日までの現実と同じとはとても思えない風景がいつまでも目の前に残り続けていた。

その日からわたしの日々は始まった。つまり、生活が「彼女」を中心としてまわりだしたのだ。わたしはとにかく我慢を強いられた。それまではわたしは自分の性質から両親に対してあらゆることを遠慮していただけだった。そのこと自体はわたしにとってなんの苦でもなかった。むしろ、自分の勝手な要求がまかり通ってしまうことのほうがわたしには苦痛だった。しかし、「彼女」との暮らしは、わたしの性質に関係なく、ただひたすら求めずに尽くすことを強要するものだった。初めのころは、変わってしまった現実を受け入れられなくて抵抗もした。両親に「彼女」はいったい誰なのか、どこからきたのかと問い詰めることもあった。しかし、それは無駄だった。両親はどちらも、「彼女」が生まれたときからこの家にいる存在だと信じて疑っていなかった。「彼女」が誕生したとき、わたしがひどい熱を出していたから、記憶があいまいなのだろうと説得してきた。それでもわたしが納得しないと、わけのわからぬことを言うなと叱り飛ばした。わたしはそれ以上、何もいえなかった。

 

 

奇妙だ。

わたしは、学校にいるときにいつも思う。見ず知らずの他人同士が集まって、同じ時間に同じことをする必要がいったいどこにあるのか、まったくわからなかった。でも、この場所はわたしの家よりはずっとましだ。「彼女」の居座るあそこよりは。

それにわたしは勉強が嫌いではなかった。同級生の中には「そんなことしても無駄」といって、ほとんど真面目に授業を受けていない人もいる。仕方のないことだと思う。たとえ、いっさい勉強をしなかったところで、わたしたちの人生はほとんど変わらないのだから。それならば、一人で、もしくは任意の仲間と好きなことを突き詰めていたほうがずっといいのかもしれない。実際、何かしらの才能のある人は、学校にはほとんどこないで、それぞれの分野で実力を上げるために、日々鍛錬を積んでいる。ゲームだろうとスポーツだろうとジャンルは様々だが、特筆すべき才能は伸ばされるべきであるというのが、この社会の基本的なスタンスだ。だから、まったく学校にこなくても、特に罰則はないし、批判されることもなかった。わたしたちには自由が認められており、だれもいきたくない場所にいくことを強要されてはならないのだ。

でも、ほとんどの人は何の特別な才能もないから、いくら意味がなくてもぼんやりと毎日学校に足を運んでしまう。少なくともそこには自分の場所が用意されているし、何かしらの目標が与えられる。できるできないは関係なく、他人になすべきことをちゃんと指示されて、そのためのノウハウも提供されるというのは、幸福なことなのかもしれない、と最近感じるようになった。なぜなら、幼いころのわたしは自分が何をなすべきかわからなかったからだ。勉強をしていい成績を取るという至極凡庸な目標が、わたしの生活に張りを与えているのは確かだった。

「透実はがんばるねえ」

わたしの数少ない友人は呆れたような口調でいつもそう言う。わたしはその言葉に、かつてわたしの両親が浮かべていたような中途半端な愛想笑いで応える。わたしはがんばっているのだろうか。おそらく、そうではない。少なくとも姿勢としては積極的ではない。わたしはただやりたいから勉強していたし、なによりあの家からどうにか逃げるために数学や古典を学んでいた。わたしには成績優秀者に支給される奨学金が必要だった。わたしが大学に入学するには、それが不可欠であった。我が家には教育費にあてるだけの金銭的な余裕がないのは知っていたし、たとえ、あったとしても両親がわたしのために使ってくれるとは思えなかった。そうするくらいなら、両親は「彼女」の洋服を一生かかっても着つくせないほど買ってあげるほうが、はるかにましだと考えるだろう。だからこそ、わたしは学ばねばならなかった。どうにか大学に入学して、もっと大きな都市(コロニー)に引っ越して新しい人生を始めるのだ。

とはいえ、今の時代に大学に入るのがどれだけが困難か、理解していないわけではなかった。今や倍率は100倍を超えつつあり、一般入学者の学費は青天井に上がり続けていた。わたしが生まれるずっと前、ネクロトーシス・インパクトのせいで政府が一部の国立大学を除いて、助成金を完全にカットしたためだ。それにあの出来事は完全に教育の意味を変えてしまった。すべての人が高等教育を受ける必要はないというコンセンサスが社会全体に広がった。だから、大学はその数をどんどん減らし、残った大学も入学者を絞っていった。昔と比べて人口は減っているが、それ以上に大学に進学できる枠が失われつつある。もはや大学はそこに入学するだけで、一種のステータスとなるような場所だった。

