梗 概
My L(o/a)st Pages
ニーアが三百年前の祖先から届けられたタイム・カプセルを開けると、中には見たこともない物体が入っていた。調べてみるとそれは、二百年近く前に製造されなくなった「紙の本」というもので、薄い素材をめくると、小さな記号が一面に記されていた。
それは共有伝想システムが普及した現在ではほとんど使用されていない文字という伝達記号だった。文字を判読できないニーアはマシンに本の内容をイメージ変換させようと試みるが、落丁という現象によって最終部分が欠落していることが判明する。
結末を知りたいニーアはタイム・シフト転送便の使用許可を取り、送り主の祖先に向けて落丁のない本を転送するよう、イメージ・コメントを添えて往復便を出す。
デザインスクールのエディトリアル・コースに通う入洲は、卒業制作の企画のアイデアについて悩んでいた。もう一つ、入洲を悩ませていたのは、いつの間にか部屋に置かれていた「謎の本」だった。近未来を舞台にした恋愛小説らしいその本は、結末部分が落丁しており、奥付は百年後になっていた。
ある日、入洲はスクールのフォト・コースの入選作品の展示を見学し、そこでニカイという学生の撮った写真に惹かれ、フォトブック制作のイメージを得る。早速、ニカイに写真を使わせてほしいと依頼した入洲は、交換条件として写真のモデルになることを渋々引き受ける。しかし後日、事務局のミスによって、展示のネームプレートが隣の作品と入れ替わっていたことが発覚する。戸惑う入洲だったが、モデルになれば写真をいくらでも使わせるから、とニカイに押し切られてしまう。
次第に二人は親しくなり、入洲のフォトブックも無事完成する。入洲の部屋で「百年後の本」を見つけたニカイが返信用の転送ラベルをフォトブックに貼りつけると、ブックは二人の目の前で消えてしまう。
返送された本に戸惑うニーアだったが、そこに写されていた四百年前の光景に思いを馳せる。
文字数:800
内容に関するアピール
「エラー」というテーマからはじめに連想したものが、本の落丁・乱丁といったものであったため、それを題材にストーリーを考えました。
未来と現代の二部構成として、せっかくなので一つの「エラー」だけではなく、複数の「エラー」が連鎖的に発生していくような展開としてみました。
梗概では「落丁」「転送エラー」「撮影者の錯誤」「間違った返送物」といった要素を入れましたが、実作では主に現代編のほうでさらにいくつか細かい「エラー」を盛り込んで、それを結末部分(未来)のオチにもつなげるような形で、もう少しラストにインパクトを付けいたと思っています。
テーマの「が/から」に合わせてタイトルに(o/a)と入れて、「失われた頁」と「最後の頁」と二つの意味をもたせてみました。落丁=失われた頁というエラー「から」始まった物語が、最後に間違った頁「が」戻ってくるというエラーによって終わるといった流れを書きたいと思います。
文字数:400
My L(o/a)st Pages
ニーアは、既に独立した存在として認められていて、ハレル星系第二居住区に登録された立派な市民である。
すべての公的な手続きを自らの名をもって執り行い、日々の生活に必要な家事も怠りなく自らの手で行っている。それでも時々、寂しくなってママの声を聞きたくなったら、Flux伝想ネットワークを使って、いつだって会うことができる。
その日、ニーアの十五歳の誕生日にマルキ・タイムカプセルズから小さな包が届けられた。差出人の名前に心当たりはなかったが、受取証明のメッセージ内容を確認していくと、どうやらそれは約三世紀前のニーアの祖先から、ちょうど三百年後の子孫に宛てて残されていたタイム・カプセルらしかった。
受領のパーソナル・サインをしてカプセル・ケースを受け取り開封してみると、中にはさらに強化アルミニウム製のハード・ケースが入っていた。すべての面が凹凸なく真っ平らな直方体のケースを、いったいどうやって開ければいいのか分からず、ニーアはしばらく上下左右と眺めまわした挙句、諦めてそれをテーブルの上に放置した。
正午きっかりになって、ケースからタイマー・アラームの音が響いた。
共有仮想システム(Share Fiction System;SFS)で友人たちと遊んでいたニーアがタイマーの音に気がついてシステムとの接続を解除し、テーブルの上のケースに視線を向けると、ケースは自動的に開封されていた。
中には、ケースよりも一回り小さい長方形の物体が入っていた。見覚えのないそれを、ニーアはそっとつかみ上げてみる。表面にある六つの面のうち、おそらく上下であろう広い二つの面と、四つあるサイドのうちの縦長の一面にはベロア調の赤いファブリックが張られている。
残りの三面は、うすいクリーム色で、よく見ると細かい横筋が無数に走っている。これらの面はベロア加工が施されておらず、触れてみると少しざらついた、それでいてしっとりとした肌触りをしていた。
どちらが上なのかは分からないけれど、赤くて広い二面には金色の箔押し加工で記号のようなものが印されている。しかし、ニーアにはその記号が何を意味しているのか理解できなかった。
クリーム色のサイド面のうちの一つが、自然にほどけて広がっていき、面のように見えていたそれが、実際には無数の薄い層を重ね合わせていたものだということが、分かった。その層のうちの一つをそっとつまんでみる。ほとんど厚みのないその薄い層は、しかし、柔らかく濡れたような、なめらかな質感をニーアの指先に伝えてくる。
テーブルの上に物体を置いて、あまりにも薄い層と層が分離してしまわないよう、慎重に広げてみる。どうやら層は赤いサイドの面で強固に接着されているようで、広げても簡単にばらけてしまうようなことはなさそうだった。
バインドされた層の表面には小さな黒い記号がびっしりと並んでおり、次々に層をつまんでめくってみても、ひたすらに記号の羅列が続いているだけだった。
