植生都市

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梗 概

植生都市

 研究所からグロスレットとマウスが盗まれた。実験都市ボタニシティの総合ディレクター、ショーオは、警察の介入を嫌って内々に処理しようとする。中央広場プランツァでの会見には、各国からの記者の他、入居者に選ばれた初老の夫婦たちの姿も見える。人混みの中に小さな生き物を見たショーオは、同僚のレジンに「ネズミがいる」と耳打ちするが、レジンは心配そうな表情を返す。

「ボタニカル・ノックアウト方式だ!」
 路地裏にはネズミたちの声。向かい合う二人のうち一人が壁からレンガを引き抜くと、埋め込まれたボタニセルが欲求に感応し、ハアザミへと生長した。もう一人は、敷石を剥がしてジャケツイバラを生み出す。カウントダウンで植物をぶつけ合うが、ジャケツイバラがハアザミを枯らし、勝敗は決した。観衆がアイヴィーの名を連呼する。が、彼のツルは異変を察知する。
「逃げろ!」叫ぶと同時にヘデラを繁茂させ、仲間を覆い隠す。
 ショーオが現れ、アイヴィーに盗品を返すよう詰め寄るが、彼は知らないと言う。
「それなら、その植物はどうやったんだ」
「知らないよ。勝手に生えてくるんだから」
 ボタニセルは成長ホルモンに反応して植物化する。グロスレットは成長ホルモンを擬態し、ボタニセルへの干渉を可能にした。子どもならグロスレットは必要ないのか。しかし、無断侵入は放置できない。ショーオはアイヴィーを連れて管理棟へ向かう。

 途中、管理局からの報せに、ある居住棟へ足を延ばすと、全面にシダが群生している。アイヴィーが慌てて侵入すると、老人たちが倒れていた。
「精神汚染――植物からの侵蝕だよ」アイヴィーが床からナツヅタを生み出し、群がるワラビを枯らす。
「外への連絡はだめだ。医務局で対応する」
 ショーオの目的は実験の成功だけだ。しかし、職員だけでは対応しきれない。仕方なく、異常群生と盗難事件についてアイヴィーらネズミたちの協力を求める。

 マウスの捕獲は進むが、居住棟でのシダ被害は続いている。アイヴィーは現場が町外れに多いことに注目し、隠れたいという欲求がシダを繁茂させるのではないかと考える。ショーオはプランツァの円形劇場の楽屋に目をつける。駆けつけると、プランツァは植物の巨大な迷路になっていた。アイヴィーは敷石を一枚剥ぐ。
「一直線に押し切る」
 集まった子どもたちもうなずく。
「ボタニカル・ノックアウト方式だ!」
 植物の群れが迷路を枯らす。中心にはレピドデンドロンに取り込まれたレジンがいた。アイヴィーとネズミたちの一斉攻撃も効かない。ショーオの手にライターを見たアイヴィーは叫ぶ。
「これは気持ちを植物に乗せて戦う遊びだ! あんたが作ったルールだぞ。その中で勝てる方法を考えろ!」
 ショーオはアイヴィーに耳打ちして地面に干渉する。ボタニセルがレジンを包み込むマツの巨木を生成し、アイヴィーがツタで幹を切り裂くと、樹液が降り注ぎ固まった。枯れたレピドデンドロンの中からレジンが助け出された。マウスを逃がしてしまったのを、盗難事件にしてごまかそうとしたらしい。
「実験は失敗だ」
「ほんと、こんなに面白いことに、僕たち専門家を呼ばないなんて。でも、本番はこれからだよ」

文字数:1304

内容に関するアピール

 「ボタニカル・ノックアウト方式」
 今年の文芸部の夏合宿、伊香保温泉近くの山の中を歩いている時に降りてきた言葉だ。その響きの面白さだけで、手帳に書きとめた。直前には、「野良ニート/管理ニート」とも。日常を離れると、発想も日常を逸脱する。それは、目的に向かう思考にとってはエラーに過ぎないが、一方で新しいものを生み出す力にもなる。
 実験都市という舞台装置への関心は、上田早夕里「小鳥の墓」によって醸成されたもので、これまでも何度か扱ってきた素材だ。今回〈エラー〉というテーマが絡むことで、実験を成功させたいショーオと、エラーそのものでありながら、エラーを遊びへと転化させるアイヴィーという対立構造が生まれた。
 実験にとってのエラーである子どもたちが、実験そのものの意味を書き換える様を、「ボタニカル・ノックアウト方式」で描くのが目標である。