かつて、全入時代と呼ばれた時代があることをわたしは知っている。そのころの学生はレベルの差こそあれ、希望さえすればどこかしらの大学に入り高等教育を受けることができた、と。世の中は大卒であふれかえり、学士の学位を持った人が職にあぶれる事態にまでなったという話だ。今はもう進学者は1割に満たず、そのほとんどが金持ちの子息であり、そして上位数パーセントが天才と呼ばれる頭脳の持ち主だった。それらの人々に仕事が用意されていないわけがなかった。本人さえ望めばあらゆる研究施設、あらゆる政府機関、あらゆる大企業の主要ポストにつくことができた。そこまで極端でなくとも学位さえ取得できれば、それなりの仕事につけることは間違いなかった。わたしは「自立」し「自律」するために、大学に行かねばならなかった。

 

ある日、学校へ行くとホームルームで、近いうちに新しい教員が着任するといわれた。どこかのクラスを受けもつわけではなく、主に生活指導、進路指導の担当になるとのことだった。普段はあまり生徒とは接点がないかもしれないが、相談があればどんなことでも聞いてくれるという話だ。わたしのクラスの担任は、なぜかその教師のことを紹介する際、とても歯切れが悪かった。近々全校集会で挨拶があるだろうといって、担任はその話題を掘り下げるのを避けた。生徒から質問されても「よく知らない」の一点張りで、なんだか、その新任の教師を歓迎していないようだった。担任の態度は、生徒の間にさまざまな憶測を呼んだ。とんでもない問題教師が送り付けられてきたのではないかとか、政府からの視察が働くふりをして、学校を見張るのではないかとか、それによって教員たちの待遇が変わるのではないかとか、噂話は瞬く間に学校中に広がった。イベント事に乏しい田舎都市の学校の生徒には、その異邦人の来訪はかっこうの話の種だった。

家に帰るとリビングが騒がしかった。母親の怒鳴り声がしたので、珍しいなと思い、少しのぞいてみた。そこには一方的に父親を責め立てる母の姿があった。

「蜜柑になにかあったら、あなたはどうするつもりだったの!」

わめきちらす母親の傍らで「彼女」がたたずんでいた。その腕には小さな絆創膏が貼られている。わたしはだいたいの事情が呑み込めた。

ことの成り行きを眺めていると、「彼女」はわたしの気配に気づいたのか、こちらを振り返り、にやっと笑った。それはなにかを勝ち誇るような満面の笑みだった。「彼女」はしばしば、わたしにむかって、その表情を見せることがあった。そして、腕をぐっとこちらに突き出し、けがをした箇所をアピールしてきた。その行為になんの意味があるのかわからないが、とにかくわたしは不快になって、その場を立ち去った。

部屋に戻ったわたしは、思い出したくないのにさきほどの光景を反芻してしまった。怒鳴り散らす母親の声、それをうつむきながら無言で聞いている父親、そして、「彼女」の笑み。そのすべてがわたしに強烈なストレスを与えた。リビングではまだ、母親が叫んでいる。わたしはベッドにもぐりこみ、耳をふさぎ、時間が経つのを待った。そういえば、まだ夕食を食べていないな、と考える余裕は、まだ、あった。

 

次の日、担任のいったとおり臨時の全校集会が開かれ、件の新しい教員が挨拶をした。わたしはなぜか男性を想像していたが、その教員は温和そうな笑みを浮かべたメガネの、髪の長い女性だった。

「今日から皆様がたと同じ学校で学ばせていただくことになったといいます。わからないことだらけですが、どうぞよろしくお願いします」

など、当たり障りのない挨拶を述べて美鳥川先生は壇上から降りた。とても印象の薄い人だった。街ですれ違っても、絶対に気づかないような気がした。そのありふれた雰囲気は、むしろ個性なのかもしれない、とも思った。どこにいても違和感のない存在――わたしはそのとき、噂話を思い出していた。政府のスパイなど馬鹿らしい想像だが、えてして美鳥川先生のような目立たないタイプこそ、そういった役割にふさわしいのではないかと感じた。しかし、わたしの他にそこまで勘ぐる人は少なかったようで、生徒の間にはなんだか拍子抜けするような、安堵するような微妙な空気が流れた。

わたしはとりあえず美鳥川先生の顔だけでも覚えておこうと、教員たちが集まっている場所に目を向けた。先生は足元を気にしているのか、うつむいていて頭のてっぺんしか見えなかった。また今度の機会でいいかと視線を切ろうとしたその瞬間、美鳥川先生は不意に顔をあげて、こちらを見た。そして、気のせいかもしれないが、わたしに向かってにっこりと笑った。飾るところのない自然な笑顔だった。わたしはなぜか胸がどきどきして、露骨に目を伏せてしまった。それから、美鳥川先生のほうを一度も見ることができなかった。

