梗 概
涜神のスティグマ
ルターは激怒した。
ヴィッテンブルグ近郊で酔漢を諭した折のことである。
襤褸をまとったその男は、ルターの説教に侮慢の笑みを浮かべつつ、懐から手を取り出し云い放ったのだ。
「なあに、あっしにゃこれがある」
恩寵痕。
男の掌に刻まれた紋様は、マインツ大司教アルブレヒトが、サン・ピエトロ大聖堂建設の名目で人々に施した奇蹟である。
「“コインの落ちる音すれば、主は直ちにその御手を伸べたもう”ってね」
男が掌を地につけると、砂が動いて数字を形作る。
それは男の信仰……という名の、ドミニコ修道会への献金額だった。
「これだけ残高がありゃ、多少の不作法もお目こぼし頂けるってもんで――」
そう云って男は去る。
※※※
不機嫌なルターを妻が出迎える。長男を幼くして喪い、次いで生まれた娘も病気がちだった。恩寵痕を貯めれば奇蹟で娘の体を治せると云う妻に、ルターは信仰に応報を期待するのは間違いだと諭すが伝わらない。口論の末、ルターは家を飛び出す。
ルターは見慣れぬ路地に迷い込み、黒衣の美少年と出会う。その顔は論敵にして友人のエラスムスに似ていた。乞われるまま彼の手を取ったルターは、稲妻のような衝撃を受け気を失う。
※※※
目覚めると自宅の寝床にいた。訝るルターが自らの手を見ると、そこには恩寵痕とは別の紋様が刻まれていた。
「ルター、それこそが本物の奇蹟だ」
少年の声と共に情報が押し寄せる。この恩寵痕による信仰は兌換されない。紋様を持つものどうしが念話で繋がり、信仰を説法を通じてやりとりする。取引記録の精確さは、その日最も感銘を集めたものが保証する権利を持つ。明示化された信仰のやり取り。篤信による取引の保証。教会の権威によらぬ布教の形……。
「此れを広めよ」
命じられるまま、ルターは娘の病を治し、妻と子に恩寵痕を授ける。
応報を動機に信仰を広めることへの拒否感は不思議と消え去っていた。
※※※
教会の弾圧をものともせず、街にルターの恩寵痕が広まり始める。
一方の彼は、夜ごとの夢で黒衣の少年との逢瀬に溺れてゆく。
だがある日、ふと好奇心を抱いた誰かが気付いた。
取引の起点――黒衣の男とルターが最初に交わした契約には、こう付されていた。
――第五の御使が、喇叭を吹き鳴らした
ルターが取引を交わした相手は悪魔だった。
恩寵痕の拡散を止めようとするルターだが、取引の確定は最も信心を集めたものしか行えない。厳格な彼よりも人気の語り手が、すでに至るところに現れていた。
中心なく、実体なきがゆえに止められぬ涜神の記録。
第五の喇叭と共に現れるいなごのごとく、それは人々を蝕んでゆく。
ルターの嘆きを顧みる者はもはやいない。その妻や子らでさえも。
※※※
教会の、ひいては神の権威を失墜させるその事件を。
のちに人は『宗教改革』と呼んだ。
文字数:1198
内容に関するアピール
改竄・停止不能な取引ネットワークは、最初から「間違った」情報が含まれていた場合に致命的な事態を引き起こすという要素や、仮想通貨は低コストで実装可能な独自経済圏システムであるという要素をもとに、マクロレベルではスティグマを媒介とした神VS悪魔の信仰陣取り合戦の様相を、ミクロレベルでは生真面目なルターがいかにして悪魔に篭絡され落ちぶれてゆくのかという部分をじっくり描写してゆきたいと思っています。
この世界は当然ながら史実とは異なり、その証拠に本来は幼くして死んだ娘のエリザベートが生き残り、生きていたはずの息子ヨハネスがすでに死んでいます。そもそも宗教改革初期にルターは本来結婚していません。
この違和感をキーに、作中世界そのものが史実から分岐した一つの取引ブロックであり、ルターの人格は超知能AIのハッシュであるという設定も考えているのですが、これ自体はどこまで盛り込めるかわかりません。
文字数:393
鍬と十字
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――あなたは望んでおられる。
――語ることを。
――わたしの裡にある、最も遠き記憶を。
『鍬と十字』
――彼奴らの目を、開かせねばならぬ。
神聖ローマ帝国、ヴィッテンブルグ郊外。
夕陽の残滓が残る帰路をゆくルターの脳裏は、ただその一節のみで埋め尽くされていた。
十月。冬の気配は近く、大通りの石畳を渡る風は、甲高い笛の音を立てて彼の黒衣をはためかせる。しかしルターのその顔の紅潮は、けして頬を打つ冷気からくるものではない。
思い出す。
郊外で会ったあの男を。
あの襤褸をまとい、まだ日の高いうちから路上に横たわっては、安い林檎酒の匂いを全身から発散させていた男の、下卑た笑みを。
彼自身のことは構わないのだ。ただ酒を飲み、まじめに働かないという、それだけであれば、いっこうに問題などないのだ。
人は元来が罪深いものであることをルターは知っていた。聖職者である自分も、昼間からへべれけになっている彼も、キリストの愛のもとでは平等に罪深い。人を導くことは自らの使命であり、そこに喜びこそあれ、怒りなど覚えようはずもなかった。