文字数:369

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植生都市

 繰り返し光を放つフラッシュに目を細めながらも、俺のために集まった報道陣に向けて、手を上げて応える。優美さすら感じさせる余裕を持った所作――どの角度から写真を撮ったとしても見栄えがする、完璧な手の動きを演出する。そして、その掲げられた手首に黒く輝いているグロスレット――報道陣のもう一つの目当てがこれだ。言語化可能なはっきりした欲求を、石の上に刻み込むように脳裏にイメージする。すると、その思いを受信したグロスレットが、俺の皮膚の表面を媒介にして床に埋め込まれたボタニセルに干渉し、大きな蓮の葉を生み出していく。葉の中央から急速に生長する茎は、報道陣の感嘆の声とフラッシュまでも栄養にして俺の腕を上っていき、その先端部分――この右手の上に白い蓮の花を咲かせた。
「この実験都市、ボタニシティが約束するのは、完全なる安寧の空間です。ご協力いただく五百人の入居者は、彼らの思いを糧に育つ植物に囲まれ、平穏で色彩豊かな生活を送ることができます。そして――」
「ディレクター!」
 背後の壁越しに泣きそうな声が聞こえる。どうも、さっきからバタバタしている。何か問題が起きているのか。大切な会見中だというのに。「えー、そしてですね」
「ちょっと。ねえ、ショーオってば!」
 足元を見ると、蓮の葉の陰に隠れたレナートが、必死の形相でズボンの裾を引っ張っている。――頭が痛い。
「ミスター・マッダイ。どうかなさいましたか」取材陣から当然の質問が飛ぶ。
「……えー、少々お待ちいただけますか。すみません」右手を下ろすと、若々しく輝いていた蓮が急激に色褪せ、枯れて足元に散った。フラッシュが閃く間に、灰になって床に広がる。
 笑顔で頭を下げながら裏に引っ込む。人前に出られる奴が他にいないから、俺が一人で発表から声明から会見から、何から何までやっているっていうのに。その上、研究班も技術班も、裏方の問題まですぐに持ってくるときた。今日のが、ボタニシティお披露目の大事な会見だっていうことすらも理解できないのか。
「レジン! レジンはどこに行った!」
「知らないよ。ショーオ、どうすればいい」主任研究員の一人、レナートが泣きそうな声を上げる。「さっきから、入居者からのヘルプの電話が鳴りやまないんだ」
「なんで電話なんだよ」
「老人たちはメッセージの送り方を知らないみたいなんだ」
「入居者全員に一週間の研修期間があったはずだよな」
「無駄だったみたいだよ」
 本当に頭が痛い。
「管理局のスタッフがいるだろう。何でお前ら研究員が入居者対応してんだよ」
「管理局はみんな出て行っちゃったんだ」
 出て行った……。
 それで、レナートの尋常でない様子の理由がはっきりわかった。それにしても、何があったんだ。入居者同士のご近所トラブルか、グロスレットの不測の動作、あるいは、制御不能な植物の出現――。「な、何があったんだよ」
「グロスレットを無くしたっていう連絡があまりに多くて、電話じゃらちが明かないんで、みんなで手分けして行ってくるって」
 いや、ちょっと待て。
「出て行ったっていうのは、このプロジェクトを放り出した、っていう話じゃないのか」
「何言ってるんだよ、ショーオ。そんなこと言ってないじゃないか。しっかりしてくれよ」
 ああ、本当にな、しっかりやりたいよ。俺の仕事を。
「とりあえず電話に出ろ。要件を聞いてメモをして、後でこっちから連絡すると言え」
「オッケー」
 そんな指示のためだけに、会見を中座するなんて。頭の奥が痺れている。レジンはどこへ行ったんだ。
 再びの登場に会見場が湧き上がる。まだ飽きられていなかったらしい。
「すみません。入居は一週間前に住んでいるのですが、スタッフがこの状況に慣れていなくて。いえ、ボタニセルの安全性に問題はありません。それよりも、入居者たちの介助の方ですね、問題は。いやいや、『問題』と言っても、具体的な問題が発生しているわけではありません。むしろ、入居前よりも意欲的、活動的になった方が多くて、その分、対応が必要になっているというだけで」
 派手な登場を演出したのに、そこからの流れが切れてしまえば、あとは地味な説明が続くだけ。そもそもこの会見も、地元警察への牽制の意味合いが一番大きい。介護施設ではない以上、法的な許可は必要ないにもかかわらず、なぜか警察に睨まれた。老人を集めて実験をする、という言葉の響きがよくなかったらしい。
 取材陣を見ても、三割は批判的な記事を書く気満々の臨戦態勢だ。いつの時代も、新しいことをやろうとすれば、足元をすくいに来る輩がわんさといる。だからこそ、隙の無いようにことを運ぶのが重要だというのに。
「いえ、法的に問題はありません。基本的には単なる集合住宅ですよ。そこに、新しい技術が織り込まれているというだけで。いいじゃないですか、植物のある彩り豊かな生活。実際ね、中で暮らしていると落ち着きますよ。はい。これ、ですか。グロスレットは安全です。十分な臨床試験を経ています。皮下組織にも影響を与えませんし。え、黒いから心配だ。おっしゃっている意味が分かりません」
 裏でバタバタいう足音は一向に収まらない。何が起こっているんだ。電話対応するのに、どうしてそんなに走り回る必要がある。
 レジンはいないのか。レジンとは大学の研究室以来の付き合いで、これまでも裏方のコントロールは全部任せてきた。まさか、その彼までもが一緒にグロスレット探しに行った、なんてことはないだろうな。
 これ以上、俺を叩いてみても新しいネタが得られそうにないと見切りをつけたメディアが、少しずつ席を立ち始めた。つまらなそうな表情をしているのは頭にくるが、これ以上、記念すべき船出を邪魔されるのも癪だ。みんな帰れ、帰ってしまえ。
 皆が退出した後の記者席に、一人だけ座ったままの男がいる。長く垂らした銀色の前髪の隙間から、蛇のような目がこちらを睨み付けている。しかし、お前に睨まれる筋合いなどない。「レジン、どうしてお前がそこにいる」
「困ったことになった」
「困ったことになら、既になっているよ。お前がいなかったお陰でな」
 背後で、ゴム長でも履いているのかと疑いたくなるほどに大きな足音が響く。レナートが要件を書いたメモやら紙の束を、両手いっぱいに抱えて持ってきたのだろう。電話を迷惑がっておいて、いつまでも紙のメモをやめてくれない。これだから研究職というのは。
「レナート、それを持っていく先は、俺の所じゃない。管理局だ」
 振り返りざま、指先を突き付けて言い放つと、びっくりした顔のレナートの手の中から、紙束が宙を舞った。
「ショーオ、お前は扱いが下手だ」レジンが半笑いでつぶやく。
「うるさいな。だから、お前に任せてるんだよ」一緒に紙を拾い集めながら、腕組みして見下ろしているだけのレジンを睨み返す。「で、何が困ったっていうんだ」
「ここじゃダメだ。第七ラボに行く」
 会見場の裏手に回ったレジンの脂ぎった銀髪を追う。町の中からは夕餉の煙が上がり始めている。細かな問題がいくらあったとしても、食事をとってくれれば生活は成り立つ。だから、俺はこの風景が好きだ。夕方のこの空を守ることが、俺の仕事だと思えるほどに。
 それだけに、いくら神経質とはいえ、普段冷静なレジンがこれほど焦っているのは気がかりだ。その上、よりによって第七ラボとは。
 ボタニシティの外周部、会見を行った南門の脇に研究所はある。正確には、研究所に隣接する形でボタニシティは建設された。第七ラボは研究所の一番奥にある。最も基礎的な研究を行った場所であり、現在は研究資材や資料の保管倉庫しかない。
 薄暗い廊下のさらに先、埃っぽいスチール棚が両側に並ぶ狭い廊下を抜けると、そこが第七ラボだ。
「見てくれ」
 レジンが指さしたのは、グロスレットの検体として使用したマウスが入ったケージだ。グロスレットの擬態する成長ホルモンの影響の度合いによってマウスに現れる変化が異なるため、いろいろなサイズのケージが並んでいる。しかし、その中には肝心のマウスの姿がない。
「どうした。まさか、死んだのか。グロスレットに重篤な副作用が……」
「違う。逃げた」
「逃げたってどうやって」
「多分、誰かが逃がした」
 力が抜けて膝から落ちた。目の前がどこまでも白く広がっていく。こめかみを押さえて、息を吸う。
「そう言うからには、マウスだけじゃない、ってことだよな」
「プロトグロスレットをやられた」
 ああ、よりによって、どうして……。頭蓋が万力で締め上げられているように、ぎしぎし鳴っている。このまま割れてしまえば、どんなにか楽だろう。だが、現実はそんなに簡単じゃない。
「警察には届けてないよな」
「もちろんだ。だけど、本当に隠してていいのか」
「絶対に外に漏らすな。このプロジェクトは、絶対に後に引けないんだ。お前は、分かってるだろう」
 レジンが銀髪を掻き上げる。蛇の目が露わになって、俺の真意を探ろうとする。真意も何もない。俺は、このプロジェクトに全てを捧げているだけの話だ。そのためには、今、警察に目をつけられるわけにはいかない。まして、中の問題に介入されるなど。
「プロトグロスレット自体には残念ながら、露店に並んだ偽物のブレスレットほどの価値もない。だとすれば、犯人はボタニシティの中に潜んでいるはずだ」思考を前に進める。「そして、必ずプロトグロスレットを使ってみないではいられないはずだ。そうすれば、必ず普段と違う何かが起きている」
「それなら、レナートの紙束にも、何かの有用な情報があるかもな」
「その通りだ。それならすぐに動いた方がいい。マウスのことは、ミロスラフに通しておいてくれ。彼なら、管理局を使って、うまく立ち回ってくれるだろう」
「マウスがボタニシティの中にいるとは限らないんじゃないか。グロスレットとは別だろう」
「まあ、そうだな。中にいると考える理由は二つだ」立ち上がろうとすると、レジンが手を貸してくれる。レジンの手がひどく冷たくて、冷静な気分が戻ってくる。「あのマウスどもは、ボタニセルで生長した芝が好物だ。だから、ボタニセルの埋められた壁や床を自分から外れることはしない。実験済みだ」
「もう一つは」
「俺がもし、プロトグロスレットを盗んだら、マウスをボタニシティに放つだろうな」
「どうしてだ」
「なんだか、そんな気がする、というだけだ」
「また始まったな、このアーティスト気取りが。だが、お前の『気がする』は昔からよくあたるからな」レジンが溜め息をつく。大学の頃から何度も繰り返されてきたやりとりだ。「管理局に行ってくる。ミロスラフも、そろそろ本部に戻る頃だろう」
「おいおい、ミロスラフも老人たちのグロスレット紛失騒ぎに付き合ってたってことか」思わず驚きの声が漏れる。元特殊部隊の男を捕まえて、無くしたブレスレット探しとは傑作だ。
「俺だって三軒回ったんだ。最後の一軒なんて、無くしものを探しに行ったのに、なぜか二つ余計に出てきたぞ。ほら」レジンがポケットからグロスレットを出して見せた。受け取ってポケットに入れる。
「IDから所有者がたどれるかもしれない。そうでなければ、増えたんだろうな。ネズミみたいに」冗談めかして答える。
「……増えるのか」
「いやいや。グロスレットは、勝手には増えないぞ」
「マウスだよ」
「どうだろう、可能性は低いと思うが。つがいになって繁殖するには、奴らは自由に移動しすぎる」
「それなら、ミロスラフの追跡術を学ばせてもらうとするか」レジンが手を上げ、廊下を早足に去っていく。俺はレナートのメモだ。管理局に持っていかれる前に預かってしまわないと、面倒なことになりそうな気がする。

「今、何時だと思ってるんだ。連絡したのは昼だぞ、昼。それから、もう八時間だ。その上、あの電話応対は何だ。こっちは客だぞ。こんな胡散臭い実験に協力してやろうっていうのに、どうしてこんな思いをしなくっちゃならないんだ」
 きれいに禿げ上がった四角い頭を掻き毟りながら、その老人は興奮気味に唾を飛ばしてくる。こちらが頭を下げていても、老人の頭は視界の遥か下。にもかかわらず、声の強さは身長差をものともしない勢いがある。そういえば、レナートは何十枚も重なった紙束の中ほどから、この件についてのメモを引き抜いた。他のメモとは違って、赤い星印が書かれていたのは、なるほど、要注意案件ということだ。これでは、レナートが対応できないのも無理はない。
「で、どういった用件で」
「どういったもこういったもない。これをどうしてくれるんだ」
 老人が示したのは、ボタニセルによって生成した植物が枯れた後にできる灰の山だった。その量と質感からすると、幹か太い茎を持つ植物だったと思われる。これも、半日程度で分解されて床に溶ける。生活を彩り、枯れた後には肥料になり、そして再び新しい命を生み出す――ボタニセルのサイクルは生命のサイクルだ。「ご安心ください。その灰もまたきちんと分解されて栄養素となり、新しい命を育みますから」
「馬鹿言うんじゃない。私が丹精込めて育てた盆栽をどうしてくれるんだ、って言ってるんだ」
「ボ、ボンサイ……というのは」
「なんだ、盆栽も知らないのか。〈植物の芸術家〉なんて言ってるくせに」
 今度は腕組みして、精一杯胸を張っている。くっきり刻まれた眉間の皺が、勝ち誇ったような眼差しに、挑発的な色を添える。このまま放り出して事務所に戻ろうかと思ったが、俺よりも我慢の利かない、話の通らない人間が送り込まれれば、より一層話がややこしくなる。そして、その状態で、結局は俺の所に戻ってくる、という未来が目に見える。
「ボンサイ……盆栽ですね。ああ、はいはい、分かります」
「便利なもんだな。そんな調子じゃあ、調べたことなんだか、自分の知識なんだか、分からなくなってしまいそうだ。だが、少なくともその情報を見れば、盆栽が単なる〈植物の芸術〉ではないということが分かるだろう。伝統文化の持つ型と表現芸術の持つ個性が、盆栽には結晶しているんだよ」
 眼鏡のレンズの片隅に映し出された画像を参照しつつ、急いで解説に目を通す。
「いえいえ、そんなこと。盆栽ですよね。非常に格調の高い文化だ」
「格調だと? そういう、一部の特権者の専有物ではないところが、盆栽の価値なんだよ。これは、広く一般庶民に開かれた園芸の様式なんだ」
「これは、素人が聞きかじりで話してしまって、失礼しました」こういう時には、素直に下げる頭を持つことが肝要だ。「……で、どうしてほしいんですか」
「枯らさないようにしてくれ」
 腕組みを解いた老人は、身振り手振りを交えて、いかに自分が盆栽に対して愛情を注いできたかを語った。自分の祖父の話から、子ども時代のご近所さん、果ては世界的に評価されているという盆栽作家の話まで。その様子は、自分の子どもを自慢するような調子で、好感が持てるものだった。
 どうにかしてやりたい。研究者としても芸術家としてもそう思う。しかし、純粋に技術的な問題は、できることとできないことがはっきり分かれている。この件は、後者に属しているとしか答えられない。「すみません。現状では、それは不可能です」
「そうか……」
 俺の断定的な物言いに、老人が肩を落とす。「ですが、話を聞いて、今初めて植物を種としてではなく、個体として、一つの個性として見る見方を知りました。〈植物の芸術家〉などと自称しながら、恥ずかしい次第です。ボタニセルの技術開発は、まだ始まったばかりです。将来的に可能になるとお約束することはできませんが、今後の技術研究の方向性の一つとして、この件を持ち帰らせていただく、ということで納得していただけませんか」
 老人の表情から険は消え去り、静かに深くうなずいた。「ぜひお願いしたい。それまでは、一期一会の盆栽を楽しむのも一興か」
 言いながら、彼が床に向かって手をかざし、目を閉じて口の奥で何かの言葉を述べ立てると、床のボタニセルが小さな松へとみるみる生長していった。枝が曲がりながら広がり、時に枝分かれして複雑な形態を描き出していく。その様は、あたかも現代舞踏を目にしているようで、身体の条理をなぞる美しい動きと、予測不可能で驚嘆をもたらす動きとが、入れ替わりにやってくる。やがて出来上がった形は、一つの小宇宙と表現するにふさわしい、個性的な形と普遍的なイメージが実体として重なり合った一つの美を体現していた。
「これを、こうするんだよ」
 老人はおもむろに鋏を取り出し、松の葉に手を入れていく。小宇宙は造形的な手によって整えられ、小さな秩序へと収斂していく。
 俺は気づけば、静かで深い溜め息をついていた。これは、認識を改めなくてはならないな。「どれほど時間がかかっても、ボタニセルの変化に恒常性を与える研究は、必ず実現するとお約束します。そういえば、名前をうかがっていませんでした」
「私はソノダ。ショーオ・マツどの、失礼なことを言ってしまったが、あんたの目は本当に芸術家の目だったらしい。この通り、よろしくお願いする」
 ソノダは深々と頭を下げ、俺も慌てて頭を下げた。

