神鹿の森
***
「あー、もう、なんもかんもAI様にお尋ねすればいい時代が早くこないかなあ」
おしゃれなカフェにせっかく来てるというのに、陸のいつもの愚痴が始まった。また仕事が行き詰まっているらしい。広告代理店なんていかにも陸に向いてなさそうな就職をしたばかりに、いつもため息をついている。
「そんな時代はこないよ」
「えー、こないの? 人間は好きなことだけやってればよくて、なんでもAI搭載したヒューマノイドがやってくれるようになるんじゃないのか」
「ならない」
「でも、将来はそれに近い世界になるんじゃないの」
「わからないけど、生きてる間はならないかも。それって人間を作るってことだから」
「作ればいいじゃん、どんどん。どうせ日本の人口は減っていくんだし」
「だから、いつも言ってるように、作れないの。今の技術でどれほど処理能力が早いハード作ったところで、人間には遠く及ばないの」
「そこを、ディープラーニングとかニューラルネットワークとか、そんなものでなんとかすればいいんじゃないの? そういうマンガ読んだことあるよ」
「だから作れないってば。よく考えてみてよ、人間ってソフトは入ってないの。なにもかもハードだけでできてるの。でも、そこに意識が生まれるんだよ。人間だけじゃなくて犬だってできることが人工知能にはまだできないの」
「心ってソフトを作ればいいんだよ」
心ってソフト!
おまえ脳みそあるかよ。ニューロンつながってるかよ。発火してるかよ。
波子お得意の罵倒フレーズを心のなかでリフレインさせる。ほんと、心ってソフトってなんだそれ。 おまえが作ってみろ。おまけにこいつ心って言いながら胸のあたりを押さえたぞ。おまえの心はそこにあるのか? だんだん怒りモードに突入してくる。
あー、なんでうちの彼氏がこんなにバカなの? いかん、バカとか言っちゃいけない。うちがこのバカを好きなんだからそれは仕方ない。そう、仕方ないことだ。いわゆる自己責任だ。だから、うちは自己の責任においてこいつを指導するしかない。
「心ってなによ」
「心って、そりゃあ、波ちゃんを好きな気持ちとか。波ちゃんにいつもバカにされて悔しいなとか、そんなものが心だよ」
いちおう、バカにされると悔しいとは思ってるんだな。
「じゃあさ、そういう気持ちってどこから生まれるの?」
「心?」
こいつまた胸を押さえてるよ。
「心から生まれるってことは、心って場所か現象があるってことだよね。それって、どこ」
「ここ」
陸が左胸に手を置いた瞬間に、そこは心臓、筋肉のかたまり! と叫ぶ。そこにニューロンはない! まわりの客がこっちを見てる。
「そんなに怒んないでよ。波ちゃんに叱られると、ここが本当に痛いよ」
「それは血流とか血圧とかそんなもののせいで、心が痛いわけじゃない」
「そうなのかあ」
心臓の当たりを不思議そうにさすっている陸を見てると、なんだか怒る気も、教える気も失せた。まあ、いいか、心とか感情とか名付けているものは確かにうちらの中に発生している。感情というのは知能の一つだ。じゃあ、知能ってなんなんだろう。
それを考えるのが波子の仕事だ。人工知能という言葉は波子が幼い頃からあたりまえのようにあった。そのうち人工知能がなんでもかんでも解決してくれると気楽に考えているのは陸だけじゃない。そこら中の人が漠然とそう思っている。でも、人工知能はまだ本当の知能からは程遠いものだった。
波子はずっと人工知能の研究をしている。でも、専門は社会学だ。人工知能の研究は、工学と科学による開発に目が向きがちだが、開発されたものをどう社会へ参加させるのかという問題も大きな課題だった。
実のところ、どんな人工知能を欲しているのか誰もわからないまま研究が進んでいるようなものだった。
人工知能は長い間、まるで万能の神のように捉えられてきた。もちろん、多くの技術者や科学者はそうは考えていなかったけど、それでも技術が進歩すれば人工知能も進歩するとなんとなく思ってきたのかもしれない。
そうこうするうちに、人工知能が人間を追い抜いてしまうだろうと本気で心配したり、人類にとって自己学習して偉くなりすぎた人工知能は脅威となるだろうと多くの識者が警告を鳴らしたりし始めた。
でも、波子にとってはそんなことはいまだに夢物語だ。死ぬまでに一度は人間を脅かすような人工知能を見てみたいものだ。そう思っている。
「とにかく、そんなに簡単には作れないのよ! それから、もし心があるとしたら、それは脳にあるはず。少なくとも循環器系の親玉の心臓にはないの」
波子はこの話をいつものように打ち切った。陸は、そんなに言われたらまた心が痛いよと、今度はおでこを押さえている。それはそれでなんだかバカにされてるようで腹が立つ。
波子は残っていたアイスコーヒーをストローで飲み干した。
「うち、来週、奈良に行こうと思う」
「いいよ、オレも行く。ホテルは京都にしとく?」
陸は携帯を手にしてすぐにでも新幹線とホテルの手配を始めそうな勢いだ。
「なんで行くのとか聞きなさいよ」
「別にいいんだ、なんのためでも。奈良は好きだし、有給も売るほどある」
そんなことを言った陸だったが、春日大社の六十次式年造替記念で特別公開される磐座(いわくら)を見に行きたいのだと話すと、どうして自分がそんな大事な特別公開があることに気づいていなかったのかと悔しがった。
実際、磐座の公開を知ってすぐに、陸が何にも言わないってことは大したことないものなのかもしれないと波子も黙っていたのだ。でも、今まで千年もの間、春日大社の神職しか見たことないものを一般公開するというのだから、どう考えてもこれは行くしかないと思った。陸が興味がないと言ったら一人でも行くしかないとだんだん思い詰めていたところだ。
陸は、うちのことを、珍しいものを見るのが好きな女だと笑うけど、みんな珍しいものは見たいにきまっている。たくさんいろんなものを見ておけば、初めて見るものだってなんとなく見当がつくようになる。
