きぐるみはぐみぐるみはぐ
1. ぼくは語る
考えてみれば幼い頃からずっとぼくは領主の豪邸のそばで育っていたのだし、そこは「お代官様のお屋敷」なんて呼ばれて大人たちからは敬遠されていたような場所だったのだけど、事情なんて知らない子供たちにとっては広くて隠れんぼするにはうってつけの遊び場に過ぎなかったから無遠慮にずかずかと入りこんで勝手に遊んで騒ぎまくっていたし、だから幼年期のぼくは階級差なんて一度たりとも意識したことがなく、なぜ豪邸の持ち主がお代官様と呼ばれるのか、もしくはなぜお代官様は広い邸宅を所有しぼくらのように狭い団地でひしめきあって暮らしていないのか、といったことなんて疑問に思いもしなかった。せいぜい、大きくなってえらくなればぼくだってこれくらいのお屋敷を持てるのだろう、みたいなことをぼんやりと空想していたくらいだ。
領主の邸宅でやけに鮮明に覚えていることがひとつだけあって、それは領主のひとり娘、深窓のお嬢様のことだ。ぼくが子供だった当時も今と同じように雪がどかどか大量に降っていたからぼくらの遊びなんて雪合戦くらいしかやることはなかったのだけど、幾世代もの子供たちの手を経てルールはかなり高度化&複雑化していて、たとえば敵・味方のほかにもうひとつ和平交渉を担当する第三者的な司法チームがあって、合戦が膠着したまま長期化すれば終戦条約を結ぶことができたのだけど、自軍に有利に条約を結ぶには捕虜の数そして軍備で相手をうわまわっていなければならず、したがって雪玉をぶつけられて顔を真っ青にした敵兵を自軍の敷地内で繋ぎとめておくのと同じくらい雪玉を生産・備蓄することが重要だった。そのときぼくは雪玉生産長の役目をおおせつかっていて、砲丸の主成分たる雪が大量に積もっている鉱脈を見つけなくてはならなかった(なぜなら、今となっては信じられないことだけど、雪玉の過剰生産のために主戦場ではもはや泥まみれの薄い氷しか生産できなかったのだ。それに戦時協定があって、石もしくはそれに類する堅さの雪玉は製造することが禁止されていた。それだけ子供たちは雪合戦に夢中になっていたのだ)。良質な雪を求めて、ぼくはひとり戦場を離れ橇を引いて領主の邸宅に分け入っていった。
雪合戦は領主の邸宅で繰り広げられていたとはいえ戦場は入り口周辺で完結していたし(だからこそ、邸宅の使用人なんかに追いだされずに済んだのだ)、邸宅の敷地は本格的な狩りができるほど広かったから生い茂る木々の下はまるで深夜の森のように真っ暗で、ぼくはほとんど孤独な探検家みたいな気分になって手袋の下で濡れた両手をこすりながら進んだ。ときおり枝をへし折って雪の塊が落ちる音が響きわたりそのたびに本気で跳びあがるほど驚きながらぼくはなんとか陽光の差しこむ場所に出た。
そこにはコの字型の住居がおそらく中庭を囲むように建てられていたのだけど、半世紀以上にわたって積もった雪のせいで庭園は埋没し建物の一階もほとんど見えなくなっていた(あとになって知ったことだけど、領主の邸宅はすべて一階部分が渡り廊下としてつながっていて、結氷期に至ってからは雪の中をもぐるトンネルのようになっていたそうだ)。だけどぼくは純白の雪を大量に発見できて感激していたから建物のことなんか一切関知せず、両手いっぱいに雪をすくっては橇に載せた。橇の上に小高い雪山ができた頃には大粒の雪が降りはじめ、見あげると空は濃い灰色の雲に覆われていて今にも屋内待避の警報が鳴りだしそうだった。
そしてぼくは建物の内部からこちらを見つめてくる視線に気づく。厚いガラス窓越しにぼくをじっと見つめていた少女、それが領主のお嬢様だったわけなのだけど、生まれてはじめて上流階級の人間を目にしたぼくは心の底から仰天した。