 盆栽の家を後にすると、通りの隅に、みみず腫れのように灰が細く長く通っているのを発見した。マウスの通過した痕跡だ。グロスレット実験の影響で、彼らの接触したボタニセルは植物化する。眼鏡の音声通話モードを立ち上げ、ミロスラフを呼び出した。
「マウスの残した灰を見つけた。どうすればいい」
「そのまま追いかければいい。灰の先を観察しながらな」相変わらず、声は豪快だが、言葉の運びは丁寧だ。ミロスラフの声を耳元に感じていると、落ち着きを得ることができる。さっきまで、目の前の灰しか目に入っていなかったのが、通りの先を折れたところまで続いているのがはっきり見える。「マウスの移動速度とボタニセルの枯化時間、それにマウスの警戒距離を計算に入れれば、あいつらはショーオのことを百五十メートルまでは接近させるだろう。それなら、生成された植物に直接干渉できるショーオの寄生植物で、灰になる前の植物を侵食しながら、追尾弾のようにマウスを捕らえられる。俺も、今しがた、一匹捕獲したところだ」
 灰を追って角を折れるが、まだ灰は先に続いている。次第に窓からの灯りが消え始めた。十時を過ぎている。夜に外出することを想定していないので、街灯の類は一切作らなかった。よもや、俺自身が夜中に探し物をする羽目になるとは。
 眼鏡を暗視モードにするが、灰の道は小さな山でしかなく、目を凝らしてもそれほど先まで見えるわけじゃない。それでも、十五分ほど歩いていると、視界の端に風に揺れる葉先が見えた。芝のようだ。ミロスラフの言う通り、枯化する前なら一気に捕獲できる。グロスレットを振って、汗ばんだ手首から引き離す。さて、ネズミ退治だ。
 芝の道の先端が灰へと変化するのを追っていると、視界の隅に何かの塊が引っかかった。家と家の間を抜けた先――路地裏らしい。目を凝らすと、灰の山に見える。誰かが集めて捨てたのだろうか。どのみち、放っておけばボタニセルが吸収して、エネルギーとして再利用される。
 そうなんだ。放っておけば消えてなくなるものを、どうして集めておく必要がある。分解吸収のためにはボタニセルとの接触が必要だ。それなら、山にして積んでしまうと、吸収にはむしろ時間がかかることになる。
 月はなく、風の震える音だけが通り抜ける。芝の枯化は進行し、再び少しずつ遠ざかっていく。把握できていない状況が急激に生長し、不安の実をつけた。俺は路地裏へ足を向けた。
 両側の家は既に寝静まっているのか、灯り一つついていない。足音を立てないように気を付けながら、息を殺して路地に入る。もし、そこに変異したマウスがいるのだとすれば、こちらの存在には気づいていることだろう。しかし、それが人なのだとしたら。なにしろ、プロトグロスレットは盗まれたのだ。
 グロスレットの出力を落とし、壁に手を置きながら進んでいく。レンガに埋め込まれたボタニセルが、身じろぎするのを感じる。そのまま静かに眠っていてくれ。
 路地裏に出ると、通りを挟んだ反対側の一軒から灯りが漏れていて、灰の山を照らし出している。そして、その一隅が緑色に光っている。
――灰の山に緑色の葉が残っている。明らかに、おかしなことが起こっている。
 見回すが、人の気配はない。俺の植物で周囲を探りたい欲求に駆られるが、こちらの存在を先に知られることになる。それは避けたい。しかし、相手がどこかに身を隠して、灰の山を罠に誰かをおびき寄せようとしているのであれば、アウトだ。
 夜の風が足首を撫でて消えていく。ここでは、風はほとんど入ってこないので、灰は固まったまま、家からの灯りにつやつやと濡れている。
 だめだ。このまま、この状態が継続されることが、もしかしたら犯人の狙いかもしれない。警戒は怠らず、いつでもボタニセルに干渉できるようにグロスレットの出力設定を元に戻す。
 音にも空気の流れにも変化はない。灰の場所まで行って、可能な限り体をかがめる。灰そのものは、枯化の後に残る普通の灰だが、よく見ると、灰の山の一部が細かく動いている。中で何かがもがいているような、そんな動きだ。注意深く山を崩していくと、その中心で一匹のマウスが暴れていた。どうして動けないのか、よく見ると、マウスの体にツタがぐるぐる巻きになっている。マウスの下の石畳には芝が繁茂していたが、このツタはそれとは別だ。灰の山の外に見えていたのも、このツタが伸びて幾枚かの葉をつけた部分だった。
「そんなはずはない」
 干渉する欲求がどれほど複雑なものだったとしても、ボタニセルは一度に単一の種類にしか植物化しない。このツタは、このマウスに反応して生まれたものではない。しかし、植物化したボタニセルは、欲求の供給が断たれれば程なく枯化する。永続的に植物化したままということはあり得ない。
 プロトグロスレットは、擬成長ホルモンの生成にリミッターを設けていない。出力を最大にしてボタニセルに干渉すれば、あるいは――。
 頭の奥がひどく痛む。ボタニシティの実験において、失敗は絶対に避けなくてはならない。マウスをツタごと掴み、ポーチに放り込む。残ったツタも、全てポーチの中へ。急に足元が明るくなり、見上げると雲の切れ間から月が覗いている。再び足元に視線を戻した時には、マウスが生んだ芝は枯化して、山を崩した灰と見分けがつかなくなった。

