選評
梗 概
アリオとナキオと女たち
月子がこっそりつけ始めた「つみとばつノート」を美摘が見つける。「つみ:おとうさんのつみ。おかあさんじゃないひととうわき」「ばつ:しぬ」って書かれてる。前のページに戻ると父への罰は最初はソフトで徐々にエスカレートしてるから、月子の苦しみがわかる。それで美摘も、月子を連れて中目黒のマンションを出て行くことを決める。
愛した人に愛されなくなったショックに心が耐え切れそうにない時、人は〈消灯〉して世界から姿を消す。執筆途中の有生(アリオ)の小説は冒頭の砂漠の風景描写だけで終わっている。美摘たちが去ったショックで書けなくなってしまった有生は、その夜消灯する。
見知らぬ町で目覚めた有生に、蛇の瞳を持った男が試練を課す。とある身勝手な男のせいで傷ついた女に話を聞き、彼女を癒やすこと。これを果たせない限り有生はずっと消灯したまま。
有生は女性に会う前に、もうこの町にいないという謎の男について聞き込みをする。
太った羊みたいな住職の男が話す。男の名前はナキオ。〈HW61〉からきたバンドマン。HW61はたった三人の住人と最低限の楽器しかない四畳半アパート並の小惑星で、三人はその星でバンドを組み、観客もないのに毎日演奏をやっていた。
痩せた狐みたいなレコード屋の店主が話す。HW61がバオバブの樹に覆われて滅びた時、ベーシストとドラマーは星と運命を共にした。ナキオだけが運命を拒否して旅だった。そしてここ望町で、花と出会った。
有生は花に会いに行く。「彼は男っていうより男の子っぽくて、優しくて、豊かで素晴らしい心をもってた。そういうところが好きだったの」。ナキオは花と深く愛し合い、それでも最後は音楽を選んだ。ギターだけを持って星巡りの孤独な旅に戻っていった。
花の話を聞いているうちに有生の中では、花と美摘が、また、ナキオと自分が重なり始める。美摘が与えてくれた多くの愛情を思い、自分がどれだけ美摘と月子を傷つけてきたかに気づく。
望町の外はどこまでも砂漠だけが広がっている。花は夜空を指さし、あれがHW61だと教えてくれる。けれども有生の目はHW61の光を捉えることができない。
花と別れ砂漠に一人残った有生のもとに蛇の瞳の男が再び現れる。男はウワバミに姿を変えて有生を丸呑みにする。消灯がおわり、有生は〈点灯〉する。
目を醒ました有生の中に物語がある。小説を書き上げて実家に戻った美摘に送る。
「月子、つみとばつノートやめたみたい」美摘は有生に電話で伝える。父親がいない生活の中で、月子は有生が作った苦難を父親なしでちゃんと乗り越えていく。有生が再び踏み込む余地はない。
夜空を見上げる。花が教えてくれた音楽の星は、この世界でも有生の目には見えない。
その時、歪んだギターの音が空から降ってくる。
「聞こえる?」と福岡にいる美摘も言う。「こんな時間にすごい音でギターを弾いてる人がいるみたい」
有生は〈目に見えないもの〉を介して自分たちが繋がっていることを知る。それは一瞬で消えてしまう儚いつながりだとわかってる。それでも有生はこの瞬間をずっと覚えていて生涯忘れることはない。
文字数:1288
内容に関するアピール
もとにした物語はサン=テグジュペリ『星の王子さま』です。
蛇をはじめ、羊、狐、花と象徴的なモチーフを多く持つこの作品は、今回の課題である「物語の換骨奪胎」を行うにあたって素晴らしいインスピレーションをたくさん与えてくれるだろうと、それなりに大きな確信をもって書き始めました。原作から重要なモチーフを多く抽出しています。個人的に大好きなガス灯の挿話は、作中における「現実と幻想の間を往来する方法」である〈消灯〉〈点灯〉の着想元として用いています。実作では原作との共通点・相違点を見比べながら読むことの楽しさをより突き詰めていきたいです。
また、前回第3回の実作がなかなかにヘビーで邪悪なものになったので、今回は優しい祈りのような小説を標榜しています。物事はたえず終わったり変わったりあるいは壊れてしまったりするけれど、すぐに失われてしまうところの一瞬の美しさ、輝きみたいなものが、たとえ形を失っても誰かしらの心の中で、あるいは誰の心の中に残らなくても空中を漂う何かしら概念に似た観念、みたいなものとして、永遠に残りはしないだろうか残ってほしいいやきっと残るのだ、というような祈りをこの作品にこめたい。何を言っているのか自分でもよくわからないけれど、こういう短く拙い言葉では伝わらないことも小説にするとうまく伝えることができるはずと信じているのであとは書くだけです、よろしくお願いします。
文字数:593
アリオとナキオと女たち
「お父さんが消えたらよかったのに」
夕食の最中に月子は呟いた。あまりに自然だからアリオは驚くこともできなかった。どういう意味? 説明をあおぎたい気持ちで美摘を見た。
美摘は月子をじっと見つめている。ごはんを少なめに盛りつけた茶碗と箸を持ったまま、まるで一人の時間だけがかちこちに凍りついてしまったみたいで、おかしかった。
美摘はアリオなんか眼中にない。でも、美摘のまなざしの先にいる月子は月子で、美摘を見ていない。月子の視線はじっとテレビに注がれている。
ニュースは連日頻発している失踪事件について今日もまた報道している。被害者はなんの脈絡もなくいきなり消える。目撃者は未だなく、必ず一人のときに消える。
まるで今まで点いていた灯りがふっと消えるみたいに。
「月子」美摘が呼びかけた。
月子は箸を口元からはなして、美摘を見た。
「お父さんに謝りなさい」
月子はきょとんとして美摘を見つめる。それからいきなり両手でテーブルをばん! と叩いた。
「月子!」
美摘が強い口調で咎める。
月子は両手をテーブルの上に置いたまま顔を俯けている。どんな顔をしてるのか見えないが、小刻みに震えている。
泣いてるのか、とアリオは思うけれど、
「ごめんなさい」
渇いた絵の具みたいな声で月子は言った。
「待ちな。話は終わってないよ」
美摘の声を無視して静かに席を立ちダイニングを出て行く月子の背中を見つめながら、幽霊みたいだなとアリオは思った。
美摘は別なことを言った。「あんなふうに気持ちを押し殺して、急に大人になっちゃったみたい」
美摘が正しいんだろう。
「月子、限界だよ」美摘は言う。
「どうすればいいんだろう」アリオは言う。
「有生君、ちょっとは考えたら」
「……」
「ねえ、私のことはいくら嫌いになってもいいから——」
「そんなことないし、美摘の方こそ……」
「——月子にはちゃんと向き合って。有生君、月子といるとき、いないみたいだよ」
そうか。
どうやら幽霊はアリオの方らしい。
二人で食事をすませると美摘は月子の残したアスパラの肉巻きとサラダとごはんを生ゴミと一緒に捨てる。
ナキオは音楽の星〈ハモニカ〉から枯れ葉みたいな翼に乗ってやってきて広大なサハラ砂漠に不時着した。金色の砂漠の太陽、その熱を全身にたっぷり吸い込んで、ナキオの鳥は重力に押しつぶされたように砂地の上に這いつくばっている。自慢の翼は過度の衰弱のために折りたたむことも叶わずひらきっぱなしで、胴体の両側にだらりと垂れている。
ナキオはこれからどうすればいいのか皆目わからず途方に暮れる。彼の鳥の眼は水晶で出来ているから、それが太陽の光を反射して眩しく、苛立ちを感じた。
全然だめだ、というそのただ一点だけが明白だ。
原作にオマージュを捧げるつもりなんてなかったし、可読性を引き上げるためにパロディを含ませようなんてつもりも全然なかった。二次創作じゃなく、あくまで他のいかなる作品にも依らない独立したひとつの物語を産もうと思っていたはずだ。なのに、実際に書かれたこれは着想元の小説の書き方にひっぱられすぎている。それも、元の作品が持つ豊かな肉をそいだ骸骨、という感じの劣化コピーで、どうしようもない。誰よりも熱心な原作のファンたちがこれを読んで怒り出し、アリオのことを吊し上げにしたとしても文句はいえない。
コマンド+Aで全選択して書いた文章を一掃する。束の間立ち現れた、砂漠の姿をした物語の切れ端は蜃気楼のように消えて、フルスクリーンのエディタはまたもとの更地になる。
アリオはため息をついた。
書けない日々には慣れてしまった。それがいい兆候じゃないってことはわかっているが、少なくとも動じることはもうなくなった。
書きたいことなんてもう何もないのかも。——一方でこっちの疑念は前者とちがっていつまでも鮮度を失わない。こころをよぎるたび、何度だってアリオを怯ませる。
書くことに意味を見出してきた人間は、本当に書きたいことがなくなってしまったとき、どうすればいいんだろう。……答えのわからない問いが、アリオの現在と未来のすべてを殺す簒奪者の哄笑で、アリオの心臓を使い込まれた雑巾にするみたいに無造作に捻り上げる。
LINEメッセージ。透子から。
“はかどってる?”
