カランポーの王は死んだ

選評

  1. 【宮内悠介:2点】
    『狼王ロボ』とウェルズの『宇宙戦争』をマッシュアップして西部劇に仕立て上げている。お題にはまったくもって応えていない気がするものの、とても面白く、傑作とすら思えた。一行目から恰好良い。
     火星生物の解剖シーンなど、こういった細部が大まじめに描かれ、それが迫力にもつながっている。最初はサークルクラッシャー的な出現をして、その後でだんだんキャラが立っていくボールトンも魅力的。ただ寄生生物のおかげで、ロボの見せ場や主人公との決着が曖昧になってしまったのが残念といえば残念。

    【浅井愛:3点】
     畳みかけるような文体で全体にグルーヴがあり、問答無用で作品のなかに連れていかれた。細かく気になるところはあるが、そういう点を潰していくことで手触りがなめらかになってしまうのはもったいない。
     昔からずっと温めていたネタではなく、与えられた課題でこれが出てくるというのもすごい。ぜひ次の作品も拝読したいと思った。

    【大森望:4点】
     たいへん面白い。「狼王ロボ」と『宇宙戦争』が同じ年に出版された点に着目して両者をマッシュアップした発想もすばらしいが、読みどころは『宇宙戦争』よりむしろ『遊星からの物体X』を思わせるホラー的なグロテスク描写。シートンが主役ということで、当時の動物学的な視点から見た説明が入る点もちゃんと必然性がある。
     修正点を挙げるなら、ボールトンに視点が切り替わるパート。映画だったら必要かもしれないが、小説としてはここだけ浮いている。なにがあったのかは、後半の会話で説明させてもよかったのでは。いきなり変わり果てた姿を出したほうがインパクトもありそう。

    ※点数は講師ひとりあたり6点ないし7点(計19点)を3つの作品に割り振りました。

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梗 概

カランポーの王は死んだ

1893年、ニューメキシコのカランポー渓谷にて、狼の集団が農場を荒らし回っていていた。狼を退治するために農場主は知り合いの動物画家を呼ぶ。彼の名前はアーネスト・シートン。ロボと呼ばれる狼を捕らえるためシートンはまず、つがいの雌狼を罠にかける。牛を殺して首を切断し、罠を設置し、切り取ったコヨーテの足で足跡を作り、辺り一面に牛の血をばらまいて臭いを消す。こうしてシートンはロボの側近であった真っ白な雌狼を捕らえ、その場で絞殺する。
翌日、ロボが近所の学校を襲撃したという連絡が入る。人に姿を滅多に見せないはずの狼が教師と子供たちを面白半分になぶり殺したのだ。そしてシートンは現場近くの森で銃で撃たれて死んでいる奇妙な生物を発見する。褐色のぶよぶよした蛸のような生物。これはいったい何なのか?
シートンは生物を解剖する。カウボーイたちは生物を捕まえるために罠を張る。カウボーイたちは奇妙な鳴き声を聞き夜の山に向かう。そこで彼らが見たのは巨大な三本足の機械が狼を狩る姿だった。
翌日、カウボーイ数人と彼らを取り仕切っていた若い女が農場から消え、寝室が荒らされている。シートンは血塗れの手形が地面の上に点々と続いているのを発見する。その手形をたどったシートンは惨殺されたカウボーイ、そして女の全裸死体を発見する。しかもその近くには女の首が無造作に転がっている。
これは罠だ。私が動物の習性を利用したように、悪魔のような何者かが人間性を利用して私を罠にかけようとしている。しかしシートンが立ち去ろうとすると、首がシートンに助けてと呼びかける。女は生きている。首だけに切断された状態で生きているのだ。なおも女は語りかける。シートンさん、知りたくないですか。私が何で生きているのか、シートンさん、だから殺さないで。
シートンは首を拾ってしまう。首の後ろには小さな蛸が張り付いている。そしてシートンの前に、蛸に寄生された狼王ロボが姿を現す。
狼に導かれシートンはシリンダーと呼ばれる宇宙船の内部に進む。そこには瀕死の、ひときわ巨大な蛸が存在した。洗脳したカウボーイを通じて彼は自らを火星から来た者だと語る。火星人は人類に対して、恐怖を乗り越えさせるような好奇心とゲームとしての殺戮を介して「おしゃべり」しようとしたのだ。地球に来た理由も、全ての虐殺も、ただの陰惨なファースト・コンタクトに過ぎなかった。火星人はもっと大勢の人類と「おしゃべり」がしたいと言いながら息を引き取る。
火星人の機械を使ってシートンはぶよぶよのロボを焼死させる。ロボからはがれて逃げ出した小さな火星人をシートンは踏みつぶそうとする。首だけの女が止める。シートンさん、この子たちは地球で、狼から生まれた。だから、地球人だよ。
シートンは小さな火星人を拾い上げる。
小さな触手から針を出した火星人の赤ん坊が、一生懸命シートンの手に針を突き立てようとしている。

文字数:1197

内容に関するアピール

『シートン動物記』と『宇宙戦争』、全く同じ1898年に出版された二冊がモチーフです。『シャーロック・ホームズの宇宙戦争』や『火星人類の逆襲』といった一連の宇宙戦争ものの作品が念頭にあります。
異星の知性体とのファースト・コンタクトという状況を考えた場合、例えば数学などの普遍的な概念を足がかりにした相互理解(もしくはその不可能性)といった方向で話を展開させる、という手が考えられます。一方、ウェルズが『宇宙戦争』で描いたのは殺戮による一方的な関係性です。ここにはいかなる相互理解もありません。が、互いが互いを一方的に敵と見なすという点で、ここには「一方的な相互理解」と呼ぶべきものが成立している、と考えることもできます。エネルギー保存則に支配された宇宙において、相手を不可逆的な死に追いやることを互いに目指す、という行為は最もシンプルに互いを理解することができる行為でもあるのです(余談ですが、例えばレムの『ソラリス』はこの関係性が成立しないからこその困難を描いている作品である、とも言えるでしょう)。そしてシートンが「狼王ロボ」や「サンドヒルの雄鹿」で描いたのは、動物愛という変形したヒューマニズムで彩られているものの、根本的にはこの関係である、そのように考えました。