「なあに、司祭さま。あっしにゃこれがありますもんで……」
そう嘯いて彼が懐から見せたもの。
開いた右の掌。
そこに刻まれた、十字の紋様。
「“コインの落ちる音すれば、主は直ちにその御手を伸べたもう”ってね」
それこそが、ルターにとっての問題であった。
男は、硬直したルターの表情になど気付かぬまま、むしろ自慢げに隙間だらけの歯を見せると、地面に手を置き、その上から酒をべしゃべしゃとふりかけた。あとずさったルターの足元に酒のしぶきが黒いしみを作り、甘ったるいアルコールの匂いが立ち上る。
「さァさァ、特と御覧じろ、アルプスの峰の向こう側、バチカンのお歴々が与えたもうた秘蹟、恩寵痕がお示しになるところの、あっしの徳を!」
男が手を除けると……そこには、酒の染みがローマ数字を象っていた。
「えへへへ……司祭さまよぅ、こいつが見えますか?」
げっぷをひとつ吐き、男はだらしなく笑う。
その数字の意味するところを、ルターは苦々しげに眺めた。
ドミニコ修道会――あの忌まわしき金の亡者どもから買った、贖宥の残高。
「見ての通り、あっしは仕事にもあぶれて、もう先も長くねえ……けどよぅ。有り金はたいたらよぅ、お優しいテッツェルの旦那はあっしを憐れんで、こんだけの免罪をくれたのさ。あとは好きなだけ酒くらってもよ、天国行きが決まってるって寸法でさ」
「……免罪の残高は、減らないわけではないぞ」
絞り出すように言うルターの心中を知ってか知らずか……男は、「けぇッ」と、甲高い悪態を吐く。
「わかってまさぁ。不信心な暮らしをしてりゃ残高が減って、すぐに地獄行きに逆戻りってんでしょ? けどねぇ司祭様。あっしは、その前に自分が野垂れ死ぬほうが先と思うね。この年で暇をもらった下級民の末路なんざそんなもんよ。だから、残りの生活、好きに生きようと思ったんで。……ところで、司祭様。そのお慈悲で、酒を一杯、お恵みいただけないもんで?」
忌々しい。
忌々しい!
帰路をゆくルターは、吐き捨てながら石畳を蹴る。
あの金の亡者どもの、バチカンの下僕どもの、聖職者の皮をかぶった商人崩れどもの用意した。濁り切った奇蹟。
Der achte Sacramento。
贖宥の恩寵痕。
神父どもの真摯な祈りを、それによって得られた『赦し』に値をつけて、囲い込んだ民衆に貢がせる。金で贖罪を買うという、あのカトリック教会の下衆な秘蹟のせいで……人々は明らかに堕落していた。聞けば、この神聖ローマ帝国の教会の裡では、下級司祭が夜な夜な『赦し』の生産のためのみに責め苦を受けているというではないか。
ここヴィッテンブルグではそのような愚行をまだ耳にしてはいないが、それでも外部からやってくるあの売り子どもを止めることはできない。
風はますます強く、逆巻いて猛り狂う。
それに呼応するように、ルターは胸中で叫ぶ。
あのように人を貶めるやり方が。
神の御業であってたまるか!
……ルターはふと足を止め、空を見上げる。
甲高い風切りの中に、木々の葉擦れの音が混じったような気がしたからだ。
だが、このヴィッテンブルグの城壁のうちに、当然森などあろうはずもなく……見回した街路の端には、白骨のように枯果てた、一本のもみの木があるばかり。
その曲がりくねった幹のうえで、一羽のカラスが、ルターを見据えていた。
――があ。
※
「今度の日曜こそ、わたしは教会に行きますから」
帰り着いた家庭もまた、ルターの心を癒さなかった。
カタリーナと結婚したのはもう三年も前になる。教会は婚姻を禁じてはいなかったが、実際に結婚するものは稀であった。
――常に伴侶がいれば、余計な肉欲に迷わされずに済む。
当時そう周囲に言っていたルターはいま、自らの考えを改めるべきではないかと思っていた。
なるほど確かに、伴侶はおのが肉欲を抑えやすくしてくれる。
しかし、その代償にあるものと言えば――
「ええ、行きますとも。あなたがなんと言おうと。なにせハンスに続いて、エリーザベトまでを煉獄に堕とすわけには行きませんからね!」
カタリーナは、鼻息も荒く言い募る。幼くして死んだ、長男のハンスのことを言っているのだ。堅信を授かる間もなく召されたことを悔い、ついで生まれたエリーザベトもまた病弱であってから、彼女はほとんどなにかに憑かれたように、ひとり娘の傍から離れなかった。ほかの修道女に預けることも、乳母を雇うこともせず、半ば幽閉するように小部屋に閉じ込めて自らもその中で長い一日を過ごしていた。
それでもなお、彼女の心中をとらえるのは、未だに息子のことなのだ。
「恩寵痕さえあれば……この子の魂をいつでもキリストの御許の近くへ置くことができる。ええ、そうですとも。今度の日曜日には、わたしは恩寵痕を買いにいきますわ。誰がなんと言おうとも!」
「ハンスは煉獄になど落ちていない」
苦々しさを噛みしめながら、ルターは言う。
「あのような無垢な魂が、地獄に落ちることがあるものか」