だってその娘はぼくらみたいに毛皮の外套を着こんでまるまると膨らんではおらず、ただ真紅のドレスを身にまとっているだけだったのだ。その娘が細い体のラインを強調する薄絹のドレスだけを着て鎖骨まで露出していたのは、たぶん領主の邸宅ではぼくらの持っているおんぼろの石炭ストーブとは比較にならないほど高性能の暖房器具を稼働させていたからで、外出するときのように厚い外套を着なくても快適に過ごせる上流階級の特権をまざまざと見せつけられたのだけど、ぼくはとにかく(ほんの一部でも)自分の肌を他人にこれ見よがしにさらす人間とはじめて遭遇したことに衝撃を受け、逃げるように橇を引っぱって戦場へと戻っていった。
将軍役の少年に兵器の素材を引き渡してぼくは一兵卒として雪合戦に復帰したのだけど、さっき目にした領主の娘のことで頭がいっぱいで戦況のことなんてまるで身が入らず、気づいたら敵軍に捕虜にされていた。凍った汗で髪の毛が固まり青い顔をして歯をがちがち鳴らしている捕虜たちはみんなすりきれた毛皮の外套を何枚も重ね着して膨らんでいて、それまで普通の恰好だと思っていたのになんだかとてもみっともなく見えてきてしまい、そしてぼくもまたまったく同じ恰好をしていることに思い至り、何度もため息をこぼしてしまうのだった。
次の日ぼくは自ら雪玉の採取に行く旨を将軍に告げ、了承を得ないまま領主の邸宅へ突き進んだ。暗い森を抜け前の日と同じ場所に出ると、ぼくは真っ先に窓を見あげた。煉瓦の積まれた外壁を楕円形に切り取ったガラス窓から変わらず微笑を浮かべた娘が顔を見せてくれて、うれしさとか安堵とか羨望とか欲情とか、とにかくいろいろな気持ちがごたまぜになった感情で胸がいっぱいになって、ぼくはわけもなく両手で雪をすくってばらまいてみせたのだった。娘はラベンダーの色をしたドレスをまといほっそりとした体つきが浮き彫りにさせていてとても美しく、まるで別世界の住人のように感じられた。実際、領主の娘と労働者階級のぼくのあいだには埋めがたい懸隔・深淵が存在し住む世界がまるで違っていたのだけど、幼かったぼくにはそんなことが理解できるはずもなく、ただ娘の姿に見とれてうっとりしているだけだった。
そのうちぼくは雪合戦に行かなくなり、代わりに領主の娘のもとへせっせと通うようになった。基本窓を見あげて娘が顔を見せたら手を振る程度だったのだけど、ときには調子に乗って母が教えてくれた恋愛詩を雪の上に書いて見せたりもした(どうせ数時間後には雪が積もって見えなくなるのだから、領主の家人に見とがめられる心配なんてなかった)。領主の娘は顔を赤らめることもなく(ときどきあくびをしながら)そんなぼくの様子をじっと見ていた。娘がぼくを眺めて何を考えていたのかぼくにはわからない。ぼくと同じように淡い恋心を抱いていた、なんて臆測するのは愚の骨頂で、おそらく普段目にすることのない下層階級の子供が珍しくて単に観察していただけなのだとぼくは思う。娘にとって、ぼくはちょうど動物園の檻に入れられた猿と何ら変わりはなかったわけだ。滑稽な姿を嘲笑されていることにも気づかない哀れな子猿、それがぼくだったのだ。なにしろぼくは油汚れの染みついた毛皮の外套で体を膨らませていたのだから、文明人とはかけ離れた不思議な生態を有する生きものとして好奇の対象になっていたのも当然だ。でもぼくは娘と目配せを交わしいっしょに笑いあうことができただけで充分幸福だった。
だけどいつまでも子供のままでいられるわけじゃない。ぼくが成長し一人前の体つきになりかけた頃、父の命令でぼくは精肉店へ奉公に出ることになった。
