初夏と雨/青と宙

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初夏と雨/青と宙

 空にはときどき、大きな青い星がぼんやりと浮かぶ。
 見上げて瞬きをすると、その星はすぐに消えてしまい
 私には、それが現実なのか幻なのかさえわからない。
 今夜もまた、そんな星が、遠くの宙に見えている。

 

  1.雨、珈琲、約束の言葉

 新しい家のリビングの静けさと、張りつめたような空気が、嫌い。
 リビングの真ん中には四角い木目調のテーブルと椅子が二脚あって、隅には封をされたままの段ボール箱がいくつも積まれている。
 リビングの奥、左のドアがお母さんの部屋で、右が私の部屋……になる予定。右のドアを開けてなかに入り灯りを点けると、奥の壁側に学習机とベッド、小さなクローゼットが寄せられていて、入口の脇には段ボール箱が五つ、積まれている。
 部屋のなかをベランダのほうへ向かって歩いていき、窓を開けて裸足のままベランダに出ると、小さなノイズのような雨の音と、湿気を帯びた生暖かい空気が周りに広がっていった。
 濡れたベランダの手摺をそっと撫でて雫を払い、手のひらについた水滴を見つめる。雨は嫌いじゃない。
 昼前から降りはじめた雨のせいでうっすらと霧が立込めたように白く染まった街並みを眺める。小さな丘の上にあるマンションの五階からの眺望。
 右手側に見えるお城のような大きな建物は、この街のシンボルとなっている図書館。そのすぐ横を、街を二分するように大きな川が流れていて、橋を渡った向こう側には、来週から通うことになる学校が見える。川沿いを走る電車に三十分ほど揺られて行けば海にも出られるらしい。
 左手側には街を囲むような山並みが広がっていて、あの山の向こうに夕陽が沈んでいく光景は街全体を茜色に染め上げてしまうような、とても幻想的なものらしいと聞いている。
 高層の建物が立ち並び、自動車が忙しなく行き交っていた、昨日まで暮らしていた街とはまったく違う景色を、私は気に入った。
 降りしきる雨を見つめながら(お母さん、傘持ってるかな)と考えてみて、たぶん持っていないだろうなと、ずぶ濡れになって帰宅する姿を想像してため息が出る。
 積まれた段ボール箱のなかから、大きめのタオルと着替えを見つけ出して用意しておけば「さすがシタル、気が利くねー」などと言いながら、娘の視線など憚らずに玄関先で着替えはじめるに決まっていて、そんな母親の姿を私は見たくなかった。
 それでもけっきょく、風邪を引くといけないから、気が利かないと思われたくないから、などと言い訳を考えながら、私は段ボール箱を開封してバスタオルと部屋着を見つけだし、ついでにお風呂も沸かしておく。
 夕食の準備をしようと冷蔵庫を開けてみるが、当たり前だけれど中身は空っぽで、仕方なく徒歩五分圏内にあるらしいスーパーマーケットに買い出しに行くことにする。
 白いワンピースの上から藍色の薄手のカーディガンを羽織り、防水の黒いショートブーツを履く。それからお気に入りの水色の傘を手にして部屋を出る。人けのないマンションの廊下に、私の足音だけが響きだす。
 携帯通信端末の液晶ディスプレイに地図を表示させながら、私は徒歩五分の場所にあるはずのスーパーマーケットを目指したけれど、五分、十分経過しても一向にたどりつく気配はなかった。
 スーパーマーケットは商店街の真ん中にあるらしいのだけれど、周りは完全に住宅街で商店の一つも見当たらない。すっかり地図と自分の方向感覚に対する信用を失った私は、直感を頼りに右へ左へと歩き回り、ようやく小さな喫茶店を見つけて、そこでスーパーマーケットの場所を訊ねることにした。
 入口のドアを開くとベルが鳴って、店内の視線が私のほうへ向けられた。といっても店にはカウンターのなかにいる店主と、奥の席に座っている男性客、そしてその客と話をしていたらしいウェイトレスの三人しかいなかったけれど。
「いらっしゃいませ」と声をかけられて、思ったよりもこじんまりとした店内の雰囲気のせいで、何も注文せずに道だけを訊ねるのは何だか気が引けてしまい、ちょうど歩き回って汗をかいていたこともあって、私はすこし休んでいくことにした。入口の横の席に腰を下ろすと、すぐにウェイトレスが水とおしぼりをもってきてくれた。
 同い年くらいかな? とメニューに視線を走らせるふりをしながら、横に立っているウェイトレスの様子を窺う。注文を書きつけるために伝票に向けて落とされている視線。その瞳を覆うような、豊かな黒い睫毛が印象的だった。その睫毛と同じ色をした肩口でそろえられた艶のある髪、うっすらと色を帯びた健康的な肌、不意にこちらに向けられた屈託のない微笑みに、私は何故か懐かしさを覚えた。
「ブレンドコーヒーを、一つ」と言った私の注文を復唱して、彼女は席を離れてカウンターのほうへ向かっていく。その後ろ姿を見送りながら、膝丈の黒いタイトスカートと黒のタイツに包まれて長く伸びた脚のラインがきれいだな、と思う。
 コーヒーを一杯注文する。ただそれだけのことなのに、私は初めての相手に対して言葉を発するとき、いつもすこしだけ緊張してしまう。私の言葉を聞いた相手は、たいてい「お上手なんですね」というような言葉を返してくる。
 亜麻色の髪に翡翠色の瞳、陶器のような白い肌。お父さんが異国の出身で、この国の人たちとは人種の異なる父親から外見的特徴を色濃く受け継いでいる私の容姿は、いつでも特別な目で見られてしまう。私自身はこの国で生まれ育ち、お父さんの祖国を訪れたことは二度しかなかったし、その国の言葉を話すこともできない。
 この国出身のお母さんは、艶のある黒髪と黒い瞳で、その印象は私とはまったく異なっていて、二人で並んで歩いていても親子には見えなかった。
 先ほど注文をしたとき、彼女は私の言葉に特に驚いた様子も見せず、当たり前のように伝票を書きつけていた。それは客商売で慣れているせいなのかもしれなかったけれど、そんな些細なことが、嬉しかった。
「お待たせいたしました。ごゆっくりお過ごしください」と言ってコーヒーをテーブルに置いて去っていく彼女の後ろ姿はやはりきれいで、そのまま先ほどまで話をしていた客のほうへと歩いていき、横に立って再び話しはじめたその横顔を、私はしばらく眺めていた。ゆったりとしたピアノ曲だけがBGMとして流れている店内は静かで、離れた席にも二人の会話は聞こえてきた。
「イチカちゃん、お目当てのものは手に入りそうかい?」
 彼女の名前、イチカっていうんだ。
「はい、今月のバイト代で」と微笑む彼女の笑顔が本当に嬉しそうで、まったく事情を知らないこちらも何だか嬉しくなってしまう。
「だってさ、マスター。奮発してあげてよ。しかし、球状圧縮反転レンズなんて、女の子が欲しがるものかね?」と、からかうように客が言う。
「シトー先生、知らないんですか? 時空間グラス、いまブームになってるんですよ」と彼女が同じ調子で応じたのに「そりゃ、知ってるさ。うちの娘も使ってるみたいだし」と客が返し「サヤちゃん、ああいうの好きそうですよね」と笑い合う。
 時空間グラスとは、最近流行りの映像系のアプリケーションで、圧縮反転加工という特殊な映像処理によって、端末のカメラを通してディスプレイに通常では視認できない特別な像を映しだすことができる――可能性があるらしい、というものだ。
 時空間グラスを通して見えるかもしれない向こう側の映像は「並行世界」などとも呼ばれていて、多くの人がいま見えているものとは違う、別の世界をのぞいてみたいとアプリを使っていたけれど、実際のところはちょっとした玩具のようなもので、何か特別なものが見えたという話はほとんど聞いたことがないし、私も一応アプリをインストールしていたけれど、滅多に起動させることはなかった。
 二人のやり取りを聞きながら、コーヒーのグラスに口をつける。子どものころ、お父さんの真似をして飲んだ苦いブラックコーヒー。そのときは苦さに驚いて思わず吐き出してしまったその味を、今の私は心地よく受け入れている。コクのあるひと口目、全体に広がっていく苦味、すっきりとした喉越し。好き。
「いよいよ来月だっけ、流星群?」と先生と呼ばれた男性が言うと「はい、それまでにはレンズもセットして万全の準備を整えないと」と彼女は嬉しそうに応えた。
「でも、流星を見るだけなら、望遠鏡なんていらないんじゃないの?」
 その言葉に、私は望遠鏡を覗いて見える狭い円のなかを、ものすごい速さで通過していく流れ星を想像して、思わず笑いそうになる。
「先生、知らないんですか? ネイビー・スフィア」と少し驚いた様子の彼女の声に「ネイビー・スフィア? ああ、十七年前の。そういえば今回の流星と関係があるとか、何かの雑誌で読んだような」と曖昧な返事。
「今回の流星群は、そのときに観測されたのと同じものだって言われているんです」
 十七年前――ちょうど私が生まれた年だ。その年に流星群が観測されたという話は知らなかったし、ネイビー・スフィアというのも初めて聞いた言葉だった。
「それじゃあ先生、アカシック・チャイルドって聞いたことあります?」
「あれ、イチカちゃん、いつの間にかオカルトにも詳しくなったの?」
 また、知らない言葉。
 アカシック・チャイルド――宇宙の記憶を持つ子供。二人の話している内容によると、それは十七年前の流星の夜以降に生まれた子どものなかに、ごく稀に存在している特別な記憶を持った者を指す言葉らしかった。
「その子たちは、その記憶を通して、普通の人には見えない、世界のさまざまな可能性を見ることができるらしいですよ」
「ふうん、たとえば時空間グラスみたいに?」
「そう! そのアプリを開発した人もACだって話です」
「ああ、そういえばたしかにすごく若かったよね。天才少女現る、とか何とか」
 客がそう呟くと、彼女は小さく笑い、「どうかした?」と不思議そうに客が問うと「先生が、天才、って言うと何だか可笑しくて」と応えた。
「それは〈元〉天才、に対する嘲笑かい?」とふざけた調子の客の言葉に「違いますよ、私にとっては、先生はいまでも現役の天才ですから」と彼女は笑いながら返す。
 私はバッグから携帯通信端末を取り出して、時空間グラスを起動させてみる。端末に付いている小型のカメラを通して、いま目の前に見えているのと同じテーブルの上の飲みかけのコーヒーが端末の液晶ディスプレイに映し出されている。そっと端末を会話する二人のほうへ向けてみると、画面には笑いながら会話を続けている姿が映った。
「ACにはネイビー・スフィアがいつも見えているって話もあるんです」
 二人の会話に耳を傾けながら時空間グラスを停止して、今度はウェブ・ブラウザを起動させて、画像検索機能を使って「ネイビー・スフィア」について調べてみると、夜空に濃紺色をした太陽か満月のような丸いものが浮かんでいるイラストがいくつも表示された。画像のなかには写真も数枚混ざっていたけれど、それらに映り込んでいる青い球体はどれも輪郭がぼやけて夜の暗さと混ざり合ったような曖昧なものだった。
 画像に添えられた説明書きによると、それは十七年前の七月二十一日の夜、数時間にわたって観測された謎の天体現象ということだった。その現象が見られたのは観測史上、後にも先にもその日一度きりだったが、解説の末尾には今年の同日・同時間帯に再び〈ネイビー・スフィア〉が現れる可能性がある、という注記が付けられていた。
「それを観測するために球状圧縮反転レンズが必要、ってわけだね」という客の言葉に頷きながら「はい、実はその日、私、誕生日なんです」と彼女は笑った。
「へぇ、それはおめでとう。でも、そんなにネイビー・スフィアを楽しみにしてるってことは、イチカちゃんはACじゃない、ってことだよね」と客が冗談めかして笑い返す。
「残念ながら」
「まぁ、でも、ACが本当にいたとして、実際にネイビー・スフィアが見えているかどうかなんて、ほかの人には誰にもわからないからね」
 たしかに、その通りだ。たとえ空に大きな青い星が見えていて、それを指さして示したとしても、そちらに視線を向けたときに何も見えなければ、冗談だと笑われてしまうのがオチだった。そうやって何度も笑われているうちに、いつしか私は青い星を指さすことをやめてしまい、ただ、ときどき空にその姿が浮かんでいるのを黙って眺めていることにしたのだ。
二人に向けていた視線を外して、窓の外を眺めやると、いつの間にか雨はやんでいて、そろそろ店を出ようと決めて、私は立ち上がりカウンターの店主に声をかけた。
「はい、いかがなさいましたか?」と落ち着いた声で応じてくれたのに安心して「この近くにスーパーマーケットがあると思うんですが、実は、その、道に迷ってしまって……」と事情を話すと「ああ、それは、ここからだと少し離れたところになりますね」と言って、カウンター脇の小さな書棚から地図帳を取り出して、位置を説明してくれた。
 私は、広げられた地図帳と自分の端末に表示されている地図を見比べながらルートを確認してみたが、自分がどこで道を間違えてしまったのか、よくわからなかった。
「この辺りは初めてですか」と訊ねられて肯くと「狭い道が入り組んでいて少しわかりづらいんですよ」と店主は柔らかく微笑んだ。
「ミカムラさん」と店長が声をかけると、いつの間にか客との会話を中断してこちらの様子を伺っていたらしい彼女は「はい」と嬉しそうに返事をして「買い出しをお願いしたいんだけど」という言葉に「わかりました」と言って、カウンターのほうへやってきた。
「着替えるからちょっと待っててね」と、接客時とは違う言葉遣いで私に声をかけると、彼女はカウンターの裏手にあるドアの奥へ入っていき、しばらくして白いTシャツにデニムのホットパンツという軽装で戻ってきた。
「おまたせ、行こうか」と言いながら彼女は店長から買い出しのメモを受け取り、彼女を待つ間に会計を済ませておいた私は「ご馳走様でした」と小さくお辞儀をして、二人で店を出た。店の奥から、先ほどまで彼女と会話していた客の「いってらっしゃい」という声が聞こえてきた。
 たんに道を聞いただけのつもりが、いつの間にか案内までしてもらうことになっている。しかも、彼女に案内を頼んだ店長も、頼まれた彼女も、彼女との会話を遮られた客も、誰もそのことについて不満を持っている様子はなくて、何となく、昨日まで暮らしていた街とは人と人との距離感が違っているな、と私は感じた。
 黙ったまま並んで歩きながら、何か話をしたほうがいいだろうかと考えてみるが、二人の間には特に気まずい雰囲気もなくて、むしろ以前からこんなふうに一緒にいたような心地よささえ感じられた。
「どこから来たの?」と先に口を開いたのは彼女のほうで、私が街の名前を答えると「いいなー」と心底羨ましいといった様子でため息をつき、「この街、遊ぶところが全然なくって」とぼやいたあとで「あ、自己紹介、まだだった。私はミカムラ・イチカ。イチカって呼んでね」と言って笑いかけてくれた。
「あの、私は、スナシロ……シタル、っていいます」と私が名乗ると、彼女は「シタル、よろしくね」と言って「なんか、どこかの楽器か小惑星を思い出しちゃった」と笑った。その笑顔につられて私も小さく笑う。小惑星、というのはよくわからなかったけれど、たしかにシタールという名前の民族楽器があるのを、私も知っていた。
「イチカさん、よろしくお願いします」と軽く頭を下げると、そんなに畏まらなくてもいいのに、とイチカは笑い、いつこの街に来たのか、という二つ目の質問から途切れることなく会話が続いていった。
 話をしていくうちに、イチカは私が来週から通うことになっている学校の生徒で、しかも同学年だということがわかり、同じクラスになれるといいね、などと笑い合いながら、すっかり打ち解けてしまった。すらっとして手足が長くてスタイルの良いイチカに比べて、私は小柄で背も低かったため、はじめのうち、イチカは私のことを年下だと思っていたらしい、ということもわかり、そのことについて冗談めかして不満を言うと、イチカは「可愛くてうらやましい」と笑った。
「ここ」
 夢中で話をしているうちに、いつの間にかたどり着いていたスーパーマーケットの前でイチカは立ち止まり、そのまま店のなかへ入っていく彼女のあとに私も続いた。しばらくイチカの買い物に付き合いながら店内の様子や棚の配置を確認して、それから分かれて自分の買い物を手早く済ませた。
 夕食前の時間帯、長い会計の列をようやく抜け出すと、イチカは店の入口脇に設置されている自動販売機の脇のベンチに座って、オレンジジュースを飲みながら待っていてくれた。
 私の提げている買い物袋に視線を向けて「ミートスパゲティ」とイチカは笑った。
「シタルって、料理する人?」
「うん、ときどき……」
 私は冷凍食品のパックの詰まった袋を身体の後ろに隠しながら、そんな言い訳めいた言葉を口にしてしまう。でも、実際にふだんは夕食の準備は私の担当で、料理だって人並みにはしているはずだ。今日はたまたま、引っ越してきたばかりでキッチンが片付いていないから、仕方なく手軽に済ませようと思ったのだ。
「よかったら、お店で食べていく? ご馳走するよ」とイチカが誘ってくれたのを「ごめん、お母さんの分も用意しないといけないから」と断ると、「そっか、シタルのお母さん、働いてるんだね」と、イチカは遠くのほうを見つめながら呟いた。
「何してる人?」
 そんなイチカの質問に「えっと、あんまり詳しく聞いてないんだけど、どこかの研究所で働くことになって、この街に越してきたのもお母さんの仕事の都合なんだ」と私は具体的な内容を誤魔化しながら答えた。
「この街で研究所っていうと、マルキ関連のところかな」というイチカの鋭い一言に、私が何か返そうと考えながら黙っていると「そういえば、お店にいたお客さん、覚えてる?」と返事を待たずにイチカは言葉を続けてくれた。
「うん、先生……って呼んでた人だよね」
「そう、この街ではちょっとした有名人なんだけど、あの人も以前、マルキ・カンパニー関連の仕事してたんだよ」
「有名人?」
「有名っていうか、名物……かな? 私の子供のころから発明王って呼ばれててね。実際、いろんな特許を取ったりもしてて、今ではその収入で、ああして昼間っから喫茶店でのんびりしてるってわけ」
 そう言い終えてごみ箱に空き缶を放って立ち上がると「そろそろ行こうか」とイチカは微笑んだ。
 すっかり陽の傾いた空に包まれて茜色に染まった広大な山並みは、聞いていたとおり幻想的で、街に迫りくる炎の壁のようなその姿は壮観だった。そんな赤い空の片隅には、ぼんやりと青く輝く円形が浮かんでいる。
 そのネイビー・スフィアと呼ばれているらしい青い星を見つめて私が立ち止まると、イチカは「どうかした?」と言って私の視線の先を追うように空を見上げた。
「え、っと……空が、きれいだなって」
 昨日まで見ていた夕陽と、いま見ている夕陽は同じ一つの太陽のはずなのに、周囲の建物の高さが違うせいなのか、山の深い色のせいか、あるいは空気の澄み方が違うからなのか、その赤さは眩しいくらいに鮮烈で、そのなかに浮かぶ青い円の輪郭もいままで見てきたうちで一番くっきりとしているように感じられた。
「この道をまっすぐ行けば、シタルのマンションの近くに着くはずだから」とイチカの指さした先に視線を向けたとき、「あ、お店に傘、忘れてきちゃった」と私は不意に思い出して、そう呟いた。
「取りに来る?」と言ったイチカに「うんん、また近いうちに遊びに行くから」と約束すると「かしこまりました。それでは大切にお預かりして、お待ちしております」とふざけた調子でイチカは小さくお辞儀をしてみせた。
「それじゃ、またね」と軽く振られたイチカの手が、何故かとても懐かしいもののように感じられて、私は思わず手を伸ばしてその手をつかみそうになる衝動を、何とか抑え込んで「うん、またね」と言って手を振り返した。
 陽が沈みかけて暗くなりはじめた空には、大きな青い星が静かに浮かんでいた。