“私は午前中リハビリ。午後はいつもみたく中庭で読書。”
“最近は前に読んだことのある本をもう一度読み返すことが多いの。”
“今日は思い出のマーニー。ジブリの映画版は見たことないのだけれど、夜中にマーニーとパーティーに忍び込む場面なんか、どんなふうに描かれてるのかな。少し気になります。”
“ちなみに今日の午前中は、初めて先生の補助なしで端まで歩けました。”
“まだ時間はかかるけど、毎日少しずつよくなってるよ。だからアリオは心配しないでいいから。”
返信する。
“困ったことがあればいつでも言って。”
返事は待たず既読がつくのも待たないでスマホをポケットにしまう。原稿用紙の束をまとめ、ペンケースと一緒にバックパックにしまって図書館を出た。
月子は限界だと言った美摘の言葉は正しくて、「なぜ書くのか」なんて独りよがりな問答と格闘していられるあたたかく暢気な世界はおわる。
美摘が月子の部屋で「つみとばつノート」を見つける。それは他の科目別のノートたちと一緒に棚に並べられている。
「つみ:おとうさんのつみ。おかあさんじゃないひととうわき」「ばつ:しぬ」と書かれている。
前のページに戻ると父の罰は最初はソフトで、それはたとえば「つみ:おとうさんのつみ。おかあさんをなかした」「ばつ:かいだんのしたのゆうれいとよるにあう」。ページがあとにいくほど、父親の罪状ははっきりとした輪郭を手に入れている。幼い月子が一生懸命に観察して、ゆっくりと罪の具体性を学びとってきたんだとわかる。同時に、「つみ」と呼応する「ばつ」もまた、だんだん過酷に、陰惨になっていく。父は死ななければならない——そのことをついに書き込むまでの過程で、月子はどれほど苦しんだだろう。
月子を福岡の義父母に預けて戻ってきた美摘はアリオに言う。「いろいろな苦しさを我慢してきたぶん、それでもこんなことになってしまったのは——ぜんぶが壊れてしまったのは悲しいけど、でもね、我ながらひどいなって思うんだけどそれでも、どこかほっとしてしまってる自分もいて」
ごめん。
ごめん……ごめんなさい……赦してください。
行かないでくれ。お願いだ。頼むよ。
これからもずっと美摘と二人で月子の成長を見守っていきたい。
嘘じゃない。
ああもう。
……もう遅いんだろう。
「行くね」と美摘は言う。荷造りはもう済ませている。
アリオは中目黒駅前までついていって最後の荷物をまとめたキャリーバッグを美摘に手渡す。
「美摘。もう一度やり直すことができないかな」
何いってんだ、こいつは。アリオは自嘲した。
「今すぐは無理かもしれない、でも、困難の多くは時間が解決してくれると思う……」
まじでさ、滑稽にもほどがあるよな。いったいどの口が言ってるんだ? 僕は、本当の馬鹿か?
——僕は本当の馬鹿なんだろう。
「あのね、有生君。これはまだ浅い、私のこれまでの人生の実感の一つとして言うのだけど」
「うん」
「嘘の言葉はどこへも、誰にも、届いていかないと思う。現実の人とのかかわりでも、小説だってたぶん一緒だよ。このことよく覚えておいて」
「美摘——」
「有生君には才能があると私は今も信じてるよ。それは初めて有生君が書いたものを見せてもらったときからずっと変わらない。でも、それでも、最近の君の物語はもう私には届いてこないんだ」
「……」
「私たちの関係はもう、有生君が言うみたいにきれいに元通りには戻らない、とても悲しいことだけどそれは本当のことだよ。だからここであきらめて」
月子のためにも、と美摘は言う。
「そして、有生君は有生君の道をこれからすすんで。私と月子は別の道。君は孤独の中で考えて。どうすれば君の言葉と思いが、しっかりと伝わっていくのか。よく考えて、有生君。必死で。本当に死ぬ気で。それを眠らせては絶対にだめだよ」
……お電話ありがとうございます。女の子をご要望でしょうか。どの子を……? はい、ちひろちゃんですね。オプションのご利用はいかがなさいますか。セーラー服。かしこまりました。お名前は? ご利用ははじめてでいらっしゃいますか。住所の方お願いいたします……。
指定した時刻を三十分以上過ぎても女の子はやってこない。少し冷静になる——何やってんだろう。来ないことにかえって安堵をおぼえて、時間に遅れていることを理由にキャンセルしようと思って〈五反田デザイアー〉にリダイヤルする。
話し中。
五分後にもう一度かけるけどまだ話し中。
レコードをかけている。ドイツのロックバンド、カンの1971年のアルバム『タゴマゴ』。一枚目のB面をまるごと一曲で占めるのは『Halleluhwah』。同じナンバーばかり、アリオは夕方から何度もリピートしている。今、バンドが生み出す怪物的なグルーヴがやせ細り衰弱したアリオを丸呑みにしようと機を窺っている。いっそそうしてくれ。——ボリュームを上げた。
ボリュームを上げた。ボリュームを上げた。ボリュームを上げた。ボリュームを上げた。ボリュームを上げた。ボリュームを上げた。ボリュームを上げた。
深夜のリビングが音圧で軋んだ。
アリオは絶叫した。この場所に生まれてしまった空白は埋まらないし、アリオの叫びはたやすく音にかき消されてしまう。
四十五分を過ぎても女の子はやってこない。
「レコードが擦り切れる」なんて表現があるけど、あれは嘘だという。盤面に傷がいって音が飛んだり聞けなくなることはあっても、何度も再生を繰り返すことで擦り切れてそれ以上聞けなくなるなんてことは、本当はないのだ。
それでも、アリオのカンは擦り切れた。
センチメンタルな映画のラストみたいに、『Halleluhwah』は、アリオが何の調節もしなくとも自然と先細っていった。だんだんフェードアウトしていった。——反比例するみたいに、針がビニールを傷つけるいやな音が育っていく。
それをアリオは、音楽からの拒絶のように感じた。
アリオはまだ叫び続けていた。自分は気が狂っているのかもしれないと思った。今度ははっきりと、酷使し続けたことでひび割れてしまった自身の声を聞いた。
ふいに誰かの視線を感じた。絡みつくような、粘着質なそれが、アリオの肌を粟立たせた。息苦しさを感じた。新鮮な空気を身体の中に取り入れるべきだ。窓をあける?——それじゃ足りない。身体のいたる部位に痺れがある。耳鳴りがする。悪寒。たまらなくなり、覚束ない足取りで安息の痕跡が残る部屋を逃げ出した。