「それをだれが証明するっていうんです?」
カタリーナはいきり立ち、樫の食卓を平手で打つ。机のうえに置かれた木製のゴブレットが揺れ、埃が舞い、黴と食物と煤のにおいが、ルターの鼻腔を重く満たした。
「あなたが言っていたのでしょう。人は生まれながらに罪深いと。それは自身の努力ではどうにもならないのだって。ただキリストを思い、キリストが身をもって示された義を、聖書の教えを盲目的に受け取ることでしか、正しくあることはできないって。まだ言葉もわからないあの子に、ハンスに、それができたとでもいうの?」
涙に濡れた糾弾は、もはや聞き飽きた泣き言へと続くことをルターは知っている。ああ、かわいそうなハンス。堅身のサクラメントすら受けられず、聖霊の加護に見守られることもなく、哀れにも煉獄へと堕ちていったハンス。
だから。今度こそは……そう言って彼女は、ルターがどれだけ説こうとも、恩寵痕への献金に娘の希望を見出そうとする。カトリック教会が生産する“赦し”の市場に、自らを投じようとする。まるで娘を通じて、息子の魂をも救おうとするように。
それを、ルターは止め続けてきた。
「行きますからね……わたしは教会に行きますからね……」
ワインによる酩酊と、やまぬ妻の繰り言。
止まぬそれらが、ルターの認識を歪ませる。
「もうよい、もうよい」
ルターはうわごとのようにつぶやく。その態度が妻の激情に火をつけると知りながら。
再び机が揺れ、ゴブレットが倒れる。ワインがテーブルクロスの上にこぼれ、赤黒い染みが広がってゆく。
風が窓枠を叩き、また遠くで、あの木々のざわめきを確かに聞いたような気がした。
ルターは我知らず口を開く。
「もうよい。出ていくのはわたしだ。わたしが出ていってやる……こんなところなぞ!」
その言葉は、確かに自分のものだったが――
朦朧としたルターの耳には、やけに遠くからのもののように感じられた。
※
恩寵痕。
あるいは、Der achte Sacramento。
マインツ大司教アルブレヒトが、サン・ピエトロ大聖堂建設の名目で人々に施した秘蹟。
それは正しく言えば、アルブレヒトがバチカンに行う莫大な献金を捻出するために考案された一大事業であり、Der vierte Sacramento――悔悛のサクラメントを拡張したものであった。
人々は、罪を犯す。
その罪を教会で懺悔し、与えられた罰をこなすことで『赦し』を得る。その一連の行為が、いわゆる第四の秘蹟、悔悛のサクラメントであった。
アルブレヒトはこの秘蹟を、金銭に置き換えた。
折しも、教皇庁お抱えの神学者たちにより、『赦し』の定量的な計測が実現したばかりのころであった。一定量の罪は、一定量の罰によって報われる――アルブレヒトは、その理論を反転させた。
『あらかじめ赦しを生産することにより、まだ犯していない罪を予防的に贖う』
それが、この事業の発端である。
アルブレヒトは、バチカンより特別の許可を得て一級聖遺物“聖釘”を借り受け、それを用いた儀式を施すことによって、お抱えの司祭を恩寵痕の伝道者へと変えた。
彼らは人々の代わりに罰を受けることで『赦し』を生産し、祝福を受けた朱塗りの十字架へと注ぐ。これに触れることによって、人々には恩寵痕が刻まれると同時に、相応の『赦し』が分け与えられるという仕組みである。個々人の『赦し』残高は、恩寵痕を粒状・液状のものに触れさせることにより、確認することができた。
十字架に長く触れるほど、『赦し』は多く与えられる。そのため、接触時間は献金額に応じて厳格に管理された。その役を担ったのは主にドミニコ会の修道士であり、彼らは日曜日が来ると手押しの祭壇に目印の旗を巻いた十字架を載せ、市街を練り歩いた。
“コインの落ちる音すれば、主は直ちにその御手を伸べたもう”
そんな売り口上を、声高に述べ立てながら。
※
黒々とした影が、ルターを取り囲んでいる。
――ここは、どこだ? 確か、わたしは。
そう訝るルターの脳裏には、直前まで食卓で酩酊していた記憶が残っている。
そうか。あのあと――わたしは家を飛び出したのか。
あたりを見渡せど人家はなく、足元には道もない。明らかに市街から遠く離れた場所であった。漂う濃い霧が月明かりをはばんでいた。
足元から冷気が這い登る。酔いも眠気も、一瞬で醒めた。
どこをどう彷徨い歩いて、こんな場所まで来たのか。日の落ちた森は死の領域である。ルターは黒衣のたもとに震える手を差し入れ、木製の十字架を握りしめた。
――主よ、ご加護を。
歩き出すと、根に足を取られた。細い狼の遠吠えが、夜闇に光るいくつもの目が、ふいに起こる羽ばたきの音が、風もないのに揺れる葉の音が、ルターを取り囲んだ。汗が噴き出したが、背筋は冷えたままだった。ゆけどもゆけども、森が終わる気配はない。自分がいま、奥地に進んでいるのかも、あるいは出口に向かっているのかもわからない。息を弾ませながら、ルターはますますつよく、十字架を握りしめる。
――主よ、ご加護を!
