梗 概
おはよう、起きて
主人公が夢から覚めると、気づいた所長が声をかけてきた。
「気分はどうだ」
「とてもいいですよ。天空の城は本当にありました」
所長は苦笑をこぼし、夢の仔細を聞く。説明後、主人公は重要なことを言い添える。
「あぁでもやっぱり、The Manの存在を、僕は確認できませんでした」
主人公は“ドリームワークス”に二ヶ月前から、試作機のモニターとして参加している。目的は “明晰夢”を手軽に楽しめる機械の商品化である。機械はヘッドバンド式で、睡眠中に装着し身体の動きなどを感知することで夢を夢と自覚する“明晰夢”の状態へと人間を導く。また特定の脳活動領域を刺激する電気信号を3つ選択することができる外付け機器を用いることで物体だけでなく動作、感覚の部分も精緻な条件を加えて思い描いた夢を見ることが可能になった。
「ポイントが鮮明でさえあれば、他が曖昧でも目覚めた瞬間に自分が望む夢を見たと人間は満足するものだ」
そう吐き捨てる副所長のことが、主人公は少し苦手である。
主人公がプロジェクトに参加した理由は知人からの紹介であって、明晰夢に特別興味があったわけではない。
しかしある日、主人公はいつもと違う夢を見る。今までは冒険の旅に出るスリルを求めたものだったが、今回は子供の頃の記憶を辿る夢であった。母子家庭であった主人公は、台所に立つ母の姿を見る。もっともっとと思ったその時、主人公の目の前に“The Man”と言われる男が姿を現し、一気に現実に引き戻されてしまう。
“The Man”は幾人かの夢に現れ、その男のことを認めた瞬間突然目が覚めてしまうのだという。エラーの一つとして出資者に説明をしようという声もあったが、副所長をはじめとする幾人かが原因究明を要請し、プロジェクトは立ち往生の状態であった。
主人公は思い出を振り返る度にその男が現れることに気づく。他の人々がどういった状態でその男を見かけたのか。その問いに答えるものがいない為、主人公は率先して自分と母との思い出を語る。そこで副所長に母子家庭(でき婚)であることを詰られ、仲の悪さは決定的なものとなる。
主人公が所長に副所長の愚痴を言うと、所長は副所長と失踪した彼の妹の話をしてくれる。
何度も夢を振り返る主人公は“The Man”が脳の防御反応なのではないかと思いつく。脳はエラーを起こしやすく、現実なのか夢なのかを判断できなくなった時に“The Man”を創造し、脳が制御する以上の無意識の違和感を引き起こし夢と現実の境界を明瞭にしようとしているのではないか。
主人公が所長にその仮説を伝えようと急ぐ中、実験室の方が慌ただしい様子であることに気づく。覗き込むと機械を取り付けたままの副所長の心拍が停止しかけているという。その後ゆっくりとだが意識が戻ってくる副所長。彼が目覚めた時、穏やかな顔つきをしていた為に思わず話しかけてしまう。「何の夢を見ていたんですか」と。
副所長はいう。妹と穏やかに会話するその傍らに“The Man”がいた事。しかしそれは妹の子供だった事。当時は気づかないふりをしていたが妹の腹には子供がいて、それを認められなかった事。一瞬、現実だと思ったがそうではないと思い直した事。主人公が「なぜ?」と聞く。
「子供は私に笑いながらこう言った『おはよう、起きて』と。その声を聞くことを拒否したのは、紛れもなく私自身なんだ」
文字数:1376
内容に関するアピール
認識の『エラー』、人間関係の『エラー』を意識して物語を作りました。
よく私も夢を見ます。空から落下する夢を見た時は本当にベッドから落ちていて、朝から自分の間抜けさを笑ったこともありました。けれどそんな私でさえも、明晰夢というものをしっかりと見た事がありません。
明晰夢についての解明はまだなされておりませんが、こういったきかいがあればいいなあという形に信憑性を肉付けして書けたらと思います。
物語においては人間関係が重要になる為、総計をしっかり描いていきたいです、
文字数:229
おはよう、起きて
二〇十七年十月三〇日朝八時。矢幡啓。
前日の出来事:寝る前に映画『天空の城ラピュタ』を視聴。
私は飛行機の中にいた、乗客は他に誰もいなかった。空の様子は大荒れであったが、飛行機の中は静かであったため唐突に『これは夢ではないか』と気づいた。腕時計を一度確認すると2時頃を指し、もう一度確認すると6時を指していたためはっきり夢であると確信した。私は空の状態を確認し、そこに『龍の巣』があるはずだと強く思うと、まさにそれらしき姿を見た。飛行機は消え、私は自由に空を歩けた。しかし気づくと空から落ち始め、終わりが近い事を知った。地にぶつかると認識した瞬間、私はベッドから落ちていた。
※※※
「矢幡は夢の中でも自由すぎないか?」
泉田はレポートを乱雑に机に置き、コーヒーを一口すする。後方からの忍び笑いが収まるのを見計らい「お前もそう思うだろ」と問いかければ肯定とも否定ともつかぬ言葉が返ってきた。「いや、それが彼のいいところでもある」
イレギュラーの出来事が多ければ多いほど、改善する点の質も上がるのは確かだ。しかし実験途中にベッドから落ちるケースは稀ではないだろうか。
「春川の贔屓にはほとほと呆れる」
「お前だって彼のことは嫌いじゃないだろう」
「だが彼には嫌われている」
「それを改善するには態度と言動を改めるべきだ」
耳に痛い諫言が返ってきたため、泉田は言葉に詰まるしかない。場を濁すようにコーヒーを啜ると、呆れたような溜息の音。
「本当ならお前だって、実験協力者の一人でしかないんだ。ちゃんと仲良くしてやってほしい」
春川の小言は最近になって多くなってきたと、泉田は小さく嘆息する。中学からの付き合いだが、それとなく適度な距離感を保っていたはずだった。その変化の原因を探るにしても人付き合いというものに慣れておらず、この近くなった距離感が嫌なわけでもない。小言を背後に、机の上に置かれたままの企画書を手に取る。改めて読み返し、実際に自分がそれを体験した後だったとしても、これに資金を提供する人々の気が知れなかった。
“明晰夢のプロセスを解明したい!”
