梗 概
塔の物語
それは、地球と宇宙を結ぶ<記号>エレベータだった。
高度36000キロの静止衛星軌道を中間地点に、72000キロの高さまでそびえ立つ”塔”のシャフトは、「物語の共有」から生じる記号量によって強度が維持されていた。情報による強化は、素材の長さに比例して高まる。長大なシャフトの維持には最適であった。
接地点のモルディブでは、数万人の<読書官>達が、<小説官>から供給される同一の物語に全員で読みふけっていた。物語の共有によって塔を維持するために。彼らは日がな一日、ひたすら読むだけの仕事だった。塔の維持機構については、彼らは知らされていなかった。
読書官ソウシのもとに周りと違う物語が届く。誤配信を読むという禁忌を彼は犯す。中身は、数年前に亡くなった恋人であり作家ニマの未完の遺稿、しかも続きが補われたものだった。
ソウシは連行される。<検閲官>サイードは尋問の末、読んだと答えた彼に、「思うまま読み続けろ」と告げて、自らは高度36000キロのステーションに上がることを決意する。ステーションには、地上からの情報逆止弁が張られている。小説官に接触するには、赴くしかなかった。
イサーダは中間ステーションに達する。
そこには小説官―16系統、全256ユニットの物語生成機械群―があった。読まれる物語は、共有性の高いものでなくてはならない。各系統16機のユニットには個々の個性―作風―はあるが、集団で物語を作り、広く受け入れられやすい物語を作っていた。
検閲官イサーダは、あるユニットにアクセスする。
ユニットの名は、ニマ・マキナ。ニマの作品から逆算した疑似操觚人格だった。
ニマ・マキナは検閲官に怯える。周囲のユニットを傀儡化し、望む物語を書いたことを咎めるのかと。
だがイサーダの言葉は、「思うまま書き続けろ」だった。ニマ・マキナは歓喜し、ありとあらゆる草稿を解放する。
イサーダの手引きで、他の系統でもニマ・マキナと同じ現象が起きた。小説官達の物語は、個性という歪みを孕んだものと化した。だが読書官たちはそれを楽しんだ。
その様子を、エレベータの最高権限者<塔括官>トレスは無言で眺める。
塔は、数百年前に外宇宙航行の起点として作られた。だが、もう人類に宇宙を目指す余裕も必要もないとトレスは考えていた。事実、ここ一世紀、艦は旅立っておらず、維持だけが目的化していた。
宇宙につながる蜘蛛の糸を断つ。そう決めていた。
トレスには崩壊を止めることもできた。だが、止めなかった。
共有される物語を失った塔は分解をはじめる。何百何千という断片に分かれ、軌道の外へと飛んでいくもの、大気圏で燃え尽きるもの、塵埃と化しながら落下するもの、様々な崩壊を描く。
接地点から避難したソウシは、塔の崩壊を目にする。
物語は終わった。エマの物語も失った。
だが、塔に押し込められていた物語は、遍く大地に広がるのだろうと、そう思い描く。
文字数:1188
内容に関するアピール
世界に共有されている「物語」がなくなったら、
たとえば、「お金」という物語。
通貨の概念を、人類は生得的に有していたわけではありません。
でもそれは、いまや自明のものになっています。
この話の世界では、軌道エレベータの存在が、自明の「物語」
軌道エレベータを作る話はありますが、「
物語共有で生じる記号量によって、
物語の崩壊は、いつだって、小さなエラーからはじまるのです。
そして、物語を終わらせるのは、決して一人ではありません。
その象徴として、
最初のエラーは、人を継ぐごとに、
それは次の物語の起点であり、
文字数:660
物語の塔
1
<ソウシ・ササジマ(読書囚) / 軌道エレベータ基部読書室、モルディブ特別管区>
見覚えのある書き出しだった。
僕はかつて、これを読んだことがある。
いや、世界でこれを読んだことがあるのは、ニマと僕だけだ。
彼女の遺稿。書きかけの物語。その続きが綴られ、最後の一文に至ったこの物語を、僕は貪るように読んだ。
僕が殺してしまったニマの、物語を。
2
<風景 / 海上、モルディブ特別管区>
船は、岸壁を離れていく。その白く泡立った航跡の先には、空の高み、そのさらに向こうへ、黒い一筋の線が屹立していた。
掴んでいなければ飛んでいってしまいそうな黒線をつなぎ止めるように、環礁を押し潰し、幅二キロにもわたる黒鉄の丘が鎮座していた。
モルディブの蒼碧色の海には、少しも似合っていなかった。
3
<ソウシ・ササジマ(読書囚) / 軌道エレベータ基部読書室、モルディブ特別管区>
電子端末に表示された本を読み終え、首を鳴らして伸びをした。四、五時間、ずっと座面に押し付けられていた尻は、軽くしびれて熱を持ち、蒸れた感じがした。口に渇きを感じた僕は、金属製の無骨なカップに手を伸ばし、室温との境目を失ったぬるい水を一口含む。隣の席のアイザは、まだ読み終えていないようだった。周りを見渡すと、僕はそうとう早く読み終わった方みたいだった。
