いきもののタオ
こんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく
(なめとこ山の熊/宮沢賢治)
1
おいしいごちそうを満足ゆくまでお腹いっぱい食べたり、柔らかで清潔なベッドでぐっすり眠ったり、花を見てきれいだと感じたり、友だちのなんでもない言葉にあたたかい友情を感じたり、ちょっと思いきって大胆な服を着てみたり、長い映画を観たあとでゆっくりコーヒーを飲みながら余韻に浸ってみたり……これはそういう真っ当な幸せを、手放すことではないからね。私たち、ちゃんと幸せになれるからね。
ごめんね。本当に可哀想だね。でも今だけだからね。きっとちゃんと、すぐに治すから。
「大丈夫、ひとりでもやれるよ。今まで何度も母さんのやり方を見てきたから。だから、安心して」
そう約束をしたものの。
——とくん。
実際にこの胎動に触れることで、あの子たちの飢餓感を知ってしまうと、恐ろしさに、覚悟も折れてしまいそうになります。
私のお腹のなかで生きるものたちが活発に動きはじめたから、もうすぐ私の、〈食事〉の日。前には、母さんと二人で。だけど今度は、一人でやりとげないといけない。
川島なゆたは普通じゃない。でもそれでも他の子とおんなじに、テスト前には試験範囲を復習するし、ラクロスだってがんばってる。気になる男の子だってちゃんといるのだ。
私が今興味があるのはクラスメイトの汐広矛くん。汐くんは物静かな感じで休み時間にもひとり自分の席で本を読んでいるような人。「えー超イケメンだけどちょっと近よりがたい感じ」とか、理子なんかは言うしその意見には私も同意だけどでも、私にはちゃんと見えてるよ、君の素敵なとこ。普段はあんまり目立たないようにしてるけど、人と関わるのが苦手っていうのとはちがってて、生徒にしろ先生にしろ、何かしら用があって話しかけた人たちに対する汐くんの態度は爽やかで優しく、話し方は理知的で、いい感じなのだ。神秘的な汐くんは爪を隠してる鷹って感じで、その隠しているものを私は暴いてみたいと思い、機会をうかがってたんだけど。
私は汐くんと案外あっけなく仲良くなる。きっかけは私が小説を読んでたことで、驚くべきことに汐くんの方から話しかけてきてくれる。「何読んでるの?」
「え、あっ、汐くん」
私は汐くんにしゃべりかけられた動揺をなんとか押し隠してブックカバーをはずして汐くんに本の表紙を見せる。「これだよ」。スティーブン・キングの『ミザリー』。
「キング。実は俺も——」
好きなんだよ、って汐くんは言う。
汐くんの一人称は「俺」で、はぁそうなのね、って思う。なんとなく「僕」だと思ってたから意外だ。
汐くんが私に聞く。「ねえ、キングだと他に何が好き?」
共通の好みを見つけた私たちはすぐに仲良くなる。汐くんは映画にも詳しい。『アビエイター』、『ゴーン・ガール』、『インターステラー』、『ライフ・イズ・ビューティフル』、『アクト・オブ・キリング』、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』、『トゥモローワールド』。汐くんはいろいろな映画の話をしてくれる。私は汐くんの話す映画を見てみたくなって動画サイトで探してそれもないやつは下校の途中で三洋堂に寄って映画のDVDを借りて帰る。翌日には汐くんと見た映画の話で盛り上がる。汐くんは映画論みたいな本も読んでてあそこのあの場面にはこれこれこういう意図があって……みたいなことをいろいろ教えてくれる。その仕方がとても上手で、私のレベルにきちっとあった言い回し、絶妙の情報量でそうしてくれる。錯覚だってわかってるけど、自分がどんどん映画に詳しくなっていってる感じがして気持ちいい。
打ち解けてくると私は汐くんのことをもっと知りたくなっていろいろ聞く。中学までは千葉に住んでて高校入学のタイミングでこっちに引っ越してきた。好きなものは読書と映画、それにおうちで飼ってる猫をおなかにのせて眠ること。母親の影響でベジタリアン。兄弟はいなくてお父さんとお母さんと三人暮らし。お母さんは専業主婦でお父さんは大学の先生。
「川島さんのことももっと教えてよ」
それで私は色々話してるうちにしゃべんなくていいことまで話してしまう。父親がいないこと、母と二人で暮らしてること、それから。
やってしまった。私は私の仕事のことも話してしまう。ううん、別に秘密にしておかなくちゃいけないって義務があるわけじゃないんだけど、このことを話してしまったばかりに友だちが遠ざかっていってしまったことが過去に何度かあった。そういうのは何度繰りかえしても慣れっこになんかならない。友だちが、そばから離れていってしまうさびしさは。
でも予想に反して、
「この町にいるとは聞いてたけど、君がそうだったなんて。驚いたな」
って言いつつ、でも汐くんは全然動揺を見せない。むしろ、
「ごめん、俺、よそから来たからあんまりくわしくなくて。もっと教えてよ」
口調も表情も好奇心に満ちていて、だから「そうはいってもこれ以上はやめておいた方が……」と片一方で思いながら、私は汐くんの頼みを断りきれない。
「この町の底には、邪悪なものが棲んでるの。それはお腹がすくと地上に出てきて、悪いこころを持った人を食べてしまう。その、人に害を与える邪悪なものが出てこないように、留めることが『役割』だよ」
「具体的には、どうやって?」
私はまた、少し口ごもりながら、それでも隠しだてせず話す。汐くんのまっすぐな目は、強い力を持っている。じっと見つめ返していると吸いこまれてしまいそうで、そうなる代わりに、私の言葉が引き出されているのだと感じる。
「食べるの」と私は言う。「町の底に蓄積した悪いこころを」。
ほら、家のなかを掃除しないでいると、部屋のすみっことか、そういうところから、だんだん、知らないあいだにほこりやごみが溜まっていったりするじゃない? それと一緒だよ。「私たちは——」と私は言う。母さんと、私。「——悪いこころを食べることで、宝石をつくることができるの。もともと身体が、そういうふうにできてる。邪悪なものは、この宝石が大好きだから、宝石を与えられると、満足して町の底に留まりつづけてくれる。でもまただんだんお腹をすかせ始めるから、定期的にこれを繰り返さなくちゃいけない。だいたい、三ヶ月に一度くらい」
「ひどいな」
「え?」私は聞き間違いかと思って聞き返す。でもそうじゃない。
「いや、生まれたときからそんなふうに、苦しいことを課せられてるなんてさ」
私はその言い方にぐっときてしまう。
その日から私と汐くんはますます仲良くなる。汐くんに「役割」のことを話して本当によかったと感じる。自分の肩にかかってる重圧を汐くんが多少なりとも肩代わりしてくれてるって気持ちがして、心強く感じるのだ。
初めての一人きりの「食事」の日が明日に迫る。それで私は超ブルーになっている。強い衝動を感じる。プレッシャーと、それに体調のこともあるんだろうって思う。このバイオリズムと感情の揺れ動きの関係って生理と少し似てるのだ。
汐くんは今日も優しくて、ラクロスの練習を今日は休んでおうちでゆっくりしようと思って準備していた私を下駄箱のところで待っててくれた上に少しほほえんで言うことには「川島さん、よかったら一緒に帰らない?」
それで私はうれしいんだけど、明日の重圧でしんどいことと、汐くんに対してひとつ気になってることもあって少し躊躇する。汐くんはそんなささやかな変化にも瞬時に気づいて、「あの、川島さん、どうかした?」って心配そうな顔をして聞いてくれる。「もしかして俺、川島さんが厭だと思うようなこと、何かしちゃったかな? それなら謝るよ」
「ううん、ごめん、そういうんじゃなくて……」
「本当に?」
「うん、ちがうの」
また少しためらうけど、結局すがりたくなる。打ち明けてしまう。「明日、『食事』の日なんだ」
「それは、『命庫(ミコトコ)』の?」
うなずく。
「冬のときは母さんと一緒だったんだよ。でも、ちょっと母さん、体調崩しちゃって……。だから今度は完璧に一人なんだ。それが、明日。私、ちゃんとやりこなせるかすごく不安で」
「そうだったんだ」汐くんは言う。「気分を変えた方がいいんじゃない?」
「え?」
「つまりさ」笑顔をつくって言う。「明日まで憂鬱に過ごしたりかちんこちんに緊張しながら待ったりとかするよりも、気分を変えた方がいいんじゃないかと思って。よかったらつきあうよ」
ううむ、うれしすぎるし、断れるわけがない。
汐くんに連れていってもらったカフェは普段の通学路から一本路地を奥に入り坂道を上った先の高台の三叉路の分岐のところにあって、レトロなセンスなのに懐古趣味になりすぎず上品な清潔さも備えていておしゃれすぎず加減が絶妙すぎてびびる。
それで汐くんは学校を出るときに言ってくれたみたいに役割のこと明日のこととは関係のない、学校の友人関係の話とかおもしろくて私が好きな先生のこととかそれに映画や最近読んだ小説のことなんかを話してくれて、汐くんはとてもうまく、普段ならすごく楽しめたんだろうけどやっぱり今日は無理だ。
私の空虚な雑談に優しく相槌を打ってくれる汐くんは、ちょっと困ったような、寂しそうな表情をしてるみたいに思えて、私はもうしわけない気持ちになる。
「ごめんね」
「ううん、全然。俺はこうやって川島さんと一緒にいられるだけでうれしいから」
「え、いや、そんな」
「あ、やっとちょっと顔つき変わった」
「え、何それひどい!」
「あはは、ひどくないって。別にだましたわけじゃないから」
「それってどういう意味?」
「そのままの意味だけど?」
「そんなこと言って」私は口ごもってしまう。「優しすぎて怪しいよ」
あはは、と汐くんはまた笑う。「確かに私、汐くんのおかげで少し元気になってるかもって思う。それで私は、勇気をだして訊ねてみることにする。私のもういっこの気がかり。「食事」のことじゃなく、これは、汐くんに対する。
「つかぬことをお聞きしますが」
「うん、どうしたのあらたまって?」
私は一つ息を吸いこみ、思いきって言う。
「汐くん、この前ね、別の学校の子と一緒に歩いてなかった?」
うわあ、マジで言っちゃってるよ、私!
引かれたかな? 重い女って思われる? つきあってるわけでもないのに!
……って思うけど、汐くんはけろっとした顔で、
「うん? 誰のこと?」
「女の子だよ」って私は答える。なるべく平常を装って、「汐くんの、もしかして、あの、彼女とかなのかな?などと思いまして……」
「もしかして、シロのこと?」
「シロ?」それから私は言う。「いやいやそういう、『メスのわんこでした』みたいな冗談ではなく」食いさがる。だってすごく気になってたことなのだ。
汐くんは首を振って、「わかってるよ」って言う。「シロっていうんだ。彼女」
「彼女」と私は繰り返す。
「あの子」
汐くんはにこにこしてる。今の言い直しは、訂正?
「違うよ」って、汐くんは改めて言った。「恋人とかじゃ、全然ない。家、近所の子なんだ。年齢はいっこ下なんだけど、ほら、俺は高校入学のタイミングでこっちに来たからね。友だち少なくて」
数少ない友だちの一人なんだ、って汐くんは言う。
「綺麗な子だった」と私は言って、それで自分に驚く。おうお前、まだ食いさがんのか?
「そうかな?」
ううん、ぱっと見ただけだけどさ。道路の反対側から、汐くんの向こう側を歩いてるとこ、横から見ただけ。でも、お似合いだなって思ったし、そう思った瞬間から、身体んなかに異物感、ささくれみたいなものが、胸のあたりにひっかかってるって気がして、今日までちょくちょく、チクチク、痛かった。
頭の中にはそれらのたくさんの言葉が湧くけれど、
「お似合いだったなって思ったよ」
控えめに、それだけ。
「え、どういう意味?」
「いやいや、そのままだけど」
「いやでも、だから付きあってないってば」そういって汐くんは笑う。
この人は嘘とかつかない人なんだ。そう感じた。
「えーほんと〜?」って私は言うけど、いつのまにか気持ちは楽になっている。
「そうだ汐くん、昨日私、また映画見たんだけど」
「あ、そうなんだ。何見たの?」
「なんだっけタイトル、ほらこの前汐くんが勧めてくれてた——」
映画の話、今度はちゃんと楽しい。ささくれは、汐くんが引っこぬいてくれたみたい。
夕方六時を過ぎてようやく、空は赤らんでくる。店内はだんだん薄暗くなる。私たち以外の長居していたお客さんも、少しずつ減っていく。
「川島さん、あのね。これは前から思ってたことなんだけど」
「うん、なあに?」
「でも今さらこんなこと言うのもどうなんだろうって気も少しあって」
「何、珍しいね、汐くん、意外となんでもずばずば言う人なのに」
「そうかな」少し苦笑する汐くん。
「何?」
「あのさ。本当に邪悪なのかな? その、『町の底にいるもの』ってさ」
「え?」
きっと、間抜けな顔をしていたにちがいない。そんなこと、考えたこともなかったから。
「だってどんなおそろしい姿をしているのか知らないけど、そいつは、悪いこころを持った人間だけを食べるんだろう?」
「うん」
「それは——」汐くんは言った。「——それは、いいことなんじゃないかな」
「……え?」
「だってそうだろ? 悪い人間に罰が下るなら、そうして彼らがいなくなるなら、それは正しいことじゃないか」
いつのまにか汐くんは私をじっと見つめている。彼に見つめられて、動揺してる、私。カップの取っ手を持つ自分の手がふるえてることに気づく。
汐くんはそんな私の手をとり、カップからはなして、テーブルの上で握りしめた。
「川島さん、どう思う?」
強い瞳に射貫かれている。痛い感じがする。地が出ても、おかしくない。
「……」
何も言えない。
日ざしの角度が変わる。汐くんの表情は、黄昏のなかで影に沈んで、見えなくなる。
「あの」
なんとかふんばれ私。
「あのね」
唐突にスマホがヴヴ、と震えて音を立てた。
思わず心臓がぎゅってなる。
「ああ、びっくりした!」
一気に緊張がとけてしまう。「電話……って、私?」
しかも。ディスプレイを確認して、うげげ、甘夏かよ、って私はこころのなかで舌打ちする。無視するかどうするか本気で迷うけど、ああもう、あいつしつこいからな。
ちょっとごめんね、って汐くんに断って、電話に出た。「何」
「何、とはお言葉だな!」
「用事があんならさっさと言って」
「フッフッフ」
「ん、はいはいわかった切るね〜」
「ちょっと待てい! おいこらなゆた! 幼なじみに向かって手厳しいな!」
あ〜うざ。
「昔は俺のあとをあひるのこどもみたいにひょこひょこついてきたもんだったのになあ」
「はぁ? 捏造すんなよ」
「いやあのころはかわいかったなあ〜」
「あのさー用事ないんだったらほんと切るよ」
「フッフッフ」
なんなんだこいつマジで!
苛立ちが頂点に限りなく近づきましたのでもうこのまま黙って切ってやろうと思います。んで、端末を耳元からはなして通話終了ボタンを……っていう寸前になって甘夏は言う。
「念願のスマートフォンを手にいれたぞ!」
……声でかいんだよ。
「あっそ」
「メッセージのやりとりをしようぜ」
「なんであんたなんかと?」
「腐れ縁だしな。しゃあなしだぜ!?」
……。
「もしもしなゆたさん?」
「腐ってんなら、その縁、いっそここいらで棄てちゃうってのはどうよ」
「断る。アカウントを教えてくれ」
「やだ」
「相変わらずツンデレかよ」
「本心百パーセントだ。心から、死ね」
「IDを伝えておこう」
……相変わらずタフなやつだな。壁殴ってるみたいだ。
「もういいから」
「ハラタマキヨタマ!」
「は? バカじゃん何それ頭ヘンなったの?」
「だから俺のID! haratamakiyotama!」
「長いよ。もう忘れたし」
「ハラタマキヨタマ!」
「じゃあね〜」
「ハラタマキヨタマ! これテストに出るぞ〜」
電話を切る。
「ごめんね〜」
って言ってほとんど無意識に笑顔の仮面を再び装着しつつ、ほぼ同時にでも、私は「私二面性ぱねーな」ってめちゃくちゃ思う。あちゃ〜、しくじった。ここからキャラ造ってもダメくさい。
何がハラタマキヨタマだ死ねバカ! 元ネタがうる星やつらの映画だってこと今の私は知ってんぞ!
はあ。
思い切って汐くんの方を見る。汐くんはにこにこしている。
「仲いいんだね。彼氏?」と汐くんは言う。
「ううん、全然! 違くて! 腐れ縁っていうか、隣のうちに住んでるから昔から知ってるんだけどそれだけっていうか——」
「そっか」
「そうなの!」
「よかった。とにかく川島さんが元気になって」
「いや、っていうかあいつがあまりにも馬鹿だから——」
「でも、ちょっと嫉妬しちゃうかな」
「……え? 汐くん、今なんて??」
「そろそろ帰ろっか」
「あ、はい」
それから二人で駅まで歩く間、汐くんはずっと物静かで、ひょっとして怒ってる? と思い、「あの、さっきの話だけど」
「さっきって、電話の彼の?」
「いや、ちがくて、そしてだから彼じゃないですから!」
「そっか」
「じゃなくて、さっき話の途中だったので、あの」
「そうだっけ? もう忘れちゃったな」
汐くんはまともに取り合ってくれなくなってしまい、それで不安が募り、ますます萎縮してますますしゃべれなくなってしまい、嫌われちゃったかも、どうすればと戸惑っているうちに駅に着いてしまう。汐くんと私はホームが反対なので階段の前で別れなくちゃいけない。それでも私が言葉を選びきれず困惑しきっていると、汐くんの方から「さっきの話だけど」って言ってきてくれる。
「謝るよ、ごめん」
「え? どうして?」
汐くんはちょっと渋い顔をして、
「うっかり恐ろしいことを口走ってしまったような気がする。怖がらせちゃったね。考えが浅かったよ」
「そんな——」
「ただ、これだけはわかってほしいんだけど、俺が言いたいことはこういうことなんだ。ねえ川島さん。前にも言ったけど、生まれたときから、他の人は背負ってないそんな責務を負わされて、それを頑なに守り通さなくちゃならないなんて、そんなのはおかしいよ。君は、大人たちの言う通りにしなくてもいい。いやなら、やめていいんだ」
そんな汐くんの言葉に私は泣きそうになる。
「うれしい」って言う。
「うれしい?」
「うん。今まで私たちのこと、汐くんみたいに親身になって考えてくれる人なんていなかったから」
「そっか」
「そうなの」
「俺が助ける」
「え?」
「川島さんを、これからずっと、辛い気持ちのままにさせておくのは我慢できない。だから、苦しいときにはいつでも言ってほしいんだ。俺にも、役に立てることがあると思うから」
汐くん。
助けてくれるの?
本当に?
いつもと同じように七時きっかりに起きる。胃の中をきれいにするために三日前から水しか飲んでいない。重い身体を引きずって部屋を出る。
二階建ての大きな家は二人で住むには広すぎる。母さんは気にしてないみたいだけど、私はささやかなアパートでも借りてコンパクトな生活がしたいと思う。広い家は寂しい。母さんが部屋から出てこなくなってからは尚更強くそう感じる。
キッチンでお湯を沸かす。ソファに腰を下ろして、空腹でぼーっとした頭でテレビをつけ、何も考えずにザッピングしながらルイボスティーを少しずつ飲む。普段は学校へ行く時間になっても今日はそのままソファでだらだらしてる。今日のことはもちろん事前に伝えてある。大事なことだから昨日今日じゃなくてかなり前の話。
シャワーをあびる。さっと出ようと思ったけど途中で思い直してバスタブにぬるめのお湯を張る。お風呂でのひとつひとつの事柄に、たっぷり長い時間かける。
部屋に戻るとメッセージが一件。汐くんから。
いよいよ今日だね。俺まで緊張しちゃってる。無事に成功することを祈ってるよ。困ったことがあったら、なんでも言って。
気持ちがやわらぐ。
支度を始める。いつもはおろしてる髪を頭の上でおだんごにする。ジャージに着替えて、その上からレインコートを羽織る。大鉈はクローゼットの中のハードケースに隠してある。
準備を終えるといったん二階に上がった。広々とした廊下を抜けて一番奥の扉の前にいく。母さんの寝室。
笑い声が聞こえた。それから、「でもね〜」。
電話? 内容はうまく聞きとれないけど楽しそうだ。今日は体調がいいのかな。それなら、喜ばしいことだ。邪魔してごめんって思いながら、でも大事なことだから、廊下を進みつつ、「母さん」って呼んだ。
母さんの声が途切れる。
私は寝室のドアを小さくノックした。
「母さん」
「うん」
「いってくるね」
「うん」
「……」
「なゆた。がんばってね」
「うん」
「ごめんね」
「もう、どうして謝るの?」
「つらいよね。一人で背負わせてしまって」
「大丈夫だよ。早くよくなって」
「うん」と母さんは力なく言う。「ごめん」。
町から貸与された私たちのおうちの庭には、他ではちょっとお目にかかれないへんてこな建物がある。コンクリートのうちっぱなしでできていて、かたちは立方体で大きなサイコロみたい。有刺鉄線つきのフェンスが周囲を取り囲んでいる。公園の公衆トイレのそれよりも殺風景で、禍々しくて厭な感じだ。
私は扉にかかった無骨な錠前を開けた。押しこめられていた闇、冬のときから季節いっこぶんのあいだここに留まりつづけたそれが、蟲が湧きだすみたいにして、日の下にいっせいに散ってったみたいに感じた。そして私の正面には真っ暗な地下への階段だけがある。
足がすくむ。春のとき母さんがついててくれても怖かったのに、今日は一人で下りていかなくちゃいけない。
いやだ、本当にこわい。
やめる?——ううん、ありえない。
私たちはこの町につながれた奴隷なんだ。元より選択肢なんてない。手のひらで冷たい壁に触れながら、底へおりていく。だんだんと悪臭が鼻をつくようになる。たくさんの果物が全部まるごと腐乱して、「酸っぱい匂い」っていう一点では同じでもそれぞれに異なる多様な悪臭が、互いに自己主張しあって喧嘩してるみたいな、一言で言い表せない、ある意味で豊かさを持った悪臭。くらくらする、死にそう……。
そのなかを、十分以上も下りつづける。
そして暗渠に降り立った。
暗渠は望町の地下の深い場所に、そっと隠すように埋設されている。そこは、だだっ広い汚物のプールだ。私の立つ階段前の足場から、プールの真ん中をつっきる細い通路がのびている。
手すりに手を掛けて通路を進む。
〈彼ら〉の声がだんだん、はっきりと聞こえてくる。
通路の終端に島がある。島にはまっくろな樹がある。
その根が、島を覆いつくしている。
悪いこころは、この樹に実る。たわわに実った、この世のありとあらゆる悪いこころが、凝集された悪意の果実。それを食べることで、蓄積された悪意をリセットすること、それが、命庫の「食事」だ。町の底のこの場所が、命庫のダイニングなのだ。
太い幹から、無数の枝が伸びている。
実っている。枝になった実の数を数える。六……七……八個。マジか多いな。
悪意の実は人の頭部そっくりの姿をしている。肌色の皮膚と黒い髪を持っている。彼らは全員もれなく、悪いこころを持っている。苦しみとか痛みにさらされてる顔、やらしい感じに引き攣ったえろい顔、憎らしい相手を恨む顔……どれもまともじゃない。
「ころっおまっきひぃ。ぜっ、しなすゆる」
「この女殴っていいか」
「かばわなぐねぇの? ダショウ、ヌズミヴォアタライダドォゴデなんも変わるまい?」
「髪の毛引っつかんで地べたで引きずり回したい。犯す。血、見せろ」
みな思い思いに自分勝手に、口々に何かをしゃべってる。それらはみな不快感を催すトーンでしゃべられる。グロテスクな樹の容姿、醜悪な人面の果実の容姿、果実たちのしゃべりの不協和音。ああもう怖すぎる、気が狂いそうだ。
でも私は母さんの代わりをきちんと務めなくちゃいけないのだ。
——きっとちゃんと、すぐに治すから。
そう、今だけ。母さんの病気がよくなるまでの辛抱だから……。
私は勇気を振り絞って樹に近づく。ぎとぎとの髪がはりついた果実の後頭部をつかみ、ぎゅうっと引っ張った。鉈を持った反対の手を振り上げて——
——太い枝の付け根部分に思い切り振り下ろした。
果実が悲鳴をあげる。赤ちゃんのお腹を思いきり踏んづけたら出そうな最悪の悲鳴に、背筋がかちんこちんに凍っちゃいそう。枝の切断面からガソリンみたいなどろりとした液体がこぼれだす。他の実たちのあいだに絶望的な動揺が走り、暗渠は束の間、パーティー会場みたいな喧噪に包まれる。けれども彼らは大して知能が高くないから、すぐに悲劇を忘れて静かになる。
最初にもいだその果実は五十代くらいのくたびれた中年男の顔をしている。うすい髪があぶらぎっている。彼はすがるような目で私を凝視して、
「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ」
しきりに懇願してくるけどここまできたらもう立ち止まらずやりとげるしかないのだって覚悟を決めて目をつむり、大口を開けて後頭部に齧りつく。
「やめてぇ!」
じゅわ、と果汁がしみだす。頭の一部がそげ落ちる、断面はざくろによく似てる。果汁はかすかに紫がかった半透明。味はみかんとか、柑橘系の果物のそれに似てるけど本当のそれよりかなり酸っぱくて、後味が最悪で生焼けの川魚みたいになまぐさい。
「やめてぇやめてやめてやめてぇ!」
「やめないってば」
「えあろぞる」
「え、どういう意味?」
「死ね」
うざっ。
もう無視だ。
それでもその果実は、口がなくなるまでしゃべりつづけた。
……はい、次。
今度は若い女性の顔をしている。長い髪をもった美しい人。私は思い出す。そういえば前回、長い髪は喉に絡まってずいぶん食べにくかったっけ……。
まったくもう、のっけからハードル高めじゃないの?