文字数:534

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コランポーの王は死んだ

岩の間に牛の頭が引っかかっていた。
まず牛の死体を放り出しその周囲に鉄の罠三十個を仕掛ける。牛の首を切り取り25ヤードほど離れた場所に捨てる。周囲の土をコヨーテの尾を使った箒ではき、切り取ったコヨーテの足で足形をつける。内臓は切り分け、ロープに結わえて馬に引きずらせ匂いをまき散らす。
真っ白なオオカミだった。
ロボとその手下の五頭のハイイロオオカミはコランポー平原の王とその家臣だった。闇に乗じて牧場を襲い、何千もの牛や羊をかみ殺した。毒餌も、罠も、彼らには通じなかった。オオカミたちは死んだ動物の肉には決して口をつけずに、尻の一番柔らかい部分だけを噛み千切る。その姿を見たものはほとんどいなかった。オオカミたちの遠吠えと、足跡だけが、私たちの見たものだった。今までそうだったのだ。
白いオオカミが罠にかかり、鎖につながれた牛の頭を引きずったまま、逃げ、ついにここで岩の間に牛の頭をひっかけたのだ。
私は羊飼いから、群れの中に一頭の、若い、真っ白な、一回り小さなメスのオオカミがいることを教わった。彼女は好奇心旺盛で、列から外れるように、あちこちを遊びまわる足跡を残していた。牛の頭は本来、オオカミの食べるものではない。だが死骸の臭いをかいだオオカミは、その死骸を調べに行く習性がある。無造作に首を置いたのは、警戒心を緩めるためだった。私は牛の首の周りにいくつもの罠を仕掛け、鎖でつないだ。
真っ白なオオカミが、左後ろ足を罠にひっかけ、私たちをにらみつけ、唸り声をあげた。
カメラを立て、写真を撮った。
美しいオオカミだった。
「はは、すげえなこいつは」馬から降りたビリーが叫んだ。「本当に真っ白だ。間違いなくブランカだ。シートンの旦那、あんたとうとうロボの一味を捕まえちまった」
1893年の11月、ついに私の罠ははコランポーの王、ハイイロオオカミのロボに手が届くところまで到達したのだ。今まで何十人というウルフハンターがしとめそこなった獲物だった。タナリーは自慢のウルフハウンドの群れをずたずたに引き裂かれた。ジョー・キャロンはダイナマイトまで持ち出したが無駄だった。今まで誰も、ロボの手下の一頭すら、捕らえることができたものはいなかったのだ。
ブランカの周りにはぐるぐると取り囲むように足跡がいくつも残されていた。霜を踏みしだいた真新しい足跡だった。
目が血走っていた。
「やめよう」銃を構えたビリーを私は制した。「ごらん」
私は慎重に、彼女に近づく。
森に生きとし生けるもの、誰もがおびえる、あのオオカミ、獣の臭い。オオカミは個体によって毛の色がわずかに異なる。ここまで真っ白なものは私は見たことがなかった。体長は2フィート3インチほど、ここから推察したところ、おそらく2歳のメス、といったところだろう。小柄だが、決して華奢ではない。座ったまま口の端を吊り上げ犬歯を見せ、上顎骨筋を引きつらせ鼻に皺を寄せ、彼女は怒っていた。お前たち、人間ども、何しに来た。牙が届けば、お前たちなど八つ裂きにしてやる。
「素晴らしい毛並みだよ。こんな美しい体に傷をつけてはいけない」
馬の荷からロープを二本取り出し、それぞれ輪を作る。
「絞め殺そう」
私はそれほど輪投げが上手いわけではない。ビリーは以前馬に乗りながら牛の右後足に狙い通りロープをかけて倒してみせたことがある。とても私には無理な芸当だ。だがいくら唸り声をあげ、身を低く構えたところで、彼女は後ろ足を岩に挟み身動きができなかった。この程度なら私でも造作なかった。
首にかけられた二本の輪、彼女はその意味をとっくに知っていたに違いない。だが彼女はまるで己の運命に無頓着なように、怒っていた。純粋な怒りだった。激しく吠えたてた。勇敢な戦士だった。ロープは外れず、暴れるたびにきつく締まっていった。それでも彼女は怒っていた。美しかった。
きっと私は、彼女が美しかったことを永遠に忘れないと思う。
ビリーが生皮の鞭で二頭の馬の尻をひっぱたいた。
二頭の馬が正反対の方向に駆け出し結わえられたロープが一瞬でぴんと張り詰め彼女の体が宙に持ち上がった。空中で激しく二、三度痙攣し、彼女は死んだ。あっという間だった。口の端から真っ赤な血が垂れ、彼女自身の体毛を汚した。
美しかった。
馬はその場で足踏みしていた。自分が何をしたのか、何も知りたくない、といった瞳だった。濡れていた。
ロープを切ってブランカを降ろし、私の馬にくくりつけながら私は思った。先ほどまでこの狼は生きていた。私たちと同じように生きていた。あのとき、私は彼女の怒りを正面から捉え、彼女が何を言っているのかはっきり分かったような気がした。自然との対話とは、そのようなものなのだ。
今のブランカは美しかったが、何も語りかけてこなかった。
どこか遠くで狼の遠吠えがはじまった。長く、大きく、低く、うねるような遠吠えだった。
「ロボだ」ビリーが言う。
「ああ、それに、気付いたんだ」馬にまたがり歩かせる。「ロボのやつ、私がブランカを殺したことをきっと感づいた」
遠吠えは何度も、何度も、私たちが平原を横切る間ずっと続いていた。
「こんな悲しい鳴き声、聞いたことがねえな」カウボーイの粗野で無神経な心にも、その声は響くほどだった。「まるで人間みてえだ」
「ともかく」私は馬に鞭を入れた。「これで分かったよ。間違いなくこのブランカは、ロボのつがいの娘だった」
私はオオカミの亡骸を普段寝泊まりしている小屋ではなく、7マイル離れたLクロスF牧場の本部まで持っていくことにしした。私の直属の上司だったジム・ベンダーが数日前からそちらに泊まりこんでいたのだ。そこは十字路の脇にあり、町から外れたこの辺りで働くカウボーイたちのたまり場だった。とりわけ今の季節には、普段より大勢の男たちが集まっていた。クリスマスまでひと月を切ったこの頃から、クリスマスの舞踏会のための旅の準備が、もう、始まるのだ。リーオン川を越えたトライアングル・バー牧場のジョンソンおやじのところで、三日三晩のお祭り騒ぎをやるのがこの辺りのカウボーイの習わしだった。ギターとハーモニカに合わせてスペイン風に踊るのだ。
私は自分のオオカミを見せたくてたまらなかった。
ニューメキシコと言えども、標高が高いこの辺りでは冬の寒さは厳しいものだった。薄暗くなりつつある道のかなたに、一粒の砂金のような明かりがぽつんと見える。私とビリー・アレンは馬を急がせた。
牧場本部の事務室は、ちょっとした社交場として機能していた。薪ストーブの周りでうろうろしながら、立ったり座ったり歩いたり、とりとめのないおしゃべりに興じるのだ。なにしろ置いてあるストーブがよく暖まるものだった。細長い部屋なので、半端なストーブでは向こう側まで暖まらないのだ。私がオオカミを抱えて部屋に入ると、十数人のカウボーイたちが暖を取っていた。暖気で眼鏡がくもる。知っている者もいれば知らない者もいる。
乱暴者のダブルバーのビルや、メキシコから流れた無法者のバルベルデ、前科者だが腕のいいウルフハンターだったタナリー、クロンダイクの町から来たのでクロンダイクと呼ばれている誰も名を知らない男に、拳銃を抜かずに吊革にはめたまま撃つことで有名なジャック・ファウラーもいた。隣にいたのはやせっぽちのジェンクスは射撃の名手で保安官の助手、あまりにもやせっぽちなので弾が当たらないのだ。
その奥にいるのは本人ふうに発音すればチョールズ・フィッツウォールター、東部の出身でオックスフォード大学を出たのち、カウボーイの世界にあこがれてニューメキシコまで流れ着いた変わり者だった。鹿皮のシャツに銀の拍車、ぴかぴかの飾りがついたメキシコ帽はバッファロー・ビルのウエスタン・ショーから抜け出してきたような派手な格好だったが、銃の腕は抜群だった。彼も保安官の助手であり、私以外の唯一の大学出の男で、私のよき話相手だった。チョールズは私の抱えているオオカミが何者か知ると、口笛を吹いた。「へえ、シートン。その子はブランカじゃないか。君はついにやったんだね」
「だから言ったろ、シートンの旦那は只者じゃねえんだ」私たちの荷物を持って入ってきたビリーも、得意げだ。私と言えば、何しろ一人でオオカミを抱えているのだから、なおのこと得意げだったろう。畜生カナダ野郎がやりやがった、とビルが悪態をついて私の知らない隣の男に金を払う。だがビルもにやけ面だ。何しろビルのダブルバー牧場も、ロボには手を焼いていたのだ。タナリーだけは不機嫌そうに床に唾を吐いた。
そしてそこには、美しいボールトンもいた。
赤みのかかった長いブロンドの髪、ワルツを踊るときの男に吸いつくようなステップ、ポーカーからセブンアップまでどんなゲームでも受けて立ち、相手が西部の荒くれでも容赦なく喧嘩を売った。腰に下げたコルトSAAを振り回し、二十ヤード以上離れたスペードのエースめがけてナイフを突き立てた。この辺り一帯の男たちは皆、彼女の崇拝者だった。三か月の間に六人のカウボーイと同時に婚約した。男たちは殺しあった。
彼女にはそれが、愉快でたまらないのだ。
彼女は薪ストーブのそばに肘かけ椅子を引き寄せ、両足を高く上げて暖を取りながら、男どもと笑っていた。口に葉巻をくわえていた。大勢の者が煙草を吸っていたが、彼女の甘い香りの葉巻はすぐに区別がついた。
こちらを向く。
「おはよ、シートン先生」
私は挨拶を返した。
私としては何とか一人でオオカミを事務室の隅の、私の机まで持っていきたかったのだ。何しろ若い小柄なメスのオオカミとはいえ、数十ポンドもあるのだし、数年前に私は右のひざを痛めていて、少し足をひきずるような恰好でないと歩けなかったのだ。
机の上でポーカーをやっていたカウボーイたちが、札を片付ける。
「こうして見れば、何てことねえオオカミだな」ビルがオオカミの唇をめくりあげて牙を見る。「悪魔だの、なんだの言われていたが、何ともない」
「ああ」チョールズが相槌を打つ。「だけどきれいだよ。しっぽの先まで真っ白だ」
「こいつはどうするんで? 毛皮にでもしますか」ビリーが尋ねる。
「当然、剥製にするよ。このあと空いている別棟に持っていきたいから手伝ってくれないか」私は剛毛の下にあるオオカミの筋肉と骨を探りながら答えた。
「オオカミというのは解剖学的にいえば、毛むくじゃらの犬といったところだ。皮をはいでしまえば驚くほどよく似ている」
「ほんと」
すらりとした指が私とオオカミの間に滑りこむ。
甘い香り。
「すてきな毛皮。シートン先生は、ねえ」ボールトンが私の机の上に腰を下ろす。「鳥や動物のことで本を書いてらっしゃるって、ね?」
私はあわてて眼鏡を直す。「本業は画家です。ただ、ごらんの通り目を悪くしてしまって。その間にこの牧場の持ち主のフィッツランドルフさんから、ロボの噂を聞いて」
「あたしも町で聞いたこと、あるよ。すごいオオカミだってね。なんでもルー・ガルー、だなんて言ってる人もいて」
ルー・ガルー。つまり人狼のことだ。
「だがご覧の通り、死んでます。銀の銃弾も必要ない、ただのオオカミです」
「シートン先生にかかれば、ルー・ガルーもただのオオカミ、オオカミもただの犬。すごいんだ」
うっとりした様子でオオカミの首筋をあやすように撫でる。私はボールトンと話したことはこれまでほとんどなかったせいで、柄にもなく、少しあがっていたのかもしれない。それでも彼女の態度や手つきに、どこか私を、この場の皆をからかうような、演技する調子があったことだけは見抜いていた。
ボールトンがオオカミから手を離して、机から降りて立ち上がる。
「あたし決めちゃった」
振り返る。
「今度の舞踏会、あたし、シートン先生と行く」
会話がやんだ。
十数人の男どもが、一斉に黙った。黙って私を見ていた。
私は誰を見れば良いのか分からなかった。ボールトンを見た。白い歯を見せてにっこり微笑んだ。ビリーを見た。困惑していた。
ビルを見た。
ビルは顔を真っ赤にして、今にも爆発しそうだった。
「まずいぞ」チョールズが耳打ちする。「ビルはボールトンの婚約者の一人なんだ」
私たちはオオカミを担ぎあげると逃げるように、というより、逃げる。背後でビルとボールトンが言い争いを始める。
「俺たちは来年の春結婚するって、お前、約束したよな?」
はん、とボールトンが鼻で笑う。「あんたがあたしの何を決めんだよ? 何で決められるような立場だと、思ってるんだろ? 気が変わったの、あたしはシートン先生と行く。あんたは自分の牧場で雌山羊といちゃついてれば」
「さっきまでと態度が全然違う」ビリーがうめく。「別人だ」
「すばらしい観察眼だな、ビリー」オオカミがやけに重いし、扉がやけに遠い。「博物学者に向いている」
沈黙が痛い。注目されている。特に真正面のメキシコ人、あの目、まるでオオカミが怒りを湛えているように緑色に光っていて、ちょっと待て、確か婚約者は六人いて、ということは、まさか。
目が合う。
ビルに続いて、こちらでも怒りが爆発した。
メキシコ人が何かをわめきながら腰に手をかけ銃を引き抜こうとしたのであわててオオカミを放り出そうとしたのだが銃の戦いでカウボーイに勝てるわけがない私と、メキシコ人の、間を何かがきらめき一瞬で壁に、がつりと音を立てて突き刺さる。
ナイフが刺さっている。
「やめな」
いったいナイフをあの姿のどこに隠していたのか、ボールトンが、葉巻をくわえ直す。
煙を吐く。
「今はまだ、だめ」
「いったいあの女どういうつもりなんだ」部屋を出た瞬間私は、悲鳴のような声をあげ、哀れなビリーに問いかける。「なんなんだ」
「俺だって知ったこっちゃねえよ、シートンの旦那」まったく、その通りだろう。ビリーに尋ねて答えられる話ではない。
「私を七人目の婚約者に仕立て上げる気か? 今残っているのは何人だ、残っている何人は何人殺して私で何人目だ」
「旦那、落ち着いてくれよ、あんな女無視すりゃ、どうってことねえ。皆忘れる」ビリーは気楽なものだ。「むしろ旦那が羨ましい、結局カウボーイってのは、いい女を抱けりゃあ、他にはなんにもいらねえんだ」
だとしたら、私は到底、カウボーイにはなれそうもない。ニューメキシコ、この辺りのカウボーイときたら、牛追いとは名ばかりのならず者でしかない。メキシコ野郎の国なんだから、俺たちは何をしたって構わないという理屈だ。なぜか当のメキシコ人ですら、そう思っているのだ。
オオカミを放り込んでおくための別棟はすぐ近くにある。一週間で建てたような丸木小屋だが、その全部が物置で、大きな作業台があり、自由に使えた。
「さてと。シートンの旦那、ロボの奴、どう出ますかね」