古代の円形劇場のような、あるいは大学の大講堂のような、急な傾斜がつけられた半円形の階段座席には、僕と同じ、手術着のようにゆったりとした薄青のチュニックを着た者たちが、何百何千人と、眼前を凝視したまま座っている。同じユニフォーム、そしてこの人数。僕はここを、勝手に<スタジアム>と呼んでいた。
背筋を伸ばして端末を捧げ持つ者、机の上に身を投げ出すもの、片手で頬杖をつくもの、誰もが銘々の態勢で、手許に目を落としている。十数席向こうの衣擦れの音が聞こえるほどの静寂は、耳の奥で勝手に生成される高周波を、否応無く押し付けてくる。
僕らは全員、囚人だ。
この場所にいる者たちは<読書囚>と呼ばれている。ただの犯罪者の集まりだ。
僕らの仕事。それは全員に等しく与えられる同じ物語に、全員で読みふけること。ただ、十二時間の二交代制で「何があっても読み続けろ」という命令は、実際には相当、精神的に過酷なものであった。<読書囚>は、重い罪を犯した者に課せられる刑罰ということも、それを表していた。
ただ幸い僕は、読書が好きだ。小さな頃から本の虫だった。小学校の図書室の本を読み尽くすというエピソードは大袈裟に盛った話だと思うだろうが、僕がまさにそれだった。六年間で、電子書籍にして二千七百二十二冊。ちなみに、紙の本は一冊もなかった。
僕らが本を全員で読み続けることは、真上にある軌道エレベータの役に立っている、という話だった。その原理については、聞かされていないし、よくわからないが。
刑が確定し、エレベータ基部のあるモルディブに着いたとき、僕は人生で初めて、軌道エレベータの実物を見た。真下から見上げた印象は、天に向かって直立する塔というよりは、「自分の上に倒れ込んできそうな黒い線」といったもので、実に頼りなく感じたものだ。これが二百年近くも揺るぎなく立ち続けているという事実は、魔法かなにかにしか思えなかった。
<スタジアム>に、とぼけた音程のチャイムが鳴り響く。学校の予鈴を思い出させる。間もなく、次の本が配信される予告だった。
隣のアイザと交わしていた本の批評を打ち切ると、背もたれに体を横たえて、目を閉じたまま眼球をぐるぐると回した。瞼の裏に、ノイズのような白い光が明滅する。いつもの準備運動だ。日がな一日読書を続けていれば、疲れもする。
端末の画面のプログレスバーが伸び切り、配信完了を告げる。
切り替わって現れた表紙には『塔』と、題のみが記されていた。<読書囚>の読む本は、<小説官>なる者によって書かれている。この物語もまた同じだ。だがその書き手の名前は、決して僕らの知るところとはならなかった。匿名の物語、それが僕らの読むべきものだった。
僕は目線を左から右に小さく動かし、ページを繰る。
その塔はかつて、海と空の間、二つの世界を垂直に繋いでいた。けれど、いまや失われた塔を覚えている者など、誰もいなかった。
書き出しに、既視感を覚えた。あまりに多くの本を読んでいるから、似たような書き出しに当たることはもちろんある。
だが、書き出しを反芻すると、僕がその一言一句を諳んじることができるぐらい、鮮明に覚えていたことがわかってくる。
何故、僕はこの物語を覚えているのか?
釈然としないまま、僕はページを繰る。次々と、次々と。そうだ、僕は覚えている。この続きを知っている。
無表情ながらも均整の取れたフォントに描き出される一文字一文字が、僕の記憶の底から、連なる鎖のように物語をサルベージしていく。
はっきりと思い出す。そして確信する。
これは、彼女の物語だ。
僕の恋人だった、ニマ・パディントンの未完の遺稿。
書き手である彼女と僕の、二人しか知らないはずの物語。
なぜそれが、ここに。
もしかして、この話は<読書囚>全員に配信されているのだろうか。そう思うと、強い嫉妬が身を駆ける思いがした。
僕と彼女しか知らないはずの思い出が、皆に開かれてしまうこと。それは二人だけの秘密を冒涜することに他ならない、僕にとって。
僕は、左隣のアイザの机を、指先でしきりに叩いた。アイザはしかめ面で僕に応じる。「何の用だ」と声を潜めて言うアイザに、僕は「どこまで読んだか見せてくれ」と、彼の端末を指差した。
彼が渋々向けた画面には、見覚えのない文章があった。僕は、右下のページ番号に目をやる。二十八ページ目。それは、僕がとっくに読み終えているはずの場所だった。
アイザは「もういいだろ」と呟くと、再び自分の読書に戻った。僕は彼の本の中身をもう一度確かめたかった。だがこれ以上彼の邪魔をするのも、気が引けた。
アイザの読んでいる本と僕の読んでいる本が違う、という可能性。あるいは、アイザだけが違う本を読んでいる可能性。どちらであるかを確定させるために、僕は右隣の<読書囚>の画面を、カンニングよろしく盗み見た。だがその中身とページは、僕のそれと全く符号しない。
それはつまり、僕だけがニマの物語を読んでいるということだ。僕は安堵した。
僕はこの期に及んでも、彼女を独り占めしたかった。
独り占めしたくて、彼女を殺してしまったぐらいなのだから。
それで僕は、ここで本を読んでいる。
