春の夜明けに散る

印刷

梗 概

春の夜明けに散る

地軸の傾きの不安定化と自転の周期の乱れにより、地球では異常気象が常態化していた。各地で気温が乱高下し、日の出や日の入りの時刻も安定しなかった。日本では、四季が失われ、日々「季節」が変わっていた。植生も大きく変化し、都市部でも新種の植物が繁茂していた。

 

都内の区立中学に通う沙夜は、板書された現代語訳を写しながら、国語の教師が京都の寺院で見つかった「枕草子」の新章段について語るのをぼんやりと聞いていた。発見された章段は、随筆ではなく説話で、清少納言が、中宮定子に抱いていた恋心が綴られていた。物語は、清少納言が土に還り、植物として永遠の命を得て、定子と再会する場面で終っていた。

 

ひどく冷え込んだ朝。雪がちらつき、霜がおりた学校の花壇に、赤い花が埋もれるように咲いていた。ちらちらと光る花は熱を発し、周囲の雪を溶かしていた。「フユホタルソウ」と名付けられた植物は、地中の窒素化合物をエネルギー源とし、余剰のATPを熱として放出していた。日光を受けると衰弱するため、朝になると花を閉じてしまう。沙夜は一輪摘み取り、家に持ち帰った。

 

次の日、爽やかな秋の風が吹く夕暮れ。富士山の麓で、大量のカラスが消えたことが報じられる。続いて、雁の群れを追跡していた鳥類学者が、巨大な雑食性の植物が出現したと発表する。この巨大植物は、日光ではなく月の光によってのみエネルギーを生成することがわかる。

 

翌週、熱帯夜が続いた東京ではフユホタルソウが大量発生し、発する熱によって火災も起こっていた。強い繁殖力をもつフユホタルソウは、富士山に達しようとしていた。

 

沙夜は、フユホタルソウは清少納言で、富士山の麓に現れたのが中宮定子だとすれば、定子は清少納言を食らい、食われた清少納言は定子を焼き尽くし、二人の恋は成就する。だが二人を愛し、二人が愛する存在が、二人を引き裂こうとしていた。

 

気温が下がり、春が訪れる。深夜、フユホタルソウが巨大植物の周囲を取り囲み、天に達した巨大植物は、何十メートルも伸びた茎でフユホタルソウを捕食しようとしていた。二つの植物が合体しようとしたとき、予定より6時間以上早く太陽が姿を現す。山の端が明るくなっていく。だが二つの植物は地中に戻ろうとはしない。その姿は、数千年の恋の果てに、太陽=(一条)天皇が彼女たちを消し去るのを待っているかのようであった。

文字数:973

内容に関するアピール

有名な「枕草子」の冒頭を基に、清少納言と中宮定子の秘めた(同性)愛というドラマと、気候変動がもたらす災厄というSF小説としての要素を組み合わせました。また、舞台は四季が失われた日本に設定する一方、構成は枕草子の冒頭に倣いました。

 

実作では、清少納言と中宮定子、あるいは彼女たちを庇護した一条天皇や藤原家の人々の栄枯盛衰を反映させたドラマを構築すると同時に、怪獣ものの楽しさも存分に描き込んでいきたいと考えています。

文字数:206

印刷

春の夜明けに散る

 

〔三二〇〕

高きもの。

楠。伊香保の滝。衣川の薄。六位の烏帽子。説教師の車の音。

低きもの。

大和の蛍。紀州の峰。晦の空。蔵人頭のしはぶき。少将の弓。

 

〔三二一〕

枯れ木の高く生いたる、例の様にはあらず、ておはせられたれば、「燃え焦がるる蛍ぞいかにせむ」と仰せられ、「姿は変われど、詠ずる詞は変わらず」と申せば、「憎み捨つることなかれ」とのたまふ。

 

 

質問:「冬」ってどういう意味ですか?

(質問者:TEI)

 

MVA:昔あって、今はない「季節」の一つです。とても気温が低くて、雪が降ります。千年以上前は、炭を燃やして、その炭が赤く光るのを楽しんでいたそうです。

(回答者:SEI)

 

「冬」の早朝が好きだ。

首より下は隙間風も入れないほど着込んで、耳当てをつけ、毛糸の帽子を被る。寒さを寄せ付けない恰好がお気に入りだ。でもそれ以上に、頬に突き刺さる寒風が愛しかった。

午前7時、朝練もまだ始まっていない。校門を抜け、そのまま教室に向かう。こんな寒さがやって来るのは何週間ぶりだろうか。沙夜は、用務員室に立ち寄った。

「おはようございます」

「おはよう。今朝は冷えるね」

「2-Bにストーブ、お願いします」

「後で持っていくよ」

用務員室には、既にいくつかのストーブが準備されていた。全ての教室は一括管理の空調設備を備えているが、リクエストがあれば型落ちの電気ストーブを持ってきてくれる。

いつもどおり、一番乗りだった。「冬」の日も、「秋」の日も、「夏」の日も、「春」の日も、沙夜は真っ先に「季節」を感じたい。今の地球に「季節」はない。沙夜が日々の気候に「季節」の名前をつけているだけだ。

沙夜は、生物係という名の雑草係も引き受けた。気候が安定しないため、街には様々な生態の植物が生い茂っていた。土のない教室に多くの雑草が生えるのもそのせいだった。校舎の外壁を這って侵入してくるツタ類、コンクリートの隙間に生えるアシモトヒエはひび割れを生じさせ、綿や羊毛に繁殖するトウタケは制服を無残な姿にする。ただでさえ害をなす雑草が多いのに、担任の藤原は教室の中にいくつか鉢植えを置き、生徒から非難を浴びていた。

雑草を除去するための鋏を探していた沙夜は、ふと、視野の端に、小さいけれど力強い光を認めた。光は、腰の高さほどのロッカーの上から発せられていた。クラスで育てているサマーコスモスの鉢植えだ。

