梗 概
You May Not Own What To Read
姫野郁は短大卒業後、6年間小さな広告制作会社に勤めていた。趣味はなく、人間関係は職場で完結。日常生活に摩耗していた姫野は、休日になると半日以上たっぷり眠った。ある日曜日、姫野は職場で記事広告を校正している夢を見た。紙に出した記事に朱を入れていると唐突に電話が鳴った。顔をあげるとオフィスに誰もいなかった。姫野が受話器をとったとたん、男の声が姫野の名をささやいた。そして朱を入れていた原稿の文字が揺らめきながら浮かびあがった。「あなたは私の愛に応えられますか」。姫野は悲鳴をあげたが、声は喉に詰まって音を発しなかった。そこで姫野は身を起こした。西日のさす自室。冷たい蒲団。弁当の空き箱が散乱する座卓。見慣れた光景が歪んだように感じられた。翌日姫野は普段どおりに出勤した。職場に異変はないが姫野は居心地の悪い違和感を覚えた。仕事からの帰り道、姫野は睡眠導入剤を購入した。異様な夢を見ずに深く眠りたいため早めに就寝したが、気がつくと姫野は図書館にいた。背の高い書架の谷をあてもなく歩いていくと、辞典のように厚い書籍が音を立てて落ちた。姫野がおそるおそる近づくと、開いたページにメッセージが浮かんでいた。「こんな夢を見るべきではない」。次々と書籍が落ちてきて姫野に警告する。姫野は狭い通路で逃げ惑い、そして夢から覚めようと強く念じる。蒲団から跳ね起きると全身に脂汗をかいていた。そして窓の外が白くなっていることに気づいた。朝日のためではなく、風景が落剥し白の下地を露出させていた。やがて白の洪水は部屋まで浸食し、姫野は両手を振りまわして抗った。すると手が硬いものに触れ、目が覚める。結露で白くなったガラスの冷たい感触。姫野の手は恐ろしく小さく、体中に管が通されている。ガラス越しに男がこちらを無表情に眺めている。
姫野を目覚めさせた男は逮捕され、起訴された。男に実刑を下した下級審判決の要旨を以下に引く。
「未曾有の人口減に直面しているわが国の現状に鑑み、政府は新優生保護法を施行し、生殖能力を有する個体をいわゆる人工冬眠の下に置きその保護に努めており、またその責務の遂行の一環として、被保護個体の夢を制御して個体が夢の中でどのようにふるまうか観察・記録し、個体に備わる可能性及び将来のふさわしい性的パートナーを見極める判断材料とすることは、法の定める範囲内で容認されている。これに対し、被告人は人工冬眠の技術者たる立場を利用し、性的及び精神的に未成熟な当時12歳の被保護個体の夢に干渉・介入し、自らの政治的主張及び淫らな性的快感を充足させるために冬眠を妨げたことは、法で容認される専門的・技術的裁量から逸脱した越権行為であり違法である。また、未成熟な被保護個体の保護・育成という法の立法趣旨を考慮するならば、被告人の主張する被保護個体の「夢見る権利」は社会通念上認められないとするのが相当である」。
文字数:1194
内容に関するアピール
「接続された女」+「眠る男」+「胡蝶の夢」+ and more!!!で構成された、主人公の少年が年配の男に利用されもてあそばれるというストーリーです。一見後味の悪いディストピアものですが、ハッピーエンドの法曹SFです。(一方的だけど)純愛ものです。売れます。
文字数:127
ユメノオワリ
ぼくの肉体は空虚になり、ぼくはただ見ているだけだ。あらゆる高みから、あらゆる深い地
下の奥底から、あらゆる接近した視点から、肉体の外縁をはずれ、開かれた視座から、……
金井美恵子『岸辺のない海』
おまえは疲れている。季節はずれの暑さとこの1週間に課された労役によって、おまえは疲れている。最寄り駅から自宅のアパートメントへ歩くことすら厭わしく感じるほど、おまえは疲れている。途中立ち寄ったコンビニで、アルコール飲料の並ぶ棚と冷凍食品のコーナーのあいだを10分程度行き来したが、結局おまえは酒を断念しチョコレート菓子とアイスクリームを買って帰宅した。職場で校正した政府公報が……といっても、たいしたことのない突き出し広告にすぎないが……アルコールの害を強く訴えていたことが頭にぼんやりと残っていたからかもしれず、あるいは、酒のにおいがおまえの嫌いな上司を想起させるため半ば生理的に反射的に避けたのかもしれない……いずれにせよ、おまえは自宅に入ると服をだらしなく脱ぎ散らかし、汗でべとつく肌を親から譲り受けた年代ものの扇風機にさらしながら、糖分のかたまりを摂取する。疲労は甘いものを口にすることで軽減される、という迷信をおまえはかたくなに信じこんでいるが、しかし一方で、糖尿病の恐ろしさも知っている……30歳で両脚を切断した上司の事例を、おまえは忘れるはずがない……だから、おまえはアイスクリームを食べ終えると、チョコレートは口にすることなく冷蔵庫にしまいこむ。この冷蔵庫も親から譲り受けたものだ……この部屋、おまえのねぐらにあるものは、ほとんどすべて親からもらったもの、あるいは、実家から黙って持ってきたもので埋めつくされている……そういったものから独特の、家族の思い出と郷愁の染みこんだにおいを発している。だから、おまえは8年間ずっとひとりで生活しているのに、寂しさや侘びしさを感じたことが1度もない……めったにつけることのないテレビも、スーツを掛けたハンガーも、これからもぐりこむ蒲団も、すべて親から引き継いだものだ。おまえには資力がない……そして、その事実をおまえは片時も忘れたことがない。だが、どうすれば収入が増えるのか……現状を変えることができるのか……そういったことを考えることができないほど、おまえは疲れている。おまえはシャワーを浴びることもなく、着替えることもなく、下着のまま蒲団へ滑りこむ……そして目を閉じる。虹色の細い輪が幾重にも重なって暗いまぶたの裏に浮かびあがるが、しばらくするとおまえの目には漆黒の闇以外に何も映らなくなる。おまえは明日……すでに日付が変わっているため、もはや今日なのだが……少なくとも午前中はひたすら寝て過ごすと決める。決心せずとも、休日にむさぼるように眠ることはもはや習慣になっていたのだが、それでもおまえは薄い蒲団を頭からかぶって外部の音を遮断し、雑念を排除し、ひたすら眠りに落ちることにだけ専念する。