げんなりするしさっき決めたばかりの覚悟もたやすく折れそうになるけど文句を言ったって誰も聞いちゃいないのだ。
彼女は私をじっと見つめてる。目が据わってる。ぼそぼそと呟かれるか細い声は何を言っているかわからなくて気になって耳を近づけてみる。
「貴様キル」
「苦しみ。苦しさ。恨み」
「アレレ。アレ。アレレレラ」
「化けて出」
うぬう。聞くんじゃなかったぜ。
「いただきます」
引っつかみ、もぎとり、囓る。悪夢みたいな時間がひたすら続く。命庫の食事というのはつまり、悪意に対する殺戮なのだ。それがこんなふうにめちゃくちゃ野蛮に行われるなんて、みんな夢にも思わないだろうな、はあ。
長い時間をかけて、八つの頭部を全部完食する。ごちそうさまでした。
その頃にはもう、私のお腹は光を放っている。
この光こそが「命庫」の名前の由来だった。「命の倉庫」。命庫の身体は他の人とは違う。私の特別な胃袋に膨大な数の生きものたちが棲んでいる。それらのたくさんの命は、悪意の果実が胃袋のなかに降りてくると、樹脂によく似た色と粘性を持つ胃液を介して果実を取りこみ始めるのだ。この光は、彼らが悪意を糧にして、命を燃やして生まれる光。
「悪いこころの果実」と、さっそく結合をはじめているのだ。
一人で暗渠に下りるのはほんとに怖すぎるしいやすぎる、できることならもう二度と勘弁って思う。お腹をさすってみる。私のなかで活発に暴れる命たち。もうすぐ生まれてくることへの、歓喜のこころが伝わってくるよう。ほんの少し、妊婦さんになった気持ちで、ちょっと笑ってしまう。
果実を食べたのが金曜だったから翌日、翌々日は土日でもともと学校は休み、その間にじっくり身体を休める。土曜の夜から日曜朝にかけて私のお腹はいちばん膨らむ。そして月曜の朝にはぽっこりしていたお腹はすっかり引っ込み、代わりに両目の下の涙袋がぷっくり膨らんでいる。内側の結晶の移動が完全にすんだのだ。それはまるでお祭りの水ヨーヨーみたいで、その上涙袋なんてものはお腹に比べてずいぶん皮膚がうすいから、内側の結晶の光が漏れだして、まぶしく光っている。
鏡に映すと、そんな風に涙袋がめちゃくちゃに膨張した私の顔は我ながら本当に醜くて泣きたいくらいだ。
さっさと片づけたい。
涙を流す方法は色々あって、しかもきっかけだけあればいいから例えば目薬をさす、ってだけでもいいんだけど、今はちょうどうまい具合に、出そうなのだった。
あくび。
「ふぁーぁ」
ってやると同時に、鈍色の石が、どばっと噴出する。あらかじめ化粧台の水槽に準備しておいたプラスチックのお風呂の桶のなかに、ゴトゴト音をたてながら貯まっていく。結局桶はすぐに満たんになり、石は桶の上で小山をつくったあとこぼれ出して水槽の中を満たしていく。意味ならある。桶があるから水槽の表面を傷つけないで済む。排水溝の栓は一応してあるけど、あまり意味はなかったみたい。排水溝を通り抜けてしまうほど小さな石はなかったからだ。
そうしてようやく、全部の石が出てくる。鏡を見ると、涙袋が元に戻り、顔がすっきり。ふう。
琥珀色をした、本当の琥珀よりはもっと黄色がかった宝石は、命庫である私の胃液と、胃液のなかで溶けだした悪意の果実が混じりあい、凝固して生まれたもの。
これが、〈タオ〉。悪意の果実と、無垢な命を一緒に封じた結晶。
桶の小山のてっぺんから、石をひとつ、つまみあげた。凝固した宝石のなかには、ウスバアゲハが閉じこめられている。綺麗。一つ一つ、中身を確かめていく。イボイモリ、マダラサソリ、ハムスター……。私のお腹の中に棲んでいた、たくさんの色んな生きものたち。
こんにちは。ようこそ、この世界に。あなたたちってこれから、町の底に住む者たちのごちそうになるんだよご愁傷様。
桶は失敗だったので、以前深海魚を飼うのに使っていたおおきめの水槽を持ち出して、それを台車に載せて、そこにタオを移し替える。途中でひっくり返さないように慎重に台車を押しながら暗渠に潜る。悪意の樹は、今日はしゃべらない。そりゃそうだ、三日前に、食べきったばかりだもの。次はまた秋にね。いまはとうぶん、顔も見たくないよ。
悪意の樹はだらしないから、根っこの一部はコンクリをちゃんと貫けず、ふにゃふにゃの状態で広がっているだけだ。そんなやわい部分を持ち上げると、樹の下の大穴が覗く。
町の底に続く穴だ。どれくらいの深さがあるのか、それはわからない。底にいるものたちの息づかいが、ほんのかすかに聞こえてくる。おぞましい、超怖い。気づけば鳥肌がびっしりだ。
水槽のタオをすくいだし、穴の中に流しこんでいく。最初はちょっとずつ、最後は水槽ごとひっくり返して流しこむ。わかりやすい反応はないから、なんかもう、誇大妄想に取り憑かれて無意味な儀式を執り行ってるだけなのでは、なんて自分でも思えてしまうくらいだけれど、でもこれで正しいのだ。覚えてる。春のとき母さんも同じことをやっていた。
結構な時間をかけてぜんぶのタオを「彼ら」の穴に流しいれた。
もう一度台車を押して地下を出る。
おうちに戻る。
ため息。
終わり。本当に終わり。
一人で、できた。
ここ数週間ずっと私を縛りつづけていた緊張の糸が、ようやく完ぺきに切れた。
「おおー! やったー!」
開放感全開だ。かー! シャバの空気はうまいぜ! うっしゃシャワー浴びて、制服着替えて、学校行くか! もともとはお昼からって思ってたんだけど今はたまらなく誰かに会いたいし、しゃべったりしたい! そうだまず心配してくれた汐くんに連絡を……いやいや、授業中だろうし迷惑かけちゃいけない我慢だ。そうだ甘夏ならいっかな、メッセージでもくれてやるか? や、でもあいつのことだしまたなんか図に乗りそうだしやっぱやめとこ! というか教えてくれたIDはなんだったかしらタラ〜ン、タララ〜ン。ノリノリだ。
出発の前にもう一度二階にあがって、母さんの寝室のドアをノックする。
返事はなかった。
「母さん」
返事はない。
寝てるのかもね。
「行ってくるね」
あんたもさー愚痴ばっか言ってっけどもうちょい和田のこと大事にしたげた方がいいよー? 何気ない日常のなかに実はかけがえのない幸せってもんが隠れてるんだみたいなことをよくJ−POPとかで言ってんだろ云々、とかって言って南にウザがられる。喜び勇んでラクロスの練習にひさびさに出るけど気持ちのハイテンションとは裏腹に身体は連日のタオ錬成でめちゃくちゃ疲れたまってるから全然動けなくて古谷先輩に「ふぬけてんぞ川島!」って盛大に怒られる。でも学校超たのしい!
だけど私の躁状態はすぐに終わりを迎えてしまう。思いがけず、その日のうちに。
部活が終わって下校の電車のなかで「ラクロス部二年」のグループチャットに理子が貼ったリンクがそれまでのやりとりぜんぶぶった切って注目をかっさらう。リンク先は読売のデジタル版記事でリンク先にとんでちょっと斜め読みしただけで血が凍る。
“滋賀県八童市の住宅で”
“生後二週間の次女を含む一家四人が”
“バラバラにされた四人の遺体は”
ページのいちばん上部まで戻って日付を見直す。更新は今日の十八時五十分。めちゃくちゃさっきだ。
容疑者の顔写真。多少目つきが悪いってこと以外にとりたてて特徴のない、短髪の中年の男。「同署は逃亡中の容疑者の行方を追っている」。
さらにその日の深夜、日をまたいでもう翌日になってから家のチャイムが鳴る。チェーンをかけたままドアを開けると知らないおじさんが立っている。年齢はたぶん五十すぎくらい、髪の色はほとんどグレーで白髪がメッシュみたいに入っている。目は聡明そうだけどなんとなく冷たそう。ボストンメガネとかぎ鼻が似合っている。前髪が頬にかかるくらいの長髪でそれは敢えて伸ばしてるってよりうっかりここまで放置しちゃったって感じのややだらしない印象。ヘンリーネックのシャツの上にロングカーディガンを羽織っていてカーキ色のコットンパンツを履いてる。
人はわりと見た目で判断できてしまうよねって普段私は思ってるんだけどこの人は判定が難しいって思う。少なくとも、そこまでちゃきっとしてるわけではないけど部屋着ってわけでもないようなのでどうやら近所のおじさんがトラブルを報せに来たとかじゃなさそうだ。というか、このへんに住んでる同年代くらいのおじさんたちよりもぱっと見でやたらと垢抜けて見える。
「あの」と私は言った。
「夜分遅くに失礼します」と彼は言った。
で、誰?
と思うと同時に、彼の背後にひかえた人たちの姿を私は見る。二人の同行者はどちらもたくましい身体を迷彩服で包んでいて、彼らの素性は、一目でほとんど見当がついた。自衛隊か、深夜の変態コスプレイヤーのどちらかだ。
「ご同行願いますか」と先頭の彼は言う。
言葉は丁寧だったけれど、有無を言わせない語気がある。
つづけて言う。「至急、対処を」
「えっと何が」
「〈ウロノアナグマ〉が、町にのぼってきたのだ」
前者だとわかる。これは虚構(コスプレ)じゃなくリアルだ。
ウロノアナグマ。私たち命庫が、地上に出てこないように封じているもの、「町の底にいるもの」、その名前。
「ウロノアナグマが地上にのぼってきた」ってことは、それはつまり、命庫の失態を意味する。ウロノアナグマは、町の底に蓄積した悪いこころを食べる。でもアナグマは美食家だから、例の暗渠の樹になった気味の悪い「悪意の果実」をそのまま食べたりはしない。
料理しなければ食べられない。だから命庫が暗渠のダイニングに赴く。悪意の果実をお腹の中のいろんな生きものの命で中和し、胃液でコーティングして甘い宝石のお菓子をつくる。お菓子の名前はタオ。命庫は彼らにタオを差し出し、アナグマの空腹を満たす。そうして季節が次へ移ろうまでまた、地下で我慢していてもらうのだ。
そして、町の底に溜まった「悪いこころ」の分量と、ウロノアナグマの繁殖は密接に同期しているのだ。悪いこころが生まれたぶんだけ、アナグマたちは生まれて増える。だから私は、悪意の果実は厳密に、全部食べなくちゃいけなかった。食べもらしがあれば、食べもらしたぶんだけ生まれるタオは減って、そうして生まれてこなかったタオの数と同じ数のアナグマが、空腹を満たせず、飢餓に狂って動きだす。そうして餌を求め、地上に出てくることになる。悪いこころを持つ人間を求めてさまよい、これを食べる。
けれども飢餓感はなかなか満たされない。悪意を結集したタオのそれとは違い、一人の人間が抱える悪意の総量なんてたかが知れているからだ。だから彼らを放置したなら、犠牲者は少数じゃすまない。必ず膨れあがる。
食べもらしたのは、私だ。大変な大失態だ。母の協力を伴わない、はじめての仕事の結果がこれ。
私は後部座席に座らされ、両側に迷彩服の男が座ってる。ドラマなんかで見たことあるなーって思う。私ってばまるで、逮捕者みたい。
「君は」と助手席の男が言う。「いつも、一人であの役割を?」
「いえ」と答えたのは私じゃなく、私の右側に座る自衛隊員の男性で、左の人よりも年がいっている。刈りあげた短髪の髪、強面の容姿に無精髭。いかにも軍人って感じの人で、さっき若い方の人としゃべってたなかでわかったのはこっちが荒町で若い方が玉生。
荒町さんが言う。「去年の十二月が、彼女が任務を行った最初です」
「今回は二度目ということですか」と助手席の男が聞く。この人の名前はまだわからない。正直軍人っぽくもないし、謎めいている。
「そういうことになります。それまでは、彼女の母親が」
すべてお見通しなのだ。そのことは、特に驚くほどのことでもない。今日のような非常事態が起きたとき、迅速な対応が行えるように彼らが準備をしているのは、ずっと前からのことで、小さな頃から慣れっこだ。
助手席の男は私を見た。「今回はどうしてひとりで?」
「母親は、ついていてくれなかったのかい?」と玉生さんが言う。少しハスキーで、中性的な声の優男。
「母はここのところずっと、体調を崩してて」
ふむ、と助手席の男が言う。身体を前方に戻し、そのまま黙りこくってしまう。車内の沈黙がうるさい。
生きた心地がしなかった。当たり前だ。だって私のせいで、人が死ぬかもしれないのだ。
思い出す。
——君の言う「町の底にいるもの」が地上に出てくることを川島さんが認可することで、悪いこころを持った人間に罰を下すことができるとしたら? それってもしかして、いいことなんじゃないかって思わないかな。
それからすぐに、ぞっと怖気が走った。
ちょっと待て、私。今、汐くんの言葉にすがることで、自分の失敗の言い訳にしようとしなかったか?
それは危険な思想だぞ、川島なゆた。——自分に言い聞かせる。だって、それじゃまるで、悪いこころを持った人間は、死んだ方がいいんだって言ってるみたいじゃないか。
それで改めて先日のことを振り返って思う。汐くんはその言葉を、深い意図なんてなくて、浅はかだったと言って謝ってくれた。汐くん自身もああ言っていたんだから、こんな考えに縛られる理由なんて何もないはずだ。
「どうかしたかい?」
そう聞かれて、我にかえった。
「大丈夫? 顔色がよくない」
「大丈夫です。ただ——」
ただ、なんだ。何を言おうとしてるんだ、私。
「——ただ、どう思いますか。あくまで仮に、ですけど」
玉生さんが怪訝そうに首をかしげた。
「アナグマが悪いこころを持つ人間を罰してくれるなら、その力を有効活用するやり方もあると思うんです」
何を、私は。
やっぱりアナグマを地上に出してしまったことを許されたいのか? それとも——
——感化されてる?
汐くんに。
ううん、違う、だから汐くんはそんなこと考えたりしない、なのに私、あの人のせいにするなんて。
目をつむってうつむく。歯を食いしばる。だめだ、思考がループしてる。混乱しすぎだ、落ち着いて、整理を。
玉生さんがふらついた私の肩を支えてくれる。「ちょっと、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫です。ごめんなさい、私のせいで」
「あなたは」助手席の彼が言った。「何を言ってるんだ」
「だめだ、汐教授」と玉生さんが言う。「まだ高校生なんだ」
「でも、力を持っている」と彼は言う。下手な役者の棒読みみたいなしゃべり方だった。それは最初から一貫していた。
あなたは、と彼はもう一度言う。
「神にでもなりたいのかね? 命をあなた個人の判断で、自由にしたいと、そういうことかね。法になりかわり、人を裁きたいのかね? そのことを、おこがましいとは思わない?」
「すいません」と私は言う。「本心じゃない。取り乱してしまって」
彼は黙る。さっきより重い沈黙が葬列の参加者みたいなこの車を走らせている。
……汐教授か。
望中学校の先の坂道を登ると左手に図書館、右手に役場があって、坂を登りきった先の左手の細い道路を進むと中学校裏手の山沿いに上手の集落があり、集落を抜けると工場がいくつかあってプラスチックやら何やらをつくってるらしいんだけどそのさらに先にはもう一つ山際の古い集落があってそこが石寺。石寺の集落のなかにアナグマは入ったそう。現場に到着して乗ってきたセダンを降りると張りつめた空気が刺さって痛い。物騒な装甲車が何台も止まり武装した自衛隊員たちが渋面で命令を待っている。
「あそこです」と荒町さんが汐行正に言って先導する。荒町さんの姿勢は一貫していて私のことは徹底的にいないものとして扱う。別に対して不快じゃない。いっそ気楽でいい。
現場の隊員が飼い主を出迎える犬もしくは金魚のふんみたいに荒町に追従する。
「被害者は」と荒町が言う。
「現在、捜査中です」と現場隊員が答える。
「近隣住人の避難は完了しています」別の隊員が言う。
「住人の家族のなかにいない者は」
「それが」隊員は首を横に振る。「皆、そろっているとのことで。住んでいる者が高齢者ばかりなので、どこまで本気にとっていいのかわかりませんが……。現在、避難先の神崎中央病院にて、身元確認を進めています」
隣家同士の軒が向かい合う路地の入り口に行き着いて止まる。地面にべったりと血痕があった。
「アナグマは路地の奥に潜伏中です」
肩に手を置かれる。玉生さん。何も言わず、気遣う顔でこちらを見ている。それで自分の呼吸がおかしいことに気づく。
私が。私のせいで。失敗したから。
「まだわからない」と玉生さんは言った。
「でも血が」と私は言う。
「まだわからない」玉生さんはくりかえす。
わからないからだ。
すぐにでもこの場を逃げだしたいと思った。ひとりだったら叫びだしていたかもしれない。でもちがう、落ち着け、そうだ本当に、生きているなら。
「待て!」
大声で止めるのは荒町だった。初めて私にしゃべりかけたなお前。
私は路地の入り口で振り返る。「一人で行きます」
「危険だ。その場で待て、護衛をつける」
「ついてこない方がいい」私はぴしゃりと言う。もしくは。「自分のなかには邪悪なこころなんてひとかけらもないと、だからアナグマに食べられてしまうことなんてありえないと、それこそこころの底から思えるならば、試してみればいい」
「例のものは、持っているね」教授が言った。「タオは」
よく、知っているのだ。
うなずいた。
「あなたに任せます」教授は言った。「この町をよろしくたのむ」
悪いこころの数とアナグマの数は同期しているから、今回のように、食べもらすようなヘマがあったとしても、タオに余りがでることは基本的にあり得ない。でも例外がある。まれに、アナグマの穴ぐらの入り口、樹の根元に、数日後、命庫が流しこんだタオの一部が落ちていることがある。
アナグマが、彼らの意志で、それを返したのか。だとしたら、なぜ。それがいったいどういうことなのか、はっきりとしたことはわかっていない。でも、一応の仮説はある。それが寿命なのか、病か、あるいは他に何か理由があるのか、わからないけれど、アナグマの一体が、そのシーズンのあいだに死んだのだとしたらどうか——町の底に溜まった「悪いこころ」の分量と、同じ数だけウロノアナグマは増える。その中の一体が、何らかの事態によって命を失った場合、その死んだ一体のアナグマのぶんだけ、タオが余ることになる。そうして余ったタオを、アナグマは命庫に返すのだ。あくまで仮説にすぎないし、彼らの生態はほとんど謎に包まれているから、断定まではほど遠いけれど、この仮説はほかにも奇妙に規律だった特徴を持つアナグマの一側面を、しっかり汲んだものになっているように見える。
仮説の真偽はどうあれとにかく余ったタオは命庫に返されるし、私たちはその返却物を貯蓄しているのだ。今日みたいな事態を、見越しての対策だった。
でも、まさか本当にストックを使うことになるなんて。
母さんは、アナグマを見たことがないという。それはつまり、母さんは母さんが役割を務めるなかで、一度も私のような愚かなミスをしてこなかったってことだ。失敗の重さがまたのしかかってきて、やりきれなくなる。
ストックのタオ。それをポケットのなかで握りしめる。母さんのウォークインクローゼットの中から持ち出した、宝石箱の中のタオ。もしかしたら母さんよりももっと前の、おばあちゃんや、ひいおばあちゃんが残したものかもしれないもの。だけど宝石箱の中に眠るそれらの中で一番上にのっていたから、きっとたぶん、母さんがそこに収めたもの。冷たいタオ。中には、ハチドリが入ってる。かわいくてきれいで、別の生きものが入ってる石にすればよかったかなってちょっと思わないでもないけれど、馬鹿げた少女趣味かもな。
……ああもう。
心臓がうるさい。呼吸もうるさい。うるさい、私。こんなに静かな夜なのに。
怖いの?
