マニエラ・マニエリスム

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マニエラ・マニエリスム

叔父さんが消えた。

その電話を受けた時、私は「おじさん?」と聞き返した。神崎はしばらく逡巡し、次いで「僕の叔父さんだ」とくぐもった声でそう告げた。

「叔父さんって、あの、何時も話している人だよね?」

なにぶん、電話越しのことだ。声のみで様子を悟るには限界がある。私の戸惑った雰囲気をようやく察してくれたのか、神崎は気を静めるように息を吸い、そして思いっきり吐く。ごめん、と一言呟く頃には普段の平静さを装うまでには回復したようだった。

「それで、一体どうしたの」

どこから話せばいいのか。そう言いつつも、悩ましげな様子で電話を切ろうとしない。昔から優柔不断な所が玉に瑕であったが、それに手を貸したいと思ってしまう自分も大概なのだろう。

「今、どこにいるの?」

有無を言わさぬ声音でそう話しかけると、条件反射のような速度で住所が電話越しに叫ばれる。まるで上官に命令された一兵卒のようだ。場違いな笑いを噛み締めながらもそれを一字一句違わずに脳内に書き留め、一時間以内に向かうことを告げて電話を切った。

神崎と再会したのはそう昔のことではない。高校時代は三年間、同じ教室で切磋琢磨し合い、コンビで数えられる程度には交友もあった。けれど違う大学に行けば自然と疎遠となってしまったのは、互い互いにそう素直ではない人間だったからだと思っている。
あんたは変な所でプライドが高くて前向きだ、とは高校時代から交流が何とは無しに続いている親友からの言葉だが、私はあの時の神崎にも同じ気持ちがあったと信じていたかった。

 

『私、美術館巡りが趣味でね』

高校時代、騒がしい教室の中でぽつりと呟いた言葉は神崎の耳にも確かに届いていただろう。学生間での趣味の話題で言えば、芸術というのはどこかとっつきにくい所がある。美術部であった私はそれでも周りに公言していたが、帰宅部の神崎には特に言ったことがなかった。そんなに聞きたい話題でもないだろうな。そう思いつつも返答を待っていたら、思いもがけない答えが返ってきた。

『僕も結構行くよ』

叔父さんの趣味に付き合ってだけど、といい添えられる声を聞く間もなく、今度の展覧会に一緒に行こうと誘っていた。

 

きっとこの時点で、好きだと私から告白しておけばよかったのだ。
生まれながらの天邪鬼であった私と、それなりに人気があって自分から行動することなく引く手数多であった神崎とでは、恋よりも友情が優先してしまった。高校卒業後にも疎遠になる前に、私から連絡を取ればよかったのだ。
後悔は先に立たず。だからと言って、たとえ過去に戻ったとしてもそれを防ぐ術が自分に取れただろうか。自分の意気地の無さは、自分が一番分かっている。
そういうこともあってか、大学時は恋よりも趣味を優先した。恋は自分から動かなければ芽生えることがない。その面倒さを見ないふりして自分の好きなことをやる方が性にあっていたこと、また神崎以上に惹かれる人を見つけることができなかったからだ。画家になるという夢は夢のままにしてバイトに明け暮れ、芸術に触れ合う時間だけは確保しようと躍起になった。

芸術だけは、いつだって私を救ってくれる。

というのも、大学受験の時の話だ。
親と喧嘩をして、結局油絵科専攻を諦めた。中途半端な技術もさることながら、それでご飯を食べていけるのか、というありきたりな質問に満足な答えも返せなかったからだ。技術力もないのに自信もないのでは勝てる戦も勝てはしない。しかしだからと言って、じゃぁ何がやりたいのか?
文系ならば文系なりに、無難な学科を選んでおけば何処かしらの職には就けるはずだと親はいう。しかし私は、それでも芸術の何かしらには携わっていきたかった。しかし、芸術でご飯を食べていく自信はなかったのだ。

トボトボと、海を見に行ったりもした。ただ見たことがない海を見に行くために海岸を目指しただけであったが、制服姿で砂浜に体育座りをする女子高生を、あの時人はどんな目で見ていたのだろうか。
迷走し、悩んでいた。けれどそんな私を救ってくれたのはやはり芸術だった。とりわけ、絵画である。
エル・グレコが日本にやってきていた。会期の最後、人が少なくなる時間帯に駆け込むようにして展示室をみてまわった。

グレコは理解するのが難しい。作風を説明するにあたっては『奇抜』という言葉がよく用いられ、それは確かに適してもいるだろう。色彩はまばらでべたべたとしていて滑らかとは言い難いし、胴体は長く歪み、人体の比例をことごとく無視している。
『様式』や『手法』を意味したマニエラが絶賛された盛期ルネサンスに続く形で生きたマニエリスムの画家達は、時に評価され、時に歴史の中に消えていた過去がある。
しかし今、こうして目の前にある奇跡が、そのままこの作品達の持つ力と言わずなんて言えようか。

鷲のような羽根を持つ天使達に導かれ、聖母マリアが神の元へと上がっていく。神の御姿は白い鳩として現され、地上には、トレドの町と咲き誇る薔薇と百合があった。画集においてはくすんだ色としてしか認識できなかった色彩は、半ば暴力的と言っていいほどの鮮やかな色彩で持って視界に広がっている。
私は蛇のように身をくねったマリアの胴体に視線を向けたまま、ゆっくりと床に膝をついた。思わず、自然に、そうしなければならない気がした。まるで祭壇の前にいるようだ。辺りには他に鑑賞者はおらず、たった一人いる監視員は何も見ないでいてくれているようだった。
無神教者が、神に祈る真似事か。けれど神はいたのかもしれない、少なくとも今この目の前にはいるはずだ。
天がどこまでも続いていく。視覚のもっと奥、脳が広がる感覚と快感が、目の前に神の存在を幻視する。

あぁやっぱり私は間違ってなどいない。

これからも芸術に携わっていこう。そう決意した私は芸術学科専攻となり、芸術の歴史を学び、大学卒業後もその知識を活かして美術雑誌の記者として日夜脇目も振らず働いている。

神崎と再会を果たしたのはそんな折、AI展覧会の話が出てきたからだ。

自分のデスクでご飯を食べていた時のことだ。コンビニで買ってきたおにぎりと野菜ジュース。自炊を目指したこともあったが、忙しい合間には手軽さをつい優先してしまう。自分で働いて、自分で買った飯の味はどんな場合においても格別だ。もそりと袋を開け、鮭おにぎりにかぶりつく。その合間を測るようにして声をかけられた。

「AI美術展」
「…何ですかいきなり」

十分な咀嚼の後、一息ついてから応答する。どこかつまらなそうな顔をして隣の空いた椅子に座るのは、入社してからお世話になっている篠山先輩だ。

「お前、この展覧会の取材する気ない?」
「えっ、いや、えぇ…」

AI美術展。勿論それは通称だったが、概ねこの言葉で通ってしまっているために正式な美術展の名前はあまり浸透していない。正確に言えば人工知能芸術展。センスの良さ等が問われる展覧会のタイトルだが、この場合は分かりやすさを優先したのだろう。名前を聞いただけでどのような催しかがわかること。宣伝の効果を考えるならば、初めての試みに下手な手は打てなかったのだろう。
人工知能が、人間のように絵を描く。数年前から話題にはなっていたものの、日本で展覧会を開催するほどのものになるとは思いもしなかった。だって、結局は模倣にすぎないではないか。

「こっち方面、あんまり詳しくなくてな」

篠山先輩の専門はどちらかというと東洋、しかも仏像関係だ。昨今のAIは彫刻もやり始めたようだが、まだ木彫り段階には至っていない。AIの彫る仏像に果たして仏は宿るのだろうか?