 

  2.朝、図書館、懐かしい記憶

 週末、朝。
 明日から新しい学校に通うことになっていて、私は制服の夏服に袖を通して全身を鏡に映してみる。
 長袖の白いブラウス、ベージュを基調に赤白黒のチェック柄の入ったプリーツスカート。誰でも無難に着こなせるようにデザインされたシンプルな制服が自分に似合っているのかどうか、わからないけれど、少なくとも前の学校で着ていた紺のセーラー服よりは馴染んでいるように見えた。
 それでも何となく落ち着かなくて、ブラウスの上から薄いグレーのカーディガンを羽織ってみると、ようやくしっくりくる。その格好のままリビングに出ると、テーブルの上にはビールの空き缶が二つ、転がっていた。まずはその缶を捨てて、使ったまま放置されていた食器を洗い、それから三日分の可燃ごみが詰まった半透明の袋を提げて部屋を出る。
 マンション一階の収集所にごみ袋を放り込んで、エントランスの郵便受けを確認するが、空っぽ。部屋に戻ってテレビの電源を入れると、まもなく終わろうとしている朝のニュースが気象情報を伝えていた。
――晴れのち曇り、ところによりにわか雨や雷雨の恐れがありますので、お出かけの際は傘の準備をお忘れなく……。
 テレビの音声を聞き流しながら、私の部屋とお母さんの部屋、二つのドアの間の壁に掛けられている連絡用のホワイトボードを確認すると「シタル、十時に起こして!」という書きなぐったような文字が大きな丸印で囲まれていた。
 相変わらず汚い字……と思いながら時計を確認すると、十時までにはまだ一時間近くあった。しかし、十時ちょうどに起こしたのでは、お母さんがベッドから出てくるのは早くて十五分後、つまり九時四十分頃には声をかけないと、十時起床には間に合わないということになる。
 お母さんは家では朝食をとらない習慣なので、寝覚めのコーヒーの準備だけをしておけばいい。いつの間にかニュースが終わり、趣味の手芸に関する内容が放送されていたテレビのチャンネルを変えてみるが、興味を引く番組が見つからず電源を切る。
 代わりにラジオのスイッチを入れて適当にダイヤルを合わせると、雨の日をテーマにした音楽を特集している番組に当たったのでそのまま流しておく。聞き覚えがあるけれど、タイトルを思い出せない歌謡曲を聞きながら、そういえば、とイチカの喫茶店に預けたままになっている傘のことを思いだして、お母さんを見送ったら午前中のうちに取りに行こうと決めた。
 続いて流れだした静かに降る雨の音を想起させるようなピアノ曲を聴きながら、のんびりとコーヒー豆を挽く。子どもの頃からお父さんの真似をしているうちに、いつの間にか本人よりも美味しいコーヒーを淹れられるようになってしまい、私は家族のなかでコーヒー当番になっていた。
 イチカの喫茶店のコーヒーも美味しかったけれど、やはり慣れ親しんでいる自分の、家族の味と香りのほうが気分が落ち着く。私とお父さんはブラックで、甘党のお母さんの分には好みに合わせてミルクと砂糖を入れておく。そうして以前はテーブルの上に三つ並んでいたコーヒーのカップが、いまは二つ。
 コーヒーができたてのところで、お母さんの部屋のドアを開けて声をかけるが、いつもどおり無反応で、仕方なく薄い掛布団にくるまっている肩を揺すると、いきなりばっと起き上がって抱き着いてくる。
「シタルー、おはよー」と寝ぼけ半分の甘ったるい声で言いながら、再び全身の力を抜いていくように、抱き着いているお母さんの身体が重たくなっていく。このままベッドに押し返して横にしてしまうと二度寝に突入してしまうので、仕方なく引っ張り起こすようにして立たせようとして、その体重を支えきれずに私までよろけてしまう。
 ぼさぼさに乱れているお母さんの黒髪を手櫛で撫でるように整えていると、お母さんも真似をするように私の頭を撫でてきて、こっちは逆にぼさぼさにされてしまう。
「シタルーねむいー」
「もうすぐ十時だよ、仕事でしょ」
「まだ十時じゃないの? だったら寝かせてよー」
「コーヒー淹れておいたから、それ飲んで、目覚まして」
「うん、ありがと」
 そう言って、ゆっくりと起きてリビングでコーヒーを飲みながら、ようやく覚醒状態になったお母さんは、私の格好を見て「どうして制服着てるの?」と不思議そうに言った。ちょっと試着してみただけ、と私が答えると「似合ってる」と笑い、それ以上は何も言わずに、出かけるために身支度をはじめた。
 しっかりと化粧をして仕事用のスーツ姿になったお母さんは、やや幼さの残った顔立ちと背の低さのせいもあって、実際の年齢よりもだいぶ若く見える。三十代前半、というのは言い過ぎかもしれないけれど、そう言われても違和感はない。ノンフレームの眼鏡をかけていて、いかにも仕事のできそうな涼しげな表情でテキパキと出かける準備を進めていく姿は、先ほどまで寝ぼけていたのと同一人物とは思えなかった。
 横に並ぶと私とお母さんはほとんど同じくらいの背の高さで、まるで姉妹のような感じなのだけれど、実際に並んでいると、髪や瞳、肌の色といった部分はお父さんから、童顔で小柄な部分はお母さんから受け継いでいる自分の存在が、何だか少し歪なもののような、おかしな気分になってしまう。
 そのうちお母さんの準備が整って、玄関から慌ただしい物音が聞こえてきたので見送りに出ると、行ってきます、と言ってお母さんは私を抱きしめてくれた。うすい香水の香りがふわっと周囲に広がって、気持ちが柔らかくなる。子どもの頃は、少し離れたところから見上げていた行ってきますのハグは、今では私とお母さんの間のコミュニケーションの一つになっている。
 お母さんが出かけていって一人になった部屋の広さにはまだ慣れない。音楽のやんだラジオからは、雨の日が続いて気分が憂鬱です、もうすぐ学期末試験なのに勉強が捗りません、何かいい気分転換の方法を教えてください、という相談のお便りとそれに対する返答が聞こえてくる。
 雨の日は、嫌いじゃない。
 ベランダに出て空を見上げてみると、雲一つない快晴で、雨の降る気配はなかったけれど、この街に引っ越してきてから雨の降らなかった日はなかった。
 今日は朝から青い星がよく見えている。あの星が見えているということは、私はイチカたちが話をしていた〈アカシック・チャイルド〉というものなのだろうかと気になって、携帯通信端末を使って、その単語を検索してみる。
 表示された検索結果を、有効情報指数順にソートし直して、一番上のリンク先である「ワールド・アカシック・チャイルド協会公式サイト」を開くと、画面の隅に「かんたん診断! 五分でわかるあなたのAC度」というボタンがあったので押してみる。すると質問項目と回答用の選択肢が表示された。