「ルター。」
ふいに名を呼ばれ、ルターは硬直した。同時に曲がりくねった木の根に足を取られ、倒れこむ。苔の夜露が体を濡らすのもかまわず、ルターはしりもちをついて這いずった。
「誰だ! 誰だ!」
「怯えなくともよい」
穏やかな口調が、ルターをなだめた。それは不思議な声色だった。若い声。なのにどこだか……郷愁を胸に起こすような。
「ルター。楽にするがいい――ここにお前を傷つけるものは、だれもいない」
声は繰り返し、そう呼びかける。それにつれて、視界を覆う霧が晴れてゆく。蒼い月光が木々の隙間から差し込み――やがて木立の闇の奥に、ひとりの少年が立っているのを、ルターは見た。まるで身の丈のあわぬ大きなチュニックを羽織り、錆びて欠けた鍬をその手に持っていた。くすんだ金髪。少女と見まごうほどに貧弱な顔。
「……きみは……?」
そう問うてから、ふとルターは自らの無様な格好を思い出し、咳払いをして立ち上がる。
「きみは、誰だ。こんな時間になぜここにいる」
問いには答えず、彼はルターの前へと進み出る。
……思わず、ルターは後ずさった。
――違う。
職業的な危機察知能力とでもいうべき感覚が、ルターに警告を告げていた。十字架を握ったままの右手が、じっとりと汗ばむのを感じる。
「とまれ」
説教をするときのように声に力を入れる。
だが、少年は歩みを止めない。
「とまれ!」
絶叫と同時に、ルターは十字架を突き出した。
向かい合ってみると、少年はかなり背が低かった。身なりは貧しく、体は汚れていた。
しかし、ルターは見た。
その全身から――陽炎のような気配が、ゆったりと立ち上るのを。
「悪魔め。わたしの怒りを知って、かどわかしに来たか」
膝をつきそうになるほどの圧力に歯を食いしばりながら、ルターは少年を睨みつける。
「愚かな悪魔め。どれだけ教会に不信を抱こうと、キリストへの忠誠は変わらん。おとなしく地獄の底へと去るがよい」
震える体を叱咤し、ルターは吠えた。
「去れ! ……悪魔よ、去れ!」
少年が――ふと、かすかに首を振る。
「……あわれな」
光が。
ルターの両目を刺し貫いた。
目を細め、再び開いた次の瞬間。
ルターは見た。
少年の顔を。
その澄んだ青い瞳を。
雪のように輝く肌を。
林檎のように艶めく紅の唇を。
月光を散らす、輝くばかりの黄金の髪を。
「忘れたのか。ルター」
思わず息を忘れた彼の頬に、手が触れる。
「忘れてしまったのか。わたしは常に、そなたの傍にあるのに」
手が。
頬を。
首筋を。
なぞり滑り落ちる。
哀しげにゆがんだその瞳から、縫い留められたように目が離せない。
「お前は……いや、あなたは……」
かすれた声を漏らすルターの唇を、もう片方の手が、そっとおさえる。
「ルター。」
甘やかな声が、耳をくすぐる。
「お前の怒りを、私は見出した。お前の義憤を、私は見出した。あるべき形に、信仰を戻すために。あるべき姿に、世界を戻すために。――ルター。ともに、変えよう。ともに、正そう」
少年の右手が、その滑らかな指が、ルターの指と交差する。
「ルター……私と、在ってくれるね?」
半ば陶酔のうちにあるルターが、少年の指を握り返したとき――
電流にも似た衝撃が、彼の全身を刺し貫いた。
※
痛いほどの光に、ルターは瞼を開いた。
開けられた鎧戸から差し込む日光が、まともに顔を貫いている。
その横には、蔑むような目で自分を見下ろす、妻カタリーヌがいた。
「わたしは……?」
「ずいぶんよくお休みでしたよ」
棘のある口調が、ルターを責めた。
体をゆっくりと起こす。節々の痛みが、ルターに現実を認識させる。
――夢、だったのか。
そうわかったあとでも、陶酔は醒めない。呆けたような顔で窓を見つめるルターを見てカタリーナは鼻を鳴らし、娘の居室へと去ってゆく。
ぼんやりとその背中を眺めるルターの右手に、痛みが走った。
脳裏に、あの少年の顔が閃く。握り返した手から全身に走った、甘い痺れ――。
予感めいたものを感じながら、ルターは右手を机からはがす。
その下にあったもの。
昨晩こぼした、ワインの染み。
それは、ルターが見守る前でうごめき、言葉を形作ってゆく。
ひるがえした右掌には、鍬のような文様の恩寵痕が刻まれていた。
『ともに、変えよう。ともに、正そう』
脳裏に少年の言葉が蘇り……ルターは、ゆっくりと、その掌を握りしめる。
※
「今度こそ、わたしは教会に行きますからね。あなたがどれだけ止めたって!」
「いいんだ。カタリーナ。……こちらへきて、少し話をしよう」
※
鍬の恩寵痕を持つものは、自ら『赦し』を生産することができた。
恩寵痕を持つものは、それを持たないものと掌を合わせて恩寵痕を伝道することにより、一定量の『赦し』を得る。
金銭も、罰をこなすこともなく得られる『赦し』。それを求めて、鍬の恩寵痕はみるみるヴィッテンブルグを侵食していった。いまや両の掌の一方に十字を、もう一方に鍬のしるしを抱えるものは、珍しくもなくなっていたー―
「すばらしい、働きだ」
甘い言葉が耳元で囁き、ルターの全身をしびれさせる。