◾『夢研究』の今
古くから、夢は人々の興味関心の的でした。最古の夢の記録『ギルガメッシュ叙事詩』から始まり、フロイトやユングの研究によって示されてきた精神分析の方法論は現代においても馴染み深いものでしょう。かつてより『夢』は精神の深奥を覗き見る手段として深層心理学の分野で扱われてきました。しかしその一方、レム睡眠の発見によって科学的な分野においても重要な役割を担うようになりはじめました。一九五三年、ユージン・アゼリンスキーによってレム睡眠(高速眼球運動)の発見から始まり、脳橋、脳幹、海馬など各脳機能が『夢』のプロセスにおいて重要な役割を担っている可能性を様々な分野の学者が発表し続けています。夢研究は未 だ発展途上にあり、確実な答えがあるわけではありません。残念ながら『夢』はレム睡眠のおまけに過ぎないという説を唱える学者もいないわけではありません。しかし生物的進化の過程で今日に至るまで残っているのならば、必ず意味があります。私達はその解明のため、『明晰夢』の謎に挑んでいます。
◼『明晰夢』の存在
夢を夢として認識する『明晰夢』の存在は、私達が当たり前のように持っている『意識』の本質そのものを解明する上で重要な指標となります。脳がどのようにして心になり得るのか。私達は起きている間、現実の世界と影響し合うことで自我を認識しています。しかしその際にも「外の世界」だけでなく、夢を見ている時と同じように自分の「中の世界」で現実を解釈しています。『明晰夢』はその「中の世界」を旅する私達の意識を「外の世界」と同じように明快にするための手段の一方法なのです。
「やはり胡散臭いな」
音を立てて企画書を机に落とせば、後ろで回転式の丸椅子がぎしりと呻く。椅子に座ったまま振り返るとそこには予想した通り、春川が連日の研究によって残る疲労を表情に載せて座っていた。
「この部屋は狭いな」
「こんな胡散臭い研究に部屋が与えられるだけマシさ」
この研究室は狭い。そこに睡眠実験用のベッドルームを備え付けてしまえば、残るスペースは大人三人程が入れるだけの小部屋しかなかった。元を正せば春川と協力者が会話できるだけの場所があればいいのだから十分とも言える広さなのだが、やはり泉田には狭いとしか思えなかった。
「…まぁ確かに。こんな宣伝文句でよく人が集まったものだ。どんな意義があるものなのかも、俺にはよくわからない」
「私もその点は難儀したんだ。私はホブソンになる気は無かったからな」
突然出てきた名前に、こいつの悪い癖だなと胸中で考えるに留める。自分の知っていることは他人も知っているはずだと考えるこの唯一の悪癖に付き合っていたのは、自分ぐらいなものだろう。
ホブソンは一九七七年に脳の生理的な状態から夢のメカニズムを説明する仮説を発表した学者である。覚醒時の意識には二つの神経伝達物質ノンエピネフリンとセロトニンが重要な働きをする。そして眠りにつくとこの二つの循環が減り、別の神経伝達物質アセチルコリンが脳の視覚、運動、感情中枢を行動させることで夢の視覚的なイメージ形成を引き起こす信号を伝達する。
夢というのはこうした脳の動きによるものであり、デタラメな信号によっておこる辻褄を合わせた作話でしかない。彼は意識のあらゆる状態はニューロンの活動によって完全に説明できると考えた。心は物質であり自意識や自由意思、崇高なる信仰などのあらゆる概念は全てニューロンの活動から生じたものである。脳と心は同一のものであり、魂などは存在しない。
けれどこれは心や魂の存在を信じる人々にとっても、あるいは信じていない人々にとってすらも抵抗を感じさせてしまう。『私』が『私』であるという実感は誰しもにあり、それが脳の勝手な動きによるものだとは納得しがたいからだ。
「…欲しいのは資金であって反発ではないからな」
「論理というのは曖昧さを許さない。心身一元論と二元論の間を取った説明など出来るはずもないだろう」
「わかっているさ。俺はお前が『明晰夢』を売り物にして資金を集めたのは賢いやり方だったと思ってる」
「…それならいいが」
春川は資金繰りの関係で、学術系クラウドファンディンク『Schola』を利用せざるを得なかった。運良く研究室は与えられたものの、研究費自体は潤沢とは言えない。そこで“明晰夢を見る権利”を見返りとして、クラウドファンディングにてプレゼンを行いその予算を掻き集めたのだ。研究過程において夢を夢と自覚する『明晰夢』の研究は欠かせないものであり、人々の興味関心を引く上で格好の餌でもあった。何故だか何割かの人間は、夢を娯楽と捉えている節がある。研究内容には胡散臭さもあるが、資金提供の見返りとしては魅力的なものだ。予想に反せず、資金はすぐに集まった。しかし春川は、それを素直に受け入れきれていないのだろう。
自分の研究が娯楽目的でしか資金集めできないのを憂いているのだろうか。プライドとは厄介なものだ。
「まぁ夢をオカルトの一部と勘違いしている奴もいる。 『The Man』なんて最たるものじゃないか?」
「…あぁ都市伝説の『This Man』が元らしいがね。少しオリジナルとは異なるから『The Man』だそうだ。夢の中に突然現れる、正体不明の存在。各々の夢の中に出てきた姿に同一の特徴を見つけては女性陣が騒ぎ立てていたよ。ただの勘違いのつじつま合わせだろうが、あぁいった話を好むのにもまたなにか生物学的な理由でもあるのだろうか」
「男だったとか、眉毛が濃かっただとか、お互いに話し合ってみればどうやら全く同じ人間がそれぞれの夢に出てきてるって話だろう? まぁ女も男も程度の低さは変わらんだろうが、全く馬鹿げた話だな」
今度ばかりは同意するしかなかったのだろう、深々とため息をつく様に疲れが見える。「まぁしかし、そのオカルトを理論まで持ち上げるのは春川にしかできないことだろう? 役立たずかもしれないが助力は惜しまないつもりだ」
