ガルシア・デ・マローネスによって救済される惑星

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ガルシア・デ・マローネスによって救済される惑星

 円形の扉が開き、焼き尽くされた子羊が宇宙空間に投げ出される。

 霧状の氷となった湯気と油が深い闇の中に散らばり、わずかに残った肉が凍り皮が剥がれて骨同士がぶつかり音もなく粉々に砕ける。首のあたりで折れまがった形をかろうじてとどめていた子羊の体は遠隔力で腱が引かれてばらばらに解け、太陽ならぬ陽の光に照らされ、きらめく塵芥から離れ、眼上の、暗黒世界を背にのっぺりと浮かんだ灰色の大地に向かって、滑るように、静かに、上っていく。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、旧い契約に従って捧げられた生贄を思い起こさせるその子羊が、宇宙船を離れ、小さく、見えなくなってしまうまでの間、ガルシア・デ・マローネスは黙想をしばし中断し、その光景を見つめることにする。

 漆喰で塗り固められた柱が整然と並びアーチを形作る回廊だが、柱の間には信じられないほど薄く透明なガラスがはめ込まれている。吹き抜け状の回廊から視線を落とすと見渡す限りの闇、だが星が光っている。頭上には巨大なカロリナス、目的の惑星が視界の端まで広がっている。四十日の長旅の末、この宇宙船エクレシア・デ・ウニベルシタス号はついにたどり着いたのだ。

 焼却炉のごみを捨てたと雑務を与る助修士から報告を受け、ガルシアは聖堂へと向かう。石造りの廊下を裸足で歩く。目を閉じ足の感触だけを捉えれば、故郷スペインの教会堂と何も変わらない、だがそれがかえって異人たちのとてつもない技術を証明しているのだ。1517年、リスボン沖に異人が現れてからまだ一世紀と少々しか経っていない。

 柱の間隔が徐々に狭まり、当世風の双子柱に変わる。階段を上り聖堂に達する最後の一段に足をかけると、ふわりと、ガルシアは宙に浮きあがる。思わず目を瞑る。手すりをしっかり掴み、体を引き寄せ、慎重に、押し出すように体を動す。体の重さがなくなる感覚、これにはとうとう慣れずじまいだった。

 つい先刻感謝のミサを終えたばかりだというのに、余韻はとうに消え失せ、がらんとした聖堂には何者も残っていない。数百人は優に入る規模だというのに、たった八人しかこの船には乗っていないのだ。手すりからゆっくりと離れ、脚で床を蹴る。

 二列のバルコニーはうねりながら奥まで続き、天井部分も床として椅子がしつらえてある。椅子の間に張られたロープを握り締める。楕円のドームからこぼれ落ちるように飛び交う天使の彫刻はそのドームの中央に鳩を抱き、向かいにはライオンや鷲などに囲われたキリストのドームがある。二つのドームの間には袖廊が配置されており、その奥、立方体の祭壇のさらに奥には聖遺物であるキリストの十字架片、眼窓から差す青白い光はこの船を推進させるために焚かれているものだ。まさにその方向、この船が後にした方向にこそ彼らが旅立った地球、そして太陽がある。

 永遠のもの、どこにあるか分からない天上の美を伝えるものだ。しかし神とカトリックの栄光をあまねく宇宙に知らしめるこの船に、人の知恵によるものはほとんどない。ローマはこの船を建造させるために、異人たちに地球上のあらゆる動植物をつがいで献上したとの噂まである。

 宇宙から来訪した異人たちは人間に何も伝えず、何も学ばせなかった。時たま精巧な機械を作り人間たちに与えたが、明らかに人間を大きく超える知恵からなるものでありながら、金で飾り立てられ、鉛や漆喰で塗り固められ、木枠にはめ込まれ、人の手で作り上げたもののように擬装されていた。

 彼らの姿を見た者は少なかった。リスボン沖の海上に彼らの奇妙な城がそびえていた。彼らを殺そうとしたものは殺された。おおよそ地上の争いごとに関心がないようだが、彼らの前で殺人を行ったものも殺された。

 そして彼らはキリスト教徒ではなかった。いかなるものにも祈りを捧げなかった。彼らの存在そのものが、信仰に暗い影を投げかけた。教会は分裂した。

 青白い光が宙に浮くガルシアを包んでいる。手の甲に浮かぶ虹色の刻印――地球を出ることを許された人間の証だ――を見つめ、彼らの一人に出会ったときのことを思い出す。古代ローマ人がアフリカにいると信じた首なし人間。紫色の皮膚。ひきつけを起こしたような呼吸音は、人間の笑いを模すことで我々の親愛の証をまねているのだと後で知った。

 異人たちは宇宙のあちこちを旅していた。やがて一部の人間たちも、おっかなびっくり、虹色の刻印と共に旅の船に同乗させてもらうこととなる。珍しい異星の文化、そして異人たちの壮麗な都――一方山師たちの目的は異人たちに見捨てられた惑星にこそあった。黄金郷の伝説が復活し、ダイヤモンドの星を目指す命知らずが後を絶たなかった。そしてほとんどの者が行方知らずとなった。

 物見遊山や探検とは別の一団もあった。彼らは俗にまみれ、堕落し、終わりの日が近づきつつある地球を離れ、隠修士として名も知らぬ大地で一生を終える。そして彼らの間にも、謎めいた美しい異郷の伝説が流布していた。その惑星に赴けば、真の信仰が得られ、主に相まみえるという――

 「イエズス会士よ」

 振り返ると、聖堂の入り口、マテオが宙に立っている。白の僧服に黒い頭巾つきマントをまとった姿は、黒の衣服で固められたガルシアの姿とは大きく違う。黒いひげに痩せた顔、いかにも胆汁質といった顔つきだ。「フェルナンデスからの書簡が到着した。現在時点での緯度経度が記されている」ぐずぐずするなと踵を返す。

 ガルシアが小さく肩をすくめる。彼との関係も結局、重さがなくなる感覚と同じ、慣れずじまいだ。

 「アンドレアはどこだ」マテオが大声を張り上げる。「アンドレア!」

「私の弟子と共にいるのですよ」うんざりだ。「呼んできましょう」

 「“知識は人を高ぶらせる”1」マテオが聖書を引用する。「どうもイエズス会では弟子を怠けさせ本を読ませるのに腐心しているようだ。“召使は厳しくしつけて働かせろ”2

 「“人は現状にとどまっているのがよいのです”3。彼の魂は書物に向かっているときこそ燃え上がる」キルヒナーの居場所は分かっている。

 

 一冊の本が宙に浮いている。

 筒型の部屋には本が、足場を除き隙間なく敷き詰められている。重さがないにもかかわらずらず本が浮かび上がってしまわないのは、壁に沿ってわずかな磁力がもたらされているからだ。本を放すと吸い寄せられるように書架に納まる。鉄板を仕込んだ装丁は若干分厚い、だが、重さがないので苦にならない。

 部屋の入口と奥には巨大な鏡が取り付けてあり、廊下に立てられたロウソクの光が絶えず部屋の外から注ぎ込まれている。部屋の中に光源を持ち込まない設計になっているのはなぜだろう?

 本の隣に火のついたロウソクを浮かべる。ロウソクの炎は見たこともない球形の形になり、ほどなくしてその火は消えてしまう。

 「つまりこの部屋では単に重さがなくなるだけじゃない。炎の軽さもなくなるんだ」

 また一つ。キルヒナーの発見だ。

 円形の図書室はもちろん完成された知を指し示すものだが、主なる神の助けによって人間が知ることとなった知恵の総数は、残念ながらとても完全には程遠い。だけど神は真実への意志と欲求を魂の働きの内に与えて下さった。異人の技術という人間にとってはあまりにも高すぎる巨人の肩から飛び降りて、少しずつまたよじ登る。まだ修練士の身であるキルヒナーは、旅の間に多くの本を読み、多くの観察を行った。そして古代から伝わる人間の知恵のいくつかが誤りで――たとえば“星々の存する諸天球は内側と外側の表面を持っている青銅の球のようになっており、第十一天の最上面は方形である”4――またいくつかの洞察が正しかった――“天界ではなく、むしろ地が日周運動を行う”5――ことを知った。

 師ガルシアは忙しい。もっぱらその聞き役はアンドレアだ。石壁をくりぬいた窓――もちろんそれはまやかしだ、多くの宇宙旅行記が伝える通り、宇宙は真空なのだから――アンドレアが見ているのは窓の向こうの星空だ。

 「これらすべてを主なる神が創造した」ぽつり、ぽつりと窓の外に打たれた点。

 「恒星は“天の濃縮したある部分である”6。おそらく“原子でもって、自然は万物を作り、増加させ、生育させる”7というのが正しいんだ。万物の根源には粒子がある。異教の哲学においても自分たちはたくさん学ぶべきことがある」

 アンドレアは旅の間じゅう渦星を見たがっていたのだが、とうとう発見できずじまいだ。旅行記によればそれは見えない星、周囲の星の光がまとわりつくように渦を巻き、その中心には何もない。地球からここまで通り抜けた九つもの宙洞――まるで望遠鏡の中を通り抜けるよう、はるか彼方の宇宙へとつながる星――あれも旅行記に書かれていた通りの美しい体験だった。だけど渦星も見たい。

 「あれはどうだろう?」はるか彼方にかすんで見える何かがある――あれも渦を巻いているように見える。

 残念ながら、あれは星雲だ。キルヒナーは旅行記の一冊を――アコスタの『宇宙自然文化史』――を広げて渦星の図を探して見せる。

 「自分の考えでは、これは光が重力によって引き寄せられて起こるんだ」

 「重力?」

 「磁力のような遠隔力だよ。物体の重さというのはつまり、引き寄せられる力のことなんだ。重力は“自然本性的”8な力じゃない」

 「でも光が他の重さを持つ物質のように、何かに吸い寄せられるなんて」

 「光が屈折すること自体はレンズによって自分たちにも観測できる。つまり光は曲げられる」

 「光は一瞬で向こう側に到達するけど、そんな速い質料を巻き込むほどの力って、想像できないよ」

 「光の速さだって別に無限じゃない。いわゆるティル・ナ・ノーグ現象ってのがあって」

 「それ! 不思議だよね」アンドレアが一冊の本を取る。「妖精の国に行った騎士が、わずか一年足らずの滞在の間に三百年も時を過ごしてしまった話。ちょうど今、この船で、ぼくたちも体験してるんだ。ここではまだ四十日しか経っていないのに、地球ではもう百日以上、1633年を迎えてるんだ」

 「いくつかの旅行記を比較してみると、この現象は速い速度で移動すればするほど激しいものになっていく現象だってことが分かる。だけどこの理屈だと、ある速度に達すると宇宙船内の時間の進みが消えてしまうことになる。こんなことはありえない。“無限なものはただ知識においてのみ存する”9。物体の進む速さには越えられない限界があるんだ」

 「そういえば、ある旅行者が見た恒星の爆発の光が、地球ではまだぜんぜん見えないって話を聞いたことがある」本をぱらぱらとめくり、また考える。「でもそうなると、僕らの船がちゃんと地球と手紙のやり取りをしてるのはおかしいよ。すごく速い、砂粒のような宇宙船に手紙を乗せて飛ばしても、地球が今、何年何月かなんて分かるはずがない」

 「ううん」

 ここまで来るとキルヒナーもお手上げだ。確かにこの船は地球と何か、連絡を取り合っている。伝令室と呼ばれる部屋で、紙に向かって字を書き、封をせずにそのまま金属の巨大な機械をくぐらせる。すると数日で機械のもう一方の隙間から、相手の書いた文字が送られてくるのだ。そもそもカロリナスの発見の連絡も、伝令室を使ってもたらされたのだ。何の変哲もない鉄の塊になぜそんな芸当ができるのか。

 「多分。多分だけど、おそらくそれも何か遠隔力によって可能なんだ。いや、確かに遠隔力と言えども越えられない速さの限界はある。だけど。たとえば“さらに多くの世界ができれば、あるいは世界が無限にできたとして”10。そういった別の世界、つまり宇宙とこちらの宇宙との間に働く遠隔力、重力がある」

 「ふうん」

 「たとえば自分たちの宇宙を越えてあまねく偏在する主なる神といったものは、そういったすべての世界を貫く力のことを考えれば説明がつく。そして、そうそれでだから、そういった別の宇宙では、たとえば速さの限界が自分が今いるこの宇宙よりもずっと速い、そういう風に作られてる宇宙があって、そうした宇宙では重力が無限に近い速さで一瞬で伝わるんだ。そういった宇宙を経由すればあるいは」

 光の速さを越えた手紙のやり取りも可能なのかもしれないが、あいにくアンドレアはもう、本の方に夢中なのだ。生返事ばかりで頁をめくる。キルヒナーはがっかりする、が、仕方がない。自分の頭が良すぎるのだ。

 だけどアンドレアは不思議な男だ。自分が修練士にもかかわらず師と共にこの船で旅することが許されたのは、まあ、天才だからだろう。だが彼は? ナポリの貴族の三男坊らしいが、どこかの王侯貴族の隠し子だとか。整った顔立ち、透き通った眼、だけど外見の美しさなど神の御前において何の役に立つだろうか? 白く細い指などまるで修道士らしくない。体つきも華奢だが、これについてはキルヒナーも褒められたものじゃない。下着の寸法がキルヒナーと同じなので、洗濯をすると下着がたまに入れ替わる。

 洗濯をするたびに、まるで自分のものか確認するように臭いを嗅ぐ。失礼じゃないか?