 第二ラボの主任研究員エフセイは、首の後ろで束ねた髪をかじりながら現れた。
「君らは、本当に面白いものを面白いタイミングで持ち込むね」
 会議室のコーヒーの補充をやることリストに加えながら、乾いた喉のまま腰を下ろした。机の上に広げられた分析結果のプリントは、俺の目には意味の分からない数字と記号の羅列でしかない。俺のアイディアを具体的な形にしたのは、エフセイを中心とした汎生命遺伝研究所のメンバーだ。
「君らって、他に誰が」
「あの後、レジンからも同じようなサンプルが届いた」エフセイがプリントの上に無造作に二つのボトルを置く。一つは俺が昨日持ってきたツタで、これは根元が少しだけ枯化しているものの、未だに大きな変化はない。もう一つ、レジンが持ち込んだというサンプルは既に半ばまで枯化しているが、シダの小葉らしきものが見て取れる。
「どちらも、ボタニセルに適量以上の干渉が行われた結果だが、遺伝的変異の数値を見ると全く別の現象だと言わざるを得ない」
「どういう意味だ」
「現象レベルでは似た状況が発生しているが、原因は全く別だということだ。つまり、お前が対応しなきゃならない問題が、二つ別々に存在しているってことだな」
 エフセイが喉を鳴らして笑い声を上げる。散らばったプリントの何箇所かを示しながら、二つのサンプルの違いを説明しているが、頭が痛くて意味が入ってこない。
「と、いうわけだ。まあ、また面白いサンプルが手に入ったら連絡をくれ」
 再び喉を鳴らしながら資料をまとめると、来た時と同じように髪をかじりながら部屋から出て行った。助手が二人来て資料を運び出す。入れ替わりでレジンが入ってきた。
「聞いてたか」
「ああ、外でな。どうにも、エフセイは苦手だ」
「苦手で避けてるうちは、ディレクターはやれないよ」レジンがあからさまに嫌な顔をする。されると分かっていて言ったのだが。「いつまでも、俺の下でやっていくつもりもないんだろ」
「そんなこと言ってる場合か。今、俺に離れられると困るくせに。ほら」銀の前髪を揺らしながら、レジンが机の上に放り投げた袋の中には、コーヒー豆が入っていた。「行くぞ」
 レナートの受けた苦情は既に管理局スタッフによってデータ化されている。事務所に戻るとパソコンからアクセスし、気になる案件を探す。すると、これまで気にも留めていなかった事案が気になりだした。
「これだよ」
「家の裏に雑草が生えていて困るので、除草してください。って何が気になるんだよ」レジンが前髪をいじりながら覗き込む。
「基本的に、ボタニセルに覆われたこの町には雑草は生えないはずなんだ。仮に風に乗って種が飛んできたとしても、それらは発芽する前にボタニセルに分解されて栄養にされてしまう」
「でも、全てが完全に分解されるってわけでもないんだろ」
「だから、この件数が気になるんだ。多すぎる」雑草というキーワードで検索を掛けると、日に一、二件の同内容の苦情が届いている。
「サンプルが取れればはっきりするんだろうが」レジンの声に苛立ちが混じる。結果は見るまでもない。
「残念ながら、全て対応済みだな。なんせ、雑草を抜くだけの簡単な仕事だ。後回しにする意味がない」画面をスクロールしながら、昨日の案件まで含めて、再度チェックする。管理局スタッフの仕事に抜かりはない。処理時刻も昨日の十九時になっていて、既にゴミとして廃棄された後だろう。
「場所の分布はどうなってる」レジンがデータをボタニシティの地図に散らして表示する。「これは」
「路地裏だな。なぜか、路地裏だけに集中している。ちょっと、聞いてみよう」
 眼鏡から緊急掲示板にアクセスし、路地裏を覗いて異変がないか報告するように要請する。巡回中の所員は現在八名。一日当たりの通報件数から考えれば、可能性としてなくはない。
「待っている間に、コーヒーを入れてこよう」レジンが席を立った瞬間、眼鏡が震えて音声通話が入ってきた。俺の様子を見て、レジンがそのままの姿勢で蛇のような目を向けてくる。報告は短く簡潔だった。「コーヒーはおあずけか」
「ああ。だが、レジンは別件だ。隣人トラブルが発生しているらしい。彼だけでは対応しきれないらしく、協力の要請があった」
「雑草は」
「二十分ほど前に見かけたらしい。位置情報ももらった」
「対応次第そっちに向かうよ」
「助かる」
 ボタニシティの中央広場プランツァ――そこから放射状に八本の大通りが走っている。景観にバリエーションを与えるために、完全に直線の通りではなく、左右に揺さぶりながら、視界に入る壁と石畳の面積が、空とプランツァの面積に拮抗するように計算してある。
 事務所や研究所に通じる南門からはモクレン通りが走っている。日の出ている間のボタニシティは、老人たちの生活の様子が植物によってうかがい知れて、歩いているだけで愉快な気分になる。この通りには、珍しくバンレイシを生む老婆がいて、彼女が日課の散歩から帰ってくると必ず、玄関扉のすぐ上のレンガからバンレイシが生育する。青黒い脳みそのような不格好な姿――釈迦頭との別名もある――ながら、非常に美味な果実だ。それが見る見るうちに実っていく。それを知っているご近所さんが集まり、朝の寄り合いが始まる。
 ボタニセルがどんな植物になるかは、欲求の質と個人の性格によって決まる。欲求の質ということで言えば、果実が実るのは恋や愛に類する強い好意の感情を糧にしている場合がほとんどだ。バンレイシの老婆は、隣の老爺を気に入っている。互いに独身、その上、共に既に配偶者を喪っているので、法的にも問題はない。だからだろうか、二人の時間はゆっくりと、それでも後戻りを必要としない小さな決断を伴いながら、確実に進んでいる。
 そんな様子を見ながら、外壁から二つ目の環状路であるシダ環路を右に折れ、しばらく行くと、目当ての路地裏に通じる路地が視界に入った。両側の家の玄関には、それぞれハゴロモモとアナカリスが繁茂している。いずれも沈水植物の一種で、力強い葉のアナカリスに対して、繊細で美しい葉のハゴロモモの組み合わせは見事で、隣人同士の関係性も良好であることがうかがえる。
 その路地を抜けようと、一歩踏み出した瞬間、妙な風が吹いた気がした。振り返ると、見知らぬ住民が二人、会釈しながら通り過ぎる。
「な、何かありましたか」
「いえ、何も……。ただ、あれは何でしょうかね」
「さあ、何でしょうかね」
 二人ともが同時に指差したのは、水草とは逆側の路地だった。俺は二人に頭を下げると、素早く路地に体を滑り込ませた。こちらは、先程の路地よりもさらに狭く、大人が通り抜けようとすれば、体を横にするしかない。ジャケットが汚れるのは嫌だったが、仕方ない。二度三度と振り返る二人の目が好奇の色に輝いていくの見るにつけ、たばかられたかと思ったが、そんな疑いはあっという間に消え失せた。路地裏から声が聞こえたからだ。
「さあ、みんな、今朝のメインイベントだ。こちらは挑戦者シルキー! 対するはもちろん無敗の女帝アイヴィー! 戦いはもちろん、ボタニカル・ノックアウト方式だ!」
 壁を伝うように細い道を抜けていく。これは子供の声だ。何が起きているのか、さっぱりだ。
「さあ、カウントダウンだ。三、二、一、アターック!」
 いくつもの声が重なって、何かのスタートを告げる。路地裏に目を凝らすと、一人の子どもがしゃがみ込み敷石を剥がして手に持った。合図に合わせて敷石を自分の正面に掲げると、敷石のボタニセルがハアザミを生み出した。ここから見える限りで、子どもはグロスレットを持っていないように見える。それはそうだ。あれは住民の老人たち全員の分こそ確保したものの、俺たちスタッフ全員にすら行きわたっていない。だから、余計なグロスレットはないはずのだ。あるいは、昨日たくさんの連絡が来たグロスレットの紛失というのは、彼らが原因かもしれない。子どもの集団窃盗団。とんだネズミがいたものだ。
 捕まえるにしても、ここからではボタニセルへの干渉もままならない。急いで、この狭い路地を抜けなくては。
 縦長の視界の中で、子どもの手に導かれたハアザミが広がっていく。別名アカンサスの名の通り、古代ギリシアから続くデザインの意匠の如く、見事な美しさで面を織り成していく。そして、早い。たった一つの敷石のボタニセルから生成されているとは思えないほどのスピードだ。
 それが、鞭のような鋭い音と共に、二つに切り裂かれた。違う、切れたわけではない。枯れている。直線状に枯化している。と思っている間に、鞭がもう一閃、今度は横方向に灰の道が走った。十字のラインから、枯化が侵食していき、美麗に描きあげられていたアカンサスの紋様が、戦火に見舞われた町のように崩壊していく。しかし、ハアザミの子どもは枯れゆく植物を捨て、駆けだしながら新たな敷石を引き剥がす。
 その先は、壁が邪魔して見えない。壁を破壊したい衝動を抑え、急いで体を狭い壁から引きずり出す。路地裏に立った瞬間、モスクの壁面を彩るアラベスクのように、無数のツタが視界を覆い尽くしていた。先程の子どもの目の前にはハアザミの白と紫の花が槍のように突き出しているが、幾何学的に織り成されたツタに触れると、灰となって崩れ落ちた。
「まいった」ハアザミの子どもが両手を上げて降参の意志を示す。それを合図に、裏通りに歓声が響き渡る。アラベスクの向こうを見ると、想像もしなかったほど沢山の子ども――優に二十人はいるだろうか――が、この二人の争いを見守っていた。
「逃げろ!」ツタの中心から艶のあるよく響く声が上がった。俺は慌てない。ツタを広げているのがかえって好都合だ。右手を壁に置き、捕縛の意志を強めると、十数本の橙色のツルが生まれ、ツタへ向けて襲い掛かった。
「ネナシカズラは寄生する。ボタニセルの使い方としては面白いが、子どもの悪戯にしては笑えないぞ」
「アイヴィー!」
「ここはわたしだけで十分。逃げて。ほらシルキーも!」
 アラベスクの中心にいたと思ったら、瞬く間に降参した子どもの脇に移動している。ツタは既に自分から切り離していたのか。ちょこまかとすばしこいネズミだ。
 アイヴィーと呼ばれていたのは少女らしい。十二、三歳に見える。こちらを睨み付ける目が生意気だ。と思っていたら、視線を遮ってツタが急成長した。オカメヅタだ。葉が大きく二人を瞬時に包み込む。
 俺もネナシカズラを自生するに任せ、地面に手を置き、再び捕縛を強く念じる。ツタの外側から捕まえてやる。ボタニセルが手の下で震え、ガジュマルの葉叢が形を成し、気根がツタに向けて踊りかかった。「絞め殺しの木」の名の通り、ツタの上からぐるぐる巻きにしていく。これで逃げられまい。
「おじさん、子ども相手にちょっとやりすぎなんじゃないの」オカメヅタの中から、余裕を装った声が聞こえる。虚勢のつもりなら逆効果だ。
「ガジュマルの気根は生長すれば幹と変わらない樹皮を持つ。そうなれば、そこから出ることは絶対にできない。強がったところで、勝ち目はないんだ。謝るなら、警察に突き出すのだけは勘弁してやる」
「勝ち目がないって?」
 風船が割れるような鋭い音と共に、ガジュマルの根が二つに割れた。縁が、さっきのハアザミと同じように枯化している。中から出てきた少女の手には、長い鞭のようにツルが握られている。
「お願い。わたしはついていくから、この子は逃がしてあげて」少女の後ろでは、もう一人が小さくうずくまって震えている。
「馬鹿なことを言うんじゃない」
「そういうと思った」
 言い終わるが早いか、目の前にジャケツイバラの壁が現れた。生育のスピードが早すぎる。この大きさではガジュマルでは覆えない。再びネナシカズラを生み出すが、ジャケツイバラの広がる速さに追いつけない。
 逃がした。
 思った途端、イバラの壁が枯れ落ちた。大量の灰に息が詰まる。すると、もうもうと上がる煙の向こうから少女が現れた。あっけにとられていると「ついていくって言ったでしょ」と、詰め寄ってくる。ひどく汚れたパーカーを着ている。臭いもひどい。マウスなんかより、ずっとネズミそのものだ。
 路地裏の灰の山は、こいつらの遊びの痕跡――そして、あのツタはこの少女のものだったんだと直感した。
「いい心がけだ」首根っこを引っ掴むと振り払われた。
「逃げないよ。こっちだって、いろいろ聞きたいことがあるのに」
「だったら、まずグロスレットを返せ。さっきみたいにジャケツイバラの壁を出されたんじゃ、たまらない」
「なにそれ」
「とぼけるなよ。これだよ」右腕を振って黒光りするグロスレットを見せるが、少女は首を傾げている。本当に知らない様子だ。
 実験では、成長ホルモンを多く分泌する思春期の子どもであっても、ボタニセルはグロスレットなしには反応しなかった。その時は、脳下垂体から分泌される物質が、身体の末端の表皮に至るまでの間、ボタニセルに干渉するための必要量を維持できないからだと結論付けたのだが。
 少女の姿を改めて見る。こんな砂漠の真ん中に研究所を作るまでは、この子のような子どもたちを町で見ない日はなかった。目は鋭く、こちらを容易には信用しない。それでも生きる力が溢れて、目の奥に光が見えるようだ。
「なんだよ、疑ってるのか。ほんとに知らないって」
「いや、疑ってない。とりあえず事務所に行こう。風呂に入ってくれ。話はそれからだ」
 ムッとしたかと思えば、次の瞬間には平気な顔に戻っている。その上、いつの間に出したのか、ブドウの房を掴んで食べている。本当に頭が痛い。
 しかし、痛む頭の奥底で、考えが形を成してまとまっていく。もしかすると、子どもを使った実験で足りなかったのは、成長ホルモンではなく、生きることへの執着、生への欲求なのかもしれない。それなら、実験に協力してくれた少年少女がボタニセルに干渉できなかったのも納得がいく。
 振り返ると、灰の山の中から一本だけツタが伸び、大きな葉が昼の陽射しに照り輝いていた。