 満十八歳未満だ → はい
 これまでに大きな病気を患ったことがある → いいえ
 人が多く集まっている場所は苦手だ → はい
 初対面の人を懐かしく感じたことがある → はい
 人と話をするのが好きだ → いいえ
 色のなかでは「青」が好きだ → …… はい
 夢をよく見るほうだ → はい
 新しいものはとりあえず試してみたくなる → いいえ
 運命は変えられると思う → ……

 最後の質問に「はい」と答えたあとに現れた「結果を表示する」ボタンを押してみると、「あなたのAC度は86%です」という中途半端な結果。さらに私は「孤立・終焉型」のACに分類されるらしい。
「孤立・終焉型」のあなたは、あらゆるものを冷静に分析しながら受容しますが、常に一定の距離感を保ちながら決して深入りせずに見届ける「観察者」です。と言われても、その特徴が自分に当てはまっているのか、よくわからなかった。あまり参考になりそうもない診断結果の画面を閉じて、私はイチカの喫茶店に傘を取りに向かい、ついでにそこで昼食を済ませることにした。
 さすがに制服姿のまま出かけるわけにもいかず、水色のワンピースに薄手の白いジャケットを羽織って、上着に合わせた白いヒールのサンダルと小さなワンショルダーバッグ、それに日よけの帽子をかぶって外に出ると、強い日差しを受けた街は、かなりの湿度を帯びた空気に覆われていて蒸し暑かった。
 入口のベルを鳴らして入った喫茶店には店長しかおらず、「いらっしゃいませ」と静かに微笑んだ彼は私のことを覚えていてくれたらしくて、イチカから頼まれていたという傘を店の奥から持ってきてくれた。
 私がカウンター席に座ってランチメニューのグリーンカレーとオレンジジュースを注文すると、店長はイチカが今日は夕方からのシフトだということを教えてくれた。
 辛さを三段階から選べるというカレーを「甘口」でお願いして、カウンター脇のマガジンラックに置かれていた週刊誌やファッション誌の隙間に見えた一般向けの科学雑誌を抜き取って広げてみる。
 私がそれを手に取ったのを見て店長は、その雑誌はイチカがセレクトして置くようになったのだ、と教えてくれた。ゆったりとした伸びやかなサックスフォンの音色をBGMにして、難しくてほとんど理解できない雑誌のページを読み流すようにめくっていく。不意に、ネイビー・スフィアのイラストが目に入って手を止め、見出しを確認するとそのものずばり「ネイビー・スフィアを観る」と大文字で書かれていて、そのあとに「圧縮反転レンズで観るネイビー・スフィア」などといった小見出しが続いていた。
 球状圧縮反転レンズを開発したマルキ技研、その生命工学部門にお母さんは研究員として所属していた。イチカの欲しがっていたレンズと、お母さんの仕事の間にはほとんど関連性はないはずだけれど、同じ研究施設というだけで何か特別なつながりがあるような気がした。
 グリーンカレーの香ばしいスパイスの風味ととろけるような柔らかい野菜、ほどよい甘味を舌で楽しみながら、私はイラストや図解を中心に眺めて雑誌のページをめくっていった。
 雑誌に書かれている内容のうち、私にも理解できたのは、ネイビー・スフィアの出現時に発生する小さな塵が大気との摩擦の熱で焼かれて輝き、無数の流星となる。そんな天体ショーが七月二十一日の夜に見られるらしい、ということくらいのもので、記事の大半を占めていたスフィア出現のメカニズムなどについてはさっぱりわからなかった。
 ご馳走様でした、と言って傘を手にして店を出たけれど、そのまま家に戻る気にはなれず、商店街のほうに向かって歩きながら、ふと遠くのほうに見えている図書館が目について、散歩がてらにそこまで行ってみようと思いついた。
 街の規模に対して不釣り合いなほどに大きくて立派なその図書館は、かつてこの地域を治めていた領主の城塞跡を使って建てられたもので、街の名所の一つとなっている。この街のことをもっとよく知るためにも、いまのうちにそういう場所を訪れてみるのも悪くないだろう。
 正午を少し過ぎた陽射しは朝よりも強さを増しており、帽子の陰になっている頬を生ぬるい風がそっと撫でていく。商店街を抜けた先にある小さな児童公園の時計で時刻を確認すると、十二時四十七分。ここから図書館に続くなだらかな坂道をのぼっていけば、ちょうど一時頃に到着するはずだ。
 じわりと額に浮かぶ汗をハンカチでぬぐい、ワンピースの胸元をはたはたと小さく引きながら、まっすぐにのびた長い坂を歩いていく。喫茶店でオレンジジュースを飲んだはずなのに、しばらく歩いているうちに喉が渇いてきて、坂の途中にあった小さな商店に立ち寄って飲み物を購入することにした。
 狭い店のなかにはいつものスーパーマーケットには置いていない、見慣れない安価な菓子類がぎっしりと並べられていて、店の雰囲気とはまったくそぐわないダンスミュージックをBGMとして聴きながら、それらのカラフルなパッケージをしばらく眺めていた。この街の名物だという札が貼られていた炭酸飲料を購入して、店の外に設置されていたベンチに座ってプルタブのふたを開ける。
「ハイラム」という名前らしい透明な飲み物の、ほどよい甘さと微炭酸の爽やかな喉越しは悪くなかった。心地よい風が吹いて、店の入口に吊るされていた風鈴が鳴り、その横にあった「氷」と書かれた小さな旗が陽の光を浴びて虹色に輝きながらはためいた。飛ばされないように帽子を軽く抑えながら空を見ると、先ほどまで姿のなかった厚い黒雲が少しずつ広がりはじめていた。
 雨が降る前に図書館に到着したいと思ったけれど、間に合わず、途中から降りはじめた雨は次第に強さを増していった。
 傘と地面をパラパラと叩く雨音を聞きながら、滑らないようにゆっくりと歩みを進めていき、ようやく図書館に到着したところで、その大きな建物の外観を楽しむ余裕もなく、そのまま入口の自動ドアを抜けて館内に入った。
 受付でパーソナル・パスの提示を求められて、先日更新したばかりの市民IDを読み取ってもらう。ロッカーに荷物を預けて、携帯通信端末だけを上着のポケットに入れて入館ゲートを抜けると、正面に大きな案内板があった。その前に立ってしばらく見上げながら、とりあえず先ほど喫茶店で読んでいた雑誌の続きを読もうと考えてマガジン・コーナーへ向かうことにする。
 ふと入口のほうへ視線を向けると、ちょうど自動ドアが開いて、私と同じ学校の制服を着た少女が頭に大きなスポーツタオルを乗せた格好で駆け込んでくるのが見えた。どうやら雨宿りのために図書館に立ち寄ったらしい彼女が、タオルで肩や鞄を拭いている様子をしばらく眺めていると、顔を上げた彼女と目が合ってしまい、私は気まずくなって視線をそらして歩きだした。
 大量に並べられている雑誌のバックナンバーのなかから、ネイビー・スフィアやアカシック・チャイルドを特集していると思しきものを数冊選び取ってから閲覧室に入ると、先ほど入口で見かけた彼女が、端っこの席に座って携帯通信端末を操作しているのが見えた。
 休日の午後の図書館はそれなりに混んでいて、空いている席を見つけて座ると、偶然にもテーブルを一つ挟んで彼女の正面になってしまう。
 こちらに気がついていないらしい彼女の様子をこっそりと眺める。すっと背筋を伸ばして座っているきれいな佇まい、端末のディスプレイに触れる指先の繊細な動き、前髪をそっとかき上げる仕草、ときどきもらすため息と、何かを考え込んでいるような大人びた表情に、どこかで見覚えがあるような懐かしさを覚えたけれど、私のこれまでの記憶のなかに彼女の存在を見つけることはできなかった。
 とつぜん、何かに驚いた様子で視線を上げた彼女は、その瞳をまっすぐに私のほうへと向けてきて、そのまま目が合ってしまう。先に目をそらしたのは彼女のほうで、ディスプレイを確認するように一度視線を落とし、それからすぐに再び私を見つめてきた。
 近い距離からまっすぐに見つめた彼女の顔を、やはり私は以前どこかで見かけたことがあるような気がした。しかしそれがいつどこだったのかは思い出せない。そんな曖昧な記憶が、思考の片隅からもれ出してくるような不思議な感覚がした。
 ACは特別な記憶を持った存在である、というイチカの言葉が脳裏をよぎり、次の瞬間、空に浮かぶ青い星と同じ、濃紺色に覆われた世界が目の前に広がっていくような幻覚が、まぶたの裏側に映り込んできた。
 その刹那、左の目の奥に鈍い痛みが走った。思わず強く目元をしかめてしまい、それからゆっくりと力を緩めていって、恐るおそる開いてみる。特に違和感もなく、すでに痛みもなくなっている。
 いったい今の痛みが何だったのか、原因がわからず怖かったけれど、ゆっくりと目をつむったり視線を動かしたりしてみても、特に何かが変わった様子は感じられなかった。
 正面に座ってこちらを見つめていたはずの彼女は、いつの間にか席を立って閲覧室を出ていこうと歩きだしていた。窓の外を見ると、すでに雨はやんでいて、厚い雲には晴れ間がのぞきはじめていた。
 閲覧室を出る直前、彼女が一瞬振り返ってこちらを見たような気がしたけれど、そのまま戻ってくる様子もなく、私のほうにも彼女を追いかけていく理由は見つけられなかった。
 持ってきた雑誌のページを適当にめくっていくが何一つ頭に入ってこない。ポケットから携帯通信端末を取り出して、何となく時空間グラスのアプリケーションを起動させて、先ほどまで彼女が座っていた席に向けてかざしてみると、一瞬そこにイチカによく似た小さな女の子の姿が映った、ような気がしたけれど、ディスプレイをよく見てみるまでもなく、その場所は空席のままだった。
 そんな錯覚を見たせいなのか、私はイチカに会いたくなって、帰りに喫茶店に寄っていこうかと思ったけれど、図書館を囲むように広がっている記念公園を散歩しているうちに、「早く帰れそうだから、どこかで食事しよう」とお母さんから連絡があり、その誘いを優先させることにして待合せ場所の駅前のロータリーへ向かった。
 まだ職場を移ったばかりで、すこし時間的に余裕があるらしい。お母さんと外食するなんて、いつ以来のことだろうかと思い出そうとしてみたけれど、そのときはまだお父さんもいて、私の誕生日に三人でフレンチを食べたような、そんな情景がぼんやりと浮かんできた。
 歩きながら先ほど痛んだ左目のあたりを軽くマッサージするようにさすってみたが、違和感はなかった。しばらくしてまた痛みが出るようなら、早めに病院に行って診てもらったほうがいいかもしれない、などと思いながら暮れはじめてきた空を見上げると、青い星が二つに重なるようにぶれて浮かんでいるのが見えた。