 まるで女のように頭巾をいつも被って隠している。アンドレアという名前もまるで女だが、ナポリでは男の名前らしい。彼が今読んでいる本もイタリアの言葉で書かれているようだ。あんな本は見たことない。印刷されておらず、誰かの手稿を書き写して綴じただけの本に見える。修道院では時たま棚の隙間に、このような本が隠されているのだ。他愛もない騎士物語だったり、もっと下らない本だ。キルヒナーの興味を引くものじゃない。

 実際それは、大した内容じゃないのだ。

 ……王様はターリアが魔法をかけられたようになって座っている部屋にやってまいりました。

王様はターリアが眠っているものと思い声をかけましたが、何を言っても何をしても気づきません。

王様はそのうちに恋の炎にあおられてしまって、ターリアを寝椅子に運んで愛の果実を摘み取ると、そのまま寝かせておきました……11

 

 太陽が二つ。

 一つは地球のものと比較してやや小ぶりだろうか。黄みがかっている。もう一つはそれよりずっと小さく、夕陽のように赤く、が、ずっと高い場所にある。だが灰色の雲の切れ目から時折姿を覗かせる太陽も、空も、何となくどこか、くすんで見えるのだ。

 草原。拍子抜けするほど地球とよく似ている。確かに見渡す限り赤と黄色のまだら模様、だが草原は草原――教会堂を模したファサードを持つ純白の宇宙船が、異人の不思議な技術で、指先一本分、その場に浮いている。

 四人の男たちは異人によって与えられた服装に着替えている。ぴったりとした白く輝く布地の上から同じ材質のローブを羽織り、手には手袋、足にはブーツ、頭にはガラスの兜を被っている。そのうち二人の服には胸に大きくIHSと書かれたイエズス会の紋章、後ろの二人はおなじみの頭巾つきのマント、腰には革のベルトというドミニコ会の服装だ。そして先頭のキルヒナーが掲げるのぼりには、赤い服に青のローブ、そして頭にはガラスの兜を被ったイエス・キリストが描かれている。本来ならばこの後に、贈答用の子羊が続くのだが、あいにく病気で死んでしまった。

 さて。

 誰もいない。

 何も起こらない。

 「“霊はイエスを荒れ野に送り出した”12」誰かがつぶやく。確かにほんのかすかに漂う硫黄の臭い、悪魔にふさわしい雰囲気だ。異人の与えたこの服――仮に「宇宙鎧」とでも名付けよう、これは大気の毒から身を守ると聞いている、が、この程度の臭いなら通してしまうらしい。

 「場所はここで間違いない」マテオが羊皮紙を広げる。「いったいどうしたのか、フェルナンデスとかいう奴は」兜越しだが相手の声は良く通る。アンドレアが手を挙げる。発言を求めているのだが、マテオはちらりと見ただけだ。

 「仕方ない、探そう」幸い道がある。黒々とした岩がむき出しとなってどこまでも続いている。

 「師よ」キルヒナーがガルシアに問う。「まさか騙されたのでは」

 「それはないと思うが」

 フェルナンデスが三か月ほど前に地球に送ってきた手紙は簡潔なものだった。「私は神を発見した」というポルトガル語、そして、

 נַעֲשֶׂה אָדָם בְּצַלְמֵנוּ לֹא כִּדְמוּתֵנוּ

 「ヘブライ語だ。『我々に似ていないものとして、人を造ろう』」もっともこれだけではこのような船を差し向ける理由としては少々、弱い。「我々の知らないもっと何か、他の書簡があるのかもしれないが……」

 道端の草を数本引き抜く。立体だ。数えてみると正二十面体、それがいくつも組み合わさったような形をしている。どれも同じ構造だ。地面もそう、岩肌は大小さまざまな三角形で構成されている。植物は三角形の隙間に己をねじ込み地に満ちている。そして植物も岩石も、良く見ると三角形の表面に油膜のような模様、光を受けて虹色にゆらめき動いている。

 肩を叩いたのはアンドレアである。人差し指を立てながら――師の許可なしに、つまり師の見ている前で会話を行ってはいけない――石を拾ったのだ。油膜がない。驚くほど軽い。空洞なのだろうか? だけど堅い。

 「見たまえ、主なる神のお導きだ」

 黒々とした道を進むと巨大なくぼ地の中央部にオベリスクのような鉄柱が突き出し、資材が山と積まれている。近寄って見ると腐った木材や切り出した石など、一行の虹色の刻印と同じものがどれにも描かれている。典型的な山師の片道切符だ。

 小屋は裏手にあった。簡単な木の扉には鍵が掛かっていない。

 食卓と寝台がある。ぼろぼろの宇宙鎧が長椅子の上に横たえられている。ガラスの美しい器が置いてあるのかと思えば、これは宇宙鎧の兜だ。逆さまに置いてあり、水が張られている。

 水の中に見たこともない生き物がいる。人間の上腕ほどの長さの白くてぶよぶよした体から四本の赤い触手が突き出している。それぞれの触手はやはり二十面体で、ねじれるように回転した動きをしている。

 「イソギンチャクみたいだ」

 飼っているのだろうか。

 「さあね」

 ごみの山の中に死んだイソギンチャクがいる。良く見ると黒ずんでいる部分は腐っているというより砂糖漬けにしたかのよう、細かな結晶がこびりついている。いくつかの結晶は大きく、かすかに振動している。

 「呼吸をしているみたいだ。この星の蛆かな」

 「この奥に伝令用の機械がある」とにかく、さっきまで誰かがいたようだ。ガルシアが奥の扉を指す、開きっぱなしだ。「おそらくこちらに進んだのだ。神を発見した、主なる神の存在が明らかになるというなら、何かがどこかにあるだろう」

 

 奇妙な道だった。不自然にうねり、周囲から盛り上がり、あまり歩きやすいとは言えないものだ。だが確かに道であり、ところどころに岩を削った碑が立てられている。道の中央には四本の溝がある。先頭の、のぼりを持ったアンドレアが右手を挙げる。

 「何だ」

 「この道で正しいのでしょうか」

 「お前はつまらない心配をしなくていい」

 「今のところ道はどんどん大きくなっている。恐れることはないだろうが――」霧で遠い先が見通せない。

 湖だ。

 人がいる。

 この星の異人に一行は初めて出会ったわけだ。一見しただけで子供と大人と分かるそれが七人、湖のほとりで何かを待っている様子、見えない向こう岸を向いている。

 どちらかといえば子供の方が我々に近い姿かたちをしている。全身が鮮やかな赤い皮膜に覆われているが、ひじやひざの部分から黒い関節が透けて見える。顔に当たる部分はどこに何があって何の役割を果たすのやら、他より一層強く光を反射してきらきらと輝く部分、あそこが目だろうか? 髪の毛のようなものが複雑に生い茂っているのだが、見た目と異なり案外硬いものらしい。湖から時折吹きあがる白い煙――硫黄の臭いがひどい――と戯れているのだが、駆けまわっていてもまるでなびかない。子供も大人も同じ髪形をしている。

 大人は背が高く――鎧を着こんだ人間でも、胸の高さにも達しない――膜がすべて失われ色とりどりの立体が露出している。衣服は一切身につけず、身体の隙間に何やら金属を埋め込んでいる者もいる、ということはどこかで金属が手に入るのだろう。何より奇妙なのは足で、こぶ状の突起がかかとについており、平坦な岸辺をごろごろと、こぶを車輪のように動かして移動するのだ。こちらを向いて何やらごうごうと風のような音を発している。

 「イエズス会士よ」

 「ああ、間違いない。言葉を話している――しかし意味までは分からないな」

 「地球で出会った他の異人に比べれば、ずいぶんと我々にそっくりじゃないか」

 「そうだ。それに敵意もなさそうだ。目があり、音を使って会話する。想像していたよりずっとやりやすい」

 試しに湖を指さして、身振り手振り、これは何なのか、あなたたちの名前は、ここで何をしているのか問いかけるが、短い唸り声で、ごう、と答えるばかりだ。

 「フェルナンデスのことを知っているのかもしれない。つまり、我々のような存在が珍しくない。となると逆にやっかいかもしれない」

 何人かはアンドレアの持つキリストののぼりに反応している。枯れ枝のような腕を揺らし、ひゅうひゅうと音を発している。

 「師よ、分かったことがあります」手を挙げながらキルヒナーが喋りだす。「彼らには舌がないのです」

 「となると言葉が分かっても、聞き取るのが大変だ」

 笛が鳴る。

 ぴぃー、という甲高い音を聞いて笛が鳴ったのかと思ったのだが、振り返ると一人の子供が、湖の方を向いて何か叫んでいるのだ。

 目を凝らす。

 あ、とアンドレアが声を上げる。のぼりが地面に落ちて派手な音を立てる。

 湖の上で何かが光っている。

 四つ、五つほどの光球、もやが薄くなり今やはっきり水面が見える湖の上をゆっくりと動いている。それが湖の奥、なおもまだもやが立つ方へ何かを導くように向かい、やがて見えなくなるまで、四人とも声を発せず、突っ立って見送るしかなかった。

 「今の」

 何だったのかと互いに問う間もなかった。

 今度は激しい水音と共に湖が真っ二つに割れる。

 穏やかな水面が突然波立ったかと思うとざあっと綺麗に断ち切られ、見上げるほどの高い水の壁が二つ、その間に一本の広い道がはっきりと、もやは完全に消え、初めて見えた向こう岸まで続いている。ひゅうと声を上げて子供たちが駆け出し、大人が後に続く。

 こちらを向いて何か言っている。

 「マテオ」

 跪いているマテオがガルシアに視線を移す。

 「あの異人たちはもしかして、渡れと言っているんじゃないか」

 あわてて二人は立ち上がる。キルヒナーは跪くことも忘れて立ち尽くしていたし、アンドレアはひれ伏して顔を上げないので起こすと涙を流している。

 「のぼりを持て。急ぐんだ!」

 水が元の場所へ流れ帰った、などとなったらひとたまりもない。慌てて走る。走りながらも疑問に思う。

 「イエズス会士よ、彼らは確かに待っていた。これを待っていたように見えた」

 「ああ」

 「確かにここは奇蹟の星に違いない。“我々の時代に多くの地域で起こった奇蹟――だが、昔に比べて稀になってしまった”13、おお、地球においてこのような奇蹟など、数千年は起きたためしがない! 確かに我々は今、奇蹟のただ中にいる!」やっと異人たちに追いつく。彼らはのんびりと歩いている。この小さい連中は何を急いでいるんだ、といった様子。

 「師よ」キルヒナーが囁く。「しかし奇蹟にしては彼ら、あまりに落ち着き払っていませんか」

 「聞こえているぞ」マテオが舌打ちする。

 「あっ」いや、その、すいませんと頭を下げるが、キルヒナーはまだ納得していない。「激しい潮汐や、運河における閘門のような何らかの技術が用いられている可能性も否定できません。できないと思う、自分は、はい、ですが、すいません」

 「運河? 見たところ彼らは裸同然。この星の異人がそこまで高い技術を有しているように見えるかな、修練士よ」

 「それは分かりません、ですが」

 足が止まる。

 湖を越えて高台にたどり着いた一行が目にしたのは町だ。黒い門、黒い城壁に囲まれ、黒い建物や点のような黒い人々が遠くに見える。だがそれより彼らの目にとどまったのは、手だ。

 巨大な手が上空に覆いかぶさりその町に五本の指を下ろそうとしている。

 「いや、あれは雲だ」

 「雲があのような形に、自然になるものか」

 「可能性としては考えられなくもあません、が、ただ――」

 「そうだろう。目の錯覚、気象現象、潮汐の具合、ひとつひとつを調べればすべて理屈で説明できるかもしれん。だがそれらがこうして、立て続けに起こっていることの説明は可能なのか?」

 どっと彼らの背後で水が流れ出し、湖がふたたび元に戻る。

 「あれは左手だ」雲を見ていたガルシアが指摘する。

 「左」

 「“『右手』と言われているのは、永遠に変わることのないもの”14。右手こそが神聖であり左手はむしろ世俗に関わる手だ。神の手としては右手こそがふさわしいのだが」

 いまや手は形が崩れ、灰色の雲となって流れ、ほどなく一筋の細い煙を残して散ってしまう。

 その間も異人たちは委細構わず、といった様子で町に向かってこぶで走り続ける。続くしかない。ほどなくたどり着いた城門を見ると、特別に巨大な立体を組み合わせて作られている。文字が彫り込まれている。少なくとも彼らは字を使えるのだ。

 יְרוּשָׁלַיִם

 一行は今度こそ、完全に固まってしまう。

 ヘブライ語だ。エルサレム、と。

 「おい」一人の異人をつかまえる。「あれはなんと書いてあるのだ、あれは」

 大声で叫ぶ。ガラスの兜越しに大声で呼びかける。

 彼らは何か風の音を発する。風の音にしか聞こえない、何を言っているのか分からなければそうだろう。

 だがガルシアには確かに理解できる。

 「何てことだ」振り返り見回す。「彼らはヘブライ語を話している」

 舌がないため発音はまったく異なる。しかし音同士を突き合わせて考えれば、確かにヘブライ語の文法に則った話し方をしている。

 「アダムの言語、主なる神の言語だ」マテオの顔には汗が滴っている。顔を拭こうとしてガラスの表面を撫でる。「かつてバベルの塔が崩壊するまで人々が話していたただ一つの言語」

 「それじゃ彼らは、イスラエル十二士族のうち行方知らずの十士族のどれか――」まさか。首を振る。

 「とにかく中だ」

 門の中には意外にも、あっさり入ることができる。あの堂々とした建築物は神殿だろうか? 開かれた屋根から煙が立ち上り、縋りつく乞食が一行の正体に気づき離れる。ということはこちらは市場だ。ナイフや食器、壺など見慣れたもの、金属片なのか果物なのか得体のしれないもの。四つ足の獣までいる。蹄が分かれていないが、とかげのように脚が短く、長い尾を上にして肉が吊るされているのだが、剥かれた皮の下、肉の形まで柔らかな立体が組み合わさってできている。これが彼らの羊にあたるのか。ここでものぼりに向かって人々は手を向けゆらゆら揺らす。六本の指は人間と違い、どちら側にも折り曲げられるようだ。