「さあね。なにぶん、ぼくらにとっても初めての事態だから」
ああ。
「しまった」私はため息を漏らす。「ブランカを生かして連れてくるべきだった。そうすればロボは、ぼくらを追ってここまでやってきたに違いない」
ビリーは黙っている。黙って、耳を澄ませている。
「何も聞こえねえ。やっこさん、もう諦めちまったんですかね」
「かもしれない」私は床にしゃがみこむ。「仕方がない、一応罠を張っておこう。ぼくがやる、ビリー、カウボーイの連中に、ここらに罠があることを伝えておいてくれ」
それから私はランタン片手に重い鋼鉄の罠を十か所に仕掛けた。もちろん臭いを消すため牛の血に浸した手袋を使った。その間一切、オオカミの鳴き声は聞こえなかった。
ともかく終わらせた。へとへとだった。
何も起きなかった。
朝。
ヒバリが鳴いている。
コランポーの平原はコランポー川が作り上げたものだ。夏には牧草の生い茂る平原はいくつもの川の支流によって分断され、丘陵と峡谷を作り出し、雨風で浸食された溶岩と泥、雑木林と野草が獣たちの姿を隠す。あそこにぽつんと突っ立っているハコヤナギは近くに支流が流れているという目印だ。ここでは複雑な地形のため馬や猟犬、銃は役に立たない。オオカミを捕らえるためには罠を仕掛けるしかないのだ。埋められた罠を点検し、足跡を探すのが私の朝の日課であり、この牧場に泊まり込んでいる私の役割だった。
確かに昨夜小屋に周りに仕掛けた罠は無駄骨だった。オオカミの足跡一つなかった。その代わり、毎晩のように続いていた牧場の牛への襲撃も起こらなかったようだ。
罠は平原にもある。とにかく、牧場には来なかったものの、群れに何かが起こっているはずだというのが、私とビリーの一致した意見だった。
まずは足跡だ。動物というのは来てほしいときに姿を現すものではない。鳴き声は聞こえ、足跡は見える。なのに遠くにおぼろげに浮かぶ影、目の錯覚のようにしか私たちの前には姿を見せない、そういうものなのだ。ロボにしたって、私は姿を見たことが一度もない。
目と耳よりも、何より、鼻と足跡の解読こそがものを言うのだ。私の鼻は記憶力が良い方だが、残念ながら動物ほどではない。だから足跡なのだ。目に見えない変化はなくても、何かの痕跡が残っている可能性がある。
地面に残された小さな円の組み合わせと細い筋、トビネズミのものだ。スカンクやヤマネコ、小型の犬のようなコヨーテの足跡もある。足跡は一晩のうちにいくつも上書きされ、重なり合う。この辺りは以前畑として利用されていて、平らな地面がいくらかむき出しの状態になっている。ここを通ればまず確実に足跡が残る。
「これだ」
オオカミの足跡だ。大きさは5インチほど、だが奇妙なことにその足跡は一列だけだった。オオカミの足跡というのはいつも決まっていて、群れる動物特有の、いくつも個体のものが重なった、読みづらい足跡として現れるはずなのだ。
「それにこれだけくっきり足跡がついているということは、おそらくかなり体重が重いはずだ。ロボの群れで一番体長が大きいのはロボを除けばジャイアントだ、この足跡も確かにジャイアントのものだが、それにしてもこれだけ深く沈みこむものかな」
「それに」やって来て、足跡を見たビリーが考える。「ずいぶんとしゃんとした足取りみてえだ」
「うん、オオカミの足跡は犬のように左右の幅が広い。にしては、これはほとんど縦一直線で、まるでキツネの足跡のように見える。それにオオカミの足跡はもっと引きずったような形跡が残るはずだ」
「そこもキツネに似てんですな。この歩き方だと、足音はほとんどしねえわけだな」
このようなオオカミの足跡は見たことがない。
「なんて言うか、うん。コントロールされているみたいだ」
だが突然、その足跡が途絶える。
代わりに見たのは奇妙な痕跡だった。数インチほどの太さの縞状の跡が、地面の上に延々残されているのだ。それも一直線ではなく、のたくるように、だがばらばらの方向ではなく、峡谷に向かって、オオカミの足跡を消すように続いている。
「なんですかね、頭を縛られた何十匹ってヘビが進んだような」
「十六だ」私は地面に顔を近づけ、スケッチ用の手帳を取り出す。「だがヘビのように体を蛇行させる進み方ではない。どちらかと言えばミミズのような、体全体を伸び縮みさせる進み方だが、ミミズにしては太すぎる」
そもそも、アメリカ大陸にミミズは存在しない。アメリカ大陸のミミズはすべて、誰かがヨーロッパ大陸から持ち込んだのだ。
「オオカミはこの、おばけミミズの集団に襲われたってことかよ」
「そこまでは分からない。追跡しよう」
すると。
灌木の茂みを超え、藪を突っ切って用水路に向かう道のど真ん中に、それは無遠慮に落ちていた。
「いったいなんだ、ありゃ」ビリーが素っ頓狂な声をあげる。
腐った巨大な肉塊が、捨ててある。
見たこともない。
大きさはおよそ4フィートほど、つまり大人のひとかかえほどもあるような、褐色の、肉というよりむしろ内臓の方が近いかもしれない。巨人の内臓が長い血管ごと引き抜かれて、落ちていた。オオカミ用の罠を仕掛けるとき、地面に匂いをつけるため、牛の内臓を引き抜いて馬に引きずらせるが、ちょうどあのような形だ。
もっと近づいてみる。
血管は全部で16あることが分かる。地面に残された跡はこれによるものだったのだろう。よじれ、ばらばらの方向を向いている。やはり血管そのものがミミズと同じ、のたうち回り動いたかのようなのだ。内臓については何の器官なのか見当もつかなかった。艶やかに光っているが、特に濡れてはいない。褐色に灰色が混ざったような、小さな熊ほどもある一つの器官だった。
ひどいアンモニア臭がする。
ひっかき傷が無数にある。藪を抜けた際のものだろう。オオカミの足跡が再び峡谷に向かって続いている。
足跡を追って、這って進んでいたのだ。何かに引きずられてきたのではなく、この内臓そのものが、動いて移動したのだ。となればこれは生物なのか?
奇形か、腫瘍に覆われた熊だろうか。「だけどそれじゃ、この血管の説明がつかない」
皮手袋ごしに突いてみる。やわらかい。
ひっくり返す。
息をのんだ。
眼球がある。それもど真ん中に、ありえない場所に。
砂だらけの内臓に真黒な濡れた瞳が二つ、まぎれもなく中央付近にあって、見開かれている。そしてその下には肉でできたくちばしのような突起物がある。慎重に触れる。まぶたがある。
顔だ。
「奇形や病気じゃない」はっきりと、分かる。「これで生物なんだ。タコ、みたいな」
巨大な、ぶよぶよの骨のない、頭だけの、触手の生えた、見たことも聞いたこともない、わけの分からない生物の死体が、ニューメキシコの平原のど真ん中に、何の前触れもなく落ちていたのだ。
ビリーが馬上で十字を切った。
ともかくこいつを連れて帰らなければ話にならなかった。皮袋じみたこの生物を持ち上げて馬に乗せるのは勇気が必要だった。崩れたりでもしたらおしまいだ。世界に類を見ない、謎の生物の死骸なのだ。平原を這って進んだのだからそれなりに頑強な生物なのかもしれないが、明らかに、平原に生きる動物の肉体ではなかった。
牧場に戻ると、皆への説明はビリーに任せ、写真もそこそこに、私はこの生物を解剖するために別棟に運んだ。チョールズが付き添った。
いったい死後どれだけが経過しているのか、どれほどの状態で保存が可能なのか、何も分からない。手早く済ませてしまいたい。
さて。
「体長はおよそ4フィート。皮膚には体毛が全くない。触手付近には特徴的な皮膚のたるみがある」
手袋越しに改めて、触れてみる。「骨格がない。やはり軟体動物のように、全身が筋肉なんだ」
眼球は二つ。巨大で白目がない。口にはくちばしがあり、頭頂部付近には鼓膜のような薄皮がぴんと張っている。鼻孔はない。
「確かタコにもくちばしがあるだろ、シートン?」
「タコのくちばしは硬い組織だったはずだけど、これはもっと柔らかいな」私はくちばしを軽く、引っ張ってみる。「実は海の生物についてはそれほど詳しくないんだ。小さな頃から水が苦手で、母がぼくを妊娠していたときに海で溺れたらしい、きっとそのせいだ」
こいつの場合、どこから解剖すれば良いのだろう。眼球が並んでいる上、ちょうど額の辺りからナイフで切れ込みを入れていく。
「思っていたよりすんなり、刃が通るな」
外套膜や筋膜に相当するものが存在しないのだ。代わりに赤い、非常に細い繊維状のものがクモの卵嚢のようにびっしりと詰まっている。
「頭部の中心に向かうほど密度が高くなっている」眼球や鼓膜、触手に向かって特に太い繊維が伸びている。「筋膜と神経線維が一つになっているような、変わった構造だ。とすると大きさから言っても、これが脳の役割か」
「この神経のこぶみたいなのが、脳だって?」
「うん。ただ、ぼくの解剖学はあくまで画家修行と博物学的興味のためで、筋肉や外皮、骨格の構造が専門だから。こうなってくると難しいな」切り開く。「だけどこれが脳だとして、これだけ巨大な脳を持っているのに部位による構造の違いがまったく見られないのは妙だ」
「脳はでっかくても昆虫並みの知能ってことかい? 」
「かもね。今度は頭頂部だ」
中央の脳、神経節から頭頂部に向かってひも状の、他よりも太い神経線維が走っている。やはり耳なのだ。だが鼓膜にあたる部分が破れてしまっている。
「目立った特徴はない。神経構造で言えば、やはり注目すべきなのは触手部分だ。目や耳の何倍も太い神経線維で接続されている上、頭部のそれに匹敵する巨大な神経節が、それぞれの触手に備わっている」
だが、触手が例えば手のような重要な感覚器官であるとしても、それはただの感覚器である以上、ここまで大きな神経節は不要であるように思える。腕それぞれに脳の役割を持たせる生物学的利点が存在しない。「神経というのは、電気の通り道だ。つまり、より大きな電流を扱ってるわけだが、こればかりは何のためか分からないね」
心臓はすぐに見つかった。その背後にある謎の臓器と血管でつながっている。これは何だ? 謎の臓器から口まで管が伸びている。
「ああ、なるほど。これは肺だ。肺が一つしかないんだ」
「知れば知るほど、奇妙な生き物みたいだね」
「奇妙なんてもんじゃない」汗を拭く。「まったく分からないよ、この生物が」
私は一本の太い血管を指し示す。「血管の流れを見てくれ。我々を含め哺乳類の血管というものは、身体的機能から考えて流れが不自然な部分がある」
「というと?」
「例えば首だ。首の両側の静脈は、もともと哺乳類の祖先がエラ呼吸をしていた名残で、まるで切り口を迂回するように蛇行しているんだ。これは胎児の観察をすれば、よりはっきり分かる。こいつの臓器、血管の構造は確かに複雑で見事だけど、なんて言うか、謎がないんだ。進化の歴史が作り出す、謎が」哺乳類、鳥類、魚類、皆それぞれに、何億年もの前から続く先祖の形跡を、少しはとどめているはずなのだ。「進化の結果できあがった生き物じゃなくて、まるでゼロから作られたみたいだ」
「ゼロから生物を作る?」チョールズが低い声で唸る。「そんなこと、まるで神様じゃないか」
「いや、いやでも、分からない。脳髄があり、肺があり、血管、神経がある。こういった複雑な構造を進化なしに獲得できるとは到底考えられない。それにこの体つき、明らかにある特定の環境に順応した結果のはずなんだ」
「オーストラリアの有袋類みたいなものじゃないかな。僕らとは別の系統によって進化した」
「だとしたら、とんでもなく昔に分岐したものだよ」ひどく冷える。なのに汗が止まらない。「そうなってくるとこの、脳、肺、に見えるものが、本当に脳や肺なのかも怪しくなってくる」
さらに解剖を進める。触手の構造はタコに似ているが、表面は指紋のような皺で覆われている。しなやかで弾力性がある。触手の先には針状の突起があり、血管に通じている。
「おかしい」体内をもう一度探る。「生殖器はともかく、こいつには消化器官がない」
「吸血動物なんじゃないか。ダニやヒルのような」
「ヒルにだって消化器官ぐらいあるよ。こいつはむしろ寄生虫だ」おまけにもう一つ、謎が加わったわけだ。「これだけ巨大で、相当知能の高いだろう生物が寄生虫とはね」
チョールズが触手を手に持って、ひっくり返してみる。「きっと岩山くらいの牛にひっついてるんだろう。ただこんな体で、どうやって食らいついているのかな」
「ともかく、これでこの生物の死因が分かったよ」桶に手を突っ込んで洗いながら、私は告げる。「餓死だ。おそらく宿主から振り落とされたのが原因だ。こんな脳の塊みたいな体をしていたら、栄養の供給がなくなった時点でおしまいだよ」
「結局、何でこいつはあんな場所にいたんだろうか? シートン、どう思う」
「それについてはお手上げだよ」まさかオオカミがこんな巨大な寄生生物をおとなしくぶら下げているとも思えない。「突然天から落ちてきたみたいに、何もかもが不自然だ」
「いるべきところにいない生き物ってわけか」
「そうだ」
まるで大自然に押し入る人間、インディアンの土地に押し入った白人のように。口に出さずに私は思う。
私だって人間で、白人なのだ。
それから私は一人でスケッチを行い、剥製にするために皮を剥ぐ作業を行っていたので、先に戻ったチョールズの報告が、カウボーイたちにどのような衝撃を与えたのか、まったく知らなかった。彼らにこの、大発見に対する興味や関心、敬意など、元より期待していなかったのだ。まさしくビリーが言った通り、彼らに興味があるのは食べ物と女のことだけだ。
一段落ついた私が夕食をとろうと本部に入り食堂に向かうと、廊下に数人のカウボーイがたむろしている。私を見るなりその中の一人、ダブルバーのビルが、
「なあ、シートンの旦那、あんたでっかい金玉を捕まえてきたんだって」
「金玉?」げんなりする。「あれは金玉じゃない、ちゃんと脳があって」
「何でもいい」
カウボーイたちがゆっくりと行く手をふさぐ。なんだか雲行きが怪しい。
「なあ、シートン『先生』よ」バルベルデ。「正直言って、俺たちはな、てめえを今すぐ、てめえが捕まえてきたあの化けもんみてえに、ずたずたに引き裂いてやりたくてたまらねえんだ」
それで気付いた。この面子の中で知っている顔、ダブルバーのビル、バルベルデ、ジャック・ファウラー。こいつらは皆、ボールトンの婿という噂がある者ばかりだ。
まだ、まったく、解決してなかったのだ。
「悪いけど」嫌でも声が震える。「ぼくは決闘を受ける気はないよ。ボールトンと付き合いたいなら、自由にすればいい」
「そうもいかねえ。ボールトンはてめえをご指名なんだ。俺たちがボールトンの愛を取り戻すためには、てめえが死ななきゃならない。そうだろ?」
