梗 概
暗点
2020年代、日本の産業界は積極的なAI投資を進め、完全無人工場による生産と自動運転車による物流システムを構築した。ところが自動配送の実験中、幾度となく深刻な事故が起きてしまう。原因はAIの能力ではなく、「地図」の不出来だった。AIが運転中に最適な判断を下すためには、刻々と変化する周辺情報が描かれた地図が欠かせない。だが精密な地図を作るには莫大な資金が必要で、企業はこれを負担できなかった。
AIのトップランナーを目指す政府は、自動運転車に免許の取得を義務付け、代わりに事故が発生した際のメーカーの法的責任を免除した。その上で経済産業省所管のICTA(情報通信処理機構)が、全国を網羅する詳細な地図データベースを構築して産業界に開放した。これが突破口となって自動運転は急速に広まり、交通事故も激減する。この地図を管理運用するために集められたエンジニアは「測量士」と呼ばれた。
物語の主人公である寺本は、凄腕の測量士である。彼の仕事は、四六時中変化する道路周辺の3D情報を地図に反映させること。ある日、静岡県三保半島の突端にある移民特区で、テレビ中継をしていた女性記者が自動運転車に轢き殺される事件が発生する。このころ、東南アジアやインドでは数億人単位の知的労働者が生まれ、先進国に流入していた。高度人材を募る日本は、在留資格を優遇して移民特区を設置し、数多のエリート外国人がそこに住んでAI研究に取り組んだ。寺本は事件の調査のため現地を訪れるが、地図上では高級住宅が整然と並んでいるはずの特区の中は、全く異なる風景が広がっていた。深センの電気街のように部品商が群がり、違法建築のビルに賭博場や風俗店の看板が点滅し、他で見ることのないガソリン車の排ガスと阿片の煙が漂い、航空管制を無視してドローンが飛び交っている。特区の地図は偽装され、内実は自由港市のようだった。
寺本はそこで同僚の測量士である正田と出会う。東日本大震災孤児で移民の養子となり、酷い差別を受けて育った正田は、移民特区の地図を書き換えるのに手を貸していた。さしずめ特区は、視界の中にあるのに、視神経が欠けて見えない「暗点」であった。特区をしつこく取材し、富裕なアジア系移民への差別意識を煽っていた記者を、自動運転車に轢かせたのも正田だ。彼女は、技術立国を目指すなら多民族国家になるしかないが、日本人が移民と共同社会を作ることなど不可能だと言う。一方の寺本は、移民特区の本当の姿を地図に公開すべきだと迫る。
その後特区が警察に取り囲まれるが、逮捕されたのは寺本だった。正田は寺本が地図を細工して記者を殺害し、さらに現場に正田を呼び出して脅迫した証拠を捏造した。寺本は有罪判決を受けて収監される。それから5年後、刑務所のモニターに、日本中に移民特区が生まれ、世界中からトップ人材を招いた総理大臣が「AI立国宣言」する様子が映し出される。
文字数:1200
内容に関するアピール
物語は、テレビ中継をしていた女性記者が自動運転車に轢き殺されるシーンからスタートする。なぜ事故は起き、誰がその責任を取るのか? 読者は自動運転車をハックした犯人探しを想像されるかもしれない。
しかし物語は、自動運転車の弱点である「地図」に焦点をあてる。いくらAIが優秀でも、地図のない場所で車を走らせることはできない。AIに人命に関わる判断を委ねるために重要なのは、そのスペックではなく、使う環境である。地図とは文字通り地形情報などのデータベースのことだが、同時にAIを受け入れる社会を意味している。
AIはいわば高スペックの移民だ。日本のように同質性を前提とする嫉妬の国で、人間より能力の高いAIはどのように受け入れられるのだろう。助け合うのか、あるいは異物として視界の外に追い出すのか。そこらじゅうに移民がいて社会は分断されているのに、見たくないものは見えない世界が描ければと思う。
文字数:394
見えない地図
はじめに – 地図と測量士
AIは決断できる機械、と言われる。
21世紀に入って、神経細胞の連鎖をモデル化したニューラルネットワークを用いることで、コンピュータは変数が多すぎて人間が認識できないような因果関係を解明できるようになった。その結果、コンピュータが行う意思決定は人知の及ぶところでなくなり、AIはまるで直感や勘を働かせているように、すばやく、独創的で、的確な判断を行うようになったのだ。
スイスの心理学者ユングによれば、人の心には<思考><感情><感覚><直感>の4つがあるという。その中で意思決定の妥当性を高めるのは、もっぱら<思考>である。閃きによって、背後に隠れている普遍的なものを認識する<直感>は、他人に共感されにくいからだ。人々にとってのAIとは、確かに能力は高いけれど、分かりあえない他者である。
いずれにしても、21世紀の終わり頃になれば、あらゆる社会問題について、AIが人間よりはるかに優れた解決方法を提案できるようになるのは間違いない。
2020年代、日本は人口減少という問題に直面し、あらゆる産業が深刻な人手不足に陥っていた。これを解消するために、東南アジアや南アジアから移民の受け入れが始まったものの、異なる文化背景を持つ人々は、同質性を求められる日本人社会に馴染むことができず、分断が進んで社会にストレスが蓄積されていった。暗黙のルールに従わず、清潔で安全な日本社会にタダ乗りする一部の移民への反感は、爆発寸前だった。
そんな社会状況だったので、同じ他者でありながら、人格を持たず、文化的な摩擦が生じることもなく、給料も必要ないAIは、日本のあらゆる問題を解決してくれるものと大きな期待をかけられていた。AIはまず、日本のお家芸であった自動車産業から本格導入された。
2031年、積極的なAI投資を進めた日本の自動車業界は、完全無人工場による生産と自動運転車による物流システムを構築した。人の手を経ることなく製造から配送まで行うシステムは、世界的にも例がなく、日本方式として世界のスタンダードとなるはずだった。ところが自動運転車を使った配送の実験中、幾度となく重大事故が起きてしまう。
原因はAIの能力ではなく、「地図」の不出来だった。
AIが、自動車を走行させながら、その都度最適な判断を下すためには、刻々と変化する周辺情報が描かれた地図が欠かせない。ところが、ミリ単位の凹凸が常に更新されるような精密な地図を作るには莫大な資金が必要で、企業だけではこれを負担できなかった。地図を持たないAIは、夜目の効かないコウモリである。この物流システムを成功させるには、なんとしても、日本全国を高い精度でカバーする地図を用意しなければならない。
AIのトップランナーを目指す日本政府は、自動運転車に免許の取得を義務付け、代わりに事故が発生した際のメーカーの法的責任を免除した。自動運転車が起こした事故でも、被害者がAIの過失を証明せずに救済を受けることができれば、個人は安心して自動運転車を購入できるし、メーカーも開発に本腰を入れることができる。
その上で、経済産業省所管のICTA(情報通信処理機構)が、全国を網羅する詳細な地図データベースを構築して産業界に開放した。これが突破口となって自動運転は急速に広まり、交通事故も激減する。自殺を除いて、交通事故はこの2年間発生していない。
この<地図>を管理運用するために集められたエンジニアは<測量士>と呼ばれた。測量士は測位システムを搭載した衛星や、街じゅうに設置された距離計測できるZカムを駆使して、毎日、地図を更新した。日本の上空に浮かぶ高精度の測位衛星を使えば、従来の衛星写真のように色や温度情報を取得するだけでなく、深度を計測して3Dの構造物を正確に再現することができる。
精密な測量データがリアルタイムに更新されることによって、地図という仮想世界に蓄積された情報が、さまざまな産業界で活用されるようになった。気象情報とビルの形状から風の動きを計算することで、ドローンは最適な航路を飛行したし、土木現場に工事後の地形を入力することで、自動重機がそれに合うよう地形を掘削、整地し、造型機械が立体物を建築した。
地図を書き換えることで、それにあわせて現実を書き換えることも可能になったのだった。
「見えない地図」
自動運転車の暴走