 「イエズス会士よ、彼らが何と言っているのか分からんのか」見回し舌打ちする。「こいつらときたら、何を考えているのかさっぱりだ」

 「分からない。どうも『ここにいる、ここにいる』と言っているようだが」

 いつの間にか人波に押され、反対側の門までたどり着いてしまったようだ。異人たちはさらに町のはずれ、丘に向かって一行を導く。
丘。

 「まさか」

 十字架が立っている。三本の十字架。両端の二本は罪人のもの。中央の一本は。

 ユダヤ人の王。

 彼は――この星の異人に性別というものがあるのなら――他の者と異なる姿をしていた。大人なのに人間ほどの背丈しかなく、皮膜が身体を覆い、ただ鮮やかな赤色は脱色し青白く、乾いていた。生まれつきの病に侵されていた。指は五本しかなく、両脇の罪人が指を外側に折り曲げ十字架に食い込ませているのに、彼の指はすべて内側に折れ曲がり、何も掴むものがなかった。顔を覆う皮膜の一部には切れ込みが入っていて、ぬらぬらとした赤いものがそこから垂れ下がっていた。頭頂部は黒く、柔らかい糸くずの立体にびっしりと覆われていて、奇妙にもまったく同じものが一部、下あごからも生えていた。頭には黒い輪が、とげの生えた枯れ枝で編まれた冠が頂かれ、赤い血を流していた。右の脇腹に刺し傷があり、両手両足は釘で貫かれていた。

 死んでいた。

 列の先頭にいたアンドレアはとうにのぼりを放して駆けだしていた。ひれ伏し、顔を上げ、足元に近づき接吻しようと顔を近づける。だが無理だ。ガラスの兜を被っている。

 兜にべったりと血が付着する。

 気を失ったアンドレアが崩れ落ちる。

 

 見知らぬ男が食卓についている。

 人間だ。手には虹色の刻印がある。しかし宇宙鎧を身につけておらず、生身でそこに座っている。髪もひげも伸び放題だ。食卓の上には水の入った杯が置いてある。

 「誰だよお前ら」

 「貴殿がもしや――」

 「フェルナンデスだ」

 「これは失礼した。消え失せたのかと思っていた」頭巾を脱ぐ。「マテオだ」

 「私がガルシア。奥の二人がキルヒナーとアンドレアだ」

 入ってきた二人が頭を下げ、両手で提げていたイエスの亡骸を長椅子の上にどすんと横たえる。

 「おい。おい」

 「貴殿は今までいったいどこで油を売っていたのだ」マテオが詰め寄る。

 「あ? ああ、それはな。そいつだよ」イエスの亡骸に向かってあごをしゃくる。「たまたま町で見かけて、きっとお宅らこういうもんがお気に召すんじゃないかと思ったんだが」はあ、とため息。「どうやら大層お気に召したご様子で」

 「見ていたのか? 殺されるのを? 黙って、何もせず」

 「何ができるんだよこの俺に。連中が何言ってるかも分かんねえ」

 「この星の異人たちが話しているのはヘブライ語だ」

 「へえ、ユダヤ人か」

 アンドレアはまだ泣いている。兜の中はありとあらゆる体液でぐしゃぐしゃだ。

 「それ、脱いだらどうだ」

 「平気なのか」

 「平気じゃなかったらそもそも異人は渡航許可など出さない。手術を受けただろ? 鎧は飾りだよ。俺たちが粗相をしでかさないよう連中はこいつを通じて見張ってるんだ」手の甲の刻印を指で叩く。「奴ら、千年程度の文明の差は誤差だと思ってる癖に、こういうとこはうるせえんだ――とにかくそれを着てたんじゃお前ら、用を足すのも大変だろ」

 「あいにく、我々はそれどころではなかった」扉の外からくぼ地の様子が見える。もう陽はとうに暮れている、だがもう一つの太陽はなお赤く輝き、外の様子もぼんやりとうかがえる。

 「ここの太陽は半分ぐらいの時間で回ってるんだ。もう一つは天の北極辺りにあるから、全然沈まない」水を張った兜から例のイソギンチャクのような生き物を掴み出し丸かじりする。

 「食えるのか」いや、そもそも食うのか?

 「ポリポリしてうめえんだ」確かに骨がある。「まさか“ひれやうろこのないものは”“すべて汚らわしいもので”“食べてはならない”15なんて言うつもりか? この星の生き物は俺たちでも食える。逆もまた然り。ごみの下に羊の骨があるだろ? 羊はどうしたんだ」

 「我々は十日ほど滞在してすぐ地球に引き返す」

 ぶっ。

 口からイソギンチャクを盛大に吐き出す。

 「冗談じゃねえ!」立ち上がる。「俺は帰るんだ。こんな訳の分からない星はごめんだ、今すぐにも帰りたいんだ。俺は代わりにお前らが残るものだと思ってたんだぞ。手紙は見ただろ? お前ら坊主の間ではどういう話になってるんだ? お前らいったい何しに来たんだ? 何人だ? あの馬鹿みたいな宇宙船に何人乗ってんだ?」

 「八人」

 「八?」指を曲げて数えだす。すると足りる。足りるどころか余る。「遊びに来たのか?」

 「落ち着き給え」マテオが革帯に挟んだ手紙を取り出す。「我らの主なる教皇聖下から賜った勅許状がある。貴殿に対ししかるべき地位と報酬、年金を約束するものだ」ロウに押された印璽を見せる。

 封を砕く。「300ドゥカート。はっ!」手紙を振り回す。「さっきからいい加減にしてほしいね。俺はあの、ヴァスコ・ダ・ガマやアメリゴ・ヴェスプッチに匹敵、いや、それ以上の偉大な発見を成し遂げた男だぞ。それをたかだか金貨三百枚で」

 「まあ待つんだ」ガルシアが割って入る。「私たちはまだこの星に到着したばかりだ。用も足してないし何も口にしてない。だがこの星が、あなたの主張する特別な星であるということの証拠の数々は目にした――ローマはあなたの報告を受けてはいるはずだ、だが、彼らは疑り深いのだ。ローマには我々からも書簡で報告するし、さらに調査を進めれば一層の報酬をあなたは期待できるようになる。我々が取り図ろう。だろ?」

 「そうだな」しかめっ面のマテオが答える。

 「ということは」キルヒナーが亡骸を担ぎ上げる。「まずはこれですね」

 イエス。

 確かにこれは人間ではない。明らかにこの星の異人の特徴を備えている。皮膜からはうっすらと黒い骨格が透けて見える。口から見える舌もただの皮膚の病気で、あごの下に本来の、食物を取り入れる口がある。

 「神殿で聞いたのだが、彼は狂人だったそうだ。突然自らを神の子と主張し、神の国は近づいたと叫び、神殿を破壊しようとして捕らえられ、処刑された」

 以上。

 「へえ、信者は? マリア様だの何だのはいないのか」

 「親に捨てられ孤児だった。醜い狂人の言葉など誰も覚えていない」

 「そもそも、これはキリストだ、などということがあり得るのでしょうか」

 「“私は、祭壇上で私の名によってパンと葡萄酒が捧げられるとき、それを私の力と栄光で照らしつつ、私のあの独り子の体と血へと驚くべき力で変化させる”16。聖体拝領のとき、私たちが口に入れるパンや葡萄酒はキリストの肉体へと実体的に変化している。歴史はミサの毎に繰り返されているわけだ」

 「“しかしこのことは、霊的にそうなのであって、肉的にそうなのではない”17。イエズス会士よ、忘れるな。見た目が同じだけなら“きゅうり畑のかかしと同じ”18だ」

 「それには同意する。その意味で確かにこれはキリストではない。だがそれは、あくまで我々にとって、であるはずだ」

 「どういう意味だ」

 「つまりこの異人は、我々にとってのキリストではなく、この星のキリスト、この星の異人たちの罪をあがなうためのキリストだ。我々においては確かにキリストによって新しい契約がもたらされた。しかし彼らにとってはまだそうではない」

 「それは誤りだ。“どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない”19。たとえ異人であろうとも主なる神によって造られた被造物である以上、やはりキリストによって救われるのであり、よって“あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい”20という」

 「異人への布教はトリエント公会議によって断念されている。異人たちは布教目的の渡航を許可していない。だが異人たちがそれによって救われない、という根拠も存在しない。彼らにはまだキリストが現われていないだけだったのだ。異人たちには異人たちのキリストが存在するはずだ」

 「しかしそれならば」兜を脱いで、杯に入った水を飲み干す。硫黄臭い。「なぜ彼らのキリストは我々のキリストと違って、使徒も、聖母マリアもいないのだ――いや、そもそもなぜ彼らと同じ姿をしておらず、我々のキリストと同じ姿をしている」

 「彼らの主なる神は決して彼らと似ていない。“わたしをおまえに似たものに見なすのか”21。フェルナンデスから送られた手紙にもあっただろう」

 「は?」話の矛先が自分に向かうとは思っていなかったらしい。「何だそれ」

 「ヘブライ語で書いてあっただろう。『我々に似ていないものとして、人を造ろう』」

 「何だそれ、俺は」

 「ともかく彼らが神に似ていない――霊的な意味でなくて、文字通りの意味で似ていない以上、受肉した神が彼らに似ていなくても問題ないはずだ。また、彼らがヘブライ語を話す以上、それは主なる神から別の形でもたらされた律法として有効だ。彼らには彼らなりの律法があり、旧い契約がある以上、新しい契約も我々と違った形でもたらされる。そして我々のキリストと彼が似ている理由もここにある」

 「どこだ? 私にはどこにあるのか分からないぞ、イエズス会士」

 「もし異人たちのためのキリストが目の前に現れたとしても、異人たちは今回のように彼らの新しい契約をそれとは認められないかもしれないし、我々は我々で、知覚によってそれをキリストと認めることが妨げられてしまうかもしれない。“われわれの認識はすべて感覚に端を発する”ので“人間にとっては、可感的なことがらを通して可知的なことがらに到達するのがその本性に適合している”22。つまりそれが我々の知るキリストの姿をしているなら、我々にとって、主なる神の意図されることは明らかだ。我々は異人たちに彼の残した言動についてもっと注意を向けさせることができる――これは決して布教には当たらない。そしてこのように考えるならば、なぜ我々がこの星に来たのか、なぜこの星でこのキリスト、我々のキリストではない彼らのキリストに遭遇できたのか、主の思し召しの意味が解き明かされる」

 「“お前に示されていないことを知る必要はない”23。最後の推論は勇み足だ」

 「ですが師よ、“わたしとしては、やみくもに”24

 「アンドレア」

 「はい」

 「黙ってろ!」

 「何でもいいけど早くしてほしいね」鼻毛を抜きながらフェルナンデスがぼやく。「もう一度言おうか? 俺は早く帰りたいんだ。それとその何やら分からない死体を俺の家の中に置いておくのも勘弁してもらいたいね」

 ぱん、と手を打ったのはキルヒナーだ。

 「どうでしょう。この辺りで自分の提案が必要なのでは」

 何を言ってるんだこいつは、というマテオの顔。

 気にしない。「二日、待ってみましょう」

 「二日」

 「ふん、なるほど。“自分は三日後に復活する”25、つまり金曜の夜に死んで日曜の朝蘇るというわけか」

 「確かに」ガルシアは状況を整理する。今の状況ではどちらの意見も、いわば机上の空論に過ぎない。彼はただ十字架にかけられ、亡くなった哀れな異人に過ぎないのだ。これ以上の何かを結論づけたいなら、お互い時が来るまで待つしかないだろう。「そしてもし奇蹟が起これば、フェルナンデス、あなたも確かに満足な謝礼を得られるというものだ」

 「そりゃ結構だ。で、二日というのはこの星のか? それとも地球の時間で、つまりだいたい四日後のことか」

 「念を入れて後者の方がいい」ガルシアが立ち上がる。「この亡骸は宇宙船に運び入れよう。聖堂がふさわしい」

 

 雨が降っている。

 神殿の奥には地下へ通じる道がある。階段を下り、ひたすら下り、するとそこは町のすべてを吞み込んでまだあまりあるほどの空洞、ひときわ巨大で、薄暗く、そして常に雨が降り、雨は穴だらけの大地に染み込み水は消えていく。あらゆるものに染みついていた硫黄の臭いはここではしない――香を焚いたような不思議な匂い。天井から漏れる白くやわらかい光が、時折雲に遮られる。地下なのに雲? キルヒナーとアンドレアは、静かで冷たい空間を、一人の青年に導かれて進む。青年は風で自分の名前を語ったが、むろん二人には分からない。身体の中央、まるで心臓のように金色に輝く立体があるが、むろん、彼らの心臓にあたるものがそこにあるとは限らない。

 一行は短い眠りを終えると日の出とともに祈り、再び異人たちのエルサレムへと赴いた。師二人が神殿にて彼らの習俗の詳しい調査をしている間に、キルヒナーはこの世界の、多くの自然学的な知見を手にしていた。書字板をかざし、ヘブライ語を書いて尋ねると、あっという間に皆の答えで書字板が埋まる。

 異人たちは大地が球形であることを確かな経験として知っていた。それは彼らが住まうこの大地と関係している。これはいわば巨大な浮島で、硫黄が吹き出る海の上を海流に逆らい動き回っているのだ。それはあまりにわずかな動きなので感じることができないが、大洋や星の動きは確かにそれを伝えている。このような大陸は318存在する。常に星の夏の部分に付き従う常夏の島があり、風が一方向から吹き続けるように絶えず回転している島がある。

 そしてこの島、キルヒナーのいるこの大地は、奇蹟を求めて動くのだ。

 奇蹟。キルヒナーが目にした文書にも、確かに奇蹟と記されていた。奇蹟を察知する。同じ力は異人たちにもある。ごうごうと、風の音にしかキルヒナーには聞こえないので、師の助けを借りるしかなかったが、確かに彼らはそう言っている。

 「それでも奇蹟は彼らにとっても超自然的なものであることに変わりはない。ただ“自然本性的に可感的なるものから受け取られる表象よりもより多く”」

 「“預言者の直観”26だね」

 「そう。直観によって神的なことがらを人間よりもより多く捉えられる」奇蹟の先触れがあるのだ。「彼らの身体に、自分やその、アンドレア、君のような人間とは違う何かの感覚器官があって、それで捉えているのかもしれない」

 「それは、神が被造物に対して実行されようとしている奇蹟を、先回りして感じ取っているということかな?」

 「いや、そう考えるべきじゃなくて、もっとこれは自然学的に」

 ばっ、と周囲が一瞬光り、その中でキルヒナーは、アンドレアの瞳が、天井からの暗い光では見通せないほど輝いていて、まっすぐこちらを見つめている、それを見る。“いかなる人をも見つめてはならない”27というのが彼らの規則ではなかったかと思う、いや、でもあれは、確か異性についてだっけ、「キルヒナー?」

 え?