「…あぁ全く。その愛想を少しは他にも使ったらどうだ」
「…それは難しい相談だな」
泉田が素直に気持ちを吐露出来るのは、春川と妹の前だけだった。
『人は四十㎐で鮮やかな夢を見ます』
子供が手を挙げて先生に説明をしている。教室の後ろにはびっしりと大人が立ち並ぶ。授業参観だ。はい、正解。顔を前に戻せば、顔がない先生が笑顔で話している。もう一度振り返ると運転手の雇われおじいちゃんが手を振ってくれる。両親は今日もいない。
『前頭葉に微弱電流を流して脳波を誘発すると、七〇%以上の確率で人は明晰夢を見ました』
生き生きとした様子で子供が喋る。春川、お前はもっと大人であっただろう。そう考えた瞬間、場面は子供の頃の自宅の中。シワの増えた顔をした父親が言う。
『もうあの子供らとは遊ぶな』
ハッと飛び起きる。全く、嫌な夢だ。ベッド脇の棚に置かれたコップを手にとって水を飲み干す。ようやく呼吸を落ち着けると、部屋の全体像がおぼろげに見えてくる。白い壁、カーテンの隙間から漏れる光、目覚ましは未だ鳴っていない。昨晩寝たままの光景だ、
泉田は大きくため息を吐いたところでようやく、コップの脇に置かれていた写真に向き直った。妹、夕夏がこちらに微笑みかけている写真は、不意をついての一枚だ。新緑を背後にして、呼びかけに応じた瞬間を切り取った。大学の卒論を無事に書き終えたので奢ってくれとねだられ、態々遠方のレストランまで出向く羽目になったのだ。意趣返しにと写真嫌いの妹の姿をフレームに収めた。消してくれと言われたが消さなくて正解だ。これぐらいしかもう残っていない。
手を合わせ、拝む。仏壇は実家にあり、両親が毎朝ちゃんと手を合わせているのかも定かではない。
三年前に妹は交通事故に遭い、急死した。仕事の関係で海外にいた泉田への連絡は遅れに遅れ、葬式にしか間に合わなかった。ごく少数で行われた葬式は儀礼的なものでしかなく、年の離れた兄なんかは終わると同時に仕事に向かってしまった。悼む時間はこれからも続いていく。けれど思い出を振り返る術がなくなっていたのはただただ辛かった。妹の存在を消すかのように、いつの間にか実家から私物も部屋も消えていたのだ。
妹は一体何をしてしまったのか。
仕事にも手がつかず、呆然としていた日々に手を差し出してくれたのは春川だけだった。
※※※
二〇十七年十一月一日午後三時。福留弓。
前日の出来事:町内会のハロウィンイベント。途中ソリの合わないママ友と軽い諍いを起こして少しイライラしていた。
小学校の体育館で結婚式が行われるらしい。私は調理メンバーの一人として家庭科室でクッキーを作っていた。完成したクッキーは私が触れるとことごとく爆発するため、呆れ果てた高校の友人が体育館行きを命じてきた。ここら辺で少し夢かなと思い始めていたため、どうせなら自分の結婚式を行いたいと念じてみたら花嫁が私になった。しかし依然として私はここにいるという感覚もあった。私はここにいるのに、向こう側にも私がいる。花婿が夫になり、子供たちが周りにまとわりついていた。夢なら覚めてと思うのになかなか醒めず、これは果たして夢だったかと思い始めた時に私はそれをみた。
※※※
強烈な違和感を感じたんです、と福留弓は言った。男か女かも私にはわかりませんでしたが、そこに居るはずがないと思ったのは確かです。『The Man』? 私の見たものが、他の人が見たものと同一であったかどうか。私には分かりかねます。
「まだ理性的な被験者だな」
夢についてのレポートとその後の聞き取り調査の記録を読み終わり、思わずつぶやきが漏れた。春川がお前はそう思うだろうなと頷く一方、八幡の方はというと勢いよく突っかかってくる。
「えー、でもちょっとつまらなくないですか?」
「科学に面白いもつまらないもありはしない。お前はそれでも科学の徒か」「もろ文系の泉田さんよりはよっぽど科学の徒ですよ。まぁ認知神経科学はまだまだ勉強中ですが」
使われてる装置もどういった仕組みなのかさっぱりですし。丸椅子がギシギシと悲鳴を上げているにもかかわらず、八幡は身体を揺らしながら行儀悪く座っている。
八幡は春川の大学の後輩で、三ヶ月ほど前に突然やってきた。勿論春川が連れてきたのだが、その有用性については納得しがたいものがある。『八幡は観察眼が鋭く、順応性も高い』春川はそういうが、喧しくて仕方がない。「人は四十㎐で鮮やかな夢を見るんだ」
気づくと春川による講義が始まっていた。八幡は興味津々な様子でそれを聞いている。こうなれば話は長くなるだろう。合間に何か飲み物でも入れようか。常温のペットボトルを取り出し湯沸かし器のポットの中に入れる。「このヘッドバンドには実験協力者の前頭葉に微弱電流を流す仕組みが施されている。他にも動きや体温も自動で記録する」「ハイテクっすね」「精度についてはこれからだがね」そういえば牛乳がなかったので、インスタントのコーヒーを入れることにする。こぽこぽとお湯が煮え出し、湯気が視界を掠る。「そうだ、また今視野に入れている装置もある」「何ですか?」「三つの単語を任意で選択して、それがどう夢に影響するかを調べる」「へぇ面白そうですね」「あぁ、しかしあれはどこに置いたんだったか…」
一分が経ち、タイマーがけたたましい音を立てる。
「コーヒーだ」
マグカップにコーヒーをなみなみと入れ、シュガースティックと共に春川に渡す。「ミルクがないと飲めないんですけど」ついでに入れてやったというのに文句を言いだす八幡には「自分で買ってこい」とだけ告げた。
夕夏が椅子に座っている。
何かもの言いたげな様子であったが、私にはそれを聞き出す術がない。口がある気がせず、だから喋れない。夕夏は腹の前で手を組み、じっとこちらを見ている。新緑が視界に入る。夕夏との思い出のレストラン。木でつくられた開放感のあるテラス。視界の端で人間が輪になってダンスを踊っている。スカートがひらひらとはためいているから女だろうか。夕夏はいつの間にかランドセルを抱え、その姿は瞬きをするごとに縮んでいく。段々と、自分の呼吸もままならなくなり目の前の夕夏の表情もいびつになっていく。ふと何者かの手が自分の首を絞めていることに気づいたが、踠いても踠いてもそこから抜け出せる気がしない。向こうの方から猛スピードで何かが向かってくる。車だ。夕夏。