父の遠縁の親戚だという精肉店の店主はでっぷりと太った体に何重もの毛皮の外套を巻いていて、さながらこれから皮を剥がされ部位ごとに切り分けられる直前の吊された豚肉みたいだった。店主の甲高い罵声と激しい拳骨を浴びながらぼくは仕事を覚えていった。ぼくは毎日店主の包丁を研ぎ、鶏や豚や牛の血がこびりついたエプロンを冷たい水で洗い、店先に立って低品質の肉を道行く人々に売りつけた。この頃のぼくは一番惨めだったと思う。給金はもらえていたのだけど住みこみで働いていたから食費・光熱費・部屋の賃料その他諸々が生活費として容赦なく間引かれて手元に残るのはほんのわずかだった。子供の頃夢想したように領主の豪邸のような家をかまえるなんて100%無理だと思い知らされ、ぼくは精神的にも肉体的にもすさんでいった。そしてこの理不尽な格差を憎むようになった。でもどうすればこの最悪な生活を変えることができるのか見通しすら立たずぼくは暗澹たる精神状態に陥り、やる気がないならやめろと店主から何度も嫌味を言われそして殴られた。
そんなぼくが精肉店での労役で最初に覚えたのは肉の捌き方でも精肉の等級の見分け方でもなく、仕事終わりに浴びるように飲む安酒の味だった。酒はぼくの苦しい生活を忘れさせることはなかったし腹の底に溜まった憤懣を除去する効果もなかったけれど、それでもぼくはすっぱいりんご酒を飲みまくった。酒はむしろぼくの不平不満を外部にぶちまける着火剤のような効能をもたらし、酒場で名前も知らない相手と殴りあう喧嘩に発展するのが日課となっていった。そしてとうとうぼくは酔った勢いで煉瓦工を骨折させてしまい警官に取り押さえられ留置所へぶちこまれるはめになった。
留置所は犯罪者であふれかえっていた。そのほとんどが結氷期の寒さに耐えきれず野垂れ死にするより少しはあたたかい留置所で過ごすことを選択した軽犯罪者でいっぱいだった。事実、留置所は精肉店の調理場よりは快適だったけど、一定の刑期を終えたら再びあの地獄のような生活に戻らなくてはならないと思うと悪寒が全身をめぐった。そして思わずため息混じりに愚痴をこぼしてしまった。
「人を殺しておけば、くだらねえ娑婆の世界に戻ることもないんだろうな」
「きみは人を殺すことに何ら躊躇することはないのか」
ぼくのひとり言を耳ざとく聞きつけた奴がぼくの目の前に腰をおろした。その男は灰色の人工毛皮で体を膨らませていたけど、その貧相な身なりとは裏腹に理知的な雰囲気があった。
「どうしてそんなに自暴自棄になっているんだ?」
男の低くそして包容力のある声にそそのかされてぼくは洗いざらいしゃべりまくった。精肉店で最低の条件に耐えながら生活していること、上流階級への憧憬と憤懣がない交ぜになった感情、階層社会の底辺からの脱出の可否など、思いの丈をその男にぶつけた。男は顎に手を当ててしばらく思案すると、紙きれに何かを書き殴ってぼくの手に握らせた。
「ここを出たらまっすぐこの住所に書かれた場所へ行ってくれ。おれの署名を見せれば中に入れてくれるはずだ」
出所後ぼくは精肉店へ向かい店主から罵詈雑言を浴びながら一応謝罪した。幸運にも一週間の謹慎を言い渡されたのでぼくは留置所で渡された紙きれを頼りに街の中心部からだいぶ離れた年代もののビルへ足を運んだ。積雪のために一階の入り口は閉ざされていたからぼくは二階の窓からするりと中へ入ったのだけど、すぐさま目つきの悪い男ふたり組がぼくを威圧するように立ちふさがった。ぼくが紙きれを提示すると男たちは黙ってぼくを一室に連れていった。
石炭ストーブが軋む音を立てて懸命にあたためているにもかかわらずコンクリートで固められた部屋は寒々しく、机と倚子が無造作に並べられたほかには真紅の旗が壁に掛けられているだけだ。旗に描かれたそっけない三日月と鉄槌の紋章はぼくにも見覚えがあり、確か非合法の極左地下政党の象徴だったはずで、するとぼくはこの地下政党の一員に招かれたようだ。ぼくは不快感も恐怖も覚えることなく、これから社会を変革する崇高な使命をまっとうできるのかもしれないとむしろ静かに興奮していた。ぼくのほかにも数人の若者が膨れあがった外套の中で身を縮こまらせていたけど、彼らもまた同志になるのだと考えると妙な親近感が湧いてくるのだった。