「おいおいは特集でも組みたい分野ではあるが…今はちょっとな」
「…まぁ絵画となると、私の方が適任かもしれませんね」

調子のいい言葉に篠山先輩がニヤリと笑う。生意気な後輩というのが嫌いではないという時点で、先輩と私の相性はなかなかいい。

「まぁ確かにな。あと自分で言って情けないもんがあるが、AIっていうのもよく分からないポイントなんだ…」

指先で頭を掻くその様子は恥ずかしがっている証拠だ。自分の無知を隠そうとしないのはこの先輩の美徳だろう。

「つまりはなんだ、大塚国際美術館みたいな展覧会、みたいなもんだろう?」
「あぁあの徳島にある美術館ですか?」

包装紙を開け、一口サイズのチョコレートを口の中に放り込む。甘く、ほっとする味だ。ちらりと視線を向けると俺にもくれ、というように手を差し出される。仕方ない、一つだけだ。先輩は礼も言わずに一口で食べてしまった。

「うーん、徳島のあの美術館と今回のものは別ものじゃないでしょうか」
「ほう、興味がなさそうなふりして実は何か考えがあったのか」
「いやそういうのじゃなくて…」

しばしの逡巡。AIは正直専門外だ。しかし絵画に関してはそりゃぁ思うところがいくつかある。

「篠山先輩は複製と模倣、剽窃って同じものだと思いますか?」
「…そりゃぁまた難しい問題を」

眉をしかめ、こちらを睨めつけるような視線。けれどあがった口角はどこかコミカルな印象を崩すことがなく、ここが好かれる理由なのだろう。思わず吹き出してしまった笑いに満足したのか、先輩は真面目な様子で語り出した。

「複製はそうだな…。版画やポスター。複製を前提とした芸術がある以上、一概に本物ではないとは言い切れない。一方で模倣こそ、それがなきゃ芸術の発展もなかっただろうさ。まずは過去の偉大な作品を模倣してこそ、新しさってのが見えてくるとも思うわけで…。あぁわかった」
「何がわかったんですか?」
「お前の言いたいこと」

複製と模倣は異なるものだ。あの徳島のレプリカ作品たちはいわば原画の再現だ。オリジナルを損なうことなく、忠実な色彩と大きさを持ってして再現を行っている。あの技術があれば美術品の保存という観点で見ても、人類の偉大な遺産の一つになり得るだろう。一方でAIが行っているのは模倣なのだ。発展の見込めない剽窃だ。過去の有名な作家たちの特徴を抜き取って、それをまた新たな画像として合成しているにすぎない。
人工知能が作り出す芸術は、やがて人間の域を越えることが出来るのだろうか。

答えは否だ。

AIが絵画に向ける発想は一見、人間にないものに思えるかもしれない。しかし結局のところ、AIを調教しているのも人間でしかなく、評価するのも人間でしかない。作品は意味のわかる符号に調整され、その不可解さすらも”AI”だからと解釈され、人間の芸術とは違うものとして扱われる。
しかも何度も同じことをすれば、パターンが次第に読めてきてしまうことだろう。いずれかのモチーフの原典が、AIに与えた素材の中にあることに気づいてしまう。新しさを装った発展は、どこかの時代で見てきた作品と結局は同じものだ。
いつの日かやってくるかもしれない“飽き”に備えて、人間はあらゆる対策を練る。その作風を固定するか、時代に沿わせていくか。他者の理解を求めるか、不理解に反発するか。人間は常に試行錯誤を繰り返し、自分なりの芸術を追い求めて生きていく。だからこそ、時代の起点となる画家は後世に名を残し、偉大な作品は人類の宝となり得る。

けれどAIに、その知恵は身につくものなのだろうか。

「しかもあの美術展の広告はAIの作品を過去の画家の“新作”だって銘打っているので、あんまり好きになれないんですよね…」
「まぁあれは、たぶん広報がやりすぎたんだろう。こういった催し物の常套句っぽいところあるし…」

雑なフォローだが、確かにそうとしか言えないだろう。おそらく、美術にもAIにも関わりが深くない人が宣伝効果のためだけに与えたキャッチフレーズであることはわかっているがしかし、どこか煮え切らないものがある。
その様子を横目で見つつも、先輩は話を勝手に都合のいい方に進める。

「…よしっ、じゃぁ決まりだ。ここの取材は任せた」
「えっ一人でですか!?」
「まぁまぁ、この展覧会の取材としては完全に出遅れてるしな。そろそろ美術雑誌業界もAIに注目すべきか否か、その偵察ってとこ」
「えぇ…。それ仕事ですか?」
「まぁ勉強だと思って」

お茶を濁すような物言いに、うめき声が思わず漏れる。

歴史に名を残すかの悪名高いヒトラーも、芸術家を目指していた事があった。クリエイティブな仕事というのはどこか才能によるものという誤認がある。自分が納得すれば芸術家であるのか。他人が認めてこそ芸術家なのか。作品が売れ、生計が取れてこそ芸術家なのか。人の数だけ答えがあるならば、一概に才能だけが重要ではないはずだ。けれど自らの才能を見限って、また違う分野での成功を望むならばそれもまた一つの正しさだろう。
叔父である里田博もまた、それに類する人物であったのだと、神崎は私に説明した。

 

昨夜の私、本当にいい仕事をした。そう自分自身を褒め称えると同時に、現在ここに立っている自分自身にも賞賛を送る。心臓がばくばくと鼓動し、彼を目の前にした時に平静でいられる気がしない。
まぁまぁ折角だし、誰かと一緒に行ってこい。そう言って差し出されたチケットはその役割を果たしそうにはないが、そう言ってくれた篠山先輩にも現金なものであるが感謝だけはしよう。ありがとうございます、先輩!
駄目元と思って送ったメアドが、変わっていなかったことも功を奏した。

ーお久しぶりです。坂井花です。
今週の土曜日、もし用事がなかったら一緒に展覧会に行きませんか?

送る一文に関してはずいぶん悩んだが、久しぶりなことを考慮して、簡潔に、生意気にならず、を心がけた。返信が待ち遠しく一時間に二回はメールボックスを開いて見ていた。返信があったのは翌朝だ。

ー久しぶり。かしこまってておかしい感じ。
展覧会?一体なんの?

すぐにメールを送ってしまったら、まるで心待ちにしていたみたいで恥ずかしい。午前中を晴れやかな気持ちで過ごし、積んであった仕事を二つ三つ消化してしまった。メールを送信したのはお昼頃になってからだったが、返答はすぐに来た。

ー自分でもおかしい感じはしてた、笑
なんと話題のAI展覧会。
チケットもらったんだけど、心あたりある人全員用事があるって。
神崎とは高校の時結構一緒に行ってたでしょう?
どうかなって思って。

ー何時ぶりだろう?誘ってくれて嬉しいよ。
何を隠そう、そのチケット持ってて、僕も花を誘うか悩んでたんだ。
今度の土曜、ぜひ一緒に行こう。

文章は滞りなく進み、その日のお昼のうちに待ち合わせ場所と時間が決まった。順調すぎて怖いぐらいだったが、そこから帰宅して服やカバンを精査し、当日邪魔をされないぐらいには仕事を消化し、と急ピッチで事を済ませればもう当日、今日という日になってしまった。
最寄りの駅の改札で、神崎を待つ。曲がりなりにも美術展だ。場内の床の状況や音の響き方がわからない以上、ハイヒールは避ける必要があった。だからと言って、久しぶりに会うその姿は良いものであってほしいとも思う。

「花?」

駅の壁に背を預け、ドキドキが冷めやらぬ心臓を抑えながら待っていると、声がかかる。
神崎だ。

「ごめん、待った?」
「いや、早めに着く電車しかなくて…。だから全然待ってない」
「あぁ、花はめっちゃ田舎の方に住んでるもんな」

今は一人暮らしだから、笑いながら少し上の方にある肩を小突く。昔と変わらない調子で話せることが気分をさらに上向きにした。
目的地へたどり着く。美術館の展示スペースの一室を借り切った展覧会の様子は、特段特別なところはない。パンフレットに掲載されたスペース配置には『人工知能』だの『出力方法』などと通常の展覧会とは趣の異なった題がなされているものの、それ以外は目立ったものは見受けられなかった。言わせて貰えば、展示の仕方や配置にはかろうじてこだわりが見受けられるものの、どこか雑な印象は否めないということだろう。
また広告の量に比べ、展覧会はそう盛況といった風には見えないことも気になった。