泡立ちながら寄せては返す波が、数百メートルも伸びる長い海岸線を洗っている。正木千鶴子はため息をつき、砂浜とわずかな防風林を隔てている防波堤の上に座り込んで、沖合を眺めていた。ゆらゆらと陽炎の向こうに大型の貨物船が、緩やかな速度で港に向かって進んでいる。背後の松林からはニイニイゼミの鳴き声が聞こえてくる。静岡県中部にある清水港に来て今日で2週間、取材続きの毎日で疲労が溜まっているはずだったが、気が高ぶって十分な睡眠が取れた日はほとんどなかった。
清水港は、松林が生い茂る三保(みほ)半島の内海に作られた港湾で、かつて長崎、神戸とともに日本3大美港のひとつに数えられていた。しかし、2年前に発生した南海トラフ大地震で、駿河湾に押し寄せた13メートルの大津波によって、全てが変わってしまった。当時3万本以上あった松林は、海水にほとんど押し流され、今では100本程度が残っているに過ぎない。海抜10メートルを超える土地のなかった三保半島では、民家も工場も根こそぎ荒波に運び去られて、9割の建物が倒壊した。
しかし国破れて山河ありで、正木の立っている場所からは、駿河湾を挟んで優美な富士山を望むことができる。その景色は小学校の美術の教科書で見た、歌川広重の浮世絵そのものだ。建物のなくなった景色が、江戸時代の名画と同じとはなんとも皮肉なものである。
ただ、今日はなんという湿気だろう…。正木は汗の浮かぶ右手で、肩までの髪をかき上げた。海から吹きつけてくる潮風で、せっかくケアしたばかりの髪がべとついている。ホテルに帰ったら、すぐにシャワーを浴びることにしよう。
砂浜のはずれにある駐車場から、ワゴン車のバックドアを閉める音が聞こえた。音の方に目をやると、100メートルほど先に停めたロケ車の後ろから、タンクトップにチノパンのカメラマンが、4Kカメラを肩から下げて近づいてくる。
「このロケが終わったら、カメラもオーバーホールしないと」
「やっぱり、潮がよくないの?」と、正木。
「だめですね。車も洗車しないと、すぐに錆びが出ちゃいますよ」
カメラマンはかがみ込んで三脚の足を延ばし、水平を合わせて雲台にカメラを固定した。テレビ番組の中継開始まであと1時間、カメラの背面にSIMを差し込んで、トランスミッタの電源をいれれば配信準備は完了する。考えてみれば生放送もずいぶん楽になったものだ。小型トランスミッタから携帯回線に接続するだけで、世界中どこからでも確実なライブ放送が可能になった。もう巨大なSNGアンテナを天井に載せた専用中継車は必要ない。
もともと長居するつもりはなかった。三保半島に高度IT人材を集めたIT特区が設置されてちょうど1年が経過し、今なお地震の爪あとの残る地方に作られた特区の実情を、2〜3分のVTRにまとめようとロケにやってきただけだ。ところが取材を始めたものの、特区の周辺は野晒しの港湾施設だらけで、日常生活を送っている人々はどこにも見当たらなかった。
今や地方では、県庁所在地でも中心部から車で10分も走れば、人影を見ることは少ない。この特区の中に住んでいるのはほぼ100%がマレーシア、インド、インドネシアからの移民と聞いていたが、特区が私有地の中にあるため彼らにインタビューすることもできなかった。
仕方がないので、地元の記者に紹介してもらって役所と政治家に話を聞いた。特区内に暮らす外国人は、日本や海外の大企業から仕事を受託し、新卒でも年収2000万円を超えるのだという。繁華街の飲食店員からは、アジア系の20歳代の外国人が、一流の寿司店や会員制のバーをハシゴし、毎晩違う日本人女性を連れて夜の街に消えているという噂話も聞き出した。バーで一緒になった客は、あの連中は一晩に100万円使うこともある、いけ好かないやつらだと、はき捨てるように言った。
これはネタになる−正木はそう確信した。
日本人年収の平均が300万円台に落ち込んでいるときに、庶民が払った税金で、住まいも、職場も、設備も援助してもらっているエリートアジア人が毎日豪遊していることを放送すれば、日本人の嫉妬心に火がつくだろう。復興予算が被災者ではなく外国人に渡っている風評は、庶民感情を刺激し、炎上させる。視聴者が求めているのは、わかりやすい社会正義である。視聴者が安心して叩ける相手を用意し、未だ全貌がわからない事件の謎を用意してやればいい。他社が後追いする頃には、特区を誘致した政治家の女性問題を取り上げよう。もう1週間分の構成は作ったし、プロデューサーにも十分な取材費を確保してもらった。
テレビ局に入社したものの、5年間も経理部に配属されてくすぶっていた私が、ワイドショーの制作現場に異動して、初めて巡ってきたチャンスかもしれない。
正木は特区の北の端に、昨年再建された真新しい灯台をバックに、カメラの前に立った。
オンエアが始まり、正木のインカムにはタイムキーパーのカウントダウンが聞こえてくる。カメラのタリーランプが点灯して、正木の姿が地上波のテレビに映し出されるやいなや、彼女は口を開いた。
「いま、私はIT特区のある静岡県静岡市にいます…」
正木はだしぬけに、カメラの後ろからヘッドライトの強烈な光を受けた。ハイルーフのトレーラーヘッドが姿を表し、みるみるうちに視野を塞いでいく。正木は視線を上げた。ブルドーザーなどの重機を運搬するキャリアトレーラーだ。しかも座席のない自動運転車。次の瞬間、カメラマンが前のめりに倒れて、肩口が裂けて血が吹き出すのを見た。その鉄の塊はカメラマンを乗り越えて、まっすぐこちらに向かってくる。正木は必死に体をねじって避けようとしたが、右足を前輪のタイヤに巻き込まれ、メリメリと骨の砕ける音がした。恐怖の悲鳴は声にならない。
トレーラーは正木を追うように左折してくる。後輪に巻き込まれないように、必死にサイドガードに手を伸ばしたが、太腿から押しつぶされ、正木は口から大量の血を吐いた。車体は、正木を引きずったまま灯台に衝突して止まった。車をコントロールしていたAIは、運転モードから救援モードに切り替わって、車体の屋根の四隅からハザードランプを繰り出し、モーターを停止して119番にダイヤルした。10分もすれば救急車が到着するはずだ。
カチッカチッという周期的なハザードの音以外は、あたりはしんと静まり返っている。灯台の白い基部にまで、血しぶきが飛び散っている。そこらじゅう血の海だ。正木の腹部は大きく裂け、ブラウスはずたずたになっていた。片足は膝から逆方向に折れて、白い骨が突き出している。正木の上半身がおおきく痙攣し、すぐにぐったりと動かなくなった。耳から外れたイヤホンから、ディレクターの悲痛な叫びが漏れているが、もはやそれに答えるものはない。波が砕ける音だけ変わらず響いている。
自動運転車が2年ぶりに起こした死亡事故だった。
交通事故の原因
鵜飼大樹は、携帯電話を耳にあて、眠い目をこすりながらJR清水駅の改札を抜けた。梅雨明けしたばかりの6月の朝は、すでに強烈な日射が駅前ロータリーを照らしている。鵜飼は顔を上げ、眩しい太陽に目をしばたたいた。乗り場に並んでいた自動運転タクシーの後部座席に乗り込むや、天井から下がっているモニターに向かって行き先を告げた。
鵜飼は28歳のエンジニア。大学では精密工学科を卒業後、工学系研究科博士課程を修了し、現在はICTAに所属している。中学高校の4年間イギリスに住んでいた帰国子女で、風呂とトイレで席を離れる以外、ろくに食事もとらずに何ヶ月もコンピューターに向かうような男だ。現在の彼の仕事は、突然の交通事故や、道路工事など四六時中変化する環境情報を地図に反映させることで、機構内では<測量士>と呼ばれている。
2日前、ワイドショーの放送中に、画面でレポートを始めた記者が自動運転車に轢き殺された。カメラは記者の体が押しつぶされる瞬間の様子を捉えており、衝撃的な映像は全国に生放送された。
自動運転が普及して以降、交通事故で死傷者が出ること自体非常に稀だったので、事故は大きく報道された。被害者が記者だったこともあって、ことさらメディアは騒ぎ立て、自動車メーカーは厳しいバッシングの対象となった。社長は謝罪して、原因が特定できるまで同型トレーラーの走行を停止し、トレーラーを動かしていたAIは全ての車種からアンインストールされた。