 「あ、うん」

 「きみは、さっきの見た?」

 青年が、ひゅうひゅう叫ぶ。誰かが、ひゅうと答える。

 「上の方で、ばっと稲妻が走ったんだよ」彼はその瞬間こちらを向いていたのに、おかしなことだ。

 「うん、でも雨が降ってるし、雲もあるんだから、稲妻も走るんじゃないかな」気にしないことだ。「むしろなぜ、水が流れているのか」もちろん地上の水が濾過されて、地下水となって流れているということがある。「いや、それだけじゃなくて。たとえば冷却。身体の温められた血液は脳によって冷却される――ここはこの島の脳に当たる、とか」

 「生き物なの?」

 「同じような立体でできていて、同じように動くのだから」足場が濡れているのに、青年の足取りはなんとも軽いものだ。岩のわずかなくぼみを凸凹した足の裏で捉えているのだ。書字板に何かを書きつけて、目を凝らしてどうにか解読してみれば、この先、海岸近くに出られるらしい。そういえば波の音がする――いや、おかしい、いくら海が近くてもこうはっきり聞こえるものじゃない。遠くの方にちらちらと、ランプを手にした異人らしき姿が浮かぶ。さらに近づく、するとようやく波の音の正体が分かる。市場で見たとかげと羊のあいの子が、びっしり張り付いているのだ。異人たちがランプを振るたび、群れがさざ波のような音を立てて移動する。ということは雲の正体は、とかげたちが天井を隠すからなのか。ぴいっと鋭い声を発しながら青年がキルヒナーを押す、そこをかすめて不思議な匂いの糞が落ちてくる。危なかった。

 「キルヒナー」

 「うん?」

 「きれいだね」

 「うん」

 天井からの青白い光を遮るとかげたちの作る影が水たまりの上で揺れる。足を踏み出すと水が跳ね上がり、空間にささやかな反響を残す。羊飼いがゆっくりとランプを回すと天井がゆらめき、見上げると音もなく降り注ぐ雨粒が、虹を形作っている。

 「天井から太陽光が漏れてるにしては、あまりに明るすぎるから」何が原因なのだろうか。空洞の立体に水滴が溜まりレンズの役割を果たしているのか、それとも蛍のように発光する生物が取りついているのか。

 「“聖書の真理が『すべてのものは極めて美しかった』と述べているのだから、美しさの分有をまったく与えられていないものは万物のうちには一つもない”28」突然アンドレアが語りだす。「“物質といえども、真に美しい者から存在を得ているので、それによって人は非物質的な元の下へ上昇することができる”29

 だけど思う、とアンドレアは続ける。「美しさって感覚によって、初めてぼくらの内に得られるものじゃないか」左手を天井に向かってかざす。手の甲には虹色の刻印が押されている――滴が彼の額に落ちる。「人それぞれによって違う感覚がある。違う美しさを感じている。なのに、ぼくらは天上の、同じ神様を見ることができるって言えるんだろうか? 同じ神を見ているつもりで、本当はぜんぜん、違うものを見て、違うものについて語ってるんじゃないだろうか。そうしたら、いったい、ぼくらはどうやって分かりあうことができるんだろう?」

 どうなんだろう。キルヒナーは自然科学は得意だが、どうも、神学的なことには疎いのだ。

 「それじゃまるで本末転倒じゃないか」アンドレアは笑う。「きみは不思議な人だね。将来、どうありたいの?」

 「一つだけ目標があって」照れくさいけど、言う。「いつか本を書きたい。この旅で自分が経験した不思議なこと、全部にちゃんとした説明がつくはずなんだ。師だって自分に期待してくれてる。だからもっといろんなことを知って、全部について考えたい。森羅万象について、自分の知ってることを全部書き出して」

 「森羅万象」面白そうに繰り返す。「じゃあそれを読めば、きみのことも分かるかな」

 「きっと」

 

 二人はフェルナンデスの元に戻ったが、ガルシアとマテオは日が高く上るまでなお、異人たちと話を続けていた。

 「整理しよう」

 まず、彼らはヘブライ語を話す。自らをユダヤ人と自称し、律法に従って生きているが、出エジプトやバビロン捕囚に相当する出来事はない。預言者の名前も大きく異なっている。だが天地創造や十戒の内容などはほぼ同じだ。神殿にいる律法学者と会話をしてみても、驚くほど価値観が似通っていて、話に聞いた異星の異人とはまったく異なっている。彼らもおおむねこちらに協力的だ。だがイエスについては、厄介者の狂人だとしか認識してなかったようだ。彼らは最後に、二人に神学上の問題を尋ねた――主なる神が使っている「口」という言葉は、いったい我々の身体で言えばどの部分を指すのか?

 「変わった連中だったな」だが、たかだかこの程度しか変わっていない。「何よりヘブライ語を話しているのが決定的だ。私の考えでは、今のところじゅうぶん、彼らは『神の存在を証明する星』の住民にふさわしいように思えるね」

 しかしマテオは何かを考え込んでいる。

 「あなたの心配も理解できなくはないです。あまりにもできすぎている、異人の気まぐれかフェルナンデスの企んだ大がかりな詐欺か」

 「イエズス会士よ。私はそんな下らない心配に心を砕いているのではない」

 「それは悪い」

 「貴様も見ただろう、あの預言者のための部屋を」大きな広間に机が何十も並べられ、間仕切りで互いが見えないようにされていた。預言者と名乗る大勢のものが机の上でペンを走らせていた。書き上げられたものは次々と回収される。それは聖書の一節だった。全ての預言者が似た文言を、互いに知らず、ただ何かに語りかけられ、書き写していた。いくつかの違いがある文言を比較し最も正確と思われるものが、正しい一節として採用された。

 その一節にもこう書かれていた。――我々に似ていないものとして、人を造ろう。

 「そうだ、フェルナンデスはあの書簡を送ってはいなかった」謎だ。「しかし、ああやって神に与えられた聖書を書き写し続けているなら、いまさらなぜ創世記を?」聞けば最近急に、預言者たちが以前語られた一節と同じ言葉を繰り返すようになったらしいのだ。

 「私は」マテオが重々しくつぶやく。「嫌な予感がする」

 だがその嫌な予感の内容は語らない。話は続かない。彼らはこの大地の海岸線に沿って歩いている。潮風の代わりに酷い硫黄の臭いがする。風の強い日は異人たちですら近寄れないそうだ。島が動くこともあり、異人たちは船を使わない。晴れならここから、隣り合った島が見えるらしいが、あいにく太陽は二つとも隠れてしまっている。海の水は温く、陽のぬくもりが少ないこの星の大気を暖めている。

 「何だろう、あれは」

 ちょうど道が分岐する辺り、何やら人だかりができている。

 二人が見てみるとひとりの異人が死んでいる。どうやら落ちてきた岩に頭を押しつぶされたらしい。体の構造は分からないまでも、とにかく異人にとってこれは致命傷のようだ。強い風が吹いている。

 岩?

 「岩だって?」

 岩だ。確かに何の変哲もない普通の岩。おそらく花崗岩。辺りを見渡す。どこも立体。花崗岩など落ちていない。もしかしたら海の底にはこのような岩が転がっているのかもしれない、が、なぜここに。

 ぴい、と誰かが鋭い声を上げる。

 上を見上げる。目を凝らす。

 空の一部が球形に歪んでいる。

 

 兜をひっくり返したガラスの器の中で赤子が立ち上がるのを三人は眺めている。

 キルヒナー、アンドレア、フェルナンデス。見ている前で赤子は器の淵に手をかけ、乗り出し、その間器の中にはさざ波も立たないのでこれが幻だと分かる。そのまま器から身を乗り出して、食卓の上に降りると、数歩歩いて食卓から落ちる。

 ふわりと着地。そしてそのままかわいいお尻を振り振り部屋から歩き去る。

 「葡萄酒を飲み過ぎたか」長椅子に伸びているフェルナンデスがつぶやく。

 「ぼくたちは飲んでいません」

 「“このことと似た話を以前に読んだことがある”30」キルヒナーが板張りの床に指を這わせ、足跡を確認する。ない。「そもそも奇蹟とは何だろう」修道院で、聖堂で、地球でもキルヒナーは奇蹟の噂を聞いたことがある。大部分は聖人のとりなしによる病気の治癒だ。「この星で起こる奇蹟はその大部分が幻視らしい。だけど幻視とは? つまり」ガラスの兜を指ではじくと鋭い音がする。「自分が見た光景は何で幻だと言えて、このテーブルや器や葡萄酒のビンは幻ではないのだろう」

 「くだらねえ」

 「不自然だからじゃないかな。最初この部屋に入った時、僕らはイソギンチャクを見てとても奇妙で、不自然なものがあると思った。だからそれこそ幻だと思った」

 「じゃあ自然ってなんだろう」

 「それが当たり前のものとして受け入れられるかどうか、とか」

 「自分はこの星に来てから数多くの不思議な出来事を目の当たりにしてきた」この星では不思議なことが当たり前なのだ。が、だからといって不思議なことは自然にはならない。異人たちの姿が不思議なのと、歩き去る赤子が不思議なのとは話が違う。「そこに足りないのは、たとえば、ええとつまり、因果だ」

 「因果」

 「たとえばその葡萄酒は自分らが地球から運んできてフェルナンデス氏に贈ったものである」

 「おかげさまで」

 「そしてその器は、もともと宇宙鎧の兜として利用していたものだ。そうやって原因を突き詰めていけば、この部屋にあるもの、この部屋で起こる現象にはだいたいの説明がつく」ところが器の中に赤ん坊がいること、その赤ん坊が消えてしまうことが不自然なのは、この部屋の中の因果関係に組み込めない。

 「ふうん。つまりあれだね、伝令室みたいなものだね」

 「伝令室?」びっくりする。何で伝令室が出てくるのだろうか。

 「だって伝令室による手紙のやり取りはこの宇宙の速さの限界、物事が生起して、それを確認できる速さの限界を超えてるんだよ。それはつまり、因果律を越えているということだよ。伝令室を使ったやり取りは距離があまりにも離れてるから、ぼくらは逆に、そのことの不自然さに気がつかない」

 「ううん。いや、僕はそう考えたことはなかったけど、何となく分かる。つまり伝令室で起こってることは一種の預言だってことか」預言とはつまり、出来事が確認される前に、その結果の手紙を神から受け取ることなのだ。「奇蹟についても、神はそれを引き起こすために遠隔力、重力の類を使っている。重力を調整することで塵や雲を集めてる」

 「馬鹿野郎」

 「外だ!」

 扉が乱暴に開け放たれ駆けこんできたのはガルシアとマテオ、「三人とも、外は見たか」

 「いえ。何やら風が強いようですが」

 「今すぐ見るんだ」

 フェルナンデスが崩れ落ちる。

促され外に出る。風が強い。見上げた二人は空に一点、太陽よりわずかに小さく、ゆっくりと移動している闇を見る。

 闇夜。

 空の一部分だけが円形に切り取られ、そこに闇夜が浮かんでいる。

 「どう思う」

 「師よ」キルヒナーは自分の目が信じられない。「あれは宙洞です。自分にはそう見えます」

 既に地平線が地球のそれよりも控えめな橙色に燃えている。もう一つの太陽がゆっくりと、だが心持ち早く顔を、姿を消し、くすんだ青い闇に染まる。だが宙洞はその中で、なお一層深い暗黒を浮かび上がらせ、そしてそこから外れ今度は青空が、陽の光を失ってなお消え失せない球形の空が、やはり一角に浮かんでいるのだ。

 さらに。

 一行の見ている前、真上で雲がガラスを通して眺めるように歪み、収縮し、ぶつりと切れ、針で穴を開けたように砂色の点が穿たれそこから砂が吐き出されこの星の大地に、一行に向かって降り注ぐ。思わず身を引くのだが頭上から逸れていき、あれは恐らく町の近く、海に向かって、この距離では判別しがたいのだがそれは砂、土砂、岩石、

 「あれは」

 一行にもはっきり見えた。岩石に混じって落ちてきたあれは星々を旅する異人が用いる宇宙船の船首、それも月に影を映すような大型船だ。輝く純白の切先、宇宙に出た者なら誰もが見たことがある、決して人間には作れない畏敬と羨望の対象が無残にも引き裂かれ重力に引かれて海に落ちる。巨大な水柱。大地が震え、この震えは衝撃によるものではない。思わずかがみこむ。地震だ。

 「何が起こっているのだ」

 「恐らくあの宙洞は、どこかの惑星の地表とつながっているのです。それが三つ」

 そんなことがありえるのか、とガルシアは言いかけたが、しかし、ありえないことが起こるのがこの星だ。「ではあの雲はなんだ」

宙洞から線状の白い雲がまっすぐ伸びている。

 「隕石が落下するとき、あのような雲ができると聞きました」

 隕石? それにしては長い間とどまっている。「キルヒナー、あの宙洞は隕石ではなく彗星ではないのか」

 「彗星は天のもっと高い場所にとどまる星です。宙洞から落下した船首が目で知覚できる、つまり月よりずっと低い」それでも隕石のように落ちてこないのは、「何らかの重力、遠隔力による操作が行われているからではないでしょうか」

