梗 概
浜の夢
「ポイント・アルファに到達。測位誤差込みでもかなり近い。これより小包(パッケージ)の回収に移行。通信終わり(オーヴァ)」
通信士にしてカバコフ大佐の妻であるミアは作戦中の夫を案じつつも、宇宙服のなかで彼の酒臭い息が耐圧ポリカーボネードのヘルメットを曇らせるさまを想像し、半ば辟易しながら応じた。
「鳥籠よりアリョール(鷲)へ、確認(コピー)。グッドラック」
彼女はふっと排気しヘッドセットを外す。夫は首尾よく持ち帰ってくるだろうか。今回の作戦は古兵のカバコフには造作も無い回収任務で、数千年前に干上がった海洋惑星のかつての浜辺から太古の岩塩を持ち帰るというものだ。
「鷲より鳥籠へ、小包を落手(タッチダウン)。しかし……」
彼はそこで不気味に言葉を切る。GPSによれば彼は台地状の地形に居る。
「鷲へ、通信の不良か? 報告願う」
「海──海が見える。潮騒すら聞こえてくるようだ」
「そんなはずはない」狂気を発する夫に面食らってコールサインを忘れたミアが云う。「イリヤ、あなたは呑み過ぎね。そもそも任務中のアルコールは禁じられているのよ。わたしが目をつぶっているだけだってこと、わかっているでしょう」
「ミア、わたしは幻覚を見ているのか」──。
帰途のローバー内でウォッカを遣る夫の赤ら顔が目に浮かぶ。人類不在のこの星で飲酒運転を取り締まる法は無く、したがって夫の酒癖と宇宙的怠惰を更生するのは自分を措いて他に無し、と改めてミアは身を引き締めた。惑星探査に着任してすぐ、夫はアルコールに溺れるようになった。地球への未練を断ちきれず、三年間の任期を蒸留酒で希釈せんとするかのようだ。
どうにかして彼を更生したいミアは、イリヤが海の幻覚を見たその日、あるアイデアを思いつく。海は地球への未練とアルコールが見せた一夜の夢に過ぎない。そのように説得し、改心して酒を断ち、任期まできちんと務めてくれるよう仕向ける。夫は「そんな夢を見るなんて、俺も落ちぶれたもんだ」と心を入れ替える──そう、たしか日本の「ラクゴ」にそんな噺があったはずだ。彼が見た幻覚の正体はわからないけれど。
果たして妻の思惑通りとなり、夫は持ち直して三年を務め上げた。しかし妻には思いもよらぬ宇宙的論理が、この惑星には働いていた。件の浜辺は人の欲望を窺い知り、幻覚を見せることで人間を虜にするのであった。じつのところ妻には知らせず、イリヤは取り憑かれたように浜に通っていたのだった。
夢にまで見た任期最終日。活力を取り戻し健康体になった夫と無事に二人で地球に帰らんとするミアは云う。
「寂しいこの星も今日限り。ようやく地球に帰れるわ」
「いや、わたしはここに残る。また夢になるといけないからね」
彼にとっての現実はすでに、浜辺で見る夢に取って代わっていたのだった。
文字数:1145
内容に関するアピール
古典落語に「芝浜」という人情噺がある。本作はそれを『ソラリス』とブレンドしつつ宇宙探査SFに翻案したものである。閑職としてとある惑星に飛ばされた夫婦の物語が軸となる。夫は地球への未練を引きずっており、三年の任期をアルコールで希釈しやり過ごそうとしている。仕事は申し訳程度にやっているが早晩身を持ち崩すだろうと、主人公の妻は心配している。「芝浜」に取材して彼女は夫を説得する。ところが「芝浜」の帰結とは異なり、夫の思惑は妻の思った通りには運ばない。「また夢になるといけねえ」という”下げ”が別の意味を持つことになる。
文字数:255