エレベーターの中が地中深くに埋められた縦長の棺みたいに感じられて、どうして階段を使わなかったんだとすぐに後悔した。すぐに直近の階数ボタンを押してここを出るんだ。——考えは浮かんでも身体が言うことをきかない。代わりに右手がばんばんと扉を叩く。開けて、助けて、と口が好き勝手に喚いている。
見られている。——待て、落ち着けそんなはずはないここは密室だ。
エレベーターが地上階に着いて扉が開くと同時に競走馬みたいに飛びだそうとして、乗り込もうとしていた人物とぶつかりかけた。
誰なのかわかって慄然とした。
「透子……?」
「え……?」
透子は首をかしげた。こんなタイミングでアリオと鉢合わせるなんて思いもよらなかったのだろう。「七月十八日は妻と子どもと一緒に海に行くから会えない」と、アリオが伝えたからだ。——
——そして透子はこれから、このまま十階へ上るのだ。五月のはじめの情事のあと、透子はアリオが寝ている間にデニムのベルトループにぶらさがった鍵を持ち出して合い鍵をつくった。だから透子は1003号室を開けることができる。中に入ったあとは……やり方はとびきり古風でいい。誰もが、その風景をひとめ見ただけで、ここに愛があったのだ、と思いを巡らせることができるような——。
「あの、大丈夫ですか」
気づけばアリオの眼前の透子は、ほんの数センチだけ宙に浮いている。
「もしもし、聞こえてます?」
彼女は青ざめた顔をしている。白目をむいて、口元から舌がだらりと突きでている。
「っていうか、あのう。もしかして、電話してくださった方です?」
乱暴に彼女を押しのけた。この地獄を逃げ出さなければ。
ってーな、何すんだよ!——非難の声を置き去りにして路上に出た。
目黒銀座商店街を猛スピードで走り抜ける真っ赤なスポーツカー。うらぶれたスナックの照明。酔歩する中年男たちのだらしのない笑い声。
それに、視線。ねっとりとした。誰かに見られている。
全身の痺れは酷くなる一方だ。強烈な耳鳴りの向こうで酔っ払いたちが垂れ流す喧噪が幾重ものこだまとなって聴覚をかき乱す。
誰かと肩がぶつかった。
その後の時間の推移は断片的でたどたどしく、信頼に値しないものだ。
とにかくアリオは地面に這いつくばって路地の狭間を流れるどぶ川みたいな黒い空を見上げていた。頭上にときどき、侮蔑と嘲笑に満ちた男たちの笑みが現れては消えた。彼らの手はアリオの血で汚れている。もうやめてくれ、とアリオが言うと、頭上の男たちはどっと湧く。もう命乞いかよ、おっさん。
フードをかぶった若者の一人が頭上にスケボーを振り上げた。アキバっぽいアニメの女の子の絵が描かれている。
「楽になんなよ」と彼は言う。
目の大きな女の子の顔が視界いっぱいに広がった。
直後、頭の中で大きな音がして火花が散った。
目を醒ます。
頭部の鈍痛にアリオは思わず呻いた。それから——
——身体の上を這い回るざらついた感触に気づいて顔をあげた。
身体の上に、小さな老人が馬乗りになっていた。干からびた荒野の土みたいに亀裂の入った皮膚に覆われた顔。彼には両腕がなかった。だから手の代わりに口を使ってアリオのTシャツを首のところまでまくりあげた。異様に長い舌を巧みに動かして腹部を舐め始めた。
「なにしてるやめろ」
アリオが言うと、小男がアリオをじっと見つめる。表情はない。何もわからない子どもみたいだ。目だけが命の残り火のように、うつろに光っている。眼球の色と質感が普通とは違う。それは硬質で、青く透き通った石か何かでできているように見える。
アリオは自分の身体が、男の唾液が付着した箇所から順に自分のものでなくなっていくように感じた。頭が割れるように痛かった。アリオをリンチしたあの連中はどこへ消えたんだろう。アリオは若者たちにリンチを受けていたときと変わらずコンクリートの上に大の字に寝ている。酸い悪臭が鼻をついた。誰かが近くで嘔吐したんだろう。町は静まりかえっている。深夜だからか。ちがう。異様だ。静かすぎる。
すぐ先、駅前の大通りにすら人の姿はなく、車通りも皆無だった。
小男は這って、アリオの足の向こう側に下りた。
直後、頭の向こうで光る洋食屋の照明が落ちた。
小男が口を開けた。
一つ手前の焼き肉屋の光も消えた。
小男は靴を履いたままのアリオの両足を口に含んだ。その口はまるでガムでできてるみたいにぐにゃんと大きく開いて容易く足を飲み込んだ。アリオの膝から下は温かさに包まれた。
そのまま小男は、はむ、はむ、とアリオの下半身を飲みこみながら這い進みはじめた。
水晶みたいな瞳がきらきらと光っている。無感動にアリオをじっと見つめている。
アリオの身体は胸元まで飲み込まれる。眼前に奇妙な光景があった。小さかった老人の身体が、アリオの形に伸びている。
「月子」とアリオは呟く。
対面手前でビストロが灯りを落とした。
「みつ——」とアリオは言う。
アリオと老人のすぐそばで居酒屋と吉野屋が灯りを落とす。それが最後に残った光だった。
アリオは慄然として大きく開かれた老人の口内を覗いていた。酸い口臭が鼻をついた。アリオの顎から頬、額、髪にもれなく、じっとりと温かな彼の唾液が浸み渡った。
そうして小男はアリオをすっかり飲み込んでしまう。
小男は口を閉ざし、あとには誰もいない深い深い闇だけが。
ようやっと父が消えるところまで書いた。月子はイヤホンをはずした。マックブックと充電器を接続すると、階下におりてコーヒーをいれようとして、でもやめる。
あーあ、煙草きらしてる。
それで出かけることにした。おじさんたちを起こさないように。いびきをかいて寝てるユズを踏んづけないように気をつけて。かわいいユズ! いい夢見てるのかな。何の夢? 隣のうちの柿の木の下で、落っこちた柿をぱくぱく食べまくったときのこと? 真夜中のユズはよくわからない黒い塊だ。まるまった愛おしい背中をなでた。あったかさを感じる。ちょっとくさい毛むくじゃら。大好き。
「おやすみ」って言ったらユズはうざそうに月子に背中を向けた。ごめんね。
セブンでラッキーストライクとドリップコーヒーを買って車に戻る。おばさんのワインレッドのデミオは禁煙だから開封はもうちょっとがまんだ。ガソリンの残りがワンメーターをきってたからセルフに寄って給油する。満タン。コンビニの給料が入ったばかりだから、今日の月子は太っ腹だ。
運転しながら、冴えきった頭で考えた。今日書いた場面のこと。小説の中で、父さんは最後、月子と母さんの名前を呼んだ。月子にはそのことがひっかかってる。
甘くないか、私。
あいつは女の敵だぞ?
