海馬の白兎

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梗 概

海馬の白兎

警察が到着した時、現場には被害者の死体と、頭を殴られ意識不明となった坂崎徹が倒れていた。

凶器の包丁には坂崎の指紋だけがあり、坂崎の頭を殴ったとみられるスコップには被害者の指紋だけが残っていた。被害者の抵抗にあった坂崎が殺害はしたものの、その後自分も力尽き倒れてしまったと見られたが、被害者は身元不明で元製薬会社社員の坂崎との接点が見つからず捜査は進展しない。

当初、捜査本部の三澤警部は他の捜査員と同様、坂崎に意識が戻れば事件は簡単に解決すると考えていたが、意識が戻った坂崎は半身が麻痺しており、記憶もまだらに抜け落ちていた。

新たな容疑者として暴力団とも関係の深い田口が上がり、事件の背後に新型の覚醒剤の存在が浮かび上がるが、決め手となる証拠がなかった。

殺人現場で坂崎は田口を見ているはずだと考えた三澤は、高校の同級生で脳科学者であり脳外科医でもある端村(はなむら)を訪ね、坂崎の脳に残っている記憶を引き出せないかと相談する。MRIの小型化に伴い一気に現実的なものとなった夢の映像化を応用できないかという三澤の言葉に、端村はそんなことは不可能だし、治療でもないし、証拠としても採用されないと相手にしない。

脳科学が急速に発展した2020年頃から、脳波、特にP300絡みのデータが証拠として何度も検討されてはいたが、まだ国内では正式に採用されたことはなかった。

三澤は真犯人と目している田口の逮捕よりも、まずは坂崎の無実を証明したいのだと端村を説得する。

医師として患者に治療以外のことをする気はないという端村が提案したのは、脳に人工神経細胞を送り込み、繋がりが欠損した部分にだけ電気刺激を与えることにより、その部分の脳の活動が活発であると見せかけの状態をつくり、本来の神経細胞から軸索を伸ばし、新たな脳内のネットワークを構築し、そこを経由して海馬から側頭連合野に記憶をコピーして、坂崎自身の口から記憶を語らせるというものだった。

早速、記憶回復の治療が始まったが、三澤らが偽造記憶を坂崎に埋め込み、警察側に都合の良い証言をさせようとしているという巧妙なニュースがネットに流れ、治療の継続が困難になる。危険を感じた端村は混乱する病院から恩師井田博士の研究室に坂崎を移送する。

研究室で坂崎の海馬と側頭連合野の繋がりが確認され、三澤による聞き取りが行われる。坂崎は、殺人現場にもうひとりの男がいたことは間違いないが、それが田口であったかどうかは自信がないと述べる。しかし、田口の写真を見た時に、坂崎の脳波は過去に田口を見たことがあることを示すP300のパターン波を出していた。証言と脳波の齟齬に戸惑う三澤に、これこそが坂崎に健全な自由意志があることの証なのだと端村は説明する。

「第三の男が現場にいたことがわかっただけで充分だ。後は俺たち警察の仕事だ」そう言い残し、三澤は捜査本部に戻っていった。

文字数:1189

内容に関するアピール

殺人事件に巻き込まれるというアクシデントのせいで、脳という海で、絶海の孤島となってしまった坂崎徹の海馬。その海馬に取り残された白兎(記憶)を救おうと、海馬から陸地(側頭連合野)へとワニ(神経細胞)を並べる。

果たして白兎はワニの背中をぴょんぴょん飛んで、こちら側へ来てくれるのか。

こちら側で待つのは、三澤警部と端村医師。そして、それを阻止せんとする真犯人田口が逮捕されては困る勢力。

白兎は無事こちら側に渡ってきます。けれども最後の最後に、脳波が示していることとは少し違う証言が坂崎の口からは出ます。どちらが正しいのでしょうか。

脳の活動は意識の決断よりほんの少し先立って行われるので、そこに自由意志が入り込む時間があるのかもしれません。

最初は、坂崎の蘇った記憶によって田口が犯人であることが判明する話を考えましたが、ワニの背中をもう少しで渡りきれるはずだったウサギがいわずもがなの自己アピールをして毛をむしられてしまうような、そういう一瞬が脳の働きと意識の間にはあると考え、結末を考えなおしました。

文字数:447

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