この眠り方は少しだけ息苦しいが、眠りがおまえに舞い降りかけたときに……半睡状態になったときに……おまえの手が自動的に、おまえの足が無意識的に、蒲団を顔から引きはがすので、おまえは穏やかに眠ることができる。耳に入ってくるのは、扇風機のまわる音、遠くを走る終電のかすかな走行音だけだ……そして、そういった雑音もやがて消えてなくなる。おまえは身をまるめる。おまえの右腕がぐにゃりと曲がって両目の上にかぶさり、外部の環境から感覚をいっさい遮断する。おまえが寝返りをうつと、右腕はおまえの右耳まで塞ぐ。おまえは完全に眠る。何時間ものあいだ、おまえはまったく動かず何も考えない。もちろん、意識の空白を感じとることもない。だが、目覚めの一瞬前、軽い地震によって棚が軋んだ音を立てたために生じた夢を、おまえは見ることになる。夢の中で、おまえは普段と変わらず職場で広告の校正をしている。取り組んでいるのは、15段の新聞広告……1面まるごと使った広告……大手製薬会社による記事広告だ。おまえは今週ずっとこの広告にかかりきりだったのだ……代理店からクライアントの注文が連日小出しで頻繁に伝えられ、そのたびにおまえはデザイナーに指示を出し、新聞社の広告営業局へ連絡して調整していたのだ……輪転機がまわりはじめる直前の時間まで……そのため、おまえは疲弊していた。広告は明日の朝刊に掲載されるが、おまえは決して新聞紙の現物を目にすることはないだろう。おまえは新聞を購読していないし、宣伝される美容サプリメントに何ら関心がないからだ……だが、夢の中のおまえは手を抜くことなく仕事に向かう。クライアントの承認を得た最終稿のデータを新聞社に渡す前に、おまえは誤字脱字がないか確認しなくてはならない。無論、関係者たちとの連絡調整のあいまに何度も校正を行っている。だから修正する箇所などないし、あってはならない。それでも赤いボールペンをにぎりしめ、おまえは幾度となく読み返した記事に目を通す。《飲んで健康と美容を保つ新製品を、50代・60代のあなたに。/コラーゲンやヒアルロン酸はもちろん、プロテオグリカンを配合。お肌にツヤとハリを取り戻します。/メイクアップアーティスト 島尾マリアさん「わたしたち中高年にとって、一番大事なのは保水力。これ1本で毎日のお肌のお手入れができるので、愛用しています。毎日がすこやかに過ごせて、心が安らぐことでしょう」/今ならW応募キャンペーン実施中! 本製品と他の当社製品を2点以上購入していただいた方へ、抽選で豪華賞品をプレゼント。/※抽選結果について当社からは教えられませんのでご了承ください。/※賞品はA賞・B賞ともに50名様限定です。はがきにどちらの賞がご希望かご明記のうえ、ご応募ください》。短期大学で国文学を専攻したおまえは、このしまりのない文章に違和感を……つまり、苛立ちを……かすかに覚える。もっと自然な言いまわしに改善できると思うが、これが関係者の総意を踏まえた決定稿であるため、おまえの独断で変更することはできない。おまえにできることは、誤変換がないか、滑落がないか、フォントが統一されているか、文章の配列は適正か、画像に取り違えはないか……液晶画面とデータをプリントアウトしたA4用紙双方に顔を近づけ、文章を読むのではなく文字列を観察し、些末なミスの不在を確認することだけだ。校了した入稿データを新聞社へ送信しようとしたとき、突然、静けさを切り裂くように電話が鳴る。おまえは顔をあげ、周囲を見まわす。オフィスのフロア全体に明かりが灯っているのに、おまえのほかに誰もいない。一瞬おまえは不審に思うが、夢特有の奇妙な整合性が不自然さを取り除く……半ば懲罰的に残業させられているのだ、とおまえは感じる……なぜなら、この広告の完成が遅れたのは、おまえ自身のミスによるものだとはっきりと自覚しているからだ……おまえは何ら疑問に思うことなく……しかし、今になって代理店から入稿データに関する変更の要望が来たら厄介だと思いつつ……受話器を手にとる。相手の声は聞こえない……しかし、あえぐような息づかいを感じとれるので、電話の向こう側にいるのが男だとわかる。何十秒か経過すると、男の声はおまえの名前をささやくように口にする。おまえは丁寧に応対するが、自分の時間を理不尽に奪われたくないので、受話器を耳に当てたまま視線をパソコンへ向ける。画面上の原稿が小刻みに震えだす……そして記事の文字が次々に消失し、別のひとかたまりの文章へ変貌していく。《……あなた……は……わたし……の……愛……に……応……えられま……す……か……》。おまえは思わず受話器を落とす。すぐさま電話の呼び出し音が鳴る……執拗に、おまえを求めるように……恐怖で身がすくみ、おまえは悲鳴をあげる……あげようとする……しかし声を発することができない。何かが喉に詰まったかのような……何かに首を絞められているような……異物感、息苦しさ、強烈な吐き気のために、おまえは呼吸さえできない。画面上の文章がぐるぐると回転しはじめる……呼応するように書類の山が崩れ、大量の紙きれがおまえの周囲で乱舞する……はばたく紙たばは、鋭い翼でおまえの顔を切ろうと襲いかかってくる。おまえはもがき振り払おうとする……口の中に侵入して水分を奪ってくる紙を懸命に吐き出そうとする……気がつくといつのまにか、おまえは大量の脂汗をかいて蒲団の上で身を起こしていた。寝返りをうった拍子に右腕が口を覆っていたので寝苦しかったのだと知り、よだれでべとべとになった腕を撫でながらおまえは少しだけ安堵する。薄汚れた窓を通って……厚手の遮光カーテンの隙間をすり抜けて……西日の強烈な光線が差しこみ、部屋の様子を明るく浮かびあがらせている……まるで重要な場面を強調する舞台演出のように……光はまっすぐと延び、部屋を貫き、様々なものを照らしている……うっすらと表面に埃の溜まったテレビ、いつかの夕食だったコンビニ弁当の残骸が散乱する座卓、しぼんだクッション、読むのをやめた小説……光の帯は、おまえの座りこんでいる冷たい蒲団まで這い寄るように延びている。