「ナビ、これは?」
ニーアがマインド・メッセで呼びかけると、スリープ状態だったパーソナル・マシンが起動して、トレース機能を使ってテーブルの上の物体を立体スキャニングした。
《ニーア、これは、本――書籍と呼ばれていたものです》
その言葉の意味するものが想像できず、ニーアがさらにその意味を問うと、
《現在から二百七十三年前まで使用されていた、情報を記録・伝達するための媒体の一つです》
とナビは教えてくれた。
「それじゃ、この記号は?」
《それは、文字、です。文字には様々な種類がありましたが、いま、ニーアが見ているのはそのうちの一つ、「ジャパニーズ」と呼ばれていた記述スタイルのものです》
「ジャパニーズ?」
《それは、主に日本、という地球圏にかつて存在していた国家で、使用されていました》
「日本、聞いたことある。たしか地球史のラーニングで習ったことあるよ」
《日本について、説明を要求しますか?》
「ん? いいや、歴史ってあんまり興味ないし」
ナビから送られてきた「本」に関する基本的な概念を、ニーアはオート学習で脳にインプットしていく。
「ページ」と呼ばれる薄い層をめくりながら、そこに羅列されている「ジャパニーズ」を眺めてみるが、相変わらずまったく理解できず、すぐに飽きてしまい、ニーアは本を閉じた。
「ナビ、この本にはどんな情報が記録されているか、分かる?」
《内容を、イメージ変換しますか?》
「お願い」
そう言いつけておいて、変換が完了するのを待つ間、ニーアはテーブルの上に本を置いたまま再びSFSに接続して友達のところへ戻った。
イメージ変換作業を続けていたナビが、エラー・メッセージを出したのは、それから一五分ほど経ってからだった。ナビの作業報告を確認すると、どうやら本のページの一部が製造上のエラーによって欠落しており、記載されているはずの情報のすべてを変換することができない、ということだった。
それでもほぼ九割の変換は既に済んでいて、内容のほとんどは伝達可能であると分かり、ニーアはひとまずナビに変換作業を終了させた。
「ありがとう、ナビ。お疲れ様」
《ニーア、これは現在から三〇一年前に小説というスタイルによって記述された、フィクション作品です。タイトルは『虹の果てへの鎮魂歌』。著者・発行者はレン・スナシロ、発行所はマルキ・ブックスタイルズ……》
「うん、細かいことはいいから、内容を転送して」
イメージ転送を開始します、というナビからのメッセージを受け取って、ニーアは『虹の果てへの鎮魂歌』と名付けられた架空の物語イメージの世界へと没入していった。
そこに描かれていたのは、幼い頃に両親を失った姉妹が、さらに離れ離れになってしまい、残された妹が姉を探すため、故郷から遠く離れた宇宙へと旅立っていく、といった内容の物語だった。どうやら現在のように宇宙航行が一般的ではなかった時代に創作された旅行記のようなものらしい。
ふだんフィクション・ストーリーを楽しむときには、SFSを通して多くの人々と物語を共有しながらすすめていくのが普通で、物語を共有しているそれぞれが先の展開を想像し、そのイメージを伝え合って、SFSがそれらを統合して先のストーリーを自動生成してくれる。
だからニーアは、一人の著者によって記述された一直線の物語を体験すること自体、生まれて初めての経験だった。
一人きりで物語の世界のなかに入り込んでいく。側にいるのは登場人物である架空のキャラクターだけ。作中の舞台となっている三百年前の街の光景もまったく馴染みのないもので、ニーアは物語をすすめながら、不安と好奇心の入り混じった不思議な感情を覚えていた。
残されたわずかな痕跡を頼りに、姉を探して宇宙を飛び回る主人公に寄り添うようにして物語を味わっていたニーアは、そのクライマックス直前になって突如ストーリーが打ち切られて、著者であるレン・スナシロによって記述された解題と謝辞のメッセージが送られてきたことに戸惑った。
そして、最後にナビから教えられた「奥付」と呼ばれるページに記述されていた情報が伝えられ、イメージ転送は終了した。
《記述されていたイメージは、以上です。もう一度、再生しますか?》
ナビの言葉を遮って「ナビ、物語の結末はどうなったの?」とニーアが問いかけると、ナビが最初に報告したとおり、この本には「落丁」と呼ばれる製本上の欠陥があり、物語を記述した最後の部分にあたる第一七折というパーツが抜け落ちている、という事実が告げられた。
§
誕生日から二日が経っていた。姉妹がどうなったのか、二人は再会することができたのか、けっきょく分からないまま終わったしまった『虹の果てへの鎮魂歌』の結末が、ニーアは気になり続けていた。
そもそも自分の祖先はいったい何の目的でこの本を未来へ託したのか。メッセージの一つも添えられず、ただ本という物体だけが込められていたタイム・カプセルの存在も、ニーアを悩ませていた。
どうせ訳の分からないものを送りつけてくるなら、せめて「落丁」のない完全なものを届けてくれればよかったのに。
心の内でそう毒づきながら、ニーアは今となっては希少品である「本」のページを適当にめくっていった。相変わらず、そこに記されている文字を読むことはできない。
ナビによると、この本が三百年前当時、何部製造されたのか記録は残されていないが、おそらく実物として現存しているものはなく、あったとしても地球圏のどこかに数冊程度、見つけ出すことはほぼ不可能だろう、ということだった。
そもそもニーア自身、本というものの存在を今回初めて知ったくらいなのだから、実物の本がほとんど残されていない、というのは理解できることだった。どうやら『虹の果てへの鎮魂歌』は、製本という生産活動が行われていた最終末期に作られたものらしく、ナビの推測によると、ほとんど好事家が道楽で作った記念品のようなもので、おそらく製造部数も極少数だろう、ということのようだ。