カウボーイたちが一斉にうなずく。
何だこの理解不能な理屈に基づく団結力は? 愛?
私は手を上げていた。私はそれほど臆病ではないし、銃は何かあったときのために常に腰に下げている、が、この状況で銃を手にするそぶりを見せれば、それこそ、死、だ。
沈黙。
「安心しな」にやり、とビルが歯を剥いて私の胸を人差し指で小突く。「学者先生を銃でやっつけたところで、面白くもなんともねえ。そこで俺たちは考えたわけだ」強引に私と肩を組んでみせる。臭い。「あの金玉お化け、聞くところによれば、大層な発見らしいじゃないか。金になるんだろ?」
おそらく、と私は頷く。実際のところあまりにも正体不明で、どんな価値があるのか分かったものじゃないが、頷いた方が良さそうだ、と判断したのだ。
「そしてチョールズの奴の話じゃ、あれはああいう生き物で、このコランポーのどこかにまだまだたくさんいたっておかしくないらしいじゃねえか」
「まあ、そうだ」そうなのか。チョールズの奴、とんでもないことを言ってくれている。
「そこでだ」私を解放し、ぱん、と手を打ち鳴らす。
「俺たちの中で、あいつを一番たくさん捕まえた奴が、ボールトンを舞踏会に連れて行ける。ってのはどうかね」
口は閉じていたが、開いた口がふさがらなかった。「何だって?」改めて口を開く。
「旦那にとっても悪くねえ取引だろ? 何てったって一番有利なんだから」
悪いも何も、何を言っているのか、いや、何を言っているのかは分かる。が、何を言ってるんだ?
「きみたち、悪いけどこれは学術的に貴重な発見で、遊びにするようなことじゃ」
「なら遊びで殺されてえか?」ジャックの右手がいつの間にかジャケットに突っ込まれている。「なあ、シートンの旦那、他の奴らは知らんが俺は旦那のことを少しは尊敬してるんだよ。何てったってブランカをぶっ殺したのは旦那だからな。でもな、女については話が別だ。俺はやらなきゃいけないなら、たとえ旦那が相手でも、やるぜ」
「何より」ビルが続ける。「この決闘を最初に提案したのはな、ボールトンなんだ。あいつもそれで納得するってんだ。命が惜しければ従った方が身のためだぜ」
私は深々と、それはもう深々とため息をつくほかなかった。
「分かったよ。分かった」
「良かった」にっ、と笑う。悪意のかけらも見えない笑みだが、カウボーイときたら悪意もなしに人を殺すのだ。
「それじゃな、旦那。俺たちは行くぜ」
「何だって? きみたちは、もう、今から始めるのか? 外は真っ暗だぞ」
「シートンの旦那、これでも、俺ら動物についてはちっとは学があるんでさ」バルベルデが指で自分の頭を指してみせる。「生き物の中には夜しか動き回らない奴だっているわけでさ。誰もあんな金玉を見たことがないってんだったら、そいつはきっと、夜行性、ってやつに違いねえ」
なるほど。理屈は通ってる。
「見てな、シートンの旦那よ。朝のうちにあんたの寝床の周りを、あの金玉で埋め尽くしてやるからよ」
カウボーイたちがようやく私を置いて去っていく。罠はどう仕掛けよう、どこそこの洞窟でそれらしきものを見た、などなど。
勝手にしてくれ。
ともかくこれでやっと、食事にありつける。足を引きずり食堂へ向かう。この時間では誰もいないが、冷えたシチューでも残っていることだろう。
扉を開ける。
明かりがついている。誰かいる。
「あら」
こちらを向いて、にっこり微笑む。
「おはよ、先生」
「きみは一体、何を企んでるんだ」腹を立てる元気もなかった。「とんでもないことになってる」
「とんでもないことに、ね」ボールトンはへらへらしている。「狙い通りだけど? だってあんた、全然あたしのために戦ってくれないし。はい、シチュー」温かかった。私とここで会うのも狙い通り、というわけか。
「あんな奴ら、さ。ぱぱっと、返り討ちにしちゃえば、いいのに」誰もいないのだから向かいの席が空いているのに、なぜ隣に座るのだ? 「あんただって男だろ?」
「確かにぼくは男だよ。それは認める。生物学的に、オスの個体だ。だけどぼくはカウボーイじゃない」
「知ってる。だから好きになったんだけど?」
「ぼくの方は、まったく気乗りしてない」
「そういうのは、ね。時間の問題だね」
ため息。「時間。そう、時間だ。ぼくはこの牧場のオーナーのフィッツランドルフさんと約束して、ロボを捕らえる間だけこの牧場に滞在させてもらってるんだ。幸い目の具合もだいぶん落ち着いてきたし、ロボを捕まえたらフィッツランドルフさんに報告して、カナダに戻るつもりだ。フランスに行って絵の勉強の続きもしたい」
「先生。シートン先生ってさ、頭いいのに、意外と頭、回らないんだ」笑って顔を近づけ、囁く。「嘘、つきなよ。ロボは当分捕まりませんからずっとここで暮らしますって。フィッツランドルフとかいう奴、どうせこんな田舎には自分では来ない」
まるでフランスに行くより自分と結婚した方が幸せだと言わんばかりだ。
「ああそうか、分かった、分かったよ」身を引き離し、水差しから水を注いで、飲み干す。「だけど、きみが言う通りすべてが上手くいったとしても、結局、きみが焚きつけた婚約者連中が、タコのお化けを捕まえられませんでした、負けました、なんて大人しく引き下がるわけがないんだ。連中の剣幕を見ただろ。黙って従うと思ってるのか?」
「そのときは、ね。先生。先生があたしをさらって逃げればいいの。リーオン川を超えてどこまでも、どこまでも」
「勘弁してくれ」どちらかと言えば、私の方がさらわれてしまいそうだ。
「いいじゃない。二人で野生動物を、捕まえる生活。ほら、コヨーテはつがいで狩りをするでしょう」中指の第一関節の分だけ、小さいボールトンの、柔らかい手が私の手にぴったりと寄り添い二本の指でテーブルの上を歩くまねをしてみせる。「こうして。こうして、ね」
またもや引き離さなくてはならない。カウボーイが引き返してきてこれを見たら、命がなくなる。
「先生はあたしのこと嫌い、かな」
「そうは言ってないが、さっきも言った通り、今のところ好きになる予定はないんだ。きみは女性として、その、魅力的ではある」
「それは知ってる。当たり前だよ、そんなの」悪びれずに言う。本当にそれが、当然だと思っているらしい。「だから好きになる機会を作ってあげたのに」
「間に合ってるんだ。本当に、間に合ってる」シチューがだんだん冷めてきたし、もうこの話題をやめにしたい。
ふと。
「きみがその首から下げているの」
「あっ、これ?」
「この間はなかった」
「インディアンの首飾り。コロラドの酒場で働いてたとき、ナバホの男にもらったの」ボールトンが例の甘い葉巻に火をつける。
「恋人か」
「全然。当然、向こうはあたしのこと、好きだったけど」金ぴかの勲章を自慢するようだった。「インディアンって白人みたいに銃を持ってても、射撃がとっても、へたくそ」
「ぼくはパリで、インディアンの血を引いた女性と知り合いになって、今でも交流があるんだ」ボールトンの首飾りは銀製で、カボチャの蕾がモチーフのものだった。硬いパンをちぎってシチューに浸す。「ぼくの絵を見て、あなたにはオオカミの精霊がついている、って。ぼくはオオカミの目を見れば、考えていることが分かるんだ」
「なのにオオカミを殺すんだ?」
どきりとした。
「仕方がないよ。オオカミは牛や羊を殺す。何千ドルって被害だ」残ったシチューをパンで拭って口に入れる。「もちろんオオカミはただの野生動物で、彼らはその習性に従って、当たり前のことをしているに過ぎない。悪い奴らじゃない。けど、人間とは相容れないし、ぼくだって結局のところ、人間だ」
「でも先生は人間でありながら、オオカミでもある」
「インディアンに言わせれば、ね」ごちそうさま。「ぼくはインディアンを尊敬している。元々ここは彼らの土地だった。フェモニア・クーパーの描くインディアンはぼくの理想だよ」
「その人の本あたしも、知ってるよ。『モヒカン族の最後』。でも、嘘だよね」
嘘。
「うん。白人の描いた、白人の理想のインディアン。先生は頭いいから、絶対、それが矛盾だって分かってるよ」
矛盾。
「そうだ。矛盾がある。きっとそれは、ぼくの中の矛盾なんだ」認めざるをえない。「動物が好きで、インディアンが好きだけど、ぼく自身はどちらでもない。ぼくは自然が好きだ。誰も人の手が入ってない自然に分け入るのが。だけどそれは、そこが、ぼくだけの手が入ってるものだって感じがするから好きなんだ」
甘い煙が、私の神経をキニーネのように侵していたのかもしれない。私はいつになく饒舌だった。
「確か七歳のころだった。ぼくはカナダのリンジーという町のそばの農場に住んでいたんだ。そのリンジーって町にはチャーリー・フォーリーって荒物屋がいたけど、そこに見事な剥製のコレクションがあったんだ」フウキンチョウ、アメリカオシ、オオアオサギ、カモメ、ツバメ。「二列の棚に、四十か、五十くらい、彼が自分で作った剥製が置いてあったんだ」今でも鮮明に記憶に焼き付いている。父と世間話をするフォーリー、小さな窓から射す太陽の光、そしてその光が届かない店の一番奥にあった大きな雌鹿の剥製、爪の間の、ジャコウの匂い。
「ぼくが野生動物のことを考えるときに頭に浮かぶのは、あの光景だ。不思議だけど、空を飛ぶ鳥、森を駆けていくウサギ、牙を剥いて野犬と戦うオオカミの姿じゃない。荒物屋の暗い店内に並んだ、死んだ動物の、死んで埃をかぶっているのに堂々とした、あの姿なんだ。あの素晴らしい宝物を見ながらぼくは思ったよ。いつかぼくも、あんなコレクションを作りたい、自分でものにしたいって」
「分かる」そう言ってボールトンは、煙を吐く。「きっとそれって、野生の生き物が、人間にはぜんぜん姿を見せないからだと思う。生きてる鳥はあまりにも高く飛んでて、あたしたちには手が届かない。オオカミは足跡しか、あたしたちには見せてくれない。本に書いてあるインディアンと、本物のインディアンが違うのと同じで、もしかしたら足跡の向こうにあるものは、全然違うかもしれない。だから先生は、手元に置いて信じられるように、絵を描いて、剥製を作る。分かる」
「きみも何か、似たような経験が?」
「だってあたしにとっても、シートン先生は、手に、届かない男だから」テーブルに押しつけて葉巻の火を消す。「先生にとっても女の人って、そうでしょ?」
私は曖昧に薄笑いを浮かべ、ため息をつく。こんな生活が当分続くようなら、胸やけで、また、若い頃の菜食生活に逆戻りだ。
「さて、と」ボールトンが立ち上がる。「あたしも寝なきゃ。明日からあのきん、じゃ、なくて。タコ、タコを探しに行かなくちゃね」
「きみも参加するのか?」あきれたものだ。
「当然。あいつらを凹ませるの、すごく楽しみ」あたしが勝ったらシートン先生を連れてくからね。当然のように腰に下げていた銃を引き抜き、構えてみせる。「それに言ったと思うけど。あたしはコヨーテみたいに、つがいで狩りがしたい」
ぱん。
隣には当然、先生。
じゃね、と、ひらひら手を振って、ボールトンは自分の使っている寝室に向かう。このLクロスF牧場には、ランパスチャーと呼ばれる、小屋の中に板を積み上げただけの簡単な宿泊施設がある。よそから来たカウボーイどもは皆、そこに自分の毛布を持ち込んで勝手に眠るわけだ。もっとも彼女が寝泊まりしている場所はそこではなく、牧場にて住み込みで働いている女性を集めた大部屋に、間借りしている格好になっている。
眠ろうとする。
だが、寝付けない。
突然ボールトンは飛び起きる。まだ辺りは真っ暗闇のまま、日が昇るまでかなりありそうだ。皆が寝入ってる中、彼女は急いで着替えると、使い慣れたリボルバーとナイフを手に、こっそり、部屋を抜け出す。
何かが聞こえたのだ。
馬を叩き起こして飛び乗る。女一人で真夜中に乗馬などとても勧められたものではない。月明りのほか、何もない。だが彼女は迷わず牧場を抜け、平原へと馬を走らせる。
はっと、上を見上げる。
フクロウの目が光った、ような気がする。
あの鳴き声、とボールトンは思う。さっき微かに聞こえた。
確か、あるー、あるー、とかそんな、聞いたこともないような。
月明りだけで照らされたコランポーの平原に、誰かがうずくまっているような灌木の影がところどころ、見える。だいぶ目が慣れてきたみたい。それにしても先に出た連中、いったいどこ、探してんだろう。
遠くに一本だけ見えるハコヤナギ。
気付く。
その隣に、異様な高さの影がそびえている。
給水塔。に、見える。
まさかあんな場所に汽車が通っているはずがない。それに位置が高すぎる。
針のような空気の冷たさが急に意識に昇ってきて、身震いする。両足に挟んだ馬の体温、息遣いが伝わってくる。そこだけがじんわり暖かい。
あの給水塔のあるところまで行ってみよう。
馬に指示を出す。
近寄るにつれてますますその給水塔はおかしな恰好をしていることが分かる。金属のパイ皿を二枚重ねたようなタンク、三本足の支柱、支柱の一本が短いせいでタンクは少し傾いていて、そこから大量のロープが地面に垂れ下がっている。
あれはオオカミの鳴き声だ。動く給水塔の周りを走り回る影が見える。
ぐらり、と傾いだ。
がらがらと音を立てて給水塔が崩れ落ちる。
だが崩れ落ちるかと思った給水塔は地面すれすれで不自然な形に静止する。そして、再び大きな音をあげて、ゆっくりと立ち上がる。
足を延ばす。
立っている。
給水塔が、動くのだ。
オオカミの鳴き声が一層激しくなる。給水塔は頭を揺らしながら、がちゃがちゃと大きな音をあげて歩き出す。足を一本一本前に出して、給水塔が、信じられない、高さ30フィートはある、あんな大きなものが動きまわるなんて。ボールトンは慎重に近寄ってみる。月の光に照らされた頭が銀色に鈍く光っている。
前方に垂れ下がっていたロープがヘビのように動き、さっと地面をなでる。
オオカミを捕まえたのだ。四本の足でもがきながら何かを叫んでいる。
違う。
あれは、オオカミじゃない。
人間だ。
近くに誰か、人が隠れていたのだ。そいつをあの給水塔の化け物が、軽々と宙に持ち上げ、そして胴体と下半身が真っ二つに分かれて何かが飛び散りオオカミが吠え、それよりも、絶叫、男の声で助けを求める間もなく引き裂かれた声が辺りに響いてボールトンは、耳をふさいで、だが、馬を動かして逃げることを忘れている。
何が。
何が起こっているのかボールトンには分からない。
そしてようやく気付く。
給水塔の真正面がこちらを向いている。
見られている。
馬を。
馬を走らせなければと鞭を入れようとするより早くすさまじい勢いで近づいてきた給水塔からひゅるひゅると風を切る音がしてボールトンに向かって細い一本の触手がまっすぐ伸びていく。
 