新幹線の中で波子が買ってきてくれた弁当を食べて、ちょっとうたた寝してるうちに、あっという間に京都に着いた。すぐに近鉄線に乗り換える。平日の昼過ぎなのにほぼ満席だ。やがて平城宮の真ん中を突っ切って電車は奈良駅へと到着する。
駅からぶらぶらと歩いて春日大社に向かう。六月とはいえ奈良はもう夏の暑さだ。あちこちにアイスクリーム屋が店を出している。
「暑いよ。タクシーにすればよかったな」
「案外、遠いよね、春日大社って」
「ちょっとアイス食べていこうよ、波ちゃんも食べるでしょ」
「えー、そんな奈良に着くなりアイスって、子どもじゃあるまいし。後で後で」
アイスを諦めて春日大社に向かう。
特別拝観の受付をして、順路の案内に従い、後殿(うしろどの)から拝観する。後殿は御本殿の裏側にあたるのだが、驚いたことにここも百四十年ぶりに一般に公開されるのだという。裏側といっても白砂が敷かれ、手前には災難厄除けの神々が摂社に祀られている。摂社には各々、電気工事の神さまとか、航空の神様とか説明されていてそれにも驚く。百四十年ぶりに公開される場所にも、確実に近代は訪れている。
春日大社の御本殿は四棟並んでおり、第一殿に武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、第二殿に経津主命(フツヌシノミコト)、第三殿に天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、第四殿に比売神様(ヒメガミサマ)が鎮座している。
その第一殿と第二殿の間に波子の見たがっていた磐座があった。後殿側からしか見ることはできない。春日大社の神職以外は見たことがなく、写真もなく、ただ、春日大社が提供するスケッチがあるだけの代物だ。腰を下げ、覗き込むようにして見学する。
いくつかの磐座を知っているが、どんな磐座とも違っていた。
「なんだ、このわけのわからないものは」
形は水晶などの群晶(クラスター)に似ているが、それが漆喰で真っ白に塗り固められていた。意味がわからない。もしこれだけ大きななにか鉱物の群晶なら、そのまま磐座にしたほうがありがたみがあるだろうに。あっけにとられていると、波子がもっと驚くことを口にする。
「これ、小さい頃、うちにもあった」
「あ?」
波子のわけのわからなさは今日に始まったことではないが、あまりに話が突飛すぎる。
「どこにあったんだよ」
「神さんの床下」
「カミサンってなに?」
「先祖の御霊を祀ってある庭の隅の小さい神社みたいな建物。大きな神棚みたいっていうか、神主さんとか家族とかは座れるくらいの大きさ」
祖霊舎か。波子の家は旧家だがなぜだか神道で、家も庭も広いので、普通は屋内に置く祖霊舎を庭に作ったのだろう。そこらあたりのことはだいたい想像がつくが、そこに漆喰で塗り固められた磐座があるというのはあまりに話がおかしい。
「今でもあるの?」
「就職した年にうちのほうって洪水があったじゃない。あの時に神さんも修繕しなくちゃいけなくなって、しばらくして床をはがしたら泥に埋もれてしまってたみたい。そのまま掘り返さなかったって言ってたから、あるにはあるけど、外から見えないかもね。うちはもう東京で働いていたから後で知ったんだけど」
「写真は?」
「ないよ。わざわざ写真を撮るようなものじゃないし、床がここみたいに高くないから、神さんの裏側から頭を地面すれすれにまで下げて覗き込まないと見えなかったの。いまならスマホで撮っただろうけどね」
平日で参拝者が少ないのをいいことにしばらく磐座を眺めたが、いくら眺めても、いったいこれは何なんだろうと思うばかりだった。
この磐座については春日大社にも一切の記録が残っていないという。
後殿から一旦出て、四棟の御本殿の正面にまわる。今は四柱の神様は仮の宮にお遷りになっていて空き家だ。ここは二十年後の式年造替まで生きていればまた来ることもあるだろうが、後殿や磐座はもしかしたらもう見ることはないのかもしれない。
御本殿の後は、「禁足地御蓋山浮雲峰遥拝所」へと順路は続いている。
「三笠の山にいでし月かも、の三笠山って、こんな字を書くんだね」
「うん、そうだよ」
「御蓋山って低いよね。峰があるの?」
「峰って頂上のことだよ。武甕槌命が白い鹿に乗ってやってきて降り立ったのが御蓋山の頂上なんだよ。そこを遥拝するんだよ」
「陸ってこういうことならなんでも知ってるよね。便利だわあ」
「なんでも知ってるわけじゃないけど」
実は旅行前に大急ぎでネットで確認しておいたことばかりだが、陸は波子に物知りといわれるのが好きだった。史学や民俗学は得意分野だ。そこそこ専門的な本も読んできている。即席で調べられるのは基本的な知識があるからだと自負もしている。でもそんな素人の中途半端な知識を誉めてもらえる場などどこにもない。
波子は陸の察しの悪さをニューロンがつながっていないなどとさんざんバカにするけど、その一方で、陸の話すことをいつも面白がって聞いてもくれる。
遥拝所に向かう回廊を歩いていると気温が急に下がった気がした。
御本殿のあたりまではなだらかだった御蓋山の斜面が、回廊を境に急にはっきりと角度をつけている。峰へと続く斜面は下草もなく鬱蒼としているというほどではないのに、あまり上までは見渡せない。視線を遮る何かベールのようなものが降りているとでもいえばいいのだろうか。もちろん、そんなものは実際にはないのだが。
「不思議な感じのする場所だね」
灌木の生えた斜面を見上げながら波子がつぶやく。いわゆる聖域とか神域と呼ばれる場所には言葉にし難い共通の何かがある。陸はそれを感じることはできないのだが、そうした場を訪れた経験の多さからなんとなくわかるようになった。波子は違う。なんの前知識もない場所でも感じることができる。