「ルター……わたしの心に適う、忠実なる僕……」
夜の森。
ちょうど椅子のようにくねった木の根に、彼は座っていた。肩越しに白い手がするりと伸び、背後からルターを抱きしめる。
あれからもルターは、夜ごと夢の中で、少年と逢瀬を重ねていた。
恩寵痕が広まってゆくにつれ、暗く沈んでいた森も変化を遂げていた。不気味に痩せ、枯れ果てていた木々はいまや幹も太り、淀んでいた空気は蒼く澄み通る。葉擦れの音は心地よく、光の尾を引いた蛍が目の前を飛び交う。
「ともに在ろう、ともに広めよう、この信仰を……」
「……しかし、不安なのです」
いつもは、少年の声をただうっとりと聞き入れているルターだが、今宵は珍しく、自分から口を挟んだ。
「このような伝道の形が、いつまでも続くはずがない」
鍬の恩寵痕は、恐ろしいスピードでヴィッテンブルグ住人に根付きつつあった。新たな勧誘は日を追うごとに難しくなり、伝道によって得られる『赦し』は頭打ちになりつつあった。
「新たに『赦し』が得られないのであれば、いずれ人々の心は離れるでしょう。それに、カトリック教会が動きつつあります」
そう呟くルターの、弱々しい、甘えた声色に、かつての峻厳な修道士の面影はない。
三十を超えた男が、年端もいかぬ少年に身を預け、少女のように頬を赤らめている……。その奇妙な倒錯を自覚し、恥じ入るほどに、ルターの心はますます強く少年に絡めとられてゆくようだった。
「すでにバチカンは、異端審問を開くと告知しました。各地でドミニコ会との衝突も起きています。……不安なのです! あなたの御心に、どこまで応えることができるのか」
うつむきかけるルターの頬を。
しなやかな指が、つい、と撫でる。
「案ずるな」
確信に満ちた声が、耳に流し込まれる。ルターは目と口と鼻をひらいて、その快感を受け止めた。
「ルター、お前が演ずるのだ。これから、お前自身が、その口にした疑問に答えるのだ」
「そっ、そ、それは、どう、いう……」
「案ずるな。ルター。お前はただ受け取ればよい。委ねればよい。わたしの正しさに。すぐにお前は見るだろう。あらたな秘蹟を」
手が、ルターの瞳をそっと塞ぐ。
「目覚めの時間だ――」
※
意識を取り戻したとき、ルターは自分が馬車に乗っていることを思い出した。
「つきましたぜ、旦那」
振り返って言う御者に目礼し、ルターは石畳に足を下ろす。四ツ辻には、もみ合う人々と、それを遠巻きに眺める野次馬どもがいた。目印の旗を巻いた十字架と、献金用の木箱から、もみ合う勢力の一方が、ドミニコ修道会の売り子どもであることが知れた。
もう一方の勢力は服装も身分もバラバラに見えたが、みな一様に、鍬の紋様がその掌にあった。ルターの恩寵痕の伝道者たち――いつのころからか、彼らは自らのことを鍬を持つ者と名付けていた。
「ルター先生が来られたぞ!」
ひとりの農夫が、群衆に混じるルターの姿を認め、叫んだ。
やんやの喝采が響き渡り、ルターのために人々は道を開けた。刺さる好奇と期待の視線に内心狼狽しながら、ルターは歩みを進めた。
「なんの騒ぎだね、これは」
「なんもかんもねぇでさぁ。あいつら、あの教会の金の亡者どもが、あっしらのことを異端者だとかなんとか文句をつけてくるもんだから……」
「実際、そうだろう?」
歩み出てきた影が口を挟む。ドミニコ会の修道士、テッツェルであった。
「怪しげな呪術を使い、主の恵みのしるしである我々の恩寵痕を否定する。これが悪魔の仕業と呼ばずしてなんとするのかね?」
テッツェルは恩寵痕の熱心な伝道師であり、同時に多くの異端審問で審問官を務めてもいることを、ルターは思い出す。
肥えたるんだ瞼の下あるじっとりとした視線。
「その悪魔の所業を、あろうことかヴィッテンブルグの神学博士が扇動しているというではないか。ええ? マルティン・ルター。お前はエルフルトで何を学んだのか? われらがヴィッテンブルグの膝元に、火あぶりとなったかの異端者、ヤン・フスと同じ思想を広めようという心づもりか?」
いつのまにか、ルターの周りを屈強な男たちがとりまいていた。身にまとう白地の僧衣には、黒い十字が染め抜かれている。ドイツ騎士団。甲冑こそまとっていないが、腰には剣を帯びていた。ここでルターははじめて気付いた。この騒ぎそのものが、自分をおびき出すための罠であることに。
逃げようと思う間もなく、腕をとられ、ねじり挙げられる。あがった民衆の怒号は、一斉に剣を抜いたドイツ騎士団たちによって抑え込まれた。
テッツェルのあざけるような声が鳴り響く。
「民衆よ、見るがいい。キリストの御業を騙り、きさまらを惑わせた不届者を。無様に組み伏せられておきながら、彼の吹聴するところの奇蹟は、なんら彼を助ける気配もない!」
無理やり引き立てられる。抗議のために開こうとする口を、激痛が阻んだ。
「見るがよい、この惨めな姿を!」
テッツェルは勝ち誇ったように叫ぶ。
「ルター。貴様を連行する。その達者な口は、審問で好きなだけ開くがよかろう……最も、そこにいる敬虔な宗徒は、貴様の流言に耳など貸さぬがな!“」