マスコミはどこも自動運転車による物流システムの弱点をあげつらい、犯人探しを始めたが、確かに謎の多い事故ではあった。取材クルーが放送していた場所は、防波堤沿いに伸びた観光道路の端で、一般車両の通行はほとんどない。そんなところに自動運転車が侵入したばかりか、ブレーキをかけることもなく人を跳ねるなどあってはならない事故だった。
その週のうちに国土交通省と経済産業省合同の事故調査委員会が組織され、原因究明もスタートしたが、事故を起こしたAIは運送業界でもっとも普及し、安定していると評判のバージョンだった。仮にAI自体のバグでないとしたら、考えられるのは地図の不具合である。自動運転車のAIは、ICTAが提供する地図を元にして走行していたことから、静岡県担当の測量士である鵜飼が現地調査を命じられたのだった。
鵜飼を乗せたタクシーは、三保半島を貫く一本道の県道199号線、通称三保街道から逸れて海岸に向かう砂利道を走っていた。タクシーの片輪が道路のへこみに突っ込んで、大きく跳ね上がり、鵜飼は頭を天井にしたたか打ち付けた。
「いたっ」頭を押さえながら、鵜飼がつぶやいた。「この道は、路面の凹凸までは地図に反映されてねえんだな…」
「大変申し訳ありません。そのリクエストは担当者にお伝えします」音声を聞き取ったAIが謝ってくれた。
「いや、俺がその担当者なんだから、伝えなくていーよ」鵜飼は笑ってこたえた。
鵜飼は灯台が見える駐車場でタクシーを降り、徒歩で海に向かって歩きだした。からみあった松の根を乗り越え、コンクリート製の階段を登りきると、そこから海岸沿いに観光道路が伸びている。
鵜飼は周囲を見回した。穏やかな潮騒の音が聞こえてくる。波打ち際まで200メートルはあろうかという広々とした砂浜には、人っ子一人いない。日焼け止めを持ってこなかったのは失敗だった。週末のサッカー観戦で使ったまま、リュックに入れっぱなしだ。もともと日焼けには弱い質なのだ。鵜飼は砂浜に足跡を残しながら、自動運転車が追突した灯台に近づいていった。
砂浜といっても、直径5cmほどの小石が転がっているので歩きにくい。半島の南側にある安倍川河口から運ばれてきた砂礫だろう、海水に濡れた礫は黒々として、泡の白さと対照を示している。
海沿いに50メートルほど進むと、鵜飼の電話が鳴った。掛けてきたのは彼の上司で、地図の更新を担当するチームリーダーの豊島真理子だ。真理子はUCLAからハーバード大学院に進んだ才媛で、脳活動と意思決定が専門である。2年前に地図の本格運用開始と同時にICTAに移り、鵜飼の所属するチームを率いている。
「着いた?」と真理子の声が言った。
鵜飼は目の前の灯台をちらりと見やり、答えた。
「あと、もう少し。事故現場は見えてきた」
「着いたらサーバに接続して、測量結果を共有してくれる? こっちでも確認してみるから」
「ええ、もし問題あったら教えてください」うなずきながら、鵜飼が答えた。
「それから、測量データは最新のものに更新しておいてね」真理子は念を押した。
鵜飼は電話を切って、あくびをした。ここは、2年前の被災以降、住民はほとんどいなくなった田舎の海岸である。いや、ゴーストタウンと言ってもいいくらいだ。毎年建物が建て替わり、年度末のたびにアスファルトが引き剥がされる都会と違って、地図と実測値に違いが出ることなんかほとんどない。ましてここは鵜飼自身が監視している地域である。念のため昨日のうちに、事故が発生した日の1週間前から地図の履歴を比較してみたが、問題はなかった。
規制線の残る灯台の下までやってきた鵜飼は、メッセンジャーバックを開いて、球形のカメラを取り出した。現場の地形が地図に正確に反映されているかを確認するルーティーンは決まっている。カメラ位置からの距離が計測できるGPS機能付きの全天周カメラで周辺を撮影し、空間を測量して地図データと比較するのだ。ICTAの地図は誤差5ミリ以内を保証しており、毎日1回は測位衛星の確認プロセスが走るようになっている。
鵜飼はトレーラーのタイヤ痕をなぞりながら何度も計測を繰り返した。直射日光を浴びたコンクリートの路面はゆうに60度を超えている。カメラを路上に設置していると、額からぽたぽたと汗がしたたり落ちてくる。うっかり三脚の横に置いていた電話は、高音注意のメッセージとともに入力を受け付けなくなってしまった。
「参ったな。人より先に機材の方が根をあげちまう」鵜飼はタオルを引っ張り出して、首の汗を拭った。
結局、同じ場所を3回計測したにもかかわらず、地図との差は見つからなかった。地図に問題がないとすれば、俺の仕事はここまでだ。後は事故調査委員会に任せておけばいい。鵜飼は豊島に言われたとおり、計測したデータで地図を上書きし、最新版に更新すると、手早くカメラをしまって、待たせていたタクシーに乗り込んだ。
情報通信処理機構本部
豊島真理子は、ICTA本部から衛星画像で鵜飼の動きをモニターしていた。彼女の見るところ、鵜飼の仕事ぶりは常に合理的で非の打ちどころがない。真理子はまっすぐ端末の前に行き、鵜飼がアップロードした地図データを別フォルダにバックアップし、それ以前のデータとの差分を計算した。
最新の地図データは精密かつ、正確なものへと変更された。
書き換えられた地図
駅に向かって走っている間も、鵜飼の乗るタクシーが対向車とすれ違うことはなかった。人口8000万人となった日本では、企業の求人が大都市圏に集中し、静岡のような政令指定都市でも、若年層を中心に大都市への人口流出が続いていた。ましてこの半島のように、大津波に襲われた上に、海抜10m未満で高地もない地域に、新しく転入する住民はほとんどない。住民が減れば、インフラ整備にお金をかけることも難しく、道路のあちこちでアスファルトが割れて、雑草が伸び放題になっている。
やがて、タクシーは街道を挟んで広がるIT特区に差し掛かった。鵜飼はガラスに顔を擦り付けて、道路の両側にそびえる高い塀に目を凝らした。津波対策を口実に作られた高さ10メートル以上のコンクリート塀が、鵜飼の視界を遮っている。特区が公道で東西に分断されているからだろうか、2つの地区を行き来できるように、ところどころに頑丈そうな扉で閉ざされたゲートが目に入った。
このころ、東南アジアやインドでは数億人単位の知的労働者が生まれ、先進国に流入していた。高度人材を募る日本は、在留資格を優遇してIT特区を設置し、数多のエリート外国人を呼び込んで、AI研究に取り組んでもらう事業を開始した。最近の報道によれば、清水のIT特区は東京と名古屋の中間に位置して交通の便もよく、港もあって海の幸にも恵まれていたことから外国人に人気らしい。2年前のような大地震は1000年に一度というから、合理的な外国人にすれば、これほど安全な場所はない。現在はたしか、2千人を超える技術者が暮らしているはずだが、特区の敷地の外でそれらしい人物を見ることがないのが不思議だった。
タクシーはひときわ大きな鋼鉄製の扉がある正門の前を通り過ぎた。そのとき、だしぬけにタクシーが急ハンドルをきった。車体はガクンと沈み込んで、中央分離帯にはみ出した。
「あっ」
鵜飼は思わず声を上げて、手すりを掴んで身構えたが、タクシーはブレーキをかけることなく直進しつづけた。中央分離帯に並んで立っているガイドポストに次々衝突し、そのたびに振動と、車体が傷つく音が響いてくる。
鵜飼は左手を伸ばして緊急停止ボタンを押した。車は屋根の両脇についた警告灯を点滅させながら減速し、路肩に移動して停止した。タクシーの天井から下がっているモニターに<障害物回避>と表示されている。
「わけわかんねーな…」
鵜飼は顔をしかめながら、バックパックを掴んで車を降りた。
周囲を見渡したが、異常はない。細心の注意を払って、タクシーがハンドルを切った場所まで戻ってみたが、障害物らしいものは確認できなかった。タクシーをコントロールするAIは、実際の風景を見て車を動かしているわけではない。車両前方についた3台のカメラが撮影した監視画像から空間を認識し、それを地図データと比較して最適なコースを選択する。それまで問題なく直線道路を走行していた車が、突然、不自然な挙動をとるなんて、どうも釈然としない。やはり、地図に何らかの問題が起こっているのだろうか?