 「我々の宇宙船のようにか」

 「主なる神のようにです」

 「なんだと」

 「あれを見てください」アンドレアが指さす。「雲はもしかして弧を描いているのではないですか」

 「どういうことだ、旋回している」

 「あれも恐らく遠隔力のなせる業」

 「イエズス会士よ、お前の弟子は何でも遠隔力だな」

 「ではもっと説得力ある推論を」にらみつける。「ご自分で立ててみてはいかがですか?」

 「おい貴様」

 「待つんだ」ガルシアが割って入る。「申し訳ない。キルヒナー、頭を下げろ」

 「大した弟子だな」

 「“夢や空想が多いと饒舌になる”31。彼の悪い癖です」自らも頭を下げる。「ともかく、もっと近くで様子を見てみましょう。町に行けば何が起こっているかよりはっきり分かる」

 

 門はあっけなく崩れ落ちていた。

 入り口から見えていたはずの神殿も、邸宅も、建造物のほとんどががれきの山と化していた。泣き声、うめき声、叫び、それらすべての風のうねりがごうごうと吹き荒れている。大地は繰り返し震動し、一行の見ている前でまた建物が崩れ落ちた。

 神殿の前は特にひどい混乱だ。傷ついた大勢の異人が横たわっている。半透明の幕が張られていて、魚卵のようなものがいくつもぶら下がり、子供のように皮膜で全身を覆った異人が走り回る。医師だと思われる彼らは傷口に泥を塗ったり、魚卵に管を通して身体に注入したり、ひびの入った立体を刃物でこじり色とりどりの同じ大きさの立体と取り換えていく。この立体は神殿のさらに奥で育てられていた何頭かの特別な家畜から得られたようだ。身体の立体があちこち潰れた重症者が運び込まれ、医者たちは刃物で立体を切り分けあっという間に一人の異人が平面に切り開かれてしまった。そうしてから立体の一つ一つを取り換える――見物している余裕はない。幕の内側には医師と怪我人以外入れないので、キルヒナーとアンドレアは師と別れ、あちこちから怪我人を連れ、泥を塗る役割を買って出る。

 地下へと向かう道はさらにひどい混乱だった。ガルシアとマテオもそちらへ向かったのだが、自分の背よりはるかに高い異人に囲まれて自由に進めない。誰かが鋭い声を上げ、反応した人々がさらに地下へと急ぐ。ところが地下ではさらなる異変が起きていた。

 火花の洪水だった。

 稲妻が絶えず、激しく頭上で起こり、ばちばちという音が反響し洞窟は煌々と照らされている。町を抜けようと押し流される人々の間で、逃げ遅れた家畜が鳴いている。足が滑る。何しろ異人たちはかかとで走るのだ、巻き込まれないようにするのが精いっぱいである。いくつもの笛の音、警告が重なる中稲妻で体を焼かれたとかげが落ちてくる。見かねた異人が貸した手を、精いっぱいに右手を伸ばしどうにか掴む。

 そのまま地上へと押し出される。すると山だ。ただし土砂と岩石でできている。

 「牛がいる」

 牛がいた。

 懐かしき、地球の見慣れた牛が足を引きずりのそりと歩く。異人たちは見慣れない怪物にしゅっ、しゅっと息を送る。牛は委細構わず尾を振っている。よく見れば牛だけではない。地球の羊や馬、そして何やら見たこともない生き物――脚の生えた魚、顔だけの蛇、馬のように巨大な肉色のいなご、そして地球でもこの星でも見たことのないような異人、これらはほとんどが土砂に押しつぶされ、わずかに体の一部分だけを覗かせている。

 上から降って来たのだ。山が峰を形作っているのは宙洞の旋回した跡だ。

 「ここには昨日、海岸線があったはずだ」地面が隆起し、昨日ガルシアが訪れた時とまったく地形が変わってしまっている。何だこの丘陵は? 海岸がえぐれ、強い力が押し寄せたように歪み、だが津波ではない、頂の先、彼方に巨大な手が天高くそびえたつ。

 手。

 馬鹿な。

 そんな馬鹿なと人波に逆らい息切らし丘の頂から見下ろせば、断崖絶壁、波散る海がはるか下、遠くにあると聞いた島、それが今宵の太陽の下くっきり見えるほど目の前に姿を見せており、手、手を形作っていたのはその島だ。岬が姿を変え、空を掴むように右手を高々と上げ、なおガルシアの目の前で、大地を構成する立体が組み方を変化させ、手は腕を伸ばし、太く、大きくたくましく、助けを求める対岸の異人たちを巻き込み振り落とし、悲鳴があがる。そして腕の奥、遠くまで広がる地面が大きく波打ち、隆起して、何やらこぶのような形状に変化していくのだがそれは頭である。大地が、手、頭と、人の形、人間ともこの星の異人とも違う形でありながら、確かに何らかの人の形へと変貌しようとしている。

 頭のてっぺんがめりめりと裂け文字通りの地の底から響く咆哮を上げる。何かに反応している。浮島を構成する生物、そう、間違いなく彼らは生物だ、彼らにとって苦痛を伴う何かが、彼らの姿かたちを歪め、変わることを強いているのだ。それを証拠にあちらこちらで大地を構成する立体がぼろぼろと崩れ始め海中に没し、あるいは陥没を起こしている。目の前の丘陵がぐずぐずと潰れていく、その山めがけて何か黒い大きな塊が空から、ざあっと、手だ。向かいの島から手が伸びてきて崩れた大地を鷲掴みにして頭に放り込む。

 そして見よ、彼らの手が届かぬはるか上、夜なお沈まぬ太陽の、一部がわずかに欠けている。

 「手前に宙洞がある」これで四つ。

 「“第四の天使がラッパを吹いた。すると太陽の三分の一、月の三分の一、星という星の三分の一が損なわれた”32」マテオが震えている。「“不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに”33

 黙示録の一節。「この地に主の日が訪れたということなのか」だがそれだけではない。ガルシアは指す。「見ろ、『我々に似ていないものとして、人を造ろう』。あれは単なる聖書の繰り返しではない。我々人間、この星の異人たちに次ぐ第三の人間が作られつつある。“主なる神は、土の塵で人を形づくり”“人はこうして生きる者となった”34」もし神が今ある秩序と別に、新たなる創造を行いうるのであれば、このように、一度秩序あるものとして造られた世界を無秩序なものとみなして、その上から別の秩序を立てることもできるのではないか。

 「創世記と黙示録がコインの表と裏のように同時に成りたつと」馬鹿な、とマテオはかぶりを振る。大地が沸騰し巨人に化けるこの光景が、新たなる秩序?

 「しかし」ガルシアには別の疑問が浮かぶ。「まだキリストは復活していない。復活を待たずして彼らは罰せられてしまうのか」

 「連中の心配をしているのはいいが、このまま異変が続けば我々の命も危ういぞ」

 「キルヒナー!」弟子を呼び戻さねば。「船へ、教会へ戻ろう。急げ!」

 

 地平線のかなたから現れたる二頭の馬の背にはそれぞれガルシアとキルヒナー、マテオとアンドレア、彼らはあの混乱の中から奇跡的に無傷の、地球の馬を救い出すことができたのだ。裸馬を乗りこなすのは容易なことではなかったが、何とか二人と合流し無事フェルナンデスの小屋に到着した。

 「もう一刻の猶予もならん、今すぐ出発すべきだ」マテオがまくし立てる。「ローマからの書簡を待っている余裕はない」

 「しかしそれではキリストは」

 「この星のキリストは結局この星の問題だ。我々の知ったことではない。我々は彼らの歴史も、罪も、何故罰せられるかも何も知らんに等しいのだ。もしあれが彼らにとってのキリストなら、このような事態が起こる前に目覚めているはずではないか。“見よ、わたしは戸口に立って、たたいている”35。奴の立っている姿はどこだ? おおかた聖堂に横たわったままだろう。奴は反キリストだ」

 「待ってください」キルヒナー。「自分たちはまだ、ここで何が起こっているかまるで分かってない。もう少し観察すべきです、そうすればさらに多くを知り、理解できるようになる」

 「理解? このような状況で人間の理解が及ぶものなど何が残っているというのだ。空から馬が降り、地が生命を宿すこの状況で」

 「人間は経験したものしか理解できません。自分たちに理解できないのは、単純に、自分たちがまだ経験していないからではないですか」キルヒナーは続ける。「この星では奇蹟が、今も立て続けに起こっている。奇蹟とはつまり、自然における因果の法則に照らし合わせて不合理な事象が起こるということです。すべての宇宙が全体かつ無限である神に満たされている以上、自分たちが経験できない、認識できない微細な領域においてそのような奇蹟は常に起こっていてもおかしくない――たとえば真空中において微細な粒子が生まれ、それが我々に認識されることなく消滅するといったことも考えられる」

 「むちゃくちゃだ。貴様は舌先で経験を重んじるなどと言いつつ、経験不可能な妄想、魔術師のたわごとを抜かしている。経験したことしか理解できないなら、なぜ微細な粒子が生まれ出るなどと言える」

「言えてます。が、が――自分が言いたいのは、つまり、奇蹟とはつねに、自分たち人間にとって可感的なものである、そのような前提こそがむしろ不自然なのではないかということです。奇蹟が人間にとって可感的であるためにはある種の偏り、もしくは主なる神の意志が必要になる。逆に言えば、奇蹟を目の当たりにすることによって自分たち人間はその奇蹟を統御する人格的存在、主なる神を理性によって組み上げることができるのです。啓示とはそのようなもののはずです。たとえば天地創造において、自分たちは自然理性によって万物に原因があること、そのようなものとしての主なる神が存在することを知ることができるのですが、それはまさに因果を越えた、時間以前の」

 「間違った解釈だ!」激しく食卓を叩く。「“初めに、神は天地を創造された”36。つまり主なる神は時間の中で創造を行ったのだ」

 「“聖書はこの個所では、いくつかの個所でそうしているように、人々の一般的な話法に従っているのである。これらは字義どおりに受け取ってはならない”37。どちらにせよ、この場にとどまればすべてはっきりします」

 「はっきりさせる必要などない! 貴様は」大きく深呼吸する。「貴様はつまり、奇蹟を観測し、測定し、人間ごときの知恵で分解して扱おうとしているだ。貴様は主なる神の御業をばねや振り子のように扱おうというのか」

 アンドレアが手を上げる。

 「何だ」

 「ばねや振り子をぼくたちが扱えるのは、主なる神によって与えられた魂の働きによるものです。神がそう望まれるなら、ぼくたちは何においても理性を最大限働かせて」

 「手を出せ」

 口をつぐむ。

 沈黙。

 「手を出せアンドレア!」

 差し出された両掌に向かって箆が打ち下ろされ、アンドレアは平伏する。

 「お前は私を非難するために口を開くのか!」

 沈黙。

 「舌で答えろ!」

 「マテオ司祭、兄弟よ、あなたは少し落ち着くべきだ。誰もあなたを非難してはいない」見かねたガルシア。「私たちの目的は神の存在を証明する惑星に赴くことだったはずだ。それならば何か新しい知識が付け加わり、それによって理性が新しい判断を下すことになるのは当然だ」

 「教会なしに我々が主なる神に関する判断を行うことはできないだろう」血走った目でマテオが振り返る。「異端だ。貴様はそれでもイエズス会士か? “屍のように”38教皇に従順たれ、それが貴様らだろ」

 「それならば、間違っているのはあなたの方だ」

 「何だと?」

 「いつローマが我々に帰ってこいなどと書簡を送りつけてきた? 私が屍ならあなたは『主の犬だ』――それも余計な気を回す駄犬じゃないか」

 たちまちマテオの顔は朱に染まり拳は震え殴りかからんとするのを必死にこらえているのだがこれはマテオを非難するために口を開いたガルシアが悪いのではないか?

 食卓を挟んで睨み合う。

 「分かった」先にガルシアが口を開く。「なら三時間」

 「何だ」

 「次の陽が上るまであと六時間ある。恐らく最後の宙洞が現われるのはその頃」今のところ宙洞はだいたい二時間周期で現れている。「その半分の時間で我が弟子、キルヒナーが満足に足る発見を行う」

 キルヒナーとはもしかして、自分のことではないか。「発見するんですか」

 「そうだ。それともここで私たちが殴りあう方がいいか」

 キルヒナーが体格に優れた師と血気盛んなマテオを見比べる。

 「分かりません」

 「良くないんだ」

 「分かりました」

 「マテオ司祭、先ほどの私の発言は言い過ぎだった。あなたに許しを乞いたい」

 「分かった」息を吐く。「私も頭に血が上っていた。“日中を歩むように、品位をもって歩もう”39。確かに貴様の言い分にも一理ある。フェルナンデスは船内か? 私が伝える。アンドレア、立て。来い」

 手を挙げる。

 「何が言いたい。まさかこいつの不遜な実験に付き合うとでも言うつもりか?」

 手を下ろさない。

 「アンドレア!」

 下ろさない。アンドレアは目を伏せず、まっすぐ師の方を向いている。視線の力に手で戦うためか、マテオは今一度革帯に挟んだ箆に手を伸ばす――だがアンドレアは右手を挙げたまま動かない。

 先ほど箆で打たれた箇所が手のひらに、みみず腫れになって浮いている。

 指で触れる。

 舌打ち。

 踵を返す。

 

 「ふざけるな」

 フェルナンデスはやはり宇宙船にいた。勝手に上がり込んで空の居室に荷物をいくつか運び込み、留守の助修士を脅しつけて食堂でチーズにかぶりつく。「三時間も待てるわけねえだろ! 全員死にてえのか? 外を見ろ、現実を! あの宙洞が一つでも宇宙空間と通じてたら、この星の大気は全部吸われてなくなっちまってたんだぞ!」

 汚らしい歯形がチーズにくっきり残っている。残りひと月余り皆で、少しずつ、分けて食べるチーズ。マテオは憤慨した。教会堂に持ち込まれた硫黄の臭い!