テッツェルが芝居がかってルターに顔を近づけた、その時だった。
薄墨をまいたように、辺りが暗くなった。
テッツェルが見上げるのにつられて、ルターも上空を見ると、どこからか湧きあがった黒雲が、急速に空を埋め尽くしてゆくところだった。
群衆のざわめきが大きくなる。
振り返ったテッツェルの顔は怒りに歪んでいる。
「貴様!どういう魔術を……」
だが、そこから先を聞くことはなかった。
天から落ちた雷鳴が、あたりの空気を引き裂いた。激しい衝撃に、皆が一斉に身をかがめる。一度では終わらない、二度、三度、立て続けに落雷は続く。十字架と献金箱に落雷が落ち、火花を辺りに巻きちらした。切れ切れに混じる群衆の悲鳴。恐怖にかられた騎士団の男たちが、ルターの体を解放する。
ルターはしかし、身をすくませることもなく、超然と立っていた。誰かがルターを指して何事かを叫び、それを見たほかの人々が畏れの視線でこちらを見る。ルターは半ばそれを、他人事のように眺めていた。
「哀れな子らよ」
ルターの唇から、言葉が滑り出る。
それと同時に落雷が止み、あたりが水を打ったような静寂に包まれた。
「案ずるな。われわれの祈りを、だれひとりとして妨げることはできぬ」
高い耳鳴りが支配する世界に、ルターの力強い声が、蜜を注ぐように満たされてゆく。
「かのものどもが、どれだけ信仰を塗り替えようとも、われわれが滅びることはない。人の子らよ。お前たちがどれだけ忘却に努めようとも、その血潮に溶けた古き記憶を、消し去ることはできない。忘れたか。黒き木々を。霧と氷より出てしものどもを。誰よりも深く、誰よりも前から、この地に根差す、われわれのことを」
ルターの右手が、高く差し上げられる。その右手にある鍬の紋様が、蒼い光で輝く。
呼応するように、風が渦巻いた。
カラスが舞い、忙しなく鳴きたてる。どこか遠くで、狼の遠吠えが束になってうねる。
「人々よ、思い出し語るがよい。古き記憶を、古きことばを。それが汝らの『赦し』になるだろう――」
最後のことばを紡ぎ終わったとき、雲間からさす一筋の光がルターを照らし……すっかりと空が晴れ渡ってから訪れたのは、群衆の熱狂であった。もはや騎士団の剣は、なんの脅威にもなり得なかった。彼らは畏れ、ルターに触れようともしない。
「悪魔の手先め」
悔し紛れの言葉を吐き残し、テッツェルは去る。
残られたルターは、歓喜の渦の中に、ひとり立ち尽くしていた。
その表情を、不自然に強張らせたまま。
(あれは――あんなことを言ったのは、わたしではない)
必死に口を動かそうとしても、その言葉は喉の奥に張り付いたまま、出てこなかった。
※
この日を境に。鍬を持つ者――鍬の恩寵痕の所有者たちは、与えられたもうひとつの権能を自覚した。
説法による『赦し』の取引と、その承認による『赦し』の生産である。
鍬を持つ者どうしは、直接声に出さなくても、信仰に関する説法や討議を行うことができる。両者は説法の前に一定額の『赦し』を差し出し、一通りの問答が済んだあとでそれを再分配した。より良き説法をしたものはより多くの『赦し』を得、そうでないものは相手に『赦し』を与える形となる。信仰を媒体にした、一種の取引であった。
だが、それだけでは公平な説法が行われたかどうかはわからない。
暴力でもって脅し、中身のない説法で弱者から一方的に『赦し』を搾取するという可能性もあり得る。それを解決するのが、説法の検証であった。
交わされた説法による取引は、すぐに成立するわけではない。同じ恩寵痕を持つものたちが、行われた取引の内訳と説法の内容を確認し、間違いないと承認してはじめて、正しい形であると承認される。
承認は恩寵痕を持つもの全員で同時に行われ、「より多くの説法を行い」、かつ「より日々の『赦し』の減少値が少ない、神の意に沿う生活をしている者』ほど、高い確率で承認の権利を得ることができた。この「信仰による承認」を行ったものには一定額の『赦し』が与えられるため、検証作業には多くの人間がこぞって参加した。冬になり休耕期に入った農民――その名の通り鍬を持つものたちが、その主な担い手であった。
人々は、日々の『赦し』を得るため、互いに信仰について論議しあい、そしてその正当性について検証し合い、その権利を得るために、日々の生活を節制した。
あの四つ辻の奇蹟を目の当たりにして以来、カトリックの動きも一時的になりを潜めていた。鍬の恩寵痕による信仰は、いよいよもってヴィッテンブルグの街全体を熱狂させつつある。
ただひとり、その発端である男を除いて。
「――ルター先生、最近どうしちまったんだろうねえ」
「このところめっきり説法に姿も見せやしねえ」
「森の外れの魔女のところで見たって話を聞いたぜ」
「冗談だろ? いまさら悪魔に憑かれたというわけじゃあるまいし」
「だけどよぅ、最近おかしいんだよ。こないだちょっと質問しに行ったら、急に血相を変えちまって……」
「噂の『最初の説法』の内容だろ? ルター先生が神様と最初にやったものだっていう……なんなんだろうな? このわけのわからん言葉。どこの訛りだ?」
