写心の影

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梗 概

写心の影

作家の青年、破樺陽士(はかば・ようじ)は二度女性と心中した。一人目はきい子、40代の人妻。二人目は千絵、20代の娘だった。二度の心中で、二度とも女性は死んだが破樺は生き延びた。

そのことに関する、ある奇怪な出来事が破樺の心を捕らえていた。

奇怪な出来事は、千絵(二人目)と出会った時に起きた。千絵は、死んだきい子(一人目)しか知らないはずのあだ名で破樺を呼んだ。千絵は千絵自身の記憶・心と伴に、きい子の記憶・心をも持つ女だったのだ。

破樺と千絵(=きい子)は世界に絶望しており、再び心中を試みた。そしてまたも破樺は生き残り、千絵は死んだのだった。

そこまでは思い出せるのだが、破樺は〝重要な記憶〟が欠落している気がしてならなかった。

 

ひとり作家業を続ける破樺の前に、14歳の少女・みどりが現れる。みどりは、きい子と千絵の記憶・心を持っていた。

二人は、今度こそ確実に心中を成し遂げようと誓う。

死ぬ前に、破樺はみどりという存在を小説として残したいと思った。以前から、「人間の心は全て小説によって表現できる」というのが破樺の主張だった。それを証明するため、破樺は口語体ならぬ〝想語体〟という文体を編み出し、みどりの内面世界を完璧に小説として写し取った。完成した小説は、みどり(=きい子・千絵)の心そのものとなった。

その時、破樺は欠落していた〝重要な記憶〟を思い出し、事の真相を知る。

破樺は最初の心中の前にも、きい子の心を小説として書き上げた。心中の後、その小説を手に入れた千絵がそれを読んだのだろう。だから千絵の中にきい子の心が入り込んでいたのだ。

次の心中では、破樺は千絵を小説として書き上げた。今度は、その小説がみどりの手に渡ったのだろう。そして小説を読んだみどりに、千絵(=きい子)の心が入り込んだ。

だが、〝想語体〟の小説は書く時に尋常ではない没頭を必要とするため、しばらくすると破樺の頭から執筆前後の記憶が抜け落ちてしまうのだ。

 

破樺は己の欲望に気付く。愛する女の心を小説にし、その女を殺したい。そうすれば女の心は自分を愛した状態で凍結され、自分の所有物となる。

小説〝みどり〟を完成させた破樺は、自分は助かるように仕組み、みどりと伴に心中を行う。みどりを殺せば〝みどり〟の心は自分の物となる。

意識喪失の直前、みどりから驚愕の事実を聞かされる。小説はすでにみどりの手で別の女に渡した。その女が小説を読み、きい子と千絵とみどりの心を受け継ぐだろう。そして破樺は、その女とまた恋に落ち、心中を計画し、その女を小説にするだろう。そうやって一生〝私〟に夢中になり、〝私〟を小説にし続けるがいい、とみどり(=きい子・千絵)は言い、高笑いを上げる。

 

みどりは死に、破樺は生き延びた。

〝重要な記憶〟を失った破樺の前に、まだ十歳にもならない女の子が現れる。その女の子が、みどりたちしか知らないはずのあだ名で破樺を呼んだ。

文字数:1194

内容に関するアピール

太宰治の心中事件から着想を得た。

ここでは、梗概には盛り込めなかった〝想語体〟の設定について説明する。

日本では、口語体(言文一致体)が私小説を可能にした。文語体に比べ、口語体は私的な事柄(書き手の内面)を書くことに特化した文体だ。

本作の主人公・破樺はそこから、口語体よりさらに私的な〝想語体〟という文体を編み出す。口語体が話し言葉の文章であるように、想語体は人間が思考する言葉で文章を書く。口語体が私的でありながら他者と共有可能な言葉であるのに対し、想語体は完全に私的でそもそも共有することを目的としていない。想語体には人それぞれ特有の飛躍と、意識と無意識の混淆があり、当人以外から見れば支離滅裂で論理性もない文章の羅列に見える。そんな特殊な文体だからこそ、一人の人間の内面世界を完全に小説化することができるのだ(こうして人の心を小説にする作業を、写生ならぬ〝写心〟と言う)。想語体によって書かれた小説は、いわば究極の私小説と言える。破樺は、相手の女性と深く愛しあうことで思考をシンクロさせ、相手の想語体を獲得し、その文体によって相手の心を小説化する。

こうして出来上がった究極の私小説は、基本的には意味不明な文章の羅列にすぎない。が、稀にいる同じ思考の型を持つ人間ならば、小説が理解できる。その時、その小説に表現された人物の心が自分の中に入り込んできてしまうのだ。

その人間が若ければ若いほど、他者の想語体を理解できる可能性は高くなる。まだ確たる自分の想語体を獲得していないため、様々な想語体に柔軟に対応できるからだ(だから破樺の心中相手は徐々に若くなる)。

また、想語体による究極の私小説は、それを書いている間、自分の思考が相手の想語体に侵食されてしまう。自分というものを曖昧にした状態でしか、他の誰かの想語体を再現することはできない。だから破樺は心中の後、その小説を書いていた期間と、その前後の記憶を忘れてしまうのだ。

文字数:808

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