 

  3.出会い、再開、新しい友だち

 初登校で緊張していたせいか、いつもより早く目が覚めてしまい、昨日シミュレーションしておいた通りに制服を着こなして余裕を持って家を出たまではよかったのだけれど、さすがに余裕を持ちすぎてしまったらしく、学校の前に到着したときにはまだ正門が閉められていた。正門の横の小さな通用門は使えるようだったけれど、校内の様子をよく知らないので、勝手に入ったところで行くあてもない。校門脇の壁に寄りかかって携帯通信端末の音楽プレイヤーアプリを起動させて、お気に入りのピアノ・ソロアルバムを再生させる。端末のディスプレイにはピアノを弾く少年と、その横に座って演奏を聴いている少女のイラストが描かれたジャケットの画像が表示されている。優しくて静かな、一人きりの朝に最適の旋律。盲目の若き天才ピアニスト、ピース・カーターのセカンド「for Cynthia」。
 シンシアというのは彼の妹の名前で、このアルバムは脚の不自由だった彼女を退屈させないために子どもの頃のピースが弾いて聴かせていた曲をアレンジしたものらしい。
 まだ小さかった頃に、一度だけ彼のコンサートに連れて行ってもらったことがあった。そのときに購入した同じアルバムのレコード盤は、いまはお父さんのところにあって、私の音楽プレイヤーに入っているのは、リマスターされて再販されたCDから取り込んだデジタル音源だ。
 こんなふうに静かな朝、街のなかに一人佇んで、何を見るでもなく目の前の景色をぼんやりと眺めながらこの曲を聴いていると、自分が音のなかに溶けていって、街の呼吸と一つになってしまい、何もかもすべてがどうでもよくなってしまうような、そんな気分になってくる。
 少し前まで通っていた学校とはまったく雰囲気の異なる正門と、その向こう側に見える校舎。ほんの数日前と、私自身は何も変わっていないはずなのに、どうして自分はとつぜんこんな場所に来てしまったのだろう、というおかしな感覚にとらわれてしまう。
 一年と二か月ほどを過ごした以前の居場所には、友だちもいたし、建物にだってそれなりに愛着もあったけれど、今回が初めての転校というわけでもなかったし、こちらに来てすぐにイチカと知り合うこともできた。今日、これから少しすれば数日ぶりに彼女と再会することになるのだと思うと、嬉しかった。
 優しいピアノのメロディを聴きながら、私が壁にもたれてぼんやりしていると、目の前に赤い自転車が停まった。サドルから伸びた脚は黒のタイツに覆われていて、その先の黒いローファーは丁寧に手入れをされて艶やかに輝いて見えた。
 顔を上げて視線が合うと同時に「あ」という声がお互いの口からもれる。
「昨日の、図書館の……」そう呟いた彼女の声が、イヤフォン越しに小さく聞こえた。ピアノの音色と重なったその声が懐かしくて、私は慌ててイヤフォンを外して「あの……」と言いかけて、それに続く言葉がみつからずに黙ってしまう。
「同じ学校だったんだ」と言った彼女は続けて「おはよう」と微笑んだ。その言葉にのって私も「おはようございます」と笑顔を作って返す。その瞬間に、途切れていた何かがつながって、再び流れはじめたような感覚があった。
「裏門から入れるよ」と言った彼女は自転車を降りて押しながら、「慈空館女子高等学院」と記された金属プレートの埋め込まれている壁に沿って歩きはじめた。私が彼女の少し後について歩きだすと、「どうしたの?」と振り返って「話しながら行こうよ」と言ってくれたので、慌てて隣に並ぶ。
「転校生?」
「はい。そうです」
「やっぱり、そうだよね。見かけたことないなって」と言ってから、彼女は、ふふっ、と思い出し笑いをして「あの、もし気に障ったら……ごめんね」と先に断りを入れてから、「昨日、図書館で見かけたときは、中学生くらいかなって、思ってた」と白状して、もう一度「ごめんね」と謝った。
「いえ、あの、慣れてますから……」と私が正直に応えると「でも、そういうことって慣れれば気にならない、っていうものでもないのかなって」と彼女は柔らかい微笑を浮かべた。
 彼女には、どこか育ちの良いお嬢さんといった雰囲気があった。何となく、人が良すぎて他人に振り回されたり面倒なことに巻き込まれて苦労しそうだな、と思ったけれど、そんな第一印象については口にせずに黙っていた。
 何年生? と訊かれて私が二年と答えると、彼女は少し驚いた様子で「同い年」と呟いて、再び「ごめんね」と謝った。
 裏門から校内に入り、彼女が駐輪場に自転車を停めるのを待って、そのまま彼女について一緒に裏庭のほうへと向かう。彼女は緑化委員という委員会に所属しており、今週は裏庭にある植物園の水やり当番のために、早めに登校しているということだった。
 植物園に到着すると、柵の向こう側から「ミナモ、遅いよー。早く手伝ってー」と呼びかけてくる声が聞こえてきて、それに応じるように彼女は「ごめん、すぐ行くー」と大きな声で返した。
 さっきから彼女、謝ってばかりいるな、と思うと何だかおかしくて、私が小さく笑うと、彼女は振り向いて「どうかした?」と訊いてきた。
「いえ、あの、よかったら私も手伝います」と申し出ると「うん、ありがとう」と彼女は肯いて、私の手を取って「それじゃ、お願いします」と笑った。二人で柵のなかへ入っていくと、「ミナモ、おはよー。ってあれ? その子は?」と先に来てホースで水を撒いていた少女が私の顔を見つめて言った。
「クシナ、おはよ」と短く言って、それから「こちらは、昨日知り合った……えっと、転校生の……」と言葉に詰まった彼女の様子に、お互い自己紹介がまだだったことに思い至り、私は彼女の言葉を継ぐように「スナシロ・シタルといいます」と軽く会釈をした。
「シタル?」と呟いて、一瞬、私の名前に驚いたような表情を浮かべてから、彼女は「こちら、スナシロさん」と私を紹介し、それから「わたしはクモキリ・ミナモっていいます。よろしくね」と改めて自己紹介をしてくれた。目の前で自己紹介をし合う二人の様子を眺めていた少女は「何この流れ?」と疑問を呟きつつも、「えっと、いちおう私も自己紹介したほうが、いいのかな」と言って、こうしてクシナさんとも知り合うことになった。
 ミナモさんと私が並んで作業をしている様子を見て「ミナモ……相変わらずモテモテだね」とクシナさんはからかうように言って「あんまり手を広げてると、サヤちゃんに怒られるんじゃない?」と笑った。
「クシナ、変なこと言わないでよ」とすこし怒ったような口調でミナモさんが応じたのに「おっと、天然を怒らせると後が怖いからなー」とクシナさんはふざけた調子で返して「ちょっと」とにじり寄るミナモさんから「いやー、カドワカされるー」と笑いながら逃げていく。そんな二人のやり取りを私は笑って見守っていた。
 水やりを終えて、校舎に戻る途中に設置されていた自動販売機で「今日は私のおごりだよー」というクシナさんにペットボトルのアップルジュースをご馳走になる。「私には?」というミナモさんに対して、クシナさんが「自分で買えば」とわざと冷たく言うと「なんだよー、クシナのけち」とぼやきながら、ミナモさんは自販機のボタンを押す。
 すると派手なメロディが流れてアップルジュースが二本出てくる。「クシナ、ほら、当たったよ」と嬉しそうに両手にジュースを握ったミナモさんは、その直後に「これ、どうしよう?」と持て余した様子で左手に持ったペットボトルを見つめた。
「ミナモ、りんごジュース、好きじゃん」とクシナさんは笑い、「スナシロさん、行こう」と言って私の手を引いて歩きだす。水やり当番のために植物園の奥にある温室の鍵を借りてきたので、それを職員室に返しに行くということで、クシナさんは私を職員室まで案内してくれた。
 職員室に入ると、転校手続きの際にお世話になったミュセル・リインバーグ先生がこちらに気がついて「おはようございます」と声をかけてきてくれた。
「あれ、もしかしてうちのクラス?」と横にいたクシナさんは私の顔を見つめて「そっか、それじゃ改めて、よろしくね、スナシロさん」と言って軽く私の肩を叩き「先に教室に行ってるね」と職員室を出ていった。
 先生のあとに続いて教室に入ると、それまで騒がしかった室内が一瞬静まり返り、それからざわめきに満たされていった。容姿に特徴があるせいで、はじめての挨拶の際にはいつもこんなふうに騒がれてしまう。何度体験しても慣れない雰囲気にのまれないように、私は小さく深呼吸をして気持ちを整える。
 名前を名乗り、前に通っていた学校名を口にすると、再びざわめきが起こる。大都会の、それも超名門の私立校。そんなところから二年目の六月下旬という中途半端な時期に転校してきた外国人(風)の少女。たしかに話題性はあるかもしれない。
 いくつもの視線がこちらに向けられているなか、教室を見渡してみると窓際の一番後ろの席で一人だけうつむいて何か本を読んでいるらしい人がいて、よく見るとそれは、イチカだった。私がイチカのほうを見つめていると、クラスメイトたちも視線の先をそちらに向けた。
 静まり返った教室、ふいに向けられたいくつもの視線にはさすがに気がついたらしく、イチカは顔を上げて、教室を一望し「どうしたの?」と誰にともなく訪ねるように呟いて、それから私の存在に気がついて「あれ、シタル?」ととぼけた調子で言った。
 制服を着ているイチカは、最初に会ったときとはずいぶん印象が違って見えたけれど「同じクラスになれたんだ」と微笑んで「よろしくね」と軽く言ったその調子には変わりがなかった。
 向かって廊下側、左の列の後ろのほうではクシナさんが小さく手を振っていて、窓際の一番前の席では、ミナモさんが微笑んでいるのが見えた。私は中央の列の一番後ろの席に座ることになって、両隣のクラスメイトに小声で「よろしくお願いします」と挨拶をしてから、鞄の荷物を机のなかに移した。
 休み時間になると同時に、私は机の周りを取り囲まれて身動きが取れなくなってしまう。こういうことって、高校生になっても変わらないんだな、と思いながら、クラスメイトから投げかけられる質問に順番に答えていく。
 髪の毛、地毛? ハーフなの? 彼氏いる? とか何とか。一つひとつに肯きながら、ときどき「うん……あ、いないよ」と訂正したりもする。答えながら、横目でイチカの様子を伺ってみると、一時限目の途中から机に突っ伏して眠ったまま。教室の前のほうではミナモさんが心配そうに、クシナさんが笑いながら、こちらを見て何か話していた。
 そんなふうに午前中をやり過ごして、ようやく昼休みになると、私の席が囲まれる前にミナモさんとクシナさんが近づいてきて「お昼、一緒に食べよ」と誘ってくれた。肯いて鞄からお弁当を取り出そうとした私の後ろを、先ほどまでずっと眠っていたはずのイチカが通り過ぎようとして、ミナモさんに呼び止められる。
「イチカも一緒にどう?」
 立ち止まったイチカは、すこし考えてから「うん、それじゃ屋上?」とだけ言って、教室を出ていった。クシナさんの話によるとイチカは購買にパンを買いに行ったらしくて、「先に行って場所取らなきゃ」というミナモさんの後に続いて、私たちは屋上へ向かった。
 先ほどからやけに大きなお弁当だな、と思って見ていた袋の中から、ミナモさんは小さなレジャーシートを取り出して広げ、眺めの良いフェンス際の場所を確保した。すでにいくつかのグループが同じようにシートを広げてくつろいでおり、慣れた様子でシートの上に座るクシナさんにならって、私も上履きを脱いで座る。
「いい天気だね」と立ったまま空を見上げていたミナモさんの足元から腰のライン、日差しを遮るように片手を上げている、脇から二の腕、首筋、小さな顔の輪郭を視線でなぞって、それから私も空を見上げる。姿勢がいいせいなのか、陽射しを背にしたミナモさんのシルエットはとてもきれいだ。
 太陽の眩しさに目を細めると、青い星がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。
 正座をするように膝をそろえてシートに座るミナモさんの仕草がきれいで、私は一瞬その動きに見とれてしまう。何気なくシートの横に並んでいる三人の上履きを確認すると、ミナモさんのものはしっかりとかかとをそろえて並べられていた。
 半袖のブラウスの第二ボタンまで外しているクシナさんは、長袖にカーディガンを羽織っている私や、同じく長袖のブラウスに黒いタイツを履いているミナモさんをまじまじと眺めて「あのさ、暑くない?」と確認するように言った。
 ブラウスを着崩して、スカートも短くしているクシナさんの格好は涼しげで、健康的な奔放さがあった。ミナモさんは第一印象そのまま、楚々としたお嬢さんという感じ。そして、無事にパンを確保したらしく「おまたせ」と言いながらこちらに向かって歩いてくるイチカは、規定通りの飾らない着こなしのはずなのに、スタイルの良さのせいでとても格好よく見えた。制服姿のイチカに憧れて、自分も同じ制服を着たいと思ってここに入学する子がいてもおかしくないな、と思う。
 手を合わせて「いただきます」と言っているミナモさんの横で、イチカは既に焼きそばパンを頬張っていて、クシナさんはダイエット中だと言って野菜と果物中心のカラフルなお弁当を広げていた。
「夏になるまでにやせないと、ミナモ、来月新しい水着買いに行くよ」とプチトマトのへたを指先でつまみながら言ったクシナさんの言葉を「うん、そうだね」と曖昧な返事でかわしながら、ミナモさんは里芋の煮つけを箸でつかむ。器用に箸を使うミナモさんの手元に見とれながら、私も自作のシンプルなお弁当を食べる。
「スナシロさん、お弁当少なくない?」と言うクシナさんに「うーん……子どものころから少食だから」と答えると「うらやましい」と本気で羨ましそうに言われてしまう。すでにパンを二つ食べ終えたイチカは「お腹いっぱいで眠くなってきた」と小さなあくびをして、笑った。
「イチカ、ずっと寝てたじゃん」というクシナさんからの突っ込みに「そうだっけ?」とイチカはとぼけて、「ミナモ、あとでノート写させて」と言った。ミナモさんのノートはとてもよくまとめられていて、字もきれいで読みやすいと評判で、テスト前になるとコピーが出回るらしいのだけれど、結果、ミナモさん本人よりもノートを借りた人たちのほうがテストで良い点を取ることも多いのだと言って、クシナさんは笑い、ミナモさんは少し困ったような表情で苦笑した。
「イチカも海、行く?」とクシナさんに訊ねられて「うーん、でもお金ないしなぁ」とイチカは考え込む。クシナさんはイチカの答えを待たずに「スナシロさんは?」と私にも訊いてきたので「あの、私、肌が弱くて、あまり強い陽射しを浴びたりできなくて」と正直に答えると「なんだー、ミナモと二人かよー」と不満そうだった。
「ユメルとシマハラも誘おうよ」というミナモさんの提案に「でも、あいつら彼氏いるしなー」とクシナさんはぼやき、「え? ユメル、彼氏できたの?」とミナモさんが反応する。「なんか、先週から付き合ってるらしいよ」「例のN高の?」「うん、先週試合の応援に行って、告ったんだって」と投げやりに言ってクシナさんはため息をついた。
「サヤちゃん、誘ってあげれば? 喜ぶよ」と、フェンスにもたれかかって目を閉じていたイチカが言うと「それだと一人で行くのとか変わらないじゃん」とクシナさんは苦笑した。
「ま、とりあえず、放課後、ユメルに事情聴取かなー」というクシナさんに「うん、そうだね」とミナモさんは笑顔で肯く。その笑顔が何となく怖い。「じゃ、ミューサイトでいっか。二人にメールしとく」と携帯通信端末を操作しながら「イチカはどうする?」とクシナさんは呟く。
「ごめん、バイト」
「おっけー。スナシロさんも一緒に行こうよ。二人にも紹介したいし」
 ミューサイトというのは、数年前に隣街にできた総合アミューズメント施設の名称で、大型のショッピングモールに隣接していることもあって、放課後の遊び場になっているのだとミナモさんは教えてくれて「もしよかったらと」と微笑んだ。
 それからしばらく会話が途切れて、食事を終えたミナモさんは携帯端末を取り出して操作しはじめて、眠いと言っていたイチカは目を閉じてフェンスに寄りかかっていた。ミナモさんは端末のカメラを屋上の向こう側や校庭のほうに向けたりして、何かを見ている様子で「時空間グラス?」というクシナさんの質問に「うん」と肯いて、「何か見える?」と目を閉じたまま言ったイチカに「うんん、何も」と答えた。
 時空間グラスで周囲の景色を一望し終えて、ミナモさんは最後に私のほうにカメラを向けて「やっぱり何も映らないか」とすこし残念そうに言った。
「そんなの所詮おもちゃでしょ。それよりさ、写真撮ろう」とクシナさんが提案するとミナモさんも「うん、スナシロさんの転入記念」と端末のカメラを起動させる。それから二人は私を挟むようにして身体を寄せてきて「イチカも、早く」と呼びかける。
 少し面倒くさそうに身体を起こし、シートの上を四つん這いで移動してイチカも私の後ろ側に入って、四人で写真に納まった。「見せて」とミナモさんの端末の画面をのぞき込んだクシナさんが「やばい、スナシロさん、可愛すぎ。顔小っさ」と言うと「お人形さんみたいだね」とミナモさんも笑う。イチカはチラッと画面に視線を向けてあくびをし、再びフェンスに寄りかかって目を閉じる。
「スナシロさん、写真送るから、PA(パーソナル・アドレス)、教えてもらってもいい?」とミナモさんに言われて、私が端末を取り出すと、「あ、私も教えて」とクシナさんも言って、三人でPAを交換する。
 私たちがそんなやり取りをしていると「っていうか、シタル……」とフェンスから背中を離して立ち上がったイチカは私のことを見下ろして「食べるの、遅いね」と笑い「先に戻ってるね」と軽く手を振って歩きだした。
 携帯端末で時間を確認するとあと七分ほどで次の授業が始まる時間だった。みんな、私の食べるペースに合わせてあまり時間を気にしていなかったようだけれど、前の学校でも同じことを言われていて、いつも学食から友達と走って教室に戻っていたのだ。
 私は残りのお弁当を慌てて平らげて、「そろそろ片付けないと」というミナモさんを手伝ってシートをたたんだ。
「二人とも、チャイム鳴っちゃうよ」と急かすクシナさんの後を追ってミナモさんが駆け出し、私もそのあとに続く。すでに屋上には私たちしかいなかった。閉まりかけた屋上のドアの隙間から見上げた空には、まだぼんやりと青い星が浮かんでいた。
 予鈴の響く校舎のなか、私は新しい教室に向かって走っていく。