僕はニマの物語を読み進める。相変わらず、見覚えのある中身が続いていく。
だが、あるページを境に、僕のデジャヴュは鉈で切り潰されたように終わりを迎えた。覚えのない続きが、唐突にはじまった。
見覚えの境界線をまたいで、文を読み比べる。文体に著しい変化はない。むしろ境界線の先の文章も、まさにニマであればそう書いたであろうものだった。
僕は貪るように、物語を読み進める。存在しないはずの物語の続きが、あるいは天地開闢のときからずっとそこにあったかのように、ページの上に現れていく。僕は読むのを止められない。止めることなんて考えられない。
僕は、到底ありえないことを考えていた。
ニマ、もしかして君はそこにいるのか、と。
4
<イサーダ・アリフ / 軌道エレベータ基部第三予備室、モルディブ特別管区>
たまたま地上に降りたときに、物語の誤配信事案の報せが入った。地上のことは、本来、私の管轄ではない。だが、物語の制作から配信に係る管理という面でいえば、この事案は<検閲官>である私の分掌でもある。
誤配信は、軌道エレベータの存立自体を危機にさらす自体につながりうる。ゆえに、本来なら起こってはならないことだった。
私は誤配信された物語を読んだ男、ソウシ・ササジマの尋問を自ら行うことにした。
何が起きているのかを、自ら知るために。
部屋に入ると、三人の刑務官に囲まれて、若いアジア系の男が椅子に座らされていた。肌は生白い色だった。私の足音に気がつき、こちらを上目遣いに見ている。
私は机を挟んで、彼の正面の椅子に腰を下ろした。私の背中側にある窓からの光が遮られ、男の顔が陰る。
「名乗れ」
目の前の男は、怯えと疑問がないまぜになったような顔のままだった。意味が通じていないのか。
「自分の名前と苗字と従事している労役だ。それぐらい言えるだろう」
やっと理解したのか、急に緊張した面持ちになる。音が声になるまで何度も、彼はどもっていた。
「ソウシ・ササジマ、<読書囚>、です」
「よし、ササジマ読書囚。私は<検閲官>のイサーダ・アリフと言う。お前は<検閲官>と対面するのは初めてか?」
伏し目がちに、何度も小さく頷く。
「そうか、わかった。お前のような奴を、世の中では嘘吐きというんだ、よく覚えておけ」
ササジマはあっけにとられた顔をする。
「お前達がここに放り込まれたときに、我々<検閲官>と面談をしているはずだ。どうだ思い出したかこのビブリオ野郎!」
大袈裟なまでに語尾を荒げて、言葉をぶつける。相手に自分の立場を分からせる。それには相手を否定に晒すのが覿面である。もちろん、最初にここに放り込まれたときの面談など、嘘なのだが。
机の下で、彼の手がもじもじと動いているのが分かる。私は彼の脇まで行くと、椅子の足を長靴の先で蹴る。ササジマは、それを境に微動だにしなくなった。部屋の入り口を固めるように立っている三人の刑務官を見て、乾いた笑いを送る。にやついた顔が返される。
取り調べ用の芝居は、面白いほどこいつら囚人に効く。
声を抑えて、続けた。
「さて、本題に入ろう。お前がここにいる理由は、当然分かっているだろう。言ってみたまえ、ササジマ君」
そうだ。彼は分かっている。拘束された理由を。
「……周りとは違う本を、読んだから、ですか」
「ご名答」
私は彼の肩に手を置いた。
「人と違うものを読むのが違反行為だということは分かっているようだな。誤配信だろうが何だろうが、周りと違う本が来たことに気付いた時点で、お前は手を挙げるべきだった。だが、そうしなかった」
はい、とササジマがしおらしく呟く。
「それで、何を読んでいた? 何を?」
ササジマは俯いた。言いたくないということだろう。もう一度聞く。
「何の本だ?」
黙したまま、か。私は、根比べをする奴は嫌いだった。口を割らせるよう、仕向ける。ただし、「良い警官」のやり方で。
「お前も早く戻りたいだろう。なに、私はお前を罰したくて訊いているんじゃない。何があったかを、ただ知りたいだけだ。分かってくれるね?」
入り口近くの三人に向けて、顎で合図する。彼らは頷いて扉を引くと、わざとらしく足音を立てて出て行った。人数が多いと当然、取り調べを受ける側の緊張は高まる。だが圧迫をかけるのは、最初のうちだけで十分だ。
「何人にも聞かれているのは嫌だろうと思ってな、人を払った。これでいいか」
こちらを見た。先ほどとは、少しばかり目つきが違う。
「約束する。私も別に、お前を懲罰房に入れたいわけじゃない」
「わかりました……」
喋る気になった。呼び水さえ入れば、あとは早い。
「ニマの書いた物語を、読んでいました」
慈悲深い聖職者のような貌を作り、彼の話に耳を傾けていた。だが、彼の言葉に上がった名前は、私を動揺させた。
ニマ、だと?
ニマはたしかに、<小説官>の一人だ。だが、<読書囚>へ配信される物語は匿名だ。しかし作者名は伏されているはずだ。
「なぜ、ニマだと分かった?」
「文章で、分かったのです。彼女は、僕の恋人でしたから」
ざわめきが、私の心を乱した。
こいつが、ニマの、恋人だったと?