ブリューゲル、カラヴァッジョ、レンブラント、ロラン…。

目録を見ると有名どころはルネサンス期以降の画家の作品が多い。でも実物はどんなものなのだろうか。そろりと一歩、前に踏み出す。その動きを知った神崎は「じゃぁまた後で」と言い残し、さっさと前に進んでしまう。私のそばには気が向いた時だけやってきて、気が赴くままに見て回るのだ。じっくり見たい派の私と、興味のあるものだけを見ていく神崎。高校生の時と変わらない鑑賞方法に、思わず笑みがこぼれる。
中途までやってきた時、不自然な壁の空白に行き合った。展示スペースは確保されているものの、肝心の作品がない。その不自然さに立ち止まると、ちょうどよく戻ってきていた神崎と目があった。

「どんな感じ?」
「うん、特徴がわかりやすい画家を敢えて選んでる感じ」

でもやっぱり、ちょっとなぁ。
人工知能の性能がいかほどのものなのかは理解できずとも、絵画については譲れない。科学的な知識はあっても、美学的な問題を知るかはまた別の問題だ。幾つか用意されたデータには齟齬があり、研究過程においての苦労もあったのだと思うが、研究材料として扱うのならば少しは勉強して欲しいところだった。

例えばブリューゲル。
農民の生活風景、昨今においては愛嬌のあるモンスターが有名であるものの、それらは別に同一人物の作品でもない。ブリューゲルは一族で画家を生業にしていた。それぞれが得意としていた分野があり、農民や地獄の様相、花の彩りを描き切った画家を同一視してはならない。
『ブリューゲル』と題された作品はそういった事情もかんがみた結果の可能性はあるものの、農民らしき人間の頭部が花に取って代わったキメラの産物を、認められるかはまた別の問題だろう。『成功への前進』と題されたコーナーに置かれた作品だからこそ、そこは受け入れるべき問題の可能性も捨てきれないが、ちょっと面白くない。

「神崎はどう感じたの?」
「僕? うーん、なるほどなぁって感じ」
「なにそれ」
「いや、実はさ。この展覧会の話を事前に叔父さんから聞いてて」
「へぇ、なんて言ってたわけ」
「まぁちょっと、不満げだったよ」

叔父さんが浮かべた表情の再現でも行っているのか、なんとも言えない顔をしている。あまり深追いする話題でもなさそうだ。興味はすぐに壁の空白へと移動した。

「ここの壁の部分さ、なんか展示されるのかな」
「あぁ、ここにはメインが来るはずなんだ」
「メイン?」

そう、メイン。壁に手を伸ばすも、注意してくるような監視員はいなかった。幾つかのスペースには比較のためか、元となった画家の真作が飾られていたためだろう。おそらく、そちらに人を割いているからだ。会期が始まってからも展示されない“メイン”の扱いの軽さが、この展覧会自体を成功とは程遠いものにさせているようだ。

「…それで、それはいつ展示されるの?」
「さぁ、何時だろう」

 

夜九時。少し早いぐらいの時間で帰宅する、
まるで夢みたいな一日であった。ご飯を食べ、明日用事があるのだろいう神崎と早々に別れた。明日は1日、久しぶりのオフだった。何をしようかとしばしば悩んだあと、思いつく。

ずいぶん久しい。

イーゼルを立てて、真っ白なキャンバスの前に立つ。そうするとあの頃に戻ったかのようだ。
絵筆は錆びつき、絵の具は固まってしまっているだろうか。入社当時は趣味に留めるも油彩画をやめるつもりはなかった。木枠を組み立て、麻布を貼ってキャンバスを一つ仕立て上げたのはその決意の表れだ。
しかし仕事というものは思った以上に忙しく、まとまった時間を確保できないままこうして数年が経ってしまった。けれども、神崎との時間を思い出した今、あの頃の情熱が再び息を吹き返したようだった。
キャンバスの地肌を撫で、今後の構想を練る。ただ布を貼っただけの今にしても、それは一つの世界を築くための地上を生み出したのも同義であった。
ここにどんな下地を施し、どう絵具を重ね、何を表現していくか。色を重ねれば重ねるほど、その下地の肌が重要になってくる。下地を粗く毛羽立たせれば、表層において生き生きとした土の質感を表すこともできるだろう。艶やかさを保たせれば、そこに硬質なガラスの感触を表出させることもできるかもしれない。
何層にも絵具を重ね、画家はあらゆる世界を作り上げる。薄く緻密に重ねていけば、人肌の奥にある血管の脈動を、幼子の頬紅の美しさを人は改めて知ることになるだろう。
鮮やかな自然の色彩は、完璧な産物だ。世界があり、そこに人が生まれ出てきたこと。ここに存在し、生きていることに対する驚きと発見は、自分一人の拙い脳だけではとてもじゃないが認識することができなかっただろう。

素晴らしい絵画に出会ったときの感覚は、本を読み、その作者の考え方を補充することによって拡張していく脳への衝撃にもよく似ている。
ダヴィンチは現世の食堂にキリストの最後の晩餐風景を現界させ、エル・グレコは神の存在を信じさせた。あらゆる時代の絵画、あらゆる歴史の芸術が、世界に対する視野を拡張していく。その感覚に一度酔ってしまえば、抜け出すことなど無理なことだった。
意気揚々と今にも歌いだしそうな気持ちのまま、洋服をハンガーにかけ、お風呂の準備をする。少しでも今日できることを終わらし、明日に向けての活力を補わなければならない気がしていた。
体にまとわりつくような空気を意識するのは久しぶりのことだった。埃っぽい部屋の匂い、花を生けるのも忘れていた花瓶、足の裏を伝う床のざらざらとした感触。よく見なければならない。よく聞き、嗅ぎ、触れなければならない。

世界の全てを全身で感じなければ。

描くことができなかったのは、描きたいと思うものを決めきれなかったからだと、今更になって気づく。あらゆることに興味があった。しかし、興味があることを全て消化するにはこの世界は広すぎたのだ。知りたいと思うことに際限がなく、だからこそ全部が中途半端になってしまう。
しかしそれでもだ。普段見ることもなしに通り過ぎていく美の盛衰を、一瞬の内に閉じ込めた芸術品。何世紀もの間の人間の英知の積み重ねをその端っこでもいいから、常に感じていたい。
何層にも塗り重ねられたその表層。その一番上の層しか見えなくとも、今はそれで十分だ。

 

びくっ、と驚きの原因を認知する前に身体が跳ねる。軽快な音楽。ぼんやりと物思いに耽っていたら、随分な時間が経っていたようだ。
鞄を漁り、着信音が止んだ携帯電話を取り出す。着信履歴に残っていた名は“神崎”と表示されていて、別の意味でどきりと胸が高鳴った。切ったということは、深追いしない方がいいのかもしれない。無難に、メールを打とうとボックスを開く。すると、通知があった。

ー電話ごめん。今日はありがとうって言おうと思ったんだ。
ただ途中でメールでいいことに気づいて、切っちゃった。

ーあぁ成る程。こちらこそありがとう。
また何かあったら誘うね。今後ともよろしく!