鵜飼は片膝をついて、バックパックからARグラスを取り出した。メガネ型の半透明なディスプレイで、ICTAの立体地図を、現実の景色の上に重ね合わせて見ることができる。鵜飼はグラスを耳にかけてから、耳あての後ろについた電源ボタンを長押しした。わずか3秒ほどで目の前にListening…の文字が現れた。
「現在位置の地図をパースペクティブ・ビューで表示」
鵜飼がささやくと、鵜飼の視点から見た3D地図が、実際の風景に重なるように描画されていく。それを見た鵜飼は、信じられないという顔をして立ち上がった。
「なんてこった…」
彼の眼前に伸びる道路は海の下に沈んでいて、ちょうど目の前を、ひっくり返ったレジャーボートが流れていった。海水は半島をすべて呑み込んで、地面があるはずの場所に、濁流がごうごうと渦巻いている。
「まさか…」鵜飼はつぶやいた。「2年前のこの場所が再現されてる」
鵜飼はグラスを鼻からずらして、肉眼で同じ場所を凝視した。見えるのは、さっきと変わりない、路肩にタクシーが停まっている景色である。田舎の県道とはいえ、片側2車線の幹線道路で、地図が現実の地形と大きく乖離しているなんてことは考えにくい。しかし、現に地図のデータが津波発生当時の立体地形を再現している。鵜飼は再びグラスを掛け直した。次の瞬間、グラス越しに見えていた海はみるみるうちに干上がって地面が顔を出し、その上に道路が伸びてきて、塀が立ち上がり、現実の風景と地図上のデータが一致した。鵜飼は一瞬、めまいに襲われた。
今、この瞬間にICTAが地図を更新したのだろうか? いや、予告もなしに地図がこれほど大胆に変更されるなんてことはありえない。鵜飼はグラスを掛けたまま車に駆け戻り、後部座席から別の防水ケースを引っ張り出した。
内海にある港の方から、繰り返し汽笛が聞こえてきた。17時ちょうど、終業の合図である。太陽は大きく西に傾き、上空は薄紫色に染まりつつあった。
たった今、自分が見た画像が幻覚でなければ、地図上の塀と道路が消え、それどころか南海トラフ地震の津波が再現されていた。タクシーが、あの地図を参照して走っていたとすれば、途中で道路を見失ってもおかしくない。いや、おそらくレジャーボートを避けようと、急ハンドルを切ったのだろう。いくら優秀なAIでも、道路の真ん中に船が流れてきたら、マトモに走行することはできない。ひとつ確かなことは、この場所の地図が書き換えられていることだ。
鵜飼はしげしげと塀を観察した。この一帯を俯瞰してみる必要がありそうだ。そういえば、正門の扉もやけに頑丈にできている。太さ4センチはあろうかという鉄の棒が縦横に組まれて、侵入者を寄せ付けない雰囲気があった。
鵜飼は額の汗をぬぐい、路肩にしゃがみこんだ。それから防水ケースのファスナーを開いて、中から足を折りたたんだ甲虫のようなドローンと、タブレット型の送信機を取り出した。本体にバッテリーを装着してから、4本の脚部を順に伸ばし、それぞれの先端についた2枚のプロペラを開く。ドローンの本体は25cmほどで、先端に真上から真下まで撮影できる180度チルトジンバルを搭載した、双眼のARカメラがついている。3次元認識システムと高精度慣性測定ユニットを搭載し、上空から地形を測量できる最新型だ。鵜飼は地図の精度を上空から確認できるように、出張のときには常にこのドローンを携帯していた。25m/sまでの風にも耐えるので、海岸のような強風の中でも安定して飛行させることができる。
鵜飼が本体の電源ボタンを押すと、ビープ音が鳴って本体後方のLEDが緑色点灯し、ホーム位置が登録された。これで万一、送信機との接続が切れても、ドローンは自動的に離陸地点に帰還する。送信機に映し出された衛星画像にペンで航路を書き込んだ鵜飼は、人差し指で軽くジンバルの具合を確認してから、やおら本体を上空に放り投げた。4枚のローターは、空中で自動的に回転を始め、そのまま最高速度で上昇していった。
歓迎されぬ訪問者
正門の外でドローンを飛ばす男の姿は5台の監視カメラに捉えられていた。そこは8畳ほどの狭い部屋で、机の上を照らすスポットライトと、部屋の壁面を埋め尽くす200台ほどの小型モニターの光で照らされている。PCの画面には文字が流れていて、データ処理が行われているのがわかる。5台のうち2台のカメラは顔のアップを撮影し、それを10億人の顔を学習した中国製のモデルに入力して、鵜飼であることは30秒以内に判明していた。アジア人の顔の画像処理に関しては、中国製に勝るものはない。
「ICTAの職員だよ、コイツ」モニターの前で目を凝らしていた男は、中国語なまりの日本語でいった。その隣で何かをタイプしていた男は急に真剣な顔で向き直り、問い返した。
「関係者か?」
「いや、そうじゃないラシイ。でも興味を持ってるミタイ」
「なんでそんな男がいるときに、過去の地図を出したんだよっ」
「そんなこと知らナイヨ。もともとそういうスケジュールだったんダカラ」
これまでの行動を見る限り、おそらくこの男は地図の不備を予測し、上空から撮影を行うだろう。さて、どうしたものか。
監視室の扉が開いて、別の男が顔を覗かせた。
「まだいるの?」
「いるね。今度はドローンダヨ」
中国人らしい男は答えた。扉を開けた男は、すぐさま部屋を出て、ヘッドセットに手をかけて電話をかけた。
地図のない場所
ドローンは壁を超え、そのままIT特区の上空500メートルに到達すると、一旦ホバリングしてから、東西に横移動を始めた。鵜飼がタブレット端末から入力した航路にしたがって、特区の上を等間隔に輪切りするように飛行を続けている。
鵜飼のARグラスには、特区の地図上の建物が映し出されている。何本も枝分かれした路地の両側に、四角垂の屋根が連なっている。合掌造りのようにも見えるその大屋根が落とす影の下を、人々が行きかっているようだ。複数の路地は敷地の一番奥にある大広場に接続し、広場の中央には、ひときわ大きな屋根を持つピラミッドのような建物があった。建物はスポーツ施設か何かだろうか? 周囲にサッカー場やテニスコートが配置され、ランニングコースを走っている人もいるようだ。現代風だが、どことなく日本の里山を連想させるセンスのよい風景が広がっている。
「さっき津波に襲われたと思ったら、今度はおしゃれな町並みかよ」鵜飼はかぶりをふった。「こりゃあ、ハリボテの街だ」
グラスに映された建物はどれも材質までわかるようにリアルに描かれていたが、人間の動きには違和感があった。全員の動きが滑らかで、それぞれがある程度以上接近しないように、全員が協調し、スピード調整していたからだ。
鵜飼が、ドローンのFPV(ファースト・パーソンズ・ビュー)と呼ばれる現実のカメラ映像に切り替えようとしたとき、ドローンと送信機の接続が遮断され、鵜飼は視界を奪われた。さらにノイズによってデータエラーが発生し、制御不能になった。鵜飼はグラスをはずしてドローンを目視したが、機体は特区内に墜落していった。
同じ周波数帯で使用された設備からの干渉だろう。あまり覗かれたくない人がいるということだ。
上空からの絵を見る限り、特区の中は、現実とかけ離れたイメージの世界のようだ。タクシーを降りて鵜飼が見たものは、特区内部の地図の書き換えが、三保街道まではみ出したものかもしれない。
「こいつは厄介なことになってきた…」鵜飼は顔を曇らせていった。
死者を出した自動運転車の事故も、原因は自動車メーカーや、AIの開発会社ではなく、ICTAの地図の改ざんかもしれない。仮にそうなら、これは地図情報の漏洩という問題に止まらない。鵜飼は背中に冷たいものを感じた。今や、あらゆる産業界が、ICTA地図をAIの目として使用するようになっている。地図が現実世界と異なるということは、AIは人間と異なる世界を見ているということだ。AIの力を借りなければ、マトモな社会を維持できなくなっている人々にとって、AIが自分と違うものを見ているとしたら、由々しい問題である。