その後、教室に戻ると先日行われたテストの結果がかえってきた。ほとんどのクラスメートはそれに興味を示さず、わたされた結果用紙を一瞥するとくしゃくしゃして鞄の中にしまったり、ポケットに突っ込んだりした。そして、わたしを含む何人かは、それを凝視し、ふっと笑みを浮かべたり、嘆息したりした。わたしはどちらかというと後者だった。成績は予想どおりだったので、驚くに値しない。しかし、予想どおりだったからこそ、わたしはがっかりしていた。わかりきったことに一喜一憂するのも馬鹿らしいが、自分の今の実力が数字になって表れると、なんだか情けない気分になった。わたしは優秀な頭脳の持ち主ではなかった。だから、足りない部分は努力で補うほかないのである。しかし、その努力というのはあとどれだけ続ければいいのだろうか? もちろん、それは自分の希望が叶うそのときまでなのだが、わたしは最近、自分が本当に大学に行きたいと望んでいるのかわからなくなりつつあった。わたしが本当に望んでいるものはもっと違う場所にあるのではないだろうか。

そんなことを考えると、勉強に身が入らず、無為に過ごす時間が増えてきた。昨日だって本当は机に向かって勉強しなければならなかったのに、けっきょくあのまま眠ってしまった。わたしの意志が弱いだけなのかもしれない。しかし、心にいつも影が差していて、普段はその存在を忘れることができるのだが、いったん思い出してしまうと、どうにもこうにも、あらゆることに手がつかなくなってしまう。これは仕方のないことなのだろうか? わたしはすっかり努力のやり方を忘れてしまったようだ。いや、そもそもそんな方法、一度もわかっていなかったのかもしれない。ただ、今までのわたしは目標が見えているようで見えていなかったから、その頂に少しでも近づいているような気がしていただけだった。つまりわたしは世間知らずであった。大学入試が数年後にせまり自分の目指すべき場所がはっきりしてくると、そのハードルの高さにめまいを覚えることもあった。

そんなことを考えながら食べる昼食はとても味気なかった。周囲を見渡すとみんな楽しそうに談笑している。まるで、将来の悩みを抱えているのは自分だけのような気がして、もやもやした。わたしはさっさと食事を終えて教室を出た。どこに行くあてもなかったが、とりあえず、人のあまりいない廊下を探して、手すりに寄り掛かった。そして、目をつぶった。なるべく今はなにも考えたくなかった。ただ、この目の中の暗闇の昏さに身をゆだねていたかった。

「どうしたの? こんなところで」

しかし、わたしの沈黙の時間はすぐにやぶられた。急に声をかけられてわたしは思いがけず戸惑ってしまった。「えっ、あっ、はい」などと口にするつもりのない間抜けな言葉があふれてくる。

「あ、驚かせちゃった? ごめんね」

声の主は見慣れない人物だった。でも、わたしはすぐに思い出す。その人が美鳥川先生であることを。

「いえ、こちらこそ、すみません。取り乱してしまって」

わたしは平静を取り戻し、先生に謝った。

「ううん、わたしが悪いの。誰だって急に話しかけられたらびっくりするわよね」

美鳥川先生は申し訳なさそうにわたしの顔をのぞいてくる。その視線がわたしはいやだとは感じなかった。かなり不躾な態度だが、この人にはそう思わせない雰囲気があった。それは生まれつきのものなのか、それとも訓練の賜物なのかはわからなかった。

「あの、先生は何を…?」

「ああ、わたしの部屋はね、つまり進路指導室なんだけど、この階のはしっこにあるの。誰もきてくれないから、暇でぶらぶらしてたのよ。なんで誰もこないのかしら。せっかく赴任してきたのに甲斐がないわ」

と少し頬を膨らませる仕草をする先生はなんだかとても幼く見えた。それは見た目の印象だけでなく、先生の疑問の答えがわたしには、あまりにも明白だったからだ。なぜ、進路指導室に人が寄り付かないのか。

「先生、ここにいるっていってましたっけ?」

少なくともわたしは聞いていないし、他の教員からの案内もなかった。先生は一瞬、ぽかんとしてから、合点がいったように大きくうなずいた。

「あ、そうか……そうだよね。場所がわからなかったらこられないわよね。なんでわたし気づかなかったんだろ」

と先生は考え込むように頬を押さえた。頭の中で何かを反芻しているみたいに見えた。自分の世界に入って戻ってこなさそうな、まるで映画の中の天才科学者のようなたたずまいだった。