ーこちらこそ、宜しくお願いします。
今日はお疲れ。おやすみなさい。

おやすみなさい、と返して携帯を伏せる。電話してきても別に良かったのに、と思いつつ次会える口実を探す。
しかし三日後、思いもかけず神崎から電話があった。

「叔父さんがが消えたんだ!」

しかも、予想外の驚きと一緒に。

***

「少しは落ち着いた?」
「あぁ、おかげさまで」

待ち合わせをしていた喫茶店の中。店員に案内をしてもらった先に向かう。神崎はすでにソファに座り、私のことを待っていた。
幾分、平静を取り戻したようだ。電話口での慌てた様子に、内心心配もあったがこの分ならば大丈夫だろう。問いかけると少し躊躇があるものの、答える声はよどみない。

「私にしてみれば、叔父さんがあの展覧会の関係者だったって所から、すでに初耳なんだけども…まぁそれはいいわ」

里田博。パンフレットに名の記載があった人だということに説明を受けてから気がついた。神崎は過分な情報を他人に与えないところがある。それがいいときもあれば、今回のように少し面倒なときもあった。
やってきた店員に注文を通し、程なくしてカフェラテが届いた。一口飲むも、神崎はなにを話すべきか悩んでいるようだ。

「それで、叔父さんは何時からいないの?」
「僕が気づいたのは一昨日だ。花と出かけた後、そういえば最近ちゃんと連絡を取れてないことに気づいた」
「じゃぁつまり、もっと前からいないかもってこと?」

こくりと頷くその様子は、どこか所在ないように見える。無理もないだろう。少なくとも自分が知る限り、高校生の頃にもお世話になっていたような叔父だ。ここで取り乱していないだけ、随分落ち着いている方だろう。

「そうかもしれない…」
「じゃぁその、叔父さんの最近の動向を知っている人とかに聞いてみたら? あの、展覧会の関係者の人とか」
「そこなんだよ!」

突然の怒声。静かな喫茶店の中ではよりその声は目立った。慌てて周りを見渡し、軽く周囲に謝罪をすると、すぐに興味を失ったようだ。ちょっと、と軽くいさめると、神崎は小さくごめんと謝った。

「いや、もうそこには連絡を取った後なんだ…」
「なんの手がかりも見つからなかったってこと?」

解決の難しそうな状況に、つい声も硬くなる。しかし、それは違ったようだ。

「違うんだ。状況はもっと悪い。研究所の人たちは叔父がいないことに気づいていて、けどそれをどうする気もないみたいなんだ」
「それは…どうして?」

疑問符ばかりが浮かぶ話だった。放浪癖のある叔父で、知る人全員が大丈夫だとでも思っているのか。はたまた全員が不在を望むような、人望のない人間なのか。

「僕も叔父と研究所の関係者がどんな関係だったかなんてわからないよ。けど多分、このまま叔父がいない方が好都合なんだ」

神崎が言うには、こういうことだ。
もともと、この研究自体の規模は神崎のいう叔父、里田の徳望によって成り立っているという。
このプロジェクトは機械学習よりもより一歩進んだ、深層学習という技術を基盤として活動している。詳しい説明は省いてしまうが、このディープラーニングアルゴリズムを用いるために重要なのは、まず大元となるビックデータに素地となる情報を叩き込むことだ。このプロジェクトにおいていうならば、絵画の技術情報だろう。
この情報の大部分を集めたのが、里田なのだという。
神崎はあの再会の日、展覧会の壁にあった空白を指して『ここにメインが来るはずだ』と言った。つまりあの展覧会にはまだ、隠し玉があるはずなのだ。

「あそこに展示されるはずだったのは油彩画の情報を叩き込んだ上で『人間によって制御されない人工知能が描く絵画』だったらしいんだ」
「つまりはそれ、どういうことよ」
「叔父に聞いた話だから、僕もそんなに詳しくはないけどさ」

人工知能が描くものというのは結局、最終的に人間が正誤を判断しなくてはならない。つまりレンブラントの情報を与え、レンブラントの絵筆そっくりの絵画が出来上がったとしても、それを“レンブラントの絵”だと判定するのは人間なのだ。

しかしそれは本当に“AI”が描いた絵画と言えるのだろうか?

里田はそこに疑問を呈し、あらゆる油彩画の情報を与えた末に描かれる、人工知能の絵画というものの作成を提案した。

「しかしそれって、どうよとは思ったよ」
「どうして?私は結構面白そうって思ったけど」

神崎は意外だとでも言うように目を大きく開き、こちらを見つめ返す。表情が豊かすぎる。少しだけラフになった雰囲気に、神崎の気持ちが上向きになった気配を感じる。

「AIが描いた絵画も何も、真似っこして描いたのはAIだろう?」
「叔父さんが言いたいことっていうのは、そこじゃないよ多分。AIによる真作、つまるところのオリジナルが見たいってことだと思う」
「でも、結局は人間が描いてきた絵画で勉強させるんだろう?」
「あらゆるオリジナルは、模倣を持って完成してるもんよ。模倣して、自分のオリジナルを作り出していくの。現在のAIが描く絵画は奇抜さを強調させるか、もしくは進むこともできずに真似するだけになっている」

僕よりもわかってない?
視線の中に言外の言葉が滲んでいるようだ。私も表面的にしかわかってないと首を振る。

「いやだって、いろんな情報を集めたってぐちゃぐちゃになるだけだろ?」
「わかんないわよ。もしかしたら案外取捨選択し始めて、本当に新しい絵画を生み出してしまうかも」

里田は油彩画の情報を出来る限り集めるために、あらゆるコネクションを使ったらしい。各地の美術館から合法的に、あるいはもしかしたら非合法に集められたその情報量は、里田の力があってこそだった。

「なんで油彩画だけなの?」
「あらゆる絵画技法をごちゃ混ぜにしたら流石にとっ散らかるだろうということが一つ」

あとは、叔父さんが油彩画家になりたかったからだろうなぁ。神崎がこともなげに告げるその事実に、妙な親近感がわく。どんな叔父さんなのだろうか。少し、会ってみたい気もする。

「それで、ここでやっと叔父の不在を研究所が喜ぶ理由なんだけどさ」
「うん、なんで?」
「叔父さんはどうやら、この展覧会の目玉といってもいいこの絵画を、展示しないように主張してたっぽいんだ」
「へぇ…なんで?」
「知らないよ」

できる限り緻密に、油彩画の表面の凹凸までもが詳細にデータ化された情報の数々。これを前にすれば、叔父さんのその研究所における存在は確固たるものとなった。そんな権力者の一人といってもいい人が、展示の中止を主張する。頭の痛い話ではあっただろう。神崎が言うには、研究資金についても随分里田が融通を利かせていたらしい。叔父さん、お金持ちだったのね、と言うと、まぁ僕には厳しかったからあんまり恩恵に預かれなかったけどなとどうでもいい会話をする。

「データ化した情報をAIが処理するだけでも、随分な時間がかかったらしいんだ」
「へぇ、どのくらい?」
「…実は、この計画自体は僕たちが高校生の頃からすでに始まってた」

ということはかれこれ五年以上は経っている。人工知能による絵画なんて、割に今更な話題だと思っていたが。計画の大元である作品にだいぶ時間がかかっていたからだったのか。

「データがようやく纏まって、じゃぁ次は出力だとなった後にも、随分時間がかかっているみたいだった。詳しくは知らないけど、かれこれ始めたと聞いてから一年以上はかかっている気がする」
「…うーん、そりゃ確かに長い」
「しかも実は描き終わってないっぽいんだ:

一度だけ、工房に入らせてもらった時があったらしい。
よくわからない機械がそこら中で唸り声をあげているも、神崎が見ている間中それらが1ミリと動いているようには見えなかった。知識はなく、ただの興味本位できたことを直ぐに後悔した。キョロキョロと視線を彷徨わせても面白そうなものは何一つないし、ただ欠伸を噛み殺すことに集中せねばならない。せわしなく動き回る研究員に活気があるようにも見えず、部屋の中全体に重苦しい空気が覆っていたのがただただ辛かったのだという。

「しかもだ」

叔父さんが、すごく別人みたいで。
弱々しく呟かれるその言葉は、どこか恐ろしげな響きを持っていた。あの日見たものが本当に正しかったのかと、今でも疑っているような声音だった。

「どういうこと?」
「わからない。ただ、じっと見てるんだ。まだまだ完成には程遠く思えるその作品をじぃっと、ただただ見てる。瞬きもしないで、話しかけても黙り込んだまま…」

それは確かに異様な光景だろう。
カフェオレを口に含む。気づけば喉がからからに乾いていた。燦々と陽が差し込む窓際だというのに、身体が小刻みに震えていることに気づく。

「これは確か、二ヶ月も前の話じゃない。叔父さんは普段ならもっと気さくで穏やかな人なのに、あの絵を前にすると別人みたいに感情の起伏が激しい。見ている途中で話しかけても怒るし、だからと言って反応しないとそれはそれで面倒だ」
「面倒って例えば?」
「褒めてもお前には価値がわからんと言われ、わからないって言ったらお前だからなと言われる」