また、こんな風に地図を改ざんできるのなら、その範囲を時間と共に形を変えたり、移動させることもできるだろう。そうなれば、交通システムのみならず、農業や土木などの産業に壊滅的な打撃を与えかねない。
犯人は、外国からやってきて、自分の腕前を見せびらかしてやろうと、遊び半分で地図をハックしたオタクだろうか。鵜飼は特区の中に興味を持ち始めていた。いずれにしても、今後の対策を考えるためにも、現場を見た方が良さそうだ。鵜飼は大仕事になる予感に、心臓が高鳴るのを感じていた。
「さて、まずはどうすっかな…」
地図が作り変えられたとなると、伝えた相手によっては過剰な反応を起こしてしまうかもしれない。もうあたりは薄暗くなり始めている。明日も引き続き調査する承諾を得るためにも、内容を理解している豊島部長に相談するのがいいだろう。早めに報告書をまとめて、今日中に連絡することにしよう。
情報通信処理機構本部、再び
豊島真理子は、原宿駅のほど近く、地下2階にあるメキシコ料理店で、学生時代の研究室仲間と終電間際まで飲んでいた。店から駅に向かって歩きだしたとき、携帯に10件以上の着信履歴があるのに気づき、録音内容と送られてきた数点の画像を確認した。鵜飼からの報告書だった。その後、急いでタクシーをとばして新橋のICTA本部までやってきたのだ。
深夜0時をまわって、もう会社に残っている者はいない。真理子はカバンを机に乱暴に投げ出して会議室に入り、革張りの椅子を大型モニターの前へ移動させた。会議システムの電源を入れてから、大きく息を吐き、ハイヒールを脱いで、高い背あてにもたれかかった。
2,3回深呼吸して気を落ち着かせ、鵜飼を呼び出した。今回の現場行きを命じたのは真理子本人だったが、差し出口をするのが好きな鵜飼が一向に帰ってこないと思ったら、案の定余計な仕事を増やしてくれたようだ。
「夜遅くにすみません、どうしてもお知らせしないといけなと思いまして」緊張した声とともに、ホテルの自室にいる鵜飼の顔がモニターに映し出された。
鵜飼の報告を聞きながら、真理子は眉根を寄せて、ため息をついた。海岸からの報告では地図に問題はなかったというのに、IT特区で異常を見つけ、結局1日潰して測量をしていたらしい。
「その特区は私有地だから、勝手に入るのは難しいでしょう。ドローンの映像も証拠にはならないわね」真理子はなだめるように言った。
「でも、世の中がひっくり返るかもしれない問題ですよ」
「そんなことはわかってる。そういう問題を扱うために調査委員会が発足したんだから、あなたがやるべき仕事じゃないでしょ」
「そうはいっても、これは地図のトラブルなんです。原因を正確に把握しておかないと、議論が変な方向に行っちゃうかもしれない。とにかく、このまま放置したらウチが無能だってことにされちゃいますよ」鵜飼は急にまくしたてるような口調で言った。「特区の中にいる変人が、我々に挑戦してきてるんです」
「変人ねえ」真理子は別の椅子に両足を乗せた。
「そう、そいつが何かを企んでるんすよ」
身を乗り出した鵜飼を見て、真理子はいった。
「あなた、嬉しそうね」
鵜飼は気にすることもなく、現地に留まる理由を立て続けに並べ立てた。真理子は呆れて答えた。
「いいから帰って来なさい。深入りしていいことはない」
「でももう少し、やらせてもらえませんか?」
「あなたは、その建物や町並みが、全部ニセモノだって言いたいわけね」
「部長も地図がいきなり変化して、2年前の津波が目の前で再現されるのを経験したらわかりますよ」
「津波なら何度も見てる」
「いやいや、それだけじゃない。特区の中に、デザインコンペに出てくるようなお洒落建築が何十棟も建ってるなんて、おかしくないですか?」鵜飼がきいた。
「そりゃ、変だけど」
「これは遊びなんですよ。AIとか、住人のためとかじゃなく、誰かが地図をいじってマイクラやってるんです。気になるでしょう?」鵜飼は重ねてたずねた。
「まあ、興味ないことは無いけどね…」
「では、明日、有給取らせてください」
鵜飼は険のある言い方だった。引き下がる気はないらしい。この様子では、自分もすぐに現地入りしなければならないだろう。
「わかったよ。担当部署に話をしてもらうよう交渉してみる」真理子は降参した。
「ありがとうございます」
「ただし、くれぐれも無茶しないでよ」
明日は来年度の人事委員会が開催されることになっているし、自分も主査の一人なのだが、キャンセルせざるを得なくなった。
IT特区ツアー
翌日も朝から湿度の高い日だった。駅前のビジネスホテルで一泊した鵜飼は鉄格子でできた正門の前に立ち、インターフォンを押した。門扉の両脇の柱の上に備え付けられた監視カメラは、まっすぐ鵜飼を捉えている。
1分待ったが返事はない。
ドアノブを引っ張り、軽く足で2度3度蹴ってみた。ドンドンドンドン…
「おーい」
監視カメラにマイクがついているかわからないが、声を限りに叫んでみた。しばらく耳を澄ましてみたが、返事はない。
「おーい」ドンドンドン。
再びの静寂。不意に扉の中にある小さな潜戸があいて、肌の浅黒い男が顔を出した。「いい加減、蹴るのはやめてくれ。うるさくてテレビが聞こえナイ」
「おはようございます」鵜飼は満面の笑顔で、片手を差し出した。「私は、ドクター・ウカイです」
鵜飼は自己紹介してから、事故のデータ収集をしている旨を告げた。その東南アジア系の男は黙って鵜飼の話に耳を傾け、潜戸を締めて奥に引っ込んだ。5分ほど経ったろうか。再び姿を現した男はあっさりと中に入るよう促した。
「ドウゾ」
「いいの? ありがとう…」
すっかり拍子抜けした鵜飼だったが、不必要なトラブルが避けられるならそれに越したことはない。
この特区は敷地の殆どが、かつてその場所にあった造船所の跡地で、私有地を国が一定期間借り上げているために、誰でも勝手に入ることができない。まして、AI関連の開発が行われているとすれば、秘密保持の点からも、入場には訪問先との約束が必要だと聞いていた。部長が話をつけてくれたのか、あるいはICTAが国の機関だから協力してくれることになったのだろうか。
鵜飼を招き入れた男はそのまま管理ボックスに入って、テレビの前に腰掛けて、食べかけのカップラーメンをすすりはじめた。
特区の中に足を踏み入れた鵜飼は、周囲をぐるりと見回して、その場に立ちすくんだ。やはりそうだった。予想していたとはいえ、地図と全く異なる景色が広がっている。合掌造りの家も、ピラミッドもテニスコートも存在せず、100メートルほど先に、5階建てのビルがひとつぽつんと立っている。特に監視がつく様子もないので、鵜飼はそこを目指して歩き出した。
ビルまでの広々とした直線道路は銀杏並木になっている。道の両側には緑地が広がって、なだらかな丘がいくつも作られており、敷地の境界までゆるい起伏が続いている。ところどころでスプリンクラーが地中から浮き上がって回転しながら散水しており、陽光をあびて小さな虹が出たり消えたりしていた。
特区は、東京ドーム30個分はあろうかという広大な敷地だが、目の前のビル以外の建物は見当たらない。管理ボックスにいた男以外の人影もない。この美しい平和な空間を、鵜飼は仏頂面で歩き続けた。2000人はいると言われている移民たちはどこで仕事をしているのだろう。
彼はARグラスをかけてみた。グラス越しの地図の中では、あちらこちらからけたたましい自動車のクラクションが響き、騒々しい音が充満している。さらにゴムエプロンや、作業服を着た人々が路上を歩いている姿が浮かび上がった。これは論文で読んだことがある。地図の上にリアルタイムで人間の行動を再現する最新技術だ。