おまえはこの光景を眺めているうちに、不意に17世紀の静物画を連想する……フアン・サンチェス・コスターン、フアン・バン・デル・アメン、マテオ・セレーソ、アドリアーン・ファン・ユトレヒトといった巨匠たちの美しい小品……あるいは、コルネリス・ハイスブレフツの精巧なトロンブイユ……あるいは、光と影の対照を強烈に描いたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの傑作を、おまえは想起する。だが、数々の絵画作品がたたえていた静謐さとこの部屋の静けさは類を異にする、とおまえは考える……絵画には信仰と哲学に基づく主題や幾何学的な調和があるのに対し、この散らかった部屋にあるのは空虚だけだ。そらぞらしく、むなしい……この部屋は、しばしのあいだおまえに休息を提供するだけの狭く雑然とした空間にすぎない。おまえはもぞもぞと蒲団から這い出ると、朝食の代わりに水を飲み、チョコレートをかじる。時計に目をやると、今日は3分の1以上も残っている。おまえはテレビをつけることもなく、投げだした小説を手にとることもないだろう。おまえは決して外出しようとはしないだろう。おまえは夕食もまともにとることはないだろう。そして、おまえは再び眠りにつくだろう。
「被告人は、新優生保護法及び特別睡眠教育法並びに特別睡眠技術官規則等により規定される第1種睡眠技術官試験を9年前に合格、厚生労働省での勤務を経て、国立L大学附属病院に就職、そこで第1種睡眠技術官として17件の被睡眠保護個体の育成及び管理業務に携わっています。そのうち15件は上司の監督下ないし第2種技術官との協力のもと業務を遂行しており、初めて単独で育成・管理業務を行ったのが本件の被害者たる当時12歳の被保護個体にかかわる業務となります。新保護法第1条以下にあるように、特別睡眠技術官は、未曾有の人口減に陥っているわが国において生殖力の向上並びに次世代への人口維持を図るために、生殖能力を有すると認定され保護に値する満6歳から満12歳までの青少年の性能力の維持・向上並びに精神的陶冶を目的とし、いわゆる人工冬眠により若い肉体の保全・管理及び夢におけるシミュレイト・アクティヴ・ラーニングを実施し、あわせて被保護個体の特性に柔軟に対応した睡眠学習プログラムの制作・監修を行うことが業務とされております」退屈だ……警察も検察も、どうしてわかりきったことを何度も繰り返すのだろうか……意味がわからない……だからといってあくびをしてはならない……裁判員の心証が悪くなる……法律も科学も何も知らない素人どもの判断基準は、個人的な感傷なのだから……だが、退屈だ……この茶番じみた裁判はいつまで続くのか……「しかしながら、被告人は被害者の夢に対し、技術官に法及び規則により授権された裁量権から大きく逸脱した干渉を行いました。本来、睡眠技術官が被保護個体の夢に干渉できるのは、新保護法第35条にあるように、《保護を要する者の睡眠を妨げる支障を取り除くために、やむをえないとき》、そして技術官規則第57条に列挙されている事態にのみかぎられており、いずれも、人工冬眠を安全に行うために必要最低限の技術的介入でなくてはなりません。しかし、被告人は睡眠技術官たる立場を利用し、厚生労働省及び文部科学省の検定を受けた学習プログラムを改竄して被害者に対し直接自らの政治的主張を吹きこみ、被害者の健全な教育を受ける権利を侵害しました。これにより、被害者の発育は大きく後れをとり、また、生殖能力に関しても甚大な被害を及ぼしました。劇的な人口減少に直面しているわが国では、生殖能力を有する青少年の育成は、各人の個人的な問題を超えて公共の福祉に多大な影響を与えるため、社会的に関心の高い重大な課題となっています。したがって、被告人の行った介入は、裁量権から大きく逸脱した違法な行為というだけでなく、反社会的な行為といえるでしょう」だから何だっていうんだ……去勢された犬のくせに……産むことを知らず倦むことなく能弁に演説をひけらかす、負け犬の遠吠え……だが感情的になってはいけない……検察官が何を言おうと、理性を失ってはならない……法廷は戦場なのだ……「よって、この場で明らかにすべきことは、被告人が被害者に対して教育を受ける権利を侵害した事実及びその程度、並びに被告人が反社会的思想を有する事実及びその内容であります」
おまえは月曜日の朝、普段より少しだけ早く起きる。週の始まりには必ず職場で朝礼が行われるため、月曜だけ早く起きる習慣がおまえのからだに半ば本能のように染みこんでいる。コップ1杯の水と食パン2枚飲みくだすと、おまえは支度を手早く済ませて狭い部屋を出る。駅までの道のりを下を向いて歩いていくおまえは、眠っているとき以上に何も感じず何も考えない。空は厚い雲で覆われ湿度は高く、汗がじんわりと額に浮かぶが、おまえは意に介さない。今日もまた暑くなるかもしれない、と考えることもない……なぜなら、おまえは疲れているからだ。これから1週間課される労役が、これまでと等しく残酷で単調で惨めで退屈であることを、おまえは知っている。1週間にどれだけ酷使されるか、想像するだけで腹部が鋭く痛みだす……だから、おまえは考えることを一時的に放棄する。何も考えなくても、何も感じなくても、おまえはいつものように駅の改札を抜け階段をのぼり、そして電車を待つ列に加わることができる……まもなく電車はやってきて、おまえは生臭い人間の充満した車内へ押しこめられる……ここでも、おまえは思考を停止しつづける……人いきれ、蒸発した汗が混じり汚れた空気、電車が揺れるたびに周囲の人間が撒き散らす口臭……そういったにおいを、おまえは拒絶する。五官を殺すためには眠るほかない。だから、吊革をつかむために伸ばした左腕を枕にして、おまえは目を閉じる。不安定な体勢で、おまえは眠る……煙草のにおいがおまえの鼻孔をくすぐる……生ごみの燃えるようなにおいが、徐々に強くなっていく。不快に感じたおまえは悪臭の源を特定しようと周囲を見わたす。前の席に座っている男が焦げ臭いにおいを発している……おそらく目覚まし代わりに吸った煙草の煙が、くたびれた背広に染みこんでいるのだろう……白髪の頭をふり乱した男は老年に近く、加齢臭も混ざっているにちがいない……おまえは顔をそむける……しかし、電車が揺れて体勢を崩し、おまえは前の席の男へ向かって倒れてしまう。