薄い黄緑色のサマーコスモスの隣に、鮮やかな赤が並んでいた。顔を近づけると、熱を感じる。ただし温かいという程度だ。小さな花だった。茎や葉は見当たらず、つぼみのような部位だけが地上に姿を見せている。サマーコスモス葉が、わずかに焦げていた。

沙夜も見たことのない花だった。アケボノソウ、あるいはホタルソウと呼ばれる花に似ていた。

「何見てるの?」

耳元で声をかけてきたのは、阿部紫音だった。

「来てたの?」

「今来たの。また草取り?」

「これ見て」

沙夜が光を指すと、紫音は躊躇なく指で触れた。

「熱っ!」

「大丈夫?」

「何これ…」

赤みを帯びた指をさすりながら、紫音は改めて赤いつぼみを観察していた。

「後で藤原に聞いてみたら?」

「国語じゃん」

「オールドの方」

沙夜の中学校には、藤原の姓をもつ教師が三人いた。三人とも男性で、年齢順にオールド、ミドル、リトルと呼ばれ、それぞれ理科、音楽、国語を担当していた。ただ沙夜も紫音もいまだにこの区別に違和感があり「藤原」と呼ぶたびにクラスメイトに確認を求められた。

「ねえ、国語の範囲ってどこだっけ?」

「また祥子?」

「しょうがないじゃん」

間宮祥子の家は、超がつくほど金持ちのだ。ただ祥子は勉強が苦手だ。各教科ごとに家庭教師を雇っていたものの、成績は下から数えたほうが早かった。祥子は、勉強が得意な紫音を頼りにしており、定期テスト2週間前になると、紫音の時間の半分以上を独占していた。

「お金もらったら?」

「いいよ、余計面倒くさくなりそうだし」

紫音は祥子のことが好きだ。沙夜は一言、二言以上言い返すことができない。紫音も、沙夜が気づいていることを知っている。だから親友のはずなのに、時々ぎくしゃくする。

「あの参考資料みたいなプリントって範囲なの?」

「たぶん」

10日後に迫った中間テストの範囲は枕草子だった。沙夜たちが通う中学校は、そこそこの進学実績を誇るため、教科書に掲載されている以外の章段も学習する。高校で学習する古典文法を使って解釈を行うこともあった。

「祥子が来た」

紫音が階段を上がってくる足音に反応したものの、祥子ではなく、ストーブを抱えた用務員のおじさんだった。

「あのプリントに書いてあるのって、本当に枕草子なの?」

「ニュースでやってたじゃん。紙とか墨とか、分析したんでしょ」

「それは知ってるけど」

リトルが配布したプリントには、新たに発見された枕草子の新章段が載せられていた。随筆に分類される枕草子だが、発見された章段は、フィクションの可能性もあった。リトルはこの新章段の報道に関心を抱いているようで、授業でも熱心に解説していた。

「ストーブ、ここでいいかい?」

「はい」

沙夜は、設置された電気ストーブの暖かさより、背後の赤いつぼみが発する熱が気になった。

「この花、このままにしておいていいかな?」

「好きにしなよ。この教室の植物は沙夜のものだから」

用務員のおじさんが階段を下りる音と交差するように、階段を上がってくる音が聞こえた。紫音の視線が教室の入り口に注がれている。祥子だろうか。沙夜は赤いつぼみを気にかけながら、雑草取りを再開した。

 

 

昼前になり、ありがたみがなくなっても、電気ストーブはうすぼんやりと教室を暖め続けていた。2-Bの教室の窓からは、都心の高層ビル群を挟んで、わずかに富士山が見える。富士山の手前にぽつんと見える点が、オオクスノキだ。

樹齢1000年と言われ、高さは50メートルを超える。葉はほとんどなく、太い幹に細い枝が毛のように生えている。問題は根だった。オオクスノキは、地中でエネルギーを生成するため、太く長い根を必要とする。根は山梨、静岡にとどまらず、東京都郊外にまで伸びており、地盤沈下や隆起を引き起こす危険があった。切り倒せという声が強くある一方、文化的遺産であることや、どのようにエネルギーの生成を行っているのかという学術的関心が、保護の理由となっていた。

沙夜は、授業中であるにも関わらず、携帯型端末「ルート」を手元でこっそり触っていた。学校では鞄にしまっておかなくてはならない。机の中にぎっしり詰まった教科書の隙間を探し、ルートを滑り込ませる。

沙夜は質問サイトにはまっていた。特に熱心に回答していたのが、TEIと名乗る投稿者の質問だ。いつも幼い問いかけをし、なぜか沙夜の回答を一番(Most Varuable Answer)に選んでくれる。他にもっと的確で、詳しくて、分かりやすい回答があるのに。

沙夜は、TEIも自分と同じ中学生ではないかと考えていた。匿名のため連絡をとることはできない。TEIの質問に答えるとき、沙夜は自分がとても賢くてセンスのある人間であるように錯覚することができた。

「清田」

突然指名され振り向くと、リトルの顔がそこにあった。

「読んでみろ」

「はい」

「枕草子だ」

「春はあけぼの…」

「バカ、それは先週だ。ちゃんと話を聞いておけ」

呆れた顔のリトルの周囲で、同級生がくすくす笑っていた。紫音が「グッジョブ」と親指を立てた。

授業は既に「香炉峰の雪」の復習に入っていた。このエピソードは沙夜のお気に入りだった。漢詩の素養を背景に、清少納言の才気あふれる振舞いが称賛される場面である。沙夜が好きなのは、周囲の女御たちが、清少納言は定子にふさわしいと言う部分だ。自分からアピールするわけでも、相手が迫ってくるわけでもない。外見、能力、相性などによって、自然と結びつけられていく。これこそ運命だ、と沙夜は信じていた。この場面を書いたのは言うまでもなく、清少納言自身だ。もし清少納言が定子に、敬愛以上の思いを抱いていたとすれば、この場面ほど最高のシチュエーションはない。