実際、父さんがそんなじゃなかったら、月子だって男の子たちの操るいろいろな言葉を今よりまっすぐ受け入れることができてたかもしれないし、なんだったら四月にめでたく終わりを迎えてしまった仁科君ともまだ続いてたかも?……いやわかってるけどさ、そんなのはある種の責任転嫁だってことくらい。
とにかく、あそこの部分はあとで書き換えよう。やつは女の敵なんだから、美しい世界にさよならする瞬間にだって浮気相手の名前を呟くに決まってる。——ほんとにそう? もしかして、私は私のルサンチマンのために大事なリアリティのことを軽んじようとしてないか、今? ……わからん。いいや、今日はもうたくさん書いたから、また明日。
今日の執筆の最後にイヤホンで聞いていたレディオヘッドがずっと頭の中で鳴っている。口ずさむ。
And true love waits in haunted attics
And true love lives on lollipops and crisps
True Love Waits はライブでは何度も演奏されてきたのに長らくアルバムには収録されてこなくて、『A Moon Shaped Pool』のラストナンバーとしてようやく収録されることになるその前年、トム・ヨークは長年連れ添ってきたレイチェル・オーウェンと離婚したそう。
Don’t leave ——行かないで。
どんな気分がする?
少なくとも月子は数多あるこの曲のアレンジの中で、アルバムのヴァージョンが一番好き。剥き出しで、切実で、誠実だと思うのだ。
衣笠台の田んぼ地帯を抜けると山際に町が運営する体育館があって、そのさらに奥、山と体育館の狭間に隠れるようにひっそり建っているのが望町考古博物館。市民体育館の東側から車のすれ違いも難しい裏手の小道に入って車止めが設置された突き当たりまで進む。そこで停車して車を降りて歩く。財布とスマホとコンビニで買った煙草とコーヒーを持って博物館の庭に入る。自然の音が溢れてる。遠い蛙の声。近い鈴虫の音。そばを流れる小川の音。もちろん不法侵入になるんだろうけど咎める人はいない。警備員の松井さんならすでに懐柔した。
煙草に火をつけた。吐いた煙が空に溶けてく。今日はよく晴れていて月が明るい。
ベルばらでマリーアントワネットとフェルゼンがいちゃこらしてたガゼボみたいな建物が庭の中心にある。中は灰皿完備。側面は無防備だけど天蓋つきで多少の雨ならしのげる。
先客がいた。こっちを見た。「あれ、篠山じゃん」
「何食べてんの?」と私は聞いた。
「カップヌードルシンガポール風ラクサ味。限定発売。松井さんが『差し入れだよ』っつってさ。ありがたや」
「お仕事をがんばってる人から搾取するとかどうかと思う」
「搾取じゃなくて共生だ。橋田はごはんを貰うかわりに彼にフレッシュな女子大生と交流を持つ機会を与えて涸れた警備員生活を潤してあげてるんだよ」
ウィンウィン、と言ってずず、とラーメンをすすった。
松井さんは深夜の見回りの最中にここで月子と橋田を見つけて、第一声は「こら!」だったんだけど、そのあとには橋田が持ってたアコギに目をとめて、「練習か?」と言った。驚かせてすまんかったな、だって。こっちの台詞だよね。
松井さんの虎の子のカップラーメンを食べ終えた橋田が「そいで、はかどったの?」と聞く。「いつ読ませてくれんの?」
「ううん、今日はノッてて、キリのいいとこまで書き切れて良い感じなんだけどさ。ただ正直に言いますけど、このあとのお話をどう転がしていけばいいかぜんぜん決まってなくて。もうちょっと待って」
ここに橋田がいてよかった。本当はちょっぴり誰かと話したいきぶんだったのだ。
それに、と月子は付け足す。
「今日の最後は書き換えるかもしれなくて。……あのさ。愛って幽霊屋敷の屋根裏とか、ぺろぺろキャンディやポテチの中にある。これって本当だと思う?」
「は。何それ」と橋田は言う。「おい篠山、喧嘩売ってんのか? 最近の橋田にまったくといっていいほど男っ気がないってこと、理解した上での放言か?」
「またそんなこといって」
橋田はちょっと男勝りで気が強いから弱気な人は萎縮してしまうかもしれないけど、めちゃくちゃいいやつだし美人でスタイルもよくておっぱいも大きいから男の子たちが放っておくはずがないのだ。橋田に彼氏がいないのは単に橋田にその気がないからだし、よって橋田の自虐が単なるポーズだってこと、月子はよく知ってる。
「橋田に彼氏いないのって、なんかいい」
「お、やっぱ喧嘩売ってんな?」
「ちがくて、二人でこうしてられるのっていいじゃん」
「何がいいものかよ」
「じゃ彼氏ほしい?」
「……いや。別に、ぜんぜんいらないなぁ」しみじみ言った。
「じゃあもうしばらく一緒にいよう」
「何それ、告白っぽい。篠山そっちに目覚めたの?」
「そうじゃないしたぶん友情だと思う、けどわかんない」
「そうやってあんたは私のこころを弄び、そしていつか男作ってここに来なくなる」
「かもしれないね」
「否定しないんだな」
「少なくとも今の小説書き切るまではつくんないと思うけどわかんない」
「あっそ」
「なんか弾いてよ」
「何かって?」
「なんでもいいよ。橋田が今歌いたい曲が聴きたい」
「なんだそれ。甲斐甲斐しい、ちょっと萌える」
それからじゃーんとギターを鳴らす橋田。
なぜか小沢健二の『指さえも』。あの人の指さえも今僕のもの。こんなキュートな曲をチョイスした橋田は誰かに恋してしまってる乙女ってふうにしか見えなくて、月子はさっきの橋田の軽口を疑わしいって思う。
橋田のかわいい歌を聴きながら二本目の煙草に火をつける。中目黒とか大名にいたときにはこんなこと思いもよらなかったけど、ここでは今日みたいに晴れた日には流れ星が何度も降る。周りに外灯もないからはっきりそれが見える。頻繁すぎてありがたみがないからいまさら願いを乗せる気になんてならないけれど、だからといって見飽きることはない。
それから一週間のうちに月子は少しだけ小説を書き進める。父が消えてしまってから十三年後のことを書く。つまり今のことだ。自己を投影した物語の中の月子も自分自身と同じ大学二年になっている。橋田や仲良しの友達のこと、大学生活のこと、コンビニバイトのこと、好きな音楽、つきあった人のこと。
一週間後に大学でばったり会ったときに月子は、橋田が女の子になった、と感じる。どうにも拭いがたいオーラが橋田の周囲に満ちていると感じる。おおげさじゃなくスピリチュアルなことを言いたいわけでもない。そうだよね女の子って一つの恋でいきなり変わっちゃう生き物なんだよね、って妙に納得する。
実際、橋田はめちゃくちゃ恋している。
え? 私が? あは! 何言ってんの篠山!? あははははは! もうやめてよー。あはははは! ああ、おっかしー。んなわけないじゃん。あーもう。………………………………ほんとやばくてさ。はっきりいって動揺してる。今ならアマテラスオオミカミの気持ちがよくわかる。どっか暗い穴ん中に橋田は引きこもってしまいたい。あのさ、月子。恋ってやばいね。好きすぎて死にそう。
それから橋田はちゃっかりしている。しっかりと彼をつかまえる。「彼氏できたの」月子にさらっと報告する橋田。ほらやっぱり。本気の橋田はすごいのだ。
月子は大学のゼミのあとで橋田に呼び出されて南草津のコメダ珈琲に行く。橋田が彼を紹介する。名前はナキオ。名字はべつに、ない。彼は遠い星からやってきた宇宙人で、出身は小惑星〈ハモニカ〉。この夏に故郷を出て地球に不時着した。
……なんだそれ!