 

  4.星空、手紙、ビールの味

 引っ越しから二週間もすると、私とお母さんの生活のリズムはすれ違いながらもお互いに安定していった。私が眠っている間にお母さんが帰ってきて、お母さんが眠っている間に私が出かける。週に何日かは、私が目を覚ますとお母さんがまだ起きていて、「おはよう」と言葉を交わして、行ってきますのハグをしてくれることもあった。
 以前よりも仕事が忙しい、というよりも研究生活が充実しているらしくて、本当は家に帰らずに職場に泊まり込んで研究を続けたいんだろうな、とわかっているけれど、私のために毎日ちゃんと帰ってきてくれるということが嬉しくて、別に一人でも平気だよ、とは言いだせない。
 夜、家で一人きりで食事をするのもつまらなくて、私はイチカのバイトがある日には喫茶店で夕食をとるようになったし、放課後は転校初日にできた友だち、ミナモとクシナ、それにユメルちゃんやシマハラさんたちと毎日のように遊んですごしているので、寂しくもない。
 ユメルちゃんに彼氏ができたという事実を確認したクシナは、「まさかユメルに遅れを取るとは……」とうなだれて、すぐにそのショックから立ち直ると「出会いを求めて」飲食店でアルバイトを始めた。イチカ曰く「バイト先に出会いなんてない」ということだったけれど、たしかにあの喫茶店では心ときめくような出会いは期待できないかもしれない。
 それでも私はお店で初めてイチカを見かけたときに、どこか惹きつけられ、懐かしさを覚えたのも事実で、だから恋愛とはまた違った「特別な出会い」というのは、住宅街の片隅の小さな喫茶店のなかにもあるのかもしれなかった。
 まだみんなと付き合いはじめてからそれほど経っていなかったけれど、何となくグループの関係性みたいなものはわかりはじめていて、初日に一緒にお昼を食べてくれたイチカは、学校ではどちらかというと一匹狼タイプで、ふだんは昼食をさっさと済ませて図書室で本を読んですごすことが多いようだった。
 グループの中心、というよりもみんなを遊びに誘ったり、何かを思いついて言い出すのはクシナで、去年クシナと同じクラスだったというシマハラさんがそれに乗っかって、どこか気まぐれなところのあるユメルちゃんがついて来たり、来なかったり。三人は部活動には所属しておらず、放課後はたいてい一緒に遊んでいた。
 ミナモは、習い事があると言ってときどき抜けることもあったけれど、頼まれると断れないタイプらしくて、クシナにどうしてもと言われて、習い事を休んで水着を買いに行くのに付き合ったり、私がグループに早く馴染めるように声をかけてくれたりして、お人好しで面倒見のいいお姉さん、という印象は変わらない。
 そんなふうに私をサポートしてくれるミナモを「あいかわらず、誑しだよねー」とクシナは笑う。観察していると、ミナモは私だけでなく、イチカにも積極的に声をかけていて、一人で過ごしていることが多く、放課後もさっさと帰ろうとするイチカも、ときどきミナモに誘われて遊びに加わることがあった。
 学校ではいつも眠たそうにしていてテンションの低いイチカだったけれど、放課後やバイト中はよく笑い、積極的に動き回っているような印象で、そのギャップが魅力的で、それでいて可笑しくて、理由を聞いてみると「じっと座って話を聞いているのが苦手」なのだと教えてくれた。
 集まって、ウィンドウショッピングをしたり、ファストフード店や喫茶店でお喋りをしたり、カラオケで歌ったり、ただそんなふうに遊び回っているだけ。たとえばここ数日は、学期末の試験が終わって返却されてくるテストの点数に一喜一憂するような、ただそれだけのことが、とても楽しかった。
 みんなと別れて一人になって、誰もいない暗い部屋に戻る。その静けさが何となく苦手で、もしかしたら今日はお母さんが早く帰ってくるかもしれないと、微かに期待してしまう。本当は、もうそんなふうに母親に焦がれるような年頃ではないのかもしれないけれど、幼い頃から仕事の忙しいお母さんの帰りを待ち続けていて、とりわけ二人きりで暮らすようになってからは家で一人でいる時間が長くなって、私は未だにそんな思いを引きずっていた。
 とつぜん、携帯通信端末がメッセージの着信を知らせて、私は何かを期待するような少し高揚した気持ちでそれを確認する。
「土曜、暇?」
 それはとても珍しいイチカからのグループメッセージだった。週末はすでに夏休みに入っていて、とくに予定もなかったので、「空いてるよ」と私が返信しようとする間に、みんなからも次々にレスポンスがあって、クシナはバイト、シマハラさんは両親と旅行、ユメルちゃんはデートということだった。
 私の返信に少し遅れて、ミナモからも「空いてます」と返事があって、みんなの回答がそろったところで「それじゃ、来られる人は夕方六時に、駅前に集合。みんなで流星を見に行こう」とイチカからのメッセージが入った。
 今週末の土曜日は七月二十一日。夏休みの最初の一日。ネイビー・スフィアから流星が降り注ぐ日。そしてイチカの誕生日。
 ここ数日はテレビやネットワーク上のニュースでも今回の流星や、十七年前の謎の青い天体についての話題が多く取り上げられており、イチカのメッセージのなかの「流星」というキーワードに反応して、クシナは「えー、私も行きたいんだけど!」と憤り、シマハラさんは「もしかしたら旅館から見られるかも」と呟いて、ユメルちゃんは彼氏と見るのだろうな、などと考えながら、クシナはバイトが忙しくて見られないかもしれない、とも思う。
 私が「楽しみ!」とメッセージを送ると、すこし遅れて「私も見たいと思ってたんだ」とミナモも笑顔のマーク付きでコメントを送ってきた。
 しばらくすると当日の持ち物リストなるものがイチカから送られてきて、そこに書かれていた道具を確認していくとかなり本格的な観測を予定しているらしく「どこに行くの?」と訊いてみると、イチカは「山の天文台のあたりまで行ってみようと思ってるんだけど」との答えがあった。
 私はベランダに出て、左手側に街を取り囲む影のように広がっている夜の山並みを眺める。連なった山々のちょうど中央、頂上付近にある天文台の灯りが小さく見えて、イチカが言っているのはあの辺りだろうかと想像する。あそこまで登っていくのはかなり大変そうだけれど、と考えていると「大丈夫、ちゃんと足は用意してあるから」と私の思考を読んだようにイチカから補足が入る。
 山から視線を外して、夜空を見上げてみると、白い半月のすぐ横に、ネイビー・スフィアがまるでもう一つの月のように青く光っている。流星の日が近づいているせいなのか、ここ数日、青い星の輪郭はより鮮明になっていた。
 都会の夜空とは違い、空には無数の星が散らばって見えていて、その一つひとつを結んでいくと、物語を持った星座の形が現れてくる、はずなのだけれど、私にはどれをつなげば星座に見えるのか、一つもわからない。たしかに子どものころに理科の授業で習ったはずなのだけれど、星座に関する知識は何も思い出せなかった。
 携帯通信端末で星空ナビゲーション用のアプリケーションを起動させて夜空にかざしてみると、液晶ディスプレイ上に表示された星々が線で結ばれていって、その形に指先で触れると、星座名と短い解説文がポップアップで表示された。解説文の横にあった音符マークのボタンを押してみると、その星座に関するエピソードが音声で読み上げられていく。
 以前暮らしていた場所では、高層ビルの電灯のせいで夜の空が明るすぎて、アプリが星座をうまく認識してくれなかったけれど、この街では快適に利用できるのだということがわかって、土曜日までにいくつか星座を覚えておこうという気になった。
 夏の大六角形。《マヨール》-《アアプ》-《クラアプ》-《ヴェフト》-《チフ》-《グルヴェム》、初めて聞くような、どこかで聞いたことがあるような名前の明るい星を結んでできる大きな六角形。そのちょうど中央に、ネイビー・スフィアが見えている。
 記憶しておくために、呪文のように六つの星の名前を繰り返し唱えながら、私はアプリを停止させて、今度は時空間グラスを起動して空にかざしてみる。すると左目の奥が鈍く痛み、青いはずの星が、一瞬だけ不気味な深紅色に染まって見えた。
 リン、リン、リン、と小さな鈴の音が聞こえたような気がして、左目を軽く押さえながら振り向くと、珍しく早い時間に帰ってきたお母さんが、酔っぱらって玄関に倒れこんでいる姿が見えた。
「たらいまー」と呂律のまわっていないお母さんの言葉に「おかえり、今日早いね」と声をかけながら「そんなところで寝ると風邪ひいちゃうよ」と言って身体を支えて立ち上がるのを手伝って、リビングまで連れていく。
 ソファに向かって倒れこむように身体を傾けたお母さんの勢いに巻き込まれて、私も一緒に倒れてしまい「ちょっと、危ないから」と声を張ると、「したるー」と妙な笑い声をあげながら抱きついてきて、お酒臭い吐息に顔をそらす。
 アルコールのにおいは苦手、頭が痛くなる。
 お酒を飲んで気分を高揚させているときは、何か嫌なことがあったか、溜まっていたストレスを発散させてきた日。お父さんと喧嘩した夜、お母さんはいつも酔っぱらって私をつかまえて「したるぅ、あそぼーよ」と言って延々と対戦型パズルゲームに付き合わされていた。そのとき、お母さんのすぐ横に置かれていた六角底のグラスのことを不意に思い出して、そういえばあのグラスはどこに行ったのだろうかと考えてみるが、引っ越しの荷物のなかにはなかったはずで、どこかに紛れてなくなってしまったのかもしれなかった。
 すぐに眠ってしまったお母さんをソファに仰向けに寝かせる。薄手のジャケットがしわにならないように脱がせようとすると、お母さんは無意識に身体を動かして脱がせやすい体勢になってくれる。それでもすでに背中のところに薄いしわが入ってしまっていて、後でアイロンをかけておこうと思いジャケットをハンガーにかけて吊るしておいて、お母さんにタオルケットをかける。
 開けたままになっていた部屋のベランダの窓を閉めようとして空を見上げると、赤く見えた星は、やはりいつも通り、青かった。恐るおそる、もう一度時空間グラスを起動させて空にかざしてみる。しかし、目の痛みはなく、星の色も青いままだった。
 とつぜん画面が切り替わって、ディスプレイにミナモからのメッセージ着信を告げる表示が現れた。
「シタル、起きてる?」