超怖い。逃げたい。びびってるし、逃げようか迷ってる。だから足取りもゆっくりだ。でも無理。わたしのせいだから。わたしの失敗だから逃げるなんて許されない。
ゆっくりだんだん目が慣れてくる。地面には血の這った跡がある。分岐のない私の進路は、ずっと血の線路の上をたどっている。何か落ちている。立ちどまり、しゃがんで、間近でそれを検める。人の腕だとわかる。二の腕の上方でちぎれて、血にまみれている。悲鳴をあげそうになり、なんとか押しとどめる。
路地の先で塀に突き当たる。塀を背にして、左右の家の、どっちの所有物かわからないトタンの物置が建っている。もしかしたら最近塗り直したのかもしれない、物置じたいは決して新しくはないのだけど、トタン板はきれいな象牙色で、だからそこにどばっと重ね塗られた赤黒い血の色は、余計に際立っていた。
大きな男が尻をつき、物置に背中をもたせかけてうつむいていた。長い髪はちりちりの癖っ毛で、何日も洗っていないんだろう、ぎっとりとして汚らしかった。デニム地のジャケットもパンツも薄汚れていて、その黒さは、泥のようにも見えるけれど、やっぱり血なんだろう。ところどころに破れ目があり、まるで、ジャングルの中を探検してきたあとみたいに見える。
肩からごっそり、左腕をまるごと食いちぎられている。左半身の肩から下は、大量の血でまっくろに染まっている。
動かない。
動くものは、その傍にいる。
動くってより、蠢いてるって方が正しいかも。
たっぷりの重力にぎゅむって押さえつけられてるみたいな、平べったい、奇妙なものがそこにいた。黒ずんでいて、平らだから、すぐにはそうと気づかなかったのだ。
形こそ確かにほんものの動物のアナグマによく似てるけれど、名前を借りるのは失礼だろってくらい、全然ちがう別ものだ。体毛がない。褐色の皮膚はサンショウウオみたいにざらっとして、湿っている。そんな皮膚に覆われた全身に、紫色の血管が浮き出ている。それはお腹のなかの赤ちゃんにも似ている。まだ人間の形をはっきりとる前の、人間の胎児。目がない。退化してしまったのかもね。きっとあの穴ぐらの中は、真っ暗闇のほかに何もない世界だろうから。
ごぶ、と音がした。
物置の前にうずくまった男が、たくさん血を吐いた音だった。息を吹き返したみたいに、ぜえぜえと荒い呼吸をくりかえした。顔をあげることはしない。弱っていて、無理なのだ。
アナグマがずず、と、泥が流れるみたいな動きで、彼ににじりよった。
「だめだ」と私は言った。ポケットのタオを取りだそうとした。
その私の腕を、背後に立った誰かが押さえて止めた。
振り返る。
え。
「汐くん……?」
「見てて」
ちょっと。
汐くんの腕をふりほどこうとする。無理。汐くんは普段通りのなんでもない顔をしてるけど、私の二の腕を掴む手の強さは異常だった。
そうだ、異常なんだ。
この状況でこんな平気な顔をしてること。私のことをアナグマを止める命庫だってわかっていながら行動を邪魔してること。それになにより——
——この場所に、この人がいるってこと自体が。
この人は、やばい。
「汐くん、どうして——」
しっ、と彼は言う。「川島さん、動かないで」
ウロノアナグマはでたらめだ。影みたいな平べったい姿をしていたはずのそれが、川に大きな石を落っことしたときにあがる飛沫みたいに、ぼこっと一瞬で膨らんで垂直に立ちあがる。それは最初と同じに、血管が浮き出て濡れたキモイ皮膚を持っているけれど身体は全然比べものにならないくらい大きくて、両隣の軒をかるく超えている。身体のそれぞれの部位が極端にアンバランスで、端的に言ってめちゃくちゃ頭でっかちで、なかでも特に大きな口がさらに、「彼」を食い殺すためにたわみ、ゴムみたく広がって口内の闇をさらした。そこには千を超える凶悪な牙が、手前から咽奥までびっしりと生えている。
ウロノアナグマは、一口でほとんどいく。とっくに虫の息だった男の二本の足の、膝から下だけが残る。次の一口で彼はこの世から完ぺきに失せる。
「素晴らしい」と声が言う。
汐くんを見る。笑っている。
汐くんは喜んでる。素晴らしいって言ったんだ。
「なんて……なんて簡単なんだ、人が死ぬのは」
汐くんはめちゃくちゃ昂揚している。声のトーンもいつもより高くなっていて、テンポも。こんな表情は初めて見る。目がきらきらしてる、少年みたいに。
少年の目が、私をまっすぐ捉える。
「川島さん、すごいよ」と彼は言う。
やめて。
私はそのことを認めたくない。
でも汐くんは言う。「君がやった」
「私が」
「君だよ」
「そんな」
「君がやったんだ」
「ちがう!」
全身の力が一気に抜けてしまう。その場に崩れそうになった私を、汐くんが支えた。
「どうしたんだよ、川島さん!」
心底意外だとでもいうような顔つきで、汐くんは私の顔をのぞきこむ。
「川島さんがそんなふうに、自分を責める理由なんて何一つないんだよ?」
何を馬鹿なこと。
「これは本当のことだ。さっきの男の顔、見覚えない? ほら、よく思いだして。君だって知ってるはずだ。昼間、あんなにも大きな騒ぎになったんだから」
まさか。
汐くんの口ぶりで、思いあたった。
取りたてて特徴のない中年の男。短髪の。
「名前は坂井寿哉。今日日中、ここから国道を挟んですぐ向こうの蘇野地区で、一家四人を殺した男だ。その家にはまだ生まれてまもない赤ちゃんもいた。人のすがたをした悪魔だよ」
ぞっとした。
ウロノアナグマに食べられてしまった男の恐ろしい素性が明らかになったことだけが理由じゃない。
目の前のこの人が、いちばん怖かった。死んだ男を悪魔と吐き捨てる汐くんの、まっすぐな怒りが恐ろしかった。
「深い意図はない」、「浅はかだった」、大嘘だ。それらの言葉こそ、方便だったんだ。汐くんは本気で、悪人を裁くことを肯定している。
「最初から、そのつもりだったの?」
そのとき、
「あろろあろい」
声がした。
それは汐くんの背負っているリュックの中から聞こえてくる。
今のは。
「もしかして」
「うん、なんだい、川島さん」
「今の声」
この人。
「タオが足りなかったのは」
汐くんはリュックを開き、手を突っこんだ。
「んの! あいだ、こす! こすぞ!」
人面の果実を、私の目の前に差し出した。
「最初から、そのつもりだったんだ」と彼は言う。「川島さんに話を聞いて以来、俺は文字通り寝る間も惜しんで、命庫のことを徹底的に調べたよ」
「あんたって」
「それから実験をやることにした。アナグマ一体につきどれくらいの被害が出るものなのか、しっかり知っておきたかった。そのためにまず、悪意の果実を一つ、川島さんが食べてしまわないように遠ざけて、『町の底に眠るもの』——ウロノアナグマが地上に出る手助けをした」
「人が死ぬことを、なんとも思わないの」
「邪悪な人間は、死ぬべきだ」
「その言葉は——」
その言葉は、君自身に返ってくるよ。
そう言うよりも前に、アナグマの首が躍動した。
平べったい姿に戻っていたものが、また垂直方向にずるっと大きな肉体を生やした。大きな口が汐くんを捉える。
「死ぬはずがない!」
と汐くんは言った。
それはまるで、魔法の呪文みたいだった。
アナグマが、動きを止めた。
「ぬえぼ」と果実がのんきに呟いた。
「川島さん」汐くんが言う。私に向けて、手を差し出す。「タオを」
「え?」
「こいつを止めるんだろ?」
「それは」
「言ったはずだよ。俺は君の協力者だ。今、目的は一致してる」
ためらいながら、でも他にどうしようもなくて、結局私はタオをを差しだした。
タオを手にした汐くんは、ゆっくりと口を閉じていくアナグマのその口内に、忍ばせるように腕を差しいれた。
次の瞬間、立体となっていたアナグマの巨躯は、どろどろと溶け落ちるようにして地面にこぼれていく。それから数十秒かけて、土に浸透するようにして、消えた。
そうして跡形もなくなってしまう。殺人鬼も、奇形の怪物も。象牙色のトタン板に残った血痕だけが、饒舌にしゃべりつづけている。
「やっぱりだ」汐くんが、独り言みたいに静かに呟いた。「思っていたとおりだ」
汐くんの顔が、ぐりん、とこちらを向く。
はちきれそうな昂揚に、耐えていたんだとわかる。
「神は俺に、世界を変えろと言っている」
わなわなと震える声で、彼は言った。
「君の力で、俺はそれをするよ」
直後に、頭の中で鈍い音がした。目の前が真っ赤になる。
汐くんが囁く声が、かすかに聞こえた。「俺は友情から、川島さんを助けにきた。そして初めて人の死を見たショックで気を失った川島さんを保護したんだ」
それが汐くんの筋書き。なるほどよくできてる。なにせ驚くくらい嘘がない。
「すんなり信じるはずだ。父は馬鹿だからね」
汐教授、か。偉ぶりやがって。こんなモンスターを育といて。父親失格者め。
汐くんが、一連の言葉の中で、私と彼の関係に対して「友情」って語を使った点が、今に至ってなおがっかりって感じるのは、たぶんここまでに起きたたくさんの物事に、頭が追いついていないからだろう。
私はすぐにでも遠のきそうな意識のなかで考えている。坂井寿哉を残さず食べてしまったウロノアナグマは、汐くんを食べはしなかった。
なあおい。こいつ、マジでイカレてんだぞ?
汐広矛は、悪いこころを持っていないって?
そんなまさか。何かの冗談でしょう、神様。
2
うすいピンクのネグリジェはサイズもぴったりでかわいくもあるけれど私のじゃない。それにちょっと大人っぽすぎて似合ってないって思う。
全身痣と瑕だらけのぼろ雑巾、それが私だ。冷たいコンクリートの床で、仰向けに倒れたまま血を吐いてしまったので、それがのどに逆流してむせてしまって咳きこんだ。似合ってないけどかわいいネグリジェは赤い斑模様で彩られてる。
コンクリートの地面で寝ていたから筋肉がかちこちに凝り固まって身体のふしぶしが痛い。怒りにまかせて何度も鉄の扉に打ちつけて抉れたげんこつもじんじん痛い。ウロノアナグマが現れた夜に彼に殴られた頭部、右のこめかみのうえの生え際あたりの疵も、ときどき思い出して帰ってくるみたいに、ずきんとくる。
ブラとショーツは私のだけど、所有物はそれで全部だ。アナグマとっつかまえに出かけたときに着てたブラウスとジーンズも、財布とスマホもここにはない。部屋んなかには時計はない。窓もない。あるのはスポット型の間接照明ふたつ、無地のベージュのブランケット、それだけ。だから今が何時なのか、朝なのか夜なのかもわからないし、したたかに殴られてからどれくらいの時間が経ったのかも、わからなかった。
牢屋のそれみたいな頑丈な鉄の扉が軋み、ゆっくりと開いて、彼の瞳が覗いた。
秘密の逢いびきみたいに彼は、すきまからそっと身体を滑りこませた。いつもの爽やかなすまし顔で、「おはよう」って言う。
出せよ。ふざけんなよ変態。サイコ野郎死ねよ。
それらの罵声をこの人に浴びせたのは、殴られて気絶してしまう前のことで、今の私はもうそのときとはちがう。気迫よりも、恐怖が勝っている。手負いの獣ってより調教された犬だ。こうして対面してるだけで、心臓のリズムが早まる感じがあって、その厭な感じは嘔吐感に似てる。
「今、何時?」って私は聞いた。
「気持ちは変わったかな?」汐くんは無視して言う。
「ここはどこ?」
「そろそろ協力してくれる気になったかな」
「いつまで閉じこめておくつもりなの」
「やっぱり」彼は言う。「まだわかってくれてないみたいだ」
「ねえ汐くん、ここから出して。今すぐ。このままだと、大変なことになるよ」
「大変なこと? それは、どんな?」
何をいまさら、ぬけぬけと。
「君が私を監禁したせいで、たくさんの人がウロノアナグマの犠牲になる」
「そうだね。でもその人たちは全員もれなく、悪いこころを持つ人間だ」
「人を裁くのには法があるし、いち個人がそれをしようだなんておこがましいってさ」
汐くんは、悪戯好きの子供みたいな顔をした。「それはもしかして、受け売り?」
「誰の、とは言わないけど」
「そういえば、会ったんだよねあの人に」
「あの人、汐くんのお父さんだよね」
何かしら反応を得られるかもって思ったけど、手応えはちっともなかった。それで私は別の道筋を模索して話題を変える。彼のこころを、多少でもゆさぶるため。
「汐くんは、神様にでもなりたいの?」
「僕じゃない」汐くんは首を横に振った。
そして私は返り討ちにあう。
「でも」汐くんは言った。「君は、神様になれる」
「え?」
「神様は、君なんだよ川島さん。君はまだ自分のすごさに気づいてない。その力が、どれだけ尊く、素晴らしいものなのか」
だから、と彼はつづけた。
「だから、俺が気づかせてあげよう」
何か得体のしれない力が、支柱を伝い登る植物の蔦みたいに、私の足もとから絡みついてくる。
「君は、悪いものを殺せる。邪悪な命を、君自身のこころひとつで自由にできる、そんな立場にある特別な、存在なんだよ」
「そんなもの、私は」
「なのに」汐くんは私の言葉を阻んで言った。「なのに君は——君たち命庫は、その力をこれまで自ら封じてきた——ううん、わかるよ。手を下すのは辛いもの」
「手を汚す」動揺を押し隠して言葉を正す。「それこそ、悪じゃない」
「ちがうね」と彼は断定した。
近づいてくる。
「来ないで」
私はおしりを地面につけたまま、後じさりする。
汐くんは私のそばにひざまずく。
ペットを愛でるみたいに私の首の後ろをつかまえて、顔をぐっと近づけて、
「命庫に悪があるとすれば——」
ささやく。
「——それは悪人に罰を与えるウロノアナグマを、地上に出てこられないように押しこめているその行為にあるんじゃないかな」
「ちがう」
「罪人を殺すのは、悪だと?」
「当たり前でしょう?」
「ならそれでもいい」
「え?」
「それを悪だというなら君は、悪を担う、覚悟を決めるんだ」
「何を馬鹿なこと——」
「どうせもう、後戻りはできない」
「ちょっと意味がわからない、汐くんが何言ってんのか」
「川島さん、君は、あの男が、坂井寿哉が死んだのは僕のせいだって思う?」
どきりとした。
「僕が、悪意の果実を盗んだから?」
汐くんは私のこころの急所を的確に抉る。腕のいい、外科医の手術みたいに。
「厳しいことを言うようだけど、僕には君が、もう起きてしまった事実から目を背けてるように見える」
「そんなことない」
「罪悪感に苦しんでるんだよね? 忘れてしまいたい、逃げてしまいたいって思ってる」
「ちがう」
「いいかい川島さん。殺したのは僕じゃない。君だよ。『後戻りできない』って言ったのは、そういう意味」
「ちがう!」
届いてない。手応えゼロ。私の無罪の主張を、汐くんは絶対に認めない。
「でも、その行為のどこが悪いんだ。あの悪魔を殺すことの、どこが? 神は悪魔を滅ぼす。邪悪な人間を殺す君の力、それは善だ。それこそが正義だ。それが真理なんだ。だからね、川島さん、仮に君が罪を抱えたんだとしても、それは善を行ったためなんだ。気に病むことはない」
「……」
汐くんは私の手を握った。とびきり無邪気な瞳が、私を見つめる。「僕は君の共犯者だ。だから君の罪を、半分背負う」
「もうやめて」
彼はやめない。
「本当は、ずっと、解放されたかった。そうだね?」
すごく残酷で、遠慮もためらいもない。
「この町から、閉塞的なこの土地から、母親の保護下から。——君はずっと逃げ出したかった」
いいよ、って。汐くんはうなずいてみせる。
「僕が、君を肯定する。一緒にこの町を出よう。僕が連れ出してあげる」
悪魔の囁き。破滅的で、どこまでも甘くて。
私はそれでも。
「ふふ」
笑った。
「……? 何がおかしいの?」
前にも、同じことを言ったやつがいたなって思ったんだ。
そいつは汐くんみたく頭がいいわけじゃなくて、だから人を操るために言葉を転がすみたいな入念な意図は微塵もなくて、ただ本当に大した考えもなくあっけらかんと、言ったのだ。
——だってよ、厭で厭でしょうがねえんだろうが。ならしゃあねえだろ。俺が連れだしてやろうか?
ほんと、馬鹿。でも少なくとも、表裏がなくてめちゃくちゃ正直な言葉だってことは確かに伝わってきた。
汐くんの強い目を、私は見つめ返す。んで精一杯の虚勢を張って笑顔をつくる。うまく笑えてるだろうか。多少引き攣っていても構うもんか。
「川島さん」汐くんも笑顔になる。「もしかしてわかってくれた?」
「わかるわけねーだろ、虫酸が走んだよ」私はそう言って、呆気にとられてる汐広矛のほっぺたに、べっ、と唾を吐きかけた。
それで、汐くんのげんこつが私の頬骨を打つ。汐くんの暴力は徹底的で執拗で、何度も頭のなかで火花が散る。「そのうちわかるよ」って彼は言う。「今は信じてくれなくても、そのうちきっとわかる」相変わらずの涼しい声だ。でも怒らせてやったぜ、そのことを認めないわけにはいかないでしょう? ざまみろ、ファック・ユー。
ヒーローは遅れてやってくるもんで、力が必要なときには「助けて」ってひとこと言やあいいのさ。そうすりゃ俺はお前の義務も世界もまるごとぶっ飛ばして、ずばっと連れだして幸せにしてやる。だからよ、厭で厭でしょうがねえならちゃんと言え。
っつってんのによ。あいつはひねくれてっから、自分が本当に望んでるもののことだけは絶対に口にしないのだ。とにかく素直じゃないから、俺が八童堀沿いの饅頭屋のバイトで貯めた金でついに念願のマイスマホを手にいれたときも、ID教えてやったのにもかかわらずマジで何の連絡もよこさないっていうね。
いろいろなもんを抱えて複雑なしがらみんなかで遠慮ばっかして生きてるから面倒だし苦しいんだ。本当は、大事なものってのはすげーシンプルでささやかなもんで、それ以外は別に対して重要じゃないのだ。ほらあれだ、名探偵コナンだっていっつも口を酸っぱくして言ってんだろ? 「真実はいつもひとつ!」ってよ。
俺は知ってる。自分にとっていっちゃん大事なもんが何であるかを、いつだって完ぺきにわかってるんだ。
要は俺にとっちゃあ、やりたいことが、やるべきことだってことだ。
だからよ、ちゃっちゃと始めるぜ。
例の化け物、「ウロノアナグマ」とかいうはぐれモンスターを撃破した翌日なゆたは学校を休んで、その翌日もさらに翌日も来なくて連絡もなかったもんだから学級委員が川島家を訪ねたところ、母親の亜希さんから「なゆた? えーここんとこ帰ってきてないよ?」というきわめて放任主義的なコメントがあってそれで失踪が判明。あいつは命庫だしこの事実を大人連中はそれなりに重く受けとめてその日のうちに捜索隊が組まれて命庫の捜索が始まったわけだが。
見つからないまま、二週間が経つ。
そうやって連中が「何の成果も得られませんでした!」とかやってるあいだに、俺は俺でせっせと動いてる。
せっせせっせ! まずは学校の連中に事情聴取。あいつのクラスメイト中心に話を聞く。ぱっぱぱっぱ! 女子ラクロス部の部室にも殴りこみをかける。ひんしゅくを買うけど気にしなーい。ちゃっちゃっちゃ〜〜。なゆたが最近ハマってた汐広矛ともしゃべる。んで俺は刑事コロンボや古畑任三郎みたく、「汐広矛怪しいよね」って一発であたりをつける。心配してる様子があまりにも悲壮感ただよいすぎて胡散くさいし、きっとこいつは何か知ってるくせに隠してるんだろう。
俺はガキの頃に読んだシャーロックホームズが使ってた幻の日本武術バリツにホームズシリーズ最大の驚きと感銘を覚えた男で憧れのあまりバリツを習得しようと思ったことすらあるんだけどどれだけググっても「そんな武術はない」って諭されるだけで、だから仕方なく少林寺の使い手になったのが小四のときだ。我流だけどそれ以来腕っぷしで他のアホどもに負けたことはない。ただ一度負けたことがあんのは国道八号線沿いのぶっちゃけあんまり美味くないラーメン屋「本陣」店主で、でも実は望山近辺を縄張りに発掘調査をやってる考古学者って裏の顔も持ってる頑固一徹親父・国枝充造だけで、ヤツは今じゃ俺の師匠だ。
だもんで「んーやっぱ尾っぽ引き出すよか前にとりま汐広矛ぶっ飛ばして吐かせるかオオ?」って考えも一瞬、よぎったにはよぎったんだけどね。最近はさすがに俺も大人の階段を三段飛ばしでガーン!と登り、結果、「ぶっちゃけやっぱ、どんだけ腕っぷし強くても、頭いいやつ相手にすると良いように手玉にとられて消耗しがちだよね……」ってことに気づき始めてるのとあとは師匠が、
「いいか甘夏、力で敵をねじふせるってのは一般的には暴力だ、あんましよくないってことになってるし普段は控えた方がいい。でもナイスなタイミングってのがあってそれはいい女が、お前がその鍛え上げた肉体で敵をぶっ飛ばすとこを見てるときってことで、なおかつ、そこでお前が敵をぶっ飛ばしたのを見て、その女が「きゃー素敵甘夏になら抱かれてもいい〜!』ってなるような『ちがいのわかる』女だった場合だ!」
って言ってたこともあり、とりあえず様子を見ることにしたのだ。深呼吸して、リラックスリラックス……。オッケー。「汐広矛いつかいってこます」っていう崇高な意志をひとまず奥にしまう。俺はしばらくのあいだ、怪しすぎる汐広矛を監視することに決める。けどその計画が立案早々ご破算になったのは、時を同じくして町全体が大変なことになったからだ。
命庫が町の邪悪なこころを凝集した悪意の果実を食うと、命庫が腹んなかで飼ってるたくさんの生きものが腹んなかで溶けた悪意の果実と結びついてタオになる。タオはアナグマのエサだ。そんな、タオのレシピの悪意の果実が、母親の亜希さんが病気に伏せり、なゆたも消息不明って緊急事態のあいだに、これまでとは比べものにならない異例のスピードで増殖してるそうで。
まず警告を発したのは立命館大学で文化人類学を教えてて「命庫」研究の第一人者としても知られてるらしい汐行正。日頃命庫周辺を警備してる連中は通称〈自衛隊地下生物対策部隊〉で、この部隊のご意見番にもなってるらしいこの大先生が公の場でしゃべったのは、〈福州市一九一七年の災厄〉のことだ。二○一七年の望町と同じように当時中国福建省の福州市で〈命庫(ミンクゥ)〉が一時不在になり——ひとことで言うと「恋愛関係のトラブル」だそう——代わりに福建の霊媒師〈タンキー〉たちがまじないによってウロノアナグマの出現を止めようとしたけど無理だったらしくて結局市の中心部の地の底からわらわらと這い出してきた飢えたアナグマたちが逃げ遅れた人たちをガンガン捕食していったんだという。
汐教授は言う。「ウロノアナグマは悪いこころを持つ者を食べる」って言われてるけど、法や規則が、犯罪者が実際になにがしかの行動を起こさないかぎり実行力を持たないのに対して、アナグマは潜在的な犯罪者予備軍をあぶり出して食べるし、なおかつ、彼らの「判定」は法よりもずっと厳しいしそれは「理不尽」といっていいくらい。その人物が本当に潜在的な「悪人」だったのかということすら当の本人が食べられてしまったあとでは曖昧、っていう例も枚挙にいとまがないそう。
〈福州市一九一七年の災厄〉は最終的に福建省全体にまで拡大したという。それってやばい。何せ福建省の面積は十二万平方キロメートル超で日本でいうと本州全土の半分以上の面積なのだ。犠牲者の数は二十万人にのぼった。なんじゃそりゃ。戦争やらパンデミックやらジェノサイドと変わらない、未曾有の大惨事ってことだ。
汐行正の言を受けて滋賀県は初の非常事態宣言を発令した。今後生じうるやばすぎる被害を想定してすぐさま災害対策本部が発足、厳戒態勢の中、京都、岐阜、三重、福井——近隣の県から警察官がいっぱいやってくる。警官たちは望町を中心とした八童市全住民の避難誘導を推進する。
一方でアナグマのニュースはネットでバズりはじめる。なかでも、アナグマの棲処であり今後最大の被害をこうむることが自明であるところのここ望町は、すでに死の町であるかのように語られ、たちまち恐怖の象徴としてモンスター化、根拠のないデマや憶測によって噂に踊らされるミーハーどもの脳内でまったく別の町に造りかえられていく。命庫とかアナグマなんて、オカルト好きにとっても格好のネタだからな。新興宗教やカルトな連中ももちろんがっつり食いつく。噂によると草津市に馬鹿でかい施設を残したまま数年前に解体してしまった悪名高い〈万聖七光会(ばんせいしちこうかい)〉の元信者の一部なんかもこのアナグマブームを機に息を吹きかえしたんだとか。「我らの明主・斉藤丹信の終末予言はやはり正しかったんだー!」とか言ってるんだってさ。
大さわぎが始まる。どいつもこいつも警官の誘導を無視して、我先にと県外に避難をはじめる。暴力沙汰を中心に小さな事件も頻発するようになり、空き巣の被害も急増、そのうちにレイプも起きる。大混乱だ。それで集結した警官たちもいっこうに見つからない命庫の捜索を一時中断して避難誘導やそれら犯罪の対処にまわらざるを得なくなる。
汐広矛はこうした混乱の初期段階からもう「待ってました」とばかりに学校に来なくなり、あっけなく姿を隠してしまったのだった。さっさとぶん殴っときゃあよかったって思うけどもう遅い。国枝の親父も家族引き連れて県外に避難したし、うちの両親も京都で一人暮らししてる姉ちゃんを頼って出て行った。俺はまだここにいる。いなくなったなゆたをほったらかして避難なんてしてられっかよ。女一人助けられん男にシェルターなんざ必要ねえ。否、俺こそがあいつのシェルターだ。
俺はこの考えが気に入ったので俄然パワーがみなぎってくる。それで何かと詳しそうな汐行正が「アナグマの研究と対策の考案」を理由に今も滋賀に留まってるって情報を聞きつけるにつけて、訪問を決める。珍しい名字だ、どうあったって汐広矛の親父だか爺さんだか叔父だかで間違いないだろう、なゆたの居場所の手がかりだって持ってるかもしれない。公共の交通機関はもうとっくに止まってるけど俺にはバイト資金をはたいて近所のフジ・サイクルで買ったクールな愛車があるから問題はない。奥さん聞きました? 9800円の激安価格でこの漆黒のボディが手に入るんですってよ!? ディス・イズ・ママチャリ! 俺はこいつに「シャイニング・インパクト」って似合いの名前をつけた。八童市から立命館大学の琵琶湖キャンパスがある草津市まで三十六キロ、ぎらぎら照りつける正午すぎの太陽の下、ほとばしる俺の汗は青春の匂い。フレッシュ!