考えていても仕方がない、とニーアが気晴らしにSFSに接続して「本」についての情報を伝えると、友人たちはその未知の物体に関心をもったが、情報収集をすすめていって、それが稀少なものだと知ると、売却して市民ポイントに替えてみんなで遊ぼうと言い出したので、ニーアは「また今度ね」と接続を切ってしまった。
どうしても結末を知りたくて、ニーアはその方法を考えてみる。この時代で完全状態の「本」を見つけることはほとんどの不可能なことのように思えた。それならば、まだこの本を手に入れることができた時代に探しに行けばいい、という短絡的な思考。
しかし、そのためには時空間移動のための特別なライセンスを取得する必要があるし、たとえ希望する過去のポイントに行くことができたとしても、量子的にまったく同一の現在に戻ってこられる保証もない。転送技術の精度が上がってきているとはいえ、人間のように複雑な機能を有しながら常時活動を行っている存在を、正確に時空間移動させるのが困難であることに変わりはない。
ライセンス取得者たちは、そういったリスクを覚悟のうえで時空間移動を試みているが、ニーアにはそんな覚悟もなかったし、そこまでこの本に対する思い入れもない。
それならば、本だけを三百年前に転送して、往復便を使って「正しい本」を送り返してもらえばいいのではないか、と思い至り、さっそくニーアは三百年前との間の転送精度と往復便の料金を調べてみた。
時空間座標の特定が困難な未来転送に比べれば、過去への転送はリスクも低く、料金も割安に設定されている。未来の技術で作られたものを過去に送ることには厳しい規制がかけられているが、今回の本のように過去に既に存在していたものを同時代の過去に送り返す分には、それほど厳しい検閲がかけられることもなさそうだった。
母親に相談してみると、友人たちと同じように、売って市民ポイントにすればいいのに、と呆れられたため、ニーアはFlux伝想で父親と連絡を取って、頼んでタイム・シフト転送便の使用許可申請を出してもらった。
申請のために「本」のスキャニング・データを提出して審査を受けると、すぐに審査結果が返ってきて、許可が下ろされた。申請の可否判断には申請者の社会的な信頼度なども大きく関係しており、執政委員である父親に頼んだのは正解だったとニーアは思った。
許可が通って一時間もしないうちに、往復便用の転送パッケージとラベルカードがニーアに届けられて、その分の代金がニーアの市民ポイントからマイナスされた。
『虹の果てへの鎮魂歌』をパッケージに入れて、ふたを開くと同時に展開するようにイメージ・コメントを添付しておく。コメントの内容は、誕生日にタイム・カプセルを送ってくれたお礼と、新しい本を送りなおして欲しいという要望、そして往復便を転送するためのラベルカードの使い方。
ラベルカードが紛失してしまわないよう、かつて使われていた「栞」という物体と形状が似ているそれを、ニーアは本のページの間に挟んで固定しておく。これなら、本とラベルが別々になってしまうことはないだろうと肯いて、ニーアはメッセージを込めてパッケージのふたを密封した。
§
長く降り続いた六月の雨が上がると、湿った空気の名残を残したまま、季節は一気に夏めいていった。入洲はバッグから取り出したハンドタオルで首筋の汗をぬぐうと、小さなため息をついた。
日除けのついたバス停のベンチに座ってじっと待っていたって、特別なアイデアがどこからともなくやってくることなど、ないのだ。やってくるのは、時間通りの市営バスだけである。
別に、何かとてつもないものを作る必要などなくて、ただ自分の作品として恥ずかしくないものを、できることならば多少誇れるようなものを、そして、あわよくば就職活動でのアピールにつながるようなものを、作りたいと思っている。
到着したバスのステップに足をかけて、定期乗車券をかざしながら、さっと車内に視線を走らせて、空いていた右側の座席に腰を下ろす。そんなふうに素早く居場所を確保した入洲は、先ほどから、というよりも四月に行われた卒業制作に関するレクリエーションの日から、ずっと考え続けていた企画のテーマについて思考を巡らせていった。
オリジナルの企画で一冊の本をデザインして製本まですること。
それはまったく予想外に与えられたもの、というわけではなくて、むしろデザインスクールのエディトリアル・コースに通う入洲にとっては、至極当然の課題ではあった。
紙面をデザインするということについて、この三年間、文字やタイポグラフィの成り立ちから印刷の歴史まで、それこそ一から勉強を続けてきた入洲にとって、本をデザインせよ、という課題は別に臆するようなものではなく、いつでも受けて立つし、むしろデザインすることをいくらでも楽しみたいとさえ思う。それに小冊子程度のものなら、これまでの課題で何冊も手がけている。
そのはずなのに、まだ課題の制作は何一つ進んでいなかった。
わたしのオリジナリティって、何だろう?
もちろん、人と違うことなんて、細かい部分を探していけばいくらでも見つけられるし、好きなもの、気になるものだって、世の中にはたくさん存在している。その中の一つから、適当なものを選び出して、そのことについて一冊の本としてまとめればいいのだ。それは、分かっている。
でも、一冊の本としてまとめられるくらい力のあるオリジナリティなんて、果たして自分のなかにあるのだろうか、とそこで入洲は躊躇って、それまで考えていたはずのことは霧散してしまう。そんな繰り返し。
見慣れたバスの車窓からの景色。あの薬局の角を曲がれば、入洲の通うデザインスクールのチョコレート色のビルが見えてくる。
二年間の基礎課程を終えて、去年、専門コースに進むことを選択したときになって、ようやく入洲は自分がデザイナーになりたかったんだと気がついた。