飛び起きた衝撃で布団がベッドから落ちる。けれどそれを気にする余地はない。じっとりとした汗が滲み、喘鳴にも似た引きつりが止まない。また、あの夢だ。
夕夏は現実で一度死に、夢の中ですら何度だって殺される。どうすればいいのか。泉田は今の所、一つしか解決策を持っていない。
「明晰夢を見たい?」
「あぁ、駄目だろうか」
「駄目なものか。泉田はそもそも、実験協力者の一人だ」
「レポートは提出していないぞ」
「…言いたくなったら言えばいい」
酷いクマだ、十二時までは空きがあるから寝るといい。睡眠実験用スペースへ続くドアを開け、春川が入室を促す。その言葉に素直に甘え、泉田はノロノロとベッドに上がった。「少し準備をするからしばらく待っていてくれ」足音が遠のく。ヘッドバンドによって視界が覆われ、部屋の照明が暗くなっていくのを視界で感じる。今にでも眠りに落ちそうなその瞬間に思い出すことは、夢ではなく現実のことだ。
『もうあの子供らと遊ぶな』
中学生の時に父から言われた言葉だった。妙なプライドを持っていて、子供にまでそれを強制する親であったがあの頃はそれに逆らえたこともまずなかった。春川は貧乏な家の子で、洗ってはいるが着古した洋服をいつも身にまとっていた。けれど頭が良く、分けへだてなく優しいからか皆の人気者だったのだ。嫌われ者はいつの時代も変わらない。泉田にとって、春川だけが友達だった。妹を連れ、よく春川とその弟を誘って遊んだものだ。しかしそれも親にとっては気にくわないものであったらしい。視界の端で父の顔がぼやけていく。
夕夏が椅子に座っている。
物言いたげな様子でじっとこちらを見つめている。まだ喋れはしない。けれど口はある。思い出のレストラン。いや、ここは夕夏の部屋だ。かつてあったはずの、妹の部屋。視界の端でひらひらと揺れるのはカーテンだ。
「お兄ちゃん」妹が口を開く。弱々しい声だ。一瞬小学生ぐらいの妹を思い出すと途端、ショートカットの女学生が消え、おかっぱ頭の少女が現れる。あぁしまった。しかし目の前の少女も妹には変わりない。今にも泣きそうに歪められたその表情を和らげようと幼い頃そうしたように、膝の上へと招き入れる。小さな体は柔らかく、思い出と相違ない。これが、現実であれば。いや、これは現実だった。
「私は悪い子なのかなぁ」
ゆっくり頭を撫でていると、舌ったらずにそんな悲しいことを言う。自分はそれを宥めるために、柔らかな声を心がける。いいや、お前ほどのいい子を僕は知らないよ。
「でもお兄ちゃんもきっと許さない」
どうしてそう思う?
「…だって、怖いもの」
何が怖いんだ。
「…お父さんが、ずっと見てるわ」
バッと目を開けると視界が薄暗い。ヘッドバンドを剥ぎ取り、呼吸を整える。実験用スペースには時計が設置されていないため時間の確認はできないが、隣室の様子からいえばまだ十二時にはなっていないのだろう。
「どういうことだ」
泉田は呻く。今までの夢ではこんなことはなかった。妹が笑うよう強く願えば、夢の中は全てが思い通りにできた。気休めとばかりにかけられた薄い毛布の裾を強く握り、考える。いったい今までと今で、何が違ったと言うのだろう。
ドアの向こうでは春川と八幡が何やら話し込んでいた。泉田に軽く挨拶をするも、その会話は止まらない。会話に無理に入る気も起きず、手近なパイプ椅子を引き寄せて聞く体制に入る。
「それでですね。『The Man』について、俺、幾つか考えてみたんですよ」
「それは是非とも聞いてみたいな」
「まずですね、『The Man』を見たと言う人は大抵その存在が『そこに居るはずがない』って感じるんですよ。それでつい、驚いて起きてしまう。これってそのまんま単純に考えれば、脳がそういう信号を出してるってことだと思うんです」
「あぁ成る程。それがどういった物質なのかを解明する必要はあるが…。仮説としては一番単純だな」
「そもそも都市伝説みたいに同じ姿、同じ顔をした人間が現れているって証言をする人々は大抵ディベートの後で作話しているんだと思うんです。同じ存在が異なる夢に出てきたら面白いだろうなぁ、みたいな。夢を見た直前の証言は統合すれば『強烈な違和感』を感じた、とただそれだけの話で、オカルトを挟む必要もない。結果だけ考えてみれば、その存在を認めることでみんな夢から追い出されている、ってだけの話です」
「それはそうだ。しかしその仮説を実証するにしてもまだ問題点は残る」「そうなんですよね…。どういった状況下でそれが起こっているのか。それがわからないと実証実験だってできない」
頭を抱えて唸りだした二人の様子につい口を挟んでしまう。「とういうよりも、私にしてみれば何故そこまでその『The Man』とやらにこだわるのかもわからないんだが」
突然の横槍に、二人は若干驚いたようだ。しかしすぐ持ち直す。
「いやだって、複数の夢に登場する『何か』の存在は、その現象自体既に研究になり得る程の発見ですよ」
まぁ俺はまだ勉強中の身なんですけどね。八幡はカップを手に取って口元で傾ける。中身が既になくなっていたのか、どこか拍子抜けしたように底を眺めるその姿は悲しげだ。感情表現が豊かすぎてこちらまで据わりの悪い気持ちにさせる。春川もまた同様の気持ちになったのか、立ち上がり湯沸かし器の準備をし始める。「泉田、お前も喉が渇いているだろう?何がいい」
問われ、急に喉の渇きを思い出した。なんでもいい、といえば了解したとでも言うように頷いて構わず準備をし始める。あぁ俺がしますよと慌てたように立ち上がろうとする八幡を制して、泉田は話しかけた。