胡散臭いを通り越してわけがわからないよ! 混乱する月子に、今度は彼が直接言う。
「ハモニカはマジで小さい」
「あ、そうなんですか」
「この星の感じでいうなら、まあそうだな、四畳半アパートくらいのサイズだ。俺たちの青春はあの日、確かにあの場所にあったと言えるだろう……」
で、遠い目。
「俺たち、というのは?」と月子は訊ねる。
「俺のバンド仲間たちだ」
「バンド?」ちょっと興味をそそられる。「音楽を演奏するあのバンドですか?」
「うむ」
月子、ため口でいいよ、と橋田が言う。「ナキオは偉そう」
「おお、すまん」とナキオが言う。
「それで?」話のつづきを橋田が促す。
「ハモニカはまじで小さい」
「それはわかったよ」
「四畳半のスペースに、俺たち三人がおって、楽器や機材があったから、それでもう満員だった」
この密度感は、想像してもらえばわかると思うが、ちと厳しい。ずっと三人で顔を合わせてるからめちゃストレスフルだし、旅行に出かけたりそこにいる三人以外の誰かと関わりを持ったりすることもないわけだからな。しゃべるネタはすぐになくなっちまう。
それでしばらくは、互いになんのコミュニケーションも持たんまま、なんもせず、頭の上の無数の星をぼーっと眺めて暮らした。なんせ退屈だからな。星が幾つあるのか、ぜんぶ数えてやろうかと思ったこともあったぐらいだが、まあ寝て起きたら忘れちまうわな、いくつまで数えたかも、空のどこまでを数えたかも。
そんな状況が変わったのは楽器を手にしたからだ。
星が生成したギターとベースとマイクロフォンとドラムセット、それに真空管アンプ。それらを俺たちは「なんじゃろ〜な〜」と思いながら長いこと軽く無視し続けとったのだが、ある日、ヒマにかまけて手に取った。
世界が変わったよな。
俺たちはその日から3ピースバンドになった。誰も教えてくれんから、最初のころは滅茶苦茶だった。だが俺たちは途中から気づき始めた。あるタイミングで三人の音がぴたりとハマったと感じるときがある。
その気持ちよさといったらなかった!
すばらしい、調和(ハーモニー)!
俺たちはやみつきになった。全員の音がぴたりと合致して化学反応を起こすその一瞬! その一瞬をもう一度、いいや欲望を止めるな、何度でも! ……生み出したい。渇望した。だからえんえんと音楽だけをやりつづけた。俺たちは音楽に狂った。俺たちは音楽に殺された。俺たちの音はどこの誰にも届かない。四畳半の星から中空に舞い上がり、そのまま無限に広がる宇宙の闇に吸い込まれて消えるだけだ。観客なんぞはおらんってことだ。
いや、強いて言うなら観客はここにいた。俺たち自身がそうだった。俺たちは自分たちが奏でる音楽の誠意あるリスナーだった。熱狂的な信奉者だった。だから俺たちは音楽をやり続けた。音楽さえあればそれでよかった。
橋田はナキオの話をうっとりした顔で聞いていて完全に参ってるってふうだ。月子はナキオの話に相槌を打ちながら、何かおとぎ話でも聞いてるような気分になっている。彼は変わり者で、嘘つきだけど悪気があるわけじゃなくてただロマンチストな詩人ってだけなんだろうなー、というのが現状、月子の判断。
オブラートに包んではっきりとは言わないけど橋田はこの星に不時着して以来ずっと家がなくて公園とか駅の構内とかでホームレス然とした暮らしをしてきたナキオを自分のアパートに引っ張りこんで養ってるっぽい。いきなり同棲ってわけだ。それは今までの橋田からは想像もできなかった大胆さで、ちょっとバランスを欠いてしまっるみたいにみえるけど大丈夫かな、と月子としては少し心配もある。だけど橋田はここのところ毎日楽しそうできらきらしてるから、今はもう少し様子を見ていようと思う。
月子との秘密の場所、あの博物館の夜の庭にも橋田はナキオを連れてくる。ハモニカのバンドではギターボーカルをやっていたっていうナキオに橋田は弾き語りをせがむけど、ナキオは受け取ったアコースティックギターを太腿にのせつつ、両手でぎこちなくぺたぺたと表面をさすったりしながら首をかしげる。
弾き方がわからないのだ。
橋田は「そりゃそうだよね、遠く離れたナキオ君の星のギターと私のギターがおんなじ原理ってわけないしね」と言って苦笑するけどさすがにがっかりしてるように見える。
月子だって残念に思っている。
宇宙から来たなんてあんまり大それた嘘なら変わり者とか「キャラづけ」とかで済ませることができるかもだけど、弾けない楽器を弾けるという、みたいなもっと細かい部分に関して平気で嘘をついてるのはいただけない。この人信用ならないかも、という気持ちが芽生えて、橋田のことがますます心配になる。
七月が終わって長い夏休みに入ると、橋田やナキオと会う回数はめっきり減る。それは月子が生活のスタイルを変えたためだ。休みだからといってバイトのシフトを増やしたりはせず、大学があるときと変わらず、水曜、土曜、日曜の週三回のペースを守る。それで必然的に増えた時間を使って小説を書き進める。けど、なんとなく時間が間延びしていてメリハリが足りず怠惰で、このままじゃだめだと思い、生活を律するためにまず煙草をやめた。それからランニングを始めた。近所の武田さんはヨガのインストラクターで、仕事が終わってからだと思うのだけど、夜の八時くらいに外を走っているのをよく見かける。
「私も一緒に走っていいですか」
武田さんは月子の申し出を快諾してくれる。そのうえ何も持っていない私のためにイオンのヒマラヤに一緒についてきてくれて、シューズやウェアを見繕ってくれる。
ここまでしっかり買いそろえたらあとには引けまい……なんて謎のプレッシャーを感じながらいよいよの初ラン!