もごもごと謝罪の言葉を口の中でつぶやき、おまえは立ち直ろうとする……そして、左手首を強く握られる感触におまえは驚く。年老いた男が腕を伸ばしておまえの手首をつかみ、皺だらけの顔を歪ませて笑みを浮かべている……恐ろしく下品で愚かしく淫猥な笑み……おまえは男の手を強引に振り払う。すると男の手首がちぎれ、粘着質な音を立てて床に落ち、飛沫をばらまいて潰れ、そして砕け散る。やがて男の顔が変容していく……まず膨れあがった顎が溶けるように垂れさがり、そしてちぎれ落ち、おまえのスーツにこびりつき、吐瀉物のような悪臭を噴出させる。次いで唇が、歯が、鼻が、眼球が、毛髪が、溶解して陥没し、顔にいくつも開いた穴からどろりとした肉塊が体液と混ざりあってゆっくりと滴り落ちる……座席に、床に、そしておまえのからだに、かつて男を構成していた汚物がぶちまけられる……必死に吐き気をこらえるおまえは、フランシス・ベーコンではなくイヴ・タンギーの暴力性を思い浮かべ戦慄する……瞬間の動きを捕らえて封じこめる荒業よりも、穢らわしくやわらかな物体を空間に抛擲する光景のほうが、おまえにとっては恐ろしいのだ……飛散し、こびりついた肉片はいくら擦っても落ちることはない。肉片は溶岩のように這いずりまわり、通った跡に刺激臭を放つ湯気を残し、おまえの服を破り、おまえの皮膚に穴を開け、足元へぽつぽつと雫となって落ちる……おぞましい肉片に襲われているのは、おまえひとりだけではない……爆発的に噴出する汚物のかたまりは、車内を埋めつくさんばかりに飛び散り、悪臭を振りまいている。しかし、誰も抗おうとはしない……何事もないかのようにみな無表情で、灰色がかった薄い桃色の肉片がへばりついても払いのけようとさえしない……肉片は仮借なく人々を溶かし、どろどろに崩していく。皮膚が爛れ頬が破れて歯茎があらわになる瞬間、そのときだけ笑っているように見える……声なき髑髏の哄笑……やがて車内の乗客全員が汚物に蝕まれ、溶かされ、崩れ落ち、そして刹那の笑みを浮かべる……人々はいっせいにおまえにほほえみかけ、茶色く濁った蒸気を発散しながら液状化し、やがてひとつの液体へと混じりあう……おまえも例外ではなく、足から徐々に脂肪が溶けはじめ、なまぬるい海水に抱擁されているような感覚に陥る。おまえは錯乱しそうになる……そして冷たい風に当てられ、我に返る。天井に設置された扇風機が、冷房に浸された空気をおまえにだけ届けている。目の前の席に男はいない。おまえのほかに車内には誰もいない。電車はすでに終点に到着している。短い時間眠っていたために、しかも半覚醒の状態にあったために、なまなましく凄惨な夢を見てしまったのだ。おまえは慌てて電車を降りる。ホームの階段に蝟集する人々の群れに追いつこうと駆けだす。おまえは人混みにもまれながら、誰もおまえのことなど気にもとめていないというのに若干の羞恥で頬を赤く染め、そして中途半端に起動してしまった自意識をもてあましつつ、群衆に身を委ね進んでいく。
「あなたと被告人との関係を教えてください」「ひ、被告人は、わたしのゼミに参加しとりました。数年前まで、わたしはB大学で教鞭を執っておったんで、生理法学のゼミを受け持っとったんです。そこで、被告人は、睡眠技術官を強く志望しとった、睡眠技術官になりたい、とはっきり言っとったと記憶しています。なんで、その、被告人に、わたしは手厚い指導をした、行いました。だからわたしとの関係は、師弟ということになるんでしょうが、ただ、あの、ご存じのとおり、睡眠技術官を志す若者は多くおるんで、被告人だけ、特別扱いしたというわけではありませんで、技術官志望の学生には、相談があれば、同様に指導を、勉強の方法を、ですね、教えとりました」検察に尋問される老教授は、こちらと目を合わせようとしない……まるで他人のふりをする子供のようだ……わざとらしい……この道に引きずりこんだのは、ほかならぬ教授だというのに……「被告人はどのような学生でしたか」「近頃の若者に似つかわしくなく、立派な子、だった。ああ、こう言いますと、あの、語弊がありますな、つまり、向学心にあふれていた、やる気に満ちていた、と言えばいいんでしょうか。目的がはっきりしていて、睡眠技術官になりたいという気持ちが、強くあった、そのように記憶しとります。だから、あの、痛ましい事故に巻きこまれ、ハンディキャップを背負っていたにもかかわらず、学業では充分優秀でしたし、難関の、睡眠技術官試験も合格できたのでは、ないでしょうか。とにかく、強い意志の持ち主だった、と記憶しとります」教授のたどたどしい口ぶりが、否応なく老いを強く印象づける……時間の経過は残酷だ……初めて出会ったとき、教授は自信たっぷりに自説をよどみなく述べていたというのに……自明のことだが、昔日の記憶を懐かしがり、しがみつくのは、年老いた証左なのだ……教授も、自分も……検察官がつまらなそうな顔をして、教授に近寄る……「質問を変えましょう。被告人の主張する《夢見る権利》なる概念を、被告人はどのようにして獲得に至ったのでしょうか」教授の目が泳ぐ……完全に動揺している……一瞬だけこちらに視線を向けたが、すぐにうつむいてしまう……やがて決心したのか、深く息を吸いこんで教授は語りはじめる……「実のところ、《夢見る権利》をめぐる議論は、被告人特有のものではなく、学術的にもあまり突飛なものではありませんで、むしろ、生命にかかわる倫理学では、基礎的な学説、といってもさしつかえないでしょう。もはや多数説でも有力説でもありませんけれども、人工冬眠が制度化されたばかりの、初期の頃には、盛んに議論されとったもんですから、教科書なんぞには必ず載っとります」教授は胸ポケットからハンカチをとりだし、顔の汗をぬぐう……額から顎にかけて、入念に……そして裁判官と裁判員へまっすぐに顔を向け、声を張って説明を続ける……「簡単に申しあげますと、被保護個体の脳に直接作用する睡眠学習プログラムは人格権を侵害するものではないか、また、学習プログラムに沿って形成される夢の中で被保護個体がふるまう行動を画一的に評価することは思想・良心の自由の侵害ではないか、この2点について被保護個体の利益を守るためにつくりだされた概念が、《夢見る権利》にほかなりません。