わたしがそんなことを考えていると、先生は急にこちらに向き直った。この人は動作が緩慢そうに見えてときどき素早く動くから油断ならないなと思った。

「ところで、ええと……吉川さんこそこんなところで何をしているの」

急に名前を呼ばれてわたしはたじろいでしまった。なぜ、先生が会ったばかりのわたしの名前を知っているのだろう。わたしが怪訝な顔をしていると、先生は手を胸の前に出して大きく開いた。なにかを否定するような動作だった。

「あ、また、わたしったら、ごめんなさい。名前はねえ、学校のデータベースで調べたのよ。もちろん、不正にじゃないわ。今日の午前中に閲覧権限が与えられたのがうれしくって、ずっと見てたの」

それを聞いてわたしはさらに身構えてしまった。それはとんでもないことだったからだ。いや、もしかしたら、先生が見ていた箇所に偶然わたしが載っていて、それがたまたま印象に残っていて、そして、奇遇にもここにいたのがそのわたしだったというだけなのかもしれない。しかし、それはいったいどれくらいの確率なのだろう?

「覚えたんですか? みんなの名前」

「ん、みんなじゃないけど、だいたいの子の顔はわかるようになったわ。あと1クラス分くらいかしら。教師たるもの生徒さんたちの名前くらいいえないとね」

美鳥川先生はさらりといった。4時間にも満たない午前の授業中にこの人は不完全とはいえ、この500人近い全校生徒の名前を頭に叩き込んでしまったのだ。それが本当かどうかはわからない。しかし、わたしには、先生が嘘を言っているようにも見えなかったし、またそうする理由も見つけられなかった。

この人は只者ではない。

わたしの心中を察したのか、美鳥川先生は不安そうな顔をしていた。

「ねえ、吉川さん、わたし、へんなこといっちゃったかしら。ごめんなさい、わたしったら……」

心底気まずそうに先生はつぶやいた。

「いえ、そうではないんですが、いや、すごいなって」

「すごい?」

「あ、なんでもないです。ちょっと人見知りなもので緊張してしまいました。ごめんなさい」

この場で先生を問い詰めてもなんの益もないことだと思い、わたしはとりあえずあやまってその場をやりすごすことにした。先生の能力について深追いする必要があるとは思えなかった。

「ううん、いいのよ。それより吉川さん、なにかの縁だわ。時間ある? よかったら、ちょっと寄ってってくれない? 退屈なのよ」

「え、まあ、暇といえば暇ですが……」

「じゃあ、決まりね。こっちよ」

美鳥川先生は半ば強引にわたしの手を引いて、進路指導室にむかった。

 

「ここがわたしの部屋」

と胸を張って見せられたわりには、そこは特筆すべき点が見当たらないような平凡な場所だった。あまり使われていない部屋をあてがわれたのか、置いてある机や椅子に使用感がほとんどない。他にはガラガラの本棚と古そうな紙の書類が乱雑に詰め込まれている扉付の金属製の棚があるだけで、室内は閑散としていた。広さは十分にあって10人くらいなら余裕をもって入れそうだ。長机の真ん中に端末がぽつんと一台置いてある。先生はあれとにらめっこしながら午前中を過ごしていたのだろう。

「ささ、どうぞ。座って。座って」

美鳥川先生はそういって、わたしをパイプ椅子に座らせてから、ポットのお湯でお茶を入れ始めた。

「いや、あの、おかまいなく」

「いいから、いいから」

「じゃあ、遠慮なく……」

わたしは差し出されたお茶をおそるおそる口にした。取り立てておいしいわけではなかったが、その温かさはわたしを安心させた。自分が考えている以上に、わたしは気を張っていたらしい。ほっと一息つくと、なんだか頭がすっきりとしていた。ふと顔をあげると美鳥川先生がなにかを期待するような目でわたしを見ていた。

「なんでしょう?」

「えっ」

「いや、じっと見ているので」

「うーん、あのね、つまり、その……」

どうにも歯切れが悪い。

「もう、はっきり言います!」

「は、はい」

「なにか相談はありませんか!」

「はあ、相談」

「そう、わたしは相談員として赴任してきたの。でも、その仕事が全然ない。これはとてもつらいこと。だから、吉川さんに無理を承知で頼みます。どうかわたしに相談してください」

オーバーな身振りで先生は頭を下げる。仕事がないのは、まだ一日目なのだから、仕方のないことだと思う。しかし、美鳥川先生がある程度の期待を胸に抱いてことの学校にきたことはわかる。正直、面倒くさいという気もちはあったが、その願いを無碍にするのも気が引けた。

「どんな小さなことでもいいのよ。なにかない?」

わたしは少し考え込んだ。もちろん、わたしには悩みがあった。でも、それをここで口に出していいものだろうか。人生で一度も人に相談したことがなかったので、わたしにはその塩梅がわからなかった。自分の悩みを他人に考えてもらうというのは、いったいどういうことなのだろう? もしかしたら、それは他人に自分を背負ってもらう甘えた行為なのではないか。