それは嫌だわ。声に出さずとも、表情で察したのだろう。花だったら、是対言わないだろうしな、と急な信頼に、場違いにも胸が高鳴る。けれど特に反応はせず、先を促した。

「その絵、何が描かれているの?」
「正直なところ、わからない。何層も色が重なっているんだとは思えるんだけど、それだけだ。人間が描かれてるわけでもなく、風景が描かれてるわけでもない。ただ全体に色が塗ってるだけだ」
「ロスコーみたいな感じ?」
「いや、似ているけど違う。あんなに大きくないし…」

ロスコーは“アクション・ペイティング”と呼ばれる抽象表現を用いた作品で知られる近代の画家である。色面の拡がりを表現手段とした彼の作品は圧倒的なまでに大きく、その前に立たされると一種異様な存在感に圧倒される。図録で見ているだけだと価値がわからず、実際を鑑賞することが重要であることをまざまざと自覚させてくれる画家の一人といえよう。

「ますますよくわからない、一体どんな絵なのよ」
「それがわかったら苦労しないさ。結局、叔父さん以外あの絵を評価している人なんていないんだから」
「えっ?そんなものがメイン展示で大丈夫なの?」
「美術展って言っても成果展みたいなものだ。いろんなところにデータを借りといて、その成果を披露しないなんてことできないってことだろう」

構図は見えてきていた。
里田はこの研究における支援者だったのだろう。表向きの名としてささやかにしか出ていなくとも、実質的な権力者の立ち位置にいた。
この研究の当初の目的がどのようなものだったのかは定かではない。里田の心根にどのような変化があったのかも早急な判断はできないが、段々と私物化が進んでしまったのではないだろうか。研究所の方は次第に里田の意見を無視できないような状態になり、結果的に当初の目的からはずれ始めてしまった。研究の集大成である絵画の展示は試みたいものの、それは里田自身からストップがかかってしまった。
展示を決めた際にはまだ里田の同意があったはずだ。ならば、神崎の叔父である彼が変貌し始めたのはここ数ヶ月の間の話ということになる。

肩を揺すられ、意識が浮上する。少し考え込みすぎていたようだ。もうそろそろ出ようか。そう合図され、素直に従う。喫茶店は次第に混み始めている。どうやら長居しすぎていたようだ。

「それで結局、このまま叔父さんが戻ってこなかったら展示されちゃうの?」

代金を半分出して支払いを済ませる。余剰分はまた今度会った時にでも清算すればいいだろう。

「そうだな、多分もう搬送準備がされてる頃だと思う」
「えっもうなの?」
「会期がそもそも短いし、それに、叔父さんが居ないから」
「居ないって、許可がなくても不在だからいいってこと…?」

それ、叔父さんのことを邪魔に感じている関係者の人が、ついに手に掛けてしまったのでは?
物騒な私の思考に気づいたのだろう。違う違うと手を振りつつも、その表情は暗い。

「叔父さんさ、研究所に寝泊まりしてずっと絵画の前で監視していたらしいんだ」
「はぁ?なんか、ちょっと…」
「そう、その話聞いた時、流石にちょっと怖いなって思ったよ。叔父さんは独り身だから、結構自由にやっていたんだ。他に迷惑をかける家族もいないからって自分が少し損をするくらい構わないって調子で…。気さくで親切で、みんなから好かれていた。けどもう、あの研究所で叔父さんのことを慕っている人なんていないのかもしれない。皆、早く終わらせたがってるって」
「…それで、叔父さんが居ない内に絵を運び出そうってこと?」

沈黙は肯定だった。どうして里田は変わってしまったのか。それは場違いな絵への興味を生むには十分な理由だったが、神崎に直接言うには憚られる。
電車でここまで来た私のために、神崎は駅まで着いてきてくれた。まだ一生会えないと決まったわけでもないだろうに、しかしそこに希望を感じている様子は見受けられない。

「まぁ気を落とさないで、きっと見つかるよ」

気休めの言葉しか吐けないならば口を噤んでいた方がましだろうに。しかし言葉は勝手に口からこぼれる。恐る恐る視線を合わせると、神崎はまた何か違うことに思い悩んでいるようだった。

「どうしたの」
「いや、今更になって叔父さんが言っていた言葉がどういうことだったのかが気になって」

道中無言だと思っていたら、そんなことを考えていたのか。気まずかった空気の原因の一端を知り、どこかホッとする。しかし、もののついでにと問いかけた言葉に対する返答は、私ではない誰かに告げるかのように遠かった。

「叔父さんは、なんて言っていたの?」
「…もうすぐわかりそうなんだ、って」

木曜日の午後。デスクでうんうんと唸っていると、篠山先輩がコーヒーを片手にやってくる。
私の分はないんですか?
聞くと、帰ってきたのは鼻で笑う音だけだった。

「何を悩んでいる若人」
「ご機嫌ですねご老人」

目も合わせずにさっさとデスクの上を片付ける。今日は取材にかこつけて展覧会に向かう予定を立てている。先輩の絡みに対応している時間はない。

「いやいや待て待て。お前そんなに急いでどこ行くんだ?」

もしかしてAI展覧会か、等と言い当てられてしまえは対応するしかあるまい。

「そうですけど、何か?」
「俺も行く」

普段の行動力が嘘のような手際の良さだ。唖然としている間に、準備はつつがなく終了し、あとは出て行くだけになる。坂井と外行ってきます、と上長にまで報告されてしまえばあとは共に行くしかなかった。

「なんなんですか急に…」
「いやぁほらな、どうやら息子があの展覧会に、部活動の一環でいくらしくてな」

エレベーターがやってくるのを待ちながら、篠山先輩はまるで悪戯を見つかった後の悪ガキみたい言い募る。どこか嬉々としていて、別段悪いとも思っていなさそうだ。普段話題を見つけるのも難しい中学生の息子との会話作り。大変涙ぐましい努力のようにも思えたが、言っても職権乱用である。

「いやお前だって、本当は違う取材入っていたはずだろう」

ぐうの音も出ない。理由は違えども、同じ穴の狢である。まぁ仕方がないですね。そう気を許したが最後、着いてこられることは同意したものの、道中ずっと息子さんの自慢話を聞かされるとは思いもしなかった。
篠山充。篠山先輩の息子さんは、油彩画の天才なのだという。親の贔屓目と話半分に聞いていたら、駅の展示スペースに飾られることもあったらしい。

「へぇ、どんな絵ですか」
「半年ぐらい前に、駅で見なかったか?」

ビルの隙間から見た夕日の絵。
篠山先輩の説明に、思い当たる作品がひとつあった。随分綺麗な絵だなと思ったのだ。基礎もしっかりしていて、一瞬目を惹く存在感があった。あれは、駅から少し歩いたところにある道路脇から見た風景だったはずだ。車通りも多く、木々や花といった彩りが逆に少ない。もっと良い題材があったろうに、しかしあえてそこを選んだように描かれた力強さが、逆に好感を持てた。

「学校に行く時の通り道なんだと」

へぇ。感心したような声を上げると、篠山先輩は聞いてもいないのにいろんなことを話し出す。私ははいはいと適当に相槌を打ちながら、目的地へと急いだ。

展覧会は平日だというのに少し混雑が増しているようだった。
メインが展示されるようになったからだろうか。一応展覧会だというのに空気がざわついていて落ち着かない。時折人とぶつかりそうになりつつも、妙な胸騒ぎを感じて先に急ぐ。ちょうど目的の展示物の前には、小さな人集りができていた。

「おっ?これは何の集団だ」
「今日から展示され始めた、この展覧会の注目作です」

おざなりに返事をする。篠山先輩に構う暇も惜しく、妙な焦燥にかられつつも人混みを縫うように進む。すると目の前に、その絵が現れた。

 

『無題』

 

名付けられることのなかった絵画。それはそうだ、名付け親となるべきその人は、今も見つかっていない。
それは一見、ただ一色に塗られただけの油彩画だった。小さな絵だ。サイズは丁度四号ほど。こんなものに数年もかかっているのかと、事実を知っているからこその戸惑いが生まれる。時間の長さを思えば何のための研究であったのかと、無意味とさえ感じる出来だ。

これが、神崎のおじさんを変にしたっていう絵なの?