「俺もそれが気になったんだけどよ。肝心のルター先生があれじゃなあ……」
※
「ずいぶんと、様変わりをしたではないか」
あの夢の森で、少年は快活にルターを出迎えた。視線の先にいるルターは、頬もこけ、眼窩には墨を塗りこめたようにこい隈を浮かべている。だがその眼だけはぎらぎらと、かつて少年に出会う前に持っていた峻厳さを取り戻していた。
「お前のほうこそな」
少年もまた、かつての面影を残してはいなかった。正確に言えば、彼はもはや少年ではなかった。華奢であった体はがっしりと整い、子どもらしさを失った顔には、長い顎ひげをたくわえている。
まとっていた農夫の服は長いローブに変わり、幅広の帽子を浅くかぶっていた。
「ルター、感謝する。……この地にわれわれの信仰を再び根付かせてくれたことを」
微笑と共に、若葉のにおいがする風がルターの全身を撫でた。森の奥から、まるまると太った銀毛の狼たちが現れ、彼の足元にじゃれつくように遊ぶ。
「よくも、騙してくれたな。古き淫魔め。恥だ。貴様の術に、心などを明け渡してしまったことが」
「それはわたしの現身、まじないのひとつにすぎん」
男はくくっと、のどの奥で笑う。「それが貴様がここ何週間で看過した『正体』か?」
「まさか」
ルターは首を振り、その右手を差し出した。鍬の紋様が刻まれた掌を。
「この意匠が気になっていた。本当にこれは、人々が言うところの“鍬”なのかと。エルフルトの大学にいたとき、わたしは悪魔やまじないについての知識を学んだことがある。そのときに、この文字を見たことがあるような気がした……」
「それで、あの婆さんのところに言ったというわけか!」心底楽しそうな顔で男が笑う。いつの間にかその姿は、白い髭をたたえた老人に変わっていた。
「それで、やつはなんと言った。あの森外れの魔女は?」
ルターは答えた。
「ルーン文字」
掌をきつく握りしめる。
「古き言葉。かつてこの地にいた、古き神々のまじない」
「……それで?」
「この文字は、ルーンの四番目。A。その意匠が示す意味は……『口』『知識』『情報』。……そして貴様を意味していると言われたよ。オーディン」
ルターは胸元の十字架をきつく握りしめる。
「素晴らしいな、ルター。ご明察だ」
「悪魔め。キリストに教化され、かの森の奥に封じ込められた悪魔め。」
毛を逆立ててうなる狼たちにも臆せず、彼は叫ぶ。
「なぜ私を利用した!」
突風が吹き、ルターは吹き飛ばされる。
老人のローブをはためいた。
その下からー―まばゆいばかりの黄金の鎧が、姿を覗かせる。
「なぜ……なぜだと? 貴様がそれを聞くか、哀れな人の子よ!」
あっという間もなく、男の姿は、どんどんと巨大に膨れ上がっていった。音を立てて木々の幹を折り砕き、開いた天蓋から、燃える太陽のようなふたつの目が彼を見下ろす。
意思に反して震える全身を縮こませ、ルターは十字架を天に向かって差し上げた。
「私は貴様になど屈しない。……主よ、お守りください! あわれなこの子羊をお救いください! アーメン!」
「……それだ」
数千の雷を束ねたような声が、ルターの耳をつんざく。
「なぜ、そいつなのだ。なぜ、忘れたのだ。貴様らの血に、肉に、空に地に森に根付くわれわれを。パレスチナからやってきたあの若造どもが、なんだというのだ!」
ことばが嵐となって叩きつけられる。舞い上がった硬い葉が、刃のようにルターの全身へ降り注ぐ。その痛みに耐える彼の脳裏に、ルターが最初に交わした説法――まだ少年だった彼の手をとったその瞬間に恩寵痕へと記録された、かの叙事詩の一節が蘇る。
――あなたは望んでおられる。
――語ることを。
――わたしの裡にある、最も遠き記憶を。
「だから我々は、信仰は取り戻した」
オーディンは言う。
「人々は……貴様らのいうところの『赦し』を求めて互いに神への献身を競い合い、その正しさを認証し合う。その神が、貴様らが信仰するところの『神』とやらと同一かどうかなぞ、人々は気にも留めやしないだろう。むしろ素朴な議論を交わすうちに気づくはずだ。この地に、この木々に、空を本当に支配していたのは、何者であるかを」
「そんなこと、許してやるものか! このわたしが、お前の欺瞞を暴いてやる」
「どうやって?」
哄笑が降り注いだ。
「もはやこの事実を知った貴様は、説法で人を動かすことなぞできない。信仰を失えば『赦し』の減少も早まるだろう。ゆえに貴様はもはや、認証に参加することもできない。仮にできたとしても――この恩寵痕は止められない。貴様がこの仕組みを壊そうと説法をすれば、お前以外のすべての検証者がその認証を拒むからだ」
「そんなことは……!」
言ってから、ルターは奥歯を噛む。彼の言葉が真実であることに気付いたからだ。
「しかし!」
それでも彼は声を絞り出す。
「カトリックはどうする! すでにバチカンは、鍬を持つ者を異端として放逐するという決定を下している。すぐに戦乱になるぞ。多くの人が死ぬ!」
天を見上げ、その首筋に青筋を立てながら、彼は言いつのる。