けれども、実務では、いずれも次のように解釈され、問題になることはありません。前者は、睡眠学習を実施する際に親権者の同意を得るのが通例になっとるんで、民法の規定どおり、意志能力のない被保護個体は親権者の意志に服す、というふうに運用されとりますし、後者は、学習プログラムは義務教育の課程と同じく、むしろ内容を一律のものとしなければ人工冬眠中の教育を受ける権利の侵害となる、こういったように説明されますんで、《夢見る権利》が認められることはまずありません。しかし、睡眠技術官たる者は職業倫理として、必ずこの議論を頭に叩きこんどくべきだと思います」検察官が教授をにらみつける……よけいなことをしゃべるな、とでも言いたげな表情で……口調にわずかな苛立ちをにじませて……「ですが、極めて空論に近い権利を擁護するために、被保護個体の夢に介入してよい謂われはないでしょう」「もちろん、そのとおりです。《夢見る権利》は尊重すべき倫理ではありますが、現制度ではすでにその役目を終えていて、コップの中の嵐にすぎないことを、象牙の塔の住人であるわれわれは、強く意識していなくてはならんでしょう」教授は息も絶え絶えだ……顔色も悪い……だが、検察官は満足のいく回答を得たようだ……教授から離れ、裁判官に目配せする……「以上で、この証人尋問を終わりにしたいと思います。証人は、ほかに言い残したことはありませんか」教授は汗をぬぐうとハンカチをポケットにしまいこむ……この日一番の大役を果たして安堵したように、大きく息を吐く……そして裁判員に向かって頭を垂れる……とても弱々しく……「裁判員の皆様、判決を下す前に、被告人の生活を、環境を、事情を考慮に入れてください。今日わたしは、くどくどと難しいことを申しあげてしまいましたが、この事件の被告人もまた、人工冬眠教育政策の犠牲者だということを、ご留意のうえ、量刑なり猶予なりを判断してください。これだけは、何度申しあげても足りることはありません。ぜひ、よろしくお願いいたします」
おまえは疲れている。1日分の疲労がおまえにのしかかっている。同時に、今朝見た夢が、そして一昨日見た夢が、おまえを脅かしている。おまえは夢見ることを恐れている。もはや眠りは、おまえに唯一残された安逸な娯楽ではない。眠ることは忌まわしきイメージを召喚することにほかならない。おまえは、できれば眠ることなく夜を過ごしたいと思う……だがほかに何をすればいいのか、おまえは途方に暮れる……職場を出るのは夜もだいぶ更けた頃だ。大半の飲食店は閉まっている。これから連絡なしに押しかけていって、夜通し語りあえるような友人はおまえにはいない。おまえの立ち寄れる場所はコンビニしかない……自宅と駅のあいだの道にあるコンビニ……おまえはいつものように菓子の並んだ棚のあいだへ足を向ける。ほしいものなどない……食欲がまったくないのだ……そして、おまえは窓に近い棚へとまわる。強壮剤、頭痛薬、咳止めの並ぶ棚に、おまえは睡眠安定剤を発見する。成分を確認することなく2箱つかみ、レジに持っていく。意外と高価だった睡眠剤をにぎりしめ、おまえは帰宅する。狭い部屋は相変わらず埃っぽく、蒸し暑い。おまえは窓を開け、スーツを脱ぎ、コップに並々と水を入れる。そして睡眠剤のパッケージに書かれた用法・用量をじっくりと読む……《成人(15歳以上)1回2錠、1日3回を限度として、なるべく空腹時を避けて水またはぬるま湯で服用してください》……おまえは初めて睡眠剤を口にするというのに、2箱分の錠剤をすべてとりだし、一息に飲みこむ……喉へ到達しなかった幾粒かの錠剤が、おまえの舌を苦味でしびれさせる……息が詰まり、吐きそうになるが、おまえは必死に耐える……そこでようやく安心できるようになる。これで夢を見ずに済むという安堵感が、おまえの口から小さな吐息となってこぼれる。おまえは眠りを黒く塗りつぶしたい……何も見ず、何も感じず、何にも脅かされることのない絶対無の眠りを、おまえは切望する。やがて睡眠剤が効いてきたのか、おまえはめまいのために立っていることさえおぼつかなくなる……薬の効果におまえは小さな幸福感を覚える……おまえはのろのろと蒲団へもぐりこむ……天井がぐるぐると回転し、おまえは無邪気に微笑する……そしてそのまま眠りに落ちるのだが、おまえは自分が眠っていることにさえ気づかずにほほえみつづける。期待どおり、おまえは何も見ず、何も感じず、何も考えることなく眠りつづける……何時間もおまえは身をまるめたまま動かない……しかし、眠ることから夢見ることを切り離すことは決してできないのだ……死にでもしないかぎり……おまえはいつのまにか図書館にいる。不思議に思うこともなく本棚の谷間を歩いていくおまえは、自分が狭いアパートメントで眠っていることを忘れている……それが夢の効能だ。夢は記憶を分断し、文脈を破壊し、奇妙な整合性によって記憶を組みあわせ、歪な世界を再構築する……おまえのいるその図書館は、小学校の図書室を思わせる一方、短大時代に通った県立図書館にも似ている。窓から差しこむ夕焼けのために、人気がまるでないために、おまえは下校時間ぎりぎりまでこもっていた小学校の図書室を思いだす。同時に、高い天井めがけてそびえ立つ書架のために、分厚い背表紙が無愛想に並んでいるために、おまえは課題のレポートを書くために足繁く通った県立図書館を思いだす。いずれにせよ、この図書館はおまえに郷愁をかきたてる……幸福だった時代の思い出、つまり、苦役が課せられることなく未来を薔薇色に想像しえた頃の記憶がよみがえり、おまえを慰めてくれる……特定の本を探し求めているわけではないが、おまえは辞書のように厚い背表紙を指でなぞりながら丹念に題名を読み解いていく。《コンストルクチオン》《鹿、青春、光り、交叉》《帽子をかむった男(歩く女)》《界延曲地》……いずれも意味をなさない、無造作な文字列……おまえは1冊の本を手にとる。それが棚に並ぶ本でもっとも薄かったからだ……そしておまえはページを繰り、文章を読んでいく。