「着替えとかもろもろ、置いといたよ」レナートがディスプレイを覗き込みながら言う。「マウス探しは一休みで、今度はネズミ退治? 忙しいね」
「今日は余裕があるな。何か仕事を回そうか」
「いやいやいや、とんでもない。グロスレットの質問対応で大わらわだってば。仕事に戻るね」
 片手を上げて返事をすると、入れ替わりで少女が戻ってきた。アイヴィーというのは本名ではなく、ここで知り合った仲間内での愛称らしい。
「これ以上、君らのような子どもに増えられても困る。とりあえず、外壁の穴を埋めないと。どの辺だ」ディスプレイ上に、ボタニシティの略図を表示する。詳細な地図は、とてもじゃないが怖くて見せられない。なにしろ、この町には彼女らのような子どもが身を潜められる場所が、有り余るほど存在している。
「ここかな。東に向かってるビワモドキ通りから、北に百メートルぐらい行った先だと思う」
「だとさ。ミロスラフ、聞いてたか」
「今、その付近を巡回している奴を確認に行かせたよ」背後の座席から野太い声が響く。アイヴィーは気づいていなかったようで、カエルをつぶしたような声を上げた。二メートルを超える屈強なおやじが気配を殺して座っていれば、驚くなという方が無理というものだ。「そいつは、お前さんの娘かい」
「冗談じゃない。さっき拾ってきたんだ」
「じゃあ、養子にでもするのか」
「こっちから願い下げだよ。こんな陰気な奴」驚きから立ち直ったアイヴィーが食って掛かる。
「さっき拾われたばっかりで、どうして陰気だって分かる」ミロスラフが興味深げに問い返す。
「寄生植物を呼び出すような奴、陰気に決まってる」
 ミロスラフは、その言葉を聞いて豪快に笑った。「いやいや、なかなかどうして、利発な子どもじゃないか。俺は気に入ったぞ。ショーオ、お前が引き取らないなら、俺が引き取るからな」
 ぎょっとした表情のアイヴィーを残して、ミロスラフは一層大きな笑い声を上げながら、出て行った。確かに、利発だというのは同意しよう。彼女は、ボタニセルの植物化のルールを、観察に基づきながらも直観的に理解している。それは賞賛に値する。だからと言って、こんな子どもに陰気などと言われてムカつかないわけではない。
「お前らのアジトも教えろ」
「どうして」
「駆除するんだよ」
「そのことなんだけどさ――」
 突然、扉が開いて、レナートが入ってきた。今度はまた半泣きになっている。毎日毎日、本当に忙しい。
「ミロスラフはまだいる?」
「もう戻ったよ。何があった」
「家が植物に襲われたって」

 一番外側の環状路、トクサ環路を通って、プランツァから西に延びているヤシ通りに入る。通りの名前は適当につけただけなのだが、不思議と陽気な人が集まっていて、歩いていると挨拶されることが多いので、顔なじみも自然と増えた。
「ショーオさん、やっぱりあんたが来たか」
「私らも、これはどうも大ごとだって話してたんですよ」
 挨拶もそこそこに案内されたのは三番目の環状路であるソテツ環路を左に折れてすぐの場所にある家だった。建物の壁一面をシダが覆い尽くし、まだ伸び続けているのか、ガサガサ言いながら膨らんでいる。
「オーケソンさんの家じゃないか」
 オーケソンは、元は会計監査をしていた人物だが、引退後はジャグリングを趣味にしている。週に二回のプランツァでのストリートパフォーマンスの折には、けが人が出るほど人が集まるので、必ず管理局スタッフを派遣しているのだが、そのスタッフからこの仕事についての文句を聞いたことはない。それどころか、オーケソンのパフォーマンスを見るたびに、管理局にはジャグリングの道具が増えていく。無理もない。見た目ふつうの老人に過ぎないオーケソンが軽々と技をこなす様子を見ていれば、自分もできるんじゃないか、自分もやってみたい、と思ってしまうだろう。それが神業だとも気づかずに。
「オーケソンさんは、中に?」
「今日はまだ見かけた人がいないから、多分」
「明後日のパフォーマンスに向けて、新技を練習している、とか言ってた」
「じゃあ、その実現に向けた欲求がこんなに」
 そんなはずはない。そんなはずはないが、ボタニセルの生育には欲求が欠かせない。かといって、オーケソンの欲求がこんなにも肥大化することも考え難い。家の中に、誰か他にいるのか。
「とりあえず、中に入ってみる。みんなは下がっててください」
「わたしは行くよ」アイヴィーがシダを手に取って様子を確かめながら言う。
「好きにしろ」
 壁を探りながら扉を探す。ボタニセルがざわめいている。やはりシダは生長を続けている。しかし、これだけ広範囲のボタニセルに同時に働きかけるというのは、普通では考えられない。
「もしかして、これって、さっき言ってたプロトグロスレットの力?」
 振り返ってアイヴィーの腕を掴む。どうして直接、言葉にして聞いてしまったんだろう。「その名前、頼むから外では出さないでくれ」
「痛いって。出さない出さない、出さないよ。でも、可能性はあるよね」
 そうなのだ。プロトグロスレットは、最大でグロスレットの十倍の擬成長ホルモンの出力が可能だ。当然、そんなことをして、使用者の皮膚や皮下組織が無事である保証はない。しかし、犯人の意図が分からない以上、可能なことは起こりうることだと考えておくべきだ。
 扉を開けると、すぐに大きな棚が目に入った。アカンサスの紋様のあしらわれたアンティークだ。曲線が優美でかつ抑制が効いていて、オーケソンの趣味の良さがうかがえる。棚にはジャグリングの道具と、いくつかの盾やメダルが飾られている。
「奥の部屋、見てくる」
 アイヴィーが俺の横をすり抜ける。その小さな背中を見ながら、ふと考える。俺は、一体どういうつもりで少女を連れ歩いているのか。ボタニセルへの干渉力は研究対象として興味深い。その観察力や発想力にも感心する。それでも、知り合ってから半日も経っていない。それなのに、なぜか行動を共にしている。
 知り合ってから?――俺が見つけてから、ではなく。
 俺の中で、アイヴィーが対等な存在として認識されているとでもいうのか。
「ショーオ! 来て!」奥から悲鳴のような声が上がる。駆けつけると、アイヴィーがワラビの巨大な群生を前に、両手を床に付いている。そこからナツヅタがゆっくりと伸びていく。「ボタニカル・ノックアウト方式じゃないなんて」
「ボタニカル……何て」
「わたしたちはボタニカル・ノックアウト方式って呼んでる。こうやって作った植物は、直接ぶつけると相手の精神にまで影響を及ぼす。だから、わたしたちは、植物同士をぶつけて、相手を枯らした方を勝ちにするボタニカル・ノックアウト方式で遊んでるんだ。でも、こいつは――この犯人は、分かっててやってる。分かってて、オーケソンの精神を汚染しようとしてる」
「でも、そんな実験結果はこれまで」
「実験のことは知らない。でも、今このシダの中で人が一人死にかけてる。どうするの」
「……指示してくれ。俺はどうすればいい」
「この家の外壁のシダを駆除して。それで、オーケソンさんへの干渉力は激減するはず。簡単でしょ」
「わかった。オーケソンは任せた」
 家の外に出ると、野次馬はさらに増えていた。心配そうな顔をしているが、具体的に何かしてくれるわけじゃない。隣人との緩いつながり。比較的健康に恵まれた老人が、自由なつながりを持てる空間として設計されたボタニシティ。しかし、健全な距離が必ずしも良い関係だとは限らない。
「下がってて!」
 グロスレットに左手を添え、右手を壁に付いた。そういえば、アイヴィーは両手からツタを伸ばしていた。大したものだ。俺は俺にできることをやる。駆除を強く念じると、ボタニセルが震えて橙色のツルが生成する。しかし、寄生によって覆い尽くすには、このシダは広がりすぎている。壁面を這わせて、栄養の供給を止めるのが一番早い。
「壁から切り離します。絶対に近づかないで」
 グロスレットの出力が全然足りない。これじゃ、いつまでたってもオーケソンは救えない。プロトグロスレットが、この腕にあれば……プロトグロスレットは仕舞いこむんじゃなくて、この俺が持っていれば良かったんだ。力は、志ある人間が持つべきなんだ。力で支配するべきなんだ。このボタニシティの支配者は俺だ。
 ちくしょう。頭が痛い。
 その時だ。頭の中に掛かっていた霧が吹き払われたのは。ひどい考えが、一緒に霧消した。
「シダに覆われてたよ」アイヴィーが葉を一つ摘んだまま、右手を俺の肩に置き、そのまま払った。灰が風に乗って舞い、重荷が一つ消えた気がした。「オーケソンさんはもう大丈夫」最後に、摘んだ葉に息を吹きかけると、枯化して空気の中に溶けた。
「すまない。精神汚染については、よくわかったよ」
 ネナシカズラが壁面いっぱいに広がり、シダを茎から飲み込んでいく。鋏で切ったようにバサバサと落ちてくるシダは、それだけでは枯化せず、石畳の上に葉の山を作った。そういえば、昨日レジンが持ち込んだというシダが、これと同じものかもしれない。回収してエフセイの所に回さないと。
「ショーオさん、これは袋にでも入れてやればいいかね」老人たちが、家から袋を持って出てきた。数人は既にシダの葉を拾い集めてくれている。指示を出している老人もいる。「これ、研究所に持っていくんでしょう」
「ありがとう」後ろでアイヴィーがどんな顔をしているか容易に想像がついたが、気にならなかった。それでよかった。
 壁面の駆除が終わったところで、医務局に連絡を入れ、オーケソンへの対応を指示した。アイヴィーの話では、しばらく安静にしさえすれば、重篤な後遺症が残ったりということはないらしい。
「ありがとうな、二人とも。こいつでも飲んでいってくれよ」
 一人の老人が温かいカップを差し出す。
「ベルマンさんのハーブティは最高なんだ。あと、これでクランツの焼くクッキーがあれば最高なんだけどな」
「そう言われると思って、持ってきたよ」
 気付けば、俺の周りだけじゃなくて、アイヴィーの周りにも輪ができている。何人かがオーケソンの家に入っていくのも見えた。
「すみません。オーケソンさんの家に起きた問題は、早急に対処します」
「そんな、辛気臭い顔しないでください。俺たちは、この実験に楽しんで参加してるんですから」
「そうそう。生み出せる植物が限られてるから、ご近所さんと協力しないと、美味しくて楽しい生活は作れない。かといって、作り出すのに格段の労力が必要なわけじゃないから、不公平感も不平等感もない」
「そうかと思えば、オーケソンみたいに、植物とは別の楽しみを与えてくれる人も現れる。みんな、ショーオさんには感謝してるんですよ」
 報道陣の批判含みのカメラが、老人たちの笑い声で上書きされていく。ハーブティを啜ると、甘味と酸味が鼻腔の奥をくすぐり、体の芯から活力が湧き上がってきた。
 南中を過ぎた太陽が、少しずつ傾ぎ始めた。医務局のスタッフがオーケソンを運び出した。人々の間に安堵の空気が広がっていく。アイヴィーも胸を撫で下ろした。その時、眼鏡が震え、ミロスラフからのメッセージが流れた。少しばかり、長居しすぎたようだ。
「管理局のスタッフはすぐきます。そうしたら、シダの入った袋を渡してください」
「おう、頑張ってな」
 アイヴィーを伴って、モクレン通りに引き返す。俺の足取りが尋常でないのを感じたのか、アイヴィーが心配そうな声を掛けてくる。
「ああ、地図が送られてきた。またしても、シダの異常群生らしい。それが、また知った人の家でな」
「ショーオは陰気だけど、いいやつだね」
「大人をからかうんじゃない」
 石畳の先を行くアイヴィーの跳ねるような足取りを見ていると、どっちの言葉を否定したものか、自分でも分からなくなっていた。