「うん」
「明日の放課後、買い物に行かない?」
「いいよ」
 イチカからの持ち物リストをチェックしたミナモは、不足分の道具を買いに行こうと提案してくれて、私もメッセージのやり取りをしながらリストをチェックしていくと、いくつか用意しておかなければならないものもあった。
 やり取りを終えてリビングに戻ると、お母さんは目を覚ましていて、気分良さそうな笑顔を浮かべながら瓶ビールを一本開けて、グラスに注いで飲んでいた。
「お母さん、もうやめときなよ」
「いいじゃーん、シタルものもーよ」
「私、未成年だし」
「だいじょーぶ、どうせすぐ大人になるんだから」
「まだ三年もあるよ」
「三年なんて、あっという間。だって、あんなに小さかったシタルが、もうこんなに大きくなってるんだから」
 この家のなかでは、あなたの考える年齢という概念は意味を持ちませーん、などと酔っぱらっているくせに難しいことを言いながら、お母さんは予め二つ用意してあったグラスの、空いているほうにほんの少しだけビールを注いだ。注ぎ方が雑で、泡ばかりのビール。そのグラスを差し出されて、どうせ断っても「私の注いだ酒が飲めないのかー」とか何とか言って無理やり飲まされることになりそうだったので、私はグラスを受け取ってほんの少しだけ白い泡に口をつけた。
 苦い。私の好きなコーヒーのものとは違う、薄くて、すこしぴりぴりとした、苦味。私にはまだ、その味の魅力がわからなくて、美味しそうにビールを飲んでいるお母さんの姿が不思議だった。
 次の日、学校に行くと、珍しく早くに登校してきたイチカは、ネイビー・スフィアに関する雑誌の特集記事の切り抜きのコピーや「はじめての天体観測」というタイトルの自作の小冊子を私に手渡してきて「予習しといてね」と笑った。学校で、こんなふうに楽しそうに笑うイチカの姿をはじめて見たような気がして、自分まで何だか楽しい気分になってしまったけれど、開いてみた小冊子は意外に本格的だった。
 私より先に冊子を渡されていたミナモが、いつもどおり、きれいに背筋を伸ばした姿勢でさっそく読みはじめているのが見えた。いまどき手書きの文字で書かれている冊子の、イチカの達筆な字が魅力的で、私はその冊子を大切にしようと思い、ページの端を折り曲げてしまわないように慎重にめくっていった。
 放課後の買い物にイチカも誘ってみたけれど「レンズの調整がまだ終わってないから」と言ってさっさと帰ってしまい、彼氏とデートだとユメルちゃんとシマハラさんにも断られて、バイト先に向かうクシナと途中まで一緒に帰り、それからミナモとショッピングモールに向かった。
 はじめに虫よけと雨具をそろえて、すこし大型の懐中電灯を購入する。それから双眼鏡を買いたいというミナモについていくが、高性能なものはやはりそれなりに値が張って、ミナモは機能と価格の折り合いをつけるためにしばらく悩んだ挙句、倍率七倍・口径五〇ミリメートルで天体観測にも最適、という謳い文句のものを買った。
 それから、どちらが言い出したということもなく、二人でイチカの誕生日プレゼントを選ぶことになった。あまり高価なものだと逆にイチカに気を遣わせてしまうかもしれないというミナモの意見を参考に、いつも身に着けていてもれるようなものがいいね、ということになって、けっきょく私が見つけた小さなウミガメのキーホルダーに決まった。甲羅の部分に小さな液晶画面がついていて、タイマーとしても使えるらしい。
「なんでカメなの?」とミナモに聞かれて、何となく間の抜けた愛嬌のある表情が寝起きのイチカに似ているからだと答えると「本当だ」とミナモは笑った。
 買い物を終えて、ショッピングモールのなかのファストフード店で軽食を取る。転校してきてからすでにひと月近く経っていて、すっかりミナモとは打ち解けていたけれど、こうして二人きりで行動するのは転校初日の朝以来のことだった。
「イチカの冊子、読んだ?」とミナモに訊かれて、私はBLTサンドを頬張りながら肯き、オレンジジュースでそれを喉の奥に流し込んで「ちょっとだけ」と答えた。「ああいうのをちゃんと作っちゃうところ、凝り性なイチカらしいよね」とミナモが笑ったのに笑い返しながら、自分はまだ「イチカらしい」という言葉を気軽に使えるほど、イチカについて知らないな、と思う。でも、凝り性、というのは何となくわかる気がした。
 ミナモとイチカは幼馴染で、幼稚園のころからずっと一緒の学校に通っていて、姉妹のような感じなのだとミナモは言った。
「どっちがお姉ちゃん?」
「うーん、イチカは納得しないかもしれないけど、どちらかといえば、私、かな?」とすこし照れくさそうにミナモははにかんで「ほら、イチカって、一人で何でもできるように見えて、熱中すると周りが見えなくなって、どこか危なっかしいというか……」と言う。
 私からすれば、イチカは自立していて、いろいろなことを知っていて、大人たちとも対等に話ができて、しっかり者で大人びて見えるのだけれど、ずっと傍にいたミナモからはそんなふうに見えるのだと思うと、その違いが何だか不思議だった。
 しかし実際のところ、誰だって、どんなものだって、いろいろな面を持っていて、出会い方、触れ合い方によって、いくつもの可能性を見せてくれるものなのだろう。私にとってのイチカと、ミナモにとってのイチカは、同じイチカでも、全然別の在り方をしていて、でも本当はそれが当たり前で……なんて考えを巡らせていると「シタル、何難しい顔してるの」とミナモに笑われてしまった。
 食事を終えてお腹がいっぱいになってしまい、しばらくぼんやりとお互いに携帯通信端末を操作しながら黙っていると、とつぜんミナモは「ねぇ、シタル、聞いたことある?」と言ってお父さんの生まれた国の名前を口にした。
 私が肯いてそのことを言うと、ミナモは何かひどく納得のいったという様子で「ああ」とため息をついた。
 そして、鞄のなかから小さな古い封筒を取り出して「これ、シタルの書いた手紙……だよね?」と言って差し出してきた。ミナモに手渡された白い封筒はずいぶん古くて汚れていて、いくつもスタンプが捺されていた。宛先に書かれている文字は、擦れてしまっていて何と書いてあるのか判読ができなかったけれど、裏側の差出人の署名にはたしかに見覚えがあった。
 見覚えがあった、というよりもそれは私の名前、筆記体で書かれたサインは、間違いなく私の筆跡だった。しかし、この封筒には見覚えがなかったし、誰かに宛ててこんな手紙を書いた記憶もなかった。
「ごめんね」といつものようにミナモは先に謝ってから「中身、開けて見ちゃった」と言った。私は既に開封されていた封筒のなかから一枚の便箋を取り出す。そこに書かれている文章を読むことはできなかったけれど、しかしそれは、自分の書いた字に間違いないという確信があった。
 この手紙をどこで手に入れたのかと訊ねると、三か月ほど前、ちょうど時空間グラスが流行りはじめたころに何気なく鞄のなかをのぞいてみたら、いつの間にか入っていたのだとミナモは教えてくれた。そして、普通に読んでみても読めなかった手紙が、時空間グラスを通してのぞいてみることで読めてしまったのだ、とも言って、内容を書き写したというルーズリーフをくれた。
 ミナモに言われて、私も時空間グラスを手紙にかざしてみたけれど、相変わらず私には手紙の内容は理解できなかった。念のため、書き写した後に辞書で調べながら内容を確認してみたから、とミナモは笑った。それからミナモは「あの……」とすこし躊躇いがちに「シタルって、お母さんと二人で暮らしてるんだよね?」と訊いてきて、私が肯くと「だったら、やっぱりその手紙は、シタルが書いたんじゃないかも」と言った。
 ミナモと別れて、家に戻り、受け取ったルーズリーフの内容を読んでみる。そこには、自分はお母さんのことが苦手だったけれど、この世界から消えてしまう前にもう一度だけ会いたかった。もしも別の世界に生まれ変わることができるとしたら、今度はずっと傍にいてもっとお母さんのことを知りたいし、自分のことを知ってほしいと思う、といったようなことがシンプルな言葉で綴られていた。
 私は今までそんなことを考えたこともなかった。両親が別々に暮らすことになったと知らされたときだって、自分はお母さんと一緒に暮らすことになるのだと確信していた。
 しかし、手紙の文面をぼんやりと眺めているうちに、いつかどこかでこの手紙に書かれているようなことを考えたことがあったかもしれないという、不安な気分になってきた。誰もいない部屋のなかを見渡してみる。しばらくして、玄関のドアを開けて帰ってくるのが、もしかしたらお母さんではなくてお父さんなのではないだろうかという気がしてくる。
 そして「お父さん、お帰り」と言ってそれを受け入れて、二人分のコーヒーを淹れてブラックのまま飲んでいる自分の姿を想像してしまう。そうなっていた可能性だって、いくらでもあったのだ。
 リビングから向かって左側のドアを開けてみると、そこは間違いなくお母さんの部屋で、冷蔵庫を開けてみれば缶ビールが並んでいる。お父さんはビールが苦手だった、はずだ。
 缶ビールを一本取り出して、プルタブを開けて、慎重に傾けながら中身をほんのすこしグラスに注いでみる。泡の加減をうまく整えながら、自分はお母さんよりもビールを注ぐのが上手いかもしれないと思う。
 コップのなかのビールをゆっくりと口のなかへ流し込んでいく。コーヒーの苦味に親しんでいた味覚を融かしていくように、口の中に泡の苦味が広がっていき、コーヒーの苦味を塗りかえていく。
 しばらくすると顔が火照ったように熱くなってきて、頭のなかがぼんやりとしはじめて、私は飲みかけのグラスを脇へどかして、リビングのテーブルに俯せになって目を閉じた。遠くのほうから、玄関のドアが開く音が聞こえてきたけれど、帰ってきたのがお母さんなのかお父さんなのか、わからない。
「ただいまー」という聞き慣れたお母さんの声がして、私は眠ってしまいそうになるのを何とかこらえて、テーブルの上に広げたままになっていた手紙をしまう。
「シタル、何ビールなんて飲んでるの!」と、お母さんはふらつく私を支えてソファまでつれていき、横にしてくれた。重たいまぶたの隙間にぼんやりと浮かんだお母さんの顔を見上げながら、私は「お母さん……」と呟いたけれど、そのあとに続くはずの言葉を口にする前に眠りに落ちてしまった。