「ええと、あるといえばありますが」

「あるの?」

美鳥川先生の目がさっきよりも輝きだした。そんな目で見つめられたら、もう後に引くことはできないと思った。わたしは覚悟を決めて話し始めた。

「じつは進路で少し悩んでいて」

「進路ね!」

いちいちリアクションが大きい。

「こほん。ごめんなさい。どうぞ続けて」

「……はい」

わたしが不安に思っていることをかいつまんで説明した。大学に行きたいが、今のままの自分では難しいのではないか。なにかを変えたいが、なにをどう変えればいいのかわからない、などなど。途中で成績を聞かれたので具体的な数字を出して伝えた。

「うんうん、なるほど。わかったわ」

話している最中、先生はメモなどをいっさいとらず、わたしをじっと見つめてときに相槌を入れながら聞いていた。

「まず伝えたいのは、吉川さんが大学に入るのは、思っている以上には難しくはないということ。もちろん、現時点では力不足。それはあなた自身がわかっているようだから、隠さずにいうわね。でも、大学の門戸はそんなに狭くはないわ」

「そうなんですか」

「ええ、公表されている倍率というのは、かなりの数の記念受験も含めての数字なの。実際に受かるつもりはなくても、自分の学力のバロメータとして、大学受験を利用する人は多いわ。つまり、勉強が趣味なのね。そういう人は合格しても別に通いたいわけじゃないから辞退する。だから、毎年少なくない人数の補欠合格者が出ているの」

「へえ」

わたしは素直に感心した。わたしは公表された数字だけを見て、その内実を考えたことがなかった。わたしの周囲には大学へ行こうとする人はまったくといっていいほどいなかったから。

「このへんの情報は大手の学習プログラムに参加すれば、おのずと入ってくる情報だけど、吉川さんはそういうのはやってないの?」

「はい」

「そうね。ちょっとああいうのは高すぎるわよね。でも、だとすると吉川さんはずっと一人で勉強してきたの?」

「そうですが」

「すごい!」

いきなり手を握られた。

「寂しくなかった? つらくなかった? たいへんだったでしょう。でも、あなたはここまできたのね」

そんなたいそうなものではない、と否定したかったが、言葉がでなかった。先生の温かい手に触れていると、なぜか頭の奥のほうが熱くなった。先生の優しい言葉を聞くと忘れていたなにかがよみがえってくる気がした。

気がつくとわたしは泣いていた。そんな感覚はなかったが、頬に違和感を感じてぬぐってみるとそれは自分の目からあふれ出る涙だった。先生はなにもいわなかった。ただ、わたしの手をにぎり続け、微笑み続けるだけだった。

 

「一つだけ確認してもいい?」

「どうぞ」

「吉川さんはなぜ大学に行きたいの?」

「それはいい職につけるからです。やりたいことは特にないけど、収入があれば自由になれるから」

「ううん、わたしが聞きたいのは、もっと前。あなたがどうして、そして、『なに』から自由になりたいのか。それが気になるの」

わたしは口をつぐんでしまった。すぐに答えられないのは、なにかあるのだと主張しているようなものだった。

「もちろん、言いたくなければ言わなくてもいい。これは踏み込みすぎた質問だから。あなたの指導には、ここまで十分な情報が集まったわ。実際にがんばらなくちゃいけないのはあなただけど、できるかぎりの助力はするから」

そこまでいうと、先生はちらと時計を見た。

「もうこんな時間。授業が始まっちゃう。吉川さん、ありがとう、相談してくれて。またいつでもきていいからね。どうせしばらくは暇だろうから」

しかし、わたしは立ち上がらなかった。

「あの、先生、わたし、話します。先生になら話せると思う。わたしの家族のこと」

その瞬間、美鳥川先生は今までみせたことのないような厳しい表情をした。

 

 

「あら、珍しい。何か月ぶりかしら」

わたしは声をかけると、「彼女」は憎たらしい声色で、わざとらしい抑揚をつけていった。

「そんなこと知らない」

「わたしは覚えているわ。2か月と14日ぶりね」

「適当いって」

「適当じゃないわ。前の会話は確か『そこどいて』『ん』だったわ」

「そんなの会話になってないじゃない」

「いえ、大切な会話よ。愛らしい妹と愛おしい『お姉ちゃん』とのね」

「彼女」に話しかけると、いつもこんな物言いをする。過剰に嫌味っぽいというか、ふざけているというか、とにかくわたしがいら立たせるのが目的としか思えないしゃべり方だった。そして、その目論見はおおよそ成功している。だから、普段はなるべく話しかけないのだが、今日はそんなことを気にしている場合ではない。