冒頭、香炉峰の雪の復習を終え、リトルは教科書を閉じた。

「このまえ配ったプリントあるだろ?」

さっとプリントを鞄から出す者もいれば、反応しない者もいる。

「前にも話したように、これは最近発見された枕草子の新章段だ」

京都の寺院の倉で見つかったということだったが、寺院の名前は報道でも明かされていなかった。何より、清少納言の手によるものであることがはっきりと証明されたわけではない。紙や墨により、年代こそ一致するものの、枕草子の一部であると決めつけることはできない。

「みんな、三二○段を読んで、どう思う?」

一つ、二つしか読んだことのない中学生にとって、既に書かれた部分も新しく発見された部分も、昔の文章という点では同じだった。沙夜は発言したかったが、弛緩した周囲の空気に躊躇した。答えたのは祥子だった。

「最初の、楠と蛍が気になります」

「どうして?」

「次の…段?にも出てくるからです」

紫音に朝教えてもらったのだろう。沙夜は、自分と同じ理由で挙手しない紫音がもどかしかった。

「そう、楠と蛍はすぐ後の三二一段にも登場する。枕草子の中にも、複数回登場する人や物はもちろんあるけど、これはちょっと奇妙だ」

沙夜は、三二一段そのものに違和感をもっていた。

楠が傷つき異様な姿になっているのを見て、燃えるように光っている蛍をどうすればよいかと片方が尋ねる。もう片方が、外観は変わっても、詞は変わらないと言い、憎しみ、相手を捨てることはするな、と返す。

話している二人は誰なのか?清少納言と中宮定子だとすれば、一方通行に見える会話は違和感を与える。

「みんなも知っているように、枕草子は随筆だ。だけど、この三二一段は、何というか、本当にあったことだという手触りがない」

詞って何だろう?

「だから専門家の間では、この二つの部分をどのように理解するか、議論が続いているんだ」

楠…沙夜は授業が終わっても、遠くに霞むオオクスノキを見ていた。ストーブは早々と役割を終え、暑くなった教室の窓は最大限開け放たれた。久々の「冬」はあっけなく終わった。

「さっきはどうしたの?」

紫音が空いた隣の席に腰かけ、顔を近づけてきた。

「蛍って何だと思う?」

沙夜は紫音に尋ねた。

「蛍は、蛍でしょ」

「燃えるように光ってるって、そんなふうに見えたことないけど」

「昔は暗かったからじゃない?」

適当な返事を返しつつ、紫音は祥子の様子をちらちら確認していた。祥子はたぶん、紫音の気持に気づいている。だけど、何もしてあげることはできない。

「何か、伝えようとしてる気がするの」

「何を?」

「わかんない」

「誰が?」

「それもわかんない」

清少納言、とはさすがに言えなかった。紫音なら馬鹿にせずに聞いてくれるだろうか。教室の後ろに目をやると、赤い光は見えなくなっていた。

 

質問:夜行性の植物っていますか?

(質問者:TEI)

 

MVA:私は理科が苦手なのでよくわからないのですが、夜行性の意味によります。光合成は月の光や人工的な光でもできるし、昼間作ったエネルギーを使って夜成長することもできます(呼吸する分は減りますが)。最近、太陽の光を嫌う植物がいくつか発見されたみたいですよ。これは夜行性といえるんじゃないでしょうか。

(質問者:SEI)

 

「冬」はあっという間に去った。沙夜は、かつて地軸が一定の角度で傾いていたという話を聞いて以来、「季節」を想像するようになった。現在の地球には、ランダムな気温の変化があるだけだった。日の長さも一定ではない。地軸の傾きが失われた原因について、父親も、テレビも、教科書も、簡単に言えばと前置きして、こう答えた。

「もともと地球が生まれたときに衝突して傾いただけで、いつ傾きが変わってもおかしくなかったんだよ」

まるで近所の電柱について話しているみたいだった。既に一部の専門家を除いて、根源的な原因への関心は失われていた。

人々は、瞬間ごとの地球を受け入れるしかなかった。寒ければ厚着し温かいものを食べ、暑ければ暖房を冷房に切り替える。農業も、沙夜が物心ついたときには、地下栽培、屋内栽培が主流となっていた。

だから余計に「季節」への憧れが膨らんでいった。気温と湿気が高い時期が続き、ある時風の音でふと次の「季節」を感じる。祖母は、セミが鳴き、スイカを食べ、花火を見た夏の話をよくしてくれた。だが、幼かった沙夜にはうまく理解できなかった。花火はテーマパークで見た、スイカは一年中売っている、セミは気持ち悪いから好きじゃない。

日が暮れると、学校の花壇にも赤い光が現れた。沙夜は光を眺めながら、祖母や母や、様々な書物が懐かしそうに語る「季節」の話を思い出していた。

「水やりは終わったんですか?」

振り返るとオールド藤原が立っていた。理科の教師だが、定年後再雇用されており、今年で任期満了となる。

「先生。これ、何ですか?」

「私も気になっていました。たぶんホタルソウの一種でしょうが、新種には違いないと思います」

「新種…」

「新種という言葉に興奮を覚えていたころが懐かしいですよ」

気候の変動が大きくなり、日々世界中で新種の植物が誕生していた。新種のホタルソウは、花壇にも広がっており、沙夜はその増え方を不気味に感じた。

「名前、つけてみたらどうですか?」

学者の特権であった新種の命名は、広く一般人に開かれていた。

「フユホタルソウ、ってどうですか?」

「いいんじゃないですか」

沙夜は、フユホタルソウ、ともう一度言ってみた。

「冬、というのも懐かしい響きですね」

付けた名前とは逆に、花壇内の温度は確実に上昇していた。先に植えられていたチューリップの茎が萎れている。フユホタルソウに茎や葉はない。根はどうだろうか。検索してみると、大きく報道こそされていないものの、全国的に目撃されているようだった。特に関東圏で多くみられるとの情報もあった。

「この植物には、緑色の部分がないんですか?」

「太陽の光を必要としない植物なのかもしれません」

「じゃあこの熱や光は…」

「確かに光を使って生きる植物は、そうでない植物より圧倒的に多くのエネルギーを生み出すことができます。でも、もし光を使わずにこれだけの熱を発することができるとしたら…」