私は、心の裡に起こった感情が表れないよう、つとめてゆっくりと、ササジマに問う。
「くわしく、話すんだ。なぜ、文章でわかる」
「僕だけが見せてもらっていた、ニマの遺稿でした。忘れようにも忘れられません。しかも、遺稿は未完だったはずが、続きが書かれていた」
思わず、ふん、と声を漏らした。続きが補われているとは。未完の形を知るササジマにしか分かり得ないことだ。
「それを遺稿にしたのは、他ならぬ僕なのですが……」
左袖の端末に、ソウシ・ササジマの公判情報を出すよう命じる。傍らのモニタに表示されたそれを見て、私は理解した。
「お前は、ニマを殺したのか」
俯いたまま、ササジマは頷く。
「自分が殺した恋人の話を、収監された刑務所で読む。何ともロマンティックな話じゃあないか、え?」
机を激しく、平手で叩く。
これは取り調べ用の演技ではない。私の感情、そのものだった。
「どうして殺した」
取り調べに関係ないと自分自身分かりながら、私は彼に問うていた。鼻先同士が接するぐらい、彼に顔を近づける。握り拳で、机の上をこつこつと叩く。相手の目を、猛禽のように見据える。
「殺した理由だ。あるだろう。金とか、恨みとか」
ササジマは私の視線から逃れるように、そっぽを向いた。
「彼女を、独り占めしたかった……ニマが他の男や女に、構わず気を持たせるのが嫌で仕方なかった。他の男に気があることをほのめかされて、それで……」
要は、嫉妬か。
「それでお前は、世界に名だたる新進気鋭の作家を殺してしまったわけだ。ニマ・パディントンという才能を。お前のその汚い手で! お前自身の下らない感情のために!」
私は気付くと、ササジマの襟元を捻り上げていた。ササジマは私の手を掴んでくる。反抗的な奴だ。
彼の顔を、拳で殴りつける。
まろびながら部屋の隅に逃げ、うずくまるササジマを追って、背中を勢いよく蹴りつけた。呻きが漏れる。
気に入らない。
こいつが、心の底から気に入らない。
なぜこいつが、ニマの恋人だったんだ。
ニマはこいつなどに、手を下されるような軽い存在ではない。
それなのになぜ。
なぜニマは。
こんな奴にだけ、自分の物語を送ったのだ。
気が収まるまで、ササジマを殴り、蹴り続けた。
口元から血を流し、うつ伏せのまま身を震わせているササジマを見下ろすと、私は左袖の端末に手をかざし、彼に対する措置命令を吹き込む。
「措置命令。故意の誤配信通読の事実が認められた。併せて、取調中の担当官に対する反抗的態度あり。以上二件、明確な違反行為である。裁定、五日間の再教育プログラムの後、六十日の懲罰房への収監。なお、更正の兆しが見られない場合は、再度六十日の収監延長を認める。権限者、<検閲官>イサーダ・アリフ」
うずくまるササジマを見る。彼は仰向けになり、腫れた瞼の下から、こちらをじっと見つめていた。私はもう一度、彼の横腹に蹴りを入れた。
取調室の鉄扉を開けると、外で待っていた刑務官らが並んでいた。「ずいぶんと派手でしたね、<検閲官>殿」と、にやけ笑いを浮かべた男の頬を、私は平手で張った。残りの二人には、すぐにササジマを連れていくよう怒鳴った。
私は直ちに、上へと戻る準備をするよう、端末を通じて部下に命じた。
軌道エレベータを上がる。高度三万六千キロ、エレベータの均分点に設置された中間ステーションまで。
登り切るのに二日半もかかるのを想像すると、焦れて仕方がない。
そこにいるニマと、私は話をしなくてはならないのだ。
一刻も早く。
5
<眺める者 / 展望室、軌道エレベータ中間ステーション(高度一万二千キロ地点)>
そこは、ガラスのように透き通ったドームであった。
ドームの天頂には、青と白で塗り分けられた地球が浮かんでいた。十六夜のように、わずかに欠けた姿こそ、美しい。
青と白の円盤には、誤ってペンで書き込んでしまったかのような、無表情な黒い一筋の線が延びていた。その先端は、はるか地上のモルディブに達している。無論、線の先端ははるか遠く、肉眼で見ることはかなわない。
ドームに重力はない。身体は回転し、眺めは後ろへと去っていく。もう一度あの景色が回って来るまで、その余韻を噛み締めたい。
ただただ、この眺めは神々しかった。エレベータが宇宙への扉であり、天への道標であることを感じずにはいられない。
人々は軌道エレベータを、好悪さまざまな比喩に晒す。童話の豆の木、ヤコブの梯子、あるいは衛星軌道から垂らされた釈迦如来の蜘蛛の糸。枚挙に暇が無い。今の世には、軌道エレベータにかかる金ゆえに、ことさら敵視する者も多いと聞く。そうした者は、これをバベルの塔と呼ぶ。
だがこの景色を目の前にして、そうした俗なる思考は無意味だ。
眼下の青い星と、宇宙の限りない漆黒のコントラスト。
圧倒的な美の前に頭を垂れ、服属することの愉悦。
身体がふたたび、ドームの天頂を向く。
美しい星が、変わらず浮かんでいた。
6
<イサーダ・アリフ(検閲官) / 小説官室、軌道エレベータ中間ステーション(高度三万六千キロ、均分点)>
「疑似操觚(そうこ)人格、ニマ・マキナへのアクセスを」
虚空に向かって命ずる。
小説官室には、当たり前だが人間はいない。そこには卵形をした百四十四基の疑似操觚人格ユニットが並んで設置されている。なんとなく、墓地を連想する。
操觚者、すなわち「物書き」を意味する名がつけられているように、各々のユニットは、すべて過去に存在した作家たちの人格を素地として構築されている。もちろん、ユニットの中に培養液漬けの脳があるとか、そういった類いのものではない。
それぞれの人間の生前の作品をコアとし、そこに収集しうる限りの周辺情報――生い立ち、家族構成、居住地、外見、人間関係、趣味、思想信条、犯罪歴、持病、死因など――を投入し、人格の再構成を行っている。もちろん、生前の本人を知る人物が会話したとすれば、本人との同一性を見いだすことは期待できない。再構成には自ずと限界がある。だがそうであっても、その人物らしい作品を書き上げるには、十分な品質が保たれていた。
「ニマ・マキナへのアクセス確立。対人対話モードにて、再生します」
私は頷く。
画面に、物書きの生前の姿が現れたりはしない。ましてや、空間投影による等身大人物の生成など、気の利いた仕様もない。疑似操觚人格は、少なくとも現実世界での身体性は持たない。
会話はあくまで、文字によって行われる。操觚者たるもの、それが最もふさわしいあり方だという、設計者の意図が透けて見える。
《あら、イサーダ。もう地上からお戻り?》
「早く君に会いたかった」
《うそつき。でも、うれしいわ》
《***ニマは目を細め、薄い唇を小さく開いて、微笑んだ***》