超あつい。超しんどい。
もう二度とこんな苦しい思いしたくない……。
萎れた野菜みたいになってしまった月子にも武田さんは優しい言葉をかけて励ましてくれる。今度はもう少しゆっくりのペースで走ろっか。そいで今は真夏だからね。月ちゃん、これに慣れといたら、涼しくなってきてからびっくりするほど気持ちよく走れるんじゃないかな。
武田さんの言った通りになる。
週に二、三回のランニングを繰り返すうち、九月の終わり頃には私は一周5.5キロのランニングコースをなんとか一度も歩かずに走りきるだけの体力を手に入れている。大学が始まって少し経って夏がすっかり過ぎていった頃には、身体がむずむずして毎日走らないではいられなくなって、武田さんと約束した以外の日にも一人で走るようになる。
月子の中でサイクルが生まれる。学校、バイト、ランニング。これらのことを、どれも手を抜かずにきっちりとこなす。学校やバイト先の友達の誘いも極力断ることはしない。食べたり飲んだり遊んだりするときは手加減しないで思う存分はっちゃける。
それらぜんぶが小説を書くことの血肉になる。あまった時間を小説を書くことにあてがう。メリハリをつけて生活をしたら、書くための時間はちゃんと残る。時間をたっぷり持っていることは大学生の特権だ。
だから橋田とはずっと会ってなかった。橋田は橋田で月子に連絡をよこさなかったから、きっとナキオとうまくやっているのだろうと月子は思っていた。
十月の半ば、金曜の夜、コンビニで働いているときに数ヶ月ぶりの連絡がくる。LINE→ 橋田 →「たすけてほしいんだけど。」。
——え。
橋田「今から会えない?」
篠山月子「バイト中」
橋田「むずかしい?」
篠山月子「なにかあった?」
橋田「バイト何時まで?」
篠山月子「二時だよ」
金曜の夜だけは忙しいから深夜二時まで二人で店をまわすのだ。生活のリズムが乱れるから普段は入らないのだけど、他に人がいないってことで店長に頼みこまれてつい引き受けてしまった。
橋田「わかった、ごめんね、無理いって」
篠山月子「ねえ橋田。何かあったの?」
篠山月子「ナキオ君のこと?」
橋田「私、消えちゃうかも」
橋田「ナキオ、出ていった。もうお別れだって」
そこまで読むと月子はスマホをしまって、深夜アルバイトの村永さんにすぐに抜けていいかと交渉した。村永さんは最初苦い顔を見せるけど月子の切迫した態度を汲んで納得してくれる。ありがとうございます、また今度必ず埋め合わせしますから!
月子は急いで服を着替えて荷物をまとめて車に乗った。
橋田が消える。
十年ちょっと前にはじまって今も世間を賑わせ続けてる、ある日ふいにふっと人が消える現象は、今じゃ〈消灯〉って呼ばれている。消灯の原理は未だわからないけど直接的な要因というか、人が消えるときの条件みたいなものは統計からそれなりに推測がたってきている。強い愛や恋の気持ちが報われずにこころに留まると、それが毒素に転じて、人を消灯させる悪いものを呼び寄せるのだ。
回避するには。——人が消灯するのは「誰もその人を見ていないとき」に限られている。誰かが消灯するところを見た人はこれまで誰もいない。だから何よりも必要なことは一人きりにならないこと。絶対に一人にしちゃいけないのだ。
なのにあいつは。
嘘つきのナキオ! 最低のナキオ!
自分のことを思って煩ってしまった橋田をほっぽって、どこに行ったんだ。
アパートに着いて部屋のチャイムを鳴らしても橋田は出てこない。それでドアノブを回してみると鍵はかかってなくてすっと開く。
「橋田、入るね!」
廊下を抜けて奥の扉を開けた。
月子は安堵してため息をついた。橋田はベッドの上で身体を丸めて布団にくるまっていた。眠ってるんだろう。なんとか間に合ったみたい……。
「来たよ」月子は囁いた。
電気をつけるか迷ったけれど、結局つけることにした。橋田には起きてもらわないと。
部屋が明るくなっても橋田は目を醒まさなかった。
月子はあらためてベッドの方を見て、橋田はずいぶんやつれていると思った。身体の線だけでそれがわかった。
本当に?——悪寒が走った。
急いでベッドに歩み寄り、布団をめくろうとした。
掴んだ布団が、くしゃりと形を変えて崩れてぺちゃんこになった。
そこに橋田はもういなかった。
全身の力が一気に抜けて、月子はその場に座り込んだ。
そのとき、
「月子……」
振り返ると、濡れた髪にバスタオル一枚の姿で橋田が立っていた。
目が合うと、橋田の顔がいきなりくしゃりと崩れた。
ぼろぼろと涙が頬を伝った。
「うわああ月子ぉ……えう、えうう。うわああああ」
月子は一度砕けてしまった自分の気持ちをもう一度奮い立たせる。立ちあがり、橋田を抱きしめた。
「着替えな。出かけるよ」
「え……?」
嘘つきナキオをぶん殴りにいくんだ。
橋田は月子に言われるままに助手席に乗り込むと、困惑を露わにして聞く。
「でもさ月子ぉ。仕方ないじゃん。人の気持ちって変わるものだしさぁ。橋田だって仕方ないと思うよ?」
「悪いけど橋田、酒臭いからもうちょっと離れてくれる?」
んふふ、と橋田は笑って、ますます近づいて頬ずりしてきて、それから月子のほっぺたにキスをして「月子大好き」と言う。
「はいはい、わかったから」
「でもさぁ〜。どうするわけ? ナキオがどこにいるかなんてわかんないじゃん」
「何言ってんの。あんた、携帯持たせてたでしょ?」
「ええ〜? そうだっけ」
ナキオが携帯を持ってたことを月子は覚えてる。親が子どもに持たせるやつ。GPSつきの。だからナキオの居場所なんて手に取るようにわかるのだ。
「あ、じゃあ電話してみよっかなー」
「いい」と月子は言った。「話は直接、面と向かって」
古風だな、と酔っ払いが言った。
ったく。現実的には橋田は消灯の危機に瀕しててかたときも一人にはなれなくてものすごくピンチな身の上だってのに、なんだ、この緊張感のなさは。
「あのさ」月子は言う。「知ってる人が消えてしまうのって、残された方も結構キツいんだよ?」
——月子は父のことを考えている。思い出してしまったことが、癪だった。