《10年ぶりにこの街に帰ってきた。/何も変わっていない。という感慨はおそらく感傷的な嘘で、だってぼくがここで暮らしていた頃盛んに問題視されていた違法駐輪の自転車の群れは完全に撤去されているし駅の周辺は再開発が進められて巨大なビルがいくつも建っているし、何より悪夢みたいに禍々しくネオンを輝かせていた賭博場が跡形もなく消え失せているのが奇蹟みたいで、ぼくは懐かしさと新鮮な驚きとを抱きながら街の風景を見ていた。でもいつまでも感慨に耽っている暇も余裕もないぼくにはやるべきことがある。/この街に出没するゾンビを観察すること。/それがぼくがぼくに課した使命であり、ぼくがいずれは書きあげなくちゃいけない論文の主題だ。ぐずぐずしてなんかいられない。ぼくは小さなカメラをナップザックからとりだすと、まずオフィス街へ駆けだしていった》……それは、おまえがいつか読むのをやめてしまった小説ではないのか……だから既視感のある風景が描かれているのだ……だが、おまえは気づくことなく読みつづける。静かな場所で、ひとりきりで、長い時間をかけて、おまえは読書に没頭する。いつか読むのをやめてしまった箇所で、物語は別の物語に接合され、脈絡なく飛躍する。不気味なものに追われる怪談から甘ったるいロマンスへ、未開の島を探検する冒険譚から侍と商家の娘の親交を描いた時代小説へ、物語が何度も流転しても、おまえは飽きることなく熱心に読みふける……なぜなら、夢の中でおまえが小説を読むとき、おまえは同時に小説を書いているからだ。自分の書いた小説を読むこと、これ以上の至福はほかにないだろう。
「いい兆候だ。あの学者先生の証言のおかげで、裁判員があなたの過去に目を向けるようになっています。あれ以降の流れを見るに、裁判員はあなたに深く同情しているようだ。だから今日、あんな突飛な質問をしたんでしょうね」接見室でふたりの弁護士が笑みをこぼす……ひとりは老年で白髪だがとても能弁で、もうひとりは若く頭を坊主刈りにしていて、相づちをうちながら熱心にメモをとっている……ふたりとも、裁判が思うように進んでいるために満足そうだ……「実際、社会的にもこの裁判は注目を集めています。くすぶっていた人工冬眠教育に関する議論もメディアで再燃しているし、国会でも野党から質疑があったりして、非人道的じゃないかっていう声はますます大きくなっています。実にいい兆候だ」だから何だっていうんだ……世間から注目を浴びたからといって、裁判が短くなるわけでもない……むしろ、議論の是非を見極めるために、裁判がよけいに引き延ばされる可能性だってある……この弁護士たちもしょせん、絶好の機会を存分に利用したいだけなのだ……難しい案件も引き受ける社会派の弁護士として、体制からの圧力にも屈しない勇敢なる闘士として、おのれの名前を売るために……不意に、メモをとる手を止めて若い弁護士がこちらを見つめてくる……「失礼を重々承知のうえで言いますけど、睡眠教育のどこが非人道的なんでしょうか。いろんな記事を読んでみたんですけど、個人的にはいまいちぴんと来ないというか」「おいおい、いきなり何を言ってるんだ」老年の弁護士が苦笑する……無神経な新人をたしなめるためか、若干語気を荒くして……「保護者の同意が求められるとはいえ、通常の教育課程とともに政府の望む教化道徳なんぞを少年少女の頭に直接注入するんだ。思想統制以外の何ものでもない。生殖可能者というマイノリティの保護を謳っておきながら、その実、生殖可能者を都合よく操れるように仕向けているのだよ。この政策の愚かさと野蛮さを、きみは完全に理解していると思っていたのだがね」「話はわかるんですよ。理屈として。性能力を長期に渡って保持するために、肉体をある程度若いままに保つ必要があるってことはわかるんです。でも、なぜひとつの科目にすぎない道徳が被保護個体に遵守すべき倫理として浸透していくのか、どうして性的体験のない被保護個体は眠っているだけなのに適切な性的パートナーの傾向を選ぶことができるのか、よくわからないんです」老年の弁護士は口をつぐみ、こちらに視線を向ける……若い弁護士も、同様にものほしげな目をしている……説明してやらなければならないのか……不能者に対して性行為の重要性を説く残酷な話を……それがお望みであるのなら、聞かせてあげよう……人工冬眠下での睡眠教育は、部外者が一般に想像しているように知識を詰めこむだけの外科手術ではない……改造でも洗脳でもない……役人の検定した教育プログラムをもとに、睡眠技術官は夢をつくる……被保護個体の記憶にない新規のデータを流しこみ、まったく架空の人生を、まったく別人としての人生を歩ませる……被保護個体と同様の年齢から、被保護個体が早熟であるのなら相応に高く設定した年齢から、人工の人生が夢の中で始まる……そして恣意的に設定された人生の転換点で被保護個体が選択する言動を、睡眠技術官が採点する……教育課程の要求する点数を満たさない場合、被保護個体は同じ経験を2度3度と繰り返すことになる……教訓を何度も反復して身体と頭脳に倫理観を染みこませるのが、道徳という科目なのだ……夢の中では被保護個体の性的嗜好も明らかになる……思春期特有の暴走を、睡眠技術官がじっくりと観察する……性交に至る過程も、孤独な自慰行為も、乱交も、倒錯も、睡眠技術官はすべて記録する……勢いあまって少年の被保護個体が夢精したとき、睡眠技術官はうんざりしながら彼らの腹部をナプキンでぬぐう……よくあることなのだ……最終的に、被保護個体が選んだ性的パートナーのイメージを、睡眠技術官はこと細かに報告書に記載する……報告書をもとに、政府は被保護個体にふさわしいパートナーを斡旋する……生殖可能者には恋愛する自由などないことが、これでわかるだろう……そして、同性愛者、社会不適合者、生産性のない人生を選択した者など、生殖を阻害する性向を持つ被保護個体は去勢される……世の中にはびこる性的不能者の一員として、社会に送り返されるのだ……説明が終わっても、ふたりの弁護士は沈黙している……老年の弁護士は苦りきった表情をして、腕を組んだまま虚空をにらみつけている……おそらく、被告人本人に証言を求めるのは危険なので、できるだけしゃべらせないように算段を練っているのだろう……一方、若い坊主頭の弁護士は感慨深げにうなずいたあと、ささやくようにつぶやいた……「つまり、睡眠教育を施された少年少女は、人生を2回送るということなんですね。