それまでは、自分はただ与えられた課題に応じて、文字たちを紙面という限られたスペースのなかへ、さらに限られた版面のなかへと配置して、適切な居場所を見つけてあげて、きれいに組み上がったページの全景を眺めるという、そんなことが好きなだけなんだと考えていた。そして出来上がったページを読んだ先生や友達が、きれいだとか、読みやすいとか、言ってくれるのが嬉しかった。
そんな紙や文字たちの世界のなかに、自分のオリジナリティを強く主張しようだなんて、考えただけで何だか居心地が悪くなってしまう。
しかし、卒業制作の課題は毎年変わらず同じなのだから、いずれオリジナルの企画に取り組まなければならないということは、ずっと前から分かっていた。ただ、考えてこなかった。考えるよりも、文字たちと戯れることを楽しんでいたかったから。
スクールの目の前に停まったバスから降りて、校舎の入口の自動ドアをくぐり、いつものようにエントランス脇の掲示板を確認する。エディトリアル・コースの卒業制作企画案未提出者リストに掲載されている学籍番号のうちの一つは入洲のものだ。まずは最初の案を提出して担任と打合せを兼ねた個人面談をしなければならなかった。提出の締切は二週間後に迫っている。
不意に掲示板の横にあるポスターに視線を移すと、それはフォト・コースに在籍する学生の作品展の案内だった。前年度の課題や、コンテストへの出展作品など、多数の写真が並べられるその作品展には、一昨年までフォト・コースに何人か友達がいたこともあって、入洲も足を運んだことがあったが、みんな専門コースには進まずに就職してしまったため、今年の作品展を見に行くつもりはなかった。
会場は例年と同じくスクールのすぐ近くの展示スペースで、外が暑いからといって、歩いて汗をかくような距離でもない。
気が向いたら帰りに寄ってみようかな、などと軽い気持ちで考えながら、入洲は今日の授業で使用するレジュメを、並んだ課題ボックスから一枚抜き取った。
放課後、来客もまばらな会場のなか、入洲はのんびり写真を眺めて回った。
退屈そうに文庫本を読んでいた受付当番の学生に声をかけて、来客のリストに記帳をしたが、入洲の前にはほんの数えられるほどの名前しか記されていなかった。
受付の脇にご自由にお持ちくださいと積まれていたパンフレットを一枚とって、最終ページを確認すると、デザイナーの欄には一つ下の後輩の名前が記されていた。彼女は専門コースには進まずにデザイン事務所に就職してしまったので、すでにスクールには在籍していない。
ここ上手いな、わたしだったらこうするかな、などと考えながら薄いパンフレットをひとしきり確認し、それから入洲は展示されている写真を最初の一枚目から順番に眺めていく。写真よりもパンフレットのほうが先に気になってしまうのは「職業病」のようなものだろうか。
とりわけ写真の芸術性について造詣の深いわけではない入洲にとって、並べられた写真に対していだくことのできる感想は、好きか嫌いかといった印象や、授業で習った画像処理の技法についてくらいのものである。モノトーンの白と黒のコントラスト、色調の変化によって強められたカラーの明彩、色を失って時代性の喪失した街並み、生活感のある部屋で佇む人、どぎつく加工された夜のネオン。
極端にアップに寄せた赤い花びらの鮮やかで生々しい質感をぼんやりと眺めながら、入洲はそれらの画像を、以前どこかで見たことがあるような、しかし、それがいつ、どこでだったのか分からないような、不思議な感覚にとらわれていた。
公園のような場所で水遊びに興じる子どもの笑顔、何かの集会を写し撮ったらしいジャーナリスティックな雰囲気のモノクロ、見覚えのある凡庸なイメージたちは次第に入洲を退屈させていった。少し歩調を速めながら先へと進んでいくと、コンテストの入選作品の並べられたブースに到着した。
ガラス張りの建物に反射した光の作り出した影が、アスファルトの道路の上に映し出されている。その影と重なり交錯するように引かれた白線。モノトーンではなく、早朝の光に包まれているような、極端に色調を落とした薄く乾いた頽廃の色が、入洲の目を引いた。
一見して、どこにフォーカスしているのかよく分からない。とくに凝った構図をもっているわけでもない、フラットでありふれた建物のビジョン。写真という引き伸ばされた平面の向こう側にあるはずの撮影者の視線、その冷たく乾いた無機質なまなざし、時間性や場所性、個の欲望や存在さえも剝奪されたような物質的なイメージに、入洲は心を惹かれていく。
このイメージを印刷するならどんな紙が最適だろうか。レイアウトや色味の調整はどうする? 並びのページにはどんな写真がふさわしいだろう。入洲の頭の中で、見知らぬ街のイメージが広がっていき、無数の写真たちが想起され、目の前にある写真を中心に並べられていく。
最適な順番を求めて目まぐるしく並び変えられながら、その色もまた瞬時に切り替えられていく、空想上の写真たち。
ニカイ・ハジメという学生によって撮影されたらしい「ただ、早朝の街路」と題されたその写真は、入洲に様々なイメージをもたらしていった。そして、この写真を中心に構成していけば、面白いものが作れるかもしれない、という確信めいたものが入洲のなかで芽生えていった。
しばらくその写真を眺め、目に焼き付けておいて、入洲は小さく肯いてからようやく隣の写真に視線を移した。
木目調のテーブルの上で肘をついて手を組んでいる誰かの像。肘から指先にかけての線がモノクロのアップで映し出されている。絡み合った繊細な白い指先が妙に艶めかしくて、撮影者のフェティシズムを強烈に感じさせるその写真は、先ほどまで見入っていた「街路」とは対照的に、強烈な欲望と自己主張を感じさせるものだった。
たしかにその写真は、指先の形成する最も美しい瞬間を的確に捉えているように見えた。しかし、その像はあまりにも生々しくて、プライベートに過ぎるもののように入洲には感じられた。
並べられた対照的な二つの写真を交互に眺め、最後に「街路」のビジョンをしっかりと記憶しておいて、入洲はそこからの連想が途絶えないように、残りの写真には目もくれずに展示会場を立ち去った。