到着! 当たり前だけどキャンパスには人の一人もいなくてもぬけの殻だ。俺は案内図を見て汐教授の研究室を探りあて、扉の前でトントンとノックしてそれから扉を蹴り破る。ここには命庫に関する貴重な研究資料もあるんだろうけどこの際無視だ。俺はとりあえずデスクトップパソコンを立ち上げつつ引き出しん中の書類やらファイルをがさがさやるけど目当てのものは見当たらないのでもっかいパソコンに目を戻し、ブラウザを立ち上げてアマゾンドットコムに行くと案の定ログインしたままになってるからアカウント情報から住所情報を引っぱりだす。二か所登録されてるけど一方は草津市野路東ってなっててつまりはここだから、もう一方が自宅で決まりだ。こっから遠かったら気合いだよねって思ってたけど、守山市。ようし守山なら大したことねえ、しかもさっき通過してきたし望町戻んならどうせ通ることになってた。Googleマップバーン! えーと……二十キロ! ……。……まったくもって余裕だね!
大学を出て再びシャイニング・インパクトを駆る。俺の愛車はガソリンいらず! ならば今試されてるのは俺自身の根性だけだ。あるいはハート! うおお真っ赤にたぎるぜ!
ぜぇぜぇ言いながら次の目的地に到着! 大津につながるでかい琵琶湖大橋のすぐ近くの住宅地にある一戸建てだ。外に誰もいないので俺は道路のまんなかで上半身はだかになってTシャツを思いきりしぼる。汗がどばーっと滝みたく出る。
でかい家の外の門を自慢のジャンプで乗り越えた。場合によっちゃあやっちまいますか、と歩きがてら俺はシャドーボクシング、シュッシュッ!
と、タイミングをはかったように、汐家の玄関が開いて出てくるやつがいる。
おーこれは汐行正をさっそく発見か?と思って「あ〜すんません〜」と声をかけた。
そいつがこっちを向いた。
汐広矛だった。やつは
「阿望? どうしてこブッ!」
って言う。どうしてここに?とか言いたかったんだと思うけど残念でしたねシャドーボクシングによってイメトレキメた俺は遭遇して0.1秒で臨戦体制に移行、怒りのパンチ! 一発で終わると思うなよ、バンバンバン! 三連続のスーパーラッシュだ!
「もう逃がさねえぞオオ?」
「待て! 何言ってるのかバ!」
四発目をためらいなくくれてやりました。
「誰がカバだこら!」
って言いながら俺は汐広矛の襟首をつかんで、
「さあ吐けすぐ吐け今吐け、広矛くん」
「何を」
「なゆたはどこだ、広矛くん」
「俺は知らな——」
「知らないなら殴るぞ」
「そんな理不ジン!」
汐広矛がぶっ飛んで尻餅をつく。
「羊とかカピバラとかナマケモノとか」
「……え?」
「や、だからよ、ふだん俺はそこらへんの動物どもとおんなじくらいに温厚で優しい性格してんだけどって話。けど、やるときはやんぞ、オオ?」
もういっかい襟ぐりを掴んで持ちあげた。汐広矛は手の甲で口元の血をぬぐった。それから「わかった」って言う。その目に怯えとか、戸惑いはない。
「離せよ」
「したら、逃げんだろうが」
「しゃべるからさ」
「このまましゃべれ」
って言いながら、でも俺は武士の情けを一ミリだけかけてやることにする。汐広矛の襟ぐりをつかんでる腕をちょっとさげると、つま先立ちしていた広矛くんは両足で立てるようになる。
「どうして俺だと?」
「勘」
「それだけ?」
「あと、非常事態発令してから真っ先に逃げたろ」
「嫉妬もある?」
「ああ?」
「俺、川島さんと仲良くしてたから。阿望は川島さんとは長いつきあいなんだろ?」
川島さんが言ってたよ、って汐広矛は言う。
「うん、幼なじみだね」って俺は言う。
「知ってる? 川島さんは命庫なんだ」
「んなこた知ってるよ」
「じゃあ、その役割を担うのが辛くて、川島さんが苦しんでいたことは?」
「知ってる」
「じゃあ、どうして放っておいたんだ。すぐそばにいて、あの子の気持ちを知っていながら——」
んで汐広矛はそのまま続けて「見て見ぬふりガバァッ〜〜!?」って言ってまた吹っ飛ぶ。
「ってーなお前いい加減ふざけんなっ!」とついに汐広矛は声を荒げる。
あ〜もうやっぱこいつ、俺、超きらいだわ。
「っせーなてめえ、馬鹿野郎! 自主性に任せてんだよ! 俺はあいつの保護者でも先生でもねーんだよ。あいつだってガキじゃねえんだし、『忍耐!』ってとりま決めたならそうしろよ。んで、それでもキツイっつって頼ってきたらそんときは助けてやる。俺はそう決めてるしお前にとやかく言われる筋合いはねーんだよ!」
んで、「ようし決めたぜ」って俺は言う。「お前がなゆたのいどころを吐くまで、俺はお前をひたすら殴りつづけることにしよう。これだね!」
汐広矛の顔が驚きにゆがむ。
「だから俺は知らないって何度も——」
「知らないんなら、残念でしたね」
「……は?」
「俺はそれでもお前がクロだってことに、全額ベットしてるんで。これからこてんぱんにお前のことノして、それでもお前が吐かなかったらそんときは、ごめんって謝ろっか」
「お前は——」
「マジだぜ?」
「——論理が、通じないのか?」
俺はマンガの不良みたく拳をポキポキ言わせる。まあまあサマになってっかね? わかんね。
拳を振りかぶって、「歯ぁ食いしばんじゃねえぞ?」って俺は言う。「さっさと地獄見ろ。んで、なゆたのいどころ吐け!」
その時。
待てぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええええええええええええええええええええ!
ってエモい叫び声がだんだん近づいてきて、でも俺は気にせず汐広矛にむけて拳を振りあげる。そしたら近づいてきた声の主が俺と汐広矛のあいだにずばっと身体を差しこんだもんだから、ついに放たれた俺の必殺パンチは汐広矛じゃなくそいつの顔面にクリーンヒットする。
背中にいる汐広矛ごと、その男は吹っ飛んで転倒した。
「お? あんたはもしや」
俺はそいつの顔を知っている。
「広矛にィ、ひどいことをォ、するなァァァ!」
俺の必殺のストレートをもろにくらって昏倒寸前で目をぱちくりさせながら、それでも背中の広矛くんをしきりにかばって超ヒステリックに怒りを爆発させてるのは、ここんとこしょっちゅうテレビのニュースで偉そうにしゃべってる汐行正だ。
んで汐行正は(俺に)ぶん殴られたときのクッション役って大任を果たした汐広矛に「おい、大丈夫か?」って憐れみに満ちあふれた声で囁くけど返事はなくて、汐広矛は白目ひんむいて気絶しちゃったみたいです。
与えられたご飯に口をつけなかったのはおしっこを我慢するためだ。この部屋から一瞬でも出ることの許可は一切おりなくてトイレにさえ行かせてもらえない。そんな状況にある以上、食べたり飲んだりなんて絶対したくないって思っていたのだ。だけどそんな意志は当たり前に長持ちしなくて、生きている以上、生理現象はどうあがいても抑えられないし、私は恥ずかしさと屈辱で死にそうになりながらこの部屋で排泄をし、今じゃこらえきれずに与えられたご飯も食べている。
汐くんは四日か五日に一度くらいしかここに来てくれない。それは「極力、周囲に怪しまれないようにするため」。与えられるご飯はコンビニで売ってるパンとかおにぎりとか。どこまでも用心深い汐くんは、それらのビニールのパッケージをわざわざ自分で開封して、中身だけを置いていく。自分がだんだん衰弱していってることがはっきりわかる。
おかしくなりそう。身体だけじゃなくてこころも。監禁生活がつづくなかで、いつの間にか、汐くんが来るのを待ちわびてしまっている自分がいる。ほらストックホルム症候群とかあるじゃん、人質が犯人のこと好きになっちゃうっていう。や、でも私、もともとからしてこうなる前から彼に目つけてたから……ああややこしい。でも、どうでもいいことだ。
「馬鹿言ってんじゃねーよ、好きとかじゃない」
はあ。誰に向けて強がってんだ。馬鹿みたい。
極端に働きの悪くなった私の頭は、この危機を正しく危機と認識することも難しくなってきている。それでも冷たい床の上じゃ熟睡もできず浅い眠りをくりかえすうちに、私の思考のおよばぬ場所で、潜在的な無意識が私を糾弾しはじめる。
それは悪夢で、母さんの夢だ。
お前は本当に可哀想だね。こんなのってないよね。生まれてこの方、まっとうな人たちが感じるまっとうな幸せなんて一度だって感じたことないものね。おいしいごちそうを満足ゆくまでお腹いっぱい食べたり、柔らかで清潔なベッドでぐっすり眠ったり、花を見てきれいだと感じたり、友だちのなんでもない言葉にあたたかい友情を感じたり、ちょっと思いきって大胆な服を着てみたり、長い映画を観たあとでゆっくりコーヒーを飲みながら余韻に浸ってみたり……
それはお前にいつまでも訪れないね。
お前は奴隷だから。この町の奴隷だから。権利なんてないから。自由なんてないから。
道具としての利用価値だけ。どれだけ隠してもどうせすぐに誰もがお前をそんなふうに見るようになる。そんな目でしか見なくなる。
断言するけど、お前はもうどこにも行けないから。
私は自分の悲鳴に驚いて目を醒ます。頬が涙で濡れてる。夢の途中ではじまった嗚咽が口もとにせりあがってくる。えっく。えっく。
そして、けれども私は、そんな自分自身の感情に振り回されることすら、まっとうには叶わないのだ。
目醒めてすぐに、
——とくん。
お腹のなかの生きものたちの、胎動を感じた。
胎動が告げる。あの子たちの飢餓感を。
ウロノアナグマ。
アナグマたちがお腹を空かせている。タオを、町にこびりついた悪意を引きわたせと、真っ暗な地の底から訴えている。
そんな、どうして。おかしい、早すぎる。
それでも、訪れたのだ。季節が変わるのを待たずに、彼らの空腹が。それは事実だ。命庫の胃液のなかに棲むこの子たちが、それを間違えることはありえない。
それなら、どうすれば。決まってる。食べなくちゃ。悪意の果実。あの暗く、悪臭がただよう場所で。暗渠で。なるたけ早く。
でも、そうだ。汐くんは昨日ここに来たばかりなのだ。
来ない? とうぶん……また、四日か五日は。時間がない、急がなきゃいけないのに、どうすれば。
母さんが治るまでは、非力でも、私が。
そう思ったのに。
——今だけだからね。きっとちゃんと、すぐに治すから。
……母さん。
——お前はどこにも行けない。
ぞわり、と。
怖気が身体を包んだ。
息ができない、苦しい。
落ち着け。落ち着け。ゆっくり息を吸いこみ、また吐き出す。ぜえぜえと、乱れた呼吸を整えようとする。
だめな模様。
冷えたコンクリの床が私を歓迎する。這いつくばって苦しみもがく。お似合いさ、この町の、惨めな奴隷には。
頭がぐるぐるまわる。自分の息がか細くなっていくのがわかる。さっきまでぜえぜえいってたのに、いつのまにか、「ひい、ひい」って聞こえる。私の呼吸。息苦しい。酸素足りてない。死ぬ。
「ふ、ふ、」と私は言う。「ふざけんな」蚊の鳴くような。
仰向けになる。
天井がぐるぐる、まわる。
部屋全体がまわる。
世界がまわる。
朦朧として、頭ん中がぐちゃぐちゃで、覚醒してんのか、実は何度も気を失っては起きてを繰り返してんのか、そんなこともわからない状態がずっとつづく。地獄みたいに。
何度目かの昏倒のあとで、目を開けると、誰かが私の顔を覗きこんでいる。
「大丈夫?」彼女は言った。
汐くん、じゃない?
汐くんじゃない。
女の子。
「おうおう、よだれ垂れてるよ」
そう言って、ハンカチで口元をぬぐってくれる。
ハンカチは、いい匂いがする。花の匂い。たぶんライラック。
「まあぶっちゃけ、よだれ拭いただけじゃどうしようもないって感じするけどさ」
血だらけのネグリジェ。それに目を落として、それからまわりを見て、言った。
この子は、私のことを知らない。
でも私は、あなたを知ってるよ。
知ってる。汐くんの口から初めてその名前を聞いてから、何度もその名前を頭の中で反復しては、一度だけ見た、きれいな横顔を思い出していた。
恋人じゃない、近所の子、年齢はいっこ下、数少ない友だちの一人なんだ。……今じゃどこまで本当だか見当もつかないがな。
私が彼女を呼ぶ声は、長年つきあって呼び慣れた友だちの名前を呼ぶみたいななれなれしさを持っている。
「シロ」
「およ? 私のこと、知ってんだ?」
汐くんと一緒に歩いてるあなたを見たとき、「きれいな子だな」って思った。私の目はやっぱふしあなじゃなかったよね。
シロはめちゃくちゃかわいい。肌が白くてつるっとしていてむきたてのたまごみたいでかじりつきたい。目が大きくてまつげが長くて鼻が高くて少女マンガの登場人物みたい。グロスの塗り加減が絶妙で唇がおいしそう。白いサマーニットに水色地に淡いピンクの花柄のスカートを合わせたコーディネートは上品で素敵で、この子自分の魅力の正体を十二分に知ってやがんなって思う。このはきだめの部屋には似つかわしくない。あんまり違和感がありすぎて、この子って人間の姿してるけどほんとは人じゃなくて救いの女神なんじゃないの?って感じがする。
「ここ出たいんだけど」
「あいつの趣味?」ってシロは首をかしげて言う。「それとも、あんたの?」
「遊びじゃねんだな、これが」って私は言う。
「え、嘘」
お互いに、苦笑。
故・斉藤丹信を明主(めしあ)とする宗教法人〈万聖七光会〉、その信者たちが崇めるのは宇宙万物の創造主にして主なる神、その名は「七光みろく様」。
教団は信者に「最後の審判が来る、裁かれたくなければ教えを守りなさい」とかいって恐怖心をあおって献金させ、やめようとした人には「やめると不幸になる」って脅して家まで連れ戻しにいく。「民事不介入」の原則があるから、警察は何かしら事件が起きるまで動こうとはしない。そうやって法律では裁かれないぎりぎりのところで脅かし、徹底的に洗脳して、人生もお金もまるごと全部吸い取るやり口は巧妙といえばそうだったかもしれない。
それでも解散時には運営ももうだめだめで、幹部連中は露骨な拝金主義と性的スキャンダルに走りまくってるのを見るにつけて、一番熱心な信者たちもさすがに見切りをつけて次々と脱会していった。そんな体たらくだったから、団体解体時にはすでに七十億以上の借金を抱えてたし、滋賀、広島、長野に点在する教団施設のほとんどもいつからか金融機関の抵当に入っていた。
「それで唯一残ったのがこの施設」シロは言う。「所有者は教団のスポンサーだった弁護士の山尾嗣治。私、山尾このしろの父親なのね」
シロは、「このしろ」のしろ。
「ってことは、シロも信じてたの?」
「まさか」シロは鼻で笑う。「信じる人の気が知れないって」
「でもじゃあ、シロのお父さんは」
「あの人は、金儲けの匂いがしたから一口乗ったってわけ」
「ははあ」
「拝金主義なんじゃない?」
「ずいぶん投げやりだねえ」
「だってとっくに他人だしねー」
両親は離婚はしてないけど別居していて父親は広島に住んでいる。シロは母親と八童市に住んでいる。「他人」とか言うけど、完全に断絶しちゃってる父親母親とは違ってシロは今も父親とときどき連絡とりあってるらしくて、「友だち感覚だけどね」っていうので、複雑なんだかどうなんだかよくわからない。
そんな具合にシロは変わっててでも優しくて、血と汚物と悪臭にまみれた私に「いいからいいから」とか言って肩を貸してくれる。
シロに支えてもらいながら部屋を出ると長い廊下があってホテルみたいに廊下の左右に私が出てきたのと同じいくつもの扉がついている。私が監禁されていた部屋の正面の扉が開いていてその部屋の壁にかかったハンガーに私が捕まったときに来ていた服があるから着替える。同じ部屋のテーブルの上にはお財布とスマホも置いてある。それをつかんでポケットにねじこんで部屋を出るシロについて廊下を進むと、正面に観音開きの扉があって、シロはそれを足の裏でガン!と蹴っ飛ばすように開けるとやたら眩しい場所に出て、さっきまでいたのはやっぱり地下室でそれが地上に出たらしいとわかる。久し振りの眩しさに目がくらみそうになり一瞬何も見えなくなるけどだんだん目が慣れてきて見えてくるのは、そこが全面ガラス張りの温室みたいな広々としたホールで円形のドーム型。礼拝堂だ。
もとい、奇妙な礼拝堂だ。私たちの出てきた地下への扉は皆さんが祈りを捧げる祈祷所のすぐそばについていて、それがこのホールの一番底部、先に見えるホール入り口に向けて円形のひな壇って感じに段々がある。どこでもドアみたいなどこにも続いてない謎の扉のオブジェがある。それは金色でそこかしこに同じく金ぴかの謎のキリストの御遣いみたいな天使っぽいやつをうろちょろと配置していて謎そのもので、その後ろの壁におまけみたいに、明主・斉藤丹信の写真が飾られてる。謎すぎる。それらに対し無視を決めこんで段差を上がると、シロはホール扉をまた躊躇なく蹴っ飛ばして開ける。その先に、学校の昇降口より三十倍は立派なエントランスがある。
ようやく、建物の外に出た。
すごく長くいたような気持ちがしたけど夏はまだ終わっていない。真昼の炎天はぎらぎらと地上に降り注いで、今は私に力を与えてくれてる。
「シロは、どうしてここに?」
「えー別に。広矛にここの鍵貸したの私だからねー。何企んでるんだろうって思って、見に来ただけだよ」
「非常事態宣言とかいって避難しろっていわれてるのに?」
「命庫の失踪」と「悪意の果実の急成長」を原因として今起きてる騒ぎについては、建物を出るまでのあいだにシロがすっかり教えてくれた。
「何企んでるのかって思ってさ」とシロは言う。「もしかしてエロいことかしら、とかさ。ソドム百二十日」
「うん?」
「知らない? サド。森の城館に美しい少年少女を拉致ってきて、性欲の命ずるままに滅茶苦茶すんの。そういうのには向いてんじゃん、ここってさ。ほら広矛って超絶イケメンだしなんか雰囲気あって口も達者だから、ハーメルンの笛吹きみたく、そういう子たち集めて実現できちゃいそうだし」
私は少なからずげんなりしながら、「いや、仮にそうだったら、どうだっての?」
「そんときは混ざっていきたいよね実際。あたしだって美少年喰いたいっていうか」
この子、マジですごいな。本当に年下か?
同時に、シロの今の物言いに、ちょっと複雑な気持ちも持つ。
「それって」私は言う。「多少嫉妬はいってたりする?」
脱出の開放感で、謙虚な気持ちがなくなっているのかもしれないと思い、言ってしまった直後にもう後悔してる。
でも、
「何言ってんのそんなわけないじゃん」
シロの答えはあっけらかんとしてる。
「あいつ見た目はいいけど軽薄だしさ」
「失礼ですが」おそるおそる訊ねる。
「なあに?」
「汐くんとはどういった関係で?」
「あたし、性欲強いから」ってシロは答える。
「はい?」
「汐広矛はあたしのセフレの一人」
私はその言葉の衝撃に何も言えない。でも今日までの私の監禁生活を見、身体中の生傷と部屋の汚れと悪臭を見てその上で「そういうプレイなん?」って聞いた人だから、まあ、そういうことなんだろう。
そんな感じで頭のネジが割と何本もはずれたシロが、急に何かに気づいたように私を驚きの目で見つめ、「もしかして」って言って、今さら私のそばから飛んでしりぞくから心外だ。
とか思ってたらシロは、
「あんたもしかして、マジだったの?」
私はちょっと気まずくなって、びしびし突き刺してくるシロの視線を避けるように目をそらして、「え、いや、別にそういうわけじゃないけど……」っていうけど、
そんな私を見て、引いてるポーズをとき、シロは陽気に、あはは、って笑った。「あんたさ、ちょっと見る目なくない?」
「そんな笑うことないじゃん」
「いや、ごめん。いや、でも、やっぱねーよ」
あはは。
むう。
振り返ると私がいたのはサーカスのテントみたいな横に長い円錐形の広いドーム型を二つ連ねたようなへんてこな建物で、七光会のかつての財力ぱねーなって思う。駐車場も超広い。かつては信者たちをたくさん積んだ観光バスが何台も止まってたらしい。
今は一台の車もない、土地の無駄づかいみたいな駐車場に、空色のかわいい自転車が、ぽつんとたたずんでいる。
さて。
気を取り直す。
私は、行かねばならない。私の役割を、果たさねばならない。
「シロ、お願いがあるんだけど」
そう言って、シロに自転車レンタルを頼みこむ。二人乗りしようぜってシロは言うけど急がなきゃいけないからって押しきる。さらに頼みこんでスマホまで借りる。私のスマホは当然充電きれてるし、寄り道して充電してるヒマなんてない。代わりに私のスマホをシロに渡す。何から何までごめん、ほんとに感謝してる。ごめんついでに、充電しといてくれ、あとで連絡するからさ。お礼はこの騒ぎが収まったら、すぐにでも、必ず。
よしジビエで手を打とう、ってシロは言う。なんでも大津市の山奥にすっごくおいしいジビエ料理が食べられる人気のお店があってそこに行きたいんだそう。
「んじゃ約束ね?」
「わかった!」
助けてもらったうえに、新しい友だちまでできてしまったって思えて私はうれしい。おお海よりも大きいシロの器!