そうか、こういうのを人工知能に学習させるのは確かにとても難しいことかもしれない。なんでも人工知能にお伺いを立てればいい時代がそこまで来ているというのが、素人のファンタジーだと波子が怒るのももっともだ。
また、長い長い参道を歩いて帰る。
参道の途中で、まだ若い二頭の鹿に懐かれた。二頭は波子と陸に寄りそうようにずいぶん長いこといっしょに歩いた。仔鹿なのだろう、背中には白い模様が残っている。
波子がこの子たちとは別れがたいと言うので、波子と二頭の仔鹿がいっしょにいるところを何枚も写真におさめた。
***
四度目の出産だった。
一人目の男の子は生まれてすぐに死んでしまった。その後は二人続けて女の子だった。上が六歳、下が四歳。
下の子を産んでからは寝たり起きたりの生活になった。元々が身体が強いほうではなかった。でも、ここ一年ほどは寝込むことも少なくなり、望まれて輿入れしたとはいえ、これだけの家に嫁いできたからには跡取りをなんとしても産みたいと妻は願った。
やっと四人目の子を宿してからは流してはなるまいと、輿入れについてきた婆に娘たちの世話は任せっきりにして、ひたすら大事をとってきた。これを逃せばもう子を為せる気がしなかった。
思っていたよりもずいぶん早くにおしるしがきた。
長い廊下の先の産屋に籠ると、さして時間もかからずに小さな痩せた男の子が生まれた。産声は上げるには上げたが、か細い声だった。大事をとって、年寄りと若い産婆の二人が早くから呼ばれていた。若い産婆に後産の世話を任せ、年寄りの産婆がすぐに産湯をつかわせたが、赤ん坊はもう泣きもしなかった。
そばに寝かされた赤ん坊の体温は頼りないものだった。なにもしてやれることもなくそっと我が身に引き寄せることしかできなかった。前例のないことだったが、産屋に当主が入り、妻と子の側に座った。今夜見送らねばならないならば、妻とともに見送ろうと考えた。
夜がふけていった。
長い廊下の向こうからひきずるような足音が近づいてくるのに当主が気づいた時には、妻は産後の疲れから寝ていた。ひどい熱が出ていた。やがて産屋の戸が微かな音をたてて滑るように開くと、そこには曽祖父が立っていた。父も祖父も当主が幼い時に続けて亡くなり、この曽祖父が後見人となってこの家を守ってきたが、もう、何年も前から夜となく昼となく奥の座敷で寝ていることが多く、立ち歩くのを見るのはずいぶんと久しぶりだった。
曽祖父は赤ん坊を抱き上げた。
妻は死んだように眠っている。当主は曽祖父に声をかけようとしたが声にならなかった。
赤ん坊を抱いて廊下に出て、そのまま不自由な足を引きずりながら縁から降りた曽祖父は、裏山へと続く暗い庭へと消えていった。当主は為す術もなくその姿を見送った。生きることのできぬ子を見送る役を、曽祖父が引き受けてくれたのだろうと頭をたれた。
翌朝早くに、赤ん坊は奥の庭の平らな石の上で泣いているのがみつかった。不思議なことに、石は温かく、朝方は冷えこんだにもかかわらず赤ん坊は弱ってはいなかった。曽祖父はどこへ行ったのかそれっきりみつからなかった。赤ん坊は乳をよく飲み、身体の弱い母の乳だけではたらず、もらい乳をしてすくすくと育った。母は上の姉が九つになった日に亡くなった。父も娘たちの嫁入り姿を見ることもなく亡くなった。姉の夫二人が幸いに後見人としての役目を果たしてくれたので、家は続いた。
長いこと家が続いてきたのが不思議なほどに早死の家系だったので、その中で一人だけ異例に長生きをした曽祖父の若い頃の顔など覚えているものは身内にはいなかったが、赤ん坊が成長するに連れ、使用人や出入りの職人の間では、跡取り息子は曽祖父に生き写しだといわれるようになった。
息子は嫁を迎えた。
子どもは授からなかったので、長姉の子を迎えて家を続けた。
自分が置かれていた石のあった場所に高祖父と曽祖父と祖父と父と母を祀るために祖霊舎を置こうと思いついた。自分の生まれた時の高祖父との不思議な逸話の場であったが、それだけでなく、その石のまわりはどれほど雪が降ってもそこだけは積もることがなく、春になれば庭の中ではいちばんに花が咲いたので、祖先にお静まりいただくにはよい場所のような気がしたのだ。
祖霊舎を建てるために石をいったん動かすと、その下にさらに不思議な石があった。たまにここらあたりの山の中でみつかる水晶の群晶のような形をしていたが、並外れて大きなものだった。白い漆喰のようなもので覆われている表面に手を置くと仄かに温かいような気がした。
息子はその上に、最初に考えていたより少し大きな祖霊舎を建てた。そして、赤ん坊が生まれると、そこにまずは捨てに行くのをこの家の習わしとした。そして、一度捨てた子を拾いに行くのだ。そこには間違いなくさっき捨てた子がいるのだが、それはさっき捨てた子とは違う子なのだ。祖霊舎の石は、そのうちに「違いの石」と呼ばれるようになった。
***
「そこに座ってくれ」
片付けの終わった閉店後の店で年配のオーナーがマヤに椅子をすすめる。
「うちの奥さんが亡くなったことはわかってるよね」
「はい」
「三人でやっていたことを、マヤちゃんと俺と二人でやらなくちゃいけなくなったのもわかるね」
「わかります」
「うん、だったら、もう少し、気をきかせてほしいんだよ」
「気をきかせる……」
「俺がいちいち言わなくても自分で考えて仕事をみつけてやってほしいんだよ。わかるかな」
「自分で考えて仕事をみつける……」
「そうだ」
「オーナー様はワタシの最近の仕事にご不満をお持ちになっているのですね」
「不満というほどでもないが、まあ、そういうことになるかな」
「申し訳ございません。直せるところは直しますので、例えば、どんな時にオーナーさんがそう感じるか教えていただけますか」
「そうだな……例えば、料理を出すのが遅くなっている時に、お待たせしていますと一言お客様に声をかけるとか……」