§
展示会場近くの喫茶店でコーヒーを注文し、アイデアが消えてしまわないうちにその断片を手帳に書き付けておく。窓際の席から外の景色を眺めると、ありふれた「ただの街路」があって、しかしそこにはあの写真とは決定的に異なった凡庸さだけが広がっている。
いったい、ニカイ・ハジメはどうやってあの瞬間をつかまえることができたのだろう、と入洲は思いを巡らせてみる。あの写真に写された場所がどこなのか、季節は何時で、シャッターを切ったときニカイ・ハジメが何を考えていたのか、何一つわからないけれど、それを考えてみることは、たとえばあの写真を本という形に綴じるうえで、重要なことのように、入洲には思えた。
帰りのバスを待たず、歩いてアパートまで戻った入洲は、すぐに窓を全開にして部屋にこもっていた空気を入れ換えた。まだ陽射しの残っている夕暮れの街はひどく蒸し暑かった。
入洲はカーテンを引くと、三十分近く歩いてすっかり汗ばんだTシャツを脱ぎ捨て、そのままインナーも外し、タンクトップに着替える。電気代を節約するため、なるべく冷房は使わないことに決めていた。
不意にリビングのテーブルに視線をやると、そこに見覚えのない四角いものが置いてあった。不審に思って近づいて確認してみると、それは『虹の果てへの鎮魂歌』と金字でタイトルを箔押しされた上製本だった。カバーはなく、深い紅色をしたベロアのような素材が一面に張られたシンプルな装幀、箔押しされているタイトルは特に意匠を凝らしたような印象もない、素っ気ないベタ打ちで、どこか素人臭さを感じさせる。
三センチメートルほど束のある、やや厚めの本をそっと開いて薄いクリーム色の本文紙に触れてみると、やや粗いがしっとりとした感触、厚みはあるが軽く、捲ってみると粗さのわりにしなやかに流れてくれる。返る瞬間に響く乾いた音も、心地よい。
この用紙はいったい何だろうかと入洲は考えてみるが、すぐに思い当る品名が浮かんでこなかった。
見返しは品のある淡い紫色で、こちらはつやのある上質紙。指先の感触も滑らか。扉のタイトルは装幀と同様、飾り気のないシンプルなベタ打ち、著者や版元のクレジットは見当たらず、扉裏の白ページの次から、改丁でいきなり本文がはじまっていた。
入洲はそのまま本文を読み進めることはせずに、本を返して奥付を確認する。すると発行年月日にいきなり誤植を見つけてしまった。発行日はおおよそ今から一月前とされていたが、発行年が百年後になっている。著者と発行者はスナシロ・レン、ということは、この本は同人冊子か私家本の類なのかもしれない。印刷・製本所はマルキ・ブックスタイルズという入洲の知らない業者だった。
ISBNコードが振られていないところを見ると、やはり私的に発行されたものには違いなさそうで、そう考えれば発行日の誤植も何かチャーミングなもののように思えてきて、入洲は微笑を浮かべてしまう。そして、いったいこの本はどこからやってきたのだろう、と首をひねる。
テキストの黒と余白、版面のコントラストをぼんやりと眺めながら、しばらくパラパラとページを捲っていくと、間に挟まっていた水色のクリア素材でできた栞が落ちてきて、入洲はそれを拾い上げて真ん中あたりのページに挟み込んで、いったん本を閉じる。
それからひとまず冒頭に戻って、入洲の感覚からするとやや文字を詰めすぎのように思える息苦しい版面に書かれた文章を読み進めていく。どうやらこれは小説のようだ。読んでいくうちに、次第に目が疲れていく。本文に使われている見慣れない明朝体のフォントのシルエットが粗く、読みづらいのだ。
それでも描かれている物語に惹かれて、入洲は頁をめくっていく。天涯孤独になってしまった少女が、生き別れの姉を探して宇宙を旅するSF小説。ふだん、SF作品に触れることは滅多にないし、宇宙やテクノロジーについてはまったく入洲の専門外だったが、そこに描かれている技術や社会情勢など、奥付表記のように今から百年後の物語だと思いながら読んでいくと、妙なリアリティが感じられて、入洲を楽しませてくれた。
いつの間にかソファに横になって読みふけっていた入洲は、空腹を覚えていったん本を閉じた。時間を確認すると、帰宅からすでに二時間半近くが経過していた。栞を本の三分の二あたりに挟み込んで、疲れた目に目薬をさして二度強く瞬きする。
続きを読むか、食事にするか。一瞬迷ってから入洲は再び本を開いてソファに腰を下ろした。読みづらい組版にも慣れてきて、このペースならあと一時間ほどで読み終わりそうだった。食事はそれからにしよう。
残りのページ数から類推すると、これが最後の惑星。おそらくそこに姉がいる、あるいはいたのだろう。二人がどんな形で再開するのか、期待しながらページをめくっていき、いよいよクライマックス、この先に姉が待っている、というところで物語は途切れて、とつぜん著者による解題がはじまった。
戸惑いながら入洲は前のページに戻り、読み落としがないかを確認し、再びページをめくってみるが、やはり物語は途中で終わっていた。それから、頁の下、端のほうに視線を向けてみるとノンブルが十六頁、飛んでいた。
続きが気になるもどかしさと、時間を浪費してしまったような徒労感に襲われながら、入洲は冷蔵庫のあり合わせの食材でサラダとパスタを作って、いつもより少し遅めの夕食をとった。
それから『虹の果てへの鎮魂歌』について、インターネットで検索をかけてみたが、入洲が望むような情報を得ることはできなかった。スナシロ・レンという名前の小説家と『虹の果てへの鎮魂歌』というSF小説は、少なくとも現在、ネットワーク上には存在していないようだった。
そして、ソファの上に放置したままになっていた本を手に取って、最初の疑問に戻る。この本は、いったいどこから来たのだろうか、と。涼しい夜の風が、開けたままの窓から吹き込んでくる。これ以上考えてみても何一つ手掛かりは見つかりそうにもないと諦めて、入洲は本をソファに戻してシャワーを浴びることにした。