 

  5.流星、青色、宙の向こう

 土曜日の午後六時、薄いグリーンの長袖シャツと、滅多に履くことのない紺のジーンズにオレンジ色のスニーカーを履いて、大きなリュックを背負って駅前に着くと、ミナモが同じように大きなリュックを抱えて背もたれのない丸いベンチに腰掛けているのが見えた。
 グレーのフリースジャケットにハーフパンツ、いつもより少し厚手の黒いタイツに脚を包み、大きなトレッキングシューズを履いた本格登山仕様のミナモの姿は、夏の夕暮れどきには妙に暑苦しく見えた。
 私に気がついたミナモはベンチに座ったまま手を振っている。長い髪を後ろで一つに束ねて大きな髪留めでまとめているミナモは、いつもよりすこし大人っぽく見えた。
「おまたせ」
「私も今来たところ」
 ミナモが座っているベンチと同じ一人掛けの丸いベンチに私が腰を下ろすと「暑いね」とミナモは笑った。
 夏とはいっても、夜の山は冷えるから、とイチカに防寒対策を指示されていたので、私は念のためタオルケットをリュックのなかに入れておいたが、三十二度という日中の気温の余韻が、街のなかにはまだ残っていた。
 携帯通信端末を取り出して時刻を確認すると、午後六時をすでに五分ほど過ぎている。
「イチカ、遅いね」とミナモが呟いたのとほぼ同時に、駅前のロータリーに赤いミニバンが停まり、開いた助手席のドアからイチカがこちらへ向かって駆けだしてくるのが見えた。
「ごめん、遅れちゃった」と息を弾ませているイチカに、「私たちも少し前に来たところだよ」と笑いながら、ミナモは立ち上がってリュックを背負った。これから登山に向かうというようなミナモの本格的な服装を見て「何、その格好」と言ってイチカは笑う。私も立ち上がってリュックを背負いながら、実際のところ、ミナモは何時からここで待っていたのだろうかと思う。
 赤いトラックトップにジーンズ、上着と同じ色のスニーカーという格好のイチカは、もう一度じっくりとミナモの格好を見て笑いながら「行こっか」と言って車のほうに向かって歩きだした。
 イチカは赤いミニバンの後部座席のドアを開いて、乗るようにと私とミナモを促してから、自分は助手席に座った。
「メグくん、おまたせ」と運転席に向かってイチカが声をかける。
「これで全員?」「うん」と、目の前で交わされているやり取りを見つめながら、運転席に座っている男の人は誰だろうかと考えてみる。隣に座っているミナモのほうにチラッと視線を向けてみると、目が合ってしまい、お互いに考えていたことは同じようで、二人して小さく首を振って、もう一度前を見る。イチカの彼氏だろうか?
「あ、二人とも、こちら、私の従兄で、アワマツ・メグルくん。いちおう大学生で、私たちより四つ年上だけど、今日は単なる運転手なんで、あんまり気にしなくていいから」
「イチカ、すこしは年長者を敬えよ」と言いながらメグルさんは振り向いて「イチカの従兄のアワマツです。よろしく」と微笑んだ。整った顔立ちに爽やかな笑顔はなかなかの好青年に見えたけれど、赤と黄色のボーダー柄の派手なシャツが、ひどく浮いている。
 私とミナモが軽く会釈すると、イチカが「シタルと、ミナモ」と私たちをごく簡単に紹介して「こんな美少女三人をエスコートできるんだから、有り難く思わないと」とメグルさんをからかうように言って笑った。
「美少女って、自分で言うか普通」とぼやきながら、メグルさんは私とミナモに順番に視線を向ける。ミナモに向けられていた視線のほうが少し長くて、それにイチカも気がついたらしく「ちなみにミナモは、去年のミス慈空館、一年生部門の金賞受賞者で、今年のグランプリ最有力候補」と補足説明を入れる。
「マジか、すげぇ」とメグルさんがまじまじとミナモを見つめると、ミナモは少し恥ずかしそうに俯いて「いえ、別に……そんな」と呟いた。
「ミス、慈空館?」
 初めて聞いた言葉を私が呟くと、イチカがそれについて説明をはじめる。前に向き直って運転をはじめたメグルさんがカーステレオのスイッチを入れると、哀愁漂うブルースハーブの音色が車内に響き渡った。
「もっと明るい曲にしようよ」とイチカが言うと「これが落ち着くんだよ、運転中は」とメグルさんは取り合わずにボリュームを上げた。
 すぐに諦めてミス慈空館について話しはじめたイチカによると、それは秋の学園祭中に催されるイベントの一つで、全校生徒と教員による人気投票のようなもので、各学年から三名が推薦によってノミネートされ、金銀銅の賞を争うというものらしい。
 ミスに選ばれるためにはルックスはもちろんのこと、部活動や委員会活動での実績、普段の生活態度も評価に含まれるとのことで、去年の投票ではミナモは素行点で教員から高い評価を得て金賞を受賞したとのことだった。
「イチカとクシナがふざけて応募したから……」とミナモは謙遜していたけれど、いつもすっと背筋を伸ばしたきれいな佇まいで、誰にでも分け隔てなく優しくふるまうことのできるミナモが人気を集めるというのは納得ができた。
「私も今年はミナモに投票するね」と言うと、イチカに「何言ってるの、今年はシタルも対抗馬として推薦してあげるから」と言われて思わず苦笑してしまう。そんな私の顔を見てミナモは「頑張ってね」と嬉しそうに微笑む。
 しばらくするとカーステレオから聴き慣れたピアノの旋律が流れてきて、「この曲」と思わず呟いてしまい、ミナモに「知ってるの?」と訊かれたので「うん、ピース・カーター」と答えると、黙って運転をしていたメグルさんが「ええと、シタルちゃん? だっけ。好きなの、ピース・カーター」と会話に入ってきた。
「あ、はい。とくにこのセカンド・アルバム」
「いいよね、シンシア」
「聴いていると気持ちが落ち着くんです」
「わかる!」
「わかります?」
「わかる」
 私とメグルさんがそんなふうに意思を疎通させていると、ミナモも「素敵な曲ですね」と短いけれど気持ちのこもった声で言ったので、「今度、CD貸すね」と約束する。
「ありがとう」とミナモが笑うと、「私にも貸して」とイチカも振り向く。
「イチカ、お前、前に聴かせたとき、全然興味ないとか言ってただろ」とメグルさんに言われて、「最近、音楽の趣味の幅が広がったから」とイチカは反論した。
 先ほどからメグルさんとやり取りしているイチカは、学校にいるときとも喫茶店で働いているときとも違っていて、どこか嬉しそうな、はしゃいだ様子が感じられて、ここにもまた私の知らなかったイチカがいるのだと思うと、不思議な気がした。
 いつの間にか車は山のなかの道へと入っていて、夕日に赤く染まった道路をヘッドライトがぼんやりと照らしていた。茜色をした木々の陰、オレンジ色のトンネルの灯りを抜けながら、うねるようなカーブの続く道を登っていく。
 カーブのときの慣性に身を任せて、私はミナモの肩に寄りかかったまま、窓の外の夕陽を眺めていた。いつかこうしてミナモと二人並んで、真っ赤な夕陽が空全体を茜色に染めていく光景を眺めていたことがあるような、懐かしくて、すこし切ないような、曖昧な記憶が頭の片隅に浮かび、消えていった。
 前を走っている車も、おそらく同じところを目指しているんだとイチカは指さして、「いい場所が取れるといいんだけど」とメグルさんを急かすように呟く。そんなイチカの呟きを無視するようにメグルさんは一定の速度を保ちながら丁寧な運転を続けていた。
 広い駐車場のような場所で車が停まると、周囲にも数台の車が停まっていて、少し先の広場にはいくつもシートが広げられているのが見えた。
「運ぶの手伝って」と言いながらトランクから次々に荷物を下ろしていくイチカから望遠鏡のパーツを受け取っていく。三脚、架台、鏡筒、イチカにもらった冊子で予習をしていた私とミナモは、パーツの名称と望遠鏡の組み立て方をすでに知っている。
「ミナモ、悪いんだけど、先に行って場所確保しといて」とイチカに言われて「うん、わかった」とミナモは駆けていった。
 記録用の小さなテーブルと、カメラ用の三脚も出して、メグルさんにも手伝ってもらいながらミナモが確保してくれた場所に荷物を運んでいく。
「九時頃からだっけ?」というミナモの質問に「八時五十三分」と短く答えながら、イチカは望遠鏡を設置していく。三脚の脚を地面にしっかりと差し込んで固定し、架台を組み立てて、鏡筒を取り付けてバランスを調整する。ファインダーをつけて、それから今日のためにイチカがバイト代で手に入れた球状圧縮反転レンズを使用した接眼レンズを取り付けて、全体のバランスを調整すれば完成。
 イチカが望遠鏡を設置している間に、ミナモも撮影用に空に向けられた一眼レフカメラを冊子を見ながら設置していく。私はシートの上に記録テーブルを置いたり、毛布を敷いたり、イチカに言われて道具を手渡したり、細かい作業をすすめていく。
 慌ただしく動き回っている三人を、すこし離れた場所で煙草を吸いながら、メグルさんは眺めていた。
 暗くなった空には、街から見上げたときよりもずっと明るい無数の星が鮮やかに煌めいている。
 イチカは空を見上げながら「どっちだろう」と呟く。ネイビー・スフィアの出現予想時刻まではあと四十分ほど時間があった。「まだ見えないね」と顔を上げているミナモ。そんな姿を見ていると、やっぱり二人にはふだんは見えていないんだ、ということがわかってしまう。
 望遠鏡の角度を調整しておきたいけれど、どこに出現するのか予測ができないと言ってイチカはシートの上を歩き回っており、ミナモは「早く見たいね。流れ星」と言いながら仰向けになって満天の星空を眺めている。
 暗さに目を慣らしておくために赤いセロファンを貼り付けてある懐中電灯の薄暗い灯りで、イチカが落ち着かない様子で歩き回っている影がシートの上に映っている。
「たぶん、あっちじゃないかな」と私は、今までに見たことがないくらい近くに、大きく輝いている青い星を指さす。その方向にイチカとミナモは視線を向けたけれど、たぶん二人には小さな星がいくつも見えるだけ。それでもイチカは私の指さしたほうに望遠鏡を向けて、接眼レンズをのぞき込み「まだ見えないね」と呟いた。
「もうすぐ見えるよ」と、私は携帯通信端末で時間を確認しながら、巨大な青い星をじっと見つめた。イチカはそんな私の言葉を信じてくれたようで、望遠鏡の角度を固定して、空を見上げながら時間が来るのをじっと待っていた。
 八時五十二分。仰向けになったままの格好で、ミナモは嬉しそうにカウントダウンをはじめる。
「十一……二三……三七……四一……五三……」
 瞬間、空の色が反転するように、青く染まった。
「わぁ」というミナモの感嘆、「すげぇ」というメグルさんの呟き、「見えた! 見えたよ」というはしゃいだイチカの声が、聞こえてきた。
「流れ星!」というミナモの声を追い越すように、一つ、二つ、それから雨が降り注ぐように、数えきれないほどの光が、夜空を明るく彩りながら流れ落ちてきた。その向こう側、流星が飛び出してくる輻射点には大きな青い星がはっきりと見えている。
「すごい、すごい」と子どものように嬉しそうにはしゃぐミナモの声に肯きながら、私は声を出すこともできずに、ただ空を見上げていた。