疑いのあまり、注視する。よくよく見れば単色と思われた色彩は、何層にも重ねられているのか見る角度によって色合いが異なることに気づく。
茜空が西に沈む夕暮れどきの色から一転、赤々と命を燃やすような火の色に変わり、ともすれば海の中に沈む珊瑚のような黄色味がかった薄紅色にも見える。

小さな空間の中に、様々な色があった。

草木の中に実をつけるオレンジ色を見つけたと思えば、次は樹木、次は草原、次は…次は……。

 

 

「おい!どうした坂井」

篠山先輩の声によって呼び戻される。絵画を一瞥すると、それは元の夕暮れ色に戻っていた。
お客様、こちらにおすすみください。お客様、立ち止まっては他のお客様にご迷惑がかかります。ようやくやってきた係員の案内によって流れができたのか、人集りは徐々に崩れ始めていた。

「いやぁお前、どうしたんだよ」
「いえ、私にもよくわからなくて…」

もう少しだったのに、その感覚が何故だかあった。もう少しで、わかった気がするのに。その苛立ちは意識して抑えないと、先輩にぶつけてしまいそうだった。一歩一歩足を踏みしめて、歩く。そうしなければ、元来た道を戻ってしまいそうだった。

「いやしかし、あれがねぇ。俺にはやっぱり価値がわからないわ」

先輩にはわからないでしょうね。

そう頭の片隅で声がしたものの、素知らぬ顔して頷くに留めた。

 

帰宅すると、頭がズキズキ痛むことをようやく認める気になっていた。先輩と別れてからというものの、視界がおかしい。
赤は緑に変わり、黄色は青になる。信号の色を見て歩き出したら、危うく轢かれそうになった。道路が拡張と収縮を繰り返す。自分がどこを歩いているのか。境がどんどんとわからなくなっていく。

辛うじて用事を済ませれば、時刻は夜十時近くを指していた。
ため息をつく。カーテンを閉めようとしてやけに外が明るいことに気がついた。隙間から覗き見ればあまりの美しさに今日の疲れが吹き飛ぶようだ。

大きな月。

その傍で、星々が帯のように連なって輝いていた。

日曜日だ。朝から神崎から連絡があったものの、気乗りがしない。むしろ携帯の着信音で起こされた為、気分は最悪と言ってよかった。今までであれば喜んでいたはずなのに、いったいどうしてしまったのだろうか。未だに頭痛は止まず、視界はおかしいままだった。
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。見事な青空だ。少し浮上する思考の片隅で、層を一枚、と唐突に言葉が浮かんだ。どういう意味だろうか。意味を捉えきれないまま、空気を変えるために窓を開ける。すると、目の前にはどこに続くとも知れぬ闇が広がっていた。

 

「えっ」

 

思わず大きな声が上げると、向こうの方から何かが近づいてくるような気配があった。耳を澄ませば、お〜い、と呼んでいるような声まで聞こえる。
一瞬にして鳥肌が走り、あわてて窓を閉めるためにサッシに手をかける。

何かがやってくる。

その侵入を阻む窓は、辛うじて締め切られた。次の瞬間には、どんっと窓に何かがぶつかる音。間一髪だ。
一瞬目をつぶってしまったものの、すぐに開く。音の原因を確認するも、何も見当たらない。鳥でもぶつかったのだろう。

ここ数日、この調子だった。朝方は恐ろしすぎる悪夢のような話であったが、声が聞こえたのは初めてだった気がする。
本日の信号機の色彩は普通であるが、中に人のマークがいない。いそいそと出かけて行ったのか、“留”“守”が一文字ずつ上下に残されている。二人で小旅行にでも行ってしまったのだろうか。ぼんやりと考え込んでいると、後ろから汽笛の音がした為するりと避ける。線路へと変化した横断歩道の上を、汽車が通過していった。
まるで夢だ。シュルレアリスムの世界。夢と現実は矛盾することなく一つの世界を作り上げる。矛盾がないのだから、夢だろうと現実だろうと特に問題はない。頭の痛みは少しずつ柔らかくなってきているようだ。この分ならば、神崎とも十二分に話ができるだろう。

 

「そんな馬鹿なことってあるか!!!」

 

着いて早々、怒鳴られた。こんな激昂する姿など、ついぞ見たことがない。残念だ。神崎はどうやら、この世界を理解してはくれないようだった。

「どうしちゃったんだよ、花。お前までおかしくなったのか!?」
「おかしい?おかしいって、一体何がおかしいっていうの?」

『無題』と題されていたはずの絵画が何故か神崎の手元にあった。
わざわざ呼んだというならば、これを私にくれるのではないのだろうか。私が欲しいと思っていたから、神崎は私の為に用意してくれたのではないのか。

夕暮れ色だったはずの絵画は、今は何色でもない色をしていた。

「この絵になんの価値があるっていうんだ!」
「貴方には、わからない」

叫んだ瞬間、かっと頬に痛みが走る。ぐわんと脳が揺れ、叩かれた、と考えるよりも先にひどい後悔に襲われる。
私が“私”ならばあり得ないことを言った。
他人の不理解を拒絶しない態度でいること。それは、自分に課した戒めの一つだった。けれど私は今、何と言った?

 

ごめんなさい

 

走って神崎の家を出る。顔を見ることはできなかった。何も見ない。何も聞こえない。何も感じない。自分に言い聞かせるようにしながら走り続ける。追ってくるものなど見えないのに、振り払えない幻影が常に脳内に居座っているようだ。
走り続け、息が切れ出したために止まる。周囲には誰もいない。私は、私はもう何も見ない。そう頭で念じながら顔を上げる。

夕暮れが天に昇り、夜が、地平線の底から上がってくる。

赤々とした太陽が天上の中に消えた頃、私はとうとう膝をついて許しを乞うた。

 

高校生の頃だ。花に疑問を投げかけたことがあった。人工知能が絵を描くことについて、どう思うか。雑誌で知ったのかもしれないし、新聞で読んだのかもしれない。花がこの話題を知っているのかも定かではなかったが、構わなかった。要は花と話せるならば、なんでも良かったのだ。

「んー。それは、どういう意味だろう…?」
「まぁほら例えばだけど、AIが絵を上手に描き始めたら、画家の仕事はなくなるっていうだろう?」
「言うねぇ。けど、それはまずあり得ないでしょう」
「えっなんで?」
「例えば絵に限らず、音楽や文学もAIに仕事を奪われるなんて話があるけど、実際に事を冷静に考えてみてだよ? 音楽や文学、美術の歴史の中に突然AIが食い込んできて、全部が取って代わるなんてこと本当にあり得ると思う?」
「うーん、まぁ想像はつかないかな…」
「そりゃぁ、未来について語るには正直私も知識不足よ。でもよ?今の研究においては、人工知能は補助的な役割をこなすに留まっている。現在の状況だけで考えれば、困るのはせいぜい複製画家ぐらいでしょ。学習していけば、複製画ぐらいは容易に描いてしまう気がする」
「それだと偽物が出回ったりするってことか?」
「うーん、今はX線技術とかも発達してるし、年代研究も進んでるからプロの目はごまかせないと思うけどね。けど一般の流通の観点からみたら、騙される人がいないとも言い切れない気がする…」

そうかぁ。ぼやけた返答も、花の耳にはもう届いていないだろう。
一度花が黙り込んだその後に、不用意な質問を投げかけるのはやめたほうがいい。花の頭の中は、僕には想像もできない豊かさで満ちている。好奇心に目を輝かせ、あらゆる知識を得たいと考える。ひとどころに留まれず、あらゆるもの聞き、見て、知って、感じていたいと全身が叫んでいるかのようだ。

花はきっと、誰も必要としない。

彼女の感受性はより美しいものを求めて脈動し続けていたし、それを無理に止めることは彼女自身の死と同義のように思われた。
そろそろ帰ろう。花の思考の途切れを察し、声をかけた。あぁその前に、これを提出しに行かなきゃと、花がいう。手にかざされていたのは進路調査票で、そういえばそんなものもあったと思い出す。適当に書いて、適当に提出すればいいものの、それができなかったのだろう。

「花は進路調査票、何を書いたの?」

雑談のつもりで聞いてみたが、花は結局何も答えてくれなかった。

 

 

