曖昧さの難

曖昧さの難

新芸術校5期も後半戦に突入した。後半戦では、生徒は四つのグループに分かれて順にカオス*ラウンジアトリエで展覧会を行うことがカリキュラムに組み込まれている。まず先陣を切るのはグループA。タイトルは「ホンヂスイジャク」。キュレーションを担当するのは海老名あつみ、キュレーションサポートに鴻知佳子、参加アーティストは菊谷達史、平山匠、三浦かおり、茂木瑶、山﨑千尋、ユゥキユキという並びだ。見る順序などは特に定められておらず、バランスよく作品が展示された印象だ。

本展示は、タイトルが「ホンヂスイジャク」であるように、本地垂迹という曖昧さを保持したかつてのあり方に倣おうというものだ。海老名あつみのキュレーションステートメントには以下のようにある。

「この本地垂迹という世界認識こそ今日の私たちを隘路から解放する示唆となりうるはずだ。そして、芸術が果たすべき役割はこうした世界認識の確立を支援することではないだろうか。」

確かに分断化が進む現在必要なのは曖昧さを受け入れることだ。そして芸術は曖昧さの居場所となれる素質がある。しかしこれを目指すとき慎重にならなくてはならないのではないか。そこには曖昧さを曖昧でなくさせてしまう危険性を帯びている。

そもそも本地垂迹は曖昧さに成功しているのだろうか。神道と仏教という対立しうる両者を融合させて神仏習合の助けとなったものの、同時に本地垂迹という一つの思想が生まれている。実際に鎌倉時代には本地を仏ではなく神にするべきという反本地垂迹説が唱えられた。結局融合しようとしても主張がぶつかり新たな対立が生まれてしまう。もちろん、新たな思想が生まれることは否定すべきことではない。評価できる面はあるだろう。だが本地垂迹が達成したのは、複雑なものを複雑なまま引き受けられる曖昧さではなく、むしろこの思想を普及させるための分かりやすさではないか。

そして、本展示のアーティストもまた、曖昧さを作品にすることの困難に直面していたのではないか。曖昧なものを曖昧なままにしておくことは難しい。なぜなら第一に、人は明らかにしたがるものだからだ。そして第二に、曖昧なことは人に伝えにくいからだ。曖昧だからといってそのままにしておけば、私達は生きていくことさえ出来ないだろう。生きることは選択の連続で、選択は曖昧さを削ぐ行為である。言葉選びから、将来の夢まで、私達は毎時間選択を迫られて、そして選択によって自分が形作られてゆく。自由が謳われ選択肢がますます増える現在私たちはますます曖昧ではいられなく、分断が進むのも無理がないだろう。芸術はもう少し複雑な世界だ。だから曖昧なものの受け皿になりうる。しかし同時にこれも対話である以上ただ曖昧でもいられない。今回の展示では曖昧な世界認識というテーマのもと、曖昧さを狙うことの難しさを感じた。

会場入ってすぐ左側にあるのが、茂木瑶による油彩画《If you love your children, send them out into the world》だ。画面の奥に廃墟らしき建物が見える。日本的ではない山々が周りを囲み、中央には川が流れている。向こう岸にはテントの集落があるが、そこにいる人々は軽やかで光り輝いていて聖霊のようにも思える。空には星が輝き、あちこちには白い鳩がいて、全体的に宗教画を思わせる。一方ここで行われてるキャンプは難民キャンプを彷彿とさせ、伝統的な宗教画と現代の社会的な問題を両立させようという試みがなされている。この不穏な世界のなかで、手前にいる人達は余暇的な雰囲気を帯びている。彼らは一体何者か。逃げてきた人か、それとも別のところから見にきた人か。いずれにしてもきっと当事者ではない。非当事者であろうと何かは決めなくてはいけなくて、でも非当事者というその存在が曖昧で、一歩を踏み出せずにいるような印象を受けた。

山﨑千尋のビデオインスタレーション《TUNNEL》も非当事者からの視点だ。紛争地でのレアメタルの生産・流通過程を知って流した涙を結晶にする作品となっている。タイトルは、それができるまでの自身の想いもしくは想いではない何かを指していて、そのTUNNELに通されてできた結晶はオルゴール調の《We are the world》がかけられたトイレ内で、宝石のようでありながらもチープに飾られている。そしてトイレの中と外には結晶ができるまでを映した映像がいくつかある。鉱物が抱える問題に多面的に向き合おうとしつつも、どこまでも当事者ではないことへの自虐が感じられた。だがこの結晶ができるまでの過程は決して安いものではないのではないか。山﨑が涙を容器に溜めている様を動画でさらしていたのは笑えるようで苦しくもあった。