大和の蛍。沙夜は、枕草子の新章段の一節を思い出した。

「先生、地球の気候が変になったから、こんな植物が生まれるんですか?」

「さあ、私にも分かりません。ただ何か今この世界に姿を現す理由があるんでしょうね」

沙夜は、フユホタルソウを見ながら、なぜかオオクスノキの姿を思い浮かべていた。

 

 

花壇の世話を終え、校門を出たところで、紫音に会ってしまった。

紫音は祥子といっしょだった。友達に会っただけなのに、逃げ出したいほど気まずかった。紫音のためにも、立ち去る言い訳を探さなくてはならない。しかし、祥子は邪気のない声で誘ってきた。

「いっしょに帰ろ」

祥子は、沙夜に聞きたいことがあるようだった。

「しーちゃんが学年1位で、さーちゃんが2位でしょ?二人だったら分かるかなと思って」

「何のこと?」

「大地震、起こるの?」

そんなこと?というセリフを呑み込んで、沙夜はとりあえず考えるふりをした。

「私は都市伝説だって言ったんだけど」

紫音の説明に祥子は満足していないようだ。

「ほら、国語のテスト範囲の古文あるでしょ」

「枕草子?」

「最近発見されたって部分が、大地震を予言してるんだって」

ルートで祥子が見たという書き込みを共有した。問題とされているのは三二〇段のほうだった。クスノキが折れ、伊香保の滝が割れ、衣川が決壊する。烏帽子は、今は削り取られてなくなった神奈川県の岩礁で、車の音は地鳴りを表していると主張していた。

「面白いのは、面白いかもしれないけど」

「でしょ?しーちゃんは嘘だって言うんだもん。つまんない」

祥子の軽口に、紫音は本気で動揺しているようだった。

「ちょっと無理があるかもね。ここに書かれている地名って、それぞれけっこう離れた場所にあるから、かなり大きな地震ってことになるよね」

「地震じゃないのかな?」

「さあ…短いから、メッセージを読み取る側次第なんだろうけど」

地震じゃなければ何だろう?沙夜は、オオクスノキに関する一連の報道を思い出していた。学校の花壇に現れた赤い光のことも。

「もし学校にいるとき、すごく大きな地震が起きたらどうする?」

発言を控えていた紫音が唐突に尋ねた。視線は自分に向けられているものの、紫音が聞きたいのは祥子の答えだと察し、沙夜はただ困った表情を浮かべた。

「どうするって?」

祥子が聞き返すと、紫音ははにかむだけで説明しようとしない。沙夜には、紫音が何らかの物語を脳内で展開しているのだと分かっていた。沙夜と紫音は、妄想力に長けているという共通点をもっていたが、妄想の質は大きく異なっていた。

「夏」の夜、首筋にねっとりと汗が滲んでいる。朝着ていたコートやマフラーは学校に置いてきたが、長袖の制服は着て帰るしかなかった。保温性のある下着や靴下を早く脱ぎたい。紫音は黙ったままだ。気まずい時間を、沙夜は暑さへ意識を集中させることでやり過ごそうとした。

「ちょっと、どうするってどういうこと?」

「逃げるとか、そういうこと」

紫音が苦しげな声で答えた。

「逃げるよ。当たり前じゃん」

「どうやって逃げるとか」

「走って逃げる」

紫音の問いかけは完全に行き場を失くしていた。沙夜も、紫音が紡ぎたいストーリーがつかめず、フォローのしようがなかった。

「ねえ、しーちゃんって時々バカだよね」

紫音が消え入るような声で、ごめんと言った。祥子みたいなバカが、紫音のことをバカにするなんて。気まずい雰囲気が解消されないまま、沙夜は二人に別れを告げた。

沙夜は、帰宅してから紫音からの連絡を待ったが、午後11時を過ぎたところで諦めることにした。

もやもやした気持ちを紛らわせるため、質問サイトにアクセスする。

 

質問:見つかった枕草子は、大災害を予言しているって本当ですか?

(質問者:TEI)

 

またそれかよ。沙夜は、TEIは知的な女性だと勝手に決めつけていたため、やや落胆した。予言の内容が話題になっているため、回答数も多く、似たような質問も複数あった。自分がわざわざ答える必要もないか。

しかし沙夜は、TEIが自分の答えを待っているのではないか、という思い込みを捨てることができなかった。

 

MVA:大災害の中身によると思います。地震も台風も戦争もすべて災害です。どんなサイトをご覧になったのか分かりませんが、どれも一部の言葉を都合よく解釈しているだけのように思えます。でも、私も不安に思っていることがあります。クスノキとホタルです。この二つが冒頭に書かれていることに何か意味があるのではないかと考えています。

 

TEIは、答えではなく、SEIたる沙夜自身に関心あるいは好意をもっているのではないか。沙夜はそんな思いを強くした。SEIという名前も、TEIに合わせて適当につけてだけだったが、今となっては双子のようでくすぐったかった。沙夜は、自分の妄想癖に苦笑するしかなかった。

冷房が効くのを待っている間に回答を作成したせいで、ずいぶんと汗をかいた。今日もきっと万能鍋だろう。温めても冷たくしても美味しいと母親が豪語するメニューだ。気温の変化が大きい日が続くと、万能鍋が続く。しかも今日は熱々の方だった。暑いときには熱いものを食べるらしい。

「夏」は嫌いではない。夏の夜の蛍は良いものだと、清少納言は言った。窓の外を見ると、隣家の庭にも、その隣にも、赤い光が灯っていた。

 

 

「秋」というのはどんなものなのだろう。「夏」と「冬」は分かりやすいが、「春」と「秋」は気がつくと通り過ぎている。カラスが大量に消えたというニュースを聞いて、沙夜は枕草子の冒頭を思い出していた。秋の夕暮れにカラスや雁が数匹飛んでいる光景は確かに美しいのだろう。だが、数百匹のカラスが消失する様は気味が悪いとしか言いようがない。