夕方の汗はすっかり乾いていたけれど、熱いシャワーの心地よさは、物語の途中で見知らぬ宇宙の果ての惑星に放り出された入洲の不満をほんの少しだけ洗い流してくれた。本への思いが薄れると、今度は写真展で見た「ただ、早朝の街路」のイメージが頭のなかいっぱいに広がっていく。
本来、自分がいま考えなければならないのはこちらのほうだと、企画案提出の締切の日付を思い出しながら、入洲はフォトブックの構想を膨らませていく。
ドライヤーで髪を乾かしながら、それにしても、けっきょく自分は一日中、本のことばかり考えているな、と入洲は苦笑した。とりあえず明日、フォト・コースの教室へ行って、ニカイ・ハジメに声をかけてみよう、と決めて入洲はベッドにもぐりこんだ。
もしかしたら、物語の続きを夢に見られるかもしれないと期待して『虹の果てへの鎮魂歌』の「最後」のページをもう一度読んでみる。それから全体をパラパラとランダムにめくって、その稚拙な組版にため息をつきながら、自分だったらこのストーリーをどんなふうに組むだろう、フォントは何が相応しいだろうかと考えてみる。そんなことを考えているうちに、いつの間にか入洲は眠りに落ちていく。
……リガトウ、……ページ、、、ラクチョウ――、ホンヲ、……クダサイ――
ノイズ交じりの声に呼びかけられて入洲は真夜中に目を覚ました。枕元のスタンドライトをつけて薄暗い室内を見回してみるが、とくに違和感はない。けっきょく、そのまま眠ることができず、入洲は本棚からウジェーヌ・アジェの「パリ」の写真集を取り出して眺めていた。そこからフォトブックのイメージをいろいろと空想していく。
ニカイ・ハジメがほかにどんな写真を撮っているのだろうかと気になって、その名前をインターネットで検索してみたが、コンクールの入選者名簿に名前が見つかる程度で、作品の画像を見つけることはできなかった。
§
「ごく私的な視線から、オブジェとして部分を切り取って、コントラストによってその輪郭を際立たせて、普遍性を与えるんだ」
自分の作風についてそんなふうに説明しながら、ニカイ・ハジメは眼鏡のレンズ越しに入洲の脚にサッと視線を走らせた。
ショートボブに切りそろえられたさらさらと真っ直ぐに伸びた髪、その前髪をかき上げて、しばらく考え込むように指先でこめかみのあたりを弄っていたニカイは「一つ条件があるんだけど」と試すように入洲を見つめた。
「条件?」と入洲がたずね返すと、ニカイは軽く微笑んで「そこに座って脚、組んでみてくれない?」と教室の空いている席を指さした。言われるがままに入洲が椅子に座って脚を組むと、ニカイはその動作をじっと見つめて「うん、いいかも。えぇと、入洲さん? だっけ。あなた、モデルになってくれない?」と言いながら、机の上に置かれていたコンパクトカメラを手に取って、そのレンズを入洲に向けたかと思うと、素早く一枚、スナップ写真を撮ってしまった。
突然のことに入洲が戸惑っていると、ニカイは「ありがとう。私の写真、気に入ってくれて」と破顔した。その笑顔は、細面でやや神経質そうなニカイの印象とはギャップのある人懐っこいもので、思わず入洲は面食らって、いきなりカメラを向けられたことに対する違和感は霧散してしまった。
「モデルのこと、すこし考えさせて」
昼休みが終わる前に入洲がそう告げて自分のクラスに戻ろうとしたのを、ニカイに呼び止められて、振り返った瞬間を、再び写真に撮られてしまう。ニカイは「後姿、きれい。いい写真が撮れそう。前向きに考えてみて」と笑い、軽く手を振って入洲を見送った。
「ただ、早朝の街路」から滲み出していた静謐な雰囲気と、それを撮影したニカイの、つかみどころのない飄々とした雰囲気の差に戸惑いながらも、しかし、実際はそんなものなのかもしれない、と入洲は考えてみる。写真のモデルになるのは何だか気恥ずかしいような気もするけれど、ニカイの手にかかれば落ち着いたきれいなポートレートに仕上げてくれるかもしれないという期待感もあった。
午後の授業はそんなことばかり考えて上の空で過ごし、けっきょく交換条件を受け入れることに決めて、放課後、入洲は再びニカイを訪ねた。
「さっき資料室で入洲さんの基礎科のときの課題を見せてもらったんだけど、私の写真と合いそうかも。細部へのこだわり、っていうのかな? フィーリングが何となく近い気がするんだよね」とニカイは上機嫌で迎えてくれた。
さっき、というのは入洲があれこれ思い悩んでいった時間帯のことで、つまりニカイは午後の授業をサボって資料室で入洲の作品を調べていたらしい。
入洲がモデルを引き受けると申し出ると、ニカイは「オッケー、よろしく」と例の人懐っこい笑顔を浮かべ、「絵、上手いんだね。課題の挿絵のイラスト、すごく良かった」と入洲が昨年提出した課題についてコメントし、それから「明日、私の写真も何枚か持ってくるね」と約束したかと思うと「ごめん、この後、バイトなんだ」と言ってさっさと教室を出て行ってしまった。
モデルを引き受けることに決めた以上、ニカイの写真の力を借りて、その魅力を最大限に引き出せるようなフォトブックを作りたい、と入洲は意気込んでいた。明日、ニカイがどんな写真を持ってきてくれるのか、楽しみにしつつ、それまでにもう一度イメージを膨らませておこうと思い、入洲は写真展に足を向けた。
他の写真の前を素通りして、足早に「ただ、早朝の街路」の前に向かう。前に立って対峙してみると、やはりその写真には入洲の感性を引き付ける何かがあった。そこからは、先ほどの慌ただしいニカイの雰囲気はまったく感じられず、シャッターを切るニカイの指先がいったいどうやってこの画を捉えたのか、やはり入洲にはさっぱり分からない。
名残惜しさを覚えつつも、最後に入洲は大きくタイトルの書かれたパネルを一瞥してその場を去ろうとする。
ただ、早朝の街路
クドウ・ケン
――クドウ・ケン?