 「貴様も調査の予定を受け入れ、報奨が上がるかもしれないと満足したではないか?」

 「いつの話だよ? え、くそ坊主」

 「なら報酬は据え置きだ」

 「なあおい、ちょっと待て、少しは考えろよ」大げさな身振り、真っ黒な爪。「お前が報告に多少色つければ済む話じゃねえか? お前だってここに残るのは反対だったそうじゃねえか、だから」

 「反対はした。だが貴様に同意する気はない」苛立つ。こいつと喋るとあまりの不快さに、自分の意見が反発して捻じ曲げられていくのが分かる。

 「フェルナンデス氏」キルヒナーだ。「小屋の伝令室を使用したいのですが」

 「あ? ああ。何に使うんだ? 手紙を地球に送るんだったら船のがあるだろ」

 「自分の考えを証明したいのです。恐らく奇蹟はあの伝令のための機械と同じ原理を用いて、この宇宙と異なる宇宙からの遠隔力によって引き起こされている。それならばこの星で頻発する奇蹟に向かって伝令室から手紙を送ることで、何か変化が起こるかもしれない」

 「おい。修練士」マテオが充血した目で睨む。「貴様はつまり、これから主なる神と書簡で対話を試みるというのか」

 「“類似をもって語る”40ということなら、それは、そうです」

 てっきりまた腹を立てるのだと思ったが、マテオはまあいい、と鼻で笑うだけ。「貴様の呼びかけに応じるものが現われるとして、果たしてそれがまともに神と判断できるようなものか。三時間後がせいぜい楽しみだな」

 「自分は神を信じています」まっすぐキルヒナーが答える。

 「当たり前だ。私は理性を信じている」行ってしまう。「大した弟子だ」

 「キルヒナー」扉口にガルシアがいる。また何かやらかしたのか、と問われれば、キルヒナーは頭を下げるしかない。図書室で若干の調べ物をする――てっきり地上に降りたので本に重さが戻っているのかと思いきや、宇宙空間に船があった時と変わらず浮き上がる。が、そもそもこの船自体が今、重力に逆らい浮いているのだから、異人たちにはこの程度、大した手間ではないのかもしれない。

 「お前は年に似合わず学識が高い。それに将来がある。これからの霊的生活の糧にしてほしい、そう思って私はお前を推薦したんだ」

 「ありがとうございます」本を戻す。

 そう思ってるなら、とガルシアは続ける。「もう少し政治を学べ。人間関係の機敏を」

 「師が自分の将来と才能を買って下さっているので、多少は無茶ができると踏んでいます。これが政治です」

 大した弟子だ。「そういうことを当人の前で言わないのが、政治という」

 地震。

 「第五のラッパ、というわけか」

 二人が外に出ると地平線すれすれにとうに沈んでしまった太陽、いや、赤い球形の宙洞が浮かんでいる。

 「お前は至急準備に取り掛かれ。私はいつでも離脱できるよう、準備する」

 と言っても彼らがこの星に持ち込んだものはせいぜい祈祷書、聖書、数冊の本、替えの下着程度である。交易や布教が目的ではないので何も持ち込んでいない。奥でキルヒナーたちが実験準備に取り掛かっている。ふと手を休め、小屋の外を見る。馬が二頭佇んでいる。彼らを連れて帰るべきだろうか? だが刻印のないものは宇宙船に乗せられない。

 とりあえず小さな包みを四つ、小脇に抱えて宇宙船に戻る。ファサードの正面から脇に逸れ、そのまま回廊伝いに居室に向かおうとするとフェルナンデスが待っていて、「これで全部なのか」

 「我々の荷物は。あなたはもうすべて荷物を運び込みましたか? 手伝いますよ」

 「そりゃ助かる。ところで今から下着を替えるからちょっと後ろを向いててくれ」

 言いながら膝下丈の水夫用パンツに手をかけずり下げるのでガルシアはあわてて後ろを向く。向きながら、なぜいきなりこんな場所で下着を脱ぎ始めるのか訝しむ。

 フェルナンデスは素早くパンツを上げ、棒でガルシアの後頭部をしたたか打つ。

 気を失い倒れたガルシアを引きずり彼の居室まで運ぶと棒を振り回して助修士たちを脅しつけ、操縦室に向かい宇宙船を飛ばすよう操作させる――仕組みは簡単だ、指示を書いた紙を伝令室の機械に押し込めばよい。まるで機械が字を読んだかのように、勝手に動き出す。

 「どうなってるんだ!」血相変えてマテオが乗り込んでくるが、時すでに遅し、だ。船の扉は固く閉ざされ、進路を替えながら上昇し、今や彼らの真下には先刻開いた第五の宙洞がぽっかり口を開けている。

 「三時間待つ約束だぞ!」

 「地べたにケツを押し付けて待ってる道理はねえだろ。俺も見たんだぞ? あの怪物を。あんなのがうろちょろしてるのに下にいられるか」

 勝手な真似をするなと拳を振り上げるマテオの足を棒で殴る。嫌な音。「今のは正当防衛だぞ。何なら左も打とうか」

 「よせ、分かった」三時間経ったら必ず降りると約束させるのがマテオの精いっぱいだ――足が見る見るうちに紫色に腫れ上がる。「下にはまだ二人残っているんだ」

 「しつこいな。脱げ」僧服を引き裂いたロープを作らせ、そのまま縛り上げさせる。

 余ったマントを焼却炉からそのまま捨てさせる。

 何か小さな人の形をしたものが高く上がった宇宙船から落とされそのまま宙洞に吸い込まれていくのをアンドレアは見る。

 

 書く。書く。

 書いて送る。

 キルヒナーは半狂乱で手紙を書き送り続けた。宇宙船に送り、地球に送った。助けを求め、連絡を請うた。紙がみるみるなくなっていった。

 一通も返ってこなかった。

 「地球からの返事が届くには」どれだけかかるか思い出そうとした。

 「きっと死んでるだろうな」

 小屋の周りは硫黄の臭いが充満していた。地の底から噴きあがる水には塩気が混じり、時折激しく地面が揺れる。三時間なんて見通しは、相当甘かった。

 「船で何かあったんだ」

 「それは分かってるよ」

 「そうだよね、ごめん」

 予備の紙をもう一枚手に取る。

 「キルヒナー、もう駄目だよ。それより安全な場所を探して」

 「違うんだ。まだ何も」

 まだ何も書いていなかった。書かなくちゃならないと思った。この星で知ったこと。考えたこと。せめてそれを送りたい。送って誰かに読ませたい。そうすれば自分がここで死んでしまったとしても。

 死。

 嫌だ。

 キルヒナーは泣き出した。涙を流した。まだ何もしていないのに死んでしまうことに耐えられない。おかしいと思った。あれだけ書いて、送ったのに、最後に自分が泣きながら後悔していたなんて誰も思わない! 師は自分の将来に期待して下さった。将来だって!

 「アンドレア」泣いて許しを乞う。「君を巻き込んでしまった」

 「ぼくは平気だよ」笑ってる。がさがさの唇。「“わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう”41

 「僕は」鼻をすする。「僕は、裸になることに耐えられないんだ。自分の信仰がこんなに弱いなんて」

 遠くで何かが崩れた。

 「もう一通手紙を出そう」涙を拭く。「今度は主なる神に向かって」何もやらずに死ぬくらいなら、最後に疑問を解決して死にたかった。「それに。まだ試してないんだ。誰も試してない、だから何が起こるか分からない」

 「この天変地異がなくなって、すべて元通りになるとか」

 「神とて“過ぎ去ったことがらについて、これを存在しなかったように為すことはできない”42はずだけど」とにかくやってみよう。

 キルヒナーの考えはこうだ。伝令室のこの機械、これは異人たちの技術によって挿入した手紙を原子にまで分解し、その並びを遠隔力ではるか彼方の宇宙まで送り届けるものである。「たとえば紙を構成する原子は丸い形、インクの原子は四角い形だと考えて、丸と四角の穴が開いたふるいのようなものを用意すれば」

 「分かった。それなら」がたがたがたと机が激しく振動する。天井を見上げながら、機械を押さえてじっと揺れが収まるまで待つ。「磁石を二つ用意して、紙の原子が落ちたら右を動かし、インクが落ちたら左というようにして」

 「うん」何でこんな状況なのに、少し楽しいのだろう? 「この機械は磁力の代わりに重力でそれをやってるんだ」原理はそんなところだろう。何にせよ重力を発しているなら、あとは適当な宙洞に向かって手紙を送ればいい。その方向にはきっと神の場所、第十一天がある。「あのオベリスクだ。恐らくあれの指す方向に向かって手紙は飛ぶ。地球や宇宙船と違って宛先を指定できないから直接手で動かす。仕掛けがあると思う」

 「見てくる」

 宇宙鎧がどこにも見当たらない。持って行ってしまったんだろうか? 「走るよ。その間に手紙を仕上げて」扉を開き駆けだす。

 急に寂しくなってしまったので、慌てて羽ペンを持ち机に向かう。さて。

 何と書いたらいいのだろう。さっきまで書かなければならないとあれほど思っていたのに、主なる神の前では“沈黙してあなたに向かう”43ほかにない。まさか実際に主なる神が、この文面を読むとは考えられない。しかし、いい加減なことを書くわけにもいかないだろう。悩んだ末にキルヒナーは祈りの句を書き込むことにする。

 Exaudi nos, Domine sancte, Pater omnipotens, aeterne De

 目の前。

 顔を上げる。

 球形の闇がぽっかりキルヒナーの目と鼻の先、机の上に浮かんでいる。

 キルヒナーが思わず左手を伸ばしたのは彼が右手に羽ペンを持っていたからに過ぎない。

 左手が触れる。

 触れる瞬間、キルヒナーはすべて目で捉えていた。かれの左手は空間ごと捻じ曲げられ引き伸ばされ、親指を掴まれぐるぐる何周もしながら中心へと落ち込んでいく。左手が引きずり込まれる。何が起こったのか理解できないまま起こっている何かに恐怖する。身体が急激に前のめりに傾く――傾いたように感じたので反射的に後ろに体重をかけると平衡を失い床に倒れ同時に左手が離れる。

 ペンが折れる。

 左腕がなくなっている。

 左ひじから先がねじ切られていてそこから、血が、心臓の動きに合わせてみるみるあふれ出す。それをしばし観察していたキルヒナーはやがて叫び声をあげながら左腕を抱え、次いで仰向けになり手を心臓から離すように高く持ち上げる。これは指を切断した場合の処置である。右手で床を掻く。左腕を探す。どこにもない。代わりにキルヒナーは机の上、奇妙に空間が歪み、渦を巻き、その中心に闇があり闇が光を引きつけ吸い寄せているのを目撃する。

 渦星がある。

 その渦星の幻がだんだん小さくなって消えていく。

 痛い。

 血が流れる。腕を上げる。上げても上げても上げたはずの左腕がいつの間にか下がっている。力が入らない。アンドレア、と叫ぶが返事はない。痛い。立ち上がろうとして左腕で床をついたつもりがひじから下がないのでまた床に倒れる。ぬるぬるする。左腕が焼けるように熱い。痛い。その痛みがどんどん自分から遠いものになっていくのは自分が意識を失いつつあるからだとキルヒナーは判断する。何でこんなことに? 左腕はどこだろう? やはりあの渦星の幻に呑まれたに違いない。でもあんなところになぜ。なぜ奇蹟が。

 奇蹟。

 奇蹟とは――因果を越える。

 「はっ、はっ」笑う代わりに息を吐く。簡単だ。簡単なことだった。奇蹟が因果を越える以上、自分が手紙を出す前に、主なる神は自分からの手紙を読むことができる。“わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる”44。傷口に触れる。縮こまる。寒い。きっと自分がこれから手紙を出そうとした宙洞、その方向には町があったじゃないか。奇蹟と同じく、手紙も因果を越える。宙洞に狙いを定めるつもりで、実際には変異が起こる前の過去の町、つまり、自分たちが左手の奇蹟を見たあの時間の町に向かって、あの過去を貫くようにして、自分の手紙はきっと届けられてしまうはずだったんだ。そしてその答えは既に、最初に町を目撃した時に。

 町を覆う左腕として。

 「主なる神が」血まみれの、なくなってしまった左腕。「自分の手を使って下さった」

 目を閉じる。さっきまで何を悲しんでいたんだろう。主なる神だけは、最後まで、自分のことを見ててくれるじゃないか。悲しむ必要なんてないんだ。自分の発見したことは――きっと、他の誰かが発見してくれる。自分のできなかったことは、きっと、他の誰かがやってくれる。主なる神は、神様だけが、みんな、そのことを知っている。自分と神様だけの、二人だけの秘密。誰も知らない。誰も読めない。息をするのが辛い。やめてしまいたい。

 だけど寒くない。

 何も心配しなくていいんだ。

 誰のことだって見てくれてる。

 自分のことも。

 そう。

 今でも。

 安心して。

 考えるのをやめる。

 

 「キルヒナー?」

 激しくせき込みながら扉を開くと赤黒く染まった床に倒れているキルヒナーの左腕があった部分から血が流れ出しているのが見える。

 自分の見たものが理解できない。

 「キルヒナー!」

 アンドレアは彼を抱き起す。自らの膝の上に横たえる。キルヒナーの顔面は蒼白だった。両目は閉ざされ、唇がわずかに開き、開いたまま、頬に一筋はねた血が、紅の糸が垂れ下がる。揺さぶる。頬を叩こうとして右手をのけると頭がだらりと垂れ下がる。