 二件目の被害はソノダの家だった。オーケソン宅と同じ要領で外壁のシダの駆除を終え、家の中に入ると、アイヴィーの腕の中でソノダの意識が戻ったところだった。ソノダを覆い尽くしていたワラビは、既にナツヅタによって枯化されている。
「ソノダさん、大丈夫ですか。怪我は」
「……作りかけだった盆栽を、そっくりやられてしまった」虚ろな視線の先を追うと、棚の上に空の鉢が三つ並んでいる。いずれも灰が山になっていて、枯化からそれほど時間が経っていないことを示している。「ショーオどのと話をして、朽ちるのもまた植物、と納得したつもりだったが……何もかもが、むなしい」
 アイヴィーが警告するような目で俺を見る。
「命は、全て朽ちゆく途上でしかない。私も、すぐに死んでしまうんだろう」声に力がない――以前会った時のような強い意志の力が感じられない。体も徐々にしぼんでいっているように見える。植物による精神汚染の影響か。このまま放っておけば、文字通りの植物状態になってしまうのではないか。
「アイヴィー、どうすれば」
「ワラビの主人より強い意志で干渉すれば、どうにかなるかもしれないけど、結局それも汚染であることには変わりないから」
「医療班が来るまで、まだ十分はかかる」眼鏡に表示した地図を見ながら言った。こういった緊急事態に対応できる第一医療班は、まだオーケソンを医療棟まで運んでいる途中だ。介護と介助に人員を割り振りすぎた。俺のミスだ。「どうにかする。見てて、ダメそうだったら、すぐに俺の植物を枯らしてくれ」
 アイヴィーがうなずくのを待って、床に手を置く。アイヴィーはソノダの体を横たえ、自分もまた、床に手を添えた。
 ソノダとの対話を思い出す。ソノダの、植物に対する畏敬の念を思い出す。ソノダの中にあるはずのその思いを蝕んでいるものを取り除きたい。ソノダの崇高な生き方に、祝福を与えたい。
 床のボタニセルが静かに震え、緑の寄生根が生まれた。ヤドリギだ。その根は少しだけ逡巡したように見えたが、ソノダを発見するとまっすぐにその体に向かった。やがてソノダの体の周りで枝分かれを繰り返し、二枚一組の弾力のある葉が広がっていく。アイヴィーが唾を飲み込む音が聞こえた。ソノダの様子に変わったところはない。眉間の深いしわはそのままだが、表情に苦しそうな色は見えない。
 ソノダの中に埋め込まれたワラビの残滓を栄養に、ヤドリギが丸くソノダの体を包み込んでいく。葉と葉の間には、黄緑色の小さな花も見える。アイヴィーがソノダの手を握っている。視線を向けると、力強くうなずく。「ヤドリギの花言葉は〈困難に打ち克つ〉だから」
 ソノダの体が浄化されていくのを感じる。ヤドリギの力だ。その時、ソノダの口がゆっくり開いた。「ネズミが……」
「なんですか」
「最初に、ネズミが、来たんだ。おかしいな、と思ったんだ」意識は朦朧としているようだが、言葉はしっかりしている。
「ネズミが来たんですね。そのあと、どうしました」
「見つかりたくない」俺の側に横たえられていた手が、胸を包んでいるヤドリギにそっと添えられた。「でも見つけてほしい」
「今の、犯人の気持ちなんじゃない」アイヴィーが俺の方を見る。
「ワラビを通じて入り込んできた思い、ってことか」
「これって、かくれんぼで上手に隠れられた時、みたいな感じかな」
 アイヴィーが首をひねりながら言った。俺はその表現で得心がいった。見つかりたくない一心で隠れるが、次第に鬼が見つけてくれないことに焦りを感じ始め、自分を見つけてくれる鬼を欲するようになる。
 外から俺の名前を呼ぶ声がする。医療班が来たらしい。「扉は開いてるから、中に来てくれ」
 ソノダはすぐに運び出され、ヤドリギは崇高な役目を終えて灰に還っていった。ふと盆栽の鉢を見ると、オレンジに光る石が、灰の山から覗いている。俺の視線の先を追ったアイヴィーもそれに気づく。
「これって」手に取って、目の上にかざす。「コハクじゃないの」
「こんな短時間で、樹脂が化石化するはずが」
「わたしは知らない。それを研究するのが、ショーオの仕事なんでしょ」アイヴィーが放ってよこした。外に出て空にかざすが、確かにコハクにしか見えない。
「それより、ネズミって何」
「研究所の実験用のマウスが逃げたんだ。この」グロスレットを見せる。「ボタニセルに干渉するための器具の実験だ」
「それって、危険なの」
「いや。ただ、ボタニシティ内で異常繁殖されても困るから、今、回収中だ」
「でも、さっきのおじいさんの話だと、そのマウスは、もしかしたら、犯人か犯行現場に鼻が利くんじゃない」
「偶然かもしれない」
「でも、どのみち、マウスは集めなきゃいけないんでしょ。仲間にお願いしようか。そういうことは、多分、子どもの方が得意だよ」
「見返りはなんだ」
「この町にいさせて」
 頭が痛い。
 的確に急所を突いてくる。正直なところ、アイヴィー一人の処遇も決めかねていたのだ。だからこそ、とりあえず目の届くところに置いておこう、という考えだったのだが。「すぐに返事はできない。これは、確かに俺のプロジェクトだが、俺一人で決めるには、大きくなりすぎてしまった。考えさせてくれ」
「いいよ」即答だった。
「いいのか。追い出さなきゃいけなくなるかもしれないんだぞ」
「だって、今、それ以上ごねても、何にもならないでしょ」呆れるほどに頭のいい子だ。「じゃあ、アジトに戻ってマウス集めと、後はシダの群生の謎を追えってことで。何かわかったら、すぐに連絡するから」
「どうやってだよ。これ、持って行ってくれ。ちょっと大きいかもしれないが」眼鏡を渡した。
「いいの? かっこいい!」
「使い方は」
「大丈夫。いじってみる」
「俺の連絡先は、タブレットのが入ってるから、そこにくれればいい」
 アイヴィーがスキップしながら遠ざかっていく。途中で、頭から眼鏡が跳ね飛び、慌てて捕まえると、そのあとは抑えたスキップになった。一度、こちらを振り向いて手を振り、環路へと折れた。
 風が吹いて、目にゴミが入り、涙がにじんだ。