「まさか、ここまで実装できてるのか…」
人間の姿は、厚みのないグリッドに画像を貼り付けたものだが、動き自体に違和感はない。数百人の人々が、それぞれ異なる動きをしているから、各々の人間はAIで自律的に動いているのだろう。
現実には青々とした芝の原っぱが広がっているだけなのに、ARグラスから見る世界では、工場や事務所のみならず、住人の住宅やスーパーマーケット、喫茶店などが立ち並び、通行人がせわしなく行き交っていた。歩道を歩く鵜飼の横を、もはや国内では見かけることのなくなったガソリン車が通り過ぎた。ガソリン車は希少で、維持費もかかるから、クルマ好きの高級な玩具である。巻き上げられた埃と一緒に、排気ガスの臭いが流れてきた。
喫茶店の角を曲がると、今度は子どもたちが、地面に敷いたレジャーシートの上に寝そべって、大広場の方に注意を向けていた。彼らの視線を追うと、突然、巨大が建築物が立ち上がりはじめた。赤褐色の石が幅100m以上にわたって組み上がって、階段状にそびえて行く。最初はその巨大さに圧倒されていた鵜飼も、回廊に施されたレリーフと、数十基はあろうかという釣鐘状のストゥーパを見て理解した。インドネシアのジャワ島にある世界最大級の仏教寺院ボロブドゥールだ。頂上にひときわ巨大なストゥーパが天に向かって組み上がったとき、周囲から大きな歓声が聞こえた。その後も、中国の山西省にある平遥の城塞都市、インドのアーグラに立つタージマハルなどが次々に実物大の姿を現しては消え、そのたびに子どもたちが拍手を送る。地図データがくるくると書き換わり、世界の名所の華やかな風景が視界を埋めていく。香港上海銀行、ペトロナスツインタワー、グッゲンハイム美術館、代々木競技場などの現代建築までもが目の前で立ち上がり、やがてそれを見ていた観客たちの姿と共に消えてしまった。
「すばらしい」鵜飼は思わず口に出した。なんという美しさだろう。建築シミュレーションも、実物大で見るとこれほど生々しい体験になるものなのか。
映像がまたたき、今度は日本らしい山間ののどかな集落が映し出された。だがどこも草木は伸び放題で、畑も雑草で覆われている。廃墟のような一軒家も点在し、トタンが剥がれ落ちている。次の瞬間に、建物が次々に壊され、その残骸は宙に舞っては消えていった。さらに小高い丘の土砂が削られて整地され、広々とした平らな土地が出現すると、その中央に四角いビルが建ち始めた。ビルが完成するや、画面はリセットされ、また別の集落が現れた。同じように山村の再開発の映像が繰り返されている。
鵜飼は首をかしげた。日本中で多くの集落の無人化が進み、消滅しているような時代に、狸しか住んでいないような山を削り、建物を立てるなんてどういうことだろう。
鵜飼はその場を離れ、ARグラスをかけたまま、黙々と歩き続けて、目的のビルの前までやってきた。現実の5階建てビルは、地図上では耐震補強を施した15階ほどの高さのビルになっている。両方のビルの入口は一致しているので、中に入れそうだ。
手を伸ばし、扉を開いて建物の中に足を踏み入れた。幅5mほどの湿っぽくて薄汚れた廊下がビルを貫通していて、その両サイドでスーツ姿の人々が机に向かって事務仕事をしている。天井は15階の最上階まで吹き抜けになっていて、いずれの階も同じような部署が並んでいる。ところどころにお祭りやバザー、町おこしイベントのポスターが貼られている。
これは全て現実ではない、コンピュータが見ている世界なのだ。しかし、地図に描かれた特区はまるで30年前の日本のようだった。
IT特区は、事実上の移民特区だと言われていた。特区の設置にあたって、特区の住人であればAI関連の業務に就く場合、人件費の半分が企業に助成金として支払われることになっていたからだ。対象者の国籍は問われなかったため、企業は競って給与水準の低い国から大量の外国人を雇い入れた。そのため特区は高度なIT教育を受けたエリートアジア人の居住地区となっていた…というのが日本人の共通認識だったし、マスコミもそう報道していた。しかし、エリートアジア人どころか、彼らが住んでいる場所も、仕事場も存在しないではないか。
鵜飼はARグラスを外し、ため息をついてしばらく座り込んだ。あたりはしんと静まりかえり、驚くほど静かだ。そこは空調が効いた清浄なビルの廊下で、ルーバー照明からの優しい光が隅々を照らしている。ITスキルに秀でた移民たちが、地図を弄んでいるというのは、俺の早合点だったのか。
「だから帰るように言ったのに」
聞き覚えのある声が響き、鵜飼は振り返った。
彼の前に、豊島真理子が立っていた。
真理子
「いったん、ここを出ましょう」
真理子の後を追って、鵜飼は外を目指して歩き出した。2人は再びビルから出て、きれいに手入れされた緑地の見える場所までやってきた。
「部長がなぜここにいるんです?」鵜飼がきいた。
「わざわざ説明する必要はないんじゃないの?」真理子は微笑んで、まぶしい陽光をさけるように、建物から突き出した庇の下を歩き出した。「もうまる1日、調査を続けてきたんでしょ」
「これ、部長の仕業なんですか」鵜飼がぶっきらぼうにたずねた。
「仕業なんて人聞きの悪い事言わないでよ」
「じゃあ、何かの実験とか?」
「まあ、そんなところかな」
「だとしても、こんなこと馬鹿げてますよね」鵜飼はかぶりを振った。「今回の事故どころじゃない、かなりヤバいことになる」
真理子の顔色が変わった。
「どうして?」
「現実にあるものが、全く再現できていないんですよ。こんなの地図じゃない。ぼくらの仕事はなんだったんです?」鵜飼は眉をひそめ、真理子の顔を見つめている。
「今じゃあね、現実にあるものなんか、誰も見ていない。それどころか、みんなは目に見えないものが、ホントだって思ってる」真理子はきっぱりと言った。「地図にあるものが、現実なのよ」
2010年代から深層学習の登場とともにAIは急速な発展を遂げた。特に深層学習は、画像処理と相性がいい。AIは少ない画像サンプルから、人間には認知できないような特徴を捉え、定義し、比較したり加工したりした。一般的に、人間が外界から取り入れる情報のうち、9割は視覚から得ていると言われる。多くの感覚機能のうち、人間の行動に影響を与えるのは、圧倒的に視覚による画像情報だ。ところが、AIは視覚を超える画像処理能力を獲得し、人々は自分の視覚よりも、AIが与えてくれる情報に頼るようになった。人間は映像から情報を取り出すが、AIは情報から映像を構築する。確かにAIはモノを見てるわけじゃない。
真理子は言葉を継いだ。
「もっとも人間だって、視界の中にあるものが全部見えているわけじゃない。人間の眼球にも盲点はある。ただ、盲点周辺から得られる情報から、視覚情報を補完して、見えてると思い込んでるんだよね」
「地図にも盲点を作ったってことですか」
「勘がいいわね。じゃあ、人が見えないものを見る時はどうすると思う?」真理子は渋面の鵜飼を見て、説明した。
「モノを見るとき、目は解像度の高い部分を頻繁に移動させて、補正データを収集する。1秒に5回くらい目をキョロキョロさせるわけ。移動の間、余計な信号は脳に伝達されないけど、それを意識する事はない。脳は集めたデータから鮮明な視覚を再構築する」
真理子は足を止め、再び別の扉を開けて鵜飼をビル内へと促した。やはり中にも誰もいなかった。ふたりはところどころに漏水跡がある廊下を歩いていく。
「ICTAの地図だって同じ。見えない場所があったら、補正サンプルを収集して、途切れることのない地図を構成する機能が装備されてる。サッケード機能と呼んでるけどね。普通の人が、気づくことはない」
鵜飼は露骨に嫌な顔をして、真理子を見やった。
「わかった?」と、真理子は言った。
鵜飼は返事をしなかった。