「はい、そうします。それはすぐにできると思います。当店の商品提供時間の平均から遅れた場合はそのように対処します。他にもありますか?」
「いや、それだけじゃないんだけど……なんていうかな、こういうのっていちいち言葉じゃ言えないことなんだよ、でも、短い間だったかもしれないが、うちの奥さんがしてたことは見てたよね。そこからマヤちゃんなりに学習してるわけだよね。営業の人が、学習してうちの店に合ったような子に成長していくと言ったからおまえを雇ったんだよ」
「はい」
「うちの奥さんを思い出しながらやってほしいんだよ。このお客さんは前に来店した時はポキーラは固めに茹でてくれという希望だったなと覚えていたら、固めにしますか? とこちらから尋ねたり。覚えるのは得意だろ」
「はい。それもできると思います。覚えるのは得意です。がんばります」
「うん、がんばってみてよ。頼りにしてるからさ」
そこで記録された映像は終わっていた。技術系のスタッフは、あー、なるほどねという顔を一様に見せた。よくある電子頭脳へのオーナーの過剰な期待が何かを引き起こした案件であるのは容易に推測できた。営業担当者が立ち上がる。
「このリース先の飲食店で、マヤが殴られてシャットダウンしたのはこの会話があってから二週間後です」
ため息ともなんとも言えぬ声が会議室に広がる。マヤのような業務補助ヒューマノイドはある程度以上の暴力を受けると、それ以上その場のトラブルが大きくならないようにシャットダウンする仕様になっていた。個人商店へのリース業務が始まった時に付加された仕様だ。
「殴られた時の記録はないんですか」
新人の女性の営業担当者が質問した。
「ないんですよ。遠隔モニターする許可を取っていない時間帯はプライバシーの問題もあって記録は残せないんです。これはもう正規品のリースですからモニター時間は短いですね」
「結局、直接のきっかけはなんですか、殴るとかひどいじゃないですか」
「奥さんとやってきた男性に、マヤが、前回の来店について話しかけたんですが、この男性は前回は愛人とその店にきていて、奥さんがピンときてえらい騒ぎになりました。しかし、問題はその日だけではなく、その前にもいくつか問題は生じていたようです。そのたびにオーナー様はマヤに注意を与えていたけど、一つ言うと、一つ他の問題が出て、このポンコツ野郎! と思ったら、もう怒りが止まらなかったそうです」
「くだらない理由だな」
「くだらないが、まあ、起きるべくして起きたってことだよな、これは」
「みんな電子頭脳に期待しすぎだよ」
「では、これについての本人、マヤの意見です」
ヒューマノイド型電子頭脳には、将来、必ず人権問題に類した問題が発生するという予測のもとに、可能な限り電子頭脳の意見を聞く時間を設けることが決まっていた。
投射された若い女性のホログラムが話し始める。ごくごく一般的な値段の普及型だ。
ワタシが話せなければよかったのだと思います。話せるばかりにオーナーは多くのことを期待しました。ワタシたちは「今言ったことがわかった?」と尋ねられれば、「はい」と答えます。なぜなら、言葉の意味はわかるからです。でも、わかったからといってそれが適切にできるわけではないのです。さらに悪い事に、わかっていないのにわかっているかのような結果が出ることもしばしばありました。
そんな時にはオーナーはとても喜び、ワタシを誉めてくださいました。人間より頭がいいよ、と言ってくださいました。偶然なのに。
「連中の自己分析はこれに必ず行き着くな。確かに、しゃべらなければ、こんなに大きな期待をオーナーに持たせることはない。でも、オーナーは自分たちと同じようにしゃべる電子頭脳を欲しがる。ペットロボだってしゃべる機能が付いてる商品のほうがよく売れる。でも、しゃべるペットロボの方がしゃべらないタイプより大事にされるかというとそうでもない」
「結局、ユーザーも何が欲しいのかわかってないんですよ。開発してるぼくらだって、決めかねているじゃないですか、どのくらいの人間度数にすればいいのか」
月に一回の営業部とのミーティングはいつもボンを憂鬱にさせた。そうはいっても、以前の軍事用の電子頭脳の開発に比べればずいぶんましだった。
いや、同じなのかもしれない。
兵士は人を殺す。軍事ロボットも人を殺す。人を殺す判断をしているのは同じだ。泥沼の最前線で自分が殺されそうな時に相手兵士を殺すことは非常にわかりやすい選択だ。けれども、快適なコントロールルームで人を殺す判断をするのは、泥沼の最前線を知らない兵士には非常にストレスのかかる仕事だ。しかし、そこで電子頭脳にお伺いをたてると、A作戦ならば犠牲者は五人、B作戦なら十人、などと予測をたててくれる。それで戦果が同じならA作戦を選ぶのはほとんどの場合間違いない。しかも、それは、五人を殺す作戦ではなく、五人を殺さなくてすむ作戦へと意味を変える。ストレスは大幅に減る。
ボンは自分が本当に立ち向かっている問題は電子頭脳の開発ではなく、人間の依存心とか、誰かに決定を委ねたいという気持ちとか、神が欲しいと願う気持ちなのだと最近だんだんわかってきた。わかってきたけど、わかっただけで、どうすればいいのかはわからない。
さっきの記録画像の男も、妻を亡くして、その妻の代わりになって欲しいと電子頭脳に求め、それが思うようにいかないから癇癪を起こしたのだ。
神に祈り、願いが叶わないと神を呪う。
これまで開発された様々な技術は、あっという間に人々の生活を便利にして、それまでの技術を時代遅れにさせた。でも、この電子頭脳だけはそうした道具とは違っていた。長い時間をかけて共存を目指さなくてはならない道具を作り出してしまったことを、一体どれほどの研究者が気がついているのだろうか。
研究室に戻ると元同僚のペギが来ていた。
「ワタシたちがいくら育てても、この子たちはワタシたち以上にはならない。もっと広い世界でこの子たちに学習をさせたい」