 連絡をタブレットに、という要求を飛ばした瞬間だった。
「何、考えてるんだよ」
 レジンからの返信を皮切りに、各部署から温かい反応が寄せられた。そんな中、ミロスラフだけが「引き取る覚悟を決めたのか」というジョークの後に、「で、彼女は今どこにいる」と、まっとうなメッセージを送ってきた。
「GPSで追跡する気はないんだ」と送り返すと「わかった」とだけ返ってきた。ミロスラフはすぐに意図を汲んでくれるので、ありがたい。
 それ以外はやり取りをする意味がなかったので、通知を切り、眼鏡からの連絡だけを取り出せるように設定すると、とりあえず一番外周のトクサ環路を東に向かった。オーケソンの家は西に向かうヤシ通り、次のソノダ宅が南に延びるモクレン通り、そのままの道順なら、東へ向かうだろう、というだけの判断だ。だが、ソノダの語ったように、あるいはアイヴィーが言ったように、犯人が隠れることを考えながら逃走しているなら、予測可能な経路はたどらないだろう、とも思う。
 ティータイムを過ぎて、プランツァや集会所から帰る人波が道端でぶつかり、新しい関係が生まれる時間帯だ。介護施設から解放したかった理由の一つが、これだ。人は新しい刺激を受け続けるべきだ。その、最も単純な方法が、人と人とを出会わせること。ボタニシティは、文字通り、そこに花を添え、ただ穏やかに裏方の演出をする。
 だからこそ、彼らを傷つける行為は許せない。
 南東に延びるナデシコ通り、その先、東に向かうビワモドキ通りに差し掛かったところで、タブレットの通知音が鳴った。音声通話だ。
「あっという間だった。間に合わなかった。十人以上は巻き込まれたと思う。わたしの友達も何人か」アイヴィーの声が震えている。
「ちょっと待て、落ち着け。状況がわからない」
「とりあえず、これ以上広がらないように、食い止めてみる」
「場所は……」
「ここ、なんていうの、真ん中の――」
「プランツァ、っていうんだ。分かった。ここからも見えた」
 ビワモドキ通りの先、湾曲した大通りに建ち並ぶ家並みの屋根のさらに上、そこに天に向けてそびえ立つ緑色の巨大な植物が見えた。
 逃げてくる老人たちの波を避け、曲がりくねった通りを駆け抜ける。プランツァまでの視界が開けた瞬間、そこに見えたのは、竹が林立してできた生垣だった。これは、ミロスラフだ。しかし、内側から強い力がかかっているのか、ひどくたわんでいる。あの巨大な植物の力なのか。
「あれはレピドデンドロン。図書館の古代植物の図鑑で見たことがある。絶滅種だよ。でも、広場中を覆ってるのは、また別」眼鏡姿のアイヴィーが肩で息をしながら現れた。足を見ると、切り傷で何箇所も血がにじんでいる。「マフもレーシィもシルキーも捕まった。みんな、結構強いのに、一気に飲み込まれた」奥歯を噛み締めて、泣くのを我慢している。
「プランツァ全体が巨大なシダの迷路になっていて、それがどんどん拡大してる」ミロスラフも息が荒い。「今は何とか食い止めているが、俺の竹もいつまで持つか」
「本体を叩くしかない。多分、あの古代植物の下だ。いくらプロトグロスレットの出力が強いからと言って、あれだけ巨大な植物を、ボタニセルに直接干渉せずに顕現させるなんて、不可能だろう」
「しかし、どうやってそこまでたどり着く。この広さの巨大迷路を攻略している時間なんてないぞ」ミロスラフが意志の力を地面に流し込むが、竹はますますしなっていく。「そもそも、この迷路が中心に通じているなんていう保証もない」
「いや、それはない。犯人は隠れたいという思いと拮抗するほどの、見つかりたいという思いを持っている。その結果が、これだ。ボタニシティのどこからでも見える巨大な植物と、たどり着くことが困難な巨大迷路」本当に、とんでもない自己顕示欲だ。それも、中央広場プランツァを覆い尽くし、さらなる拡大を求めるほどの。そんな奴は、一人しか思い当たらない。「迷路だからって、そのまま付き合ってやる必要なんてない。なあ、アイヴィー」
「ボタニカル・ノックアウト方式のことを言ってるなら、無理だった。枯らすスピードよりも、増えるスピードの方が速いんだ」
 俺はグロスレットを二つ取り出した。よりによって、あいつから預かったまま、ポケットに入れっぱなしにしていた。
「どうなるか分からないが、少なくとも、今よりましな試合にはなるだろう」一つをアイヴィーに放り、もう一つを自分の左手にはめた。「二人がかりならな」
 アイヴィーが眼鏡を外し、グロスレットと交換に放ってよこす。
「エフセイがデータを欲しがるだろうな」ミロスラフが笑う。
「ログは取っておくさ。アイヴィーが、それをはめてくれるならな」
「それしかないんでしょ」アイヴィーがウィンクで応える。「死んだら、植物葬にして」
「多分、死ぬときは一緒だろうな」
「まあ、ロマンチックね」
「仲がいいのは分かったから、続きは終わってからにしてくれ」ミロスラフがうめく。「準備はいいか。カウントダウンで、一瞬だけ正面の生垣を解除する。そうしたら、突っ込んでくれ。すぐにまた生垣で塞ぐ」
 不意に、竹が激しく軋みを上げ、笹の葉擦れが激しさを増す。その様子が、強靭な壁の一部だけを解除することの難しさを物語っている。両腕のグロスレットの出力を最大にし、アイヴィーにも同じ動作を促す。アイヴィーは俺に向けて拳を突き出し、俺もそれにならって拳を合わせた。
「カウントダウンを」ミロスラフの声に次いで、アイヴィーが悪戯っぽく笑う。
「ボタニカル・ノックアウト方式だ!」
「三、二、一、アターック!」喉の奥で、自分のものとは思えない、野太い声が響いた。
 ちょうど一人分の大きさの入り口が開き、アイヴィーが迷わず突っ込む。両手に持った敷石からカニクサを繁茂させる。シダ類のツル植物だ。同種の植物を生成することで、干渉力を強める狙いか。伸びたツルが目にもとまらぬ速さで迷路の壁を枯化させていく。後ろからフォローに回る俺は、やはり両手の敷石からネナシカズラを生み出し、枯化した壁がすぐに元に戻ろうとするのを食い止める。すさまじいばかりのエネルギーだが、それは全寄生植物のネナシカズラにとっては栄養の宝庫だということだ。緑色の壁が見る見るうちに橙色に染まっていく。
「このまま突っ切れる」アイヴィーのツルの本数が五本、十本と増えていく。左手よりも、グロスレットをはめた右手の方が、ツルが太く葉の枚数も多い。しかし、腕そのものの動きが、鈍ってきているように見える。
「右腕に違和感が?」
「なんか重い感じがするけど、とりあえず大丈夫」
 それよりも、周囲の景観に変化が表れてきた。太い幹のような茎と巨大な葉。そして、とにかく暑い。これは熱帯の木性シダだ。ボタニセルに気温を変動させる力など、もちろんない。だとすれば、これはあの中心にあるレピドデンドロンの影響か。
 アイヴィーの負担も目に見えて増えている。丈夫な木性シダは、一度二度の鞭打ちでは枯化されない。その時、アイヴィーの右手の動きが止まった。ツタを掴まれたのだ。「何?」アイヴィー自身にも見えていないその攻撃は、上方からだ。いつの間にかシダの背が伸び、見上げても空が見えないほどになっている。
 サポートに回っているだけじゃだめだ。俺も枯らしにかからなくては。
「根から奪う」アイヴィーの右手の動きを制限している木性シダをネナシカズラで枯らすと、両手を地面に置いた。暑いならちょうどいい。奪う――その一念で胸を満たしていく。地面のボタニセルがいやいやをするようにかぶりを振る。すまない。また後で、元の環境に戻すから。
「ストライガ」静かにその名を呼ぶ。ラテン語で魔女の名を持つその植物は、根から相手に寄生し、全ての栄養を奪い尽くす。ここで使えば、ボタニセルとのつながりそのものを絶つことになる。
 視界に広がる木性シダが、力を失い、枯化していくのとは逆に、急速に生長するストライガは、美しい紫の花を咲かせていく。
「きれい――でも、怖い花」アイヴィーの直感は正しい。現実に農作物への甚大な被害をもたらしているストライガは、ボタニセルの正常性をも奪う。ボタニセルから植物へという栄養素の流れを遮断してしまうのだ。そして、ストライガはボタニセルなしに自生する。
「後で駆除が大変なんだが、この際、仕方ない」
 今度は立ち位置を入れ替え、俺が正面突破を請け負い、アイヴィーにサポートに回ってもらう。ストライガの力をもってしても、木性シダからの攻撃を防ぎきることはできない。ピンポイントの反撃は、むしろアイヴィーの方が向いている。背中を預けて、紫の花畑を拡大していく。
「見えてきた」
 程なくシダの迷宮を抜けると、巨大樹レピドデンドロンが現れた。鱗状の模様を持つ緑色の幹を見上げると、三十メートル上空で枝分かれしているのが見える。
「こんなの、枯らせるの」アイヴィーが圧倒されている。全く、同感だ。
「いや、本体を叩くしかない」幹の周りを、木性シダを枯らしながら回っていくが、それらしい人影は見えない。眼鏡から音声通話を立ち上げるが、もちろん受話モードにはならない。
「レジン! いるんだろ。出てこい。姿を見せろ。見つけたぞ!」
「レジン、って、同僚の人?」
「ああ。多分、これはレジンだ」
 レピドデンドロンの周りはすぐにも紫の花で埋められたが、この巨大樹から栄養を奪い尽くすには規模が違い過ぎた。アイヴィーが振るった鞭も、一時的に枯化の傷をつけはするが、すぐに修復してしまう。
「見つかりたくないけど、見つかりたい――これは、その究極形態だな」
「どうするの」
 ストライガの向こう側で、木性シダがざわめている。隙あらば、襲い掛かろうとしている猛獣のように見える。こうしている間にも、プランツァの外周部では、ミロスラフの壁が破られようとしているのだ。
「これって、どうやったのか、ずっと考えてた」アイヴィーがポケットからコハクを取り出した。ソノダの盆栽の鉢から見つけたものだ。「ソノダさんの欲求は、生み出した植物そのものが、できるだけ永くこの世にとどまり続けることだったんだよね。自分の欲求じゃなくて、生み出した植物に対する願い。それが、こんな風に結晶になって残ったんじゃないの」
 そうか。ソノダの盆栽への思い――盆栽を生み出す欲求の先、生み出された盆栽に向かうひたむきな願いが、マツの中の樹脂に時間すらも超えさせ、コハクへと結晶化したのだ。
 一方で、俺の生み出すヤドリギの果実や茎葉に含まれる粘液は、トリモチの原料になる。その粘液に、コハクのような化石化をもたらすことができれば、レピドデンドロンを外から食い破ることができるかもしれない。
「やってみる価値はあるな」
「それなら、これを」アイヴィーがグロスレットを外す。「出力はできるだけ上げておいたほうがいい」
 受け取ったグロスレットを右腕にはめる。二つのグロスレットが互いに共振しているのを感じる。両手をレピドデンドロンの幹のすぐ下に置き、ヤドリギへの祈りを捧げる。永遠に生きるヤドリギの下で、レジンとの再会を――。
 両手の下でボタニセルが悲しげに震える。できれば、ずっと一緒にこのプロジェクトを続けたかった。しかし、レジンはそれを拒んだんだな。せめて、このヤドリギが俺たちが長い間、一緒に戦ってきたことの記念になるなら。それが墓碑だったとしても、永遠に残ってくれるなら。
 緑の寄生根が生まれ、レピドデンドロンを包み込んでいく。枝が次々に二股に分かれ、大きくて弾力のある葉が増殖していく。葉と葉の間の小さな花はやがて実となり、橙色に色づいていく。すぐ頭上で、レピドデンドロンが丸く覆われたのを見計らって、ボタニセルへの干渉をやめる。
「離れろ!」
 ヤドリギが少しずつ灰になっていく。強い力で干渉していたので、枯化は一気には広がらないが、それでも順に灰になって消えていく。そして、その灰が舞い散った後には、黄色く輝く樹脂の塊が残っている。化石化した樹脂がレピドデンドロンの幹に喰らいつき、真っ二つにした。
「ミロスラフ! レピドデンドロンが倒れる」眼鏡から音声を送る。返信はないが、対応してくれたと信じるしかない。
 レピドデンドロンは迷宮を貫いて倒れ、それ自体が夢だったかのように、灰へと還っていく。それに応じて、もう一方の、大地に掴まっていた幹の方も、枯化していった。丸い巨大なコハクは地面の上に転がり、その脇には、銀髪を一層白く染めたかのようなレジンが座っていた。
「すまない」見上げる瞳には力がない。「自分では、止めることができなかった」動かない体を無理やりひねって、右腕を差し出す。そこにはプロトグロスレットがはめられている。
「繁殖した植物からの精神干渉に、自分自身が抵抗できなかった、ということか」ぞっとした俺は、二本のグロスレットを外し、ポケットに戻した。目を閉じたレジンの呼吸を確かめ、大地に横たえる。
「ゆっくり休め」
 大量の灰が風に巻き上げられ、煙のように空に舞い上がる。陽射しが遮られて肌寒さを覚えた。ボタニシティがまだ経験していない秋の入り口に立ったかのような心地だ。
「残念。ヤドリギ、枯れちゃった」アイヴィーが丸いコハクを転がしながら、口を尖らせた。
「なんで残念なんだよ」
「ヤドリギの下ではキスをする決まりになってるのに」
 なるほど、これは頭が痛い。「そういうことは、やるべきことを終えてからにしてくれ。ほら、ストライガを枯らすのはお前の役目だ」
「何で」
「俺は、ちょっと、疲れた」
 ここらのボタニセルには再充填が必要。プランツァ全体の整備。周辺住民への説明。場合によっては記者会見。警察には巨大樹が見えただろうか。そして、こいつら、アイヴィーたちの処遇――まあ、それは大した問題じゃないな……。
 とても眠い。背中の下でボタニセルがうごめいている。グロスレットの出力を落とした。今は休ませてくれ。なあ、レジン。一緒に眠ろう。