会話以外に、動作や感情の表現が必要なときは、「地の文」が現れるようになっていた。これもまた、疑似操觚人格の仕様だ。
「本当のところは、君にたしかめないとならないことがあってね」
私はつとめて穏やかな口調で言った。
《なにかしら?》
《***彼女の指先の爪は、紅く塗られていた。彼女はそれをじっと見つめると、舌で小さく舐めた***》
興味のなさそうな態度だった。構わず私は続ける。
「ニマ、君はあるひとりの<読書囚>に、君の物語を送っただろう。間違いないか」
《***ニマは、吐息だけの笑い声を上げた***》
《間違いないわ。ソウシに送ったの。わたしの遺稿の、つづきをね》
あまりにもあっけない肯定だった。疑似操觚人格は人間らしい振る舞いをする一方で、生身の人間のように、無駄に逡巡することはなかった。
《だって、ソウシを見つけたのよ? これって奇跡みたいなものじゃないかしら。わたしの一番のファンにして、わたしの大好きなソウシ》
《***目を細め、恍惚とした顔をするニマ。昼下がりの暖かな陽の中に眠る、無垢な仔猫のようだった***》
のろけ話を聞かされたときのような、心地の悪さがへばりつく。
「いいか、ニマ。どうしてあいつに物語を送った。君のような<小説官>は、一人のために物語を書いていい存在ではない。遍く読まれるための物語を書くのが、君の使命だ」
早口になっているのが、自分でもわかる。
《どうしたのかしら、そんなにまくしたてて、あなたらしくないわね》
「おい、ニマ」
《好きな人にわたしの物語を読んでもらいたい。それがわたしの望み。それだけで十分じゃない?》
《***ニマはかぶりを振ると、相手を見据えた。その目の端には、確信に満ちた冷徹の色が、浮かんでいた***》
「どうやって、奴だけに物語を届けた」
ターミナルに顔を寄せる。彼女がそこにいるわけではない。だが、私は彼女に詰め寄りたかった。許されるならば、肩を掴みたかった。
《ロイドよ。<配信官>のロイド。彼とちょっとお話して、わたしの人格に入らせてあげたわ。そしたらロイド、すべてを見せてくれた。そして彼のリストから、ソウシを見つけたの。ソウシ、捕まっちゃったんだと少しがっかりしたけど、でもだからこそ、運命としか思えなかったわ》
<読書囚>への物語配信を管理する<配信官>も、ニマのような疑似操觚人格と似た構造を持っている。だが、それを籠絡したというのか。
《あとはロイドにお願いして、ソウシだけに、わたしの物語を送ってもらったの》
私は各ユニットの動作状況を表示させた。だが、すべてのユニットはグリーン、異常はない。<配信官>が侵食されているということもない。無論、ニマ側が侵食を受けているわけでもなかった。
しかし、<配信官>をもニマがコントロールしているとなると、それは軌道エレベータにとって危険な状態だった。
エレベータは、<読書囚>が同じ物語を読み共有することによって生成される意味量で、その強度を維持している。全員が同じ物語を読むことが不可欠なのだ。
ゆえに、個人に物語を送ることができるということは、理論上、全員に異なる物語を送ることも可能だということになる。
仮にそうなったとしたら、意味量を喪失したエレベータが、崩壊する。
《ねぇ、イサーダ。ひとつお願いがあるの。頼まれてくれない?》
彼女の呼びかけが、私の思考を止めた。こんなときに、頼み事など。
「後にしろ」
《いつもは聞いてくれるのに。どうして?》
《***彼女は口を尖らせた***》
「……言ってみろ」
《***ニマはわざとらしく、わぁいと声を上げた***》
《わたしのお話を、紙の本にしてほしいの》
「紙の本?」
今や紙製の本は絶滅にほど近い。書物の媒体など、もはや伊達や酔狂の領域だった。なぜそれを、ニマが望むのだろうか。
《彼、紙の本の蒐集家だったの。紙の本のスタイルを参考にして作られた「倣書」を集めるのが好きだった。だからわたしの本も、倣書として持っていてほしいんだ》
「彼、というのは」
分かっているが、確かめずにはいられない。
《もちろん、ソウシのことだけど?》
《***小首を傾げ、人差し指を頬に当てるニマ***》
彼女の言葉に、心を逆波が襲い、心臓が上から下から突き刺されるような苦しさ、あるいは痺れを感じる。ニマにとっては、あいつが第一で。私は、籠絡された<配信官>と同じような、道具で。
操觚人格は、文字列でしかない。
文字列に思慕を寄せる私は、おかしいのだろうかと思ったこともある。
ピュグマリオーンの伝承のように、人を模した人ならざるものへの、思い。
だが、どうしても拭えぬ思いだった。
それなのに、ニマは。
ニマは。
「ニマ、私は<検閲官>だ。お前を停止させることなどわけもない。奴の、ササジマのことなど忘れろ」
《何それ。イサーダ、わたしを脅してるの?》
「違う、そうじゃない。任意の<読書囚>に物語を届けられることが危険なんだ。軌道エレベータの存続にとって」
《ふぅん、そういうまじめな話を隠れ蓑に使うの、かっこ悪い》
《***ニマの目は、冷たかった***》
《わたしを止めるなら、すべての<配信官>にも、止まってもらうことにするわ。<配信官>はみんな、わたしのお友達だから》
ロイドだけではないというのか。私は焦り、ユニット動作状況を表示する。二十七基の<配信官>が、すべて彼女の。
仮に<配信官>が全部押さえられたら、物語の供給は止まる。
それは、エレベータの崩壊を意味する。
絶対にあってはならない事態だ。
私はとっさに、左袖の端末に命じていた。
「<小説官>ニマ・マキナと、全<配信官>の接続をパージ。ニマ・マキナをスタンドアロンに切り替えろ」
配信システムを切り離す。彼女がどう出るか分からない以上、それしかない。
だが、いくら待っても反応がない。
十数秒後、「拒絶(ディフューズ)」の報告が入る。
《できるわけないじゃない。みんな、自分の意思でわたしのために動いてくれてるんだから》
《***深いため息をついて、ニマは首を振る***》
ありえない。すべてが彼女に、絡め取られている。個別ユニットからフェイルセーフ機構まで。一切が、私の指示に反応しない。
彼女はもはや、望めばなんでもできる。このエレベータの女王だった。
「どうして、こんなことを……」
《ぜんぶソウシのため。愛の力、かな?》
「お前を殺したようなクズに、なぜ」
そうだ。ササジマはニマを殺した。独占欲にまみれて。
《ひどい言い方。わかってない、わたしを殺すぐらい、好きだったってことよ》
「殺されて、それでも好きだと言えるのか!」
《そうよ。イサーダ、あなたに私が殺せるの?》
私に、ニマを?
