梗 概
虚無の糸――カンダタ最後の聖戦
カンダタは憤怒した。蜘蛛の糸などという細いものに大量の亡者が群がれば、下りろと叫んでしまうのは人間として当然の心性であったからだ。何より、殺人や放火の罪がたかだか蜘蛛一匹見逃しただけで帳消しになるといういい加減な裁定に腹が立った。
彼は釈迦の殺害を決意した。とはいえ、亡者に過ぎぬ自分一人では対抗する手段はない。カンダタは美しい男であった。彼が生前愚行を繰り返したのは、その容姿に欲情した父からの虐待が理由だった。手段を選んでいる場合ではない。カンダタは鬼どもを魅了して情報を集めていった。鬼の言うに拠れば、釈迦が蓮池から監視できる距離は2万由旬ほどであり、それより下の地獄に潜れば、きゃつの眼を逃れて行動できるとのことだ。カンダタは2000年かけて落下し、阿鼻地獄に辿り着き、閻魔大王との面会を設けるに至った。釈迦の殺害計画を話すと、閻魔は全面的な協力を申し出た。
初めにカンダタは釈迦を倒せるだけの戦闘力を獲得せねばならなかった。そこで阿修羅の武力を手に入れることに決めた。彼は修羅道に行き、阿修羅の三面のうち和を司る顔と懇意になり、大量の武器とその体細胞の取得に成功した。地獄に戻ると、カンダタは即座に閻魔ラボに篭り、阿修羅のゲノム分析を行った上で、自身のゲノムをすべて彼と同じものに書き換えた。
次にロケットが必要に思われた。糸が垂れてきた以上、地獄と極楽は物理的に接続された空間であるはずだ。針の山や鉄鍋・鉄窯など、地獄で金属を確保することは容易だったため、ロケットは500年ほどで完成した。しかし極楽までの距離とされる10億万土は、33億光年と同値であると知りカンダタは絶望した。熟慮の末、彼はかつて閻魔がインドに住んでいた際のコネを利用し、太陽神スーリヤの息子カルナと、雷神インドラの子であるアルジュナとを言葉巧みに呼び寄せ、戦わせた。カルナが授かった必殺の槍とアルジュナの持つ万物を滅ぼす弓とが衝突した時に生じる巨大なエネルギーを利用し、時空間を歪曲させることでのワープ航法を行った。極楽に着くと、カンダタは蓮の周りを悠然と散歩していた釈迦に向けて、阿修羅から与えられた電磁加速砲と中性子爆弾を撃ち込んだ。そしてきゃつがひるんだ隙に、阿修羅と同等の力をもって、手刀によってその首をはねた。
復讐はここに成った。しかし釈迦の首は、これから貴様はどうするのかと尋ねてくる。自分を元の世界に返せばその首を踏み潰さずにおいてやろうと答えるカンダタ。釈迦は彼の要望通り、次元転移装置を用いて、地球へとカンダタを送った。しかしそこは完全なる虚無の世界であった。釈迦曰く、地獄での3000年の間に、宇宙空間では30兆年の時が流れていた。カンダタは嘆き悲しみ、釈迦の首を叩きつぶした。するとそこから銀色の糸がどこまでも長く伸びていった。カンダタはあてどもなく、無の世界の中で糸の上を歩き始めた。
文字数:1193
内容に関するアピール
昔から、『蜘蛛の糸』という話の理不尽さに疑問を抱いており、自分がカンダタであれば斯様な結末にまったく納得いかず、復讐を企てるだろうという発想から作品を組み立てました。初回の梗概で、過剰に「SF」という言葉を意識しすぎて上手くいかなかった部分があると感じたため、今回は厳密な論理よりも物語性を活かすガジェットとしてサイエンス要素を用いたつもりでいます。
釈迦への復讐を成功させた結果、カンダタは虚無の世界にひとり放り出されます。あのまま地獄での責め苦に数千年耐えていれば、より幸福な救済が与えられたはずなのに。けれど彼は、この結末に後悔していないだろうと僕は思います。バッドエンドではなく、待ち受けていたものが虚無であろうとも自身の信念に後悔はないというような、ちょっとした矜持を感じさせる物語として、ユーモラスな文体をまじえつつ構成できればと思っています。
文字数:377