悪名高い七光会の本部施設は草津市にあって琵琶湖の湖岸道路沿いに建っている。私はシロのロードバイクに乗って湖岸に出る。進むアスファルトの先が、暑さでゆらゆら揺れている。
シロに借りたスマホのおかげで使えるようになったGoogleマップによるとここから望町までの距離は三十一キロ! 自転車で走るには決して生やさしい距離じゃないけど、他に方法はないんだ。根気だ、川島なゆた! フルスピードでぶっとばせ!
すぐに、さっきシロに聞いたばかりの嘘みたいな話が現実の質感を持ち始める。ここは私の知っている世界とは違うんだって理解する。いつもは車のびゅんびゅん行き交う湖岸道路に今は私一人だけ。しかもここだけじゃない、県内ぜんぶがそうなのだ。
しばらくするとすぐに私はへばってしまう。夏の暑さのせいだけじゃない。いつでもぶっ倒れる準備があるよね、って私は思う。もはや残る資本は気力だけね、って思い始めたのと時を同じくして、その異形は姿を現す。異様で、巨大で、既視感のあるもの。それでいて、私の罪深さを実体化したもの。それは、この世で最も醜い姿形をしている。
「あああああー!」
と汐行正が声をあげた。父の腕のなかで汐広矛は気を失って口元からあろうことか泡なぞ吹いており、あーあ、男前が台無しのひどい顔だ。
「お前、お前、お前、お前、それでも人間かー!」
「当たり前だろ」って俺は言う。「お前のガキはどうだかわかんねえけどよ」
「お前は誰だ」
「阿望甘夏、探偵さ」
「見え透いた嘘をつくなよ。広矛のクラスメイトか?」
「そういう顔もあるな」
「何の根拠があって広矛を疑う」
「勘だ」
「勘」
「おうよ」
本当は説明しようと思ったら他にも言えることはあんだけど説明する気はないです。「そんなもので息子を……」なんてぶつくさ呟きながら汐行正は肩をわなわな震わせてるけど俺は構わない。
「しかしどうすっか、こいつのびちまったら、なゆたの居場所を聞けないじゃんか」
そうだかくなる上は、
「バケツある?」
「バケツ? 何に使う気だ?」
「冷や水ぶっかけてたら目ぇ醒ますだろ」
「おい、待て、ふざけるな!」
なんてでかい声を出すけど、過保護な親バカの汐行正はぶっ倒れた汐広矛を放ってはおけないようでやつの身体を抱きかかえたままその場を動かない。なので俺は汐家に入っていこうとするけどそこで
「なんだと」
って声が聞こえて振り返ると汐行正がスマホで誰かと電話している。
「なんてことだ……」
汐行正は何度か相槌を打って極めて手短に電話を切る。
「なんだなんだ。つーか誰よ」
って俺は聞くけど汐行正はだんまりで、あろうことか今の今まで貫いてきた過保護スタイルをあっさり捨てて汐広矛をぽいっとうっちゃって立ち上がる。汐広矛の口元の泡がふわっと舞って本人の頬やらこめかみに付着する。一方でついに子離れを果たして立ち上がった汐行正はでもそのままその場に突っ立ったまま放心状態、よくよく見ると顔面蒼白で脂汗まで浮かべている。
それで長らくシャーロック・ホームズシリーズを愛読してきた俺だけに、ぴんとくる。
「始まんのか?」って俺は聞いた。
未曾有の被害をもたらした、〈福州市一九一七年の災厄〉にかわる、〈八童市二○一七年の災厄〉がだ。
「始まる?」青ざめた顔で汐行正は繰り返し、「終わるんだよ。全部!」
それから五秒でハゲんじゃないかって勢いで頭をがーっとかきむしって、「命庫はどこへ行ったんだ!」って叫んだ。
それで俺は「この男は俺の目的のためにあんまし役に立たなさそうだね?」ってことを理解する。この盛大な乱心っぷりはマジなんだろうし、演技だったとしたら今すぐ役者にでもなった方がいい。なるほどこいつは命庫のこととか歴史のこととか何かと詳しいんだろうけど、リアルな今のことについてはなーんも知らないのだ。
「んで? おっさん、これからどうするつもりよ?」って俺は訊ねる。「つかおっさん、あんたら、どうして亜希さんに頼まんの?」
汐行正はその個人名をわかってないようなので言い直す。
「なゆたの母ちゃんだけど。あの人だって命庫なんだろ」
それで合点がいったのか、ああ、と言うも、「川島亜紀か。彼女はだめだ」。すぐに投げやりな調子でそうつづけた。
「病気だからか? でもそうも言ってらんないだろ」
「〈対策部隊〉の連中も、何度か足を運んだそうだが、家の扉を堅く閉ざして、姿を見せないどころか、最近では返事もろくに返ってこないそうでな」
やっと落ちついてきたらしく、流暢な話しぶりになる。もともとはこんなふうなんだろう。
「玉生の話によれば、川島なゆたの失踪を受けてか、精神的な落ちこみも見られるとのことだ。気に病み、自分を責め、錯乱の傾向もあるようだ」
ふうん、って俺は言う。んで、なんか眉唾だな?って思う。俺の知ってる亜希さんは、そんなヤワなタイプじゃないからだ。
「電話してやろうか?」って俺は言う。
「電話って、誰に」
「だから、亜希さん」
「知っているのか?」汐行正は目を丸くする。
「家族ぐるみのつきあいなんでね」
ちっちゃい頃はよく、なゆたと一緒になって遊んでもらったっけ。うちの家族四人となゆたんち母子とで、キャンプやら遊園地やらに出かけたこともある。そんなときでも、亜希さんとしゃべってても大人と話してる感じはなくて、いつでも同年代の友だちみたいな人だった。そのことがあの人の美点であり、けど同時に欠点でもある。要するになんつーか、あの人は母親ってガラじゃないのだ。
出ないかもなって思ったけど、意外なことに、電話はすぐつながった。
「……夏ちゃん?」
受話器越しに聞こえてくる亜希さんの声はうわずっている。そもことだけですでに俺は、これは亜希さん、ちょっと誤作動起こしてるっぽいね」って感じている。
「亜希さん、今どこにいんの?」
「え、どうして?」
「望町、今大変なことなってんよ」って俺は言う。
あの町に、もう亜希さんはいない体で言う。亜希さんの声のバックはにぎやかで、電車の扉が開くときの音が聞こえてくる。何言ってんのかはっきりわからないけど駅員のアナウンスまで聞こえてくる。
受話器の向こうで声が黙る。
「もしもし、亜希さん?」
かすかに、嗚咽が漏れ聞こえてくる。
「いや、ごめん亜希さん、けどさ、泣いてもどうにもならんし、どういうことなんか説明してほしいんだけど」
「う、う、ぐず、ごめ、えう、ごめん、夏ちゃん」
ちがくて、って俺は思う。その謝罪、俺に向けてのものにして、ほんとにいいのかよ?
「あのさ、や、知ってっかもしんないけど、やばいんよここ、ウロノアナグマ、溢れそうでさ。望町、つーか滋賀。今、マジで。
「うん」って亜希さんは相づちを打つ。
やっぱ、もう亜希さん、滋賀におらんのと違うかな。
「だからつまり、用件、それなんだけど。なゆたは今も見つかんねえし、アナグマ止められる命庫は亜希さんだけなんよ。なあ亜希さん、なゆたもずいぶん心配してたみたいだったけど、体調どうなん?」
でも亜希さんはずっと泣きっぱなしで何も答えてくれなくて、埒が明かない。俺は「亜希さんには気の毒だけど、こりゃ構ってるだけ損かなー」って思い始めるけど、そんな矢先、受話器の向こうで新展開。
「大丈夫、大丈夫だよ」
声、男だ、亜希さんのすぐ近く。
「亜希は何も悪くないよ、きっとうまくいく。今だけだ、身体とこころを休めて、また戻ればいいじゃん。今はなゆたちゃんに任せて……」
聞こえてくる、男の声。
「ざけんな」って俺は言う。けど男の声は遠い。スマホ持ってんのは変わらず亜希さん。ならどうせ届かないよな。
だから俺は怒りを殺す。平たい声で、もしもし、って呼ぶ。返事はないけど、息づかいがかすかに聞こえている。
「あのさ、亜希さん。あんた、ほんとに病気なのか?」
「ごめんなさい」今度ははっきりと聞こえてくる。亜希さん自身の声だ。「夏ちゃんの言う通りだよ」
「……」
「私は、嘘つきだから。ずるくて、臆病な、薄汚いこころの持ちぬしだから。もうこれ以上は耐えきれないと、思いました。なゆたに、押しつけました、命庫の仕事、ごめんなさい」
「戻ってくる気はないってことか?」
「なゆたは、いい子に育ったから……今は隠れてても、きっと大変なことになる前に出てくるから」
「ああ」曖昧に返答した。我ながら渇いた声だった。ちょい、ショックだったのだ。失踪したなゆたのこと、亜希さんは、「なゆたは怯えてどこかに隠れてる」って思ってるんだ。
「それは、自分の気持ちと、なゆたのとを、重ねて考えてるからそう思うんだと思うよ」
「そうかもしれないね。何年も繰り返してきたけど、本当に恐ろしくて、苦しいことだから、悪意の食事は」
「でもさ、間違ってるよ」
「……え?」
「いや、いいや」って俺は言った。
そうだ。この人の辛さや苦しみも、本当なんだろう。
まだ亜希さんがこの町にいたときに説得にかかったっていう連中の言い分も、ちょっとわかった気がする。亜希さんは今余裕なくて、ヘンになってしまってるんだろう。
そんな、ヘンな亜希さんが言う。「私はずるい、こころの薄汚い人間なので」
「そんなことないよ」って一応俺は言う。届かないってことはもう、わかってる。でも言う。「亜希さんは嘘をついたんだし、ずるいかもしれないけど、それはこころが汚いんじゃなくて、弱いからだと思うよ」
「あのまま町にいたら、万が一アナグマが出てきたときには、食べられてしまうって自覚があったの。だから、そうなる前に遠くへ逃げます。ごめんなさい」
「なゆたに謝りなよ」って俺は言う。「そのこと、なゆたには?」
「どこいるのかわからないから」
「あー。だよな」
「メッセージは、しました。でも既読はついてない」
「わかった」
「あの、夏ちゃん」
「ごめん、はもういいよ」
「ごめんなさい」
「今の話、なゆたに宛ててどんなふうにどこまで書いたんか知らんけど、ほんと時間ないからさ。聞かないでおくわ」
聞いても辛いだけだしな。
でも亜希さんは「今夏ちゃんと話したのとほとんど同じことだけど」ってすぐに言う。「もう少し、オブラートに包んではいるけど」
「とにかく既読ついてなくてよかったよ」
「どうして?」
あいつは、母親のことが大好きだからだ。傍目に見ても明らかにマザコン入ってるし、その度合いはちょっと病的だってくらい。小さい頃に親父失くしたことも、大きく起因してるだろう。
「やっぱいい」って俺はまた言う。最悪な使命をまるごとなゆたに押しつけて見捨てて、自分は男と一緒に逃げた。んなこと伝えたら、なゆたは絶望しすぎて自殺するかもしれない。そんな考えが一瞬、頭をよぎったんだけど、言えるわけがないのだ。
最後に亜希さんは俺に、タオにはストックがあるってことを教えてくれる。アナグマが出てきたときには、ささやかだけど役に立つかも。クローゼットのなか。
電話を切った。
汐行正の視線を感じる。ついで、「川島亜紀は、なんと?」
「畜生が!!!!!!!」
怒りにまかせてめちゃくちゃ叫んだ。
「クソが! クソが! クソが! クソが! クソが! クソが!」
俺は大地を蹴る男! 地団駄! 地団駄! 地球よ貴様なんぞ今すぐ真っ二つに割れてしまえボケナスが!
「おい、川島亜紀はなんと言っていたんだ!?」
苛立つおっさんに俺は、
「あの人は男と逃げちまったよどうだ驚いたかざまあみろ!」
意外性抜群の答えに唖然として目玉をぱちくりさせてるお茶目な汐行正とすぐそばの地面でまだのびてるその息子を横目に見ながら、俺はもうなゆたのことで頭がいっぱいになってる。
どこにいるなゆた。ああくそ、どこにいんだよ! とにかくお前がいなけりゃもうどうしようもねえんだ。この町も、お前のことを考えてる俺も。
いいやでもそうだ、一番苦しいのはお前だよな。まっすぐなお前は、この町から逃げ出すことなんて出来ないから、どうしようもなく苦しんで、もうほんと目も当てられんくらいにぼろぼろんなってるにちがいねえんだ。その上さらに亜希さんの言葉を知っちまったらって思うとぞっとする! そんなのは目も当てられねえ最悪だどうにかそんな最悪な展開を回避しねえと! おっしゃかくなるうえは超能力だ! 精神集中、俺はテレパス! なゆたさんなゆたさん、今あなたのこころに語りかけています……。ぬ〜ぐぐぐ、とどけ〜とどけ〜。
なゆた愛してるわだけどわたしのためにこの町と死んでよね私は愛人と逃げますごめんねさようなら。
簡単にいうとそういうことだった。
あんたのスマホ充電して起動したんだけど、んでいろいろたまってたからメールとか見てたんだけど、これは結構重要っぽいっていうか大事な話に思えたから転送するよ〜。
つってシロがシロの持ってる私のスマホから私の持ってるシロのスマホに転送してくれたメッセージが母さんからのもので、それがここまで真夏炎天下の長距離チャリンコ疾走で汗だらだら頭ガンガン悪臭ぷんぷんでそれでも気合いで走り通してきた私のこころをいともたやすくぽきりと折ったのだった。ロードバイクのモバイルホルダーにセットしたスマホに目をやってその文言を読み、私はどうしようもなく動転したし、だからロードバイクが盛大に転倒して思い切り投げ出された拍子に頭を打ったらしく額からは血がだらだら出てるんだけど、仰向けの身体は投げ出されて地面に叩きつけられた直後からもう他人のもののようにぴくりとも動かないし痛みだってないのだった。
今、視界にはただ空だけがあった。ピンク色の空。何度も吹きすぎる風が、周辺に生い茂ったセイタカアワダチソウの群生をざわつかせる。日没が近づいて、どこかでひぐらしが鳴いてる。カナカナカナカナ……。
このまま目を閉じて、眠ってしまいたいって思う。そしてもう、永遠に目覚めたくない。
でもそう思ってすぐに、途端に怖くなる。
少し顔を起きあがらせて、見る。光ってる。私のお腹。
私のなかの、たくさんの命。彼らが切々と、訴えてるみたいに思える。だめだよなゆた、そんなことを考えては。なゆた、いいかい、君の命は、君だけのものじゃないんだ。僕たちをごらんよ。ほらね、ごらんの通り、僕たちは君と一心同体だ。どこまでも君に運命を委ねている。僕たちが死んでも、君は死なないが、君が死ぬなら、僕たちも死ぬ。
この町も一緒だ、って私は思う。町のみんなが死んでも私の生き死にには関係ない。でも私がアナグマを止める役割を投げだしてここで動かなくなったら、そのために人が死ぬ。それも、とてもたくさん死ぬ。
「どうして——」
その言葉は、本当に無意識に、口をついた。
「——私なの」
両肩にたくさんの運命を背負って立つのは、映画のヒーローか、革命家だけでいいじゃんか。それが、なんで私? はっ、笑える。……ふざけんな。
ふつうなんだ。ただ、運悪く、理不尽な星の下に生まれただけで、私は。他の子とおんなじに、テスト前には試験範囲を復習するし、ラクロスだってがんばってる。気になる男の子だって。
「うぐ。えう。えっく。ひっく。ふ、ぶ、ふう、うわああ……」
すがりたい。誰でもいい。お願いだから、私の荷物、少しでいいから。
——テスト出るぞ。
仰向けのまま、スマホを宙にかざしてる。ずっと前に母さんから届いてたメッセージ。残酷な別れの言葉が、逆光を受けて暗さのなかに溶けている。
——腐れ縁だしな。しゃあなしだぜ。
どうして、今。
なんで、あいつなんかのことを?
最悪だ。屈辱的だ。少しでもあの馬鹿を頼るなど。できればなかったことにしてほしい。
メッセージ。ID。
——長いよ。もう忘れたし。
ううん、ちゃんと憶えてる。
打ち込んだ。
汐くんの影響だけどさ。うる星やつらの映画を観た私はちゃんと知ってる。サクラさん。はらたま、きよたま。ったく、やっぱなげーよ。
「とどけ〜とどけ〜」
いやはや、実際のところ脂汗出るくらいマジに強く念じれば、それは本当に届いてしまうものなんですね。
ピピルピルピルピ〜ヒャラ〜〜。
俺のスマホが鳴ったのだった!
「おお、来た!」
偶然とは、にわかには信じられんな。俺、マジでテレパスなん……? ようし映画化の際はタイトル『甘夏ふたたび』でよろしく。バーン!
とかいいながらメッセージを開いて、読む。
「たすけて」
メッセージはそのたった四文字だけだ。
いいぜじゅうぶんだ、よしきた任せろ。わかってる。お前はきっと泣いている。
ひとことでいいのだ。お前が俺に呼びかける、たったひとこと! それさえあれば、俺はお前の義務も世界もまるごとぶっ飛ばして、ずばっと連れだして幸せにしてやる。
行くぜ待ってろなゆた。安心していい、何せ世界は面倒に見えても意外とシンプルなんだ。本当は、大事なものってのはすげーシンプル、それ以外は別に対して重要じゃない。俺は知ってる! いっちゃん大事なもの! オール・ユー・ニード・イズ・ラヴってビートルズも歌ってんだろ! 愛こそすべてなのさ! ウ〜、シェケナベイベ〜♪
〈大中ニュータウン〉の計画が世紀の大失敗に終わったことは、驚くほどのことでもない。町民の立場からすりゃあ、こんな場所に新しく団地なぞ造って本当に人がやってくると思ってる連中は、全員土地勘のない無知ないし無能なんだろうとしか思えなかったし、計画の中心にして望町の新時代を担う未来の象徴として建造された例の高層マンション「ヴォーガコルテ大中」に欠陥工事が露見してそのために計画全体が一気に頓挫したことについていうなら、そのまま中途半端にずるずるだらだらダメ運営がつづいていくよりかはむしろ、いくぶんよかったかもしれないと思えるくらいなのだった。
大中のだだっぴろい平野は言ってみりゃあ無用の海だ。ヴォーガコルテ大中は取り壊しの目処もたたず廃墟として今もたたずみ、開発から見放された周辺地帯は我が物顔でのさばりはじめたセイタカアワダチソウに土地を明けわたしてしまってもう久しい。
そんな大中の見渡しのよすぎる平野のなかを、県道511はまっすぐにのびている。西の湖にほど近い田畑の密集した区画を抜けて、セイタカアワダチソウの群生地に入り、最終的に琵琶湖に突きあたるこの道の中間あたりで俺はなゆたを見つける。
無用の海のなかで、なゆたは座礁している。
俺は俺以上に満身創痍なシャイニング・インパクトを路肩にとめた。
なゆたは夕日でやけどしたみたいなアスファルトの上でうずくまっている。服はきれいだったけど、顔も首も半袖から出た細い腕も黒ずんで傷だらけで、掃除用具庫の雑巾みたいな匂いがした。きっと今まで理不尽な暴力の嵐にさらされてきたんだろう。
顔の上半分を覆う血は、まだ新しい。それはこびりついて、固まっている。おでこのてっぺんから、目の下まで真っ赤で、それは夕日を浴びてなお赤く、不必要な気迫があった。
俺を見あげる目には、明確な憎悪がある。この世を呪っているのだ。
「むかえにきたぜ」
「おそいって」
「すまん」
予定よりも十分ほど余計に時間がかかった。愛機シャイニング・インパクトが前輪後輪まとめて一気にパンクしたからだ。こいつは今日一日で望町から南草津まで行って、んでまた望町までとんぼ返りしてきたんだ。一日でトータルおそらく七十キロ超になる。ママチャリとしてはじゅうぶん及第点だろう。
俺は、どうだ。
それは、ここで試される。
なゆたがうずくまる道の向こうのセイタカアワダチソウのなかに、ロードバイクが落ちている。チェレステカラーのビアンキだ。うおおなゆた、これ買ったのか? かっけ〜。つーか値段、俺のママチャの十倍はするんじゃないの?
憧れのビアンキを抱えてアスファルトに戻した。なゆたのそばに、片膝をついてかがみこんだ。
「亜希さんのことか」そう聞いた。
なゆたは何も答えない。
「俺は、お前がどうしようが構わねえって思ってるからよ。好きなように決めろ」
言っちまってから、ずるい言い方だなってすぐに思い直す。俺は自分のこころに問いかける。どうあっても、なゆたは逃げたりしないだろう。えげつない宿命にどうせ、嫌々でも立ち向かうんだろう。——そんなふうに大人みたく諦観抱いちまってる部分、あるんじゃないの?
その通りだ、って思い、同時にそのことを癪だって感じる。自ら英雄になることを望んで、それをやるならいいさ。でもなゆたのそれは違うのだ。ただただ母親の保護のもとで、選択肢なんざ持とうともせずに、流されてきただけなのだこいつは。
だから、その流れに抗うことにした。
「逃げようぜ」って俺は言う。「なゆた。俺が連れ出してやる。この町ほっぽって、大脱出だ。誰がなんといおうがな、お前の力を、どんだけの人間が必要としていようが、知るかって。仮に、そこにどんな高潔な目的があろうが、人一人の運命が、そのために犠牲になっていいわけ、ねえんだからよ」
で、腕を差しだした。
したらばなゆたは俺を叩く。二の腕を一発、ガツン!
よし、これでバランスは正しいって俺は思う。自分に厳しいお前だから、提案は甘すぎるくらいがちょうどいいのだ。
「こんな町、捨てちまえよ。お前がこんなずたぼろのゴミカスみたいになってんのに誰も助けにも来ない、んで逆に望むのは自分たちの救済。ふざけんな、だろ?」
叩く。叩く。この細っちい、傷だらけの身体のどこにんなパワーが残ってんだ?ってくらいの力で俺を叩く。日に焼けた腕がひりつく。肩にも一発。胸に一発、二発。
「っああ? っなんだ? くちで、言えよっ! いいぜ、お前の望み、俺が叶えて——ってああくそ畜生いてぇな、おま、ものには限度ってもんがボケコラァ!」
「叩く」ってか途中で「殴る」に転じている。暴力反対! 強く握りこんだなゆたの拳が俺を激しく打つ。いえいえ最新のトレンドはこちらになります——足、解禁。キック! 「うがっ!?」 キック、キック!