花までいなくなった。
あの絵画が原因だ。そう確信したのは、篠山という花の会社の先輩と連絡が通じてからであった。

「すみません。直接会社に電話をかけてしまって」
「いや、いいですよ。俺も心配していたところでしたから…」

以前もらった名刺を見て、会社に直接電話をかけた。電話に対応してくれたのが、この男で運がよかった。時折花との会話の中で出てきた先輩というのは、この人のことだろう。
心持ち、気分が浮き上がる。しかしだからこそ、その横にいる存在が不可解で仕方がなかった。

「あのしかし、横の彼は…?」
「あぁ、私の息子です」

当然のように紹介されるも、後に続く説明はない。息子とだけ言われた少年も、我観せずというように苺ミルクを飲んでいて、話に入って来ようとはしなかった。
閑散とした喫茶店は、出る食事もそれほど美味しくないと評判だった。道楽で始まり、道楽で終わるような店だ。しかし人の少なさは隠したい会話をするのにはちょうどいい。

「それで、坂井花の件ですが」
「はっはい。あの…篠山さんには何か連絡があったでしょうか」
「いえ、特には。昨日今日と無断欠勤でしたがそこは何とか誤魔化しておきました。しかしこのままの状態ではいられないでしょう…」

そちらこそ、何かないのかとでも言うように、視線が突き刺さる。悠然と構えた姿には頼り甲斐を感じるものの、その視線はどこか責められているようにも感じられ、居心地が悪い。

「…心当たりなら」

唾を飲み込み、尻込みしそうな感情を叱咤する。傍に置いてある荷物にちらりと視線を向けると、篠山がつられるようにしてそちらを見たのが、なんとなく察せられた。

「それは…?」
「僕はこれが、原因の一端を握っていると考えています」

おざなりに覆っていた布を取り払う。中から出てきたのは四号サイズのキャンパス。人工知能芸術殿で展示されていた絵画であった。

「…篠山さんは…この展覧会をご存知でしたか?」

この絵画を僕が持っている理由というのはなんということもない。程の良い厄介払いとしか言いようがなかった。
絵画が展示されていた間の三日間。展覧会は盛況というほかないほどの混雑具合だったという。一日目、二日目、三日目。回を増すごとに混雑が増していく。初めは喜ばしいことであったがしかし、すぐに異常だということに気がつき始めた。

絵の前で、立ち止まる人がある一定数いる。

そのことに一日目の段階で気がついた係員は、まず列の対応を行った。立ち止まる人がいれば先に行くように促し、人員も調整して監視員の比重を大きくした。一時的には解消されたように思われたがしかし、立ち止まっている人たちの顔ぶれが同じであることに気がついた。何度も何度も入退場を繰り返している人もいれば、会場内を彷徨いてその場から動こうとしない人もいる。
入退場を繰り返している分にはまだ猶予の余地もあったが、その場に留まられてしまえば狭い会場内だ。不用意な混雑を招くこととなる。

「それで、撤去になったということですか」
「えぇ、結果的には…。ですが他にも色々とあったんです」

研究員のうち数人が、頭痛を訴え始めた。ある者は滂沱の涙を流し、ある者は来場者と一緒に鑑賞し始め、絵から遠ざけようとすると暴れだしたのだという。その騒ぎに展覧会の継続も危ぶまれたため、この絵の撤去が決定された。
異常をきたした研究員達はいずれもが後半期、急に異動を言い渡された面々だった。美学的な見地から研究をサポートしていた彼らに対し、里田は急に配置変更を行ったのだ。
理由はわからなかったが、里田はこれを予知していたのではないか。
得体の知れない絵画に対するおそれからか、処分に苦慮した関係者が頼ったのが運悪くも自分だったのだ。

『私たちは一体、何を作り出してしまったのでしょうか』

怯えを含んだ瞳で見つめられ、押し切られるようにして手渡された。混乱に染まった脳内で、花に見せよう、そう思いついてしまったのがすべての間違いだったのだ。
篠山と、何故か横にいたまま話を聞いている息子に対し、今までの出来事をかいつまんで話す。叔父のこと、AIによって絵画が描かれた経緯、そしてその結果に至るまでを。質問があればその質問に答え、まるで止まることを知らないかのように話し続けた。何度飲み物をお代わりしたのかもわからないほどの回数を重ね、ようやく話し終える。

 

「おそらく、花に最後にあったのは僕なんでしょう」

あの日にあったことを思い出す。
何も考えずに見せた矢先、花が絵画にまとわり付くようにして抱きついた。あまりの衝撃に転びそうになったものの、その時はまだ事を楽観視していた。あの目を見るまでは。

「目を、覗き込んだんです。こいつは何も見ていない。狂っているって、そう直感しました。叔父さんと同じ目をしていた。このままだと叔父さんみたいに居なくなるって、そう解っていたのに…」

貴方にはわからない。

そう言った花の声が、今も耳元で囁き続けているようだ。わからない、そうだ、僕はいつだって花の見ている世界が何も理解できなかった。何に感動しているのかも、何に満たされているのかも。理解ができなかった。
でも、理解したいと思っていたのは本当だったのだ…。

 

「例えばですよ」

急に第三者の声が聞こえ、ばっと顔を上げる。「こらっ、充」嗜めるような篠山の声に、声を発したのが先ほどまで素知らぬ顔で座っていた少年であることを知る。

「例えば神崎さんが油彩画をみる時、一番初めにどこをみますか?」
「…油彩画も何も、絵は絵だろう」

言っている意味がわからない。呆然と、開いた口も塞がらない様子を晒しているというのに、気にした様子もなく子供は話を続ける。

「油彩画というのは基本的に、絵画の塗り部分を支える面を構成する支持体、酸化を防ぐために塗る絶縁層、絵具の発色を良くしたりするための地塗り層、この地塗り以外の層である描画層、そして最終的な保護を目的とする保護層。こういった、積層構造を取っています。何層も重ねられた層の集合体。それが、神崎さんが目にしている油彩画の正体です」
「あぁ、それで?それが何だっていう」

呆気にとられた後はふつふつと怒りが湧き始めていた。気が狂いそうなほどの焦燥に駆られつつもこうして手掛かりを探すために話を聞いているというのに、何故一人の生意気なガキの講釈を聞かなければならないのだろうか。
疎らにしか客のいない店の中とはいえ、大人が子供を恫喝することなどあってはならない。その理性で行動に出るのはなんとか止めているものの、声に滲む感情を抑えることはできなかった。

「不快にさせていたらごめんなさい。でも、ここからが重要なんです。いいですか。坂井さんや神崎さんが話していた叔父さんというのは、多分画家を志したことだったり、あるいは油彩画を描いたりしたことがあったんじゃないんですか?」
「あぁ、それはそうだったけど…」
「じゃぁきっと、その絵を見て気づいてしまったんです。この世界の積層構造に」

机を隔てた向こう側から、ずいっと距離を縮められ、思わず気圧される。しかしこの思考停止の原因は、専らこの子供から発せられた聞きなれない言葉ゆえだろう。

「積層構造…?どういう意味だ?」
「そのままの意味です」

つまり話はこうだった。この世界というは、実際は層が重なるようにしてできていて、一般的な人間はこの層の一番上しか見えていない。しかしいわゆる芸術家という人種はこの層の内側、油彩画で言う所の支持体までをも見ることができる。芸術家にも種類があるが、特に油彩画家というのはその内側を、一般的な人間でも理解できるように作り変え『絵画』という媒体を使って描き出しているのだという。
芸術家は層の内側への行き方をよく知っているがために、またその危険性にも気づいている。内側は未知と不思議、閃きや感性を刺戟するアイディアに満ちていて、とても魅力的なのだ。

「しかしだからこそ、ゆっくりと理解していくんです」

叔父さんや花はその内側を、まるで飢えを満たすかのようにして貪った。本来ならば知ることができなかった未知に酔い、不思議を尊び、閃きや感性を大切にするからこそ知りたいという欲求が止められず、結果的に脳が多大なダメージを受けるに至った。例え内側に行ける術を知っていたとしても、脳の機能自体が優れているわけではない。