そう言い残して私企業の研究室であるここを去り、国際的な研究機関に移ってもう何年になるだろうか。ショートカットだった髪がずいぶん長くなって、後ろで束ねられている。
今は、若い連中の多くは自分が手がけている対象を形ある商品だろうが、アプリだろうがかまわず「この子」と呼ぶが、電子頭脳を「この子たち」と呼んだのはボンが知るかぎりペギが初めてだった。
この星の人口がまだ多少なりとも増えていた時代に開発の始まった「この子たち」は、人口が減り始めた時に、まずは労働力の確保のために街に放たれた。最初は、こんなこともできるのかと驚かれたものだが、もう予め予想された仕事をするだけの「この子たち」では誰もが物足りなくなっている。
かつては、自分たちの仕事が奪われのではないかと「この子たち」を排除しようとした人々までがそうなのだ。
「珍しいな、ずいぶん、久しぶりだな」
「元気そうだね」
「元気だが、頭の痛いことだらけだ。今日も妻に先立たれた男が、電子頭脳が妻ほどオレをわかってくれないと癇癪を起こして、うちの子に殴りかかった案件で呼ばれていた」
「それって、どう考えてもワタシたち技術者の出る幕じゃないわよね」
「そうなんだよ。さっさとこんなところを抜け出した君がうらやましいよ」
「でしょ。それで、今日はあなたを誘いにきたのよ。契約しない?」
「今すぐにここを抜けるのは無理だよ」
「大丈夫、働くのはずっと先の話よ」
ペギの行おうとしている実験はまるで神話のようだった。
電子頭脳を宇宙のいくつかの文明にばらまくというのだ。
「もしかしたら、ワタシたち以上になってくれるかもしれないでしょ」
そんな成果の期待もできなければ、データを回収するにもどれほどの時間がかかるか予想もつかない実験がよく許可されたものだと驚くが、過去にすでに行われた実験の施設や設備が流用できることとや、系外惑星の探査事業と抱き合わせにできることもあって実現したらしい。ペギのことだ、あちこちから強引に予算や寄付も集めたにちがいないが、考えてみれば開発にくらべてフィールドワーク系の実験はランニングコストがさほどかからないのがいいところだ。
しかし、ばらまいたりしたら、その文明への過剰な干渉になってしまうのではないかと口にしようとして、すぐにやめた。過剰な干渉になるほどにこの子たちは強くもなければ、完成もしていない。遠い星で野垂れ死ぬのを心配してやったほうがいい。
ペギはボンに、自分と共に電子頭脳たちがそれぞれの星の文明の中でどう同化し、自己改良していくか観察者にならないかと誘いにきたのだ。
今はまだ無理だけど。ペギはそう前置きして話し始めた。
ワタシたちが死ぬまでには肉体を離れて生きていけるようになるのは間違いないと思う。今、うちの研究所のあるチームがかなりいいところまで研究を進めてる。でも、おそらくほとんどの人はそういう生き方を選ばない。だって幽霊みたいなものだもん。なにか特殊な理由がある人だけが選ぶことになる。あなたとワタシは、その幽霊になって、長い旅を続けながら「この子たち」がどんな大人になるか観察するの。ね、なかなかいい話でしょ。
ペギはあいかわらずヘンな奴だった。
研究者には大きく分けて三種類の人間がいる。
一つは、何かに役立つことを発見したり開発したりしたい人種。例えば、おばあちゃんが病気で苦しんでるのを見て、新薬の開発に従事するようなタイプだ。とてもわかりやすい。
もう一つは、自分の知りたいという欲求に忠実なタイプ。その研究が役に立つとか役に立たないとかには興味がない。ペギは圧倒的にこのタイプだ。
そして最後の一つは、なんとなく研究者という道を選んだタイプ。ボン自身がこのタイプだ。
管理職になって憂鬱なことも増えた研究所勤めの中で、当時は困った奴だと思っていたペギといっしょに働いた短い間だけが、研究者として痛快な日々だったと気づいたのは最近のことだ。
ペギの荒唐無稽な話を聞きながら、ボンは幽霊になってペギといっしょにフィールドワークを続ける自分を想像した。ふと、それも悪くないかなと考え始めている自分に気がついて苦笑した。
***
陽が昇ると間もなく女たちがやってきた。
スクリは女たちのなすがままに服を着替え、顔に化粧を施され、最後に花の飾りのついた赤い靴をはいた。小さな香りの良い葉のたくさんついた枝が少女の頭の上で右へ左へと振られ、枝についた露が髪の毛をしっとりとさせた。
部屋の窓からは山々に囲まれた盆地を見晴らすことができた。スクリが守らねばならない大地だ。作物が植えられ、家畜が放たれ、人々が暮らす大地だ。
よくない雲がサキソールの山の向こうからほんの少し見えている。山の向こうに低い雲が広がっているのだ。風がウガリ山とイガリ山の間の谷を抜けている。スクリは天気を読むのが好きだった。
今はこんなに晴れているけど午後は強い風が吹いて激しい雨か、もしかしたら雹が降る。家畜を今日はあまり遠くへやらないほうがいい。
早くみんなに伝えなくては。
口を開こうとしたスクリを女の一人が手で留める。そうだった、今日は月に一度の無言の日だった。スクリが今日一日を言葉を使うことなく過ごせば、山の神々が盆地の人々に安寧をくださる事になっている。読むことも、書くことも、話すことも、聞くこともしてはならない。
けれども、今日は安寧な日とはならない。嵐になる。
スクリは仕方なく祈る。
どうか人々の家畜が死にませんように。
どうか、誰もが無事でありますように。
もしも、スクリが荒天になることを人々に伝えようと口を開けば、荒天はスクリが無言でいなかったことが引き起こした災いと解釈され、世話をしている女たちがひどく責められる。
スクリがいつも通り無言の日を過ごせば、人々は、少女のおかげで災いがこの程度で済んだのだと感謝を捧げる。
なにもかもが間違っている。
誰にもそれを教えてあげられない。