 キルヒナー。

 もう一度呼びかける。呼びかけるアンドレアの顔つきが取り乱したような様子から、だんだん表情が失われ、石のように変わっていく。目が赤いのは硫黄の煙の中を通り抜けたからだ。白い僧服、白のマント、白いものが血に染まっていく。

 呼吸を確かめるように彼の唇に顔を近づける。

 唇が触れる。

 

 すすり泣く声が聞こえる。

 ガルシアは自らの寝台に横たわっている。横たわりながら、なぜ横たわっているのか考えている。頭が痛い。泣いているのは誰か。空気が清潔で心地いい。

 身を起こす。

 宇宙船内の、自らの居室だ。泣いているのはガスパールだった。哀れな助修士はずっと隠れていたのだ。

 「あの悪党は、師よ、あなたをここへ運んだあと、マテオ司祭を捕え、他の者を棒で打ちすえると脅して働かせています」

 「なるほど」窓を覗くと灰色の大地がぽっかり浮かんでいる。「キルヒナーとアンドレアは」

 「分かりません」

 「置いていかれたな」

 そんな。息を呑む。思い悩んだ表情でそんな、そんなとつぶやき立ち上がり、しゃがみこみ、またさめざめと涙を流す。

 「師よ。私は」跪く。「罪を犯しました。師と共に行動していたあの二人を、羨み、妬ましく思っていたのです。師は私のことを置いていった。私たちのことを忘れたのかと思った」

 ガルシアは祈りを唱える。「安らかに行け」罪は赦された。「いいというまでこの部屋から出ないように」

 頭が痛い。もう少し横になっておくべきだったと思いながら回廊をまわり伝令室に向かう。誰もいない。吐き出された手紙がそのままになっている。

扉を閉じる音。フェルナンデスだ。あの乾いた音は、樫の棒をわざと引きずって歩いているのだ。

 「よお。ゆっくり眠れたか」

 「皆はどこだ」精いっぱい胸を張る。体格ばかり大きいのがここでは役に立つ――もっとも、一度打ち倒された相手に通用するとも思えない。

 「みんな無事さ。まあ確かに、各自こぶの二、三個はこしらえたかもしれないが」だが命をなくすよりは賢明な選択じゃないか、とフェルナンデスは主張する。「下を見な」

 それ、あの島だとフェルナンデスがガラスを棒で叩く。棒の先にある大きな島、川に落とした焼き菓子のようにそれが流されぼろぼろと崩れていく。

 「その様子じゃ今、何が起きてるか分かってなかったみたいだな。どこもかしこもあんな感じだ。俺の判断は正しかった」

 「今すぐこの船を下ろすんだ。二人を迎えに行く。暴力を振るった件は不問に付す、マテオは私から説得する――“立ち帰れ、お前たちの悪しき道から”45

 「よせ! 何で坊主は現実を見ないんだ? 何かと言えば聖書を持ち出し、何かにつけて神を見出しやがる。お前ら坊主は壁を見てわめく阿呆だよ――ああ、この向こうにはきっとどなたかいらっしゃるに違いない、と。だがな」棒で胸を小突く。「大事なのは、壁に触れたら、壁以外のことは考えないことだ。島が沈むのを見ながら、そこに取り残された馬鹿二人のことを考えないことだ。想像力を想像力で抑え込む、見えないものは見ない。それが現実の正しい見方だよ。勉強になったか、くそ坊主?」

 歯をむき出しにして笑う。三本欠けている。

 「お前が前を歩け」フェルナンデス曰く連れのもう一人、「ええと、名前はなんだっけ?」「マテオ」そのマテオは鍵のかかる聖具室に閉じ込められているらしい。他の三人は食堂にいる。「なあ、俺はこんな手荒な真似をしたことについては済まないと思ってるんだ。あの馬鹿どもだって、死ぬほど馬鹿ってわけでもなかったしな。ただ」

 「いいぞ」

 「あ?」

 扉が開く。

 勢いよく扉が開いてフェルナンデスの右頬を打つ。

 床に落ちた棒を拾おうとしたフェルナンデスに部屋から飛び出したガスパールが飛びかかる。ガルシアとガスパール、二人がかりではさすがのフェルナンデスもこれまでだ。

 「あいにく、私は壁の向こうを信じているのでね」腹這いに寝かせ後ろ手に掴む。「扉があれば、その向こうには誰かがいるものなんだよ」

 がっちり縛り上げる。

 二人の助修士、フランチェスコとルイスに肩を支えられマテオがやって来る。フィリッポも無事だ。「さて」マテオは足を引きずっている。「この阿呆の始末をどうつけたものか」

 「聖堂の椅子にしばりつけよう。あそこなら暴れようにも、力が入らない」

 脚をガスパールとフィリッポに掴まれ、引きずって運ばれる。そのすぐ隣、ガルシアが棒を杖にして歩く、かん、かん、とそのたびに棒が顔をかすめ石畳の床に音が響き、フェルナンデスは顔を歪める。叫ぶ。「俺は悪くない」

 「やかましい。地球に戻ったら牢にぶちこんでやる。報奨はなしだ。金貨三百枚も」

 「金貨は関係ないだろ。“皇帝のものは皇帝に、神のものは神に”46って言うじゃねえか」

 「どう解釈したらその御言葉がお前の立場を正当化するものになるんだ?」ガルシアが袖廊に通じる扉を押し開く。

 イエスが立っている。

 

 ずっと前から目を閉じたままでいたことにキルヒナーは気づく。

 左腕が焼けていた。呼吸をするたびに空気が送られ、真っ赤に燃え上がり意識を根こそぎ奪うような痛みが走る。息をすることをやめてしまいたい、なのに身体は空気を欲していた。でも空気が腐っている。ひどい臭い。いったい自分はどうしたのだろう? それにさっきからずっと自分の名を呼ぶ声がする。あれは聖書のどこだっけ? “わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った”47――

 少しずつ思い出しながら、目を開く。

 「やあ、アンドレア」

 するとアンドレアは喜びの涙を流し、何度も接吻してくれた。

 キルヒナーは左腕を見た。傷口を覆うように黒い二十面体が張り合わされている。それぞれの立体はねばねばしたものでつなぎとめられていて、鱗のように光沢を放っている。異人の泥だ。固まるとこうなるのだ。

 「彼らが、助けてくれたんだ」

 起き上がろうとして痛みで息が詰まる。そっと、右半身に体重をかけながら身体を起すと、そこは小屋の前のくぼ地でざっと五十人ほどの異人たち、町から逃れここへたどり着いたのだ。彼らの身体のあちこちも、同じような黒い鱗に覆われている。あれは道なのか? 町へ至る道が内側から崩れ、血のように水があふれだしている。地形が変わってしまっている。硫黄の臭いはますます激しくなり、風が吹くたび涙がこぼれる。地面が隆起して小屋は大きく傾き、その傍らに二頭の馬が佇んでいる。

 馬がいななくと異人たちの間に動揺が走る。

 空には禍々しく大地を駆ける宙洞が今なお旋回している。いくつかの宙洞の色が変わっている――宙洞の通じる先、向こうの星の太陽が沈んだのだ。宙洞を数える。六つ。

 一人の異人、胸の金色に見覚えがある彼が手を揺らめかせている。キルヒナーが目を覚ましたのに気づき、書字板を求めているのだ。アンドレアが渡すと指で書いてキルヒナーに見せる。大地が分断し、溶けだし、残った大地が寄り集まりいくつもの巨人の姿を成しているという。確かに吐き気を催す硫黄の臭いの中に、わずかに潮の香りが混じっている。海がこんな近くまで迫っている。

 「もしかして」だんだん事情が呑み込めてきた。「もうすぐ皆死んでしまうのか」

 「残念だけど、ね」

 「まだやるべきことが残っているはずだ」顔をしかめて立ち上がる。「実験は終わってない、いや、まだ始まってもないんだ」アンドレアに説明する。

 「もう一度試す」

 この状況で? 意味があるとは思えない。「それともきみはこれを止められる、って」

 「主なる神の計画であるなら、自分たちにはどうしようもないよ」

 「じゃあ」

 「でも」

 キルヒナーは残った手で地平線を指す。「あそこから太陽が昇る時、きっと七つ目のラッパが吹き鳴らされる。恐らく自分たちも、異人も、この星から一掃されて新しい怪物の世界が始まる。自分にはまだ信じられないけど――現に事態は進んでる」

 「うん」

 「だけど太陽は一つじゃない」もう一つ。天の北極近くに小さく、だけどはっきりと輝いている。「こっちの太陽は、まだ何か月も沈まない。自分が何を言いたいか、アンドレア、分かる?」

 良く分からない。

 「神の時計を狂わせるんだ」

 主なる神の御手が臨み、異人たちはやがて死に絶える。怪物たちはやがて栄える。「たとえばそれは二時間で引き起こされれば悪夢だけど、数か月の間の出来事だとしたらどうだろう。数か月なんて言わず、数千年、数万年かかるとしたら? 僕らはきっとそれを悲劇とすら認識できない。それに創造と終末は本来別の運動なんだ――怪物たちの世界の創造と、異人たちの世界の終わりが、ぴったり重なり合ってる必然性なんてどこにもない。時計を狂わせることで、二つの時計をずらせるかもしれない。つまり、たとえば、宙洞の向こう側がもっと被害の少ない場所に開けるとか」

 アンドレアがぶどうの菓子を持ってくる。「何となく分かったけど、でも、どうやって」

 やはり伝令室の機械を使うしかないだろう。傾いだ伝令室は血まみれでひどい有様、まるで人が一人殺されたみたいだ。オベリスクは土台から傾いているが、まだ動く。

 「自分たちと異なる世界の存在である以上、主なる神はこの世界を知覚するのに、きっと重力を使ってる。重力によって奇蹟を引き起こしながら、同時に重力によって見ている」折れたペンを持つ。立ち上がる。そのすべてを無限の時と場所を隔てて、重力の変化として知覚している。「この世界に宙洞が開いた、ということを神は重力によって確認している。ならばもし、宙洞が開くより先に、宙洞が開いたことを知らせる重力を渡せたとしたら――もちろん主なる神を欺くなんて不可能だ。万が一すべてがうまくいっても、宙洞はいつか必ず穿たれる。だけど」キルヒナーは神が因果律を越えていることを強調する。「この世界に流れている時間を神が正しく理解するためにも、重力が不可欠なんだ。重力によって整理されなければ、僕らの世界はきっと神にとっては時間と空間がぐちゃぐちゃに折りたたまれた、ただの混沌でしかない。もう一度光と闇を分けなおすのは、主なる神と言えどもきっと大変だよ」

 「そのために手紙を宙洞に見立てる。でもどうやって」

 「宙洞が開く瞬間に重ねて手紙を送る。神にはきっと、おかしな宙洞が開いたように見える」

 「そうか、異人たちは奇蹟を感知できる。協力してもらうんだね」

 青年を呼んで書字板の字を読ませる。彼はすぐ立ち上がり、風の音を響かせながら仲間の元へ駆けていく。

 「うまくいくかな」

 笑ってしまう。

 「アンドレア」左手を見せる。「もう、うまくいかなかったんだよ。そしてこれからもきっと、うまくいかない。だからやるんだ。僕たち人間に何かを始める力なんてない――主なる神が不動の第一動者として世界を一突きした。アダムとイブは禁断の果実を口にし、僕たちは母の胎から引きずり出された。最初から僕らは何も始めてないし、何もうまくいってないんだ。僕たちは何も決められない。ただ、決められた場所に向かうだけ。主なる神が僕らに与えた自由意志は、何かを始めるためじゃなくて、どこまでも落ちるのを必死で食い止めるためにある。みんな知ってるはずなんだ。ただそれが、徴としてあらわれているか、いないか。君と僕との違いはそれだけだよ」

 大勢の異人たちがオベリスクを支え、かけ声とともに動かしているのが見える。キルヒナーは紙を重ねて力を込めて乱暴に、線を二本、ラテン十字を引く。二枚目の紙についた跡をなぞるように線を引く。まったく同じ図形を何枚も作り上げ、一気に送るのだ。最後の一枚の紙にまで十字を書き終えると、その右手の上に、アンドレアがためらいがちに、そっと左手を乗せる。

 地平線が白みはじめる。

 

 かつてイエスだった何者かが船内を闊歩する。

 全く似ていなかった。身長は大きく伸びていた。皮膜は吸収され、立体がむき出しになっていた。硬くこわばっていた関節は自在に動き、指は回廊のガラスを引っ掻きガラスは悲鳴をあげた。かつて人間そっくりだった面影はどこにもない。完全にあの星の異人たちと同じ姿に成長していた。

 時折彼は何事かを呟いた。その風は生温かかった。それは異人たちからしてみれば、なにがしかの聖性の徴として映ったかもしれない――だが人間には恐怖しか与えなかった。居合わせた誰もが、一目見て彼を恐れた。

 イエスは混乱していた。ここには重さがなかった。重力がなかった。生まれつき彼を捉えて離さなかった何かがごっそり欠けていた。

 聖堂は荒らされていた。

 祭壇は砕かれていた。壁画は削り取られていた。破壊された椅子の欠片と共に宙に浮かんでいるのは天使の石像の首だった。ガルシアはロープを伝い這いずり回り探している。

 「なくなっている」

 聖遺物がない。イエスがゴルゴダの丘で処刑された時の十字架の破片がどこにもない。「ない」宝石がちりばめられた聖遺物入れは無残にも叩き潰されている。「ない」木片がそこら中に散らばっている。区別がつかない。首のない石像に手をかけるとあっけなく壁から外れてドームに向かって落ちていく。

 異人の作った壁だ。白くそっけない金属の壁。見ればあちこちの壁が剥げ、決して見ることが叶わなかった異人の技術が、人間の手仕事をまねた装飾の下に隠されていた仕掛けが露わになっている。

 「ガルシア、戻れ!」

 聖堂全体が振動をはじめる。壁から剥がれた欠片が四方八方から降りそそぎ石の雨音をたてる。塵で前が見えない。必死にロープをたぐり聖堂から出て階段に倒れ伏すと同時に、背後の激しい音が急に止む。マテオが頭を抱える。振り返る。

 宇宙船から切り離された聖堂がゆっくりと落ちていく。それが自壊してばらばらに砕け散り大気の中で燃え尽きるまで、誰も、一言も発せない。ガルシアが震える手で階段の先、むき出しの宇宙に手を伸ばす。何か硬いものが指先に触れる。

 ガラスが張られている。

 「異人どもは、我々にどうあってもからくりを教えたくないらしい」マテオがため息をつく。「まったく惜しいことをした。あれほどの聖堂など、ローマでも数えるほどしかないだろう」

 「“すべては塵から成った。すべては塵に返る”48」しかし希少な十字架片を失ってしまった。

 「ガルシア、これではっきりしただろう。あいつは怪物だ。確かに復活はしたが――それとも単に成長したに過ぎんのか、ともかく我々とは全く関係ない存在だ。いや、あの星で出会った異人たちでさえ、こんな真似はしなかった」

 ガラスの向こうにカロリナスが見える。かつて確かにこの星には灰色の海に浮かぶ幾多の島々があった。しかし今はどうだ。何もない。小さな雲があるだけの、灰色に塗りつぶされた、つまらない、巨大な球体が浮かんでいるだけだ。あの巨人たちは? ここからでは見えないのか?