富士山を上るアマチュアカメラマンの映像によれば、カラスはオオクスノキに吸い込まれているように見えた。環境省はオオクスノキの状態に変化はないとの見解を示していた。遥か遠方に見えるオオクスノキの根が、すぐ足元に広がっている。

気にかかることが多すぎる。だけど、話す相手がいない。紫音が1週間以上欠席を続けているからだ。祥子と大地震のことを話したとき、何か考え込んでいるように見えた。翌日には早退し、その後返信もなくなった。

家にいるのだろうか。沙夜は紫音の家を訪ねようかとも考えたが、会って何を話せばいいのかわからなかった。

「なぜ地軸の傾きが失われたか、今問題になっているのはそのことではありません。問題なのは、地軸の傾きが失われたにも関わらず、なぜ植物をはじめとする多様な生命がこれほど維持されているか、ということです」

教室のあちこちでおしゃべりが繰り広げられている。オールドの授業は私語が絶えない。

「一つ考えられるのが、太陽の光を必要としない植物が増えたということです」

オオクスノキが、光や二酸化炭素を使わずにエネルギーを生成できるとすれば、地上に現れていなくとも、着実に成長を続けていることになる。

「みなさん、これを知っていますか?」

オールドは理科の教師で、かつ絵が上手い。植物や動物の細密なスケッチを黒板に書く。沙夜はアートと呼べるレベルだと素直に尊敬していた。ただ書いている間授業は中断し、教室はますます騒がしくなる。

「ここは、赤く光っています」

フユホタルソウだ。沙夜が身を乗り出したとき、ルートでメッセージが届いた。紫音だった。

「今、理科の授業中かな?」

通常の授業なら端末を没収されてしまうが、オールドなら問題ない。沙夜は机の陰でそっと返信した。

「どこにいるの?」

送られてきたのは、根元から見上げたオオクスノキの写真だった。紫音が撮影したものだろうか。

「オオクスノキのそば」

「大丈夫なの?」

「どういう意味?」

紫音の様子は数週間前と違っているように思えた。沙夜は、オオクスノキの近くで大量のカラスが消えたことなどを伝えた。

「マスコミの人たちがいっぱいいる」

文字だけ見ると他人事の印象を受ける。死ぬつもりなのではないか。オオクスノキは樹海とはやや離れた場所にあるものの、沙夜の中に、紫音が完全にいなくなってしまうことへの恐怖が生まれていた。

黒板の方を見ると、オールドがフユホタルソウの説明をしている。フユホタルソウも太陽の光を使わずに、地中の窒素化合物を使って光合成以上のエネルギーをつくり出す新種の植物ではないかとの説明だった。フユホタルソウの場合、過剰なエネルギーは熱となって放出される。

紫音からライブ通話のリクエストが届いた。

「あと5分で授業終わって、昼休みだから」

すぐにでも話したい衝動を抑え、返信した。オールドの話が断片的に耳に入る。フユホタルソウとオオクスノキは、同じように太陽の光を避け、独自の方法でエネルギーを生成する。片方は熱を発し、もう片方は巨大化した。オオクスノキは根を延ばすものの、生成するエネルギー量に限界があり、他の動植物を捕食し始めた。ただし消えた鳥の死骸は発見されておらず、人間が襲われたとの報告もない。

「最近枕草子の一部が新しく発見されましたよね。その最初の部分に、高きものとして楠、低きものとして蛍が挙げられていますが、あれはまさにこの二つの植物のことじゃないかと思うんです。オオクスノキは時を超えて今立っています。フユホタルソウは、もちろんそれほど長い寿命をもっているわけではないですが、大きな気候変動に合わせて進化してきたとすれば、やはり時間を超えてきたわけです」

チャイムとともに教室を飛び出した沙夜は、国語科準備室に駆け込んだ。たいてい無人で、今日も人影は確認できない。沙夜は慌てて通話リクエストを承認した。画面には、空と鳥の群れが写っている。

「沙夜、聞こえてる?」

「紫音、なんでそんなところのいるの?」

「ほら、鳥が、木の隙間に吸い込まれていくの」

紫音は沙夜の問いには答えず、鳥をアップで映した。

「リトルの話きいた?」

「何のこと?」

「枕草子の話。高きものっていうのは、身分の高い者、つまり中宮定子で、低きものは清少納言なんだって」

「その話…」

「だからオオクスノキは定子なのよ。見て、たくさん穴が開いてるでしょ?」

沙夜のテンションが異常なものに感じられ、沙夜は否定的な返事を控えようと決めた。送られてくる動画は、過剰に拡大され、被写体の姿が不明確だった。茶色と黒がぼんやりと重なり、組み合わさっている。紫音はオオクスノキに近づいているのかもしれない。

「紫音、学校に来なくてもいいからさ、帰ってきなよ」

「この木がもし、千年前とつながってたらすごくない?消えた鳥はみんな千年前の空を飛んでるのかも」

紫音の妄想を止めることは難しい。沙夜は、オオクスノキが他の動植物を捕食しているという話を思い出した。

「危ないから、戻っておいでよ」

「なんか、ここにいるほうがいい」

祥子のこと、気にしてるの?沙夜は喉元まできた言葉を飲み込んだ。紫音は遠い場所にいる。遠い場所にいるからこそ一つの言葉で死に追いやることもできる。沙夜がかける言葉を探していると、「熱いっ」という声とともに通信が途切れた。

「紫音?」

画面に変化はない。沙夜の脳裏をかすめたのは、フユホタルソウの赤い光だった。助けに行くべきなのだろうか。沙夜は、自分が泣いていることに気づいた。

「何してる?」

見上げると、リトルがいた。

「先生、なんでいるんですか?」

「ここは、国語科準備室だからな」

「そうですね、すいません」

「謝る必要はない」

今起きたことを説明する気力はなかった。沙夜は、残った力を振り絞るようにリトルに尋ねた。

「先生、人は植物に生まれ変わることができるんですか?」

「昔の人はそう考えてたんだろうな。身分とか、性別とか、思いを遂げられない理由は今よりずっとたくさんあっただろうし」

「生まれ変わっても、会いたい人はみんな死んでるかもしれませんよね?」

「会いたい相手が生まれ変わるまで、待てばいいんじゃないか?でも強い思いがなきゃいけないだろうな。深い土の底に潜っていくような」

そう言って、リトルはノートの切れ端を沙夜に渡した。そこには枕草子の新章段に赤ペンで書き込みがされていた。沙夜は、それを見てとっさに書き足し、リトルに見せた。リトルは数秒間眺めた後、沙夜ににっこりと笑いかけた。

 

質問:運命ってありますか?生まれ変わって好きな人に会えるとしても、全然違う姿になっていたら、分からないかもしれませんよね?じゃあ意味なくないですか?