やがて男があらわれてぼくたちを睥睨した。留置所でぼくに声をかけた張本人であいかわらず灰色の外套で身を包んでいたけど、彼のまとう威厳は数倍にも強くなっていた。彼は政党の幹部であると身を明かすと手短に政党の理想や目的を説明し若い運動員が必要なことを説いた。ほかの若者たちは面くらいためらっていたようだけど、ぼくは少しも動じることなく入党を宣誓した。精肉店での悲惨な生活から逃れられるのなら何だってする気でいたし、それに党員としての役割や使命が与えられると雪合戦で軍功を立てた記憶がくすぐられて妙な充足感を得たのだった。
その夜ぼくは誰もいない精肉店に忍びこみ肉切り包丁を数本失敬して、もう二度とここへ戻ってこないことを誓って何ら未練も名残惜しさも感じることなく逃げだして、そして党員が多数潜伏するアジトで寄宿生活を送ることになった。
暴力革命も辞さない地下政党の先鋒役を任されたぼくは、党本部からの指令を受けて政治家や官僚や資本家つまり人民の敵どもを厚い肉切り包丁で切り刻んだのだけど、ぼくは一度たりとも人を殺すように命じられていたわけではない。殺人は野暮だと党が考えていたからで、人民の敵にはユーモアとウィットで立ち向かわなければならないという綱領を忠実に遵守しぼくはただ人民の敵どもの外套を剥ぎ取っていただけだ。服や外套で体を覆い隠すことが常識となっていたこの国では人前で裸体をさらすことは死にも等しい恥辱とされていたから、ぼくは精肉屋で培った技術を存分に発揮して何人もの人民の敵どもを公衆の面前で丸裸にしてやった。狼狽し、羞恥で顔を真っ赤にし、ときにはあたり構わず泣き喚く豚どもの無様な姿を見るのは実に爽快だった。
だけどぼくの暗躍が新聞で報道されるほど有名になった頃には、ぼくの仕事はたちゆかなくなっていた。豚どもは極力外出を控えるようになり、どうしても公衆の前に姿をあらわすときには金属製の鎧を身にまとって身を守るほど賢くなっていた。さすがの肉切り包丁も鎧は切れない。ぼくの党内での立場は徐々に失墜し、ぼくを党に誘ってくれた幹部でさえ苛立たしげな視線でにらみつけてくるだけで何も言わなくなった。
ぼくは再び荒れた。りんご酒を大量に飲むようになったし、それに加え赤線地帯に入り浸るようにもなった。党の綱領により本来なら真っ先に救うべき同胞である公娼を抱いては捨て、ときには暴力を振るった。ぼくの乱行は目にあまるようになり除籍すら議題にあがったけどこれまでの功績のおかげでなんとか首の皮一枚つながったような有様だった。このとき灰色の外套の幹部はぼくを擁護する言葉をひとことも口にしなかったと聞いてぼくはますますすさんでいった。
ある日ぼくはひとりの公娼を買った。金を先払いしたにもかかわらず女は悪名高いぼくの相手をすることを嫌がり大声を出して暴れ抵抗した。鬱屈していたぼくは女をベッドに抑えこむと蓄積していた癇癪を爆発させて怒鳴りつけた。
「おまえら屑みたいな人間が人並みに暮らしていけるのもおれたち党の活動のおかげだってことがわからないのか馬鹿犬以下の糞女は恩義を感じることもできないのかよだったら死ねよ死ねじゃなきゃおれが殺してやる」
組み伏せられた女はぼくを侮辱するように哄笑しそして嘲笑しぼくの股間を蹴りあげた。
「確かにあんたたちの党には世話になってるし感謝もしてるけどあんた自身は何もしていないじゃない。酒飲んで暴れるだけの無能な男には何にも感じないのが当然じゃないの」
ぼくは激昂し肉切り包丁をとりだして女の外套を切り刻んでやった。安物の外套が一枚剥がされるごとに女は悲鳴をあげて泣き叫んだけど、ぼくはかまわず包丁を振るいつづけた。そして文字どおり一糸まとわぬ姿になったとき、女はぶるぶる震えながら嗚咽し泣き崩れていた。