「聞いていなかったが、そういえばお前は一体何が専門なんだ」
「へっ?」
間抜けな声を立てながら、立ち上がりかけた格好のままストンと椅子に腰を下ろす。泉田さん、俺に興味あったんですね、といささか失礼な物言いをされたが敢えて無視をすると、気を取り直したように話し出した。
「俺はちょっと、どんな研究をしようか方向性自体が定まってはいない状態なんですけどね。脳についての何かしらの研究ができればと思って」
「その歳で、まだフラフラしてるのか」
「早い内に、決まればよかったんすけどね」
苦笑は自嘲にも似ていて、それ以上の言葉は憚られる。代わりに「じゃぁ今は回り道の途中か」と濁すような言葉が漏れた。
「はい、まぁ見聞を広めるために春川さんの研究にちょっとお邪魔してるって感じですかね」
「根無し草のままではそのうち宿る土がなくなるぞ」
「まぁそん時は水に流されていけるとこまで行ってみます」
「…それで、春川の後をついて回って収穫はあったのか」
「えぇ、夢っていうのは結構面白いもんです。例えば夢は自己治癒の一環とみなされる場合もあることとか」
「へぇ、どういうことだ」
例えばですね、と八幡はキョロキョロと辺りを見渡し、紙の束を取り出すとゆっくりとめくり始める。夢の内容を記録したレポートだろうか。正解だったようで、あぁこれなんかわかりやすかったなと、ある一例を見せてくれる。
二〇一〇年八月八日 鳥越薫
レストランで彼女とご飯を食べていたら、隣のテーブルで食事をしていた客が突然暴れ出した。すごく暴力的で武器を持っているようには見えなかったのに次々と人をなぎ倒していった。彼女を守ろうと思ったが間に合わず、彼女は倒れて次は僕が襲われた。襲われた瞬間に気づいたがその客とは兄で、兄は凄い形相で拳を振り上げ僕を罵った。店にはいつの間にか水があふれ、流されている内に目覚めた。
「この鳥越って人はこの一年前くらいに実のお兄さんを水難事故で亡くされてるんです。しかも溺れた弟を助けるために、身代わりになってくれたらしくて」
「その状況で見るのが兄に殺される夢なのか?」
「結構多いらしいっすよ。罪悪感とかそういった感情がそれを見せるのか、自分が死ぬはずだったのに、ってことでしょうね」
あっ理解し難いって顔ですね。馴れ馴れしく揶揄されるのに慣れず、思わずしかめっ面を返す。八幡は人の懐に入るのがうまい。それは認めざるを得ないだろう。
こほんと一つ咳払いをする。それ以上の言葉を続けるつもりはないのか、話は先に続いた。
「春川さんが研究されている『明晰夢』をトラウマ記憶の解決に役立てようとしている学者もいるにはいますよね」
何時の間にか用意されていたお茶を一口すすり、春川の方に目を向ける。視線を受けて、仕方がなさそうに頷く仕草が見えた。
「そういっている学者も確かにいる。つまり、夢を夢と自覚させた上で悪夢を自力で克服させるわけだが…」
「なんだ、煮え切らないな。春川はその説をどう思っているんだ?」
「そうだな、そうあって欲しいと思っていたが…」
考える様子に、沈黙が落ちる。ぎしりと椅子が軋み、こもった空気の中で視線ばかりがさまよう。会話の切除を逃してしまったその雰囲気に忍び込むようにして、八幡が口を開いた。
「…ちなみに俺は、明晰夢がトラウマ記憶の解決、いわばPTSDの治療に役立つっていう仮説はあんまり有用ではないだろうなって思ってます」
「へぇ、理由は?」
勘違いしないで欲しいのは、睡眠自体のことではなく明晰夢は、って話なんですが。前置きをおいて、話し始める。
「意識っていうのは未だに解明できない多くの謎を含んでいます。繊細な仕組みを有しながら、その結果起こることは大雑把で予測がつかない。俺はですね、言ってしまうと神様だとかは信じていない。人間の『意識』だって脳の神経物質の働きに過ぎないと思ってるんです。だって人間って、一つの器官が狂うだけで現実と夢の区別さえつけられなくなるんですよ?」
白昼夢の仕組みって知ってますか。知らないと首を振れば、八幡はその説明から始めた。
「前脳基底核という脳幹の信号を受け取る部位があるんですが、ここを損傷すると人間は夢と妄想の区別をつけられなくなることがわかっています」
夫と死別したある女性がいた。この人物は前脳基底核を動脈瘤で損傷したが、それ以降睡眠中の夢は一層鮮やかになり、見る回数も増えた。ベッドに横たわっていると夫が現れ、しばらく話をし、そして入浴を手伝ってくれた。けれど気づくとまだベッドにいて、部屋に一人っきりだったという。彼女は夢を見ていたわけではないと主張するが、現実で死んだ夫が夢以外で現れるはずがない。
「結局、脳を人間の力で制御するには未だ未知の部分が多すぎるんです。加えて、明晰夢でトラウマを克服すると言っても結局今ある仮説の言っていることは、魂の存在を信じているオカルトじみたもんです。でなきゃ脳の働きによって見せられている悪夢を、目覚めた意識で克服するなんて言えるはずがありません。悪夢の中で自らの魂の存在を認識し、悪夢の大元を叩くなんておとぎ話みたいな話ですよ」
そんな複雑なことさせれば、脳の方が先に壊れてしまう。薬物投与の方がまだ分かる話です。
話しているうちに興奮してきてしまったのか、八幡はカップを手に持つと勢いよく飲み下す。今度こそ俺が淹れますからと急かすように立ったままこちらを見下ろすため、マグカップを渡さないわけにはいかなくなってしまった。
「本当にこいつほど喧しい奴を俺は知らないぞ」
「しかし嫌いじゃないだろう」
声は優しいが、どこか覇気がない。みればうっすらと目の下にクマが滲み、思い返せば珍しくあくびをしていたことも思い出す。おい、ちゃんと寝ているのか。そう問えば、最近夢見が悪くてねと弱音が返ってきた。
「夢の研究者が、夢に呪われていたら世話がないな」
「はは、手厳しいな」