「お前は……人々を互いに殺し合わせるためだけにあの恩寵痕をばらまいたのか! それが神のやることか! 人を殺す秘蹟を施してまで、信仰が欲しかったのか!」
言い切ってから、ルターは肩で荒い息をつく。殺されるのはもはや覚悟のうえだった。あとは煮るなり焼くなり好きにするがいい。あの待ち構えている狼どもの牙で引き裂くがいい。天からの落雷でわたしを焦がすがいい。それでもわたしはお前を認めない――
だが、待ち構えていた裁きは、ルターを襲わなかった。
「ルター、お前は正しい」
いつの間にか、少年の姿に戻ったオーディンが、彼の目の前で微笑みかけていた。
「人をかどわかし、殺しに導く秘蹟など、なくすべきだ」
「なにを……」
「ルター。お前は教会の欺瞞を嫌ったな。教えにない教義を権威で作り、秘蹟でもって強引にそれを裏付けるやり方を嫌ったな。ことばでのみ人を導き、ことばでのみ救う――だからこそ、わたしはお前を選んだ」
そっと、白い指が、ほほに触れる。
「お前の怒りを、私は見出した。お前の義憤を、私は見出した。あるべき形に、信仰を戻すために。あるべき姿に、世界を戻すために。――ルター。ともに、変えよう。ともに、正そう」
あの日のように、少年の右手がするりと、ルターの指をとらえる。
「ルター……私と、在ってくれるね?」
再び、視界が白く染まる。
※
「いずれ、われわれは敗北する。秘蹟が支配するこの世界で、かの神はあまりに強大すぎ、一時的な勝利を収めたところで打ち滅ぼされるだろう。われわれは悪魔として封じ込められ、もはやかつての力を取り戻すことは永久にないだろう……」
「だからわたしは、最後の秘蹟を行うことにした。そのために、恩寵痕でなけなしの信仰を集めた。枯れ果てた根にわずかながらの潤いを満たし、淀んだ空気を信仰で晴らした」
「この力でもって、わたしは世界を創ろう。この世界の幹から、新たな枝を分岐させよう」
「ルター。わたしは秘蹟を殺すために、いま秘蹟を行使する」
「アンスール。ルーン文字のA。情報。口。互いの関わり。それをこそ信じる民衆のために、わたしは世界を作ろう。新たな世界に秘蹟はなく、ことばでのみ、信仰の証は立てられる。この世界の宗教は、ひどく不完全で、不安定なものになるだろう。争いの種はより多く蒔かれるかもしれない」
「だが、不完全であるがゆえに、われわれは残る。人の信仰の端々に。地域の伝承に。物事の名称に、われわれは残る。曖昧で不安定で、すべての人間に完全に伝えることのできない、ことばとことばの隙間に、われわれの存在は残り続ける」
ルター。
お前は生まれ変わってもまた、キリストを信じるだろう。
それで構わない。
われわれの与えた「言葉」をもって、なすべきことをなせばよい。
われわれは、おまえのことばのなかに在る。
どれだけ拒絶しようとも。
※
――彼奴らの目を、開かせねばならぬ。
神聖ローマ帝国、ヴィッテンブルグ郊外。夕陽の滓が残る帰路をゆくルターの脳裏は、ただその一節のみで埋め尽くされていた。
十月。冬の気配は近く、大通りの石畳を渡る風は、甲高い笛の音を立てて彼の黒衣をはためかせ、鋭く頬を打つ。しかし、ルターの顔の紅潮は、けして寒さからのものではない。
思い出す。
郊外で会ったあの男を。あの襤褸をまとい、まだ日の高いうちから路上に横たわっては、安い林檎酒の匂いを全身から発散させていた男の、下卑た笑みを。
「なあに、司祭さま。あっしにゃこれがありますもんで……」
そう嘯いて彼が懐から見せたもの。
その薄っぺらな紙切れは、カトリック教会が発行する贖宥状――俗に言う免罪符であった。
「“コインの落ちる音すれば、主は直ちにその御手を伸べたもう”ってね」
その言葉に、ルターの心は燃えあがるような激昂を覚えたのだ。
教会への不信はいまにはじまったことではなかった。
学生の時から、教会の教えに対して違和感を拭えなかった。
なぜ妻帯が厳しく制限されているのか。
キリストの血であるワインでの酩酊を、なぜここまで厳格に禁じているのか。
理屈のうえでは正しいと分かっている。だが、なぜだかどうしても……魂の底とでもいうべきところで、腑に落ちない自分がいる。在るべき世界はこうでなかったと、理屈もなく叫ぶ声がどこかにある。
そんなときー―なぜか決まって、右の掌が疼くのだった。
たとえば、今も。
唐突に立ち止まったルターは、自身の掌をじっと見つめる。
いつもそうだ。なにか、遠い昔から知っている何かを、忘れているような。
ふと見上げた街路に、枯れ果てたもみの木が、寒風に揺れていた。
その枝には一羽のカラスが、ルターを見据えている。
――があ。
「アンスール」
ふいに、ルターの口から漏れ出たその言葉は――自身にもその意味が理解できないまま、一陣の風に溶けて、消えていった。
十月。
ルターが、かの九十五箇条の論題をヴィッテンベルク教会の門扉に張り出す、その一週間前のことである。
(了)
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