(質問者:TEI)

 

MVA:難しい質問ですね。私も生まれ変わったことがないし、生まれ変わったことがあったとしても覚えていないのでわからないのですが…。恋人と再会したいと思っていても、生まれ変わって出会うときは、動物と人間、あるいは植物と動物かもしれません。人間同士だとしても、親子だったり、たまたま隣に座った人だったり、殺人事件の加害者と被害者だったりするかもしれません。死ぬときは愛し合っていたのに、再開したときは憎みあったり、殺し合ったりするかもしれないということです。

TEIさんはそれでも会いたいですか?

(回答者:SEI)

 

 

ルートで通話した翌日、紫音が帰ってきたという知らせを聞き、沙夜は紫音の家に駆けつけた。黒焦げになった二階の窓が目に飛び込んできた。焼けたのは紫音の部屋だった。ただ一部だけだったため、家族は全員無事だった。消火活動も終わり、隣近所から何人か手伝いに来ているようだった。野次馬もいたが、沙夜は構わず門扉をくぐった。

紫音の姿はなかった。紫音の母親が緊張感と嬉しさの入り混じった表情で、沙夜に話しかけてきた。訊きたいことがたくさんあったのに、紫音の母親からの質問に答える時間のほうが長かった。それでも、最近の紫音の様子についていくらかの情報を得ることができた。

オオクスノキを見に行った紫音は、いったんは無事に帰宅した。だが家族に迎えられた紫音は、一つの植物を手にしていた。フユホタルソウだ。掘り出されたフユホタルソウは既に枯れていた。家族が捨てるように勧めても受け入れなかった。それだけでなく、庭に生えていたフユホタルソウの駆除にも抵抗した。フユホタルソウは発熱、発火するおそれがあるため、危険種に指定され、町単位で役所による駆除が行われていた。しかし発狂せんばかりの紫音を目の当たりにし、家族は駆除を見送ることにした。小火の原因は、紫音が庭で摘み取り、鉢植えにしたフユホタルソウだった。

結局、紫音は再び家を出て行った。紫音の母親はどこに行ったか見当がつかないと話していたが、沙夜は、日常を過ごしていれば戻ってくるような気がしていた。どんな姿で、何を思っているかは分からないけれど。

生ぬるい日々が続いていた。暑さと寒さが交互にやってくるのは変わらないが、それぞれ「夏」や「冬」と呼ぶほどでもない。気持ち良いというより、気だるい。沙夜は、今が「春」ではないかと思った。様々な気配が近づいてくる、不穏なほどに心がざわつく。そして、植物が一斉に活動を始める。紫音と会えなくなって以降、沙夜は、植物から家を出るときからいくつもの警告を受けているように感じていた。

寒暖の差が小さくなったことを歓迎する報道がされていた。二十年以上観測されていなかった桜が開花したことも話題になった。町ではフユホタルソウを駆除するための土壌改良作業が始まっていた。子どもをもつ家庭を中心に、フユホタルソウに触れるなとの注意喚起が繰り返し行われていた。

紫音の家を訪ねた翌日、いつもどおり沙夜が一番のりだった。夜間の冷気が溜まり、教室はひんやりしていた。「春」になったせいか、教室内の植物は一様に元気がなかった。増殖したフユホタルソウによって、枯れたり焼けたりした花もあった。フユホタルソウの除去は難しくない。日が昇ってから地中に潜った花ごと掘り返せばよい。土もいっしょに廃棄するやり方もある。沙夜は、いつものように教室内の植物を手入れする気が起こらず、頬杖をつきぼおっとしていた。

沙夜は、リトルから渡されたメモを眺めていた。

 

〔三二〇〕

高きもの。

楠。伊香保の滝。衣川の薄。六位の烏帽子。説教師の車の音。

「く」「い」「こ」「ろ」「せ」

 

低きもの。

大和の蛍。紀州の峰。晦の空。蔵人頭のしはぶき。少将の弓。

「や」「き」「つ」「く」「せ」

 

暗号?いや、授業中まわし読みする類のいたずらだ。笑いをかみ殺したり、バカみたいだと切って捨てるような。ただリトルからメモを見せられた時震えたことを、沙夜は覚えていた。古典を解釈するわけでも、物語のなかにテーマを読み取るわけでもない。でも単なる語呂合わせだからこそ、千年前の人間が隣の席に座って話しかけてくるような気がした。分かってたんでしょ?

災厄は突然、だけれども予期したタイミングでやってきた。

リトルが試験の返却の前に、長々と解説をしていた。みんな早く自分の点数が知りたいのに、リトルは返却の前に解答の傾向などを延々と話す。返却すると点数しか見ないから、というのが理由らしいが、迷惑な話だ。沙夜は、教科書のテスト範囲をぱらぱらめくりながら、霞んだ空の向こうに立つオオクスノキを見ていた。

午後1時半過ぎ、大きな揺れが関東圏を襲った。植木鉢が落ちて、勢いよく窓が閉まる音が響いた。

「地震?」

祥子が不安そうな声で尋ねた。沙夜は、違う、と心の中で答えた。机の下に隠れた者もいた。リトルが努めて落ち着いた声で呼びかけた。

「みんな、その場を動くな。学校の建物は地震に耐えられるように設計されている。心配ない」

二度目の揺れは、さらに大きかった。校舎全体が東側に傾いた。沙夜は、壁につかまり両足に力をこめなければ、立っていることができなかった。祥子が沙夜の肩を握る。沙夜の危険は増したが、祥子の表情を見ると拒むことができなかった。