「俺たちは人間です。どんなに優れた能力を持っていたとしても、人間の社会で、人と共に生きていかなければいけない。だからこそ自分の限界を見極めて、徐々に認識を広げていくんです。そうしなければ、どこかが壊れてしまうから」
「…どうして花達は、その内側を知ってしまったんだ?」
「それはきっと、人工知能を制御しなかったからだろうさ」

篠山が、息子の後に続いて話し出す。

「…どういう意味ですか」
「どういう仕組みがはわからないが、あれは『人間が正誤を判断しない』という制約の元で絵画を描き出した。しかも、油彩画しか知識として溜め込まずに」

ビックデータに溜め込まれた油彩画の情報をどう精査し、どのようにして選別したのかは最早人間の埒外にある人工知能の仕事の結果だ。人間は、その芸術を一方的に受け取るしかない。

「芸術家は、人として、人が理解できる作品を作り出す。それなら、この人工知能は?人が人のために作らなかった機械は、いったい何を作り出すんだろうか…」

 

時刻は夜九時を回ろうとしていた。話し合いは解決の兆しもないまま、落胆だけが色濃くなっていく。どうすれば、花と叔父さんは戻ってくるのだろうか。
解決策も、取れる手段も自分は持っていない。

「どうすればいいんだ…」

思わず、言葉が漏れる。すると息子、篠山充が事もなげにいった。

「ひとまず、俺が見にいける範囲で行ってきます」
「えっ?」
「俺も、一応内側に行けるんで」

止める間もなく、立ち上がる。篠山も特に否はないようで、窓際に座っていた息子のために席を立って道を開ける。
その少年、篠山充はごく一般的な中学生となんら変わらないように見えた。成長期の途中なのだろう。短い袖から手首が覗き、制服が窮屈そうだ。文化部らしく際立った筋肉はなくとも、ひょろりと長い手足はバランスが良く、将来は父親に似たスタイルのいい男性になる事を予感させる。

行ってしまう気配に、慌てて問いかける。聞かなくてはならない。ほとんど衝動であった。

「…どんな世界なんだ?    君達が見る世界というのは、いったい…どんな……」
「いつか、わかりますよ」

一瞬の沈黙。しかし直ぐに意味を理解したのだろう、突然にも関わらず、力強く頷く。その言葉に、思わず涙が出そうになる。

俺が、神崎さんにもわかるような絵を描きます。
待っていてください。

充はひとり立ち上がり、喫茶店から出て行った。扉に吸い込まれて行ったというのに、窓ガラスの向こう側、出ていく姿はついぞ見えてこなかった。

※※※

おじさんは結局、帰ってこなかった。
しかし花は、見つかった。

充が連れ帰ってきたと、篠山から連絡があったのだ。「坂井は何も変わってない。そのままのあいつを見てやってくれ」篠山はそういったが、それは気休めでしかない。帰ってきた彼女は、ひとりで生きていくのは難しいと言わざるを得なかった。

花がベランダの窓に手をかける。洗濯物を干すためだ。サッシに手をかけ、開ける。しかし、直ぐに閉めてしまう。
僕には晴れ渡った青空しか見えないが、花には違うものが見えている。

 

『見ているものが違うのか!』
『見えてるものが同じ人なんてそもそもいないわ』

僕は悲しいと思ったし、それを苦しいとも考えた。社会は異端を受け入れてはくれない。きっと花は、この先苦労するだろう。理不尽に震えたし、きっと終いには泣いていた。
花の楽観は、時に僕を傷つける。気分がどうにも落ち込んだまま、うな垂れるように下を向くと、覗き込んで花が視線を合わせてくる。

「ほら、顔を上げて。私の指差すものが何か教えて」

手が宙を泳ぎ、吸い寄せられるようにして自然と視線が前を向く。目の前には二人で住んでいる何の変哲もない部屋の中だというのに、同じものが見れているのか、そんなことばかりが気になってしまう。

「あれは、何?」
「…壁のシミだろう?」
「私は鳥にも見える」

鳥?そんな馬鹿な話があるものか。そう声に出そうとして、慌てて口を噤んだ。同じものが見たいと思ったのは自分だった。ならば、ならば…。

ぐっと目を凝らし、壁を見つめる。

滲むように浮かんだ壁の痣は、端から徐々にくちばしに変わり、薄く引き伸ばされた両翼が姿を現し始める。壁から、すぐにでも飛び立とうと力強く羽ばたき始める。

「あぁ鳥だ! …鳥だなぁ」
「でしょう?ほらっあそこにも…」

花は子供のようだった。部屋の様々なところを指差して、はしゃぎ回る。それは楽しい時間のはずなのに、ずっと満たされないのは何故なのだろうか。
うっとりと目を細め、花は何もない場所を見つめ続ける。僕はそんな花の手を握り、あの子供が、何時か見せてくれるだろう世界を夢想する。

「一緒のものを見たいと思えば、私達は同じものを見れる」

花の言葉に、僕はそうだねと頷くのだった。

 

文字数:24853

内容に関するアピール

最終課題の梗概とは違った内容のものを提出させていただきました。
理由は講義の中で『好きなこと』を書くべきとのお話がありましたので、私にとって好きなこと、書ける知識が身についていると思えることが何かと突き詰めた結果『芸術』と相成りました。AIと絡めてというとやはり難しいものがあった上に、少々無い知識で熱く語り過ぎたなという所が否めないですが…。
構想から二転三転しつつも、一応のハッピーエンドを目指して書いた今作ですが、キャラ設定の段階での粗さが響いて少々の苦味が出てしまったのが反省点の一つとしてあります。芸術ってすごく楽しいし、脳が拡張する感覚が堪らないんだよ、という思いで書いていたはずが…。最終的には人間はそれぞれ異なる思考や欲を持ち、それによって言葉も行動も変わってくる。そんな人間同士が『互いの全てを理解し合うことはできない』と理解する。その難しさについて考えながら書いておりました。
”内側”を覗いた彼女と”内側”を覗けなかった彼とでは確実に見る世界が異なりますが、先輩が言っているように「以前の彼女と全部が違う」訳ではない。しかし彼は彼女のことを異端だと思い続け、見えないものでも見えるといい、自分も同じになりたいと願っている。
そういった意図を持って書いてはいますが、伝わっているかどうか、講評をお待ちます(大元のAI絵画に関しては、自分の認識していなかった粗が多数ありそうですし言わずもがなです…)

 

受講のきっかけ等をお話する際はあまり何も考えていなかった為に対したことをお話することはできませんでしたが、ジャンルを問わず『小説家』というのが子供の頃からの漠然とした夢でした。漠然としすぎて小説らしい小説を書き始めたのはこの講座が始まってからです(他受講生の方々の手前、何となく恥ずかしくて言えなかったことをここで白状します)。ですが、この講座を通して何故小説家になりたかったのか。過去を振り返ることもできました。
今後の課題としては①文章を書く上で感じてしまう気恥ずかしさを捨てること、②文章を書く時間を増やすこと、③タイトルセンスを身につける、④タイムスケジュールを組むこと(平日仕事終わりの夜四日間で書こうとしたことが何度かあった)です。

最後とはなりますが、この一年間本当にありがとうございました。大森さんをはじめご指導いただいた講師の方、編集者の方、先輩方、また受講生方々に改めて感謝をお伝えしたく存じます。遅刻早退しつつも全講座に、懇親会には有休を使って一度だけ参加させていただきました。小説や映画、SFの周辺情報についてこんなにもお話できる機会は初めてであった為、とても新鮮で貴重な体験をさせていただきました。何よりも『小説家』になりたいと大っぴらに言える場はなんとも心地よいものでした。今作に関しては受講生の方にお話を聞いていただいてアイディアまでいただいているような状態で、同じ立場、同じ志を持つ人々と接することのできる環境の素晴らしさを実感できました。受講生御二方にはこの場を借りて再度お礼お伝えいたします。

アピール文をここまで書く機会というのが1年間通して初めての状態ですので、長くなってしまったことは目を瞑っていただくとして。これからは漠然とした夢としてではなく、日々を楽しみながら小説を書き、そして投稿なども目指していきたいです。

皆々様、(二度目とはなりますが)1年間本当にありがとうございました!

 

文字数:1413

課題提出者一覧