「いた、いたたたた! 痛いってマジで! ごほぉ!?」
パンチ! キック! パンチ! キック! キック!
「くそう痛ぇ! いや! でも! 今は殴れ! 腹がだつだろが! 俺にぶつけていい! ご!? やれ! ぶほっ! もっとやれしこたま殴れ! 怒れなゆた! ぐぶ! 怒れ!」
いまさらそんなこと言われなくてもって感じだ。強い風が吹いている。ここら一帯のセイタカアワダチソウたちがいっせいに、ざわざわとざわめき、突風にかしいでいる。それはそれは、壮観だった。この世のすべてが、怒りを爆発させるなゆたの前に、ひれ伏しているように見えた。なゆたの怒りが、ちゃんと届いているんだって、そう思えた。
なゆたよう。正直俺は、お前の母ちゃんにはガキの頃から世話んなってるし、もう少しまともなときなら、こんなこと絶対言いたくねえし言わねえけどさ。
「ざっけんな!」
って俺は怒鳴った。
「っっざっけんな!」
となゆたも叫んだ。
「畜生が!」
って俺は怒鳴った。
「っっくしょうが!」
となゆたも叫んだ。
「このクソババァの! うんこ喰いが!」
って俺は怒鳴った。
「このクソババァの、……ババァ!」
「うおおおおおおおなゆたをこんな悲しませやがって畜生許さんぞ、死んでまえ!!!!!!」
俺となゆたのたぎる思いがセイタカソウの原野を駆け抜けた。
「うぐ、ぬふ、ぶふぅ! ぐぅ〜! し、し、死、」
なゆたはもう、涙でぐちゃぐちゃだ。
「うわぁ〜! あほ〜! クソババア死ね〜! ぶふ、ぐず、ぶふぇえ、うぐふぅ! 甘夏! 私! この町、守りたい!」
「うん知ってた! 安心しろ俺も同じこころでいっから!」
3
高機動車がやたらに集まって待機してるところは、悪意の樹が地面ぶち抜いて生えてきた川島家の庭からも、川島家のある望町蘇野地区の全体から見ても、ずいぶん遠い。聞けばそれは根っこが車輌の進行を阻んでるためで、「百聞は一見にうんちゃら」って言葉は本当なのだ。
悪意の樹は、空へと伸びるだけじゃない。足の裏に、蠢く感触がある。右斜め前方でアスファルトが弾け、細かい石つぶてになって水しぶきみたく跳ねた。無数の根が、削岩機よろしく地中を堀り堀り進んでいるんだ。すでに蘇野地区を制圧した放射状の根は、これからさらに望町全域へと広がっていくんだろう。映画なんかでたまに見る、黄色と黒のしましまの例の「KEEP OUT」のテープを握った隊員たちが、ちょっとずつ後ろに下がってくのが、恐ろしくも滑稽だった。
そんなあからさまな危機状況のさなかに、失踪していた命庫が——待ちわびていた災厄からの解放者が満を持して現れたんだから現場が沸かないはずはない。
「川島なゆた、本当に?」
「命庫だ」
「命庫!」
「病気で死にかけてたんじゃないのか」
「馬鹿、そりゃ母親の方で……」
「か、かわいい……」
「これで助かった!」とか言ってうかれてるやつがいる反面、一方で怒りだすやつもいる。不満抱えた連中のリーダー格みたいな男は坂上忍にちょっと似てる。そいつはこっちにずんずん突き進んできて、憎悪のこもった目でなゆたを睨み、肩をつかんで「くるっ!」となゆたの身体の向きをむりやり変えて、「見ろ!」って言う。
んで俺もなゆたも、見る。悪意の樹。シュールな夢から抜け出してきたみたいな、グロテスクな生きた塔。
「お前たちが……お前たち親子が、自分たちの役割放棄したからだよ、その結果がこれだ、よく目に焼きつけろよ! 自分のやったことがわかってんか、ええ!?」
はいはい、ひっこんでね。俺はタックル!
坂上忍似はご大層なことに迷彩服の上にすでに防弾チョッキまで身につけてるからズガーン!って突っ込んだときに重くて堅い手応えがあって「あらら、これじゃきかねえかな」ってすぐ思うけど、坂上忍は一応、びっくりはしてる。
なので俺は切り替える。ここからは大人の態度! 「つーか、なゆたをいじめんなよ」ってクールに言う。「あんた、いい大人なのに理不尽だってわかんねえ? 今ここで宿命負ってんのが、もしかすっとあんたでもおかしかねえんだぜ?」
宿命は宿命であってそれは貧乏くじとは違うのだ、って俺は思う。そのことを証明するためにここに来たんだ。
「自分の幸運を喜べよ、おっさん」
「確かに君の言うことの方が正しい」
「ああ?」
最初の態度に比べていきなり従順すぎだろ坂上忍!って思うけど、案の定今しゃべったのは坂上忍じゃなくて新たにここに現れた優男だ。
優男は坂上忍のみぞおちにいきなり一発。
坂上忍撃沈。
優男はそいつに言う。「猛省して切り替えるか、さもなきゃ中学あたりからやり直せ」
優男にうながされた坂上忍がなゆたに謝罪すると、優男はそいつにはもう目もくれず、なゆたに向き合った。
「無事だったみたいんだね。いや——」なゆたのぼろぼろのなりを見てづける。「そうでもないのかな」
ちょっと訝りながらも語調にねぎらいのニュアンスが感じられて、それでなゆたの知り合いなんだってわかる。
「私は大丈夫です」ってなゆたは答える。「玉生さん、アナグマは」
「まだ、底にいる」って玉生が答える。「だけどもういつ出てきてもおかしくないな」
「止めます」なゆたは言った。
「彼は?」玉生は俺を見て言う。
「さあ、わかりません」となゆた。そんで首をかしげてるけどなゆた特有のキュートなジョークなので俺はぜんぜん気にしない。おし、自己紹介だな。
「阿望甘夏。探偵さ」
「阿望くんか。川島さんを手伝ってくれるの?」
ふむ、キレのいいスルースキルをお持ちのようで。さっきのメリハリの効いた対応しかり、なかなか有能な男と見た。
「入っても?」って俺は玉生に聞く。
KEEP OUT のテープの向こうは一般人立ち入り禁止区域だ。
「信用できる?」と玉生。これも俺はスルーでなゆたに。
さすがになゆたももういじわるは言わない。「よく知ってる。命庫のこと。彼に手伝ってもらう」
「わかった」と玉生は言った。
俺はにん、って笑う。俺は単純だからな、なゆたの言葉が素直にうれしくて、もりもりパワーがわいてくる。
「うちの家は、まだ残ってますか?」ってなゆたは聞く。「それとも、飲みこまれた?」
大樹になった悪いこころに。
これには、玉生はわからないと首を横に振った。
「了解。行って確かめます」
「すまない」
「どうして自宅に戻る必要があんのか」とか、その事情を了承してか知らずか、わからないけど玉生は今ここでそれを訊ねようとはしない。話しても話さなくてもやることは決まっていて、そしてとにかく時間はない——そのことを完全にわかっているのだ。俺が玉生と同じ立場ならこうはいかない、気になっちゃって仕方ないだろうし。やっぱ、なかなかに優秀な人なんだろうね。
俺たちは玉生にエスコートされてキープアウトのテープをくぐった。玉生は別れ際に姿勢を正して敬礼して言う。「命庫とその協力者の健闘を祈る!」
なゆたはお辞儀をして、俺は敬礼を返した。ビシッとね!
立ち入り禁止区域内の悪意の根が敷きつまってぼこぼこに変容した地面を踏む。ぐにん。びっしり地面を覆い隠した樹の根は荒れ狂う海みたいだ。一線、踏み越える前から見えてはいたが、実際に足を踏みいれると、ダリの絵画みたいな異常な世界に、迷いこんじまった感覚がある。あるいは、災害によって終わってしまった世界ってふうにも思えた。全方位に広かった幾本もの枝々は、全体のシルエットとしては球体みたく見え、なかにえげつないルックスのエイリアンか何かを孕んだ謎の繭って感じがする。『もちもちの木』って、昔あったろ? 小学校の国語の教科書にさ。今じゃ「きれいな話だよね」って素直に思うんだけどあれを最初に読んだ当時は怖さと不気味さの印象を俺はあの本に出てくる樹に対して感じていて、なんていうか今、そのときの印象が蘇ってきてんなって感じる。
悪意の樹の根が張ってんのは地面だけじゃない。剥きだしのそれらは遭難した船を飲みこむ大波よろしく、この立ち入り禁止区域内部に残された建物や、車なんかの乗り物にまでその触手を伸ばしはじめている。
でもまあよ。大丈夫だ、そばについてるかんな。左様、燃えるハートがあれば万事オーケー! そういう熱い思いで俺はなゆたの手を握ろうとしたけどなゆたはそんな俺の手をバチン! したたかにはじいて
「気安くさわんな!」
うむ、いつものなゆたが戻ってきたぞ、いいね!
ここら一帯の電線が広がる枝に絡まってもつれている。そんな電線のいくつかは途中でぷちっと切れて、悪意の樹の枝からぶらさがっている。憐れでキモい。
馬鹿でかい幹が目前に迫った。予想をはるかに通り越して大きい。近づいたからってんで、遠近法でそう見えるって問題じゃない。
「しなば」
「ころころころころ……」
「ペニス」
「飲みたい血」
あ。
……目が合いました。
「アハハハハハ!」目が合った悪意の果実が嗤う。
「……」俺は思わず黙りこんだ。
「笑われてやんの」ってなゆたが言う。
「うるせー」
よしわかった、貴様らは俺にとってぶっ倒すべき敵ってことね、改めて認定。泣いて謝ってもぜってー許してやんねえからな!
けどすぐにイラついてる場合じゃないってことがわかる。
「おい、見ろよなゆた」
みるみるうちに例の果実はさらに高くへ上昇して見えなくなってしまう。
「成長してるんだ」なゆたは呟く。「すごい速さで」
今この瞬間にもすくすく、気味が悪いくらいのスピードで。NHKか何かで、植物の成長を早まわしで見せる映像を見たことがあったけど、そんな、映像のなかの出来事みたく。
悪意の樹を背にして建ってる一戸建ての家に俺たちは辿りつく。なゆたんち。健やかな成長をつづける悪意の樹は背中から川島家を抉り、飲みこみ始めている。もうすでに、建坪の三分の一くらいがヤツに持ってかれている。
今もめきめきと家屋の軋む音が聞こえ、いつ倒壊してもおかしくないって感じで危険なにおいがプンプンする。でもそれならなおさら、足踏みなんてしていられないのだ。堂々と玄関から侵入する。
「お邪魔します」俺は言う。
「邪魔すんなら死なす」なゆたが言う。
ガキの頃はしょっちゅう遊びに来てたけどここんところはとんと来てなかったもんで、懐かしい。あんまし変わってないかな? 変わったのは俺たちが土足で上がりこんでるってことと、天上が半分以上そげ落ちて、日没寸前の夕日の赤黒い光がさしこんでる抜き差しならない状況くらいですかね、はい。
とはいえなゆたにとっちゃ長年住んできた、勝手知ったる屋内だ。なゆたは廊下をすいすいすい〜っと進んでいく。すぐさま目的のウォークインクローゼットに到着! この部屋自体も部屋んなかに収められたものたちも今のところは幸い無傷で原型を留めてる。例の宝石箱は入って左手のクリーム色のドレッサーの上におもむろに置いてある。ちょっとセキュリティ的にどうなのよ?って思わないでもないけど、でもまあよくよく考えたらこれを盗んだところで利用価値なんてないんだよな。
「甘夏、頼んだ」
「よしきた」
ルイ・ヴィトンのジュエリーボックス。例のどこでも見かける焦げ茶色のモノグラム。なゆたの趣味じゃないから、亜希さんの私物だろう。蓋を開けてなかをあらためる。箱いっぱいに半透明の飴色の石が詰めこまれている。石ん中には色んな生きものが封じこめられていてどれも中身が違う。シマリス、ルリビタキ、ツノガエル、ヘラクレスオオカブトムシ、タツノオトシゴ、リンゴマイマイ。てっぺんについた取っ手をつかんで持ち出す。ずしっと重い。
俺がそうしてるあいだになゆたはウォールナットの四段チェストの底の隙間に手をつっこんで、銀色のアルミ製のハードケースを引っ張り出す。二か所ある留め具をぱんぱんっと軽快にはずすとなかから物騒なものが出てくるもんだから俺は驚く。
思わず言う。「鉈!」
「果実をこいつで、もいでくの」
「けっこうアナログなのね」
「何よ文句あんの?」
「いやいや。命庫ってのは、戦士なんだな」
「まあね」
渋いね。
なゆたは鉈を手にとり、裸のまま持ち出す。
それで装備は整った。っていうか、これ以上に準備できるもんは、俺たちにはないのだ。なゆたは戦士。んで「アナグマが出てきた際はやつらに向けてタオを投げつける要員」こと俺は、さしずめ花咲かじいさんってとこだな!
玄関から入ったが今度は裏口から出る。そうするともう、目と鼻の先に悪意の樹のぶっとい幹がど迫力でバーン!と現れる。幹の周囲ではことさら太い根っこどもがことさらうず高く重なりとぐろを巻いていて、人体模型の脳みそみたいだ。そんな根っこ脳の隙間のいたるところから、これまで地下に隠蔽されてきた、噂の暗渠が覗いていた。
幹の周囲には迷彩服を着こんだ自衛隊〈地下生物対策部隊〉の面々が集結している。どいつもこいつも鉄砲やらそれよか大きいなんかヘンな筒やらで物騒に武装している。だから別な格好をしてるやつは否応なく目立つのだ。
そいつは一人だけ長いカーディガンを羽織っている。ぼさぼさの長髪をひっかきまわしてヒステリックに叫んでいる。
「ああもう、まずいまずいもうおしまいだ! まさに〈福州市〉の再現! 何もかもあのときと同じ!」
そのヒス男——汐行正がこっちに気づく。俺の隣にいるなゆたを見て驚きに顔を強ばらせる。それから自分の隣にいる男に向かってぼそぼそ何か言っている。その相手、迷彩服、角刈り頭、無精髭の強面の男を伴って、俺らんところへやってくる。
最初に口を開いたのは角刈りだった。「遅かったな」とその男の方が言った。表情や手振りだけでなく、口調も落ち着いていた。汐行正とは違うらしい。
「避難させて、荒町さん」なゆたは言った。「全員、この場から。アナグマが出てきたときに余計な犠牲者を出すわけにはいかない」
「川島なゆた。まもなく起こるだろう災害を止めに、来たんじゃないのか」
相変わらずの平静な口調だけど、なゆたに対する挑発と、おまけにかすかな侮蔑のニュアンスもはいってる。
「善処するけど、間に合うかどうかはわからない」なゆたもその程度で熱くなったりしない。首を横に振って言う。「それに、どうせあなたたちは役に立たない。銃も爆弾も火炎放射器も、ウロノアナグマには通用しないって、そこにいる人も言っていたはず」
そう言ってなゆたは汐行正を見た。汐行正は気まずそうにうつむくだけ。相変わらず、気の小さい野郎。
なゆたが荒町とかいう男としゃべってるあいだに俺は汐行正に小声で話しかける。「おい」。
「なんだ」
こんなとこで、会いたくないやつに会っちまったな〜って気持ちがビリビリ伝わってくる。
俺だってお前なんざと話したくねーよ本来は、って思いながら、聞く。「あいつはどうした」
「あいつ?」
察しろよ、って思いで俺は「え〜わかんないかな〜?」って言いながら汐行正の足を踏んづけた。
汐広矛による監禁と暴行のことは、なゆた本人の口からとっくに聞いていた。しゃべりながらなゆたはずっと震えていて、そのことに自分では気づいてないみたいだった。——そういうわけだから、俺はなゆたの前であいつの名前を出すことで意味もなく動揺させたりしたくないのだ。
「なあおい、あんたにはきっちり話したろ?」
一連のなゆたの告白はもう電話で汐行正に伝えてある。守山で俺がやむなく放りだしてきた汐広矛の身柄拘束って重大責務が、こいつにはあるからだ。
「『あいつ』なら」ってようやく察した教授先生が言う。「車のなかにいる」
「ああ?」
俺は耳を疑う。またこいつは、ここに至ってまだあいつを自由にさせてんのかよ、って思って睨みつけてやると汐行正は手振りで「待て」とやり、「最後まで聞け!」って言うから、聞く。
ほいで聞いたところによりますと、汐広矛は部隊の装甲車車内で拘禁中。自衛隊員二名がその場についているとのこと。さすがの過保護親父も、被害者本人の陳述を聞いたからには我が子をサイコパス認定するっきゃなかったようだな。よし。
それで汐行正との話が一段落ついたタイミングで、「もう一度言います」ってなゆたの声が聞こえてくる。「ここにいる全員、至急、避難を」
「我々はここを動くわけにはいかない」
荒町は頑なな態度を崩さない。
「ウロノアナグマが現れてしまった場合、我々にはこれを迎撃する準備がある。仮に我々の兵器群がやつらに一切通用しないとしても、我々がここで抗戦をつづけるあいだは、やつらも広域へ出ていくことはできないはずだ。少なくとも最悪の事態は防ぐことができる。つまりは意義があるということだ」
「そんなの、でも、時間の問題じゃない。無謀だとわかってるはず。どうして——」
「それが職務だからだ」なゆたの言葉をさえぎるように荒町は言った。「この一帯には、特に望町には老人も多くてな。なかには脱出が遅れ今ももとの場所に留まりつづけている者もいる。彼らを置いて避難することはできない」
それで俺は決める。よし。
「おう荒町さん、あんたを男と見こんだぜ!」
荒町がはじめて俺の方を見る。その目は明らかに残念なものを見るときの目なんだけど俺は気にせずヴィトンのボックスを地面にがしゃん!と置き、「デデデデ〜」っと効果音をつけながらふたを開けて言う。
「え〜い持ってけ泥棒、今日という今日は大盤振る舞いだ畜生め!」それからすぐにつけたす。「ああ、全部持ってくなよ半分くらいは残しといてね」
何せこれから俺たちは悪意の樹を登るんだ。もし仮に間に合わずアナグマが俺たちんところまでやってきたときには、ちゃんとなゆたを守れるようにしておきたい。
そのことを荒町に伝えると、荒町は何を思ったのか、俺を見てくっくと笑いだす。
「お前は、命庫の用心棒なのか?」って言う。まだ口元がにやついている。
でも俺はぜんぜん気にならない。「笑いたきゃ笑えよ」って答えて、肯定を示す。
すると荒町は顔をうつむけてよりいっそう楽しそうにくつくつ笑いだすので、いや気にしないっつったけど、ものには限度ってもんがあるよね、そろそろやっとくか、オオ?
でも次の瞬間荒町は自分のほっぺたをぱん!って空気が震えるほどの音を立ててひっぱたき、それから顔をあげたときには口元のほころびは完全に消えてど真剣な顔つきになっている。
荒町が言う。「名前はなんという?」
「阿望甘夏。探偵さ」
「覚えておこう」
こいつも探偵はスルーだ。逆にあれだ、俺はもしかすると探偵なのかもしれない。
「阿望、君が君以外の誰かを守りたいとこころから思いそれを実行に移す者ならば、我々が志を同じくする同志だ。健闘を祈っている」
「そいつはどうも」
「命庫を頼んだ」
「命庫だからじゃねーよ。それに、あんたに頼まれんでもカンペキに守りきってやるよ」
荒町はおもむろに俺に近づき、「なんだよ寄んじゃねーよ気持ちわりーな」って俺が言うよか先に、
「わかってると思うが、非常事態だ」
俺の手に、何かを握りこませる。
「悪意に立ち向かえ、探偵。地上から見届けてやろう」
「けっ。余計なお世話だ!」そう言いながら俺は、荒町がひそかに手渡してきた拳銃をジーパンのケツんところに隠す。
登攀の一番最初に立ちふさがんのは根っこの海でこれが放射状に伸びた町んなかのそれみたく地面にへばりついてるのではなく、中心の樹に向けて角度をつけてるから、これを登るのは例えるなら滑り台を逆走するような感じで大したことない。
それから三、四メートルは枝のない幹だけの円柱エリアがあって、ここは野生の猿みたいな甘夏が一気によじ登って、一番近くの枝にロープをくくりつけて下ろしてくれるから、私がロープに掴まれば、あとは甘夏が引っぱりあげてくれる。
そうすればあとはもう樹のてっぺんまでずっと、中心の幹から大きくて丈夫で私たちが乗っかってもびくともしないたくましい枝が無数にのびているから、これを伝ってひたすら上を目指せばいい。
……って、口では簡単に言えるけどさ。
世界で一番高い樹はアメリカはカリフォルニアのなんとかって国立公園にある。「ハイペリオン」ってやたらかっこいい名前で呼ばれてるその樹は高さ百十五メートルもあるらしい。前にネットでその樹の記事を読んだことがあるんだけど——
——どっちが高いんかな? って、わからないくらいには高いし、しかもまだ今も目に見える速さで成長をつづける、悪意の樹。
この「今も成長」ってところが想像以上に難儀でうざい。そのために私たちの行程は、文字通り逃げ水を追うようなものになってしまう。悪意の果実は、やっと近づいてきたと思ったら、樹が背を伸ばすと同時にまた逃げていってしまうのだ。
甘夏は〈対策部隊〉の人から支給された弾帯を腰に巻いてそこに戦闘弾いれのポーチを四つぶらさげて弾の代わりにタオを詰めている。右の太腿にも上下二個のバンドで細長くて平たい鞄をひっかけていて、私の鉈はそこに入っている。だから私も甘夏も両手が自由だ。どういうわけだかやたら甘夏のことを気に入ったらしい荒町の計らいだった。
そういう準備が、功を奏した。
私たちは逃げる果実との差を少しずつ詰めはじめる。久々の木登りに慣れてきたってのもあるだろう。
樹の成長速度を上回る速さで登攀をつづけていると、いよいよ聞こえてくる。盛大に歓迎される。この町の悪いこころのすべてを持った、果実たちの囁き。
「見捨てられたお前」
はじまった、って私は思う。
「ない。モラトリアムはもうない。不自由なあなた」
私は耳を塞ぐ。
「気にすんなよ?」甘夏が言う。「耳、やめとけ。ちゃんと手使わねえと危ねえぞ」
「無駄なの」果実が言う。「全部の努力が。あなたは動けない。今も壁に囲まれている右も左も前も後ろも天井も地面もみんなみんなみんな」
逃げ水みたいに後退し、上昇しながら、安全な位置から私をなじる。それは残酷な天上の声のようだ。甘夏に言われるまでもなくて、耳を塞いでも意味がない。こころの隙間から入りこんでくるようで、防ぎようがない。
「きっとちゃんと、すぐに治すから」
「っ!」
どきりとした。それはいつかの母さんの言葉だ。悪意の果実は模倣する。よりによって、声色まで。
「なゆた、聞くな!」甘夏がもう一度言う。そうして眠った人を起こすみたいに、私の背中を揺する。
「でも——」自分の声が震えてるのがわかる。動転してる。落ち着け。もう、じゅうぶん苦しんだだろう。泣いただろう。怒りにまかせて叫んだじゃないか——
「可哀想だね」
——それでも。
また、ぶりかえす。私のなかで、あれがリフレインする。
「本当に可哀想だね。でも今だけだからね」
「裏切り者の命庫」
「裏切られた命庫」
「嘘つき……」私は呟いた。「嘘つきだ、母さんは」
そしてだんだん狂っていく。彼らの声が、こころを埋めつくして、私のぜんぶになってしまう。
「私たち、ちゃんと幸せになれるからね」
「つらいよね。一人で背負わせてしまって」
「ごめんね」
「ごめんね」
「ごめんね」
「ごめんね」
「ごめんね」
「ぜんぶ、大嘘だよ」
「そんなこと……」
「なゆた、気を強く持て!」
甘夏の声。けど、すごく遠い。たった今まで、そばにいたはずなのに。
「欺瞞だ。偽善だ。とびきり薄っぺらな嘘の言葉だ!」
「そんなこと、ない」私は抗う。でも。
私は一方で、疑っている。——本当にそう、言い切れる?