「さーちゃん。怖い」

この場にとどまるべきか、リトルの制止を振り切ってでも校舎の外へ出るべきか。沙夜が判断しかねている間に、三度目の揺れが起こった。

校舎は三十度以上傾き、突然床が真ん中で真っ二つに割れた。地鳴りと床が砕ける音が重なり、耳の奥を裂いた。多くの者が転倒し、床を滑り、壁に頭をぶつけた。視界を椅子や机が遮り、他のクラスメイトがどんな状況か把握できない。

落ちる。沙夜は片方の手でひしゃげた窓枠をつかみ、もう片方の手で祥子の手を掴んだ。沙夜と祥子はせり上がった側にいたが、絡まった机の脚によって、滑り落ちることを免れていた。

「みんな、大丈夫か」

苦しそうなリトルの声で、沙夜は落ち着きを取り戻した。そして教室の真ん中に、太くて巨大な根が出現していることに気づいた。根は教卓周辺の床を突き破って天井にまで達していた。枯れた根は直径二メートル以上あり、表皮から無数の細い根が伸びていた。

「オオクスノキ」

「え?」

「ここにいたら危ない」

沙夜は立ち上がろうとしたが、床が傾いているため容易ではなかった。なんとか机の脚につかまりながら体を起こすと、教室内の惨状がはっきりとわかった。みんな怯えていた。どれほどの揺れが起こるのか、目の前の巨大な根がどの方向へ伸びるのか。次の瞬間が怖くて、動けずにいる。出血している者もおり、猶予はなかった。

「出るぞ」

同じく立ち上がったリトルが声を振り絞った。リトルはもう一度呼びかけた。

「みんな、出るぞ」

倒れていた者も、呆然と座り込んでいた者も、少しずつ動き出した。窓の向こうのオオクスノキは変わらず夕暮れの中に佇んでいた。

 

 

生徒及び教職員は、体育館に集められた。誰もが帰宅し、家族に会いたかったが、街では次々と火災が起こり、学校の敷地から出るのは危険だった。体育館に集まってくる近隣住民の中には、火傷を負った者もいた。沙夜は、数人のクラスメイトとともに、体育館の隅で肩を寄せ合っていた。

「都内各地で火災が発生しており、東京消防庁はリンドウ科の植物が原因をだとみて、消火活動とともに駆除を進めています」

沙夜は、ラジオというものを初めて聞いた。停電が発生し、非常電源を使用している体育館以外は、学校の明かりは全て消えていた。高い位置に据えられた体育館の窓に、街で起こった火災が映り込み、ところどころ赤く滲んでいる。火は確実に学校にも迫っている。

オオクスノキもフユホタルソウも光に弱いため、明るい体育館の中に侵入してくることはないとのことだった。それでも、体育館の周辺が火に包まれたら逃げようがない。

「大丈夫か?」

リトルは、生徒一人一人に声をかけていた。はい、と答えて次の生徒へ進んでもらえばいいいのに、沙夜は質問せずにはいられなかった。

「紫音は、どこにいるんですか?」

「今朝、お母さんから欠席の連絡があった。ただ家に戻っているのかは分からない」

「しーちゃん…」

隣にいた祥子の呟きは、リトルにも聞こえたようだ。祥子の家族は既に体育館に到着していた。沙夜の家族はまだ家にいたが、無事は確認されていた。ただ沙夜の自宅と学校の間は、火災や渋滞など、多くの障害が発生していた。

午後6時過ぎ、陽が落ちた。体育館の明かりが不自然なほど強く感じられる。かりそめの静寂が訪れ、沙夜は眠りに落ちた。

夢の中で、沙夜はTEIに会った。TEIは沙夜が想像していたとおり、同じ中学二年生の少女だった。祥子ほど勉強が苦手ではないが、沙夜や紫音ほど得意でもない。夢なので具体的な内容は伴っていないが、とにかく沙夜が気の利いたことを言うと、TEIは分かりやすく感心してくれる。沙夜は、真っ白で表情も描かれていない夢の中のTEIに、はっきりと恋をしていた。夢は、香炉峰の雪を模したような場面が始まるところで途切れた。

何時間眠ったのか、大きな音で目が覚めた。見上げると、体育館の屋根が半分消えていた。幸運にも屋根は体育館の外側に向かって崩落していたが、代わりに太い根が頭上に架かっていた。電源は失われ、真っ暗な体育館に影のように根が浮かび上がっている。沙夜は手探りで、祥子の家族からもらった懐中電灯を探した。スイッチをつけようとした瞬間、光を発することはオオクスノキに敵対する行為だと気づき、点灯を思いとどまった。

目が慣れてくると、それは単なる枯れた根ではなく、茎や葉に覆われていることがわかった。オオクスノキは暗闇の中で芽吹いていた。千年以上経った今、植物としての生命力を取り戻しつつあった。

「祥子」

周囲にぽつりぽつりと人がうずくまっているのが見えた。しかし祥子の姿は見えない。屋根が失われ、雲に覆われた空が見える。空にぽつぽつと赤い光が浮かんでいた。フユホタルソウだった。オオクスノキが、伸びる茎を使って、発火しているフユホタルソウを次々と捕食していた。フユホタルソウが根に開いた穴に放り込まれていく。

沙夜の指が、すぐ近くまで迫ったオオクスノキの茎に触れた。茎はわずかに反応し、沙夜の指に絡みついた。わずかな産毛の感触が恐怖を倍増させ、沙夜は振りほどくことができなかった。捕えられることを覚悟したが、絡みついた茎はほどけてゆき、沙夜から離れた。