「そんなことはどうでもいい。今日は確かめにきたの」

「なにを?」

「あなたの正体」

「ふうん」

「あなたは本当は人間じゃないの?」

「彼女」の表情が一瞬、曇ったのをわたしは見逃さなかった。

 

先日、わたしは美鳥川先生に洗いざらい打ち明けた。この約10年の間に起こったことを、わたしが話している最中、美鳥川先生は終始、険しい表情をしていた。眉間に皺を寄せたり、固く目を閉じたり、そして、わたしが話し終わると先生は大きく息を吸って吐いた。

「これから、わたしがいうことは一つの可能性として聞いてね。絶対にそうであるという保証はできない。それを納得してもらえるなら、続きを話そうと思うわ」

「はい」

「じゃあ、いうわね。もしも、今吉川さんが話したことが、すべて事実なのだとしたら、あなたの妹さんは人工生命(クラフト)かもしれない」

クラフト――人間の労働力を補うために生み出された人を模した人ならざる存在。この都市にもクラフトは働いている。ある程度の規模を持つ企業なら、その単純労働力としてクラフトを使用しているのは珍しくなかった。しかし、クラフトはあくまで補助的な労働力としての存在である。それがなぜわたしの家にいるというのだろう?

「20年前くらいにね、とあるブームがあったの。クラフトを家族にしようっていうね。もちろん、ブームといっても小規模なものだし、実際個人でクラフトを所有できるのは、ごく一部のお金持ちだけ。だから、ほとんどの人はそんなことが行われていた事実自体を知らない。でも、たしかにそれは行われていたの」

先生は、そこでいったん言葉を区切り、逡巡するように一瞬、天井のほうを見上げた。

「最初は身寄りのない人が、自分の身の回りの世話をさせるために家政婦としてクラフトを雇っていただけ。だけど、それがだんだんとクラフトに役割を求めるようになっていった。亡くなった父親、出て行った母親、生まれていたかもしれない息子、元気に育つはずだった娘、ずっと欲しかった兄弟……それはどんどんエスカレートしていったわ。自分以外の家族全員がクラフトで構成されていた事例もある」

家族全員がクラフトというのは、にわかに信じがたい状況だった。それではまるで人形遊びではないか。自分の望む理想の家族を作り上げることは確かに魅力的だ。しかし、それは――

「もちろん、そのときはクラフトの個人所有は規制されていなかったし、特に問題視もされていなかった。でも、その変化は確実に起こっていたの。クラフトは人間に奉仕するために生まれた存在。だから、一番身近にいて、自分を使用してくれている人の希望をなによりも優先して叶えようとする。クラフトたちの『演技』は完璧だったわ。心に隙間がある人たちを『魅了』してやまない程度にはね」

先生は「魅了」という単語を強調した。その言葉は、先生がどこかで聞きかじったものではなく、先生自身の内側から出てきたものなのではないかという気がした。

「理想の家族を手に入れた人々は、やがて他人を顧みなくなっていった。その中には大企業の経営者、政治家、その他影響力の大きい重要人物もいたの。そういう人たちが、家族というサークル以外のことはどうでもいいと考えたら、いったいどうなるかは想像できるわよね」

わたしはうなずいた。

「もちろん、すぐに具体的な被害があらわれたわけではなかった。だけど、将来的なリスクを看過できないと悟った政府は、すぐに対応し始めた。法の整備だけでなく、ときに強引な手段で個人に介入して、クラフトを没収する事態にまで発展したこともあったみたい。かなり批判も受けたようだけど、ごめんなさい、このあたりはあまり詳しくないの。わたしがはっきりいえるのはその結果だけ。つまり、今はもうクラフトの個人所有はとてもたくさんの条件をクリアしなければ、できないというということ」

「じゃあ、なぜわたしの両親が?」

「それはわからない。でも、あなたの家族の状況は当時のクラフトを持った人々の状況と、とても似通っている。それから、『彼女』が突然現れたというのも不自然。だから、確認してみる価値はあるんじゃないかしら」

「でも、ほんとうにそうだったとして、わたしはどうすればいいの?」

「そんな顔しないで、よく聞いてね。現行のクラフト法では、まずさっきもいったように、クラフトの個人所有は規制されている。まずこの点において、あなたの両親は法を犯している可能性が高い。もちろん、それが本当なら罰則を受けなければならないわけだけど、『彼女』はあなたに精神的苦痛を何年にもわたって与え続けてきたという事実がある。被保護者が被害者の場合、その両親には酌量の余地があるわ。そんなに重い罪にはならないでしょうね」

「そうなんですか」

わたしは急に目の前がひらけていくような感覚を覚えた。

「そう、クラフトがナチュラルを傷つけることは、許されてはならないわ。もしも、あなたの妹さんがクラフトだって確認できたら、またわたしに相談してちょうだい」

 