 
別棟の、椅子に座っていた。
いつの間にか眠ってしまっていたようだった。ランプの灯は消え、既に太陽は高く昇っている。
にあの奇妙な生物が壁に吊るされていた。
夢ではなかったのか、と思う。いや、何かの夢を見ていたはずだ。だがもう、思い出せなかった。
私の肩に昨日ボールトンが羽織っていたショールがかけてあった。ここに来たらしい。
吐く息は白く、ひどく寒かった。あの生物独特のアンモニア臭が漂っていた。こんな場所でよく眠っていられたものだ。
思い出してきた。剥製を作るため、表皮だけをはぎ取っていたのだ。
だが見ると、灰色の斑点が表皮のあちこちにある。触るとそこから、ぼろぼろに崩れてしまった。
内臓が傍らの樽いっぱいに詰まっている。はずだったが、これも見ると、どろどろに溶けて跡形もない。
昨日は何ともなかったのだが。これでは、剥製は無理だ。二体目を捕らえたらホルマリン漬けにでもするしかないが、そんなものは持ち合わせていない。場合によっては取り寄せた方がいいかもしれない。
結局残ったのは写真とスケッチだけだ。
静かだった。くしゃみをした。
妙に静かすぎる気がする。この時間ならカウボーイたちは牧場の見回りを終えているはずで、戻ってきていてもおかしくない。第一私がここで眠りこけているのを、ビリーが放っておくはずがないのだ。
扉を開ける。
雪が積もっていた。
昨夜の間に降り積もったのだろう。小指の先ほどにも満たないが、溶けずに残っている。
のろのろと歩き出す。腹が減った。どうせまた食堂には冷えたシチューしか残ってないだろう。
チョールズがいた。今日も相変わらず派手な格好だ。
「困ったことになったんだよ」私の顔を見るなり告げる。「戻ってきてない。ビルとバルベルデ、それにボールトンも馬で出たらしい」
「泊まり込んでるんじゃないか?」部屋に入って曇った眼鏡を拭く。
「この冬場に何の用意もせずに、かい? 他の連中の話だと、途中で別れてそれっきりで、ボールトンについては全く知らないらしい」ため息。「誘拐の可能性もある。それに捜しに向かったビリーもまだ戻ってこない。もう昼過ぎだ」
「足跡は?」
「この雪だよ」
「ぼくが行く。馬を一頭、用意してくれ」
「これがボールトンを巡る誘拐事件だとしたら、相手は君の命を狙ってるかもしれないぜ。大丈夫かい」
「昨日話した感じじゃ、少なくとも出逢い頭に命を取られる恐れはないよ」もっとも、まずは腹ごしらえだ。冷たいビスケットと温めなおした肉を食べている間にチョールズが支度を準備し、腹帯を締めてくれた。
ともかく、雪の上にまだビリーの残した足跡があった。まずはこれを追ってみることにする。相手は野生動物でなく人間だ。しかも隠れたり追われているわけでもない。女性もいる。痕跡を発見するのはそう難しくないはずだ。
馬の足跡は平原を横切るようにまっすぐ続いている。
いくつかの丘陵を超え、峡谷に差しかかった辺りで、私は馬を降りた。
足跡が消えている。
妙な植物を発見した。見たこともない真っ赤なつる草だった。
しかもその草は平原の奥に入り込むとますます旺盛に茂っているのだ。こんな草は昨日まで生えていなかった。
私は草を引き抜いてみた。赤い汁が手を汚す。さびの不快なにおいが鼻を突いた。両手で次々にむしった。手当たり次第にむしっても、むしっても、辺り一帯のそこかしこに、雪を覆うように群生しているので無駄なことだった。私は己の真っ赤な両手を見つめた。地面の手形はなおも続いていた。
ズボンで拭く。
こんな植物はコランポーどころか、北アメリカでは見たことがない。私の全く知らない新種かもしれない、だが、明らかに自生していた野草ではない。誰かが持ち込んだのだ。私の知らない間に、勝手に。平原を耕作して穀物畑にし、ポプラやカエデを植林するように。だがこの名も知らぬ植物は麦やポプラよりなおいっそう、不潔で、どす黒い目的のために植えられているように感じた。こんなものがこの平原を覆ったら、ヒバリは消えてしまうだろう。地面を掘ってみると、根が深々と食い込んでいる。地面の下に巣を作るキンイロジリスはどうなってしまうのだ?
掌で乾いた植物の汁が、ざらざらした感触に変わる。土の塊を砕いた感触だった。
ふと見ると、足が突き出していた。
ダブルバーのビルだった。
岩陰で、殺されていた。
下腹のあたりで真っ二つに切り裂かれていた。下半身は見つからない。どちらにしろ、あったところでどうなるものでもない。
奇妙なのは鼻だった。切開されていた。鼻頭から骨ごとまっすぐに切れ込みを入れられ、広げられていた。血が固まっていた。周囲には血痕も、赤い草も残されていなかった。
雪の上にはいくつかの小動物の足跡が残されていた。雪を払うと、土にわずかな量の血が混じっていた。
鼻にしても胴にしても、刃物を使った滑らかな切り口だった。地面に足跡が残されていないか、周囲の雪のない箇所を慎重に調べる。
オオカミの足跡が見つかった。
昨日見た、あの奇妙な生物を見つけたときのオオカミと同じ個体の足跡だった。
だがそれだけだった。無論ジャックの殺害はオオカミの仕業ではないし、ジャックの死体をオオカミやコヨーテが食い漁った形跡もない。立ち上がって辺りを見渡す。
ところどころ、あの赤い草が生えている。そして何か所か、奇妙な形跡を見つけた。
地面が等間隔にへこんでいる。
かなり大きなへこみだったので、地形の一部だと思って見落としていた。だが等間隔で、完全な円形に雪が窪んでいるのは明らかにおかしい。
近寄ってみる。
足が止まる。
赤い草だと思っていた。
窪みのそばに赤く見えていたものがあった。近寄ってみて分かった。
手形だった。
血の手形だった。人間のものだった。左右、互い違いに、続いていた。私はひざをつくと、ゆっくりと自分の手を重ねてみた。
ちょうど中指の第一関節の分だけ、小さかった。
赤い草の汁ではない、間違いなく血だ。
私は馬に戻って置いてあったライフルをつかむと、手形を追って歩き出した。手形は点々と続いていた。円形の窪みも少し離れた場所にあって、続いている。窪みの底が水平ではない。つまりこれは足跡のように、特定の方向に向かって進んでいる何らかの物体がつけた痕跡なのだ。
全く想像できない。
一方の手形についても、やはり手と指の付け根がわずかに深く沈み込んだ跡になっている。ただ、これはこれで妙だ。例えば手だけで這って進んだ場合、もっと指先に塚らが入るはずだ。それに当然体や足を引きずった痕跡も残る。
全くない。
これではまるで逆立ちで歩いているようなものだ。
陽が、少しずつ傾いてきている。丘を越える。不思議と膝の痛みは全く感じなかった。
前方で、何かが光った気がする。
あの光り方、あの高さ。間違いない、バルベルデだ。この辺りのカウボーイなら皆知っていることだが、メキシコ人のかぶっている帽子は、派手な金属の飾りが光を反射するので、すぐに見分けがつくのだ。手形はまっすぐバルベルデの方に向かっている。私は気の短いバルベルデを刺激しないようにライフルを頭上に掲げ、走り寄った。
バルベルデだった。
正確にはバルベルデの帽子と、誰のものか分からない一そろいの人骨があった。
骨だけが抜き取られ、ニカワのような粘着質の透明な物体で、人の姿を保ったまま、松の幹に、立った状態で糊付けされているのだ。そしてその足元には彼の切り刻まれた肉体とバルベルデのものの衣服、それに内臓をぐちゃぐちゃにかきまぜた物体が無造作に捨ててあった。ヤマネコやコヨーテがだいぶ食い荒らしたらしかった。
帽子は枝に、引っ掛けられていた。
肉だけがはぎ取られている。軟骨も含めて、骨は完全に一そろいある。触ってみる。乾いてはいない。そもそも火葬や土葬にした人骨なら軟骨が残っているはずがない。だが血は一滴も、骨には付着していない。
一体これは何だ? 誰がやったんだ?
分からない。
分からない?
分からない、などということがあり得るのか?
なおも手形は続いている。
もう何も見たくなかった。見たところで、それが理解できるものであるとは限らなかった。
それなのに、この先に何があるのか、それだけは、私は、確実に理解していた。私はそれを確かめようとしていた。
そして答えはすぐに見つかった。
ボールトンは峡谷そばの松林の前、一本だけ外れた木のそばにいた。
近くに彼女のものと思わしき葦毛の馬が倒れていた。その傍らに、彼女は仰向けに寝そべっていた。
まず、頭部がなかった。
ビルと同じく、刃物のようなものできれいに切断されていた。両腕もひじから先で切り取られていた。
乗馬用の黒のコートに、パンツスカートといういでたちだった。例のインディアンの首飾りもそのままだった。その下にはコルセットとシュミーズを身に着けていた。その下が皮膚であり、表皮、真皮、皮下脂肪に分かれており、筋膜の下に肋骨で守られた肺と心臓がある。
まるで本を開いて机の上に置きっぱなしにしたように、すべての皮が一枚ずつ丁寧に剥かれ、観察しやすいように例のニカワで固められていた。赤く日焼けした喉と、その下の白い肌が見えた。銀の首飾りも、真っ二つだった。喉のあたりから下腹部まで、衣服ごと切り開かれていたのだ。まるで衣服も、表皮の一部であるかのように扱われていた。肺や心臓はほとんど手付かずだったが、胃や腸、肝臓などはすべて切り開かれていた。切り口は完全に下腹部に達していた。そして排泄器官と生殖器が特に、念入りに調べられていた。
そこにはあの生物がいた。
小石ほどの大きさの、例のタコのような生物が彼女の切り開かれた体内をびっしりと覆いつくして蠢いていた。そしてその中央にひときわ目立つ、子供の頭ほどの大きな個体がおり何をしているのかというと、十六の触手で上手にナイフを操り、肋骨に突き立てこじ開けようとしていた。
彼女のナイフだった。
彼女の死体のそばをなおも、手形が続いていた。手形は近くの松の木の上を登っていき、その頂点に、何かの目印のように両腕が突き刺さっていた。そしてそのはるか上を、巨大な影がはっきり二羽、羽ばたき横切り、ラッパのようなかん高い鳴き声をあげながら、空を泳いで去っていった。
シロヅルだった。
この世の光景ではなかった。
私は完全に理解した。
人間が狩られている。人間が解剖されている。人間が、餌にされている。
人間が狙われているのだ。ハイイログマやオオカミなどではない、もっと狡猾で残虐なこのタコに似た生物、まるで、悪魔に。
私は彼女のスカートを引き裂いた。
火をつけて切り開かれた彼女の腹に投げ込む。奇怪な生物は甲高い悲鳴をあげ、四方八方へと逃げていく。私はそれを片端からブーツで踏みつぶし、銃床で殴りつけた。私が逃したものも、宿主から離れたためか途中で動かなくなった。
ライフルを放り出したかった。吐き気がした。私はボールトンがこれらの仕打ちを受ける前に既に事切れていたことを願うしかなかった。
そして気付く。
私は今、広大な平原にたった一人、わずかライフル一丁で立ち尽くしているのだ。
もし自分が狙われていたら。ワタオウサギやネズミのように。いつからだ? いつから狙われていた?
ライフルを構える。何の音も聞こえない。
ボールトンに寄生していたあの生物は、おそらくまだ生まれたばかりだ。近くに親がいるはずだ。
もう一度ボールトンの死体を見る。周囲を観察する。
彼女の遺体の背後、木の陰から、血痕が点々と続いている。血はそのまま近くの松林に続いていた。
林の中に、慎重に足を踏み入れる。
あの生物はいない。ボールトンの頭部が松の根の間に無造作に転がっているだけだ。泥がわずかに付着し、目を固く閉じ、切断面がこちらに向けられている。
拾い上げようと近づく。
近づこうとしている自分に気がつく。
血が凍った。
罠だ。
仲間の死に激高する。遺体に特別な関心を示し、回収しようとする。もちろん動物にも似たような習性は見られる。だが、こういった行為は何よりも、死者を悼む人間らしい行動、当然の振る舞いであるはずだ。あの生物には道具を使う知恵がある。この時点でどんな野生動物より賢いのだ。相手が人間を熟知し、わざと死体を放置しているとしたら。
今までの三人の死体がすべてそのようなものとして、これも。
人間であることを利用された。
私は身を低くして改めて周囲を見回す。見当たらない。
急いで去ることだ。私だけで対応できる問題ではない。
「先生」
声がした。
振り返る。
ボールトンの目が見開かれていた。
「先生」
口が動くのが見えた。
「先生、そこにいるの先生、でしょ?」
小さな声だが、確かに彼女の声だった。とび色の眼球が私をとらえようと、精一杯右を向いているのが見えた。
私は慎重にボールトンの正面に回りこむ。
「先生!」
私は指を立てて唇に当てる。
確かに生きている。
首が地面に埋められているわけではないのは間違いない。確かに黒っぽい血が断面にこびりついている。彼女は安堵の笑みを浮かべている。今にも抱きつきそうな表情だが、確かに、首だけだ。目元が潤んでいる。
「先生、あのタコ」鼻をすする。「タコに捕まってこんなことになっちゃって、何十フィートもある大きな機械に乗ってるの、ねえ、これ何? あたしどうなってるの」
彼女を観察する。よくみると頬には泣き腫らした涙の跡がくっきり残っているし、目が充血している。
私はその場から一歩も動かず、かがんで、ボールトンを見下ろしている。
「先生?」
ゆっくりとライフルを構えた私の反応が想像と異なることに、ようやくボールトンが気付く。
「ねえ先生、どうしたの、あたしよ、後ろに何かいるの? 違うでしょ? 何であたしを狙ってるの、どうして」
「黙れ」レバーを動かして、弾が込められているのを確認する。「さっき指を立てて見せたじゃないか。頼むから、黙っててくれ」
「どうして!」
「きみだって自分が置かれている状況が分かっているはずだ」ゆっくり息を吐く。吸う。「きみは罠だ。罠でおとりだ。なぜきみはこんなところにいる? 何でこんな場所で、頭だけになって生きてるんだ? 答えは明白だ。どうやってだか分からないが、きみは生かされてるんだ。奴らは間違いなく、きみが助けを求め、それに応じる馬鹿正直な間抜けのために贈り物を用意している」