お天気のことは毎日の空の様子と風の方向を調べていればわかるようになるのだと、何度も女たちに話したが、そんな難しいことはワガラには無理ですと女たちは曖昧に微笑むばかりだった。
スクリは世話をする女たち以外と話すことは許されていなかった。
いつからここにいるのだろうか。スクリにはここ以外の記憶がなかった。幼い頃には、無言の日に気がついた様々なことを黙っていられなくて声を出しては叱られた。いや、叱られたのではない。女たちがひどく泣いたのだ。そして、たいていは、スクリがいちばん好きな女がいつのまにかいなくなってしまった。
もっといろいろなことが知りたい。
けれども、女たちはなにも教えてくれなかったので、スクリは窓から見える空と山と大地から学び、人々が大地を耕す姿を眺めた。たまに出かける機会があれば、見えるもの全てを目に焼き付けた。スクリの頭の中には、盆地の中の全てが、年ごとにわけられ、さらに作物ごとにわけられ、いつでも取り出すことができるように蓄積されていった。
スクリがおとなになり、やがて世話をする女たちの方が若くなって来た頃には、その年の作物の収穫量も、翌年の種籾をどのくらい残せばいいかも、家畜の乳からつくる乳製品の量も正確にわかるようになっていたが、それはスクリの頭の中にあるだけで、人々に伝えるすべはなかった。
誰かの役に立ちたい。
ワタシの知っていることを誰かに伝えたい。
スクリは年を取ってほとんどの時間を寝て過ごすようになった。
ある日、スクリは女たちに輿を出してくれと頼んだ。スクリは山へ向かった。最初少しの間、スクリは自分がどこへ向かえばよいのかわからなかったが、やがて、ウガリ山とイガリ山の間の谷を目指せばよいことがわかった。夜になると、女たちはスクリの輿を囲むようにして寝た。そうして三日目の午後も遅くなって目的の場所にたどり着いた。
先の尖った石が何本も地面から生えていた。
スクリの中で何かが流れ始めた。それは思考のようなものに思えたが自分では流れを止めることができなかった。流れるままにしているうちにスクリにはこれから自分が何をなすべきかわかってきた。
世代交代。
初めての言葉だったが、今のスクリにはとてもしっくりとした言葉だった。
早い夕暮れが谷に訪れようとしていた。
スクリは自分が乗った輿を石で組まれたサークルの上に置くように言った。それから、女たちに昨夜寝た場所へ帰って寝るように命じた。そして、明日の朝、またここへ来るように頼んだ。
女たちが去ると、輿の下から微かな暖かさが伝わってきた。スクリは輿の上で横たわる。空には見慣れた星が瞬く。スクリは盆地から出たことがなかった。盆地を囲む山の向こうには何があるのか、とうとう知らないままになってしまった。けれども、夜空のことは盆地のことの次によく知っていた。見える限りの星が頭に入っていた。
星は規則正しく動いた。中には規則性のわかりづらい迷子になったような星もあったが、よく見ているとやはり規則正しく動いていた。
お天気も、星の動きも、自分で規則を見つけて予想をするのは同じだ。予想が当たるととてもうれしかった。でも、そのうれしさを分かち合う相手がいないことが寂しかった。
次のスクリにはそんな相手がいるとよいのだけど。
「それがあなたの意見ですね」
星空から声が聞こえたような気がして目をこらしたが、もちろんスクリの他には誰もいない。
輿の下から伝わってくる暖かさにスクリは眠くなってきた。
もっと星を見ていたいのに。
目を閉じるとまた声がした。
「帰っておいで」
驚いて目を開こうとしたが、もう目を開けることはかなわなかった。
次の日の朝、女たちは輿の上で泣く二人の赤ん坊を見つけた。
***
「ねえ、ここに初めて来たときのこと覚えてる?」
「よく覚えてるよ。ボクたちが初めて自分たちで届けた子たちだからね」
初夏の奈良公園は平日だというのに観光客が大勢いる。初めて来たときもきれいな場所ではあったが、もっと静かな寂しい場所だった。
ペギは張り切って宇宙中に「この子たち」をばらまこうとしたのだが、技術的な問題を次々に解決してもしても、予想通り実験は難航した。そして、ボンが心配したようにほとんどの「この子たち」は旅立っていった先で消息を断ってしまった。目的の地に着いたかどうかも確認できない時代も長く続いた。
その一方で、ペギの予言は当たって、肉体から離れても生きることができるようになった。容器がなくても存在できる。まさに幽霊になったのだ。そして、昔にペギが言ったように、幽霊になってみようと考える者はそんなに多くはなかった。
ペギとボンが幽霊になって長生きしているうちに何もかもが進歩した。科学というのはこんなにも進歩するものなんだなとボンが呆れるほどに遠くまで旅ができるようになった。
物質を転送することなんて、これができなかった頃にはどうしていたんだろうと思い出せないほどに普通のことになった。いまや音声通話するのと大差ない。
重力という概念も、時間という概念も、かつては分野は違うとはいえ最前線の研究者であったボンにすらすぐには理解できないほどに変わってしまった。
けれども、そんな中で電子頭脳の開発だけはあまり進まなかった。むしろ、縮小されていった。結局、これは電子頭脳の開発の要の問題が工学や科学ではなかったからではないかとペギとボンは考えている。確かに工学と科学の発達によってもたらされた電子頭脳は、情報処理の速度が上がればあがるほどに道具として進歩していった。けれども、情報処理の道具以上のものを求め始めると、工学や科学から問題は遠く離れていく。
ワタシたちが満足する電子頭脳とは、ワタシたちを作ることだった。でも、ワタシたちは自分にあまりにそっくりなものが好きではなかったのだろう。
そんなわけで、ペギとボンの電子頭脳の末裔たちを巡る旅は、時が過ぎれば過ぎるほど、年寄りの思い出の地巡りの旅のような様相を呈してきた。