「流星雨……」というイチカの呟きが聞こえて、私はこの街に来てからいちばんきれいな雨を見ているのだと思った。
 きっと今頃、お母さんも研究所の窓からこの流星を見ているだろう。遠くの街ではお父さんも、バイト先の休憩時間にはクシナも。シマハラさんは旅行先で家族と一緒に。ユメルちゃんは彼氏と手をつなぎながら。
 どれくらい雨のような流星を眺めていたのだろう。さすがに首が痛くなってきて顔を下ろすと、すでにイチカは望遠鏡をネイビー・スフィアに向けて、記録用紙に何かを書きつけていた。
 ミナモもカメラのことを思い出して、星空の写真を何枚も撮影している。そういえば、メグルさんはどうしたのだろうと周りを眺めると、車のほうに歩いていくメグルさんの背中が、暗い闇のなかに見えた。
 私もシートの上に仰向けになって空を見上げることにする。イチカからもらった冊子には流星を記録するための方法も書かれていたけれど、空を埋め尽くすくらい絶え間なく流れてゆく星の数を数えて記録することは無理だろうと思い、諦める。
「シタルも見てみなよ」とイチカに声をかけられて、私は起き上がって望遠鏡に駆けよって、接眼レンズに顔を近づけてみた。ネイビー・スフィア。子どものころからずっと空に浮かんで見えていた青い星が、本当に目の前に迫って見えて、手を伸ばせば届きそうな気がした。
「私ね……」
 望遠鏡をのぞきながら呟く。
「子どものころから、ずっとあの星が見えてたんだ」
 もう長い間、こんな話を誰かにしたことはなかった。それでも、いまなら、イチカとミナモになら信じてもらえるような、気がした。
「うん」と隣に立っていたイチカは言って「シタルが指さしたとき、絶対そこにあるんだなって、思ったもん」と続けた。
「みんなには……見えてなかったんだよね?」と確認するように私は言った。
「うん。だけど別に、見えることって、おかしいことじゃないでしょ。だって、私たち十七歳なんだから」
「うん」
 イチカの言葉に、私はただ肯く。
「あんなにきれいな星が、シタルにはいつも見えてたんだね」
 空を見上げながら、ミナモは「だからシタルの目は、吸い込まれそうなくらい、きれいなんだ」と言ってくれた。
「シタル、ちゃんと観測記録、描いてね」と言いながらイチカはスケッチ用の用紙と青い色鉛筆を手渡してくれた。
「でも、私、星の絵なんて描いたことないよ」
「大丈夫、見えたものを、見えたまま、描けばいいんだよ」
「うん、やってみる」
 レンズの向こうと手元を交互に見ながら、私は青い星の絵を描いていく。できるだけ、精確に。感覚したとおりの色を使って、描いていく。
「シタル、絵、上手いんだ」
 いつの間にか隣に立っていたミナモが、私のスケッチをのぞき込んでそう呟いた。
「次はミナモも描くんだよ」とイチカが言うと「私が絵描けないの知ってるでしょ」とミナモは不満そうに言う。
「もちろん、知ってて言ってるの、期待してるよクモキリ画伯」
 イチカの笑い声に、ミナモの笑い声が重なって、レンズの向こうの青い星を瞳に映しながら、思わず私も笑ってしまう。三人の笑い声が、満天の星空に吸い込まれていく。
 それから私たちはシートの上に川の字に仰向けになって、しばらく空を見上げていた。私のスケッチがよっぽど気に入ったのか、イチカはそれを手にしたまま、空に浮かぶ青い星と見比べて「やっぱり、シタル、上手いよ」とまじまじと呟く。
「うん」とミナモが同意するとイチカは「シタル、芸術家とか向いてるんじゃない。それとも漫画家とか、イラストレーターかな」とふざけているのか本気なのか、そんなことを言い出した。
 絵を描くような仕事に就いて生活することなんて考えたこともなかったし、そう言われたところで何の実感も湧いてこない。きっと、プロになるような人は、小さい頃から熱意を傾けて本気でその道を目指すのだろう。私はただ、目に映ったものをなるべく精確にとらえようとしただけだ。
「いまから目指しても、もう遅いんじゃないかな。きっと無理だよ」と、いちおう答えてみる。
「そんなことないよ。本気でやれば、いつからだって無理なんてこと、ないんじゃないかな」と珍しく強い調子でミナモが反論する。
「私たちには、あらゆる可能性が開かれてる、ってね」と笑いながら、イチカは「そういうミナモはどうするの? 私たち来年受験生だよ」と今度は質問をミナモに向ける。
「え、私? 私は、語学を勉強してみようかなって……思ってる」
「語学? 文法とか?」
「うんん、外国語。留学とかもしてみたいし」
「外国かぁ。ミナモは何となくずっとこの街にいるんだと思ってた。近くの大学に入って、就職して、結婚して、ずっとここで暮らしてくのかなって」
「どうして?」
「だって、ミナモ、この街のこと大好きじゃん」
「ふふ、私だって、いろんな所に行ってみたいって思うんだよ」
 そんなふうにミナモは笑い、それからしばらく沈黙が流れた。
「でも、やっぱりミナモは、大学で知り合った同級生と結婚して、私とシタルみたいな双子を産んで、育てるんだよ」とイチカは何か確信しているように言う。
「ミナモ、きっとすごく優しいお母さんになるね」とミナモに手を引かれて歩く小さな自分を想像しながら私が言うと「いや、たぶん躾の厳しい教育ママになるね」とイチカは笑った。
「それじゃ、どうなるか見てみようか」と言って、ミナモは携帯通信端末を取り出して時空間グラスを起動させ、星空に向かってかざして見せた。三人で顔を寄せ合って小さなディスプレイをのぞき込むと、そこには一瞬だけ、無数の青い大きなブロック群が無軌道に移動している様子が映し出された。その瞬間、左目の奥が鈍く痛み、すぐに痛みが消えて、同時にブロック群の映像も消えてしまった。
「いまの、見た?」というイチカの言葉に、私とミナモは肯いて「何あれ」と言ってもう一度、時空間グラスをのぞいてみるが、ディスプレイには徐々に数が減りはじめた流れ星と、それに呼応するように輪郭のぼやけていくネイビー・スフィアの姿だけが映っていた。
「そういえば、もう過ぎちゃったけど」と時空間グラスを停止させて、画面端の時計で時刻を確認しながら、ミナモはそっと私に目配せを送ってきた。
 私は慌ててリュックのサイドポケットから小さな包みを取り出して、ミナモと視線を交わして肯き合ってから「イチカ、お誕生日おめでとう」と言って手渡した。
「あ、そういえば」とネイビー・スフィアに夢中で自分の誕生日のことなど完全に忘れていたという様子でイチカは袋を受け取って「ミナモ、シタル、ありがとう」と微笑んだ。
「開けてもいい?」と言いながらイチカは袋を開けて、なかからウミガメのキーホルダーをつまみだして「何?」と不思議そうに目の前にぶらさげてみせた。
「何となく、寝起きのイチカの顔に似てるかなって」と私が言うと「可愛いでしょ」とミナモが言葉を足してくれる。
「うーん……似てるかなぁ?」としばらく納得のいかない様子でイチカはカメと見つめ合っていたけれど、「うん、何か縁起がよさそうでいいかも」と笑った。
 夜空に浮かぶネイビー・スフィアが薄れていくのと合わせて、私の目に映っている青い星も、ゆっくりと薄れていく。もしかすると、このまま永遠に消えてしまうのかもしれない。そんなことを思いながら、目をそらさずに最後まで青い星の姿を見送った。
 青い星が消えてしまう直前、最後の流れ星が、ひときわ大きく輝きながら、煙のような痕を残して落ちていった。
「いまの、海のほうに落ちなかった?」とイチカは遠くの空を指さして「ねぇ、行ってみようよ」と言って起き上がった。
「いまから?」と言いながらミナモも慌てて上体を起こして、私も続いて起き上がる。
「早く片付けないと。ミナモ、メグくん起こしてきて」
「え、でも……悪いよ」と躊躇うミナモに「大丈夫、メグくんはいつでも私の行きたいところに連れてってくれるんだから」と自信満々にイチカは言う。
「何それ」と笑いながら懐中電灯を片手に車のほうに走っていくミナモの背中を見送って、私は誰もいなくなったレジャーシートをたたんでいく。
 ミナモの後について、メグルさんが大きなあくびをしながらやってきて、イチカの解体した望遠鏡を運んでくれた。
 すべての荷物を片付け終えたその場所は、ただの原っぱで、そんな場所に、先ほどまで自分たちは仰向けに寝そべって、無数に星が降り注いでくる空を見上げていたんだと思うと不思議だった。空にはもう青い星も流れ星も見えなかったけれど、夏の星座が広がっている夜空は相変わらずきれいだった。
 何となく名残惜しくて、夏の大六角形を星の名前を呟きながら順番に指さしていく。
 マヨール、アアプ、クラアプ、ヴェフト、チフ、グルヴェム。
 そんな呪文を唱えてみても、六角形の中心にあったはずの青い星は、再び姿を現すことはなかった。
「シタル、何してるの、早く行こう」
 その声に振り返った私の手をとって、イチカは駆けだした。しっかりとつながれている手が離れてしまわないように私も走ってイチカを追いかけていく。車のところに着くまで、その手は離れずにちゃんとつながれていた。
 車のなかで待っているメグルさんとミナモの姿が見えて、これからみんなで海へと向かう。
 きっと、海に着くころには夜が明けていて、水平線の向こう側にきれいな朝陽が見えるだろう。それをやっぱりこんなふうに手をつなぎながら、イチカと、ミナモと一緒に、見てみたいと、思う。

  

 夜が明けて、静かに朝がやって来る。
 朝のやわらかい陽を浴びた浜辺には、青い星からこぼれ落ちた小さな流れ星の欠片が、半ば砂に埋もれて光っている。
 しばらくすると仔犬を連れて散歩をしている少女がやってきて、爽やかな潮風が彼女の長い髪をそっと揺らす。仔犬が砂のなかにかすかな光を見つけて駆け出すと、少女も慌ててリードを引きながら「クン、待って」とその後を追う。不思議な石を見つけた少女は、その半透明な石をそっと拾い上げて、陽の光にかざしてみる。
 その瞬間、新しい世界の可能性が生まれて、広がっていく。

 

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文字数:40449

内容に関するアピール

 この講座を通して、不思議な青い世界にまつわる連作短編を書いてきました。それぞれのエピソードは各回の課題に応えながら、独立して楽しめるように試行錯誤しつつ、緩やかな関連や共通の登場人物など、続き物としての楽しみも取り入れて、力の及ぶ範囲で書いてきたつもりです。
 そんな連作を締めくくるのにふさわしいのは、どんな物語だろうかと考えているうちに、作中のモチーフの一つである「泡」が浮かび上がってきて、そこからの連想で青色を強調しつつ、炭酸の泡(ポップ)のような心地よい刺激と読み心地の、爽やかな「青春小説」を書いてみたいと思うようになりました。
 この作品を最初に読んだ方には、読後に他のエピソードも読んでみようかな、と思っていただけるような、これまでの連作を読んできてくださった方には、満足感と、精一杯の感謝の気持ちが届けられるような作品を目指しました。それがすこしでも達成されていれば、嬉しく思います。

文字数:400

課題提出者一覧