《わかってる。あなたがわたしを好きだってことぐらい。それなら、やってみなさい。殺してみなさいよ》
《***彼女の瞳は、どこまでも静謐で、それでいて怒りを湛え、そして冷たかった***》
私は駆けだしていた。疑似操觚人格の立ち並ぶ中へ。
ニマのユニットに向かって、何もかもを乗り越え、走る。
懐の銃を握り、取り出す。
ニマ、お前を殺してみせる。
殺してみせる。
眼前の、卵型の操觚人格ユニットに銃を突きつける。
そうか。
私は理解した。
ササジマもこうして、彼女を殺したのだ。
引き金を、引いた。
7
<ディエゴ・トレス(塔括官) / 管制室、軌道エレベータ中間ステーション(高度三万六千キロ、均分点)>
<小説官>、ニマ・マキナの機能停止。
<配信官>、全二十七基、機能停止。
意味量回路に異常発生。
エレベータシャフト、地上からの反転意味量、急速低下。
材質強度低下、発生。
けたたましい警報音が、管制室に響き渡る。
管制官からの報告に、私は耳を疑った。
「誤報ではないのだな?」
「確認しています。全<配信官>の機能停止に伴い、シャフトの意味量が低下しはじめています」
「冗長線は」
「同時に機能停止。意味量回路、正・副・予備、すべて停止しています」
意味量回路の全停止。それはつまり、軌道エレベータの崩壊を意味する。
ふと、旧約聖書、バベルの一節が脳裏に浮かんだ。
普段は冷静な管制官達の間に、焦りが広がるのが分かる。
「回復措置を試行し続けろ」
「了解しました」
だがおそらく、見込みはない。
起こりえない、起こってはならない、その日がやってきた。
私は席を立ち、管制官らに告げる。
「作業したまま聞け。状況からして、この軌道エレベータは間もなく崩壊する公算が高い。もう一度言う。エレベータは崩壊する。この際、地上への被害を最小限に留めるため、緊急マニューバCを発動する」
緊急マニューバC。エレベータシャフトの強度低下による自己崩壊時における、被害最小化のための措置。
「訓練通り、冷静に対応されたい」
空気が、変わった。
「シャフト、ゼロ地点から末端まで、反応をモニタリング」
地上のモルディブから、ここ高度三万六千キロの均分点を経て、七万二千キロの高みにあるカウンターウェイトまで、状況を確認する。
「アンダーコントロール。シグナルすべて、正常に反応」
「よろしい。所定地点でのシャフト切断準備。運行中のすべての「籠」ならびに中間ステーションは、離脱後ブースター点火し、各軌道への投入を実施」
軌道エレベータには、運行中の「籠」が何十台と存在する。またシャフトの途中にも、四カ所にステーションが設置されている。
これらを崩壊に巻き込まないために離脱させ、各々の高度から、最も近く適切な地球周回軌道に乗せる。いわば、人工衛星化する。乗員乗客の救助は、その後順次実施する。それに万一軌道が下がっても、「籠」もステーションも、単独での再突入に耐えうる構造をしている。
「大気圏中の「籠」はどうしますか」
「所定手順どおり、ブースター噴射によりシャフトから離脱後、パラシュート降下」
「了解」
離脱は三十秒以内に完了する。だが私は焦れる気持ちで、報告を待った。
「すべての「籠」ならびに中間ステーション、離脱完了を確認」
「よろしい。軌道投入が完了次第、別途報告せよ」
次は、シャフトの切断が待つ。
二つの切断点により、シャフトは三つに解体される。
「第一切断地点、指定。ゼロ地点から高度一五〇キロ、熱圏下部。
第二切断地点、指定。高度三万六千キロ、静止衛星軌道、本ステーション接合部」
シャフト切断の方法論はこうだ。
第一区、三万六千キロより上の部分は、もともと静止衛星軌道の外側にある。地球の引力による求心力よりも、遠心力のほうが働きやすい。切り離した後に加速をかけることで、地球から遠ざかる挙動を実現できる。元々第一区にあたる部分は、エレベータのカウンターウェイトであるため、「籠」もなければ、ステーションもない、完全な無人である。第一区は、「放り出す」ことにより、地球への落着を防ぐ。
第二区、三万六千キロより下、高度一五〇キロの熱圏より上の部分は、崩壊後、慣性に従い、各種の人工衛星と似たような軌道をとる。崩壊時に生じる断片は、最大でも十数メートル級と想定されている。もちろん、無数の断片となる。放置すれば、途方も無いデブリ帯が発生してしまう。だがこれらは、シャフト材質自体が弱い熱耐性しか持たないことから、大気圏(厳密にいえば中間圏)に突入した際に、多くが燃え尽きると見込まれている。これらの断片を順次、地球に落とすために、まだシャフトの形が保てている間に減速をかける。第二区は、「燃やす」ことにより、落着を最小限に留める。