狭い部屋では会話も筒抜けだ。八幡が湯を沸かしながら春川に声を投げる。「春川さん、夢見悪いんですか? それなら一度、自分でも明晰夢で悪夢を退治してみたらどうですか?」
普段からすれば、ずいぶん雑な物言いだ。おい、と諌めようとすると春川が肩に手を置いてきて、宥めるように首を振る。
「いやいい、検証できる機会があるなら行うべきところをしていない。私が悪いんだ」
重々しく響く声の調子に流石に二の句が継げなくなる。
お湯が煮え立つ様子を見計らい、ティーパックをそれぞれのカップに入れていく。律儀にタイマーで図っているのを見ると、普段の言動には似合わず几帳面でもあるらしい。熱いので気をつけてください、と言い添えて渡される紅茶の香りにふっと力が抜けるのを感じる。
「あっ、そういえば家から持ってきたんですが要りますか?」
声と共にガサガサとカバンの中から取り出されたのは鮮やかな色をした蜜柑で、途端に言いようのない気持ち悪さを我慢できなくなる。近所の人から大量にもらってしまって、と喜色を滲ませていた八幡にもその様子はわかったのだろう。慌てたように鞄にしまい、頻りに謝ってくる。その必要はないと言っても謝罪は止まず、春川もどこか気遣うような視線を投げてくるため気まずくなり、急ぎ研究室を後にした。
夕夏が椅子に座っている。
物言いたげな様子でこちらを見ている。腹の前で手を組み、橙色の鮮やかなスカートを着ている。目の前に出された紅茶を一口啜る。すっぱい。
白いカーテンが風に遊ばれるようにはためくが、肝心の風は感じられない。ざらざらとした木目を指で辿るようにして机を撫ぜると、じっとりとこちらを責めるような瞳が少し和らいだように感じた。
「お兄ちゃん」
ショートカットの黒髪が揺れる。大学卒業後、年数度しか会えないままでいた妹の姿。大人びた表情が見慣れず、幼い頃のままの妹の姿を探す。これは夢ではないだろうか。そう思えたと同時に、身体が不思議と軽くなる。
「お兄ちゃん」
楽しげな妹の声。目の前にはランドセルを背負った子供がいる。ぎゅっと手を繋ぎ、歩くのは通学路だ。猫さんだと石垣の上に手を伸ばすのを制し、目的地へと急ぐ。今日は何して遊ぼうかと、気ばかりが急く。『あの子達のお母さん、若いのにまぁ苦労して』『でも自業自得ってものでしょう?』鬼ごっこに隠れん坊。中学生の遊びにしては幼稚だが、妹達は楽しそうだ。『計画性ってものがないのよ』『泉田さんちのお子さんは何をあんな子達に構ってるのか』『あぁでも噂で聞いた。あそこの家の子の母親もね…』声に追われ、早く行かなければと心ばかりが焦る。ヒソヒソと周りで囁かれる言葉を掻い潜り、ただ妹の手を握りしめて離さないように握りしめる。
もうすぐ着く。もうすぐ。
『もうあの子供らと遊ぶな。親の言うことを聞けないのか?』
パッと起きた時、夢の大半を忘れていた。何か重要なことがあったはずだろ思うのに、それがわからない。それともわかりたくないのだろうか。
冬の空気が吹き出た汗をひんやりと冷やす。ここ数日無精をして剃らなかったヒゲが、ざりざりを手を刺す。暫く振りに、春川のところに行こうかと唐突に決意する。
半月ぶりの研究室に、特別変わったところは見受けられなかった。あぁお久しぶりです、と資料を読みながら蜜柑を食べていたらしい八幡が手を挙げて挨拶をする。蜜柑の香りに僅かな吐き気を覚えて顔をしかめると、その様子に気づいたのだろう、口に放り込んで皮もすぐゴミ箱に捨ててくれる。感謝を込めて視線をやれば気にしないでください、とでもいうように手が左右に揺れ動いた。
「春川はどうした」
「あぁ、弟さんとの電話でちょっと席外してます」
お茶でもいれますね。
がたりと椅子から立ち上がり、湯沸かし器のコンセントが繋がれる。それを横目で見ながら、手持ち無沙汰に視線をあちらこちらに彷徨わせる。雑然と広がった資料の山。背凭れつきの椅子に、回転椅子。そのうち戻ってくるであろう春川のために、パイプ椅子も用意する。少し換気もした後なのだろう。暖房特有のこもった空気はなく、部屋全体がいつもより澄んでいる。時計の秒針の音を嫌っているため時計が無いのが不便だが、時間を忘れられるこの部屋の雰囲気は居心地がいい。
少しぼんやりしていると、目の前の机にマグカップが置かれる。並々と注がれたコーヒー。牛乳は用意したのか、と冗談交じりに聞けば、泉田さんも要りますかと小さな紙パックの牛乳が差し出された。春川の電話は長引いているのか、なかなか帰ってこない。
しばしの沈黙の後、そういえば、と八幡が口火を切る。
「『The Man』って、泉田さんは見たこと無いんですか?」
「俺か? 俺はそういえば、ないな」
「本当に? あの機械の使用回数で言えば、泉田さんがダントツの一位じゃ無いんですか」
「それは春川から聞いたのか。まぁいやしかし、そうだな…」
今までの夢を思い出しても、都市伝説のようなその存在が現れたことは無い。しかし、それに類するものは見たことがある。
「考えてみれば、必ず起きてしまう原因はあるな」
「それはどんな?」
食いつきは早いが、そうそう言えた理由では無い。春川にさえ伝えていないことを、どうして伝えられようか。
無言で首を振れば、追及は無駄だとわかったのだろう。八幡は手を首と同じ高さにあげて降参とでも言うようなポーズを作る。オーバーリアクションも甚だしい。失笑すれば、意に返した様子もなく大袈裟な動作で手を顔の前で組み、肘を机につく。
「俺はですね泉田さん。実は『The Man』っぽいものを見たことがあるんです」
「ぽいって。『The Man』ではなかったのか?」
「えぇ、僕にとっては別に、正体不明の存在ではなかったんで」
「意味がわからないな。お前の知り合いだったのか」
「えぇ、まぁ」
「誰だったんだ」
勿体振るその様子に、別段興味がなくてもイライラとした感情が湧いてくる。しかしよくよく観察してみれば、それは僅かな逡巡が口の滑りを鈍らせていることが見て取れた。焦らさずじっくりと待ってやれば、出てきた言葉は短いものだった。