ボールトンの息が見る間に荒くなる。口を閉じたまま、引きつるように泣き、涙がこぼれている。「知らない、あたしはそんな、罠なんて」
「きみが知っていようがいまいが、関係ない」せめて私の手で撃ち殺したかった。「だから落ち着いてくれ。敵の正体を教えてくれたのには感謝している」
私は獣を狩るようにじっと彼女の目を見据えていた。涙など、そう流し続けられるものではない。
案の定、ボールトンの呼吸はだんだんゆっくりと、自然なものになっていった。
「いい子だ」
獲物のウサギに語りかける口調で、つぶやいていた。
「先生」ボールトンが伏せていた目を上げる。「最後に一つだけ、教えて」
「何だ」
「何であたし生きてるの?」
引き金にかけられていた指が、固まった。
「ねえ先生、何で? 首から下がないんだよ」
「それは。分からない」
「分からないの?」彼女が口の端をほんの少し、引き上げた。笑顔を作ろうとしていた。「分からなくていいの?」
答えは明白だった。「いや」
「知りたい?」
「ああ」
「じゃあ助けろよ!」首だけの体のどこかに貯めてある空気を全部吐き出したような、絶叫だった。「捕まえてよ。解剖して、皮を剥いで、剥製にして、脳みそ引きずりまわして何だって好きなようにして、でも、だったら」手がないから顔を覆ったり拭ったり、何もできない。「だったらまず助けてよ。あたし死にたくないよ。何であんたが勝手にあたしを殺すわけ? ほっといてよ。ほっとけないの? なら助けてよ」
恐怖、怒り、悲しみ、絶望。
「黙って目を見ないでよ」絞り出している。「あたしはオオカミじゃ、ない」
その通りだ、と私は思う。彼女は、オオカミではない。
彼女の表情は、オオカミよりもはるかに豊かな、様々な矛盾する感情を語っていた。だが、ボールトンが口から語っている言葉は、とどのつまり、たった一言なのだ。私は表情を読む。だがそれとは別に、彼女は私に向かって叫んでいる。
助けろ、と。
銃を降ろす。
「ほら」泣いたばかりの顔でボールトンが笑ってみせる。「先生、やっぱりあたしのこと好きなんだ」
「きみを捕まえたらすぐに立ち去りたいんだ。本当にあの怪物はいないのかい」
「ごめん、気がついたときにはもうこんなになってて、だから分からなくて。ちょっとでも何か視界に入ったら、教える」
私は銃を降ろすと慎重に立ち上がり、中腰の姿勢で一歩ずつ足を進める。枯葉を踏む音がやけに大きい。
ボールトンが口を開く。
かがむ。
上から降って来て覆いかぶさった何かをはねのけライフルの銃床で殴りつける。「そこ!」叫んだボールトンの髪の毛をひっつかむと地面にのたうつタコの化け物を蹴りあげ一気に走り去る。
走り去ろうとして、立ち止まる。
オオカミに囲まれている。
おそらくあの、一回り大きな個体がジャイアントと呼ばれていた個体だろう。隣の黄色い個体もカウボーイの噂に聞いたことがある、おそらくロボの群れにいる個体だ。
顔の上から半分が切り取られている。下顎部だけが残された顔の上に小ぶりな、あの正体不明の生物が、ジャイアントの方に三匹、もう一方には二匹取りついている。触手が環椎に突き立てられていて、まるでこの生物がオオカミの脳の代わりを務めているかのように、操り、生かしているかのようだ。
下顎に残された舌が小刻みに震えている。
そしてその奥からゆっくりと、ロボが姿を現す。
ロボなのか。
確かに体格のひときわ立派な、そのままでも肩までの高さが3フィートはありそうなオオカミだった。だがこのタコに似た生物はそれではまだ不満だったらしい。
つまり、膝の部分で足を切り落とし、そこに1フィートほどの棒を継ぎ足し、また足をつなげ直しているのだ。ちょうど足に長すぎる関節を一つ付け加えた格好だ。継ぎ足された部分はちょうどこの生物と同じ褐色の皮のようなもので覆われている。当然、単純に切ってつなげただけでは関節が機能するはずがないのだが、ここから見ただけでは分からない。そして呼吸のたびに体のあちこちがいびつに膨れあがり、緑色のガスを口からしゅうしゅうと吐き出した。
怪物だった。
そしてこの怪物を作り出した怪物は、ロボの体中にまとわりついていた。腹部や陰部には葡萄のようにぎっしりと、ボールトンの遺体にこびりついていたものと同じ程度の大きさのタコ生物が、そしてこのものたちと比較にならないほど巨大な怪生物の個体が一匹、大きさは4フィートほど、ロボの背に収まらず、ぐにゃりとした恰好ではみ出していた。十四本の触手を絡ませ、ロボの体に突き刺し、振り落とされないようにしがみついている。
そして残り二本の触手でリボルバーを掴んでいる。
銃口を私に向け、撃鉄を起こす。
私はライフルを捨てた。ジャイアントが頭を下げ、頭上の生物の一匹がライフルを回収する。
怪物も銃を降ろした。それでいいのだ、とその怪物は言っているようだった。さあ、ついてこい。
私がやって来たのと反対の方向へ向かう。オオカミに囲まれ、私にはなすすべがなかった。従い歩く。
これらの個体は、私が殴り倒した個体には目もくれなかった。地面に倒れ伏したままぴくりともしなかったので、既に死んでいるのだろう。大きさと行動からみれば、私がしとめた個体と目の前を歩いているロボの上の個体、この二匹がリーダー格で狩りを行い、あとの個体はそれに付き従うだけで知能があるかどうかも不明、といったところだ。歩きながら観察を行う。
前方の巨大な個体の頭部の一部が、奇妙に膨れているのに気付く。できもののように腫れているのだ。そのこぶは私の見ている前で大きくなると、目を開き、口を開け、触手を動かし始めるとロボの腹に向かって降りていく。こうやって増殖するらしい。
後方の二頭に取りついている怪生物が、時折余った触手を昆虫の触覚のように前方のロボに向けて伸ばす。この怪物が鳴き声による会話らしきものを行っているのをまだ見ない。が、高度に連携した行動を見せていることから、何か我々に知覚できない方法で連絡を取っているのは間違いないだろう。
信じがたいことだ。いや、今、この状況、信じられるような要素が一つでも存在するのか?
「先生、痛い」私はずっとボールトンの髪の毛を掴んでいた。
ボールトンの首筋、髪に隠れて見えなかった部分に小さなタコ生物が張りついていた。寄生している、というよりも体の大部分を埋めるように、食い込んでいるのだ。触手はもちろん目も耳もない、ただ小さな口から絶えず空気が流れ出ていた。そして激しく鼓動していた。切断面や元の気管、食道はすべて例のニカワで封じられている。ボールトンが呼吸をするたびにわずかにこの生物も膨らみ、縮み、空気が流れていく。これだけの処置で失われた体の機能をすべて代替できる、ということなのか。
「きみも操られていたのか」
「そう思う?」
思わなかった。我々を取り囲んでいるオオカミは、明らかに意志がない。そして前方のロボにしても、自発的な思考によって動いているとは到底思えない。違いは明らかだ。おそらくボールトンに取りついているこの生物は、身体機能の補助に特化するためにわざと思考能力を奪われた状態なのだ。やはり罠、ということか。
それにしてもこの程度の大きさで、失われた体の機能をすべてまかなうことができるのだろうか? 鼓動はかなり激しいが、呼吸は特に乱れていないし、呼吸のたびに著しく膨張する様子もない。酸素消費の効率が相当良いのだろうか。
羽を傷つけた小鳥を抱いているような温かさだった。
顔を拭いてやる。
「ありがと。ごめんね、結局先生が正しかった」すっきりした表情。「先生あたしたち、どうなると思う?」
「殺すだけなら今すぐにでもできる。現にきみを見つける前に、ビルとバルベルデの死体を見た。そしてあの生物が高度な知能を持っているのは確かだ。銃の扱い方、あれはおそらくすぐに学んだんだ。そして生理学の分野ではまったく、ぼくらを上回ってる。哺乳類を操作するのは昆虫が他の虫を操るのとわけが違うんだ」相手が人並みの知恵を持っている以上、この行為の動機に関しても、結局、人並みに様々な理由が考えられる。
「つまり何も、分かんない、と」ため息。「どうしてこうなっちゃったんだろう」
さっぱり分からない。「悪夢を見ているみたいだ。いや、むしろ、誰かの見ている悪夢の中で、現実を生きてるような。夢というより、ひどく間違った現実。現実なのに、ひどく間違ってる」
「そうそれ、間違ってる。ねえ、もうちょっとあたしの顔を上げて、先生が見えるように」上げる。「もう正しい方には戻れないのかな? 無理だよね。頭だけ、じゃ」
「そんなことないさ。多少不自由だけど、きみなら、頭だけでも充分やっていける」
「気休めはやめてよ。誰がこんなあたしをダンスに誘うの?」
「ぼくで構わないなら、喜んで行くよ」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあキスして」
する。
「そこじゃなくて、ここに」
やり直す。
「でも先生、ダンス、下手だと思う。あたしが踊らせるつもりだったのに、先生は自分で、動けないあたしの分まで踊れるの?」
「練習するよ」
「なんだか急に、優しくなった」
「今までずっと怖かったんだよ、きみが」認めざるを得ない。「ぼくは何と言うか、本能、欲望というものに、しょっちゅう、ひどく怯えてるんだと思う。キスだって初めてだし、女性を泣かせたのも初めてだ」
「それは知ってる。一目で分かった。だから思ったんだ、この人があたしに好きになったら、どうなるかな、って」まさかその結果がこれ、なんてね。苦笑してみせてくれる。「で、今はあたしに対する欲望も消えたし、こうやって胸に抱きかかえていられる。怖くないんだ?」
「少なくとも、人に銃を突きつける知恵のあるタコよりは、怖くないね」
こんなに深い森がこの平原にあったとは、知らなかった。下り坂に入る。
「ねえ。先生は本当に、あたしのこと、もう怖くないの?」
「いや」足元を意識しながら慎重に坂を下りる。「きみは危険だよ。頭部だけのきみも充分危険だ。ぼくがきみを舞踏会に連れて行きたいほど好きになっても、きみがどこかから他の男を連れて来て、またぼくを戦わせる未来が簡単に想像できる。きみは頭だけでそれをやってみせる」
「そんなこと心配、してるんだ?」あはは、と笑う。「先生、あたしから恋愛についての教訓を、一つ。恋愛に予言はいらない。恋に巻き込まれている間は未来のことを考えちゃ、だめ」
「はあ」どうでもいいのでは? 「覚えておくよ」
今はどちらかと言えば、恋愛についての教訓ではなく、預言が欲しかった。恋よりもっと恐ろしい状況に巻き込まれていた。
見覚えがない洞窟が前方にあった。峡谷に穿たれたその穴はまだ真新しいものだった。足元には今やおびただしい数の怪物の跡、這いずり、何か重いものを動かした形跡がある。辺りには赤い草が生い茂り、動物の死骸が散乱していた。いくつかは解剖、または改造された動物たちだったが、その大部分は血を吸われた残りカスだった。平原じゅうの動物たちが山となって捨てられていた。
促されるままに洞窟の内部に入る。
暗く、狭かった。滑った。転ぶのだけは避けないと、ボールトンがいる。かがんで岩肌に触れて、確かめるように進む。削岩した跡は一様で、正確だった。掘削機まで使えるのだろうか、この生物は。
奴らは一体今までどこにいたのか? 何故急に現れたのか?
地の底に潜っていくこの洞窟を歩いていると、嫌でも、悪魔、という言葉が再びちらつく。
「まさか地獄に行くんじゃないだろうな」
だが洞窟はやがて上りになる。向こう側に小さな明かりが見える。地の底ではない、地上の出口が近づいているのだ。
出る。
「あれ」ボールトンが言った。「あたし、あれに捕まったんだよ。たぶん他のみんなも」
巨大な窯を三脚に乗せたような機械が膝を曲げて佇んでいた。鬱蒼とした森だった。怪物と同じ十六本の触手が灰色の胴体からだらりと垂れ下がっている。確かに関節などに注目すれば機械なのだが、怪物やロボの継ぎ足された足と同じ、灰色がかった褐色のその表面は、まるで生きているようだった。木にもたれかかっている。木がかしいでいる。植生を見る限りコランポーと同じだが、場所が思い当たらない。ピニョン松が冬でも落ちない黒い葉の上に白いわずかの雪を載せていた。傾いた陽が木々の間から見えた。
そのまま進むと突如森が開け、巨大な窪地が姿を現した。
その中央にははっきりと金属でできた、30ヤードはある巨大な円柱状の物体が見える。円柱は半分地面にめり込んでいて、まるで隕石が墜落したような格好だ。
その傍らでは、何百もの怪物が寄り集まっていた。怪物は己の触手を自身の何十倍もの長さにひときわ長くのばし、絡めあい、まるで空に向かって椀を掲げるように、半円状に触手を広げていた。その肉でできた巨大な椀はまるで空から降ってくる見えない何かを受け止めたように、時たま身もだえし震え、そのたびに椀の裏側、底に固まった怪物たちはうめき声を上げた。異様だった。
「先生、あれ、真ん中にもいる」
確かに表側の椀の中央にも一匹の怪物がいる。その怪物は片方の目だけが異様に腫れ上がっており、よく目を凝らしてみると目元から細い触手が何本も飛び出し、絶えず動いていた。
「自分の眼球に自分自身を寄生させているんだ」
「何で?」
「さあ」怪物は一心不乱に空を見つめていた。「もしかしたら、望遠鏡の役目を司っているのかもしれない。肉体の一部を強化したり、代替することができるらしいから」
そばには死んだ動物たちのほかにも生きたままの牛や羊、コヨーテが触手に捉えられたまま横たわっており、絶えず新鮮な血液が供給されていたようだったが、見る限り、残された動物たちはそれほど多くなかった。何かのために動物たちがかき集められ、その目的はもうすぐ終わろうとしているのかもしれない。
一本の太い触手が円柱の内部に続いていた。
円柱の内部はぼんやりと赤く光っていた。何か塗料か、体液のようなものが塗りたくられているようだった。
腕の中のボールトンの鼓動が、かすかに大きくなる。
巨大な怪物がいた。