瞬間、幼年期の記憶がぼくの脳裏によぎった。
かつて領主の娘は胸元を開けたドレスを着て誇らしげに鎖骨を見せつけていた。一方公娼の女は肩胛骨を丸出しにしてしくしく泣いている。同じ女の体なのにどうしてこんなにも違いがあるのだろう。ぼくは無意識のうちに両手を伸ばしていて気づいたら女を絞め殺していた。
ぼくは女の死体をひっくり返して仰向けにして女の鎖骨や乳房を入念に眺めてみたけど欲情を覚えず少しも興奮なんてしなかった。考えていたことといえば公娼を殺してしまったことが露見したらぼくの党内の地位はますます危うくなり、というか警察に突き出されて社会的に抹殺されてしまうだろうといったことで、ぼくは殺人が露見しない方策について長い時間考えた挙げ句、女の皮膚を肉体から引き剥がせば身元が特定されないだろうし、したがってぼくが殺したことだって有耶無耶にできるだろうと結論を下して、さっそく精肉店で覚えた手つきで血を一滴も垂らさないように気を配りながら女の皮膚を丁寧に剥ぎ取っていった。
ちぎれることなく一枚につながった女の皮膚は美しくぼくが鼻をうずめると甘い乳のようなにおいがほんのりと香った。穢らわしい肉体から解放され光を通す絹のように薄く美しい皮膚。何時間でも見ていられるほどぼくはすっかり皮膚に魅了され、ついには自分でもこの皮膚をまとってみたいという衝動に駆られるようになった。
ぼくはいったん外套から下着まで全部脱ぐと、女の皮膚をゆっくりと持ちあげて頭からすっぽりと身にまとった。まるであつらえたかのように女の皮膚はぼくの体とぴったり癒合した。鏡を見てみても映るのはちょっと体格のいい女の裸だけで、ぼくの痕跡は表面上少しも残っていなかった。ぼくはぼくの毛皮の外套を着こんだ(本当は女の外套を着たかったのだけど、すでに激情に駆られて切り裂いてしまっていたのだからしかたない)。涼しい顔をしてモーテルを出て映画で見た女優みたいに気どって歩いていると路上でひとりの老人に出会った。ぼくも顔を知っている貸金業の親爺さんだ。ぼくはこの「女装」がばれてしまうんじゃないかとひやひやしたのだけど、親爺さんは卑屈な笑みを浮かべてポケットから紙幣を三枚出した。どうやらぼくのことを完全に公娼だと思っているみたいだ。ぼくがうなずいてみせると親爺さんは自分の家に連れていって、なりふりかまわずぼくの体すなわち女の皮膚にむしゃぶりついた。女の皮膚はぼくの体と同調してすばらしい快楽をもたらしてくれたし、べったりと密着していたから剥がれる心配なんかさらさらなかった。
翌日の夜、女の皮膚をかぶったぼくは党の本部の近くへ向かった。ぼくのお目当ては、かつてぼくを地下政党に誘いそして今まさにぼくを放逐しようと算段している灰色の外套の幹部だ。会議を終え足早に歩いていく幹部にぼくは哀れっぽい声をかけそして暗がりに誘いこんだ。疑いもしない幹部は(もしかしたらこの女と関係があったかもしれないけど、ぼくの知ったことじゃない)心配そうにぼくの頬を撫でた。そのお返しにぼくは肉切り包丁の背で思いきり幹部の頭をたたき割ってやった。そして幹部の体をさらに路地の奥へ引きずりこんでから丁寧に皮を剥がし、ぼくの体に接着させた。公娼の皮膚のときよりもずっと幹部の皮膚はぼくの体になじんだ。それからぼくは灰色の外套を奪って本部に乗りこんでみたら、残っていたスタッフみんながぼくのことを幹部として扱ってくれたから、うれしいやらこそばゆいやらでぼくは顔をゆるませてしまい、それでちょっとだけ不審がられたのだけどぼくは咳払いをして威厳を取り戻し、その日から灰色の幹部として活動を開始してたくさんの党員を指揮し戦略を練り数々の勝利をものにして地下政党をさらに躍進させた。そのあいだにこっそりとぼく(本当の、つまり肉屋の見習いだったぼく)を除名しておいたけど誰も気づかなかった。
