梗 概
鍵盤のポリシー
ーーダニエルが自殺した。誰もニュースに驚かない。彼はただ、人間の中でも特にありふれた願いを一つ叶えただけなのだ。最終的にはそれだけが、唯一彼に実行可能なポリシーとして残っていた。
ルービンシュタイン共和国は、ベーリング海南方に浮かぶ列島国家だ。旧ソ連時代、領内にサイバネティクス研究所が置かれていたため、冷戦終結後にその遺産を生かして情報技術大国として立国。税制、警察、教育、医療、選挙、会社登記、インフラなどの制度を徹底的に電子化した。
2000年代にはスタートアップ支援と税制優遇によって周辺国のベンチャー企業を誘致。一時は「ハゲタカのゆりかご」と呼ばれ、国民の反感を集めたが、企業側の協力で2030年代までに社会インフラが充実したことで、高齢化する国民の需要を満たしていく。2032年に首都の公共交通機関は完全無人化した。
政治面では国民経済の均質化を背景に保守政党の安定した一党独裁が続く。事務の電子化で行政は極端にミニマル化し、政策決定は「オルガン」と呼ばれるデータ集計に依存している。政治家は「オルガン」の「プレイヤー」と呼ばれた。さらに、2048年に自動脳「マルタ」が被選挙権を獲得し、初当選する。
物語は2060年、ダニエル・クロイツァー元首相が旅先のホテルの自室で首吊り自殺し、元政治家フジコ・タケミツが首都近郊の「グレングールド」に駆けつけ、クロイツァーの別荘を訪れるところから始まる。彼女は2048年に副首相として、クロイツァーと政策参与「マルタ」と共に政権を担った。フジコは別荘で彼の元秘書ビンビンと思い出にふける。
2048年に就任した首相クロイツァーは政治家になるための英才教育を受けて育った大富豪の息子。同年、北アメリカ大陸テキサス自治区で、共和国のジャーナリストがキリスト教原理主義テロ組織「EVA」の人質に取られる事件が起き、首相はテロリストとの交渉に失敗。残忍な公開処刑の模様が立体動画として全世界に配信され、首相は神経衰弱に陥る。結局クロイツァーは、彼の相談役だった中国系コングロマリットのビジネスマン、ワンからの不正献金を「マルタ」に暴かれ、首相を辞任する。
臨時首相となったフジコは次の選挙で、国会議員を引退。数年後、彼女は隠棲中のクロイツァーを訪ねる。彼は「俺は哲学者になった。機械に責任をとることができないと証明するためだ。」と語る。翌年に彼は自殺する。
2060年、ビンビンはいかに生前のクロイツァーが「マルタ」に嫉妬し、彼女のようになりたがっていたかを語る。立体映像のニュースが流れ、紛争地帯ロサンゼルスで共和国の無人爆撃機がロシア兵を事故死させた事件の裁判中継が始まる。被告として召喚されたマルタの前で、アルツハイマー病を隠していた出廷していた判事が失禁し、判決を言い淀む。フジコは「ダニエルが見たら、きっと耐えられなかったでしょう」とつぶやく。
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内容に関するアピール
今、人間にできることを人工知能ができるようになるにはきっとかなりの時間がかかるけれど、人間にしかできないことの価値を軽視して、人工知能にできることばかりに価値観を合わせた社会を再構成していく。そのほうがずっと簡単にできる。工学と金儲けを重視し、人・モノ・金を効率よく流通させようとする今の社会のある側面はそちらに向かっているのではないでしょうか。そのような着想で、「人工知能が人間を支配する社会」のテーマに取り組んでみました。
最初は「楽器としての人工知能」とその演奏者という案を最初に思いつき、トマス・ベルンハルトによるグレン・グールドの偽伝記『破滅者』の翻案を構想していました。結果として、グールドという「天才」とその天才に嫉妬してピアニストをやめる男という構図が残り、今回に至ります。実作ではマルタとクロイツァーの対比の強調で、本作なりの人工知能を描きたいです。
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