「ねえ、聞いてんの? はし——」
……聞いちゃいねえ。
橋田は酔いつぶれて、助手席で眠りこけていた。
ガソリンは半分くらい残っていたけれど念のためセルフに寄って給油した。満タン。給料前だからそれなりに厳しいけど、そうもいっちゃいられない。
町の外に出るのは久し振りだった。西の湖を越えて大中の田園地帯を突っ切る長い長い一本道に出る。近くの牛舎の臭い匂い。橋田が鼻をすんすん、とやって、それから窓に寄りかかる。ぐうーと寝息。
それから、ゆっくりとスピードを落とした。
ヘッドライトの照らす先に、コンクリート道路の先端が見えてくる。
道が終わり、その先には何もない。無。ただどこまでも、広大な砂漠だけが広がっている。
停車すると外から助手席のドアを開けて月子に呼びかけた。「ほら、行くよ」
車で進めばタイヤが砂にはまるからここからは徒歩だ。橋田に肩を貸して、ゆっくりゆっくり進んでいく。
ライトはいらない。無数の星の下で砂漠はじゅうぶんに明るい。方角を間違えないように、何度も携帯でGPS信号を確認しながら歩き続けた。
そうして望町の灯りが遠く地平線の向こうに消えたころ、月子はどこまでも一様な風景の中に一つの人影を見つける。
ナキオだった。砂の上にしゃがみこみ、せっせと動いている。
「何してるの?」
月子の声に、ナキオは振り返った。
「お前たちか」
「何が、お前たちか、だ」
月子は吐き捨てて、そばに立ちナキオを見下ろした。
しゃがみこんだナキオの足下には、半ば砂の中に埋まるようにして、白骨が落ちていた。それは奇妙な骨だった。頭蓋の形は限りなく人のそれに似ている。にもかかわらず、それは腕を持っていず、代わりに二翼の羽根を持っているのだった。
ナキオがやっていることはさらに奇妙だった。左右の翼の骨の上に羽を植毛するみたいにして、どこで集めてきたのかもしれない大量の枯れ葉をあしらっていた。
「迷惑をかけたな」不信感たっぷりの月子に、ナキオは言った。
「謝る前に責任とりなよ」月子は言った。
橋田が寝落ち寸前のうつろな意識の中で、いいんだよ別に、と言った。
ナキオが月子を見上げた。「俺はハモニカの星に帰る。だからお前たちのいう責任は果たせない」そう断言した。
その強い言い切りに、ふと思い立って訊ねることにした。——橋田が再び目を閉じて、すぅ、と寝息をたてるのを見守って。
「あのさ、ナキオは橋田と付き合ってたんだよね?」
ナキオは不思議そうな顔をした。「どういう意味だ? 友人ってことなら、それはその通りだが?」
「……」
いやいや、待て。「でもさ、現にあんたら、夏のあいだ一緒に住んでたわけじゃん?」
「うむ。宿を貸してくれたことについては、感謝している」
……。
ああ〜。橋田。
ナキオがよくわからない飾りつけの作業を続けてるあいだ(その儀式的な作業は見たところ七割方終わっているように見えた)、月子はナキオの話を聞く。
惑星ハモニカの滅亡について。
あるときハモニカは教会の建物みたいに巨大なバオバブの樹に覆われた。ハモニカはとても小さいから、バオバブが星全体を覆い尽くしてしまうまでに大した時間はかからなかった。
ナキオの仲間たち、バンドのベーシストとドラマーはそのとき、星と運命を共にした。狭い大地を這い回る獰猛なバオバブの根に、絡め取られ、取り込まれてしまった。ナキオだけが運命を拒否して、枯れ葉みたいな翼に乗って星を出た。
なんだそれ、と月子は思う。本当に、この人は大嘘つきだ。よりにもよって、この期に及んで、こんな危なっかしい嘘をぬけぬけとつくなんて。
「……はは」
「?」
「いやごめん」
怒りを通りこして笑ってしまった。だって今のナキオの筋書きは、あまりにもサン=テグジュペリの『星の王子さま』そのものなんだもの。
「ふうん。そうなんだ」月子はとぼけて言った。「じゃあさ。どれがそうなわけ?」
月子はナキオを促すみたいにうなずいて、視線を空に向けた。
ナキオは、ううむ、とうなった。ひとしきり空を見渡して、「あのあたりだと思うのだがな」と指をさした。「今は見えん。何せ小さな星だし、それに本来の光は、バオバブの樹でさえぎられとるかもしれん」
へえ。物は言い様ね。
「あそこに小さい三角形つくってる三つの星があるじゃない? あのそばってこと? ふうん、そっかあそうなんだ」
月子は意地悪な気分になってきた。
「ナキオ君はさ。じゃあその惑星ハモニカに、愛する人を残してきたんじゃないの?」
月子が言ったのは『星の王子さま』の有名なエピソードだった。ナキオが身の上話を語る上で原作をなぞるなら、このエピソードは避けて通れないよね。
っていうか、これは私なりの譲歩なんだよ? と月子は思う。敢えて糾弾しないで、ナキオが自分からすすんで嘘だと白状するタイミングを待ってあげてるんだから。
なのに。
「そんなやつはおらんぞ」とナキオは言った。不思議そうに首をかしげて。
あくまでしらを切るつもりなんだな。
さすがにいい加減、月子も「もういいや」と思う。それで「あのさ、ナキオ君、私読んでるからね、『星の王子さま』」と言う。「あの本にでてくる花のことを言ってるんだよ。わかるでしょ? 身を守るためにもたった四つのトゲしか持っていない、はかない〈ぼくの花〉。王子さまが何よりも愛した、小惑星B612の美しい花!」
「悪いが、月子が何を言っとるのか俺にはわからん」
「いや、あのさ——」
「この際だから正直に言うがな」とナキオは続けた。「俺が愛した花は、橋田花だ。ただ一人だけだ」
月子は何も言えなくなった。ナキオの言葉の何が嘘で何が本当なのか、追求する理由はもうないという気になった。少なくとも、たった今発せられた言葉だけは絶対に本当だと月子にはわかった。こんな目をしながら嘘をつける人なんて、この世界にただの一人だっているはずがない、それを信じられなくなったら私はもう何も信じられなくなる、と思った。
言いようもなく気持ちが膨らんで、どうしようもなくなった。
「じゃあどうして橋田を置いて出ていくのよ」
「すまん」
「だから謝ってほしいんじゃなくて、理由を聞かせろって言ってんの」
あれ?