今まで見た怪物よりさらに醜く、10フィートほどもあるぶよぶよした体を持て余し、円柱の一番奥を占拠していた。触手の一本一本は腕ほどもあり、そのうちの一本が円柱の外側まで伸びていたのだ。
ビリーがいた。
殺されていた。
ボールトンと同じく首だけが転がっていた。頭皮は剥され頭蓋骨がこじ開けられ、脳がむき出しになっていた。そのむき出しの脳に細い触手が何本も突き刺さり、二匹の小さな怪物が張りついていたが、その怪物はさらに、奥の巨大な怪物の触手に貫かれていた。彼の首から下にもやはり触手に貫かれている一匹の怪物が取り付いていて、大きく膨らみ、萎んでいた。呼吸しているようだった。この怪物の触手はビリーの切断された喉の切り口に突っ込まれていた。
何かを試みようとしている。
怪物が大きく息を吐くたびに、ビリーの口内に空気が流れ込んでいる。そのたびにビリーの喉が鳴り、ぐお、ぐお、とまるで豚の鳴き声のような音を出して空気が漏れる。触手を使って体の内側から、無理やり口や舌を動かそうとしている。
喋らせようとしているのだ。人間の死体を、操り人形のように使って、あの怪物は、何かを語ろうとしているのだ。
準備が整ったようだった。
ビリーの頬の内側を、細い触手が何本も動き回っているのが見える。顎を動かし、頬の肉を引っ張っている。
笑顔を作ろうとしている。
「やあ、シートンの旦那」
異様な声だった。ビリーの体を使っている以上、ビリーの声なのだが、吐き出す空気の加減をうまく調節できていないのだ。
いや、それより。
「きみは完全に死んでいるはずだ。後ろの奴がきみを操っている、なのになぜぼくの名前を」
「きっと脳みそだよ」ボールトンが囁く。「あいつら人間の脳をああやって、操るだけじゃなくて、直接調べられるんだ」
「俺は」ビリーが抑揚のない声でゆっくり告げる。「火星から落ちた、カウボーイだ」
「何だって?」
「お前たち地球の女どもと、おしゃべりをしたいんだ。お前たちは牛としちゃ大したことないが、オオカミよりも女っぽい。オオカミは女としちゃあ、駄目だ」
「何、言ってんの」
私にも分からない。「おそらく、あのタコの化け物は、火星から来た、と言ってるんだろう」考えてみる。「確かに火星の生物だとすれば、あの姿もいくらか説明できる。火星は重力が地球よりずっと小さいから、あんな体つきでも、もっと敏捷に動き回れるはずだ。おそらくこの円柱で地球に落下してきたんだ。ジュール・ヴェルヌの小説で人間が月に行ったように」
「何で自己紹介がカウボーイなの? それに先生を指して、女って」
「奴はビリーの脳みそを使って、いわば翻訳しながらぼくたちに話しかけてるんだ。つまり、ビリーの言葉遣いでしか物事を伝えられない。火星人の考え方をビリーの言葉遣いで翻訳しきれないから、ところどころ、変なんだ」牛というのは、つまり、食料だからだろう。
「女ってのは、あたしたちがあいつらに寄生されるから? つまりその、アレして、子供を産ませるのと、寄生が似てるから」
「たぶんね」
「はぁ、男って本当に、女を見たらアレのことしか考えてないんだ? 知ってたけど」
「俺たちは」火星から来た生物は奥で真黒な瞳をこちらに向けたまま、微動だにせず、ビリーに喋らせた。「女どもと何人かおしゃべりしてみたんだ。シートンの旦那、あんた、俺たちカウボーイとおしゃべりしたんだろ」
「おしゃべり」何のことか分からなかった。
「そこのボールトンとも、俺たちカウボーイはおしゃべりしたんだ。おしゃべりついでに、尻をなでてやった」
「お前の言うおしゃべりってのは」私の発する言葉も自然とゆっくりしたものになっていく。「つまり、解剖のことか?」
「解剖! 頭の中の遠い場所にある言葉だ、探さねえと」脳をまさぐる触手が活発に動き回り、ビリーの頭のあちこちを突く。「そうだ。解剖しておしゃべりすることで、俺たちは女どもの素晴らしさを知ったってわけだ。だけどな、どうしても俺たちカウボーイには、分からねえことがあったんだ。しかもしれは、飯を食うとかファックするとか、お前ら女のやることなすことに関係してる」
触手の動きが止まる。
ビリーがいっそうゆっくり、口を動かす。「それは、死、だ」
まるで全く意味の分からない外国の言葉を、口まねしているようだった。いや、実際そうなのだろう。
「何、言ってんの」ボールトンが唇を噛みしめている。おしゃべり、でこんな目に遭ったのだから怒るのも当然だ。「あんたらだって死ぬじゃない」
「そうだ。何とも分かんねえのはそこだ。どうやら俺たちカウボーイも死ぬらしい。そしてそれは、動けなくなることと関係があるらしいじゃねえか」
ようやく事情が呑み込めてきた。つまり彼らは我々人類、いや、あらゆる動物が備えている、死と固く結びついた諸々の概念、恐怖や後悔、苦痛、ほんのわずかの安らぎ、こういったものを持ち合わせていないか、持ち合わせていたとしても、自らが活動を停止し生命反応が失われるという事実と結びつけることができないのだ。
「だけどよ、俺たちは気付いたんだよ。死が何なのか分からなくても、どうやら俺たちは、死を扱うことができるらしい。そして女どもも、どうやら俺たちに、死を与えてくれるらしい。死というもんが分からなくても、どうやらそいつは、互いに贈りあえるもんらしいじゃないか。だから俺たちはこいつには、おしゃべりを切り上げて早めに死を与えてみた」
こいつというのは、ビリーのことを指しているらしい。
「そしたらな、死というのがちょびっと、分かったかもしれねえんだ」ビリーが続ける。「だからシートンの旦那、あんたにはちょっと、変わった喋り方でおしゃべりしてみた」
「つまり実験してみたってわけね」ボールトンが吐き捨てる。「あたしを使って」
突然、ビリーが激しく空気を吐き出し始める。ビリーの下敷きになっている火星生物が激しく痙攣し、ビリーの表情が異様な形に引きつる。
笑おうとしているのだ。
「は、は、は」呼吸の荒い犬の物まねにしか聞こえなかった。「そしたらどうだい! どんぴしゃだったよ、女ども。俺たちにも死というやつが、分かったんだ。死について、俺たちにも、分かることがあったんだよ」
「何だそれは」
「お前らも、つまり、死を、知りたくてしょうがないってことさ」唇がめくれあがった表情のままビリーはまくし立てた。「俺たちはボールトンにわざと死を与えなかった。そしたらシートンの旦那はまず、ボールトンに死を与えようとした。次に、ボールトンが死を与えられてないことについて、知りたがってた。こういうのは、何て言うんだ?」触手が激しく動く。「好奇心! そう、好奇心だ。シートンの旦那、何よりあんた、ボールトンを手に入れるため、自分から死をもらいに行っただろ? あれが決め手なんだ。シートンの旦那、あんたはあそこで、ボールトンの死について知りたがってたし、何より、自分自身の死についても知りたがっていたんだ。俺たちには、はっきり分かったよ、死は、誰も知らない、死んでみなきゃ分からない、知りたくてしょうがねえもんの塊だってことがさ」
ビリーの下の火星生物がいっそう激しく痙攣する。どこかに穴が開いているらしい。空気が漏れている。様子がおかしい。
「知るってのは俺たちカウボーイにとっても、大切なことなんだ。俺たちは地球に、知るために落ちたんだ。シートンの旦那、あんたも立派なカウボーイだよ」ますます激しく痙攣する。「地球の牛も、空気も、俺たち火星のカウボーイにとっては毒だ。じき動けなくなる」言われて、目を凝らす。この真っ赤な照明の下では気がつかなかったのだが、確かに灰色のシミが火星生物のあちこちにできている。奥の火星生物も、外へ続く触手も、同じだった。
ボールトンが息を呑む。
「ボールトンを動かしてるカウボーイなら、平気さ。地球生まれで、俺たちの言いつけを守らないからな」みるみる灰色のシミが広がっていく。「だけどな、この、知るってことは、何とも素敵なものだ。お前ら女もそう思うだろ? だから俺も分かったんだ。死は、素敵なものさ」
抑えていた何かが急に堰を切って溢れだしたように、ぐずぐずと、火星生物の体が崩壊していく。
「今度はもっと、いっぱい死について、教わりたいもんだな。表のかごを編んでたカウボーイを見ただろ? あれは火星の俺たちに手紙を出してるんだ」触手が一本、最後の力を振り絞るように、ビリーの脳にある何かを探し、見つける。「ロンドン、あそこはそういうのか? 女がいっぱいいるんだよな、素敵だろうなあ」
外まで伸びていた触手が、ぶちぶちと音をあげて切れていく。
「死ぬって、これかなあ」ビリーが残りわずかの空気でつぶやいた。「へえ、こうなるのか」
笑顔のままビリーは動かなくなった。四匹の火星生物どもは、今や、私たちの目の前で、アンモニア臭い液体を垂れ流しながら、どろどろに溶けていた。
私は触手を引きちぎって、隅に転がっていた帽子をビリーの頭にかぶせてやった。
生きている首と死んだ首を抱えて外に出る。
皆、死んでいた。
あの巨大な「かご」も、オオカミの口に陣取っていた奴らも、何もかも、ぐにゃぐにゃに腐っていた。赤い草はそのままだったが、葉をよく観察すると、やはり灰色の斑点がある。
「どうなってるの先生、これ」
「分からない。さっき、地球の牛や空気が毒だって言ってたけど、おそらくその毒の影響を今まで、あの大きいのが何かの形で抑えていたんだ。それが一気に崩れた」あの剥製にしようとした火星生物と、同じ運命をたどっていた。「新大陸にコロンブスがやって来たとき、船員から病気を移されたインディアンが全滅したことがあった。同じだよ、彼らは菌に耐えられなかった」
もっとも、今回の場合、菌に耐えられなかったのはコロンブスの方なのだが。
「なんであたしは、平気なの」
「それもさっぱりだね。ただ、奴らが寄生生物だとして、宿主に応じて体のしくみを変化させている可能性がある」
ただ一頭、ロボがいた。
滑稽な四本足を突っ張ったまま、棒立ちのようになっていた。
体中に取りついていた火星生物は、全て腐って流れ落ちてしまったが、ロボの延長された足はそのままだった。
よだれを垂らしていた。
かつて彼は、コランポーの王と呼ばれ、平原を駆け回り、家畜を気ままに食らい、何より自由で誇り高い存在だった。
今の彼には何もなかった。
ブランカのことも、きっと覚えていない。
二頭はもう、永遠に一緒にはなれない。
私はライフルを拾い上げるとロボの眉間を撃ち抜いた。
死んだ。
「剥製に、するの」地面に置いたボールトンが尋ねる。
「いや」
これは、オオカミではない。
「火葬にしよう」
「待って」私が枯れ枝を持って戻ってくると、ボールトンが何かを見つけている。「あそこ、動いてる」
確かに横倒しになったロボの下腹部で何かがうごめいている。
やがてロボの尾で隠れた部分から、もぞもぞと、火星生物の残りが、這いだしてくる。一、二、三、四。まだ目も開ききっておらず、ちょうど握り拳ほどの大きさのそれを見た私はライフルを掴むと銃床でまず一匹、潰す。
「先生」
ボールトンが声を上げる。「やめようよ、先生」
「何が」
「別に殺さなくたって、いい」
「そうはいかないよ。放っておいても死ぬだろうけど」
「たぶん死なないよ、その子たち」
残された三匹が死んだ自分の兄弟と、自分たちが生まれてきた場所を、開いたばかりの目にじっと焼きつけている。
「あの大きいのが言ってたよ、ね。あたしの首にくっついてるのは地球生まれだから死なないって。たぶんその子たちも、それだよ。ロボから生まれた子」体の構造が重力に耐えられない。「地球で生まれたんだったら、この子たちも、きっと、もう、地球の生き物だよ。ここで生きる権利がある」
「ぼくは反対だ。今、処分した方がいい。こいつらきっと、ミミズみたいに増える」
「そのときは、そのとき、考えようよ」ボールトンを見つけた一匹が、触手を伸ばし、這って近づいてくる。私の緊張をよそに、ボールトンは平気そうだ。「この子たち、ほら、きっとすごく、賢い。あんな大きなもので、火星から来られるくらい。賢いってことは、きっと、やり方によってはあたしたちと、上手くやってけるってこと。そう思わない?」
ボールトンの髪の毛に触手を絡ませ、やさしく引っ張り、放す。
「確かにちょっとはその、あたしにくっついてるのとこの子たちは同じだから、あたしだって、独りぼっちになりたくない、みたいなのはあるけど。後ろのこの子がいつ死ぬのか、寿命も分からないし、だから、どうやってこの子たちが生きるのか気になるってこともある、けど」
どうやって生きるのか、気になる。
「確かにそうだ」
私はかがみこんで、三匹の小さな生物に顔を近づける。
「今、ぼくもきみの言葉を聞いて、思ったんだ」互いに触手をかざしあって、何かを話している。「こいつらがもし生き続けたら、いったいどうなるんだろう」
あのビリーを操っていた火星生物は、死を、知りたくてたまらない、謎の塊だと言っていた。
だがあの火星生物は、見落としている。
死ななかった者たちは、生きるのだ。そして生きることも、同じ程度に、謎なのだ。
その謎は野鳥のように、私たちの手には永久に手に入らない、手に掴もうとした瞬間、空高く消えてしまうような謎かもしれない。私たちが握りしめるのはいつも、死骸と、足跡だけだ。
だがそれは、そういうものなのだ。
己の死が誰にとっても最後に残された謎であるように、他の者の生は、誰にとっても、決して捕らえられない謎としてある。そういうことなのだろう。
そして私と言えば、結局分かっていたことだが、どちらの謎も、愛していた。
「おいで」
ジャケットを脱ぎ、シャツをまくって腕を差し出す。
三匹のうち、一番最初に生まれたものが、おずおずと、私の腕に触手を伸ばす。触手の先の針は柔らかい。まだ人の肌すら、貫けない。だがその生物は生まれついた習性で、私の肌に、一生懸命触手を押しつけていた。
黒目しかない瞳で、じっと、私の顔を見つめている。
私はそこから何の表情も、読みとることができなかった。
だが私にはうっすら、予感がしていた。
慣れの問題に過ぎないのだ。
いつかは私も、彼らの表情を読むことができるようになる。
それが良い表情なのか悪い表情なのか、それは、そのとき、考えればいい。
 
