分断を繋ぐもの、という理想の提示について

分断を繋ぐもの、という理想の提示について

新芸術校のグループ展において、キュレーションの役割は常に曖昧だ。表立ってキュレーターが設けられている場合でも、作家たちが各々のテーマを見つけ自立していくことがこの私塾において求められている以上、優先されるべきは展覧会のコンセプトではなく作家それぞれの意志である。それ故キュレーションは後からついてくる。新芸術校第5期において新設されたコレクティブ・リーダー課程(以下CL課程)がいくらこのグループ展においてキュレーターの役割を担うことが出来ようとも、初めからキュレーションの牽引を期待することはできない。よって、こうした強固な牽引を発揮できない仕組みの中で、キュレーターという権力者がどのような役割を獲得するかということがひとつの焦点なのであり、それは現代的でフラットな共同体のあり方を再定義するものでもある。本論考では新芸術校第5期グループ展A「ホンヂスイジャク」を振り返ることで、グループAがどのような共同体であったかを考えていくこととしたい。

展覧会のタイトルは本地垂迹(ほんじすいじゃく)という神仏習合の思想に由来している。キュレーター・海老名あつみによるステイトメントでは、ポピュリズムが席巻する現在の世界をかつての廃仏毀釈に準え、その単純化の思考に対抗するものとして本地垂迹が据えられている。そうした状況下における芸術の存在意義は「分断を乗り越え、硬直化された思考を解きほぐし、成熟の回路へと誘う」こととされているが、各作品にそのような傾向は見られるのだろうか。

茂木瑶による《If you love your children, send them out into the world》は難民キャンプを思わせる油彩画である。聖書の楽園追放にモチーフを得たこの夜の絵画では、中央の孤島に設えられたテント群、手前の海岸、さらに最前面に立つ2人の人間がひときわ明るく描かれている。このうち前二者はテントの明かりにより照らされていることが推測できるが、最前面の2人の光源は絵画内には見当たらない。キリスト教世界では光は聖なるものと捉えられるが、しかし2という数が一神教や三位一体を表してはいないこと、また2人がややお互いを向き合いながら秘密裏に相談事をしているような姿勢であることから、2人が聖なる光によって自ら発光するような威厳のある存在として描かれているとは考えづらい。であれば、光源はこの画面の外から来ていると考えられる。つまりテントは連綿とこちら側にも続いており、その明かりが彼らを照らしていると考えるのが妥当だ。光源が点在し焦点が曖昧になったこの絵画には、始点と終点が無い。茂木は作品ステイトメントの中で「人々は困難の中、自身で進むことを選び取ってきた」とポジティブに記しているが、この絵画においてはむしろ前進しても後進しても同じようなキャンプの光景が広がっていることの閉塞を予感させる。

山﨑千尋による《TUNNEL》は、複数の映像とジュエリーを模した造形物によるインスタレーションである。紛争鉱物の流通の「曖昧さ」をトンネルに見立て、知ることのできない情報に対し欠如せざるを得ない想像力そのものが提示されている。紛争鉱物に関するテレビ映像を見ながら生の玉ねぎを食べて無理矢理に涙を流す山﨑自身を映した映像、その涙を結晶化する際の工程を写した映像、そして高級ジュエリーのようにライトアップされたショーケースに収められた涙の結晶。これらの仰々しさは更にこの作品の在り方そのものを揶揄するようなニュース映像や、かつてマイケル・ジャクソンによって提唱された世界平和のためのチャリティ・ソング「We are the world」を山﨑が電子ピアノで演奏する映像によって、徹底的にアイロニカルに言及されている。しかし想像することの不可能性が強調されたこの作品において、何が不可能であるのか、そのトンネルの始点と終点は示されていない。紛争鉱物の行方がどこから追えなくなり、いつ我々の生活圏に登場するのかが共有されない以上、山﨑のペシミスティックな態度は山﨑固有の問題として置き去りにされてしまう。

ユゥキユキの《あなたのために、》は、映像と着ぐるみおよび人形を用いたインスタレーションである。毛糸を用いた手製の着ぐるみは母親あるいは母性の呪いのように捉えられており、映像内においてユゥキはその着ぐるみを脱皮することで「母殺し」を遂行している。作品ステイトメント内では、あらゆる表現において娘による母殺しが特殊であることが言及されているが、ユゥキが天照大御神をコスプレした作品《ユキテラス大神殿 天岩戸伝説》で第21回岡本太郎賞特別賞を受賞した作家であることを踏まえるならば、今回の作品においても自身を用いて別の神話を生成しようとしていると捉えることができる。映像の終盤では、小さな人形が出産される。ユゥキは本作において母親に同調することで承認されたいという欲望からの決別を試みたが、人形の出産シーンを内なる母性の発見と捉えるのであれば、母性の呪いは途切れることなくループすることとなる。新たな生殖を通じ、承認欲求は連綿と続いていくであろうことが予言されているように見えるのであり、ユゥキはむしろ支配/被支配の構造を断ち切ることの不可能性を実感しているように見えるのである。