そして、わたしは、ひとつの確信をもってここに立っている。

「だれにそんなこと吹き込まれたの? それとも自分で思いついた?」

「どうでもいいでしょ」

「なるほどね。でも、それが本当だったとして、どうするつもり? お父さんとお母さんに訴えるの? 『蜜柑は人間じゃない。化物だ』って」

「……わからない」

「そんなことをしても、無駄だってあなたが一番わかっているはずよ。お父さんとお母さんの心はもうずっとわたしのもの。死ぬまでね」

「やっぱりそうなのね。それは変えられないのね」

「そうよ」

「でも、わたしは取り戻したい。わたしの家族を。今まではあなたが本当の妹かもしれない可能性を捨てきれなかった。わたしの記憶違いで、あなたはわたしのお母さんから生まれた実の娘だ、と。それなら、仕方がないと自分に言い聞かせることもできた。でも、あなたがぜんぜん関係ない、人ならざるものなら、どうか家族を返してほしい」

わたしがそう言い終えると、彼女は「きゃははははは」と笑いだした。

「取り戻す? 返してほしい? いったいなにをいっているの? 自分から捨てたものがそう簡単に戻ってくると思ったら大間違いよ。甘々の甘ちゃんにもほどがあるわ」

「捨てる?」

「ああ、『お姉ちゃん』、あなたはなにもわかってなかったのね。この何年もなにもわかってないまま、ただただずっと意味のない、空疎な時間を過ごしてきたのね」

そのときの『彼女』の目は心底わたしを憐れんでいるようだった。

「わたしが、なにをわかってなかったというの」

「『お姉ちゃん』は自分が被害者だとおもっているんでしょう。両親から見捨てられたかわいそうな一人娘だって」

わたしは沈黙した。そうだ、そうでなければなんだいうのだろう。

「でも、ほんとうに家族を見捨てたのは、『お姉ちゃん』自身なのよ。この意味、わかる?」

その言葉を聞いた瞬間、頭の奥がぐっと熱くなった。鼓動が高まり、血液が体中をものすごい速さで循環するのがわかる。今にも心臓が破裂しそうだ。

「なんのことなの」

「お父さんとお母さんは、『お姉ちゃん』から与えられるプレッシャーに耐えられなかった。あなたがなにを求めているのか、わからなかったから。自分たちはこの子にとって、必要のない存在なのではないかってね。身に覚えがあるんじゃない? わたしに直接話してくれたことはないけど、昔の日記につらつらと書いてあったわ。お父さんとお母さんがこんな日記をつけていたこと、『お姉ちゃん』は知ってた?」

わたしはなにも答えられなかった。

「知らないでしょう。だって興味がないんだから、仕方がないわよね」

「彼女」はやれやれという感じで、首を振った。

「そう、『お姉ちゃん』は興味がないのよ。この家族にね。お父さんもお母さんもそれに気づいていないと思った?」

わたしはやはりなにもいえない。

「それでも二人は『お姉ちゃん』を試した。わたしを使ってね。あなたにとって本当に必要なら、離れていく自分たちを絶対に離さないだろうと考えたの。二人にとってはむしろ、自分たちのほうが試されているような心もちだったでしょうね」

「彼女」はまるで怒っているかのように、語気を強めた。

「結果はご覧のとおり。あなたはもう家族を衣食住を提供する機関としかみなさなくなった。そして、挙句の果てにはここから逃げ出す算段すら立てている。利用するだけ利用して、いらなくなったらポイってわけね」

「そうじゃない。わたしはずっとあなたに嫉妬していた」

「ふうん。でも、それはあなたが家族を必要としていたからではないわ。あなたはただ自分の所有物が奪われたから、悔しかっただけ。きっとほかに自分を認めてくれる人が現れたらすぐに鞍替えするでしょうね」

「そんなことはしない」

しない、はずだ。

「まあ、なんてずるい人。とにかく、この家族は、もうわたしのもの。あなたのじゃない。たとえ、あなたが自分を被害者だと言い張っても、それを社会が認めても、ほんとうの意味での家族は戻ってこない」

「彼女」はそう断言すると、まるで勝利を宣言するかのように、高らかに歌い上げた。

「でも、今からでも、あなたが、わたしを、家族を求めるなら、仲間に入れてほしいと懇願するなら、その願いは叶えられる。わたしが叶えてあげられる」

わたしはもはやなにも考えることができなくなりつつあった。「彼女」はいったいなにをいっているのだろう。

「わたしが認めてあげる。あなたはわたしの『お姉ちゃん』なんだって」

わたしの目の前で、わたしに似たなにかがなにかをいっている。わたしから家族をうばったなにかが、なにかを。

「ねえ、どうするの?」

返せ。わたしの家族を。

「だまってちゃあ、わからないわ」

返せ。どうか、

はやく、返してください。

 