私の疑念を、彼らが代弁する。
「そんなことある」
「そんなことある」
「そんなことあるな」
「そんなことあるよ」
「その証拠にあの命庫は逃げだした」
「一人で楽になった」
「若者に押しつけてババアの癖して」
「これからずっと死ぬまで悪意を食べつづける。過酷な拷問」
「全部押しつけて逃げた」
「娘を放りこんだまま」
「地獄の釜に蓋をした」
「それがお前の母さん」
「母さん」
「だいすきな母さん」
——断言するけど、お前はもうどこにも行けないから。
心の弱さに、悪意はつけこむ。
「たぶんさ、君の母親は——」
そしてその言葉を発したのは、悪意の果実じゃないのだ。
「——君のこと、たいして好きじゃなかったんだと思うな」
耐えられない。くずおれかけたのを、甘夏が肩をつかんで支えてくれる。遠いと思ったのに、すぐ近くにいる。この場合何が、狂ってるんだろう?
甘夏が言う。「てめぇ、どうやって」
数メートル下の痩せた枝上に、汐くんがいた。
目が合った瞬間、彼はにっこり笑った。釣られたみたいに、樹上の果実たちも盛大に噴きだした。
それが、始まりの合図になった。
「出現を確認」
通告の声は、はるか下方から聞こえた。スピーカーで拡張された声たちが、次々地上から届く。警戒を呼びかける声。指示を仰ぐ声。一番最初は統率のとれていたそれらの声が、けれどもすぐに、感情の巨大な渦に変わってく。怒号。悲鳴。錯乱。あきらめ。絶望的な絶叫。
ウロノアナグマが、地上に出た。
「始まっちまったな」甘夏が私の背中を叩く。「でもはじまりは終わりじゃねえぜ?」
無理して虚勢張って、私を元気づけようとしてくれているんだ。
うれしいって、素直に思う。それでも——
「ごめん、私、でも甘夏、やっぱもう」
——それでも身体は動かないのだ。
一人では。母さんが、今まではいつも、私の前を歩いてくれてたんだ。
でももう、いない。ならもう、歩けない。
汐くんの姿がだんだん大きくなる。
そして彼よりずっと下方から、私は、私たちとはまったく別の、異質な存在が這い上ってくるのを見た。
ウロノアナグマ。
それは私の目にはまるで、それぞれが個体を持って独立して動いているようには見えない。幹に向けて集まる根を、太くたくましい裸の幹を、隙間なく取り囲み、わらわらと這い上ってくる様子は、まっさらな白いシャツに汚れが滲んで、広がっていくのによく似ている。
だから、現実感がぜんぜんなかった。これでもうおしまいだなんて、そんな実感、ちっとも湧いてこなかった。
……幕切れはあっさりってことね。なるべく、痛くなければ、いいのだけど。
——バチン!
頭のなかでそんな音が鳴って、視界が揺れた。
そして景色が鮮明になる。まだ訪れたばかりの新鮮な夕闇の内側。蜘蛛の巣みたいなまっくろの枝々が牛耳る場所。私は悪意の樹の樹上にいる。
ほっぺたをおさえた。じんじんして、ほのかに熱い。ひっぱたかれたのだ。
「川島なゆた」ビンタ一発で私をこの場に引き戻した男が言う。「お前、がんばれよ」
「無茶言うな死ね」って私は言う。「殴ったな。あんたに私の気持ちがわかんのか」
「拗ねてんじゃねえ!」って甘夏は怒鳴る。「行くぞオラ! その足は飾りか? おうおうそうかよ、なら仕方ねえ! お飾りの足じゃどこへも行けねえな! なら俺が——」
「ちょ、甘な——」
ただでさえ枝の上で不安定な身体が、つかのま、ふわっと浮遊感を得て、宙づりになった。
「——こうして担いでも、文句はねえな? あとでセクハラだとか喚いても知らねえかんな、がっはっは!」
甘夏は子どもむけのテレビのヒーローか何かがバサッとマントひるがえすみたいに私の身体をぶんまわして自分の背中にまわした。あまりのことに私は咄嗟に甘夏にしがみついて、それで即座におんぶスタイル完成だ。なんてことだ。むちゃくちゃだこいつ!
「さあて本気だすぜ」
そう言って甘夏はさらにペースをあげて木登りを再開。
直後、
「目を醒ませ」
って声。それを言ったのは甘夏じゃなく、甘夏が絶賛ハイペースで引き離してってる汐くんで、私はまたドキッとして身体がビクッとなる。その「ビクッ!」が甘夏にも伝わっただろうかって点に一抹の憂鬱さを見出してる私に向かって、汐くんはさらに呼びかける。
「もう無理だよ、川島さん。あきらめた方がいい」
その声はこれまでと寸分たがわず平静で、同時に、魔的な引力を持っている。
「君のせいで、ウロノアナグマは百年ぶりに地上に出た。君は災厄を招いた元凶だ。業の深い罪人だ。だからあきらめるんだ。これでまだ生きていようだなんて、おこがましい」
「……いやだ」
断ったんじゃない。聞きたくないのだ。
「おう、汐広矛! どうせ親バカの汐行正が情状酌量の余地ありとかっつって解放したんだろ!?」
がむしゃらに枝から枝へと飛び移り、ぜえぜえ言いながら甘夏が叫ぶ。
「そんでお前はまた俺にぶん殴られにきたってわけだ! あれじゃ足りなかったと見えるな。ちょっと待ってろ今お前に構ってるヒマはねえが、こっちの仕事が滞りなく終わったらきっちりケジメつけさせてやっからよ!」
「ここまではおおむね計画通りだよ、川島さん」甘夏を無視して汐くんは言う。「予想のつかないイレギュラーな馬鹿がいた、ってことを除いては、だけど」
「誰が馬鹿だ! 馬鹿って言ったやつが馬鹿だってこと、汐行正に習わなかったのかオオ!?」
って甘夏がすごむけど汐くんはこれも無視で、でもそれはまあそうだろう幼稚すぎる。
「川島さん、君はここで死ぬんだ」
「誰が決めた」甘夏が言う。
「決まってるだろ阿望、ウロノアナグマだよ。彼らこそが審判者で、同時に死刑執行者だ。見えるだろ、這い上ってくるのが。あの真っ黒な獣の群れが。連中がこの樹を登るのはなんでだと思う?」
「お前、馬鹿じゃねえのか」って甘夏が言う。「お前だよ。こんなかで、喰われんのは、どう考えたってさ」
「違うんだ」って私は言う。
「ああ?」
知らないのだ。甘夏は。ううん、きっと私以外の誰も。あの日、ウロノアナグマが汐広矛を赦したことを。
このなかで、アナグマに食べられるとすれば。——私は考える。ううん、深く考えなくたってすぐわかる。
「この世を呪う君が、食べられないはずがない」汐くんが、私のこころを見透かしたように言った。
そうなんだろうって私も思う。
「宿命に従うんだ。死んで、神様になるんだよ川島さん。世の中のために、君はそうなるべきだ。二人の命庫。一方は死に、もう一人は逃げ出して、この町に命庫は不在になる。そして——アナグマが持ちこんだ新しい規律が機能しはじめる。きっと素晴らしい世界になる。清らかな精神に満ちあふれた場所。美しいこころの持ち主だけが住むユートピア」
けっ、と甘夏が即座に吐き捨てる。「お前、頭いいのかどうか知らねえけど、馬鹿だな。こころのなかぜんぶまるごと、すみずみまでまっしろな人間なんているもんかよ。もしいるとすりゃあそりゃ白痴だけだろうよ!」
「穏やかじゃないな阿望。良識ある人たちが卒倒しそうな言い分だ」
「馬鹿が。俺は真に清らかな魂の話をしてんだぜ? ようなゆた、気にすんな。あいつの言葉に耳をかたむけんじゃねえ」
だけど私は泣いてる。
止まらない。悔しい。でも「汐くんの言うことが本当かも」って思い始めてる。
私、いない方がいいのかもしれない。そうすれば正しい世界がやってくるのかもしれない。冷静な判断を、私たぶん、できてない。もうわからない。汐くんの前じゃもう、ほんの少しも、まともではいられないのだ。あの恐ろしい数日のうちに、私のこころと身体はもうそういうふうに改造されてしまったのだ。
「もう厭、ほんと無理。辛い死にたい。甘夏、おろして!」
私は甘夏の背中を思いきり押した。あんまり勢いつけすぎると、投げ出されて地上に落っこちてつぶれたトマトみたくなっちゃうかもだよね、って片一方で思いながら、それでも躊躇しない。
「離せ!」
って言いながら、今日二度目の、甘夏に向けての、パンチ、キック。
だけど甘夏は枝上で仁王立ちして身体の右側を幹にもたせかけて「うぬぐぐぐぐ……!」とか言いながら、気づいたらその横顔が真っ赤で漫画のキャラみたいな青筋まで立っている。それでも甘夏は、
「うぬ、ぬ、ぬおおおおお断る!」
そう言った。
愕然とする。こいつほんとに、まったく私の思い通りにならない。
私が殴るのをやめると、甘夏はもがきまくったせいでずれたメガネみたくなってる私の身体をもういっかい、おしょ、つって背負い直す。今度はタオを詰めた弾納つきの弾帯をわざわざ一度取り外して、それを私の背中にまわしてぐるっと一周させて、自分と私の身体をかっちり固定する。
直後にジャンプ! 真上の枝に飛びつき、幹に足をかけてよじ登る。そうして、登攀再開。
「どうして……?」
自分の声がうわずってる。それで、ああ、私まだ泣いてんのか、って気づく。
「『がんばれ』って、さっき言ったろだろうが。マジで言ってんだぜ? がんばれよ、死ぬ気でよ。逃げ出すなんて、許さねえ」
言葉と語調が一致していた。有無を言わせない態度。こいつほんとに、マジで言ってるんだ。そのことに私は驚いて、同時に失望を感じる。「裏切られた」って、思う。
「おろせよ」って私は言う。もう泣いてない。醒めている。
「断るっつっただろうが」
「結局、あんたも一緒なんじゃん、他の連中とさ」私は醒めて、怒っている。
「ちがうね」
「ちがわない、私を役割で規定してる、道具だと思ってるんだ!」
「そうだよ川島さん」汐くんが後方から、私の言葉に追従する。「誰も君を縛り続ける権利はない」
「汐くん……」
それで私の気持ちはまた大きく汐くんに揺らいでしまう。
それでも。
「はいはい! 君たち、茶番はよしたまえ!」
甘夏は、ぜんぜん気にしない。まったくぜんぜん、動じない。
「俺は馬鹿だからよ、ややこしいことはわかんねえけどさ。でもさ、なゆた。それでも俺は、お前が本当に望んでることが何なのかは、よく知ってるぜ」
「嘘だよ」汐くんが言う。
「嘘だ」私も言う。
「ホントだよ」
「嘘吐くなって!」私は大きな背中に怒鳴る。またグーで叩く。苛立った人がテーブル叩くみたいに。「知ってたら私の言うこと聞け! わたしはもう、休みたい……!」
「だから! んなこた許さねえよって言ってるんだって!」
わからない。理解不能だ。
「なんで、どうして——」
口を動かしながら、それ以上に身体を全力で動かして、悪意の樹をがりがり登りつづける幼なじみの腐れ縁。私の脳裏にひとつの推測がよぎった。
——こいつ、もしかして、ほんとに馬鹿なのか?
ううん、違う。私はその推測を自分で否定する。
そうだ。本当に馬鹿なのは——
「お前、言ったろ? 大中の道ばたで、言ったよな?」甘夏は言った。「『この町を守る』って、そう言ったんだ」
——本当に馬鹿なのは、私だ。
「それがお前の本当の望みだ。わかったかコラ!」
「甘夏、私——」
「ふん! とにかくお前はあのときそう言ったし俺はあの言葉こそ本音だってちゃんとわかってるししかも俺はあのとき『協力する』って約束したんだ。約束ってのは大事だってうちの爺さんもよく言ってたぜ。俺だってもちろんそう思う! だから俺は約束を貫く! 最後までお前を守りとおす! 誰にも文句は言わせねえ! お前にもだ!」
そう言い切ってから甘夏は、ようやく一本の枝の上で止まったと思うと、さっき以上に死にかけの荒い息を吐きながら弾帯を外して私を解放した。と思ったら今度は、枝の上に立った私の身体をまたすぐ、こどもに「高い高い〜」ってやるみたいな形で腰骨つかんで持ち上げた。
「え、ちょっと、何すんの!?」
「あ〜! 苦しい! しんど! もうここ、限界!」
って言いながら、離した片方の手が私の足の裏に。んで「ふんぬー!」って甘夏が叫ぶと同時に私の身体は持ち上がり、一瞬、甘夏が高く上げた両手の上に私の両足がのっかるっていうサーカスみたいな体勢になる。そして、ロケットみたくポーン!
跳ね上がる。浮遊感。ええ!?
「キャーッチ!」
って甘夏が言うから、
「え!? え!?」って言いながら私は目の前の枝にぎゅっとつかまる。「ふわ、わ!?」
足下がすーすーして心許なくて怖いので体勢も気にせずじたばた、それでなんとか落っこちずに私はその枝の上に立つ。
「よっしゃあグッドだ!」って甘夏は言う。
汐くんはもうはるか下方だ。
その汐くんが大声を張り上げる。「川島さん! ほらもう、やめにしよう!」
でも甘夏が「なゆた、お前さ」って、普段から大きいその声で言って汐くんの声を打ち消す。「前から言おうと思ってたけど、や、でもどうせそのうち気づくだろって思ってたから言わなかったんだけど——」
とか言って、それから珍しく口ごもると、
「——いや、やっぱいいや」
って言う。なんだんだよ。
甘夏は私に背を向けて、追いかけてくる汐くんの方を見る。太腿に取りつけた、平たい鞄のなかからまず大鉈を取り出し、
「ふわッ!?」
私に向かって投げつけた。それは私の真横を通り抜け、すぐそばの枝に刺さった。
「おま、危ないな」
って文句言おうとしてもう一度甘夏を見て、
「何す——」
途中で言葉をなくす。
甘夏の手の中に、拳銃がある。甘夏は銃口を、追ってきた汐くんに向けた。
汐くんが驚きに目を剥いた。始めて見せる表情だった。
そんなもの、まだまだたくさんある豊かな表情のバリエーションのなかの、一つにすぎなかったのかもしれない。でも、とにかく、私は新鮮に感じてしまったのだ。
あんなに、ひどいことされても、まだ。
こんなに、ひどいことになっても、まだ。
気づく。
——だってしょうがないじゃん。初恋だったのだ。
甘夏が、「バン!」って言った。
次の瞬間、汐くんのすぐ背後まで迫っていたアナグマたちの先頭の一頭が、紫色の血管を剥きだしにしたその身体を一気に垂直に膨張させ、大きな口を開くのが見えた。身体の割にアンバランスに大きな頭部の、なかでもいっとうアンバランスに大きな口、その内側をびっしりと埋める残忍な千の牙が、夜の薄闇のなかに、
現れて、
閉じる。がきん。
そうして上顎と下顎が噛み合わされた後には、汐広矛の下半身が紛失している。
「あれ?」と汐くんは言った。
直後に、その顔が恐怖に引き攣り、激しく歪んだ。聡い人だから、自分がこれから死ぬってことをすぐに理解したのだろう。
身体を支える両足を一瞬にして失いバランスを崩して落下した汐くんの下で、また別のウロノアナグマがあんぐりと大口を開けている。
ゴルフボールがホールに吸いこまれるみたいにして汐くんは飲まれる。
ひとつの命が、たやすく終わる。
「そりゃそうだろ」って甘夏は呟いた。「どんなことだろうが、理想を突きつめりゃあ、きれいなままではいられねえよ」
汐くんの命の終わりは飢餓に狂った彼らに、何の区切りももたらさない。
アナグマたちの侵攻は止まらない。重力に押しつぶされたみたいな平べったい姿をした異形たちが、石ころの裏の蟲のようにうぞうぞ、うごめき、せり上がってくる、その、速度といったら。
「甘夏、早く——」私は焦燥にかられて叫ぶ。
「なあ、なゆたよう」甘夏は、驚くほど平静な声で言った。「さっきの話だけどさ」
「は!? 何言ってんのよ何の話!? つーか何の話でもよくて今は話とかしてる場合じゃないしそんなとこいないで急いで登ってきなって!」
「さっきの話。お前俺のこと、『他の有象無象の輩どもと同類なんだろ』っつったな?」
「や、だからんなこと言ってる場合かって!」
「ありゃあ、ちっとマジでいただけねーな」って甘夏は言ってそれから、硝煙のあがっていない、結局未使用に済んだ鉄砲を空に向かって投げ捨てた。
「つまり何が言いたいかってーと、『俺の気持ちをなめてもらっちゃ困るぜ?』ってことなんだけどよ」
言いながら今度は、手のなかにぶらさげていた弾帯をまたもう一度、自分の腰に巻きつけ直す。弾帯にぶらさげた四つの弾納を腰の前面にスライドさせて持ってくると、その全部のファスナーを開けて準備をした。
迫りくるアナグマたちから視線をはずして、甘夏は私を見あげた。
「ぶっちゃけ俺はさ。お前のことがほんとに、大好きなんだよ」
息が、止まるかと思った。
「嘘」って私は言う。
「嘘じゃねえし」
「……」驚きのあまり何も言えない。だって——
——だってこいつ、甘夏だぞ?
「一応言うけど」って甘夏は言う。「ライクじゃなくて、ラブだからな」
いや、それはさすがに文脈でわかるっていうか。
甘夏の、いつも通りのまぬけな言いように、気の抜けるような思いを味わいながら、もう一方で私のなかに、まったく全然別の印象もまた生まれている。
え? 何これ、悲壮感?
「待って——」って私は呟いた。
——行かないで。
でも、もう遅い。甘夏は思い立ったら一秒だって立ち止まったりしない。昔からずっと、そうなんだ。
甘夏が飛ぶ。アナグマのとこまで、一直線に飛び降りる。落下しながら叫ぶ。
「そぉらそら! 俺はいなせな花咲かジジイ! 枯れ木に花を咲かせてみしょう! 愛する女の笑顔のためならエ〜ンヤコラ〜!」
なんじゃそりゃって感じだ。自由すぎる叫びを発しながら甘夏は、相手は親の仇かってくらいにしこたま振りかぶって、弾納のなかからひっつかんだ無数のタオを投げつけまくる。
それはアナグマたちにとって、スコールみたいにほんのつかのま現れた、豊饒の雨だ。
「甘夏!」私は叫ぶ。無意味だ。あいつの見せた行動に対して、私の言葉は何の効力も持たない。
甘夏はひときわ大きな枝の上に集まったアナグマの大群のなかに落っこちてしまう。降り注いだタオに狂喜乱舞するアナグマたちのぐるぐると渦巻く歓喜の大渦のなかで、甘夏の姿は一度見えなくなり、それからずぼっと顔を出して、すぐそばのアナグマに乗っかって仰向けになり、その体勢のまま波乗りみたくバランス取りながら、
「ほーれほれ! 大好物をくれてやっから、大人しくしてろアホ熊どもめ!」
次から次へとタオをつかみ出しては右へ左へ投げまくる。タオに釣られてこらえきれなくなったアナグマが、我先にと飛び出し、枝の下へ落ちていく。
「なゆた!」甘夏が私を見あげた。「あしもとじゃねえ! 上見ろ、なゆた!」
残弾はすぐに尽きてしまう。間に合わせのストックのタオはすぐに底をついてしまう。それでも甘夏の声は相変わらず力強くて微塵の怯えもなくて、この期に及んで、不敵に笑いさえする。
「手を伸ばせよ! 自由を掴め! お前にゃその権利があるんだぜ!」
その言葉を最後に、今度こそ本当に、アナグマの波に飲まれて見えなくなる。
私は——。
——まぶたをこすって邪魔な涙はじき飛ばして、頭上を睨みつける。すぐ目と鼻の先、背伸びして手を伸ばせば届く場所に、群れから追われたはぐれものみたいな悪意の果実が一つきり、実っている。
すぐかたわらの枝に食いこんだ鉈をつかみ、引っこ抜いた。幹のこぶに足をかけて、果実のすぐそばまで登った。
「いいんですか友だちを見捨てて」果実は女の声が言う。
ひっつかむ。
「母に裏切られたからといって友だちを裏切るっていうのは」
「うっさい!」
「負の連鎖」
「断ち切ってやるっての!」
腰の大鉈を果実のつけ根めがけて振り下ろして切断し、悲鳴をあげるその口もろとも、一口で果実の顔の下半分に歯を立てて削ぐ。キモい悲鳴が自分の口のなかで命乞いに変わりそして断末魔に変わるのを聞きながら、無慈悲に飲みくだす。
甘夏の声はもう聞こえない。けど今はもう、あいつの場所をうかがってるヒマもないのだ。飢えたアナグマたちはすぐ間近、私の足下にまで迫ってきていた。
先頭の集団がいっせいに、垂直に膨張する。血管が浮き出たキモイ皮膚が張りつめて、身体に比べて無駄に大きすぎる、真っ黒でどこにどんなパーツがついてんのかもよくわからない顔の一部が、ぱっくりと割れて口になる。無数の牙が剥き出しになる。
憎悪と絶望でこころを真っ黒に染めた彼らのごちそう、それが私。
「そうだ」私は呟く。「悪意はここにあるぞ」
私はもう立ち止まらない。迷わない。私の前を歩いてくれる人がいなくても、すぐ隣で私を勇気づけ、まっすぐに好意を示し、支えてくれる人がいなくても——
——私がこの町を守るのだ。たとえ一人だって、やりきるんだ。
これは、私が自分の意志で決めたこと。私自身が望んだこと!
大鉈を構えた。タオはまだ涙袋に移動してはいない。でももう結合は済んでいるのだ。
光ってる、私のお腹。命の輝きは、炎よりも眩しい。すっかり降りた夜の闇を、そこにないもののように散らしてしまう。
私は、自分のお腹に鉈の刃をあてた。
——歯を食いしばれ、川島なゆた!