平山匠による《享受する層形》は、土偶をモチーフとした画像と造形物のインスタレーションである。台の上面を覆う液晶画面には土偶が土偶とわかる姿で映し出されており、その上には焼成によって爆発した土偶の欠片が乗せられている。作品ステイトメントの中で、平山は画面上の土偶を「理想」、焼成後に形を失った土偶の欠片のことを「関係性」の「再構築」と捉えている。であれば焼成後の欠片がどのようなルールに基づき置かれるかがこの土偶を破壊したことの意図となるはずであるが、そうした意図には言及が無く、また欠片の配置自体が何かを彷彿させるものであるとも捉えづらい。焼成と爆破が複数の人間関係を介したことを平山は後から語っていたが、それがステイトメントに書かれた「多重な制作のレイヤーと自分と他人との関係をつくる日常生活の積み重ねの工程は類似している」ことを示しているのであれば、この作品は経緯の開示を含めたひとつのケーススタディとして表されるのが妥当だったのではないだろうか。液晶台の足元には、焼成時に生成された炭と灰が積み上げられている。発破された土偶、炭、灰のいずれもは平山の意志によって造形できない偶然の産物であるが、その偶然性がどのような固有の条件に支えられていたかが示されなければ、各々の「関係性」は「再構築」されずに放置されてしまう。

菊谷達史による《アスレジャースタイルで走る人々》は、スポーツブランドのファッションに身を包む人々が一様に同方向へ向かって走る姿を描いた油彩画である。作品ステイトメントでは、洋画がかつて「国主導の労働」をプロパガンダ的記録画としてビジュアライズしてきた歴史が言及されている。抽象的な混色を背景とし、走る人々が大きく前面に押し出されたこの絵画からは、彼らがどのような状況下で走っているかといった全体像が掴めない。ランナーの像同士は境界が明確に捉えられ、足元は宙に浮いているようにも見える。そのため、この絵の成り立ちは、あらかじめ用意された背景の上で、一人一人のランナーが別のレイヤー上にコピー&ペーストされていると捉えることができる。こうした不自然な状況の捏造を含めて、菊谷がステイトメント上でこの絵を「今日の群像」と呼んでいるのであれば、注視すべきは背景である。どのような背景の上に置かれれば「像」としてそれらしく見えてしまうのか、という捏造の仕掛けに注目する必要がある。状況の捏造を可能にしたこの靄のような複数の色彩による混濁は、多種多様な人々が一堂に会することの困難さを「多様性」という言葉に集約させることのひとつの功罪を示しているように思われないだろうか。

海老名は展覧会ステイトメント上で芸術の役割を「世界を多様なまま切り取って、余剰部分をも人々が負担なく、かつ深く認知できるものとして表現していく、そのような役割」とも著しているが、果たして「現実の複雑さ」をそのまま列挙することが本地垂迹の「アクロバティックな転回」となりうるのだろうか。始点・終点の見えない連綿と続く風景の中で、関係性を構築できないまま、何らかの状況の捏造にも利用されうる「多様性」の背景となるリスクを負うものとして本展の作品の連なりを捉えた時、本地垂迹はひとつの捏造された状況として浮かび上がってくることにならないだろうか。その意味においては菊谷作品はキュレーションに対する批判として結果的に機能していると捉えることができる。

また、そうした「世界を多様なまま切り取っ」た時の最も楽天的な側面が見えたのが、三浦かおりの《Sense》であった。虫かごに収められたムーブメントを会場に点在させたこのインスタレーションでは、時計の音が際立っている。固有の状況において固有に刻まれる時間。それが音の表象で以って空間を繋ぐ役割を果たしている。虫かごに捕らえられた時計というアイロニカルな設えながら、各々の音の細やかさは主張しすぎず他の作品を邪魔しない。「私たちは、この時代に、この社会環境において、暗黙の了解のもとの同調圧力や一環境における規則や制約に従って生活している。それは時の流れが抗いようのないものであることに似ていて、生きづらさを感じながらも、それに慣れ親しんでいたりしないだろうか」とは作品ステイトメントで語られている内容であるが、まさしく三浦の作品が発する音は親しみやすく、この不穏な可能性を秘めた会場を穏やかに肯定し、包んでいる。そしてこの小さな音のアンサンブルは、かつてマイケル・フリードによって批判されたシアトリカルな状況の演出というミニマリズムの特性を彷彿させるものである。この状況の解体へのアプローチとして期待できたのは山﨑の作品であるが、先述した通り問題提起が山﨑固有のものとして留まった以上、「ホンヂスイジャク」というシアトリカルな状況の演出によってグループ展Aが成立していたと見ざるを得ないのである。

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