「ねえ、『お姉ちゃん』?」

 

 

は頭を悩ませていた。その原因は今日、教育省から提出されたある提案にあった。それはナチュラルへの教育にクラフトを参加させるというものであった。こういう類の提案は何年かに一度のサイクルで必ず上がってくる。神奈はそのたびに、それをどう退けるかに心を砕く必要があった。自身がクラフトでありながら、クラフトの活躍の場を増やす政策に反対するのは、気がすすまなかったが、やはりそうすべきではないと思った。

神奈はナチュラルとクラフトが過剰にコミュニケーションをとるべきではないと考えていた。もちろん、すでにクラフトは社会に多く溶け込んでおりナチュラルとの接触は回避できない。それでも、教育機関のような場所に、クラフトを配置するのは気が引けた。神奈がそう考えるのには、ちゃんと理由があった。

吉川事件。

それは何十年も前の、一人の少女が家族3人を惨殺した痛ましい出来事だった。家族から精神的にネグレクトされていた少女は、自分の心を守るために、その原因である「妹」の存在を認めず、家族が正体不明の存在に侵されているというストーリーを作っていた。そして、そのストーリーの破綻を当の「妹」から指摘され、激高、犯行に及んだというわけだ。これだけなら、ただの殺人事件として神奈の興味を引くことはなかっただろう。

その事件の調査中に犯行の数日前から、犯人の少女がある人物と接触していたことが判明した。これが問題だった。

美鳥川善意。

それは少女の学校に試験的に赴任していたクラフトの名だ。当時もやはりクラフトを教育機関に配置しようという政治的な風潮があったらしい。

彼女は犯人の少女に指導員として接触、彼女の心の隙間を埋めるような言葉をかけて安心させ、その上で少女が作り出したストーリーをさらに強化するアドバイスを与えたという。それを聞いた少女は、いよいよ「妹」が自分の領域を不当に犯している存在だと断定し、「妹」自身にそのことを詰めよった。犯行はその直後である。

美鳥川がいったいなにを少女に吹き込んだのかは、すでに詳細な記録が失われているから知り得ない。しかし、神奈はその事件についての記述を読んだときの戦慄を忘れることはできなかった。美鳥川と少女がどのていどの関係だったのかは定かでないが、しかし、件の事件は美鳥川が赴任してたった4日後の出来事なのである。これをどう解釈すべきだろうか。

今の政府は、クラフトの有用性については過剰な期待を抱いている反面、クラフトの能力については見くびっているふしがある。クラフトはナチュラルに奉仕すべき存在。だからこそ、クラフトはなによりも目の前にいるナチュラルのことを一番に考える。その考える力はたぶん本人たちもナチュラルも気づいていないくらいに強い、というのが神奈の見解だ。その強すぎる共感能力はときにテレパシーのようにナチュラルの心を見透かしてしまう。いったい相手がなにを求めていて、なにをしてほしいのかが、クラフトは無意識のうちに理解できる。その逆についても同じことがいえる。つまり、相手の嫌がっていること、してほしくないことすら、クラフトにはわかってしまうのである。本人たちからそういう感覚があるという言質をとったわけではないし、心を読めるといってもどの程度なのかは未知数というのが現状だ。しかし、あらゆる事実が、多くの実験結果が、力の存在を示唆していた。そして、その力は、クラフト自身に悪意がまったくなかったとしても、ナチュラルの心を惑わす。その事実は歴史が物語っているはずなのに。

もちろん、これはまだ世間には発表していない神奈の中にだけ存在する仮定にすぎない。しかし、と神奈は思う。

(こんなはずじゃなかったのにな――)

ナチュラルとクラフトを対等な関係にするのが、神奈の最大の目標だった。しかし、研究をすればするほど、そうできない、するべきではない根拠ばかりが浮かび上がってくる。

神奈は目をつむり、少し眠ることにした。もう今日は会議会議で疲れてしまった。また、明日からがんばろうと思う。だけど、わたしはどこまでがんばればよいのだろうか?

とにかく今はただ眠ろう。そして、神奈は夢を見る。それはたった一人の幼い娘とのどかな公園を歩いている夢だった。そういえば、ここ最近、忙しくてぜんぜんかまってやれてないな、と神奈は夢の中で思い出す。今度、暇ができたらどこかにつれてってあげよう。彼女が行きたいのはどこだろうか、したいことはなんだろうか、そんなことを考えるのが、多忙な神奈の生活にとってなによりの喜びだった。

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内容に関するアピール

皆さま、本当に本当にお疲れさまでした!

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