「父でした」
「父親?」
えぇ、と頷くその顔には常のような表情はなく、鬱屈とした感情を抱えていることがわかる。それに少しばかりの親近感を得たが、あえて言葉には出さない。
「俺の父、って言っても会ったことも喋ったことも無いんですけどね。俺実は、できちゃった婚でできた子供でして。母が女手一つで苦労して育ててくれたんです」
真顔で告げられるそのエピソードに、胸中に滲み出る嫌悪感をどうにも隠せそうにない。実際、それは表情にも出てしまったのだろう。八幡が困ったような視線を向けてくる。
「予想とは違ったけど、ひどい顔ですね」
「…いや、君も苦労していたんだな」
同情するよ、と視線を向けると反応が予想外だったのだろうか。訝しげな視線を受けるも、それ以上の感想は浮かばない。
「泉田さんって、できちゃった婚とかそういうの、嫌悪感あるタイプでしょう?」
「否定はしないが、悪いのは親だろう」
子供は親を選べない。苦労が目に見えているというのに考えなしに行動して、結果的に子供を苦しめる。八幡の親を責める理由はあっても、八幡自身を詰る意味は無い。
コーヒーは既に冷めている。身体を温めるものはなく、それが無性に苛立つ。もう一杯淹れようと立ち上がった時、八幡が口を開いた。
「いやまぁ、俺も父親は嫌いですけど母親を悪く言われるのは気分悪いのでやめてほしいですね」
「…しかし」
「確かに苦労はそれなりにしましたよ。実家の方に世話になっていたから金の心配は程々にしかなかったけど、家を間借りしている状態で居心地は悪かったし、授業参観だってなんだって俺にとってはないものと同じでした。学費の工面だって申し訳なさもあるから勉強の合間にバイトだってしてました。でもね、俺にとって母親は誇りでもあった」
語調は荒いが怒っているわけではない。そうと悟れるのに、納得しがたい気持ちを無視できない。表情はこわばり、目が乾く。耳に飛び込んでくる言葉は受け入れ難く、全身の血が引いていく心地がする。
「泉田さん」
「なんだ」
「泉田さんに言っても仕方がないし、これは半分愚痴みたいなもんなんですけど聞いてくれます?」
「言ってみろ」
「…知りもしないで知ったような口を聞かないでほしいんです」
春川がタイミングよく電話から戻ってきたためお開きになった朝の会話の続きを思い出す。『The Man』の正体について。春川を交えて語られたのは、八幡のとある仮説だった。
『その“もどき”がよく現れる夢があるんです』
学校から帰ってきて、家の鍵を開ける。祖父母も母も居ない日が月に数回だけあり、その日だけは何者の目も気にせずにのびのびと過ごせた。玄関で靴を揃え、玄関横にある水槽の中に餌を投げる。誰もいない家の中は静まり返っているが、ぴちゃん、と水の跳ねる音がわずかに聞こえる。
居間を超え、暖簾をくぐると台所が見える。音を発しているのはそこだ。ぴちゃん、ぴちゃんと水道から水滴が断続的に落ちて、桶の中で浮かぶ果物を絶え間なく冷やしている、出かける間際に母が浮かべてくれたのだ。窓の隙間からひぐらしの声が聞こえて来る。夏のある日。母の優しさだけが浮かべられた水桶の中。
『ずっと此処にいたい。そう思った瞬間、その果物が取られてしまうんです。自分によく似た顔をした、しかし年老いた男に』
八幡に表情はなく、かける言葉を逡巡しているうちに春川が声を上げる
『なるほど。それで、その夢から何を見る?』
春川は八幡が己の成り立ちを泉田に話したことを特に驚かなかった。逆に知っていたのかと問うと『うちも結局、妊娠したから結婚したような家庭育ちだ。隠すようなことでもないな』とあっけらかんとしたものだった。
『俺は父親に会ったことはないし、写真すら見たことがない。だから、夢の中に現れる男が本当に父親の顔をしているのかもわかりません。けど、“絶対に此処にいるはずがない”と思える相手はその顔も知らない父親だけなのは確かです。これって、この父親もどきが 俺にとっての“The Man”だってことだと思うんです』
『…つまり、“The Man”は正体不明でなかったとしても夢に現れている可能性があるってことか』
『えぇ、しかも恐らくそいつが現れることによって例外なく人間は、夢から追い出されるんです』
成る程、考える余地はあるかもしれない。春川の声は上擦り、興奮を隠しきれていなかった。じゃぁ次はそれをどう検証するかだが…。
春川の声が遠くなる。泉田は自分の思考が埋没していくのを知りながら、それを止めることはしなかった。絶対に此処にいるはずがないと思える相手。泉田には心当たりがなかったがしかし、『絶対此処にいてほしくない相手』ならばすぐに思い当たった。
父親だ。
夕夏が椅子に座っている。
物言いたげな顔をして、腹の前で手を組んで温めている。人形が視界の端で踊り、オルゴールのネジがくるくる回っている。白いカーテンが風にそよいでひらひらと舞っている。
蜜柑が山のように置かれ、夕夏が一つ一つ手にとっては剥いていく。そんな量を用意して、そんなに好きだっただろうか。
「お兄ちゃん」
おかっぱ頭の少女が手のひらに蜜柑を乗せてこちらに差し出してくる。白い筋がうまく取れないと、甘えた調子でねだってくる。一つ一つの筋を取っていき、小さな手に渡す。傷一つない自分の手を見て、春川と遊ぶ約束をしていたことを思い出す。駆けっこをして、走って走って、走り続ける。
永遠に子供のままでいたい。悪いのは全部親の仕業だ。
春川が呼んでいる。
呼びかけに応じて振り向くと、大きな影が立っている。
何度目かの朝を、泉田は幾分落ち着いた気持ちで起き上がった。そうだ、確かにあれは父だ。自分の父親だ。認めたくない気持ちを抑えれば、はっきりとした形ですぐに現れた。夢の中でさえ邪魔をするその存在に、憤りが隠せない。
どうにか彼奴を消す術はないだろうか?