ぼくは幹部としての日々に酔いしれた。だけどそれで満足したわけじゃない。何者にでもなれる確信を抱いたぼくの中で、権力への欲求が抑えきれないほど急速に膨れあがっていった。党内で最高権力を持つに至るには簡単だった(党幹部をひとりずつ誘いだして殺せばいいのだから楽勝だ)。それでもぼくは満足できなかった。和平交渉と称して治安部隊のトップと面会し、ふたりきりになったとたんそいつの皮膚を剥いでやった。そこから役人やら政治家やらに接近するのはひどく容易になったし、皮膚を剥ぐのも軍用ナイフを使うようになってからはどんどん手際よく効率よく捌けるようになっていった。
ぼくはいろんな人たちを手にかけてきた。軍人・役人・政治家だけじゃなく、美男子の俳優や新進気鋭の歌手の皮膚も剥いだ。ぼくのクローゼットには外套の代わりに様々な階層・職業の皮膚が並んでいる。その日の気分次第でぼくは貪欲な資本家にもなれるし見目麗しく妖艶な公爵夫人にもなれる。痩せて憔悴した肉屋の見習いなんていう出自が跡形もなく消え失せたおかげでぼくは自由を謳歌している。
今夜こうやってきみに会えてそしてこの高級ホテルの一室で楽しい時間を過ごせたのも、ぼく自身の努力の結果というよりはこの皮膚の持ち主のおかげだ。きみだって、ぼく本来の姿、貧民街育ちで、けばだった外套で身をまるまると膨れあがらせた男なんかと会話したくないし視界に入れたくもないはずだ。でも、それが本当のぼく、この皮膚の下に潜む厭わしい男なんだ。そんな下層階級出身の薄汚い男を、きみは最上級の接待でもてなしてくれたし、そしてこれからその男に抱かれる気なんだろう?
最高の気分だ。
2. わたしは語る
わたしは何不自由なく育った。わたしの生まれた家は没落した貴族の末裔だったけれど、ほんのひとにぎりの領地と立派な屋敷を所有していた。だからあなたのお話に出てきた領主のひとり娘の思い出は懐かしく聞けた。わたしも小さい頃は外へ一歩も出ることなく、いつも室内で薄絹のドレスを着てちょこんとピアノの前に座っている。そんな生活を送っていた。
父は軍人だった。階級は高くなかったけれど、過去の遺産を食い潰してまで生きていたくない。自分の生活は自分で切り拓く。そんな信念と誇りを持った、気高い人だった。今でもわたしは父を尊敬している。
わたしが十四歳になった夏の日。父が逮捕された。理由は叛逆罪ということだったけれど、本当の理由は知らない。父のほかにも何十人という将校が逮捕された。軍人の家族までもが憲兵に捕縛され連行されている。そんな噂がわたしたちの家まで届いていた。わたしは恐ろしさのあまり、身を縮こまらせて震えることしかできなかった。
ある夜。慎ましやかな夕食を終えると、母がわたしを食堂に引き止めた。重大な話があるのだろう。そんな予感がしてわたしは両手を強く握りしめた。逮捕された父が今どこにいるか知らない。叔母が手紙で知らせてくれたのだが、首府ではすでに数人の将校が処刑されたそうだ。捕まった軍人の家族も拷問を受けているらしい。いずれわたしたちにも憲兵が来るでしょう。母は静かにそう告げた。
わたしはここで、この家で憲兵を待ちます。わたしは軍人の妻です。あなたのお父様がどのような濡れ衣を着せられていても、信じつづけることが妻の責務です。だけど。気丈な母は涙を流すことなく、わたしを勇気づけるように頬を撫でた。あなたは逃げなさい。あなたには未来がある。わたしたちといっしょにここで朽ちる必要はありません。わたしも決して泣きださないように歯を食いしばった。わたしひとりじゃ生きていけない。わたしもお父様やお母様といっしょにいるほうがいい。だけど母は何も答えずに首を振り、呼び鈴を鳴らした。