1度目は夢の中で、2度目は現実で」そのとおり……そして彼らは、ひとつの人生を終えたことなどすっかり忘れて目を覚ます……不慮の事故が起こらないかぎり、あるいは、睡眠技術官が故意に夢を中断させ彼らを目覚めさせることがないかぎり……中途半端に終わった夢は、なまなましい傷を彼らに残す……老年の弁護士が立ちあがって若い弁護士を急きたてる……「いやはや、貴重なお話を聞かせていただき、勉強になりました。もうすぐ時間制限になりますので、失礼いたします。もしも過去の裁判例をお気になさっているのでしたら、思い悩む必要はまったくありません。あれは20年以上も前の判例です。時代は変わりました。もしも検察に控訴されたとしても、1審と同じく無罪判決を出す自信がわれわれにはあります。どうか気を強くもって、われわれを信頼してください」
唐突に暗転する。しかし、おまえの視界が暗黒に飲みこまれた、というわけではない……頭上には、書架のあいまの通路に沿って豆電球が弱々しく光を放ち、遠くに非常灯がぼんやりとした緑色に灯っている。だが、夕焼けを濾過していた窓は消え、書架はますます高く屹立している。だから突然暗くなったと感じたのだ……おまえは本を置き、あたりを見まわす。相変わらずこの図書館は静かで、整然と並べられた分厚い背表紙の文字が豆電球の光で輝いている。おまえはポール・デルヴォーの世界に迷いこんだ気がする……月明かりの下、静寂と暗闇が支配する郷愁に満ちた世界……だが、何かが違う……先ほどまでまったくなかった他人の気配を、おまえは感じとる。正確には、他人の気配ではなく、誰かの視線をおまえは感じている……誰かに見られているような気がするのだ。不安が胸の鼓動を早め、おまえは思わす駆けだす……おまえの手が、おまえの足が、あるいは袖の端が、本棚にぶつかり、やがて書架全体が揺れ、分厚い本が何冊も落ちてくる。大型の辞典がおまえの目の前に墜落し、その白いはらわたを容赦なく見せつける……《Zutritt 男性名詞/~[e]s /①立ち入り、入場、立ち入り許可/Zutritt verboten! 「立ち入り禁止」/②(気体・液体などの)進入、流入》。そのページが開かれたのは偶然ではなく、何者かの意図によるものだとおまえは感じる。なぜなら、おまえは屈みこんで文字で埋めつくされたそのページを見た瞬間、まっさきにその文章が目の中に飛びこんできたからだ……本は次々と落下し、書物による壁をつくる。前に進めなくなったおまえは踵を返して走りだす……息を切らしながら、懸命におまえは書架のあいだを走り抜ける……大きな蛾が豆電球の光を求めて乱舞し、行く手を阻む……違う。おまえがさっきまで読みふけっていた小説がはばたいているのだ。宙に浮かび乱舞する書籍は、害虫のようにおまえの顔に貼りついてくる。おまえが必死に格闘して引きはがすと、ページから文字が滑り落ちていき、別の文章が現われる……《こ……ん……な……夢……を……見……るべき……で……は……ない……》。おまえは絶叫しようとする。ありったけの声で叫ぼうとする。だが、うまく声が出ない……文字どおり悪夢の再来だ……夢ならば覚めなくてはならないと強く思うおまえは、本に埋もれながら自らの頬を叩く……自らの喉を絞めつける……爪を立ててひっかく……そしておまえは、脂汗をかきながら蒲団の上で身を起こしている。冷えた身体をまるめ、おまえは震える……かきむしった喉に手を当てると、血が出ている……脱力感と疲労感のために、おまえはしばらく動くことができない。窓の外は明るい。睡眠安定剤を飲んだせいで、予想よりも遙かに長く眠ってしまったのだろうか……眠っていたのはひと晩だけでなく、1日寝過ごしてしまったのかもしれない……おまえはふらふらする頭を押さえつけながら、時間を確認しようと窓へ向かう。外は明るい。しかし、それは昼間の明るさではない。あたり一面、白一色に塗りつぶされている……窓の外に広がっているはずの風景が消失し、濃淡がなく遠近感もない平坦な白が果てしなく続いている。おまえはおまえ自身の理性が信じられなくなる。息を殺してカーテンを閉め、うずくまり涙を流す……だが、無情の白はおまえの部屋に厚かましく闖入してくる。玄関のドアの隙間から、カーテンのあいだから、乾いた蛇口から、白は水たまりのように広がり部屋を覆っていく……おまえはもはや抵抗する気も起きない……ひたすら泣きつづける……やがて部屋が解体されると、おまえは蒲団といっしょに白い空間に浮かび漂う。上を向いても白、下を向いても白。左右を見わたしても何もない。おまえには何も見えず、何も感じず、何も考えることができない。白はおまえを飲みこみはじめる。涙をぬぐった指先が白く溶けだす。それでもおまえは最後の力を振りしぼり、白にせいいっぱい抵抗して左手をまっすぐ伸ばす……硬い感触……冷たい空気……慌ただしい足音……怒鳴り声……保健室の殺菌剤のにおい……アルミを噛んだときのような不快な味……遠くからひとかたまりの印象がぼんやりとおまえを刺激し、やがておまえのからだ全体を包みこむ。おまえは目を開ける。厚いガラスを押さえつける自らの手がずいぶん小さく見える。ガラスの向こう側は結露でよく見えない。ぼやけた輪郭がだんだん意味のある形をなしていく。男の顔だ。泣き腫らしたのか、それとも殴られたのか、男は顔色が悪く、それに目は充血しているし隈ができているし、頬はこけている。男はガラスの蓋をとると、おまえに顔を近づけてそっとささやく。
「おはよう。姫野郁さん」