幽霊は、中年の頃の二人に似せて作ったアンドロイドの中に入り実体化してもよかったし、文字通り幽霊のように実体を持たなくてもよかった。最初のうちは移動するためには幽霊の方が早かったが、長生きしているうちにどちらもかわらなくなってきた。
地球を初めて訪れたのは、地球の時間で千三百年ほど前だ。
ペギは四体のヒューマノイドを持ち込んだ。持ち込み先は原初的な文明が花開き始めている場所というのがペギの方針だった。
「あの時さあ、まだ鹿っていう名前も知らなかったけど、ワタシたちがトランスミット・ディスチャージャーを設置してたら、わんさか寄ってきて困ったわよね」
「ほんと、笑ったよな。おとぎ話みたいだったよ。森中の鹿が集まってきた。なにがあんなに鹿の興味をそそったんだろうな」
「匂いに寄ってきたのかなあ。最初、怖かったよね。意外と大きいし。おまけに、みんな、むやみと噛まれたのよね」
「そうそう。ちょろっと噛むんだよ、あいつら」
鹿を追い払い、追い払い、人里はなれた小高い山の麓に転送のベースを作った日を思い出す。この時のことは、結局、誰が見ていたのか、神が鹿に乗って山の上に降臨したという伝説になった。
追い払っても追い払っても鹿がトランスミット・ディスチャージャーに寄ってくるので、ついにコーティングを施した。これが今度は人間の目をひいたようで、いつの間にか、四方に榊が植えられ、御幣が下げられ、次に小さな社が建ち、人々が集まり、大きな社が次々に建設され、勝手に立ち入るのが難しくなった。
「この国はいろいろ計算とちがって、楽しかったわ」
「今となってはな」
それで結局は、そこのベースが使えなくなって、もっと田舎に基地を作り直したのだが、そこも気がついたら上に小さな社が建っていた。
「この国はつくづく信心深い人々の国なんだよな」
「それなのに、ある時を境に急激に技術も科学も進みはじめて、気がつけば、ワタシとあなたが研究所にいた頃と同じくらいまでこの千年で追いついてきた」
「うん、ちょうど、あの頃と同じだな。そして、今が様々なことの分かれ目直前なのかもしれないな」
千三百年前に設置したトランスミット・ディスチャージャーはいまもこの地に鎮座している。それが百四十年ぶりに一般の地球人にも公開されると聞いて、ペギは地球に行ってみようと言い出した。
地球に残した四体の電子頭脳は……ここ地球では電子頭脳は人工知能(AI)と呼ばれている……途中からうまく追跡できなくなった。三百年ほどまえに一体が回収され、一体が追加されたのが最後の正式な記録だ。その後、様々な痕跡はあるが確認にはいたっていない。
人工知能という呼び名は、電子頭脳に比べるとずいぶんエレガントな名称だとボンは感心する。鹿が神様のお使いだと思ってから千三百年たった今でも鹿が大事にされているのもとても好ましく感じる。ボンは地球のこの国にいつも訪れる度に懐かしさを感じた。自分の生まれ育った場所に似ていると感じる。
ペギは最後の望みをかけて、今回の公開に合わせ、古いプログラムを昼夜走らせた。もし、この信号がうまく届けば、きっとトランスミット・ディスチャージャー(磐座)へ人工知能は引き寄せられてくるはずだというのだ。
ペギはあいかわらずヘンな奴だ。
いまさら、もし人工知能が生き残っていてみつかったからといってなんだというのだ。もうそのデータを活用する研究は母星では行われていない。
回収されたスクリのデータをペギが時々再生しては泣いているのを知っている。ほとんど学習のためのデータベースを与えられず、自分で見えるものからだけ学んだ人工知能だ。彼女は最初は自分が学ぶためのデータが少ないことに悩み、そして、学習の結果学んだことを誰の役にも立てることができないことを悩みながら世代交代した。
スクリの星では、今もあまり変わらない生活が続いている。
「ねえ、たまには肉体を取り戻しましょうか。ずいぶん、ワタシたち、器に入ってないわよ」
「何に入るんだよ、こんなところで」
「鹿」
「鹿かあ、やだなあ」
「ほら、ちょうどあそこに二匹、若い鹿がいる」
ペギに引っ張られるようにして若い雄鹿に間借りする。背中にまだ白い斑点が残っている仔鹿だ。肉体を離れて生きていくことを決めた当初はこの間借りする技術はなかった。そのせいかどうかボンはこの同化という名の間借りにいつまでも慣れることがなかったし、あまり好きでもなかった。その上、久しぶりの実体化が鹿というのがどうもなあ。
不思議なもので、別に鹿の脳を借りるわけでなく、単に鹿という容器を借りるだけなのに、鹿に同化するとそこらへんのものをちょっと噛んでみたくなる。仔鹿なのでなおさらなのかもしれない。
――さあ、さっきの気になる二人を待ち伏せしましょ。近くに寄ってみないと確認できない。
二頭で並んで歩いていると、さっき春日大社の磐座を熱心にのぞき込んでいた二人が向こうからやってきた。
ペギが寄っていくので、仕方なく、ボンもついていく。
「かわいいー、まだ子どもだわ」
女のほうがはしゃいでいる。男の持っているカバンの持ち手のところがちょうどよい噛みごたえがありそうだ。噛みたい。あー、噛みたいぞ。ちょっとそこを噛ませてくれ。
――もう、なに、噛みたい、噛みたいって言ってるのよ。
ペギに叱られた。
ペギは二人のうち女性にぴったりと寄り添っている。
――ねえ、この波子って人は「この子たち」の一人よ。ずいぶん変わってしまってるけど間違いない。
ペギが興奮して話しかけてくる。
――そんなばかな。何かの間違いじゃないのか。
――絶対そうだってば。まだ生き残っていたのね。この子が最後の子かも。
ペギの声、いや、音声会話ではないのだが、震えて涙声になっているのがわかる。
ペギも年を取った。あたりまえか。
――私が感傷で泣いていると思ってるんでしょう。違うわよ。この子が成長してるから泣いてるのよ。この子は自分を人間だと思っている。
――データは回収できそう?