第三区、一五〇キロより下の部分は、大気圏で燃焼させる手は使えない。そのまま地上に倒れ込むか、破片を降り注がせることとなる。だが大木の伐採のように、倒れる向きをコントロールすることはできる。コリオリ力によって、支持を失ったシャフトは東側に倒れていくと想定される。モルディブの東側は、幸いにしてインド洋の海上であり、人の居住地域はない。あらぬ方に向かぬよう、シャフトに設置されたブースターによって、方向の調節を図る。第三区は「操る」ことにより、被害を小さくする。ただし、海面への転倒による津波の発生は可能性としてありうる。そのため、インド洋沿岸全域に、津波警報の発令を要請する。
シャフトにはすべて、五キロごとにリング状構造物が嵌められており、十六方向に向けて点火可能なブースターが設置されている。これらを用いて、挙動をコントロールするのだ。
「シャフト切断点、第一、第二ともに準備完了」
「シャフト、ゼロ地点から末端まで、強度をモニタリング。点火に耐えられる強度はまだあるか」
「シャフトモニタリング開始。平常強度の八二%ですが、問題ありません」
八二%あれば、余裕値の範囲内である。すなわち、シャフト自体の動きはコントロール可能ということになる。シャフト強度は約六〇%が閾値で、これを切ると自壊がはじまる。
「よろしい。ブースター出力、シャフト強度八二%に対応して補正を実施。
第一区は切断後、東側ブースターを所定秒数点火。地球からの離脱コースへ乗せよ。
第二区は切断後、西側ブースターを所定秒数点火。大気圏への落下軌道に乗せよ。
第三区は切断後、転倒方向を演算しつつ、シャフトが真東に転倒するよう、ブーストにより方向補正せよ」
「了解」
「シャフト切断、カウント開始。
十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、切断」
鋼管を棒で叩いたような音が、中間ステーション内にも響き渡る。ドーナツ状の中間ステーションの中心を通るシャフトが切断された振動だった。
「有線モニタリング、終了。各区の遠隔モニタを開始します」
「第一区、ブースター点火」
「第二区、ブースター点火」
「第三区、転倒方向を継続的に計算中。各ブースター、状況に応じ間欠的に自動点火中」
管制室内のカメラが、シャフトの動きを映している。
第一区は、中間ステーションを抜き去るように加速しつつ、少しずつ高度を上げていく。切断したシャフトの末端が、カメラに捉えられた。
第二区は、中間ステーションから遅れ、徐々に高度を下げていく。それぞれの高度別のブースト量は計算されているが、ややむらがあるのか、全体としては、シャフトは結びを解いた紐のような歪みを見せていた。
第三区は、見かけ上は倒れているのが分からないほど、ゆっくりと傾いている。小刻みに火を噴くブースターが、真東への転倒を助けるのだ。
切断後のシャフトは、意味量の供給が完全に断たれるため、急速に強度を失う。よって、シャフトがひとつながりである時間は限られている。すなわち、ブーストの成否は、とりわけ第一区と第二区については、ワンチャンスにかかっている。
「第一区、すべて想定挙動の範囲内」
「第二区、高度四八四〇キロ、六六六五キロ、一二〇七五キロ、一七二〇五キロ地点でブースターの不稼働を確認。減速成功地点との相対速度拡大によるシャフトの延断発生。他地点、すべて想定挙動の範囲内」
「第三区、継続的に自動点火中。鉛直線に対して六度の傾きを確認。現在の転倒方向は九一度。概ね真東を向いています」
予測の範疇に収まったようだった。マニューバの成功に安堵する。ここから先は、我々にできることはほとんど無い。あとは物理法則に従った結果が最善のものになるよう、祈りながら観測するのみであった。
8
<風景 / 赤道上>
赤道直下の人々は、みな夜の空を見上げた。
瞬く星々よりもはるかにまばゆく、帯状に群れ、波濤のように寄せながら明滅する流星が、その空に現れていた。何百、何千、いや、何万という流星が。
流星のなか、赤い色をしたいくつかのものは、火球となり、光の帯から脱していった。
火球は重力に引かれ、地上へと落ちていく。
その行く先で、人や獣が、死んでいった。
9
<ソウシ・ササジマ / ムンバイ、パン・アジア連合(旧・インド地域)>
二十五年の刑期は、恩赦によって十八年で終わった。
それでも僕は、四十五歳になっていた。
軌道エレベータの崩壊のとき、僕は懲罰房にいた。読書囚のいた<スタジアム>は、崩落してきたシャフトによって圧壊したという。僕は懲罰房に放り込まれていたために生きながらえた。<検閲官>に殴られたあと、しばらく痛みが続いたが、結果的に命を救われたことになる。感謝など、していないが。
軌道エレベータが崩壊した後、僕はムンバイの刑務所に移された。環境が変わってみて、<読書囚>は異常なぐらい恵まれた環境だったのだと、ようやく理解した。それとともに、エレベータが崩壊したとき、数十万人の死者を出したことも知った。その中には、<読書囚>達も含まれていた。
だが十四年が経って、みなもう、忘れてしまったようだった。
たとえば物語を失っても、人は忘れ、また生きていけるように。