 繰り返し光を放つフラッシュに目を細めながら手を上げるが、その手にはアイヴィーの手が握られている。脇を見ると、アイヴィーも眩しそうに目を細めているが、嬉しそうな笑顔は変わらない。
「孤児たちの受け入れを決断された経緯は」
「やはり、補助金目当てですか。入居者からの収入だけでは、十分でなかったと」
「事故があったという噂もあります。怪我人も出たとか。それを隠そうという意図では」
 予想された範囲の質問が飛ぶ。どれも、こちらが用意した回答で十分に対応可能だ。重要なのは、不要な心配を招かないようにすること。それが、子どもたちを救うことになるし、子どもたちの存在によって、老人を救うことにもつながる。そしてこの先、第二第三のボタニシティを作り上げることにも。
「この国は長く孤児の問題に直面してきました。しかし、国としても社会としても、もちろん一人の大人としても、まっとうな対応をしてきたとは言えません。一方、ボタニシティ内での生活を通じて、私自身高齢の方々と接する機会を得て、彼らの生き生きとしたパワー、そしてコミュニケーションの技術、何より文化的素養や知識を目の当たりにしました。それらの社会的、文化的、知的財産が、社会から教育を受けることができない孤児たちの、何よりの支援になると気づきました。また、それは入居者の方々の生き甲斐にもつながるはずです」
「そんなこと言っても、それは表向きの理由でしょう」
「事実、入居者同士のトラブルも絶えないと聞きます」
「運営側にも内部分裂があったという噂も」
 そうだな、レジン。これを分裂と呼ぶべきなのか、俺には判断がつかないよ。
 巨大樹事件の後、プランツァ周辺の再整備には、一週間を要した。レジンは髪を短く切り、先頭に立って、仕事を進めてくれた。事件の顛末について、俺自身は周囲に語らなかったが、その様子を見ていたスタッフは、なんとなく理解したのだろう、と思っている。
 そしてプランツァの復旧を確認したレジンは、その日のうちに去った。彼には彼が追求したいテーマがあるのは知っていた。彼には彼にしかできないプロジェクトがある。今回、自分の弱さと向き合ったことで、一回りも二回りも成長するだろう。
 それにしても、この記者どもは、どこからネタを見つけてくるのか、後から後からよくもまあいろんな話が出てくるもんだ。用意してきた話は全部してしまったし、後はどうしようか。やはり、原稿の量が少ない気がする。次回は、この倍は話すことを用意しておかないと。
「はいはいはーい」
 アイヴィーが手を上げて報道陣にアピールする。この瞬間まで、相手が孤児だということで遠慮していたらしい報道陣が、一斉にターゲットを変更する。飛び交う質問の声を片手で制して、アイヴィーが俺のマイクを奪った。
「えーと。わたしは孤児です。このボタニシティには不法侵入しました」報道陣がざわつく。セキュリティ、安全確保という単語が異口同音に聞こえる。「でも、そんなわたしたちを――いえ、わたしを、彼は受け入れてくれました」嫌な予感がする。マイクを奪い返そうとするが、アイヴィーの足元からジャケツイバラが伸び、俺の鼻先を掠める。
「わたしたち、結婚します」
 アイヴィーがマイクを投げ上げた。慌てて掴んだマイクで「会見はまた改めて」と叫び、これまでで一番のフラッシュの雨を背中に受けながらアイヴィーを追いかける。エフセイが興味深げに頷いているのに中指を立てて、会見場を後にする。
「アイヴィー!」
「レジンから預かったものがあるんだ」突然、足を止めたアイヴィーが振り向いて近づいてくる。「左手出して」
 こちらが考える暇もなく、左手を掴むと、薬指に黒い物体を滑り込ませた。
「グロスリング、だって。小型軽量化に成功。これで、紛失事故も減るだろうって」
 手を空にかざす。真っ黒な指輪が、陽の光を浴びて白く輝いている。悪くない。
 そして、三十分後には、結婚の見出しと共に、自分の左手薬指にはまった指輪を見つめる俺と、その後ろで満面の笑みを浮かべているアイヴィーの写真が、ネットのトップニュースになっていた。

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