 すべて沈んでしまったのか?

 「きっとそうだろう」ヘブライ語を話す不思議な異人たちも、奇蹟が起こる島も、今や、この宇宙には存在しない。「やはり主なる神の御業を、我々が捉えることなど不可能だったのだ」その結果聖堂を失い、二人の弟子を失った。「主を畏れなかった罰だ」

 星に残された二人からの手紙はとうに途絶えている。こちらからの連絡にも、返事はない。

 あばたのように六つの宙洞が浮かんでいる。そしてもう一つ。目の前で。

 「おお」フランチェスコが顔を覆う。

 ガラスの割れる音。

 全員が顔を見合わせる。

 「いや」フェルナンデスが低い声でつぶやく。「ガラスじゃなくて鏡だ。奴は図書室にいる」

 「行こう」

 縛り上げられたままのフェルナンデスを置いて一行は駆けだす。確かに図書室に面した鏡が割れている。

 嵐が吹き荒れていた。

 地の底かの大穴からやってくるような音だった。だけどそれはただの呼吸音だった。何かを叫んでいた。叫びながらイエスは手当たり次第に本を引き抜き、眺め、捨てていた。彼は探しているように見えた。そこにある本の中から自分の存在と似たものを少しでも引き当てようとしていた。しかし彼はラテン語が読めなかった。そしてガルシア以外の皆には、ただ怪物が書庫を荒らしているようにしか見えなかった。

 「落とせ」マテオが弟子二人に命令する。「何とかしてこの図書館を切り離すのだ」

 ガルシアは動けない。図書室に面した廊下に突っ立っている。

 「どうした! まさかあいつを地球に連れて帰るわけでもないだろう」不可能だ。刻印が施されていない。

 それでもガルシアは逡巡していた。

 「師よ!」ガスパールが叫ぶ。「キリストは人を救済するための存在です。救済のない奇蹟の復活など、ただの見世物に過ぎないではないですか! あの存在を生かしておくことで、いったい師は誰を救おうと考えてらっしゃるのですか!」

 イエスがこちらを振り向く。彼は一冊の本を手にしていた――そしてそれをそのままあごの下に挟み込む。

 本を食べている。

 火のついたランプが二人の間に投げ込まれる。

 続いてどこから持ち込んだのか、布団、机、紙、パンの欠片、あらゆる火に燃えるものが投入される。そしてそれはもくろみ通り、壁を焼き、瞬く間に燃え広がり、もうもうと黒煙を噴き上げながら人の手には負えない大きな炎に姿を変える。

 廊下が切り離される。

 瞬く間に火は失せ、ばらばらと燃えかすが巻き散らされる。飛び出した本が何冊かガラスに当たり、鈍い音が響く。復活したイエス――人間にとっての救世主ではないにせよ、恐らく誰かにとっての救世主であったはずの彼は、左手に食べかけの本を鷲掴みにして、顔をこちらに向けていて、その表情は、人間にとってはいかなる意味も読み取れない謎でしかない。

 彼の右手が図書室と宇宙を隔てるガラスを引っ掻き――上下に、ついで左右に、それが最後に見えたイエスだった。濁流に呑まれる木切れのようにあっという間に図書室は灰色の大地に引かれて見えなくなる。

 ガルシアはがくりと膝をつく。

 「私はあれを、あのカロリナスに現れた彼らのためのキリストだと思っていた。それは主なる神の計画によって、よしとされていると信じていた」

 だが彼は恐れてしまった。

 それが神の新しい計画だと知りつつ、その計画に自らが巻き込まれる、イエス・キリストが巻き込まれると考えただけで、恐怖し、彼を捨てたのだ。自らと関係ないものである、そう望み、彼を見捨てたのだ。

 彼は激しく泣いた。

 

 四十日後、宇宙船エクレシア・デ・ウニベルシタス号は地球に帰還した。

 

 本が宙に浮いている。

 割れた円筒の形からどうにか図書室だったと分かるそれは残された島の片隅に落下し、激しく損傷していたものの、重力を操る技術をそのまま保っていたようだ。いくつかの本は激突の衝撃で投げ出され、またいくつかの本は重さがなくなった状態で取り残されていた。風が吹くたびわずかに動く。

 そのうちの一冊を手に取ってみると、染み出した水が本の周りにまとわりつく。幾たびの雨に打たれて、すっかりふやけてしまっている。

 本をそのまま浮かべたまま、キルヒナーは頁をめくって中身を確かめる。アルベルトゥス・マグヌス『動物論』。かつてキルヒナーも頁をめくりながら、遥か上空を舞うタカを思い浮かべたものだ――でもこの星では、それはただのおとぎ話。

 何冊かの本を抱えてアンドレアが戻って来る。聖書、注解書、哲学、自然科学、貴重な本が雨に打たれてはいるものの、かなりの数が残されていたのだ。最後の宙洞が消えて以来、久しくなかった奇蹟だ。主なる神の導きに二人は感謝する。それにしてもアンドレア、ひげがほとんど生えないのだ。自分と言えば、すっかり見苦しくなってしまった。切断された左腕は、盛り上がった肉とかさぶたで覆われている。

 口笛を吹くと船から異人が四人、降りてくる。彼らは皆、皮膜で二重に包まれ、呼吸のたびにわずかに伸縮する身体から目のような部分だけを突き出している。胸に金色の立体をはめこんだ異人が風のように語りかける。「その本は何という本なんだ?」自分たちの星の動物についてだ、と教えると異人はその場でぱらぱらめくる。いつかラテン語を教わりたいと言っていた――彼が首から下げる金属の鎖には、金色の、小さく、軽くなってしまった立体が下がっている。

 宙洞から吐き出された動物たちの死骸は恐るべき病をもたらした。異人たちの医術は人間とは比較にならないほど発展していた――それでも多くの者が死んだ。しかしなお、いくつかの島が形をとどめ、異人たちは生きている。

 海上遥か彼方に足のない巨人が浮かんでいる。天の北極にあった太陽が円を描くように回転を始め、時たま地上から姿を消すようになると彼らは眠り始めた。大部分の島がばらばらに砕け散り沈む中、巨人となった島々は残された島を自分たちで解体し、作り直した――そして塔ができた。塔は水中に根を張り巡らせ、硫黄を吸って成長し、巨人はそれを千切って食べる。彼らは今、互いに手を組み、小さな塔を取り囲むようにして眠っている。かつて島だった巨大生物は確かに知恵を得たものの、しかしなお、異人たちは生きている。

 伝令室の機械は完全に壊れてしまい、もう連絡は行えない。果たして地球から再び誰かが訪れることはあるのだろうか?

 それとも――異人たちが死に絶えてしまう前に、自らの知恵で、宇宙に向かい、地球を発見するのが先だろうか。

 辺りに散らばった本を持ち帰るため集めていたアンドレアが足跡に気付く。

 硬い大地にひっかき傷をつけるような異人たちの独特の足跡。それは見落としてしまいそうなほどうっすらと、図書室の周りを何度も巡り、そしてその跡を追うと、小さな丘を越え、反対側の海岸にまで続いている。

 アンドレアは本を持ったまま海岸線を眺める。だいぶ弱まったとはいえ、今なお硫黄が煙る海。だが誰かがいたような気がしたのだ。海上はるか遠くに誰かの影が、まるで海上を歩いているような不可思議な、確かにそこに、アンドレアを招くように、たたずむだけで人を引きつけるような誰か。アンドレアは海岸線を眺める。しばらく、ずっとそうしている。誰かが戻って来るのを待っている。

 「アンドレア」

 キルヒナーが探しに来る。

 彼の差し出す右手は本を何冊か持つつもりのものだったのだろう。だけどアンドレアはそんなの構わず手をつなごうとする――だけど空いている左手を伸ばそうとして、キルヒナーにはもう左手がなかったことに気付く。アンドレアは本を持ち替えると、強引に、右手で、彼に手を伸ばす。

 右手しか残っていないのだから。

文字数:42448

内容に関するアピール

1  一コリ8:1。なお聖書は新共同訳を用いた。

2  シラ33;26。

3  一コリ7:26。

4 ペドロ・ゴメス「神学要綱」『南蛮系宇宙論の原典的研究』平岡隆二(花書院、2013)、211頁。

5 ニコール・オレーム「天体・地体論」『科学の名著 4』横山雅彦訳(朝日出版社、1981)、332頁。

6 ゴメス、前掲書、211頁。

7 ルクレーティウス『物の本質について』樋口勝彦訳(岩波文庫、1961)、12頁。

8 アリストテレス「天界について」『アリストテレス全集 5』山田道夫訳(岩波書店、2013)、188頁。

9 アリストテレス『形而上学(下)』出隆訳(岩波文庫、1961)、33頁。

10 ロベルト・ベラルミーノ「被造物の階梯による神への精神の飛翔」『中世思想原典集成 20』秋山学訳(平凡社、2000年)、674頁。

11 ジャンバッティスタ・バジーレ「日と月とターリア」『ペンタメローネ(五日物語)』杉山洋子、三宅忠明訳(大修館書店、1995)、422頁。

12 マコ1:12。

13 ペトルス・ウェネラビリス「奇跡について」『中世思想原典集成 7』杉崎泰一郎訳(平凡社、1996)、668頁。

14 アウグスティヌス「詩篇注解(5)」『アウグスティヌス著作集 20巻 I』中川純男、鎌田伊知郎、泉治典、林明弘訳(教文館、2011)、633頁。なお詩121:5を参照のこと。

15 レビ11:10-11。

16 ビンゲンのヒルデガルト「スキヴィアス(道を知れ)」『中世思想原典集成 15』佐藤直子訳(平凡社、2002)、231頁。

17 17 ビンゲンのヒルデガルト、同書、231頁。

18 エレ・手69。

19 ロマ8:39。

20 マタ28:19。なおフランシスコ・デ・ビトリア「最近発見されたインディオについての第一の特別講義」『中世思想原典集成 20』工藤佳枝訳(平凡社、2000)を参照のこと。

21 詩50:21。

22 トマス・アクィナス「神学大全」『世界の名著 続5』山田晶訳(中央公論社、1975)、109頁。

23 シラ3:22。

24 一コリ9:26。なおトマス・アクィナス『神学大全』第12問第7項を参照のこと。

25 マタ27:63。

26 トマス・アクィナス、前掲書、366頁。

27 アウグスティヌス「修道規則」『中世原典思想集成 4』篠塚茂訳(平凡社、1999)、1099頁。

28 ディオニュシオス・アレオパギデス「天上位階論」『中世思想原典集成 3』今義博訳(平凡社、1994)、361頁。

29 ディオニュシオス・アレオパギデス、前掲書、363頁。

30 ペトルス・ウェネラビリス、前掲書、689頁。

31 コヘ5:6。

32 黙8:12。

33 黙8:13。

34 創2:7。

35 黙3:20。

36 創1:1。

37 ニコール・オレーム、前掲書、338頁。

38 イグナチウス・ロヨラ『イエズス会会憲』中井允訳(イエズス会日本管区、1993)、168頁。

39 ロマ13:13。

40 トマス・アクィナス、前掲書、108頁。

41 ヨブ1:20。

42 トマス・アクィナス、前掲書、509頁。

43 詩65:2。

44 詩139:4。

45 エゼ33:11。

46 マタ22:21。

47 エゼ16:6。

48 コヘ3:20。

 以上の注釈は、興味を持った読者が引用元に向かうためのものであり、自分自身がこの作品を執筆するために参照した文献を示すためのものですが、一方で、『冷たい方程式』『竜の卵』から『インターステラー』『シン・ゴジラ』に至るまで、この一年間に接した数多くのSF作品のイメージが、来歴を抹消された引用元としてこの作品に組み込まれています。私はそれらのイメージをすべて特定することはできません――「このことと似た話を以前に読んだことがある」と言うのが精いっぱいです。そして、もしこの作品がSFとして独り立ちできるものであるならば、その功績は、これらのイメージに帰するものであり、私としてはその奇蹟をただ受け入れるのみであります。

 特に参考にした本として以下を挙げます。
 山本義隆『磁力と重力の発見』(みすず書房、2003)
 スティーヴン・ワインバーグ『科学の発見』赤根洋子訳(文藝春秋、2016)
 マーカス・チャウン『奇想、宇宙をゆく 最先端物理学12の物語』長尾力訳(春秋社、2004)
 中川純男編『哲学の歴史(3) 神との対話』(中央公論新社、2008)
 A・E・マクグラス『キリスト教神学入門』神代真砂実訳(教文館、2002)

 ありがとうございました。

文字数:1868

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