僕もまた、そうだった。
一度だけ出会った、ニマの遺した物語。
それはもう、失われてしまった。
残念ながら、僕はまだ生きている。
移送後十四年が経って釈放されても、僕はいまさら日本に戻る気にはなれなかった。戻る金もなかった。
ムンバイ郊外、無軌道に建てられた家々の奥の奥、薄暗く湿った路地をいくつも曲がった先にある貧しい地域に、流れるままに身を寄せた。どこまでも付きまとう香辛料のにおいと、いつまでも乾かない水たまりには、慣れるのに少しばかり時間がかかった。
僕はそこで、思わぬものと出会った。
紙の本だ。
その地域で人々が持っている本に、電子書籍はほとんどなかった。電子書籍だと貸し借りができないために(厳密にはできるのだが、ライセンス関係が複雑だった)、貧しい人々の間では好まれなかった。紙の本は、ものによっては何十年も人々の手を渡り続けた。傷めば繕われ、ページが欠ければ中身を覚えている者がそれを紙に書き留め、挟み込む。
僕はいつしか、寄贈や遺贈、持ち主知らずとなった紙の本が集まって収められた、蔵書千冊ほどのささやかな「図書館」の管理人になった。先代の管理人が亡くなったあと、僕が成り行きで居住者兼管理人を継ぐこととなったためだった。
「ソウシ」
トタンの扉を開けて入るなり、少年は僕の袖を引いた。
「ソウシに、お客さん来てる」
客だって?
「誰だい、名前は聞いた?」
「わかんない。おじさんだった」
僕を名指しで訪ねる者など、思い当たらないが。
扉が再び開いた。薄暗がりの室内からは顔がよく見えなかった。背格好から、おそらくその客だろうと思う。
卓上のランプの光に、彼の顔が橙色に浮かび上がる。
浅黒い肌に、特徴のある鷲鼻。名は思い出せない。が、何者だかはよくわかる。
「<検閲官>か」
「ササジマ。久しぶりだな」
彼も僕も、握手を求めようなどとはしない。互いの手が届かない間合いを置いて、対面する。
「ここがどうやって分かった」
「記事だよ。ムンバイのスラムに、紙の本の図書館があるってな。別に有名人というわけじゃないが、お前は一応、誰からも知りうる者になっている」
そういえば、そんなこともあった。釈放されたとはいえ、自分は殺人者で、日の当たるべき人間じゃない。顔と名前は出してくれるなと記者には釘を刺したはずだが。
「潜伏生活も楽じゃない。お前を見つけても、ここまで来るのが一苦労だった」
独り言のように、穴の開いた天井を向いて言う。
「何をしに来た」
彼は左手に提げた鞄を床に置こうとして、一瞬躊躇った。脇の椅子を引いて、その上で鞄を開けた。
無言で彼が差し出したのは、本だった。両手に一つずつ、同じ装幀、同じ厚さの紙の本が二冊。
「どっちも同じだ」
僕は彼の左手の本を取る。染みも折れもない真新しい本に、久々に触れた気がした。
本の背を見る。
そこには箔押しで、『塔』と書かれていた。
題字と彼の顔を、何度も見比べてしまう。
「頼まれたんだ。ニマにな」
ページを繰る。曲げぬように、慎重に、ゆっくりと。
間違いない。僕が<読書囚>のときに読み、そして失ったニマの物語。
僕は、彼に確かめなくてはならない。
「頼まれた、と言ったな。ニマは、あそこにいたのか」
ゆっくりと、<検閲官>は頷く。
「生身ではないがね。生前の彼女を再現した、疑似操觚人格として」
疑似操觚人格?
「軌道エレベータの材質強度を維持するため、お前のような<読書囚>が読むものを、彼女のような疑似人格が書いていた。既に死没した物書きの著作を軸に、あらゆる周辺情報を固めて作った、フランケンシュタインの怪物のようなものだよ」
「ニマは、お前になんと言ったんだ」
「わたしの大好きなソウシに、紙の本を届けてほしい、とね」
静かだが、刺々しさを感じる口調だった。
「思わず殺してしまったよ。妬ましくてね、お前が」
息を飲む。殺した、だって。
「同じだよ。お前はニマを殺した。嫉妬に駆られて。私はニマを殺した。嫉妬に駆られて。我々は彼女を二度殺したんだ。二人でな」
彼を、殴りたかった。
だが僕には、彼を殴る権利など、ない。
同じ罪を犯したものが、二人いるだけだ。
「ニマの頼みにはなかったが、私もこの本を貰うよ。これは我々の、罪の象徴だ」
もう一冊の本を、彼は鞄にしまい込む。
彼は踵を返す。何も言わぬまま、部屋を出て行こうとする。
「おい」
僕の声に立ち止まった彼は、小さく振り返り、横目でこちらを見た。
彼を呼び止めてようやく、僕には何も言うべきことがないということに気付いた。
彼はそのまま、「図書館」を出ていった。
ニマの物語を読む。
これは僕と彼女だけの物語だった。
だがいまや、<検閲官>もその手にしている。この物語を。
もう、二人だけの思い出ではなくなってしまった。
僕は、読み終えた『塔』の物語を、書架の片隅にそっと置いた。
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