アトリエの中央にあるのは平山匠《享受を繰り返す造形》だ。自身が掘ってきた粘土で作った土偶を一度燃やして壊した後、ゆるやかに再構成したものが、破壊前の土偶写真の液晶モニターの上に載せられている。足元には燃やしたときの炭と灰が敷かれている。自分の手で作り上げたものを壊してしまうのは、苦しくないのだろうか。確かに再構成されたものはバランスが良く美的であったが、同時に痛みも感じた。だがこれは私の勝手な思い込みかもしれない。平山の土との関係は、もっと固有のものなのだろう。

アトリエ内正面の大きな壁に映されている映像は、ユゥキユキの《あなたのために、》。母によって編まれた毛糸の繭を脱ぎ、それを海に捨てに行くまでの15分程度の映像作品だ。映像のラストで娘は抜け殻を持って海に入りそれを放そうとするが、強い波によって共々引き戻されてしまう様がコミカルでもありつつ印象的だ。映像の前に立っている今、足下には海で汚れた抜け殻が展示されている。映像はどこか平成初期のような色調だが、ここにあるまだ湿った抜け殻が遠くない過去であることを訴える。娘は今ちょっと脱いでいるだけで、またこの中に戻ってしまうのではないかという考えが頭をよぎる。なかなかイニシエーションは上手くいかない。現代日本でイニシエーションは可能なのだろうか。

その左側の壁には菊谷達史の《アスレジャースタイルで走る人々》がある。スポーツウェアを着こなしレジャー的に走る姿を真横から切り取った大きな油彩画だ。私は彼らとすれ違うような感覚を覚えた。走っていく彼らを立ち止まって横目に眺めているような。もちろん絵なのですれ違うのは一瞬ではなく、横目で見ながらも目を離せないでいた。彼らは楽しそうには見えないし、集団で無心で走る姿は決して格好よくも見えない。ステートメントには、

「『アスレジャー』と『サバゲー』は、真面目でストイックな営みがファッションやゲームといった『遊び』へと合流/受容している点で共通している。楽しげで親しみ易い顔をした文化の中に、重く厳しい別の顔が見え隠れする。この2つの顔は別々に存在してるのではなく地続きで表裏一体なのだ。」

とあるが、この絵からストイックさと遊びを感じられるかは疑わしい。この絵が曖昧なのは、ストイックさとカジュアルさの重なりというよりも、なぜか走っている彼ら自身にあった。

実はこの会場内では鈴の音が響いている。三浦かおりの作品《Sense》だ。乾電池によって鳴らされる鈴の入った虫かごが、アトリエ内に点在してたのだ。鈴たちは少しだけズレながら、一秒ごとに音を刻む。虫かごと鈴という組み合わせは鈴虫を連想させる。虫がかごの中でただ音を鳴らしながら命を燃やすという単純さ、虫が生まれ受けた命の短命さ、その軽薄さが残酷だ。私も小さい頃鈴虫を虫かごで捕らえ飼ったことがあるが、音が聞こえなくなったのはいつだっただろうか。私達は選びようもなく産まれ、選びようもなく生きている。曖昧さとは、そのような選べないもの、目指しようがないところにあるのかもしれない。あらがいようのない生という宿命に、不思議な温度で音の印を刻み続けるこの作品は、生そのものが持つ曖昧さを体現していた。

以上のように、どのアーティストの作品にも曖昧さはあった。だがその曖昧さは、作者が意図したところにあるというよりも、もっとどうしようもないところに生じていたように思う。そもそも曖昧さは意図して得るものではないのではないか。だから今回のキュレーションテーマによって、私の中で混乱が生じた。曖昧さは必ずしも複雑な要素が組み合わされたものではない。多層的な作品が多かったが、複数のことを融合させたとしても、それがそのまま曖昧さになるのか疑問に思った。むしろシンプルなものこそ真に曖昧なのではないか。そう思わされたという意味で、三浦かおりの作品が際立って見えた。単体で曖昧さを抱えていたということが重要だと思うのだ。神道も仏教も、偏った思想も、この世に生まれし全てのものはそれ自体が曖昧さを宿しているのではないか。

今期初めての展覧会で、新芸術校が学校であるということを強く実感した。これまで授業内で講評が行われてきたのが外部に開かれ、多くの人が実際に作品を見に来る。その感想ツイートなどを見ると、基準が様々であることを知る。学校で学ぶということも、曖昧さを削ぐ行為であった。学校にいる間は、学校内での評価基準に従う。だがここにも役割はある。これまで曖昧さが良いという態度で進めきてしまったかもしれないが、良い悪いということではない。曖昧なものを明らかにしようとすることは人間である以上自然なことで、曖昧だということに甘えることも避けねばならない。だが学校もまたそれ自体が曖昧さを含んでいる。学校が行うことが曖昧でなくてもだ。

最後に、三浦かおりの作品は出入り口付近で裸の乾電池がいくつか壁に貼り付けられていたことを付け加えておきたい。それらはまるで虫かごの中で鈴を動かす装置から逃げてきたようだ。かごの中の乾電池はきちんと音を刻み、そのシンプルな生を冷静に引き受けているように見えるが、なぜ逃げるのだろうか。逃げることは生きることと似たものを感じた。

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