自分に言い聞かせ、息を吸いこみ、息を止め、思い切り、横一文字に切り裂いた。
光が弾けた。私のお腹を中心に、花火みたく。
こんなに痛いなんて、そりゃないぜって私は思う。汐くんのせいで、自分は、他の人たちに比べてずっとたくさんのいろいろな痛みに耐えてきたって気でいたけど、ダントツで、これが最高の激痛だった。
そりゃそうか。死に至る痛みってのは、始めてだもんな。
不幸中の幸いっていうか。苦しみはすぐに去っていきそうな予感がある。死はすぐに迎えに来てくれる。
最期の瞬間に、あいつの声がまた、聞こえた気がした。デリカシーのかけらもない声。でも、まったく何事にも動じない普段のあいつの調子からすれば考えられないくらいめちゃくちゃに狼狽してて、そのことが私をちょっとした優越感に浸らせてくれる。
ちょびっとだけね。
おやすみ。
切り開いたなゆたの腹から、タオが生まれたのだった。眩しかった。光のなかで、あみだくじみたいに全方位を埋め尽くすまっ黒い枝々が、影絵みたいに浮かび上がった。
俺の周囲のウロノアナグマ、ここいら一帯にいる化け物どものぜんぶが、新しいタオの誕生を祝うように、いっせいに身体を膨らませ、汐広矛を喰ったときと同じ食事の体勢に移行した。
アナグマどもが咆哮する。純粋に獣的な、野蛮で品性のかけらもない声だ。地面を震わせ、空気を震わせ、聞くもののこころをすくみあがらせる、絶対的な強者の雄叫びだ。極上のごちそうにそそられた捕食者どもの口からは、咆哮に合わせてだくだくあふれ出したよだれが飛び散り、この枝上に雨みたいに降る。
熱狂と歓喜に満ちあふれている。祝祭を始めようって魂胆なのだ。
させねえ。止めてみせる。
——否。
俺よりも下の枝にいたアナグマたちが、噴水みたくどばっとせり上がってくる。
しまった、しくじった。
思うが、もう遅い。こいつらはどうやら俺のことを喰うつもりはないらしい。そのことはもうわかっていて、だから油断したのだ。アナグマは俺を喰わない。だが捕食対象のなゆたがいる枝上へのルートを、俺の身体が阻んでいたのだ。迂回なんてやつらの性には合わない。最短ルートをとって邪魔な俺を突き飛ばす。
膨張した、血管剥きだしのグロい巨体、そのでたらめな馬鹿力。身体中の骨という骨が、軋んで悲鳴をあげそうな衝撃。身体がふわりと浮く感覚があり、気づいたときには落っこちていた。二メートルほど下の枝に背中を打ちつけて、鞭やら革のベルトでしばかれたみたいな痛み。ぬぐぅ、痛え! いやいや、気合い! 俺はくるっと身体を反転させてその枝を握る。けどその枝は落っこちた俺を受けとめたときにすでに折れかけてたらしく、みしりと厭な音がしてばきりといく。
ぐぶ! ごふ! へぶし!
俺の身体はピンボールの玉みたいにさっきよりはいくぶん丈夫ないくつもの枝に打ちつけられてはまた落ち、また打たれて落っこち、ってのを繰り返してもみくちゃになる。
「がー!」
ようやく、ひときわ大きな枝をつかむことに成功する。
しっかりかざした手のひらみたいな平たい上面に立った。樹上を見た。幾本もの枝に遮られながら、それでもぼうっと、ほのかな光があるのが見える。とてもかすかだが、タオの光だろう。目測でこっからざっと二十メートルほど。ようし仕切り直しだ! 上等だ、疵はまったくもって大したことねえ!
——俺は、精一杯の虚勢を張る。
「なゆた!」俺は樹上に叫んだ。「おいなゆた! 起きろよ、目ぇ醒ませ! やめろよしょうもねえ冗談は!……あっはっは。笑え。あっはっは。畜生! 応答せよ、あほたれが!」
呼びかけるけどなゆたの返答はなくて、枝上で倒れてしまったあいつの姿がここからは見えなくてそのことが最悪の事態を想像させてモヤつく。
そんなはずはねえ、たかだか切腹くらいでなゆたが死ぬはずは!
ああ!? 切腹だ!? んなアホな、死ぬぞコラ!
——あきらめんな、まだ。何かの間違いだ、そうだ見間違いだ、決まってる!
俺は自分に無理矢理そう言い聞かせる。そうだ今すぐ担ぎ上げてウルトラスピードで樹を降りて対策部隊の医療班にでも見せりゃあ……おし、考えるよりもまずに行動!
残る最後の力を出し尽くすつもりで、死ぬ気で登る。今の俺は木登り王者だ。余計な持ち物はもう何もねえ、弾納のタオはアナグマに喰わせてやった、拳銃は捨てた、鉈はなゆたに託した、裸一貫で切り立った垂直の幹を走るみたく登る。
「あの鉈のせいで、川島なゆたは死んだ」声が言った。
「お前がくれてやったから」また別の声が言った。
悪意の果実。標的を俺に変えたのかよ?
「だってここには君しかいない」
「もういないから川島なゆたは」
「光を見ろ。その、弱まっていくさまを」
「どうせ中身は掘り返されてしまうよ」
「ねほりはほり」
「ぜんぶ。そして彼女は虚空になる」
「そうそう、あとに残るのは容器だけ」
——うるせえ。んなわけあるかよ。
我が身をかえりみることもなくがむしゃらに登るから、もう手の指はささくれだらけで、無数と擦り傷と切り傷にまみれている。そんなこと、でも気にもならない。焦燥が、あまりにも強い。悪寒を与える冷えた手が、俺の心臓を握りつぶそうとしている。
ようやっと落ちたぶんを巻き返してさらに登り、そうしてひときわ大きな枝上に辿りついた。
異形の群れが、そこにあった。一本の枝上に群がったアナグマたちのその密度は、夜と、もうすぐにでも消え入りそうなタオの微光のなかで、連中ひとりひとりの輪郭の境界を消失させ、真っ黒ないっこの球体にしていた。それが、うぞうぞと蠢いている。
ぎりり、と歯音が頭んなかで鳴る。
「おい……お前ら、何してる?」
俺は俺の心臓が、冷えていくのを感じている。
「おい……やめろ……どけ、離れろ!」
俺はアナグマに突っ込んでいく。全力でタックル。ぬらついた弾力の少ない身体にはじき返され、向こうには何の効果もなければ敵意剥きだしの俺に対するなんのリアクションもない。手応えなし。完全な無視。
他のなにものも、眼中には入らないのだ。
夢中なのだ、目の前のご馳走に。
「遅すぎた」すぐ近くの、頭上の果実が言った。
「餌だ」
「贄」
「食事中につき」
膝をついた。
ここは、地獄か?
食事は早くも、終わりかけていた。
タオをもらって、空腹を満たしたやつから、順番に球体状の密集地を離れる。球体を離れ独りになると同時に膨張した身体が、とぷん、と水んなかに沈みこむみたいにして元の平べったい姿に戻る。チルアウト。熱狂は安らぎに転換する。
聖餐をいただいた者から順に命の倉庫から出て行く彼らのそのさまは、まるで信徒たちの巡礼のようだった。彼らによこしまなこころはなく、どこまでも純真で、敬虔なんだ。
ゆっくりと、球は小さくなっていった。そうして最後の一匹までもが姿を変えてそそくさと樹下に消え、ささやかな晩餐のあとにはなゆたの屍体一つが取りのこされる。
俺はようやく、なゆたのそばにひざまずくことを許される。
がまぐちみたく上下にぱっくり裂けた腹のなかにはもう光はなく、底なしの闇だけが広がっている。
「何もない」俺の背中で、果実が言った。
「何も果たせない」
「守りたい?」
「この町。無理」
「何もかも餌になるだけ」
「なぜってぜんぜん、足りないもの」
果実どもの言う通りだった。なゆたはウロノアナグマたちに蹂躙され、その中身はひとつ残らず食い尽くされてしまった。それでもなゆたが食べた果実は、ただの一つきりなのだ。
「すべてのアナグマの、飢餓を殺すにはほど遠いね」
「まだまだ、飢餓はつづく。ならば捕食も」
「前途多難」
「多産推奨」
……俺は。
「がたがたぬかしてんじゃねーよ」
「……はい?」
果実たちが、いっせいにざわついた。
俺はなゆたの亡骸のすぐそばに落っこちた鉈を拾いあげる。
「何するつも」
「りですか?」
とりあえず、素振り。ブフォン! ブフォン!
うし。
俺は近場の果実の一匹をぎんと睨みつけた。「俺がお前らを食う!」
「へ?」
「何を」
「殺すか?」
「うるせえ!」俺は怒鳴った。「俺が命庫だ!」
今度は、果実たちのあいだに失笑が広がった。
「お前」
「……」
「もしかして泣いてるのか男の子なのに?」
「……ざけんな。んなわけねーだろうが」
「泣いてるよぉ〜!」
一体がはやしたて、そして果実たちの失笑が爆笑に転じる。
「なあ、なゆた」俺は独りごちる。「好きな女が死んじまうってのは……こういうのも、失恋なんかね?」
地獄。
これが地獄じゃなくて、何が地獄だ?ってくらいの光景がここにある。
俺はなゆたの亡骸を見下ろしている。タオを取り出すために邪魔な内臓まで引きずり出されて、からっぽになっちまったなゆた。可哀想な姿。同時にあんまりにも残酷で、恐ろしいのに、俺は目を背けることがどうしてもできない。
そして、気づく。
「……ちがう」って俺は呟く。
「ちがくない」
「ヘル」
「お前ももう死んでいる」
悪意の果実どもの呪いの声が、まったく気にならなくなる。
……そうだ、違う、地獄なんかじゃねえここは。
なゆたの腹の闇を、俺はじっと見つめている。
……なぜなら地獄に、生きる命はないからだ。
ここには、あった。タオを乱獲しつくされた、なゆたの腹んなかには、まだ。
果実どもも、気づき始める。それとともにざわつき始める。
なゆたの腹が、再び、光を宿した。
「生まれる」と果実が言った。
「美しい命!」って俺は言った。
そいつは、ハリウッド超大作アクション映画の爆発シーンによく似ていた。あるいは、一つきりのびっくり箱のなかにぎっしり仕込まれたバネ人形が、蓋を開けた途端にあらゆる方位に無軌道に、勢いつけて飛び出してくるような。
そうやって無数の新たな命が、これまでなゆたの胃液のなかを泳いでいた、タオ結晶化を前にした生きものたちが、弾け飛ぶような勢いでいっせいに溢れ出た。
ウーパールーパー、カクレクマノミ、ヌートリア。
ボノボ、ハシビロコウ、ゾウガメ。
ありとあらゆる命がこの世に産声をあげ、枝上を埋め尽くす。夢でも見てんじゃないかって感じる。頬をぐんにーっと強くつねる。……夢じゃねえ。
ノヤギ、ミンク、ヘラジカ。
チェシャ猫、コノシロ、アザラシ、ヒグマ。
ニホンオオカミ。
どいつもこいつも、誕生の喜びに打ち震え、生き急いでいるように見え、今すぐ身体を全力で動かしたくってたまらないって気持ちに満ちている。走る。飛ぶ。登る。飛び降りる。そうやって実際に動物たちは自分の欲望に忠実に立ち回る。
そう、自由なんだ。
バルブの壊れた蛇口みたいにとめどなく、次から次へと躍り出る、この世界に。急速に増えまくり、早くもその数はこの樹上にはびこる飢えたアナグマどもの数を超えてしまう。四方八方に散った生きものたちの光。光が悪意の樹に全容を、光らせ始める。もちもちの木みたいに。
そして。
生きものたちの渋滞のなかで、それでも俺はちゃんと見つけることができる。
「なゆた」
その姿を、俺は見た。
今、いた! マジでいた! サイの後ろ! ちらっと見えただけだ、でも見間違いなんかじゃない!
確かめなくちゃな!
それで今もとめどなくなゆたの死骸から溢れでる動物たちのモッシュ・ピットにぶち当たっていき、無理矢理に身体をねじこむ。無我夢中でその姿を探す。
見つける。
と同時に、絶句する。それは、絶望のためなんかじゃない。
あるいはそれは、青春の希望の光。
なゆたは、服を着ていない!
「なゆた……?」
あ、あ、露わだ……。思わず目を背ける。いや、でも待て、この観察のなかで何らかの気づきを得られるってこともあるはずだ。……ちらっ。ふむ奇妙だ、先刻まで確認済みだったはずの頭部や腕の疵が、どれもすっかりなくなっているぞ? つるっとしてめちゃくちゃきれいで、気持ちがもんもんとして俺の幸福度は急激に……
バチン! 俺の大馬鹿者が! 俺は自分の煩悩をビンタ一発で霧散させる。やめとけ阿望甘夏。スケベ根性出したらアナグマに喰われちまうかもしんねえぞ? 「死因:エロス」「甘夏エロに死す」とか死んでも死にきれねえっつうか父ちゃん母ちゃんに申し訳が立たねえぞ?
おし、と気を取り直して、そんで決める。神々しすぎるなゆたの裸体は精神の毒なので極力直視しないようにしつつ、でもこのあとの行動に支障が出ない程度には見ていくって方向で。
そういうことに決めたので、俺はなゆたを堂々とガン見する。
なゆたの全身が、飴色に発光している。
「なゆ——」
声をかけようとするけどなゆたは聞く耳を持たず、こっちを見さえしないで、代わりに樹上を見あげた。
「命庫」果実がなゆたを見下して言った。
「来るんじゃない」
「死んでろなさい」
なゆたはそいつらを無視。軽妙な動きでぽんぽんぽーん! 即座に一番近くの果実のそばまで駆け登った。
「おい、待てって!」
さすがに今日一日肉体をあんまりにも酷使しすぎたらしくて、そろそろガタがきはじめている。気力だけであとを追った。
「……」
なゆたが何も言わず俺を振り返る。さっきよか距離が近くて俺は内心ドキドキが半端ないけど押し隠して真顔だ。そんな俺の反応なんてどうでもいいってふうに、なんでもない顔のまま、なゆたは俺に向かって手を差し出した。
「ああ?」
「それ」ってなゆたは言う。
で、視線をたどり、さっき拾っておいた鉈のことを言ってるってことがわかる。
鉈をわたした。
「それは厭だよう」と果実が嘆く。
なゆたはすぐに鉈で果実を切り落とす。果実の命乞いにも顔色ひとつ変えず、三口で全部を平らげる。
それからまた、軽いフットワークでぽんぽんぽーん! 連続で跳躍。そして立ち止まった先にはまた別の果実が。切り落とし、かじりつく。今度も三口。
同じ調子で、なゆたは食べ続けた。三つ、四つ……八つ。裸のなゆたは運動能力だけじゃなく体力も普通じゃなく、樹上を飛び回りながらいっこうに疲れを見せない。俺はそのペースにまったくついていけない。なゆたよりも身体三つぶんくらい下の枝にいる。
だから、なゆたの行為を止めることはできない。
「おま、なにする気——」
俺が最後まで言葉を発するよりも前に、なゆたは、自分の腹にあてたその刃を躊躇なく、横にぐっと引く。
悪夢の再現みたいに、腹が真っ二つに割れる。
再度、大気を震わせる咆哮が聞こえる。目的を失い今やはるか下方に停滞していたアナグマどもの一群が、なゆたの腹んなかからまた新しく生まれ出た果実八個ぶんのタオに目ざとく感づき、祝祭のテンションで這い上がってくる。すぐになゆたの周囲を取り囲むと、鳥葬のようにいっせいに群がり、腹のなかから、我先にとタオを引きずり出す。
タオはまた食いつくされる。空腹を満たしたアナグマが、身体を平べったくして樹を降りていく。食いっぱぐれたやつらも、興味を失って離れていく。
そうして屍体が取りのこされる。
俺はようやっとなゆたのかたわらにたどりつく。
事切れたなゆたの腹のなかで、また、結晶化していない命たちが産声をあげる。
ベンガルトラ、バイソン、ヒクイドリ。
シーラカンス、キリン、マンモス。
飴色に光り輝く生きものたちの命。
そしてすべてが繰り返される。
俺はまた、見つけることができる。なゆたの屍体のなかから、それはパンダが産声をあげたそのあとに、つづいて出てくる。
これは儀式なんだ、と俺は思う。屍体のそばに落ちた鉈の刃の峰をつかんで、三人目のなゆたに柄を握らせる。舞うように登攀するなゆたを追いかける。なゆたは今度も八個の果実を喰らう。そして自らの腹を裂く。結合したタオの露呈。餓えに狂ったアナグマ数匹が腹を満たし、帰っていく。
繰り返される命の誕生。
シロナガスクジラ。
一角獣。
火の鳥。
シロクマ。
麒麟。
火星人みたいなヘンなタコ。
ばかでかい竜。
なゆた自身もまた生まれ直す。刃を手に取り、悪意を食べる。腹を裂いて自死する。タオと命を生む。
なゆたは、食べては死んで、命を生んで、自分もまた生まれ直しては、食べてまた死に、また生み、また生まれた。死につづけ、生みつづけ、生まれつづけた。このことが、これでもかってくらいに、輪廻のように、永遠のように、飽くことなくいつまでも繰り返されていく。
でも永遠はないし夢は醒めるし夜は明けるのだ。めちゃくちゃにでかく育った悪意の樹の、膨大に広がる枝々にたわわに実った果実だって、食べつづければ当然、なくなる道理で。
今回なゆたは、食べ残しをしなかった。
なゆたをだまして利用しようって考えるような、そんないやなずるいやつは、俺たちが手を下すまでもなくいなくなっちまったからな。
実った果実がいっこ減るたびに、樹そのものもほんの少しずつ痩せ細っていった。悪意の樹は長い夜を通してゆっくりと謙虚さを取り戻し、最後はしおしおとかわいらしくちぢこまって、すっかり広がっちまった暗渠の底の大穴のなか、真の闇へと再び帰っていった。
そして朝がやってきた。
近所を軽く歩き回っただけでも災害の痕は派手に残っていて、なゆたんちはもちろん全壊、しかもアナグマの穴のそばに建ってるもんだから建築資材の多くが穴ん中に落ちてしまい、なんかもう最初から何もなかったかのよう。その他、周辺隣家もほぼ全壊、蘇野地区内のそれ以外の住宅もそれにアスファルト道路も、根っこによる貫通と篤い抱擁でどれもぼろぼろだ。
復旧作業には相当な時間を要するでしょうな。って人ごとじゃなくて、俺んちもリビングの壁の一番目立つところにでかい穴が穿たれてるし、屋根瓦も割れたり剥がれたりしまくってて窓も割れて玄関前の柱の一本も折れている。帰省して早々、母ちゃんが最初にやるアクションは失神で決まりだろう。
でも、これよりもっとひどいことになる可能性だってじゅうぶんあったのだ。これからしばらくは、町の誰もがたぶん、自分の身の回りの整理だけでいっぱいいっぱいになるだろう。それでも長い時間が経ってなんとか体勢を立て直して、周囲の人に目くばりをする余裕が出てきたときに、この試練を乗り越えた人たちのうちの何人かでいいから、ほんのちょっとでも今日のことを思い返して、未曾有の被害を未然に防いだ新米命庫のことを、考えてくれるようになったらいいね。
「へっへっへ」と苦笑がもれた。
ったく、とんでもないことになったもんだな。
家の倒壊、町の破壊。今回の事件が残したものは、それだけじゃないのだ。混乱は、まだとうぶんつづくにちがいない。ここいら一帯の警戒区域指定が解けるのは、このぶんだといつになることやら。
この町は、一夜にして生まれ変わってしまったのだ。今じゃ、なゆたの腹から生まれ出たありとあらゆる動物たちが、町内のいたるところを気ままに闊歩している。
「ほーほほほ」
俺は他の家よりずいぶん大きかったぶん、なくなったことでずいぶん見晴らしのよくなったなゆた家跡地に立ち、田んぼの方を眺める。うむ、人気だ。田んぼにはシマウマやらダチョウやらゾウやらライオンやらキリンやらインパラやら、動物たちが大集合だ。きっと雨季のサバンナと勘違いしてるんだろう。肉食動物には、注意が必要だね。
とか思ってたら、蹄が大地を蹴るリズミカルな音がだんだん近づいてきて、俺はその足音の主を見て、「おうい白い馬〜」って思うけど、ちがう。
俺の目と鼻の先を、一頭の一角獣が、駆けぬけていく。
「……」
思わず天を仰ぐ。すると、馬鹿でかい灰色の鯨が誇らしげなツラをぶらさげて気持ちよさそうに空を泳いでいる。
「……わっはっは」
いや、もう笑うしかねーだろ。
ここは、現実と幻想がごちゃごちゃに入り混じる、動物たちの楽園。ようこそ望町!
「甘夏」
俺を呼ぶ声がした。
そうやって名前を呼ばれただけで、俺はどこまでもハッピーになれる。愛する女のかわいい声!
動物たちが日の光を受けて気持ちよさそうにのんびり歩く中山道のこっち側に、なゆたが立っている。なゆたんちはもうないから、近所の友だちのうちからでもくすねてきたんだろう、いつものボーイッシュなパンツスタイルとはちがくてノースリーブの黒に水玉模様のワンピース、よく似合ってるし新鮮だ。いやいや、もう裸じゃないからって残念とか思ってねーし! んなこと考えるようなやつは、ウロノアナグマに喰われてろ!
「なゆた!」俺は唐突に全力ダッシュ! 「なゆたーーーー!!!!!」
がば! 抱き合う二人!
そういう場面じゃねえか、どう考えても今!
なのになゆたときたら俺の熱い抱擁をひらりとかわすもんだから、俺は勢い余ってなゆたの奥にいたカバの横腹にびたん! 衝突してしまう。
カバは暢気に大きなあくび。朝だものね。
「相変わらず馬鹿だなお前」ってなゆたが言う。
「お前は——」俺は言う、「——相変わらず生きててくれて、うれしいぜ」
なゆたが首をかしげる。
「なゆた、俺のこと知ってんの?」
「は? 何その質問」
「いや、知ってんならいいさ」
憶えてんならいい。身体が新しい身体に入れ替わっても、昨日までのなゆたと、今のなゆたはおんなじ人間だってことだ。それで最高。
「忘れてほしいんだったらそうしてあげるけど」
「いいや、無理だね」
「何それ」
「はらたまきよたま」
ちゃんと憶えててくれたろ?
「あーもう忘れた」っつって、なゆたが笑う。
俺も笑った。
朝っぱらから雲一つない快晴で、今日一日、暑い日になりそうな予感があった。青空の上で鯨が潮を吹き、キュートな声で歌った。なゆたんちの庭のむこうでだらしなく寝転んでいるシロクマは慣れない暑さでしんどそうだから、あとで水浴びさせてやろうって思う。
「あのさ。一応聞いときたいんだけど」なゆたが言った。「私、今、ちゃんと生きてるよね?」
「ああ、生きてる」って俺はうけあう。「それも、今が一番、活き活きして見えるくらいさ!」
文字数:73730
内容に関するアピール
……提出〆切まであと10分です。
ぎりぎりで書いていますので読みにくい文章が多々あるかもしれませんし誤字脱字などもあるかもしれませんが申し訳ございません。
僕が最終課題用に書いたのは『きみのタオ』という前に実作を書いた短編のリライトです。以前の実作講評でいただいた指摘を取り入れながら大きく書き換えました。
これを選んだのは大森先生に「最終リライトするなら」と勧めていただいたことがいちばんの理由です。そしてもう一つの理由は、この一年近くで自分が何を書く人間なのかがなんとなくわかってきたからです。僕は奇怪なものが好きです。それ以外にも好きなものはいろいろあるけれど、奇怪な素材をあつかったときに,一番イマジネーションがわくみたいです。大森先生に何度も牧野修や北野勇作の小説を勧めていただいたことも、そういうことなんだろうと今ではわかります。まとまりませんがあと三分しかないしもう提出をしないと! とにかくそういう作家になっていきたい。あと地底人ではないけれど地底生物に今作は力を入れてます!
文字数:443