誰? という疑問がその瞬間、入洲の脳裏に浮かぶ。いったいニカイ・ハジメはどこへ行ってしまったのだろうか。そう思いながら周囲に走らせていた入洲の視線を、隣に飾られていた「手」の写真が惹きつけた。
「手」の形状をオブジェとして切り出し、白と黒の強いコントラストでその輪郭を浮き立たせているその写真は、ニカイが昼休みに話してくれた作風のことを思い出させた。「峻厳、稜線」と題されたその写真の撮影者は「ニカイ・ハジメ」と記されていた。
§
嬉しそうに机の上に写真を並べているニカイに、どう話を切り出せばいいだろうかと入洲は考えていた。展示会の事務局がネームプレートを間違えて提示していたせいで、自分が勘違いをしてしまったのだと正直に理由を述べて、モデルの件は断るつもりではいたけれど、せっかく大量の作品を持ってきてくれて、これからそれが一冊のフォトブックとして編まれていくのを楽しみにしているであろうニカイを失望させるのは、気が引けた。
「これ、昨日の写真、焼いてみたんだ」と言ってニカイが見せたのは、入洲の後姿を捉えたショットだった。空間から浮き出した彫刻の影のように克明に切り取られたそのシルエットが自分のものだとは感じられず、入洲はしばらくその像に見入っていた。
「こっちは少し輪郭がぼけちゃった」と、今度は組まれた脚の写真を見せながら、「もう少しちゃんと準備して写せば、ずっときれいになると思う」とニカイは言った。
並べられた写真には特に規則性はないようだった。「とりあえず気に入ってるのを適当に選んで持ってきたんだけど」とニカイは言って「ここから使えそうなのを選んでみて。セレクトやディレクションはいったん任せるから、入洲さんのほうで第一案を固めて、それから相談していこうか」と微笑んだ。
もし他の写真も見たかったら、部屋に見に来てもいいから。できれば、新しい写真も撮って何枚か入れたいな。もしよかったら自分の写真も入れてみる? などと次々に提案してくれるニカイの言葉が、これからそのすべてを断ろうとしている入洲の気持ちを挫いていく。
「あの……」これ以上、決意が挫かれてしまわないうちに、思い立って入洲は口を開いて謝罪と断りの言葉を一気に述べ伝えた。
「……うーん、そっかぁ」と、ニカイはとても残念そうに呟き、それから「私の写真、どうかな?」と入洲に質問した。
「え?」と口にしたきり、しばらくその質問に答えあぐねていた入洲に「別に、率直な印象を言ってくれて構わないから」とニカイは優しい笑みを浮かべた。
「何だろう……何か、すごく強い、こだわり。というか、執着みたいなものを、感じる、かな?」
入洲がそう口にすると、「うん、私もそう思う」とニカイは肯いて、「だから、私って、一度撮りたいと思った被写体は、絶対にフィルムに収めないと気が済まないんだよね」と不敵に笑った。
「ねぇ、他の写真も見に来てよ。私、クドウみたいな写真は撮れないけど、きっと一枚くらい入洲さんの感覚に刺さるものがあるはずだって、思うんだよね。昨日、入洲さんの作品を見たとき、絶対に合うはずだって感じたから」
「……うん、見てみるだけ、なら」
ニカイの勢いに押されて、思わずそう言ってしまったことを、入洲は少し後悔したけれど、自分のデザインが写真に合うはずだというフォトグラファーとしてのニカイの直感に応えたいというデザイナーとしての小さな気持ちが、芽生え始めたようにも感じていた。
§
けっきょく入洲は、ニカイが自分をモデルにして撮影した写真をフォトブックに使うことはしなかった。一番気に入った一枚を自分だけのものにして、フレームに入れて部屋に飾っておく。
課題提出前の仮版として一冊だけ手製本で試作した、厚めのコート紙で九六頁、六折のなかにニカイと二人で厳選した八〇点の写真を掲載したフォトブックの出来栄えに、入洲は満足していた。
ニカイの作品には縦位置のものが多かったこともあって、縦のB5変型サイズ。ニカイの希望でカバーは巻かず、白地の表紙にはタイトルの表記はなく、ただ表1の中央に「峻厳、稜線」を印刷したシンプルだが力強いデザイン。
しかし、入洲が一番気に入っているのは後半の八ページ分に二段組で掲載されている、ニカイ自身の筆による作品解説だった。八〇点それぞれに関する解説を頼んだとき、はじめのうちニカイは面倒くさがっていたが、最終的にはすべての作品について解説を用意してくれて、しかも入洲の予想していた以上にニカイの文章は魅力的だった。
写真の部分については掲載順やレイアウトについてニカイとやり取りを重ね、綿密な調整を行ってきた。写真のページにはネームを入れたくない、というニカイの希望もあって、文字組は一切せずにレイアウト作業に専念をしてきた分、解説部分の組版については入洲はある種の解放感を味わいながら本編以上にこだわってしまった。書かれた文章が魅力的ならば、なおさら気合が入るというものだった。
試作品を参照しながら、フォトブックの完成に向けて入洲が部屋にこもってコンピュータに向かって最終調整作業を続けている間、ニカイは「手伝い」という名目で毎日のように遊びに来ては、本棚に並べられた本を読み漁っていた。
そんなふうにニカイが手に取った一冊のなかに『虹の果てへの鎮魂歌』も含まれていた。遊びに来るたびにちまちまとその物語を読み進めていったニカイは、四日目になってようやくクライマックスに辿り着き、「なにこれ、途中で終わってるじゃん」と不満そうに呟いて本を閉じた。
「これ、最後どうなるの?」
「知らない」
モニターから目を離さずに、入洲は短く返事をした。
「スナシロ・レンって、他にどんなの書いてる?」
「知らない」
「あっそ」と言ったきり、ニカイは黙ってしばらく手元のスマートフォンを操作していたが、以前、入洲が調べたときと同様、何の情報も得ることができなかったらしく「四日も無駄にしたー、時間返せー」と嘆いていた。
ニカイは不満げにベランダへ出ていくと、ポケットから煙草を取り出して、火を点けた。
「窓閉めてってば」
入洲がそう叫ぶと、ニカイは「はーい」と気のない返事をして、窓を閉めた。
煙草を喫い終ったニカイが部屋に戻ってきた気配を感じて、入洲は画面上で写真の掲載位置を微調整しながら、「ねぇ、最後どうなったと思う?」と質問してみた。
「え?」
「最後、妹――レンは、ミーカに会えたのかな?」
「そりゃ、会えたでしょ絶対」と即答。
楽観主義なニカイらしい答えに入洲が笑うと、「入洲は会えないと思ってるんだ」とニカイは言った。
「会えないというか、たぶん、会えなくても後悔はしないんじゃないかなって」と入洲が自分の見解を述べると「結果ではなくて過程が大切、ってやつ? 入洲らしいけど、私はやっぱり、目的を達成できなきゃ満足できないかな」とニカイは返して「それに、ハッピーエンドがエンタメの基本でしょ! 入洲はちょっと抒情的すぎるんじゃないかな」と笑った。