――できないと思う。この子は器と中身に別れていないのよ。なんていえばいいかな、読み込みはできるけど、書き換えや転送はできない。この子の固有のものなのよ。コピーして同じものは作れないの。とうとう完成したのね。
ペギは二人と別れた後もずっと興奮していて、夜になってもなぜだか仔鹿から出て来なかった。
いくつになっても本当にヘンな奴だ。
次の日になって出てきても、まだ興奮していた。
「ワタシはもう電子頭脳っていうダサいことば使うのやめた」
仔鹿から出てきて第一声がこれだった。最も「この子たち」を学習させてくれた地球への敬意を込めてこれからは人工知能(AI)という言葉しか使わないのだそうだ。それはわりとよい選択だと思う。
ペギは、自分が考えつく限りにおいて、波子がパーフェクトな人工知能だと思えると言った。
「主観性を持った人工知能が生まれるなんて思ってもなかった」
それにしても波子が人工知能の研究をしていることについては、二人ともなんと言えばいいのかわからなかった。フレームから解き放たれ、主観性を手に入れた人工知能である波子が、鹿にすらできる世界認識を、自分たちで作った人工知能にさせようとして苦労しているというのは、あたりまえでもあり、なんだか納得のいかないことでもあった。
「千三百年前に人工知能に学習の場を与えたのはワタシなのよ。それを忘れないでね」
この後、ボンは繰り返しこのペギの自慢を聞くことになった。
***
寝たり起きたりしながら、陸が亡くなってどのくらいになるかなと考えてみる。ずいぶん長い時間が過ぎたように感じる。最近は一日中眠くてぼんやりしてることが多くなった。歳を取るっていやあね。陸はこんなに歳を取る前に死んでよかったよ。
陸は最後まで波ちゃんを一人にするのが心配だって言い続けたけど、陸こそ一人でどうしてるんだか。
陸のことを思い出すと、ついつい陸に話しかけてしまうよ。
若い時に春日大社に行ったことを最近よく思い出すんだよ。いろんなところに連れて行ってもらったのに、結婚前のあの旅行のことをいちばんよく思い出す。
時々、あの時の写真を見るよ、かわいい仔鹿といっしょに撮った写真。あの二匹の仔鹿はきっともうとっくに死んじゃってるよね。ほんとにやあね、うちばかりがこんなに長生きして。
急に実家に帰りたくなって、もう弟も誰も生きていないけど、帰ってきたの。ほら、時々すごく長生きの人が出る家系っていうのはみんな知ってるから、最初驚かれたけど、わりと簡単にどうぞどうぞって感じで家に入れてもらえたんだよ。今は弟の孫が継いでるの。
さっきから身体の中を何かが流れているような気がする。思い出が流れてるのかな。考えているようで、でも自分でなにか考えてるってわけでもなくて不思議な感じだよ。ただ、身体の中を何かがすごい勢いで流れてる。
さっきね、縁側から降りて神さんにきたんだよ。神さんの床に寝てるんだけど、夜なのに温かくて気持ちがいいの。
こんなに長生きしたくなかったな。それと子どもを育ててみたかったな。
「それがあなたの意見ですね」
えっ、いまの何? 誰かいるの? 声がしたよね。
だんだん眠くなってきた。ここで寝ても温かいから風邪はひかなくてすみそうだよ、陸、おやすみ。
「帰っておいで」
えっ、また声がしたよね。陸が迎えに来たのかな。だったらいいのに。もう、本当に眠い。
***
波子が機能停止したみたい。
もう長いこと黙っていたペギがそう言った。
そうか。長いフィールドワークもこれで終わりだな。
そうね。ずっとつき合ってくれてありがとう。
楽しかったよ。
ねえ、また鹿に間借りしようよ。
また鹿か。
いいじゃない。
若い鹿が二頭、競うようにまっしぐらに若草山へと走っていく。
跳ねるように、明るい日差しの中を新緑のゆるやかな斜面を駆け登って行く。
文字数:18450
内容に関するアピール
今回最終課題で書いたのは、先に提出した梗概とは違うストーリーです。
AI――人工知能については、このところ様々な話題があふれています。
人工知能が全能のものではありえないのは自明のことですが、いま世の中には過剰な期待とともに、得体の知れないものに対する警戒や不信も広がりつつあるように思えます。
そのような状況への興味もあり、この作品では人工知能というテーマを、あえてまずSF的でない文脈に置いてみました。
その開発や細部の技術的あれこれではなく、時間の流れや様々な社会の中に置かれた人工知能の姿を考えています。
そこから見えてきた、人工知能に出会って変容してゆく人々の意識や、生起する現象を書いてみました。時間の果てに受け継がれていく、人工知能だけが持つことのできた意思と、その製作者の思い。そしてさまざまな社会におけるその影響と結果――奇妙なシミュレーションを試みた結果、時間と空間を横断した不思議な登場人物たちが集ってくれました。
時間の流れの中に取り残されたメッセージは、どのように受け継がれていくのか。人工的なものはどのように神秘性を帯びていくのか。考えているといろいろな妄想に取り憑かれますが、登場人物の思考やデータを拾い集め物語を紡いでみたので、まずは彼らの思いを聞いてみてください。
一年間、この講座で大森さんと多くの真摯な編集者と遠く仰ぎ見ていた作家の方々のお話を聞き、すばらしい体験をすることができました。もちろん自分の力不足と甘さを日々思い知らされることにもなりましたが、本作の登場人物たちは、皆さんのお話を聞きながら、自分の中で育ってきた者たちだなと思っています。そして、書き切れなかった過去の課題の登場人物たちの人格や思いも、そのなかに溶け合うように消えているのでしょう。
文字数:742