俺とここ

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梗 概

俺とここ

人の人生を生きている。
俺の知らない身体で、俺の知らない世界にいる。
目の前にいる爺さんと婆さんと、しばらく暮らしている気がする。彼らはいつも俺を見つめながら楽しそうに笑っている。よろこびは脳がつくりだした情報にすぎないはずだ。この二人は何をよろこんでいるのだろうか。
ここはどこだろうか?ここに来て、この爺さんと婆さん以外の人間を見ていない。奥深い山の中のようだ。この小さな粗末な木造の家に住んでいる。他に建物はなく、他の人間もいない。山々で採れる木の実を食べ、山羊の乳を飲んでいる。美味い物は何もない。俺は誰の身体にいるんだ?

山の中を走り回っているとクマに会った。森でクマに会った時の対処法は、クマの目を見つめたまま後ずさり、その後は全力で走って逃げるだったはずだ。クマに会った俺は凍りついて動けなかった。クマが話しかけてきた。
「ここで何をしている?」
俺はクマの言葉が解るのか。俺の新しい身体はクマの言葉を理解しているようだ。何故なんだ。俺は人間ではないのかもしれない。
「ここで何をしているんだ。」
クマが再び聞いてきた。
「ここで爺さんと婆さんと暮らしているんだ。」
俺は答えた。
「お前が救世主か。」
「救世主?」
驚いた。
「俺はキリストなのか?」
「お前はキリストなのか?」
「いや、俺は俺が誰だかわからない。」
「お前は面白いな。」
クマは続けて話した。
「お前は桃太郎だよ。」
「俺が桃太郎?なぜなんだ?」
「お前がそこの川の上流から桃に入って流れきて、お前の言う爺さんと婆さんがそう名付けたからさ。それにお前がお前だということに理由なんかあるのか?この情報空間でお前は桃太郎だ。つまりこの情報空間こそを、人は現実と呼ぶわけだが、この現実において、お前はこれから俺とキジと鳩と豚とで鬼退治に行くのさ。」
「桃太郎と金太郎の話がまじっていないか?」
このクマは何を言っているんだ。それに桃太郎の物語が間違っている。
「多くの人の昔話に対する理解なんてそんなものさ。どれも似たようで何処かで聞いたことがあるような話が昔話になる。それよりも行動が現実を変えていく。すぐに鬼退治に行こう。」
「鬼退治に、俺がか?なぜだ?」
「お前が桃太郎で、この情報空間にいて他にすることがあるのかよ?」
あったような気もするのだが思いだせない。だけど俺はクマが俺に今からせよと言っている人生を知っている気がする。
「俺は俺の人生を前に一度やったような気がするんだが、思いだせない。あんたはそれを知っているか?」
「オレはお前の過去は知らない。でも今ならまだ、お前はキリストにもなれる。どっちでも同じだからな。」
「やっぱり俺はキリストなのか。」
「お前は自分がキリストだと思うのか?」
俺はキリストなのか。いやいやいや俺はキリストになりたくない。俺は俺が分からないまま、ゴルゴダの丘にたどりついて殺されるのは嫌だ。でも俺がキリストではないとしたら、どうして俺はキリストのことを知っているんだ。俺はクマに話した。
「俺はキリストがどういう運命をたどるかを知っているんだ。」
「オレは仏教者だが、オレもキリストがどうなるかぐらいは知っている。」
「あんたは仏教徒なのか?」
「違う。仏教者だ。」
俺は焦った。
「仏教徒と仏教者の何が違うんだ。」
「だだの翻訳の問題だ。どの翻訳語を選びとるかは翻訳者の好みのような僅かなことなんだが、翻訳者というやつはこういうことに異常な拘りをみせる。だから俺が仏教者と言えば、この世界で俺は仏教者になる。だけどこの物語でオレが仏教者であるということは重要ではないんだ。だから次に行こう。」
次って何処なんだ。このクマはどこへ俺を連れて行こうというのか。
「この世界で重要なこっていうのは何なんだ?」
クマが俺の目を見つめて一呼吸分の沈黙をした。
「お前が鬼退治に行くことだよ。」
「どうして俺が鬼退治に?」
「お前は飲み込みが悪いようだな。昔話に理屈はないんだ。遠くの島に鬼がでて、そこの人たちが困っている。桃太郎のお前は鬼退治に行く。困っている人がいると居ても立ってもいれないだろう?」
「俺は電車で席を譲ったことがないくらい他人のことはどうでもいいんだ。」
俺は電車のある世界に居たような気がする。
「だが、今のお前は違うはずだ。」
クマは俺の肩を掴んで、俺を前後に揺すりながら言った。
やっぱりこれは俺の人生ではない。人の人生を生きているから俺は俺らしくないことをしなければいけないのか。でもここでは俺は桃太郎の俺に従わなければならないのか。
「わかったよ。鬼退治に行こう。」
桃太郎の俺には運命があるのかもしれない。だけどフェルマーの最終定理だったか、超ひも理論だったか、不完全性定理だったか。そいう観念的で計測できない小難しい何かが証明されて、運命というものはないこと解ったはずではなかったのか。待てよ、この世界では偶然性の要素がない可能性もあるのか。いや、だが、しかし、ところで、いったい俺は誰なんだ。

文字数:2021

内容に関するアピール

「俺の人生、こんなはずじゃなかった」と思っている会社員でシステムエンジニアの主人公が、もう一つの現実世界で自分ではない誰かの人生を生きなければいけなくなる。
もう一つの現実世界では、進む人生のルートは一つに決まっていない。どのようなルートの人生を進んでいくのかは、主人公が記憶している歴史上の偉人の史実、昔話や小説などフィクション世界の中から、主人公には分からない形で決まっていく。物語のはじめの部分では、主人公が桃太郎の人生を始めようと決めると、桃太郎の人生をはじめることになり、キリストの人生をはじめるとことを決めれば、キリストの人生をはじめることになる。物語の冒頭から主人公は、クマに誘導されながら自分は自分がはじめたい人生が始められるのかもしれないことに気づきはじめる。主人公はクマをはじめとして、途中で出会う心がないというキジと、天使の生まれ変わりだという鳩をつれて、遠い島にいて人々を襲い困らせているという鬼退治に向かう。その道中で、人に言われるままに生きてきて優柔不断な主人公が、自分で考え、自分で選び、自分の人生を生きることをはじめる。
会社員をしている現現実にもどった主人公は、戻ったその日から新しい決意ある人生をはじめることになる。

文字数:524

課題提出者一覧