「別に、そんなんじゃないけど」と振り返った入洲の瞬間を、ニカイのシャッターが正確に捉えた。「いま、絶対振り返ると思った」と、手にしたコンパクトデジタルカメラの小さな液晶画面に映った入洲の姿を満足そうに眺めながら、ニカイはカメラをテーブルの上に置いて、作業中のニカイの背中をそっと抱いた。
「ちょっと、重いよ」
「入洲のほうが重い」
「うるさい。ニカイ、最近太ったんじゃない?」
ニカイはその言葉には応じずに、肩のあたりまで伸びた入洲の髪をそっとかき分けていく。そうして現れた白くて細い項に指先で触れる。
「くすぐったいから」と身体を軽く捩らせた入洲を、ニカイは支えるように抱きとめて、そのまま耳元に唇を寄せると「ちょっと休憩、コーヒーでも飲みに行こうよ」と囁きかけた。
「だから、くすぐったいってば」
半ば諦めたような調子でそう言って、入洲は作業中のデータを保存して、背中にニカイの重みを感じながらコンピュータをスリープ状態にした。
「ちょっと待ってて、着替えてくるから」と入洲がリビングから出て行って、それを待つ間、ニカイは放り出したままになっていた『虹の果てへの鎮魂歌』を手に取って、パラパラとページをめくってみる。消化不良の結末に不満は残りつつも、何故か気になる作品だとニカイは思う。不意にページの隙間から水色の栞がふわりと滑り落ちて、ニカイはそれを拾い上げて、透明なその素材を室内灯で透かしてみる。
「お待たせ」と戻ってきた入洲に、「ねぇ、気がついた?」とニカイは問いかける。
「何が?」
「この栞、シールになってる」
そう言ってニカイは、指先で器用に栞からシールをはがしてしまう。
「勝手にはがさないで。その本、私のじゃないんだから」
「そうなんだ」
指先に貼りつけたシールを眺める振りをしながら、ニカイは不満そうに呟いた。
「別に、気がついたら部屋にあったんだけど……誰のかわからなくて」
「何それ、この本ってSFじゃなくてミステリ? それともホラーかな」
ニカイはいたずらにそう言って笑うと「このシールをはがすと呪いの封印が解かれて、夜な夜な不気味な女の声が……なんて」
「そういえば……前に変な声が聞こえたことがあって――、ちょうどその本を見つけた日だったような」
「え、入洲、そこに乗っかってくる?」
自分から言い出したくせに、ニカイは「怖いからやめよう」と言って話題を変えるように「このシール、何で出来てるんだろう?」と透明なそれをじっと見つめた。
「わからない」
「けっこう格好いいかも」
そう言いながら、ニカイは試作した写真集の表紙、中央に置かれた「峻厳、稜線」の写真の上のあたりにシールを貼り付けてしまった。
「あー、はがすとき破れたらどうすんの?」と慌てて止めようとした入洲に振り返って、「大丈夫じゃない、貼って剥がせるってやつかも?」と気安くニカイは返事をした、その瞬間、二人の目の前でフォトブックは消えてしまった。
一瞬、何が起こったのかわからずに顔を見合わせて、もう一度、視線をフォトブックの置いてあったあたりに向けてみるが、そこにはテーブルの木目が見えるだけで、ほかに何も見当たらなかった。
§
その日、十四歳の誕生日にニーア宛に届けられたタイム・シフト転送便は、見たことのない白くて薄い長方形の物体だった。
ナビに問い合わせて調べさせてみると、それは数百年前に情報伝達のための媒体として使用されていた「本」というものらしかった。
転送便のラベルカードの宛名登録は間違いなくニーアになっており、往復便の差出人もニーアとして登録されているようだった。しかし、ニーアには、そんなものを出した記憶はなかったし、転送物であるおおよそ四〇〇年前に作製されたらしい「本」というものにも覚えがなかった。
ページという薄い形状の層を重ねた本というものを、ニーアが慣れない手つきで一枚ずつめくっていくと、そこには白と黒で描画された奇妙なビジョンが定着してあった。
「ナビ、これは?」
《それは写真です。物体の像を光によって固定する古い技術と、それによって再現された像のことを指します》
「光で像を固定して再現するっていうのは、いまのビジョンと変わらないみたいだけど……どうして平面なんだろう?」という素朴な疑問をいだきつつも、そこに並べられた像を、一枚一枚、ニーアは眺めていった。
手や脚、唇のアップなど、人間の身体のパーツを切り出したようなビジョンが多かったが、ときどき、ニーアの見たことのない物体の像が挟まれていて、そのたびに「ナビ、これは?」と質問をしていく。
《ニーア、それはライターという、火を熾すための道具です》
その操作方法と火が熾る仕組みを聞かされると、ニーアは「ずいぶん贅沢に資源を使ってたんだ」と感想を述べた。
「それじゃ、これは?」
ライターの先に点った火に炙られている白くて細長い筒状のものが、同じくらい白くて細い繊細な指先に挟まれていて、その端を薄い唇がそっとくわえているイメージ。
《それは、煙草です。ナス科タバコ属の栽培種の葉を加工した製品。現在から約三五〇年ほど前までは、嗜好品として愛好家の間で嗜まれていました。現在でも、地球圏のごく一部の地域で、生産されています。
葉にニコチンと呼ばれる嗜癖性の高い成分を含み、また発がん性等の健康へのリスクや有毒性が問題視されたため、現在では一般には流通していません》
「有毒? それが分かっていて何で好んで摂取するんだろう?」
《ニーア、煙草を摂取する行動は、〈喫煙〉と定義され、火をつけて発生した煙を吸引することから〈喫う〉と呼ばれていました。その効能には諸説ありましたが、主にストレスと呼ばれる精神への過負荷状態を緩和するために用いられていた、というのが有力です》
「ストレス? 何それ」
《ストレスの定義について、説明を要求しますか?》
「ん? いいよ、そんなの。それより煙草ってどんな味がするんだろう。わざわざ煙を吸引するなんて、何か可笑しい」
《SFSによる喫煙行為のシミュレーションが可能です》
「ほんとに? じゃ、お願い、ナビ」
仮想煙草をくわえて、ニーアが軽く吸気すると、先端にポッと火が点り、薄い煙が立ち上っていった。口内を満たしていく煙に、ニーアは思わず咳き込んでしまい、それから苦味の利いたフレーバーが広がっていく。
四〇〇年前の写真に写された人は、いったいどんな「ストレス」を緩和させるために、煙草を吸っていたのだろう。おそらく、いまよりもずっとプリミティブで不便な時代のことだから、自分には想像もつかない精神的な負荷がたくさんあったんだろう。そんなことを考えながら、ニーアは煙草の火を消してSNSとの接続を解除する。
それからフォトブックをそっと閉じて、遠い過去のささやかな記録の断片を閉じ込めてしまう。
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