「そのサッケード機能を作ったのは私。地図はカムフラージュされて、AIからも見えない」真理子は付け加えた。
「でも地図は実際に存在するデータですよ。知覚と一緒じゃないでしょう」鵜飼はむっとして、首を横に振った。「それに、ぼくが見ましたよ」
「ああ、そうだったわね」そういって真理子はにっこりと笑った。
鵜飼がここに来る前に想像していたのは、頭はいいが常識のないオタクが地図を書き換えたんだろうということだった。たしかに特区の中で、地図はまるで積み木のように、積み重ねたり、崩されたりしていた。でも、それをやっているはずのオタクはいなかった。
ふたりは廊下の突き当りを左折して、扉の開いているエレベーターに乗り込んだ。
「たしかに−」と鵜飼は言った。「ここは研究者にとっては面白いと思う」
真理子はうなずきながら、屋上を示すRのボタンを押した。
「でも移民は、アジアから来ているはずのエリートたちはどこにいるんです?」
「移民?」
「そう、ここはIT特区で、そもそもITに強い人材を外国から集める目的で作られたんでしょ?」
真理子はくすくす笑った。「そうね」
「けど、ここにあるのはこのビルだけ。ガードマンがいたけど、エンジニアらしい人物はどこにもいない。ITどころか、ここは単なる公園だ」
「バカねえ」
エレベーターの扉が開いて、生暖かい風が二人を包み込んだ。
「ここ、気持ちがいいのよ」
屋上には携帯電話の基地局にあるような鉄塔がたち、その上部にはいくつものアンテナが取り付けられている。さらに鉄塔の基部には小型のヘリパッドのような直径2メートルほどのプラットフォームが並んでいた。
真理子はプラットフォームの横を抜けて、三保半島の内海が見渡せる角に向かって歩きだした。眩しい日差しが、海面を照らしている。夏の間だけ湾を横断するフェリーの航跡が、輝く海面を揺らしている。
「あなた、給料いくらもらってんの?」真理子はいたずらっ子のような表情で鵜飼にきいた。口ごもっている鵜飼を見て、真理子は続けた。
「日本のエンジニアの地位は低いのよ。どんなに能力があっても、大学出たてなら500万ももらえないでしょ。日本の会社は40年以上も同じ釜の飯を食うってのが前提だからね。若い子に高いギャラ払えないし、いろんな職場をローテーションできない専門職は使いにくい。そんな国に、高度人材が集まると思う?」
「でも、それが国の政策なんでしょう?」鵜飼がきいた。
「昔と違って誰でも採用情報は取れるし、仕事するのに国境は関係ない。海外に行けば2000万、3000万もらえる人が、専門スキルもない、英語も話せないおじさんにペコペコするわけないじゃん」真理子は単刀直入にいった。
「やっぱり、来ませんよね」
「誰が、安い給料で、尊敬もされない仕事をやるために日本に来るわけ? 寿司とアニメがあるからって、人は仕事しに来たりしないよ」
「じゃあ…」鵜飼はまだよく理解出来ないでいた。
「そう、移民なんか、いないのよ」真理子は言い放った。
海からはジェットスキーの音が響いていた。真理子の話には少し気になるところがあった。屋上の金網に手をかけながら、鵜飼はいった。
「とすると、ここは何なんです?」
「ここはIT特区で、最先端のAIの研究をしている。ただし、AIが学習するのに人間はいらない。AIはAIとコミュニケーションして賢くなる」
「移民って話はどこから広まったんです?」
「さあね。仕事を外国人に奪われるってほうが、感情のはけ口になるからじゃないかしら? そういうストーリーの方が視聴者は喜ぶでしょう。マスコミの考えそうなことね」真理子はいった。
「捏造なんですか?」と、鵜飼。
「人間って、サービス精神で嘘をつくものなのよ。けど、考えてみれば、AIって移民みたいなものだよね」
近い将来、あらゆる産業が自動化し、人間の行ってきた仕事を代替することは間違いない。そのために必須となるAI技術は、日本が発展していくための礎だ。だからこそIT特区を設け、AIの研究開発をブーストしようとしたのだ。真理子はそのために日本に戻ってきた。
「実際問題、研究開発は必要だけど、日本人だけで世界と戦うことはできない。移民は来ない。そしたらね、解決方法はひとつしかない。移民と書いて、AIと読む。一種の隠語ね。このビルには移民はいないけど、ビルいっぱい地下5階まで冷媒に浸かったAI用のスーパーコンピュータで埋め尽くされてる」
鵜飼の不安は去らなかった。
「そこまでは、わかりました。じゃあ、なんで人が死んだんです?」
記者殺し
「死んだんじゃない。殺したんだ」真理子は冷静に言った。
それを聞いた鵜飼は、縮み上がるような恐怖を覚えた。なぜそんなことを落ち着いて言えるのだ。
「えっ…」
「あいつらは屑だよ。人が興味本位でのぞき見したいことを代わりに暴いて、金儲けする。あの連中が垂れ流す情報で、人々を煽って、ささくれた感情をさらにえぐって、見にくい感情のぶつけ合いを見なきゃならない」
真理子は言葉を切った。鵜飼は緊張の面持ちで聞いている。真理子は苛立ちを抑えるように、ふうっと息を吐き出して続けた。
「そのおかげで日本が世界から置いてきぼりになるとしたら? 少しでも自分と違うところを見つけて、それを吊し上げて、尖った人々を叩いてならして、足を引っ張り合って、みんなで仲良く衰退するのがいいとは思えない」真理子はもどかしそうに言った。「どうかしてる」
こんな感情を顕にする部長を見るのは初めてだった。
「部長は、自分が言ってることがよくわかってないんでしょう」鵜飼は心配そうに言った。
「特区をしつこく取材して、移民への差別意識を煽っていた記者をどうすればよかったと思う?」
「でも死ぬほどのことはしていない」鵜飼は食い下がった。「それに、結局、特区に移民はいなかったんだから、実害はなかった」
「移民だろうとAIだろうと結果は同じだよ。自分たちが払った税金が自分たちの職を奪うために使われて、納得する人はいない」
「説明もしてないのに、そんなことわからないでしょう」
「説明してわからないから、見えないように姿を隠してるの。見つかったら嫌な思いをするに違いないから」真理子はじれったそうだった。
「それは仮定の話でしょう」
真理子は鵜飼をにらんだ。
「仮定じゃなくて予測。日本が技術立国を目指すなら多民族国家になるしかない。でも、日本人が移民と共同社会を作ることなんか無理だってこともよくわかってる。それは私が移民に育てられたから」
真理子の声には怒りがこもっていた。
東日本大震災が発生した2011年、まだ小学生だった真理子は、宮城県の漁港近くに住んでいた。その日は昼過ぎから、近所の友だちと港が一望できる裏山にのぼって遊んでいた。裏山と言っても、港の前に切り立つ崖で、子どもたちは立入禁止の柵を乗り越えて、よく秘密基地ごっこをしていたのだ。14時46分に発生した大きな揺れの間、真理子は崖のてっぺんで木の幹にしがみついていた。その後、遠くの海から一直線になった白波が迫ってきたのを覚えている。やがて、その波は港に立つ水産加工場を呑み込み、周囲に停まっていた数十台の自動車を押し流した。工場の後ろには住宅街が広がっていて、真理子の家もその中にあった。
引き波で、家が海に引き込まれて、ばらばらに壊れているのを見送りながら、真理子はガタガタ震えていた。方方で火の手が上がり、ガソリンの臭いが鼻をついた。何時間経ったかわからない。自分の家に戻ろうと山を降りると、あたり一面、何にもなくなっていた。自分の家は、コンクリートの枠だけ残って、それ以降、家族には会っていない。
「311で家族が家ごと海の藻屑と消えて、私は移民の養子になった。転校先では放射能が移るって言われた。一緒じゃなきゃいけない社会で、多様性を求めるんなら、相手の見えないところで生きていくしかないんだよ。AIはアニメのロボットとか、ゲームのプレイヤーだと思ってるうちはいいけど、そのうちに、何をやっても敵わない、人々の仕事を奪う存在になる。AIは移民と同じように排斥されるに違いない」