思わず目の前に立つ少年の顔をまじまじと見返してしまう……線が細く、垂れ目で人なつこく笑っている少年の顔に、まったく見覚えがない……人工冬眠教育に関する議論は再び下火になり、被保護個体を手にかけた睡眠技術官の名前など、とうに忘れ去られているはずだ……そもそも6年かかった裁判は終わり、無罪放免となった身なのだ……今さら非難される謂われはない……しかし、少年には断罪しようとする偽善者特有の勢いがない……ただ、にこにこほほえんでいるだけだ……相手の意図がわからず、気持ちは身がまえたまま硬直する……「あれ。人まちがいしちゃったのかな。あなた、姫野さんですよね」少年は首をかしげ、まっすぐ見すえてくる……否定はしない……だが、積極的に肯定もしない……そのまま立ち去ろうとした瞬間、少年の言葉に胸を射貫かれる……「もしかして、ぼくのこと忘れちゃったんじゃないでしょうね。あなたのせいで、ぼくは人生めちゃくちゃにされたっていうのに」再び少年の顔を見つめる……そして思いだす……8年前……国立L大学附属病院に勤めていた頃、初めて単独で取り扱う被保護個体として、穏やかに眠っていることを確認するために毎日つぶさに観察していた少年……その優しげな面影が、今もくっきりと残っている……なぜ、出会った瞬間に、即座に思いだせなかったのだろうか……「思いだしてくれましたか。覚えていてくれましたか」少年は満面の笑みを浮かべる……恐ろしさのあまり膝が震えてしまう……全身総毛立ってしまう……なぜなら、復讐を名目に何をされても文句を言えないほど、この少年に残酷な処置をしてしまったからだ……だが、彼はつかみかかる気配もないし、刃物を持っている様子もない……彼はすぐ近くの喫茶店に視線を向ける……「あそこでじっくり話しませんか。姫野さん」異議を申し立てる権利は、倫理的にない……ふたり分の紅茶を注文すると、少年は向かいあって席に着く……「乱暴に目覚めさせられて現実に引きずり戻されてからずっと、ぼくは姫野さんのことを調べていました」彼は遠い目をして、ゆったりとした口調で語りはじめる……まるで、長い間切望していたこの会見がとうとう実現したから、じっくりと味わっていたいように……「最初は復讐するつもりでした。姫野さんが無罪になったら殺しに行こうとか、牢屋に入れられてもぼくの手で殺しに行こうとか、そんなことばっかり考えていました」紅茶が2カップ運ばれてくる……彼はそのうちひとつを手にとると優雅に一口飲んで、にっこり笑う……「幼稚で馬鹿げてますよね。本当そう思います。でも、姫野さんについて深く知るにつれ、ぼくは復讐を夢想するのをやめました」ここの紅茶はとても濃い……そして苦い……砂糖を入れなくては、とても飲めやしない……「姫野さんもぼくと同じで、かつて被保護個体だった。そして、人工冬眠中に睡眠技術官から暴行を受けて、睡眠学習プログラムを途中で断ち切られていたんですよね」そして冬眠中に流しこまれた夢の残滓に、今もなお苦しめられている……夢の中で、うだつのあがらない広告制作会社の社員として惨めに暮らしていた日々が、現実と判別がつかないほど鮮明に記憶されている……そして、まさに悪夢としか言いようのない幕切れも忘れることができない……安眠したことなど一度もない……そんなことを知らないはずの彼は、憐れむように目を細めて話しつづける……「だから、そんなつらい経験をしている姫野さんが、ぼくに乱暴したのも、何か理由があるはずだって、そういうふうに考えはじめました」違う……それは誤解だ……買いかぶりすぎている……「いいえ。最近になって、自分でも初めて気づいたんです。姫野さんに助けてもらった理由。それは」口にしなくてもいい……胸にしまっておけばいい……感謝される筋あいなんかないのだ……「ぼくが同性愛者だったから。ですよね」睡眠技術官は夢を観察し、被保護個体の性的嗜好についてすべてを記録する……名目上の目的は、ふさわしい性的パートナーとのマッチングを行う際に必要な情報を集めるため……だが実際は、生殖し子孫を産みだすのに不適合な者を選別することを主としている……遺伝的な障害があったり、社会適応能力に欠けていたりすれば、被保護個体は保護するに値しなくなる……直接的に生殖に与さない同性愛者もまた、排除の対象とされている……1審判決前に弁護士に話した説明はまったくのでたらめだ……不適合の烙印を押された者は、不能者として社会に送り返されるわけではない……人工冬眠を中断し、低体温のまま死なせるのだ……これこそ傲慢な政府による思想統制ではないか……だが多くの者は知らないし、実態を知る者は口をつぐむ……たったひとりで反乱を起こした睡眠技術官が死刑に至った経緯を、知らない役人はひとりもいない……喫茶店が騒がしくなってくる……時刻は正午過ぎ……人々は昼食を求めここに集まっているのだ……彼は紅茶をすすってほほえむ……「姫野さんのおかげで、ぼくは生きている。あなたに対して、今のぼくはごちゃごちゃした複雑な感情を持ってますけど、一番強いのは、助けてくれてありがとうっていう感謝の気持ちです」だから何だっていうんだ……あのときは、ただ感情的になって動いていただけだ……被保護個体の人生が破滅しようが、充実しようが、昔も今も関係ない……金を置いて席を立とうとすると、彼が引き止めてくる……「待ってください。ぼくはまだ、あなたに対する感情を全部伝えたわけじゃないんですよ。もう少しだけ、いっしょにいてくれませんか」そして彼は、照れくさそうにつけ加える……「だって、ぼくの初恋の相手は姫野さん、あなたなんですから」
おまえは疲れている。それは心地よい疲労だ……生きている証だとおまえは考える。癒すことができ、誰かと分かちあえ、喜びの糧となる疲労を、おまえは毎日実感している……おまえは、おまえを犯した男と同じ轍を踏むことなく、権力に抵抗して生還した。おまえは成功したとはいえないが、失敗したともいえない……政府はかたくなに人工冬眠教育政策を推進しつづけている。一方で、おまえは殉教した先駆者のように犬死にせずに済んだ……おまえの人生はちゅうぶらりんだ……この国を改革しようという大義を掲げた理想を叶えることはできなかったが、恋人とともに毎日を過ごせるというささやかな幸福を手に入れることはできた。これまでの経歴を棒に振ったが、これから充分に巻き返しができると確信している……それでいいのか悪いのか、判断できない。慌てる必要はない、結果はまだ出ていないのだから……しかし、おまえはときどき、この人生もまた誰かのつくりだした夢ではないかと疑う瞬間もある……視界の端にまっさらな空白が生じたときは特に……
文字数:19301