沙夜は、体育館から離れ、祥子を探しに行くことを決めた。懐中電灯だけだ。根拠はなかったが、まっすぐに自分の教室に向かった。

懐中電灯の明かりを消したまま、階段を一段ずつ上っていく。校舎に人影はない。窓からオオクスノキの根が入り込み、驚くほど増えたフユホタルソウを着実に捕まえていた。引き抜かれたフユホタルソウは枯れてしまう。だが、熱だけは残っているとすれば、大量に取り込んだオオクスノキはどうなるのか。

教室内はフユホタルソウが発する熱のせいで温度が上がっていた。傾きはやや増していたが、中に入れないほどではなかった。椅子や机の多くが斜面の下側に積み上がっていたが、中央にせり出した大きな根に引っかかっているものもあった。根は教室のフユホタルソウを全て食い尽くしたのか、動きを止めていた。芽吹いた茎や葉が教室の天井や床を覆っている。

根にもたれかかるように、二人は座っていた。沙夜は、手でライトを覆って光を最小限に抑え、二人を照らした。祥子が助けを求めるように沙夜を見た。

「さーちゃん」

「祥子、大丈夫?」

「これ…」

祥子は、後ろ手で根にくくりつけられていた。

「紫音、これ、どうしたの?」

沙夜が紫音を見ると、紫音はまっすぐに見返した。

「私は、祥子といっしょにここで死ぬ」

「え?」

「これは運命なの」

「紫音、何言ってるの?」

「清少納言と中宮定子、二人の思いが、こんな災害をもたらした。これは運命なの」

異常気象のこと、地球の植生の変化、枕草子の新章段の解釈、沙夜の頭に紫音を説得するための様々な言葉が浮かんだ。だが、どれも紫音の想いに敵うものではないように思えた。

「私、オオクスノキの前でずっと考えていた。自分が祥子に対して抱いている気持ちは、受け入れられることのないものだって。それは彼女が『燃え焦がるる』って書いたときと同じなの。世界がひっくり返るまで、二人は待ってたの。私と祥子みたいに」

沙夜は紫音の言葉に耳を傾けた。

「沙夜なら、分かってくれるよね?」

「紫音、どうするつもり?」

紫音は側に置いた鞄を開けた。中にはフユホタルソウが植えられた鉢が入っていた。紫音は同じ鞄から国語の教科書を取り出し、一枚破り取った。枕草子が書かれたページだった。

「二人で黒焦げになるの。オオクスノキみたいに」

オオクスノキが体内に取り込んだフユホタルソウが熱を保ち、一定量を超えたとき、街に広がる根や茎からいっせいに火の手が上がるかもしれない。そのとき起こる大火災は、フユホタルソウが散発的に起こすものとは比べものにならない。目の前の紫音も、祥子とともに、積み上がる遺体の一つになろうとしている。

紫音が破ったページを発火したフユホタルソウに近づけたとき、教室全体が揺れ、今までとは逆の方向に傾いた。紫音の取り出したフユホタルソウに反応し、あっという間に茎を伸ばして体内に取り込んだ。

三人が呆気にとられていると、アーチのように曲がっていた根が急に直立し、左右に揺れ始めた。祥子はまっすぐに立った根にくくりつけられたままだ。

「助けて…」

数メートル上空で怯える祥子を助けようと、沙夜は懐中電灯の光をオオクスノキに向けた。だが暗闇から伸びてきた茎に手を弾かれ、懐中電灯は教室の隅に力なく転がった。

根は左右に揺れ、同時に震えていた。オオクスノキの震えが、沙夜の身体にも伝わってきた。

「見て」

紫音が指差したのは空だった。空が太陽が昇ったかのように照らされている。割れた窓からオオクスノキの方向をみると、だんだんと山ぎわが明るくなっていくのがわかる。

どういうこと?沙夜の疑問はオオクスノキへ向かうヘリと、町内に響き渡るアナウンスによって解かれた。

光の正体は、自衛隊等を中心とする駆除作戦だった。拡声器を通じ、ラジオ放送が学校中に流れていた。

短時間で大量の光を浴びせ、オオクスノキが土に戻る前に枯死させる。まずは富士山周辺の幹を壊滅させ、徐々に周辺の市町村に広げていく。オオクスノキ内部の消火活動を進めつつ、幹や根を切断する。ただし救命活動が優先されるため、駆除には長期間を要するとのことだった。

教室の揺れは消え、根の動きも止まった。沙夜にとって、富士山周辺の作戦は遠くの出来事で、実感がもてなかった。階段を救急隊員が駆け上がってくる音が聞こえる。

「祥子、もう大丈夫だよ」

祥子は救助され、運ばれていった。目立ったけがはないとのことだった。結局、紫音や沙夜と目を合わせることはなかった。

紫音はぼんやりとオオクスノキのある方角を見ている。

沙夜は、眼前の巨大な根を見て、オオクスノキの死を実感した。駆除作戦の強烈な光は遠く離れた沙夜の学校にまで届いた。吹き抜けた空にたなびく雲が、ぼんやりと光っている。

「紫音、大丈夫?」

「ねえ、祥子は私のこと許してくれるかな?」

涙交じりの声で、紫音が沙夜に尋ねた。

「無理じゃないかな」

沙夜は自分でも驚くほどあっさりと答えた。

「だよね」

寂しそうに言った紫音に、沙夜は一枚のメモを渡した。

 

〔三二一〕

「か」枯れ木の高く生いたる、

「れ」例の様にはあらず、

「て」ておはせられたれば、

「も」「燃え焦がるる蛍ぞいかにせむ」と仰せられ、

「す」「姿は変われど、

「え」詠ずる詞は変わらず」と申せば、

「に」「憎み捨つることなかれ」とのたまふ。

 

「これ、本当?」

紫音の表情にわずかに笑顔が戻った。

「さあ」

「枯れても末に…あはむとぞ思う、かな?百人一首の歌みたい」

紫音は沙夜にメモを返し、ありがとうと言った。体育館の周囲にも人の声が戻りつつあった。

 

質問:私たち、いつか会うことができますか?

(質問者:SEI)

 

TEIからの答えに思いをめぐらせながら、沙夜は「春」の夜明けを眺めていた。

 

文字数:17414

課題提出者一覧