 
死んだ馬の下げていた鞄の中に、リンゴがある。試しに汁を搾ってやると、三匹とも、むしゃぶりつくように触手を突き立てた。鞄に三匹を押し込め、両手でボールトンを抱える。
「あたしにもリンゴ、ちょうだい。なんだかすごく、疲れちゃった」手を添えて、かじらせる。「すっぱい」
「体のサイズがたったこれだけになってしまったんだ。栄養を貯めておくのが難しいんだと思う。なるべく無理しない方がいいよ」
「これからあたし、ヒタキみたいに、いっぱい食べて生きるんだね」
「そうだ」
窪みを乗り越えると、すぐそばを川が流れている。といっても、もう、日がとっくに暮れている。だが音が聞こえるし、月明かりを反射して流れる水がきらきら光っている。流れはそれなりにあるが、決してボールトンと三匹を連れて、渡れないほどではない。
「だけどこの地形、見覚えがないな」
「先生、ここ、リーオン川だよ。去年ここを馬で越えたんだ。大丈夫、この辺りはずっと浅いから、これくらいの水量だと夜でもみんな歩いて、渡ってる」
つまり、私が歩いて渡る、ということだ。
やってみると思っていたよりかなりの重労働だ。右手にボールトン、左手にたいまつ、ライフル、鞄、三匹の火星生物を抱えているのだ。それに向こう岸が遠い。暗い。見えない。足が冷たい。膝が痛む。なかなかたどり着かない。
ふと、気付く。
自分は川のどちら側にいたのだろうか。
こちらは川の向こう岸なのか、それとも、こちら側なのか。
牧場に戻るには、この川を超えるべきなのか、引き返すべきなのか?
肝心なことをまったく尋ねていなかったのだ。
「ボールトン。この道でいいのかな」
ボールトンは目を閉じていた。
「ボールトン? 大丈夫なのか?」
「平気」目を閉じたまま、彼女は答える。
「ねえ先生、そうやってあたしたちを抱えて先生がよたよた歩いてるの、すごくあたしは、好き。だって、へたくそなダンスを、一生懸命踊ってるみたい。踊らせてるのは、あたし」
鼻先に何か、冷たいものが触れる。雪だ。風が私たちをぴりぴりと凍えさえる。始まったばかりの冬が、遠慮がちに、夜の平原を渡っている。リスは冬ごもりの準備を始めるだろう。ウサギは冬毛に着替えるだろう。渡り鳥たちは頭上を越え、南へ進んでいくだろう。時は過ぎる。過ぎていく時の流れのただ中で、私は、ボールトンを抱えて立っている。
どこか遠くで、オオカミが鳴いている。
「でもダンスは、もうすぐ終わっちゃう」彼女がゆっくりと、続ける。「あたしはもう、踊れない。先生を、踊らせられない。川の向こうはどっち? 待っているのは、夢のような舞踏会? それとも、ロボがいなくなった牧場? どっちにだって、本当は、あたしの居場所なんて、ない」
だから、ね、お願い。
もう少し、もう少しだけ、ここにいて。
川の中で、先生を踊らせてる気分で、いさせて。
 
 
 
 
作品中の描写に関しては、特に以下の二作品を参考にした。
H・G・ウェルズ著、宇野利泰訳 『宇宙戦争』(世界SF全集 2)早川書房、1970年.
アーネスト・T・シートン著、藤原英司訳 『シートン自叙伝』(シートン動物記 別巻)集英社、1974年.
作品中の登場人物は、すべて『シートン自叙伝』に登場する実在の人物から採られているが、この作品はフィクションであり、その言動についてはいかなる実在の人物との関連もない。
なお、アーネスト・T・シートンは、1894年7月7日にパリへ渡航、その際に知り合ったグレイス・キャラディンと1896年6月1日に結婚した。その後1898年、「狼王ロボ」を含む『わたしが知っている野生動物』を出版したが、これは『宇宙戦争』が出版されたのと同年である。

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