月子は不可解に思った。いつの間にか、橋田の気持ちが自分に乗り移ってしまっているような気がする。
「俺は俺の星を救う。このままいくとハモニカは、地中を貫く強靱な樹の根の侵食に耐えることはかなわず、最後は砕けてしまうだろう。その前に俺はあそこに戻り、今度こそうまくやる。大事な楽器を取り戻す。根に取り込まれたあいつらだって生きてるかもしれん。そのための準備なら、今日までこの星で、十全に整えてきた」
ナキオは不敵に笑った。
そしてぬけぬけと続けた。「そしてもう一度音楽をやるのだ。最高にイカレた音楽。それがないと、俺は生きていけない」
ナキオが最後の枯れ葉を翼に飾る。直後、砂漠の骨が空の星々みたいに輝き出す。
眩しさの中で、骨に肉が備わっていくのを月子は見る。光はだんだんと眩しくなり、周囲を真昼のように照らし出し、そして光の強さに目をつむらずにはいられなくなる。
ナキオの鳥が目を醒ます。月子がもう一度目を開けたとき、ナキオの隣には翼を持つ小柄な男が立っている。……風貌的には、男性的。肌はふっくらしてつやつやして赤ん坊みたいだ。ブロンドの髪の毛がすごくがきれい。身体はつるつるしていて何も身につけていない。乳首とか性器とか何もなくて、衣装を身につけていないマネキンのニセモノの身体みたい。
ナキオが小男の背中に周り、背中と翼の付け根に突き出した肉の突起を両手で握ると、小男は翼を羽ばたかせ、それに合わせて砂塵が舞った。
空に昇った。星の砂漠に、天使のシルエットが影を落とした。
「月子」
振り返ると橋田が目を醒ましている。ありがと、と言って橋田は月子の支えをとき自分の足で立つ。
「目が醒めたか、橋田」とナキオが言う。「世話になったな。行く」
橋田はナキオを咎めない。「いつか聞かせて。ナキオの音楽」代わりにそう言った。
「もちろんだ」ナキオは答えた。
嘘つき。月子は心の中で言った。
「あんたってほんとに、女の敵」これは口に出して言った。
それからとても長い時間が経つ。
「あの頃」にあったこと、そのぜんぶがぜんぶ夢かおとぎ話みたいに思われはじめた頃になって、満天の星の空が震えて歪んだ。
月子と橋田はそれを、考古博物館のガゼボで見ていた。
ふと、三つの星が形づくる小さな三角形の配置が目に入った。惑星ハモニカはそのそばにあるんだと、ナキオが教えてくれたのを覚えていたわけではなくて、それは本当にまったくの偶然だった。
——星全体を覆うバオバブの樹が、星の放つ光をさえぎっている。
「あ……」隣で橋田が呟いた。「灯った」
月子も見た。惑星ハモニカがバオバブの支配を脱し、点灯する瞬間を見た。
「宇宙の果ての小さな惑星で、傷だらけの男が今、ギターのジャックにシールドを差しこみ、真空管アンプの電源をオンにした。」
最後にナキオの達成を示唆するその文章を書きつけて、アリオはイヤホンをはずした。マックブックと充電器を接続する。階下におりてコーヒーをいれる。
LINEにメッセージが一件。透子から。
アリオは透子の他愛ない言葉に他愛ない返答を返し、それから会う約束を取りつける。
明日離別の言葉を伝えたら、透子は荒れるにちがいない。
君は死なない。そして万一命を絶ったとしても、僕は君の命を背負ったりはしない。
アリオはそう伝える。簡単にはわかってもらえないだろうけど、どれだけ時間がかかったとしても、この関係を変えなければならない。それも、今のこのタイミングで。
マグカップを持ってもう一度デスクに戻り、執筆を再開した。
今、アリオの頭の中に物語がある。それはこれまでのようにはっきりとした構造を持ったものではない。前の場面が次に生まれる描写の呼び水となり、そうして辛うじて一本の細い糸のように繋がっていく。それはとても頼りないやり方だけれど、少なくとも今のアリオには、これまで長らくなくしてしまっていた、書くための根拠があった。
数日間自室にこもって小説を完成させる。最愛の「良き読者」はもう自分のそばにはいない。書き上げた原稿を福岡に送った。
その夜、美摘から電話がかかってくる。
「月子ね」美摘が言った。「つみとばつノート、やめたみたい」
父親がいない生活の中で、月子は有生が作った苦難を父親なしでちゃんと乗り越えていく。有生が再び踏み込む余地はない。
「今度書いた小説、今日そっちに送った」
「楽しみにしてるね」
「今日からまた、新しい小説を書いてるんだ」
「そうなんだ。精力的じゃない」
——嘘の言葉はどこへも、誰にも、届いていかないと思う。現実の人とのかかわりでも、小説だってたぶん一緒だよ。
このことを覚えておいて、と美摘は言った。その言葉がアリオの次の指針になった。
アリオは今、美摘に読んでほしいという思いのためだけに、美摘のことだけを書いている。
はじめて出会ったころのことを書いている。シナリオの仕事をクビになったアリオに開口一番、「心配しなくていいよ、絶対に大丈夫だから」と言ってくれたことを書いている。二人一緒に通っていた小説の講座で、一番になったら結婚しようと話したことを書いている。香川に移り住んだ頃の、格別にのどかで柔らかな日々のことを書いている。月子の出産に立ち会った日の、神秘と奇跡と喜びのことを書いている。
どこを切り取っても文句のつけようがない素晴らしい日々から目を背けてしまった自分の愚かさを書いている。日々美摘が注いでくれた優しさを当たり前のものみたいに思って感謝を忘れ、粗ばかり探しては目くじらをたてていた自分の愚かさについて書いている。どんなに後悔し、執着してももう戻ってはこない、失われてしまった光のことを書いている。
届かないとわかっている。それでも祈りは尽きない。だからたぶんアリオは、これからも書き続けることができる。
男は握りしめたピックを思いきりギターにたたきつけた。
ワンストロークで世界が歪み、クラッシュした。
何の脈絡もありはしなかった。空の上から歪んだギターの音が唐突に、大音量で大気を震わせながら降り注いだ。それは多くの人が深い眠りの中に潜り込んだ静寂の中を、悪戯好きの子供のように跳ね回る。あらゆる人のこころを野太い音圧で逆撫でする。最高のロックンロールで全世界を転覆させる。
この瞬間を捕まえて、逃してはいけないと思った。
「……もしもし」
「うん」
「聞こえてる? そっちは」
「え……?」
小さく物音が聞こえて、美摘が移動しているのがわかった。だんだんと、耳の中にギターの音が浸み入るように――風景が溶け合うように――耳の内と外の、音が重なる。
「東京でも?」と美摘は言った。「ギターの音。聞こえる」
福岡の空にも、音は同じように降り注いでいる。
砂漠のどこかに、宇宙から飛来した鳥の骨が埋まっている。その鳥は人の可能性を引き出してどこまでも飛翔させるけれど、一つ道を踏み外せばたちまちのうちに二つの翼はがもげて鳥はウワバミに化け、彼を大きな腹の中の闇に引きずりこむ。
それがアリオを取り囲む世界だ。導きと手がかりの星が瞬かない、どこまでも荒涼と広がる砂漠だけが、一人のアリオを待っている。
それでも、音楽は鳴り響いている。二人はただもう、静かに耳を傾けている。音楽だけが今この瞬間のアリオたちをつないでいる。それは一瞬で消えてしまう儚いつながりだとわかってる。それでもこの瞬間を覚えてさえいれば、これからのこともきっと悪くはない。
文字数:20656
【宮内悠介:1点】
筆力があり、メタフィクションであるのに読みやすく、要所要所に光るフレーズがあった。語り口が若いせいか、冒頭部は視点人物が父親だとわからず、少し戸惑ったが、終盤で提示される希望は、ただ言葉で書いているだけでない説得力を感じた。小説を書くというということについてダイレクトに言及する箇所が多く、この部分が少し抑えられると、さらに広い読者に届くのではないか。作品自体の評価とは別に、冲方さんの課題に対する解としてはどうかといえば、『星の王子様』はモチーフ止まりでSF版『星の王子様』ではなかったかもしれない。
配点は「課題にどの程度応えているか」と「作品単体としてどうか」を足して割ったため、辛い点数になってしまったが、作者は自分の才能、センスを殺さない術を心得ている方だと思った。
【浅井愛:1点】
インスパイア元の作品に寄りすぎず、そこを出発点に新たな物語を生み出していたのが見事で、面白かった。概要で示されていた要素と、実際に書き上げられた作品の間に跳躍があり、二度愉しませてもらったような気分。あえて入れなかったのかもしれないが、〈消灯〉と〈点灯〉の問題は作品内でもう少し明示しても良かったかもしれない。
【大森望:1点】
「誰もが知っている物語をSFに」という課題に対する回答としては、『星の王子さま』のエピソードのひとつをとりだして、その物語構造をSFに適用するのが正しいやりかただと思うが(たとえば、道尾秀介『球体の蛇』は、『星の王子さま』のウワバミの絵の話をミステリーの下敷きに使っている)、反則だからダメというわけではない。メタフィクション的に材料としてとりこんでしまうのもあり。ただし、原典に対する扱いが恣意的なつまみ食いになっていて、〝SFに〟という要求にぜんぜん答えていないのはどうか。
※点数は講師ひとりあたり6点ないし7点(計19点)を3つの作品に割り振りました。