女中がひとりやってきた。彼女はわたしの子守として雇われて以来、十年以上この家に仕えてきた。その女中の顔が緊張で強ばっている。母はテーブルに置かれた果物ナイフを手にとり、わたしに手渡してそっと呟いた。これからこのナイフで女中を殺しなさい。そしてそのナイフで彼女の皮を剥ぎ、彼女の皮をまとうのです。
母の言葉は衝撃的だったけれど、受け入れられないものではなかった。王侯貴族が下賤な者に身をやつして逃亡を図るとき、自分の侍女や召使いの皮膚を被ってその者になりきるのは昔から行われている慣行だったから。あなたは偶然皮膚の効力を発見して得意げになっていたようだけど。それは単に、あなたが充分な教育を受けていないというだけの話。
お嬢様。わたしの皮をお剥ぎなさい。お嬢様の皮膚となってお嬢様をお守りし、いつまでもお嬢様とともに生きていけること。これ以上の喜びはわたしにはございません。どうかそのナイフでわたしの喉を掻き切ってください。女中は十字を切ると、眉間に皺を寄せて両目を閉じた。わたしは決断した。女中の喉を切り裂き、返り血をぬぐうことなくそのまま女中の皮膚を剥いだ。そして女中の皮膚をかぶった。
さよならも言わずわたしは屋敷を脱出した。そして放浪の日々が始まった。
最初に宿をとった村で、わたしは陵辱された。あなたは公娼の皮膚をまとって性交したとき快楽を得たと言っていたけど。わたしにとって苦痛と屈辱以外の何物でもなかった。わたしはすぐに女中の皮膚を脱ぎたかったから、わたしを犯した男を殺して皮を剥いだ。そして次の村へ向かった。
そのうち、わたし自身が叛逆罪を犯した家族、つまり父を匿った咎で指名手配されていることを知った。男の皮を被っていたわたしは肉体労働で日銭を稼いだのだけれど、か弱い女の体力ではすぐに正体が露見してしまう。そのたびにわたしは人を殺して皮を剥ぎ、別人になりすましてここまで流れてきた。今では、わたしが誰を演じているのか。それすらもわからない。というか、どうでもよくなっている。貧民街出身のあなたが大喜びするほどだから、それなりに地位のある人なのだろうけれど。わたしにとっては誰でもいい。逃亡の疲れを癒してくれる時間がほんの少しでも得られれば、それで満足。結局は、わたしはわたしだと知れてしまうのだから。
あなたは、他人の皮膚をかぶることで他人になりきれていると自慢げだけど。それって本当は悲しいことだと思う。二重に。
第一に、あなた自身がとても空虚な存在であるということ。あなたに個性がないから、特性がないから、誰の皮をかぶってもそれなりにやりすごせる。わたしにだって特別な個性があるとは思わないけれど。でも、貴族の生まれであることはほんの些細な言動や癖で露見してしまう。裏を返せば、あなたにはあなたを特徴づけるものが何ひとつ存在しない。
それからもうひとつ。本当はみんな、あなたが皮をかぶっている人物の中身が変わっていることに薄々気づいているはず。それでも、あなたをあなたではないほかの人物として取り扱うのは、そのほうが円滑に事を進められるから。あるいは中身が誰であろうが関係なく機能する官僚的なシステムに、あなたが飲みこまれているから。役所や軍隊はもちろん、地下政党や巨大企業だって官僚化から逃れることはできない。あなたは自分ではうまく立ち回っているつもりかもしれないけど。本当はあなたがなりきっている人物の代わりは、もっと言えばあなた自身の代わりは、いくらでもいる。
あなたは別人どころか何者にもなれなかったし、これからも何者にもなることはできない。あなたは壊死して変色した肌と薄汚い皮脂の塊に過ぎないのだから。
だいたい、あなた、自分が臭いと思ったことはないの?
文字数:11039
内容に関するアピール
【読みどころ】
- 雪合戦のシーン
- 第2章の文体
- 全体的に短めで読者への負担が少ない
以上です。よろしくお願いいたします。
文字数:55