研究室に着くと、そこには運良く八幡しかいない。
「春川はどうしたんだ?」
「なんか室長にだったかに呼ばれて出て行きました」
「成る程、忙しいな」
「研究員も大変でしょうね。泉田さんはどうしたんですか?」
「ちょっと明晰夢を見たくてね」
「…明晰夢にも中毒性ってあるんですか?」
春川さんが帰って来たら起こしますからね。八幡の声を背に、実験用ルームに入る。ヘッドバンドに繋がる機械の操作方法は、だいたい把握している。眠りに入りやすいように部屋の照明を落とし、これを試してみようと棚の引き出しから装置を取り出した。春川からはあまり効果を得られるとは思えないがと教えられた装置は、機械に繋ぐだけの簡単な装置だ。
三つの単語を任意で選択し、その単語が同調する脳活動領域を刺激することによって夢の内容をもっと自分本位に変更する。
思い込みを強くするといった意味合いの方が強く、うまくいかない場合の方が多いと春川は言っていたがそれでも構わない。単語を一つだけ登録し、ヘッドバンドを装着する。夢の中から父親を追い出す。その術はどんなものでも、試してみる価値がある。
夕夏が椅子に座っている。
物言いたげな顔をして、腹の前で手を組んでいる。木目調のテーブルをなぞる。新緑が目の端に映るが、それは窓の外の光景だ。カーテンがはためくのを嫌ってか、夕夏が窓を閉める。
「趣味が変わったな」
口は自ずと開く。すらすらと溢れる言葉は気取りがない。深く心地良い気持ちで息を吸うと、柑橘系の香りがふわりと鼻腔をかすめる。
「綺麗なテーブルでしょう」
柔らかく微笑んだその姿に、幼かった妹の影がちらつく。違う。彼女も俺の妹だ。守るべき子供も、やがて大人になる。唐突に、息苦しさを感じた。
「…元気にしてたか?」
「お兄ちゃんこそ、海外はもう慣れた?」
「心配しなくても、うまくやってる」
一人暮らしにしては、広い部屋だ。清潔感のある部屋には光が満ち、天井を見上げれば木々の緑が映り込んでさざ波をうっている。棚の上にはぬいぐるみが可愛らしく飾られて、微笑ましい。引っ越したと聞いて心配していたが、良いところだ。
「一人暮らしにしては、良いところに住んでるな」
先ほどまで笑っていたというのに途端、物言いたげな顔。ブスくれた表情も可愛いが、やはり笑っていてほしい。笑っていてほしいのに、夕夏の表情はだんだん青ざめ後ろを指差す。
しかし、後ろに恐怖はない。
「あぁ、春川も来ていたのか」
「夕夏ちゃんに呼ばれれば来ないわけにもいかないだろう」
後ろからゆっくりと現れたのは春川で、向かい合わせに座る兄弟のちょうど間の椅子に腰かける。夕夏はまた元どおりの澄まし顔。口元に微笑を浮かべ、お茶の準備を進める。理想は目の前にあり、ここは今や現実だ。
「そうだ、今度旅行に行かないか」
春川が唐突にそんな申し出をする。女に奥手なタイプの春川がそんなことを言い出すのは不思議であったが、それも良いかと思う。
「いいわね。予定を立てましょう」
「近場にしよう。身体に負担をかけてはいけないから」
「ふふ、そうね。近場の温泉とかはどう?」
「そうだな、レンタカーを借りて二人で」
「あら、違うでしょう?」
春川と夕夏。二人は俺を置いてけぼりにしたまま盛り上がる。違う。夕夏は春川には敬語だった。春川に似たこの男は一体誰だ?
春川らしき人間がぐんぐんと縮んでいく。意識もそれに続いてだんだん遠くなり始めていた。これは夢だったのだろうか。いや、現実であって欲しかった。春川だった子供が何事かを囁く。その瞬間、意識が完全に遠のいた。
目前に春川の顔があり、文字通り飛び上がる。夢の続きかと思えば現実で、近くには八幡もちゃんといるようだった。
ままならない思考の端で、たった一つの理解が回っている。それは止めることもできず、口から零れる。
「考えてみれば、夕夏とお前の弟は仲がよかったな」
心配ばかりが先んじて言葉を失っている春川に告げるには酷な一声だったのだろうか。常の平静さをかなぐり捨てて、纏うように抱きしめてくる。うっすらとぼやけた視界の中に戸惑う八幡の姿が見えたが、今はじっと黙ってことの成り行きを見守っているらしかった。そしてその横にある、小さな影。自分の脳が見せた幻が、現実にやってこようとしているのだろうか。いや、すぐに消えてしまう幻だ。夕夏はいない。居るはずだった子供もいない。
春川がすまなかったと譫言のように漏らす言葉が耳を何度も震わすが、怒りも何も浮かばなかった。こいつがどこまで知っていたのかなどわからない。しかし事の始めは自分の狭量が原因だ。
物言いたげな表情。腹をかばう様子。どこからか漂った柑橘系の香り。見知った男の影。気付くべきところはたくさんあった。そして気付きたくないと思ったことを、夕夏は知っていた。
「春川、お前のせいじゃない。夕夏が口をつぐんだのは、私に言いたくても言えなかったからだ。夕夏の死に際を知ることができずに苦しんでいたのも、結局は自業自得だ」
身体にまわる腕の力が強くなる。白昼夢はいまだ消えず、ちゃんと起きれた?とでもいうように可愛らしく笑うので、仕方がなく頷く。すると満足したのか、夢はうっすらとぼやけ始めてやがて消えた。
もう夢は見ないだろう。
そんな確信と共に腕に残った現実を、強く抱きしめる。
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