真理子は目を閉じ、ゆっくりと息をして呼吸を整えた。
「そういうことを忘れないように、あの時と同じように津波で何もなくなった、この特区に時々来ることにしてる。そして私の育った街を思い出すの。海の近くが好きだし」
日本改造計画
どこからともなく、蜂の羽音にも似た音が聞こえてきた。鵜飼は足を止め、周囲を見回して音の発信元を探した。しばらくして200メートルほどの上空から、買い物かごくらいのケースを抱えた8枚羽のオクトコプターが降下してきて、屋上に並んだプラットフォームのひとつに着陸した。着陸するや、プラットフォームの周囲を囲んだネオンワイヤーが赤く点灯して、充電が開始される。それから3分くらいの間に、次々とドローンが姿を現し、充電用のプラットフォームに着陸した。真理子はドローンが抱えているケースを次々に回収していく。
「ここはドローンの基地なのよ。荷物を運んできたらこうやって充電して、10分ほどしたらまた飛んでいくわ」
「何を運んでるんです?」
「機械学習用のカスタムチップ。それ以外にも、必要なものはなんでも」
「空の航路も人からは見えない?」
「もちろん」真理子はあっさりと肯定した。「ここはいまや日本の頭脳なのよ。私たちはあらゆる業界の日本企業から開発を委託してる。必要なものは何でも揃う」
「どこのIT特区もこうなんすか?」鵜飼は問いかけた。
「当たり前でしょう。IT特区は、日本の発展のエンジンなの」真理子はきっぱりと言った。
「えらく愛国的なんですね」
「あらゆる不幸は貧しさから生まれるってことが、あなたはわかってない」
鵜飼は異論を唱えた。
「たしかにAIによって、劇的に自動化が進んで仕事が楽になった。でも、AIに置き換わっているのはどちらかというと単価の高い仕事でしょう。AIを導入しても儲からない単価の安い仕事は、依然と人間に残されてる。AIが普及しても、ほとんどの人は豊かになってなんかいませんよ」
「いいかげん、ことを荒立てないでくれない?」真理子は鵜飼をにらみ返した。「つまらない正義を振り回さないで、現実を見たほうがいいよ。単価の安い仕事についているのは、そういう仕事しかできないスキルのない人間でしょ。世界と競争するには、強くなれる人は強くならないといけない。人間は平等なんかじゃない」
それでもなお、鵜飼には疑問が頭をもたげてくる。
「全国のIT特区で、同じことをやるんですか…」
「ええ、先月で特区は100箇所になった」
鵜飼は意外そうな顔をした。
「そんなに? 去年は県にひとつくらいだったと思うけど…相当なハイペースで増えてるんですね」
「私がなぜ地図を書き換えていると思ってるの? 別に特区を隠すためなら、書き換える必要なんかない」
それはその通りだった。鵜飼が引っ掛かっていたのもそのことだ。しかもそんなことをしていたおかげで、自分に見つかってしまったのだから。
「日本中に見えない特区を増やす…」そういったとたん、鵜飼ははっと気がついた。「人を轢いたトレーラーも、ドローンも、機材を運んでいるんですね」
真理子はニヤリとした。
「これだけ人口が減るとね、日本は空き地だらけなの。相続されない土地、放棄された農地、自然災害で住民が離れた廃村…そういう土地は国有地となって残される。その場所の地図を変えてやれば、自動運転の重機が山を切り開き、建築機械が建物をたて、ドローンが送った精密機械を使って、ロボットが組み立てる。必要なパーツがあれば、造型機械がその場で出力する。IT特区は自己増殖するのよ。私たちが話しているまさにこの瞬間にも、自動運転の重機が土地を開き、電線を引き、強力な空調を備えた耐震建築を作っている。自動運転は人を運ぶためにあるんじゃない。AIに手足を与えるためにあるのよ」
真理子の視線を受けて、鵜飼は問いかけた。
「AIで日本を強くする自信があるんですね」
「もちろん」
鵜飼は黙っていた。しばらくあって、真理子はつづけた。
「彼らのほうが、人間よりうまくやってくれる」
充電を終えたドローンたちが、群集となって次々に飛び立っていく。空は抜けるような青空だ。プロペラが巻き上げる風が、やさしく頬をなでる。
「さあ、もう降りましょう」真理子が振り返り、こちらを見た。
鵜飼は口を挟んだ。
「これからどうするんです?」
「あなたはどうするの?」
「ぼくは部長がやっているようなことはよくわからない。でも、一応仕事は地図をメンテナンスすることなんです。部長は特区を普通の人々の見えない所に置いて、それで日本を豊かな国にしようとするんでしょう? ぼくは地図を使いやすくして日本を便利な国にしようと思います」
真理子は咳払いをして、いった。
「それは私に挑戦するってことかしら?」
「いいえ」と鵜飼。「でも、このまま隠し通せやしませんよ」
真理子はムッとして、言い返した。
「あなたも心配症ねえ。私はもっと強力な迷彩を施して、特区を外の世界から隔絶するつもり。あなたはそれを見つけられないわ」と、真理子はつづけた。「人の視力は盲点があるからこそ、正しく機能する。日本も、特区があることで、AI立国への道を歩みはじめるのよ」
「ここを見つけた時と同じように、また見つけますよ」鵜飼がいった。
すこし間があった。真理子は首をふった。
「おめでたいわね。偶然、地図のミスを見つけたって信じてるの?」
「もう、帰ります」鵜飼は顔をそむけて、出口に向かって歩き出した。
「残念だわ。あなたを評価していたのに」鵜飼の背後から、真理子の声が聞こえてきた。
裏切り
鵜飼が正門まで戻ってくると、管理ボックスの中の男はまだ椅子にもたれかかってテレビを見ていた。鵜飼は構うことなく、入ってきた潜戸を開けて外に出た。
「鵜飼さんですね」
正門の前には2台のパトカーが停車していて、目付きの悪い男たちが鵜飼が出てくるのを待っていた。
「何です?」鵜飼はきいた。
「先ほど通報がありましてね。あなたは自動運転車を操作できる立場にありましたね」
「どういうことです?」
「先日の記者さんが亡くなられた事件です」
「ぼくは関係ないですよ」鵜飼は否定した。
「でもあなたが証拠隠滅を図った証拠が提出されましてね。署までご同行いただけますか?」
眉をひそめて鵜飼は聞いた。「その証拠を提出したのは、もしかしてICTAですか?」
刑事たちは質問に答えることなく、鵜飼をパトカーの後部座席に座らせた。
警察には、事故現場の地図データを書き換えた記録、IT特区の前で内部を調べている記録と証拠品のドローン、特区に侵入して証拠隠滅を図った記録が提出され、鵜飼の反論はまったく認められなかった。
裁判では社会に与えた影響があまりにも大きいと言われ、鵜飼は15年の実刑判決を受けて、小菅刑務所に収監された。
5年後
それから5年が経った。
鵜飼は模範囚として刑務所の図書館に座って、テレビを眺めていた。日本中にIT特区が生まれ、総理大臣が「AI立国宣言」するニュース映像が映し出されている。音量は小さくてよく聞こえないが、その代わりに総理大臣の言葉が、リアルタイムの字幕になって、画面の下に表示されている。
「日本は長く、材料を磨き上げ、優れた製品を生み出す職人の国と言われてきた。絵画にしても、工芸にしても、アートの世界で独創性を発揮してきた。神が作ったサイエンスに対して、人が作ったものをアートと言うのなら、AIもアートだといえるでしょう。みなさん、日本はふたたび世界最先端のアート作品で、世界のリーダーになるんです」
総理の後ろに真理子が映っている。鵜飼は苦笑して、テレビを消した。
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